2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(57)

「天智紀」(45)


近江遷都(3):「斉明紀」の北方遠征(2)「粛慎」


 遠征軍が討伐の相手にしているのは蝦夷と粛慎(定説は「みしはせ」と訓じているが、普通に「しゅくしん」と読むことにする)である。この粛慎を定説はどのように扱っているだろうか。

 『日本書紀』での粛慎の初出は「欽明紀」544(欽明5)年12月条である。

十二月に、越國言さく、「佐渡嶋の北の御名部(みなべ)の碕岸(さき)に肅愼人有りて、一船舶(ひとふな)に乗りて淹留(とどま)る。…

 粛慎人が佐渡にやってきたと報告している(このあと粛慎人の風俗が書かれているが略した)。この粛慎について岩波頭注は次のように書いている。

「蝦夷の一部、沿海州のツングース族などの説があり、また粛慎の文字は中国古典から借りたものに過ぎないとの説がある。またここの記事に粛慎(ミシハセ)の語を用いたのは、のちの斉明朝における阿倍比羅夫の北方遠征の知識によるとする説もある。」

 いろいろの説を並べているだけだ。私にはどうして素直に「沿海州のツングース族」と断定できないのか不思議である。討伐記事(5)では次のように頭注している。

「上文四月条(討伐記事(3)のこと)に「伐蝦夷」、ここに「討粛慎」とあるので、この粛慎は蝦夷と同じとする説もあるが、羆は本州にはいない。」

 ならばますます「沿海州のツングース族」としか考えられないのではないか。討伐記事(9)で検討してみよう。(古田武彦著『真実の東北王朝・第3章 日本中央碑の思想』を教科書にします。)

 粛慎は中国の史書に記録されている国名である。博覧強記の人・古田さんは次のような例を拾い出している。

(1)
 成王既に東夷を伐ち、粛慎来賀す。(『尚書』序)

(2)
 粛慎・燕毫、吾が北土なり。〈注〉粛慎は北夷。玄菟の北、三千余里に在り。(『左氏伝』昭王、九)

(3)
 是に於て粛慎氏、楛矢に貢す。(『国語』魯語下)

(4)
 粛慎の国、白民の北に在り。(『山海経』海外西経)

(5)
 粛慎は、今の挹婁なり。(『漢書』東夷伝)

(6)
 (挹婁)古の粛慎氏の国なり。(『三国志』魏志挹婁伝)

(7)
 粛慎氏、一に挹婁と名づく。不咸山の北に在り。夫余を去る、六十日行なる可し。東、大海に浜し、西、冠漫汗国に接し、北、弱水に極まる。其の土界、広袤数千里。(『晋書』粛慎氏)

(8)
 靺鞨、蓋し粛慎の地。後魏、乏を勿吉と謂う。京師の東北、六千余里に在り。東、海に至り、西、突厥に接し、南、高麗に界し、北、室韋に鄰す(『旧唐書』靺鞨伝)。

 周の時代以来、粛慎は連綿と中国史書に登場しているのだ。その位置を地図で示しておこう。( 『「邪馬台国」論争は終わっている。(13)』 で用いた地図です。)

東夷伝地図 ">
(「東夷伝」地図。筑摩世界古典文学全集『三国志Ⅱ』より転載)

 史料(7)の『晋書』は唐に書かれた史書だ。「斉明紀」の北方遠征記事に粛慎が現れるのに何の不思議もない。

「阿倍臣、陸奥の蝦夷を以て、己が船に乗せて、大河の側に到る。

 この「大河」はどこのことだろう。広大な沿海州の日本海沿岸には「大河」は一つしかない。ずばり、黒竜江(アムール川)以外ではあり得ない。古田さんは言う。

 それだけではない。この「大河」は、普通名詞ではなく、固有名詞である可能性すらあろう。なぜなら、沿海州側のみならず、朝鮮半島(東岸)側、日本列島(北岸)側をふくめて、要するに、日本海圏全域を通じて、ピカ一の特大河川、それはたった一つ。この黒竜江以外にない。

 地図を見れば、まさに「特大河川」であることは一目瞭然である。

古代の東アジア
(『真実の東北王朝』より転載。クリックすると大きくなります。)

 わたしたち日本人の目には、“大きな川”に見える江の川(中国地方)や信濃川(中部地方)なども、この黒竜江に比べれば、まさに“ちっぽけな川”にすぎない。要するに、黄河や揚子江のある中国大陸において、ようやく比肩の“相手”をもつ。全日本海圏では、比肩の“相手”がいないのである。

 わたしは、昭和62年8月、この黒竜江を舟で巡行した。ハバロフスクだ。対岸(中国側)の見えぬ、その川幅の広大さ、そして何よりその水量の豊富さに圧倒された。その点では、黄河や揚子江以上とさえ見えた。これが、日本海圏、その北端部に流れこむ川なのである。日本海を論ずる場合、ここに流れこむ、この一大長流を“抜き”にして語るのは、重大な“片手落ち”、否、“両手落ち”ともいうべき一大欠落なのではあるまいか。

 このように考えてみると、一方で、日本海対岸の重要な一大関門、ウラジオストックについて、「北門(きたど)」と呼んできた古代日本人が、他方で、この北端の一大長流を「大河(おおかわ)」と呼んでいたとしても、何の不思議もない。わたしはそう思った。

(「北門」については 『「弥生の絹」・「國引き神話」』 を参照してください。)
 そして2年後(昭和63年)、(中略)秋田孝季の記した地図(明治期再写本)を見たときの驚き。それは、日本列島を中心に、北はアラスカから、南は東南アジアの方まで、描かれた大略図であったけれど、その北方、黒竜江のところには、何と「大河」と書かれているではないか。

秋田孝季の記した地図

わたしは、ことの意外に、あるいは、ことの当然に、空恐ろしくなってしまったのである。

スポンサーサイト
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(56)

「天智紀」(44)


近江遷都(2):「斉明紀」の北方遠征(1)


 遠山氏は斉明は「巨大な事業を二つも起こしていた」偉大な大王と持ち上げているが、残念ながらこの二つの事業「北方遠征・百済救援」は二つながら、他王朝の事業からの盗用である。(百済救援が九州王朝からの盗用記事であることはすでに論じた。)そうだとすると、斉明が大王として行ったことは皆無に等しい。『藤氏家伝』に

「皇祖母尊(すめみおやのみこと 斉明)、俯(ふ)して物願(よのなかのねがひ)に従ひて再び宝暦(ほうれき)に応(あた)り、悉く庶務(まつりごと)を皇太子(ひつぎのみこ 天智)に委(ゆだ)ねたまひき。皇太子事毎に諮(はか)り決め、然して後に施し行ひたまひき」

とある。これが斉明の実像に近いのではないか。

 さて今回のテーマは「北方遠征とはなにか」だが、なんと「斉明紀」には北方遠征(岩波では「蝦夷征討」と呼んでいる)関連記事が10条ある。それぞれの条の年月日と記事内容を列挙すると次のようである。

(1)
 655(斉明元)年7月11日(饗宴・官位授与記事)
(2)
 655(斉明元年)是歳(帰属・朝貢記事)
(3)
 658(斉明4)年4月(蝦夷討伐記事)
(4)
 658(斉明4)年七月4日(朝貢・饗宴記事)
(5)
 658(斉明4)年是歳(粛慎討伐記事)
(6)
 659(斉明5)年3月17日(饗宴記事)
(7)
 659(斉明5)年是月(蝦夷討伐記事)
(8)
 659(斉明5)年7月3日(唐への朝貢記事)
(9)
 660(斉明6)年3月(粛慎討伐記事)
(10)
 660(斉明6)年5月是月(蝦夷人献上記事)

 ここで 『「天智紀」(15):「太宰府」について(1)』 で紹介した「太安萬侶が苦悩のすえ残した日本書紀の法則」を思い出して欲しい。法則1は次のようだった。

法則1
 是歳条、是月条は近畿王朝以外の別王朝の別時代の記事である。

 年月日が詳細に書かれている記事も含めて、全て盗用記事だろう。660(斉明6)年7月16日条の唐や朝鮮半島との外交記事の分注に
〈高麗の沙門道顕の日本世記に曰く……伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)書に云はく‥…〉
とある。「斉明紀」で用いられた原典は主に「日本世記」と「博徳書」だったようだが、北方遠征記事の原典は別にあるように思われる。上の10条のうち「討伐」記事を検討しよう。

(3)
 658(斉明4)年4月(蝦夷討伐記事)
夏四月に、阿陪臣(あへのおみ)〈名を闕(もら)せり。〉船師(ふないくさ)一百八十艘を率て、蝦夷(えみし)を伐つ。齶田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡(ふたつのこほり)の蝦夷、望(おせ)り怖ぢて降(したが)はむと乞ふ。是に、軍を勒(ととの)へて、船を齶田浦に陳(つら)ぬ。齶田の蝦夷恩荷(おが)、進みて誓ひて曰さく、「官軍(みいくさ)の爲の故に弓矢を持たらず。但し奴等(やっこら)、性(ひととなり)肉(しし)を食(ら)ふが故に持たり。若し官軍の爲にとして、弓矢を儲(ま)けたらば、齶田浦の知なむ。清き白(あきらか)なる心を將(も)ちて、朝(みかど)に仕官(つかへまつ)らむ」とまうす。仍りて恩荷に授くるに、小乙上を以てして、渟代・津軽、二郡の郡領(こほりのみやっこ)に定む。遂に有間濱に、渡嶋(わたりしま)の蝦夷等を召し聚(つど)へて、大きに饗(あへ)たまひて歸(かへしつかは)す。

 岩波はこの「阿部臣」は「阿部比羅夫」だと頭注に書いている。次の(5)に阿部比羅夫が出てくるので、強引にそれと同一人物と決めつけている。これはおかしい。同じ655年の記事なのに『日本書紀』編纂者は一方をはっきりと〈名を闕せり。〉と言っている。当然、阿部比羅夫とは異なる人物と考えるべきだろう。

 ここで『日本書紀』編纂法則の4
 名をもらせりは敗戦国九州王朝の人物であり、名は解っている。

(5)
 658(斉明4)年是歳(粛慎討伐記事)
是歳、越国守阿部引田臣比羅夫、肅愼を討ちて、生羆(しくま)二つ、羆皮七十枚献(たてまつ)る。

(「羆」は「ひぐま」なんですね。「ひぐま」で漢字変換すると一発です。恥ずかしながら、私、この漢字知らなかった。)

 定説では蝦夷討伐記事は「政府記録」と安倍氏の「家記」の二つの原史料を用いて書かれたと想定している。そして(3)は「家記」、(5)は「政府記録」による記事だと言っている。さらに「家記」が〈名を闕せり〉と、名前を明らかにしない理由を、坂本太郎氏(日本書紀と蝦夷)の説として、次のように説明している。(岩波の補注より引用)

「(3)・(7)・(9)が氏族伝承的な性格の記事である点などから、その原史料は持統五年八月十三日条にいわゆる墓記の撰進と関係があろうと考え、これを「阿倍氏の家記」と推定し、またこの家記が阿倍氏出の将軍の名を「引田臣」とも「比羅夫」とも記さなかったのは、家記(墓記)撰進前後の阿倍氏を代表していたのが布勢臣御主人であって、同じ阿倍氏でも引田臣系と布勢臣系との間に対立があったためである。」

 つまり「名を闕せり」と分注は初めから原史料(安倍氏の家記)に書かれていたとしている。この説はおかしい。『日本書紀』には「名を闕せり」は全部で40例ある。この論者は他の例を一体どう説明するのだろうか。「名を闕せり」も含めて、全ての分注は『日本書紀』編纂者によるものと考えるべきだろう。

(7)
 659(斉明5)年3月(蝦夷討伐記事)
是の月に、阿倍臣〈名を闕せり。〉を遺して、船師一百八十艘を率て、蝦夷国を討つ。阿倍臣、飽田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡の蝦夷二百四十一人、其の虜三十一人、津軽郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、膽振鉏(いふりさへ)の蝦夷二十人を一所に簡(えら)び集めて、大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ。即ち船一隻と、五色の綵帛(しみのきぬ)とを以て、彼の地のを祭る。肉入籠(ししりこ)に至る。時に、問菟(とひう)の蝦夷膽鹿嶋(いかしま)・菟種名(うほな)、二人進みて曰はく、「後方羊蹄(しりへし)を以て、政所(まつりごとどころ)とすべし」といふ。〈政所は、蓋(けだ)し蝦夷の郡(こほり)か。〉膽鹿嶋等が語(こと)に隨ひて、遂に郡領(こほりのみやっこ)を置きて歸る。道奥(みちのく)と越との國司に位各二階、郡領と主政(まつりごとひと)とに各一階授く。〈或本に云はく、阿倍引田臣比羅夫、肅愼と戰ひて歸れり。虜四十九人獻るといふ。〉

 ここでは『日本書紀』編纂者が〈名を闕せ〉る阿倍臣を阿倍比羅夫ではないかと匂わせている。

 「あぎた」を(3)では「齶田」と表記し、(7)では「飽田」と表記している。ここで『日本書紀』編纂の法則2が思い出される。

法則2
 固有名詞や代名詞の一部省略、一部添加はしても改定は絶対にしない。元史料のまま書く。表記の違う名は、別文献である。

 私(たち)の立場でも、どうやら原典は一種類ではないようだ。いずれ明らかになるだろう。

(9)
 660(斉明6)年3月(粛慎討伐記事)
 三月に、阿倍臣〈名を闕せり。〉を遣して、船師二百艘を率て、肅愼国を伐たしむ。阿倍臣、陸奥(みちのく)の蝦夷を以て、己が船に乗せて、大河(おおかは)の側(ほとり)に到る。是に、渡島の蝦夷一千余、海の畔に屯聚(いは)みて、河に向ひて營(いほり)す。營の中の二人、進みて急に叫びて曰はく、「肅愼の船師多(さは)に來りて、我等を殺さむとするが故に、願(こ)ふ、河を濟(わた)りて仕官(つか)へまつらむと欲ふ」といふ。阿倍臣、船を遣して、両箇の蝦夷を喚(め)し至らしめて、賊(あた)の隠所(かくれどころ)と其の船数とを問ふ。両箇(ふたつ)の蝦夷、便ち隠所を指して曰はく、「船二十余艘なり」といふ。即ち使を遣して喚す。而るを來肯(まうきか)へず。阿倍臣、乃ち綵帛(しみのきぬ)・兵(つはもの)・鉄等を海の畔に積みて、貧(ほし)め嗜(つの)ましむ。肅愼、乃ち船師を陳(つら)ねて、羽を木に繋けて、挙げて旗とせり。棹を齋(ひとし)めて近つき來て、浅き処に停りぬ。一船の裏(うち)より、二の老翁を出して、廻り行かしめて、熟(つらつら)積む所の綵帛等の物を視しむ。便ち単衫(ひとえきぬ)に換へ着て、各布一端(ひとむら)を提げて、船に乗りて還去(かへ)りぬ。俄(しばらく)ありて老翁更(また)來て、換衫(かえきぬ)を脱き置き、幷(あはせ)て提げたる布を置きて、船に乗りて退(まか)りぬ。阿倍臣、數船(あまたのふね)を遣して喚さしむ。來肯(まうきか)へずして、弊賂辨(へろべ)島に復りぬ。食頃(しばらく)ありて和(あまな)はむと乞(まう)す。遂に聴(ゆる)し肯(か)へず。〈弊賂辨は、渡島の別なり。〉己が柵に拠りて戰ふ。時に、能登臣馬身龍(むまたつ)、敵の為に殺されぬ。猶戰ひて未だ倦(う)まざる間に、賊破れて己が妻子(めこ)を殺す。

 遠征軍と粛慎が物々交換を行っている。岩波の頭注によれば、無事交換が成立すると和解が成ったことになる。粛慎は一度は和解をしようとしたがそれを中止して戦闘に入ったという記事だ。

 次回はこれらの記事をさらに詳しく検討してみよう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(55)

「天智紀」(43)


近江遷都(1)


