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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(105)

「天武紀・持統紀」(21)


前期難波京の謎(10)
難波遷都の時代背景(1)


(以下は、『古代に真実を求めて 第13集』所収の正木論文「34年遡上と難波遷都」に依拠しています。)

 『日本書紀』は盗用記事だらけである。ヤマト王権本来の事績の記録は一体どのくらい残るのだろうか。特に外交・軍事関係記事はほとんど盗用記事なのではないか。特に新羅からの貢物(進調・貢調・物進・献物)記事が11件もあるが、白村江の戦いの戦勝国が敗戦国に対して、このように頻繁に朝貢するなどあり得ないことだろう。そしてまた何よりも、力は弱まったとはいえ、いまだ九州王朝が倭国の中心権力であった時期だ。ヤマト王権が九州王朝の頭越しに直接新羅と外交関係を結んでいたとは思われない。

 「天武紀」の一連の新羅関連記事の中で、特に684(天武13)年~686(朱鳥元)年の外交・軍事関係記事にいろいろと問題がある。まず、それを読んでみよう。

684(天武13)閏4月5日
詔して曰はく、「來年(こむとし)の九月に、必ず閲(けみ)せむ。因りて百寮(つかさつかさ)の進止(ふるまひ)・威儀(よそほひ)を教えよ」とのたまふ。又詔して曰はく、「凡そ政要(まつりごとのぬみ)は軍事(いくさのこと)なり。て當身(みみ)の装束(よそひ)の物、務めて具(つぶさ)に儲(そな)へ足せ。其れ馬有らむ者をば騎士(うまのりびと)とせよ。馬無からむ者をば歩卒(かちびと)とせよ。並に當(まさ)に試練(ととの)へて、聚(あつま)り合(つど)ふに障(さは)ること勿(まな)。若(も)し詔の旨に杵(たが)ひて、馬・兵に不便(もやもやもあらぬこと)有り、亦装束闕(か)くること有らば、親王(みこたち)より以下、諸臣に逮(いたる)るまでに、並に罰(かむが)へしむ。大山位より以下は、罰ふべきは罰へ、杖(う)つべきは杖(う)たむ。其れ務め習ひて能く業(なり)を得む者をば、若し死罪と雖(いふと)も、二等(ふたしな)を減らさむ。唯し己が才(かど)に恃(よ)りて、故(ことさら)に犯さむ者のみは、赦す例(かぎり)に在らず」とのたまふ。(以下略)

 「來年の九月に、必ず閲せむ」に対応するのが次の記事である。

685(天武14)9月11日
宮處王・廣瀬王・難波王・竹田王・彌努王を京(きさと)及び畿内(うちつくに)に遣して、各人夫(おほみたから)の兵(つはもの)を校(かむが)へしめたまふ。

 罰則まで用意した厳格な軍備命令は、この前後の記事に比して、唐突であり異質である。このような厳格な軍備命令を下さなければならない状況は全く見あたらない。さらに周芳・筑紫に大量の軍用物資を送り、他の国々にも臨戦態勢を執らせている。

685(天武14)
11月2日
儲用(まうけ)の鐵一萬斤を、周芳の總令(すぶるをさ)の所(もと)に送(つかは)す。是の日、筑紫大宰、儲用の物、絁一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常・鐵一萬斤・箭竹二千連を請(まう)す。筑紫に送(つかは)し下す。
4日
四方(よも)の國に詔して曰はく、「大角・小角、鼓吹・幡旗、及び弩・拠の類は、私の家に存くべからず。咸(ことごとく)に郡家(こほりのみやけ)に収めよ」とのたまふ。

 次いで新羅から貢物を携えた外交官が派遣される。

11月27日
新羅、波珍飡金智祥・大阿飡金健勲を遣して政を請す。仍りて調進る。

 さらに筑紫の防人が海難事故に遭ったという記事が続く。

12月4日
筑紫に遣せる防人等、海中(わたなか)に飄蕩(ただよ)ひて、皆衣裳(きもの)を失へり。則ち防人の衣服の爲に、布四百五十八端(むら)を以て、筑紫に給(おく)り下す。

 軍船が沈没したのであろう。衣服を新調するための「布四百五十八端」というのだからかなり大きな事故だったようだ。

 次いで再度、新羅から遣使が筑紫にやってくる。

686(朱鳥元)年
4月13日
新羅の客等(まらうとら)に饗へたまはむが為に、川原寺の伎楽(くれがく)を筑紫に運べり。仍りて、皇后宮(きさきのみや)の私稲五千束を以て、川原寺に納む。

 筑紫に到着した新羅の遣使をもてなすために、伎楽(百済から伝わった中国の舞楽)の一団をわざわざ飛鳥から派遣してまでの歓待ぶりである。そしてその新羅使の「進調」が他に例がないほどすごい。

19日
新羅の進(たてまつ)る調(みつぎ)、筑紫より貢上(たてまつ)る。細馬一疋・騾一頭・犬二狗・鏤金器、及び金・銀・霞錦・綾羅・虎豹皮、及び薬物の類、并て百餘種。亦智祥・健勲等が別に献る物、金・銀・霞錦・綾羅・金器・屏風・鞍皮・絹布・薬物の類、各六十餘種。別に皇后・皇太子・及び諸の親王等に献る物、各数有り。

 この戦勝国からの貢物とその使者への歓待ぶりは異常である。一体何があったのだろうか。

 以上の一連の記事の謎は「天武紀」の中では永久に解けない。
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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(104)

「天武紀・持統紀」(20)


前期難波京の謎(9)
味経宮と大郡宮(2)


 昨日、改めて「古賀達也の洛中洛外日記」(以下「日記」と略称)の前期難波京関係の記事に目を通してみた。自ら「前期難波京の謎」を書いてきた今、その「日記」の中に私が書いてきた説と相通じるのではないかと思われる事柄を二点見いだした。

 正木さんは「孝徳紀」の大郡宮を「太宰府か」と書き留めていた。私も、今のところ所在地が特定できないとしても、筑紫の大郡宮として論を進めてきた。ところで、次に引用する「日記」の「第218話 太宰府条坊の中心領域」で古賀さんが「通古賀地区の宮殿」を取り上げている。地図で目測すると、太宰府跡より南に1㎞ほどいった辺りのようだ。私はこれこそ筑紫大郡宮ではないかと思った。いかがでしょうか。

 7月の関西例会で伊東さんが紹介された、太宰府条坊と政庁の中心軸はずれているという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究は衝撃的でした。そのずれの事実から、政庁(2期)や観世音寺よりも条坊の方が先に完成していたという指摘も重要でした。すなわち、現都府楼跡の政庁は条坊が完成したとき(七世紀初頭、九州年号の「倭京」年間と思われる。)にはまだ無く、条坊都市に当然存在したはずの中心領域、すなわち九州王朝の王宮は別にあったことになるからです。

 この点に関しても、井上氏は重要な指摘をされています。それは条坊右郭中央にある通古賀地区に注目され、同地域の小字扇屋敷(王城神社がある)付近からは比較的古い遺物が集中して出土しており、この地区が条坊創建時の中心領域と推定されています。

 しかも、この扇屋敷を中心とする領域は、小規模ながら藤原宮を中心とする大和三山・飛鳥川の配置とよく似ており、同じ風水思想による都市設計ではないかとされています。すなわち、扇屋敷の北には小丘陵(小字東蓮寺)があり、東には古代寺院般若寺から伸びる丘陵地が、南には南東から北西に流れる鷺田川があるのです。

 これを九州王朝説から考察すれば、七世紀初頭の条坊都市の中心領域は通古賀地区であり、ここに九州王朝の宮殿が造られたと考えることが可能です。しかも、「王城神社」という名称も注目されます。更には、井上氏も指摘されていますが、この扇屋敷の中心軸の丁度南のライン上に基山山頂があることも、この地域が重要地点であったことを感じさせるのです。

 まだ研究途中ですが、七世初頭の九州王朝は太宰府に条坊都市を造り、その中心として通古賀地区扇屋敷に宮殿を造ったという仮説は有力のように思われます。そして、もしこの仮説が正しければ、太宰府を先行例として藤原宮・藤原京は太宰府条坊都市と同じ設計思想で造られたことになり、この視点から新たな問題が惹起されてくるのです。

 小郡宮があったとされる地域は基山のさらに南へ数㎞いった辺りにある。扇屋敷の宮殿の造営は7世紀初頭ということだから、その造営は小郡宮に先行する。小郡宮は離宮のようなものだったと思われる。小郡宮の造営後、この小郡宮に対して、扇屋敷の宮殿を大郡宮と呼んだのではないだろうか。

(この小郡宮と大郡宮との関係についてはまだ疑問点が残っていて、私自身まだ完全には納得できていない。もう一つ、地図を見ていて「もしかしたら」と思ったことがある。朝倉市はこの小郡市のすぐ東にある。斉明が九州で居住していたという朝倉宮とはこの小郡宮のことではないか。)

 もう一つは「日記」の「第166話 副都の定義」である。そこで古賀さんは「九州王朝の天子は太宰府と難波宮を必要に応じて往来し、両都を使い分けていたのではないでしょうか」と述べている。前回取り上げた「孝徳紀」の記事②・③では、九州王朝の天子が、大郡宮から味経宮に遷り、味経宮から大郡宮へと還っている。せっかく新都を造り遷都を果たしたのに、なぜまたすぐに筑紫へ還ってしまうのか、理解しがたいと思っていたが、古賀さんの論考を読んでこの疑問は解消した。

 副都とは首都に対応する概念であり、前期難波宮の場合、具体的には7世紀における九州王朝の首都「太宰府」に対する副都ということになります。「副」とは言え、「都」ですから、天子とその取り巻きだけが居住できればよいというものではありません。天子以外の国家統治の為の官僚機構や行政機構が在住でき、その生活のための都市機能も必要です。すなわち、天子と文武百官が行政と生活が可能な宮殿と都市があって、初めて副都と言えるのです。

 この点、天子とその取り巻きだけが居住できる行宮や仮宮とは、規模だけではなく本質的に機能が異なります。そして、一旦、首都に何らかの問題が発生し、首都機能の維持が困難となった際、統治機構がそのまま移動し、統治行政が可能となる都市こそ副都と言えるのです。

 おおよそ、以上のように副都の定義をイメージしています。そして、7世紀において、太宰府に代わりうる「首都機能」を有す様式と規模をもっていたのが、前期難波宮なのです。それでは、太宰府が首都として機能している期間は、前期難波宮は無人の副都だったのでしょうか。わたしは、そのようには考えていません。『日本書紀』孝徳紀に盗用された、大がかりな白雉改元儀式は前期難波宮で行われたと思われますので、もしかすると九州王朝の天子は太宰府と難波宮を必要に応じて往来し、両都を使い分けていたのではないでしょうか。今後の研究課題です。

