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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(92)

「天武紀・持統紀」(8)


「百姓・僧尼献上」記事(2)


 「686-34=652」年の該当記事は652(白雉3)年9月条だが、前年の651(白雉2)年12月条が関連するのでその記事から掲載する。

(B) 651(白雉2)年12月
 冬十二月の晦(つごもり)に、味經宮(あぢふのみや)に、二千一百餘の僧尼を請(ま)せて、一切經讀ましむ。是の夕に、二千七百餘の燈を朝の庭内に燃(とも)して、安宅・土側等の經を讀ましむ。是に、天皇、大郡より、遷りて新宮に居す。號(なづ)けて難波長柄豐碕宮と曰ふ。

 この記事は難波宮遷都について祈念する式典記事である。「安宅・土側等の經」をあげているので地鎮祭のようなものだろうか。

 ところで、ここで言われている『日本書紀』のウソ「前期難波宮=孝徳の難波長柄豊碕宮」が今でもそのまま流布しているが、繰り返しになるが念のため、孝徳の難波長柄豊碕宮と前期難波宮とは別物である。前期難波宮と呼ばれている宮殿跡に聖武天皇が造営した宮殿が後期難波宮と呼ばれている。この難波宮跡は大阪城のすぐ南にある。

「孝徳紀」の一連の難波宮遷都記事は九州王朝史書の難波副都遷都記事からの盗用である。では難波長柄豊碕宮はどこにあったのだろうか。古賀さんは 「洛中洛外日記第268話」 で、難波長柄豊碕宮は大阪長柄の豊崎(大阪城の北方、淀川に近い)にあった、と推定している。ここの考古学的調査が俟たれる。

652(白雉3)年9月
 秋九月、宮造ること巳(すで)に訖(をは)りぬ。其の宮殿の状(かたち)、殫(ことごとく)に論(い)ふべからず。

 新宮が完成した。「殫(たん)」とは「余す所なくことごとく」という意である。つまり「その宮殿の状、殫に論ふべからず」という文言は、難波新宮殿の規模の大きさと威容の厳かさを表現している。並の宮殿ではない。恐らく坊条を供えた本格的な「京」である。ヤマト王権が初めて造営した「京」は藤原京である。難波長柄豊碕宮が「京」であるわけがない。難波宮跡は現在も大阪文化財研究所によって発掘調査が続けられている。やがてその全容が明らかになるだろう。

(C) 652(白雉3)年12月
 冬十二月の晦に、天下の僧尼を内裏に請せて、設齊(をがみ)して大捨(かきう)てて燈(みあかし)燃(とも)す。
(設齊:法会に食を供すること)
(大捨:愛憎の心を捨てて平等の心に住すること)

 9月に九州王朝の副都難波宮が完成した。それをうけて、新宮において行われた遷宮祈念式典である。

 ここで、記事(B)と(C)の内容構成を比べてみよう。

 どちらも「十二月の晦日」の出来事であり、「僧尼を請せて」「燈燃す」という同類の祈念式典を行っている。ともに出来事についての情報は詳しく記録されている。しかし著しく異なる点ある。(B)には「二千一百余」と僧尼の人数が記録されているが、(C)には人数の記録がない。(C)では僧尼の情報が不完全なのだ。

 では(B)(C)に対して、686(朱鳥元)年の記事(A)はどうだろう。(A)は(B)(C)と同じく12月の記事である。また、(A)では「三つの国高麗・百済・新羅(あるいは筑紫)」の「僧尼62人」と、僧尼の情報はしっかり記録されている。ではその僧尼たちは何をしたのか。出来事の情報をまったく欠いている。つまり(A)と(C)は互いに補完し合う構成になっている。また、(A)の「三国・筑紫」に対して(C)には「天下」という言葉が使われているが、これは「広く国内外から集められた」という意で、この点でも(A)(C)両記事には補完性があると言える。

 以上のような状況から、正木さんは「元は次のような一つの記事だった事を窺わせる」と言い、(A)と(C)を合体させて、「復元私案」を提示している。

652年(白雉3)年
 冬十二月、筑紫大宰、三つの国高麗・百済・新羅の百姓男女、井せて僧尼六二人を献れり。晦に、天下の僧尼を内裏に請せて、設斎して大捨てて燃燈す。

 このような復元が妥当であることを、正木さんは復元記事を「孝徳紀」全体の中に位置づけて検証している。これについては、正木さんの文章をそのまま引用しておこう。

 (A)記事には「高麗・百済・新羅」三国からの百姓・僧尼献上が記されているが、三四年遡上した孝徳期は、毎年のように高麗・百済・新羅から朝貢があったとされ、時代背景ともピッタリ一致する。

[書紀白雉元年(650)]
 夏四月に、新羅、使を遣して貢調る。或本に云く、是の天皇の世に、高麗・百済・新羅、三つの国、年毎に使を遣して貢献るといふ。

 さらに、淳足・磐舟橋などを設け、蝦夷経略に乗り出していた(書紀大化3から4年・647から648年)情勢から、難波遷都に関連して筑紫から送られてきた、高麗・新羅の「投化」人をさらに東国の常陸・下毛・武蔵などに移住させて、まことに自然なのだ。

 結論として、朱鳥元年の(A)記事は、三四年前の「書紀白雉3年(652)12月晦の、難波長柄豊碕宮における、遷都に関する祈念式の記事から、諸外国からの僧尼などの派遣部分を切り抜き、持続称制前紀、朱鳥元年(686)12月に貼り付けたもの」となろう。また持続元年(687)の高麗・新羅人の東国移住記事も、同様に書紀白雉4年(653)のこととなろう。

 そうすれば、高麗・百済の百姓男女らを、無理に滅亡した諸国の「遺民」とする必要はない。また、本国に連絡もない内に、戦勝国新羅の「帰化人」が「献上」される不自然もなくなるのだ。

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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(91)

「天武紀・持統紀」(7)


「百姓・僧尼献上」記事(1)


686(朱鳥元)年12月19日
 天渟中原瀛真人天皇(天武の和風諡号)の奉為(おほみため)に、無遮大会(かぎりなきをがみ)を五つの寺、大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田に設く。
(A) 686(朱鳥元)年閏12月
 筑紫大宰、三つの國高麗・百濟・新羅の百姓男女、幷て僧尼六十二人を獻れり。

 (A)は9月9日に死去した天武の葬儀のため、高麗・百済・新羅の人民・僧尼が筑紫大宰を通して献上された、という意に読める。この後の、高麗・百済・新羅の人民や僧尼関連記事を取り出すと次のようである。

687(持統元)年
3月15日
 投化(おのづからにまうおもぶ 「帰化」と同意)ける高麗五十六人を以て、常陸國に居らしむ。田賦(たま)ひ稟受(かてたま)ひて、生業(なりわひ)に安からしむ。
3月22日
 投化ける新羅十四人を以て、下毛野國に居らしむ。田賦ひ稟受ひて、生業に安からしむ。
4月10日
 筑紫太宰、投化ける新羅の僧尼及び百姓男女廿二人を献る。武蔵國に居らしむ。田賦ひ稟受ひて、生業に安からしむ。

 さて、記事(A)には不審な点がある。高麗・百済・新羅からの献上とあるが、百済は660年、高麗(高句麗)は668年に滅亡しているのだ。また、新羅は倭国に対しても戦勝国である。戦勝国が敗戦国に人民や僧尼を献上するなどあり得ない。

 この不審点を岩波の頭注は「これら両国の遺民と新羅からの帰化人男女・僧尼」と説明して、辻褄を合わせようとしている。つまり百済・高麗の人民たちは国家滅亡の時に倭国に逃れてきた遺民であり、新羅の人民たちも「帰化人」であり、それらの人々を筑紫大宰が献上した、と解しているようだ。しかし、もし遺民であれば、彼らも当然「帰化」したでろう。「遺民」「帰化人」と分ける必然性はない。また、「帰化人」はあくまでも「帰化人」であり、献上「人」ではあり得ない。(A)の後の記事では「帰化人」に対しては、はっきりと「投化」と表現している。正木さんの論考を読んでみよう。

 しかし、高麗は20年、百済に至っては26年も前に滅亡している。亡命当時20才だった者は46才、30なら56、すっかり年取った爺さん婆さんだ。そうした国の「遺民」が、今ごろ登場するのはおかしい。

 彼らはこの間何をしていたのだろう。高麗・百済は旧友好国。奴隷扱いをしていたとも思えない。亡命者として、新たな居住地で新しい生活の年輪を重ねていたに違いない。20余年もたてば結婚もし、子や孫も出来ている者もいるだろう。地域で欠かせぬ職についている者もいるだろう。今更彼らを、地域や家庭から「引っぺがして」連れてきたというのだろうか。

 また、戦勝国の新羅人が、敗戦国日本に「帰化」し、なおかつ、彼らが滅ぼした百済や高麗の遺民と共に行動するのも不審だ。要するに「時代」が合わないのだ。

 更に、僧尼らも(文面上は三国の僧尼か、筑紫の僧尼かは決定しづらいが)これら諸外国から献じられたとすれば、持統天皇が使者を新羅に派遣し、天武の喪を新羅に告げたのは持統元年1月。それ以前に新羅が男女・僧尼等を献ずるというのは、より一層不自然なことになる。

 では上の不審点はどう理解したらよいのだろうか。そう、34年遡上させて検討してみればよい。「686-34=652」。652(白雉3)年にどのような記録が残されているだろうか。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(90)