 どうして天智は近江に遷都したのか。これからの議論での教材となるので、最近出会ったこの問題に対する代表的な定説を挙げておく。

 天智が667(天智6)年、近江大津宮に遷都したのは、対外関係上、敵襲にあいやすい大和を避けて、奥地の、北陸・東海・東山三道いずれにも通じる交通上の要地をえらんだためであろう。
(井上貞光著「大化改新と東アジア」(岩波講座『日本歴史2』所収)

 これに対する異論があり、次のように論じている。

 さらに国内間題で不思議なのは天智6年3月19日、天下百姓の不満をよそに近江に遷都していることです。その年11月に、都は飛鳥盆地から近江の志賀京に遷っているにもかかわらず、対馬金田城、讃岐屋嶋城、奈良高安城に城を築造している。こうした現象をかりに文字どおり解しますと、筑紫に攻撃してくるであろう唐・新羅連合軍に対する防御策のように考えられます。けれど、難波津と飛鳥盆地を結ぶ幹線路の中間の高いところにある高安は、中継地として烽火台くらいで考えるのなら、奈良盆地の都に対する出城として理解できますが、すでに都は近江に還っているので、どうもこれらの築城は、天智系支配権力の側よりも、むしろ奈良盆地を見張る立場の側の仕事とも考えられるわけであります。どうも天智天皇の遷都はむしろそうした戦勝国側の意図よりでた、封じ込め政策ではないかと思われるふしもあるのですね。
(鼎談『藤原鎌足』での杉山氏の発言)

 上のような定説については既に 「壬申の乱(1):近江遷都」で批判している。今回はその続編と言うことになる。

 さて最近もう一つ、同じくヤマト王権一元主義に立ちながら、上のような定説を真っ向から否定する論者に初めて出会った。近江遷都は「東北・北海道地方の沿岸住民に対する支配を強化する」ためであったと論じている。

 天智が正式に王位に就いたのは668年正月のことである。その前年3月に天智は「倭京(やまとのみやこ)」から近江大津宮(おうみおおつのみや)に遷っていたが、そこで初めて即位の儀礼を挙行したのである。

 天智が正式に王位に就いたのは668年正月のことである。その前年3月に天智は「倭京(やまとのみやこ)」から近江大津宮(おうみおおっのみや)に遷っていたが、そこで初めて即位の儀礼を挙行したのである。

 天智が称制を始めたのが661年7月であったから、正式に大王となった668年正月まで、称制期間はおよそ6年半におよんだことになる。天智が王権は確実に継承しておきながら、王位への就任をこれほどまでに延引した理由は一体どこにあったのであろうか。彼がすでに実質的な大王でありながら、王位就任儀礼を先延ばしにした理由は、従来いわれているように、百済救援戦争の指導と白村江の「戦後」処理に忙殺され、その余裕がなかったという説明にはしたがうことができない。

 すでに王権を継承し、それを確実に掌握していた天智が、6年余にわたって王位を受ける儀式を挙行しなかったのは、ひとえに形式的な問題があったためであろう。その形式上の問題とは、彼が前大王である斉明の正式な後継者として承認されるか否かということだったのではあるまいか。前大王と彼(彼女)が起こした事業が偉大であればあるほど、それを引き継ぐ新大王には多くの試練や条件が課せられたに違いない。

 従来、斉明は「中継ぎ」の女帝と見なされ、実質的な権力はなく権威も乏しかったと考えられてきた。だから、その後任となる天智は、いつ何時でも、その意思ひとつで容易に即位することができたかのように誤解されてきた。

 斉明がこの前後に例のない巨大な事業を二つも起こしていたことを看過してはならない。斉明による二大事業とは、ひとつは阿倍比羅夫(あへのひらふ)を将軍に起用した北方遠征である。これは、東北・北海道地方の沿岸部の住民を大王の支配下に取り込もうとするねらいがあり、一定の成功を収めた。今ひとつは、結果的に失敗に終わった百済救援戦争である。これがもしも成功していたならば、再興した百済がそっくり大王の支配下に入るはずであった。

 北方遠征・百済救援のいずれも、その目的とするところは倭国を東アジアに君臨する大国とすることにあった。斉明が先に完成させた「倭京」も、そのような大国の君主が住むにふさわしい都市空間として創造・構築された。「倭京」を完成させた斉明が次に取り組んだのが、その大国の版図拡張という軍事的事業だったわけである。

 したがって、斉明の後継たる者は、この二つの事業とその成果を確実に引き継ぐ必要があったわけで、それこそが斉明の後継者の証しと見なされた。天智が即位を前に近江大津宮に遷ったのも、琵琶湖(びわこ)岸にあって水陸交通の要衝(ようしよう)である大津が、北方遠征によって服属させた東北・北海道地方の沿岸住民に対する支配を強化するのに至便だったからと考えられる。いわゆる近江遷都は、天智がその正式な即位に向けて是非ともふまねばならない階梯(かいてい)だったのである。また、この大津宮で正式に即位した天智は、671年正月、百済から亡命して来た貴族たちを大量に登用している。この人事は、百済救援の失敗によって実現しなかった百済王を始めとした百済貴族の大王への服属のさまを、大津宮において演出するという政治的意図があったものと見られる。
(東山美都男著『古代の皇位継承』より)

 遠山氏は「天皇」称号で呼んでよいのは天武からという自説を持っていて、それ以前は「大王」と呼んでいる。全てのヤマトの大王を「天皇」呼称で呼んでいる学者たちに比して一つの見識ではある。しかしこの見識はあくまでも呼称だけに限られていて、遠山氏は日本の第一権力者はずーっとヤマト王権であったという立場に立っている。しかも如何せん、上の論説でも分かる通り、『日本書紀』の記述をそのままそっくり信じている。従ってこの遠山説の根拠になっている斉明の「北方遠征」を検討すれば、おのずと遠山説が空論であることが判明しよう。
詩をどうぞ
安西均作「実朝」・「頬白城記」

 図書館から『藤原不比等』という表題の本を三冊借りて来た。そのうちの一冊はヤマト王権一元主義からは自由な立場で書かれている。しかも古田史学とも独立独歩の論を構築している。著者・いき一郎氏は未知の人だったので念のためネット検索をしてみた。ご本人のお書きになった文章に出会った。なんとHP「新古代学の扉」の中の一文だった。それによると、いき氏は東京の「古田武彦と古代史を研究する会」の幹事を務めたことがあるという。いき氏は東京出身の方だが、その履歴は岡と深い関係がある。九州における古代史では九州に土地勘を持つ人の論考はとても参考になる。三冊の中からいき氏の本を選んで読んでいる。

 そのいき氏の本に思いがけず詩人・安西均(あんざい ひとし、1919年3月15日 - 1994年2月8日)さんが登場してきたのだ。安西さんと言えば、すぐに思い出すのは名詩「実朝」。その詩は実朝の次の二つの歌を下敷きにしている。安西さんはその二歌から全てを見通していた実朝の孤独な心を読取り、それに深い共感の思いを寄せている。

箱根路をわが越えてくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも


実朝

その目は煙らない
その目は寂しい沖にとどく
遥かなる実存の小島へ
その目は ずい! と接近する
それから島のまわりで
波が音もなくよろめいているのを
その目はズームレンズのように見る
その目は鹹い永劫が
しなやかにうねり
割れ
砕け
裂け
散ってしまうところまで細かく見る
その目はいつも涙に磨かれている
その目はなんでも見えすぎるために憂愁の光がともる
だから その目は雪の階段にひそむ暗殺者の
後ろ手に隠した白刃まで見ていなければならなかった。


 さて、『藤原不比等』に安西さんは次のように登場する。

 詩人安西均氏は、661年の西征、白村江戦の前夜に万葉歌がつくられていないのはおかしいと鋭い指摘を行なった。なるほど、日本書紀は、中大兄が母を悼む歌なるものを載せている。

君が目の 恋しきからに 泊てて居て かくや恋ひむも 君が目を欲り
(岩波書店『日本古典文学大系』日本書紀 下)

 安西氏はこの歌を志賀島(現、福岡市東区)の民謡ではないかと考えた(『古代歌謡の現場』76年)。そのほか、安西氏は661年のチクシにおける異常な事態を、長詩「老女帝毒殺顛末」に記している(『安西均詩集』五月書房版)。

 安西さんは福岡出身の方で、詩人の立場から古代の九州にアプローチしていたのだ。安西さんの詩を若い頃結構よく読んでいたのに、その頃は古代史に関心がなかったので、そのことを全く見落としていた。久しぶりに手元の『安西均詩集』(思潮社版現代詩文庫)をひもといた。残念ながら「老女帝毒殺顛末」は収録されていなかった。代わりに、筑紫を語った長い散文詩「頬白城記」を発見した。その詩を紹介しようと思う。

 安西さんがこの詩を書いた頃、古田さんの多元史観はたぶんまだ発表されていなかった。安西さんが九州王朝の存在を知っていたら、この詩はどのように変わっていただろうか。そんなことを思いながら読んで見た。

頬白城記



 けさ、ホホジロの啼き声を聞いたと思ったら、郷里の父から久しぶりに手紙がとどいた。「一筆啓上仕候」。母の法事が近づいたという。クララの畠を売ったという。
 クララとは、部落のなかの小字名(こあざな)である。
 私の生まれた部落は、チクシとよぶ。先年、町村合併がおこなわれて「福岡県筑紫郡筑紫野町大字筑紫」と書くようになったが、それまでは「筑紫郡筑紫村大字筑紫」であった。昔の「筑前国(ちくぜんのくに)御笠郡(みかさのこおり)筑紫郷(のさと)」である。
 「筑紫」という地名は、つとに古代から、筑前・筑後両国の国名としてよばれ、さらには西国、すなわち九州一円の総称でもあった。ならば、私が生まれた「筑紫」部落は、その本地(ほんじ 発祥地)であろうか?

 私はここで「筑紫」という地名の語源について詳述すべきかとも考えるが、いまは省略せざるをえない。
 おおかたの理由は「筑紫」の地名起源が、茫として定かでないためである。この地名の文献上の初見は、西暦六三四年に成ったシナの史籍『隋書』倭国伝、わが古文書(こもんじょ)では正倉院文書に記録された七〇一年の戸籍簿に、遡ることができる。しかしながら、これらもすでに古代国名が確立したのちの記録にすぎぬとあっては、語源を探ぬるよすがとはならぬ。ツクシとは、いかなる意味をもって発生したものか? 古来、いくつかの伝承と、あまた学究の考証・仮説・推測がくりかえされたにもかかわらず、いずれも蒼古たる歴史の沼に投ぜられる礫にひとしく、その響はむなしい。
 かくて、私のうぶすな「筑紫」は、茫漠たる古代の煙霧に包まれたまま、たたずまいはまことにみすぼらしい痩地として朽ちかけてゆくのみだ。
 けさ、私は老父の雁書によって、この「筑紫」部落の中が、細かくいえばおよそ二十ほどの小字(こあざ)に分かれていることを、ゆくりなくも思い出したのであるが、おお! クララとよぶ小字には、確かそのあたりに薮があって、秋には烏瓜の実が真赤に熟(う)れてぶらさがっておった。

 2

 土地の字名(あざな)は、畔名(あぜな)であった。
 土地台帳にはあっても、現在、町役場の戸籍簿には記載していない。まして、手紙の宛名にも常用しないため、私は離郷二十余年の間、まったく忘じ果てていた小地名である。さりながら古里びとらは、いまだに小字(こあざ)の地名を慣用し、これが生活共同体の最小単位となっている事情は、他の村落と変わりない。

 さて、私のおぼろな記憶のなかで、笹の葉ずれのごとくかすかな音をたてて蘇ってくる「筑紫」部落の小字名(こあざな)を、机のうえに列記しておこう。
 城屋敷(しろやしき)  仮塚(かんづか)
 太郎丸(たろまる)   仮尺(かりじゃく)
 五郎丸(ごろまる)   以来尺(いらいじゃく)
 米丸(よなまる)    栗木(くりき)
 裏門(うらもん)    扇町(おおぎまち)
 城の越(じょうのこし) 粕村(かすむら)
 御笠(みかさ)     名越(なこし)
 倉良(くらら)     弁入(べんにゅう)
 久倉良(くくらら)   天神田(てんじんだ)
 城山(きやま)     ……
 この小字(こあざ)のすべてに、人家があるわけではない。多くは田や畠や薮におおわれた小さな地名なのである。
 子どものころに、茅花(つばな)のうすら甘く湿った綿毛を抜いて噛んだ、あの土手(どて)。
 姑(しゅうとめ)の邪樫に耐えかねたという、若い後家が入水した、あの堤(つつみ)。菱の花が白く浮いていた堤。
 誰が誰を呪ったしわざかわからないが、五寸釘が打ち込まれていた大杉。
 廃品の真録(あかがね)買いをしていた朝鮮人一家の掘っ立て小屋。いつのまにか無人(ぶにん)になっていた、その小屋。
 ある年、鉄道敷設工事が始まり、枕木の山が井桁になって空地に並んだ。年上の露ちゃんという娘が、私を井桁の中に誘い込み着物の前を無理にはだけさせた、あの空地。
 秋の収穫(とりいれ)がすんだころ、田んぼに蓆掛(むしろが)けの芝居小屋ができあがり、ドサまわり「田舎千両」の役者たちが繰り込んできた、あの刈り株が並んだ田。幟が(のぼり)がはためいた田んぼ。
 きたない避病院のあった森…‥。
 そのような、歩きながら歩幅で測れそうな小さな土地の名を列記していくうちに、むかしの古里びとの面影が、木洩れ日のなかを近づいてくる時のように明滅するのである。
 やがて、はしなくも気づいたことであるが、なんと、ここには古代の城塞か、もしくは中世の城廓にゆかりあるとおぼしい地名が散在しているではないか! 私はもう一度、ホホジロの声を聞いた気がする。
 いつの時代に、いかなる者が? いや、かつてそれらしい口碑も聞かず、遺構とても無く、ただ鳥毛だつばかりの貧しさで私の少年時をくるんでいた寒村である。それがいま、模糊たる歴史の夕霧のなかから、妖しげな廃城を顕わしてくる思いだ。



 私の生まれた「筑紫」部落は、低い平らな丘の裾まわりに、こびりついて、かすかに息づいている。
 この小丘陵を訪ねるなら、国鉄原田(はるだ)駅から東北方約二キロ。もし、西鉄大牟田線筑紫駅に降り立っなら、つい、西側に鼻を突きつけている。小丘陵のその端(はな)に、私の学んだ小学校が建っている。校庭からは、筑前平野の南端と筑後平野の北端とが緩慢として相接する地勢を一望しうるのである。つまり、この小丘陵は、砂時計の中央の、くびれた部分に似ているのだ。悠久の「時」の砂粒は、この小丘陵を擦りながら流れてきたのであった。
 ここに佇ん(たたず)んで北方を望めば、約8キロを隔てて四王寺山が、なだらかな陵線を空に描いている。大野山とも称し、この山中に隠れて、わが国最初の朝鮮式山塞たる大野城址があり、山裾には、かつて青丹よし平安京(ならのみやこ)を模した大宰府(だざいふ)の都城が横たわっていたのである。
 大野山の手前に、宮地嶽(みやじだけ)が寝そべっている。万葉集で蘆城(あしき)山といわれた山。その裾をめぐって、いまは宝満(ほうまん)川とよぶ蘆城川が南流してくるのが見える。「月夜よし。河音清(かはとさや)けし。いざここに 行くも去(ゆ)かぬも 遊びて帰(ゆ)かむ」。いま川沿いに馬で山路を遠ざかるのは、あれは京師(みやこ)に帰っていく官人である。この川は、いま私がたたずんでいる小丘陵の前を、しずかに蛇行し光っていく。このあたり、夏も早い。村の子ども達が水遊びをしている。それに混って飛沫をはねちらしているのは、どうやら幼年の私と、沖縄海戦で戦死した弟であろう。

