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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(78)

「天智紀」(66)


近江令と庚午年籍(1)


 『週間金曜日』(9月24日号)のコラム「谷村智康の経済私考」は「超高齢者報道が明らかにした杜撰な多重管理戸籍はそろそろ止めましょう。その代わり……」という表題で、現在の戸籍制度の問題点を論じていた。その文中に次のような一節があった。

 戸籍は、日本人が家族単位で定住していた時代に最適化された、当時としては最先端のデータベースだった。古くは、白村江(はくそんこう)の戦いに敗れて、倭から日本に国名を改めた際に、徴兵と徴税のために導入されたシステムが原型で、いまだに優秀な仕組みであることは、「生きているとは思えない超高齢者」の存在をあぶり出すに役立ったことからもわかる。

 ここで谷村氏が戸籍の「原型」と言っているのは、たぶん「庚午年籍(ごうごねんじゃく)」のことだろう。いずれ「庚午年籍」を取り上げようと思っていたところなので、上の文章にことさら注意が向かったのだった。なお、特に目くじらを立てるほどのことではないが、「倭から日本に国名を改めた」は正確には「倭から日本に権力が移行した」と言うべきだろう。また谷村氏が「庚午年籍」のことを指しているのなら、その頃の国名はまだ「日本」ではなく、弱体化したとはいえ、いまだ九州王朝が中心権力の倭国だった。

 ここで改めて天智即位後の「復元」年表を見てみよう。

668(白鳳8・天智元)年

1月 天智即位

☆6月 伊勢王とその弟王
      日を接いで死去。

☆11月10日 唐占領軍第二陣来る。
     筑紫君薩夜麻を同行。


669(白鳳9・天智2)年

☆百済の王族(佐平余自信、
 佐平鬼室集斯)男女700余人と
 、近江国蒲生郡に移り住む。


670(白鳳10・天智3)年

☆2月 戸籍を作る。
  (いわゆる「庚午年籍」)


671(白鳳11・天智4)年

☆1月6日 冠位26階を制定

9月 天智、病気になる。

11月24日 近江宮で火災

12月3日 天智、近江宮で死去
 私はほとんどに「☆」印(九州王朝の事績という意)を付けた。その理由を述べておこう。

 「「伊勢王とは誰か」(1)」「「伊勢王とは誰か」(2)」で論じたように、伊勢王は九州王朝の天子継承者の可能性が大きい。もしそうなら、唐占領軍が画策した倭国傀儡政権の首長に就任させられたはずだ。その伊勢王とその弟王が日を接いで死去している。この2人の死も単なる病死とは思われない。覇権を一気に奪取しようとした天智・鎌足の謀略だったかも知れない。

 伊勢王とその弟王の死によって、倭国の諸王を納得させるにたる正当性をもった後継者がなく、苦慮した唐は、筑紫君薩夜麻を解放して倭国の天子位に復権させた。もちろん、薩夜麻が唐の意向に沿う政策を遂行するという密約を結んでのことだろう。

 白村江での大敗、唐占領軍の駐留、伊勢王兄弟の死などで、民衆の間でも支配階級の間でも悲嘆と不満が渦巻き、倭国は混乱の極みにあった。薩夜麻がまず行ったことは、混乱した倭国をまとめ直すことであった。その2大政策が「庚午年籍」と「冠位26階の制定」であった。

 私はかつては『日本書紀』の記録通り、664(天智称制3)年の冠位制定は天智によるものと思い込んで、敗戦直後のそのはしゃぎぶりを指摘して、それをヤマト王権が白村江の戦いを戦わなかったことの証左とした。しかし「復元」年表を作るに当たって、664年の記事と671(天智即位4)年の冠位施行記事は重複記事だと確信した。いまここでかつての説を撤回したい。「冠位26階の制定」は薩夜麻による倭国支配階級を取りまとめ直すための懐柔策だったと考える方が妥当だと思う。

 このように見てくると、ヤマト王権の大王に即位した後の天智の業績はほとんど何も残らない。

 さて、それでは「庚午年籍」はどういう意味をもっていたのだろうか。
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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(77)

「天智紀」(65)


近江遷都(23):なぜ近江に?(3)


 これまで天智が遷宮先を近江国滋賀郡に求めた理由をめぐるさまざまな説を検討してきたが、考古学的証拠や文献的根拠による論証として納得できるものはなかった。大部分が他資料の切り貼り・改竄・隠蔽で成り立っている『日本書紀』から真実を抜き出すことのむずかしさと危うさを改めて思い知らされたことだった。

 しかし、仮説の根拠となしえる確かな資料が一つだけあった。近江国滋賀郡が百済系渡来人の集住する地であったという点だ。その他の単なる推測・憶測を排除して、この事実だけで考えるほかない。もちろん言うまでのなく、倭国の中心権力は九州王朝であり、ヤマト王権は九州王朝に次ぐ実力を備えていた国とはいえ、九州王朝の分国に過ぎなかったという歴史認識のもとで考えなくてはならない。

 白村江の戦いにヤマト軍が加わらなかった理由は何だろうか。古田さんはじめ多元史観の立場に立つ人たちのほとんどは、斉明の死を契機に「喪に服するため」を理由にしてヤマト軍は遠征軍に加わらなかったと論じている。しかし私は「天智称制期間の記事は斉明紀の切り取り」という立場から「復元」年表を試みたが、その年表では斉明の死は白村江の戦いの後になるので、私は「喪に服するため」という説をとらない。前にも述べたことだが、再述しておこう。

 『日本書紀』が描くヤマト王権史は権力闘争史と呼んでもよいほど王位継承をめぐってさまざまな陰謀・粛清が記録されている。当然のことながら斉明や天智の頃もヤマト王権の権力構造は一枚岩ではなかった。唐・新羅との戦闘参加をめぐっても、親唐派・反唐派が抗争していただろう。取りあえずは反唐派が勝ってヤマト軍を九州へ派遣した。筑紫君薩夜麻のもとで、各地方から招集された王たちによる戦略会議が重ねられたことだろう。ヤマト軍は親唐派(中大兄・鎌足ら)の策略が成功して遠征軍には加わらずに、有明海側の防御を受け持つことになった。

 古田さんは「反唐派」として蘇我氏を挙げている。「乙巳(いっし)の変」で蘇我蝦夷・入鹿は死んだが、蘇我氏が滅亡したわけではない。蘇我氏はなかなかしたたかである。その後も蘇我石川麻呂・蘇我倉山田麻呂などがヤマト王権内の要職について活躍している。そのような状況をとらえて、蘇我氏の権力を確立した蘇我馬子の墓とされている露出した巨石古墳「石舞台」は「乙巳の変」のときに破壊されたものとされているが、古田さんはその説を否定している。東京古田会編『古田武彦と「百問百答」より引用する。

〈質問〉
「第2次大戦後アメリカに占領された日本では、東京だけ占領されたのではなく、主要都市は全部抑えられたのですが、白村江敗戦後、大和は無傷でいられたのでしょうか?」

「大和と無傷」について。

 古代と現代を比較するとき、両者の間には、幾多の興味深い「共通点」があります。けれども、反面、「差異点」もあります。たとえば、「白村江の敗戦」の場合、倭国内には、
 (A) 戦闘勢力 (九州王朝)
 (B) 和睦勢力 (大和勢力)
の二つがありました。おそらく「中間派」もあったことでしょう。

 しかし、今回の敗戦(1945)の場合、そのような「国内分裂」はありませんでした。これは決定的な「差異点」です。

 従って、唐の戦勝軍は、九州では「山城群」や「天子の宮室」や「陵墓」などの破壊は行いましたが、大和へ「大挙侵入」した形跡はありません。その“証拠”として、いわゆる「天皇陵」は破壊されていません。

 この点、たとえば、博多湾岸の「三種の神器」の弥生王墓や筑後川流域の装飾古墳群とは、全く“ちがって”います。

 では、「大和は無傷だつたか。」と問われれば、「否」です。「反唐勢力の蘇我氏の勢力」(斉明天皇の九州進出をささえた)が覆滅されたのです。

 たとえば、あの「石舞台古墳」。蘇我氏の中心的古墳とされていますが、内部は“ガランドウ”です。“ものの見事に”破壊されています。あの装飾古墳群のように。しかも、もっと露骨に、「破壊」をみせつけています。

 それは何か。
 先ず、「通説」あるいは「俗説」のように、「645年の入鹿斬殺の結果、このような破壊が行われた」ものではありません。なぜなら、
①蘇我倉山田麻呂のように、蘇我氏はなお「健在」だった。彼等が「一族のシンボル」のような、この巨大古墳の「破壊」を“うけ入れる”はずはない。
②「中大兄や鎌足と敵対した」から、というのなら、聖徳太子と闘ったという物部氏の墳墓も“あばかれ”ていい。しかし、天理市の石上神宮周辺の物部氏関連の墳墓に、その形跡はない。「石上神宮」そのものも、“崇敬”をうけつづけている。

 以上によっても、右の 「俗説」 は成り立ちにくい。そう思います。では、なぜか。

 古田さんの答は「では、なぜか。」で終わっていているが、この古墳の破壊は蘇我氏が「反唐派」として破れた時の仕業ではないかと示唆していると思う。しかし疑問がある。「斉明紀」に、有間皇子を謀反人に仕立て上げたあの蘇我赤兄が登場する。赤兄は天智に仕えて左大臣にまで上りつめている。赤兄は破壊を“うけいれた”のだろうか。もしそうだとすると、これも蘇我氏のしたたかさを示す事例というべきか。ちなみに蘇我氏は近江朝が「壬申の乱」に破れたときに、一族流罪になり滅亡している。

 さて、「乙巳の変」以後、「天智紀」に再登場するまで『日本書紀』には鎌足について何の記録もない。中大兄もたいした活躍はなく影が薄い。中大兄・鎌足の権力基盤は案外と脆弱だったのではないだろうか。667(白鳳7・斉明13)年3月19日条(近江遷宮記事)に次のくだりがある。

是の時に、天下の百姓、都遷することを願はずして、諫(そ)へ諫(あざむ)く者多し。童謡亦衆(おお)し。日日夜夜(ひるよる)、失火の處多し。

 大きな反対を圧して、遷宮を強行したことがうかがえる。ヤマトを捨て、新天地で権力基盤を再構築しようとしたのではないだろうか。滋賀郡で渡来人が築き上げてきた力量豊かな人材、高度な文化と技術、はたまた盤石な経済力、これらを頼ったのではないだろうか。もしかすると渡来人側からの強い要請があったのかも知れない。

