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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(67)

「天智紀」(55)


近江遷都(13):近江宮はどこ?


 ヤマト王権が「京」と呼べる都城を初めて構築したのは藤原京である。それ以前は「京」ではない。今回からは「近江京」ではなく、正確に「近江宮」を呼ぶことにする。表題は通例に従って「近江遷都」としているが、これも本文中では「近江遷宮」と呼ぶことにする。

 さて、近江遷宮というけれど、近江のどこに遷ったのだろうか。それらしい考古学的遺物が発見されず、30年ほと前までは近江宮の場所は特定されていなかった。そのためた「近江遷宮はなかった」という説もあったようだ。

 ただし、天智が建てたと言われてる崇福寺(大津市滋賀里町)の近くだろうという見当が付けられていた。鼎談『藤原鎌足』で考古学者の田辺昭三氏が近江宮(田辺氏は「大津宮」と呼んでいる)探しについて次のような発言をしている。『藤原鎌足』は1972に発刊されているので、1970年頃までのは以下のような状況だったことが分かる。

 大津宮址の調査は過去に二度、肥後和男さんと柴田実さんが手がけています。それと、大津宮の位置を決める一つの鍵ともみられる崇福寺址の調査もすでに実施済みです。

 今回は、国鉄湖西線の敷設工事に伴う調査で、三度目の挑戦ということになるわけですが、工事に関達した調査ですので、調査範囲も限定されますし、かならずしも大津宮址に目標をしぼった調査はできないという難点はあります。ただ、もし大津京とよぶことのできるようなはっきりしたものが存在したとすれば、今回、湖西の平野部を南北に貫ぬいて湖西線が走るわけですから、どっちへ転んでも京城のどこかには、かならず引っかかるはずだという見とおしがあるわけです。

 現在、大津宮址の有力な推定地の一つである南滋賀辺りを中心に、南北2.5キロにわたって発掘していますが、面白いことに、ほとんどの地点を掘っても6世紀末から7世紀初頭にかけての遺物が、かなり豊富にでてきます。その時期の竪穴住居址もすでに三地点で検出しました。

 こうした調査結果をみますと、大津宮推定地の周辺一帯は、大津宮の前段階に、大小の集落が点々として、相当繁栄していたことはたしかです。これは、大津宮成立の前提として、当然見のがすことのできない事実だと思うんです。

 そこで、かんじんの大津宮関係の遺構ですが、調査をはじめてしばらくは、掘れども掘れども、7世紀後半に比定できる造物は全くでてこず、かなり悲観的でしたが、ごく最近、調査地域の南北両端の地点で、大津宮の時期にピッタリの造物が、かなりまとまってでてきました。土師器・須恵器・木器・建築材の残片などですが、そのなかには、陶硯や墨書のある土師器などもあります。これらの遺物のなかには、一般庶民生活には無縁で、明らかに宮人・貴族・僧侶などの生活にかかわるものがかなりあります。

 これらの造物は、この時代に掘鑿された溝の中や、その周辺の土中からでてくるわけですが、その溝は、いずれも東西、南北の方向に走っており、大津宮造営と関連して、すでに何らかの土地区割が存在したことを示していると思います。まだ、大津宮時代の建築遺構などはでてきていませんが、とにかく大津宮の位置についても、推定地の範囲をかなりしぼって、現調査地点の至近距離に宮の所在を想定できるところまではこぎつけたと思ってます。なにぶん、深いところでは現在の水田面から3メートル近くも下から大津宮時代の時期の造物がでてくるのですから、大津宮の位置がこれまでなかなかつかめなかった理由も、一つにはそうした条件が原因していたのではないでしょうか。まあ、今後の調査で何がでてくるか、楽しみになってきました。

 上の発言の中に「大津宮推定地の周辺一帯は、大津宮の前段階に、大小の集落が点々として、相当繁栄していたことはたしかです」というくだりがあるが、これはけだし当然の結論であろう。このことは、近江京の推定地を南滋賀辺りに求めることの妥当性とともに、文献的にも確認できる。実は近江遷都は天智が初めてではなかったのだ。「景行紀」に次のような記事がある。

景行58年2月11日
近江國に幸(いでま)して、志賀に居(ま)しますこと三歳(みとせ)。是を高穴穂宮(たかあなほのみや)と謂(まう)す。

景行60年11月7日
天皇、高穴穂宮に崩(かむあが)りましぬ。時に年一百六歳。

 景行以前の大王は全て大和に宮居を置いている。大和以外に宮居を遷したのは景行が初めてである。上のように、景行は最晩年の3カ年、近江に宮を置いていた。続いて成務・仲哀もその同じ宮に居住した。その高穴穂宮は大津市穴太(あのう)に比定されている。

 天智が遷宮地を選ぶとき、何もない荒れ地を選ぶはずはない。かつて宮居が置かれた地があるならば、そこを選ぶのが当然ではないだろうか。

 さて、田辺氏は「今後の調査で何がでてくるか、楽しみになってきました」と言っていたが、その後次のような成果が上がっていることを知った。(古田さんの『古代の霧の中から 1・近江宮と韓伝』から。1984年7月6日付「朝日新聞〈大阪〉」の記事をもとにした記述。)

 はからずも、昨年7月、滋賀県穴太の地で、めざましい発掘と発見が行われた。

 大津市穴太2丁目の西大津バイパス建設予定地。大津宮跡の北東3.1キロ。国鉄湖西線唐崎駅から北西へ300メートル。いわゆる「穴太廃寺」の地である。
 東西28.6メートル、南北15.6メートル(講堂跡か)。そこから北約20メートル、西側に東西22.4メートル、南北19メートル(金堂跡か)。これに並び東側に12メートル四方(東堂跡か)。法起寺様式であるという。
 時期は、白鳳時代(7世紀ごろから8世紀初め)とされる。

 このような報道のあと、これほどの寺院跡、法隆寺級の大寺院跡が出土したにもかかわらず、その存在事実を示す文献記載のないことに不審がもたれている、という。

 ここでは「寺院跡」と解されているようだけれど、これこそ天智紀にいう「近江宮」、天智が統治し、そこで崩じた宮殿、すなわち、先述来の「旧宮」ではなかったであろうか。

 ここで古田さんが「旧宮」と呼んでいるのは、もちろん景行の高穴穂宮ではない。671(白鳳11・天智4)年の「復元」年表を補充して再掲載すると

1月6日 冠位26階を制定

9月 天智、病気になる

11月24日 近江宮で火災

12月3日 天智、近江宮で死去

12月11日 新宮で殯する。


となる。天智死去の直前に近江宮は火災を出している。被害がどのくらいだったのか記録されていないが、天智は急遽新宮建設を命じたのだろう。その新宮で殯が行われている。火災からわずか十数日後だから、このときはまだ新宮は区画を整えた程度でありとても「新宮」とは言えない。ともあれ、この火災で炎上した宮殿を古田さんは「旧宮」と呼んでいる。

 ちなみに、旧宮と新宮の地理的関係について古田さんは次のように述べている。

 地図で見れば、判然としているように、「高穴穂(穴太)」の地は、大津の港を入口として、その北東へ参道のつづいた奥に当る。これを「大津の宮」と称して、何の過不足もないのである。

近江宮

 これに対して、いわゆる「大津の宮」(新宮。大津市錦織(にしこり)の地であることが最近確認されてきた)は、大津の港の、すぐそばだ。むしろ、王者の都の地としては、“港のそば”にすぎよう。ただ、天智は、この交通至便の地に「新宮」の建設を志し、その企図達成直前に、逝ったのであろう。

 このような地形の巨視的俯瞰(ふかん)からすれば、この「旧宮」と「新宮」とは、別域ではなかった。同一都域の中の、A地とB地、そういった感じなのである。

 では、景行・天智が選んだ大津市穴太にはどのような利便性があったのだろうか。
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 あるいは「近江遷都」番外編


安西均作「老女帝毒殺顛末」


 「老女帝毒殺顛末」をぜひ読みたいものと、その作品を収めているという五月書房版『安西均詩集』を探し求めた。いつも利用している区立図書館にはないので、他の区立図書館も調べた。どこにもない。都立図書館ならあるだろうと調べたが、ない。国立図書館を調べた。そこにやっとあった。でもこの暑いさなか、国立図書館までのこのこ出かけて行くのはおっくうだ。

 最後の頼みはネット。Amazonに3冊出品されていた。さっそく古書森羅さんのものを注文。しっかりとした丁寧な包装ですぐに送ってくれた。現物を見て、国立図書館以外に置かれていないことに納得。なんと1000部限定本なのだった。出版年は1975年だった。なお、安西さんは1994年に亡くなられている。享年74歳だった。合掌。

 さて、まず「後記」から「老女帝毒殺顛末」について述べている部分を転載しよう。

「老女帝毒殺顚末」は、本文および脚註ともに、このたび加筆をおこなった。この作品では、かならずしも女帝を毒殺した犯人を明記する必要はないし、暗示にとどめておいてもさしつかえないわけだが、その暗示の表現にあいまいさが残っている。したがって、西征行の不安な雰囲気描写にしかとどまらなかったことが、大きな欠点の一つであろう。

また、わたくしの創作した部分(*符のない部分)の語彙や語法にも少なからぬ誤りがありはしないかとおそれる。日本書紀のテキストとしては、黒板勝美の訓読(岩波文庫版)と、武田祐吉校註本(日本古典全書版)とを持っていて、拙作の引用には後者を用いた。岩波の日本文学大系版が出たのは、その後だった。

 手元にある岩波大系版の奥付を調べたら、初版は昭和42(1967)年だった。つまり「老女帝毒殺顛末」はそれ以前に書かれたことになる。古田さんの『失われた九州王朝』が出版されたのは1973年だから、「老女帝毒殺顛末」を書かれた頃、安西さんは古田さんの「九州王朝」説をご存じなかった。しかしその詩は「日本書紀私補」という形式で書かれているので、「九州王朝」説を取り入れたとしても、その内容に大きな変化はないと考えてよいだろう。とうぜん私は、『日本書紀』を読むときと同じように、九州王朝を念頭において読んだ。

 では「老女帝毒殺顛末」を紹介しよう。ただし『日本書紀』からの転載部分(*符のついている部分)は「*符」を付す代わりに青字で示すことにした。従って、黒字部分が安西さんによる創作あるいは他の条からの追加行である。また脚注のうち短いものは本文中に〈 〉で付すことにした。その他の脚注は私が必要と考えたものだけを詩の最後に付すことにした。さらにまた、「ふりがな」についても現代文と同じ読みや重出のものは省いた。