 私はカメラを西南方に向ける。そこには基(きの)山が、古代の烽火台を天空の一角に横たえている。木(こ)の間(ま)がくれに、うすい煙が漂っているのは、あれは防人(さきもり)が夕餉の仕度をしているのではあるまいか。ここの朝鮮式山塞もまた、北方の大野山と同時に、七世紀中葉に構築された。大野山は大宰府の北面を、基山は南面を防備するため、天智天皇はそこに有史以来の大土木工事を命じたのである。
 南北両面の山塞建設を指揮したのは、朝鮮の王国・百済(くだら)の亡命戦術家、憶礼福留(おくらいふくる)であった。隣国の新羅(しらぎ)と、大陸の唐とに圧迫された百済王国は、ヤマト朝廷挙げての救援出兵にもかかわらず、惨敗を喫して滅亡した。こののち憶礼福留は、自(し)が運命のごとく荒れ狂う玄海難を渡って、筑紫路にたどりつき、ヤマト朝廷の命により築城に着手した。彼が築いた山塞は、いまや潰(つい)えさった母国の辺(あたり)の雲行きを睨むこととなったのである。
 悲運の戦術家の瞼には、しかし、亡国の美(うるわ)しき首都、扶余(ふよ)城のたたずまいが、このとき涙とともに映じなかったであろうか。なぜならば、朝鮮錦江下流、扶余城背面の山峰には扶蘇山城があり、南方はるかな連山には青馬山城があった。彼は、その地形さながらな筑紫路に検地をおこない、大野山と基山の両山塞を造りあげたからである。
 小学校の放課後を告げる鐘が、私の耳のうしろで鳴った。



 いま、小学校の鐘が鳴りやんだばかりの丘。
 この小丘陵こそ、おそらく日本列島の西端九州に、文化の曙が訪れるころから、すでに要衝の地点であったに違いない。
 大陸渡来の稲作と金属器によって、弥生式文化をおし進めていた北九州では、早くも西暦紀元前後の数世紀間に、小国家を群立するにいたった。クニ(国)といっても、現在のムラ(村)を幾つか寄せたほどの地域を単位にしたものである。そういう一国、博多湾沿岸に存在した「奴(な)」の国では、大陸の後漢(ごかん)光武帝から金印を授けられるという事例があった。一世紀中葉、正確には西暦57年のことである。
 くだって三世紀中葉、237年に、邪馬台(やまと)連合国が擁立した女王卑弥乎(ひみこ)は、大陸の魏(ぎ)王と親交をもっている。この邪馬台連合国家が、北九州地方に存在したか、近畿大和地方に相当するかは、いまだ学界に定説がない。が、私は北九州説に加担する一人である。
 すなわち三世紀ごろ、私のふるさと一帯はツクシのクニとして、その連合国家の一環に加わっていたはずである。しかも、このクニが、北部の奴のクニ(福岡市付近)と、南部の投馬(つま)のクニや邪馬台(やまと)のクニ(福岡県南部)の中間に位置することは、さきに砂時計のくびれの部分に相当すると述べたとおりである。
 されば、女王卑弥乎と大陸魏王の使者たちも、いま小学校のある小丘陵の下を、ホホジロの囁き声をききながら往還したことであった。
 やがて、日本列島の政治的中心は近畿大和地方に移り、かくてヤマト朝廷の支配する古代国家的統制が、逆に波及してくることとなった。すでに、北九州一帯の文化的独立先進性は喪われ去っていたとはいえ、もし、地方長官たる国造(くにのみやつこ)をここに置くとすれば、当然、古来の要地たるこの小丘陵を根拠地としなければならなかったであろう。こうして、小丘陵に名づけられていたツクシは筑前・筑後一円の国名にまで拡大し、さらに朝廷の一大出先き機関たる大宰府が、筑前の国に設置され、西辺を掌握するにいたって、九州を「筑紫の島」と称(よ)ぶまでになったのである。
 とはいえ、古代政治にも軍事にも詩歌にも、この小丘陵に関する記録は一片だに無いのだ。あたかも、この小丘陵は、ツクシという地名の抜け殻のごときものである。巨大な化石のようにこれは平野の一角にねむっている。
 しかし、私は思う。「遠(とお)の朝廷(みかど)」大宰府が設置されるころ、この小丘陵は古代の甲冑を脱ぎすてて、一種の形而上的・信仰的地点(ポイント)にまで、変貌していたのではあるまいか。筑紫部落内の小字「御笠」という地名が、私にそのような想像を誘うのだ。
 古来、大宰府を中心とした一郡を「御笠郡」と称したことは、はじめに述べた。ミカサとは、もともと防衛にゆかりある言葉なのだ。このことは奈良の近郊に位置する三笠山を想起すれば足りるであろう。三笠は天子の御蓋(みかさ)でそれを守護するの意味である。ゆえに三笠山といえば、近衛の大将・中将・小将の異称にもなった。平安京を模した大宰府の近郊に、ミカサという地名が存在してもふしぎではない。
 思うに筑紫部落の小丘陵は、軍事的にはすでに規模が小さすぎる地勢であるが、歴史的にまた信仰的にミカサにふさわしい地点と比定されたものであろう。したがって、ここに「御笠」という地名が発生し、やがて大宰府を取りめぐる郡名になったのではあるまいか。



 さきに私は、この筑紫部落の小字名(こあざな)に、古代の城塞か、もしくは中世の城廓にゆかりあるとおぼしいものが残っている、と書いた。私が弱年の詩に「いつの世 誰が 何ほどの祈禱(いのり)ごとあってか 伝家の一刀を沈めたと祖母が語ったふる里の井戸」という一節がある。これは小字(こあざ)「城屋敷」にあった古井戸の追憶である。
 私の、零落後の生家は、たまたまこの「城屋敷」から、小字「城の越」しに移り住んだ。「城の越」は、城外に出る地点だ。事実、「城の越」は、小丘陵と平地の接点にある。
 つぎに、タロマル・ゴロマル・ヨナマルも、まごうかたなく城塞の用語である。マルとは、ほかならぬ朝鮮語で城塞を意味するのである。されば「太郎丸」は城主の長子・太郎が守備する城、「五郎丸」は五郎が城、という意味を帯びていた。
 かくて、私は想定する。いつの世にか、この筑紫部落には、「城屋敷」を中心に「太郎丸」「五郎丸」「裏門」「城の越」などを配置した一城が、存在したのではあるまいか。
 すでに述べたごとく、城の実在を証明する遺跡はもとより、出土品も目にしないし、伝承も耳にしない。歴史の風霜は、一つの城塞をみごとなばかり完全に消滅せしめた。ただ痩々たる田や畠や薮や湿地にへばりついて、古い怨霊のような名称のみが残っているのである。

 ところで、老父の手紙にもあるクララという小字(こあざ)の起源は、何であろうか。
 私の臆測では、朝鮮半島の王国クダラ(百済)の訛りであろうと思う。私の郷里では、d音は容易にℓ(エル)音に訛音する習癖があるのだ。
 大宰府防備の大野山・基山両城塞建設を指導したのが、百済の亡命戦術家であることも、すでに説いた。このとき随従してきた百済びとが、私の生地「筑紫」部落の一隅に残留したであろうという想像は、あながち奇矯ではないはずだ。やがて、その一角を、土着の民はクララと訛って称ぶことになったのかも知れぬ。私の妄説ならば、学者、すみやかに叱正を賜え。



 父は何のために、あの狭い畠を売り払ったのか、手紙では詳(つまびら)かでない。母の法事の出費ででもあろうか。
 私はつねづね老いてゆく肉親に冷淡の誹(そし)りを受け、かつまた消亡してゆく故郷に愛著なき者であるが、けさ、空耳にホホジロの囁き声を聞いたばかりである。
 忽然として現じ、須臾(しゅゆ)にして掻き消えた、かの廃城の幻影をば、ひそかに「頬白城」と名づけようと思うが、如何。

(追記)
 古田さんによれば、「くだら」(百済 朝鮮語ではペクチェと読む)は日本語である。羅 (ら) は村 (むら) ・空 (そら) の「ら」である。「くだ」は、果物の「くだ」。つまり「くだら」(百済)は「豊かな土地」といった意味ではないかという。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(54)

「天智紀」(42)


鎌足と鏡王女(22):悲劇の王女(7)


 「多武峰定恵」の業績(2)「十三重塔の建立」について検討してみよう。

 多武峰の談山(たんざん)神社の祭神は藤原鎌足とされている。この神社は明治初年の神仏分離令以前は寺院であり、多武峯寺と呼ばれていた。十三重塔は明らかに仏教形式の塔だが、他に類を見ない実にユニークな美しい塔である。

多武峰寺十三重塔
(談山神社HPより拝借)

 談山神社の公式サイトの神社説明「略記」は文字通りの略記であまり役に立たない。ウィキペディアから引用する。

 鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年(680年)に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した。大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と号した。

 談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。

 「大化の改新の談合」と書いてあるが、『日本書紀』にはそのような記事は全くない。談山神社HPの「略記」も、中大兄(天智)と鎌足の初めての出会い後「西暦645年の5月、二人は多武の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました」と書いているが、645(皇極4)年6月の「乙巳の変」(蘇我蝦夷・入鹿謀殺事件)のときの談合と混同しているようだ。ただし『日本書紀』には645(皇極4)年5月の記事は皆無だ。寺伝の編纂者は、どうしても二人を多武峰に登らせて、史実めかした由緒付けが欲しかったのだろう。ちなみに「乙巳の変」の談合は次のように行われている(皇極3年正月条)。

 後に他の頻(しきり)に接(まじ)はることを嫌(うたが)はむことを恐りて、供に手に黄巻(ふみまき)を把りて、自ら周孔の教(のり)を南淵先生の所に學ぶ。遂に路上(みちのあひだ)、往還(かよ)ふ間(ころほひ)に、肩を並べて潜(ひそか)に圖(はか)る。相協(あひかな)はずといふことなし。

 談山神社のHPによると、現在の十三重塔は室町時代に再建されたものだという。その他、種々の宝物も全て鎌倉時代以降のものであり、大和王朝草創期頃から伝わっている文物はないようだ。

 ウィキペディアにとると、十三重塔は、定恵が帰国した後、678(天武7)年に建立したとある。この年次は「貞慧伝」(帰国676年)の場合は矛盾がないが、「多武峰定恵」(679年帰国)には矛盾する。帰国前に建立したことになってしまう。しかし、年次の比定に矛盾はあっても、定恵が十三重塔を建立したことまで疑う根拠はない。結局「多武峰定恵」記事から取り出せる事実はこれだけと言うことになる。

 「貞慧伝」では定恵は676年に死亡しているのに、「多武峰定恵」や多武峰寺(談山神社)の寺伝では定恵は678年以降に多武峰で十三重塔を建立している。このとんでもない矛盾は一体何なのだろう。私の知る限りでは「多武峰定恵」や「多武峰寺寺伝」を虚構として一笑に付し、まともに取り上げている人はいない。私の考えも一笑に付されてしまうかも知れないが、この問題を取り上げてみよう。

 毒殺か病死かという問題は置いて、「貞慧伝」が貞慧は帰国後すぐに死亡したと記録しているのは確かだと思える。筆者(恵美押勝)にとって貞慧は伯父である。その伯父が714年まで生きていたのに、676年死んだなどと、ウソをついたり、あるいは間違ったりするだろうか。『藤氏家伝』は『日本書紀』の記録との整合性をもたせたり、事績を誇大に粉飾したり、あるいは不都合なことは書かないという隠蔽をしている点はあるかも知れないが、伯父の死亡期日をごまかさなければならない理由はないだろう。また、『藤氏家伝』は藤原家に伝わる記録や口伝に依拠して書かかれているだろうから、伯父の死亡期日を大きく間違えることも考えられない。

 一方、「多武峰定恵」や「多武峰寺寺伝」の方はどうだろうか。十三重塔は妙楽寺のシンボルとも言える大事な建造物である。定恵以外の人が建立したのに、いくら時の権力者との深い関係を誇示したいからと言って、その人の功績を隠蔽して、他人(定恵)のものとしてしまうなんてあり得るだろうか。寺伝にも他の記録との整合性をもたせたり、事績を誇大に粉飾したり、あるいは不都合なことは書かないという隠蔽をしたりすることは大いにあり得ることだが、自分の寺の最も重要な建造物の建立者について間違えたり、ウソをついたりすることはないだろう。

 両方とも事実を伝えているとしたら、一体これはどういうことなのだろうか。そうです。貞慧と定恵は別人だ、というのが私の大胆すぎる仮説です。

 問題が二重三重に錯綜してしまった原因は『日本書紀』の〈定恵は内大臣の長子なり。〉という分注にある。『日本書紀』の編纂者の勇み足である。あるいは不比等の指示だったかも知れない。先に指摘したように、これがあるため「貞慧伝」の作者は貞慧の渡唐期日を定恵の渡唐記事になんとか見せかけようと苦心している。「多武峰定恵」や「多武峰寺寺伝」は『日本書紀』や「貞慧伝」と整合性をもたせたり、藤原家との深い因縁を作為しようと苦心惨憺しているが、まさか十三重塔の建立者・定恵が676年に死んだということにするわけにはいかない。

 貞慧と定恵は別人であるという仮説、どうでしょうか。ちょっと苦しいかな。

 最後に、「貞慧は鏡王女の子?」という問題を取り上げよう。

 「貞慧伝」の示す「665年に11歳で渡唐」という記事が事実だとすると、貞慧の出生は650年ということになる。鏡王女などが采女として強制的に拠出されたのが白村江の敗戦で九州王朝の権力がヤマト王権に簒奪された後だとすると、それは662年以降ということになる。「貞慧伝」が全て虚偽でない限り、貞慧が鏡王女の子ではあり得ない。『日本書紀』の記録が貞慧のものだとすると、渡唐563年だから、なおさらその可能性はない。

 天智から鎌足に下げ渡された女御が子を妊っていたという『大鏡』の説話も学者たちは一笑に付しているようだが、もしそれが事実を伝えたものならば、鏡王女の子として可能性があるのは不比等である。

 鎌足の出生年はどこにも記録がない。また『日本書紀』の死亡記事には享年の記録がない。しかし「大織冠伝」が享年56歳(669年に死去)と記録しているので、それから逆算して鎌足の出生は614年というのが定説となっている。鎌足の享年は家伝の記録だから、信用するほかないだろう。

 不比等の場合も出生年は不明で、『続日本紀』の死亡記事(720年死亡)に享年の記録はない。平安時代の別文献(『公卿補任(くぎようぶにん)』・『中右記(ちゆうゆうき)』・『帝王編年記(ていおうへんねんき)』など)に享年62歳とあるので、それから逆算して不比等の出生は659年が定説になっている。(ちなみに、享年61歳と記録している文献もあるそうだ。)

 上に挙げられた文献が不比等の享年を62歳とする根拠をどこから得たのか知るよしもないし、不比等の死後500年~600年後に書かれたこれらの文献が史料としてどのくらい信用できるものなのかどうかも私のような素人には判断するすべがない。

 『藤氏家伝』上巻は「大織冠伝」を「二子貞慧・史(ふびと 不比等の別表記)有り。史は別に伝有り。」という文言で結ばれていて、そのまま「貞慧伝」に続いていく。しかし下巻は「武智麻呂(不比等の長男)伝」であり、「不比等伝」は今に伝わっていない。書かれたのだが散逸したとされているが、「藤氏家伝」の他の部分がきちんと残されているのにおかしくはないか。私は書かれなかったのではないかと考えている。「不比等伝」を書き残すには不都合なことが多すぎたからではないのか。不比等の出生年は定説より数年後である可能性を、つまり不比等は志貴皇子と鏡王女の間の子であるという可能性を、私は捨てきれない。

 不比等が志貴皇子と鏡王女の間の子であるとすると、これはまさに青天の霹靂、すごいことになる。九州王朝の血脈を継ぐものがヤマト朝廷を牛耳ってきたことになる。と、思いがけないところに来てしまって、自分でも驚いている。でもこれは埋めなければならない事柄がまだたくさん残っているのでちょっとためらいもあるが、一応一つの仮説として書き留めておくことにした。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(53)

「天智紀」(41)


鎌足と鏡王女(21):悲劇の王女(6)