 天智が百済系渡来人を頼ったことから、天智の出自を百済王族とする説や九州王朝の王族とする説がある。その可能性もなきにしもあらずとは思うが、今のところそれを示す確かな根拠はない。深入りするのはよそう。ただ、天武の背後には新羅があったようで、壬申の乱は新羅対百済の代理戦争のような観もある。

 唐・新羅軍は668年に高句麗を滅亡させた。その後、唐と新羅は旧百済領の支配権をめぐって対立していた。676年、新羅は唐の追い出しに成功し朝鮮半島を統一する。そのためもあってか、天武は遣唐使を廃止している。遣唐使が再開されるのは大宝2年である。天武は遣唐使に代わって、遣新羅使を10回も派遣している。新羅からの遣使も24回ある。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(76)

「天智紀」(64)


近江遷都(22):なぜ近江に?(2)


 井上氏の基調講演を続けて聞いてみよう。

(中略)

 この渡来人との関係でとりわけ重要なのは、のちほど、林先生のお話にも出てくるかと思いますが、大津京(おおつきょう)、大津宮(おおつのみや)のことでございます。この大津宮が、なぜこの大津の地に営まれたのかは、まだなお解決されていない歴史学上の課題と申してよろしいかと思いますが、多くの方は、大和を離れて近江国に都を営んだのは、さきほどの「古代山城の分布図」からも読み取れますように、当時日本が政治的・軍事的に敵対関係にありました唐や新羅から逃げるためだという説が強うございます。

 確かに、唐や新羅の軍が大和の政権を襲うとすれば、山城がまさにそこに建設されておりますように、瀬戸内海経由の侵攻が予想されます。それを想定して、それらの山城は建設されたわけでありますので、当時の天智天皇を中心とする政権が、このコースによる唐や新羅の侵攻というものを真剣に恐怖していたことが、この山城の築城(幸いにしてそれは役に立つことはなかつたですけれども)からも理解できます。

 したがいまして、そのコースでいえば、大津宮は、大和の国よりも「後退」といいましょうか、後ろであります。つまり、一つの防御線を加えることのできる大津宮を大津に建設するというのは確かに納得できない説ではないのですけれども、しかし私は、いま申し上げましたような、近江の国における渡来人と渡来文化の環境を考えて見ますと、むしろもう少し積極的に天智天皇自身が、あるいは天智天皇政権自身が、そういう積極性を持った遷都のように思うのです。

 「唐や新羅の侵攻というものを真剣に恐怖」してはいたけれども、大津遷宮はその恐怖のためと言うよりもっと積極的な理由があると言っている。そしてそれは大津の「渡来人と渡来文化」に関わると言う。その積極的な理由とは・・・。

 つまり、逃げて大和から大津へ「退いた」と言うのではなくて、大津にむしろ「進んだ」といいましょうか、そのことは高句麗との関係で、私は、理解できるだろうと思っております。

 『日本書紀』の欽明天皇31年(570)4月2日の条(資料3)を見ていただきたいのですが、これは日本に初めて、高句麗(現在の北朝鮮から中国・東北地方にあった国です)から使節がやってきた時の史料です。この公式使節の日本列島への渡来のコースは日本海ルートでありまして、つまり現在の北朝鮮地域から日本海を横断して日本海岸につき、そこから近江を経て琵琶湖を南下して大和政権にアクセスする、そういうコースを初回の高句麗使節は、いみじくも通っております。 BR>
(後略)

(資料3)
570(欽明31)年4月2日
泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや)に幸す。越人・江渟臣裙代(えぬのおみもしろ)、京に詣でて、奏して曰さく、「高麗の使人、風浪(かぜなみ)に辛苦(たしな)みて、迷いて浦津(とまり)を失へり。水の任(まま)に漂流(ただよ)ひて、忽に岸(ほとり)に到り着く。郡司(こほりのみたつこ)隈匿(かく)せり。故、臣(やつがれ)顕(あらは)し奏す」とまうす。(以下略)

570(欽明31)年7月1日
高麗の使、近江に到る。

是の月に、許勢臣猿(こせのおみさる)と吉士赤鳩(きしのあかはと)とを遺して、難波津より發ちて船を奴狭波(ささなみ)山に控(ひ)き引(こ)して、飾船を装ひて、乃ち往きて近江の北の山に迎へしむ。遂に山背の高楲(こまひの)の館(むろつみ)に引(こし)入れしめて、則ち東漢坂上直子麻呂(やまとのあやのさかのうえのあたひこまろ)・錦部首大石(にしこりのおびとおほいし)を遺して、守護(まもりびと)とす。更(また)、高麗の使者を相楽(さがらか)の館に饗(あへ)たまふ。


 これらの記事から井上氏は「初回の高句麗使節」の記事であり、高句麗の「公式使節の日本列島への渡来のコースは・・・日本海を横断して日本海岸につき、そこから近江を経て琵琶湖を南下して大和政権にアクセスする」コースであった、という説を引き出している。そしてこのあと井上氏はおおよそ次のよう結論をしている。すなわち、近江大津は、唐・新羅の攻撃に対処する一環として、高句麗との親和外交(軍事的提携)を進める上で恰好の地であった。これが天智が近江に遷宮をした大きな理由の一つである。

 この説は、私にとっては初めて出会った説である。しかし残念ながらこの説も成り立たないことを示そう。

 上記の記事は高句麗からの遣使船が難破漂流して偶然に越の国に流れ着いたことを物語っているにすぎない。この記事から「公式使節の日本列島への渡来のコース」を読み取るのは甚だしいこじつけと言わなければならない。

 この記事には、道君(みちのきみ 土地の豪族か)という者が天皇をかたって、この漂着した高句麗の使人から「調」をだまし取っていたという何とも間の抜けたエピソードがついている。また、高句麗からの国書を読める者がヤマトの史(ふびと)の中には1人もいないで、王辰爾(おうじんに)という百済系渡来人が読み解いたという情けないエピソードも付いている。ともあれ、高句麗の使人たちは手厚い歓待をうけた上で、572(敏達元)年7月に帰国する。その翌年に次の高句麗使節の記事がある。面白いことにその遣使船も難破漂着している。

573(敏達2)年5月3日
高麗の使人、越海の岸に泊る。船破(わ)れて溺れ死ぬ者衆(おほ)し。朝庭、頻(しきり)に路に迷(まど)ふことを猜(うたが)ひたまいて、饗(あへ)たまはずして放還(かへしつかわ)す。仍りて吉備海部直難波(きびのあまのあたひなにわ)に勅して、高麗の使を送らしむ。

 度重なる漂着のため、ヤマトの官吏はこの漂着者が公式の使人であることを疑ったようだ。この記事にもけったいなエピソードが付いている。送使・難波は自分の船に高句麗の使人2人を乗せ、他の高句麗人は高句麗の船に乗せて出発する。途中で難波は荒波を恐れて、高句麗の使人2人を海に捨てて帰ってきてしまう。そして3回目の高句麗から遣使船がやってくる。

574(敏達3年)5月5日
高麗の使人、越海の岸に泊れり。

 今度は漂着ではない。無事に越国に着いている。2人の使人が帰ってこない理由を尋ねにやっていたのだった。調査が行われ真相が判明する。当然難波は断罪された。

 このあとの「高麗使人」の記事は「皇極紀」「斉明紀」「天武紀」に現れるが、それらの記事では到着地あるいは宿泊地はすべて筑紫か難波である。「日本海岸→近江→大和が公式使節団のコース」という断定は、やはりこじつけに過ぎない。

 以上のことは、上のように詳しく調べるまでもなく、私(たち)にとっては自明の事柄だった。中国や朝鮮半島からの使節団はまず倭国の中心権力の地・北九州にやってくると考えるのが当然にして妥当な判断なのだ。あの2回にわたる高句麗船の越国への漂着は、北九州に向かう途中で難破し、対馬海流に乗って流されたと考えれば、2回とも同じような所に流れ着いたことも納得できる。はじめから越国を目指しての難破漂流だったら、もっと北に流れ着いているだろう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(75)

「天智紀」(63)


近江遷都(21):なぜ近江に?(1)


 昨日(21日)の朝、まだ寝床の中で半分寝ぼけながらラジオを聞いていた。するといきなり驚くべきニュースが飛び込んできて、すっかりと目が覚めてしまった。今日(22日)すべてのマスコミが大きく取り上げている「厚労省偽造文書」事件だった。そのときとっさに、「ああこれは日本の古代史学会と同じ構図だな」と思った。

 最近、袴田事件をはじめさまざまな冤罪事件が明るみにでてきた。それらには共通した冤罪を生み出す構図があった。被疑者を逮捕すると、まず検察がその被疑者を犯人に仕立て上げるストーリーを作文する。その作文に合わない証拠や証言は隠したり改竄したりする。その上で被疑者がその作文を認めないと、脅迫まがいの恫喝までしてむりやり自白を強いる。これが日本の検察の起訴率99.9パーセントの内幕だ。

 古代史学会はどうか。はじめに『日本書紀』というストーリーが作文されている。そのストーリーを守るために、作文に合わない考古学的事実や中国・朝鮮の史書は無視するか、ときには改竄まがいの書き換えも辞さない。全員がなれ合いをしているように、似たような論文を積み重ねて「定説」という誤謬だらけの理論を強固に支え合っている。このような学者たちの論文を読むのはもううんざりなのだが、何か画期的な新説がそろそろ出てくるのではないかというほのかな期待と、またそこに盛り込まれている考古学的事実を知るという目的をもって読みつづけている。

 テーマ「近江遷都」もおおづめになった。「なぜ近江か?」。
 この問題の最近の「定説」に何か新味がありやしないだろうかと、比較的新しい本・大津市歴史博物館編『近江・大津になぜ都は営まれたのか』(2004年の「古都大津・シンポジウム」をまとめたもの)を読んでみた。井上満郎(京都産業大学教授)氏の基調報告「古代近江の宮都論」が「なぜ近江か?」という問題を扱っている。「渡来人と渡来文化をめぐって」という副題がついているので、目指す地点は同じように思われた。その論文の核心部分を読んでいこう。(今までに提示したものと重複するものもあるが、井上氏が資料として提示している文章をそのつど挿入していく。)

