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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(45)

「天智紀」(33)


鎌足と鏡王女(13):x皇子とは誰か(6)


 志貴皇子に捧げられた挽歌に現れる地名について、新庄さんは次のように書いている。


「天皇は、国家もまた青春も総てを失って、筑紫春日三笠山の中腹、高円の奥津城に眠られたのです。」


「以上は志貴天皇の死を悼むものです。この高円とは筑紫の三笠山へ登る中腹の円形に近い台地をいうものではないのでしょうか。

 私(たち)は既に「春日なる三笠の山」が「筑前御笠郡の宝満山」であることを知っている。その御笠山に、新庄さんが言うように、「高円」と呼ばれる台地があるのなら問題ないのだが、ここでも新庄さんの根拠は曖昧である。①ではあることを確信しているように書いているが、②では推測しているにすぎない書き方をしている。現地の方にお聞きすれば、現在その地名があるかないかは分かるわけだが、たとえ現在はないとしても古代に通称的に使われた地名ならば現在に残らないこともあるだろう。やはり文献的に考証するほかあるまい。

 新庄さんが志貴皇子を悼む歌として最後に挙げていた五首の歌の題詞は
「興に依りて各々高圓の離宮處(とつみやどころ)を思いて作る歌五首」
だった。「高圓山」については「定説」は当然のこと奈良県の高円やまを比定している。しかし、「山」のない「高圓」については戸惑いを見せている。「高圓の野」(4295番の題詞)について次のような歯切れの悪い頭注を付けている。

「その(高円山)の麓の地をいうか。野は傾斜地や高原をいうことがある。」

 そして「高圓の離宮」については「高円山にあった離宮」とだけ注記している。これだけならわざわざ注記の必要はないだろうに、言わずもがなのことを言っていることを不審に思った。たぶん「高圓の離宮」を比定できないのだろうと思って、『続日本紀』に出てくる離宮をすべて調べてみた。驚いたことには「高圓の離宮」はない。高圓山や高圓という地名もまったくない。もしかして行宮(かりみや 『続日本紀』では頓宮と表記している)なのかと思って調べたがやはりない。念のため『日本書紀』にも当たってみた。やはりない。(このとき「磐瀬行宮」に出会ったのでした。)比定できないどころか、『万葉集』以外の史料には「高圓」という地名は存在しないのだった。

 志貴皇子に関わる記録は異例づくめである。前回、巻1の末尾の歌を取り上げたが、そこに「寧楽宮」という異例の標目があった。実は上の志貴皇子の挽歌は巻2の末尾を飾る歌である。その挽歌の前に歌が2首(228・229番)あるが、それらの歌の前にも「寧楽宮」という異例の標目がある。その2首と志貴皇子の挽歌を同じ標目内の歌として扱っていることになる。その2首も含めて、あらためて巻2の末尾を見てみよう。

寧楽宮

和銅四年歳次辛亥、河邊宮人(かはべのみやひと)が姫島の松原にて嬢子(をとめ)の屍(しにかばね)を見て悲しび嘆きて作る歌二首

妹が名は千代に流れむ姫島の小松の末(うれ)に蘿(こけ)むすまでに(228)
難波潟潮干(しほひ)なありそね沈みにし妹が光儀(すがた)姿を見まく苦しも(229)

靈龜元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨りましし時の歌一首〈并に短歌〉

梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 得物矢(さつや)手(た)ばさみ 立ち向ふ 高圓(たかまと)山に 春野焼く 野火と見るまで もゆる火を いかにと問へば 玉桙(たまほこ)の 道來る人の 泣く涙 霈霖(ひさめ)に降りて 白栲(しろたえ)の 衣ひづちて 立ち留り 吾に語らく 何しかも もとな唁(とぶら)ふ 聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇の 神の御子の いでましの 手火(たび)の光ぞ ここだ照りたる

高圓の野邊の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに(231)
三笠山野邊行く道はこきだくも繁(しじ)に荒れたるか久にあらなくに(232)

〈右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出づ。〉

〈ある本の歌に曰く〉
高圓の野邊の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ(233)
三笠山野邊ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに(234)


 228・229番の舞台となっている姫島についての頭注は次のようである。

「記紀、続紀にも見え、摂津(大阪府)の地名であることは知られるが、その位置には諸説があり、未だ確定しない。」

 また229番の難波潟については「難波の海の浅瀬。」とある。

 姫島といえば、私ならすぐに国東半島の突端にある姫島を考える。ヤマト王権一元主義者たちは、無意識の場合もあるかも知れないが、いかにしても九州を除外しようとする。彼らにとっては「難波」といえば大阪だから、姫島も大阪なのだろう。頭注は「記紀、続紀にも見え」と言っているので調べてみた。『古事記』では見つけることができなかった。『日本書紀』では「姫嶋」という表記で一例、『日本書紀』と『続日本紀』では「媛嶋」という表記でそれぞれ一例ずつ見いだした。「姫嶋」を見てみよう。「敏達紀」12年是歳条「任那復興」の記事である。長いお話なので、該当部分だけ現代語訳(講談社学術文庫・宇治谷孟訳)で引用する。

「使いを肥後の葦北に遣わし、日羅の一族を呼び、心のままに徳爾らの罪を償わせた。この時葦北君らは、これを受取り殺して弥売島(みめじま)に捨てた。」

 記事は言うまでもなく倭国や百済の史料からの盗用である。日羅(百済人)という倭国への協力者を同じく百済人の随行者・徳爾等が暗殺をした事件の顛末が述べられている。弥売島について原文には「彌賣嶋は、蓋し姫嶋なり。」という分注がある。また岩波大系の頭注は
「淀川河口にあった島。今の大阪西淀川区姫島町の位置。」
と述べている。この暗殺者の処刑の舞台は肥後だ。そうすると、どう読んでも「姫嶋」はあの国東半島の姫嶋だよね。もう病膏肓もいいところ、私には学者さんたちの頭が理解できない。

 さて、これで『万葉集』の姫島も国東半島の姫島だと言う可能性が出て来た。ではそのあたりに「難波」があるだろうか。ある。豊前に難波がある。古田古代史会では盛んに論じられていて周知の事実だ。いろいろ論じられている中で、根拠の一つに正倉院文書が挙げられている。その文書の豊前の戸籍の中に難波部があるという。ちなみに、作者・河邊宮人は「伝未詳」。伝未詳者は九州王朝ゆかりの人物と見てまず間違いないだろう。

 次に志貴皇子の挽歌の方を検討しよう。ここでもいきなり異例にぶつかる。題詞が異例なのだ。一つは、『万葉集』では他のすべてでは「志貴皇子」と表記しているのに、この挽歌だけは「志貴親王」と『続日本紀』の表記を用いている。ことさら『続日本紀』の死亡記事と重ねようとしている意図が感じられる。

 もう一つ、題詞の文体が異例である。この種類の題詞は「……の時、……が作る歌」というように作者がはっきり示されているのが普通だ。作者が不明というのが異例なのだ。左注に「笠朝臣金村の歌集に出づ」とあるので、笠金村が作者だとする人もいるが、それならそうと書けば足りることで、このような左注は無用であろう。

 『万葉集』の編纂者が利用している資料ではっきりしているのが5種類ある。まず「古集」。古田さんはこれを「倭国万葉集」と呼んでいる。最も頻繁に用いられているのが「柿本朝臣人麻呂歌集」。そのほか、上の「笠朝臣金村歌集」のほかに「高橋連蟲麻呂歌集」・「田邊福麻呂歌集」がある。どれも自分の歌だけを集めたのではなく、作歌の研鑽のためにいろいろな歌を集めていたようだ。また、挽歌中にあるように、「ある本」と名を明らかにしない歌集もある。ちなみに、個人歌集に名を連ねている4名はいずれも「伝未詳」。

 もとになっている歌集でも作者の名前が書かれていなかったのだろうか。知るよしもないが、『万葉集』の編纂者が故意に書き落としたと考えられなくもない。施基皇子は716年に亡くなっている。『万葉集』1巻~16巻の編纂は745年に終わっているという。この挽歌が施基皇子を悼んだものとする場合、皇子と呼ばれる人物を悼んだうたの作者の名がわずか30年ほどで忘れられたことになる。私にはとても信じられない。私はこの挽歌は、新庄さんの言う通り、九州王朝の志貴皇子へ捧げられたものと考える。
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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(44)

「天智紀」(32)


鎌足と鏡王女(12):x皇子とは誰か(5)


 今回のテーマに入る前に前回の記事の補足をしたい。実は、前回「磐瀬」を博多のあたりとする新庄さんの説について「ちょっと引っかかるが、……信用することにしよう」と書いたが、今回の記事のための調べ事をしていて、新庄説の正しいことを示す記事に出会ったのだ。