 「多武峰定恵」が伝える定恵の業績の(1)を検討してみよう

(1)鎌足の遺骸を阿威山から談峰に改葬した。
 ここに「阿威山(あいやま)」という印象的な山名出ている。これついて思い出したことがある。『「継体陵」はなかった』という古田さんの講演記録にこの山名が出ていた。その部分を引用する。

 そこで十年近く前に、安威の地域を歩き回った。そこには追手門大学がありますが、そこの北側に安威神社があります。現在は安威三丁目ということになっている。ここがまさに安威の真ん中。そうすると『古事記』『日本書紀』が陵は藍(アイ)にあると言っているのは、このあたりの地域を指していると考えられる。

 そうしますとこの安威神社は、大きい神社ではないが、なかなか良い神社です。しかも注目すべきは、神社の周りを円墳が囲んでいる。大きくはないですが円墳が安威神社を囲んでいる。わたしはハッキリ言えば、その安威神社の近辺にある円墳の一つ、円墳でなくとも良いですが、そこに継体を葬ったお墓があるのではないか。そう判断した。

 その証拠には、そう言うのは少し早すぎますが、安威神社からそんなに遠くないところから藤原鎌足の大織冠が出て来ました。当時ぜんぜん期待しないところから出てきました。大織冠は藤原鎌足以外には使われていない。ところがその古墳は、巨大古墳でもなんでもない。たいして期待していない古墳のところから大織冠が出てきました。藤原鎌足の墓は100年ぐらい後ですけれども。その鎌足にしても、作るとすれば巨大古墳を造らせる力ぐらいはあったと思う。これは付け加えておきます。

 「安威神社からそんなに遠くないところから藤原鎌足の大織冠が出て来ました」と言うのだ。もしこれが本当なら、(1)はウソの話ということになる。

 古田さんが根拠なしに上のようなことを言うとは思えないので、念のため「安威山」を検索してみた。「安威山」は現在は「阿部山」と呼ばれているという。「阿部山古墳―藤原鎌足の墓―」 が豊富な写真も掲載していて、詳しく解説している。直接引用は長すぎるので概要をまとめる。

 阿武山(海抜281.1m)の麓、茨木市大字安威と高槻市奈佐原にまたがる場所に阿武山古墳がある。この古墳は、1934(昭和9)年、京都大学阿武山地震観測所の施設拡張工事にの時に発見され、京都大学の梅原末治氏らによって発掘調査が行われた。直径約80m、石室は花崗岩の切石とレンガで造られ、内側は漆喰を塗り、中央に棺台があった。台上には麻布を漆で固めてつくった夾紵棺(きょうちょかん)が置かれ、棺内には60歳前後の男性人骨が横たわり、頭部には、ガラス玉を銀線で連ねて錦で包んだ玉枕(この出土物を梅原氏は「玉枕」と命名した)が置かれていた。出土した土器から見て、古墳の築造年代は、7世紀前半~後半と考えられており、飛鳥時代としては、数少ない貴重な墓として、国史跡に指定されている。

 発見当時「貴人の墓」として注目を集め、墓室の規模や構造、特殊な埋葬形態から、被葬者は相当な地位にあった人物と考えられた。鎌足の墓は阿武山から多武峯へと改葬されたと伝えられているので、ここを藤原鎌足の墓とする説が沸き起こった。

 しかし、遺体が金糸をまとっているところから、古代皇族の墳墓の可能性もあるため、科学的調査は非礼にあたると内務省が介入し、4ヶ月後には棺と遣体は元通りに埋めもどされてしまった。当時は軍部の権勢が全盛で、天皇家絶対の風潮の中、内務省が憲兵隊を動員して、研究者らの立ち入りを禁止し、出土品も含めてすばやく埋めもどしてしまったのである。

 しかし、梅原末治氏らの学術調査の報告書「大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告第七・摂津阿武山古墓調査報告」が1936(昭和11)年刊行されている。

 その後、古墳については一部の研究者を除き殆ど忘れられていたが、1982(昭和57)年に、京大地震研の一室から、古びた数十枚の写真が発見された。それは、発掘直後に京大の研究者たちが密かに撮影した、阿武山古墳被葬者のレントゲン写真原板を含む調査写真だった。さらに、遣体から採取した頭髪も見つかり、奈良国立文化財研究所と東海大学医学部整形学科による数年がかりの分析調査が行なわれた。

 1987(昭和62)年になって、発掘当時撮影されたX線写真の分析が行われその結果、埋葬者は背骨と肋骨の骨折が原因で死亡しており、金糸は冠帽の刺繍に用いたとも推定されるという報道がなされた。これをもって再び被葬者が「藤原鎌足」ではないかと取りざたされた。

 遺体が纏っていた金糸(玉枕)が、藤原鎌足に送られた「大織冠」ではないかとされ、また鎌足の死亡の原因が落馬によるものだという記事(出典を私は知らない)もあり、骨折がこれを証明している、という訳である。

 しかし、墓の主は、鎌足の他に鎌足とほぼ同時代の阿部倉橋麻呂(内麻呂)や蘇我倉山田石川麻呂などをあげる学者もいて、鎌足墳墓説はまだ定説とはなっていないようだ。

 誰も問題にしていないようだが、「大織冠伝」に次のような記録がある。

送柊(はぶり)の具(そなへ)は、其の遺言に因りて、務(つと)めて節倹(せつけむ)に従ひて、宿志(しゆくし)を申(の)ぶ。粤(ここ)に、康午(かうご)年閏九月六日を以て、山階の合(てら)に火葬(くわさう)す。

 埋葬の年・康午は鎌足の死亡年・己巳(669)の翌年の干支であり、年次の方は辻褄が合っている。しかし、鎌足が山科の寺に火葬されたことが事実なら遺体は残っていないのだから、阿武山古墳が鎌足の墓であるわけがなくなってくる。逆に、阿武山古墳の遺体が鎌足のものならば、「大織冠伝」の火葬記事がウソと言うことになる。

 また、阿武山古墳が鎌足の墓であるとすると、今度は、阿威山から多武峰に改葬したという「多武峰定恵」の、説話があやしくなってくる。

 いろいろな文献を読んできたが、私は遺体の頭の位置にあったという「玉枕」は藤原鎌足に送られた「大織冠」だというのが真実ではないかという感触を持つようになってきた。古田さんは「そう言うのは少し早すぎますが」と断言は避けているが、私は古田さんの仮説は正しいと思う。その仮説を基準に全ての矛盾を解いてみるべきだろうと思っている。

 古田さん以外にも「玉枕=大織冠」説を主張している人がいた。鎌足・定恵・不比等についての学者さんたちの考えを知りたいと、一昨日図書館から『藤原不比等』という同表題の本三冊と『藤原鎌足』という表題の本を一冊借りてきて読んでいる。『藤原鎌足』にそのことが取り上げられていた。

 『藤原鎌足』(思索社 1992年刊)は梅原猛(哲学)・杉山二郎(美術史)・田辺昭三(考古学)三氏による鼎談を記録したものである。さすが専門家たちの鼎談。ネットで得る情報だけでは見えない事柄が見えてくることがある。しかし、なかなか面白い議論がなされているにはいるが、三氏ともにヤマト王権一元論者なので、九州王朝の存在を認めればすっきりと説明できる問題ではつまずいている。ともあれ今問題にしている「玉枕」の話題の部分を紹介しよう。「玉枕=大織冠」説を主張しているのは梅原氏である。梅原氏が「阿武山古墳=鎌足の墓」説を提出すると、他の二氏はそれを強く否定する。その後の談話。

杉山 阿武山古墳の人骨の年齢はだいたい六十歳前後というわけでしょ。

田辺 報告書によれば、遺体は六十歳前後で、身長が一メートル六四~五センチですか。六十歳前後というと、鎌足の死んだのが五十六、七歳ですからね、これはぴったりです。帰化系の血が入ってるということになると、背も高い人のようだし。まあ理屈はいろいろつけられると思うんです。とにかく非常に有力な人物の墓であることはまちがいないですけど、ぼくはやっぱり直接あれを鎌足という人間に結びつけなくてもいいと思うんですね。

梅原 ぼくが阿武山の古墳を鎌足の墳墓じゃないかつていうのは、もう一つ、じつはいわゆる玉枕というのが大織冠じゃないかと思っているからなんですよ。ぼくは最初何も知らんで阿武山に行ったんや。そしたら墓があったといわれて、梅原未治さんの報告書読まないうちに写真だされて見た感じがね、これは冠だなと思った。ひょっとして大織冠だとえらいこっちゃなあと思って、それから報告書読んだら玉枕とでてるわけですよ。ところがいまでも枕と思えんのです。だいたい古墳から玉で綴った枕がでてくるなんてないでしょう。

田辺 ないですね。

梅原 その枕はね、銀の針金でつくってあるんですよ。つまり枕だったらこう輪になったものが両側に二つなければならない。それが針金でね。しかも宝石がいっぱいに、四百いくつ大きな宝石があるんですよ。その宝石の質が梅原報告では古墳にでてくるものじゃなくて、むしろ正倉院のああいうものに近いという。それが頭の側からでてきて、さらに骨には金モールがからまっていたんですよ。それで梅原末治さんは頭のすぐそばにあったから枕と判断した。金モールの骨についてはあまり説明してないんです。だいたい枕にそんな針金を巻いて宝石入れるかどうか。ぼくはやはり非常に大きな房のついた冠で、そうするとおそらく大織冠じゃないかというふうに考えたい。そうするとこれは副葬品が何一つないというのは、最後にこう貰ったばかりの冠を抱きしめて死んだというのはね、あんまりドラマになりすぎるんでね。(笑)

田辺 だいたい、そういう形式の枕はないですね。

杉山 ありませんね。

田辺 そんな玉で巻いたようなものはないですね。

杉山 かなりこまかい、これに近いというものは、仏像でいうと三月堂の不空羂索観音の冠ですよ。これ式ですね。こうして宝石がありましてね。銀で針金ができておって……。

梅原 ぼくが鎌足説にこだわるのはね、それが一つあるからなんですよ。

田辺 そうですか。大織冠ですか。なるほどねえ。じつはぼくの方がすっかり文献にまどわされて遺物を無視し、梅原さんの方がものに即して鎌足説をだすというのは、これはまったく逆の話で、考古学徒としてまったくお恥ずかしい限りです……。(笑)それにしても玉枕大織冠説とは恐れ入りました。これはいけそうですね。できることなら、阿武山古墳をもう一度あけてみてしっかり観察すれば、勝負がきまりそうですね。

杉山 玉枕といういい方はどうも……。

梅原 だからもう一ぺん開けてほしいよ。あれが枕っていうのはぼくはどうしても無理なような気がする。

田辺 たしかに冠と考える方が自然でしょうね。あれが大織冠そのものであるとしたら、これは例の奴国王の金印と同じ意味をもちますからね。文献と造物の縫合点ですからね。七世紀の謎の一つを解決することができますよ。

梅原 それをまた入れて埋めてしまったんでしょ。

田辺 これを掘った方が病気で亡くなったというのは、タタリ、怨霊ですかね。(笑)

梅原 やっぱり祓わんといかんぞ。(笑)いまでも髪の毛と髭と皮膚みたいなものと、一部だけど腰の骨と頭の骨みたいなものが残っている。

田辺 その冠の話をもっと早くだしてくれたらあれほど強く反対しなかったのに。立場がなくなりますよ。

梅原 ちょっと笑われるかと思って遠慮してたんだ。(笑)

田辺 物に即していわれると一番弱いですね。

梅原 玉枕なんていうのは梅原末治さんがつくった言葉でしょう。

杉山 そうなんでしょうね。

田辺 聞いたことないですね。

梅原 それでだいたいそんな例はないと、ご自分でも書いている。枕を古墳に彫った例はあるんだってね。ありますか。

田辺 石をうまく刳って、頭がちょうどのるような形につくったものはあるんですよ。石棺の底に彫りこんだものもあります。陶枕はどうですか。

杉山 唐の陶枕なんかもそれですね。まるっきりやり方はちがいますね。

梅原 枕にだいたいそんなに滅茶苦茶に宝石入れるってことは考えられない。

杉山 考えられないと思いますね。

田辺 中国にもないですか。

杉山 ないですね、それは。工芸的に推測しますと、大織冠そのものはもちろんよく解らないのですが、大宝律令や養老令の衣服令にでてくる朝服の冠とはちがったものと思われますね。諸皇子らの礼冠はいわゆる三山宝冠に押鬘という唐草透彫の金属装飾や、漆羅という背板、水晶・琥珀その他の玉をつけた豪華なものだったので、この大織冠は中国服制の曼冠風に刺繍や組み紐を使用したり、金属のかわりに舶載織物をふんだんに装飾した冠だったのではないでしょうか。

梅原 頭の下からでてきたから枕だと考えた。これはかぶってれば頭の下になるよ。

田辺 じっさい山の南に葬るとか、山科に殯したとか、それと改葬の記事ですね。あんなのを見たら、とても阿武山説はもう存在するはずがないと、逆に文献の方にとらわれてまったく思ってもみなかったんですけどね。どうも大織冠でだいぶ動揺しました。(笑)

(以下略)

 最後は杉山・田辺両氏も「阿武山古墳=鎌足の墓」説に傾いている。これから後、私はこの仮説を採用して議論を進めていこうと思う。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(52)

「天智紀」(40)


鎌足と鏡王女(20):悲劇の王女(5)


 定恵を扱っているもう一つの資料「多武峰定恵」を読んで見よう。前々回に掲載した文章の続きから、まずは渡唐・帰国記事。

 (定恵は)沙門(しゃもん)の恵隠(えおん)のもとで出家した。白雉(はくち)四年(653)に、遣唐使に従って海を渡った。都の長安に着いたのが、高宗(唐の第三世李治)の永徽四年のことであり、恵日寺(えにちじ)の神泰(しんたい)に師事して学問すること、ほとんど十年間に及んだ。調露(ちょうろ)元年(679)には、百済の使者に従って帰国したが、それは、我が国の白鳳七年九月のことである。

 神社縁起は決定版が出来るまでには時代とともにいろいろな追加・削除などが行われているものだろう。この定恵の渡唐・帰国記事は、たぶん「貞慧伝」を下敷きに書かれたと思われる。

 年次を示す語句の後の西暦を示す数字は訳者(今浜氏)の付けたものである。まずこれらを検討しておく。

渡唐年
 今浜氏は白雉4年を「孝徳紀」の白雉に従って653年としている。「貞慧伝」と同様に、唐の年号・永徽四年と同じと書いてあるから、そのようにせざるを得ない。

帰国年
 調露も唐の年号であり、調露元年は確かに679年である。これを虎関和尚(あるいは和尚が用いた原典)は白鳳7年と同じと書いているが、前回の対応表で分かる通り、これは全くのデタラメ。実際には679年は白鳳19年である。今浜氏はこの点は全く無視して何の関心も示していない。もしかすると九州年号を認めない学者さんなのかもしれない。

 また、永徴四年~調露元年は27年間もあるのに本文は「恵日寺の神泰に師事して学問すること、ほとんど十年間に及んだ」とすまし顔で書いている。虎関和尚(あるいは原典の作者)は、九州年号は8世記に抹殺されているのだから致し方ないとしても、遣唐使を通して文物のお手本にしてきた唐が使っていた年号について無知だったとは考えられない。「貞慧伝」の記事を下敷きにしたための疎漏だろう。

 さらに「貞慧伝」と同様に、679年にはすでに存在しない国「百済の使者に従って帰国した」と百済を持ち出している。

 次に掲載する続きの文中に出てくる年次についても、先に説明しておこう。

 鎌足の死去年を干支・己巳(きし)で書き表している。前回の対応表でも分かる通り、この年は669年であり、『日本書紀』の記録と一致する。

 もう一つは貞慧の死亡年で、和銅7年となっている。この年は西暦では714年に当たる。

 ここで『日本書紀』・「貞慧伝」・「多武峰定恵」の示す年次の対応表を作ってみる。(「貞慧伝」は白鳳で示された年次の方を取る。)

  『書紀』 「貞慧伝」 「多武峰定恵」
――――――――――――――――――
渡唐 653   665    653
帰国 665   676    679
死亡 ?    676    714