 では、九州王朝はどうしてそのような都城規模の副都を必要としたのだろうか。古賀さんが「一旦、首都に何らかの問題が発生し、首都機能の維持が困難となった際」と述べているような差し迫った事情があったはずである。この問題を次のテーマとしよう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(103)

「天武紀・持統紀」(19)


前期難波京の謎(8)
味経宮と大郡宮(1)


 難波宮完成前後に出てくる宮名が二つある。味経宮と大郡宮。

味経宮について

 味経という言葉は、「味経の原」(928番)「味経の宮」(1062番)と『万葉集』にも出てくる。これらの歌は後期難波宮を題材にしたものだが、難波宮が造られたあたりの地名は味経であったようだ。前期難波宮は味経宮と呼ばれていた。

大郡宮について

 「孝徳紀」以前に出てくる大郡を列挙すると次のようである。

561(欽明22)年是歳条
・・・於難波の大郡(おほこほり)に、諸蕃(もろもろのまらうと)を次序(つい)づるときに・・・

608(推古16)9月5日
 客等を難波の大郡に饗たまふ。

630(舒明2)是歳
改めて難波の大郡及び三韓の館を脩理(つく)る。

 これらの例では「難波大郡」と所在地が特定されている。また、これらは「宮」ではなく、外交用施設であることも明らかである。そしてこの後、この庁舎が「宮」として改造されたという記事はない。

(ただし『続日本紀』には、天平勝宝1年(749)~2年の記事の中に、孝謙天皇が大郡宮に「遷った」あるいは「還った」という記事が4回だけでてくる。天皇用の「宮」なら造営記事が記録されるはずだが、外交施設大郡の跡地に「宮」を造営したという記事は『続日本紀』にもない。従って『続日本紀』の大郡宮は孝謙天皇が皇太子(史上初の女性皇太子)として使用していた「宮」だったのかもしれない。ともあれ、上の諸記事よりも1世紀以上も後のことなので、考慮の対象にしなくてよいだろう。)

 次に「孝徳紀」に現れる味経宮と大郡宮の記事を並べてみよう。


650(常色4 白雉元)年
 白雉元年春正月の辛丑の朔に、車駕(すめらみこと)、味經宮に幸して賀正禮(みかどおがみのこと)を観(みそなは)す。是の日に、車駕、宮に還(かへ)りたまふ。


651(常色5 白雉2)年
 冬十二月の晦(つごもり)に、味經宮(あぢふのみや)に、二千一百餘の僧尼を請(ま)せて、一切經讀ましむ。是の夕に、二千七百餘の燈を朝の庭内に燃(とも)して、安宅・土側等の經を讀ましむ。是に、天皇、大郡より、遷りて新宮に居す。號(なづ)けて難波長柄豐碕宮と曰ふ。


652(白雉元 白雉3)年
 春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。

 ②の大郡は「宮」となっていないが、「大郡より新宮に遷居した」というのだから、当然遷居する前の大郡は「宮」でなければならない。つまり、③の大郡宮と同一の「宮」である。また、ここに出てくる大郡は「難波」という地名特定の修飾語がない。ではこの大郡宮は何処にあったのだろうか。

 大郡はもう一回、「天武紀」に現れる。

673(天武2)年11月21日
高麗の邯子・新羅の薩儒等に筑紫の大郡に饗たまふ。祿(もの)賜ふこと各差有り。

 ここでは「筑紫」大郡と所在地が明らかだ。そして、大郡は難波大郡と筑紫大郡しかなく、難波大郡は「宮」でなかった。とすると、筑紫大郡が「宮」だったということになる。しかし小郡宮と違い、考古学的裏付けがなにもないので、確言はできない。ちなみに、正木さんは「太宰府か」と推測している。

 『日本書紀』の大郡宮は筑紫にあったという前提で①~③を検討してみよう。その読解が正しいとすれば、一つの状況証拠と言えるだろう。

 まず①がおかしい。どこから「幸して」どこへ「還った」のかわからない。『日本書紀』の記述に従えば孝徳は難波碕宮、つまり難波長柄豊碕宮にいたことになる。前回掲載した次の記事だ。

648(常色2 大化4)年)正月1日
 賀正(みかどをがみ)す。是の夕に、天皇、難波碕宮に幸(おはしま)す。

 改めて読んでみると、この記事もおかしい。「是の夕に・・・」以下は「賀正」が終わってから難波長柄豊碕宮に行幸したとしか読めない。すると「賀正」を行った場所は、「647(常色元 大化3)年12月にいた武庫行宮ということになる。本宮ではなく行宮で正月の宮殿行事を執り行うなんて、なんだか気の毒だなあ。

 ①にもどろう。さらに、①には決定的におかしいことがある。味経京の工事はその年の10月にやっと「宮の堺標を立」てる所まで進む。正月の味経宮もまだ建設工事中だと思われる。そこまで出向いていって、そこで「賀正禮」という晴々しい新年の行事をやるとは、不可解だ。この記事全体を疑うべきだろう。

 ここで『「天武紀」の伊勢王(2)』で取り上げた古賀さんの「見事な読解」を思い出した。それは、①に続いて記載されているあの長い白雉改元記事(「伊勢王とは誰か」(1)で、現代語訳で全文掲載しています)は、本来は③の後にあったものが①の後に切り貼りされたものだったという論証だった。ここで私は、①は③の一部を切り取り改竄して、白雉改元記事とペアにして650(常色4 白雉元)年の記事として貼り付けたのではないかと思い至った。つまり③は本来、例えば、次のようであった。

652(白雉元 白雉3)年
 春正月の己未の朔に、車駕(すめらみこと)、味經宮にて賀正禮(みかどおがみのこと)を観(みそなは)す。元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に還(かへ)りたまふ。

 つまり、天子(九州王朝)は651(常色5 白雉2)年12月に「大郡より、遷りて新宮に居」している。その新宮(味経宮)で賀正禮を執り行なった。その後、筑紫の大郡宮に還った。九州王朝の年号で「白雉元年」のことである。白雉出現の吉祥にちなんで年号を「白雉」としたが、新宮完成を祝っての改元であった。

 私としてはこれで不可解だった点がすっきりすると考えているが、独断に過ぎるだろうか。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(102)

「天武紀・持統紀」(18)


前期難波京の謎(7)
「難波宮=難波長柄豊碕宮」か?(2)


(今年の4月に発刊された『古代に真実を求めて 第13集』に正木裕論文「34年遡上と難波遷都」があった。図書館から借りてきました。これを参考書に加えます。)

 前回の岩波の頭注「「白雉2年12月、造営ほぼ終わって遷都するまで難波の諸宮を宮とする」の「諸宮」を念のため調べてみた。まず「子代離宮(このしろのかりみや)」というのが出てくる。

646(命長7 大化2)年正月
 是の月、天皇、子代離宮に御(おはしま)す。使者を遣して、郡国(こほりのくに)に詔して兵庫(つわものぐら)を修営(つく)らしむ。蝦夷親附(まいしたが)ふ。〈或本に云はく、難波狭屋部邑(さやべのむら)の子代の屯倉(みやけ)を壊(こぼ)ちて、行宮を起つといふ。〉

646(命長7 大化2)年2月22日
   天皇、子代離宮より還りたまふ。

 ほぼ2ヶ月間滞在して還るが、何処に還ったかは書いていない。書かなくとも分かる当たり前の所に還ったから書かないのだろう。つまり本拠地(常駐している宮殿)に帰った。ではそれは何処だろうか。この条の前に出てくる宮殿は難波長柄豊碕宮しかない。そこに還ったとしか考えられないではないか。

(行宮から本宮に還るときの記事の書き方が気になったので調べてみた。「還自~宮」(~宮より還る)という言い回しは、『続日本紀』の含めて、「孝徳紀」以外にはない。ほかでは全て「還宮」(本宮へ還る)である。つまり出発地ではなく目的地を書いている。)

 次は同じ年の3月19日条に「新しき宮」が出てくる。長い記事なので必要な部分だけを掲載する。

646(命長7 大化2)年3月19日
・・・念ふこと是(かく)の若しと雖も、始めて新しき宮に處(を)りて、將に諸の神に幣(みてぐら)たてまつらむとおもふこと。今歳(ことし)に屬(あた)れり。又、農(なりはひ)の月にして、民(おほみたから)を使ふ合(べ)からざれども、新しき宮を造るに縁(よ)りて、固(まこと)に已(や)むこと獲(え)ず。深く二つの途を感(かま)けて、天下(あめのした)に大赦(おほきにつみゆる)す。・・・

 ここの「新しき宮」を岩波頭注は難波宮としている。えっ! 難波宮が完成するのはまだ5年も後のことだよ。念のため宇治谷孟訳「現代語訳日本書紀」を見てみたら、「今新しい難波宮において」と訳している。どうやらこれは従来の全学者が認める「定説」のようだ。このような矛盾した「定説」がまかり通るとは、ほとほとあきれるばかりだ。

 「難波宮≠難波長柄豊碕宮」とする私(たち)には何の矛盾もない。「新しき宮」とは、前年遷宮した難波長柄豊碕宮のことである。(ただし、この私の説は留保つきである。「大化改新」全体が本来の大化期からの盗用だとすると、「新しき宮」は藤原宮ということになる。正木さんはそのように扱っている。「孝徳紀」は実に厄介なのだ。)

646(命長7 大化2)年9月
是の月に、天皇、蝦蟇行宮(かはづのかりみや)に御(おはしま)す。〈或本に云はく、離宮といふ。〉

 位置不詳の行宮。「還る」記事がない。まさかずっとここで政治を執っていたわけではないだろうが、「孝徳紀」全体を信用すると、そういうことになる。

647(常色元 大化3)年
 是歳、小郡(をごほり)を壊(こほ)ちて宮營(つく)る。天皇、小郡宮に處(おは)して、禮法(ゐやののり)を定めたまふ。其の制に曰はく、「凡そ位有(たも)ちあらむ者は、要(かなら)ず寅の時に、南門の外に、左右羅列(つらな)りて、日の初めて出づるときを候(うかが)ひて、庭(おほば)に就きて再拝(をが)みて、乃ち廳(まつりごとどの)に侍れ。若し晩(おそ)く參(まうこ)む者は、入(まゐ)りて侍ること得(え)ざれ。午の時に到るに臨みて、鍾(かね)を聴きて罷(まか)れ。其の鍾擊(つ)かむ吏(つかさ)は、赤の巾(ちぎり)を前に垂れよ。其の鍾の臺(かけもの)は、中庭(おほば)に起てよ」といふ。