「天武紀・持統紀」(6)


「持統紀」の蝦夷朝貢記事(2)


 正木さんは越・陸奥・柵養・津刈の各蝦夷人数を調べている。

越の蝦夷
 Eによると越の蝦夷は99人。Dの「道信」を加えて100人
陸奥の蝦夷
 Eの95人だけ。
柵養の蝦夷
 Eに9人。これに脂利の古男・麻呂・鉄折の3人を加えて12人。
津刈の蝦夷
 Eの6人だけ。

 以上の合計「100+95+12+6=231」人、となり、これもBの蝦夷の合計人数とピッタリ一致する。

 次にAとBは同じ年の11月、12月と連続している記事だから次の推測が成立する。

① A時点の蝦夷190余人。
② Bの内訳の越(100人)・陸奥(95人)・柵養(12人)・津刈(6人)「足して190余」となるのは、越と陸奥の組み合わせだけである。
③ したがってA(持統2年11月→白雉5年11月)の朝貢は越と陸奥の蝦夷で計195人だった。

 この195人はEの越(99人)と陸奥(95人)の計194人と比べて一人多い。これはAとEの間に越の蝦夷「道信」が一名出家しているのための差である。

 ここまで見事に一致していたら、もう偶然の一致とは言えまい。もともとあったA・B・C・D・E・Fという蝦夷朝貢記事からA・B・C・Dを切り取って、それを「持統紀」に貼り付けたことが明らかとなった。改めて事実関係を復元しておこう。

A 白雉5年11月
 越・陸奥の蝦夷195人が誄をおこなった。
B 白雉5年12月
 Aの後に柵養12人・津刈6人が加わり、蝦夷は213人となった。
CD 6斉明元年1月
 柵養(3人)と越(1人)の計4人が出家して抜けた。
E 斉明元年7月
 饗宴に参加した蝦夷は209であった。

 『日本書紀』は盗用した原史料(九州王朝の史書)は驚くべき正確さで事実を記録していたことになる。

 「斉明紀」の蝦夷朝貢記事が「孫盗用」記事であることを示す事柄がもう一つある。 『「斉明紀」の北方遠征(1)』 で掲載した655(斉明4)年4月条の記事の蝦夷征討の対象となっている蝦夷は「齶田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡(ふたつのこほり)の蝦夷」であった。これに対して「持統紀」の登場する蝦夷は越・陸奥の蝦夷である。蝦夷と倭国との関係では地理的遠近は時系列と密接に関連していると考えられるが、ここでは地理的遠近と時系列が逆方向を指しているのだ。

 最後に正木論文①の終りの文章を引用しよう。

 更に不審なのは、持統紀(3年1月3日)に朝貢記事のある蝦夷が「越・陸奥(出羽)」などの南部の居住地域の蝦夷であり、30年以上前、斉明元年から四年にかけての蝦夷征伐と朝貢記事が「秋田・能代・津軽」など北部居住の蝦夷で「南北が逆転」していることだ。蝦夷征伐の地理的順序を常識的に考えると近(南)から遠(北)だ。持統紀蝦夷朝貢は本来白雉5(孝徳10)年及び斉明元年の出来事で、本来はそれに続いて斉明元年から4年の蝦夷関連記事があったという証拠になるだろう。

 持統紀の「蝦夷朝貢」は、34年遡上った孝徳・斉明時代の出来事だった。古賀氏が既に述べられているとおり、九州王朝は、緊迫する唐や朝鮮半島の状況を踏まえ、難波遷都を決行するとともに、背後の憂いをなくすため蝦夷征伐(東北経営)に乗り出した。そして、新たに支配下となった蝦夷の朝貢に関する記事が、持統紀に持ち込まれたのだと考える。

 上の引用文中に「難波遷都」という言葉が出てきた。これは古賀さんが研究している問題で、前期難波京は九州王朝の副都であるという。もちろん、孝徳の難波長柄豊碕宮は前期難波京とは別物である。この問題もいずれ取り上げようと思っている。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(89)

「天武紀・持統紀」(5)


「持統紀」の蝦夷朝貢記事(1)


 「持統紀」の蝦夷朝貢記事は688(持統2)年と689(持統3)年にある。これを34年遡上させると654(白雉5)年・655(斉明元)年となる。『「斉明紀」の北方遠征』で取り上げたように「斉明紀」の蝦夷関連記事は異常なほど多い。みな他史料からの盗用であった。「持統紀」の蝦夷朝貢記事が「斉明紀」からの盗用であるとすると、孫引き、いや「孫盗用」という離れ業を行っていることになる。まず、「持統紀」の蝦夷朝貢記事を読んでみよう。

688(持統2)年
A 11月5日
 蝦夷百九十餘人、賦調(みつき)を負荷(お)いて誄る。

 これは「天武の葬儀記事(1)」で掲載した記事で、蝦夷が天武の弔問にやって来たことになっている。

B 12月12日
 蝦夷の男女二百一十三人に飛鳥寺の西の槻の下に饗(あへ)たまふ。仍りて冠位を授けて、物賜(ものたま)ふこと各差(おのおのしな)有り。

 この記事も持統2年の最後の記事ということで、「天武の葬儀記事(1)」の掲載した。

689(持統3)年
C 1月3日
務大肆陸奥國の優[山+耆]曇(うきたま)郡城養(きかふ)の蝦夷、脂利(しり)の古男・麻呂・鉄折(かなをり)、鬢髪(ひげかみ)を剔(そ)りて沙門(おふし)と為らむと請(もふ)す。詔して曰く、「麻呂等、少くとも閑雅(みやび)ありて欲(ものほりす)ること寡(すくな)し。遂に此に至りて、蔬(くさびら)食(くら)ひて戒(いむこと)を持(たも)つ。所請(まう)すままに、出家し修道すべし」とのたまふ。

 上の記事中、「城養蝦夷脂利古男」(原文)を通説は「城養の蝦夷脂利古(しりこ)が男(こ)」と訓じている。ここでは正木さんの訓読に従った。その論証は次のようである。

(1) 蝦夷に親(族長か)の名を付けて紹介する例はない
(2) 麻呂、鉄折の名前は二字。 (3) 脂利古男の「脂利=しり」は、北海道南部に多く登場する蝦夷ゆかりの地名
(4) 脂利古男は「他に見えず」といい「脂利古」が名前である論証は何も無い

 こと等から「城養の蝦夷、脂利の古男、麻呂と鉄折」と解釈すべきではないか。特に、(3)の地名「しり」について、陸奥(優[山+耆]曇は出羽とされる)の事例ではないが、斉明紀五年是月の条に「後方羊蹄(しりへし)」という蝦夷郡地名が出てくる。さらに現在でも倶知安町を中心とする「後志(しりべし)支庁」には尻別川が流れ、尻別岳がそびえる。そしてその尻別川は「羊蹄山」を取り巻いて流れているのだ。これに限らず、松前半島には知内川(しりうちがわ)、周辺には奥尻島、後志利別川など「しり」地名が溢れ、蝦夷ゆかりの地名であることを示している。

 以下の論述がこの正木さんの訓読が正しいことの傍証となるだろう。

D 1月9日
・・・是の日に、越の蝦夷沙門道信に、佛像一躯、灌頂幡・鐘・鉢各一口、五色株各五尺、綿五屯、布一十端、鍬一十枚、鞍一具賜ふ。・・・

 上記の記事に対応すると思われる蝦夷朝貢記事は655(斉明元)年にみえる。

E 7月11日
 難波の朝(みかど)にして、北〈北は越ぞ。〉の蝦夷九十九人、東(あづま)〈東は陸奥ぞ。〉の蝦夷九十五人に饗(あへ)たまふ。并て百濟の調使一百五十人に設(あへ)へたまふ。仍(なほ)、柵養(きかふ)の蝦夷九人・津刈(つかる)の蝦夷六人に、冠各二階授く。
F
 是歳、・・・蝦夷・隼人、衆を率て内屬(まうきしたが)ふ。闕(みかど)に詣でて朝献(ものたてまつ)る。
(注:内属→属国になること)

 さて、「持統紀」の記事が「孝徳紀」・「斉明紀」の記事の盗用であると言えるだろうか。正木さんは登場する蝦夷人の人数に着目して、その「孫盗用」の論証を行っている。

 A~Dを34年遡上させてEにつなげてみよう。

A 654(白雉5)年11月 →190余人
B 654(白雉5)年12月 → 213人
C 655(斉明元)年1月 →  3人
D 655(斉明元)年1月 →  1人
   (C・Dの出家した蝦夷3+1=4)
E 655(斉明元)年7月 → 209人
      (99+95+9+6=209)

 Bの段階で213人の蝦夷が来ていた。そのうち4人が出家した。「213-4=209」。⑤の「持統紀」の人数とピッタリ一致する。偶然だろうか。

 正木さんは論文①~④を集大成したもの(『日本書紀』「持統紀の真実」)を『古代に真実を求めて第11集』に発表していた。これを図書館から借りてきて、いま読んでいる。その論文には、さらに詳しい人数分析が追加されていた。次回紹介しよう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(88)

「天武紀・持統紀」(4)


天武の葬儀記事(2)


