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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(25)

番外編:「炭素14年代測定法」について

 前回引用した下山さん・田中さん・古田さんのどの文にも、年代比定の決め手として、「放射能測定」とか「放射性炭素年代測定法」とか「炭素年代」という言葉が用いられていた。正確には「炭素14年代測定法」という。「年輪年代法」とともに正確な年代測定ができる方法として研究が積み上げられてきた。ところがその結果が、従来用いられていた「土器型式にもとづく編年」と著しく異なるために、多くの考古学者がその測定法に拒否反応を示している。

 ところで、今までに度々取り上げてきたように、マスコミが報道する古代史関係の記事は「定説」という謬見を鵜呑みにしたものばかりである。27日付の東京新聞朝刊のコラム「メディア観望」に次のような記事があった。社会部の栗原淳という記者の署名入りの記事である。

石器捏造から10年

 2000年11月、「ゴッドハンド(神の手)」と呼ばれたアマチュア考古学者が旧石器発掘を捏造していたと毎日新聞がスクープした。石器を持参して地中に埋めるという単純な手口を見抜けなかった考古学界の信頼は地に落ちたが、新発見を連発する専門家のウソにだまされ続けたマスコミの報道姿勢も問われ た。あれから10年。教訓は生かされているか。

 ■科学の積極的導入

 捏造発覚以降、考古学界では、年代測定の信頼性を高めようと科学的分析が積極的に導入された。その一つが放射性炭素年代測定法だ。生物が体内に取り込んだ放射性炭素(C14)が減っていく性質を応用している。  箸墓古墳(奈良県)について「やっぱり卑弥呼の墓?死亡と築造の時期一致」とした朝日新聞の一年前のスクープも、この方法で国立歴史民俗博物飽(千葉県佐倉市)のグループが調べた結果だ。箸墓は全長280㍍あり、同時代の古墳の中で最大のもの。250年ごろに死んだ邪馬台国の女王、卑弥呼の墓とする説があった。

■箸墓=卑弥呼の墓?

 歴博グループは、古墳近くから出た土器に付着していたススから、その土器が使われ たのが240~250年だと絞り込んだ。記事は、中国の史書「魏志倭人伝」に書かれた邪馬台国の卑弥呼の墓と箸墓の後円部の大きさが近いことなども挙げていた。
 本紙も共同通信配信の記事で「箸墓古墳は『卑弥呼の墓』濃厚」と後を追い、「卑弥呼の墓の可能性が極めて高くなった」という研究者の話を載せた。「慎重な見方をする研 究者もいる」と一言触れてはいたが、邪馬台国の所在地論争に決着を付ける大発見、との印象を与える紙面だった。
 だが、この一年、放射性炭素年代測定法に対する疑問も出されている。学界では「年 代が古く出る傾向がある」「10年、20年単位の測定は無理」などの指摘が相次いだ。考古学者の山岸良二さんに聞くと、「学界では七対三の割合で測定結果に否定的」という。

 ■地道に疑いたい

 昨年の報道は冷静さを欠いていたということになる。上司に喜ばれ、読者に読まれる ニュースには自然と食指が動く。できるだけ速く大きな記事にしたいと思うが、そうした記者の生理に身を任せるだけで、継続的な検証を怠れば旧石器報道の二の舞いになってしまう。科学も絶対ではないことを痛感する。
 科学分析では、前提さえ間違いなければ正しい結論が得られるという。ススが付着した土器は古墳とは無関係で、たまたま近くに埋まっていただけなのかもしれない。一過性のニュース報道に踊ることなく、地道に疑っていきたい。

 昨年の6月、私は東京新聞が報じた「箸墓古墳は『卑弥呼の墓』濃厚」という記事を  「あいかわらず破廉恥な考古学会」 で取り上げて批判した。栗原記者はその報道を「冷静さを欠いていた」と批判的に振り返って、「地道に疑いたい」と自戒の念を表白している。その自戒の念やよし、と言いたいところだが、残念ながら論点がまったくずれている。

 「冷静さを欠いていた」のは放射性炭素年代測定法を安易に信用したためだと言っているが、そうではない。箸墓古墳の炭素14年代測定法による測定年代はたぶん正しかった。箸墓古墳を卑弥呼の墓に結びつけるような、全く成り立たないことがはっきりしている「定説」にしがみついている謬見が「冷静さを欠いていた」のだ。

