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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(112)

「天武紀・持統紀」(28)


飛鳥浄御原宮の謎(3)
発掘結果と『日本書紀』との整合性(2)


 『日本書紀』に現れる「殿」と呼ばれる施設を全て調べてみた。「天武紀」以外では次の例しかない。

①大殿(おほとの)・10件
「崇神紀」・「垂仁紀」・「神功紀」・「雄略紀」(2件)・「欽明紀」・「敏達紀」・「用明紀」・「舒明紀」・「天武即位前紀」

 ただし「崇神紀」の例では「みあらか」と訓じている。「あら」は「有る」、「か」は「所」で、「大王のいらっしゃるところ」という意のようだ。大殿ではもっぱら宴の類が行われていたようだが、大王が「崩于大殿(大殿で亡くなった)」という使用例が3例あるのが目に付く。つまり大殿が私的な宮室であることを示している。後の内裏(だいり 『日本書紀』は「おほうち」と訓じている)に相当する殿舎であろう。「内裏」の使用例は雄略・用明・崇峻・孝徳(4例)・天智(4例)・持統(7例)の計16件である。

 大殿以外では次のような例が一件ずつある。

②皇后殿(きさきのおほとの) 「仁徳紀」
③射殿(ゆみばどの) 「清寧紀」
④大極殿(おほあんどの) 「皇極紀」
⑤西小殿(にしのこあんどの) 「天智紀」
⑥西殿(にしのとの) 「天智紀」
⑦前殿(まえのみあらか) 「持統紀」


 ④以外は大殿内の部分殿舎と考えてよいだろう。特に⑥ははっきりと「内裏の西殿」と表記されている。

 ⑦は、なぜか、「崇神紀」の「みあらか」という読みを踏襲して「まえのみあらか」と訓じていている。前殿という呼称からは誰でも後殿というのもあるのだろうと考えるだろう。もしかすると中殿というのもあったかも知れない。前殿・(中殿)・後殿を合わせて大殿と呼んでいると考えられる。そしてさらに「みあらか」と読ませているのだから、大殿あるいは内裏を指すと考えるのが当然だと思う。ところが岩波の頭注はこの⑦について「大極殿を指すと思われる」という言っている。この頭注は飛鳥浄御原宮には大極殿があったという説を自明の前提としているための注だ。⑦は持統がまだ飛鳥浄御原宮に居たとき(689 持統3)の記事での使用だから、そこ(前殿)は大極殿にちがいないと考えたのだろう。

 では、飛鳥浄御原宮には大極殿があったという説は自明だろうか。その説の根拠は「天武紀 下」の記事にある。そこにはなんと14件の「殿」が登場する。

⑧ 大極殿(おほあんどの)4件
⑨ 大安殿(おほあんどの)3件
大殿(おほとの)2件(「天武紀 上」に1件)
内安殿(うちのあんどの)1件
外安殿(とのあんどの)1件
向小殿(むかいのこあんどの)2件
御窟殿(みむろのとの)1件


 さて、これらの「殿」のうち、大極殿と大安殿の関係をめぐって、学者たちの議論が混迷状態にある。まず⑧・⑨について、岩波大系版は奇妙なことに両方とも「おほあんどの」と訓じているが、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。「皇極紀」の④に遡らなければならない。この初出の大極殿は645(皇極4)年6月12日条、あの中大兄と鎌子による蘇我入鹿暗殺の舞台として出てくる。岩波大系本はこれを「おほあんどの」と訓じる理由を、頭注で次のように説明している。

「太極殿の名の初出。朝堂の正殿。ただし後世の大極殿にあたるものが板蓋宮にあったかどうかは疑わしい。確実に存在したと知られるのは天武天皇の飛鳥浄御原宮からである。訓オホアンドノは大安殿と同じと見たからであるが、後の宮殿では大安殿と大極殿とは別殿であった。太極殿は唐風の名、大安殿は日本古来の名称である。家伝には「臨軒」とあり、大極殿云々とはない。」

 家伝での表記について補足すると「帝臨軒」となっていて、これを「帝、軒(けん)に臨みたまひき」と訓じている。つまり暗殺の舞台をただ単に「軒」と表現していることになる。

 初めて大極殿が確認できるのは飛鳥浄御原宮であって、飛鳥板蓋宮に大極殿があったはずがない。家伝も大極殿という言葉を使っていない。ここの大極殿は実は大安殿であり、それを唐風に「大極殿」と表記したのだ。だから「おほあんどの」と読むことにしよう。これが「定説」の理路だ。ちなみに、講談社学術文庫の現代語訳では「だいごくでん」という当たり前のルビを付けている。

 それにしても⑧と⑨を異なる殿舎として扱いながら、同じ訓を付けているのはどうしたことだろう。④を「おほあんどの」と訓じてしまったのをバカ正直に踏襲してしまったということだろうか。頭注は「後の宮殿では大安殿と大極殿とは別殿であった」と言っているが、これではまるで「大極殿=大安殿」と主張していると考えざるを得ないではないか。

 混乱の元凶は④を「おほあんどの」と訓じたことにある。どうしてそのように読むことにしたのか。大極殿・大安殿には補注がある。その中の大極殿の部分を抜粋する。

「大極殿は、栄花物語、たまのむらぎくの巻に「大ごくでん」とあるように、ダイゴクデンとよむのが後世の例であるが、書紀の古訓ではオホアンドノとなっていて、平安時代にそう訓み習わしていたことがわかる。・・・名目抄や本居宣長(古事記伝・玉勝間)も大安殿を大極殿と同じとしているが、それを基づける確実な資料はなく、反対に続紀の恭仁宮や紫香楽宮の記事は大安殿と大極殿は異なる建物であったことを示す。しかし本来の大安殿が絶えていたか、あるいは大安殿という語が日用語でなくなっていた平安時代では、歴史的事実の問題とは別に、知識として大安殿という語を大極殿の古称と考えていたことは書紀の古訓の示すとおりである。・・・なおヤスミシシということばに関係させて、大安殿をオホヤスミドノと訓ませる宣長の説があるが、本書では古訓に従った。」

 要するに「歴史的事実の問題とは別に、知識として大安殿という語を大極殿の古称と考えていた」平安時代の「古訓に従っ」て「おほあんどの」と訓じたというのだ。豊富な知識がありそれを駆使しているが、そのうちかえって迷路に入り込んでしまい論理性を見失ってしまうという古代史学者たちの悪弊がもろに現れている例である。原典の表記そのものを分析するのではなく、後世の説、しかも誤った説に惑わされてしまっている。歴史的事実(考古学的事実)と照合しながら、まずは原典の表記を検討すべきだろう。

 「歴史的事実の問題とは別に」、『日本書紀』編纂者は何らかの意図・理由があって、「大極殿」・「大安殿」と書く必要があったかあるいは書きたかったのでその言葉を用いたのだし、明らかに「大極殿」と「大安殿」は別の殿舎として扱っている。素直に「だいごくでん」・「だいあんでん」と読んで何の不都合もない。問題はあくまでも『日本書紀』の記述が歴史的事実(考古学的事実)に則ったものであるか否かにある。