 668(白鳳8・天智元)年に亡くなったはずの伊勢王が登場している記事は剽窃記事と考えてよいだろう。どこからの剽窃か。遅すぎる埋葬記事が置かれている688(持統2)年を34年遡上してみよう。「688-34=654」。白雉5年である。この年は孝徳在位10年目の年で、この年に孝徳は死去している。その前年に、孝徳と王族(中大兄など)との間に次のような事件があった。

是歳、太子(ひつぎのみこ)、奏請(まう)して曰さく、「冀(ねが)はくは倭の京に遷らむ」とまうす。天皇、許したまはず。皇太子、乃ち皇祖母尊(すめみやのみこと)・間人皇后(はしひとのきさき)を奉(ゐてまつ)り、幷て皇弟(すめいろと)等を率て、往きて倭飛島河邊行宮に居します。時に、公卿大夫(まへつきみたち)・百官(つかさつかさ)の人等、皆隨ひて遷る。是に由りて、天皇、恨みて國位(くに)を捨(さ)りたまはむと欲(おもほ)して、宮を山碕に造らしめたまふ。乃ち歌を間人皇后に送りて曰はく、

鉗(かなき)着け 吾が飼ふ駒は 引出(ひきで)せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか


 太子(皇太子)は中大兄、皇祖母尊は皇極(後に重祚して斉明)、皇弟は大海人である。間人は斉明と合葬されたあの斉明の娘である。中大兄・大海人も皇極の子である(とされているがあやしい)。また孝徳は斉明の同母弟である。

 さて上の事件。孝徳は難波長柄豊碕に新宮を建て、そこを都にしていた。中大兄は都を大和に還したいと願ったが、孝徳は聞き入れなかった。すると中大兄は王族・貴族・官僚すべてを率いて大和に還ってしまった。たいへんないびり、というより謀反と言ってもよいだろう。孝徳1人だけ難波に残された。身の回りの世話をする舎人や采女が何人かは残っただろうが、難波には政治機能はまったくなくなってしまった。もともと孝徳は傀儡大王であったが、ここで完全に見捨てられてしまったことになる。ひどい話だ。

 ちょっと横道へ。
 「近江遷都(23)」 でチョット触れたように、孝徳の子の有間は後に蘇我赤兄に謀られて謀反人に仕立て上げられる。そのとき斉明は政府要人を引き連れて紀の湯に滞在していた。赤兄に捕らえられた有間は紀の湯に送られる。そこで中大兄の尋問を受けるが、有間は弁明をせず、ただ「天(あめ)と赤兄と知らむ。吾(おのれ)全(もは)ら解(し)らず」と述べただけだった。そして有間は紀伊の藤白阪という所で絞殺刑に処せられてしまう。『万葉集』に、そのときに有間が詠んだ歌二首(141番・142番)が残されている。私が好きな歌の一つで、若いころ暗唱したものだった。

有間皇子、自ら傷(いた)みて松が枝を結ぶ歌二首

磐代の浜松が枝を引き結び眞幸(まさき)くあらばまた還り見む
家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る


 たぶん、紀の湯に護送されたときの歌だろう。まだどのような処分を受けるのかわからず、不安と孤独の思いにうちひしがれながらも、「真幸くあれば」と生への希望をともし続ける旅、旅と言うにはあまりにも過酷な旅ではあった。ちなみに、「松が枝を引き結ぶ」という習俗は、犬養孝『万葉の旅』によると、「遊離する魂を木の霊力にたよって結び止め生命の長久を祈る」樹木信仰の一つだという。

 本道に戻ろう。
 孝徳の死は大王としてはまったく不本意な死だったことだろう。憤死と言ってもよいのではないか。『日本書紀』は孝徳の死を次のように記録している。

654(白雉5)年
(10月1日)
皇太子、天皇病疾(みやまひ)したまふと聞きて、乃ち皇祖母尊・間人皇后を奉りて、幷て皇弟・公卿等を率て、難波宮に赴く。
(10日)
天皇、正寝に崩りましぬ。仍りて殯を南庭に起つ。小山上百舌鳥土師連土徳を以て、殯宮の事に主(つかさど)らしむ。
(12月8日)
大坂磯長陵に葬りまつる。是の日に、皇太子、皇祖母尊を奉りて、倭河邊行宮に遷り居(ま)したまふ。老者語りて曰く、「鼠の倭の都に向ひしは、都を遷す兆(きざし)なりけり」といふ。

 これだけだ。天武の死亡関連記事と比べて、何ともそっけない。死亡後すぐに殯宮が設けられたが、2ヶ月ほど後の埋葬までなんの葬儀も行われていない。陵墓造営に2ヶ月かかるとして、その間に全く葬儀が行われなかったとは変だ。いくら傀儡大王だったからといえ、死後までも余りにも酷い仕打ちではないだろうか、と考えることもできるが、いくらなんでも何もせずに放置して2ヶ月後に埋葬するというのは不自然だ。この状況には死者にむち打つ所業というような意味合いはなく、2ヶ月間の葬送儀礼の記録がカットされたと考えるのが妥当だろう。そう、そのカットされた記録が「持統紀」の天武の葬儀の記事として貼り付けられたのだ。

 上で判断したカット・貼り付けが正しいことを示す根拠がある。『日本書紀』の日付は干支で表わされているが、これまで読むときに煩わしいので、算用数字で記載してきた。持統2年11月の葬儀記事の日付を干支に戻してみよう。

11月4日→冬十一月の乙卯(きのとのう)の朔戊午(つちのえうま)
5日→己未(つちのとのひつじ)

一方、「孝徳紀」の孝徳の死亡・埋葬記事の干支日付は次の通りである。

10月10日→壬子(みづのえね)
12月8日→十二月の壬寅(みづのえとら)の朔己酉(つちのとのとり)

 654(白雉5)年の10月10日~12月8日の干支日付は次の通りである。

壬子(10月10日) 癸丑 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未 庚申 辛酉 壬戌 癸亥 甲子 乙丑 丙寅 丁卯 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉(11月1日) 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子 己丑 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌 己亥 庚子 辛丑 壬寅(12月1日) 癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未 戊申 己酉(12月8日)

 「持統紀」の干支「戊午・己未」が「10月16日・17日」にある。「持統紀」の葬儀記事をそこに置くと、孝徳紀に欠如していた葬儀の日として復活する。一方、688(持統2)年10月には「戊午・己未」という日付はない。その日付が11月にしかないため、白雉5年10月条の干支付きの記事を切り抜いて、干支を変えずに持統2年条に貼り付けるとき、11月に置かざるを得なかった、といことになろう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(87)

「天武紀・持統紀」(3)


天武の葬儀記事(1)


 まず「天武紀」の天武の葬儀関連記事を辿ってみよう。

686(朱鳥元)年9月 (9日)
天皇の病、遂に差(い)えずして、正宮に崩りましぬ。
(11日)
始めて發哭(みねたてまつ)る。則ち殯宮(もがりのみや)を南庭に起つ。
(24日)
南庭に殯す。即ち發哀(みねたてまつ)る。
是の時に當りて、大津皇子、皇太子を謀反(かたぶ)けむとす。


 唐突に大津皇子の謀反(実は謀殺)事件の記事が挿入されているが、「持統紀」朱鳥元年10月条に謀反露見記事として引き継がれといる。もしかすると、後に取り上げることになるかも知れない。

 ここで、葬儀礼に出てくる言葉の意味を確認しておこう。
「殯(もがり)」
 遺体を棺に収めて埋葬までの間、仮に安置すること。
「発哀」・「発哭」
 ともに「みね」と訓じられている。声をあげて泣いて哀悼の意を表わすこと。
「誄(しのびごと)」
 死者の霊に向かって哀慕の言葉を述べること。
「奠(みけ)
 死者への供物。

(27日)
諸僧尼、殯庭に発哭りて乃ち退(まか)でぬ。
是の日に、肇(はじ)めて奠進(たてまつ)りて即ち誄(しのびごとたてまつ)る。第一に大海宿禰蒭蒲壬生の事を誄る。次に浄大肆伊勢王、諸王の事を誄る。・・・


ここでは、またしても伊勢王が登場していることを注意したい。

 上の27日の記事はまだ続く。この後、王室や朝廷の種々の役職代表者や各国造の誄が延々と続くが、それは省略する。これほど詳しく葬礼儀式を記録している記事は他に例がない。しかしそれにもかかわらず、9日から27日まで延々と続いた埋葬前の葬礼記事で、「天武紀」はぱたりと終わり、埋葬記事がないのだ。きっと次の「持統紀」に引き継がれて、そこで扱われているのだろう、と考えるのが順当だろう。しかし、「持統紀」でもまだ殯がつづく。埋葬くじが出てくるのは2年以上もたった688(持統2)年11月11日である。「持統紀」の天武葬儀記事を読んでみよう。

687(持統元)年正月(1日)
 皇太子、公卿・百寮人等を率(ゐ)て、殯宮に適(まう)でて慟哭(みねたてまつ)る。納言布勢朝臣御主人、誄る。禮(ゐや)なり。誄畢(を)へて衆庶(もろもろ)發哀る。次に梵衆(ほふしども)發哀る。是に、奉膳紀朝臣眞人等、奠奉る。奠畢へて、膳部・采女等發哀る。樂官、樂(うたまひ)奏(つかへまつ)る。
(5日)
 皇太子、公卿・百寮人等を率て、殯宮に適でて働哭る。梵衆、隨ひて發哀る。
(15日)
 京師の、年八十より以上、及び篤癃、貧くして自ら存(わたら)ふこと能はぬ者に絁(ふとぎぬ)綿(わた)賜ふこと、各(おのおの)差(しな)有り。
(19日)
 直廣肆田中朝臣法麻呂と追大貳守君苅田等とをして、新羅に使して、天皇の喪を赴(つ)げしむ。