 栗原記者も言うように炭素14年代測定法では、有意味であるように、測定の対象(サンプル)を慎重に選ばなければならない。さらに、測定に用いる機器も慎重に準備されなければならないし、測定の手順も正確を期さなければならない。そのような条件が整って行われた測定結果は信頼できる。その当否は、「学界では七対三の割合で測定結果に否定的」というように、多数決で決まるのではない。この七対三という割合は、自説に合わない結果は「否」とし、自説を損なわなければ「当」としている学会の頑迷な体質を示しているだけだ。そしてマスコミがその体質にピッタリとシンクロナイズしている。講演録「壬申の乱の大道」で、古田さんが次のようなエピソードを紹介している。

 対馬金田城山城跡自身の放射能測定も、7世紀から6世紀になるという記事が現地の新聞に出ました。しかし東京や近畿の新聞は無視した。やばいというか『日本書紀』と合わないから。それで朝日新聞の内倉さんが、水城の放射能測定がどうも『日本書紀』の言っているような7世紀後半ではない。放射能測定が6世紀前半から7世紀前半となる記事を書いて最後にデスクに止められてアウトにされた。そういう悔しがっている話を何回も聞きましたが。とにかくデスクとしては水城の成立年代が、『日本書紀』と合うと教育委員会を初め今まで全部書いてきたのに、合わないと言われる記事は都合が悪い。想像するに思ったのだろう。

 今や炭素14年代測定法は世界中で認められている国際標準である。日本の学会は笑いものになるだろう。測定にたずさわっている研究者たちに意見を聞いてみよう。(上の引用文に登場している内倉武久さんの『太宰府は日本の首都だった』からの引用です。)

(考古学者たちの不信感に対して)14Cの年代測定をしている研究者たちはいらだちを募らせている。財団法人九州環境管理協会(福岡市東区松香台)の高島良正理事長(九州大学理学部名誉教授)は、

「測定値のすべてが、遺跡の年代だとは言わない。厳密にいえば、同じ地層にあっても後の時代の物が混入することもあるし、地層より古い時期の物である可能性もある。しかし、確実にその地層や遺構と一致した資料であればまずまちがいのない年代をはじきだせる。測定の信頼性には100%近い自信をもっている。特に最近は機材の進歩もあり、正確な測定値をだせるようになった」

 山田治・京都産業大学教授は、

「世界の考古学会の99%が14C測定値を基本に年代判定をしている。われわれは、文献で年代がわかっている歴史時代の測定もたくさんやってきたが、結果はいずれも矛盾のない測定値が出ている。測定値の幅(十一)が大きくて使えない、という声が考古学研究者からでているが、誤差の範囲を少なくしようと思えば、不純物の除去と測定時間を長くすればある程度解決できる問題だ」

 最近は、古代史に没頭しているという北村泰一・九州大学理学部名誉教授も、

「研究者が学者生命をかけて作りあげた年代観を、かんたんに撤回するのは難しいことはわかる。しかし、いつまでも理化学的な年代測定に拒否反応を続けていては、世界に通用しない学問になってしまいます」

という。

 考古学研究者のなかには、自らの土器による年代判定に自信をもつあまり、「日本の放射性炭素の量が、何らかの理由で世界とは違うのではないか」と、疑問をぶつける人もいる。が、理化学の研究者は半分苦笑しながら、「そんなこと、絶対にありません」と口をそろえる。炭素は熱にも強く、熱が高くなればなるほど強固になる。摂氏2500度ほどでもっとも強くなり、酸にも強い。化学物質にも冒されにくい性質をもっているのだという。

 「研究者が学者生命をかけて作りあげた年代観」とはいわゆる「土器編年法」と呼ばれている時代区分で、それなりに精緻な研究が積み重ねられている。しかし如何せん、どんなに精緻であっても「土器編年法」は相対的時代区分であって、その方法では絶対時代を確定することはできない。この辺の事情についても年代測定にたずさわっている研究者の解説を聞いておこう。(「国立歴史民俗博物館編『弥生時代はどう変わるか:炭素14年代と新しい古代像を求めて』の広瀬和雄氏による序論から)

 日本考古学では、鏡のように、暦年代のわかっている中国文物を用いて弥生時代の実年代が推定されてきた。すなわち、前漢鏡が副葬された弥生時代中期後半の北部九州甕棺墓に、前一世紀前半ごろを上限とした年代を与え、そこから先行する甕棺型式に年代を案分させ、さらに甕棺のない時代の年代を上積みし、弥生時代早期を前5~4世紀ごろと推定してきた。もっとも、土器型式にもとづく編年研究では、その先後関係を明らかにできても、個々の土器型式の年代幅を決めることはできない。相対編年とよばれるゆえんである。