 官僚の出廷・退廷の礼法を定めている。ここにでてくる小郡宮について岩波の頭注は次のように述べている。

「(小郡は)地名ではなくて朝廷の迎賓などの施設の名であろう。摂津志に「西成郡、上古難波小郡。日羅墓在大阪天満同心町」とある。今の大阪市の中心部で上町台地の西側。同じく東生郡に大郡があり、筑紫にも大郡・小郡があった。」

 迎賓館程度の施設で、詔まで発してこのような仰々しい礼法が決められたのだろうか。この小郡宮については正木さんの論評を紹介しよう。なお、筑紫の大郡・小郡は「天武紀」・「持統紀」に出てくる。それぞれ「筑紫の大郡」・「筑紫の小郡」と書いてあり、まぎれようがない。ちなみに、岩波大系では全ての大郡・小郡を迎賓館扱いしている。

 『岩波注』は、小郡宮は「難波小郡」とし、「朝廷の迎賓などの施設の名であろう」とする。しかし、有位の官僚に「南門外に羅列、庭で再拝し参内、鐘に合せて入退庁せよ」と記すのは、小郡宮が迎賓施設などではなく、正規の殿舎・庁舎である事を示すものだ。

 「難波小郡」は難波宮跡のある大阪上町台地の西半とされるが、前期難波宮の造宮直前に、そうした規模の宮を近接した場所に造ったとは考え難いし、また遺跡も発見されていない。

 一方、「書紀』には「筑紫小郡」の存在が記され、考古学的にも、筑紫小郡(福岡県小郡市)には、多数の国衙・官衙等の遺跡が出土する。

 特に、旧御原郡の井上地区に井上廃寺・井上薬師堂遺跡等の大規模遺跡がある。とりわけ同地区の上岩田遺跡では、大規模基壇を伴う瓦茸き建物、同一方向の大型建物群とそれを囲む柵列が確認され、単なる官衙(証衙)とは考え難い。時代は7世紀の中、後半時代で、小郡宮造宮を大化3年(647)とする『書紀』の記述と致する。

 これは、『書紀』の新宮記事は九州王朝の事績の盗用てあり、難波遷都以前の宮、即ち権力中枢の所在地が筑紫だった事を示すものだ。

 「定説」は「諸宮」の中で初めての宮殿らしい宮(小郡宮)は難波に造られたとするが、それはなんの根拠のない希望的推測にすぎなかった。残念ながら小郡宮は筑紫の小郡にあった。

647(常色元 大化3)年
 冬十月の甲寅の朔甲子に、天皇、有間温湯(ありまのゆ)に幸(おはしま)す。左右大臣・群卿大夫、従(おほみとも)なり。

 十二月の晦に、天皇、温湯より還りまして、武庫(むこ)行宮に停(とど)まりたまふ。〈武庫は、地名也。〉


 温泉旅行の帰りに立ち寄った行宮であり、ここも政務をとるような場所ではない。この後、何処に還ったのか記録はないが、孝徳は「難波碕宮」に現れる。

648(常色2 大化4)年)正月1日
 賀正(みかどをがみ)す。是の夕に、天皇、難波碕宮に幸(おはしま)す。

 この難波碕宮についての岩波の頭注は
「集解に崎の上に豊を補う。→279頁注26」
と書いている。集解とは江戸時代の学者・河村秀根の注釈書「書紀集解」のことである。参照を指定している「279頁注26」とは、前回掲載した頭注「白雉2年12月、造営ほぼ終わって遷都するまで難波の諸宮を宮とする」のことである。つまり「定説」は集解の説を正しいと認めて、「難波碕宮」とは難波長柄豊碕宮のことだと言っていることになる。なーんだ、結局、難波長柄豊碕宮にたどり着いてしまったではないか。だけどまだ難波宮は完成していないよ。「先ず難波に都造らむと欲ふ」はこの翌年のことでした。

 以上、「難波宮=難波長柄豊碕宮」を疑わない「定説」自身が、はからずも「難波宮≠難波長柄豊碕宮」という結論を随所に振りまいているのだった。そして不思議なことに、従来の学者たちは誰一人としてそのことに疑問を持つことなく、不問に付して今に至っている。学者って、何だろう?
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(101)

「天武紀・持統紀」(17)


前期難波京の謎(6)
「難波宮=難波長柄豊碕宮」か?(1)


 「孝徳紀」のほとんどの記事は九州王朝の史書からの盗用のようだ。そうだとすれば、それらの記事が語っている事の背景を知るために、本来の九州王朝の年号が役立つと思われる。本来の九州年号が必要になるかどうかは分からないが、これより年数表現を「西暦(九州年号 『日本書紀』の年号))月日」と、九州年号を主体に書くことにする。

さて、前回掲載した651(常色5 白雉2)年12月条について、次のように書いた。

 この条を先入観なしに読めば、難波宮は味経宮と呼ばれていた。「難波京は九州王朝の副都」という古賀説が正しいとすれば、九州王朝では難波宮を味経宮と呼んでいたことになる。『日本書紀』編纂者はここで「味経宮=難波長柄豊碕宮」と見せかけるための造作を盛り込んだ。

 このことを詳しく吟味して見よう。まず、難波長柄豊碕宮は前期難波宮とは別ものであるという古賀説を紹介する。(『洛外洛中日記 第268話(2010/06/19)「難波宮と難波長柄豊崎宮」』)


 第163話「前期難波宮の名称」で言及しましたように、『日本書紀』に記された孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は前期難波宮ではなく、前期難波宮は九州王朝の副都とする私の仮説から見ると、それでは孝徳天皇の難波長柄豊碕宮はどこにあったのかという問題が残っていました。ところが、この問題を解明できそうな現地伝承を最近見いだしました。

 それは前期難波宮(大阪市中央区)の北方の淀川沿いにある豊崎神社(大阪市北区豊崎)の創建伝承です。『稿本長柄郷土誌』(戸田繁次著、1994)によれば、この豊崎神社は孝徳天皇を祭神として、正暦年間(990-994)に難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが始まりと伝えています。

 正暦年間といえば聖武天皇が造営した後期難波宮が廃止された延暦12年(793年、『類従三代格』3月9日官符)から二百年しか経っていませんから、当時既に聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地)が忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別と考えられていたのではないでしょうか。その上で、北区の豊崎が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されていたからこそ、その地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を主祭神として祀ったものと考えざるを得ないのです。

 その証拠に、『続日本紀』では「難波宮」と一貫して表記されており、難波長柄豊碕宮とはされていません。すなわち、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の跡地に聖武天皇は難波宮を作ったとは述べていないのです。前期難波宮の跡に後期難波宮が造営されていたという考古学の発掘調査結果を知っている現在のわたしたちは、『続日本紀』の表記事実のもつ意味に気づかずにきたようです。

 その点、10世紀末の難波の人々の方が、難波長柄豊碕宮は長柄の豊崎にあったという事実を地名との一致からも素直に信じていたのです。ちなみに、豊崎神社のある「豊崎」の東側に「長柄」地名が現存していますから、この付近に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったと、とりあえず推定しておいても良いのではないでしょうか。今後の考古学的調査が待たれます。

また、九州王朝の副都前期難波宮が上町台地北端の高台に位置し、近畿天皇家の孝徳の宮殿が淀川沿いの低湿地にあったとすれば、両者の政治的立場を良く表していることにもなり、この点も興味深く感じられます。

 古賀さんは、考古学的裏付けがないということで断定をしていないが、私はこの仮説は相当信憑性があると思っている。以下、この仮説を『日本書紀』の記述から検討してみよう。なお、参考に古代の難波地区の地図を掲載しておく。難波宮―長柄間の距離は4~5㎞ぐらいだろうか。かなり近い。

古代の難波地図 (教科書②からの転載)

 さて、味経宮の初出は650(常色4 白雉元)年正月条である。これと前回掲載した651(常色5 白雉2)年12月条と、二回だけ記録されている。また、難波長柄豊碕宮の初出は645(命長6 大化元)年12月条で、こちらも651(常色5 白雉2)年12月条と、二回だけの記録である。三つの記事を順に追ってみよう。

645(命長6 大化元)年12月9日
冬十二月乙未の朔癸卯、天皇、都を難波長柄豐碕に遷す。老人(おきな)等、相謂(あいかた)りて曰はく、「春より夏に至るまでに、鼠の難波に向(ゆ)きしは、都を遷す兆(しるし)なりけり」といふ。

 どう読んだって「遷都した」という記事だ。しかしながら「定説」はこの遷都記事を「実際に遷都したのではなく、遷都予告をした」記事だと解釈している。そして実際に遷都したのは651(常色5白雉2)年12月だと言うわけだ。もしこの解釈が正しいとすると、遷都予告から遷都まで、まる6年かかっている。藤原京や平城京の造営期間と比べて長すぎる。不自然だ。

 また、「先ず難波に都造らむと欲ふ」と言う「天武紀」683(天武12)年12月条を34年遡上させた復元が正しいとすれば、一度遷都予告をしてから4年も経ってから、「先ず難波に都造らむと欲ふ」と再度遷都予告をしたことになる。その4年間なにもせずにただ手をこまねいていたのだろうか。文字通り、なんとも間の抜けた話だ。

 「孝徳紀」ではよく予兆鼠が走る。全部で3回走っている。2回目は大化3年是歳条。越国で「渟足(ぬたり)の柵(き)」を造ったとき、『老人等、相謂(あいかた)りて曰はく、「数年(あまたのとし)鼠東向きて行くは、此、柵造る兆か」といふ』。

 3回目は孝徳の死後皇太子(中大兄)と皇極(斉明)が「倭河辺行宮に遷宮」したときで
老者(おいひと)語りて曰はく、「鼠の倭の都に向ひしは、都を遷す兆なり」といふ。

 3記事ともまったくステレオタイプな記事である。ちゃかすわけではないが、後の2回は、さずが「定説」も、鼠は「造柵予告」や「遷都予告」の予兆で走ったのだ、とは主張していない。どういうわけか、645年の鼠だけは「遷都予告」を予兆して走ったと言う。一貫性がない。

 また、「定説」が正しいとして、それでは遷都予告からめでたく遷都するまでの6年間、孝徳は何処にいたのだろうか。岩波の頭注は言う。
「白雉2年12月、造営ほぼ終わって遷都するまで難波の諸宮を宮とする」。