 3月~9月の間にもさまざまな葬礼が続く。そして10月にようやく造陵記事が出てくる。

10月22日
 皇太子、公卿・百寮人等并て諸の國司・國造及び百姓男女を率て、始めて大内陵を築く。

 そして翌年、さっそく埋葬するのかと思ったら、まだ殯が続く。必要と思われる記事だけを抜き出しておく。

688(持統2)年正月(1日)
 皇太子、公卿・百寮人等を率て、殯宮に適でて働哭る。
(2日)
梵衆、殯宮に、發哀る。

 まるで正月の年中行事のように前年と同じ儀式が9月まで続く。その中で8月にまた伊勢王が登場する。

8月(10日)
 殯宮に嘗(なふらい)たてまつりて、慟哭たてまつる。是に、大伴宿禰安麻呂、誄たてまつる。
(11日)
 浄大肆伊勢王を命(め)して、葬儀を奉宣(のたま)しむ。

 岩波の頭注は「嘗」を「平常に復するしるしに会食をすること」と解説している。長々と続いた殯がようやく終わったようだ。そしてやっと埋葬。

11月(4日)
 皇太子、公卿・百寮人等と諸蕃(となりのくにぐに)の賓客とを率て、殯宮に適でて慟哭る。是に、奠奉りて、楯節儛(たたふしのまい)奏(つかえまつ)る。諸臣各己が先祖等の仕えまつれる状(かたち)を擧げて、遞(たがひ)に進みて誄る。
(5日)
 蝦夷百九十餘人、調賦(みつき)を負荷(お)ひて誄る。
(11日)
 布勢朝臣御主人・大伴宿禰御行、遞(たがひ)に進みて誄る。直廣肆當摩真人智徳、皇祖等の騰極(ひつぎ)の次第(ついで)を誄奉る。禮なり。古(いにしえ)には日嗣と云(まう)す。畢(をは)りて大内陵に葬(はぶ)りまつる。

12月12日
 蝦夷の男女二百一十三人に飛鳥寺の西の槻の下に饗(あへ)たまふ。仍りて冠位を授けて、物賜(ものたま)ふこと各差(おのおのしな)有り。

 これが持統2年条の最後の記事である。

 天武は686(朱鳥元)年9月9日に死去している。上の葬儀はそれから2年以上も経ってからのものである。しかも687(持統元)年正月にも同様のメンバーで盛大な誄の儀礼がおこなわれていて、688(持統2)年正月には殯宮参りの記事もある。

 また、最後の葬儀礼(11月4日)が命日(9月9日)でもなく、埋葬日(11月11日)でもない日に行われていることも不審だ。

 この長々と書かれた奇っ怪な記録を一体どう解釈したらよいのだろうか。カギはやはり「伊勢王」の中にあるだろう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(86)

「天武紀・持統紀」(2)


「天武紀」の伊勢王(2)


 「天武紀」の伊勢王記事の年代を34年遡上させて見よう。

683(天武12)年→649(大化5)年
684(天武13)年→650(白雉元)年
685(天武14)年→651(白雉2)年

 なんと、650(白雉元)年とは『日本書紀』における伊勢王初出の年であった。「天智称制の秘密(5):伊勢王とは誰か(1)」で取り上げた白雉改元記事である。必要な部分だけを再録する。(今回は読み下し文で)

 白雉元年春正月の辛丑の朔に、車駕(すめらみこと)、味經宮に幸して賀正禮を観(みそなは)す。是の日に、車駕、宮に還(かへ)りたまふ。
 二月の・・・・十五日、伊勢王・三國公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭(しり)を執(か)き、御座(みまし)の前に置く。


 「天智称制の秘密(5):伊勢王とは誰か(1)」 ではもう一つ、652(白雉3)年正月条の次の記事を取り上げた。

三年の春正月の己未の朔に、元日の禮訖(をはりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既に訖はりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。

三月の・・・


 そしてこの記事の「正月より是の月に至るまでに」という意味不明の文章に対する古賀さんの論究を紹介した(論文「盗用された改元記事」)。その理路を簡単にまとめてみる。

 白雉時代の年数は「孝徳紀」では「650~654」であるが、本来の九州年号では「652~660」(二中暦)である。『日本書紀』編纂者は白雉を2年ずらして盗用している。従って上の650年2月の白雉改元の儀式はもともと652年の出来事であり、652年正月記事の次にあったものを切り取って650年正月記事の次に貼り付けたのもだ。そのように考えると、あの意味不明の文章がすっきりとつながる。復元してみよう。

652年正月
 車駕、大郡宮に幸す。

二月の・・・・十五日、伊勢王・三國公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭(しり)を執(か)き、御座(みまし)の前に置く。

正月より是の月に至るまでに、班田すること既に訖はりぬ。

三月の・・・


 見事な読解だ。

 さらに「古賀事務局長の洛中洛外日記」の「第140話2007/08/26」によると、『皇太神宮儀式帳』に「難波朝廷天下立評給時」(伊勢神宮の文書 804年成立)という一文があるという。「難波朝廷天下」とは孝徳時代を指している。その時代に「評制」が施行されたというのだ。天武紀で「諸國の堺を定めしむ」と言い、孝徳紀で「班田すること」と言っているのは評制施行のことだった。この事実を軸に、前回とり出した天武紀の伊勢王関連記事を分析するとどうなるだろうか。正木さんの論文④から引用する。

 そして伊勢王等が、天下巡行し諸国の境界を定めようとした、「天武12年」を34年遡上した649年こそ、古賀氏の示されたように「神宮雑例集一伊勢国神郡八郡事」に「飯野多気渡会評也」とあり、同時に「己酉の年を以て始めて度会郡を立つ」とある己酉(649年)にあたるのだ。同書頭注には「評ハ郡ノ誤。評ハ郡ノ俗字也」とあることから、伊勢国渡会評がこの年にできた事を示すと考えられる。

 また同史料にある「伊勢国」について、翌天武13年(従って白雉元年650年)に恩賞が与えられている事は、「評」制や任官がこれら地域に先行して施行され、これに伴い恩賞が与えられたと見れば無理なく理解できる。「然是年、不堪限」とあるのは649年段階では東国全体にまで施行することが出来なかった事を示しているのではないか。

 そして650年に東国にも施行を終え(「遣伊勢王等、定諸国堺」)その結果が翌651年の東国「諸国有位人」への恩賞となったのだろう。(「東国に施行」とは、天武14年(651年)に「伊勢王等、亦東国に向る」とある事から読み取れる。また「諸国有位人」と官職名を記さなかったのは、評制に伴う「評督・助督」等新任官者の官職名を隠したのではないか。)

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(85)

「天武紀・持統紀」(1)


「天武紀」の伊勢王(1)


 「天武紀・上」(第29巻)は「壬申の乱」だけの巻である。「壬申の乱」についてはすでに取り上げているので、「天武紀・下」から始めよう。(後に「壬申の乱」の補足を行うかも知れない。)

 「壬申の乱(6):度重なる吉野行幸はなぜ?」 で、694(持統8)4月条の記事を取り上げた。まず、これについて簡単に復習する。

夏四月・・・庚申(かのえさるのひ)に、吉野宮に幸(いでま)す。・・・丁亥(ひのとのいのひ)に天皇、吉野宮より至(かえりおは)します。

 31回もある持統の吉野行きの記事の中で、上の記事だけに日についての齟齬がある。この年の4月には「丁亥」という日ないのだ。古田さんは暦を丹念に調べて、660年4月24日が「丁亥」であることを突き止めた。本来660年4月24日にあった九州王朝の記事を持統紀で盗用したとき、『日本書紀』編纂者がここだけ干支の訂正を忘れたという結論にたっしたのだった。「694-660=34」前の記事だったことになる。

 この34年に着目して、正木裕(古田史学会)さんは考えた。

 持統天皇の吉野行幸は持統3年(689年1月18日)が初出。以降、持統11年(697)まで、都合31回の吉野行幸が暦年の経過を追って、順序良く連続している、いわば「セットもの」だ。従って689年~697年までの一連の行幸記事は「セット」で34年遡上る(655年斉明元年~663年天智2年)はずだ。それなら、行幸以外の記事も、同様に三十四年遡るものがあると見るのが自然だ。

 正木さんはこの「34年遡上」現象をテーマに次のような論文をものにしている。


『白村江以降に見られる「三十四年遡上り現象」について』

『朱鳥元年の僧尼献上記事批判(三十四年遡上問題)』

『日本書紀の編纂と九州年号(三十四年の遡上分析)』

『白雉年間の難波副都建設と評制の創設について』 (以下、これらの論文を教科書にします。)

 これらの論文で次のよう4項目が「34年遡上」記事であることを論証している。

(1)
 688(持統2)年11月4日の天武葬儀記事
(2)
 688(持統2)年~689(持統3)年の蝦夷朝貢記事
(3)
 686(朱鳥元)年閏12月の僧尼献上記事
(4)
 683(天武12)年~685(天武14)年の期の伊勢王記事