老女帝毒殺顚末
   日本書紀私補・附脚註

七年の春正月(むつき)、
丁酉(ひのととり)を朔(ついたち)
 とする壬寅(みづのえとら)
 の日〈6日〉、
御船、西に征きて、
始めて海つ路(みち)に就きき。
難波の潟に蘆いまだ芽ぐまず。
稲見の海に御船泊(は)てて、
 〈稲見=印南〉
宴(うたげ)したまふ。
中大兄皇子、口號(くつうた)
 して曰(のたま)はく、
  香具山は 畝火雄々しと
  耳梨と 相あらそひき
  神代より 斯くにあるらし
  古昔(いにしへ)も 然(しか)
   にあれこそ
  うつせみも 嬬(つま)を
  あらそふらしき
    反歌
  香具山と耳梨山とあひし時
  立ちて見に来し印南(いなみ)
   国原〈『万葉集』13・14番〉
重ねて口號して曰はく、
 わたつみの 豊旗雲に
  入日見し今夜の
  月夜(つくよ)さやに照りこそ
    〈『万葉集』15番〉
 
癸卯(みづのとう)の日〈7日〉、
風甚(いた)く吹きつのりて、
流失(ながれう)せし軍船
 (いくさぶね)三艘。
或(あるひと)は曰(い)ふ
風に隠れて逃亡(にげはて)
 しか、と。

甲辰(きのえたつ)の日〈8日〉、
御船、大伯(おほく)の海に
 到りき。
時に大田姫皇女
 (おほたひめのひめみこ)
 〈大海人の妃〉、女(ひめみこ)
 を産みたまひき。
仍(よ)りて是の女に
 名(なづ)けて
大伯皇女と曰(まを)す。
天皇(すめらみこと)、
 御膝(みひざ)に手抱(ただ)
 きて愛(いつくし)みたまふ。
倭姫王(やまとひめのおほきみ)
 〈中大兄の正妃〉、抱きて
 愛みたまふ。
鸕野讃良皇女〈後の持統〉
 (うののさららのひめみこ)も、
 愛みたまひき。
中大兄皇子、「女ならば
数ならず」と曰ひき。〈注1〉
中臣鎌足、
寿言(よごと)奏(まを)しき。

丙午(ひのえうま)の日、〈10日〉
夜陰(よのやみ)にまぎれて
船を反(かへ)すものあり。
追ひて捕へ、ことごとく斬る。
首謀者(おもだちたるもの)を
 検(ただ)し、
 髪に綱(つなゆひ)、
艫(とも)に繋(つな)ぎて曳く。
大海人皇子(おほあまのみこ)、
 曰はく、
何故(なにすれ)ぞ逃亡(に)げむ
 とはしつる、と。
駿河の国壮(をとこ)、
畏れかしこみて答へて曰(まを)
 すらく、
「僕(やっこ)、軍(いくさ)に
 徴役(めしいだ)さるる前は、
勅(みことのり)をかがふりて
 船(みふね)造りしが、
巳に訖(をは)りて、挽きて
績麻(をみ)の郊(の)に
 至れる時、
その船、夜中に故無くして、
艫舶(へとも)相ひ
 反(かへ)れり。
衆(ひとびと)、終(つひ)に
 敗れむことを知りき」。
また科野(しなの)の国の壮、
「先年(さきつとし)、天皇、
諸(もろもろ)の軍の器(つはもの)
 を備へたまふに、
蠅(はへ)、群れて西に向ひて、
巨坂(おほさか)を飛び踰(こ)ゆ。
大きさ十圍許(とをだきばかり)、
高さ蒼天(おほぞら)に至れり。
或(あるひと)は、救の軍の
 敗績(やぶ)れむ怪(しるまし)
 といふことを知りき」。

庚戌(かのえいぬ)の日〈14日〉、
御船、伊豫の熟田津の石湯の
行宮(かりみや)に泊てき。
天皇、額田王(ぬかたのおほきみ)
 をして歌を献らしめたまふ。
皇太子(ひつぎのみこ)の妃(みめ)、
 すなはち作歌(みうたよみ)
 したまはく、
  熟田津に船乗りせむと
  月待てば潮もかなひぬ
  今は漕ぎ出でな
と歌ひたまひき。
この御歌の意(こころ)は、
  難波の津を出でしより
  このかた、夜天(よぞら)に
   懸(かか)る月も
  繊(ほそ)くして、潮(うしほ)は
   浅く
  御船の船足いと重かりしが、
  天然の摂理(ことはり)は誤つ
   ことなく、
  御軍を推進(おしやら)むとす。
  見よ、
  今夜は清明(さやけき)十四夜
   なれば、
  月も円(まどか)に潮満てり。
  いざ 舟子(かこ)よ 
   兵(つはもの)よ
  志気(こころ)ふるひて
   漕ぎ出だせ。
と曰(のたま)へるなり。
故(かれ)、御船、早春
 (はやきはる)の潮の香を
 截(き)りて進みき。

三月(やよひ)、
丙中(ひのえさる)を朔とする
 乙巳(きのとみ)の日〈10日〉、
企救(きく)の浜に泊てき。〈注2〉
頃日(このひごろ)、毒ある
 海つ魚(うを)を啖(くら)ひて
 死す兵多(あまた)ありき。

丁末(ひのとひつじ)の日〈12日〉、
岡の水門(みなと)に泊てき。
          〈注3〉
この夜(よひ)、船中(ふねのなか)
 に宴したまひき。
宴半(なか)ばにして、皇太子、
大海人皇子の妃(みめ)に
 淫(たは)け、〈注4〉
「妃が齢は十六(とをあまりむつ)
  か、睦(むつ)みたや」と
歌ひいでたまひき。
大海人皇子、突差(つと)、
御酒盞(みさかづき)を海に投げ
 棄(う)て、
立去りたまひき。〈注5〉
鸕野讃良皇女、
 夫君(いろせのみこ)の袖(みそで)
  を執りて宥(なだ)めたまひき。

庚申(かのえさる)の日〈25日〉、
御船、還りて〈注6〉
娜の大津に至り、
磐瀬の行宮に居(ま)しましき。
天皇、此(ここ)を改め名(なづ)
 けて
長津と宣(の)りたまひき。

五月(さつき)、
乙未(きのとひつじ)を朔とする
 癸卯(みづのとう)の日〈9日〉、
天皇、
朝倉の橘の広庭の宮に
遷り居しましき。
この時、朝倉の社(やしろ)の木を
斮(き)り除(はら)ひて
 此の宮を作りき。
故、神忿(いか)りて殿(おほとの)
 を壊(こぼ)てり。
また宮中(みやぬち)に鬼火
 見(あらわ)れき。
是に由りて、
大舎人(おほとねり)と
 諸(もろもろ) の近侍
 (さもらひびと)と、
病み死ぬる者衆(おほ)かりき。

甲寅(きのえとら)の日〈20日〉、
皇太子、長津に往(ゆ)きまして
軍(いくさ)の器(つはもの)の
 備へを
 検視(あらため)たまふ。
その夜更(よふけ)、再度
 (またしても)、
天皇の座所(おはしますところ)
 の近くにありて、
おびただしく鬼火跳び飛びき。
諸(もろびと)、逃げまどふ中に、
怪(け)しき装(よそほひ)の者
 一人ありき。
中臣鎌足、是を揃へて訊(ただ)
 すに、
大海人皇子に仕ふる雑士(ざふし)、
と曰しき。ただちに、
大海人皇子の属(ま)します
 館(たて)に
率(ゐ)て往く。皇子、すなはち
壮を一瞥(ひとめみる)や、
御劔(みたち)を放ちて斬り
 捨(う)てたまひき。

六月(みなづき)、
伊勢王(いせのおほきみ)、
 薨(みまか)りき。〈注7〉
是の朝、猿沢の池のほとりに、
          〈注8〉
一壮(ひとりのをとこ)ありて、
 童謡(わざうた)を唄へり。
そは大倭(やまと)の国にて、
民の謡へる童謡なりき。〈注9〉
壮、歌ひ終りて、
池に身を投げき。
池を捜させしに、死屍(なきがら)
 失(う)せたり。
衆(ひとびと)、恐れて
 私(ひそか)に語るらく、
「神、軍を戒めたまひて、
かかる怪(しるまし)顕(あらは)
 せり」
 と曰へり。

秋七月(ふみづき)、
甲午(きのえうま)を朔とする
 丁巳(ひのとみ)の日〈24日〉、
天皇、
朝倉の宮に崩(かむあが)り
 たまひき。
是の日、皇太子、大海人皇子、
ともに長津に往きて、
軍器を検視たまひき。〈注10〉
天皇、鸕野讃良皇女と
猿沢の池のほとりを
 逍遙(たもとほり)、
土人(むらびと)が献りし橘の
香(かぐ)の木(こ)の実を
 賞味(を)したまひき。〈注11〉
宮に還りたまふや、
遽(にはか)に苦しみ悶えたまふ。
皇女、近侍(さもらひびと)を
 退(そ)けて
看病(みとり)したまへるも、
刻(とき)を移さず崩りたまひき。
一舎人(あるとねり)ありて曰ふ、
 「皇女、橘の実を食したまは
  ざりき」。
其の舎人、誰人(いづれのもの)
 によりてか、
暁をまたず、
脾(わきばら)を刺されて死に
 ゐたりき。

八月(はつき)、甲子(きのえね)
 の朔の日〈1日〉、
皇太子、天皇の喪(みも)に
 従(ゐまつ)りて、
遷りて磐瀬の宮に至りたまひき。
この夕、
朝倉の山の上に鬼ありて、
大笠を著けて
喪の儀(よそほひ)を臨み視き。
衆皆(ひとびと)、
 嗟怪(あやし)みき。

冬十月(かむなづき)、
癸亥(みづのとゐ)を朔とする
 己巳(つちのとみ)の日〈7日〉、
天皇の喪、帰りて海に
 就(ゆ)きき。


〈注〉(〈 〉内は私の補足)

(1)
 実力者でもある実弟に、男子が生まれなかったことをひそかに喜んでいるのである。
 中大兄皇子にしてみれば、後継者としたいわが子の大友皇子(のちの弘文天皇)は、この時まだ十三歳にしかすぎない。

(2)
 今の福岡県北九州市小倉区の海岸。

(3)
 今の福岡県遠賀郡芦屋町の海岸。

(4)
 名未詳。大田姫皇女や鸕野讃良皇女でないことは明らかである。なぜなら、この二妃とも中大兄皇子の娘たちであり、実父が淫けかかるはずはない。

(5)
 これに似た事件が、後年にも生じた。中大兄皇子は都を近江の国に遷した翌年(668年)正月に、正式に即位した。ある日群臣を召して、琵琶湖にのぞむ高殿で酒宴を催した。その席でどうしたことか、大海人皇子が長槍をとって、広間の敷板を刺し貫いた。天皇はその無礼を怒り、捕えて殺そうとしたのを、中臣鎌足が割って入り、事なきをえた。『大織冠伝』にある挿話だ。

(6)
 さきの熟田津からここまで二カ月半も経ている。備中国風土記逸文によると、熟田津に到るまでの途中で兵二万を徴用したという記事がみえる。これから想像して、熟田津での滞在はかなり長期で、徴兵に手間どっていたのであろう。「御船、還りて」とは、熟田津は寄り道であったが本来の航路に戻って、という意味である。〈私は筑紫着をわざと遅らせていたと解釈した。〉