(付記)
 ④の頭注にある「太極殿は唐風の名、大安殿は日本古来の名称」という断定にはどんな根拠があるのだろうか。これも単なる便宜的な推定に過ぎないのではないか。「大極殿」と「大安殿」は対(つい)の殿舎として使い分けられていたようなので、その読み方も対的に「だいごくでん」・「だいあんでん」と読むことにした。
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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(111)

「天武紀・持統紀」(27)


飛鳥浄御原宮の謎(2)
発掘結果と『日本書紀』との整合性(1)


 飛鳥宮跡の発掘調査は1959年から行われている。2004年までの調査結果をまとめたⅢ-B期の遺構概略図は次のようである。

飛鳥浄御原

 この遺構の各部分について、それぞれの構築時期あるいは整備時期を定説は次のようにまとめている。すなわち、内郭部分は後飛鳥岡本宮であり、天武期にそれを踏襲して使用したとする。また外郭部分などは再整備の上使用したとしている。そして東南郭は天武が増設したものであり、それら総体を飛鳥浄御原宮と比定している。

 天武の造営とされる東南郭には他の宮殿とは際立って異なる点が1つある。次の図で明らかなように、一般には朝堂には南門があり、その門の南側はさまざまな儀礼が行われる広場になっている。唯一東南郭だけは西門である。既設の後岡本宮の南門前広場を共有するための変則的な設計と思われる。

宮殿規模1

飛鳥浄御原

 「天武紀」675(天武4)年の正月条に「西門(にしのみかど)の庭(おほば)に射(いく)ふ」という射礼記事(弓矢の技を競う行事)があるが、この記事は東南郭の考古学的事実と一致している。ちなみに、西門の庭での射礼記事は676(天武5)年・679(天武8)の正月条にも出てくる。

 それでは672(天武元)年是歳条はどうだろうか。

672(天武元)
 九月の・・・癸卯(みづのとのうのひ 15日)に嶋宮より岡本宮に移りたまふ。
 是歳、宮室を岡本宮の南に營(つく)る。即(その)冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。


 壬申の乱の戦後処理が終わったのが8月27日。9月15日に岡本宮に遷って、そこを宮殿として使用することにしたが、正殿だけは新築することにした。それが東南郭であり、これも「宮室を岡本宮の南に營る」という記録と合致する。東南郭の規模・構造を教科書②は次のようにまとめている。

「東南郭は内郭の南東方向にある。中央には9×5間の四面廂、大型の東西棟建物SB7701を中心に一院が構成される。建物南面の三ヵ所に階段を備える。東西約94メートル、南北約55メートルの規模で、内郭と同じように屋根のある板塀によって内外に分けられる複廊施設がめぐる。郭内は砂利敷き広場となる」。

 東南郭だけでもかなり大掛かりな工事だったことが分かる。東南郭の造営期間は、ぎりぎり長くとって、9月着工12月遷居で3ヶ月となる。新築したのが東南郭だけならあるいは可能だろうか。当時の技術レベルなどが不明なので、私には判断材料がない。建築の専門家に聞いてみたいところだが、ここでは東南郭が天武の新宮であるという確認で満足して、この問題は置いておこう。

 さて、以上のような飛鳥浄御原宮の比定を私は定説として扱ってきた。またこの定説は正しいと思っているが、実はまだ決着はついていないようだ。たとえば教科書②の著者今尾氏は論文の最後で次のように述べている。(引用文中の①・②・③はそれぞれ「①内郭東西仕切り施設・②東南郭南辺③外郭施設」を指している。)


 今のところ筆者は③外郭大溝の成立上限である「辛巳年」、すなわち681年(天武10)に引き付けて②の成立をとらえるのが妥当とする。そして東南郭南辺下層の石組溝を後飛鳥岡本宮にともなうものだとするとこれも天武元年の飛鳥浄御原宮に踏襲されたことになる。

 しかし、①の先行東西仕切り施設と先行基幹水路の石組溝に先に指摘したような関係性を認めるとするならば、内郭の成立こそが第Ⅲ期宮殿の成立であり、それは定説となりつつある後飛鳥岡本宮とみなすよりも、飛鳥浄御原宮として着手されたととらえるのが適当と考える。そして天武10年前後の東南郭の成立、外郭域の整備、基幹水路の再編などの事業へとつづくものと考える。

 この説に対しては天武元年是歳条の「宮室を岡本宮の南に營る」が飛鳥浄御原宮比定の最大の手がかりとする学者たちから異論が出ている。これに「天武紀」に出てくる大極殿・大安殿・内安殿・外安殿・向小殿・朝堂・前殿・御窟殿・後宮・西門・南門・新宮・旧宮などなどの多様な殿舎をどこに比定するかという問題も絡まって、諸説紛々という状態のようだ。

 議論が混迷していく大きな原因は盗用・改竄記事だらけの『日本書紀』の記録をすべて正しいとするところにある。『日本書紀』の記事は矛盾だらけなのだから、それを正しいとした前提での議論が紛糾するのは必然の成り行きだ。虚偽だらけの中から真実の記事だけをとり出すのは難しい。しかしそのための基準はある。考古学的な事実があれば、なによりもそれを優先しなければならない。と同時にもう一つ、論理的な整合性がなければならない。例えば『日本書紀』に現れる大極殿などは疑ってしかるべきだと私は思う。大極殿にしぼって検討してみよう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(110)

「天武紀・持統紀」(26)


飛鳥浄御原宮の謎(1)
「飛鳥宮跡」の発掘調査


 『日本書紀』が記録しているヤマト王権の大王たちの宮殿にはいろいろな疑問点がある。「推古紀」以降の宮殿の推移は次のようである。

推古
 豊浦宮(592)→小墾田宮(603)

舒明
 飛鳥岡本宮(630 636年火災)→田中宮(636)→厩坂宮(640)→百済宮(640)

皇極
 小墾田宮(642)→飛鳥板蓋宮(643)

 孝徳
 飛鳥河辺行宮→難波長柄豊碕宮(651)

斉明
 飛鳥板蓋宮(655 この年に火災)→飛鳥川原宮(655)→後飛鳥岡本宮(656)

天智

 近江大津宮(667)

天武
 嶋宮→岡本宮→飛鳥浄御原宮(672)

持統
 飛鳥浄御原宮→藤原宮(694)

疑問1
 行幸の時に使った行宮も含めて、ほとんどが所在を示す地名(あるいは地形)を宮名としている中で、飛鳥板蓋(いたふき)宮と飛鳥浄御原宮が異例である。異例と言えば地名を宮名としている中で、難波長柄豊碕宮も異例である。「難波の長柄の豊碕の宮」という三段地名の宮名はほかに例がない。