 上の表で分かる通り、「多武峰定恵」は帰国後35年間も生きている。「多武峰定恵」の続きの文章にはその間の定恵の帰国後の事績が書かれている。(文末の訳者による注も掲載しておく。)

 定恵が唐国に留学していた間に、父の大織冠が、すでに亡くなっていたので、定恵は、弟の大臣・藤原不比等に尋ねて言った。
「父君のお墓はどこでしょうか」。
「摂津の国の阿威山です」
と答えると、定恵が言った。
「昔、父君が密かにわたしに語られたことがありました。『大和の国の談峰(とうのみね)〈今は多武峰と言う〉は、甚だ霊妙な地であり、唐国の五台山(注①)に勝るとも劣らない。わしが、もしも彼の地に墓を築いたならば、子孫はますます繁栄するだろう』。わたしが五台山にいたとき、夢の中で、わたしが談峰におり、そのわたしに向かって、父君が言われました。『わしは、すでに天上に生を受けている。お前が、この地に寺塔を建立し、仏乗(ぶつじよう 注②)を修行するならば、わしもこの地に降って、子孫を擁護しよう』。それは、ちょうど己巳(つちのとみ)の歳(669)の十月十六日の夜二更(こう 注③)ばかりのときでした」。
 大臣は、その話を聞き終わると、涙を流しながら言った。
「父君の亡くなられたのは、まさしくその年月日でした。老師の夢は、正夢だったのです」。
 定恵は、門弟たちを連れて阿威山にのぼり、遺骸を取り出して、それを談峰に改葬した。そして、その上に十三層の塔を建てたが、その材料は、定恵が唐国に滞在していた時に、すべて調達したものであった。帰国するときに、材料を船に積み込んだが、その船が狭いために、どうしても一層分の材料が載らなかった。

 その塔は、清涼山(五台山 注①)の宝池院の塔を模造したものであったが、出来あがってみると、やはり十二層しかない。定恵は、一層分の材料を唐国に残してきたために、建造物の様式が不完全なものになってしまったことを残念に思っていた。

 ある晩のこと、雷電(かみなり)が鳴りわたり、風雨が山を震動させたが、明け方には、空はすっかり晴れあがった。見ると、残してきた一層分の材料が、そっくりそのまま飛来しており、余分なものも、欠如したものも、何一つなかった。これには、大臣も土民も、感嘆しない者はなかった。大臣は、さらに文殊師利(もんじゅしり)菩薩像を刻ませて、塔中に安置した。

 定恵は、和銅七年(714)に遷化した。




 山西省の五台県の東北にある。清涼山・紫府山ともいう。

 一切の衆生が悉く成仏すべき道を説いた教法。一仏乗とも。

 時刻の呼び名。「更」の第二。日没から日の出までを五等分した二番目の、およそ二時間あまりをいう。


 不比等とのやり取りや霊異譚を除いて、定恵の業績だけをとり出せば、次の2点である。
(1)鎌足の遺骸を阿威山から談峰に改葬した。
(2)鎌足の墓の上に十三層の塔を建立した。

 唐突ですがこの続きは次回にまわして、ここでちょっと戻ります。たった今、定恵についての資料をもう少し欲しいなと思って、ネット検索していて、柏木ゆげひ」という学生さんが制作しているHP 「世の中に昔語りのなかりせば」 に出会った。そのHPの「定恵誕生」というページに定恵についてのいろいろな文献が掲載されている。「多武峰定恵」の定恵の出自譚と同じような話が「大鏡」もあったんですね。孫引きさせていただきます。

 この鎌足の大臣を、この天智天皇いとかしこくときめかし思して、わが女御一人をこの大臣に譲らしめたまひつ。その女御ただにもあらず、孕みたまひにければ、帝の思し召しのたまひけるやう、この女御の孕める子、男ならば臣が子とせむ、女ならば朕が子にせむと思して、かの大臣に仰せられけるやう、「男ならば大臣の子せよ。女ならばわが子にせむ」と契らしめたまへりけるに、この御子、男にて生まれたまへりければ、内大臣の子としたまふ。…(中略)…天智天皇の御子の孕まれたまへりし、右大臣までなりたまひて、藤原不比等の大臣とておはしけり。
(『大鏡』藤原氏物語)

 新庄さんはこの記事を下敷きにして論じていたのだろう。ただし、この記事では母親の名は不明で、そのときの子は不比等としている。私は定恵のことを調べているうちに、鏡皇子と志貴皇子の間の子は不比等ではないかという考えになってきていた。次回はそこまで言ってみる予定です。

 柏木さんが挙げている他の資料も転載しておこう。「多武峰定恵」はこれらを下敷きに書かれたものと思われる。

 定恵。多武峯本願。大和尚。十一歳入唐。俗名真人。母不比等に同じ。
(『尊卑分脈』 ※ちなみに不比等の箇所に「母車持国子君之女 与志古娘」とある)

 和尚(=定恵)、大織冠内大臣一男。母・車持国子の娘、車持夫人なり。件の夫人、元是れ孝徳天皇の寵妃なり。天皇深く大臣の聖智賢意を知り、妃を賜ひて夫人と為す。時に夫人、孕むこと已に六箇月。詔して曰ふ、『生まれる子、若し男ならば臣の子と為せ。若し女なれば朕の子と為す』と。堅く守りて四箇月を送る。生まれし子男なり。故に大臣の子と為す。
(『多武峯略記』第十一住侶、所引『旧記』)

 定恵和尚は中臣連の一男、実、天萬豊日天皇(孝徳)の皇子也。
(『多武峯縁起』)

 ちなみに、これらの資料から柏木さんが提出している仮説を紹介しておこう。

 時代的にいうと、不比等皇胤説を載せる『大鏡』は平安時代後期成立、定恵皇胤説を載せる『多武峯略記』は鎌倉時代成立ですから、定恵皇胤説は不比等皇胤説の影響を受けて(というか、ダイレクトに言えばパクって)成立したものと考えるのが良さそうです。
 ちなみに不比等皇胤説の方も間違いっぽいです(笑) 上に引用した文章の載っている辺りの『大鏡』の文章には間違いが多過ぎますから(例・大友皇子が即位して天武天皇になったとか) 『大鏡』は史実的要素が多いのでいろいろと参考にできるものではありますが、部分的には全く信用がおけないようです(もっとも『日本書紀』だって、何だって同じことは言えますが)

 いろいろ話が飛んでしまいましたが、私は上に書いたようなことから定恵皇胤説を除き、『日本書紀』『藤氏家伝』『尊卑分脈』などから、定恵(と同母弟の不比等)の父は中臣鎌足、母は車持君与志古娘ということにしたい、と思います。

 九州王朝の存在という視点や史料としての『万葉集』を付け加えれば、どういう仮説がもっとも妥当なものとなるだろうか。それが私の目下の課題だった。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(51)

「天智紀」(39)


鎌足と鏡王女(19):悲劇の王女(4)


 『日本書紀』での定恵に関する記事は二つだけである。初出は653(白雉4)5月12日条で、遣唐使(吉士長丹 きしのながに)に随行した学問僧13人の内の一人として記録されている。

大唐に発遣(つかは)す大使小山上吉士長丹、副使小乙上吉士駒〈駒、更の名は絲〉、学問僧道厳、……、定恵〈定恵は内大臣の長子なり。〉、……并て一百二十一人、倶に一船に乗る。

 次は653(白雉5)年の遣唐使(高向史玄理 たかむくのふびとげんり)記事で、分注に唐に渡った学問僧たちの消息が書かれているが、その中に出てくる。

……〈伊吉博得(いきのはかとこ)が言はく、学問僧惠妙、唐にして死せぬ。知聡、海にして死せぬ。智國海にして死せぬ。智宗、庚寅(かのえとら)の年を以て、新羅の船に付きて帰る。覚勝、唐にして死せぬ。義通、海にして死せぬ。定惠、乙丑(きのとのうし)の年を以て、劉徳高等が船に付きて歸る。……〉

 この記事によると、無事に帰国できた学問僧はまれだということになる。学問僧も命がけの渡航だったようだ。定恵は幸運にも「劉徳高等が船」で帰ってきたという。「乙丑の年」とは天智4年だと頭注にある。すると「劉徳高等が船」とは665(天智4)年条の2度目の唐占領軍の軍船ということになる。この時の記事を再録する。

 唐國、朝散大夫沂(き)州司馬上柱國劉徳高等を遣す。〈等といふは、右戎衛郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰を謂ふ。〉凡て254人。7月 28日に、對馬に至る。9月20日に、筑紫に至る。22日に、表函を進る。

 この船に定恵が便乗していたなどという事は書かれていない。ともあれ、『日本書紀』の中の定恵記事はこれだけである。これだけの記事では定恵について何事かを語ることは出来ない。新庄さんは定恵の生涯については『藤氏家伝』によっていると思われる。。

 『籐氏家伝』の「上」は一般に「大織冠伝」つまり「鎌足伝」と呼ばれているが、「鎌足伝」の後に「貞慧(=定恵)伝」が続く。それを転載する。

貞慧伝

 貞慧、性聡明にして学を好めり。大臣異(あやし)びて以為(おも)へらく、「堅き鉄有りと雖も、鍛治するに非ずは、何ぞ干将(かんしょう)の利を得む。勁き箭(や)有りと雖も、羽括(うかつ)するに非ずは、詎(なん)ぞ会稽の美と成らむ」とおもへり。仍(より)て膝下の恩を割きて、遥かに席上の珍を求めしめき。

 故(かれ)、白鳳五年歳次甲寅(かういん)を以(もち)て、聘唐(へいとう)使に随ひて長安に到り、懐徳坊の慧日道場に住ひき。神泰法師を和上(わじょう)と作(な)すに依れり。則ち唐主の永徽(えいくゐ)四年に、時に年十有一歳なり。

 始めて聖の道を鑽(うか)ちて、日夜怠らず、師に従ひて遊学すること、十有余年。既に内経に通し、また外典を解せり。文章は観るべく、藁隷(かうれい)は法(のりと)るべし。

 白鳳十六年歳次乙丑(いちちう)秋九月を以て、百斉より経て京師に来りぬ。其の百斉に在りし日に、詩一韻を誦みき。其の辞に曰はく、「帝郷は千里隔り、辺城は四望秋なり」といふ。此の句警絶にして、当時の才人も未を続ぐこと得ざりき。百斉の士人、窃かに其の能を妬みて毒すれば、其の年の十二月廿三日を以て、大原の第(てい)に終りぬ。春秋(とし)廿三なり。道俗涕を揮(のご)ひ、朝野心を傷めり。

高麗の僧・道賢による長い誄(しのひこと)が続くが、略す。

 ここでは帰国後すぐに、定恵(本文では一応「貞慧」ではなく「定恵」を使っていく。)の才能を妬んだ百済人に毒殺されたとなっている。すごく不自然な記事である。ここから新庄さんは、九州王朝の血を引く不都合な子・定恵はこっそりと抹殺されたという説を掲出したわけだ。

 さらに、ここで注目されるのは白鳳という九州年号である。現在教科書などでは7世記頃の文化を「白鳳文化」と呼んでいるが、『日本書紀』が盗用した九州年号は白雉・朱鳥・大化だけであり、白鳳はない。(ただし、これは盗用ではないが、『続日本紀』の神亀元年(724)10月条に「白鳳以来・朱雀以前、年代玄遠なり」という記事がある。当然と言えば当然なことながら、ヤマト朝廷では白鳳・朱雀という九州年号の存在を知っていた。)「貞慧伝」の筆者は恵美押勝(藤原仲麻呂)と言われているが、藤原家では、こっそりと(あるいは公然とか)九州年号が使われていたことになる。

 さて、その白鳳は661年~683年の23年間である。従って定恵が唐に渡ったのは665年ということになる。『日本書紀』の記録の653(白雉5)年とは12年も差がある。ただし、唐の年号「永徽(えいき)」が書き添えてあるが、永徽は650年~655年の6年間であり、永徽4年は653年であり、こちらは『日本書紀』の記録と一致する。一体どうなってんの?

 金石文などの記録から、白鳳元年の干支は「辛酉(しんゆう)」であることが知られている。あの「辛酉革命」の辛酉。つまり天智称制が始まった年と一致する。関連する年代の「干支 西暦 九州年号 ヤマト王権年」の対応表は次のようになる。


癸丑 653 白雉2 「孝徳紀」の
           白雉4
甲寅 654 白雉3 「孝徳紀」の
           白雉5
乙卯 655 白雉4 斉明元
丙辰 656 
丁巳 657 
戊午 659 
己未 659 
庚申 660 白雉9 斉明6
辛酉 661 白鳳元 斉明7
         (天智称制)
壬戌 662 白鳳2 天智元
癸亥 663 
甲子 664 
乙丑 665 白鳳5 天智4
丙寅 666
丁卯 667
戊辰 668 白鳳8 天智即位
己巳 669
庚午 670
辛未 671 白鳳11 天智10
壬申 672 白鳳12 天武元
癸酉 673
甲戌 674
乙亥 675
丙子 676 白鳳16 天武5


 「貞慧伝」の干支はおかしいのだ。「白鳳五年歳次甲寅」・「白鳳十六年歳次乙丑」となっている。上の表によると甲寅は654年(白雉3 「孝徳紀」白雉5)であり、乙丑は665年(白鳳5 天智4)である。干支の方が正しいとすると、『日本書紀』の記録と比べて、後者は一致している。前者が1年ずれているがのは計算間違いか。わざわざ付け足している中国年号永徽4年(653)の方は『日本書紀』の記録と一致している。

 「大織冠伝」の内容は極力『日本書紀』に合わせるように書かれている。「貞慧伝」も『日本書紀』に合わせるように書いたものと思われる。そうすると、『日本書紀』にある記事は渡唐と帰国の記事だけだから、その2項について合致させることになる。干支の年次で『日本書紀』に合わせ、九州年号の白鳳を用いて本当の年次をひそませたのではないだろうか。

 もしそうだとするならば、定恵は665(白鳳5 天智4)年に「劉徳高等が船」で渡唐したのではなく、人質としてはどうかは分からないが、劉徳高等の帰国を送る使者たちと共に渡唐したことになる。665(天智4)年、唐の第2回占領軍帰国記事の後に、次のような記事がある。

665(天智4)
 是の歳、小錦守君大石等を大唐に遣すと、云々。〈等といふは、小山坂合部連石積・大小乙吉士岐弥・吉士針間を謂ふ。蓋し唐の使人を送るか。〉


 他の遣唐使記事と比べて、実に曖昧な変な記事だが、一応遣唐使の一つとして扱われているようだ。

 676(白鳳16 天武5)年の帰国については「百斉より経て京師に来りぬ」とだけで、何をつてにして帰ってきたのか書かれていないが、掲載を省略した高麗の僧・道賢による「誄」では次のように書かれている。

また、廓武宗・劉徳高らに詔して、旦夕(あしたゆふへ)に撫養(ぶやう)し、倭朝(わてう)に送り奉る。仍(より)て海路(うみち)を逕(へ)て、旧(ふる)き京(みやこ)に至(いた)りぬ。聖上(せいしやう)命(みこと)を錫(たま)ひて、幸(さきはひ)に舎(いへ)に就(つ)くことを蒙(かがふ)りぬ。居(を)ること幾何(いくばく)もあらずして、疾(やまひ)に寝(ふ)し微(わたおほつかな)し。咨嗟(ああ)、奈何(いか)にかせむ。維(こ)れ白鳳十六年(はくほうじふろくねん)歳次乙丑十二月廿三日に、春秋若干(としそこばく)にして、大原の殿の下に卒しぬ。鳴呼哀しきかも。

 唐の天子が郭務悰らに命じて、ねんごろに帰国させたと言っている。一介の学問僧の帰国について、天子が詔するとは異例だ。このようなところから「定恵、人質」説が生まれてくるのだろう。もしも定恵が天智朝からの人質だったとすると、壬申の乱を勝利した天武政権が安定した頃(天武5年)の帰国は納得がいく。天武朝は郭務悰の後ろ盾を得て成った政権だから、もはや人質は不要だろう。天武5年には遣唐使も唐からの使者もないが、新羅との外交で頻繁に使者を交換している。その船に同乗したものと考えられる。「貞慧伝」には「百斉より経て」と書かれているが、その頃は百済はすでに滅亡していてない。新羅経由での帰国と考えてよいだろう。