 今回のための調べ事とは、『日本書紀』・『続日本紀』に出てくる「離宮(とつみや)」や「行宮(かりみや)」を調べることだった。その過程で偶然にも「斉明紀」6年3月25日条にある「磐瀬行宮」という記録を知った。その頭注は次の通りである。

「延喜兵部式の筑前国の駅名に石瀬がある。宣化元年五月条の那津屯倉、和名抄那珂郡三宅郷。今、福岡市三宅の地か。」

 「『日本書紀』にははっきりと「筑前の磐瀬」が出てくるのに、『万葉集』の学者たちはそれにはそっぽを向いて、大和の中で無いものねだりをしている。前回検討したように(3)1419番と(4)1466番は、いまだ倭国が健在だった頃、鏡王女と志貴皇子が交わした相聞歌だった可能性がいよいよ大きくなってきた。

 さて今回は、新庄さんが志貴皇子の歌として挙げている(5)・(6)の検討から始めよう。

(5)
志貴皇子の御作歌
葦辺ゆく鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ(64)


(6)

志貴皇子の御歌一首
鼯鼠(むささび)は木未(こぬれ)求むとあしひきの山の猟夫(さつを)にあひにけるかも(267)


 実は志貴皇子の歌は、新庄さんが故意に避けているのではないと思うが、ほかに次の歌(51番)がある。

明日香の宮より藤原の宮に遷居(うつ)りし後、志貴皇子の御歌
采女(うねめ)の袖吹き反す明日香風都を遠みいたづらに吹く


 これは明日香で詠まれた歌なので、題詞が信用できるとすれば、明らかに施基皇子の歌ということになる。他の志貴皇子の歌と比べると全く調べが異なるし、凡庸で深みのない駄作と思える。そういえば巻1の最後におかしな収録歌(84番)がある。

寧楽宮
長皇子、志貴皇子と佐紀宮にて倶に宴(うたげ)する歌

秋さらば今も見るごと妻恋に鹿(か)鳴かむ山そ高野原の上

右の一首は、長皇子。


 題詞が正しいとすれば、長皇子(天武の子)と宴をしているのだからその相手の皇子は明らかに施基皇子だ。何がおかしいかというと、長皇子の歌だけで施基皇子の歌がない。また「寧楽宮」という未完成な「標目」が付けられている。編纂者が書き落としたとも考えられるが、もしかすると施基皇子は歌が苦手だったのかも知れない。ともあれ、『万葉集』が志貴皇子の作としている歌には施基皇子の歌も混在しているようだ。

 以下は単なる推測にすぎないが、『続日本紀』の「志貴」という異例の表記は『万葉集』からの転用ではないだろうか。そのようにして『万葉集』の志貴皇子と施基皇子の歌の題詞に全て「志貴」を用いて、すべてを施基皇子の歌のように改竄した。いわば九州王朝の「志貴皇子」隠しである。

 もし上の推測が正しければ、地名のような確かな根拠のない歌は、どちらの皇子の作かの判定は難しい。つまり(6)は志貴皇子の作とは断定できない。むしろこれも、他の志貴皇子の歌と比べると異質で、調べも内容も見劣りがする。どちらかというと施基皇子の歌ではないか。

 (5)はどうだろうか。大和にいる人が「大和し思ほゆ」などと詠うのはおかしい。施基皇子の歌とは考えがたい。一方、筑紫にいる志貴皇子が、冬の寒い夜、大和にいる鏡王女を思いやり偲んでいる歌と考えると理にかなった歌ということになる。

 実は(5)の前には、その前後とは孤立した形で、「慶雲三年丙午、難波の宮に幸しし時」という異例の題詞が置かれている。岩波大系の頭注も
「この書き方は異例なので、脱字説やすぐ次の題詞につづけて解する説がある」
と書いている。「すぐ次の題詞につづけて解する」というのは(5)の題詞の一部と考えるということである。こちらの説が正しい場合、(5)は施基皇子の作となるだろうか。

 慶雲三年の難波行幸は『続日本紀』では次のように記録されている。

九月……丙寅、難波に行幸したまふ。 冬十月壬午、宮に還りたまふ。

 上の宙ぶらりんの題詞の異様さはその内容にもある。『続日本紀』では干支を使って表わすのは日付だけである。題詞の干支「丙午」は何を表わしているのだろうか。日付だとしたら月名が欠けている。しかも『続日本紀』の干支「丙寅」と異なる(20日ずれている)。あるいは干支「丙午」で月を示しているのだろうか。いずれにしても実に曖昧な題詞だ。さらに、これと同種類の題詞は「(どこそこ)に幸しし時(だれそれ)の作る歌」とか「(どこそこ)に幸しし時の歌」となっている。つまりくだんの題詞は未完成の全くの欠陥文である。『万葉集』の編纂者はこれを削除しようと思っていたのに、削除し忘れたのではないか。

 「すぐ次の題詞につづけて解する」説が正しいとしても、やはりおかしな歌になることに変わりはない。丙寅(25日)から壬午(12日)までの17日間の行幸である。行幸を終えて大和に帰ってきた冬十月は現在の暦で言えば11月頃に当たる。2010年では旧暦の10月12日は11月17日に当たっている。1300年ほど前と現在とでは気候変動があって単純な比較はできないだろうが、おおよその目安として、1971~2000年の平均の初霜日は大阪では11月30日前後である(ウィキペディア)。11月中頃で「霜降りて寒き夕べ」というのは、年によってはあり得るだろうが、まずは滅多になかったと思われる。また難波と大和は指呼の間、しかも不自由のない離宮に居住して、たった17日間大和から離れていただけだ。それで「大和し思ほゆ」というのではピント外れの大げさな歌ということになろう。

 以上により。(5)も施基皇子の歌ではなく、志貴皇子の歌である可能性が大きい。

 さて、次に新庄さんは91番の題詞にある「天皇」と結びつけて、「その天皇が志貴天皇であった」としているが、これは早急な勇み足だろう。ここでは天皇は明らかに天智を指している。もちろんこれは『万葉集』編纂者による作為的なはめ込みで、本来は天智の歌ではない。しかしもとの題詞が不明なのだから、はめ込まれた題詞を根拠に「志貴天皇」というのは乱暴すぎる。白村江の戦いで捕囚となった倭国の天子・薩夜麻の安否が不明なまま、誰かが天子を継承したとは考えがたい。また新庄さんが志貴皇子の死を悼む歌としている230番の長歌では、「天皇」ではなく「天皇の神の御子」となっている。ここでは新庄さんの論説はだいぶ混乱している。次回はその挽歌を検討してみよう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(43)

「天智紀」(31)


鎌足と鏡王女(11):x皇子とは誰か(4)


 今回から『万葉集』の志貴皇子の歌を検討する。まず、新庄さんが挙げている(1)~(4)を見てみよう。

(1)
志貴皇子の御歌一首
大原のこの市柴(いちしば)の何時しかとわが思ふ妹に今夜逢へるかも(513)


(2)
志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首
石そそく垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(1418)


(3)
鏡王女の歌一首
神奈備(かむなび)の伊波瀬の社(もり)の喚子鳥(よぶこどり)いたくな鳴きそわが恋益(まさ)る(1419)


(4)
志貴皇子の御歌一首
神名火の磐瀬の社のほととぎす毛無(ならし)の岳(おか)にいつか来鳴かむ(1466)


 まず、(1)にある「大原」という地名について検討してみよう。「大原」を詠み込んだ歌は(1)のほかに2歌ある。

 「大原」の初出は、むかし『万葉集』を拾い読みしていたときに印象に残った歌の一つで、『万葉集』にはめずらしくとってもユーモアのある贈答歌(103番・104番)である。

明日香清御原宮に天の下知らしめしし天皇の代〈天淳中原瀛真人天皇、諡して天武天皇といふ〉

天皇、藤原夫人(ぶにん)に賜ふ御歌一首
我が里に大雪降れり大原の古りにし里に落(ふ)降らまくは後(のち)

藤原夫人、和へ奉る歌一首
我が岡の龗(おかみ)に言ひて降らしめし雪の摧(くだ)けしそこに散りけむ


 蛇足じみた解説を付けると、
「こっちには大雪が降ったが、おまえさんの古びた里に降るのはもっと後だね。」
「わたくしの方の神様に言いつけて降らせた雪のかけらがあなたの方に降ったんでしょうよ」
と軽妙にやり合っていて、ほほえましい。