疑問2
 それぞれの宮殿はどの程度の規模であり、どのような建材で造られていたのだろうか。飛鳥板蓋宮について、岩波の頭注は「これまで萱葺であった宮殿を檜皮葺にしたので、板葺宮の名を得たのであろう」と述べている。この推量が正しいとすると、小墾田(おはりだ)宮は萱葺ということになる。推古が小墾田宮に遷ったのが603年で、皇極が小墾田宮に遷ったのは642年である。萱葺の建物の耐用年数はこんなに長いのだろうか。
 ちなみに、ヤマト王権の宮殿としては藤原宮が初めての瓦葺建物である。

疑問3
 萱葺にしろ板葺にしろ、その建築にはどのくらいの日数を要したのだろうか。『日本書紀』の中で、おおよその日数がわかる例としては舒明の百済宮がある。宮処を決めたのが639年7月で、翌年の10月に遷っている。おおよそ1年ぐらい要したことになっている。他の曖昧な記録の場合も、おおよそ1年ぐらいと読める。
 しかし、飛鳥浄御原宮の場合は異常だ。9月15日に岡本宮に遷り、「是歳、宮室を岡本宮の南に營(つく)る。即(その)冬に、遷りて居します」と記録されている。旧暦では10月から「冬」と呼んでいて、上の遷都記事の次に「冬11月」条があるから、素直に読むと10月に遷都したことになる。ほんとかしら?

 全て解明できるかどうかは分からないが、これらの疑問を念頭におきながら、議論を進めて行こう。

 さて、飛鳥にあったとされる宮殿の所在地は下の図のように比定されている。

飛鳥地方
(『倭国から日本国へ』から転載)

 しかし、これらの宮殿の中でその所在地が考古学的に確定できるのは藤原宮だけである。あとはいまだ推量の域を出ない。

 ただし、「伝飛鳥板蓋宮跡」として史跡指定されている所があり、そこの発掘調査の結果、そこが複数の王宮所在地であった可能性が出てきている。そこで今は「伝飛鳥板蓋宮跡」を単に「飛鳥宮跡」と呼ぶようになっている。(以下は、中尾芳治他編著『古代日本と朝鮮の都城』所収の論文、①中尾芳治著「日本都城研究の現状」と②今尾文昭著「飛鳥の諸宮」を教科書としています。)

 まず、飛鳥宮跡の長年にわたる発掘調査結果をコンパクトにまとめた文章を①から引用する。

 1959年(昭和34)以来、半世紀に近い長年にわたる発掘調査の結果、明日香村岡の地一帯にI期(下層)・Ⅱ期(中層)・Ⅲ期(上層)の三期にわたる宮跡が重複して存在することが分かった。

飛鳥宮跡

 I・Ⅱ期の遺構についてはⅢ期遺構の下層に位置することもあって、具体的な構造は不明である。Ⅱ・Ⅲ期遺構が正方位を取るのに対してI期は主軸方位が北で西に約20度振れ、検出遺構もわずかである。Ⅱ期遺構は東西193メートル以上、南北198メートル以上の大規模な回廊状の区画施設が検出されているが内部の構造は不明である。

 Ⅲ期遺構は、内郭・外郭・東南郭(小字名をとってエビノコ郭とも称される)から構成される。内郭は南北約197メートル、東西152~158メートルの逆台形を呈し、内部は南よりの東西掘立柱塀で北院(北区画)と南院(南区画)に分かれる。両院は中央の内郭南院正殿(内郭前殿)区と二棟の長殿から成る東西の区画で構成される。正殿の南には内郭全体の正門である内郭南門がある。ほぼ正方形の北院の北半部には桁行24間の東西棟建物を中心に、妻側に階段をもつ高床建物や大井戸などが全面に配置されている。また、最近の調査の結果、南半部中軸線上、内郭南院正殿に相対する位置に内郭北院正殿(内郭正殿)が検出され、内郭北院の構造がより明確になった。内郭両院は砂利敷、北院は石數で舗装されている。外郭は天皇の日常生活を支えた官衙的な機能をもった施設が配置されていたと考えられており、Ⅱ期遺構廃絶後、大規模な整地を行なったうえで造営されている。

東南郭(エビノコ郭)は、内郭の東南に位置する東西92~94メートル、南北約55.2メートルの範囲を一本柱の掘立柱塀で区画し、西側に門を設ける。内部中央に東南郭正殿(エビノコ郭正殿)が存する。

 まだ細かいところで議論中の事柄があるが、この発掘結果から次のような宮名比定が定説となっている。

Ⅰ期→飛鳥岡本宮
Ⅱ期→飛鳥板蓋宮


 第Ⅲ期遺構(最上層宮殿)はA・Bの二小期に区分している。具体的には内郭部分をA、外郭部分などの再整備地と東南郭をBとし、次のように比定している。

Ⅲ―A期→後飛鳥岡本宮
Ⅲ―B期→飛鳥浄御原宮

 この定説について②は次のように述べている。

 (上の定説は)史料の記述と検出遺構の機能を整合的に解き、さらに出土遺物による遺構の帰属時期の明確化によって導かれた飛鳥宮の構造を都城の形成史上に位置づけた都城制論であり、枝葉な指摘は反って混乱を招きかねない。ただ解消されるべき課題もあり、宮号比定を確定的なものとすることには少なからず躊躇を覚える。

 それというのも、第Ⅲ期は建物の間を玉石敷き、もしくは砂利敷きによる舗装で覆うが、その保存が前提となるため下層宮殿の調査は部分的にならざるをえない。復元に必要な資料蓄積や遺構間の同時性、企画性などを決する際の不確定要素を払拭できない。

 つまりⅠ期・Ⅱ期については調査が部分的であり、まだ確定的な結論を下すのは時期尚早だと、慎重に議論を進めている。ただし、詳細を省くが、Ⅲ期については内郭・東南郭内の分割状況・殿舎配置、さらに出土した木簡の内容などから判断して、上の定説がほぼ確実とされている。ちなみに、Ⅲ期を後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮に比定する決め手となっている木簡は次の通りである。

「大花下」・「小山上」
   →649(大化5)年制定の官位名
「辛巳年」→681(天武10)年を示す。
「丁丑年」→693(持統7)年を示す。
「大津皇」→「大津皇子」か。

 さらに最近(2004年)、「岡本」と銘記された墨書土器が出土しているという。

 先に「まだ細かいところで議論中の事柄がある」と書いたが、それは『日本書紀』の記事との整合性に関わる事柄である。次回に詳しく検討してみよう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(109)

「天武紀・持統紀」(25)


番外編:白鳳なんて年号は、なかった?


