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鎌足と鏡王女(3):鎌足の身分

 前回挙げた歌のほかに、『万葉集』に詞書にだけ鎌足が出てくる歌(16番)がある。いまは歌の方は必要ないのだが、併せて掲載する。額田王女の才媛ぶりいかんなく発揮されている歌だと思う。

近江の大津の宮に天の下しろしめしし天皇の代
 天皇の内大臣藤原朝臣に詔して、春山の萬花(ばんくわ)の艶(いほひ)と秋山の千葉(せんえふ)の彩(いろどり)とを競憐(きほ)はしめたまふ時、額田王、歌を以て判(ことわ)る歌

冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉(もみち)をば 取りてそ偲(しの)ふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山吾われは


 ここで問題にしたいのは「朝臣(あそみ)」という称号である。ヤマト王権で「朝臣」という姓(かばね)が設置されたのは天武の時である。

684(天武13)年10月1日
 詔して曰く、「更(また)諸氏の族姓(かばね)を改めて、八色(やくさ)の姓を作くりて、天下の萬(よろずの)姓を混(まろか)す。一つに曰はく、真人(まひと)。二つに曰はく、朝臣(あそみ)。三つに曰はく、宿禰。四つに曰はく、忌寸。五つに曰はく、道師。六つに曰はく、臣。七つに曰はく、連。八つに曰はく、稲置。


 当然『日本書紀』には、これ以前に「朝臣」という称号をもつ人物はいない。ところが『万葉集』では鎌足が「藤原朝臣」と呼ばれている。似た例がもう一つある。柿本人麻呂だ。持統時代に活躍した天才歌人・柿本人麿は『万葉集』では一貫して「柿本朝臣人麿」と呼ばれている。しかし『日本書紀』には全く名が出てこない。だからもちろん「朝臣」を授与されたという記事はない。

 上の矛盾は、「朝臣」という称号はもともと九州王朝で使われていて、鎌足も人麿も九州王朝の高級官吏だったとと考えるとすっきり解決する。後に詳しく取り上げることになるが、天武も九州王朝の王族だったと思われる。「八色の姓」は九州王朝で使われていたものをそのまま流用したものだろう。天武の倭風諡号は天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)という。天武は九州王朝において「真人」の称号を与えられていたのではないだろうか。

 鎌足が「朝臣」という高官だったとすれば、中臣鎌子連の「連」を姓の「むらじ」と読むのも矛盾といわなければならない。第2位の称号「朝臣」と第6位の「連」では違いすぎる。前々回、中臣鎌子連の「連」は「つら」ではないかと書いたが、ますますその可能性が高まったと思う。

 鎌足は何事か密命を帯びて九州王朝からヤマトやって来たと思われる。そのとき鎌足はすでに朝臣という高官であった。鎌足の身分が「連」程度ではなかった証左が『日本書紀』の記事の中にある。前回資料を列挙したときにあまり長い記事なので掲載を見合わしたが、644(皇極3)年正月条である。その中から必要な部分だけを掲載していこう。

 鎌足はまず軽の皇子に接触する。

 三年の春正月の乙亥(きのとのゐ)の朔( ついたちのひ)に、中臣鎌子連を以て神祇伯に拝(め)す。再三に固辭(いな)びて就(つかへまつ)らず。疾(やまひ)を稱(もう)して退(まかりい)でて三嶋に居(はべ)り。
 時に、軽皇子、患脚(あしのやまい)して朝(まつりつか)へず。中臣鎌子連、曾(いむさき)より軽皇子に善(うるは)し。故(かれ)彼(そ)の宮に詣でて、侍宿(とのゐにはべ)らむとす。軽皇子、深(ふか)く中臣鎌子連の意氣(こころばへ)の高く逸(すぐ)れて容止(かたち)犯(な)れ難きことを識りて、乃ち寵妃阿倍氏を使ひたまひて、別殿を浄め掃(はら)へて、新しき蓐(ねどこ)を高く鋪(し)きて、具に給(つ)かずといふこと靡(な)からしめたまふ。敬(ゐや)び重(あが)めたまふこと特に異(け)なり。


 後に王位(孝徳)を継ぐほどのヤマト王権内の有力者・軽皇子が、初対面の鎌足に、身の回りを世話する者、いわば現地妻として自分の寵姫を与えている。重要な客人に自分の妻を一夜妻として提供する風習は中世頃まであったようだ。

 次に鎌足が接近を試みたのは中大兄であった。

 偶(たまたま)中大兄の法興寺の槻の樹の下に打毱(まりく)うるる侶(ともがら)に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毱の隨(まま)脱け落つるを候(まも)りて、掌中(たなうら)に取り置(も)ちて、前(すす)みて扼(ひざまづ)きて恭(つつし)みて奉る。中大兄、對(むか)ひ脆きて敬(ゐや)びて執りたまふ。並(これ)より、相(むつ)び善(よ)みして、倶に懐ふ所を述ぶ。

 中大兄もヤマト王権の有力な皇子である。身分の低い者とは蹴鞠はできまい。この蹴鞠は鎌足を歓待する催しではなかったか。中大兄と鎌足以外の参加者が記録されていないが、ヤマト王権の有力者たちが多数参加していたと思われる。
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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(34)

「天智紀」(22)


鎌足と鏡王女(2)


 本論に入る前に資料をまとめておこう。

 藤氏家伝上(「大織冠伝」)によると「鎌足」は「謹(いみな)」である。『日本書紀』には「鎌足」という名は出てこない。しかし『日本書紀』での鎌足の呼称は次々と変わる。『日本書紀』の記事を年表風に追ってみよう。

 中臣鎌子連という名称で初登場したのは644(皇極3)年正月条であった。

644(皇極3)年正月
 中大兄皇子との出会い記事

645(皇極4)年6月8日・13日
 蘇我親子(蝦夷・入鹿)の謀殺記事

645(皇極4)年6月14日
 孝徳(軽皇子)即位。
 中大兄は皇太子に。
 阿倍内麻呂を左大臣にし、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にするとともに、中臣鎌子連に冠位・大錦を授けて内臣に任じている。

 「内臣」を「うちつおみ」と訓じている。この官位を持つ人物は鎌足以外にはいない。ただし、「内臣」という言葉が使われている例が『続日本紀』(養老5年10月24日条 藤原房前への詔)に一例ある。

「およそ家の中に久しく癒らない病気があるときは、何かと平安でなく、不意に悪い出来ごとが起こるものである。汝房前はまさに内臣となって、内外に捗ってよく計り考え、勅に従って施行し、天皇の仕事を助けて、永く国家を安寧にするように。」

 こここでの「内臣」は官位名ではない。「股肱の臣」あるいは「帷幄の臣」という意味合いの普通名詞として使われている。鎌足を「内臣」としたのも「股肱の臣」という意味合いを込めての授与だろう。しかし、鎌足は孝徳に忠誠を誓っているわけではなく、天智の「股肱の臣」である。

 このあと鎌足が登場するのは19年後の664(天智3)年条である。一回目の郭務悰来訪時の接待役として登場する。「中臣鎌子連」という名は使われず、「中臣内臣」という呼称で現れる。

664(天智3)年10月1日
 郭務悰等を發(た)て遣す勅を宜たまふ。是の日に、中臣内臣、沙門智祥を遣して、物を郭務悰に賜ふ。

668(天智7)年5月5日
 天皇蒲生野に縦猟(かり)したまふ。時に大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉に従なり。

668年(天智7)年9月26日
中臣内臣、沙門法弁・秦筆を使して、新羅の上臣大角干庾信に船一隻賜ひて、東厳等に付く。


 ちょっと横道へ。
 額田王女と大海人皇子との贈答歌として人口に膾炙しているあの歌は「蒲生野に縦猟」の時の作歌とされている。

天皇の蒲生野に遊猟したまへる時、額田王のよみたまへる歌
茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる
皇太子の答へたまへる御歌
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾(あれ)恋ひめやも

 本道に戻る。
 「中臣内臣」という呼称はここまでで、次はいきなり「藤原内大臣」と呼称に替わる。

669(天智8)年5月5日
 天皇、山科野に縦猟したまふ。大皇弟・藤原内大臣及び群臣、皆悉に従なり。


 鎌足が藤原姓をもらうのはまだ後のことだ。岩波大系も「ここではまだ中臣内臣と記すべきところ」と注している。あっちこっちからの切り貼りをしているためか、『日本書紀』の編纂者たちは相当混乱して、不都合な記載を処々に残している。