 なお、「誄」では定恵の死因は毒殺ではなく、「病」となっていることが注意を引く。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(50)

「天智紀」(38)


鎌足と鏡王女(18):悲劇の王女(3)


 前回、天智の「不思議な約束」の典拠を「もし何か知っている方がいましたら、教えていただけませんか」と書いた。念ずれば通ずるとでも言いましょうか、今朝(7月11日)ネット逍遥をして、『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』という、私には未知の書物のあることを知った。どうやらその書物が天智の「不思議な約束」の出所のようだ。そして、いつも利用している図書館を検索したら、ありました。さっそく図書館へ飛んで行きました。

 3冊ヒットしたうちの1冊は「大乗仏典:中国・日本篇25巻」は「序文」だけだったのでパス。次の1冊『国史大系31巻』は原文(漢文)だけで私の手に負えない。幸い3冊目は抄訳だけど現代語訳だった。目的の項目も入っていた。さっそく借りてきた。

虎関師錬著・今浜通訳『元亨釈書』
 (教育社新書・原本現代訳〈63〉)


 私と同様、『元亨釈書』は初めてという方が多いと思うのでその紹介をしておこう。今浜氏の「はじめに」から引用する。

 『元亨釈書』三十巻は、鎌倉時代後期の禅僧(臨済宗)・虎関師錬(こかんしれん)の作品であり、日本で最初の仏教通史である。それは、遠く欽明(きんめい)天皇の時代(六世紀の中頃)から後醍醐(ごだいご)天皇の時代(十四世紀の初め)まで、およそ七百年にわたる日本仏教の通史なのである。

 この作品の成立事情について、興味深いエピソードがある。一つだけ紹介しよう。

 徳治二年(1307)、作者が鎌倉に下り、元の国から来朝した一山(いつさん)国師に師事して修業していたころ、老師から、本朝の高僧の事跡について質問されたことがあった。ところが、作者は満足に答えることができなかった。すると、国師は、
「公の博弁(はくべん)、異域(インド・中国)の事に捗(わた)るは章々(しょうしよう)として悦ぶ可きも、本邦の事に至りて頗(すこぶ)る酬対(しゅうたい)(応答)に苦しむ。何ぞや」
と言ったという。そして、その言葉に発奮した作者が、その後、国史や雑記を博覧して、元亨二年(1322)に完成したのが、この書物だというのである。

 この一つのエピソードが、『元亨釈書』の成立・内容についてほとんど説明しているように思う。

 作者の虎関師錬は、いわゆる五山文学の先駆的な存在であり、一山国師の言葉にも「異域の事に捗る」とあったように、仏教だけではなく、儒教・道家にも精通していた。その彼が持っている博識を縦横に使い、文字通り心血を注いで書きあげたのが、この作品なのである。

 いうまでもなく、作者は、歴史や文学にも造詣が深かった。例えば、『元亨釈書』の構成は、中国の歴史書『春秋』や『史記』などにきちんと則(のっと)っている。また、彼は『済北集』以下の詩文集も遺している。

 こうした作者の歴史や文学に対する造詣の深さが、『元亨釈書』にも色濃く反映して、この書物をより面白い、読んでいて楽しいものにしたように思う。特に各僧侶の伝記には数多くの説話が引用され、読者は思わず顔をほころばせずにはいられないだろう。そこには、これまで読者が名前しか知らなかった名僧、あるいは名前さえも知らなかった高徳が登場し、それぞれに活躍し、それぞれにエピソードをふりまく。

 これまで、仏教説話の宝庫とまでいわれた、これほど面白い作品が、一般にはあまり知られず、また、この作品自体の文学的研究もほとんど進んでいない。その大きな理由の一つに、この作品が漢文体で書かれていることが挙げられよう。その外見からくる〝難解さ″を取り除くこと、それが人々をして、『元亨釈書』に近付けさせる方法ではないか、と訳者は常々考えていた。

 どんな財宝でも、それがいかに尊貴なものであっても、それを宝として認めるのは人である。訳者は、『元亨釈書』を「宝」として認め、この書物の価値を認めてくれる人が、もっと多くでてきてほしいと思っている。あの世の原作者も生前はこの作品が天下に流伝されることを、あれほど望んでいたではないか。

 「『現代訳元亨釈書』は僧侶の伝記部分を抄訳している。その巻八に「多武峰(とうのみね)定恵」という項がある。それは次のように始まる。

 釈定恵(じょうえ)は、大織冠(たいしょくかん)(藤原鎌足の尊称)の長男である。

 はじめ、孝徳天皇に一人の妃がいたが、みごもってから六か月たったころ、大織冠が彼女をとても寵遇(ちょうぐう)していたので、天皇は、その妃を賜り、彼の夫人にした。そして、彼に約束して言った。「生まれてくる子が、もしも男であったならば、君の子としよう。女であったならば、わしの子としよう」。その後、定恵が生まれたので、出自は藤原鎌足の子ということになった。

 これは明らかに 「天智の履歴の謎」 で取り上げた「皇極紀」の644(皇極3)年正月1日条の記事が下敷きになっている。しかし孝徳はまだ王位を継いではいない。軽皇子として登場している。該当部分だけ再録する。

 このころ軽皇子も脚の病で参朝できなかった。中臣鎌子はかねてから軽皇子と親しかった。それでその宮に参上して侍宿をしようとした。軽皇子は鎌子の心映えが高潔で、容姿に犯しがたい気品のあることを知って、もと寵妃の阿倍氏の女に命じて、別殿をはらい清めさせ、新しい寝具を用意させて、万事こまごまとお世話なさった。

 軽皇子が鎌子におべっかを使って寵妃を差し出した説話に色を付けて、そのとき寵妃は妊っていたという話に仕立て上げている。この話が真実とすれば、定恵は孝徳の子ということになる。新庄さんは、定恵は鏡王女の子であるという結論が先にあるので、この説話の孝徳を天智に置き換えて解釈したものと思われる。(あるいは天智と鎌足を主人公とした同じような説話があるのだろうか。)

 ところで、虎関和尚は「多武峰定恵」の説話をどこから探し出してきたのだろうか。ここでも出典が明らかにされていないが、まさか和尚の創作ということはないだろう。「多武峰定恵」の続きを読むと(次回か次々回に掲載します。)、多武峰の談山(たんざん)神社の神社縁起ではないかと思われる。

 では、神社縁起や寺伝はどの程度史料として使えるだろうか。『日本書紀』と同様、そのまま信じることは出来ない。箔付けのために権力者と結びつけたり、誇張したりすることがままあるだろう。このことに関連してつい先日(7月10日)、東京新聞夕刊で面白い話に出会った。「歩いて楽しむ京都の歴史」という連載コラム(筆者は同志社女子大教授の山田邦和氏)に京都の古社・藤森神社の縁起が紹介されていた。次のようである。

 京都南郊の古社である藤森(ふじのもり)神社(伏見区深草鳥居崎町)は、神功(じんぐう)皇后、「日本書紀」の編者である舎人(とねり)親王、光仁天皇皇子の早良(さわら)親王などの多数の神を祀(まつ)って いる。近世の地誌に記されたこの神社の縁起によると、

早良親王は英邁(えいまい)さを見込まれ、兄の山部(やまべ)親王を退けて皇太子となった。その時、蒙古が攻めてきたので、光仁天皇は親王を大将軍に任じて征伐にあたらせた。親王は出陣にあたって当社に戦勝祈願をおこなったので、神風が吹いて蒙古軍を退けることができた。ただ、親王はその後早世してしまったため、兄が替わって即位して桓武天皇となった。

 しかし、早良親王は光仁天皇ではなく桓武天皇の皇太子であり、桓武天皇より先に立太子したはずはない。蒙古襲来(元寇)は鎌倉時代の事件であるのに、ここではいつの間にか奈良時代にすり替わり、早良親王がヒーローとなっている。

 史実としては、親王は桓武天皇の寵臣藤原種継暗殺事件に連座して死に追いやられるという非業の最期を遂げている。つまりこの伝承はまったく歴史的事実とは異なっているのである。

 藤森神社の境内には蒙古兵の首を埋めたという蒙古塚まで残されており、こうした伝承が広く信じられていたことは確かである。早良親王を主人公として華々しく活躍させる藤森神社の縁起は、悲運の皇子に対して人々が捧げた鎮魂歌(レクイエム)だったのかもしれない。

 この例ぐらいにはっきりとデタラメぶりが発揮されていれば、これを史料としてまじめに取り扱う人はまずいないだろう。しかし作為が巧みである場合は、その中から真実だけを腑分けするのは容易ではない。矛盾した言い方になるが、慎重でかつ大胆に取り扱うことが肝要だ。

 では「多武峰定恵」は史料として使えるだろうか。結論を急ぐまい。『日本書紀』・『藤氏家伝』・『元亨釈書』を全体見通した上で判断しよう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(49)

「天智紀」(37)


鎌足と鏡王女(17):悲劇の王女(2)


 前回引用した古田さんの講演録は次のように続く。

 私が考えましたように(妙心寺の鐘が)天皇家から奉納されたのであれば、絶対に観光案内であれ、教科書であれ、書くわけですよ。ところが何も書いてない。ということは天皇から奉納されたのなら、他のことはさておいて、これだけは、寺としては忘れてもらっては困る、と特筆してP・Rするはずなのです。それが一切無いということは、天皇家からの奉納はもちろん、あんまり表だってPRする程の"手に入れ方"ではないのだということを逆に意味していたんですね。この当然の道理を私の独断的な頭の為に見逃していたわけです。

 以上のことを敷衍して、古田さんは釈迦三尊像について言及している。

 ということを考えてみますと、これは妙心寺だけの問題ではないのではないでしょうか。

 例えば法隆寺の仏像が橘寺から来たということなら、別に隠すことはないですね。何も恥しい事とちがいますね。「~天皇からの下賜か奉納」でも、絶対書くわけです。法隆寺再建後に何処かから来た仏像としか思えないのに、全然書いてないでしょう。観光案内にも美術史にも、一切書いてないでしょう。高校の教科書等には「釈迦三尊像」が出てきます。でも「~天皇奉納」とか「橘寺から来た」とか一切書いてありません。

 ということは、「釈迦三尊像」の入ってきかたが誇らしいものなら、「こういう所から、こういう特殊な方が、こういう意志をもって法隆寺に献納された。」と第一番のP・R事項にするはずなのです。それが一切無いということは、あまり自慢できる入り方ではなかった。門前を大八車で通ったのを買ったか、九州に行って買ってきたのか知りませんけれど、あまりP・Rすべきものではなかった、だから伝わっていない。或いはP・Rしない筋合いのものだったのです。

 これと直接ではないですが、関連するような意味あいの記事がございます。『日本書紀』の持統天皇六年のところです。持統天皇が筑紫の太宰府に対して詔勅をだしているのです。

"お前のところに阿弥陀像がある、中国の人(唐の使者郭務悰)が来た時に造ったものだが、天智天皇の冥福を祈る為に造ったものであるから、こちらに差し出すように。"

という詔勅が出されたと書いてあるのです。

 筑紫太宰府に天皇家が欲しがるような立派な仏像があったのですね。何処のお寺かは知りませんがね。ところがその仏像が天智天皇の冥福を祈ることを本旨とするもので本当にあるならば、言われなくても大和もしくは近江に送るわけですよ。送らずに自分で持っているのを、寄こせ、と言ってるわけです。そして"寄こせ。"という理由が、「天智天皇云々」です。

 仏像を造っている時に、天智天皇が亡くなって天智天皇の冥福を祈ってこの仏像を造りましたと言う、ということも有りうることです。ところがそれを理由に"寄こせ"となっているわけです。本来は筑紫の太宰府に置く為に造った仏像であるようです。唐の使者が作り、天皇家が欲しがる仏像なのです。天皇家はそれが欲しいのです。天智天皇の冥福を祈ったのだから寄こせと、無理難題と言うとおかしいですが、"こじつけ"を言っているわけです。ひどい言い方ですが、実態はそう違わないのではないかと思います。そう思わないと、私には理解できないのです。筑紫近辺にあった貴重な仏像が、近畿に持ち去られた証拠が歴然とここにもあるわけです。これは状況証拠です。

 新庄さんによると釈迦三尊像を欲しがったは鏡王女であった。釈迦三尊像によせる鏡王女の強い思いに、新庄さんは鎌足の長子と言われている定恵(じょうえ 『藤氏家伝』では「貞慧」と表記している)の悲劇を重ねて、心を寄せようとしている。

 鏡、額田二人の王女は妃はおろか、夫人の数にさえ記録されていない存在であったといいます。倭国宮廷において鳴り響いていた才女を、戦利品として得たのではないか。これは戦勝国の得た玩具であると私は見ています。その時鎌足が両国の間で何か力を至したのではなかろうか。後の天智と鎌足の後宮でのやりとりを見る時、そのような気がするのです。

(中略)

 とまれ、大和へ送られて来た二人を天智は早速鏡王女を、天武は額田王女を采女として後宮に入れたのです。鏡の方が有名だったのでしょうか。鎌足は倭国宮廷の頃からその才色を知っていたのです。王女は官人達の垂涎の的でした。

 天智は待望の美女鏡王女を得ましたが、間もなく不要の玩具でも捨てるように鎌足に与えるのです。孕女だよとことわりながら。生まれてくる児が男児であればお前に遣ろう、女児なれば自分が育てると、不思議な約束をするのです。天智にとって男児は数少ない一人ではありませんか。しかし何はあれ鎌足は喜びました。大喜びです「……得かてにすとふ安見児得たり」と。天智は知っていたのです。生まれて来る児の父親を。

 志貴皇子から引き離されて大和に拉致された鏡王女が志貴皇子の子をみごもっていたと言っている。その子が定恵だという設定である。

 定恵が鏡王女の子であることや天智の「不思議な約束」のエピソードを、新庄さんはどこから得たのだろうか。なにか確かな典拠があるのだろうか。あるいは新庄さんの想像にすぎないのだろうか。このエピソードは小説の設定としては面白いが、その確かな典拠が示されなければ、歴史の真相を知ることを目的としている立ち位置からはにわかに信じるわけにはいかない。(もし何か知っている方がいましたら、教えていただけませんか。)

 ともあれ、新庄さんの叙述を追っていこう。

 そして、鏡王女は京都山科の鎌足の私宅に入りました。鏡王女を正妻と言う学者がありますが、私宅は本宅ではなく女性は正妻ではないはずです。ここは妾宅です。第一、山科から大津までは汽車で今でこそ一駅ですがそれはトンネルを使ってのことで、大昔牛車での毎日の山越え、逢阪山の登り下りの宮廷への出仕等とても無理というものです。鎌足の本宅は大津宮殿の近くにあったはずです。

 鏡王女はここで月満ちて男児を生みました、定恵です。幼名は真人といった由。真人は倭国王朝の臣位の名です。

 定恵……。やつと九歳(満七歳)になったとき、幼い児を鎌足は僧籍に入れて仏門に預けてしまうのです。この児の生きる道を考えてのことでしょうか、それとも目障りであったのでしょうか、理解に苦しみます。

 それから二年後、十一歳(満九歳)の時、唐の劉仁願や格務悰が大和を訪れた時、その帰りの船に乗せて人質として唐の国へ送り出すのです。

 仏教勉学のために唐へ行ったという学者があります。まだ母の膝恋しい九歳の児が言葉も適わぬ遠い国へ仏教の勉強に行きたいなどとふざけたことをいいましょうか。大昔も今も九つは九つ、人間の成長にさほどの変わりはないはずです。

 それから十二年、やつと許されて帰国したのです。二十一歳の立派な青年になっていました。帰国の船が百済の港に寄った時、望郷の思い止み難く、詩文を作りました。

  帝郷千里隔 四域四望秋

 骨も凍る詩文と人はいいます。送って来た唐の官人もこの寂蓼の重さに詩文の後が継げなかつたということです。そしてやっと彼は故国の土を踏みました。この時鎌足はこの世にいなかつたという説もありますが、もし生きていれば何故、もう少し安全を考えてやれなかったのかと腑におちません。