 さきほどの渡来系氏族の分布図や、また、天日槍に象徴されますような渡来人の居住・定着、渡来人のもたらした文化・文明の近江の国への移入、ということが非常に頻繁に、繰り返し行なわれているということが、史料から読み取ることができるかと思います。

 とりわけて、後で引用いたしました神崎郡や蒲生郡への定住等に見られます660年代の近江国への渡来人の渡来は、重要な意味をもつのではないか、と考えております。これは有名な白村江(はくそんこう)の戦い、東アジア世界全体を巻き込んだ戦争というと少し近代的ないい方になりますが、日本・百済連合軍と、唐・新羅連合軍との間で、西暦663年にこの戦いは行なわれておりますけれども、その663年を中心とする前後の東アジア世界の対立と抗争というものの結果、百済が滅亡し、その百済からの渡来人がやってきたのが、この例でございます。

 ここで「渡来系氏族の分布図」と言われているのは 「近江遷都(16)」 で提示した「図1」と同じものである。これまでの私(たち)の理解では、滋賀郡に集住していた新漢人(あらきのあたひと)が近江渡来人の主体であった。白村江の戦い後の百済からの亡命者は神前郡・蒲生郡に土地を与えられた。

(ところで、学会ではいつから白村江(はくすきのえ)を「はくそんこう」と訓じるようになったのだろうか。)

 これらの人々は、『日本書紀』の天智天皇10年(671)正月の条(資料1)にも明示されておりますけれども、日本の当時の政権と申しましょうか、朝廷に様々なかたちで、「官僚」として出仕をした。日本の側から言えば、百済の滅亡とともにやって来た多くの人たちを、日本の朝廷、日本の政治に利用したということになります。つまりは、卑近ないい方をすれば、亡命してきた百済人たちの知識や智恵や技術というものを当時の日本は必要としていた。それらの技術や文明や知識というものによって、日本は国の仕組みを整えていつたということになるのではないかと思います。

(資料1)
 671(天智10)年正月条は百済からの亡命者50数名を吏官として採用する記事である。

 是の月に、大錦下(だいきむげ)を以て、左平(さへい)余自信(よじしん)・沙宅紹明(さたくぜうみやう)〈法官大輔ぞ〉に授く。小錦下(せうきむげ)を以て、鬼室集斯(くゐしつしふし)〈學職頭ぞ〉に授く。大山下(だいせんげ)を以て、達率(だちそち)谷那晋首(こくなしんしゅ)〈兵法に閑(なら)へり〉・木素貴子(もくすくゐし)〈兵法に閑へり〉・憶禮福留(おくらいふくる)〈兵法に閑へり〉・答[火本]春初(たふほんしゆんそ)〈兵法に閑へり〉・[火本]日比子賛波羅金羅金須(ほんにちひしさんはらこむらこむす)〈薬を解(し)れり〉・鬼室集信(しふしん)〈薬を解れり〉に授く。小山上(せうせんじやう)を以て、達率徳頂上(とくちやうじやう)〈薬を解れり〉・吉大尚(きちだいじやう)〈薬を解れり〉・許率母(こそちも)〈五経に明(あきらか)なり〉・角牟(ろくふくむ)〈陰陽に閑へり〉に授く。小山下を以て、餘(あたし)の達率等、五十餘人に授く。童謡(わざうた)して云はく、
橘(たちはな)は 己(おの)が枝枝(えだえだ)生(な)れれども 玉(たま)に貫(ぬ)く時 (とき)同(おや)じ緒(を)に貫(ぬ)く


ちなみに、この童謡について、岩波の補注は次のように解説している。

「橘の実はそれぞれ異なった枝に生っているが、それを玉として緒に通すときは、同じ一つの緒に通すの意
 生れや身分・才能が異なっている者を、共に叙爵し、臣列にひとしく並べた政治を、ひそかにとがめて、やがて起る戦乱を諷した童謡。」

 これらの人々は、申し上げましたように、百済の滅亡とともに百済からやってきました人々が大半でございまして、これらの人々の日本への貢献がこの史料で知られますが、さらに、次の「神寵石(こうごいし)と古代山城(やまじろ)の分布図」も同様のことを知る資料として用意をしたものです。

山城・神籠石
(クリックすると大きくなります。)

九州から、正確には対馬(つしま)から、高安城(たかやすのき)(大阪・奈良の県境になりますけれども) に至りますまで、多くの山城が建設され、これらの山城(朝鮮式山城といういい方をしますが)の建設に、百済人たちが大きく貢献をしたことは史料の上からも明らかにすることができます。たとえば、『日本書紀』天智天皇4年(665)8月条(資料2)などのとおりです。これらの人たちの知識や技術というものを借りて、山城という「防衛施設」(さらに卑近ないい方になりますけれども)の、建設が可能になったということが考えられます。

(資料2)
665(天智4)年8月
 秋八月、達率(だちそち)答[火本]春初(たふほんしゆんそ)を遣して、城を長門の國に築かしむ。達率憶禮福留(おくらいふくる)・達率憶四比夫(しひふくぶ)を筑紫國に遣して、大野及び椽(き)、二城を築かしむ。

 ここは「定説」というストーリーにすっかりと取り込まれた記述になっている。『近江・大津になぜ都は営まれたのか』には書名と同じ表題の討論が記録されたいる。井上氏はその討論のコーディネーターを務めていて、冒頭部分の発言の中で次のよに述べている。


さきほどの基調報告で紹介しました「古代山城の分布図」のように、朝鮮半島からの日本への侵略というものを意識して、多くの山城が造られております。近代的ないい方になりますが、投下された労働力、投下された経費は、その当時とすれば莫大なものとなります。どこかの山城をご見学になった方はすぐにお分かりと思いますが、すごい山の上に巨石を積んで防御施設を造っております。現在発見されているのは20数遺跡ですけれども、それを造っているということは、やはり当時の政権が唐や新羅の侵略・攻撃に恐怖を感じていたと受けとれる有力な資料と考えられます。というよりも、そう理解する以外に、瀬戸内海沿いにあれだけ多くの山城が建設された、軍事施設が建設されたという理由は、解けないのではないかと思います。

 山城を実際に見学して「投下された労働力、投下された経費は、その当時とすれば莫大なものとなります」という認識を持っている。もし神籠石や山城が『日本書紀』の記録の通り天智が造営したものだとすると、その何十年も掛かりそうな厖大な労働力を必要とする工事が一年足らずの短期間のうちに完成したことになってしまう。 『「白村江の戦」の戦後処理(5)』 で紹介したように、九州歴史資料館による試算では「一年間でこの「水城」を完成させるには延110万人強の労働力が必要である」という。

 井上氏はこのような矛盾には一向に頓着しない。「定説」という膜に覆われて、もうすっかりと目が曇っている。また、それらの軍事施設の築造年は、近年の理化学的年代測定(年輪測定・炭素14放射能測定)では、5~6世紀初めとされていることもまったく無視している。そして「やはり当時の政権が唐や新羅の侵略・攻撃に恐怖を感じていたと受けとれる有力な資料と考えられます。というよりも、そう理解する以外に、瀬戸内海沿いにあれだけ多くの山城が建設された、軍事施設が建設されたという理由は、解けないのではないかと思います」と、無理なこじつけで満足してしまう。「古都大津・シンポジウム」に何人の学者が参加していたかは不明だが、この問題を質問した者が皆無だったことだけは確かだ。たいした学者集団だ。

 この問題はすでに何度も取り上げてきているので、もうこれ以上の突っ込みはやめよう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(74)

「天智紀」(62)


近江遷都(20):渡来人について補足(2)


 『古事記』の国生み神話は次のように結ばれている。

次に兩兒嶋(ふたごのしま)を生みき。亦の名は天兩屋(あめふたや)と謂ふ。〈吉備兒嶋より天兩屋嶋まで併せて六嶋。〉

 古田さんが『盗まれた神話』「第13章 天照大神はどこにいるか」で、この最後に生まれた「両児島=天両屋=天両屋島」の比定を行っている。少し長いが、その結論部分を引用する。

 わたしの宝探しはまさに“破天荒ともいうへき財宝の埋もれた島”に行き当ったのである。 ―沖ノ島だ。

 この島は福岡県宗像郡大島村に属する。そして地図で見ると、まさに大小二つの島から成り立っている。「沖ノ島」と「小屋島」だ。

沖ノ島3

 ここで注目されるのは「小屋島」という名である。これに対する大きな方、「沖ノ島」は、当然宗像の方から見て“沖の方にある島”という意味でついた名だ。ちょうど出雲から見ての沖の方の島も「隠岐(おきの)島」と呼ばれているように。

 つまり、九州本土側からの命名だ。だが、現地での本来の名。それは「屋島」または「大屋島」だったのではないだろうか。これはその島の地形からついた名だ(四国の香川県にも源平の戦で有名な「屋島」がある。類似の地形を示す名であろう)。とすると、「天の両屋」または「天の両屋島」(原註記にある島名)という名にピッタリだ。

 小屋島の近くに「御門(ごもん)柱」「天狗岩」という、小さな岩礁があり、昔から、この沖ノ島の鳥居にみたてられてきたという。

沖ノ島2

 また沖ノ島の入口(波止)に「御前(おまえ)」という磯があり、ここは禊場(みそぎば)であり、上陸する人はまずここで禊せねばならぬ、とされる(島全体が沖津宮の境内)。ここは宗像三女神のうちの田心姫(たごりひめ)命(多紀理毘売命)を祀る(湍津(たぎつ)姫命 ―中津宮〔宗像郡大島村〕。市杵(いちき)島姫命 ―辺津(へつ)宮〔同郡玄海町田島〕)。

 九州本土の一角(宗像)と海上の二島を結び、約50キロメートルの広大な海域がすなわちこの宗像神社の神域であり、その三点の中の焦点がこの沖ノ島だ。

沖ノ島1

 この島は女人禁制の島、「おいわず様」(不言島)として、神秘のとばりの中に隠されてきた。“島のことを口外しないこと、一木一草でも島外に持ち出さないこと”が守られてきたからである。それが世人を瞠目させるようになったのは、宗像神社の社史編纂を目標とした昭和29年以降の発掘だった。