 (4)からは「34年遡行」現象は「持統紀」だけではなくは「天武紀」にも及んでいることが分かる。「天武紀」:「持統紀」の盗用記事だらけということになる。

 また、この(4)から、私には大いに反省しなければならないことがある。 「天智称制の秘密(4):甲子革令」 で伊勢王の死亡記事を取り上げたとき、私は「伊勢王が登場している記事がもう一つある(天武紀には伊勢王が頻出するが、上の死亡記事の後のことだから当然別人である)」。
と書いた。「天武紀」の伊勢王は別人と、安易な判断を下していたのだ。「天武紀」の伊勢王記事まで盗用記事とは思いも及ばなかった。正木論文(4)から読んでいくことにしよう。

 まず、正木さんが挙げている683(天武12)年~685(天武14)年間の伊勢王関連記事を読んでおこう。

683(天武12)年12月13日
 諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、幷(あわせ)て判官・録史・工匠者等を遣はして、天下に巡行(あり)きて、諸國の境堺を限分(さか)ふ。然るに是の年、限分ふに堪(あ)へず。

 国々の境界を区分させたが、完成しなかったと言っている。

684(天武13)年10月3日
 伊勢王等を遣して、諸國の堺(さかい)を定めしむ。

 再度境界区分を行っている。

684(天武13)年
 是の年、詔したまはく、「伊賀・伊勢・美濃・尾張、四の國、今より以後、調(みつぎ)の年に役を免し、役の年に調を免せ」とのたまふ。

685(天武14)年7月27日
 詔して曰く、東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸國の位(くらゐ)有らむ人等に、並に課役を免せ」とのたまふ。

 上の二つは税や課役の優遇処置の記事である。13年の記事について岩波は「この4国に対する優遇は、壬申の乱の関係によるものか」と頭注を付している。

685(天武14)年10月10日
 軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に遣はして、行宮(かりみや)を造らしむ。蓋し束間溫湯(つかまのゆ)に幸(いでま)さむと擬(おも)ほすか。

685(天武14)年10月12日
 浄大肆泊瀬王・直広肆巨勢朝臣馬飼・判官以下、幷て廿人を以て、畿内の役(えだち)に任(よさ)す。

685(天武14)年10月17日
 伊勢王等、亦東國に向(まか)る。因りて衣袴(ころもはかま)を賜ふ。

 境界区分や行宮設営などの課役(10月12日の課役について岩波の頭注は「都城の地を選ぶ事業か」と書いている)の合間に何の功績に対する優遇処置なのかはっきりしない恩賞記事が散見される。また、「諸國の堺を定めしむ」という事業が何のためのどういう意義をもった事業なのかは、『日本書紀』は何にも語っていない。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(84)

「天智紀」(72)


天智の陵墓について


 699(文武3)年10月条の記事によると、斉明陵のほかに天智陵も造られている。天智陵も何とも不可解なのだ。『日本書紀』の天智の死亡に関する記録は年表風にまとめると次のようであった。

671(白鳳11・天智4)年
 9月 天智、病気になる。
 11月24日 近江宮で火災
 12月3日 天智、近江宮で死去
 12月11日 新宮で殯

 これですべて。埋葬記事がないのだ。天智を埋葬したという記事は「天武紀」にも「持統紀」にもまったくない。ただ、壬申の乱勃発直前に、関連する記事が一つだけある。大海人の家来が大友側の動向を報告する記事(672(天武元)年5月是月条)の一節。

是の月に、朴井連雄君(えのゐのむらじをきみ)、天皇(大海人のこと)に奏して曰さく、「臣、私の事有るを以て、獨り美濃に至る。時に朝庭(近江朝のこと)、美濃・尾張、両国司に宣して曰はく、『山陵造らむが爲に、豫め人夫を差し定さだめよ』とのたまふ。則ち人別(ひとごと)に兵を執らしむ。臣、以為(おも)はく。山陵を爲(つく)るには非じ。必ず事有らむと。・・・

 天智の死の翌年のことである。山稜を造る名目で集めた者たちに武器を持たせているという報告だ。素直に読めば、このとき陵墓は造られなかったと読める。当然、埋葬もされていない。天智が改葬されたという記録もまったくないから、とうぜん699(文武3)年に造られた山科の山陵が初めての天智陵ということになろう。ではそれまで、一体、天智のなきがらはどうなっていたのだろうか。ちゃんと亡きがらを葬ったのだろうか。近畿王朝にとっては、「天命開別」という近畿王朝の始祖という意味合いの諡号をつけた重要人物なのに、実に冷淡な扱いだ。このような国記が示す記録状況を勘案すると、『扶桑略記』が記す説話がにわかに真実味を帯びてくる。

〇十二月三日。天皇崩御」同十二月五日。大友皇太子。即為帝位。【生年廿五。】」一云。天皇駕馬。幸山階郷。更無還御。永交山林。不知崩所。【只以履沓落處為其山陵。以往諸皇不知因果。恒事?害。】 山陵山城國宇治郡山科郷北山。【高二丈。方十四町。】」元年壬戌。如来滅跡一千六百一十一年。

 意訳してみる。
「天皇は馬に乗って山階郷に出かけていったが、帰ってこなかった。長いこと山林を探したが、なきがらは見つからなかった。ただ履いていた沓(くつ)が落ちていたので、そこを山陵とした。亡くなった原因は分からない。殺害されたとも言われている。」

 このような説話が残されているのも故なしとしないが、今のところ真相は闇の中としか言えない。天智陵が発掘調査されれば真相が明らかになるだろう。ちなみに、宮内庁は天智陵を現在地名で京都市東山区山科御陵上御廟野町に比定している。

 次の論文には天皇陵比定の経緯や発掘調査要求の歴史が詳しく書かれている。参考までに紹介します。

藤田友治『「天皇陵」発掘調査要求運動の現段階とその意義について』
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(83)

「天智紀」(71)


「斉明の陵墓」の追記


 10月4日の東京新聞夕刊・文化欄で、考古学者・米田文孝氏が牽牛子塚(けんごしづか)古墳(奈良県明日香村)の直近の発掘成果の報告記事を書いていた。米田氏は、これまでの発掘成果を総合して、「被葬者は墓誌が出土しない限り断定できないが、状況証拠はそろった」と、牽牛子塚古墳は斉明陵である可能性が大きいと示唆している。

 続いて翌日の朝刊の「はてな ニュース なるほど」という青少年向けの教育欄で 『「斉明陵」特定の決め手は』 と題して、上のニュースを、小学生にも読めるようにと漢字にルビ付きで、分かりやすくより詳しく解説していた。その中に次の一文があり、びっくりした。

「続日本紀には699年に天皇を埋葬し直したと読める記述があります」。

 私は『続日本紀』にそのような記事があるのを見逃していた。さっそく調べてみた。文武3年10月条だった。

冬十月甲午(13日)、詔したまはく、「天下の罪有る者を赦す。但し十悪・強窃の二盗は、赦の限りに在らず」とのたまふ。越智・山科の二の山陵を営造せむと欲(す)るが為なり。

辛丑(20日)、浄広肆衣縫王、直人壱当麻真人国見、直広参土師宿禰根麻呂、直大肆田中朝臣法麻呂、判官四人、主典二人、大工二人を越智山陵に、浄広肆大石王、直大弐粟田朝臣真人、直広参土帥宿禰馬手、直広肆小治田朝臣当麻、判官四人、主典二人、大工二人を山科山陵に遺して、並に功を分ちて修(おさ)め造らしむ。


 埋葬記事ではなく、造陵記事だった。ここに出てくる越智山稜が斉明陵であり、山科山稜が天智陵であるとされている。岩波の補注を読むと、その根拠は『諸陵寮式』のようだ。しかし、埋葬記事はない。埋葬記事がないのは不可解だが、陵を造ったのだから埋葬したのだろう、と「埋葬し直したと読める」と考えてもよいだろう。山稜は造ったが、そのあと何もしなかったと考える方が不自然だ。

 ここで思いついて、念のためウィキペディアの 「牽牛子塚古墳」 記事を読んでみたら、もうすでに直近の発掘成果も盛り込んでいた。東京新聞の二つの記事の内容はすべて含まれていて、充実した内容になっている。最後の陵墓比定に関する部分を引用しよう。

 『日本書紀』には、「天智天皇は、母である斉明天皇の命令を守り、大工事をしなかった」と記している。これは、被葬者を斉明天皇とみなすことについての慎重論の根拠たりうるが、被葬者が斉明天皇であるとした場合でも、葬送者は天智天皇ではないことの論拠ともなりうる。

 そのいっぽうで『続日本紀』には、斉明天皇陵(越智崗上陵)が「修造」されたとの記事が文武天皇3年(699年)のこととして記されており、この記載を根拠に、この年、斉明天皇が文武天皇により改葬されたのではないかと考える研究者もいる。

 「中大兄の動向」 で論じたように、私は斉明葬送のために帰国した一団の中には中大兄(天智)はいなかったと考えているので、牽牛子塚古墳が斉明陵であるか否かに関わらず、「葬送者は天智天皇ではない」という説を支持する。

 また、もし牽牛子塚古墳が斉明陵であるのなら、「文武天皇により改葬された」という説が正しいことになる。発掘の結果、牽牛子塚古墳は初めから合葬用の構造になっていたというから、考古学的にもこの説が成り立つ。ただ、この説を唱えている学者には、それでは改葬前は何処に葬られていたと考えているのか、聞きたいものだ。朝倉には全く触れないだろう。たぶん宮内庁指定の車木ケンノウ古墳だろうか。この古墳と牽牛子塚古墳とはわずか2.5キロしか離れていないという。なぜ改葬の必要があるの?