 ともあれ定恵はやっと苦労の末に帰ってきたのです。彼は母親譲りの秀麗な面ざしと気品、生まれながらの優れた素質に仏教的修練の輝きを添えて、誰の目からもただの僧侶として一生を送る人物とは見えなかったといいます。彼の不幸せは生まれながらに、与り知らぬところに根ざしていたのです。そして彼は帰国後僅か二カ月の朝夕を故国の地で生きたきり、何者かの手により暗殺されたのでした。

 「倭国王朝の種」が大和において人も仰ぐばかりになったとき、一番脅威を感じておののく者達が、彼を早ばやと抹殺したことと私は見ています。この時の母、鏡王女のことを語る書物を知りません。しかしこの世において彼の無事を日夜祈り、帰国する日を鶴首していたのはこの母一人ではなかったでしょうか。誰がこの子の存在を疎むとも、彼女にとっては総てを諦めた一生のたった一つの宝物ではなかったか。十二年は長く、やっと帰って来て、もっともっと側で語らいたかったのはこの母のみではなかったかと私は思うのです。この世でたった一度、心より愛した人の忘れ形見であったのに。僅か二ヵ月で死別。

 九州に在った代行天皇「あなたと共に大和へ行きたい」と別れを惜しんでくれた志貴皇子は、吾が子定恵の死を知ることはあったのでしょうか。定恵の死を痛く偲ぶ時、あの仏像釈迦三尊に縋るより他なかった彼女の上を思えば、働哭の涙のおもわずも溢れるのを覚えるのです。

 山科寺と言われた鎌足の私宅において、あの大きな仏像だけが九州王朝の滅亡と鏡王女の総てを知る仏であり、この仏だけが温かい眼差しで彼女を包んでいたことを信じるものです。これまでの説のように定恵がもし孝徳や舒明の子息であったら、これ程幼い日から苛酷な目に会わなくとも生きられたのではないか、これらの子息なら大和には生きる場所があったはずです。

 鎌足は折角の寛げるはずの妾宅に才女を得て喜んだのも束の間、いわくいい難き大きな仏像をデンと据えられたその気詰りさは、なるほど再三の彼女の要求にも応じなかったはずであり、その経緯は不明ながら結果として大和王朝へ鞍替えしたことを思うとき、この仏像が妾宅にあることの、如何に彼にとって楔のごとき重圧的存在であったことか。にも拘らずこれを彼女のために許さざるを得なかったことは、鎌足の定恵に接した扱いの、そのうしろめたさに対するせめてもの贖罪ではなかったか。人間としてギリギリの譲歩であったと私には思えるのです。

 彼女の死後、不比等が大和の興福寺へこの仏像を引き取ったといいます。「日出る処の天子、日没する処の天子に書を至す、恙なきや」と、堂々たる国書を隋の天子に送ったという天子多利思北弧。九州王朝中興の祖とも称えられるこの方の像といわれるこの仏像は釈迦三尊とも言われて、今、法隆寺の本尊として祀られている仏様です。

 定恵が鏡王女の子であったことが真実ならば、何とも感動的で、さもありなんと思われる魅力的な仮説である。しかし残念ながら、残された文献(『日本書紀』・『藤氏家伝』)だけで検討するかぎり、「定恵=鏡王女の子」説には無理がある。もちろんこれは『日本書紀』または『藤氏家伝』の記述が真実を語っていると言うことが前提であり、それらが信用できないものであれば、新庄説の可能性も全く否定するわけにはいかない。次回は『日本書紀』・『藤氏家伝』の記録を検討してみよう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(48)

「天智紀」(36)


鎌足と鏡王女(16):悲劇の王女(1)


 天智から鎌足に下げ渡された鏡王女のその後について新庄さんが語っていることは大変興味深くはあるが、その裏付けがない。私がいま手元に持っていていつでも使える史料は『日本書紀』・『続日本紀』・『万葉集』・『風土記』・『藤氏家伝』だけだが、それらには全く出てこないことだらけなのだ。論証らしきことすら出来ないので、取り上げるのはよそうかと思った。しかし、問題提起という意味で、問題点だけでも書き留めておこうと思う。

 新庄さんは「鏡王女と藤原鎌足」を次のように書き始めている。

 今回、鏡王女のことを今までの説とは違う視点から書いて見たいと思うようになったのは、以前から家にあった『大和古寺巡礼』という小型の本を読み出したのが初めでした。

 その中の興福寺の所で、初めて聞く話に釘付けになったのです。若い頃から憧れにも似た思いで描いていた才色兼備の女性「額田」「鏡」の二王女。その一人の鏡王女が鎌足の妻となっていたこと、初耳でした。

 しかもその上、今、大和法隆寺の本尊とされているあの有名な仏像、釈迦三尊を持仏として京都山科の私宅へ持ち込んでいたということ、これは真に驚きでした。しかもそれは再三に渡り鎌足に懇願の末に彼女は持仏にしたということ。普通の家には入り切れぬ様な不似合いな仏像を何故、懇願してまで供養したいと願ったのでしょうか。

 あの仏像の前に額づく彼女の姿を想う時、しかも懇願してまでもということは、これは皆人のいう大和の女性ではないと直感したのです。それはかつて筑紫の宮廷において天皇に仕えていた高貴な女性であった、ということを動かし難いものと確信したことです。

 鏡王女は京都山科(やましな 「山階」とも表記される。)にある鎌足の別邸に居住していたことや、そこで釈迦三尊を持仏として供養していたという伝承は興福寺のホームページにも書かれている。また、図書館で見つけた『興福寺のすべて』(小学館)・金子啓明著『興福寺の仏たち』で、興福寺の由来についての記述を調べてみたが、大同小異で、興福寺が公開している見解を踏襲しているだけだった。それらの中から、一番詳しい『興福寺の仏たち』の記述を引用しよう。

 興福寺の起こりは、藤原鎌足が開いた山階寺にある。鎌足は大化改新のとき、中大兄皇子(のちの天智天皇)を助け、蘇我入鹿打倒に活躍した有名な人物であるが、その決起が成功することを祈って、皇極天皇4年(645)に釈迦三尊像と四天王をつくる願いを立てたという。

 その後、天智天皇8年(669)になって、妻の鏡女王の勧めもあり、山階(現在の京都市山科)に寺を建て、これらの像を祀った。これが山階寺である。その場所は長らくわからなかったが、最近の研究によると、JR山科駅の西南あたりと推定されている。

 山階の地は、当時天智天皇が都を置いた大津とも山をひとつ隔てただけで近く、のちには天智天皇もこの地域に葬られている。

 天智の死後、壬申の乱を経て都が飛鳥地方にもどると、山階寺は同地の厩坂(うまやさか)に移されたという。その場所は現在の久米寺(橿原市久米)のあたりとする案が有力であるが、はっきりとはわからない。

 和銅3年(710)、都が平城京に遷(うつ)されると、飛鳥地域にあった寺々が、あいついで新京に移転する。厩坂寺も平城京の外京(げきょう)に遷って、新たに興福寺となった。

 興福寺は先のような前史にちなんで、山階寺、厩坂寺の別名をもつことになる。

 新庄さんの記述と大きく異なっている点がある。上の説明では、釈迦三尊像は、鎌足が蘇我蝦夷・入鹿を謀殺の成功を祈って、発願したものとしている。ここでは「発願」したとあるが「造立」したと明記されていない。興福寺のHPでは「鎌足が蘇我氏打倒に際して発願し、その後に造立した」と説明している。もちろん、このような記録は『日本書紀』にも『藤氏家伝』にもない。皇極天皇4年(645)とか天智天皇8年(669)とか、釈迦三尊造立の発願と山科寺への安置の年がもっともらしく付けられているが、それぞれ蘇我親子謀殺の年と鎌足死去の年が付されたのすぎない。

 一方、新庄さんはその釈迦三尊像は法隆寺の本尊となっているものだったとしている。文脈から察すると、この説の出所は『大和古寺巡礼』ということになる。この本の著者が何を典拠にこの説を唱えているのか知る必要がある。新庄さんが文末にまとめている参考文献には次のように詳しく紹介されていた。

『大和古寺巡礼』現代教養文庫390 青山茂他著 社会思想社 昭和37年


 ここから、書かずもがなの苦労話をちょっとだけ。
 いつも利用している図書館のHPで検索してみたが、この本はなかった。困った。社会思想社は2002年に倒産している。当然現代教養文庫は絶版だ。新刊本を扱う書店では手に入らない。仕方がないので神田の古書店街に行った。私の探し方が下手なせいか、現代教養文庫には一冊もお目にかからなかった。帰ってきて、ふと思いついてネット検索をしてみた。何冊か出回っていた。「ふるほん文蔵」という書店さんに注文して手に入れました。

 苦労して手に入れたが、新庄さんが書かれたような「山科寺の釈迦三尊像=法隆寺の釈迦三尊像」説はどこにもなかった。しかし、流布されている説とは異なる点が一つあった。


 寺伝によれば、藤原鎌足は蘇我氏誅滅後、釈迦三尊などを造立して四天王寺に安置するつもりであったが、果たさぬうちに病死した。

 ここでは鎌足の釈迦三尊像は造られなかったことのなっている。新庄さんの「山科寺の釈迦三尊像=法隆寺の釈迦三尊像」説には確かな典拠はないようだが、ここから出てきた推測のようだ。しかし、鎌足が釈迦三尊像を造っていなかったとすれば、新庄説にも一理はある。(以下、「釈迦三尊像」は法隆寺の釈迦三尊像を指す。)

 釈迦三尊像が九州王朝の宝物であったことを古田さんが緻密に論証している。

「法隆寺の中の九州王朝」 を参照してください。)

 しかしそれがどういう経緯で法隆寺に持ち込まれたのかは不明である。新庄さんの文章の続きを読んでみよう。

 この仏像(釈迦三尊像)の光背銘文の金石文は古田武彦氏の証明された如く、法輿元と九州年号に始まって記されたもので、その中央におわす仏は多利思北弧の像といわれています。九州宮廷にとっては最も大切な仏像の一つであったことは間違いのないことでありましょう。多分それは宮廷にあった持仏ではなかったか。

 それが白村江敗戦後、怒涛のような混乱の嵐の中でその経緯は不明ながら、数限りもなく王朝の宝物が関西大和へと運ばれて来たことは間違いなく、これは華麗なる文明の、田舎への総疎開にも似たものではなかったかと想像するのです。

(中略)

 私は思い出したのです、京都妙心寺の梵鐘のことを。これは九州観世音寺のものと一対であったものでその片方であること、大八車で売りに来たのを寺が買ったということ、いかに九州の宝物が分散したかということを知る確かな一例です。

 興福寺は藤原氏の建てた氏寺であることを思うとき、鏡王女も藤原氏も九州宮廷とは深い関係にあったことを知るものです。

 「妙心寺の鐘」について補足しよう。(古田さんの講演録「法隆寺と九州王朝」から)

 妙心寺の鐘は『ここに古代王朝ありき』で古田さんが初めて取り上げた。その鐘には「糟屋評で造られた」と書かれている。糟屋評は博多の東にあった「評」である。このことから古田さんは
「この鐘は糟屋から天皇家に献上され、その天皇家から何時代かに妙心寺へと奉納されたのだろう。」
と、推測した。しかしこの推測が気になって、古田さんは妙心寺の鐘をもう一度くわしく見ようと、紹介状を持って妙心寺を訪ねた。帰りに住職と次のような会話をしている。

「あの鐘は何時天皇家から奉納されたのでしょう。」
「ああ、あれは買うたんじゃ。」
「えっ」
「大八車に乗せて、寺の門の前に引いてきたのを呼び止めて買うたんだ。買うた住職の名前も分っとる。買うた金も分っとる。安いもんじゃ。」

 この顛末を古田さんは次のように述懐されている。

 私は唖然としました。愕然としました。しかしこれは内部では何の隠れもないことだったんです。私はその時、物事は、知識は、足で確かめ確かめしなくてはいけない。類推でこうであろうと、自分の知ったかぶりの知識を基にして行動してはいけないと、本当に思い知らされました。

 下に記すように近畿王朝が九州王朝の宝物を組織的に買収(強奪?)した証拠(後述)がある。しかしまた、白村江の戦い敗戦直後には、混乱にまぎれて一般人の略奪もかなりあったことだろう。妙心寺の鐘はそのようなものの一つと思われる。

 『「倭の五王」とはだれか:真説編(3)』 でも取り上げたことあるが、正倉院文書の 「築後国正税帳」には大和王朝が筑後国からたくさんの宝物や職人を献上させた記録が残っている。それは他の国からの奉納品とは著しく異なる。

 銅釜工、轆轤工3人、鷹養人30人
 鷹狩り用の15匹
 白玉110個、紺玉71個、縹玉933個、緑玉72個、赤勾玉7個、丸玉4個、竹玉2個、勾縹玉1個。

 鷹狩りは天子の遊びだし、玉類は当時天子しか所有できない品々であった。このようなところにも九州王朝の存在したことが、はからずも表明されている。
鎌足と鏡王女(15):x皇子とは誰か(8)

 やっと終点にたどりついたようだ。最後に、直接志貴皇子に関わる事柄ではないが、「高圓離宮」のことを検討しておく。新庄さんが取り上げていた最後の5首である。

興に依りて各々高圓の離宮處(とつみやどころ)を思いて作る歌五首

高圓の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御代遠そけば(4506)
〈右の一首は、右中辨大伴宿禰家持のなり〉

高圓の尾の上の宮は荒れぬとも立たしし君の御名忘れめや(4507)
〈右の一首は、治部少輔大原今城真人のなり

高圓の野べはふ葛の末ついに千代に忘れむわが大君かも(4508)
〈右の一首は、主人中臣清麿朝臣のなり〉

はふ葛の絶えず偲はむ大君の見(め)しし野邊 には標(しめ)結ふべしも(4509) 〈右の一首は、右中辨大伴宿禰家持のなり〉

大君の繼ぎて見(め)すらし高圓の野邊見るごとに哭(ね)のみし泣かゆ(4510) 〈右の一首は、大蔵大輔甘南備伊香真人のなり〉


この5首についての新庄さんのコメントは次のようだった。

「朝廷の官人達はこの高円山へ集い天皇への哀惜と共に瓦解する国家への限りない惜別の涙を捧げたのでありましょう。その時の歌五首を掲げます。これは『万葉集』最後を飾り、締め括ったものでもありました。」

 ここでも新庄さんは思い込みは大きくずれていると思う。『万葉集』の編纂を主導したのは大伴家持と言われている。家持と同時代の歌の題詞はその通りに受け取ってよいのではないか。この5首は題詞の通り、酒宴の席で瓦解してしまった九州王朝のことが話題となり、「興に依りて各々高圓の離宮處を思いて」詠んだ歌だ。『万葉集』巻20末尾の目録は次の通りである。

二年春正月三日、王臣等の、詔旨に應(こた)へて各〻心緒(おもひ)を陳(の)ぶる歌二首

六日、内庭に仮(かり)に樹木を植ゑ林帷(かきしろ)と作(な)して肆賽きこしめす歌一首

二月、式部大輔中臣清麿朝臣の宅に宴する歌十首

興に依りて各〻高圓(たかまと)の離宮處(とつみやどころ)を思ひて作る歌五首

山齋(しま)を屬目(み)て作る歌三首

二月十日、内相の宅に渤海大使小野田守朝臣等に餞(うまのほなむけ)する宴(うたげ)の歌一首

七月五日、治部少輔大原今城眞人の宅に、因幡守大伴宿禰家持に餞する宴の歌一首

三年春正月一日、因幡國の廳にして、饗(あへ)を國郡の司等に賜ふ宴の歌一首


 「三年」とは天平宝字三年(759年)のことである。『万葉集』は759年で終わったことになる。くだんの5首は758年の2月(10日以前)の宴での作歌である。

 高圓離宮は聖武天皇が晩年に好んで利用した離宮であり、聖武を偲んで詠われた歌だというのが定説のようだが、歌の内容から言ってもこの説はおかしい。聖武が退位したのは749年で756年に亡くなっている。この宴はその2年後のことである。「高圓の野の上の宮は荒れ」たとか、「君の御代」は遠いとか、ちょっと大げさすぎないか。私には九州王朝を偲んだ歌だと思える。ただし、「君の御代」の「君」は志貴皇子ではないだろう。あくまでも九州王朝最後の天子を指している