 新しいテーマの考古学的裏付けを調べようと、遺跡発掘調査を取り扱っている本を借りて来て拾い読みをしている。考古学者もほとんどはヤマト王権一元主義者であり、彼らの考古学的成果に対する古代史的解釈は『日本書紀』べったりであり、役に立たない。しかし、考古学的成果はまぎれもない事実であり、その成果は彼らの著書に頼るほかない。そういう意味で読んでいる。

 さて、それらの本の中に古代史学会の大御所とも言うべき著名な上田正昭氏の著書がある。「新・古代史検証 日本国の誕生」の5巻、著書名は『倭国から日本へ』で「画期の天武・持統朝」という副題が付いている。2010年6月20日刊行のできたてのほやほやの本だ。いま私が連載している記事の副題「天武紀・持統紀」とピッタリ重なっているので、借りて来た。いやはやあきれた。私のようなてなぐさみに古代史をかじっている全くの素人にバカにされるような愚論・珍論を、相変わらず垂れ流している。なんという頑迷ぶりだろう。後世には笑いものになるのではないかと、他人事ながら気の毒ではある。古田さんの研究を無視しているツケである。その中からちょっと看過できないものを一つ取り上げたい。

 主要論文を「日本文化成立にみる白鳳時代名への疑問」という論考で締めくくっている。全文掲載しよう。

日本文化成立にみる白鳳時代名への疑問

 日本文化成立にみる白鳳時代名への疑問なお、私は白鳳という時代名への疑問を日頃から抱いているので、その点を最後に述べてこの事を終えたい。

 天武・持統朝を中心とする時代は白鳳時代とよばれ、その文化は白鳳文化と称される場合が多い。そもそも白鳳時代とか白鳳文化という名称は、主として美術史の分野で使われてきた。そしていわゆる飛鳥文化と天平文化との中間の時代とみなされてきた。具体的には672年の壬申の乱から710年の平城遷都までの時代をさすのが通例である。したがって、前述してきた天武・持統朝を中心とする時代は白鳳時代・白鳳文化に属することになる。

 ■白鳳時代の提唱はいつごろからか

 ところで白鳳時代・白鳳文化という名称は、いったいいつごろ・だれが提唱するようになったのであろうか。明治のなかごろ伊東忠太や高山樗牛などは、推古・天智・天平という時代区分を用いていたが、明治末年になると関野貞(ただす)は推古・寧楽(なら)前期・寧楽後期という時代区分を使った。

 このような時代区分を大きく変えたのは、明治43年(1910)の日英博覧会であった。そのおりに日本の美術品も出展されることになり、東洋美術史の研究者であった中川忠順(ただより)が中心となって日本の美術を紹介する『国宝帖』をまとめた。そこで使われたのが、飛鳥・白鳳・奈良・貞観(じょうがん)という時代区分であった。大正に入ってからは白鳳という時代名を用いる美術史の研究者が多くなり、昭和になると飛鳥・白鳳・天平の時代名が一般化した。

 ■時代内容のあいまいさ

 しかし現在においても、白鳳時代とか白鳳文化の内容は必ずしも一致しているわけ ではない。たとえば『図説日本文化史大系2飛鳥時代』(小学館)では、「美術史でいう白鳳時代とは大化改新(645年)から、元明天皇の710年(和銅3)の平城遷都までをいうのが普通であるが、さらにこの期間は、壬申の乱をさかいにして、前期と後期に分けられるようである」として、前期は「ほとんど、普通の概説書では、飛鳥時代のなかに含んで考えられている」とする。

 ところが『国史大辞典』(吉川弘文館)では、白鳳文化を「飛鳥文化と天平文化との中間に位置する時期の文化」としながらも、「白鳳文化は天平文化成熟への過渡的性格が強く、白鳳様式の代表とされてきた薬師寺美術などの所属時期をめぐる難問を避ける上で、白鳳と天平とを一括して奈良文化とする区分法のあるのも、それなりの意味がある」と述べる。

 実際に『大百科辞典』(平凡社)のように「奈良時代美術」のなかに「白鳳美術」を入れて記述しているような例もある。

 ここまではなんら問題はない。豊富な知識と文献を駆使しての考証はさすがだと感心する。古代美術史の時代区分が現在のように定着するまでにこのような経緯があったとは、もちろん初めて知った。

 私は、中学・高校時代、「白鳳文化は飛鳥文化と天平文化との中間に位置する時期の文化」と教えられた。なぜ「白鳳文化」と呼ぶのか、その理由の説明がないまま丸暗記して過ごした。今なら私(たち)にはその理由は明らかだ。661年から683年まで、23年間も続いた九州年号「白鳳」が、その時期を代表する象徴として使われたのだと。しかし、ヤマト王権一元論者は九州王朝を認めない。従って九州年号などあってはならない。しかし、古代史に関心がある者なら誰もが知っている次の文献は無視できない。

 ■「白鳳」時代名への疑問

 そもそも、「白鳳」という年号の存在を史実として認めうるのであろうか。その初見は神亀元年(724)10月1日の聖武天皇の詔に、「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明(あきら)め難(がた)し」とみえるのがそれである(『続日本紀』)。そして天平宝字6年(762)のころに成書化した、先述の藤原仲麻呂がまとめた『家伝』(上)(『藤原鎌足伝』)に「白鳳五年」とか「同十六年」とかとみえている。

 「白鳳より以来、朱雀より以前」はヤマト王権一元主義者たちの頭痛の種だった。上田氏はこれを見事?に解決している。

 九州年号は認めないが、上田氏にとっては『日本書紀』に現れる「大化・白雉・朱鳥」は、まぎれもなくヤマト王権が設定した年号であり、大宝以前の年号はこの三つだけである。「白鳳・朱雀」をこれと関連づければよい。そこで次のような苦しまぎれの謬論に行き着く。

 この詔にいう「白鳳」が孝徳朝の白雉であり、「朱雀」が天武朝の朱雀(ママ)であって、神亀元年の10月の詔で、白雉を白鳳としたのは、白雉が中瑞、白鳳が大瑞であることにもとづく。坂本太郎博士の考察のとおり(「白鳳朱雀年代考」、『日本古代史の基礎的研究』下所収、東京大学出版会、1964年)、実際に得た亀は白亀であったが、白亀を祥瑞(しょうずい)とする例はなく、大瑞の神亀に改元したのと対応する。朱鳥を朱雀に転換しているのも同様であり、中国では朱鳥は星宿南宮の名称であり、朱鳥が朱雀ともよばれていたので、朱鳥の朱雀への転換は容易であった。その後、平安時代に入って村上・円融朝から使用され、堀河・鳥羽朝のころから流布するようになった。

 坂本太郎博士の指摘のとおり、「白鳳」・「朱雀」は確かな年号として使われた形跡は全くない。それなのに、白鳳時代という時代名あるいは白鳳文化という美術史ないし文化史の時代の文化名として使用するのは説得力に乏しい。

 ましてや推古朝を中心とする前後の百年を飛鳥時代、その文化を飛鳥文化と位置づけながら、他方では645年から672年の時期を飛鳥時代のなかに含んで叙述するという曖昧さや、663年から710年までを白鳳文化あるいは白鳳時代としながら、奈良時代あるいは天平文化に含めて概説するという矛盾も見逃すわけにはいかない。