 第一次
  第一回調査(昭和29年4~6月)
  第二回調査(昭和29年8月)
  第三回調査(昭和30年6月)
  第四回調査(昭和30年10~11月)
 第二次
  第一回調査(昭和32年8月)
  第二回調査(昭和33年8月)

 この両次の発掘の成果は、それぞれ『沖ノ島』(昭和33年)、『続沖ノ島』(昭和36年)の豪華な報告書(単行本)の中に収められている。そして、さらに44年から45年にかけて三回にわたり第三次調査が行なわれている。

 岩上遺跡・岩蔭遺跡等、幾多の祭祀遺跡から陸続とあらわれつづけた縄文・弥生式の土器・鏡類・珠類・紡織具類等々。金指環・金銅製馬具類・金銅製竜頭なども次々と矢継ぎ早にあらわれた。ここで「あらわれた」というのは、他の遺跡のように単に「出土」する、というよりは、あそこ、ここの文字通りの“岩かげ”や“岩のほとり”におかれていたものも少なくなかったからである。

 その「出土」もしくは「出現」財宝のおびただしさのため、やがて「海の正倉院」という“あだ名”をもって知られるようになったけれども、なにしろ“縄文人の生活遺跡”からズーッと一貫して後代(奈良時代)まで遺物がつづきにつづいているのであるから、およそ「正倉院」などとは比較にならぬ、はるかに古く、長い由来をもっているのである。すなわち、「海の正倉院」は「陸の正倉院」に先在していたのだ。

 こうしてみると、この島が朝鮮半島と九州との間の「天国(あまくに)」の限定海域の中で、燦然たる光を放つ抜群の性格をもつ島であることは疑いない。ことにその中心は「祭祀遺跡」であり、宗教性を核心とした島だ。それが国生み神話中の「亦の名」国名「天の・・・」に入っていなかったら、その方がよっぽど、おかしいのではあるまいか。少なくとも、知詞(ちかの)島や女(ひめ)島を入れて、ここを欠くことは考えられない。すなわち、ここが「両児島=天両屋」であることに疑いない。

 「沖ノ島―宗像」九州王朝にとって最重要祭祀場である。そして、その祭祀の開始は4世紀後半などではなく、はるか天孫降臨の頃(弥生初期)にまでさかのぼることになる。

 田中氏の論考に戻ろう。

 また、朝鮮半島に由来するとみられる5世紀代のオンドル状遺構をともなう住居跡も検出されている(『宗像市史』通史編第一巻、宗像市、一九九七年参照)。

 オンドル状遺構とは一般に、竪穴住居内の壁側に設けたかまどから、煙道をすぐには屋外に出さず、それを壁面をはうように室内にのばし入れたものを指す。これで室内の暖をとっていたとみられることから、朝鮮半島のオンドルにちなんでオンドル状遺構と呼ばれ、考古学ではこれを渡来人の存在を示すものとして注目している。

 既述した4世紀後半以降の倭国をとりまく国際環境の変化のなかで、宗像もまた倭王権の外交に積極的に参与し、渡来人を呼び込むチャンスを得ていたらしい。

 やはり北九州にも渡来人の集住を示す遺構・オンドルがあった。しかもその遺構は 5世紀代のものだという。近江滋賀郡のオンドル状遺構は6世紀後半から7世紀前半のものだから、それより1~2世紀もさかのぼることになる。7世紀後半までは九州王朝が権力の中枢であったことを知っている私(たち)にとっては当然の結果ながら、渡来人の集住も北九州が先行していたのだ。ここでも考古学上の成果が「倭王権」とは九州王朝であることを雄弁に物語っている。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(73)

「天智紀」(61)


近江遷都(19):渡来人について補足(1)


 「近江における渡来人の本拠地」 で、論文「古代史からみた渡来人」の著者・田中氏について「田中氏は単純なヤマト王権一元主義から抜け出した、あるいは抜け出そうとしている学者だと感じた」と書いたいきさつから、この学者の基本的立場を詳しく知りたいと思っていた。『倭国と渡来人』という著書があることを知ったので読んで見た。私の買いかぶりだった。田中氏もヤマト王権一元主義にどっぷりと浸かっていた。

 『倭国と渡来人』には上記論文の内容はそっくり含まれている。倭国と日本国を峻別しているのも同様である。しかしこの著書から、田中氏の倭国はあくまでヤマト王権であり、日本国はその倭国の発展したものと扱っていることがはっきり分かった。また「倭の五王」についても買いかぶりすぎていた。私は氏が「定説」ではなく宋書に依拠した論を書いていたのを感心したわけだが、そこだけの話だった。宋書を利用しながら、「定説」と宋書との矛盾は放置して、他のところでは「定説」に従っている。つまり自説に都合のよいときだけ宋書の記述を利用しただけだったのだ。

 しかし、倭国を九州王朝のこととして読んでもそのまま通用する論述部分もたくさんあり、参考になった。今回はそれを利用させてもらうことにした。

 田中氏は、各地に多元的に王権があったという認識を基本的立場としている。そして各地の王(田中氏は首長と呼んでいる)と中心権力の大王との関係を次のような述べている。

 各地の首長が倭王と関係を持ち王権外交に参加することも、これを契機に国際社会から独自にその成果を持ち帰ることも、いずれも首長の対外的機能と結び付いた行動であったことになる。

 そしてこれら首長層に擁されその上に立つ倭王も、倭国の外交を主導し、共同体の維持や首長の権威と結び付く財を国際社会から入手する機会を、各首長層に分配する対外的機能を持った大首長である。要するに、このなかを移動した渡来人・渡来文化は、首長と共同体成員の関係を介して立ち現れる「内」と「外」が、首長間の関係などを通してさらに重層化・多元化した倭の社会を、相互に結び付けるものであった。

 このくだりは「倭国=九州王朝」と読んでも何の違和もない。大王が代表する部族国家はまずはいわゆる外的国家(共同体―即―国家)として立ち現れるという国家論に正しく対応している。そして部族国家の構成の仕方や大王と各地の王との関係もまさにこの論述の通りと考えてよいだろう。( 「<部族国家>とは何か。」 を参照してください。)

 朝鮮半島経由でもたらされた渡来人・渡来文化がまず北九州にやってきたであろうことは、私(たち)にとっては当然の推論である。そして「倭国=九州王朝」は、その渡来人・渡来文化と接する機会を各地王権に分配する対外的機能をになっていたことも。だとすれば、北九州にそれを示す考古学的遺構・遺物がなければならない。それがあるとこを田中氏に教えられた。その部分の論考を論評を加えながら読んでいこう。

 ところで、王権をとりまく緊迫した国際情勢にあって、軍事行動を含む王権外交の実務は、大王周辺に集う各有力首長層が担っていたことはすでに述べたとおりである。例えば葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)は、新羅の「質」をめぐる王権間の紛争を受け、加耶南部に駐留し、渡来工人を略奪し帰還したと伝えられる。大王の意を受けた首長らは、船に人や武器を積み込んで大海を渡っていた。そして、加耶などから先進的な技術・技能を持った工人を獲得し、自らの本拠地に招き入れる機会も得ていた。これと同様のことが、大王宮を抱えた近畿のみならず、それ以外の地でも起こっていたとみられる。

 葛城襲津彦は岩波の補注が漢人の解説で取り上げていた神功5年3月条に出てきた人物、新羅から俘人(とりこ)をつれてきたというあの葛城襲津彦である。最後の一文を「この説話は、大王宮を抱えた北九州のみならず、それ以外の地でも起こっていたを示している」と書きかえれば私(たち)にも同意できる論述となる。しかし先にも指摘したように、この説話の時代は神功5年(205年)より200年ほど後にずらさなければならない。

 例えば九州では、近畿の影響が強いといわれる福岡県うきは市の月岡(つきのおか)古墳やそれにつづく塚堂(つかんどう)古墳から朝鮮半島製とみられる馬具が出土している。しかも、月岡古墳に近い時期の集落からは、祭祀用ミニチュア土製模造鏡、鉄斧、陶質土器もしくは初期須恵器などが出土し、5世紀前半という早い時期にもかかわらず、20数基の竪穴住居の半数以上にカマドが取り付けられていた(西谷正「加耶地域と北部九州」『九州歴史資料館開館十周年記念 太宰府古文化論叢』上、吉川弘文館、一九八三年)。

 これらの事実は、倭王権につらなりその外交とも深いかかわりを持った生葉(いくは)の首長が、渡来人を保持していたことを示唆するものである。

 生葉郡には九州王朝の「宮城」や「正倉院」の痕跡がある。つまり生葉は「倭王権につらなりその外交とも深いかかわり」があった所ではなく、九州王朝の天子と深い関わりをもった土地なのだ。「5世紀前半という早い時期にもかかわらず」、上記のような出土品があるのは当然と言うべきだろう。

 また、『書紀』応神41年2月是月条は、縫工女(きぬぬひめ)を求めて呉(くれ)に派遣された倭漢(やまとのあや)氏の祖阿知使主(あちのおみ)らが、その帰路筑紫(つくし)に至った際、当地の胸形大神(むなかたのおおかみ)の求めに応じて、工女(ぬひめ)のなかの兄媛(えひめ)を奉ったという物語を伝える。

 類話は雄略14年正月条.同3月条にもあって、こちらは兄媛が大三輪神(おおみわのかみ)に奉られたことになっているが、これらはおそらく5世紀後半前後に、衣縫(きぬぬい)とその技術が宗像(むなかた)や大三輪の祭祀とかかわりはじめたことを反映したものであろう(新川登亀男「宗像と宇佐」『新版 古代の日本』3、角川書店、一九九一年)。

 王権外交とかかわり寄港地となった在地の神に、大王の使節から工女が進上されたとする宗像の伝承は、当地が王権外交とかかわり渡来工人を入手していたことを窺わせる。

 阿知使主は応神の求めに応じて呉に縫工女を探しに行く。途中高麗(高句麗)で迷うが、何とか呉に到着する。そして、呉王から兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)という4人の工女を与えられる。306(応神37)年2月のことである。そして帰国記事が310(応神41)年2月是月条である。

阿知使主等、呉より筑紫に至る。時に胸形大神、工女等(ぬひめら)を乞はすことあり。故、兄媛(えひめ)を以て、胸形大神に奉る。是則ち、今筑紫國に在る御使君(みつかいのきみ)の祖なり。