669(天智8)年
 是の秋に、藤原内大臣家に霹(かむとけ)せり。

669(天智8)年10月10日
 天皇、藤原内大臣の家に幸して、親(みづか)ら所患(やまひ)を問ひたまふ。而るに憂へ悴(かじ)けたること極めて甚し。乃ち詔して曰はく、……

669(天智8)年10月15日
 天皇、東宮大皇弟(ひつぎのみこ)を藤原内大臣の家に遣して、大織冠と大臣の位とを授く。仍りて姓を賜ひて、藤原氏とす。此より以後、通して藤原内大臣と曰ふ。

669(天智8)年10月16日
 藤原内大臣薨せぬ。


 鏡王女についての記事は、『日本書紀』では次の2条だけである。

683(天武12)年7月4日
 天皇、鏡姫王(かがみのおほきみ)の家に幸して、病を訊ひたまふ。

683(天武12)年7月5日
 鏡姫王薨せぬ。


 関連記事として、次の記事がある。

673(天武2)年2月27日
 天皇、初め鏡王の女(むすめ)額田姫王を娶して、十市皇女生しませり。


 この記事から、「鏡王女と額田王女は姉妹」という説がある。鏡王については「系譜未詳」とある。おいおい明らかになるだろうが、私(たち)の立場からは、鏡王も鏡王女も額田王女も九州王朝ゆかりの人物である。

 ところで、『万葉集』には額田王女の歌が13首残されている。鏡王女の歌は5首ある。鏡王女の歌は後に取り上げることになると思うので、鎌足の歌と併せて、一応全首掲載しておく。

近江大津宮に天の下知らしめしし天皇の代〈天命開別天皇、諡して天智天皇といふ〉

天皇(天智)、鏡女王に賜ふ御歌一首
(91)
妹が家も繼ぎて見ましを大和なる大島の嶺(ね)に家もあらましを
鏡女王、和(こた)へ奉る御歌一首
(92)
秋山の樹(こ)の下隠(かく)り行く水のわれこそ益(ま)さめ御思(みおもひ)よりは

内大臣藤原の卿、鏡女王を娉(よば)ふ時、鏡女王の内大臣に贈る歌一首
(93)
玉くしげ覆(おほ)ふを安み開けて行かば君が名はあれどわが名し惜しも
内大臣藤原卿、鏡王女に報へ贈る歌一首 (94)
玉くしげみむろの山のさなかづらさ寝ずはつひにありかつましじ
 〈或る本の歌に曰はく、玉くしげ三室戸山(みむろとやま)の〉

内大臣藤原卿、釆女(うねめ)安見児(やすみこ)を娶(ま)きし時作る歌一首
(95)
われはもや安見児得たり皆人の得難(がて)にすとふ安見児得たり

鏡女王の作る歌一首
(489)(1607)
風をだに戀ふるは羨(とも)し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ

鏡女王の歌一首
(1419)
神名火(かむなび)の伊波瀬(いはせ)の杜の呼子鳥いたくな鳴きそわが恋まさる

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(33)

「天智紀」(21)


鎌足と鏡王女(1)


 「天智の履歴の謎」 で、天智と鎌子(鎌足)の出会いの記事(「皇極紀」3年正月条)を引いたとき、この記事が鎌子の初出記事と判断した。鎌足の生年は614(推古22)年とされているので、「推古紀」以降だけを調べた結果だった。しかし、実は似たような名が「欽明紀」552(欽明13)年10月条に出てくる。鎌足の生年より62年も前の記事である。

 552年か。なつかしいな。中学生の時、「おいちにおいちに(1212)と仏教伝来」と、仏教伝来の年を一生懸命覚えようとしたな。皇紀元年(神武即位)が紀元前660年なので「552+660=1212」というわけだった。今でも学校ではこんなウソを教えているのかなあ。ここには二重のウソがある。皇紀が真っ赤なウソ。二つ目のウソは「552年仏教伝来」。ここで「おいちにおいちに」とやっていたのは半世紀の昔のことと気づいて、念のため手元の高校生用「日本史史料集」を調べてみたら、「上宮聖徳法王帝説」「元興寺伽藍縁起」の記事を論拠にした「538年」説を併記し、「538年」説の方が「有力」と解説している。年表では「538年」を採用している。「538年」が定説となっているようだ。

 念のため言い添えておくと、一般に民間の交流から生じる文化の伝播は「国家間の外交事績」(公伝)に先んじている。「仏教伝来」というのは言うまでもなく「公伝」という意味である。

 「定説」は538年を仏教伝来の年としているが、仏教はまず九州王朝(倭国)に伝来されただろうし、その時期もさらに早いと思われる。

 仏教伝来は百済経由であった。では百済ではいつ頃仏教が伝わったのだろうか。『三国史記』・『三国遣事』によると、百済の仏教は沈流王元(384)年と記録されている。倭国と百済との関係を考えれば、倭国への仏教伝来がこれよりも150年も後とは不自然だ。今は深入りしないが、古田さんは『法隆寺の中の九州王朝』の中で、仏教伝来は「4世紀末から5世紀初頭の頃」ということを詳しく論証している。その後さらに古賀さんが『雷山縁起』(糸島郡)を論拠に「倭国への仏教伝来は418年」と割り出している。

 つい横道に入ってしまった。鎌足に戻ろう。

 「欽明紀」552(欽明13)年10月の記事はまぎれもなく「仏教伝来」記事である。そこに「中臣連鎌子」という名で出てくる。次の登場は「皇極紀」644(皇極3)年正月の記事で、「中臣鎌子連」となっている。92年も隔たる記事だから当然全くの別人だ。さすがに「定説」も「中臣連鎌子は藤原鎌足のこと」なんていう無茶なことは言わない。岩波大系の頭注は次のようである。

「当時の中臣氏の中心人物か。ただし中臣氏系図に引く延喜本系帳には鎌子の名はみえない。中臣連は天児屋根命の後と称し、古来朝廷の祭祀を掌った氏。」

 要するに「不明」ということだ。

 さて、ここでかねて気になっていた問題がある。先に私は「欽明紀」に「似たような名」があると書いた。「欽明紀」では「中臣連鎌子」であり、「皇極紀」では「中臣鎌子連」なのでそう書いた。「臣(おみ)」・「連(むらじ)」という「姓(かばね)」はフルネームで表記する時は「氏(うじ)」+「姓(かばね)」+「名」が一般のようだ。つまり「中臣連鎌子」が一般的な表記であり、「中臣鎌子連」という表記は異例である。『日本書紀』を全部調べたわけではないので断言できないが、私の知る限りでは「中臣鎌子連」というような表記はこの例しかない。

 ここで思い出したことがある。 『「倭の五王」とはだれか:真説編(8)』 で取り上げたように、良山「古系図」の中に名称が「連(つら)」で終わる世代があった。「中臣鎌子連」はこの伝統につながる名乗りではないだろうか。もしそうなら「中臣鎌子連」は「なかとみかまこつら」であり、鎌足が九州王朝にゆかりの人物であることの傍証の一つとなる。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(32)

「天智紀」(20)


「太宰府」について(6):倭京(3)


 第1期の掘立柱建物遺構の造営時期は、定説(天智の頃)とは異なり、第2期の礎石建物造営より約100年前後さかのぼることを、理化学的年代測定が指し示している。このことを文献面から論証してみよう。

 九州年号「倭京(ワキョウ)」の直前に「定居(ジョウコ)」と言う年号がある。(読みは平野雅曠さんの試案に従った。)

定居…611年~617年
倭京…618年~622年

 それぞれ、都城創建の地を定めたことを祝って年号を「定居」とし、遷都を祝って年号を「倭京」と定めたと考えられる。この年代は「第2期の礎石建物造営より約100年前後さかのぼる」ことと一致する。自ら天子を名乗ったあの「多利思北孤」の時代である。

 上の年号期間によると、創建の地を定めてから都城の完成まで7年かかったことになる。ヤマト王権最初の条坊都市・藤原京は690年に建造地が決まり、694年に遷都している。これと比べると倭京の方は年月がかかりすぎているように見えるが、倭京は山城・水城を備えた羅城なのでこのくらいの年月は必要だったろう。