 神亀元年(724)以前のある時期に「白雉→白鳳」・「朱鳥→朱雀」という言替えが行われた、と言っている。もちろんそんな証拠は何処にもない。論拠なしの思いつきに過ぎないけれど、もしそれが正しいとすると、『日本書紀』の白雉は5年までだから白鳳も5年までしかないことになる。『藤氏家伝』もそれにならって「白鳳」を用いた言っているようだが、『家伝』に記載されている「白鳳十六年」は一体どうなるのだ。藤原仲麻呂がうっかり間違えたとでも説明するのだろうか。こんな子供だましのようなこじつけ論で、学者たちは納得してしまうのだろうか。いくつか反例を挙げてみよう。

金石文の証拠。

 法隆寺本尊・釈迦三尊の光背銘文にある「法興」という年号は『日本書紀』にも『続日本紀』にもない。釈迦三尊の作者が勝手にでっち上げた年号だというのか。古代、年号を勝手に作るなど、由々しき犯罪だったろう。

 『日本書紀』では朱鳥は元年だけで終わる。それでは、鬼室神社(滋賀県蒲生郡)の鬼室集斯墓碑に刻まれている没年月日「朱鳥三年戊子十一月八日」は一体どうなるのだろう。墓碑を造った人がうっかり間違えたとでも説明するのだろうか。

 ここで『「神代紀」再論:考古学が指し差すところ』で書いたことを思いだした。

『記紀の神話の解読も考古学(時には地質学も)との一致によってこそ、その正当性が保証される。しかし、多くの考古学者は記紀や風土記や伝承には無頓着のようだ。古田さんは『今の考古学者や教科書は、「神話・伝承オンチ」「記紀神話オンチ」「風土記神話オンチ」』(「古代史の未来」より)と手厳しい。』

 この伝で言うと、さしずめ「古代文献学者の考古学オンチ」というところだろう。

 残念ながら今のところ九州年号をもった金石文は上の2例を含めて3例しかない。もう1例は茨城県岩井市出土(冨山家所蔵)の土器で、「大化五子年」が刻まれている。しかし、寺院・神社などの縁起書・由緒書などには九州年号がふんだんに出てくる。

縁起書・由緒書など証拠

 HP「新古代学の扉」内の記事「(二中暦による)九州年号総覧」には、縁起書・由緒書などに記録されている九州年号が全国から収集されている。そこから少し抜き出してみよう。

三重県伊勢神宮(太神宮諸雑事記)「朱雀二年壬辰同御宇六年」

大願寺人丸縁記(山口県)「朱鳥三年草壁の太子窮しまし」

『万葉集』より
日本紀に曰く朱鳥四年庚寅の秋九月
右は日本紀に曰く朱鳥六年壬辰の春
右は日本紀に曰く朱鳥七年癸巳の秋
日本紀に曰く朱鳥五年辛卯の秋九月

飛尾大明神、春鏡社(熊本県)「白鳳十八年創立」

會津正統記「雑記」「天智天皇白鳳六年丙寅」

上野国一宮御縁記「白鳳六年壬寅三月一五日

金峯山秘密伝(奈良県)「天智天皇白鳳十一年正月八日役行者始」

 以上全て、年数が上田説と矛盾する。全てうっかりミスだろうか。あるいはデタラメが記録されたと主張するのだろうか。これでは日本国中、ウッカリさんとデタラメさんだらけになってしまう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(108)

「天武紀・持統紀」(24)


前期難波京の謎(13)
難波遷都の時代背景(4)


 前々回、東アジアの政治情勢を概観するために年表を作ったとき、①森公章『東アジアの動乱と倭国』(2006年12月1日刊)と②中村修也『白村江の真実 金春秋の策略』(・2010年3月1日刊)を参考にした。両著者ともにヤマト王権一元主義者だけれど、唐・朝鮮三国に関わる部分は『旧唐書』・『三国史記』など中国・朝鮮の史書をもとに記述するほかないのだから、その部分は信頼できると考えての利用であった。でもせっかく借りて来たのだから、今回私が取り上げてきた問題をどう料理しているのか調べてみた。結局は、これまでに度々述べてきたヤマト王権一元主義者たちの手法を再確認しただけだった。「もういいよ」と言う声もあるかもしれないが、興味を持たれる方もいると思うので、記録しておこう。

 ②は想像的な場面も盛り込んだ半分フィクションのような手法で書かれている。それはそれなりに面白く読める。また、著者は意図的に面白くしようとしているわけで、そのことを問題にするのは野暮というものだろう。この点については問題としない。史料の扱い方に問題を絞ることにする。

 さて、②は647(常色元 大化3)年のキムチュンチュの倭国来訪を取り上げて次のように述べている。

 金春秋(キムチユンチユ)にしてみると、今後、日本がどのような外交を展開するかを自分の目で確かめ、それにいかに対処するか考えなければならなかった。

 金春秋は瀬戸内海航路を通って難波に至ったであろう。途中、瀬戸内の島嶼を見て、春秋は、そのきれいな風景とともに、この内海が船の良港を多く持っていると感じたはずである。そして、朝鮮半島の周囲にも多くの島嶼が存在する。これらの島嶼を有する両国の水軍力も比較しながら、そのきれいな風景をその時だけは楽しんでいたのかもしれない。

「ここは百済(ペクチェ)の海岸に似ている。この島陰に船団を潜ませれば、ここを通る船は逃れようもなく、海賊たちの餌食となるであろう」
「いったい、この内海にはそうした船団はどれほど潜んでいるのであろうか」

 こうしたことを想像しながら、春秋は瀬戸内海を通っていったのではなかろうか。そして、難波津に到着し、すぐ近くに難波宮があることを知り、内陸部にある慶州(キョンジュ)の都との違いを比べていたであろう。

 倭国の王は、外の世界に向かって開放的な考え方をしているのだな。そうでなければ、これほど港に近い場所に宮殿を築くはずがない。普通は、海からの襲撃を恐れて、もうすこし内陸部に宮殿を設けるものだが…。しかし、考えてみれば、これほどの長い距離をもった内海を通らなければ、この難波宮に到達できないのだ。ここに来るまでに、幾か所にも防衛線は張れる。むしろ、ここまで到達されれば、少しくらい内陸部に宮殿を設けても同じことかもしれない。それならば、むしろ内海に面した場所に宮殿を設けた方が、いろいろと便利なのかもしれない。倭国の王は、なかなか開明的な名君なのかもしれない・・・。

 このように春秋が考えていたかもしれない。

 『日本書紀』を実際に読むことのない読者がこのくだりを読んだら、きっと感心することだろう。しかし私(たち)には史料利用のご都合主義が目に付いてしまう。ここに見られるのは恣意的な原文改定だ。