 このあと一行は津国の武庫に至るが、応神が死去していたので、残りの工女は仁徳に献じたと結ばれている。

 応神の命令で連れ帰った工女のうちリーダーと思われる兄媛を、応神の許可を得ることなく、胸形大神に献じてしまうとは実に不可解だ。これが九州王朝からの遣使の記事であるとすれば、胸形神社は九州王朝にとって最重要な社の一つであるから何らおかしいことはない。後半部分は『日本書紀』編纂者の付加ではないだろうか。

 なおこれも先に指摘したことだが、「応神紀」の外交記事は120年ほどずれている。「定説」論者たちもそのことは当然承知しているようだ。306(応神37)年2月条の記事中、阿知使主等が高句麗で迷った部分について次のような頭注を付している。

「5世紀前半ころの高句麗は好太王・長寿王父子の治世で、日本とは敵対関係にあった」

 つまり306(応神37)年の記事を「5世紀前半ころ」の記事と認識している。しかし高句麗と戦ったのは倭国である。ここでも「日本」ではなく「倭国」と言うべきだ。

 実際、宗像がヤマトの王権との結び付きを強めながら、国際交流を進めていたことは考古学からも確認できる。九州本島と対馬の中間に浮かぶ沖ノ島では、海上交通とかかわる祭祀が宗像の勢力に支えられて行われたが、その開始時期にあたる4世紀後半の祭祀遺物は近畿の古墳出土遺物と同一内容を持つ。そして、宗像地域における前方後円墳の登場もこの頃のことであった。

 「宗像地域における前方後円墳の登場」が4世紀後半というのは問題ない。しかし沖ノ島―宗像の祭祀の開始時期が4世紀後半というのは、「考古学からも確認できる」とんでもないウソである。その真実は?

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(72)


「天智紀」(60)




近江遷都(18):滋賀漢人の出自(2)






 岩波の補注は『日本書紀』における漢人の初見として神功5年3月条を挙げて、「新羅からつれできた俘人(とりこ)らが・・・漢人らの祖である」という記事を紹介していた。『三国史記』の「倭人伝」を読むと、ほとんどの記事が倭の侵攻記事であり、なごやかに親交していたことを示す記事はわずかしかない。「「新羅からつれてきた俘人」という渡来人が多かっただろうと思われる。ただし神功5年=西暦205のころの朝鮮半島は三韓時代である。まだ新羅という国はない。神功は新羅討伐などしていないし、「神功紀」の新羅との外交関係記事はすべて九州王朝の史書や「三国史記」・「三国遺事」からの盗用記事であり、4世紀末~5世紀初めころの出来事である。約200年もずれている。新羅からつれてきた俘人が漢人の始祖としているのもあやしい。





 255(神功55)年条に「百濟の肖古王(せうこわう)薨(みう)せぬ。」という記事がある。肖古王は百済を建国した王であり、その在位期間は346年~375年である。ここではちょうど干支二巡分ずれている。『日本書紀』が史料とした百済三書(「百済記」「百済新選」「百済本記」、原本は散逸)はきちんと干支年次が書かれていたのだろう。その干支に合わせるためにこのようなズレが出てきたと思われる。




 倭国と新羅の関係が敵対的なのに対して、倭国と百済は常に親和的であった。『日本書紀』にもそのことを示す記事がたくさんある。その中の一つ、「自らの意志による」渡来人記事を見てみよう。




289(応神20)年9月条


秋九月に、倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖(おや)阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主(つかのおみ)、並に己(おの)が黨類(ともがら)十七縣(こほり)を率(い)て、歸帰(まうけ)り。





 阿知使主が倭漢人(やまとのあやひと)の始祖だと言っている。この阿知使主は百済人らしい。『韓国古代史』の「三国時代の文化の東流」という章で李氏は『古事記』・『日本書紀』の朝鮮半島との外交記事を取り上げている。そこで李氏は「阿知とか和邇とかいう名前からして、彼らはともに百済人であることは間違いない」と述べている。「和邇(わに)」は『古事記』での表記であり、『日本書紀』では「王仁」と表記している。『日本書紀』での王仁の初出記事は次のようである。



284(応神15)年8月6日


百濟の王、阿直岐(あちき)遣(まだ)して、良馬二匹を貢(たてまつる)る。即ち軽の坂上の厩に養(か)はしむ。因りて阿直岐を以て掌(つかさど)り飼はしむ。故、其の馬養ひし處を號(なづ)けて厩坂と曰ふ。阿直岐、亦能く經典(ふみ)を讀めり。即ち太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師としたまふ。是に天皇、阿直岐に問ひて曰はく、「如(も)し汝(いまし)に勝れる博士(ふみよみひと)、亦有りや」とのたまふ。對へて曰さく、「王仁(わに)という者有り。是秀れあたり」とまうす。時に上毛野君の祖、荒田別・巫別(かむなきわけ)を百済に遣して、仍りて王仁を徴(め)さしむ。其れ阿直岐は、阿直岐史(ふびと)の始祖なり。





 ここでははっきりと王仁を百済人として扱っている。『古事記』では「百濟の王」を「照古王」(=肖古王)と書いている。



 百済が高句麗に攻められて王都を漢城から熊津に遷したのが475年、また、その漢城も攻め落とされ王都を泗沘に遷したのが538年だった。倭は百済からの軍事援助の要請に応えた。このころから百済から倭への渡来は相当頻繁になったようだ。李氏はそのころの様子を

「百済は高句麗に大きな
打撃を受けて首都を漢州(広州)から熊津(公州)・泗沘(扶余)へと移してからは日本との友好はいっそう厚くなり、百済文化の東流もちょうど洪水の勢を思わしめるものがあった」。

と表現している。『日本書紀』では「欽明紀」がこの時代に当たる。「欽明紀」からは百済との外交記事の年次記録は朝鮮の史書と一致している。




 この頃の渡来人を新漢人(いまきのあやひと)と呼んでいる。新漢人は高度な学術思想工業技術を倭にもたらしている。
『「天智紀」(19)』
で述べたように、「太宰府の都城の構造は百済の首都泗沘のそれと近似している」。太宰府をめぐる山城・水城はこのころやってきた百済からの渡来人の技術のたまものであろう。




 「欽明紀」以降の外交記事は相当な量になる。直接の引用は止める。そのあらましを知るために、『韓国古代史』から引用することにしよう。(人名などの振り仮名は私が付けました。)






 まず教学面からみると、百済の武寧王(継体天皇の時)は五経博士の段楊爾(だんように)を日本に送り、その後、高安茂(こうあんも)という学者と交代させている(以後、こういった博士の派遣は頻繁に行なわれていた)。




 つぎの聖王(聖明王)は何よりも日本に仏教を始めて伝えたことで有名であるが、同王の30年、すなわち欽明天皇13年に怒唎斯致契(ぬりしちけい)をして仏像と経論若干巻をもたせて送り、仏の功徳を讃えたということはすでに述べたところである。




 聖王は仏教だけでなく、日本の要請に答えて五経博士(王柳貴 おうりゅうくい)・易博士(王道良)・暦博士(王保孫)・医博士(有陵〈こざと偏の代わりに立心偏〉陀 うりょうだ)・採薬士(潘量豊 はんりょうぶ・丁有陀 ちょううだ)・楽人(三斤 さんこん)と、僧の曇慧(どんえ)以下九人を送って、先に渡日した諸博士(馬丁安ら めちょうあん)・僧(道深 どうじむら)と交替させている。




 つぎの威徳王は経論若干巻と律師・禅師・比丘尼・呪禁師やその他、造仏工(仏像の工匠)・造寺工(寺院建築師)・鐘盤(鋳工)博士・瓦博士(造瓦工)・画工など、各専門技術者を送っている。これらの各専門家は日本の新興仏教や新しい寺院造営に多大な寄与をしている。




 その後、武王の時(推古天皇の時)には僧の観勒(かんろく)をつかわして暦・天文地理・遁甲方術の書を伝えたところ、日本の朝廷ではとくに書生(学生)34人を選び、観勒について学ばせ、翌々年(推古天皇12年)に始めて暦を頒布した。観勒は後に僧正となり、日本仏教の支柱となった。






 高句麗や新羅から伝播した文物もなかったわけではないが、圧倒的に百済からの渡来人・渡来文化が多かったことがうかがえる。よく言われるように、飛鳥・白鳳文化は百済文化によって花開くことができた。




 私は滋賀漢人の主体はこうした新漢人であったと考える。従って665年に、滅亡した百済から亡命してきた百済人400人を近江神前郡に居住させたのは新羅系渡来氏族に監視させるためなどではなかった。学術・技術のさらなる寄与を期待してのことである。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(71)

「天智紀」(59)


近江遷都(17):滋賀漢人の出自(1)


 前回引用した岩波の補注は二大渡来人氏族の秦人・漢人は両方とも新羅系のような書き方をしていた。杉山氏が琵琶湖東岸には「とくに新羅系帰化人が数多く住んで」いたと発言していたのも、この補注と同じ理解をしているためだろう。しかし私は、滋賀郡に集住していた志賀漢人一族は百済系渡来人だと考えている。前回紹介した考古学的遺構・遺物がそのことを示している。『ヤマト王権と渡来人』所収の花田勝広論文「総論・古墳時代の畿内渡来人」は、滋賀郡から出土した遺構・遺物について詳しい報告をした上で、次のように述べている。

 このように集落・墓域が共に渡来色の強い、遺構・遺物が検出されており、渡来系氏族の集住・本拠地埋葬(帰葬)によった結果であるものとみる。

 被葬者集団ついては、水野正好氏によって律令期の志賀郡郷域の復元と史料にみる播居する氏族の基礎的研究がなされている。山尾幸久氏は、北陸・山陰地域の東海(日本海)に繋がる交易路、東海地域への湖上交通の要衝に、倭政権による港湾の整備・管理に伴う渡来人の配置とみる。

 この一帯には、古墳と一致するように飛鳥・白鳳時代の寺院が分布する。穴太廃寺(再建)・崇福寺・南滋賀廃寺では、類似する瓦積み基壇が外装に採用されている。したがって、この軒瓦と瓦積基壇から、渡来系寺院と推察されている。

 さらに、滋賀郡古市郷に南郷遺跡、瀬田川東側の栗太郡勢多郷に源内峠・木瓜原遺跡などの七世紀~八世紀代の製鉄遺跡があり、源内峠遺跡四号炉の炉系譜が百済とする見解がある。