 さて炭素14年代法では、弥生土器型式の時間序列を逆転させるような年代や、各地の土器型式の平行関係を大幅に崩すような年代は、ほとんど測定されていない。精緻な土器型式にもとづいた編年体系ができていたからこそ、この測定法が威力を発揮したのもいまやよく知られている事実である。

 留意したいのは、年輪年代法[奈良国立文化財研究所編1990、光谷2000、光谷・大河内編2006など]と炭素14年代法という異なった方法の測定値がほぼ合致する事実である。

 理化学的年代測定の結果は、特に弥生時代・古墳時代の考古学界の年代観と大きく異なっている。内倉さんによると「現在の考古学、古代史学の定説、あるいは通説はほとんど崩壊することになる。大局的に言えば、唯一生き残れるのは古田説だけということになる」と述べている。考古学者・古代史学者たちが、土器編年法に固執ぜずに、炭素14年代測定法・年輪年代法などの理化学的年代法を謙虚に受け入れ、真に学問と呼ぶに値する理論を再構築していくことを願ってやまない。
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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(24)
「天智紀」(13)
「白村江の戦」の戦後処理(5)
軍事防御施設の造営


 もしもヤマト王権が白村江の戦いを戦った中心勢力だとしたら、とても不可思議な記事が「天智紀」にはてんこ盛りになっている。敗戦直後の大土木工事もその一つだ。総力を挙げて用意した船艦400艘が海の藻屑となり、多くの兵士が殺戮されたり捕虜になった壊滅的な敗北で、財政面でも人的資源においても、国力は枯渇していただろう。しかも唐からの占領軍が筑紫に進駐してきている真っ最中である。そのような状況下で、次のような大工事を行っている。

664(天智3)年
 是歳、對嶋・壱岐嶋・筑紫國等に、防(さきもり)と烽(すすみ)とを置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名(なづ)けて水城(みずき)と曰ふ。

665(天智4)年8月
 秋八月、達率(だちそち)答[火本]春初(たふほんしゆんそ)を遣して、城を長門の國に築かしむ。達率憶禮福留(おくらいふくる)・達率憶四比夫(しひふくぶ)を筑紫國に遣して、大野及び椽(き)、二城を築かしむ。

667(天智6)年11月
 是の月に、倭(やまと)國の高安城・讃吉(さぬき)国の山田郡の屋嶋城・對馬國の金田城を築く。

670(天智9)年2月
 ……又、高安城を修りて、穀と塩とを積む。又、長門城一つ・筑紫城二つ築く。


 670年の記事のうち「長門城一つ・筑紫城二つ築く」は明らかに665年の記事の重複記事だろう。『日本書紀』は、いろいろな史料から切り貼りしたり、全くの作り話を挿入したりして作られた史書だから、このような不細工があちこちに現れる。

 ただ一つヤマトに築かれた城(高安城)がある。岩波大系の頭注は次のように解説している。

「遺構は奈良県生駒郡と大阪府八尾市の境、高安山。東西・南北各二キロに近い山間を占め、壬申の乱に争奪の対象となったが、大宝元年八月に廃城。舎屋も移転した。大門・谷門・古門・北矢倉・南矢倉などの現地名との関係は未詳。」

 大掛かりな山城だったことをによわせるような記述だが、実際はどうだったのだろうか。

 下山昌孝という方が「古代山城を訪ねて」という論文を書いている。その中で高安城について次のように報告している。

「近畿天皇家防衛の拠点であるから、今まで数々の調査が行われた筈であるが、現在までの所、敷石造り建物跡二棟が発掘されただけで、城壁(石塁や土塁)や城門など山城を示す遺構は全く発見されていない。築城自体を疑問とせざるを得ない。」

 この下山さんの疑問は当然だろう。天智の近江遷宮は667(天智6)年3月19日と記録されている。つまり高安城築城当時、天智は近江に宮居を構えていた。奈良に防護施設を築くなんてナンセンスだ。

 670年の記事に「又、高安城を修りて、穀と塩とを積む」とあるが、この記事は城を修理したという記事だから、667年の築城記事の重出ではない。そして、築城記事ではないので上には挙げなかったが、同じような記事がもう一つある。

669(天智8)年
是の冬、高安城を修りて、畿内の田税を収む。


 高安城に田から取り立てた租税を収納したと言っている。これらの記事からは、高安城は山城というような大層なものではなく、「穀と塩とを積」んだり「田税を収」める倉庫程度のものだったと考えられる。