(7)
 伊勢王は伝未詳。しかも死因不明だが、なんとなく不吉な死だったことが想像される。〈私は伊勢王を筑紫傀儡政権の長と考えた。私も伊勢王とその弟王の相次く死を「なんだか尋常でなさそうだ」と書いた。〉

(8)
 現在、朝倉の宮址といっても、何一つ遺構はない。ただ「猿沢の池」という地名は残っている。「天子の森」などは後代の仮託であろう。

(9)
 「わらべうた」ではない。政治などに対する諷刺の歌。「わざ」は、隠された意味、ということだが、よく児童に歌わせたので「童謡」と書く。
 駿河の男、信濃の男らが報告したように、出兵の当初から不吉な異変があちこちに起こるとともに、奇怪な諷刺歌が流行した。そのわざうたは、今日の学界でも完全に解説されていない謎の難訓歌であるが、ほぼ出兵の不成功を諷刺したもののようだ。
 本編では省略するが、そのわざうたを朝倉の宮でもひそかに歌う者がいたのであろう。
〈ちなみに、安西さんが省略した「わざうた」次のようである。まったくのチンプンカンプン歌だ。〉
「まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへたをらふくのりかりが」

(10)
 中大兄と大海人と、兄弟の皇子がつれだって、長津に軍備点検に出かけた。その留守に、生母の斉明天皇が急死するという、思いがけない事件がおこつたのである。〈「中大兄と大海人が兄弟」ということに、私は疑念を持っているので私の記事ではまだ大海人を登場させていない。安西さんは老女帝毒殺の張本人は大海人と暗示している。〉

(11)
 タチバナは食用ミカンの古名。今日、ニホンタチバナなどとよぶ、食用に適さない品種とは別のもの。
今日の話題:アイ・トリック


 今日はチョット息抜きです。

 いま東京新聞朝刊に、横浜の日本新聞博物館で開催されている「一枚マンガのいきもの展」の作品を紹介するコラムが連載されています。今日は森田拳次氏の「M・C・エッシャー」と題する次のような楽しい作品でした。

アイ・トリック

 矢印の中の文字が読みにくいので補足します。左上は「食べて良いもの」、右下は「食べて悪いもの」です。

森田氏はこの作品について、次のようにコメントしています。

『エッシャー風に欧米中心の食への見方を皮肉った今回の作品は、キャプションを付けて説明しましたが、本来は説明なしでやりたい。「言葉がないのが多弁である」というのがモットーです。』

 この楽しい作品を見て、一般に「アイ・トリック」と呼ばれている作品を紹介したいと思い立ちました。森田氏のモットーにならって解説は省くことにします。ひととき楽しんでいただければ幸いです。なお作品はすべて種村季弘編『遊びの百科全書②・アイ・トリック』からの転載です。

幾何学的錯視

アイ・トリック1
ミューラー・リヤーの錯視(どちらが長い?)

アイ・トリック2
ヤストロウの錯視(どちらが大きい?)


遠近反転錯覚

アイ・トリック3
(クリックすると大きくなります。)
 遠近が入れ替わる二通りの図が見えますか。やさしい方から見てみましょう。右から、
「マッハの本」
「ネッカーの立方体」
「シュレーダー階段」


不可能図形

アイ・トリック4
三またのサス

アイ・トリック5
ベンローズの三角形

アイ・トリック6
エッシャーの階段


エッシャーの「メタモルフォーゼ」

アイ・トリック7
(クリックすると大きくなります。)
右から見ていくと? 左から見ていくと?

アイ・トリック8
(クリックすると大きくなります。)
男と女


だまし絵

アイ・トリック9
(クリックすると大きくなります。)
J・ジャストロウ「あひるとうさぎ」

アイ・トリック10
(クリックすると大きくなります。)
W・E・ヒル「若妻とその母」
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(66)

「天智紀」(54)


近江遷都(12):中大兄の動向


 斉明は朝倉宮に移ってから死去するまでずっとそこに居住していたようだ。では中大兄はどこにいたのだろうか。

 661年7月の記事にあるように、中大兄は長津宮(娜の大津の磐瀬行宮)移っている。その後は中大兄の移動は、記録上は斉明の「喪を奉徙(いまつ)りて、還りて磐瀬宮に至る」だけである。この行動は、斉明を埋葬するため一度朝倉宮へ行き、大和へ帰る一団を見送りがてら長津宮へ帰ったということだろう。そのとき以外は中大兄は、筑紫滞在期間中は一貫して長津宮にいたと考えられる。中大兄は、斉明に代わって、ヤマト王権の代表者として太宰府での唐・新羅対策の部族会議に参加していただろう。そのためには長津宮は太宰府のすぐ近くで、都合がいい場所だ。もちろん藤原鎌足も中大兄の懐刀として行動をともにしていた。

 斉明の長津宮から朝倉宮への移動の目的を、岩波の頭注は「敵襲を考慮したためか」と推測している。この推測は半分は正しい。

 唐に繰り返し朝貢しているヤマト王権は新羅征討には初めから厭戦気分だったに違いない。朝倉宮の怪事件や斉明の病気を理由に、部族会議では後方防衛の役割を強く求めて了承を取ったのではないか。朝倉は山城(基山 基肄城)と神籠石(杷木)の間にあり、吉野ヶ里・筑後川にも近い。朝倉は有明海方面からの敵襲に対応する重要地点だったのではないか。

 斉明改葬のための船団は娜の大津から海路を難波に向かう。往路と同様にこの船団で、ヤマト王権の将軍たちの妻子や使命のなくなった貴族たちも帰って行った。しかし、ヤマト軍は筑紫に残ったはずだ。それは唐の占領軍との共同作業(九州王朝の王墓や宮殿の破壊)や筑紫傀儡政権内での権力争いに不可欠であった。もちろん中大兄も改葬船団には同行していない。その証拠が「復元」年表で全文を掲載しておいたあのおかしな挿話である。

是に、皇太子、一所(あることろ)に泊(は)てて、天皇を哀慕(しの)ひたまいて、乃ち口號(くつうた)して曰はく、
 君が目の 戀(こほ)しきからに 泊てて居(ゐ)て かくや戀(こひ)むも 君が目を欲(ほ)り


 「一所(あることろ)に泊(は)てて」だって? 船団の途中停泊所が分からないと言っているのと同意味だ。「ある本に曰く」とか「名を闕せり」とか「詳らかにせず」とかと同じ『日本書紀』得意の語法である。また、「口號(くつうた)して」詠った歌のなんととぼけていること。これは亡くなった母親を偲ぶ歌ではなかろう。明らかに故郷の恋人との再会を切望している女性の心情を詠った歌だ。( 「詩をどうぞ:安西均作「実朝」・「頬白城記」」 で紹介したように、安西さんはこの歌を志賀島の民謡ではないかと考えている。)

 このような取って付けたようなエピソードを挿入した意図は何か。中大兄が斉明の改葬に同行したことを示唆しようとしているだ。このように考えながら、一方で私は不思議でならない。中大兄が同行したことにしたいなら、「皇太子はなきがらに付き添って飛鳥まで同行した」と、一行追加すれば済むのに、なぜこんな手の込んだことをするのだろうか、と。

 さて、筑紫傀儡政権内では、衰退した九州王朝にに取って代わるべく、水面下では部族国家間の主導権争いが行われていたことだろう。

 主導権を得るには占領軍の総帥・郭務悰の同意が必要である。その郭務悰は傀儡政権に頑強に抵抗し続けている九州王朝内の抵抗勢力に手こずっていた。(この抵抗は712年まで続く。 第1399回 2010/04/25(日) 『「占領軍」は何をしに来たのか(2)』 を参照してください。)

 しかも朝鮮半島では百済を併合した唐は、余勢を駆って新羅をも併合しようとしていたが、新羅の武烈王(金春秋)と名将金廋信は唐との決戦に備えて挙国一致体制を整えていた。そのため唐の総帥・蘇定方(そていほう)はやむなく軍を撤退している。唐はここでも収拾に手こずっている。

 このような状況下、郭務悰は九州王朝を徹底的に壊滅するという所期の強行方針から、抵抗勢力までもを取り込む懐柔策へと占領方針を転換したのではないだろうか。これを知った中大兄と鎌足は、筑紫に見切りをつけ、ほとんど無傷であったヤマト軍を率いて大和へ帰った。そしてさらに近江へと移った(あるいは筑紫から直接近江へ移動したかも知れない)。近江遷都の数ヶ月後、中大兄は倭京(太宰府)を訪ねている。そして、その翌年に即位する。倭京へはヤマト大王即位の根回しに行ったものと思われる。

 一方筑紫では、傀儡政権の首長に据えていた伊勢王とその弟王が相次いで死去する(この二人の死もなんだか尋常でなさそうだ)。そこで郭務悰は筑紫君薩夜麻を帰国させ、倭国王に復位させた。しかし、白村江で大敗した薩夜麻には昔日の権威はなくなっていただろう。筑紫の抵抗勢力はむしろ反発したのではないだろうか。この間の「復元」年表を再掲載する。


667(白鳳7・斉明13)年

2月27日 斉明・間人大后を
      小市岡上陵に合葬

3月19日 近江遷都

8月 中大兄皇子、倭京に行く。


668(白鳳8・天智元)年

1月 天智即位

☆6月 伊勢王とその弟王
      日をついで死去。

☆11月 唐占領軍第二陣来る。
     筑紫君薩夜麻を同行。


 では中大兄はなぜ宮殿を大和(飛鳥)ではなく近江に置いたのだろうか。

【付記】九州王朝滅亡の残映
 古田さんは『失われた九州王朝』で『宋史』」日本伝や『三国史記』の記事をを取り上げて、その記事の見事な解読を行っている。滅亡した九州王朝の残映が100年後、あるいは300年も後にもなお姿を現しているというのである。ヤマト一元主義の学者には思いも寄らない仰天解読だろう。
 『宋史』日本伝中、興味深い記事がある。

「天聖4年(1026、後一条天皇、万寿3年)12月、明州言う、『日本国太宰府、人を遣わして方物を貢す。而も本国の表を持たず』と、詔して之を卻(しり)ぞく。其の後も亦、未だ朝貢を通ぜず、南賈(なんこ)時に其の物貨を伝えて中国に至る者有り」。

 日本国の太宰府から、中国(北宋)へ朝貢をもってきた、というのである。明州からの報告だ(明州は今の寧波、すなわち、浙江省〔会稽道〕鄞県)。しかも、日本国王の上表文をもたず、単独で自主的に献上してきたのだ。しかし、中国の天子はこれをしりぞけた、というのである。

 11世紀前半といえば、日本では平安期中期だ。九州王朝の滅亡(700年)からすでに3世紀を越えている。しかるに、このような事実。 ― それは1世紀志賀島の金印授与以来、九州王朝の根深い、対中国関係の伝統を物語っているであろう。そして中国側から「朝貢」を拒否されてもなお、「南賈」(南方の商人)を通じて“「朝貢」の名なき朝貢”を送りつづけている、という。わたしたちは、ここに東シナ海を渡って南朝と国交をもちつづけた九州王朝の永き残映を見ているのである。