 「藤原夫人」と「大原」についての岩波大系の頭注は次の通りである。

「藤原夫人―鎌足の娘、五百重娘。新田部皇子の生母。夫人は妃と嬪との間の地位で、天皇に侍す。」

「大原―奈良県高市郡明日香村小原。鎌足の誕生地。藤原夫人の居所だったらしい。清御原の宮からは一粁も離れていないくらい近い所。」

 大胆にも明日香村小原を鎌足の誕生地と断定している。この問題は検討済みなので、ここでは立ち入らない。

 513番の頭注は103番の頭注を参照せよとなっている。もう一つの該当歌は2587番の次の歌である。

大原の古りにし里に妹を置きて吾(あれ)い寝かねつ夢に見えこそ

 「大原の古りにし里」と103番と同じ詩句が使われている。一種の常套語だったのだろうか。その頭注は103番とほとんど同じで次のようである。

「「大原―奈良県高市郡明日香村小原であろう。」

 どうして「大」と「小」の違いを無視するのかと疑問に思っていたが、「小原」の方の読みは「おうはら」だという(犬養孝著『万葉の旅』で知った)。でも「おおはら」=「おうはら」というのもなんだかな?、と思う。だからだろうか、103番の頭注は断言しているように読めるけど、2587番では推量になっている。やはり「大原=小原」には確かな根拠はないようだ。

 「大原の古りにし里」が常套句だとすれば「大原」は普通名詞とも取れる。また福岡県田川郡には大原という地名がある。ここは地図上では大原と記されているが、行政区名は福岡県田川郡赤村赤大原となっているのでここが「大原」とは確定できない。また太宰府市に大原山がある。このあたりを「大原」呼んでいた可能性はある。「大原」を詠み込んだ歌は筑紫で詠まれたという可能性は高い。

 (3)・(4)の「磐瀬の社」については、岩波大系の頭注は

「大和のうちにあるが、諸説があり未確定。生駒郡斑鳩町竜田の西南の車瀬の森、同郡三郷村大字立野字高山の上方の三室山、高市郡飛鳥地方のどこかなど言われている。」

と書いている。どこだか分からないと言いながら「大和のうちにある」と断定しちゃうんですね。『万葉の旅』で関連事項を調べてみたら「三郷村高山の大和川の岸に桜の小森があって「磐瀬の杜」の碑を立てている」とあった。まだ確定できていないのに碑を立てちゃうとは、いやはやすごい神経だ。いくら「ご当地ソング」が欲しいからといえ、乱暴な振る舞いだ。さすがに犬養さんは「これは諸説のあるところだ」と苦言を呈している。

 (4)の「毛無(ならし)の岳」は「毛無」を「けなし」と読む説もあって、読み方すら確定されていない。もう頭注の引用はしないが、もちろん場所の比定も数説あって確定されていない。この場合も学者たちは大和の中だけを探し回っている。

 さて(3)・(4)の「磐瀬の杜」については新庄さんが「古地図に見え、博多から西へ古代国道ぞいにあり、側に額田の地名もあります。」と書いている。どういう「古地図」を使ったのかを典拠を明らかにしていない点がちょっと引っかかるが、「博多から」云々と具体的に位置を書いているので信用することにしよう。『万葉集』に「磐瀬の杜」を詠い込んでいる歌がもう一つある。(1470番)

刀理宣令(とりのせむりやう)が歌一首
もののふの石瀬の杜の霍公鳥今も鳴かぬか山の常蔭(とかげ)に


 この歌についても新庄説に不都合はない。むしろ「刀理宣令」という名前が筑紫っぽい。もともとは倭国の人のようだ。以下、新庄説を正しいものとして論を進める。

 新庄説が正しいとすると(3)と(4)は筑紫で詠まれた歌ということになり、ここの志貴皇子は施基皇子(『日本書紀』・『続日本紀』の「しき」皇子を「施基」皇子で表わすことにする。)と別人と言うことになる。また、(3)・(4)はそれぞれ巻8の「春の雑歌」・「秋の雑歌」に区分されてかなり離れたところに置かれているが、(3)は誰が見たって「相聞歌」だし、(3)・(4)を上のように並べてみれば、明らかに鏡王女と志貴皇子との贈答歌である。この場合、(4)が「贈」歌であり、(3)が「答」歌とするとピッタリと治まる。

 (2)は私も暗唱している有名な歌だ。私は単純に、ものがみな生き生きとしてくる早春のさわやかの中で、何か大きな喜びを予感している若々しい心を感じ取っていたと思う。この題詞の「懽(よろこび)」についても岩波大系はおかしな頭注を書いている。

「なんの懽よろこびか不明。増封あるいは位階昇進の時の作とも、宴飲の際の歌ともいう。」

 「増封」や「位階昇進」や「宴飲」の喜びなどという考えは、発想の貧しい私にはとうてい思いつけない。「恋」の喜びなら歌の調べともぴったりで私にも納得できる。そして、(4)・(3)・(1)・(2)という順に並べると(1)・(2)もさらに生き生きとしてくる。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(42)

「天智紀」(30)


鎌足と鏡王女(10):x皇子とは誰か(3)


 新庄説を検討してみよう。まず『続日本紀』の志貴皇子の死亡記事についてのコメントをもとに『続日本紀』の史料批判をしておく。

「七番目だけが何故天皇と尊号を付けられたのでしょうか。死んで50年も経ってからです。天智天皇の子息で天皇になったのは大友皇子ただ一人のはずですが、これはどういうことでしょうか。私には九州倭国の歴史からの盗用記録のように思えるのです。」


『日本書紀』は万世一系を偽装するために、九州王朝の存在を隠蔽する必要があった。そのために『日本書紀』にはそこら中に九州王朝の史料からの盗用記事がある。それに対して『続日本紀』は、名実ともに日本の中心権力となってからの近畿王朝の正史であるから、九州王朝の史料からの盗用は必要ないだろう。だから私は志貴皇子の死亡記事が「九州倭国の歴史からの盗用記録」ということはあり得ないと思う。

 ただし、政治権力側が編纂した正史には、どこの国のものであっても、大義名分のための粉飾や、意図的に書かないという隠蔽があることは言うまでもないだろう。また、『万葉集』は倭国のさまざまな歌集からの盗用で成り立っている。すでに何例か見てきて通り、『万葉集』では九州王朝の痕跡を払拭するために『日本書紀』や『続日本紀』との整合性を整えるいう意味での剽窃がたくさんある。

 以下、志貴皇子の死亡記事が九州王朝の記録からの盗用ではあり得ないことを知るために、自らの学習を兼ねて、『続日本紀』の記述を詳しく読んでいこうと思う。

 「死んで50年も経ってから……何故天皇と尊号を付けられたのでしょうか」という新庄さんの疑問には『続日本紀』自身が答えている。『続日本紀』での天皇号追尊例は志貴皇子のほかに2例ある。


一つは草壁皇子で758年(天平宝字2)年8月9日に追尊されている。ヤマト朝廷初代天皇の文武は草壁の第2子である。草壁は『続日本紀』では日並知(しなみし)皇子と呼ばれている。(この呼び名については後に取り上げる予定です)(以下、講談社学術文庫の宇治谷孟による現代語訳版を使用する。)


日並知皇子命(草壁皇子)は、世間ではまだ天皇と称されていない。しかし皇子の如き 人に、天皇の尊号を追贈することは古今の恒例である。今後、岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)と称し奉るべきである。



 もう一例は舎人(とねり)皇子で759(天平宝字3)年6月16日の勅令で追尊されている。

 朕もまた思うのに、「さきの聖武天皇の皇太子と定めて頂き、天皇の位に昇らせ頂いたのに、どうして恐れ多くも私の父母兄弟にまで及んでよいでしょうか。まことに恐れ多いことであります。どのように進退すべきかもわかりません」とご辞退申し上げた。

 しかしながら度重なって仰せられるには「私がこのように言わなくなったら、あえてこのように言人は他にいないであろう。およそ人の子が禍いを除去し、幸福を蒙りたく思うのは、親のためにということである。天皇となったこの大福を取りあげまとめて、それを親王(舎人))にお贈り申し上げよ」と教えさとされるお言葉を承って、次のようにする。そこでこれからは父の舎人親王に天皇の称号をお贈りして、崇道尽教皇帝(すどうじんきようこうてい)と称し、母の当麻夫人(たぎまのぶにん)を大夫人と称し、兄弟姉妹をすべて親王と称するように……


 ①・②はともに淳仁天皇による追尊であり、一年を置かずに行われている。下の天皇位継承図を見れば、その追尊の意味は明らかである。

 (第一学習社「新選日本史図表」より)
初期天皇系図
 (教科書などでは志貴皇子の表記は「施基」を用いているようだ。)