 また、大津市内に集中分布している大壁建物について、次のように述べている。

 いずれにしても、大壁建物が畿内にも検出例があり、南郷柳原遺跡・滋賀県高月南遺跡のように、韓国の調査例より古い時期のものが知られる。現在のところ百済・公州艇止山遺跡の建物が構造上類似し、六世紀前半代の大壁建物導入地域の一つとみなすことが有力である。その上限とその系譜については、朝鮮半島の集落調査の増加より明らかになるものと推察される。

 ところで、韓国の歴史ドラマがたいへん面白く、朝鮮の歴史について多く教えられている(ただし、ドラマが描く歴史の虚実はしっかり見分けなければいけない)。いま私(たち)がテーマとしている時代と重なるドラマでは「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」「薯童謠(ソドンヨ)」「善徳女王(ソンドクニョワン)」などがある。前回の大橋論文からの引用文中に、「(大壁建物に)付属すると見られるオンドル状の遺構」があることが書かれていた。私はすぐに「ソドンヨ」を思い出した。

 「ソドンヨ」の主人公は百済の王子・璋(チャン)である。チャンは後に武王となる。武王の次の王が義慈王であり、義慈王の時に百済は滅亡する。このドラマではオンドルはチャンが発明したという話になっている。このドラマは『三国遺事』の説話をもとに作られたようだ。『三国遺事』の該当部分を読んで見たがオンドルのことは書かれていなかった。考えてみると、滋賀郡の遺構のオンドルは「6世紀後半から7世紀前半」のものだから、百済の武王の生存時とほとんど重なる。オンドルの発明はそれ以前のことだろう。オンドルがチャンの発明だというのは根拠のない作り話のようだが、オンドルが百済と深い関わりがあることは確かだろう。

 いま、李丙著・金思訳『韓国古代史』を読んでいる。三国(高句麗・百済・新羅)の社会生活を論じる節に次のような一文があった。

「(高句麗の)家屋は王宮・官府・寺院のような権貴・尊厳な建物だけは瓦をふき、一般の民家は草茅で屋根をふいた。冬期には暖房装置として長抗を用いていた。今日の温突はここに起源している。」

オンドル(温突)は高句麗の暖房装置が起源だという。オンドルの発明はかなり古くまで遡るようだ。高句麗や百済の北部は相当に寒い地域であり、オンドルがかなり普及していたようだ。しかし新羅では普及しなかったといわれている。志賀漢人の遺構にオンドルがあることも、志賀漢人が百済系であることを示す根拠の一つと言えるだろう。

 またまた、横道へ。
 『韓国古代史』に百済の城東王と新羅と間にあった婚姻同盟を論じた節がある。そこに参考としてソドンヨのことが書かれている。『三国遺事』の史料批判として参考になるので紹介しよう。

 百済の東城王が新羅の女性を娶る出来事に関連して、一つ論証しておくことがある。それは『三国遺事』(巻二)に収められている有名な薯童説話についてである。

 この説話によると、薯童は百済の武王の幼名であり、彼が王子の時、新羅の真平王の王女、善花の美貌の噂を聞いて、新羅の京都に潜入し、童謡を作って広めた。その歌の内容は、王女(善花)が夜になると、薯童と密通するというものである。この歌が町中に広まったために、王女は宮中から追い出され、田舎へ逃れていく途中、たまたま路上で薯童に会い、いっしょに百済にいって彼の夫人になったという。

 著者は、この説話を全くとりとめのない話とみるよりは、ある事実を一部を中心にして構成された話だと考えている。すなわち東城王の結婚を素材にして、ロマンチックに仕立てた話とみるのである。

 薯童(薯の訓はマ、薯童はマトン)は武王ではなく、彼の五代祖である東城王であり、新羅の王女、善花も真平王の娘ではなく、照知麻立干時代の王族、比智の娘とみるべきである。武王時代と新羅の真平王時代は、両国が仇同様の関係にあったから、とうていかかる婚姻を結ぶなどの出来事は想像できない。

 伝説に薯童を末通大王といい、『日本書紀』(巻十六)には、東城王を末多王といっている。また『南斉書』(百済伝)と『三国史記』には、王の諱を牟大(『南斉書』・『梁書』・『冊府元亀』などの中国側の史書には、牟大の祖を牟都だといっているが、牟都もやはり牟大の異写であることを忘れての記述である)といっているが、実際はみな同一人物の異写とみられる。

 また伝説に、末通、すなわち薯童は、武康王だといっているが、著者の所見では、武康は武寧(東城の王子)に間違いなく、明らかに父と子とを混同したもので、それをさらに一転して武康を武王とも混同したものと思われる。

 以上の観点から著者は、薯童説話と深い関係がある有名な益山の弥勒寺および石塔は、東城王の時に始められたものと断言する(東城王の時に着工して、つぎの武寧王の時になって完成されたらしく、末通・武康の父子を混同したようである)。したがって益山郡八蜂にある双陵、すなわちいい伝えられている「武康王および妃陵」も実は東城王とその妃の陵といわねばならない。

 引用文が言う『日本書紀』(巻十六)の記事は次のようである。

449(雄略23)年4月
百済の文斤(もんこん)王、薨せぬ。天王、昆支(こんき)王の五の子の中に、第二末多(また)王の、幼年(わか)くして聡明(さと)きを以て、勅して内裏に喚(め)す。親(みづか)ら頭面(かうべ)を撫でて、誡勅(いましめるみこと)慇懃(ねむごろ)にして、使王其の國に王とならしむ。仍りて兵器(つわもの) を賜ひ、๷せて筑紫國の軍士(いくさ)五百人を遣して、國に衛(まも)りを送らしむ。是を東城王とす。

 いわゆる「質」として來倭していた百済の王子を本国に帰す記事だ。449年は確かに城東王の即位年であり、正しい年に挿入されているが、倭国の事績の盗用記事であることがバレバレだ。

 さて、漢人氏が百済系渡来人であることは文献面でも確かめられるだろうか。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(70)

「天智紀」(58)


近江遷都(16):近江における渡来人の本拠地


 田中氏は「渡来」という言葉で示される人民移動の形態を次のように分類している。

 まず最初に、古代史科が描く、「倭」「日本」への国際的な人民移動の契機の主なものを、以下に整理することとしよう。

(イ)
 自らの意志による(「帰化」「来帰」「化来」「投化」)
(ロ)
 漂流による(「漂蕩」「漂泊」「漂着」「流来」)
(ハ)
 外交使節として(「蕃客」「来朝」「朝貢」)
(ニ)
 人質として(「質」)
(ホ)
 贈与による(「貢」「与」「献」「上送」)
(へ)
 略奪による(「俘人」「捕」「虜掠」)
(ト)
 交易者として(「商人」「商客」「商賈之輩」)

 このうち、渡来人を列島への移住者・定住者の意と解すならば、実際の来航事例のうち、おそらく往来を前提とする(ハ)の外国使節、送還される(ロ)の漂着者、交易を目的とする(ト)の国際商人などがそこからただちに除かれる。しかし、古代の国際的な人民移動は、こうした区分で整理できるほど単純ではない。後述するように、七世紀以前には、技術・文化・知識を持って来航し、一定期間倭王権に仕えた後帰国する者、あるいは複数の王権と多重に結合し、その居地を移動させる者があった。

 ここでちょっと横道へ。
 田中氏の論文全体の基調となっている注目すべきことがある。それは上の引用文からも読み取れる。「倭」と「日本」をはっきりと区別しているのだ。しかも「七世紀以前には・・・複数の王権と多重に結合し」と、「多元史観」の立場を打ち出している。田中氏は単純なヤマト王権一元主義から抜け出した、あるいは抜け出そうとしている学者だと感じた。

 ただし、この論文では倭国から日本国への移行の時点は論じていない。副題の「令制前」という言葉から類推すると、大宝律令以後つまり文武天皇以後を日本国と考えているようだ。もしそうだとすると、この点でも私(たち)と立脚点を同じくする。また倭国から日本国への移行を、九州王朝→近畿王朝という権力変遷と考えているのか、あるいはヤマト王権内での組織改編と考えているのかはこの論文からははっきりと判定できない。しかし、いくつか間違った「定説」をさりげなく捨てている。私が注目した事項を一つだけ挙げておく。

 (ニ)の「質」としての渡来人を論じているところで、「質」が倭に渡来したり本国に還ったりするきっかけとして「本国の王の交替」を論じたあと、田中氏は「倭王の交替」も帰国のきっかけとなると指摘している。その一例として倭の五王の「済→興」を取り上げている。「定説」は「済=允恭」「興=安康」という無理な比定をしていて、『宋書』と『日本書紀』の記録とが合わない場合は、『宋書』の方の記事が誤っていると断じている。これに対して田中氏はためらうことなく『宋書』の記述を正しいものとみなして、「済→興」という王位継承を取り上げてる。

 例えば先の百済軍君(こにきし)の来倭は461年とみられるが、『宋書』によれば倭王済の宋への遣使の最後が460年、次の倭王興の宋への遣使の最初が462年なので、461年とはまさに倭王交替の時期にあたっている。軍君の渡来は興の即位と関係していたとみるべきであろう。

 ちなみに、「允恭→安康」は「453年→454年」である。『日本書紀』では「百済軍君の来倭」記事は「雄略紀」(雄略5年=461)に挿入されている。田中氏の推論が正しいとすると(私は正しいと思う)、百済軍君の渡来先は明らかに九州王朝ということになる。この記事も九州王朝の史料からの剽窃記事である。

 田中氏は九州王朝を認めざるを得ない一歩手前に来ていると思う。考古学的事実や中国・朝鮮の史書から目を背けることなく、誠実に研究を続けている学者が古田説に近づいていくのは必然的な成り行きである。そうした若い学者が生まれつつある例として取り上げてみた。

 さて、東アジアの住民たちは相当古い時代から互いに渡来し合い、その交流を通して技術・文化・知識面で相互的に影響し合ったであろうことは、黒曜石の流通事実を挙げるまでもなく、容易に想像できることである。また田中氏が言うように、技術・文化・知識の伝播が移住・定住した渡来者だけによって行われたわけではないことも事実だ。

 しかし目下の私(たち)のテーマでは対象の時代は、百済・新羅がそれぞれ部族国家を樹立した以後から7世紀中頃までにしぼってよいだろう。ちなみに、百済と新羅の建国はそれぞれ346年・356年とされている。