 このような視点に立てば、『三国史記』のつぎの記事も、正当な理解を得よう。

(A)
(哀荘王3年、802)冬12月、均貞に大阿飡を授け、仮の王子となす。以て倭国に質せんと欲す。均貞、之を辞す。
(B)
(哀荘王4年、803)秋7月、日本国と聘(へい)を交わし好(よしみ)を結ぶ。
(C)
(哀荘王5年、804)夏5月、日本国、使を遣わして黄金三百両を進ず。
〈『三国史記』新羅本紀第十、哀荘王〉

 これは、日本では、桓武天皇の延暦21年(802)から23年(804)に当る、9世紀のはじめだ。だから、(B)(C)の「日本国」という表記に不思議はない。当然、この前後は、(A)以外、全部「日本国」の表記だ。しかし、おどろくべきは(A)だ。平安朝においても、なお、新羅は一旦、「倭国」(九州王朝の後裔)と「契約」を結ばんと画策して、挫折しているのである。

 この段階においても、なお、九州は一種“半独立性”の残映をもって、朝鮮半島側には映じていたようである(『海東諸国記』も、「日本本国」と「九州」〔及び一岐・対馬〕を別地図に描いている)。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(65)

「天智紀」(53)


近江遷都(11):斉明の陵墓


 前回、自分でもびっくりするような展開になった。「斉明は毒殺された」なんていう仮説が成り立つのだろうか、いまだ半信半疑でいる。何か突破口はないだろうか。斉明の死に関する史料は『日本書紀』だけだけど、ふと墓陵関係史料に何かヒントがだろうかと思い至った。10年ほども前に買って拾い読みしただけで「積ん読」していた本、森浩一編『天皇陵古墳』を思い出した。その本で斉明陵について調べてみた。二項目しかなかった。

 第二部の天皇陵古墳関係資料中の「歴史的人物の没年と没所」(波多野由美子編)では『日本書紀』の記述通りに記載されていて、新たに得るところはなかった。ところが、第1章・和田萃「日本古代・中世の陵墓」に『扶桑略記』に記載されている山稜記事(応神から元明まで)に思いがけない発見があった。和田氏は山稜記事部分だけを抜き書きしている。幸いネット検索で『扶桑略記』を見つけたので、斉明のその部分を全文転載する。(原文は漢文。読み下し文にした。)

 七月廿四日、天皇崩ず。山陵、朝倉山。【八月。葬喪の夕、朝倉山上に鬼有り。大笠を着け喪儀を臨み視る。人皆これを見る。」陵高三丈。方五町。】大和國高市郡越智大握山陵に改葬す。【十一月、これを改む。】

 朝倉山に葬られていて、後に大和に改葬されたというのだ。大笠を着けた鬼の怪異譚の記録している。日付はすべて『日本書紀』の記事と一致している。

 この『扶桑略記』の陵墓記録は信頼できるのだろうか。和田氏は「兆域」(立ち入り禁止区域、斉明の例で「方五町」と書かれ部分)の検討を通して、『扶桑略記』の原史料が作られたのは「奈良時代後半から末ごろの可能性が大きい」とし、その後の「諸陵式」は『扶桑略記』の記録を踏襲していると結論している。その史料批判部分を転載しておく。

 記載の形式に、(1)「葬于 ― 陵」、(2)「山陵、―」とする二種類があり、何か記録にもとづく記載であるらしい。(1)の形式をとるのは、応神~欽明、改葬の事例である用明・舒明・斉明、火葬に付された元明であり、(2)の形式は、敏達、崇唆、推古、孝徳、天智、天武(持統)、文武である。(2)の記載が基本で、(1)は副次的なものであろう。

 延喜諸陵墓式と『扶桑略記』の記載を比較してみよう。山陵名については、『扶桑略記』が飯豊皇女の即位を認める立場をとるので、葛木埴口(かづらきのはにくち)丘陵をあげていることを除けば、延喜諸陵墓式のそれにほとんど一致している。仁徳・履中・反正の山陵所在地についても、『扶桑略記』は延喜諸陵墓式と同様に、仁徳陵を中心として反正陵を北陵、履中陵を南陵としている。

 しかし兆域記載については大きな相違がある。『扶桑略記』では、顕宗陵の兆域を東西二町・南北三町とするのを除けば、すべて兆域を正方形とするのに対し、延喜諸陵墓式(応神~元明までの部分)では、例えば允恭陵であれば兆域を東西三町・南北二町とするように、長方形の兆域をもつ例が三分の一ほどある。さらに『扶桑略記』では山陵の高さを記していて、きわめて注目される。

高さ五丈 ― 応神・仁徳・履中・反正・天武陵
高さ四丈 ― 允恭・欽明・舒明陵
高さ三丈 ― 安康・顕宗・継体・安閑・宣化・敏達・用明・斉明・文武・元明陵
高さ二丈 ― 雄略・清寧・仁賢・武烈・推古・孝徳・天智陵

 高さ五丈の例は、どの前方後円墳にあてるかはともかくとして、古市古墳群中の応神陵、モズ古墳群中の仁徳・履中・反正陵、そして天武陵のみであり、架空の数値ではなく、かなり事実にもとづいたものとみてよい。兆域が方形で墳高を記すという点では、大化薄葬令と共通している。

 『扶桑略記』の兆域記載のもとになった記録の成立時期であるが、天智陵の所在地を山城国宇治郡山科郷とすること、また舒明陵の兆域が方九町と広く、天智系の山陵の兆域が広大になって以降のものとみれば、奈良時代後半から末ごろの可能性が大きい。山陵名が延喜諸陵墓式のそれとほぼ共通していることから、それは弘仁諸陵墓式に踏襲され、延喜諸陵墓式に至ったとも考えられる。兆域や墳高については、弘仁諸陵墓式では採用されなかったのだろう。

 なお、これもネット検索をしていて出会った情報だが、福岡県朝倉郡恵蘇宿(えそのしゅく)というところに「御陵山」と呼ばれる古墳があり、そこが斉明天皇陵とされているようだ。斉明が朝倉で本葬されたという伝承もあったようだ。(この古墳が発掘できれば真偽のほどがはっきりするのにな。)

 さて、「斉明紀」7年条の葬儀記事は「飛鳥の川原に殯(もがり)す」で終わっていて、どこに埋葬したのかは記録されていない。そこで私は、これは「称制偽作」過程で、不注意でか意図的にかは分からないが、埋葬記事を分離してしまったものと考えて、「復元」年表では「殯(もがり)」記事の後に「天智紀」6年条の「天豐財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬(かく)せり」という記事を置いのだった。しかしこれは「改葬」だったのだ。『日本書紀』編纂者が筑紫朝倉での「本葬」記事を意図的にカットしたことになろう。すると、カットされた「本葬」記事は
「7月24日 斉明、朝倉宮で死去」

「8月1日 中大兄皇子、喪のため磐瀬宮に至る。」
の間に入ることになる。

 上の「復元」年表が正しいとすると、大変あわただしい葬儀であったようだ。斉明の死は、毒殺とまでは言えないとしても、変死であった可能性は大きい。そのため早く葬る必要があったのではないか。斉明の死が普通の病死だったとしても早々に葬る必要があったと思われる。なぜなら、ヤマト王権の本拠地外での出来事であり、しかも筑紫には唐の占領軍がやって来ている。葬祭儀式をのんびりと時間を掛けて行うことができる状況ではなかっただろう。

 ちなみに、「孝徳紀」大化2年3月条に薄葬令の記事がある。これは言うまでもなく九州王朝の事績の盗用である。この薄葬令には魏の文帝が出した薄葬令(『三国志』)が引用されている。文帝の薄葬令は3世紀である。倭国は7世紀よりもっと早い時期から中国での薄葬令の影響を受けていたと思われる。その薄葬令に「それ王より以上の墓は、・・・七日に訖(おはら)しめよ」と言う一文がある。この薄葬令が徹底されていたとすれば、葬儀はせいぜい長くとも7日ということだから、「復元」年表の日程に無理はない。

 「斉明紀」では斉明のなきがらを運んでいって、大和の飛鳥川原で殯をしたことになっている。なきがらを掘り出して運んだのだろうか。そうだとすると、一度埋葬してすぐに掘り出したことになり大変不自然である。私は飛鳥川原での殯、その後の改葬は形式的なものだったのではないかと思う。いまでも故人の身体の象徴として毛髪が用いられているが、「斉明紀」が言う「なきがら」とはそのような象徴的な身体の一部だったのではないだろうか。後に詳しく書く予定だが、この葬送船団には何よりも皇太子とされている中大兄が同行していないのだ。そうした斉明の遺品とともに、斉明と同行してきて朝倉にいた貴族やその妻子たちが大和に帰国した。飛鳥川原では斉明の遺品を用いて殯・改葬を行った。

 ところで、斉明が改葬されたという「小市岡上陵」はどこにあるのだろうか。岩波の頭注は次のように述べている。

『延喜式諸陵式に「越智崗上陵。〈飛鳥川原宮御字皇極天皇。在大和国高市郡〉」。陵墓要覧は所在地を奈良県高市郡高取町車木とする。』

 つまり、「小市岡上陵」については全く比定の手がかりがなく、言うべき事は何もないようだ。そこで岩波の頭注は『延喜式諸陵式』を取り上げている。和田氏によると『延喜式陵式』は『扶桑略記』を踏襲したものであるが、「高市郡越智大握間山稜」と「越智崗上陵」ではずいぶん表記が異なる。いずれにしてもその陵跡はまったく比定できていないようだ。

 岩波の頭注が次に持ち出している「陵墓要覧」は宮内庁がまとめた明治時代以後の資料である。宮内庁が比定した陵墓には信頼できないものが多々あることは、ヤマト一元主義の考古学者の間でも常識である。ここで「陵墓要覧」などを取り上げるのは学者としての見識が疑われる。高市郡高取町車木の「斉明天皇陵」何の根拠もなく比定したその陵墓を発掘しても何も出てこないだろう。『天皇陵古墳』でもその「斉明天皇陵」は全く取り上げられていない。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(64)

「天智紀」(52)


近江遷都(10):斉明の死


 7世記までの古代史では、九州王朝の史書をぐちゃぐちゃに切り貼りした偽史書『日本書紀』しか残されていないので、文献面ではどんな仮説でも成り立つような状況にある。実際、一つの事項をめぐって実に多くの仮説が競合している。複数の仮説の中から生き残る仮説を決定するのは、中国・朝鮮の史書と考古学的遺物との整合性である。その整合性に耐えられるのは古田古代史だけであると、私は確信している。