 聖武の後を継いだ孝謙は、聖武天皇の遺言によって立太子した道祖(ふなと)王を廃して、淳仁を太子とした。これは当時朝廷内で第一権力者であった藤原仲麻呂(後の恵美押勝)の強い推挙があったようだ。淳仁はそれまでの文武から孝謙までの系統からぽつんと外れた位置にある。本来は自分の父親・舎人を追尊したかったが、自らの権力基盤の脆弱さを思いそれに先だって、今までの系譜の淵源である文武の父親・草壁を追尊した。父親に対する追尊には先帝からの勧めによるという名目を設けている。

 後に淳仁は恵美押勝の乱に関わったとして淡路に追放され、後継は孝謙が重祚している。称徳天皇である。『続日本紀』では淳仁はすべて「廃帝」と記されている。「淳仁」は明治になってから送られた諡号である。


 770(宝亀元)年11月6日条の追尊の勅令は次のようである。

 朕は拙く愚かな身でありながら、天皇の大業を受け継いで、畏れかしこまり、進退をどうしてよいのか分からないのであるが、貴く喜ばしい先帝のお言葉を自分独りだけがうけたまわれようかと思い、法にしたがって、口に出すのもおそれ多い春日宮においでになった皇子を、天皇と称したてまつり、また、兄弟姉妹と朕の皇子たちを、すべて親王・内親王として冠位を上げ、しかるべく取り計らうこととする。

 ③は光仁天皇による追尊である。ここで皇統は天武系から天智系へ移動した。光仁が日陰の人のように生涯を送った父親・志貴皇子を追尊したくなるのは当然だろう。しかしここでも「先帝のお言葉」に従ったという名目を設けている。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(42)

「天智紀」(30)


鎌足と鏡王女(10):x皇子とは誰か(2)


 まず『日本書紀』と『続日本紀』に現れる志貴皇子を見ておこう。全て必要かどうか分からないが、一応全てを調べておく。

 『日本書紀』には「志貴」という表記はない。『日本書紀』では大王即位の記事の後で必ずその大王の諸妃とそれぞれの妃が産んだ子を記録している。「天智紀」では668(天智7)年2月23日の記事である。そこでは

越の道君伊羅都売(いらつめ)有り、施基皇子を生めり。

とあり、「施基」と表記している。母親について、岩波大系の頭注は「采女か。本名、生没年など未詳。」と書いている。(以下、本文では『万葉集』で一貫して使われている「志貴」という表記を仮に本名として扱っていく。)

 その記事に出てくる天智の皇子は大友・建(たける)・川嶋・志貴(出生順)の四人である。建皇子以外の母親は皆身分の低い側室である。建皇子は正妻の子だが、「唖にして語ふこと能はず」と記録されている。病弱な子だったようで、8歳でなくなったという。周知のように大友皇子は壬申の乱に敗れて自死。川嶋皇子は691(持統5)年に亡くなっている。従って天智の皇子でONライン(701年)を越えて生存したのは志貴皇子一人だけということになる。

 志貴皇子の「施基」という表記は上の一回だけである。次に「天武紀」に二回、「持統紀」に一回登場するが、「天武紀」では「芝基」、「持統紀」では「施基」を用いている。

679(天武8)年5月6日
天皇、皇后及び草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子に詔して曰はく、「朕、今日、与汝等と倶に庭に盟いて、千歳の後に、事無からしめんと欲す。奈之何(いかに)。」……


 皇位継承の争い事をしないことを皇子たちに誓わせる記事である。河嶋皇子(表記が異なるが川嶋皇子と同一人物)と志貴皇子以外は天武の子である。次は食封の加増記事。

686(朱鳥元)年8月15日
芝基皇子・磯城皇子に、各二百戸を加したまふ。


 「磯城」も「しき」と読むが、もちろん別人物でこちらは天武の子である。

689(持統3)年6月2日
皇子施基・直広肆佐味朝臣宿那麻呂・羽田朝臣齊(むごへ)・勤広肆伊余部連馬飼・調忌寸老人(おきな)・務大参大伴宿禰手拍(てうち)と巨勢朝臣多益須等(たやすら)とを以て、撰善言司(よきことえらぶつかさ)に拝す。


 「撰善言司」は岩波大系の頭注には「善言という題の書物を撰進するために設置された官司」とある。『日本書紀』での志貴皇子の記事はこれで全部である。

 このような異なる表記は編纂者による使用漢字の趣味の違いなのか、あるいは用いる資料に忠実に従ったための違いなのか、知るよしもないが、『日本書紀』や『続日本紀』の編纂者たちの頭の中をいぶかしく思うばかりである。

 それでも『日本書紀』の場合は「天智紀・天武紀」では「施基」、「天武紀」では「芝基」と、一応区分できるが、『続日本紀』の場合はひどい状況だ。そこでは『日本書紀』とは全く異なる表記「志貴」・「志紀」が混用されている。また称号は「皇子」ではなく「親王」に変わっているが、こちらは大宝律令に従って「親王」を使うようになったということで、一応統一されている。志貴皇子の最初の記事は703年で「天武紀」の最後の記事から14年も経っている。

703(大宝3)年
9月3日
四品志紀親王に近江国の鉄穴(てつけつ)を賜ふ。
10月9日
……四品志紀親王を造御竈長官(みかまつくるつかさのかみ)とす。……


 「鉄穴」というのは鉄鉱石の取れる場所、つまり鉱山の一部であろう。また「造御竈」というちょっと変わった職名は「火葬設備の造営」と説明されている。700(文武4)年に「初めて火葬が行われた」という記事がある。もちろんこれはヤマト朝廷内での話である。福岡県の宮地嶽古墳(古墳時代後期)から火葬された骨が入っている骨壺が出土している。

704(慶雲元)年正月11日
二品長親王・舍人親王・穂積親王・三品刑部親王に封各二百戸を益す。三品新田部親王・四品志紀親王には各一百戸、……

707(慶雲4)年6月16日
三品志紀親王・正四位下犬上王・正四位上小野朝臣毛野・従五位上佐伯宿禰百足・従五位下黄文連本実等を以て殯宮の事に供奉(つかへまつ)らしむ。(注:前日に文武が死去している。)

708(和銅元)年正月11日
……是の日、四品志貴親王に三品を授く。……


 ここで初めて「志貴」という表記が出てくる。でもちょっとおかしい。この年(708年)に「三品」を授けられたのに、707年の記事で「三品」となっている。志貴と志紀は別人だと思いたくなってしまう。しかし、磯城皇子は天武の皇子として出生が記録されているから明らかに志貴皇子とは別人だが、志紀皇子という名での出生記事はないのだから志貴皇子と志貴皇子とは別人だと考える根拠はない。上の二つの記事の矛盾はミスと考えざるを得ないだろう。

714(和銅7)年正月3日
二品長親王・舍人親王・新田部親王・三品志貴親王に、封各二百戸を益す。……

715(霊亀元)年正月10日
……内外の文武の官六位以下に位一階を進む。また二品穂積親王に一品を授く。三品志紀親王に二品。……

716(霊亀2)年8月11日
二品志貴親王薨しぬ。従四位下六人部王・正五位下県犬養宿禰筑紫を遣して。喪事を監護(みも)らしむ。親王は天智天皇第七の皇子なり。宝亀元年、追尊して、御春日宮天皇と称す。


 『日本書紀』によれば天智の皇子は4名しかないのに「第七の皇子」となっている。岩波大系の補注では「したがって天智皇子は少なくとも七人いたとみることができる」と述べている。建皇子のように夭逝した皇子でさへ国書に記録されている。国書に全く名が出てこなく確認のしようのない者まで数に入れるのはおかしい。『続日本紀』の記事が間違っているとする方が順当だと、私は思う。

 ちなみに追尊については、770(宝亀元)年11月6日の勅令の中に確かにそのことが述べられている。

 志紀皇子ように4通りもの違った表記をもつ例は他にないのではないか。たいした意味はないだろうが、天智と天武の子で複数の表記があるものを調べてみた。14名中4名が該当する。岩波大系の頭注には「長=那我」という指摘があったが、『日本書紀』・『続日本紀』・『万葉集』では確認できなかった。(数字は「紀・続紀」での出現回数)

天智の皇子

「川嶋7・0=河嶋1・0」(691年に亡くなっているので当然『続日本紀』には出てこない。)

「施基1・0=芝基2・0=志紀0・5=志貴0・3」
天武の皇子

「忍壁9・1=刑部0・7」

 ③では『続日本紀』に「忍壁(おさかべ)」が一例だけあるが、これは最後の死亡記事で使われている。『日本書紀』を参照したものと思われる。他は一貫して「刑部」だから混用とまでは言えないだろう。これに対して志貴皇子の方は、『日本書紀』の表記とは全く違う2通りの表記を、しかも混合して用いている。この表記方法はまさに異例である。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(41)