 さて、米山氏は「墓誌が出土しない限り断定できないが」と慎重だが、私は「牽牛子塚古墳は斉明陵であり、改葬者は文武天皇」という説は正しいと、もうほとんど確信している。この仮説が正しいという前提で、改めて『扶桑略記』の斉明陵記事と「復元」年表の斉明の葬儀関連記事を検討してみよう。

 七月廿四日、天皇崩ず。山陵、朝倉山。【八月。葬喪の夕、朝倉山上に鬼有り。大笠を着け喪儀を臨み視る。人皆これを見る。」陵高三丈。方五町。】大和國高市郡越智大握山陵に改葬す。【十一月、これを改む。】

 最後一文【十一月、これを改む。】の意味がいまいちはっきりと解せなかったが、「11月に改葬した」という意味だろう。上の造陵記事と合わせると納得できる。10月造陵、11月に改葬。

 次は「復元」年表

666(白鳳6・斉明12)年
 7月24日 斉明、朝倉宮で死去
      (朝倉郡恵蘇宿に埋葬)
 8月1日 中大兄皇子、喪のため磐瀬宮に至る。
 10月7日 なきがらは海路を帰途につく。
 10月23日 なきがらは難波に泊まる。
 11月7日 飛鳥川原で殯
667(白鳳7・斉明13)年
 2月27日 斉明・間人大后を小市岡上陵に合葬

 この年表のもとに、私は 「斉明の陵墓」 で、私は次のように書いた。

『「斉明紀」では斉明のなきがらを運んでいって、大和の飛鳥川原で殯をしたことになっている。なきがらを掘り出して運んだのだろうか。そうだとすると、一度埋葬してすぐに掘り出したことになり大変不自然である。私は飛鳥川原での殯、その後の改葬は形式的なものだったのではないかと思う。いまでも故人の身体の象徴として毛髪が用いられているが、「斉明紀」が言う「なきがら」とはそのような象徴的な身体の一部だったのではないだろうか。後に詳しく書く予定だが、この葬送船団には何よりも皇太子とされている中大兄が同行していないのだ。そうした斉明の遺品とともに、斉明と同行してきて朝倉にいた貴族やその妻子たちが大和に帰国した。飛鳥川原では斉明の遺品を用いて殯・改葬を行った。』

 改葬者が文武天皇だとすると、「斉明紀・天智紀」の斉明葬儀記事はすべて偽装記事ということになり、それをもとに判断した私の説も成り立たないことになる。この一連の斉明葬儀記事は・・・まさかとは思うが、あえて大胆な推測をすると、〈『続日本紀』に記録すべき記事を『日本書紀』に挿入した〉。

 最後にもうひとつ。牽牛子塚古墳からの出土品の中に女性のものと思われる歯があったという。そうすると、33年後だからもう遺体は白骨化していただろうが、朝倉から遺体そのものを移送し、改葬したことになる。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(82)

「天智紀」(70)


近江令と庚午年籍(5):庚午年籍はどのように扱われたのか


 ④~⑨は氏姓訂正や身分回復などで訴え出た者たちにそれを許可した記事である。その訴人たちの所属する国は次の通りである。
④木国(紀伊国)・⑤⑥阿波国・⑦⑧尾張国⑨讃岐国

 これらの訴えを検討するため担当官吏は庚午年籍を調べたことだろう。つまり各国の庚午年籍が存在したことが分かる。庚午の造籍はおそらく倭国のすべての分国で行われたと思われる。

 ところで、③の記事が不可解である。


 727(神亀4)年7月27日
筑紫諸国の庚午籍七百七十巻に官印を印した。

 当初、庚午年籍にはそれぞれの国の国印あるいは官印が押されていたはずだ。あるいは九州王朝の官印だったかも知れない。①の勅令に従って、ヤマト朝廷はそれらを提出させて新たに近畿王朝の官印(たぶん太政官印)を押して、太政官府の書庫など、しかるべき所に一括管理・保存したと思われる。

 ではなぜ、庚午年籍保存の勅命を下してから24年も経ってから、筑紫諸国の庚午年籍に官印を押す記事が記録されたのだろうか。 ヤマト朝廷は727年になってようやく筑紫諸国の庚午年籍を入手できたと考えるほかない。九州王朝の武装抵抗勢力は708年頃には掃討された( 「九州王朝関係書物は「禁書」として処分された。」 を参照してください)ようだが、非暴力抵抗勢力はなお残存していただろう。 「「天智紀」(54)」 の「追記」で述べたように滅亡した九州王朝の残映は100年後、あるいは300年後にも残っている。ヤマト朝廷はその残存抵抗勢力が隠し持っていた庚午年籍を、ようやく727年になって探り当て没収したのではないか。筑紫諸国の戸籍には一目で九州王朝の存在がわかる資料がてんこ盛りだったはずだ。これを奪い取ったことはヤマト朝廷にとって特筆すべき事件だったに違いない。

 庚午年籍が筑紫諸国のみならず、すべての国に返されることなく、ヤマト朝廷が一括管理したという私の仮説を検討してみよう。

 まず状況証拠。
 初期のヤマト朝廷は倭国の行政制度を示す「評」を必死に隠そうとしてきた。『日本書紀』や『万葉集』では「評」をすべて「郡」に書き換えている。以後の戸籍の基準とするとしても、「評」だらけの庚午年籍を公示するわけにはいかないだろう。

 次に『続日本紀』の記事④と⑥を検討してみよう。

④764(天平宝字8)年7月12日(恐ろしく長い記事なので、面倒な方は赤字だけにして、あとは読み飛ばしてください。宇治谷孟訳をもとに、必要に応じて書き換えています。)
 これより先に、従二位少志文室(ふむや)真人浄三(じょうさん)らが次のように奏上した。
「謹んで去年12月10日の勅をうけたまわりますと、つぎのようであります。

〈紀寺の奴(ぬ)益人(ますひと)らが次のように訴えている。
紀袁祁臣(きのおけのおみ)の娘である粳売(ぬかめ)は木国氷高評(ひたかのこり)の人、内原牟羅(むら)に嫁いで、身売(みめ)・狛売(こまめ)の二人の子を産みました。急の事情があって、私が取りはからい寺家に住まわせ、寺の工人らの食事を作っておりました。その後、庚寅編戸の年(持続4年)の戸籍作成のとき、三綱(寺院の統括に当たる僧職)が人数を調べた時、彼らを奴婢としてしまいました。こういうわけで長い間、これを訴えてきたのですが、はっきり正す手だてがなく、空しく多くの年を過ごして、今に至るまで滞っております。幸いに今の天子の朝廷が、天下を照らし治められる時代になりましたので、今まで心のふさがり晴れなかった思いを述べさせて頂きます。謹んでお願い申し上げることは、名を正して頂きたいということであります』。
 人が賤民となったり、良民となったりすることは、因果があってのことである。身分の浮き沈みには理由があり、その報いは必ず相応にあらわれる。所司はこの事情をよく承知して、仔細に浮沈の赴くところを推しはかって調べ、判断して報告せよ〉。

 そこで浄三らがつつしんでおごそかな勅の意を体し、古い記録の文をさがしましたところ、僧綱(そうごう)所にありました庚午年籍に、寺の賤民の名を記してある中に、奴の太者(たしや)と娘の糠売および糠売の子身売・狛売の名がありました。賤民のうち、両親のどちらかが奴稗であるため子どもが奴脾にされたものは、その理由が明らかにされているのに、大者と子はその理由が記されておりません。ある人が
〔戸令に『すべて戸籍は常に五比を保存し、古い年のものは順次廃棄せよ。但し近江大 津宮の庚午年籍は廃棄しない』とあります。これは庚午の年の年籍が氏姓の根本となるためで、後世、氏姓を偽り欺く者が真実を乱すことを防ぐためでしょう。従ってこれによれば、庚午の年の戸籍に賤民とあればやはり寺の賤民とすべきである〕
といい、またある人は
〔賞を行なうのに、功績が疑わしいときには重い方の賞に従い、刑に処する場合、罪が疑わしいときは軽い方の刑に処する、ということが古典に明記されています。どうしてこれを取らないでよいでしょうか。これによって改めて審議すれば、あるいは身分を上げて良民とすべきである〕
といいます。二つの説が対立しており、それぞれ長所を争っております。浄三らは愚かであって、どちらが正しいのか迷っております。軽はずみながら、自分たちの狭い意見を述べ、つつしんで天皇のご裁決を仰ぎたいと思います」。

 これに対する天皇の勅を承ったところ、「後の方の判断に拠れ」とのことであった。これにより益麻呂(益人)ら12人を賤民の身分から解放し、紀朝臣の姓を賜わった。
(まだ続くが、後は省略する)

 紀寺の訴えの件を「断して報告せよ」という勅命をうけた浄三(従二位だからかなりの高官)が、僧綱所に保管されている庚午年籍を調べたとう記事である。僧綱所というのは、岩波新古典文学大系『続日本紀』の脚注によると、僧尼統制機関で太政官奏により薬師寺に常設されていたという。庚午年籍の寺院関係の文書はそこに保管されていたというわけだ。それ相応の役職と理由をもった者にしか閲覧できなかったのではないか。