 また対象の渡来人も、移住・定住した渡来人であり、しかも私(たち)の関心は近江の渡来人である。まずは予備知識として『日本書紀』に登場する2大渡来氏族漢人(あやひと)・秦人(はたひと)のことをおさらいしておこう。岩波の補注を引用する。

 秦人は朝鮮からの帰化人で中国系と称する。姓氏録などでは秦氏の同族としているが、もとは秦氏の配下にあったもの。仁徳記に秦人を役して茨田(まむた)の堤と屯倉(みやけ)を作ったとあるのを、仁徳十一年条では新羅人を役したと書いている。秦部との相違は必ずしも明確ではないが、秦部が部民すなわち被支配階級に属する一般農民層であるのに対して、秦人は漢人と同じく、単なる部民ではなく、下流の小豪族層と考えられる。地方に広く分布し、中央の秦氏の管掌下に綿織物の貢上を職としたとふつう考えられている。

 漢人は朝鮮からの帰化人で中国系と称し、漢氏の配下にあったもの。その多くは村主(すくり)の姓(かばね)をもつ。坂上系図に引く姓氏録逸文などは、すべて東漢氏(やまとのあやうぢ)の祖の阿知使主(あちのおみ)が率いて渡来したように述べているが、実は漢氏より後につぎつぎに渡来したものであろう。神功五年三月条に、葛城襲津彦(かつらきそつひこ)が新羅からつれできた俘人(とりこ)らが桑原・佐糜・高宮・忍海の四邑の漢人らの祖であるとあるのが、漢人の語の初見である。その多くは錦綾・武具・革具その他の手工業生産を職とし、東漢氏の下にある程度の生産組織を構成していたものらしい。

 ここで『ヤマト王権と渡来人』に所収されている論文をもう一つ援用する。大橋信弥論文「大和政権と渡来氏族の形成」。

 この論文は『日本書紀』などの記事を駆使して進められているが、それらの記事を丸呑みした論述である。つまり大橋氏はヤマト王権一元主義の立場の学者である。しかし、考古学的成果をもとにした部分はとても参考になる。まず近江の渡来人について次のように述べている部分を引用する。原史料は上の岩波の補注にも出ている「坂上系図に引く姓氏録逸文」のようだ。

 (近江の漢人村主の)主要のものをあげると、大友村主・大友日佐・大友漢人・穴太村主・穴太史・穴太野中史、錦部村主・錦部日住、大友丹波史・大友桑原史、志賀史・登美史・槻本村主・三津首・上村主などで、九世紀以前の滋賀郡の古代人名の七割強を占めている。後の滋賀郡大友郷を本拠とする大友村主一族、大友郷南部の穴太を本拠とする穴太村主一族、錦部郷を本拠とする錦部村主一族、古市郷を本拠とする大友丹波史一族がなかでも有力であった。

近江の漢人

 これらの漢人村主は近江へ移住した当初は、このような多くの氏族に分かれていたのではなく、志賀に居住する漢人として、志賀漢人と呼ばれたらしい。

 この琵琶湖周辺各地に広がっている漢人の分布は8世紀末頃の資料(たぶん)によるものだ。大橋氏の言う通り、漢人たちが近江に移住した当初から琵琶湖周辺全体に分布していたわけではないだろう。「私(たち)が問題にしている6世紀から7世紀頃では滋賀漢人の根拠地と言われている滋賀郡にまとを絞ってよいだろう。その滋賀郡の考古学的遺跡・遺物はどのような情況を示しているだろうか。

 志賀漢人一族の滋賀郡への集住を示すものとしては、いくつかの考古資料が提示できる。すなわちミニチュア炊飯具の四点セットや、銀ないし銅製の釵子(かんざし)などを副葬し、天井がドーム形を呈する横穴式石室を主体とする群集墳の盛行であり、その時期は6世紀前半から7世紀中葉である。その総数は1000基にのぼるものとみられている。

 そして大津北郊では、近年古墳群に対応するように、集落の中から「大壁造り」呼ばれる土壁造りの、方形プランの特異な建物や 礎石建物が40棟ほど発見され、それに付属すると見られるオンドル状の遺構も発見されている。その時期は6世紀後半から7世紀前半である。

 また志賀漢人一族の氏寺とみられる、穴太廃寺、坂本八条廃寺、南滋賀廃寺、園域寺跡などが、そうした集落のほぼ中心部に造営されるのは、7世紀中葉から後半である。

近江の廃寺

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(69)

「天智紀」(57)


近江遷都(15):「帰化」という用語について


 前回の杉山氏の発言中に「帰化人」「帰化族」という用語が使われていた。私は私の書いた本文中ではこれらの用語は使わなかった。その理由は「帰化」という用語が一種の差別語だからだ。

 一時期、人権擁護を標榜する団体やいわゆる識者たちによる「差別語狩り」が猖獗を極めた。私は内容を度外視した形式的な「差別語狩り」にはくみしない。使っている言葉が差別語になるかどうかは、それが使われた場面の状況や文脈によって決まる。真に問題なのは言葉を使う者の差別意識なのだ。「差別語」に指定されたから使わなくなっただけでは、それはタブーのとりこになっただけで、心の中では相変わらず差別意識が渦巻いている。何の解決にもならない。

 歴史的に累積され、いまなおそこここにさまざまな差別意識が社会を覆っている。その差別意識の坩堝の中で子供の頃から否応なく身につけさせられ、心の奥深くに巣くっている差別意識を自覚することがまず必要だ。そしてそのようにして身につけてしまった差別意識を私たちが持ち続けてしまうのは、その対象についての無知さ加減による。真実を知ることこそが差別意識を克服する道である。

 外国人参政権法(永住外国人に地方参政権を付与する法)に反対して、「参政権が欲しければ帰化しろ」といった政治家がいた。日本史の教科書では扶桑社版(新しい教科書を作る会)だけが昔ながらの「帰化人」という用語を使っているという。これらの政治家や学者たちは無知なのではなく、「帰化」という言葉の意味を十分に知っていてあえて使っていると思う。これらの場合は「排外主義」・「自慢史観」というイデオロギー表出にほかならない。しかし、もともと「帰化」という言葉が、この連中が蛇蝎の如く嫌っている中国の中華思想を根幹とする言葉であることはご存じだろうか。

 ということで、改めて「帰化」の語義を取り上げることにした。

 『ヤマト王権と渡来人』所収の田中史生論文「古代史からみた渡来人 -令制前の渡来人をめぐって―」が「帰化」について次のように説明している。

 中国の中華思想に起源する「帰化」は、君王の支配の外側にありながら、その王の高い人徳に感化された周辺諸民族が、王を慕い自ら帰服を願い出る場合を指す語である。王の直接支配が及ぶ範囲を「化内」、その外側を「化外」に区分し、中華の聖王は、「化外人」の「帰化」申請を哀れみをもって受け入れ、彼らを「化内」の民に編入するとされていた。

 古田さんも『盗まれた神話』で「帰化」について論じている。そこで古田さんは、上述のような「帰化」の語義を示す出典を提示している。

 化に帰し、義を慕う。〈『論衡』〉
 四夷帰化。〈『旧唐書』職官志〉


 そして古田さんは、さらに突っ込んで「帰化」という言葉が現代において果たしている弊害にまで言及している。

 「帰化」とは「王化に帰する」の意で、「王化」とは「中国の天子の徳化」のことだ。つまり"中国の天子に帰順して治下に入り来る周辺の夷蛮″という古代的民族差別の上に立った、中国中心の大義名分の立場からのイデオロギー用語なのである。このミニチュア版が『日本書紀』内の使用法だ。


(垂仁)三年の春三月に、新羅の王の子天日槍(あめのひほこ)來歸(まうけ)り。・・・・・・・一に云はく、初め天日槍、艇に乘りて播磨國に泊りて、宍粟邑に在り。時に天皇、三輪君が祖大友主と倭直の祖長尾市とを播磨に遣して、天日槍を問はしめて曰はく、「汝誰人ぞ、且、何の國の人ぞ」とのたまふ。天日槍、對へて曰さく、「僕(やっこ)は新羅國の主の子なり。然れども日本國に聖皇(ひじりのきみ)有すと聞(うけたまは)りて、則ち己が國を以て弟知古に授けて化帰(まうけ)り」とまうす。・・・・・・

 この用語を明治の天皇制国家が援用し、新憲法にさえ旧態依然使用されている。「国籍の取得」という、本来、人間の基本的権利、本源の自由に属する事がらを、国家権力側の恩恵のように見なす。 ―まさにそのような見地にふさわしい用語なのである。だから、わたしは統一権力成立以前と以後とにかかわらず、この用語を不当な「差別用語」と見なす。それゆえ、「 」なしでは使用しない。

 九州王朝は少なくと前一世紀には、相応の範囲(銅剣・銅矛・銅戈圏)をバックにした統一権力を樹立し、それが「志賀島の金印」という形で中国の天子の"承認"をうけていた。六世紀には自立の道を歩んでいた。だから、たとえばその王朝が「帰化」という語を使用するのは、いわば当然だ。しかし、それは彼等権力者のイデオロギーの問題であって、現代のわたしの立場とは反する。

「新憲法にさえ旧態依然使用されている」は「新憲法の下でも・・・・・・」の誤りだろう。「国籍法」の第4条・第5条で用いられている。


第4条 日本国民でない者(以下「外国人」という。)は、帰化によつて、日本の国籍を取得することができる。
2 帰化をするには、法務大臣の許可を得なければならない。

第5条 法務大臣は、次の条件を備える外国人でなければ、その帰化を許可することができない。 ・・・・・・


 田中論文を載せる本の表題は『ヤマト王権と渡来人』である。つまり、現在考古学会では「帰化」に代わって「渡来」という用語を用いているようだ。ちなみに田中氏も「帰化」は「 」付きで用いている。

 「渡来」が「帰化」に代わる用語として妥当かどうかという問題もあるが、これは後に取り上げる予定だ。ともかくこれからは私も「帰化」に代えて「渡来」を用いることにする。