 ところで、『日本書紀』での「大宰」の初出は推古17年4月の記事であった。その記事を改めて全文掲載する。

609(推古17)年4月
 筑紫大宰、奏上して言さく、「百濟の僧道欣・恵彌、首として、一十人。俗人七十五人。肥後國の葦北津に泊れり」とまうす。是の時に、難波吉士徳摩呂・船史龍を遣して、問わしめて曰はく、「何か来し」といふ。對へて曰はく、「百濟の王、命せて以て呉國に遣す。其の國に亂有りて入ることを得ず。更に本郷に返る。忽に暴き風に逢ひて、海中に漂蕩(ただよ)ふ。然るに大きなる幸有りて、聖帝の邊境に泊れり。以て歓喜ぶ」といふ。


 『「推古紀」のウソ八百(3)』 で、「推古紀の前後に12年の紀年のずれがあること」を論証した古田さんの論文を紹介したが、上の引用文中の字部分はそのときに用いられた史料の一つであった。つまりこの記事は、九州王朝の史書から盗用するときに干支を一巡間違えて記録したものだ。するとこの記事は本来は621年のものということになる。このことは621年には既に太宰府が創建されていたことを示している。これは九州年号の「倭京元年」が618年であることと見事に符合する。つまり「倭京=太宰府」であり、太宰府の創建は618年であったことを指し示している。

 以上のことを傍証する興味深い史料を、古賀達也さんが論文『「太宰府」建都年代に関する考察』で取り上げている。それを紹介して、テーマ『「太宰府」について』を締めくくろう。

 平安時代延喜年間(901~922)の成立とされる『聖徳太子伝暦』の推古25年条(617)に、聖徳太子による遷都予言記事が見える。次の通りだ。

此地帝都。近気於今。在一百餘歳。一百年竟。遷京北方。在三百年之後。  (『聖徳太子伝暦』推古二五年条)

 平城京遷都と平安京遷都の予言記事と見られるが、もちろん『日本書紀』には見られない唐突な予言記事である。当然のこととしてこのような予言が歴史事実とは考えられず、かといって『聖徳太子伝暦』編者による全くの造作とも考えにくい。何故なら推古25年条にこうした聖徳太子による遷都予言を設定する必要性などないからである。同様に鎌倉期(1318頃)に成立した『聖徳太子伝記』にも、太子46歳条(617)に近江遷都予言記事や難波遷都予言記事が見える。

 このような聖徳太子伝承において、ともに617年に遷都予言記事が配された理由として、九州王朝における上宮法皇多利思北孤による太宰府遷都の詔勅記事が、後代に於いて聖徳太子伝承に遷都予言記事として取り込まれたと考えた場合、その617年が倭京元年(618)の前年にあたり、拙論の太宰府建都を倭京元年とする仮説に対応するのである。聖徳太子の時代、大和朝廷では「遷都」がなかったので、予言記事とせざるを得なかったのではあるまいか。後代史料とは言え、『聖徳太子伝暦』などの617年の遷都予言記事は、倭京元年太宰府建都説の傍証と言えるものであり、これ以外に遷都予言記事が617年に配された史料事実を合理的に説明できないのである。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(31)

「天智紀」(19)


「太宰府」について(5):倭京(2)


 「倭京」=「ちくしのみやこ」は具体的にどこなのだろうか。私(たち)の常識では、それは太宰府以外ではあり得ない。

 「倭京」という名称は『日本書紀』にしか現れないのだろうか。実は九州年号の中に「倭京」(618~623)がある。これは後に改めて取り上げることにして、まずは考古学的にアプローチしてみたい。

(伊東義彰さんの論文「太宰府政庁跡遺構の概略」を教科書に追加します。)

 太宰府は藤原純友の乱(941年)で焼失した。従来は「現在見える礎石が創建時のもので、藤原純友の乱で焼亡した後は再建されなかった」というのが「定説」だった。しかし1968年から始まった発掘調査によって、大宰府の遺構は三層あることが判明した。古い方(下層)から第1期・第2期・第3期と呼ばれている。発掘にたずさわった研究者たち(福岡県教育委員会・九州歴史資料館・太宰府市教育委員会・筑紫野市教育委員会)はおおよそ次のようにまとめている。

第1期 掘立柱建物遺構
 大宰府政庁創建期であり、7世紀後半~8世紀初頭
第2期 礎石建物遺構
 朝堂院形式創建期のもので、8世紀初頭~10世紀中葉(藤原純友の乱で焼失)
 政庁規模は、東西111.6メートル、南北188.4メートル、回廊規模は、東西111.1メートル、南北113.8メートル。
第3期 礎石建物遺構
 朝堂院形式整備拡充期であり、10世紀中葉~12世紀

 第2期の再建時期を8世紀初頭としているが、もしそうならそれを伺わせる記事が『続日本紀』にあるのではないかと思い調べてみた。721(養老5)年7月25日の条の「大宰府城門災。」という記録が目にとまった。この記録では城門だけの火災だったようだし、その後に再建の記事がない。『続日本紀』は日録風のかなり詳しい記録で、大野・基肄・鞠智の3城の修繕記事(文武2年5月25日条)をも記録している。それなのに大宰府再建のような大事な記事の書き落としたとは考えられない。可能性は残るが、この時期の再建ではないようだ。

 すると第2期の遺構の再建時期として唯一考えられるのは、唐の占領軍によって破壊された第1期の遺構の上に、ヤマト王権(たぶん持統)によって建てられたものではないかという仮説である。

 「定説」は第1期の創建を7世紀後半としている。これは考古学的事実による判定ではなく、『日本書紀』に現れる「大宰」記事(「推古紀」~「持統紀)からの推定だろう。たぶん、山城や水城造築記事をからめて「天智が造らせた」と考えたのだろう。この仮説に出会うと、またまた次のことを指摘しなければならない。すなわち、ヤマト王権は、初めて造った坊条都市・藤原京にさきがけて、ヤマト王権の本拠地から遙か彼方の筑紫に山城・水城・神籠石などて防御された大掛かりな羅城を造ったことになる。学者たちはこうした矛盾に目をつぶっている。

 では第1期の太宰府はどのような都城で、その造営時期は何時だったのか。この二点を検討してみよう。

 発掘成果をもとに次のような復元図が作成されている。(Wikipediaから拝借)

太宰府復元図

  Wikipediaは「政庁第1期に対応する7世紀段階では、条坊の存在に結びつくような遺構は確認できない」と書いているが、「確認できない」のではなく、「全面的な発掘を避けている」らしい。内倉さんは次のように苦言を呈している。

 九州歴史資料館は「上の方に平安時代など新しい遺構がある場所は、それ以上掘れない。上の遺構を壊してしまうわけにはいかないので」と、"歴史隠しの意図"を否定する。
 「平安時代の遺構は、図と写真で残せばいい。元来の遺構をきちっと出すべきだ」と思うが、九州歴史資料館は「そうもいかない」とかなり頑だ。数多くの遺跡が「記録保存」されているのに、変だ。この遺跡を「特別史跡」に指定した文化庁の意向がきついらしい。

 上の「復元図」で学校院と書かれている左隣の建物が「大宰政庁」だろう。そこを地元の人は「太宰府都府楼」と呼んでいる。その二つの建物を含む広大な一角、その奥に「紫宸殿」や「大(内)裏」「大(内)裏岡」などの字地名が残っている。また条坊中央の南に延びる道は「朱雀大路」と呼ばれている。その一角は、「第1期の遺構では紫宸殿などを構えた天子の宮城だったに違いない。伊藤さんの論文を読んでみよう。

 I期の掘立柱建物遺構については、その上層にⅡ期およびⅢ期の礎石建物遺構などが良好な状況で存在するため、限られた範囲においてのみしか、その遺構の状況を把握することが出来ません。要は全面的な発掘調査が行われておらず、断片的な資料しかないということです。したがって、その構造なり性格付けといったものについては現在のところ、必ずしも明瞭な解答は得られていません。

 断片的な資料から言えることは、

 I期の遺構のおよぶ範囲が少なくとも、Ⅱ期の朝堂院的建物の範囲と広がりを有する。

 Ⅱ期のような朝登院的建物配置とは異なる。

 Ⅲ期の中門の地域において、少なくとも三回の建て替えが行われている。

 中門・回廊東北部の掘立柱建物や柵列には同一方向をもったものがあり、Ⅲ期の朝堂院的建物遺構の方向ときわめて近似している。
以上のようなことです。

 中門基壇下の掘立柱建物遺構が四面廂(ひさし)の殿舎的な建物(身舎部8.4×14.7メートル、廂部「8メートルの南北棟)であったことから、Ⅱ期のような朝登院的配置ではなかったと考えられますが、掘立柱建物や柵列に同一方向性があり、また、柵列には中軸線を意識したものもあるところから、朝登院的配置を成していなかったとしても、何らかの企画性をもって配置されたものであることは明らかであり、このような建築物が?期の朝登院的建物の範囲に広がっていたということは、掘立柱建物であったとはいえ、当時としては荘厳な威容を誇るものであったと思われます。