 難波宮以前に新たに宮殿造営記事はないなら、その「諸宮」は行宮程度のものだろう。その仮住まいを転々と替えてながら政治をしていたというのだ。私にはこんな説明には全く同意できない。

 なぜ「定説」は上のような無理な解釈をするのだろうか。理由ははっきりしている。651(常色5白雉2)年12月条の味経新宮への遷都記事で、『日本書紀』編纂者がその新宮を「號けて難波長柄豊碕宮と曰ふ」と書き添えたときの意図どおりに、「難波宮=難波長柄豊碕宮」を信じさせられたからだ。そのため、645(命長6 大化元)年12月9日の記事を「遷都予告」記事と解釈せざるを得なくなってしまった。

 だいたい、難波宮とは別の所に長柄・豊崎という地名が残っているというのに、「難波宮=難波長柄豊碕宮」を疑わない学者たちを私は理解できない。645(命長6 大化元)年12月9日の記事は、孝徳が難波長柄豊碕宮に遷宮したというヤマト王権本来の事績を述べているものと、文字通りに受け取るべきだ。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(100)

「天武紀・持統紀」(16)


前期難波京の謎(5)
 前期難波宮の造営時期(4)


 難波京は羅城に取り囲まれた坊条都市である。その宮殿も荘厳に満ちたものであったと思われる。教科書③は難波宮の構造面での卓越さを次のように簡潔にまとめている。

 これまでに述べた前期難波宮の構造は、基本的には『紀』から復元される推古朝の小墾田宮(おはりだのみや)の構造を継承するものではあるが、内裏が前殿地区と後殿地区に分化すること、巨大な内裏南門の東西に八角殿院を配すること、「朝登院」の規模がきわめて大きく、広大な朝庭と多数の庁(朝堂)をもつこと、近辺の倉庫群とあわせて内延と外延の機能が一つの区画内に集約されていることなど、前期難波宮は従来の飛鳥諸宮に比し隔絶した規模と一段と整備された構造をもつ画期的な宮室であったことがうかがえる。

 さて、「定説」はこの豪壮な難波京を、683(天武12)年12月17日条を根拠に、天武大王の副都だったとしている。

672(天武元)年9月
 癸卯(みづのとのうのひ 15日)、嶋宮より岡本宮に移りたまふ。
 是の歳、宮室を岡本宮の南に榮(つく)る。即冬(そのふゆ)に、遷りて居(おは)します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。


 近江勢の大臣たちを処刑して壬申の乱が終わったのは「是の歳」の8月25日。その後すぐに着工したとして、飛鳥浄御原宮は4ヶ月たらずで完成している。全部が完成してなかったとしても、遷宮出来る程度にはできあがっていた。この、「京」ではなく、単なる「宮」にすぎない飛鳥浄御原宮が首都で、難波京が副都だと主張しているのだ。この事実に、従来の学者たちは誰一人として疑問をもたなかったのだろうか。

 683(天武12)年12月17日条を疑うべきなのだ。そう、この記事も34年遡上させてもみよう。「683-34=649」。「孝徳紀」の大化5年である(『日本書紀』の盗用手法にならって、日付は直近の同じ干支の日を選んだ)。翌年(白雉元年)以降の京師造営関係記事をつなげて元記事を復元してみよう。ピッタリとおさまるに違いない。

649(大化5)年11月28日←683(天武12)年12月17日
 庚午(かのえうまのひ)に・・・又(また)詔して曰く、「凡そ都城(みやこ)・宮室(おおみや)、一處(ひとところ)に非ず、必ず両(ふたところ)参(みところ)造らむ。故、先ず難波に都(みやこ)造らむと欲(おも)ふ。」とのたまふ。

 この条の最後には『「是を以て、百寮の者、各往りて家地を請はれ。」とのたまふ』という文言があった。「造らむと欲ふ」と言ってすぐ、現地へ行って家地を受領してこい」とは変な話だ。これは次の記事からの切り貼りではないだろうか。そのように考えて、復元した。

650(白雉元)年
 冬十月に、宮の地に入れむが為に、丘墓(はか)を壊(やぶ)られたる人及び、遷されたる人には、物賜ふこと各差(しな)有り。即ち将作大匠(たくみのつかさ)荒田井直比羅夫を遣はして、宮の堺標(さかひのしめ)を立つ。又(また)詔して曰く、「是を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地(いへどころ)を請(たま)はれ。」とのたまふ。

 整地が終わって都城の区画を決定したのであろう。官僚たちの敷地も配分された。その1年ほど後に、遷宮できるぐらいには宮殿が完成したようだ。

651(白雉2)年
 冬十二月の晦(つごもり)に、味經宮(あぢふのみや)に、二千一百餘の僧尼を請(ま)せて、一切經讀ましむ。是の夕に、二千七百餘の燈を朝の庭内に燃(とも)して、安宅・土側等の經を讀ましむ。是に、天皇、大郡より、遷りて新宮に居す。號(なづ)けて難波長柄豐碕宮と曰ふ。

 この条を先入観なしに読めば、難波宮は味経宮と呼ばれていた。「難波京は九州王朝の副都」という古賀説が正しいとすれば、九州王朝では難波宮を味経宮と呼んでいたことになる。『日本書紀』編纂者はここで「味経宮=難波長柄豊碕宮」と見せかけるための造作を盛り込んだ。これについては後ほど詳しく吟味しよう。

652(白雉3)年9月
 秋九月、宮造ること巳(すで)に訖(をは)りぬ。其の宮殿の状(かたち)、殫(ことごとく)に論(い)ふべからず。

 約1年前の前条とこの条と、宮殿完成記事が重複しているが、この条の「宮造ること巳に訖りぬ」の意味は、坊条も含めて都城全体が完成したという意味ではないだろうか。完成まで3年ほど掛かったことになる。坊条都市の建設にはこのぐらいの日数が必要だったようだ。近畿王朝の初めての都城・藤原京の場合、宮地選定から遷宮まで約4年、平城京の場合は約3年掛かっている。

 次の図は「殫に論ふべからず」という難波宮の復元予想図である。(クリックすると大きくなります。)

難波宮復元図
(教科書②より転載)

 下の表は宮殿の諸門だけの比較だが、後世の近畿王朝の諸宮殿よりも大きく、抜きん出ていることがわかる。 (クリックすると大きくなります。)

宮殿規模
(教科書③より転載)

 難波宮は「朝登院の規模がきわめて大きく、広大な朝庭」をもつ、まさに「二千一百余の僧尼」が集ったり、「二千七百余の燈」を灯すことができるほどの豪壮な宮殿であった。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(99)

「天武紀・持統紀」(15)


前期難波京の謎(4)
 前期難波宮の造営時期(3)


 「定説」が言う第2期難波宮を検討する上で決定的に重要な事柄がある。難波宮は単なる「宮」ではなく、難波「京」の中の「宮」であったという一点である。つまりそこは坊条制を伴った都城であったかいなかが明らかにされなければならない。

 683(天武12)年12月17日条の詔勅に「凡そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ」という文言がある。つまりここでは坊条制を伴った都城が想定されている。また「各往りて家地を請はれ」という文言も坊条制を前提としていると考えられる。では考古学的にも難波「京」であったことが明らかにされているのだろうか。

 まず、坊条制の存在がはっきりしている後期難波宮の造営の手順について、教科書②は次のようにまとめている。

 後聖武朝になり、神亀3(726)年より 難波宮の再建が始められ、これが一段落すると天平6(734)年9月には京内の宅地の班給が始められている。難波宮の造営とともに京の整備も進められていたと思われる。

 班給された宅地の面積は、三位以上には一町以下、五位以上には半町以下、六位以下には四分の一町以下とされている。

 これをふまえて、前期難波京の造営について次のように述べている。

 このときに宅地の班給が行われているのだから、すでに条坊制の敷地割りをともなう難波京が成立していたと考えられるが、それでは実際にはどのような難波京が施工されていたのであろうか。これまでの研究史を振り返り、近年の調査状況を紹介する。

 難波京の復元は、古地図に残された古道痕跡をもとにした考察から始まった。1888(明治21)年の内務省大阪実測図を検討すると、難波宮の中軸線の南延長線上に「朱雀大路」に相当する古道痕跡が確認できる。この東および西側、とくに四天王寺の東側あたりには、その古道に沿って一辺約265㍍(900尺)もしくはその二分の一の距離の方格地割りが南北に連なって存在していることがわかる。これらの遺存地割りや四天王寺の東門の位置を基準に、900尺の条坊方眼を重ねると、これと一致する道路や橋が随所に確認できる。

 こうした事実に着目し、澤村仁をはじめ複数の研究者より難波京の復元案が示された。その後も多くの研究者によって各種の難波京復元案が示されたが、これらは基本的な条坊街区は一致しており、その差異は京城をどの範囲とするか、施工の時期をいつと考えるかということにかかっている。つまり東西幅を四坊とするか八坊とするか、また南北を何条とし南限をどこにとるかといったことである。

 さらにその計画および施工の時期をいつに求めるか、また前期と後期で京城に変化があるかどうかということであるが、これらは京城の広い範囲に発掘調査がおよぶ以前の考察であり、したがって考古学的な資料の裏付けを欠くという限界があった。

 1980年代になり、文化財保護法の改正を受け、それまでの難波宮跡の範囲内だけでなく広く京城についても発掘調査が行われるようになり、複数の調査区で難波京に関係すると思われる遺構がみつかっている。またこれらの地域の広い範囲は、もともと高低差が大きく開析谷が複雑に入り込む地形であったが、場所によってこれが盛土・整地されていく過程がある程度明らかになってきた。

 資料は断片的であり、明らかに条坊制を示すと思われる遺構は検出されていないなど限界は多いが、これらを紹介し難波京復元の一資料とした。

 下の図の「○」印が前期難波京の遺構が検出された箇所である。教科書②の説明読んでみよう。

難波京


 7世紀中頃から末期にかけて、真東西・南北の方向性をもつ遺構が出現する。上町台地北半部では、難波宮南側(⑦、⑧、⑲、⑬)、難波宮北西側(③)、難波宮東南側(⑫)などで検出されている。

 調査地⑦では東西方向の塀(あるいは建物か)と三基の鍛冶炉が見つかっており、周囲から羽口・鉱滓・砥石などが出土している。鍛冶工房があったと思われる。

 調査地⑧では7世紀中頃の掘立柱形式の建物および塀が検出されている。真東西の方向性をもつ。その南側の調査地⑲では多数の掘立柱建物が検出されているが、7世紀前半以前のものが統一性のない自由な方向であるのに対して、7世紀中頃のものは真東西・南北の方向性が中心となり、また柱穴も大規模なものとなる。この北東部でも後年調査が行われたが、ほとんど同様の結果が得られている。