 ところで、筑紫に到着した斉明の居処は、磐瀬行宮→朝倉橘広庭宮と変わるが、その宮跡はともに不明である。つまり考古学的遺物がない。もし宮跡がわかれば、そこからの出土物によって、筑紫にやってきたヤマト王権の主要人物たちの筑紫における動向がある程度は解明されよう。しかし、それは無いものねだり、今は欠陥文献と想像力に頼るほかない。というわけで、以下は私の貧しい想像力が生み出した私独自の仮説です。

 さて、磐瀬行宮の大体の位置は、 「x皇子とは誰か(5)」 で明らかにした。福岡市と春日市のちょうど中間点あたり。朝倉宮は福岡県朝倉郡のどこかと言うことになろう。朝倉市あたりとすると、磐瀬行宮から東南におそそ30㎞ほどの地点になる(「定説」は「朝倉町山田」と比定している)。だいぶ奥まったところに移っている。

 「天智紀」が記録している新羅征討隊27000人を率いた将軍は次の6人である。

前将軍
①上毛野君稚子(かみつけのきみわかこ)
②間人連大蓋(はしひとのむらじおほふた)
中将軍
③巨勢神前臣訳語(こせのかみさきのおみをさ)
④三輪君根麻呂
後将軍
⑤阿倍引田臣比邏夫
⑥大宅臣鎌柄(おほやけのおみかまつか)

 ここには全体を統率する最高司令官の記録がない。隋・唐の高句麗征討では必ず皇帝も従軍していて総指揮を執っている。倭王武の上表文に「昔より祖禰(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を擐(つらぬ)き、・・・」とあるように、国家間の戦闘では王が総司令官を務めるしきたりは九州王朝も例外ではない。新羅征討の最高司令官はとうぜん筑紫の君・薩夜麻だ。『日本書紀』編纂者はこの名をカットしている(しかし後の方で馬脚を現している。いずれ詳しく取り上げる予定です)。

 では6人の将軍たちはどこの部族の王たちだろうか。①は分かりやすい。上野国王だ。⑤が越国王であることすでに「北方遠征」で確認している。他の4人については不明だが、九州王朝の総力を挙げての遠征だったことが伺える。この征討隊にヤマト軍が入っていない理由として「斉明の死」を挙げるひともいる。しかし私(たち)の立場では斉明は死んではいないのだから、理由は別になければならない。

 ところで斉明が朝倉宮に遷ったときの記事に奇妙な記録がある。

天皇、朝倉橘廣庭宮(あさくらのたちばなのひろにはのみや)に遷りて居(おはし)ます。是の時に、朝倉社の木を斮(き)り除(はら)ひて、此の宮を作る故に、忿りて殿を壊つ。亦、中に鬼火見(あらは)れぬ。是に由りて、大舎人及び諸の近侍、病みで死(まか)れる者衆(おほ)し。

 この噂を広め、斉明の病に罹ったことにしたのではないか。あるいは、原因はもちろん祟りなどではないが、本当に病に罹ったのかも知れない。斉明の死亡記事がとても唐突なのだ。多くの場合、「天皇病疾したまふ」(「孝徳紀)とか「天皇、寢疾不豫(みやまひ)したまふ」(「天智紀」)とか、死の予兆を示す記事がある。斉明紀にはそれがなくいきなり死亡記事だ。しかもその死亡記事の次の条にのも怪異説話を記録している。

皇太子、天皇の喪を奉徙(いまつ)りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を著て、喪の儀(よそほい)を臨み視る。衆皆嗟怯(あやし)ぶ。

 これは斉明が朝倉社のの祟りで死んだことを匂わしているものと思われる。つまり斉明の死が尋常ではなかったことを示しているのではないだろうか。とっぴょうしもない説と一笑に付されそうだけど、斉明は毒殺された?

 ここに来るまで考えもしなかった考えが出てきてしまって、自分でも驚いている。どうやら 「詩をどうぞ:安西均作「実朝」・「頬白城記」」 で引用した次の文と私が進めている議論が、頭のどこかでドッキングしたようだ。

「安西氏は661年のチクシにおける異常な事態を、長詩「老女帝毒殺顛末」に記している(『安西均詩集』五月書房版)。」

 これを読んだときには「チクシにおける異常な事態」とは何なのか分からなかったが、もしかするとそれは朝倉社のの祟りのことではなかっただろうか、と思い至ったのだった。

 斉明は毒殺された。 誰に? 中大兄に。どうして?

 とんでもないことになって来ちゃった。どうしよう!?
 仕方がない。と、あわてて予定していた表題「中大兄はどこに?」を「斉明の死」と書き変えました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(63)

「天智紀」(51)


近江遷都(9):倭国水軍の出陣地


(前回の年表に少し追加・変更をしました。議論の進展の具合によって、これからも追加・変更をするかも知れません。あしからず。)

 斉明の西方遠征記事はおかしなことだらけだ。まず出発二日後に大田皇女が女子を出産していることだ。出産直前の妊婦を同行させるなんてとても無茶だ。大田皇女は中大兄皇子の娘で大海人皇子の后だという。姪を后にしていることになる。九州に居た大海人皇子への恋慕のなせる業だったのだろうか。なお、大海人皇子は舒明の子(「舒明紀」では「大海皇子」と表記)とされているが、その記事以来「天智紀」に現れるまで、大海人皇子は『日本書紀』にまったく姿を現さない。その「天智紀」では「大海」・「大海人」という名前は出てこない。「太皇弟」という称号で呼ばれる人物が登場するが、これが大海人皇子とされている。(この問題はいずれ取り上げることになるかも知れない)。ちなみに、この時生まれた王女は大伯(「天武紀」では「大来」と表記)と名付けられ、13歳で伊勢神宮の齋王にさせられている。

 次におかしいのは伊予の温泉で十日ほども停泊していることである。たぶん、将軍や兵士は別途博多に向かったのだろう。そして斉明の一行は将軍たちの妻子だったと考えるのが妥当だろう。とはいえ、斉明がヤマト軍の最高司令官である。最高司令官がいなければヤマト軍は機能しない。物見遊山のようなこの行動は、まるで博多到着を出来るだけ遅らそうとしているようにも見える。

 ところで、斉明一行が立ち寄ったのは「伊予の熟田津の石湯行宮」と記録されているが、この熟田津(にぎたつ)という地名を詠み込んでいる歌が『万葉集』に4首(そのうち1首は「柔田津」表記)ある。そのうち最も有名な歌が次の歌(巻一 8番)である。

額田王の歌
熟田津に船(ふな)乘りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな


 この歌には長い左注が付けられている。斉明一行が石湯行宮に泊まったという『日本書紀』の記事を引用した上で、実はこの歌は「昔日より猶存れる物を御覧し、当時忽ち感愛の情を起し」て、斉明が創ったものだ、と言っている。誰も信じないようなこと(信じる人もいるかな?)をよくまあいけしゃあしゃあと書くものだ。

 ところで「熟田津」がどこの地なのか、従来は比定できていなかった。しかし、「古田史学会」では盛んに論争されていて、いくつかの説が出されている。その中に「佐賀県諸富町新北」説がある。この説は百済救援に向かう400艘余りもの倭国の大水軍が有明海から出陣したという古田さんの説にピッタリと合う。

 有明海が満ち潮の時、嘉瀬川の下流の「鮎瀬」から船が出発したことは確実です。662年白村江の戦いのとき有明海とくに熟田津(新北津)から、たくさんの船が出発した。なぜなら世界で有名な軍港は、有明海と同じくリバプール、仁川ともに干満の差が大きいところです。(加えて、平安時代平重衡が行なった日宋貿易は吉野庄から行われた。)

 つまりくだんの歌は倭国の水軍出陣時のその場の緊張感と自らの心の高鳴りと兵士たちへの激励を歌い込めた額田王による絶唱である。最後に犬養孝氏の鑑賞文(『万葉の旅』より)を紹介しておこう。

(前略)

〝船団の出発の時がきて、湊で船に乗ろうと月の出を待っていると月も出てきたし、潮のぐあいを待っていると潮もちょうどよくなった。さあ今こそは漕ぎ出そうよ″の心であろう。「月待てば潮もかなひぬ」の緊縮した表現ははずむような流動感と緊張感をもたらして八音の結句にひびく。こうした緊張感は出発を前にしてのみんなの心でもあったろう。この歌を進発祭祀の応詔歌とみる説もある。

(中略)

 犬養氏は最後に「なお,この歌につき船遊び説,禊の行事説もあり,種々問題の多い歌」という注を付けている。出陣時にはそれに応じた宗教儀礼が行われたはずだから、私(たち)の立場では「進発祭祀の応詔歌」という説がぴったりである。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(62)

「天智紀」(50)


近江遷都(8):「斉明紀」「天智紀」の復元


 本道に戻ろう。

 私は 「天智の履歴の謎」 を次のように結んでいた。

「白村江の戦いの時、中大兄(天智)は斉明の皇太子として筑紫で留守役の一端をになっていたという説もあるが、中大兄は九州王朝の王族の一人であったという可能性も出てくる。するとこの問題は「近江遷都」の問題と関連してくる。だがまだ結論は急ぐまい。」

 ここで提出した問題に取りかかろう。しかしその前に確認しておきたいことがある。

 先に山崎仁礼男さんの論文『造作の「天智称制」』を手がかりに「天智称制の秘密」を書いた。そこでの結論は天智称制期間の記事は「斉明紀」の切り取りであるということだった。私はこの説を信憑性が高いものとして採用したい。またかつて 「壬申の乱(1):近江遷都」で古賀達也さんの「近江遷都九州王朝論」を紹介した。その時、この大胆な仮説に魅力を感じていたが、この説に対する私の判断は保留していた。その古賀説では「遷都は白鳳改元の年(661年)」である。これは「天智称制の秘密」の結論とは相容れない。私としては古賀説を取らないことにする。

 ということで「近江遷都」については全面的に仕切り直すことになる。その取っ掛かりとして「天智紀」・「斉明紀」の復元をしてみる。まず、「斉明紀」の西方遠征記事から始めて、後に必要になると思われる必要最小限の簡単な年表を作ろう。また九州年号を併記し、九州王朝の記事には「☆」をつけることにする。


660(白雉9・斉明6)年

☆7月 百済、唐・新羅に攻められ滅亡
   倭国に再建支援を要請

12月 斉明、難波宮で軍勢準備


661(白鳳元・斉明7)年

☆白鳳改元
 (筑紫君薩夜麻が即位?)
1月6日 斉明(ヤマト軍)出発
1月8日 大伯(おおく 岡山県邑久)で
    大田皇女が女子を出産
1月14日 伊予の熟田津の
     石湯(いわゆ)行宮に泊る。
1月25日 娜の大津(博多港)着。
    磐瀬行宮に居住。

5月9日
 斉明、朝倉橘広庭宮に遷る。
5月17日
☆唐将劉仁願、郭務悰来国
 表函を献る。(12月帰国)