 なおテーマからは外れるが、この記事には注目すべき文言が二つある。一つは「庚寅編戸の年の戸籍作成」である。「持統紀」には戸籍記事が二つある。

689(持統3)年閏8月10日
諸国司に詔して曰はく、「今冬に、戸籍造る可し。・・・・・・」とのたまふ。

690(持統4)年9月1日
諸国司に詔して曰はく、「凡そ戸籍を造ることは、戸令に依れ」とのたまふ。

 もちろん九州王朝の事績の盗用記事である。庚午年籍のちょうど20年後に再び造籍が行われたことになる。岩波の補注は上の二つの記事を結びつけて、作り方が不統一だったので翌年「戸令に依れ」と指示した、と説明している。『続日本紀』では690年の干支「庚寅(こういん)」を用いて「庚寅年籍」と呼んでいる。『続日本紀』には庚寅年籍によって部姓を与える記事(和銅4年8月4日条)が1件あるが、上の記事のよれば、あくまでも庚午年籍が基準とされている。ちなみに、大宝律令以降の造籍は6年おきに行われている。

 もう一つは「木国氷高」。近畿王朝が必死に隠そうとしていた「評」がはからずも記録されてしまった。「上手の手から水が洩れる」ということわざがあるが、「下手の手からは必ず水が洩れる」と言おうか。そういえば、724(神亀元)年10月1日、聖武天皇も九州年号という水を漏らしていたっけ。「白鳳以来・朱雀以前、年代玄遠なり」と。

⑥ 773(宝亀4)年5月7日
 阿波国勝浦郡の郡領、長費人立(ながのあたいひとたつ)が次のように言上した。
「庚午の年に、長直の戸籍には皆〈費〉の字が使われました。このために前郡領の長直救夫が訴え出て、〈長直〉と改めて注記しました。ところが、天平宝字二年に、国司・従五位下の豊野真人篠原は、証拠となる記録はないとして、再び「長費」に戻しました」。
 太政官は判断して、庚午年の戸籍に従って決定した。
(以下略す)

 訴人は「庚午年籍では〈費〉は正しくは〈直〉と注記してもらったはずなのに、天平宝字2年の造籍では〈費〉に戻されてしまった」と訴えている。国司の豊野は「証拠となる記録はない」と言ってい訴えを却けている。一方、太政官は庚午年籍によって訴えを認めている。この記事からは、太政官は庚午年籍を閲覧できるのに対して、国司は「証拠となる記録」を確認するのに庚午年籍を使えなかったことを示している。つまり国司の手元には庚午年籍はなかった。

 なお、「古賀事務局長の洛中洛外日記」(第百十八話)で古賀さんは庚午年籍の保存はそれぞれの地域で行っていたと考えていて、次のような論拠を提出している。

 更に時代が下った承和6年(839)7月の時点でも、全国に「庚午年籍」の書写を命じていることから(『続日本後紀』)、9世紀においても、評制文書である「庚午年籍」が全国に存在していたことがうかがえます。

 私はこの庚午年籍書写の記事は、逆に、それまでは中央で保存管理していた証拠ではないかと考える。近畿王朝成立から1世紀以上もたった時代、近畿王朝の支配体制(律令制度)は盤石なものとなり、九州王朝の痕跡をあえて隠す必要もなくなっていた。そして庚午年籍はまだ戸籍の基準の役を担っていたが、もはや一括管理の必要もなくなった。各国毎に書写させて、各国にそれぞれの庚午年籍を保管させたのではないだろうか。もしかすると、書写の時に「評」をすべて「郡」に書き換えさせたかも知れない。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(81)

「天智紀」(69)


近江令と庚午年籍(4):なぜ造籍が行われたのか


 「近江令」という命名の仕方にならい、「近江令」・「浄御原律令」に該当する倭国の律令を「筑紫令」・「筑紫律令」と呼ぶことにしよう。

670(天智即位3)年2月
戸籍(へふみた)を造る。盗賊(ぬすびと)と浮浪(うかれひと)を断(や)む。

 なぜこの時期に造籍が行われたのだろうか。「盗賊と浮浪を断む」という一文が造籍の理由あるいは効用を表わしているようだが、こんな単純な問題ではないだろう。

 造籍を規定した筑紫令も含めて、この問題を「なぜこの時期に令が施行されたのか」と言い直そう。この問題については『古田武彦と「百問百答」』(以下、「百問百答」と略す)で古田さんが語っているので、それを引用する。

 それら(「筑紫令」・「筑紫律令」)の「施行」は不可避です。なぜなら「白村江の敗戦」によって、数多くの将兵が死亡したり、捕虜になって“一定期間”帰ってこない。そこには、当然「土地や財産」の所有・権利関係が「不明確化」する。そのため、「他人(親族や近隣者を含む)からの“奪権”問題も、数多く存在したはずです。これらに対する新たな「令」や「律令」の施行は当然「不可欠」です。それが七世紀後半の「白村江の敗戦」以後の実状況です。

 この時期に律令の施行および造籍が不可欠だったことが納得できよう。

 庚午年籍という言葉も『日本書紀』にはない。上の造籍記事の670年が干支の庚午年なので「庚午年籍」とよばれ、『続日本紀』から使い始められている。『続日本紀』には庚午年籍に関わる記事が9件ある。その9件の記事の日付は次の通りである。


 703(大宝3)年7月5日

 714(和銅7)年6月14日

 727(神亀4)年7月27日

 764(天平宝字8)年7月12日

 767(神護景雲元)年3月16日

 773(宝亀4)年5月7日

 781(天応元)年5月29日

 782(延暦元)年12月2日

 791(延暦10)年9月20日

 791年は『続日本紀』が扱っている最後の年である。少なくとも、このおよそ1世紀の間は庚午年籍が氏姓・身分の基準として使われていたことになる。何時廃棄されたのか分からないが、庚午年籍は今はまったく残されていない。

 上の一覧表には、もししかすると取りこぼしがあるかも知れないが、取りあえず随時これらの記事を用いて、庚午年籍とは何なのか調べてみよう。(『続日本紀』に記事は現代語訳で引用する。)


703(大宝3)年7月5日
次のように詔された。
「籍帳を設けることは国家の大きな信にかかわることである。しかし時とともに変更したりすると、必ず偽りが起こる。今後とも庚午年籍を基準とし、また安易に改めることのないようにせよ。」


 庚午年籍を常に戸籍の基準とし保存せよ、言っている。このことは養老律令にも書かれている。「戸令・戸籍条」で
戸籍は、常に5回分(=30年分)を保管すること。遠年のものは、次のものの作成に従って破棄すること。{近江の大津の宮の庚午の年の籍は破棄しない}。({ }は原文の本注)
とうたっている。

「官制大観」 というサイトで養老律令の条文(現代語訳)がすべて読める。これを利用しています。ネットってすごいね。)

 倭国の盟主だった九州王朝はその王朝創設以来一貫して、政治的にも文化的にも、どの分国より先進的であった。権力を奪取したヤマト朝廷は九州王朝の多くの王族・官僚・知識人を登用している。九州王朝に代わって権力の基盤を盤石のものとするためには必要不可欠の施策だった。

 養老律令(大宝律令)は「筑紫律令」を踏襲・改変したものであったろうし、戸籍も庚午年籍を引き継いだのも当然のことだった。すべてを白紙に戻して、まったく一からやり直す実力はまだなかったろう。またそんなことをしたら、諸国の王はじめ民衆の反発・不満が高じて大変な混乱を引き起こしたことだろう。


714(和銅7)年6月14日

若帯日子という姓は国諱に触れるので(成務天皇の実名が若帯日子)、改めて居住地に因んで姓を賜わった。
国造人という姓をもつ者は、人の字を除き国造とした。
寺人という姓は本来は物部の一族である。ところが庚午年籍では、居住地に因んで寺人と名づけた。しかし(寺人の姓では寺奴婢や寺家人などの)賤民や奴婢の身分とまぎらわしい。そこで寺人という姓を除き、改めて本の姓(物部か)に従うこととした。


 庚午年籍が単なる課税のための人民台帳というような役割よりは、むしろ人民の身分や氏姓を確定するための台帳として作られたことがうかがえる。そのような性質の戸籍であったからこそ「庚午年籍を基準とし、また安易に改めることのないようにせよ」という勅が必要だった。②では問題点を朝廷が進んで取り上げて、改姓を決定している。④~⑨の6例は、貴族・官僚や人民が庚午年籍の記録を根拠に改姓を願い出て天皇あるいは朝廷がそれを許可する記事である。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(80)

「天智紀」(68)


近江令と庚午年籍(3):近江令はなかった


(以下は古田さんの講演録「大化の改新と九州王朝」を参考にしています。)

 「近江令はなかった」ことはすでに 「日本国の律令(1)」 「日本国の律令(2)」 で論じていたことを思い出した。ここでは井上説にそって、「日本国の律令」では詳しく触れなかった点だけを補充することにする。