 調査地⑫では七世紀末期までに真東西方向の溝および道路状遺構がつくられている。調査地⑲では七世紀中頃の南北溝二条が検出されている。また調査地③では7世紀後半の真東西・南北方向の掘立柱建物二棟が検出されている。

 四天王寺東門(⑱)は白鳳期に現在の位置に創建されたことが報告されているが、この位置は遺存地割りから推定される条坊区画と合致する位置にある。

 また調査地⑨では、この時期に斜めの方向をもっていた遺構が大規模に埋め立てられており、朱雀大路隣接地の調査地⑭でも、7世紀末に斜め方向の柵列が撤去され、その後8世紀初頭までの間に南側の谷地形が埋め立てられ整地されている。

 一方、調査地⑪では斜めの道路遺構が7世紀後半まで残り、また四天王寺北隣接地の調査地⑯でも7世紀末期頃に埋められた斜めの溝が検出されている。これは北で約10度東に振る方位であり、上町台地の尾根筋の方位に一致しているが、四天王寺のすぐ北側でも、この時期まで斜行地割りが残っていたということである。

 状況証拠は十分に揃ったと思うが、植木氏(教科書②の著者)はなお慎重だ。

 以上のように、難波京の条坊遺構については明確にこれと判断できるものは少ないものの、難波宮の周辺部では、正方位をとる遺構は早くは七世紀中頃に出現することが確認できた(⑧、⑲など)。またこの時期に難波宮の南側で、斜めの方向性をもつ遺構が埋めたてられ、整地されている箇所も確認されている(⑨)。これらは条坊制施工の可能性があるものの、前期難波宮の造営と同時にその周辺部もあわせて整備され、これと方位を揃えた敷地割りがなされたもので、条坊制の施 工とは異なるものである可能性があり、即断はできない。

 しかし、私は難波京が坊条制をともなった都城であったことを、もう疑えない。言い落としていたが、579(天武8)年11月条の「難波に羅城を築く」という文言もそのことの文献上の証拠の一つである。同時代の中国・朝鮮の坊条都城は強固な羅城(城壁)で防御されていた。

 ただし、藤原京以後の都城、つまり近畿王朝の都城の場合の羅城は南面の羅城門の両翼だけであり、他の部分は簡単な土塁と溝が設けられていただけだという。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(98)

「天武紀・持統紀」(14)


前期難波京の謎(3)
 前期難波宮の造営時期(2)


 「定説」(岩波の補注)は難波宮造営を4時期に区別している。
第1期 前期難波宮
第2期 天武が改造した難波宮
    (朱鳥元年焼失)
第3期 その後再興された難波宮
第4期 後期難波宮

 第2期を設ける論拠は683(天武12)年12月17日条の「先ず難波に都造らむと欲ふ」である。ただ欲しただけで、「実行した」記事はない。考古学的に「改造」が示されない限り、単なるご都合的解釈に過ぎない。

 第3期にいたっては文献上にも全く論拠はない。強いて挙げれば、持統・文武・元正・聖武に難波宮関連記事があるからということなのだろう。しかし「再興」したという記事はない。この第3期設定も、考古学的に「再興」が示されない限り、単なるご都合的解釈に過ぎない。

 まず、第3期の設定が妥当であるかどうか、検討してみよう。そのために前期難波宮の復元図を掲載しておこう。

難波宮平面図
(教科書②より転載)

 686(朱鳥元)年正月の記事によると、前期難波宮は大蔵(省)から失火して宮室は全焼した。このことは、遺構に焼土や炭化物が混入しているという発掘調査からも認められる。また発掘調査では焼け残った施設を次のように記録している。教科書②から引用する。

 前期難波宮の殿舎は、朱鳥元(686)年正月、大蔵(省)からの出火により全焼した。発掘調査により検出された遺構に焼土や炭化物が混入していることから、火災の状況をうかがい知ることができる。ただその後、『日本書紀』(原文では『続日本紀』となっているが、明らかなミスなので訂正して掲載する)持統6(692)年には、難波大蔵の鍬を与えたとの記事がみられることから、焼け残った殿舎もあった可能性がある。先に見た内裏西方官衙遺跡(倉庫群)のうち、北側の特殊な構造の並び倉は焼けた痕跡はみられなかったため、その後も存続していた可能性がある。

 発掘調査から分かった焼け残った倉庫群は、おそらく、朱鳥元年条が焼け残ったと記録している「兵庫職」なのだろう。あるいは「兵庫職」以外にも焼け残った施設があったということだろうか。いずれにしても宮室は全焼している。では文武天皇や元正天皇が行幸したと『続日本紀』が記録している難波宮とはどのようなものだったのだろうか。教科書②では次のように推測している。

 難波には小郡宮をはじめいくつかの官衙施設もあったためこれらが宿泊所とされた可能性はあろうが、難波官自体もこれらの行幸に対応できる状態には整備されていた可能性もある。


 文献的にも考古学的にも「再興」の痕跡はないのだから、これが妥当な判断と言えよう。また、文武や元正の難波行幸の目的が記録されていないことを先に指摘したが、その目的を教科書③は次のような説を紹介している。

 なお、飛鳥・奈良時代の歴代天皇は難波に行幸をくり返しでいるが、その際注目されるのは、即位の2年または3年後に難波に行幸している場合が複数あることである。とくに文武天皇、元正天皇、聖武天皇はこれにあたるが、これらの行幸はいずれも大嘗祭の翌年であることから、天皇の即位儀式のうちの八十島祭を行うためではないかとの意見がある。八十島祭とは難波津に壇を設けて神琴の音にあわせ天皇の衣装を振り、その後、禊を行い国土の統治者としての宗教的資格を得るというものであるが、難波宮はその際の準備施設としての意味があったのではないかと考えられている。

 私には「八十島祭」というのは初めて聞く祭儀だが、納得のいく説である。当時の宮廷人にとっては自明の行事であり、難波行幸の目的はことさら記録する必要がなかったのだろう。また、この祭儀のための準備施設ということなら、焼失後の難波跡に創られた施設は行宮程度のものであった。記録するほどの工事ではなかった。難波宮跡の造営記事が『日本書紀』にも『続日本紀』にも無いことが納得できる。

 以上より、難波宮を「再興」したという第3期を設けるのは妥当ではない。

 ところで、692(持統6)年条の「難波大蔵の鍬を与えた」という記事について、これはおかしいと私は思っている。難波宮が八十島祭の準備施設程度なら、そこに大蔵を再興するはずもないだろう。つまり、持統6年当時には出火元だった大蔵は存在していない。ではこの記事はどう考えればよいのだろうか。

 34年遡上させてみよう。「692-34=658」。斉明4年である。『日本書紀』の盗用では干支付きの記事は干支を変えずに盗用しているので、それから元記事の日付の特定してみよう。持統6年4月21日は「丙辰」。斉明4年4月4日が「丙辰」だ。
 斉明記事には難波宮関係記事が二つあった。両方とも九州王朝の史書からの盗用記事である。658年はその二つの記事の間に入る。次のようである。

(1)
655(斉明元)年7月11日の蝦夷饗応記事
「難波の朝にして、・・・饗たまふ」。

(2)
658(斉明4)年4月4日←692年(持統6)年4月21日
「有位、親王より以下、進廣肆に至るまでに、難波の大蔵の鍫賜うこと、各差有り。」

(3)
660(斉明6)年12月24日の筑紫派遣軍準備記事
「天皇難波宮に幸す。・・・」

 三つの記事に関連性はないが、今まで見てきた「天武紀・持統紀」の盗用法則からは上のようになる。

 (2)には「進広肆」という位階が書かれている。これは天武14年に定められた位階のうちの最下位の位階である。つまり(2)は全ての王族・官僚に鍬を与えたと言っている。一人あたり1本の鍬を与えたとしても相当な数である。鉄は貴重品だ。鉄製の鍬は労働を軽減し田畑からの収穫を豊かにする。だからこそ鍬を下賜品目として与える価値がある。その貴重な鉄製鍬の大盤振る舞い。本当かな、と思いたくなる。「進広肆にに至るまで」という文言があるためそのような疑問が出てくる。この記事を「持統紀」に持ち込むためには、その時期の位階なら「進広肆」以外でもよかったが、そのために起こる不可解さにもかかわらず、『日本書紀』編纂者はともかく「進広肆」を挿入することによって「持統紀」の記事らしくした。このように考えるのは不当だろうか。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(97)

「天武紀・持統紀」(13)


前期難波京の謎(2)
 前期難波宮の造営時期(1)


 以下の書物を教科書とします。 ①山根徳太郎著『難波の宮』(学生社 2002年)
②植木久著『日本の遺跡37 難波宮跡』(同成社 2009年)
③『岩波講座日本通史第3巻』(1994年)所収、中野芳治論文「難波宮」

 難波宮跡の発掘調査は1954年から行われている。第9次発掘(1959年)のときに、それまでの聖武天皇造営の難波宮の跡とされていた遺構とは異質の遺構(回廊)が発見された。①から引用する。

 新しく発見された回廊の遺構について、いまその特徴を列挙すれば次ぎの諸点が考えられるであろう。

(1) 時間的に一連をなすと思われる回廊遺構が、第八次発掘地点にも第九次発掘地点にも広範囲に存在していること。
(2) 現在発見されている回廊は、いずれも複廊で、それには門の遺構を伴なっていること。
(3) 聖武天皇難波の宮遺構との複合状態より、さらに時期的にさかのぼる遺構と思われること。
(4) この回廊遺構の各柱間寸尺は、桁行柱間9.6尺(約2m91㎝、梁間6.8尺(約2m6㎝)二間で、従来から発見されている廻廊と比較して、やや小規模の構築になること。
(5) 掘立柱、堀り穴の規模もまた従前のものに比べて、やや小さく、柱穴も直径一尺強であること。
(6) 柱穴および柱の抜穴の埋没土には、たくさんの焼土が含まれていること。
(7) 聖武天皇難波の宮遺構の掘立柱の柱穴および柱の抜穴の埋め土中に、しばしは見られる古瓦の遺存が、この種一時期前の掘立柱の掘穴中にはないこと。
(8) 従前発見した遺瓦中には、罹災の形跡が認められぬこと。
(9) 往古の住居址上に営まれている掘立柱は、その住居址の埋め立てられた上に構築されていること。