 またこの離宮は施基皇子の別荘だとする説もある。この説はますますおかしい。だいたい皇子の別荘を離宮と名呼ばないだろう。離宮とはあくまでも天皇の「とつみや」であろう。

 また、施基皇子が亡くなったのは716年、50年ほどの前のこと。唯一生き残った天智の皇子というせいもあったか、生前はたいした活躍はしていない。この頃ではほとんど忘れられていたのではないか。息子(白壁王)が天皇(光仁)なった時に、天皇号を追尊されて再び人々の話題に上ったのは770年、この宴の12年後のことのことである。家持たちが歌に示されたような深い思いを込めて施基皇子を偲ぶ必然性はない。もし施基皇子の別荘が高円山にあったとすると、「高圓の野の上の宮は荒れ」たという詩句はしっくりするが、一介の皇子に対して「君の御代」という詩句はますます宙にういてしまう。

 歌の作者に目を移してみよう。その4人の作者の出自はともに九州王朝ゆかりの王族または貴族と思われる。

大伴家持
 大伴家持の父親は大伴旅人。旅人が九州王朝の貴族であったことはすでに論じた。 (「『万葉集』巻3 328番歌」)

大原今城真人
 『続日本紀』では「大原真人今城」と表記されている。519番の題詞に「大伴女郎歌一首〈今城王の母そ、今城王、後に大原真人の氏を賜ふ〉とある。大和王朝成立の頃、王が掃いて捨てるほどいる。「…王」(特に「無位…王」)は大方九州王朝時代の諸国王と考えられる。ちなみに「真人」は九州王朝では最上位の階位名であった。

中臣清麿朝臣
 頭注には中臣朝臣意美麿(『続日本紀』では「意美麻呂」と表記)の子とある。この宴の主人である。後に大中臣朝臣の姓を授かる。最後は右大臣にまで出世している。大和王朝成立の頃の「中臣」氏は九州王朝ゆかりの貴族と見てよいだろう。

甘南備伊香真人
 『続日本紀』での初出は「無位伊香王」である。後に甘南備真人の姓を授かる。

 九州王朝滅亡から半世紀ほど経っている。王族や貴族たちはこの頃よく酒宴を開いていたようだ。九州王朝ゆかりのもの同士での酒宴では、周囲を憚りながらも、九州王朝が話題にのぼったであろうことは想像に難くない。九州王朝の離宮が歌の題材にされたこの酒宴のことが天皇(孝謙)の耳に入ったとすれば、天皇は大変な不快感を覚えたことだろう。この酒宴が直接の原因かどうかは分からないが、この10日ほど後に次のような酒宴禁止令が下されている。ちょっと異常とも言える勅令である。

二月二十日 天皇は次のように勅した。

 時の必要に応じて制度を定めるのは、国を保持する昔からのきまりであり、時代を考えてそれに合った制法を立て行なうのは、昔の聖王の遺した大きな教えである。
 近頃、民間の宴会に集まるものは、ややもすると常軌を失い、あるいは同悪の者が集まり、みだりに聖者の政治をそしり、あるいは酔い乱れて節度をなくし、あげくに喧嘩沙汰に及ぶ。条理に立って考えると、はなはだ道理に背くことである。今後、皇族・貴族以下の者は、祭祀の場合と病気の治療をする時以外は飲酒してはならぬ。友人や同僚の者たち、遠近の親戚・知人らが暇のある日に、互いに訪問する時は、まず所属の宮司に申し出て、その後に集会を許すこととする。もし違反者があれば、五位以上の場合は、一年間封禄を停止し、六位以下の場合は、現職を解任する。これ以外の者は杖罪八十に処する。朕の願いは風俗を清らかにし、人がよく善をなし、知らぬ間に礼を身につけ、混乱を未然に防ぐことにある。


 そして家持は因幡国に左遷される。『万葉集』は家持の歌2首を掲載して終わっている。家持はここで筆を折ったのだろうか。ついでなので『万葉集』最後の2首も引用しておこう。

七月の五日、治部少輔大原今城真人の宅に、因幡守大伴宿禰家持に餞する宴の歌一首
秋風のすゑ吹き靡く萩の花ともに挿頭(かざ)さず相ひか別れむ
 〈右の一首は、大伴宿禰家持作れり。〉

三年春正月一日、因幡の國の廳にして、饗(あへ)を國郡の司等に賜ふ宴の歌一首
新(あらた)しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)
 〈右の一首は、守大伴宿禰家持作れり。〉


 家持は最後は中納言・従三位になっているが、「いや重け吉事」の願いは叶ったというべきだろうか。『続日本紀』は家持の死直後の事件を次のように伝えている。

 死後二十余日、家持の屍体がまだ埋葬されないうちに、大伴継人・大伴竹良(つくら)らが藤原種継を殺害、事が発覚して投獄されるという事件が起こった。これをとり調べると、事は家持らに及んでいた。そこで追って除名処分とし、息子の永主(ながぬし)らはいずれも流罪に処せられた。

 家持が継いだ由緒ある家系の大伴氏はここで絶えてしまったのだろうか。

 以上で「x皇子とは誰か」を終わります。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(46)

「天智紀」(34)


鎌足と鏡王女(14):x皇子とは誰か(7)


 「x皇子とは誰か」は三回ほどで終わるだろうと思って始めたが、次々と問題が広がって、思いがけず長くなってしまった。もう少しお付き合いください。前回、構想として頭の中にあったのに失念していたことがあった。それを補充することから始めよう。

 今問題にしている挽歌が施基皇子への挽歌であり、舞台が奈良であるとした場合、おかしなことがもう一つあった。二つの反歌の間の矛盾である。

 長歌によると、施基皇子を痛み悲しむ葬列は高円山に向かって進んでいる。高円山は平城京から南東方向に位置する(距離は3㎞ほどか)。下の地図では地図をはみ出した地点になるが、さらに同じ方向に同じぐらいの距離(約3㎞)を置いて春日宮天皇陵、つまり施基皇子の墓がある。春日大社と春日宮天皇陵のちょうど中間地点が高円山ということになる。ここを高円山の野邊というには遠すぎる。

(クリックすると大きくなります。)
奈良県地図

(地図の本「奈良大和路」より)

高圓の野邊の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに(231)

 しかし、墓への道行きには「高圓の野邊」を通るし、そこが生前施基皇子が好んだ場所と考えれば、この歌と長歌とはよく呼応している。これに対して232番は奈良での歌とした場合相当おかしい。

三笠山野邊行く道はこきだくも繁(しじ)に荒れたるか久にあらなくに(232)

平城京
(周子啓明著「興福寺の仏たち」より)

 三笠山は春日大社と春日山の中間にある。高円山の野邊とも春日宮天皇陵とも全く関係ない地点である。

 さらに、平城京遷都は710年だった。施基皇子が亡くなった当時(716年)は、東大寺や春日大社はまだ建立されていなかったが、興福寺の中金堂は遷都後間もなく建立されている。714年には金堂供養が執り行われている。つまりこのあたりは平城京の郊外として急成長しつつあった場所である。若草山や三笠山は現在常に観光客で賑わっているように、当時も皇族や貴族たちの物見遊山の恰好の場所だったに違いない。三笠山の野邊が「こきだくも繁に荒れたる」状態になったとはとても考えられない。

 志貴皇子に関わる記録は矛盾・異例ずくめだ。それらは、地名「高圓」や「高圓離宮」が不在ゆえに状況証拠にしかならないが、すべて筑紫を指している。

 以上検討してきた矛盾や異例を取り上げている人はいないか、ネット検索してみた。すべてそれらの矛盾・異例は全く配慮されずに、当たり前のように「施基皇子=志貴皇子」となっている。「高圓離宮」についても、『万葉集』以外には登場しないことなどまるで問題にせずに、「聖武天皇の離宮だ」とか「志貴皇子の別荘だ」とか「聖武天皇の離宮も志貴皇子の別荘もあった」とか、無根拠の勝手な断定が行われ、大手を振って流布している。

 しかし、今まで挙げきたような矛盾点を見過ごすことなく、直視している人を1人発見した。図書館で小松崎文夫著『皇子たちの鎮魂歌』という本が目にとまった。「万葉集の〈虚〉と〈実〉」という副題が付いていたので興味が湧き借りて来た。志貴皇子に一章をさいている。小松崎さんは志貴にまつわる記事の問題点を次のようにまとめている。


 「霊亀元年歳次乙卯秋九月、志貴親王薨時」が、正史『続日本紀』の記録(霊亀二年八月十一日薨去)と異なる点をどう考えるか。さらに、名前の表記が、ここだけ(『万葉集』の)「志貴皇子」ではなく、正史の表記スタイル「志貴親王」となっているのはなぜか。


 これらは(第一部で触れた)いわゆる「寧楽宮(ならのみや)」の〝標目″(ひようもく)に含まれる歌群である。後補の「寧楽宮」(「平城宮」)の〝標目″とともに巻1・巻2とも巻末が一部欠落した、「志貴皇子関連歌」になっているのはなぜか。


 「笠金村」(かさのかなむら)の、いわゆる、「歌集出歌」(歌集の中に出ている歌)であるこの歌は、果たして〝笠 金村″自身の歌なのか。そして、後の「或本歌曰」(或る本歌(もとうた)に曰(い)はく)の二首(233・234番)を含めて、いつ作られた歌なのか。


 万葉歌人の中では、そう高い評価を得ている歌人ではないが、この歌に限って、語句類似など人麻呂傾斜は認められるものの、新しい技法や、型破りの独特の構成をもつと特異な評価を得ていることの問題。

 ①~③は私も指摘してきたことがらだが、④は、この挽歌の作者を笠朝臣金村として、金村の歌風を論じたものだろう。私のような門外漢には知ることのできない事柄だ。こういう観点からのアタックは私にはできない。

 では小松崎さんはこれらの矛盾をどう解いているだろうか。残念ながら小松崎さんは、ヤマト王権一元主義の立場に立つているので当然のことだが、直接正面から取り上げる論説はない。小松崎さんは「ここでは、多くは述べないが、……④について少しだけ触れておきたい」と①~③は置いて、④から説き起こしている。

 伊藤博氏は、これを「幻視(げんし)の作品」と言い、「仮構(かこう)の世界」と言った(『萬葉集の歌人と作品・下』塙書房)。私もそう思う。


 初めて現地を訪れて、(仮想の)〝高野原″から山を眺め、高円山から「街」を俯瞰(ふかん)した時にまずそれを実感した。しかし、それとは無関係に、私は現地で何度も何度もこの歌を口ずさんでいるうちに、ますますこの歌にのめりこんでいったのである。幻視であるがゆえの美しさ、仮構であるがゆえの悲しみ、そして、
「何しかも、もとな唱ふ」(どうして、お前さんは、よしなくも、そんなことを尋ねる のか?)……。
この問いかけの、果てしもない、その深さを知ったのである。

 「よしなくも」(意味もなく)どころか、意味はありすぎるほどある。ありすぎるけど言えない。そこにこそ、この歌の、すべてがある。核心がある。

 下田忠氏は「皇子の死を知らぬわれに対する、いらだだしさ、問うことの無意味さ、むしょうにじれったい心のゆらぎ、不安、空しさ」を訴えかけていると指摘された(「なにしかも、もとなとぶらふ - 笠金村挽歌の抒情」 『解釈』 昭和六十一年十月)。

(中略)

 私の耳には、嫋々(じようじよう)たる挽歌の鎮魂のしらべの中に、やや異質な忍びやかなすすり泣きが聞こえてくる。そこに、この挽歌のネガティブな告発が潜んではいないのか。それをこれから探ってみたい。

 不遇のうちに亡くなり、人知れず葬られてしまった皇子を哀悼する幻視(仮構)の歌だと言っている。時代を置いて作られたということだろうか。③に対する小松崎さんなりの答と考えてよいだろう。

 「嫋々(じようじよう)たる挽歌の鎮魂のしらべの中に、やや異質な忍びやかなすすり泣きが聞こえてくる。そこに、この挽歌のネガティブな告発が潜んではいないのか。」という小松崎さんの鑑賞は、鏡王女と引き裂かれたまま無念のうちになくなった志紀皇子への哀悼歌と考える私(たち)にも妥当なものと思われる。この小松崎さんの歌の鑑賞の深さには感心している。この挽歌をもとに小松崎さんが幻視した光景はなかなかいい。紹介しよう。

 新京の丑寅(うしとら)の方に位置する「高野原(たかのはら)」と呼ばれている小高い丘に集う人群(ひとむれ)がある。
 閉門を告げる「夜鼓」の音が聞こえて半刻程もたったであろうか。
 この丘陵から、「鼓」の発信源である陰陽寮(中務省)まではかなりの距離があるはずだが、雨あがりのせいであろうか、抑揚ある一二の鼓は驚くほど間近に響き伝わって来ていた。
 闇がすこしづつ人群を包んできていた。
 「左京」の張り出し、いわゆる「外京」の「多治比山部門」にわずかに残映を見る。その後方に、秀麗な「笠の山」の蔭が写される。その麓を見え隠れするおびただしい数の篝火に、集う人々は手を合わせているようだ。
 静かに静かに移ろう炬火(たいまつ)は、一旦地獄谷方面に吸い込まれるように消えたかと思うと、やがて、再び、迂回するように、高円山(たかまどやま)を巡ってゆっくりと進んで行く。
 人々の口からは、呟きがもれている。
 「天子さま、親王(みこ)さま」と聞こえる。
 どうやら、一幅の曼陀羅(まんだら)(春日宮曼陀羅)が人群の中心にあるようだ。

 新たに、この人群に加わったと思われる一人の小柄な若者が尋ねる。
 「春野焼く野火のようにも見えますが、あの炬火は何なのでしょう」
一人の老媼(おうな)が、振り返って、その若者をじっと見つめる。「あの炬火はね……」、老媼は、そこで言いさして、絶句する。
 その瞳は涙に濡れている。先刻までの冷たい秋雨のせいなのか、さめざめと流す涙のしたたりなのか、見れば、佇む人々は一様に皆その衣までもぐっしょりとそぼ濡れている。
 老媼は、合掌する掌をふるわせ、唇をわななかせて「あの灯火はね……」、咳き込むように、絶句を繰り返す。そして、「何しかも、もとな唁(とぶら)ふ」と呻吟(しんぎん)するように呟くのだった。
 一人が、見かねたように老媼を抱きかかえ、代わって答える。
 「あれは……、神の御子、志貴親王(しきのみこ)さまの葬送の送り火なのですよ。ある事情がありまして、寂しい野辺送りなのです」
一人がすすり泣くように歌を口ずさむ。

高圓の 野邊の秋萩 いたづらに 嘆きか散るらむ 見る人なしに

 別な一人が、これもまた、呻吟するように、上二句はそのまま下三句を変えて歌い継ぐ。

高園の 野邊の秋萩 な散りそね 君が形見に 見つつ偲(しの)ばむ

 すると、また一人、今度はトーンを揚げて歌い始める。

三笠山 野邊行く道は こきたくも 繁(しじ)に荒れたるか 久にあらなくに

 ただ、なぜか、最後の長音句「久にあらなくに」をトーンを落としうめき呟く。
 すると、一つの若い声がそれに反発するかのように、あえて、その句を高らかに復唱する。
 久にあらなくに」(そんなに昔のことでもないのに)
 人群は、そこで周囲をはばかるように、互いを見交わすのだった。

 篝火は、やがて、ひとつ、そしてまたひとつ、山の向こうに沈んでゆくと、人群もまた、鼻をかみわたし、無言のまま家路につくようであった。
 老媼ひとり、御輿(みこし)の人になったが、そのいでたちは、決して並のものには見えなかった。