 さて、田中論文には「令制前の渡来人をめぐって」という副題が付けられている。ここでいう「令」とは大宝律令・養老律令のことで、「令制前」とは言い替えれば「倭国時代」ということなる。しかし、田中氏は「令制」下の「帰化」についてもかなり詳しく論じている。さしあたって私(たち)が対象にしたい時代は倭国時代の渡来人なのだが、『「令制」下の「帰化」』は私には全く未知の事柄だったので、ここに引用しておこう。

 この「帰化」は、古代日本でも唐の強い影響のもとに成立した律令法でその取り扱いが規定されている。それによると、「帰化人」渡来の際、以下のような手続きがとられることになっていた。

 「化外人」が到来し、来着地の国郡へ「帰化」を申請した場合、それを受けた国都は彼らに衣食を保証するとともに、直ちに「帰化人」到来を中央へ報告しなければならない(戸令没落外蕃条)。

 その後、彼らには定住すべき地が示され、その地で戸籍に附されるとともに(戸令没落外蕃条)、口分田も支給される。「化内」での新生活の不安定さを考慮し、10年間の課役免除も行われた(賦役令没落外蕃条)。

 ただし、八世紀の大宝令・養老令制下では、774年(宝亀5)に漂流民を「帰化」と区別し「流来」とするまで、漂流民すら「帰化」とみなしていたらしい。しかし、渡来の実際が漂流によるものであったとしても、右の手続きを経て「帰化人」として戸籍につけられると、律令法上は天皇の民として、彼らにも他の「華夏百姓」同様、勝手に日本を出る、あるいは故国に帰ることが許されない。すなわち、実際の渡来理由はどうであれ、渡来人が「帰化人」として受け入れられるということは、「化内」への定着を前提に、天皇を中心とした律令国家による一元的支配体制の中にその身が組み込まれることを意味していた。  渡来人を定着を前提とした移動者とみるならば、律令法の想定する「帰化人」は、確かにかにそのなかの一類型であるということができる。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(68)

「天智紀」(56)


近江遷都(14):杉山氏の近江遷都論


 鼎談『藤原鎌足』で杉山二郎(美術史)氏が近江遷宮について次のように発言している。私が知る限りでは、ヤマト一元主義論者の近江遷宮論の中では一番まともであると思う。これを論を進めるためのとっかかりにしてみよう。ちなみに、その発言に対して、梅原氏も田辺氏も異論を唱えていない。

 そうした(白村江の戦いの)敗戦は半島への日本の利権・発言権が完全に失われたことを意味すると思いますが、翌3年5月17日条に、百済鎮将劉仁願が朝散大夫郭務悰らを派遣して表函と献物を貢進したとある。

 唐の百済鎮将が日本にきたこと ― この記事は何でもないようですが大きな問題を孕んでいます。なぜかといいますと、白村江敗戦で水軍も引き上げてくる。百済移民もたくさんやってきた。半島に対していままでの攻勢の態度が守勢の立場に追いこまれたわけで、唐の鎮百済占領軍と新羅の水軍が逆に攻撃してくるかもしれない恐怖がでてきたのですね。そのために対馬・壱岐・筑紫に防人を派遣して防備をかためる一方、のろしを造り、中央政府への通信網を完備させたという記事が、『書紀』の天智天皇紀3年から4年につづけて記されてある。

 ところが、唐の百済占領軍の大将、いってみれば占領軍総司令官マックアーサーみたいな資格の劉仁願と朝敵大夫郭務悰らが日本にもきている。

 岩波版『日本書紀』註は、郭務悰らの派遣目的を唐の百済占領政策について日本の諒解をうるためとの一説を紹介していますが、これはまことにおかしい。白村江敗戦で守勢になった日本に、百済占領政策や占領権に関して意見を徴する必要はないはずです。

 また日本の対応策の打診、諜報謀略手段というのもおかしい。唐と新羅連合軍に対する防御策に百済亡命技術者や軍略家を使って水城を造営しているのに、唐からは朝散大夫劉高徳ら、さらにいったん帰国した劉仁願、熊津都督司馬法聰らが筑紫にきている。天智7年10月には高句麗滅亡が報ぜられる状況で、しかも8年には郭務悰らが二千余人の帰化人を日本に送っているのです。

 国交が断絶して防備怠りなかったというのでなく、軍備をほどこす最中に敵国の将軍がやってくるというのは、どうも解せません。やはり唐・新羅勢力が何らかの形式で日本の内政に関係し干渉しているとも考えられるわけです。

 対馬・壱岐・筑紫の山城・水城・神籠石などの設営をヤマト王権の事業としている点は相変わらずだ。しかし、 『「占領軍」は何をしに来たのか(1)』 で紹介した従来の「定説」を否定しているところが新しい。また「唐・新羅勢力が何らかの形式で日本の内政に関係し干渉している」という観点も従来の「定説」にはなかった。

 さて、従来の「定説」の集大成と思われる井上光貞氏の論文「大化の改新と東アジア」(岩波講座・日本歴史2」所収)は、近江遷宮の理由を次のように述べている。

「 天智が667(天智6)年、近江大津宮に遷都したのは、対外関係上、敵襲にあいやすい大和を避けて、奥地の、北陸・東海・東山三道いずれにも通じる交通上の要地をえらんだためであろう」。

 たったこれだけである。深入りを避けている感がある。杉山氏はこの「定説」も否定している。

 さらに国内間題で不思議なのは天智6年3月19日、天下百姓の不満をよそに近江に遷都していることです。その年11月に、都は飛鳥盆地から近江の志賀京に遷っているにもかかわらず、対馬金田城、讃岐屋嶋城、奈良高安城に城を築造している。

 こうした現象をかりに文字どおり解しますと、筑紫に攻撃してくるであろう唐・新羅連合軍に対する防御策のように考えられます。けれど、難波津と飛鳥盆地を結ぶ幹線路の中間の高いところにある高安は、中継地として烽火台くらいで考えるのなら、奈良盆地の都に対する出城として理解できますが、すでに都は近江に還っているので、どうもこれらの築城は、天智系支配権力の側よりも、むしろ奈良盆地を見張る立場の側の仕事とも考えられるわけであります。

 どうも天智天皇の遷都はむしろそうした戦勝国側の意図よりでた、封じ込め政策ではないかと思われるふしもあるのですね。郭務悰・劉仁願ら唐の鎮百済占領軍の主要メンバーは、飛鳥を中心とした吉野山塊にかけた地域に ― それには多武峰も入るかもしれませんが ― ちょうど戦後のGHQのように百済占領政策を推進するため、さらに日本に対してもなんらかの勢力をもって威嚇し見張っていたのではないかということが考えられてきます。


 唐の占領軍が大和まで進入してきたということはあり得ると思う。ただし、もし大和まで進入してきたとしても、「威嚇し見張」るためではなく、もっと具体的な目的を持ってのことだろう。ヤマト王権内の勢力も一枚岩であったはずがない。まだ九州王朝は存続していたとはいえ、ほとんど無傷のままの兵力を残したヤマト王権は唐にとっても侮れない勢力であったろう。つまり唐が大和まで進入してきたとすれば、それはヤマト王権内の反唐派の追い出しのためである。その場合、天智にとっては親唐派として地歩を固めるよい機会であった。

 と書いてきて、もし「老女帝毒殺」が本当のことだとしたら、斉明は反唐派だったのではないかと思いいたった。しかし、これもあれも、まったく裏付けのないことを前提にした議論だ。深入りするのはよそう。杉山氏の発言の続きを読もう。

 すでに琵琶湖東岸、北陸路から敦賀にかけ半島帰化人集落があって、とくに新羅系帰化人が数多く住んでおりますから、天智4年や8年の神埼郡や蒲生郡への百済流民の入植は、むしろ新羅系帰化族集落の監視下におかれた一形態ともみられるわけで、そのため、天智系支配勢力は大津志賀宮へ遷され、同じく監視されたとの状況も考えられてくるのですね。ほぼそのころ百済も滅亡し、やがて高句麗も滅びる。朝鮮半島三国の興亡がきわまって新羅が唐の力を借りて統一しようとする。一方では滅亡遺将が残存勢力をもって各地に蠢動し、それに援助することのないような封じこめ政策がみられる。

 ここでは杉山さんは「琵琶湖東岸、北陸路から敦賀にかけ半島帰化人集落があって、とくに新羅系帰化人が数多く住んで」いたことを前提に議論を進めている。この点について私には疑念がある。それは琵琶湖東岸の朝鮮半島からの移住者は新羅系ではなく百済系が多かったのではないだろうか、ということである。もしそうだとすれば、「神埼郡や蒲生郡への百済流民の入植」は、これもやはり「監視」のためとは言えないだろう。これは天智が遷宮先を近江にした理由とも関わることである。
 朝鮮半島からの移住者については、私はほとんど何も知らない。図書館から大橋信弥・花田勝広編『ヤマト王権と渡来人―日本考古学会2003年度滋賀大会シンポジウム2―』を借りて来た。次回からこの本を教科書にして、「渡来人」について調べることにする。

 杉山氏の発言の続きを読もう。

 天智帝の大津志賀京は、一見琵琶湖東岸一帯を押え、かてて越前敦賀から裏日本北陸を確保し、同時に美濃から東国一帯を支配するための絶好な地点を占めたかのようにみえます。が、『書紀』の記事をすなおに読むと、当時、朝鮮半島の動乱や攻防の余波としては、裏日本で水軍をしたてて新羅を討つ計略の片鱗もみえないで、筑紫から瀬戸内海を通り難波に至る表日本が意識されていて、逆に都は難波津に面した所へでも遷さなくてはならないくらいの状況がわかりましょう。まあ譲歩して奈良盆地ですね。ところが大津京はむしろつんぼ桟敷で、裏日本から新羅に襲われる危険の大きいところで、しかも北陸路の防備にはまったく触れていないのですね。

 これは壬申の乱にもつながる問題ですが、そうした勢力の存在を肯定してみますと、白村江敗戦以後の国内情勢について、『日本書紀』『続日本紀』の不可解な記事にかなり解釈がつくのではないかと思っているわけです。

 ヤマト王権には「新羅を討つ」理由は何もないし、「裏日本から新羅に襲われる危険」も皆無だったと私は思う。唐・新羅にとって牽制すべき本命はまだなお九州王朝であった。「白村江敗戦以後の国内情勢について、『日本書紀』『続日本紀』の不可解な記事」を正しく解読するためのマスターキーは、やはり「九州王朝の存在」である。それを認めない限り、真の解読はあり得ない。