 以上の諸点を綜合すると、かつてここ大阪市東区法円坂町を中心として、それに隣擦する地域に、これまで聖武天皇難波の宮址として、われわれが追求してきた遺構に先行する、同じく回廊をともなって非常に広範囲にわたる一大建造物の一群が存在し、しかもその建造物群が、聖武天皇の難波の宮造営以前に、罹災焼失してしまっていたことを知ることができるのである。

 しかもこの地域に見られる広範な整地が、すでに聖武天皇難波の宮造営以前に建造された、これらの一大建造物群の構築よりも先に施行されており、それらの建造物には、瓦は使用されていなかったことが推定されるのである。

 そして、ここに認められる、これら往昔の一大建造物の遺構の規模・構造を考えると、それらはたんなる一個の迎賓館などと考えるべきものでもなく、また前代の宗教的営造物とは違って、宮殿遺構に類するものであることは容易に推測できる。

 とすればこの地域において、聖武天皇の難波の宮造営以前に、どのような、こうした大規模の宮殿建造物群が存在したと考えるべきか。この点に関しては、昭和29年春いらい、難波の宮址の発掘事業を始めていらい、ことにふれて、広く世に訴えつづけてきたことがらである。
 この発見以後、前代の遺跡を前期難波宮、後代のそれを後期難波宮と呼んでいる。前期難波宮が「孝徳紀」が伝える難波長柄豊碕宮であることが「定説」になっているが、これには造営時期をめぐって異論があった。683(天武12)年12月17日条の「先ず難波に都造らむと欲ふ」がその文献上の根拠である。難波長柄豊碕宮は廃墟となって、前期難波宮は天武が新たに造営したものだと言うのだ。また上記発掘報告で明らかなように、前期難波宮は掘立柱建物である。そうした建物の耐用年数、例えば伊勢神宮の式年遷宮が20年であることを、もう一つの大きな根拠としていた。この説に対する反論を③から引用する。


 伊勢神宮の式年遷宮例から掘立柱建物の耐用年数を20年ほどと考え、全面的な造替痕跡のない前期難波宮跡の創建年代は焼失した686年より20年ほどしか遡れず、孝徳朝の難波長柄豊碕宮に比定することはできないとする考えが現在も潜在する。

 しかし、伊勢神宮の式年遷宮の理由を建物の耐用年数や構造的老朽にもとめることの非はすでに指摘されている。事実、天平創建の法隆寺東院回廊や中門などの掘立柱建物が120年にわたって存続した例や、平城宮跡にみられる掘立柱建物の造替が耐用年数ではなく所属組織の改組・改変に伴うものであることを考えると、文献史料と併せて、前期難波宮の遺構が長柄豊碕宮の完成した652年から焼失した686年までの33年間存続したとすることに何の支障もないと思われる。

 この論争は1999年に決着する。②から引用する。

 1999(平成11)年、内裏北西部で行われた発掘調査で「戊申年」の年号を記す木簡が出土した。同時に出土した多数の土器等の年代からこれが西暦648年と断定できることから、前期難波宮の造営時期を7世紀中頃とし、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と考えるべきことが明らかとなった。

 前期難波宮の造営時期は7世紀中頃と決着した。では「定説」は683(天武12)年12月17日条の「先ず難波に都造らむと欲ふ」をどのように解釈しているのだろうか。「定説」の代表として、岩波大系『日本書紀』の補注を読んでみよう。

 仁徳天皇の難波高津宮がこの地方に都がおかれた先例として知られているが、遺跡の上ではまだ実証されていない。先年来、山根徳太郎によって大阪城南方で発掘調査が続行されている大阪市東区法円坂町の宮殿遺跡は、主として掘立柱を用いた建築が重複して痕跡を残したもので、4時期が区別され、第2期の建築のみが火災を受けている事実から、第1期は白雉3年に完成した難波長柄豊碕宮、第2期は天武天皇の時に改造され朱鳥元年正月に焼けた難波宮、第3期はその後再興された難波宮、第4期は神亀3年から天平6年までに改造され、延磨12年に廃止された難波宮に相当すると推定されている。主として第2期の内裏の南半と大極殿あたりの一部、第4期の内裏の南半と大極殿を含む朝堂院の北部などが今までに確かめられた。南北方向の中心線と主要殿舎の位置は動いていないから、内裏の回廊などの規模は変っても、大化以来の伝統はながく守られていたことがわかる。

 「先ず難波に都造らむと欲ふ」は「改造」記事だと、苦しい解釈をしている。この文面をまともに読めば、そんな解釈は成り立たない。この文面だけを論拠にすれば、「前期難波宮は天武が造営した」という解釈の方が正しい。

 では、683(天武12)年12月17日条はどのように解釈すればよいのだろうか。もう一つ問題がある。上の①・②からの引用文で分かるように、ヤマト一元論者は全員「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」を自明の前提にしているようだ。(全部調べたわけではないので「ようだ」と言っておく)。前にもちょっと触れたように私(たち)の立場では「前期難波宮≠難波長柄豊碕宮」である。この問題も改めて詳しく取り上げることになろう。次回はまず「683(天武12)年12月17日条」問題を取り上げることにする。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(96)

「天武紀・持統紀」(12)


前期難波京の謎(1)
 『日本書紀』の難波宮


 後期難波京(宮)とともに扱う場合を除いて、前期難波京(宮)を単に難波京(宮)と書くことにする。

 難波京は孝徳が造営し、その孝徳は難波宮で亡くなったことになっている。「孝徳紀」の難波京については、後ほど詳しく取り上げることになるだろう。

 孝徳を継いで王位に就いた斉明は655(斉明元)年に飛鳥板蓋宮で即位している。その年の冬に飛鳥板蓋宮は焼失する。斉明は飛鳥川原宮に遷った。その翌年、飛鳥岡本に新宮を建て、そこ(後飛鳥岡本宮)に遷る。その年に「岡本宮に災(ひつ)けり」とあるが、今度は火災があったけど宮は焼失しなかったようだ。その後に遷宮記事はない。斉明はその後は後岡本宮を宮居としていた。だからこそ『続日本紀』や『万葉集』では「後岡本宮御宇天皇」と呼ばれている。

 では難波宮はどうなったのだろうか。

 斉明紀には難波宮が2回出てくる。第1回目は『「持統紀」の蝦夷朝貢記事(1)』で掲載した655(斉明元)年7月11日の蝦夷饗応記事である。
「難波の朝にして、・・・饗たまふ」。

 2回目は660(斉明6)年12月24日の筑紫派遣軍の準備記事である。
天皇難波宮に幸(おはしま)す。天皇、方(まさ)に福信が乞(まう)す意(こころ)に随ひて、筑紫に幸して、救軍(すくひのいくさ)を遣(や)らむと思ひて、初(ま)づ斯(ここ)に幸して、諸(もろもろ)の軍器(つはもの)を備ふ。

 このあと「天智紀」には難波宮はまったく現れない。そして筑紫派遣軍の準備記事の19年後、「天武紀」に忽然と現れる。

579(天武8)年11月
是の月に、初めて關を龍田山・大坂山に置く。仍りて難波に羅城を築く。

 「天武紀」にはあと2回出てくる。

683(天武12)年12月17日
 庚午(かのえうまのひ)に・・・又(また)詔して曰く、「凡そ都城(みやこ)・宮室(おおみや)、一處(ひとところ)に非ず、必ず両(ふたところ)参(みところ)造らむ。故、先ず難波に都(みやこ)造らむと欲(おも)ふ。是を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地(いへどころ)を請(たま)はれ。」とのたまふ。

686(朱鳥元)年正月14日
 酉の時に、難波の大蔵省(おほくらのつかさ)に失火(みづながれ)して、宮室悉(ことごとく)に焚(や)けぬ。或(あるひと)曰はく、「阿斗連藥が家の失火、引(ほびこ)りて、宮室に及べり」といふ。唯し兵庫職(つはもののつかさ)にみは焚けず。

 このあと「持統紀」には2回出てくるが、難波「宮」と言う表記はない。

692年(持統6)年4月21日
 有位(くらいあるひと)、親王(みこ)より以下、進廣肆に至るまでに、難波の大蔵の鍫(すき)賜うこと、各差(おのおのしな)有り。

692(持統6)年11月11日
 新羅の朴憶徳に難波館(なにわのむろつみ)に饗禄(あへ)たまふ。

 聖武天皇が前期難波宮跡に後期難波宮(744年に遷都)を造営するまで、前期難波宮は行宮あるいは外国使節の接待所として使われていたようだ。『続日本紀』の難波宮関係記事も調べてみた。

 難波宮の『続日本紀』での初出は699(文武3)年正月27日である。ただ
「是の日に、難波宮に幸す」
と書かれているだけである。そして2月22日には帰還している。何のための行幸か分からない。次は703(大宝3)年閏4月1日で「新羅の客を難波館で饗たまふ。」 とある。文武天皇はもう一回、706(慶雲3)年9月25日~10月12日に難波に行幸している。

 次は元正天皇で、717(養老元)年22月11日~2月15日に一回だけ行幸している。

 この後はずっととんで聖武天皇である。725(神亀2)10月10日~726(神亀3)10月19日の約1年間、難波宮で政務を執っている。そして10月26日に藤原宇合(うまかい)を知造難波宮事(難波宮造営の長官)に任命している。後期難波京の造営が始まる。

 以上、『日本書紀』・『続日本紀』に記録されている難波京関係記事を並べてみたが、いくつもの疑念が浮かんでくる。幸いなことに、難波京跡は相当に詳しく発掘調査されている。文献上の疑問点を検討するために、難波京の考古学的事実をも調べておこう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(95)

「天武紀・持統紀」(11)


「朱鳥」改元の謎(2)


 九州年号「朱鳥」の本来の位置686年をずらすことなく盗用したため、それは『日本書紀』年では天武の死去の年という不自然な位置に置かれることになった。これも決して書紀編纂者のうっかりミスではなく、そうせざるを得ない政治的理由があったためである。その理由とは何か。古賀さんは、前回掲載した朱鳥改元記事の前日の「徳政令」記事に注目している。

686(朱鳥元)年7月19日
 詔して曰はく、「天下(あめのした)の百姓(おほみたから)の貧乏(まず)しきに由りて、稲と資材とを貸(いら)へし者は、乙酉(きのとのとり)の年の十二月三十日より以前(さき)は、公私(おほやけわたくし)と問(い)はず、皆免原(ゆる)せ」とのたまふ。

 上の文中の「乙酉の年」とは前年の685(天武14)年を指している。つまり上の詔勅は「685年以前に貸した財物の返済を免除せよ」と貸し方に命じている。そしてその翌日に朱鳥改元が行われた。しかもこの翌年に、上の徳政令に続いて次のような詔勅が出されている。