 日本書紀』はこの記事を664年に入れている。そのため私はこれを唐の占領先遣隊と考えてきた。ところで671年に「百済の鎮将劉仁願、李守真等を遣して表を上る」という記事がある。しかし実は、劉仁願は668年に流罪されているので、この記事は3年以上ずれて挿入されたことになる。「天智紀」の唐の占領関連記事は全て3年ずれていると考えることにした。上の記事は白村江の戦いの前年の記事ということになる。上の「表函」をめぐった外交の結果、九州王朝は開戦決意をするに至ったのではないか。(以上は古田説による。)
7月 中大兄皇子、
   長津宮(娜の大津)に居す。

☆8月百済へ援軍派遣


662(白鳳2・斉明8)年

☆3月 新羅討伐隊派遣

☆5月 百済王豊璋帰国

☆8月17日 白村江の戦い
 (『日本書紀』では663年)

☆9月20日 唐より占領軍先遣隊
   (劉徳高・郭務悰)


665(白鳳5・斉明11)年

2月25日 間人大后死去
 (天智の妹で孝徳の后)

☆2月 百済の400余人を
  近江の神前郡に居住させる。
☆3月 神前郡の百済人に田を与える。


666(白鳳6・斉明12)年

☆ 唐占領軍第一陣2000余人
   (郭務悰)

☆百済の男女2000余人、
   東国へ居住させる。

7月24日 斉明、朝倉宮で死去

8月1日 中大兄皇子、
    喪のため磐瀬宮に至る。

10月7日 なきがらは海路を帰途につく。

 上の記事には奇妙なエピソードがついている。これは全文を掲載する。

是に、皇太子、一所(あることろ)に泊(は)てて、天皇を哀慕(しの)ひたまいて、乃ち口號(くつうた)して曰はく、
 君が目の 戀(こほ)しきからに 泊てて居(ゐ)て かくや戀(こひ)むも 君が目を欲(ほ)り

10月23日 なきがらは難波に泊まる。

11月7日 飛鳥川原で殯



667(白鳳7・斉明13)年

2月27日 斉明・間人大后を
      小市岡上陵に合葬

3月19日 近江遷都

8月 中大兄皇子、倭京に行く。


668(白鳳8・天智元)年

1月 天智即位

☆11月 唐占領軍第二陣来る。
     筑紫君薩夜麻を同行。


669(白鳳9・天智2)年

☆百済の王族(佐平余自信、
 佐平鬼室集斯)男女700余人と
 、近江国蒲生郡に移り住む。


670(白鳳10・天智3)年

☆2月 戸籍を作る。
  (いわゆる「庚午年籍」)


671(白鳳11・天智4)年

☆1月6日 冠位26階を制定

12月3日 天智死去

12月11日 新宮で殯
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(61)

「天智紀」(49)


近江遷都(7):「斉明紀」の北方遠征(6)「引田臣比羅夫」


 「斉明紀」の北方遠征関連記事(10)は次の通りである。

 660(斉明6)年5月是月
是月、・・・・・・又、阿倍引田臣〈名を闕せり。〉、夷五十余を献る。・・・・・・

 すると、「斉明紀」の北方遠征に登場する指揮官は見かけ上3名いることになる。
① 阿倍臣〈名を闕せり。〉
② 阿倍引田臣〈名を闕せり。〉
③ 越国守阿倍引田臣比羅夫
  (こしのくにのかみあへのひけたのおみひらぶ)

 前に述べたように、「定説」はこれを全て引田臣比羅夫としている。私は①と③は別人という立場で論を進めてきた。では②はどう考えたらいいのだろうか。ここで『日本書紀』編纂の法則2を援用しよう。

法則2
 固有名詞や代名詞の一部省略、一部添加はしても改定は絶対にしない。元史料のまま書く。表記の違う名は、別文献である。

 私は阿部引田臣比羅夫の「阿部」は「一部添加」の例ではないかと考えている。全てを同一人物と受け取らせようとする『日本書紀』編纂者の作為を感じる。つまり②では「引田」を、③では「阿倍」を添加した。従って①と②は同一人物と考える。そのように考える根拠は次の通りである。

 『続日本紀』に引田朝臣宿奈麻呂という人物が引田臣比羅夫の子として記録されている。

720(養老4)年正月27日
大納言正三位阿倍朝臣宿奈麻呂薨ず。後岡本朝の筑紫大宰帥大錦上比羅夫の子なり。

 ここでは肩書きは「阿倍朝臣」と成っているが、実はこれは宿奈麻呂が文武天皇から授与された称号である。(ヤマト朝廷の中で「阿倍」という姓はかなり重要な位置を占めていたようである。このことを取り上げる機会があるかも知れない。)

704(慶雲元)年11月14日
従四位下の引田朝臣宿奈麻呂の姓を改めて、阿倍朝臣を賜ふ。

 子の宿奈麻呂が授与された「阿倍」という姓を『日本書紀』にまで遡って父親に添加していると考えるのはおかしいだろうか。私にはそのように思える。よって以下では③を「引田臣比羅夫」と呼ぶことにする。

 さて、引田臣比羅夫の事績は、名無しの「安倍臣」の華々しい活躍と比べて、さえない。〈名を闕せり〉だらけの北方遠征記事の中で、唯一フルネームで記録されているこの人物は何者だろうか。最後にこの問題を考えてみよう。

 引田臣比羅夫は越国守という肩書きを持っている。では越国守とはどのような存在だったのだろうか。

 後にヤマト王権が大和王朝となって中央集権の体制を堅固なものとして以来、国守はヤマト朝廷が王侯貴族の中から任命し、派遣するようになった。しかし、それ以前の国守はそれぞれの国の国王である。

 前回、『続日本紀』に記録されている蝦夷の領域として越後が入っていたことが分かった。越国が越前・越中・越後と分けられたのは近畿王朝になってからである。記録には表われないとしても、とうぜん越前・越中も蝦夷の領域であったと考えてよいであろう。つまりもともとは一括して「越の蝦夷」と呼ばれていた。北方遠征関連記事(6)にはっきりとそのように書かれている。

659(斉明5)年3月17日
甘檮丘の東の川上(かわら)に、須弥山を造りて、陸奥ととの蝦夷に饗たまふ。

 引田臣比羅夫は越の蝦夷のリーダーであった。そして、上の記事でも分かるように、越の蝦夷は陸奥の蝦夷(阿倍氏)と親和的であった。「斉明紀」が記録する引田臣比羅夫が行った2回の北方遠征は2回とも粛慎討伐である。たぶん阿倍臣の粛慎討伐に協力したのではないか。もちろん「生羆二つ、羆皮七十枚や虜四十九人」を獻った相手は九州王朝である。越国は地理的な近親性故に早くから九州王朝の傘下に入っていたと思われる。だからこそ白村江の戦いにも参戦している。

661(斉明7)年8月
前將軍大花下阿曇比邏夫達・小花下河邊百枚臣等、後將事大花下阿倍引田比邏夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石等を遺して、百濟を救はしむ。・・・・・・

663(天智2)年3月
 三月に、前將軍上毛野君稚子・間人連大蓋、中將軍巨勢前臣譯語・三輪君根麻呂、後將軍阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄を遺して、二萬七千人を率て、新羅を打)たしむ。

 引田臣比邏夫が白村江の戦いで戦死をしたのか捕虜になったのか、あるいは無事生還したのかは分からない。しかしその血脈は近畿王朝の貴族「阿倍朝臣」として受け継がれていった。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(60)

「天智紀」(48)


近江遷都(6):「斉明紀」の北方遠征(5)「蝦夷国」の範囲


 中国側(唐)はなぜ「蝦」という字を選んだのだろうか。前回、「(東夷の)さらにはるかなる彼方」という意味で、「叚」を選び、それを卑語「蝦」に転換した、と考えた。しかし「はるか」という意味をもつ漢字は「叚」だけではないだろう。例えば「遥」とか「悠」などがある(まだあるかもしれないが、私にはこれしか思い浮かばなかった)。それらの中から「叚」を選んだのにはそれなりの理由があったはずだ。漢字のもう一面の要素、「音」で選んだと考えるしかあるまい。唐が聞き知った蝦夷国の民族名が「叚」と類似していたのだ。

 それでは「叚」または「蝦」はどのような「音」を持っているだろうか。漢和辞典(漢語林)を調べてみた。「叚」は「漢音カ、呉音ケ」、「蝦」は「漢音カ、呉音ゲ」。ところが古田さんは「蝦」の音を「カイ」として論を進めている。古代中国音には「カイ」があったのだろうか。ちなみに「漢語林」の「叚」には「はるか」という意味もなかった。古田さんは『諸橋大漢和辞典』をよく用いている(あるいは別に出典があるかも知れない)。私には調べる手立てがないので、ここは古田さんを信じて先へ進もう。

 蝦夷が「カイ」またはそれと類似の「音」で呼ばれたことがあるのだろうか。ここで古田さんは、民俗学者・荻原真子(おぎはらしんこ)氏の論文「アムール下流域の『クイ』に由来する氏族について」を取り上げている。
(上記論文の冒頭部分)
「アイヌに対して、アムール川下流、サハリン地域の住民のうち、トゥングース・満州系諸族はKui、ニヴヒはkuyiをもって呼称としている」

 このあと、氏は、「クイ」と呼ばれたアイヌ人たちが、黒竜江の中・下流流域に移り住んでいたこと、さらに、アイヌの神話・習俗がウリチ族などの習俗の中に、深刻な影響をとどめている状況を、手がたい手法で叙述しておられる。

 この指摘のもつ意味の重大さ、それは、この一両年、にわかにクローズアップされた。なぜなら、約二万年前、北海道の十勝石(黒曜石)が、この黒竜江中・下流流域に分布している。その事実が確認されたからである。

 もとより、荻原さんの分析と、この分布事実とが、果して正確な対応をなすか否か。未知だ。未知だけれど、注目せざるをえぬ。未来の課題。そのように見なすことは、おそらく許されるであろう。

 ともあれ、今の問題。それは、あの粛慎氏、黒水靺鞨(まっかつ)が、日本列島近辺のアイヌ族を「クイ」と呼んでいたこと、その可能性がきわめて高いことだ。

 その黒水靺鞨が、唐代「靺鞨」と呼ばれていたこと、「唐~靺鞨」間に遣使・交流のあったこと、『旧唐書』靺鞨伝の詳細に語るところ。とすれば、この両国間に、この「クイ」族の存在が“情報交換”された可能性も、十分ありうるのではあるまいか。

 荻原氏は、この「クイ」の名が文献上に現われるのは、「元明朝以降」として、慎重な筆致を保っておられるけれど、もし、この、

「クイ → 蝦夷」

の関係が成り立つとすれば、「唐朝」にさかのぼる事例となろう。

 ともあれ、この場合も、もちろん「断案」となすことはできないけれど、問題解決のため、見のがしえぬヒントが、ここに隠されているのではあるまいか。

(すでにのべたように、『日本書紀』では「渡嶋の蝦夷」と呼ばれているのが、このアイヌ族のようである。従って「蝦夷」と「アイヌ」とは、全同〈百パーセント同じ〉ではないけれど、反面、無関係ではない)。