「天智紀」(29)

鎌足と鏡王女(9):x皇子とは誰か(1)

 少し戻ります。「鏡王女の出自」で相聞歌(91・92番)の鏡王女の相手を取りあえずx皇子としておいた。この皇子を新庄さんは志貴皇子だという仮説を提出している。これを検討してみようと思う。まず新庄さんの論考を読んで見よう。(見やすくするため引用文中の数字は算用数字などで書き換えた。また万葉歌は岩波大系版によって書き換え、題詞や左注なども復元した。)

 志貴皇子とは『万葉集』では一際目立つ秀歌を残された皇子です。この方の歌が好きで『万葉集』の中を追って見ました。

(1)
志貴皇子の御歌一首
大原のこの市柴(いちしば)の何時しかとわが思ふ妹に今夜逢へるかも(513)


(2)
志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首
石そそく垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(1418)


 この二つの歌は愛する妹に逢えたことの喜び、青春の輝きを歌っています。鏡王女の歌として右と隣合わせに並べて、

(3)
鏡王女の歌一首
神奈備(かむなび)の伊波瀬の社(もり)の喚子鳥(よぶこどり)いたくな鳴きそわが恋益(まさ)る(1419)


(4)
志貴皇子の御歌一首
神名火の磐瀬の社のほととぎす毛無(ならし)の岳(おか)にいつか来鳴かむ(1466)


 右の四首は志貴皇子青春の歌であり、その側に鏡王女の姿が見えるのです。磐瀬の杜は古地図に見え、博多から西へ古代国道ぞいにあり、側に額田の地名もあります。

(5)
志貴皇子の御作歌
葦辺ゆく鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ(64)


(6)

志貴皇子の御歌一首
鼯鼠(むささび)は木未(こぬれ)求むとあしひきの山の猟夫(さつを)にあひにけるかも(267)

 この(5)と(6)は大和へ行った彼女を思い、木末を求めて行った彼女を案じているのではないでしょうか。

 また、別に『万葉集』の鏡王女の歌の側に天皇の文字が見えて(注:91・92番の題詞のこと)、しかしその天皇の名前まではわかりませんでした。九州の天皇であろうとは思っていたのです。ところが志貴皇子の歌を追っているうちに不思議と裏側に鏡王女の姿がありました。思いがけないことでした。そしてその天皇が志貴天皇であったと気付いたのです。

 愛し合った二人でした。しかし時は、国家滅亡の嵐が怒涛のごとく狂っていたのです。身分高きが故に、そして余りにも美しかったが故に、離ればなれとなり再び相会うこともなかった結末でした。

 天皇は、国家もまた青春も総てを失って、筑紫春日三笠山の中腹、高円の奥津城に眠られたのです。『万葉集』230、「霊亀元年(西暦715年)9月、志貴親王の薨りましし時、作れる歌」とあり、志貴親王の死亡記事でした。

靈龜元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨りましし時の歌一首〈并に短歌〉
梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 得物矢(さつや)手(た)ばさみ 立ち向ふ 高圓(たかまと)山に 春野焼く 野火と見るまで もゆる火を いかにと問へば 玉桙(たまほこ)の 道來る人の 泣く涙 霈霖(ひさめ)に降りて 白栲(しろたえ)の 衣ひづちて 立ち留り 吾に語らく 何しかも もとな唁(とぶら)ふ 聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇の 神の御子の いでましの 手火(たび)の光ぞ ここだ照りたる

高圓の野邊の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに(231)
三笠山野邊行く道はこきだくも繁(しじ)に荒れたるか久にあらなくに(232)

〈右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出づ。〉

〈ある本の歌に曰く〉
高圓の野邊の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ(233)
三笠山野邊ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに(234)


 以上は志貴天皇の死を悼むものです。この高円とは筑紫の三笠山へ登る中腹の円形に近い台地をいうものではないのでしょうか。ここが志貴親王の奥津城であることを知りました。後に「春日宮天皇」と諡号されたのはこの方ではないかと思われるのです。朝廷の官人達はこの高円山へ集い天皇への哀惜と共に瓦解する国家への限りない惜別の涙を捧げたのでありましょう。その時の歌五首を掲げます。これは『万葉集』最後を飾り、締め括ったものでもありました。

興に依りて各々高圓の離宮處(とつみやどころ)を思いて作る歌五首

高圓の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御代遠そけば(4506)
〈右の一首は、右中辨大伴宿禰家持のなり〉

高圓の尾の上の宮は荒れぬとも立たしし君の御名忘れめや(4507)
〈右の一首は、治部少輔大原今城真人のなり

高圓の野べはふ葛の末ついに千代に忘れむわが大君かも(4508)
〈右の一首は、主人中臣清麿朝臣のなり〉

はふ葛の絶えず偲はむ大君の見(め)しし野邊 には標(しめ)結ふべしも(4509) 〈右の一首は、右中辨大伴宿禰家持のなり〉

大君の繼ぎて見(め)すらし高圓の野邊見るごとに哭(ね)のみし泣かゆ(4510) 〈右の一首は、大蔵大輔甘南備伊香真人のなり〉


ところが国書『続日本紀』にも不思議なことに、志貴皇子の死亡記事があるのです。

716(霊亀2)年8月11日
二品志貴親王薨しぬ。従四位下六人部王、正五位下県犬養宿禰筑紫を遣わして、喪事を監(み)護らしむ。親王は天智天皇第七の皇子なり。宝亀元年(770年)。追尊して、御春日宮天皇と称す。


 七番目だけが何故天皇と尊号を付けられたのでしょうか。死んで50年も経ってからです。天智天皇の子息で天皇になったのは大友皇子ただ一人のはずですが、これはどういうことでしょうか。私には九州倭国の歴史からの盗用記録のように思えるのです。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(40)

「天智紀」(28)


鎌足と鏡王女(8):鎌足の出生地(2)の補足


 前回の記事について、2点追記したい。

 昨日の記事で、487番に出てくる三つの地名(淡海路・鳥籠の山・不知哉川)の比定について書いた。このうち「鳥籠の山」を岩波大系は「滋賀県彦根市の正法寺山」に比定していた。アップロードした直後、これについて決定的なことを思い出した。「鳥籠の山」という一風変わった地名にどこかでお目にかかったような気がしていた。それが「天武紀・壬申の乱」の中に出てくるのだった。

 『日本書紀』は壬申の乱の戦いが、近江・大和吉野・美濃を結ぶ三角地帯で行われたように書いている。しかし壬申の乱はこんな小さな戦いではなく、吉備・太宰府を結ぶ山陽道が主戦場となった「大乱」であったことを古田さんが著書『壬申大乱』で克明に論証している。(「《「真説・古代史」拾遺編》:壬申の乱」で紹介済み)

 さて、『日本書紀』の記述に次のくだりがある。

672(天武元)年7月9日
 男依(おより)等、近江の将秦友足(はたのともたり)を鳥籠山に討ちて斬りつ。
 是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂(あへまろ)等、倭京の将軍大伴連吹負(ひけひ)近江のために敗られしことを聞きて、軍を分(くば)りて、置始連菟(おきそめのぬらじうさぎ)を遣して、千余騎を率て、急に倭京に馳せしむ。


 「定説」は「倭京」を「やまとのみやこ」と訓じているが、これは「ちくしのみやこ」と読むべきことは再三ふれてきた。つまり上の戦いは筑紫で行われている。とすれば、「鳥籠山」が近江であるはずがない。『日本書紀』の頭注は、『万葉集』の頭注と異なり、「滋賀県坂田郡・犬上郡堺付近の丘陵地帯か」と書いている。「定説」では壬申の乱の激戦地として関ヶ原や不破の関を想定しているので、そのあたりに比定したいらしい。それ以上には確たる根拠はないようだ。ということで487番歌も九州で詠まれた歌である可能性がますます高くなった。

 2点目は「淡海の海」について。
 「淡海の海」が琵琶湖ではないことを示す決定的な証拠の一つは『万葉集』153番歌であった。(詳しくは 「地名奪還大作戦(9):淡海の海=博多湾内?(1)」 をご覧下さい。)

太后(おほきさき)の御歌一首
鯨魚取り 近江の海を 沖放けて 漕ぎ来る船 辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫の 思ふ鳥立つ


 「琵琶湖では鯨は捕れない」というのがその理由であった。では「淡海の海」はどこか。4通りの仮説が出されているが、まだどれにも決定打がない。私は「博多湾」説を支持していたが、少し修正しようと思う。何故かというと、博多湾で鯨が捕れた時代があったのか、ふと疑問に思ったのだ。そして、「鯨」で神武歌謡の一つを思い出したのだった。