 掘立柱建物であるとはいえ、当時としては荘厳な威容を誇った建物群こそ、倭国の大王が居住し、倭国を統御した中心的拠点、すなわち倭国の都がおかれていた太宰府だったと考えられます。だからこそ、その周辺に大規模かつ強固な山城や水城・築堤などの羅城、神籠石などの防御施設を築く必要があったのです。

 Ⅱ期・Ⅲ期の礎石建物遺構保存の必要性から、その下に眠っている掘立柱建物遺構の発掘調査はきわめて限定的範囲でしか行われておらず(中門・回廊東北隅部・北門・正殿の前面)、その遺構や遺物からは創建時期と存続期間を示す直接的な資料は見つかっていないとされる、太宰府政庁跡Ⅰ期の掘立柱建物群はいつごろ創建され、いつごろまで存続したのでしょうか。

 Ⅰ期の掘立柱建物遺構の創建時期について明確に示す資料はほとんどありませんが、太宰府の都城の構造が百済の首都泗沘(538~660)のそれと近似していることや、水城などの理化学的調査の結果などから天智朝よりも遡ることは明らかであり、また、三回の建て替えが行われていることなどから、Ⅱ期の礎石建物が造営される約100年前後前頃に創建されたのではないでしょうか。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(30)

「天智紀」(18)


「太宰府」について(4):倭京(1)


 倭京については 「壬申の乱」 の中で取り上げたことがある。

「倭京」問題(1)
「倭京」問題(2)

 この時は古田さんの論文をごくおおまかに要約しただけでなので、いま読んでみると粗雑の感が否めない。重複する部分もあるが、自分なりの新しい観点も取り入れて再論したいと思う。

 「倭京」の初出は「孝徳紀」の653(白雉4)年の記事である。実に奇妙な記事だ。 「倭京」問題(1) では、その記事の部分掲載だったが、今回は全文掲載しよう。

① 653(白雉4)年
是の歳、太子、奏請して曰さく、「冀(ねが)はくは倭京)に遷(うつ)らむ」ともうす。天皇、許したまはず。皇太子、乃ち皇祖母尊・間人皇后を奉り、并て皇弟等を率て、往きて倭(やまと)の飛鳥河邊行宮(あすかのかはらのかりみや)に居ます。時に、公卿大夫・百官の人等、皆随ひて遷る。是に由りて、天皇、恨みて國位(くに)を捨(さ)りたまはむと欲して、宮を山碕に造らしめたまふ。乃ち歌を間人皇后に送りて曰さく、
 鉗(かなき)着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか
(かなきつけ あがかふこまは ひきでせず あがかふこまを ひとみつらむか)


 ヤマト王権では、天武までの大王は代替わりの度にその宮居も替えている。飛鳥(明日香村)に初めて宮を構えた推古からみてみよう。推古は豊浦宮で即位して、11年後に小墾田宮に遷宮している。次の舒明は即位1年後に飛鳥岡(岡本宮)に遷宮している。次の皇極も即位1年後に板蓋(いたふき)宮に遷宮している。板蓋宮の地はまだ確定されていないが、飛鳥の可能性高いと言われている。一応飛鳥としておこう。

 次の孝徳は即位の半年後に難波長柄豊碕宮に遷宮したとされている。すると上の記事では、天皇に逆らって倭京に還ってしまった皇太子の行き先は小墾田宮か岡本宮か板蓋宮のいずれかと考えるのが当然の理路だと思うが、その当然の理路が通用しない。皇太子の行き先は「倭の飛鳥河邊」という名の「行宮」だという。  「行宮」というのは行幸などの時に施設される臨時の宮居である。とても「京(みやこ)」とは言えない。また、次の667(天智6)年8月の記事では14年前の、もう朽ちたかもしれない「行宮」にいったことになり、とってもトンチンカンなことになる。

② 667(天智6)8月
 皇太子、倭京に幸(いでま)す。

 この記事もおかしな記事である。たった一行の記事で、前後との脈絡もなく、帰還記事もなく、実に唐突なのだ。

 岩波大系では上の二例には何の注もない。上に述べたような矛盾に困り果てているのではないかと同情の念が湧いてくる。

 この後「倭京」は「天武紀・上」の「壬申の乱」の記事に5回出てくる。もちろん「定説」は全て「やまとのみやこ」と訓読している。「天武紀」での「倭京」記事は次の通りである。

③ 672(天武元)年5月
 或いは人有りて奏して曰さく「近江京(あふみのみやこ)より倭京に至るまでに、處處に候(うかみ)を置けり。亦菟道(うぢ)の守橋者(はしもり)に命せて、皇太弟(まうけのきみ)の宮(みや)の舎人(とねり)の、私粮(わたくしのくらひもの)運ぶ事を遮(た)へしむ」とまうす。

 『日本書紀』は、この「近江京」を唯一の例外として、宮居は全て「~宮」と 呼んでいる。つまり近江の宮居も他の所では「近江宮」と呼んでいる。『日本書紀』の編者はここだけなぜ「京」を使ったのだろうか。「倭京」との対の表記なので、それとのバランスをとって「近江京」としたのかも知れない。しかしこれは、後世の私(たち)をまたまた混乱させる。「えっ、倭京というのは「行宮」ではなく近江宮のようなれっきとした王宮だったのか。」

④ 672(天武元)年6月
 ……(大友皇子が)穂積臣百足(ほずみのおみももたり)・弟五百枝(おとといほえ)・物部首日向(もののべのおびとひむか)を以て、倭京に遣す。

⑤⑥ 672(天武元)年7月
 是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂(うみつみちのいくさのきみのおみあへまろ)等、倭京の将軍大伴連吹負の近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分(くば)りて、置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)を遣して、千余騎を率(ゐ)て、急(すみやかに)に倭京に馳せしむ。

⑦ 672(天武元)年9月
 (天武は)庚子(かのえねのひ 12日)に、倭京に詣(いた)りて、嶋宮(しまのみや)に御(おはしま)す。

 この後、「倭京」はパッタリと姿を消す。

 上の③の記事に対して、岩波大系は初めて頭注を付けている。

「飛鳥(奈良県高市郡明日香村)の地をさす。」

 つまり、「定説」は「倭京」は「京(みやこ)」ではなく、「飛鳥の地」の別名だと言っている。倭京がどの王宮か特定できないばかりか、どこに特定しても矛盾が起きる。ほとほと困った上での苦肉の策といったところだ。なるほど、これなら7例のどれをとっても一応矛盾はない。

 しかし新たな疑問が出てくる。「飛鳥」は神武以来ヤマト王権の根拠地であり、ヤマト王権が誇らしく特記する聖徳太子が活躍した地である。なんでわざわざ「倭京」などという曖昧な代替地名を案出する必要があるのか。そして、どうして「天武紀・下」以降では使わなくなったのか。

 以上の問題は全て、「倭」はすべて「大和」という謬見によって、「倭京」を「やまとのみやこ」と訓読したことから発する。「ちくしのみやこ」と解すれば全ての問題が解消する。

 ①のところで述べたように、ヤマト王権では大王の代替わりごとに宮居が遷されている。私はそれを「遷都」ではなく「遷宮」と書いてきた。それには理由がある。遷宮のほとんどは即位の年かその翌年に行われている。そのような短期間で条坊を備えた本格的な「京」を築くことなどできない。ヤマト王権が初めて造営した「京」は持統の「藤原京」である。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(29)

「天智紀」(17)


「太宰府」について(3):筑紫都督府

 「筑紫都督府(ととくふ)」という言葉が『日本書紀』に一回だけ出てくる。「天智紀」の次の記事である。

667(天智6)年11月9日
 百濟の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聡等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。


 この孤立した「筑紫都督府」に「定説」論者たちはほとほと困ったようだ。岩波大系は「筑紫大宰府をさす。原史料にあった修飾がそのまま残ったもの」という苦しい頭注を付けている。「原史料」については何の説明もない。見たこともない「原史料」を持ち出して切り抜けようとしているようだ。太宰府を地方の一役所とみなして疑わないために起こってくる混乱である。何の資料根拠のないこのような「定説」がまかり通る「学会」って一体何だ?