 上の引用文に「「黒水靺鞨」という国名が出てきている。この国名に私は初めて出会った。調べてみた。

 靺鞨は一時期「渤海靺鞨」と「黒水靺鞨」とに分かれて共存していた。「黒水」というのは黒竜江のことで、「黒水靺鞨」は黒竜江をふくむ広大な地帯を領土とした国で、「渤海靺鞨」は、その西(現在の中国の東北地方の西半部)を領域としあた国である。

 さて、それでは唐によって「蝦夷」と表記された国はどのようは領域を占めていたのだろうか。『日本書紀』・『続日本紀』は北方の国の呼称として「蝦夷」と「陸奥」を併用している。この二つの呼称をどのように使い分けているのか。古田さんは、まず多賀城碑の解読から説き起こしている。多賀城碑の最初の里程記載部分は次のようである。


 │    去 京一千五百里
 │多賀城 去 蝦夷国界一百廿里
 │    去 常陸国界四百十二里
 │    去 下野国界二百七十四里
 │    去 靺鞨国界三千里
西│……
 │……



 この里程記述を従来の「定説」は
『「蝦夷国」を、岩手県以北とし、宮城県以南を「陸奥国」とする』
と読み取った。つまり、岩手県と宮城県の県境の近辺が「蝦夷国界」と見なしている。

 これに対して、古田さんは
『蝦夷の西の国界は、宮城県と福島県との県境付近』
と解読している。(論証は省きます。興味のある方は 「『真実の東北王朝』第一章 多賀城碑探求」 をご覧下さい。)

 「定説」の成り立たないことを、古田さんは『続日本紀』の記録を用いて、次のように論述している。

 だが、もしこのような「政治地図」(「定説」のこと)が真実(リアル)だとしたなら、当然、「蝦夷」には、少なくとも、二種類あることとなろう。

(A)蝦夷国の蝦夷
(B)陸奥国の蝦夷(陸奥の蝦夷)

 ところが、『続日本紀』の中の「蝦夷」(蝦狄・夷・夷狄の類をふくむ)の事例、74例(数え方で若干変動あり)を調べてみても、(B)の事例は数多いものの、(A)の事例は、絶無なのである。

 すなわち、『続日本紀』には、およそ「蝦夷国」という概念など、皆目“認め”られていないのだ。

 さらに、右の(B)に加えて、

(C)出羽国の蝦夷
   (B)からの「分国」。
    和銅5年〈712〉5月23日以降)
(D)越後の蝦狄(蝦夷)
(E)渡嶋の蝦夷(北海道の蝦夷)

といった類の表記が存在するけれど、(A)の表記は出現しないのである。

 では、「蝦夷国」とは、何か。どこか。いうまでもない。「蝦夷の(居する)国」のことだ。すなわち、右の(B)・(C)・(D)・(E)の合計、それが「蝦夷国」なのである。

 簡単な理路だ。だからこそ、多賀城碑には、「陸奥国」はもとより、「出羽国」も、「越後国」も「渡嶋」も、共に出現していないのである。

 では、「陸奥」とは何か。右の「全蝦夷国」中、近い(認識の早かった)「越後」と、遠い(認識の遅かった)「渡嶋」(北海道)を除いた領域、それを指す言葉だったのである。

 やがてその「全陸奥国」の中から、「出羽国」が“分離”させられた。

712(和銅5)年9月23日
是(ここ)に於て、始めて出羽国を置く。

 「陸奥」とは、本来は、「道の奥」。すなわち、東山道・東海道という「道」の果てる、その奥を指した。“西側の目”、“近畿天皇家側の目”に立った、漠たる表現だ。いわば、「西の目から見た、フロンティア」だったのである。

 古田さんは、「蝦夷の西の国界は、宮城県と福島県との県境付近」という多賀城碑の古田解読の正しさを傍証する話を記録している。実に面白い話なので紹介しておこう。

 先日、不思議な話を聞いた。昨年(平成元年)の11月12日、それは神戸での講演の翌日、久しぶりで山村光寿斉さんに会った。菊邑検校(きくむらけんぎょう)から、「筑紫舞(ちくしまい)」を伝授された方である。検校は筑紫のくぐつから、これを伝えた、という。わたしはこれを“九州王朝の舞楽”と解した(『よみがえる九州王朝』角川選書、参照)。

 現在、西山村さんは博多(福岡市東区)に住んでおられるけれど、月に一回・神戸(生田神社)へ来て、若い方々に教えておられる。中には、神戸から博多へ「留学」する娘さんも現われた様子。うれしいことだ(最近、西山村」を「筑紫」に“改姓”される、との話をお聞きした)。

 さて、その光寿斉さんの話。もちろん、菊邑検校から「直(じき)伝」の話だ。

「福島県から向こうを、外(と)つ国と言います」

 これは、筑紫舞の伝授のさい、「外(と)つ国」という言葉が出た。それについて、少女だった光寿斉さんが、無邪気に質問した、それに対する答えだった、という。

「福島県は、入りますのん」
と、少女。
「いいえ、入りません。それから、先です」
と、検校。

 この応答を聞き、わたしは、頭がぶんなぐられたような、衝撃をおぼえた。なぜか。 ― お分かりであろう。わたしの“多賀城碑に対する分析” ― 「蝦夷の西の国界は、宮城県と福島県との県境付近」、それと、ズバリ一致していたからである。

 この応答をお聞きした場所も、明記しておこう。神戸市中央区の虎連房。今、市民の古代の書記局長をしておられる高山秀雄さん。その友人の経営しておられる、ユニークな店だった。一緒にいたのは、宮崎学さん。他に三木カヨ子さん、丸山晋司さんなど。いずれも、“証人”である。

 そして念のため。光寿斉さんが、わたしの多賀城碑解読を御存知だった可能性は、ほぼない。そのとき、すぐ、わたしは、「自分の最近の研究と一致している」旨、緊張しつつのべた。もちろん、一切の解説抜きで。だが、光寿斉さんは、平然としたもの。
「へえ、そうですか。わたしは、何や知りまへんけど、検校はん、そな、言わはりましたよ」
とのこと。

 もちろん、だから、どう、というものではないけれど、“不可思議の思い”にとらえられた、わたしの見聞として、しるしておきたい。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(59)

「天智紀」(47)


近江遷都(5):「斉明紀」の北方遠征(4)「蝦夷」の意味


 これまでの論考で「近江遷都北方防御説」が机上の空論であることが明らかになったと思う。そのことが初期の目的であったが、ついでなので「蝦夷」にもう少しこだわりたい。

 「阿倍臣は陸奥の蝦夷のリーダー」というのが前回のポイントだった。この結論が妥当である傍証を思い出した。 「『神武東侵』:生き返る挿入歌謡(3)」 で紹介した『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)が伝える東北安倍氏の始祖譚である。少し詳しく再掲示する。

 東北地方(日本列島と言ってもよいかも知れない)には沿海州から阿蘇部族(粛慎)がやってきて定住した。次いで津保化族(靺鞨)がやってきている。そこへ筑紫に侵略した「筑紫の日向(ひなた)の賊」ニニギとの戦いに敗れて、東日流(津軽)に亡命してきた筑紫の安日(あび)彦・長髄(ながすね)彦兄弟の一族(もちろんイワレヒコの侵略と戦ったヤマトの長髄彦とは別人)が先住民の阿蘇部・津保化族を打ち破って東北の支配者となった。これが安倍氏の祖先である。

 さて、安倍臣は蝦夷のリーダーでありながら、粛慎征伐だけなく、蝦夷征伐(北方遠征記事の(3)・(7))も行っている。これはどうしたことだろう。

 (3)の蝦夷は

「清き白(あきらか)なる心を將(も)ちて、朝(みかど)に仕官(つかへまつ)らむ」

とすぐに帰順を表明している。(7)では

「倍臣、飽田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡の蝦夷二百四十一人、其の虜三十一人、津軽郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、膽振鉏(いふりさへ)の蝦夷二十人を一所に簡(えら)び集めて、大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ。」

とある。「虜」がいたり、「大きに饗(あへ)」られたり「祿(もの)賜」わる者もいる。つまり敵の蝦夷と味方の蝦夷がいたことになる。安倍臣の蝦夷討伐とは実は安倍臣による「蝦夷統一戦」だったのではないか。そしてその統一戦は成功裏に終わった。「斉明紀」の蝦夷征伐譚は『日本世記』に記録された安倍臣の蝦夷統一戦成功譚の盗用だった。

 なお、この記事では「蝦夷国を討つ」という文章がいきなり「大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ」という文章につながっていて非常に不自然である。これについて古田さんが論じているので、それを紹介しよう。

 討伐といっておきながら、いきなり御馳走する、とは明らかにおかしい。私はここの第一行目(~蝦夷の国を討つ)と第二行目(阿部臣、飽田)の間に大きなカット、カッティングが行われていると考えます。この間に討伐譚がいろいろ書いてあったのだが、大和朝廷の記事でなくて具合が悪いのでバッサリ切り落としてしまったのだと考えます。普通に考えようとすると討伐に行って、ごちそうするのが説明がつかず、学者たちはこまっているのですが。

 この東北王朝を何故「えみしのくに」と呼ぶのだろうか。この問に対する答は 「『神武東侵』:生き返る挿入歌謡(3)」 で取り上げた「神武紀」の挿入歌謡の中にあった。その歌謡は次のようである。

夷(えみし)を 一人(ひたり) 百(もも)な人 人は言へども 抵抗(たむかひ)もせず

 「生き返る挿入歌謡」は、「神武紀」の一連の歌謡はイワレヒコのヤマト侵略時の歌ではなく、ニニギの筑紫侵略時の歌であるという古田さんによる論証の紹介であった。するとここの「えみし」とは、あの「筑紫の安日彦・長髄彦兄弟の一族」と考えてよいであろう。その一族は筑紫では「えみし」と呼ばれていた。もちろんその一族の名に「夷」という卑語を用いるはずはない。論より証拠、「えみし」は『日本書紀』の原文では「愛瀰詩」と表記されている。(ここからは『真実の東北王朝・第9章 歴史の踏み絵―「東北王朝」』が教科書です。)

「愛瀰詩」という、まことに麗わしい文字が用いられている。これは、決して“軽蔑語”ではないのだ。それどころか、「佳字」だ、といっていい(「瀰」は“水の盛なさま”)。彼等は“尊敬”されているのだ。

 安倍氏は東北で打ち立てた国をも、自ら「えみし」と名付けた。では「蝦夷」という表記はだれが作り出したのだろうか。「定説」はヤマト朝廷がその表記を作ったとしているが、中国(唐)と考えるのが自然だろう。以下はその論証である。

 「斉明紀」北方遠征関連記事の(8)は「唐への朝貢記事」だった。

 659(斉明5)年7月3日
小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣して、唐國に使(つかい)せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示(み)せたてまつる。