 井上説は近江令の存在を大前提としている。その根拠は「天智紀」の「造籍」記事である。

670(天智即位3)年2月
戸籍(へふみた)を造る。盗賊(ぬすびと)と浮浪(うかれひと)を断(や)む。

 「戸籍を作った」と書いてあるだけだ。この記事から、戸籍を作るからにはそのもとになる「戸令」があったはず、つまり近江令があったはずだと推論しているようだ。その推論が正しいという論拠として(1)と(2)が挙げられている。後世の史料の史料批判も不十分だけど、『日本書紀』には「近江令を作った」という記事がまったくないことには全く触れようとしないのはどうしたことだろう。律令制定という国家の根幹に関わる重要事業を「国書」に記録し忘れたとでも考えているのだろうか。ともあれ井上氏と同じ土俵にのぼって、「近江令があった」と仮定してみよう。

 井上氏は(3)の天武紀10年2月条は「(近江)律令更改の詔で、これが実ったのが(4)の飛鳥浄御原令である」と主張している。しかし残念ながら「浄御原律令もなかった」と言わなければならない。

 (3)をよく読んでみよう。
「朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲す。」
と言っている。つまり「律令を作りたい」と言っているだけだ。そして「天武紀」のどこを調べても「浄御原律令を作った」とは書かれていない。従って天武期に律令が完成した主張する(b)説は文章を誤読していることになり、成り立たない。その限りでは、井上氏が(b)説をとらなかったのは正しい。

 しかし井上氏は「「天武朝の未年に中断され」、天武期には完成しなかったが、「それを発展的に吸収・解消することによって、浄御原令が成立した」と、浄御原令は持統紀に「成立した」と主張している。では(4)も改めて精読してみよう。

(4)
689(持統3)年6月条29日
詔司に令一部廿二巻班(わか)ち賜ふ。

 この記事にはおかしなことが二点ある。一つは、天武は「律令を作りたい」と言ったはずなのに、ここには「令」しかない。「律」がない。これに対しても、「令だけで律はなかった」いや「両方あったのだが、律は作ったが施行しなかった」などいろいろ説があるらしい。そう言えば教科書などでは「飛鳥浄御原律令」とは書いていない。「飛鳥浄御原」と書いている。

 もう一つのおかしい点は、井上氏は浄御原律令は持統期に完成したと言っているが、「持統期」にも「律令が完成した」という記事がない。作った記事がなく、「班賜」記事だけがある。おかしい。この場合も「定説」論者たちは、「持統が班賜した以上は、作完成記事がなくても、完成したことになる」とか「完成したけれども記録は省略されてたのだ」などと考えているようだ。しかし、完成記事がない以上、「作られなかった」のだし、「作られなかった」のに「班賜」したのなら、その「令」はヤマト王権以外の所で作られたものだと考えざるを得ない。

 あくまでもヤマト王権が律令を作ったと主張するのなら、以上のような「ないないづくし」をすべて説明しなければいけない。説明できなければ、(a)・(b)・(c)のどの説も机上の空論でしかないことになる。

 実は、ヤマト一元主義者たちのどの説も空論でしかないことを示す決定的な証拠がある。古田さんは、大阪の四天王寺所蔵の「威奈大村骨蔵器(銅製鍍金)〈慶雲4年、707〉に刻まれた金石文を挙げている。そこには
「以大寶元年 律令初定。」
と、はっきりと刻まれている。これは「大宝元年に律令が初めてできた」という事実が近畿王朝内での常識だったことを示している。

 『「郡評」論争』 で井上氏に軍配をあげたのは当時新たに出土した木簡だった。その木簡に「評」が記録されていたのだった。歴史研究において金石文が第一史料であることを身にしみて知ったであろう氏は律令問題では金石文に見向きもしない。このところ読んできたヤマト王権一元主義者の著書がすべて、自説に都合のよい史料だけを採用し、自説に反する史料は無視するというご都合主義で成り立ってことを思い知らされてきた。井上氏の律令説もご都合主義と言わなければならない。あるいは上記の金石文を氏はご存じなかったのだろうか。

 最後に古田さんの結語に当たる部分を引用しておこう。(〈 〉は私の補足)

 要するに日本列島の中で、律令なんて作れる人間は、天皇家以外、恐れおおくもありえないというのを、論証以前の絶対命題にしてすべての論争、戦後古代史の学者の論文はなされているのです。この土俵の中でされているから、先程のようにいじくっていじくって結論がでないのですよ。〈『日本書紀』の〉文章がこのように不揃いなものですから。

 私は思うのですが、このようなの〈律令をめぐる事柄〉は『日本書紀』を作る直前の話ですよ。七世紀の後半です。皆知っている。本人も知っている。現場にお祖父ちゃんが、お父さんがタッチした、「班賜」したのを見た人達ばかりの中で『日本書紀』はできたのですよ。そこでうっかり、「律令を作った」のを忘れて、書くのを忘れた、などということは、ありえないと思うのです。忘れるにしては、あまりにも、ことが重大すぎます。忘れ得る性質のものではない。にもかかわらず、「近江令を作った」と書いていない。浄御原令なるものも「作った」と書いていない。ということは、ちゃんと作ったとは、書くに書けないものであった。言い換えると、それは近畿天皇家が作ったものではない、ということになってくるのです。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(79)

「天智紀」(67)


近江令と庚午年籍(2):「定説」近江令


 戸籍を作るからにはそのもとになる「令」があるはずだ。つまり「近江令」と呼ぶべき「令」があった。これがヤマト一元主義の立場での論理である。しかしことはそれほど単純ではなく、近江令そのものを否定する説もあるようで、「定説」はいまだ一つにまとまっていないようだ。

 近江令の存否についてはこれまでに何度か触れてきたが、いい機会なので少し詳しく取り上げておこうと思う。まずこの問題は従来はどのように論じられていたのか、調べてみる。井上光貞氏の論文「大化の改新と東アジア」(岩波講座・日本歴史2」所収)に諸説をまとめらているくだりがあるので、それを用いる。

 近江令という言葉は『日本書紀』にも『続日本紀』にもない。後世に作られた言葉である。10世紀始め頃に成立したと伝えられる弘仁格序(こうにんきゃくじょ)に「近江朝廷の令」という言い方で出てくる。

(1)
蓋し聞く、律は懲粛(ようしゅく)を以て宗と為し、令は勧誡(かんかい)を以て本と為す。・・・・・・降って天智天皇元年に至り、令廿二巻を制す。世人所謂近江朝廷の令なり。

 『新撰日本史史料集』(令分社)から転記した。「天智天皇元年」に(662)と注記が付けられているが、ここの元年は「即位元年」(=称制7年)であり、正しくは668年である。もちろん、この年の条はもとより、「天智紀」には律令に関する記事は全くない。

 また近江令の存否をめぐる論争で引き合いに出される史料がもう三つある。一つは次の「藤氏家伝」(天智七年の段)中の一文である。

(2)
帝(てい)、大臣(おほおみ)に礼儀を撰述せしめ、律令を刊定せしめたまふ。天(あめ)・人の性(さが)に通して、朝廷(みかど)の訓(をしへ)を作る。大臣と時の賢人(さかしきひと)と、旧章を損益(おとしくは)へ、略(ほぼ)条例を為(つく)る。

 他の二つは「天武紀」と「持統紀」にある「令」に関する記事である。

(3)
681(天武10)年2月25日
天皇・皇后共に大極殿に居(おは)しまして、親王・。諸王及諸臣を喚(め)して、詔して曰はく、「朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲す。故、倶に是の事を修めよ。然も頓(にはか)に是のみを務(まつりごと)に就(な)さば、公事闕(か)くこと有らむ。人を分けて行ふべし」とのたまふ。

(4)
689(持統3)年6月条29日
詔司に令一部廿二巻班(わか)ち賜ふ。

 (1)と(4)の巻数が一致することを軸にして、諸説が争っている。およそ次の三つの説にまとめられるようだ。

(a)
「(1)・(2)ともに史実にもとづく史料である。近江令は天智7年に成って部分的に施行された。天武朝にその更改がおこなわれて浄御原令となった。そして(4)はその施行記事である。」
(b)
「近江令は天智朝によって起草された。そして制定の途中、一部分は時々単行法として施行されていた。しかし原案全部の修正が完成したのは天武朝(683)で、公布されたのは持統朝である。(4)は近江令の施行を示す記事である。」
(c)
「(1)・(2)は後世の解釈であり、史料として採用できない。(4)は(3)の浄御原令の施行記事である。したがって近江令は存在しなかった。

 では、井上氏自身はどのような説をとなえているのだろうか。(井上氏が「ヽ」を付している文字を「太字」で示した。)

 筆者は特に、(3)天武紀10年2月条の「朕今欲定律令法式〔下略〕」の詔を重視して、やはり(a)説が妥当であるとするものである。なぜなら、(3)は律令更改の詔で、これが実ったのが(4)の飛鳥浄御原令であるが、律令を更改する以上、その前に律令法典、即ち近江令ができていなくてはならないからである。筆者も近江令がまったく完成にされたとは考えず、(2)に「略々条例をなす」と書くのもそのためとおもう。しかし、近江令なる法典の制作が、天武朝の未年に中断され、それを発展的に吸収・解消することによって、浄御原令が成立したのである。なお、(a)・(b)説が近江令の部分施行とするものを、令法典なしの単行法とする説もだされているが、筆者は近江令を否定する(c)説をとらないから、この説にも賛成しがたい。
 私(たち)の立場からはこれらの説すべてを、「倭国令」という一言で一蹴することは簡単だが、九州王朝を認めない者には馬耳東風だろう。代表として井上説を取り上げ、少し丁寧に批判してみよう。