字陀の 高城(たかき)に 鴫罠(しぎなわ)張る
我が待つや 鴫は障(さや)らず
いすくはし くぢら障る
前妻(こなみ)が 肴(な)乞はさば
立柧稜(たちそば)の 身(み)の無けくを こきしひゑね
後妻(うはなり)が 肴乞はさば
柃(いちさかき)身の多けくを こきだひゑね
 ええしやごしや こはいのごふぞ
 ああ しやごしや こは嘲咲(あざわら)ふぞ。


 この歌の舞台を、古田さんは筑前国志摩郡と比定している。(詳しくは 「『神武東侵』:兄宇迦斯を虐殺する。」 をご覧下さい。)

 以上から、「淡海の海」とは筑前国志摩郡(糸島半島)付近の海(博多湾内ではなく、どちらかというと外海の方)ではないか、と思いを改めたのだった。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(38)

「天智紀」(26)


鎌足と鏡王女(6):鎌足の出生地(2)


 「藤氏家伝」の上巻(大織冠伝)の著述者は藤原仲麻呂(後に恵美押勝 706年~764年)であり、760年に完成されたと言われている。『続日本紀』から「大倭」という表記が消えた年(757年)以後の成立ということになる。

 仲麻呂は不比等の子、つまり鎌足の孫に当たる。764年に権力闘争に敗れて斬首されたが、760年には太政大臣に相当する太師という職を得ている。朝廷権力の第一実力者であり、朝廷が実施する諸政策に深く関わっていた。正史で「大倭」という表記を使わなくなったことも十分承知のはずである。「藤氏家伝」でそれをあえて使用しているのは何故か。

 「大織冠伝」は大和朝廷を牛耳る藤原家の正当性を主張するとともに、家系の由緒を称揚する意図をもってつづられたであろう。正当性の一環として自家の出自をヤマト王権内の地に置くとともに、もともとは九州王朝の栄えある家系であったことも家伝として、少なくとも鎌足の孫の代頃までは伝えられていただろう。このような観点から鎌足の出生地をさぐってみよう。

大倭国高市郡の人なり。……藤原の第に生まれき。

まず新庄さんの説を検討してみる。

(九州に)高市郡を探しましたが、よそ者の私には見当も付きかねたのですが、最近『万葉集』を繰っていたとき見つけたのです。

 ……高市崗本宮、後崗本宮、二代二帝、各異れり。但、崗本天皇といへるは、いまだ その指すところを審かにせず(四八七)

と万葉編者は断っています。この崗の文字は須玖崗本の崗、有名な古代遺跡、鎌足の出身地はこの辺りかと納得することに致しました。「藤原」は鎌足が晩年に天智から貰った名前ということでしたが、これも最初から付いていた地名であったということでしょうか。

 新庄さんが取り上げている万葉集485~487番は次の通りである。

崗本天皇の御製一首〈并に短歌〉

神代より 生れ繼ぎ來れば 人多(さは)に 國には滿ちて あぢ群(むら)の 去來(かよひ)は行けど 我が戀ふる 君にしあらねば 晝は 日の暮るるまで 夜(よる)は 夜(よ)の明くる極み 思ひつつ 眠(い)も寢(ね)かてにと 明(あか)かしつらくも 長きこの夜を

山の端にあぢ群騒き行くなれどわれはさぶしゑ君にしあらねば
淡海路の鳥籠(とこ)の山なる不知哉川(いさやかは)日(け)のころごろは戀ひつつもあらむ

〈右は、今案(かむが)ふるに、高市崗本宮、後崗本宮、二代二帝、各々異なり。但し崗本天皇といふは、未だその指すところを審かにせず。〉


 ここで新庄さんが問題にしていることを、足りない部分を補充して解説しておく。

 ヤマト王権で飛鳥の岡本に宮居を構えた大王は二人いる舒明と斉明である。『万葉集』では舒明の時代を「高市岡本宮御宇天皇代」、斉明の時代を「後岡本宮御宇天皇代」と呼んでいる。上の歌以外では全て「岡」の字が使われている。『日本書紀』・『続日本紀』でも「崗」の字は全く使われていない。このことから新庄さんは上の歌の「崗本天皇」は舒明や斉明とは別人と考えた。そして「崗」のという字面から「須玖崗本」を連想したというわけだ。この推論は果たして妥当だろうか。

 上の左注はとてもわかりにくい文章だ。岩波大系はこの左注について次のような頭注を付けている。

「左注にある通り、舒明、斉明両帝いずれかであるかについて問題があり、近年は歌中の「君」により、斉明天皇とされているが、伝誦的作歌として舒明天皇を擬する考えもある。」

 左注の意味を「舒明か斉明か決定できない」という意と考えている。果たしてそういう意味だろうか。私は字句通り読んで
「高市岡本宮(御宇天皇)・後岡本宮(御宇天皇)と呼んでいる両帝とは呼び方が異なっている。崗本天皇と呼ぶ人は特定できない。」
と言っていると思う。つまり舒明・斉明を指すとしたら「高市岡本天皇」・「後岡本天皇」という表記になるはずだと言っている。編纂者はここでは高市岡本宮にも後岡本宮にも「崗」の字を用いているが、意識しているのは舒明と斉明であることは明らかだろう。従って「高市崗本天皇」を九州王朝の天皇とする新庄さんの説を私はとらない。しかし「崗本天皇」は九州王朝の天皇であり、須玖崗本と関係づける点には賛成したい。実は「崗本天皇の御製一首」という題詞を持つ歌(1511番)がもう一つある。

崗本天皇の御製一首

夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かずい寢(ね)にけらしも


 ただし岩波大系は原文では「崗」なのに、読み下し文では「岡」と原文改定をしている。そして「普通は舒明天皇と解されているが、斉明天皇の可能性もある」という頭注を付して、485番の頭注と整合させている。さらに「小倉の山」について奇っ怪な頭注を書いている。

「奈良県桜井市の山であろうが、忍坂山、倉橋山、多武峰の端山など諸説があり確定しない。」

 なぜ「奇っ怪な頭注」と言っているか分かりますよね。だって福岡に「小倉」という地名があることは中学生だって知っているだろうから。(もう一つ「小倉百人一首」の小倉が京都にある。)従来の学者たちは端から大和の歌と決めてかかり、九州を度外視しているのであのような奇っ怪な注が生まれる。ちなみに1511番と同じ歌(1664番)がある。そこでは雄略天皇の歌とされている。歌の方が一次資料、詞書より歌の中身を取れという『万葉集』の史料批判が妥当である一例である。1511番歌は九州で詠まれた歌である。

 487番には地名が三つもある。岩波大系の頭注は
①淡海路…近江の道
②鳥籠の山…滋賀県彦根市の正法寺山
③不知哉川…大堀川のこと
としている。②・③が根拠のある正しい比定だとすると近江の歌と断定しなければならないが、根拠を何も示していない。もし何の根拠もない比定ならば、②・③の山や川はどこの山・川でもよいことになってしまう。その場合、①は、「淡海の海」が博多湾内の可能性があったように(「地名奪還大作戦:淡海の海=博多湾内?」を参照してください)、博多湾に至る道ということのなる。①・②・③が正しい比定ならば、「崗本天皇は九州王朝の天子」という仮説も成り立たない。

 崗本天皇が九州王朝の天子である可能性が出て来たが、九州王朝の天子を「~天皇」と呼称することがあったのだろうか。古賀さんの論文『「両京制」の成立』から引用する。

 第四、しかもこの「筑後国交替実録帳」(仁治二年、一二四一)には、ただ「正倉院」だけが記されているのではない。「正院」があり、さらに「宮城大垣」がある。それらのワン・セットの中の「正倉院」なのだ。

 第五、その上、右の「正院」と「正倉院」は「崇道天皇」の造営にかかるもの、と記せられている。この名は、通例「早良親王」(七四九~七八五ごろ)の追号として知られているけれど、同名異人だ。なぜならこの親王は「京都~淡路島(未到にして没)~奈良(僧田・社を移置)」の間に足跡が限られ、九州とはかかわりがない。「九州の崇道天皇」とは、すなわち「九州王朝の天子」だ。そして仏道の尊崇者である。(筑前・筑後の「九躰の皇子」を「~天皇」と称する。また朝倉に「天皇の杜」あり。)