 ヤマト王権の遣唐使が見せ物として蝦夷人を連れて行ったというが、これは疑わしい。『冊府元亀』の「外臣部、朝貢三」に次の記事がある。

659(顕慶4)年10月(唐朝第3代皇帝・高宗の時代)
蝦夷國、倭國の使に随いて入朝す。

 倭国とはとうぜん九州王朝の倭国だ。倭国の使者に従って入唐したが、見せ物として連れて行かれたのではない。一国の使者として入朝しているのだ。

 さて、中国の史書が「蝦夷」という漢字表記をしている。これについては古田さんの論考を読んで見よう。

 これは、当然ながら“中国中心の目”から見た、「外臣」(中国は、周辺の国々の王者を「外臣」と称した)の記事。その「外臣」からの「朝貢」の記事である。その中に、この「蝦夷国」の表記が現われている。

 これと、並出している「倭国」も、当然ながら、中国側から見た場合、「外臣」である(それを“うけいれなかった”から、唐と倭国〈九州王朝〉との間に戦争〈白村江の戦〉が生じたのだ)。

 その「倭国」は、中国にとって「東夷」であった。その「東夷の、さらに、はるかなる彼方の夷」、それをしめすのが、「蝦夷」という字面の意義なのである(「叚」は“はるか”の意。「虫へん」は、“夷蛮用の加付”)。

 もしこれを、「近畿天皇家中心に製作された夷蛮用字」であった、としよう。そんなものを、中国が“採用”して記載するであろうか。考えられない。なぜなら、それは「近畿天皇家」をもって、“諸夷蛮の中心”たる「天子」として承認する。 ― そのことを意味するからである。文字使用に敏感な、中国がそのことに“うっかり”気付かなかった。 ― そんな事態を、わたしには考えることが不可能なのである。

 この点、この「蝦夷国」をもって、「九州王朝中心の造字」と見なした場合も、同じ矛盾に逢着する他ない。わたしには、そのように思われる。

 『日本書紀』も、『古事記』も、八世紀初頭の成立。右の「顕慶四年」より、半世紀もあとだ。もちろん、「冊府元亀」は、後の成立であるけれど、その収録原史料が、同時点(唐の顕慶年間)の「朝貢文書」によっていること、およそ、疑いがないところである。この点からしても、やはり、「文字の原記載者は、中国側」、この帰結は動かしがたい。

 従来の論者(近畿天皇家中心の称呼と見なしてきた学者)が、なお自家の見地を「保持」しようとするなら、右のわたしの論証に対して、正面から反証してからにしてほしい。

 では唐は何故「蝦」という字を選んだのだろうか。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(58)

「天智紀」(46)


近江遷都(4):「斉明紀」の北方遠征(3)「蝦夷」


 討伐記事(3)・(9)に「渡嶋の蝦夷」((9)では「渡島の蝦夷」)が登場する。この「渡島」とはどこか。これについて(3)の岩波頭注は次のように述べている。

「渡島の解釈に関連して、上文の齶田浦の一部とみる説と、青森県の深浦・鯵ヶ沢(あぢがさは)・十三(じょうさん)(旧名エルマ、現在の市浦村)などの港津に比定する諸説とが分れる。」

 この場合も要するに決定打がない。北方遠征記事について、どうやら学者さんたちは論証抜きの単なる思いつき程度の諸説を垂れ流しているように思えてくる。私は(3)や(9)のシチュエーションで渡島と言えば北海道がすぐに思いつく。古田さんもそのように捉えている。

 これは、当然「北海道の蝦夷」だ。今は、「渡島(おしま)」というと、北海道の南端部、函館を南端とする半島部を指す地名だ。しかし、本来は、北海道全島を指した地名であったであろう。なぜなら、一言にして明晰、「半島は『島』ではない」からだ。

 と、考えてくると、この「渡嶋の蝦夷」とは、ズバリ言って、“古代アイヌ族”であろう。少なくとも、その概念と深い脈絡をもつ人たちであること、わたしには疑うことができない。

阿倍臣、陸奥(みちのく)の蝦夷を以て、己が船に乗せて、大河(おおかは)の側(ほとり)に到る。是に、渡島の蝦夷一千余、海の畔に屯聚(いは)みて、河に向ひて營(いほり)す。

 阿倍臣は200艘の「船師」に「陸奥の蝦夷」を乗せて、その水軍を指揮していた。つまりこの「阿倍臣」とは、「陸奥の蝦夷のリーダー」だ。安倍水軍到着した黒竜江の河口にはアイヌ族が「一千余」「屯聚」していた。

 アイヌ族が「一千余」も「屯聚」していたことを、古田さんは「何の不思議もない」と言う。

 なぜなら、北海道と黒竜江の中・下流域とが、二万年前、まさに旧石器の時代から、延々たる一大交流を行ってきたこと、すでに、黒曜石の十勝石の分布が証明した。ならば、黒竜江の河口を「拠点」とせずして、いかにして交流できるのであろうか。当然至極の道理ではあるまいか。

 このように考えてくると、この史料の記載するところ、“架構”でなく、真実の香りがする。わたしには、そのように感ぜられるのである。

(「黒曜石」についてもすでに 『「弥生の絹」・「國引き神話」』 で取り上げている。参照してください。)

 では陸奥蝦夷の水軍のリーダー「安倍臣」はヤマト王権から派遣された将軍なのだろうか。〈名を闕せ〉る人物はヤマト王権の内の人物ではないことをすでに私(たち)は知っているが、古田さんの論考によってだめ押しをしておこう。

 『日本書紀』を“信ずる”人は、この「船師二百艘」を「大和朝廷の軍勢」だと思っているであろう。そう思った上で、「これは信憑できる記事だ」「いや、信憑できない」といった議論をしてきたのである。

 では、聞こう。もし、これが、本当に「大和朝廷派遣の一大船団」だったとしたなら、なぜその全軍統率の中心リーダー(「阿倍臣」)の名前すら分からないのだろう。「名を闕(もら)せり」と注記せねばならないのであろう。

 しかも、時は、七世紀中葉だ。八世紀初頭に成立した『日本書紀』にとって、わずかに半世紀前の「事件」だ(斉明6年は、660。書紀成立(720)の60年前)。

 もちろん、それでも、はしばしの部将なら、まだしも。中心の統率者の名前が分からない、とは。“阿倍臣に当る人”とだけ分かって、実名が分からないとは。いずれも“信じられない”話だ。

 回答は一つ。書紀の編者たちは、「他の文献」から、この資料を「引用」し、「転載」しただけで、その実体を知らないのである。そして肝心なこと、それは、その資料が「大和朝廷内のものではない」 ― この一点だ。

 でなければ、いくら「引用」や「転載」したとしても、当時の関係者やその子供たち(孫まではいかない)に、その従軍の実際を聞けば、その中心統率者の「名前」ぐらい、簡単に判明するであろう。だのに、それが「分からない」ということは、すなわち、大和朝廷内に「その関係者は、いなかった」 ― この帰結しかないのである。

 この点、「史実かどうか分からない。おそらく造作だから」などといってみても、「逃げ道」にはならないであろう。なぜなら、もし、そんな作り物、つまり「造作」なら、「名を闕せり」などと書かず、麗々しく誰々と、実在の誰かの人名なりを架空の作り物の人名なりを書けば、すむ。

 そうでないのはやはり、
「その事件はあった。しかし、それは近畿天皇家内の事件ではなかった」
という帰結、それしか選択の道はないのである。

 先に、660(斉明6)年7月16日条の分注〈高麗の沙門道顕の日本世記に曰く…〉の「日本世記」が北方遠征記事の出典ではないかと指摘した。477(雄略21)年3月条分注には〈…日本旧記云はく、…〉と「日本旧記」という史書が出てくる。この二書はいずれも「日本」に関する本でありながら、どの天皇のとき何年に書かれたか全く分からない。「日本旧記」の場合は著者も不明である。しかし学者たちの間では、書名に「日本」が使われているからヤマト王権の史書だろうと、暗黙のうちに合意しているようでまともに論じられていないようだ。

 しかし、「日本」という国名を初めて使ったのはヤマト王権ではなかった。このことについては 『「日本」という表記の源流(3)』 で取り上げた。8八世紀以降に近畿王朝は自らを「日本」と称したが、その国名は近畿王朝の独創たものではなく、九州王朝から「襲名」した国号だったのだ。「日本」を最初に称したのは、九州王朝だったのである。

 だいたい古代の「史書」は、『日本書紀』がそうであるように、必ず当時の権力者の意図をくみながら、その命によって作られるものである。それなのに『日本書紀』がその書名及び記事を出しながら、それらの歴史的成立の経緯を書かないというのは何故なのだろう。この場合も答はただ一つ、
「これらの史書は、ヤマト王権内で作られたものではない」
 「日本旧記」・「日本世記」はともに九州王朝の歴史を書き留めた史書である。

 話を戻そう。「阿倍臣」は「陸奥の蝦夷のリーダー」として黒竜江まで遠征していた。その黒竜江の河口には「一千余」ものアイヌ族が「屯聚」していた。「斉明紀」北方遠征記事のこのような解読を、次のようなおどろくべき傍証ともども、従来の説を唱えている学者たちは一笑に付すのだろうか。

 ここで古田さんは『隋書』俀国伝の「瞠目すべき記事を」想起して愕然とした、と自らの発見に驚いている。ここで『隋書』俀国伝を想起する古田さんの慧眼に私も愕然としている。その「瞠目すべき記事」とは俀国の位置や国境などを解説している冒頭の一文の中の一節である。

その国境は東西五月行、南北は三月行にして、各々海に至る。

 わたしは、この記事を次のように解した。

 「この『東西五月行』が『九州』だけにとどまるものでなく、四国から九州へとつながる日本列島の全体を指していることはいうまでもない」

「問題はつぎの『南北三月行』だ。ズバリ答えよう。これは、つぎの南北に縦貫する線をいっているのだ。

対馬―壱岐―九州―種子・屋久―奄美諸島(沖縄諸島)」

 『東西』の場合の『東端』が青森県までか、北海道までか。それともさらにその北や東北につらなる島々をもふくむか、それは明らかではない(一方、関東地方まで、ということもありうるかもしれぬ)」(『失われた九州王朝』第三章「東西五月行南北三月行」)

 要するに、この一見“途方もない”表現に対して、多利思北孤(たりしほこ 筑紫の王者)が、


 日本列島をふくむ、長大な、島々のつらなりとその海域をもって、「日出ずる処の天子」(自己)に、大義名分上、所属すべき領域とし、

 中国を中心とする、大陸部をもって、「日没する処の天子」(隋の煬帝)に、大義名分上、所属するところ、とする、「二人の天子による、二つの世界の分割統治」の区画分け支配の提案だったのではあるまいか。

 そして、その「二つの世界」の接点を探る軍事行動、それが、先の「阿倍臣」一大船団の「粛慎攻撃」、黒竜江河口への接触となったのではないか、と思われる。

 これに対する、中国の天子(唐)側の回答、それが「白江の戦(白村江の戦)」であった。