687(持統元)年7月2日
 詔して曰はく、「凡(おほよそ)そ負債者(もののかいほへるもの)、乙酉年より以前(さき)の物は、利(このしろ)収(と)ること莫(まな)。若し既に身を役(つか)へらば、利に役ふこと得ざれ」とのたまふ。

 今度の詔勅は「利息も免除せよ」「借財を労働で償う場合も、利息分まで働かせてはならない」と命じている。こうした一連の徳政令でが出された背景には、まず白村江での倭軍の壊滅的敗北がある。参戦した国々の経済的・人的損害は計り知れない。672(天武元)年5月に戦勝国唐へ莫大な「戦後賠償」が支払われているが、その負担も相当重かったに違いない。そのような状況の中、それに追い打ちをかけるように、678(天武7)年12月、九州王朝の中枢地・筑紫を大地震が襲っていた。

672(天武元)年5月
12日
 甲冑弓矢を以て、郭務悰に賜ふ。是の日、郭務悰等に賜ふ物は、総合(すべ)て絁千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。
30日
 郭務悰等罷(まか)り歸りぬ。

678(天武7)年12月
 是の月に、筑紫國、大きに地動(ないふ)る。地(つち)裂くること廣さ二丈、長さ三千餘丈。百姓の舎屋(やかず)、村毎に多く仆(たふ)れ壊(やぶ)れたり。是の時に、百姓の一家(あるいへ)、岡の上に有り。地動る夕(よひ)に當りて、岡崩れて處(ところ)遷(うつ)れり。然れども家即に全(また)くして、破壊(やぶ)るること無し。家の人、岡の崩れて家の避(さ)れることを知らず。但し會明(あけぼの)の後に、知りて大きに驚く。

 この大地震について、岩波の頭注は『豊後國風土記』の日田郡五馬山条の記事を紹介している。

 飛鳥浄御原宮に御宇しめしし天皇の御世、戊寅の年に、大きに地震有りて、山崗裂け崩れり。此の山の一つの峡、崩れ落ちて、慍(いか)れる湯の泉、處々より出でき。

 重なる人災・天災で窮状にあえいでいた豪族や人民を救うため、一連の徳政令が出された。では、なぜ近畿王朝は『日本書紀』に朱鳥元年だけという年号の記録を残したのだろうか。古賀さんの論考を読んでみよう。

 この天武7年12月条に記された筑紫大地震の痕跡として、高良山のある水縄山地の北側を東西に走る水縄活断層系が知られている。その活断層は曲水の宴遺構が出土した筑後国府跡のすぐ南側100メートルに比高差10メートルの崖として露出しており、その地震により「筑後国府」は大打撃を受けている。

 このような九州王朝中枢地域に発生した直下型大地震により、九州王朝の疲弊は極に達したものと思われる。そして、その8年後の朱鳥元年に「徳政令」が施行されたのである。敗戦後経済の疲弊と地震による被害を被った筑紫の豪族・人民にとって、この「徳政令」は歓迎されたのではあるまいか。と同時に、債権者からは怨嗟の的であったことも十分想像しうるのである。

 古田武彦氏によれば、この「朱鳥の徳政令」は九州王朝側が公布したものとされる。状況から判断しても頷ける見解である。他方、白村江戦に直接加わらず、戦力を温存した近畿天皇家側から見れば、おそらく債権者として「朱鳥の徳政令」に反発し、九州王朝を滅ぼす決断をしたのではあるまいか。

 ところが、701年以後、列島の代表者として名実共に唐からも認知された新しき権力者、近畿天皇家にとって、自らの権力基盤を確かなものとするため、九州王朝影響下の豪族たちへの懐柔策として、「朱鳥の徳政令」を新王朝としても公式に追認するという政治的判断を行った。そのため、自らの新しき史書『日本書紀』に朱鳥元年条の「徳政令」記事を記すことにより、天下に周知させた、そのように思われるのである。

 『日本書紀』が成立した養老4年(720)から34年も昔の「徳政令」を追認しなければならなかった新王朝の政権基盤は、未だ必ずしも盤石ではなかったことがうかがわれるのであるが、九州王朝の影響を払拭するため、近畿天皇家はその後も様々な対応をせまられたようである。たとえば先に紹介した『続日本紀』神亀元年条(724)に見える聖武天皇による詔報も、その一例と思われる。

「詔し報へて曰はく、『白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、仍て公験を給へ』とのたまふ。」
『続日本紀』神亀元年冬十月条(724)

 白鳳・朱雀という九州年号が近畿天皇家の詔中に現れる貴重な記事であるが、九州王朝時代の僧尼の名籍と実際とが一致しないため、新たに名籍を定めて運用するようにとの、聖武天皇自らの判断が示されている。このように、新王朝が旧王朝からの「行政」の継続に苦心している様子がうかがえるのである。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(94)

「天武紀・持統紀」(10)


「朱鳥」改元の謎(1)


(昨日、アクセス数40万を突破しました。カウントを始めたのは2006年1月30日でした。こんなに多くの人が訪ねてくれるとは思いも及ばなかった。また最近は新しい記事をアップロードすると、すぐに「拍手」をしてくれる方がおります。まだまだ続けるぞ、という思いが湧いてきます。ありがとうございます。)

 『偽装「大化の改新」(2)』で、私は
「九州年号と比べて「白雉」は2年ずれている。また「朱鳥」は1年だけで終わっている。この二つのちょっとした手違いのような違いに対して、大化はどうだろう。50年もずれている。同じ盗用でもここには大きな意図があるようだ。」
と書いた。しかし、「34年遡上盗用」で明らかになったように「白雉」盗用は手違いなどではなかった。明確な意図を持ち、周到な手法を用いての盗用であった。ここで改めて「孝徳紀」にペッタリと貼り付けられた「大化」と「白雉」に対する、九州年号と『日本書紀』年号との対応表を記録しておこう。

大化(孝徳1年~孝徳5年)
(古賀達也さんの論文「最後の九州年号
―「大長」年号の史料批判」によると、
九州年号「大化」は9年間続いている。)

695 持統 9 大化 1 →50年遡上→ 645 大化 1 命長 6
696 持統10 大化 2 →     → 646 大化 2 命長 7
697 文武 1 大化 3 →     → 647 大化 3 常色 1
698 文武 2 大化 4 →     → 648 大化 4 常色 2
699 文武 3 大化 5 →     → 649 大化 5 常色 3


白雉(孝徳6年~孝徳10年)
(九州年号「白雉」は9年間続いている。)

684 天武13 朱雀 1 →34年遡上→ 650 白雉 1 常色 4
685 天武14 朱雀 2 →     → 651 白雉 2 常色 5
686 朱鳥 1 朱鳥 1 →     → 652 白雉 3 白雉 1
687 持統 1 朱鳥 2 →     → 653 白雉 4 白雉 2
688 持統 2 朱鳥 3 →     → 654 白雉 5 白雉 3

(ここから、古賀さんの論文「朱鳥改元の史料批判」(『古代に真実を求めて 第4集』所収)を教科書とします。)

 『日本書紀』年号の「大化」と「白雉」は引き続いて改元されていて、「白雉」は「孝徳紀」とともに終わる。その意味では一応つじつまが合っている。それに対して「朱鳥」の場合はまったく異様である。九州年号「朱鳥」は「686年~694年」の9年間続く。『日本書紀』は朱鳥元年(686)を、時代をずらすことなくそのまま盗用しているが、その1年ぽっきりなのだ。しかもその年は「天武紀」最後の年(天武15年)であり、改元をする理由はまったく見あたらない。なぜこのようなへんてこりんな盗用をしたのだろうか。では『日本書紀』はその改元をどのように理屈づけしているだろうか。次がその改元記事である。

686年(朱鳥元)年7月20日
 元(はじめのとし)を改めて朱鳥元年と曰ふ。〈朱鳥、此を阿訶美苔利(あかみとり)といふ。〉仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)と曰ふ。

 この記事について岩波の頭注は次のように記している。

「扶桑略記には「大倭国進赤雉。仍七月改為朱鳥元年」とあるが、おそらくこの改元は天皇の病気平癒を祈ってのことで、天皇が赤色を重んじ(→補注28-二八)、また赤烏・赤雀の祥瑞がしばしば出現したこと(六年十一月条・九年七月条)にちなんだものであろう。」
(「一」「二」は返り点)

 改元の理由を「病気平癒を祈ってのこと」としている。改元の理由としてはすぐに「皇位交代時」「吉祥事を記念」「天変地異などの凶事の忌み事」などが思い浮かぶが、「病気平癒祈願」が改元理由とは私は寡聞にして知らない。また「祥瑞・・・にちなんだ」とも言っているが、それぞれ9年前・6年前の吉祥事である。そんな間の抜けた改元はあり得ないだろう。

 念のため、ヤマト王権が元号を設定できる権力者になった「大宝」以後の改元理由を、ウィキペディア(「元号一覧」)で調べてみた。「病気平癒祈願」は皆無だった。私が知らなかったことでは「辛酉革命・甲子革命」というのがあった。

 朱鳥改元を何とか説明したという頭注者の努力は認めるが、「病気平癒祈願」の「吉祥事記念」もこじつけでしかない。

 ついでなので「補注28-二八」も読んでみた。壬申の乱の記事の中に、大海人軍が不破から近江に入るとき、敵味方の区別がしやすくなるように兵士の衣に赤い印を付けさせたくだりがある。
「其の衆(いくさ)の近江の師(いくさ)と別け難きことを恐て、赤色を以て衣の上に着(つ)く」。
 「補注28-二八」はそれに対する注であった。

「補注28-二八:大海人皇子と赤色」
「 万葉199、柿本人麻呂の歌に、壬申の乱のことを叙して、「捧げたる 幡の靡は 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに 着きてある火の 風の共(むた) 靡くがごとく」とあり、古事記の序に天武天皇の功業をのべて「絳放耀兵。凶徒瓦解」とあるように、大海人皇子方の軍は旗にも赤色を用いたらしい。漢の高祖は赤帝の子であると自負し、旗幟に皆赤を用いたと漢書、高帝紀にみえるが、井上通泰は、天武天皇が自らを漢の高祖に擬したことを示すものとしている」。