 これまでの議論をまとめると、「崗本」(現在は「春日市岡本」と表記)という地名が九州にあり、「崗本天皇」は九州王朝の天子である可能性がある。しかし春日市岡本には「高市」という地名はない。従って岡本を鎌足の出生地とする根拠はない。一方、大和に「高市郡」はあるが、藤原という地名はない。「藤原京が造られたあたりだろう」と推測している論者もいるが、これは単なるこじつけにすぎない。ずいぶん遠回りをして、振り出しに戻った。

 では鎌足の出生地を比定することはあきらめなければならないのだろうか。いやいや、この問題の解決は思いがけず実に簡単だった。

 はなから九州を度外視してる従来の論者は「大和には藤原という地名はない」ということでそれ以上の探索をしようとしない。新庄さんも「大和には」でなく「どこにも藤原という地名はない」と誤解していたのだろうか、高市だけを追っていて九州に藤原を探そうとしなかった。けったいなことに、私の知る限り九州の藤原を調べようとした人はいないようだ。

 「藤氏家伝」は「(鎌足は)大倭国高市郡の人なり」と書いている。「藤氏家伝」が完成した頃、「大倭」は使われなくなっていたはずだが、仲麻呂はこの表記を用いた。もちろんこの文脈では大和を指している。ところで「彼は東京の人だ」と言った場合、聞いた人はどうとらえるだろうか。普通は「東京生まれ」あるいは「東京の出身だ」と考えるだろうが、文脈によっては「東京に拠点を持つ人」あるいは「東京で暮らしている人」という意味にもなるだろう。「藤氏家伝」では大倭国高市郡の人なり。……藤原の第に生まれき。」となっているのだから、あくまでも出生地は藤原だ。仲麻呂は使われなくなった「大倭」を使って、「大和」と本来の意味の九州王朝の「倭国」と、二重の意味に用いているのではないか。つまり「大倭国藤原」と言っているのではないか。「大和国高市郡」で大和朝廷を牛耳る藤原家の正当性を主張している。そして「大倭国藤原」で由緒ある家系を称揚している。もしそうなら九州に「藤原」を探せばよい。このようなちょっと穿ちすぎの推論に半信半疑でネット検索をして驚いた。7件もヒットした。

①佐賀県佐賀市三瀬村藤原
②大分県中津市山国町槻木藤原
③福岡県北九州市八幡西区藤原
④長崎県大村市中里町藤原
⑤長崎県佐世保市藤原町
⑥長崎県大村市溝陸町藤原
⑦大分県速見郡日出町藤原

 ①と③が候補地だ。那珂川に一番近い地とれば①ということになる佐賀市三瀬村藤原はは背振山の麓で、吉武高木遺跡のある早良と吉野ヶ里のちょうど真ん中あたりの地である。鎌足の出生地の候補としてふさわしいと思う。「藤原」という姓は天智からもらった事になっているが、もともとは鎌足の出生地名に由来しているのだろう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(37)

「天智紀」(25)


鎌足と鏡王女(5):鎌足の出生地(1)


 今回は、またまた更新が滞ってしまったことの言い訳から。

 進行中のテーマ「鎌足と鏡王女」は新庄さんの『謡曲のなかの九州王朝』を参考に書いている。しかし今ちょっと行き詰まっている。というのは、新庄さんの着想(仮説)は面白いのだが、論理が飛躍していてほとんど論証らしい論証がない。私にはそのまま受け入れることはできない。新庄さんの提出している仮説を私なりに論証できた場合だけ、その仮説を採用している。いや、私の素人論証も穴だらけかも知れないから、「自分なりに納得できた場合だけ」と言い直そう。論証抜きの仮説を積み上げていった理論は、ヤマト王権一元主義者たちの学問とは言えない学問と同じ「バベルの塔」と化してしまう。

 ということで、三つほどの問題で行き詰まっていていた。それらの問題で考えてきたことを、相変わらず「自分なりに納得できた」というレベルにとどまっているが、記録することにした。そして、方向性が間違っていなければ、少しずつ補充していこうと思う。なにか参考になる示唆を頂ければさいわいです。

 さて、中臣氏の根拠地については、前回、福岡の那珂川あたりではないかという吉本さんの示唆を紹介した。これが正しいとすると、鎌足の出生地も那珂川の近辺に特定できるのではないかと考えていた。

 鎌足の出生地について、「藤氏家伝」は次のように書いている。


内大臣、謹(いみな)は鎌足、字は仲郎、大倭国高市郡の人なり。其の先、天児屋根命より出づ。天地の祭を掌り、人神の間を相ひ和せり。仍(より)て、其の氏に命(おほ)せて大中臣と曰ふ。美気祜(みけこ)卿の長子なり。母を大伴夫人と曰ふ。大臣、豊御炊(とよみけかしき)天皇卅四年歳次甲戌(かふしゆつ)を以て、藤原の第(てい)に生まれき。


 この記事について、新庄さんは次のように述べている。

 鎌足は今まで鹿島・香取あるいは大和とその出身を言われてきたのは、それらには結局その痕跡のないことに因するのではないでしょうか。やはり私は天児屋根命以来、天孫降臨の始めより中富親王-中富家として、連綿とした由緒ある九州倭国天皇家輔弼の臣として続いてきた家柄ではないかと思うのです。

 『大織冠伝』に拠れば鎌足は「大倭の国、高市郡藤原の第に生まる」とある由。ちゃんとこれほど歴然と「タイワ」の国といっているではありませんか。九州の大倭以外、何処に大倭があるのでしょうか。

古田史学に長年親しませて頂いた私には大倭と大和をまるで混同しておられる今の(昔も)歴史学会の理解の程が不思議です。大多数の歴史の高名な先生方にこの縺れたところから見直して欲しいと思うこと切なるものがあります。

 「籐氏家伝」の「大倭」をこんなにあっさりと「九州の大倭」と断定してしまってよいのだろうか。そこで改めて『日本書紀』と『続日本紀』の「大倭」の使われ方を調べてみた。

 『日本書紀』は倭国隠しのため、まず国生み神話の2番目の国名を書き換えた。
豐秋津嶋→大日本豊秋津洲
 そして分注で「〈日本。此をば耶麻騰(やまと)云ふ。下皆此に效(なら)へ。」と読み方まで指示している。続いて天皇の倭風諡号は全て「倭」を「日本」で置き換えている。しかし、「倭」がなくなったわけではない。「倭」と「大倭」と「日本」が混在していて、全て「やまと」と訓読している。ところが例外が一つだけある。(全てを調べたわけではないので、他にもあるかも知れない。) このことでちょと寄り道。

645(大化元)年8月8日条
 使を大寺に遣して、僧尼を喚(めし)し聚(つど)へて詔して曰はく、「磯城嶋宮御宇天皇の十三年の中に、百済の明王、佛法を我大倭(みかど)に傳へ奉る。……」


 磯城嶋宮御宇天皇というのは欽明のことで、「 」内の文はあの仏教伝来の記事のことである。「大倭」が「ちくし(倭国)」のことなら何ら問題のない文だけど、「大倭」が「やまと(奈良)」では不都合なんですね。朝廷を差し置いて大和国に仏教が伝来してきたことになる。辻褄が合うようにここだけ別の訓読をしなければならない。でも「みかど」なんて訓読は無茶だなあ、と思って改めて仏教伝来記事を読んでみた。わかりました。ヤマト一元主義学者たちのつじつま合わせの苦労のほどが忍ばれます。仏教伝来記事(欽明13年10月条)の聖明王からの国書の最後は次のようになっている。

帝國に傳へ奉りて、畿内(うちつくに)に流通(あまねは)さむ。佛の、我が法は東に流(つたは)らむ、と記へるを果たすなり。

 「帝國」は文字通り「天子の國」であり、「貴国」という意味合いであろう。岩波大系ではこれをただ単に「みかど」と訓じている。この「帝國(みかど)」に合わせて、大化元年8月8日条の「大倭」を「みかど」と訓じたわけだった。

 本道に戻る。

 『続日本紀』では「日本」は、天皇の倭風諡号で使われている他は、ハッキリと「日本国」と国名として使われている。そして奈良を指す表記は「大和」と「大倭」が併用されている。しかし「大倭」の方は途中で消える。それまでには次のような経緯がある。

737(天平9)年12月27日
大倭国を改めて、大養徳国と為す。


 「大倭」を「やまと」とすることに忸怩たる思いがあったのだろうか。しかしまあ、「大いに徳を養う」国で「やまと」と読ませるとは恐れ入りました。でもこれは不人気で定着しなかったようだ。747(天平19)年2月22日条には「大倭」が使われている。そしてその次の月に次の記事がある。