 私(たち)には「筑紫都督府」という言葉に何の疑念もないし、「筑紫太宰府=筑紫都督府」は当然の結論である。文献や考古学的遺物がそのことをハッキリと示している(後ほど取り上げる)。そしてこの場合も、学者たちの困惑ぶりをよそに、民間の伝承は明快である。内倉さんは九州在住の方なので、その辺の事情に明るい。前提書から引用しよう。

 大野城市を抜けて太宰府市に入るところで、東から三部山地、西から脊振山地が張り出し、平野がぐっと狭まる。

 国の特別史跡「大宰府跡」は、袋状になった狭い平野の中心部にある。袋の奥、東側には学問の神様としてあがめられる菅原道真(845~903年)を祭る太宰府天満宮がある。現在、遺跡は広々とした芝生の地表に、礎石や石をならべて地下の遺構の様子が復元されている。

 遺跡の入り口には「大宰府政庁遺跡」と大書してあるが、地元で「セイチョウ跡」という人はほとんどいない。古くからの住民は、
「ここを大宰府政庁と呼ぶ人はいないですよ。私らは昔っから都府楼(とふろう)と言っています」
という。

 遺跡の中央付近に、一段高くなった基壇があり、石碑が三本立っている。中央の石碑には、誇らしげに「都督府古址」と彫ってある。明治年間に民間人が立てたという。

 学者が主張している「大宰府政庁」と、地元の人たちが呼び習わしている「都府楼」とはどう違うのか。そして、石碑にいう「都督府」とは何なのか。

 「都府楼」という呼名が古くから使われている例として、内倉さんは菅原道真の漢詩と取り上げている。901年、京の都から太宰府に追われた道真があばら家で蟄居している時の詩だ。(現代語訳は内倉さんによるもの。)

一従謫落(ひとたびたくらく)して柴荊(さいけい)に就(つ)きてより
萬死競々たり跼蹐(きょくせき)の情
都府楼は纔(わずか)に瓦の色を看(み)る
観音寺は只鐘聲(ただしょうせい)を聴(き)くのみ
中懐は好(よ)し孤雲を逐(お)うて去り
外物相逢うに満月迎う
此の地身に検繋(けんけい)なしと雖(いえど)も
何為(なんす)れぞ寸歩も門を出でて行かん


(現代語訳)
この度咎めを受けてあばら家に住むことになった
死なねばならぬ、の思いで身の置き所もない
木々の間から遠く見える瓦は都府楼の屋根だ
観(世)音寺には参拝もせず鐘聲だけを聴いている
心の中はすべての恩怨を断ち、すがすがしく
名誉回復を思う時、気持ちははればれする
この地では我が身に何の束縛もないが
身を謹んで寸歩たりとも門は出るまい

 貝原益軒(1630~1714)がこの詩に注釈をつけている。その注釈で「都府とは都督府のことだ」と正しく指摘している。しかし、なぜ太宰府を都督府と呼んだのかや、都督とはなんなのかについてはまったくお手上げのようで、何の説明もないという。

 さて、「都督府」とは何か。この問題の答は古田さんの解明に従おう。

 5~6世紀、朝鮮半島の諸国・倭国の各王者は、それぞれ「都督」に任ぜられている。前回の『宋書・倭国伝』からの引用文にあるように、倭国では倭王武が使持節都督に任ぜられている。倭王済も使持節都督になっている。百済王では余映(宋書百済伝)・余隆(梁書、百済伝)など使持節都督に任ぜられている。「都督府」とは「都督」の居する中心拠点のことである。

 百済の場合、7世紀後半(白村江の戦い後)に「五都督府」が設置されている(三国史記)。しかし、その中心は5~6世紀の頃と同様、最初に引用した天智6年条に見られるように依然「熊津(ゆうしん)」である。そこに百済王の都があったのだから当然のことだ。

 倭国の場合も例外ではない。倭王=都督の都するところが「都督府」であった。それが「天智紀」に現われた「筑紫都督府」だ。このことは、5世紀~7世紀まで、倭王の都があった地は筑紫にあったことを示している。従って同時にこれは、白村江の戦の時点の倭王が筑紫君・薩夜麻であったことも証している。

 ところで、7世紀の百済の「五都督府」は唐によって設置されたものだが、倭国の場合は事情が異なる。筑紫都督府は唐の占領軍によって設置されたものではない。倭国は白村江の戦に敗れるまで、一貫して南朝の行政制度を取り入れてきた。7世紀の都督府も5世紀~6世紀の行政制度をそのまま引き継いでいることになる。

 『偽装「大化の改新」(1)「郡評」論争』 で取り上げたように、倭国の行政制度は郡制度ではなく、評制度を採用していた。藤原宮跡から出土した木簡や浜松市伊場出土の木簡がそのことをはっきりと証明している。この行政区画単位である評の長官を評督と言う。評督は文献上では『続日本紀』に見ることができる。これも既に 「九州王朝関係書物は「禁書」として処分された。 」 で論じているので、簡単に再論する。

700(文武4)6月3日
薩末比売。久売。波豆。衣評督衣君県。助督衣君弖自美。又肝衝難波。従肥人等、持兵。剽劫覔国使刑部真木等。於是勅竺志惣領。准犯决罸。

(現代語訳)
 薩末(さつま)の比売(ひめ)・久売(くめ)・波豆(はつ)・衣評(えのこおり)の督(かみ)の衣君県(えにきみあがた)・同じく助督(すけ)の衣君弖自美(てじみ)、また肝衝(きもつき)の難波、これに従う肥人(くまひと)らが武器を持って、さきに朝廷から派遣された覔国使(くにまぎのつかい)の 刑部真木(おきかべのまき)らをおどして、物を奪おう とした。そこで筑紫の惣領に勅を下して、犯罪の場合と 同じように処罰させた。


 「都」には「天子の宮城のある地」の他に「すべて みな」という意味がある。都督の場合の「都」は「すべて」という意である。つまり各地方の全ての評督を束ねる中心人物を都督と呼んでいる。その都督のいる地が都督府である。筑紫以外に、大和にも近江にも「都督府」や「都府楼跡」の存在した痕跡は、文献上にも遺跡上にも全く無い。都督府は倭国の首都・太宰府以外ではあり得ない。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(28)

「天智紀」(16)


「太宰府」について(2)


(今回は内倉さんの『太宰府は日本の首都だった』と古田さんの『邪馬一国への道標』を教科書にしています。)

 『日本書紀』・『続日本紀』は一貫して「大宰」・「大宰府」と、「大」の字を用いて表記している。そして『日本書紀』は、太宰府は推古の昔からヤマト王権の支配下にあったと主張している。この近畿王朝の史書の意図を汲んで、「定説」は「大宰」を「おほきみこともち」とか「おほみこともち」とか、中央から派遣された地方行政官の長という意味の訓読をしている。私は「だいさい」と音読している。

 しかし私は太宰府は九州王朝の首都であることを知っているので、『日本書紀』などからの引用文以外では「太宰府」と「太」を用いて表記している。こちらは一般に流布されているように「だざいふ」と音読しよう。

 上に示した表記の違いは現在にまで引きずられていて、ほとんどの学者の論文では「大宰府」が用いられている。しかし、民間では「太宰府」が一般である。現地の市町村名は「太宰府市」となっているが、なんと学者の間では、「太」は俗字であるとされているようだ。

 どうしてこのようなことが起こったのか。最も根源的な原因は『日本書紀』にあるのだが、内倉さんによると、次のような経緯があったという。

 1930年代に高名な国史学者らが、「太を使う太宰府の名称は中世以後の文献にしかでてこない。本来、点のない大宰府だった」と主張し、遺跡や市の名称を「大宰府」とするようさかんに主張したのだ。

 なぜ学者らがそう主張したかというと、「ダザイフ」には大和政権が派遣した『大宰』がいただけで、それ以前はなにもなかった。中世以前の文献には太宰府という書き方は出てこない。大宰の役所があったから大宰府というのだ」、ということになっていたからである。

 高名な学者らの主張とあって、新聞などでも遺跡の名を書くときは、わざわざ「大宰府」と書くようになった。幸い、市名までは変わらなかった。

 学者たちの主張するように、本当に「中世以前の文献には太宰府という書き方は出てこない」のだろうか。この主張が大ウソであることを、内倉さんは民間の研究者・荒金卓也さんの調査を紹介して指摘している。その調査結果は、全25文書のうち「大」だけ使用のもの8例、「太」「大」併用のもの4例、「太」のみのもの13例、である。このうち8世紀から10世紀までの文書で「太」を用いているものを書き留めると次のようである。