 高安城以外の山城や水城は遺構が残っている。その遺構から、それらの城はかなり大掛かりな軍事施設だったことをうかがい知ることができる。天智が筑紫に築いたという2城は「大野及び椽(き 基肄)」と地名がはっきりと書かれているので、その2城についての下山さんの報告を転載しよう。

(1)大野城(福岡県太宰府市と宇美町)
 太宰府・都府楼跡の北、四王寺山(標高410m)の山頂から、北西側に展開する山城である。一般には日本書紀の記述から、白村江の敗戦後に築かれたとしている。しかし古田武彦氏が何時も指摘しているように、白村江の後には唐の進駐軍が筑紫に来ているのであり、そのような時に「唐に対する山城」などを築かれる筈がない。大野城はそれよりかなり前に築かれた朝鮮式山城であると推測される。石塁・土塁の総延長は約6.5㎞に及び、古代山城の中では最大規模である。城門は4ヶ所が確認され、城内に70棟以上の礎石造り建物跡が発掘されている。
 大野城から派生する尾根に連なって水城(総延長約1.2kmの堰堤)が築かれ、山城と水城が一体となった防御施設を構成している。水城も従来の学説では白村江戦後(7世紀後半)の築造とされているが、内倉武久氏が確認したところによると、炭素年代で430±30年(較正値は540±40年)とのデータがあり、6世紀前半以前の築造と考えてまず間違いない。
 大野城は九州王朝の都・太宰府都城の北にあり、高句麗の都・集安の国内城と丸都山城と同様な配置である。

(2)基肄城〈佐賀県基山町〉
 太宰府の南、基山(海抜404m)から南方に展開している。城壁の総延長は4.3km、4ヶ所の城門が確認されている。城内には40棟以上の礎石建物跡が発掘されており、大野城と対になった有明海側を睨む山城である。

 次に、水城とはどのような軍事施設なのだろうか。

 大野城・基肄城・水城・神籠石(こうごいし)が一体となって太宰府を護るように配置されている。このような形態の都城は羅城と呼ばれている。百済の王都扶余の山城配置と相似している。筑紫の羅城全体の規模は東西8キロ、南北8キロ(一部は10キロに及ぶ)の大面積となるという。

 では水城とは何か。今度は田中敬一さんの論文『「白村江」後の倭の防衛戦略』(「古代に真実を求めて・第12集」所収)から引用する。

 次に羅城を構成する水城や朝鮮式山城のひとつひとつに目を転じると、その構築物の大きさに驚かされる。水城は全長1.2キロ、基底部幅72メートル、高さ13メートルという巨大な土塁を中心とした遺構である。北の博多側(外側)には幅60メートルの堀があり、この堀への導水する施設として土塁を横断する木樋(全体の長さ約80メートル、幅二1.2メートル、高さ0.8メートルの木製導水管)が三本出土している。敵の侵入を堀に溜められた水で防ぎ、高さ13メートルという急激な角度をもった土塁で羅城内にいれないようにする防御網である。

 その土塁は、基底部から粘土と山砂でつきかため、その境目に樹皮・木葉などをはさむ版築技法で築造されている。水城の下部の軟弱な地盤の滑りを押さえるための「敷粗朶工法」が採用されており、土木工学の高い技術を窺うことができるが、そのために各粗朶層から木材が出土する。水城の粗朶層は計11層認められ、それぞれが粗朶を敷いて粘土を10センチ~20センチ程入れたものが交互に繰り返され、木材は太いものでも3~4四センチ程度で、ほとんどは径1センチ程の小径の枝である。各粗朶層から出土した木材の年代は、放射性炭素年代測定法により、それぞれ中央値が660年、430年、240年を示したとある。

(中略)

 九州歴史資料館によれば、一年間でこの「水城」を完成させるには延110万人強の労働力が必要であると詳細なる工程分析による算定がなされている。

(中略)

 さらに水城の西側丘陵に小水城と総称される土塁が存在し、規模を見ると、天神山・大土居・上大利の築堤は、それぞれ長さがおよそ70、75、80メートルを測る。また、小水城に相当するものは、南方つまり有明海に画した方面にも認められる。基肄城東南麓の「関谷」および「とうれぎ」の土塁は、いわば南の小水城ともいうべきものである。

 このようにみてくると、太宰府防衛施設として、朝鮮式山城とともに、いわゆる水城などの遺構群も一体のものとして考えねばならない。水城大堤やいくつかの小水城に加えた若干の土塁群は、その間に連なる山稜を自然の要害とすれば、そこには羅城の概念が導入されているとされる。