747(天平19)年3月16日
大養徳国を改めて。旧に依り大倭国と為す。


 しかし、地名としての「大倭」は752(天平勝宝4)年11月3日の記事「従四位上藤原朝臣永手を以て大倭守と為す」を最後にぱたりと終わる。人名中に使われている「大倭」の終りは757(天平宝字元)年6月16日の記事の「正五位上大倭宿禰小東人」である。この人は翌年の記事では「穂積朝臣小東人」となっている。

 この突然の「大倭」の消滅は何なのだろうか。「大倭」という表記から「倭国(九州王朝)」を思い出すような者はいなくなったと判断し、「大倭」を「やまと」と読む無理な訓読を解消すべく、「大倭」の使用を禁じたのだろうか。『続日本紀』には該当する記事がないが、私にはそのように思われる。

 新庄さんは従来の学者たちが「大倭と大和をまるで混同しておられる」ことを非難しているが、彼らは「混同している」のではなく、『日本書紀』や『続日本紀』の「倭国隠し」という思惑通り「大倭=大和」と信じ込まされてしまったのだ。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(36)

「天智紀」(24)


鎌足と鏡王女(4):鏡王女の出自


 「大嘗祭とはなにか(4)」 で、筑紫舞に登場する「中富親王」という不思議な人が中臣氏の祖先である可能性が高いという古田さんの仮説を紹介した。その部分を再録する。

 『古事記』の「天孫降臨」記事の冒頭は次のようである。

爾(ここ)に天兒屋(あめのこや)命、布刀玉(ふとだま)命、天宇受賣(あめのうずめ)命、伊斯許理度賣(いしこりどめ)命、玉祖(たまのおや)命、并(あわ)せて五伴緒(いつとものを)を支(わ)ち加えて天降すなり。

 「ニニギ」に五人の人物がつきそって行ったと言っている。その筆頭の人物について『古事記』は「天兒屋命は、中臣連等の祖」と注記している。

 古田さんは「中臣(なかとみ)」を「ナカ(地名)+ト(戸あるいは門)+ミ(神あるいは海)」と分析している。そして、博多湾岸の那珂(なか)川との同地名音に着目して、筑紫での中臣氏の根拠地を示唆している。

 さらに、福岡市の田島八幡神社に伝わる祭祀(筑紫舞)の「天孫降臨」の場面に登場する主要人物「中富親王」との関連を指摘している。

中富親王、細姫命(うずめのみこと)を呼ぶ。「細姫命よ、お在(あ)しまする」
細姫命「中富親王の御声として、細姫命やあれ応(おお)せ候は、抑(そも)何の御為(おんため)にて候」


 なんと一緒に天下った「宇受賣(うずめ)命」が登場する。「中富氏」=「中臣氏」である。福岡市周辺には現在も「中富」姓が多く存在するという。堀内昭彦という方が電話帳調査をしている。(1979年2~3月)
中富姓分布(福岡県)
福岡市 86
筑後市 41
北九州市19
久留米市11
粕屋郡 10
宗像市  9
田川郡  7
大牟田市 7

 このようなところにも、神話を史実として扱う古田史学の信憑性が如実に表れてくる。またこれは後に取り上げることになる「中臣鎌足」の出自をも示唆している。

(引用ここまで)

 では鏡王女の出自についてはどうか。『日本書紀』『万葉集』(ともに岩波大系版)はそれぞれ「系譜未詳」「家系未詳」と書いている。つまり何の手がかりもない。『万葉集』に残された歌だけが手がかりである。まず、巻2の91番歌~95番歌を検討してみよう。

近江大津宮に天の下知らしめしし天皇の代〈天命開別天皇、諡して天智天皇といふ〉

天皇(天智)、鏡女王に賜ふ御歌一首
(91)
妹が家も繼ぎて見ましを大和なる大島の嶺(ね)に家もあらましを
鏡女王、和(こた)へ奉る御歌一首
(92)
秋山の樹(こ)の下隠(かく)り行く水のわれこそ益(ま)さめ御思(みおもひ)よりは

内大臣藤原の卿、鏡女王を娉(よば)ふ時、鏡女王の内大臣に贈る歌一首
(93)
玉くしげ覆(おほ)ふを安み開けて行かば君が名はあれどわが名し惜しも
内大臣藤原卿、鏡王女に報へ贈る歌一首 (94)
玉くしげみむろの山のさなかづらさ寝ずはつひにありかつましじ
 〈或る本の歌に曰はく、玉くしげ三室戸山(みむろとやま)の〉

内大臣藤原卿、釆女(うねめ)安見児(やすみこ)を娶(ま)きし時作る歌一首
(95)
われはもや安見児得たり皆人の得難(がて)にすとふ安見児得たり


 岩波大系版『万葉集』の頭注は次のように戸惑いを隠さない。

「この歌が恋愛の歌かどうか、皇太子時代のものか、即位後のものか、鎌足没後のものかについて説がわかれている。皇太子時代の作とすれば「天皇代」の標目や題詞の「天皇」と矛盾し、鎌足没後の作とすれば、93・94の贈答より前にあることと矛盾する。」

 『万葉集』の史料批判の要点は次のようであった。
「歌そのものが第一史料であり、歌の内容と詞書や左注が矛盾するときは、歌の内容に沿って考えなければならない。」
 これまでこの方法論でさまざまな謎が解かれてきた。上の矛盾も簡単に解ける。91番歌を天智の歌だと言う詞書を鵜呑みにしているかぎり矛盾は解けない。『「天皇代」の標目や題詞の「天皇」』を捨てればよい。

 91番歌は「大和に自分の家があれば、あなたに引き続きいつでも会えるのになあ」と鏡王女への恋心をつのらせて、鏡王女が遠く大和に行ってしまうことを歎いている。天智が天皇の時であろうと皇太子の時であろうと鏡王女にはいつでも会える所にいる。天智が作った歌だとすると、ひどく陳腐なものになってしまう。この歌の作者は会うこともままならぬはるか遠方に残された。たぶんこの歌の主(x皇子と呼ぼう)と鏡王女は無理矢理仲を裂かれたのだ。このように考えると92番の鏡王女の秀歌がますます切実な哀切の響きを奏でてくる。

 またちょっと横道へ。
 92番歌は私が好きな歌の一つだ。?十年ぶりに再会して、思い出したことがある。万葉集になじみ始めた頃、鑑賞のよすがに犬養孝著『万葉の旅』(社会思想社)を買った。久しぶりにとり出して、奥書を調べたら昭和43年(1969)の発刊で、値段は3900円。そのころ私にとって(いや今でも)大金だ。でもこうして改めてひもとくことになった。犬養氏の鑑賞文を紹介しよう。


 桜井の町から鳥見山裾を東行して、初瀬路との別れ道から1.3キロの東南、忍阪の村落から東へ山あいにゆくと、舒明天皇押坂内陵がある。陵前のせまい山あいを抜けると、四方、山にかまれた山ぶところのまん中に、いかにも古墳らしくこんもり松の茂った墓がある。鏡王女押坂墓である。

 鏡王女は額田王の姉といわれるが、たしかなことはわからない。藤原鎌足の正室となった人で、奈良の興福寺の開基は鎌足病気の時のこの人の発願によるという。鎌足と結婚する前(いつごろか不明)、天智天皇との歌の贈答があり、これはその答歌である。

 墓所は、忍坂山の南西麓の小盆地のまん中、ちょうど相撲の土俵のようで、こじんまりとひそまりかえり、わずかに松籟をひびかせている趣きである。しみ入るようにしずかな秋の山の木の下に見えかくれして流れてゆく水の水かさの増すように、あたくしの方こそいっそう深くお思いしているという歌の、清く、つつましく、ひそやかな気持の人にはまことにふさわしく、人ひとりいない山ぶところの、松風の音の中にも「秋山の樹の下隠り逝く水」の声がきこえてきそうである。

 さて、x皇子と鏡王女はどこにいたのか。ずばり、筑紫である。x皇子と鏡王女は強く愛し合う恋人同士であった。鏡王女は白村江の敗戦後、九州王朝から権力を簒奪した近畿王朝の采女としてむりやり大和へ連れて行かれた。一種の戦利品として提供させられた。鏡王女は並み居る男たちが「得難(がて)にすとふ安見児」であり、才色兼備の才媛であった。「安見児」を岩波大系は「采女の名前」として、鏡王女とは別人としている。しかしそれでは95番が91番~94番と遊離して、唐突で間抜けな歌になってしまう。「安見児」とは「心映えの優しい美しい子」、現代の通俗的は言葉にたとえれば「イカシタ娘(こ)」というような意味の普通名詞なのではないだろうか。権謀術数にたけた鎌足としてはちょっと軽薄な感も否めないが、鎌足が鏡王女を正室に迎えて有頂天になっている様子がよく表われている。