懐風藻…併用
唐大和上東征伝(淡海三船)…併用
入唐求法巡礼行記(円仁)…「太」のみ
続日本後記(藤原良房ほか)…「太」のみ
文徳天皇実録(菅原是義ほか)…「太」のみ
延喜式(藤原時平・紀長谷雄)…併用
倭名抄(源順)…「太」のみ

 懐風藻・延喜式・倭名抄などは学者たちが頻繁に用いる資料である。学者たちが荒金さんが指摘したような事実を知らないはずがない。古田古代史を無視するのと同じ心性がよく表われている。自らの知識を恃む傲慢さと一般の門外漢に対する蔑視という心性。古代史学者に限らず、二流以下の知識人ほどこうした心性を恥じない。「どうせ一般庶民にはわからないさ」。

 私は穿ちすぎているだろうか。内倉さんは優しい。

 伝承を軽蔑し、あまつさえ事実でもないことを声高に主張していたことになる。しかし今は、「学者らは本当に知らなかった」と、その良心を信じたい。

 ともあれ、荒金さんが作った一覧表をみるとわかるが、「八世紀に大和政権内部で作られた史書」は一貫して「大宰府」であるが、そのほかの本では「太宰府」ないしは「大宰府」であることがわかる。言い換えれば、「大宰の庁である大宰府」を主張しているのは「大和政権」だけで、他の文書はこれに疑義をはさんでいるといえる。

 現在、九州歴史資料館は、間違いを認めたうえで、先輩をかばってか、「大に点があるかどうかは、その時の書き手の筆の勢いである。どちらでもいいのだ」という。それならば、最初から問題にすべき問題でなくなるのではないか。

 「大宰」のほうは近畿王朝の創作用語であった。では「太宰」のほうは何に由来するのだろうか。こうした問題は博覧強記の人・古田さんの独壇場である。

 『宋書』には「開府儀同三司」「~六州諸軍事」という言葉と共に「太宰」が頻出するという。「開府儀同三司」「~六州諸軍事」は『宋書・倭国伝』の倭王武の上表文にも出てくる。

興死して弟武立ち、自ら使持節都督、倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王と稱す。
 順帝昇明二年、使を遣わして表を上(たてまつ)る。曰く、『……竊(ひそか)に自ら開府儀同三司を仮し、其の余は咸(み)な仮授して、以(もつ)て忠節を勧(すす)む』と。詔して武を使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す。


(以下、古田さんのお話を要約しようと思っていたのですが、たいへん面白いお話なので皆さんもきっと興味を持つだろうと勝手に予想し、少し長くなりますが、直接引用することにしました。)
 これらとよく似た感じの官名の“サンプル”を一身にになっている人物がいます。それは、江夏文献王、義恭(ぎきょう)。彼の生涯の官名遍歴を具体例として追跡してみましょう。
 彼は高祖(宋の第一代、武帝。420~422)がことに寵愛した子供で、「幼にして明穎( (めいえい あきらかでさとい)姿顔美麗」、他の子供たちの及ぶところではなかった、と書かれています。いわゆる“秘蔵っ子”です。彼は景平2年(424)「監、南予・予・司・雍・秦・并、六州の諸軍事、冠軍将軍、南予州刺史」という官名をもらい、歴陽(安徽あんき省和県)に赴任(ふにん)した、と言います。時に12歳。“可愛らしい将軍”だったことでしょう。

 ここにあらわれている「諸軍事」というのは、上にあげられた六州に対する軍事的支配権、というわけですが、ここには一つの“カラクリ”があります。はじめの南予州と予州の二州はたしかに宋(南朝劉宋)の領域内です。ところが、あとの四州は、北朝側、魏(北魏)の域内なのです。「そんな、ばかな。他国の領内に対して、何で」とおっしゃる方があるかもしれませんが、そこが大義名分論の“妙味”です。

 今、わたしたちは“南北朝”などと気安く呼んでいますが、当の五世紀時点では、そんな言葉はありません。南朝側の宋の視点では、北半はたまたま「叛乱賊軍の不法占領下にある」ということになります。ですから、当然、その領域内の各州あての軍事担当者の官職名が必要、というわけです。北魏の側から言うと、事態は当然逆になるわけです。

 さて、高祖の“秘蔵っ子”義恭は、元嘉9年(432)次のような官号を与えられます。十九歳頃のことです。

徴して都督、南兗・徐・兗・青・冀・幽、六州、予州の梁郡、諸軍事、征北将軍、開府儀同三司、南兗州刺史と為り、広陵に鎮す。(宋書武三王伝)

 今回は南兗州・徐州・兗州・青州の四つが宋の域内の“実州”で、冀州・幽州は北朝内、例の名義だけの“虚州”です。これらの州はすべて都(建康)から見て北方にありますから、「征北将軍」という称号が与えられているわけです。

 ところでここに新たに与えられた官名、それが例の「開府儀同三司」です。この官名の解説をしてみましょう。

 まず、「開府」というのは、「~府」という「府」(官省。官吏の止まる所)を開く権限を与える、ということで、『宋書』には、この「~府」がたくさんでてきます。 ―天府・大府・東府・州府・領軍府・司徒府・丞相府・大司馬府・太尉府・司空府・衛軍府・安北府・相国府・平北府といったように。

 次に「儀同三司」というのは、「儀は三司に同じ」つまり“儀礼上、三司と同じと認める”というわけで、その「三司」とは、「太尉・司徒・司空」の総称です。漢代に設けられた官名ですが、この南朝劉宋でも用いられていました。トップクラスの高官です。先にあげた「太尉府」「司徒府」「司空府」などは、これらの高官統轄下におかれた「府」ですが、これに準じた府を開く権限を与える。これが「開府儀同三司」です。

 戦前、日本の軍隊でも「佐官待遇」といった言葉があったようです。年配の方はご存じだと思いますが、あれです。「大佐・中佐・少佐」といった佐官そのものではないが、それに準ずる待遇を与える、というわけです。

 魏の黄権にはじまったといわれる、この「開府儀同三司」の官名は、この『宋書』にもしばしばあらわれてきます。

 こうしてみると、倭王武がまず自称した上で、その承認を求めたという、この一連の称号は、この天子の“秘蔵っ子”義恭の称号のスタイルそっくりだ、 ―この点にまず注目しておきたいと思います。つまり倭王側は、この南朝内部の官名構成をよく“のみこんだ”上で、自称したり、追認要請したり、しているわけです。

 このような官号昇進コースの“上あがり”はどこか。それをしめすものが、この江夏王義恭が死んだときの官号です。

大明八年(464)前廃帝即位し、詔して曰(いわ)く、『・・・太宰、江夏王義恭、新たに中書監、太尉に除す。・・・』(宋書武三王伝)

 「太宰と太尉」の兼任。すなわち「太宰府と太尉府(「三司」の筆頭)」を共に統轄していたのです。事実、その前々年には、

大明六年(462)司徒府を解く。太宰府は旧(もと)の辟召(へきしょう 任官)に依る

として、彼が「太宰府」を統轄していたことが明記されています。

そしてその上は、 ―もう天子しかありません。しかし、彼は天子にはなれませんでした。大明8年、世祖(孝武帝)の死と共に天子の座についた新帝(「前廃帝」)によって突如虐殺されてしまったからです。

 それは年号の変った永光元年(464)の8月のことでした。新帝はみずから羽林の兵(近衛兵)をつれて彼(義恭)の邸宅を急襲し、彼と4人の子供を皆殺しにします。それだけではありません。彼の死体を切り割(さ)き、腸や胃を分ち裂き、目玉(眼精)をえぐり取り、これを蜜にひたして、「鬼目粽(きもくそう)」(粽は“ちまき”)と称した、と書かれています。ナンバーワンがナンバーツーを憎しみをこめて消し去る。そういう図のようです。

 ここで古田さんは『宋書』における官名関係を整理している。

官位は全部で「九品」に分れている。
第一品
太宰(たいさい)・太傅・太保・太尉・司徒・司空。大司馬・大将軍。諸位従公。
第二品
驃騎・車騎・衛将軍・諸大将軍。諸持節都督。
……