 瀬戸内海の防御線のくだりは、恐らく、キムチュンチュ来国時より4年後の651(常色5 白雉2)年是歳条の「難波津より、筑紫海の裏(うち)に至るまでに、相接ぎて艫舳(ふね)を浮け盈(み)てて、新羅を徴召(め)して、其の罪を問はば、易く得べし」を念頭において描いている。

 もっともひどいと思うのはキムチュンチュの行き先を難波宮としていることだ。キムチュンチュは九州王朝へのお客さんなのだが、ヤマト王権一元主義者には九州王朝は存在しない。また、ヤマト王権一元主義者にとっては、孝徳の宮居は難波長柄豊碕宮=前期難波宮だ。『日本書紀』にはキムチュンチュが難波に行ったなどという記録はないが、どうしても難波に連れてこなければならない。しかし、私(たち)の34年遡上という解読が正しければ、「難波に都造らむと欲(おも)」ったのは649(大化5)年である。まだ難波宮の影さえない。この「天武紀」からの復元が間違っていたとしても、652(白雉3)年が完成年であることは「孝徳紀」に記録されている。キムチュンチュの倭国来訪647(常色元 大化3)年の5年後である。他の所では盛んに『日本書紀』の記事をそのまま利用しているのに、ここでは『日本書紀』の示す年次を勝手に変えている。

 もうひとつ、②は649年に新羅が唐の衣服制度を導入したことをかなり詳しく解説している。

 『新唐書』二二〇「列伝」第一四五東夷新羅の条には、さらに「章服(しようふく)を改めるに中国の制に従う。内より珍しき服を出して賜(たま)う」という文言がある。ようするに、春秋は、新羅の服制を唐の制度に変えたというのである。

 服飾の制度といっても、「珍服」が下賜されているところを見ると、儀式などの場における服飾なのかもしれない。「新羅本紀」の該当箇所の表現は、「改其章服。以従中華制」となっている。「章服」とは、一般には「紋、又は記号などのあやのある著物」(『大漢和辞典』)の意味であるが、ここでは貞観四年八月に太宗が定めた章服の制度を指すのであろう。この時、太宗は、三品以上の官人は紫色、五品以上は緋(ひ)色、六品と七品は緑色、八品と九品は青色の衣服と定め、婦人は夫の色に従うと決めている。このことからも公式な場所における衣服の制度を、この太宗が制定した章服の制度に変えたということであろう。

 これは、たんに唐の衣服制度ということではなく、一八年前に太宗が定めた衣服制度に倣おうということである。太宗の機嫌がよくなり、春秋たちの餞別の会を盛大に開くことになるのは火を見るより明らかだった。

 春秋としてみれば、これまで対百済戦のための救援軍を何度も要請してきたが、なんらはかばかしい返事をもらっていない。言葉だけで唐を慕っているといっても効果のないことははっきりしていた。それならば、いかに新羅が唐を手本としており、頼っているかということを視覚的に示す必要がある。むずかしい制度などはきちんと導入しても、すぐに広まるものでもないし、唐もそれを実感できない。ところが、衣服ならば見た瞬間に理解される。唐に与える印象も明確になる。

 中国や朝鮮の史書文献を駆使して、この解説はさすがである。とても参考になる。『日本書紀』を扱うときにも、どうしてこのようにきめ細かい分析をしないのだろうか。

 しかし、ここにもヤマト一元主義者たちのかんばしからぬもう一つの手法が見え隠れする。「都合の悪いものはなかったことにしよう」である。

 『日本書紀』を読んでいる人なら、新羅が唐の衣服制度を導入したことを取り上げたのなら、とうぜん651(常色5 白雉2)年是歳条の「新羅の貢調使知萬沙等、唐の國の服を着て、筑紫に泊まれり。朝庭(みかど)、恣(ほしきままに)に俗(しわざ)移せることを悪(にく)みて、詞嘖(せ)めて追ひ還したまふ」が取り上げられるものと思うだろう。私もそう思って、その条をどのように読解するのか楽しみにしたが、中村氏はそれを全く無視して、次の話に飛んでしまう。「孝徳紀」の中だけではなんとも解釈のしようのない記事であり、無視するのが無難かも知れない。

 ①は学術論文風に手堅い手法で書かれている。651(常色5 白雉2)年是歳条を取り上げていた。次のようである。

 しかしながら、実際には百済は自力を恃み、倭国に遣使せず、新羅の方が頻繁な遣使を行っており、のちに太宗武烈王として即位する金春秋も647年には一時的に「質」として来朝するなど、倭国との関係維持を図るという構図になった。百済は確実なところでは六五三年に倭国を通交しており、六五四年には倭国の遣唐使帰国に百済・新羅の送使が同行する(白雉五年七月丁西条)など、両国の倭国に対する思惑が看取される。こうした状況も倭国の均衡外交維持を可能にした要因であった。

 しかし、六五一年には、来朝した新羅侯が唐国服を着用していたので、「恣に俗移せること」(勝手に中国風の文化を受容して服装を改めたこと)を問責して追い返す事件があった(白雉二年是歳条)。

(中略)

 その対応方法として・・・武力誇示による脅迫という方式が提案され、新たな方策を示すことができていない点には注意したい。しかも、『日本書紀』によると、その提案に基づいた行動の実施は不明であり、むしろ均衡外交維持のために積極的な反応をとらなかったのではないかと見なされる。後述のように、この時期新羅はすでに唐の文化や制度を全面的に受け入れ、唐風化政策に転じており、それ故の唐国服着用であった。とすると、倭国の外交方策はもはや東アジア情勢の変動に充分に対応できないのではないかという懸念を抱かざるを得ない。

 「孝徳紀」の中だけで解釈すれば、651(常色5 白雉2)年是歳条を引き継ぐ記事が皆無なのだから、「積極的な反応をとらなかったのではないか」と推測するほかないだろう。ちなみに、①はキムチュンチュの倭国来訪や難波京造営についてはほとんど触れていない。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(107)

「天武紀・持統紀」(23)


前期難波京の謎(12)
難波遷都の時代背景(3)


 651年是歳条の問題点(2)の解答は、ここまで通して読まれた方には多言を要しないだろう。この記事が宙ぶらりんなのは、事の顛末を記録した部分を「天武紀」に切り貼りしたためだ。そのために「孝徳紀」・「天武紀」双方の記事が欠陥だらけになってしまった。煩をいとわずこれまでに取り上げた全記事を再録して、復元してみよう。(赤字は「孝徳紀」の記事。例によって、復元した日付は「天武紀」の記事の日付と同じ干支の直近の日付を選んだ。)