 いかにも学者さんらしく、文献を渉猟して微細な研究を重ねている。しかし、原文が内包している矛盾・齟齬には気づかない。あるいは気づかないふりをしている。

 この朱鳥改元記事の問題点を古賀さんは次のように分析している。

 天武の末年(15年)7月に突然何の説明もなく改元し、その年の9月9日に天武は没している。そして、翌年は持統元年となり、『日本書紀』中では朱鳥は一年で終わっているのだ。大化は孝徳天皇即位に伴い「改元」され、続いて白雉と「改元」されており、それなりにつじつまはあっているが、朱鳥のみは天武末年の突然の改元という何とも不思議な現れ方をしているのである。

 まだ不思議な事はある。朱鳥にのみ「阿訶美苔利(あかみとり)」と和訓が施されている。年号に和訓とは何とも奇妙ではあるまいか。もちろん、大化・白雉にはない。しかも、朱鳥改元を飛鳥浄御原宮の命名の根拠としているが、これもおかしなことである。両者はほとんど音や意味に関連がない名称だからである。せいぜい「鳥」の一字を共有しているだけだが、「飛鳥」の地名や文字はそれ以前から存在し、この時に初めて使われたとも思われない。同様に飛鳥浄御原宮も天武元年に造られたことが見える。

「是歳、宮室を岡本宮の南に營る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」
『日本書紀』天武元年是歳条(672)

 天武元年から末年までの14年もの間、天武が名無しの宮に住んでいたとは考えられない。このように朱鳥改元記事はかなり不自然、不明瞭な記事なのである。

(中略)

 『日本書紀』編者は何故朱鳥のみ、このような盗用の仕方をしたのであろうか。より、常識的に盗用するのであれば、それこそ1年遅らせて、持統元年を朱鳥元年としてもよかったはずである。大化を50年、白雉を2年ずらして盗用したぐらいであるから、1年ずらして持統天皇の即位年にあわせることぐらい簡単にできたはずだ。不審である。

 ちなみに、近畿天皇家による701年の大宝年号建元から、『日本書紀』成立の養老4年(720)までの間、慶雲(704)・和銅(708)・霊亀(715)・養老(717)と改元されているが、各天皇の即位年かその翌年に改元がなされている。したがって、『日本書紀』編者が朱鳥を九州年号から盗用するのであれば、編纂当時の実際の改元と同様に、持統の即位年にその位置をずらして盗用するのが、常識的と思われるのである。

 かつて、九州年号原形論争において、朱鳥は九州年号ではないとする説があった。その主たる理由の一つとして、『二中歴』以外の九州年号群史料の多くは、朱鳥をもたないことが上げられていたが、本稿の帰結から見れば、『日本書紀』の三年号中、朱鳥が最も不自然な位置と記述をもつという史料事実こそ、逆に実在の根拠と考えられるのである。なぜなら、『日本書紀』編者の捏造であれば、それこそ天皇の在位期間や即位年に元年を位置づけるなど、もっとそれらしく捏造したはずであるからだ。しかし、そうはなっていない。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(93)

「天武紀・持統紀」(9)


「34年遡上盗用」の目的とその手法


 「持統紀」つまり『日本書紀』は697(持統11)年8月1日の譲位記事で終わる。そして最後の34年遡上盗用記事は697(持統11)年4月7日の吉野行幸記事である。34年遡上させると663年4月7日。白村江の戦いは663年8月。つまり最後の吉野行幸は九州王朝の天子による最後の百済派遣軍団閲兵のための行幸であった。

 白村江敗戦(663年)から「持統紀」が終わる697年までの34年間には、九州王朝の支配下での白村江敗戦処理・唐占領軍による占領政策の実施など記録されるべき歴史がたくさんあったはずだ。その中でも最も重要なのは九州王朝から近畿王朝への権力移動の経緯であろう。しかし701年から名実ともに中心権力となった近畿王朝は「万世一系」を偽装したかった。そのためには、近畿王朝にとってその34年間の歴史は明るみに出せない事だらけであった。そこで『日本書紀』編纂にあたって、大幅な「削偽定実」(不都合な真実はばっさり削除し、都合よく改竄した記事を挿入)が行われた。具体的にその手法をまとめると次のようになるだろう。

「定実」(ヤマト王権の物指しで取捨選択しつつ残したもの)
① ヤマト王権の歴史部分(例えば「壬申乱」)
② 天変地異
③ 対外的にカットしづらい事(海外の史書との整合性のため)

「削偽」(「削除」した穴埋め)
④ 九州王朝の史書からの盗用改竄。

 34年遡上記事は④の代表例である。つまり、ばっさりと削除した跡を、九州王朝の歴史で主体をヤマト王権に変えれば都合の良い部分を、時代や主体を改竄して挿入したのだ。

 近畿王朝の歴史改竄は成功して、『日本書紀』成立以降、その改竄された歴史が流布されてきた。現代の学者たちのほとんどがその蜃気楼の中で踊っている。もちろん学者だけではない。その学者たちを信じて、ほとんどの国民もだまされている。かくいう私もつい最近までだまされていた一人であった。

 さて、『日本書紀』は白雉・朱鳥・大化と三つの九州年号を盗用している。もちろんその盗用は、今まで見てきたように年号だけを盗用するためではなく、その年代に記録された九州王朝の事績を盗用するためであった。34年遡上に関係する白雉盗用について、九州年号と『日本書紀』年号との対応表を作ってみる。

「白雉」の盗用
(西暦 書紀年号 九州年号)     (西暦 書紀年号 九州年号)

685 天武13 朱雀 1 →34年遡上→ 650 白雉 1 常色 4
685 天武14 朱雀 2 →     → 651 白雉 2 常色 5
686 朱鳥 1 朱鳥 1 →     → 652 白雉 3 白雉 1
687 持統 1 朱鳥 2 →     → 653 白雉 4 白雉 2
688 持統 2 朱鳥 3 →     → 654 白雉 5 白雉 3
689 持統 3 朱鳥 4 →     → 655 斉明 1 白雉 4
690 持統 4 朱鳥 5 →     → 656 斉明 2 白雉 5
691 持統 5 朱鳥 6 →     → 657 斉明 3 白雉 6
692 持統 6 朱鳥 7 →     → 658 斉明 4 白雉 7
693 持統 7 朱鳥 8 →     → 659 斉明 5 白雉 8
694 持統 8 朱鳥 9 →     → 660 斉明 6 白雉 9
695 持統 9 大化 1 →     → 661 斉明 7 白鳳 1
696 持統10 大化 2 →     → 662 天智 1 白鳳 2
697 持統11 大化 3 →     → 663 天智 2 白鳳 3

 上の表を見ると、遡上年数がなぜ34年なのか、という疑問に対する答がハッキリと読み取れる。34年遡上させると九州年号の「朱鳥と白雉」・「大化と白鳳」の年数がピッタリと対応しているのだ。つまり『日本書紀』編纂者は九州年号を「朱鳥→白雉」・「大化→白鳳」と入れ替えて、「白雉・白鳳」の記事の一部を「朱鳥・大化」に貼り付けた。その際、もちろん邪魔な九州年号はカットし、その年号をそれに対応するヤマト王権の大王治世年に書き換えて編纂したのだった。

 この34年遡上と同じ手法が他にもまだあると、正木さんは言っている。その中から一つだけ次のような例を挙げている。

640(舒明11)年9月
 大唐の學問僧惠隠・惠雲、新羅の送使に従い京に入る。
(A) 640(舒明12)年5月5日
 大きに設斎(をがみ)す。因りて、惠隠僧を請(ま)して、無量壽經を説かしむ。

 (A)について岩波の頭注は「白雉三年四月一五日条の前半と酷似する。同事の重出か」と記している。重出記事とされているのは次の記事である。

(B) 652(書紀白雉3)年
4月15日
 沙門惠隠を内裏に請せて、無量壽經を講かしむ。沙門惠資を以て、論議者(ろんげしや)とす。沙門一千を以て、作聴衆(さちやうじゆ)とす。
20日
 講くこと罷む。

 (A)と(B)は明らかに重出記事である。この重出記事の秘密も『日本書紀』の年号で比べても何も分からない。『日本書紀』年号と九州年号との対応表を作ってみよう。640(舒明12)年と652(書紀白雉3)年との差は12年である。
635 舒明 7 僧要 1 →12年繰上→ 647 大化 3 常色 1
636 舒明 8 僧要 2 →     → 648 大化 4 常色 2
637 舒明 9 僧要 3 →     → 649 大化 5 常色 3
638 舒明10 僧要 4 →     → 650 白雉 1 常色 4
639 舒明11 僧要 5 →     → 651 白雉 2 常色 5
640 舒明12 命長 1 →     → 652 白雉 3 白雉 1
641 舒明13 命長 2 →     → 653 白雉 4 白雉 2

 「僧要→常色」・「命長→白雉」が一対一に対応している。ここでも九州王朝の元号「命長」と「白雉」の入れ替えが行われているのだ。

 (A)の方が元記事である。何故なら直前の舒明11年9月にある関連記事が対外的資料なので動かせない。これを白雉3年に貼り付けた。日にちが違っている理由は干支を調べると納得がいく。

 (A)記事は、記事前半の「大設斎す」までが5日(干支は丁酉朔辛丑)の記事で、「因りて」以下は翌日(6日 干支は壬寅)の行事である。しかし残念ながら「書紀白雉3年5月」には壬寅がない。そこで編纂者は干支付きの原文を直近の4月15日(壬寅)に貼り付けた。それが(B)記事である。正木さんは元記事の復元を次のように試みている。

「九州年号『命長』元年(640)五月辛丑(五日)大きに設斎す。翌五月壬寅(六日)、沙門恵隠を内裏に招請、講無量寿経を講ぜしめた。沙門恵資を論議者と為した。沙門一千を聴衆とした。五月丁未(十一日)、講を罷める」。

 ではなぜこのような作為が必要だったのだろうか。これについては正木さんの論考を直接引用しよう。

 なぜそのような切り貼りをおこなったのか。以下は私見だが九州年号「僧要」から「命長」への改元では、九州王朝の天子が崩御し、命長元年5月5日の大設斎はその病気平癒祈願か葬儀の祭事だったのではないか。

 その証拠に舒明12年2月甲戌(7日)の記事に「星、月に入れり」とあるのをはじめ「雲なくして雷なる(11年正月丙辰)」「彗星(同己巳)」等「凶事」を予感させる記事があり、さらに10年は有間湯、11年は伊予湯と、冬季は必ず三月ほどの長期の湯治に出かけている。しかも10年冬は新嘗祭を飛ばしてまで湯治に出かけているのだ。「蓋し有間に幸せるに因りて、新嘗をもらせるか(11年正月)」これは天子の体調の不良を現しているともとれる。

 書紀編者は「九州王朝の天子の崩御記事」を隠すために、このような切り貼りをおこなったのではないだろうか。