 つまり太宰は最高官位ということになる。

 倭王武は「使持節都督」「安東大将軍」に任ぜられていますから、「第二品」に属します。そして同時に「開府儀同三司」つまり、第一品の「太尉・司徒・司空」に準ずる位置を自称したのです。

 これは直接には、高句麗王と“はりあう”ところに直接の動機があったように思われます。なぜなら高句麗王はすでに、

(大明七年〔463〕七月)征東大将軍、高麗王高璉、車騎大将軍、開府儀同三司に進号す(宋書孝武帝紀)

とあるからです。倭王武の上表文は、この15年後ですが、そこには、

而(しか)るに句麗無道にして、図りて見呑(けんどん)を欲し、辺隷を掠(りゃく)抄し、虔劉(けんりゅう)して已(や)まず

と、高句麗を最大の敵対者として訴えています。そのあとで例の「開府儀同三司」の自称に及ぶのですから、「あの高句麗王がもらっているのに、なぜおれが」という口吻が感じられます。

 しかし高句麗に対して、宋朝の期待するところは大きかったようです。

元嘉十六年(439)太祖、北討せんと欲し、璉に詔して馬を送らしむ。高璉、馬八百匹を献ず」(宋書九十七高句麗伝)

とあるように、大量の馬が献上されています。その上「北魏に対する東辺からの圧力」も期待していたことは当然でしょう。宋朝はこの倭王の要求をうけいれませんでした。ために倭王側の不満を買ったようです。何しろ、倭王は、西晋の滅亡(316)後、朝鮮半島中央部の楽浪・帯方郡が空白化した、その間隙をぬって、東夷世界において「中原に鹿を逐(お)う」大決戦を高句麗にいどんでいたのですから(その状勢に対する、高句麗側からの記念碑、それがあの有名な高句麗好太王碑です)。

 これ以後、倭王の“自己誇示”はいよいよ昂進し、ついには中国の天子とみずからを対等におく「日出ずる処の天子」の自称にまで至ったことは、すでによくご承知ですが、その一点に至る前に、“必至の関門”があります。 ―それは臣下としての最高位、「太宰」の自称です。

(中略)

 このことは何を意味するか。 ―それは南北朝対立時代、倭王にとって「天子」は「南朝の天子だけ」でした。北朝の天子は「ただ北方の夷蛮(索虜)が大義に反して、天子を自称しているだけ」。そう見えていたのです。その肝心の「南朝の天子」亡き今、隋の天子と自分とは、対等だ。 ―これが多利思北孤の「天子自称の論理」だった、と思われます。

 とすると、南朝との国交が健在だった当時、倭王の自称は、たかだか「臣下としての最高位」どまりに依然とどまっていた、と考えなければなりません。 ―「太宰」です。すなわち、倭王の都、それは「太宰府」と称されていたのです。

 では、日本列島の中に「太宰府」なるものが存在した痕跡があるでしょうか。ご存じのように一つだけあります。ズバリ言えば、それが倭国の都です。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(27)

「天智紀」(15)


「太宰府」について(1)


 「太宰府」につても『日本書紀』の記事は「?」だらけである。

 『日本書紀』には「大宰府」が三回出てくる。初出は 『「唐の占領軍」記事』 で掲載した671年(天智10)年11月10日の記事。最初の部分だけ再録する。

 對馬國司、使を於筑紫大宰府(おほきみこともちのつかさ)に遣して言さく、「月生(た)ちて二日に、沙門道文・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人、唐より來りて曰さく、……

 あとは「天武紀」と「持統紀」に1回ずつ出てくる。

677(天武6)年11月1日
 雨ふりて告朔(ついたちまうし)せず。筑紫大宰(おほみこともち)、赤烏(あかがらす)を獻れり。則ち大宰府(おほみこともちのつかさ)の諸司の人に、禄賜ふこと各差有(おのおのしなあ)り。且専(またみづか)ら赤烏を捕れる者に、爵五級を賜ふ。乃ち當郡の郡司等に、爵位を加増したまふ。因りて郡内の百姓に給復(つきゆる)したまふこと、一年。是の日に、天下に大赦したまふ。

691(持統5)年正月14日
詔して曰はく、「直廣肆筑紫史益、筑紫大宰府典(おほみこともちのつかさふびと)に拜(め)されしより以來、今に二十九年。清白(あきらけ)き忠誠を以て、敢へて怠惰(たゆ)まず。是の故ゑに、食封五十戸・絁(ふとぎぬ)十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束腸ふ」とのたまふ。


 『日本書紀』は「太宰府」を大宰(おほみこともち)という地方行政官の役所として扱っている。「大宰」という役職名の初出は「推古紀」であり、次は「皇極紀」に3例、次はずーっと跳んで「天武紀」に11例、次の「持統紀」に13例みられる。ただし、表記の例外として「天智紀」に「筑紫率」(つくしのかみ)、「天武紀」に「吉備大宰」がある。

 「太宰府」については後ほど詳しく取り上げることにして、役職名「大宰」を検討しよう。九州王朝の首都にヤマト王権が地方行政官「大宰」を任命・派遣するという噴飯記事だから、結論はもう目に見えているのだが、一応全記事を追ってみよう。

 「大宰」は「推古紀」の記事(609―推古17―4月)にいきなり現れて「筑紫大宰」とだけで名前が記録されていない。以下、「大宰」がどのように表記されているか調べてみる。

609(推古17)年4月…筑紫大宰

643(皇極2)年4月21日…筑紫大宰
643(皇極2)年6月13日…筑紫大宰
649(大化5)年3月
 是の月に、…日向臣を筑紫大宰帥(おほみこともちのかみ)に拜(め)す。

671(天智10)年6月
是の月に、栗隈王を以て筑紫率とす。

 斎藤里喜代さんが「太安萬侶」という論文で、『日本書紀』編纂を主導したのは太安萬侶であることを論じている。さらに安萬侶の出自は九州王朝であること、『日本書紀』には安萬侶によって九州王朝の残映がそれとなく盛り込まれていること論証しいている。そして最後に、次のような「太安萬侶が苦悩のすえ残した日本書紀の法則」をとり出し、それの論証も行っている。(論証は省略する。)

法則その一
 是歳条、是月条は近畿王朝以外の別王朝の別時代の記事である。

法則その二
 固有名詞や代名詞の一部省略、一部添加はしても改定は絶対にしない。元史料のまま書く。表記の違う名は、別文献である。

法則その三
 またの名、更の名は別人である。

法則その四
 名をもらせりは敗戦国九州王朝の人物であり、名は解っている。

法則その五
 割注以外の振り仮名は漢文に疎い近畿王朝の史官たちのための意訳である。

法則その六
 摂政と称制は九州王朝と近畿王朝の天皇の男女の差や戦で留守がちの天皇の転換のトリックである。

 「法則その四」について補足すると、「なおもらせり」というような注釈がなくとも、官位や役職名だけで全く名前が出てこない「名無しの権兵衛」もこの中に入ると、私は考えている。上の「大宰」5例は「法則その一・その四」のケースである。

672(天武元)年6月26日…筑紫大宰栗隅王

673(天武2)年8月25日…大宰

 この「大宰」は記事の流れから推測すれば「栗隅王」ということになるが、この3年後に流罪になる別名の筑紫大宰がいる。どこで入れ替わったのか、不明。

676(天武5)年9月12日
 筑紫大宰三位屋垣王、罪有りて土左に流す。
677年(天武6)年11月1日…筑紫大宰(あの赤烏献上者)
679(天武8)年3月9日…吉備大宰石川王(死亡記事)

 筑紫大宰はどこかで栗隅王から屋垣王に代わっていて、屋垣王は流罪になっているのだから、赤烏を献上した「筑紫大宰」は名前不明と言うことになる。

 「吉備大宰」について、岩波大系の頭注はつぎのように解説している。

「播磨風土記には総領とある。続紀、文武四年十月条に見える吉備総領も同一であろう。総領は筑紫大宰と同様、地方支配上重要な国におかれ、近隣数か国の行政を管轄する職で、大宝令施行とともに大宰府(筑紫大宰)を除いて廃止された。周防(十四年十一月条)・伊予(持統三年八月条)の例がある。」

 「総領」は全て「すべをさ」と訓読されている。天武14年11月条の周防の行政官は「周防総令」となっていて、「すぶるをさ」と訓じている。「総領=総令」と考えてよいだろう。当然総領は九州王朝の管轄下にあった。