 唐の三次にわたる高句麗遠征。それをめぐって百済と新羅の駆け引きと軍事衝突。朝鮮半島のこの緊迫した状況に対処して、倭国も軍備の増強・整備を始めた。

650(常色4 白雉元)年4月18日←684(天武13)閏4月5日
詔して曰はく、「來年(こむとし)の九月に、必ず閲(けみ)せむ。因りて百寮(つかさつかさ)の進止(ふるまひ)・威儀(よそほひ)を教えよ」とのたまふ。又詔して曰はく、「凡そ政要(まつりごとのぬみ)は軍事(いくさのこと)なり。て當身(みみ)の装束(よそひ)の物、務めて具(つぶさ)に儲(そな)へ足せ。其れ馬有らむ者をば騎士(うまのりびと)とせよ。馬無からむ者をば歩卒(かちびと)とせよ。並に當(まさ)に試練(ととの)へて、聚(あつま)り合(つど)ふに障(さは)ること勿(まな)。若(も)し詔の旨に杵(たが)ひて、馬・兵に不便(もやもやもあらぬこと)有り、亦装束闕(か)くること有らば、親王(みこたち)より以下、諸臣に逮(いたる)るまでに、並に罰(かむが)へしむ。大山位より以下は、罰ふべきは罰へ、杖(う)つべきは杖(う)たむ。其れ務め習ひて能く業(なり)を得む者をば、若し死罪と雖(いふと)も、二等(ふたしな)を減らさむ。唯し己が才(かど)に恃(よ)りて、故(ことさら)に犯さむ者のみは、赦す例(かぎり)に在らず」とのたまふ。(以下略)
是の月に、新羅、使を遣して貢調る。〈或本に云はく、是の天皇の世に、高麗・百濟・新羅、三つ國、年毎に、使を遣して貢獻るといふ。〉

651(常色5 白雉2)年6月
是の月に、百済・新羅、使を遣して貢調り物獻る。
10月25 日←685(天武14)9月11日
宮處王・廣瀬王・難波王・竹田王・彌努王を京(みさと)及び畿内(うちつくに)に遣して、各人夫(おほみたから)の兵(つはもの)を校(かむが)へしめたまふ。

 この間、新羅から度々の遣使があったが、ついにあのデモンストレーションのような遣使がやってくる。

651(常色5 白雉2)年
是の歳に、新羅の貢調使知萬沙等、唐の國の服を着て、筑紫に泊まれり。朝庭(みかど)、恣(ほしきままに)に俗(しわざ)移せることを悪(にく)みて、詞嘖(せ)めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣、奏請(まう)して曰はく、「方(まさ)に今新羅を伐ちたまはずは、於後に必ず當(まさ)に悔有らむ。其の伐たむ状(かたち)は、擧力(なや)むべからず。難波津より、筑紫海の裏(うち)に至るまでに、相接ぎて艫舳(ふね)を浮け盈(み)てて、新羅を徴召(め)して、其の罪を問はば、易く得べし」とまうす。

 次の一連の記事は、巨勢大臣の提言が実行されたことを示している。武器が総動員され戦場に近い周芳・筑紫に送られた。新羅への示威行動として、対馬にも軍船(防人)が増派されたことだろう。

10月15日←685(天武14)11月2日
儲用(まうけ)の鐵一萬斤を、周芳の總令(すぶるをさ)の所(もと)に送(つかは)す。是の日、筑紫大宰、儲用の物、絁一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常・鐵一萬斤・箭竹二千連を請(まう)す。筑紫に送(つかは)し下す。
10月17日←11月4日
四方(よも)の國に詔して曰はく、「大角・小角、鼓吹・幡旗、及び弩・拠の類は、私の家に存くべからず。咸(ことごとく)に郡家(こほりのみやけ)に収めよ」とのたまふ。

 倭国からの攻撃を恐れ、新羅は倭国に外交官を派遣して政治的解決をはかる。

11月10日←11月27日
新羅、波珍飡金智祥・大阿飡金健勲を遣して政を請す。仍りて調進る。

 倭国は新羅からのなにがしかの譲歩を得たと思われる。その結果が翌年の朝貢である。

 次の倭国軍船が海難事故は、軍船撤収時に起こったものだろうか。

11月16日←12月4日
筑紫に遣せる防人等、海中(わたなか)に飄蕩(ただよ)ひて、皆衣裳(きもの)を失へり。則ち防人の衣服の爲に、布四百五十八端(むら)を以て、筑紫に給(おく)り下す。

 翌年、改めて新羅は過大な貢物を携えて朝貢をする。倭国もこれを手厚く歓待した。

652(白雉元 白雉3)年4月
是の月に、・・・新羅・百済、使を遣して貢調り物獻る。
5月26日←686(朱鳥元)年4月13日
新羅の客等(まらうとら)に饗へたまはむが為に、川原寺の伎楽(くれがく)を筑紫に運べり。仍りて、皇后宮(きさきのみや)の私稲五千束を以て、川原寺に納む。
6月20日←4月19日
新羅の進(たてまつ)る調(みつぎ)、筑紫より貢上(たてまつ)る。細馬一疋・騾一頭・犬二狗・鏤金器、及び金・銀・霞錦・綾羅・虎豹皮、及び薬物の類、并て百餘種。亦智祥・健勲等が別に献る物、金・銀・霞錦・綾羅・金器・屏風・鞍皮・絹布・薬物の類、各六十餘種。別に皇后・皇太子・及び諸の親王等に献る物、各数有り。

 以上、「天武紀」中ではまったく意味不明の記事が、「孝徳紀」の中にピッタリと収まる。これは同時に難波遷都の理由をも語っている。東アジアの緊迫した政治情勢の中、筑紫近辺での対唐・新羅戦は十分予想できる事態だった。それに備えて九州王朝は、軍備増強とともに、その拠点を筑紫から難波に遷すことが絶対に必要な課題だったのだ。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(106)

「天武紀・持統紀」(22)


前期難波京の謎(11)
難波遷都の時代背景(2)


 684(天武13)年~686(朱鳥元)年を34年遡上すると650(常色4 白雉元~652(白雉元 白雉3)年である。味経宮と大郡宮の記事が現れる時期と一致する。その時期に新羅との外交記事があるだろうか。

 「孝徳紀」には新羅との外交記事が16件ある。そのうち倭からの遣使が2件(1件は学問僧)、新羅からの「為質」記事が2件で、あとは全て新羅からの貢物記事である。上記の期間では貢物記事が4件ある。

650(常色4 白雉元)年4月
是の月に、新羅、使を遣して貢調る。〈或本に云はく、是の天皇の世に、高麗・百濟・新羅、三つ國、年毎に、使を遣して貢獻るといふ。〉

651(常色5 白雉2)年6月
是の月に、百済・新羅、使を遣して貢調り物獻る。

651(常色5 白雉2)年
是の歳に、新羅の貢調使知萬沙等、唐の國の服を着て、筑紫に泊まれり。朝庭(みかど)、恣(ほしきままに)に俗(しわざ)移せることを悪(にく)みて、詞嘖(せ)めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣、奏請(まう)して曰はく、「方(まさ)に今新羅を伐ちたまはずは、於後に必ず當(まさ)に悔有らむ。其の伐たむ状(かたち)は、擧力(なや)むべからず。難波津より、筑紫海の裏(うち)に至るまでに、相接ぎて艫舳(ふね)を浮け盈(み)てて、新羅を徴召(め)して、其の罪を問はば、易く得べし」とまうす。