 「総領」は大宝令施行にともなって廃止されたが、近畿王朝が正式に筑紫大宰を任命・派遣できるようになったのもこの頃からではないかと思う。『続日本紀』での筑紫大宰任命記事の初出は702(大宝2)年8月16日の条である。「正三位石上朝臣麻呂を以て大宰師とす」とあり、かなりの高官が任命されている。いまだ九州王朝の亡命政府が存続していたのだから大宰師の役割は相当に重要だったに違いない。以後、『続日本紀』には太宰府関係の記事が頻出する。

、 682(天武11)年4月21日…筑紫大宰丹比真人嶋
682(天武11)年8月13日…筑紫大宰
683(天武12)年正月2日…筑紫大宰丹比真 人嶋
685(天武14)年11月2日…筑紫大宰
686(朱鳥元)年閏12月…筑紫大宰
687(持統元)年4月10日…筑紫大宰
687(持統元)年9月23日…筑紫大宰
688(持統2)年2月2日…筑紫大宰
689(持統3)年正月9日…筑紫大宰粟田真人朝臣
689(持統3)年6月20日…筑紫大宰

 相変わらず任命記事なしで大宰が入れ替わっている。ただこの頃には唐による倭国傀儡政権と近畿王権との間でさまざまな折衝・談判が行われただろう。そのために近畿王権から太宰府へ代表団が送られたことは容易に想像できる。その代表団の長に「筑紫大宰」という役職名を粉飾したと思われる。

689(持統3)年閏8月27日
 浄広肆河内王を以て、筑紫大宰師とす。
690(持統4)年7月6日…大宰
690(持統4)年10月15日…筑紫大宰河内王
692(持統6)年閏5月15日…筑紫大宰率河内王
694(持統8)年4月5日…筑紫大宰率河内王
694(持統8)年9月22日
 浄広肆三野王を以て、筑紫大宰率に拝す。

 河内王は浄広肆川内王という表記で「天武紀」初出する。

686(朱鳥元)年正月
 是の月、新羅の金智祥を饗たまはむが為に、浄広肆川内王・直広参大伴宿禰安麻呂・直大肆藤原朝臣大嶋・直広肆堺部宿禰鯏魚・直広肆穂積朝臣虫麻呂等を筑紫に遣す。


 河内王は万葉集にも名をとどめている。417番・418番・419番歌である。

河内王を豊前国鏡山に葬れる時、手持女王のよみたまへる歌三首

王(おほきみ)の親魄(むつたま)あへや豊国の鏡の山を宮と定むる
豊国の鏡の山の石戸(いはと)闔(た)て隠(こも)りにけらし待てど来まさぬ
石戸破(わ)る手力(たぢから)もがも手弱(たわや)き女(め)にしあればすべの知らなく


 明らかに九州王朝出身の王である。この王は、686(朱鳥元)年9月27日の記事で、天武の死に際して「誄(しのびごと)」をしている。九州王朝に見切りをつけて、近畿王権に帰属した王かも知れない。

 「持統紀」最後の大宰・三野王は672(天武元)年条の筑紫大宰栗隅王の子息である。栗隅王は壬申の乱の時、大友皇子側からの加勢要請を拒否して大海人皇子側についた王である。ちなみに三野王は橘諸兄の父である。橘諸兄は近畿朝廷で正一位・左大臣にまで上りつめている。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(26)

「天智紀」(14)

天智の履歴の謎


 これまで見てきたように「天智紀」は矛盾だらけの史書である。おかしなことがまだまだ出てくる。だいたい天智の履歴がおかしい。

 630(舒明2)年正月12日
 寶皇女を立てて皇后とす。后、二の男・一の女を生れませり。一を葛城皇子と曰す。〈近江大津宮御字天皇なり。〉二を間人(はしひと)皇女と曰す。三を大海皇子と曰す。〈浄御原宮御宇天皇なり。〉


 葛城皇子という呼び名はここだけで以後全く使われていない。〈近江大津宮御字天皇なり〉という本文の注が、葛城皇子は後の天智であることをほのめかしている。そして、この条の岩波大系頭注が「通称は中大兄」と書き、「葛城皇子=天智=中大兄皇子」という図式が作られている。しかし『日本書紀』本文には「葛城=中大兄」を示す文はない。中大兄は644(皇極3)年正月の記事にいきなり現れる。中大兄と中臣鎌子(かまこ 後の藤原鎌足)との出会いの記事である。鎌子もこの記事での突如の登場である。長い物語なので現代語訳で引用する。

644(皇極3)年正月1日
 中臣鎌子連(なかとみのかまこむらじ)を神祇伯に任じたが、再三固持して受けなかった。病と称して退去し、摂津三島に住んだ。
 このころ軽皇子(かるのみこ 後の孝徳)も脚の病で参朝できなかった。中臣鎌子はかねてから軽皇子と親しかった。それでその宮に参上して侍宿をしようとした。軽皇子は鎌子の心映えが高潔で、容姿に犯しがたい気品のあることを知って、もと寵妃の阿倍氏の女に命じて、別殿をはらい清めさせ、新しい寝具を用意させて、万事こまごまとお世話なさった。その敬い崇めること、特別であった。鎌子はその厚遇に感激して舎人に語った。
「このような恩沢を賜わることは思いもかけぬことである。皇子が天下の王とおなりになることを、誰もはばむ者はないだろう。」
 舎人は語られたことを皇子に申し上げた。皇子は大いに喜ばれた。
 鎌子は人となりが忠正で、世を正し救おうという心があった。それで蘇我入鹿が君臣長幼の序をわきまえず、国家をかすめようとする企てを抱いていることを憤り、つぎつぎと王家の人々に接触して、ともに計画を成し遂げ得る明主を求めた。そして心を中大兄に寄せたが、近づく機会がなく、自分の心底を打ち明けることができなかった。たまたま、中大兄が法興寺の槻(つき)の樹の下で、蹴鞠をしていた仲間に加わって、中大兄の皮鞋が蹴られた鞠と一緒にぬげ落ちたのを拾って、両手に捧げ進み、跪いてうやうやしくたてまつった。中大兄もこれに対して跪いてうたうたしくうけとられた。このときから二人はお互いによしみを通じ、共に心中を明かし合った。


 葛城は舒明の第一皇子だから、当然次期大王の第一候補者であったろう。葛城の生年が書かれていないが、寶皇女が舒明の后になった年を葛城の生年として話を進めると、舒明の没年が641年だから、葛城はそのとき11歳。この年齢で大王位を継げば、母親(皇極)は本来の意味での称制にあたる。しかし称制ではなく母親が大王位を継いだ。

 644年の中大兄と鎌子の出会いとき、「葛城=中大兄」とすると中大兄は14歳。しかもその翌年、15歳で蘇我蝦夷・入鹿親子を誅殺したことになる。相当に早熟ということになるが、15歳ならそのようなことを実行できる年と言えなくもない。15歳にしてそのような大それたことできる器であるのなら、皇極の後を継いで大王になってもよさそうだが、665年に皇極が譲位して大王になったのは皇極の弟(孝徳)であった。しかし、中大兄はここで初めて正式に皇太子になった。

 分かりやすく表にしてみる。

  629
  │
舒明│寶皇后630
  │
  641
  │
皇極│寶皇后が継ぐ
  │
  645 中大兄皇太子に
  │
  │軽皇子
孝徳│皇極の同母弟
  │
  654
  │
斉明│皇極の践祚
  │
  661
  662
  │
  │天智称制
  │
  668
  │
天智│
  │
  671

 孝徳の没したとき中大兄は24歳。当然皇太子の中大兄が大王位を継ぐべきだが、またまた母親が重祚(斉明)する。天智称制の7年間は「斉明紀」の切り取りとすると、斉明の没年は埋葬年(667年)かその前年で、中大兄はその翌年(668年)にようやく即位する。時に齢38歳。

 いまだ仮説でしかないが、中大兄と鎌子(鎌足)の突然の登場とそのときの中大兄の年齢の王位継承の不自然さから、私は「葛城≠中大兄」ではないかと考えている。後に取り上げる予定だが、鎌足は九州王朝にゆかりの人物であることは確実だと思われる。そうすると白村江の戦いの時、中大兄(天智)は斉明の皇太子として筑紫で留守役の一端をになっていたという説もあるが、中大兄は九州王朝の王族の一人であったという可能性も出てくる。するとこの問題は 「近江遷都」 の問題と関連してくる。だがまだ結論は急ぐまい。