652(白雉元 白雉3)年4月
是の月に、・・・新羅・百済、使を遣して貢調り物獻る。

 ほかのステレオタイプ単純な記事に比して、651年是歳条は異質な記事だ。この記事について、次の二点を検討してみよう。

(1)
 遣使が唐の服を着用していることで、どうして「悪みて、詞嘖めて追ひ還」さなければならないのか。
(2)
 また、この記事の顛末が全くなく、翌年には全く何もなかったように新羅からの遣使がやって来ている。この間に何もなかったとは不可解だ。

 (1)の解答はその頃の東アジアの政治情勢を概観すれば自ずと明らかである。唐建国の頃からの年表を作ってみよう。(本来なら第一次史料の『旧唐書』や『三国史記』を直接調べるべきなのだろうが、その余裕がない。森公章『東アジアの動乱と倭国』・中村修也『白村江の真実 金春秋の策略』を参考に作成した。)

(倭国は多利思北孤以来隋・唐とは離反していた。『日本書紀』の唐外交記事は、倭国ではなくヤマト王権との直接外交と思われる。ここでは除外しておく。)
616
 百済、新羅の母山城を攻撃。
 新羅、倭に仏像を献上。
618
 新羅、椵岑城を回復。
   (611年に奪取されていた。)
 李淵、隋の煬帝を倒し唐を建国。
621
 新羅真平王、唐に朝貢。
 新羅、倭に朝貢。
623
 百済、新羅の勒弩県を襲撃。
624
 百済、新羅の6城を奪取。
625
 新羅真平王、唐に朝貢。
626
 百済、新羅の主在城を攻撃、城主殺害。
627
 百済、新羅の西部国境を攻撃。
      男女300人を捕虜とする。
628
 百済、新羅の椵岑城を包囲するも敗退。
629
 新羅真平王、金龍春・舒玄・金庚信に
      高句麗の娘腎城を攻撃させる。
 新羅、唐に朝貢。
630
 高句麗・百済、倭に遣使。
631
 新羅、唐に朝貢。
 百済王子豊璋、「質」として倭国に入国。632
 新羅の善徳王が即位。
 新羅、唐に朝貢。
633
 百済、新羅の西谷城を奪取。
 高表仁、帰国。
635
 唐が善徳王を新羅王に冊封。
 百済、倭に朝貢。
636
 新羅、独山城で百済軍を撃退。
638
 高句麗、新羅の七重城を攻撃するも敗退。 
 百済・新羅、倭に朝貢。
640
 善徳王、王族の若者を学生として
           唐に派遣要請。
641
 百済、義慈王が即位。
642
 百済、新羅の大耶城など40余城を攻撃。
 大耶城陥落、品釈ら惨死。
 高句麗で淵蓋蘇文のクーデター。
 新羅の金春秋、高句麗に入国。
     百済討伐軍を要請するが失敗。
643
 百済・高句麗が同盟。
 新羅の党項城を攻略。
 唐太宗、新羅使者に三策を授ける。
644
 淵蓋蘇文、新羅を攻撃。
 唐、第一次高句麗遠征。
 倭国、高向玄理を新羅に派遣。

 新羅と百済が存亡をかけて相互に侵略し合い、激しい攻防を繰り返していた。そして、双方とも唐・高句麗・倭との同盟あるいは助力を得ようとし、外交戦も熾烈を極めていたことが分かる。しかし、クーデターで実質的な権力者となったヨンゲソムン(淵蓋蘇文)が反唐政策を明確にし、高句麗・百済が同盟したときから、新羅は急速に唐に接近し始めた。倭は早くの時期から百済と親和的であったから、ここで〈倭・百済・高句麗〉対〈唐・新羅〉という白村江の戦いにつながる構図の原型ができてきた。642年が東アジアの政治情勢が新展開していく結節点であった。
645
 百済、新羅の七城を攻略。
 新羅、金庚信を百済方面に派兵。
647
 新羅で毘曇の乱。善徳王没。
 新羅の金春秋らが真徳女王を擁立、
             実権を握る。
 百済、茂山城を攻めるが庚信軍に敗退。
 金春秋、高向玄理とともに倭国へ入国
 唐、第二次高句麗遠征。
648
 倭国、三韓に学問僧を派遣。
 百済の義直、新羅の腰車城等を奪い取る。
 百済の義直、玉門谷で新羅の庚信軍に敗退。
 新羅の金春秋、訪唐し救援要請に成功。
 唐、第三次高句麗遠征。
649
 新羅、唐の衣服制度を導入。
 唐太宗死去、高宗即位。
 倭、三輪君色央・掃部連角麻呂を新羅
に派遣。
 百済、新羅の石吐城など七城を奪取。
 新羅、金多遂らを日本に派遣。
650
 新羅、金法敏を唐に派遣。
 新羅、五言太平頌を高宗に贈る。
 新羅、新羅年号を廃止し唐年号を導入。
651
 新羅、金仁問を唐に派遣。

 キムチュンチュ(金春秋 後の武烈王)の倭国入国を『日本書紀』は次のように記録している。

647(常色元 大化3)年
是の年、・・・新羅、上臣大阿飡金春秋等を遣して、博士小徳高向黒麻呂・小山中中臣連押熊を送りて、來りて孔雀一隻。鸚鵡一隻を献る。仍りて春秋を以て質(むかはり)となす。春秋は、姿顔(かほ)美(よ)くして善(この)みて談咲(ほたきこと)す。


 「質」として来たと書いているが、これは箔付けのための誇大記録だと思われる。チュンチュの来国は高句麗や唐への訪問と同様、同盟あるいは援助要請のための外交訪問だ。帰国の記録がないが、倭は一貫して百済と親和的だったのだから、金春秋は空しく帰国したことだろう。この後、新羅は唐の衣服制度を導入したり、唐の年号を使用したりするほど完全に唐の冊封国の立場をはっきりと打ち出した。

 ここで「孝徳紀」の651(常色5 白雉2)年是年条につながる。このときの遣使の唐服はただ単に「唐の服を着た」ということではなく、「唐との同盟」を示唆し、倭が百済と離反することを促す意味をもっていた。倭の天子が不快感をもったのは当然であった。そこで、新羅の唐への急傾斜に歯止めをかけるべく、巨勢大臣は大規模な威圧行動を提言したのだった。

(付記)
 韓国の歴史ドラマが面白い。昨年から今年にかけて見た「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」と、いま見ている「善徳(ソンドク)女王」が丁度いま取り上げている時代のお話で、いろいろと役に立ちます。「善徳女王」はいま642年の「大耶城陥落」あたりのお話です。「ヨンゲソムン」とか「キムチュンチュ」とかの名前の韓国語読みはドラマでの読みに従いました。