 繰り返すが、以上見たような大掛かりな防衛施設は厖大な労力と財力を必要とする。短期日で完成されるはずがない。水城にいたっては、3世紀中頃から累々と築かれてきたようにも伺える。この大掛かりな防衛施設造営について、「定説」はどう解説しているだろうか。井上論文は、唐・新羅軍による高句麗殲滅戦を解説した上で、次のように述べている。

 朝廷が唐との国交をはかりつつも、唐の軍事力に大きな危惧をいだいたのはもっとものことである。

 朝廷は白村江の役の直後、664(天智3)年、対馬・壱岐・筑紫に防人と蜂を配し、水城を造ったが、翌年には、百済滅亡とともに渡来したとおもわれる答〔火本〕春初らをして、関門海峡を扼(やく)する長門に城を構えるとともに、同じく憶礼福留らをして筑紫に大野・椽の二城を築造せしめた。二城はさきの水城と一つのセットをなして、いまの大宰府をとりまく大規模の防衛施設であった。

 また667(天智6)年は、高句麗滅亡の前年にあたるが、平壌攻撃の予報にさらに大きな不安に襲われたのであろう。朝廷はその冬、対馬に金田城を築くとともに、防禦施設を筑紫以東にも及ぼして、讃岐に屋嶋城を造り、さらに倭京の守りとして、生駒山脈の南端に高安城を築き、畿内に侵入する敵軍に備えることにした。

 『日本書紀』の記述をそのまま信じている。上で見てきたような考古学上の事実を全く無視した見解である。とんでもない謬見と言わざるを得ない。

 ここで神籠石(こうごいし)についてふれておこう。神籠石とは岩をレンガ状に切りそろえて岩壁を組んだものである。軍事的要塞(古代山城)の遺跡である。岡山・愛媛・山口に各一ヵ所ずつあるが、他は全て九州北部に分布している。それら神籠石の寸法・尺度は全て統一されている。「天智紀」が挙げている金田城・大野城・基肆城などとともに、長い歳月と厖大な人力と財力を費やして、計画的に構築された巨大な要塞である。この神籠石については「記紀」には全く記事がない。現代のヤマト一元主義者たちも黙殺を決め込んでいる。

神籠石

 この分布図を見れば明らかように、神籠石は太宰府から筑後川流域を防御する形に配置されている。この統一した寸法・尺度で造られた神籠石は大宰府・筑後川流域にいた大王によって造られたもので、決してヤマト王権の王が造らせたものではない。

 下山さんは「古田武彦氏が何時も指摘しているように」と書いているが、以上のまとめとして古田さん解説を聞いてみよう。いろいろな論文でふれているが、今回は論文『教科書の聖域─「新しい歴史教科書批判」─』から引用する。


 百論せずとも、上の地図を見てほしい。「神籠石の分布図」だ。それぞれ、山の中腹や上腹に張り回された「軍事的山城」だ。巨石が延々と並び、その上に二重の城柵があった。兵士のみか、住民をも待避させうる広さ、深さ、そして必須の水を装置していた。この軍事体制にとっての「仮想敵国」は誰か。

 築造の時期は、従来の考古学編年(土器を中心とする)では、6~7世紀だ。近年の年輪測定や放射能測定では、「約百年以上」さかのぼる可能性が高い。5~6世紀初め(以前)からとなろう。「下限」は無論、「白村江の戦」(662、或は663)だ。

 当然、「仮想敵国」は“高句麗・新羅”そして“唐”とならざるをえない。すなわち、「高句麗好太王碑の中の倭軍」(4~5世紀)や「倭王武の上表文」(5世紀末)や「白村江の戦の当事者としての倭国」(7世紀後半)は、この「神籠石群につつまれた中枢地帯」(太宰府や筑後川流域)を権力拠点としていた「倭国」なのである。

 これは、当の敵対国であった中国(唐)の史書(旧唐書・新唐書)の語るところと完全に一致している。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(22)
「天智紀」(12)
「白村江の戦」の戦後処理(4)
「占領軍」は何をしに来たのか(3)


 白村江の戦いの後、唐・新羅の最優先すべき課題は長年の宿敵・高句麗の殲滅であった。そのためには背後の敵国・倭への憂いを解消することが必要不可欠だった。倭国に傀儡政権を樹立させた所以である。しかし、倭国には頑強に抵抗する勢力があった。669(天智8)年と671年(天智10)年の二度にわたる2000人の占領軍派遣はその対策のためであった。669年の記事は詳しい内容がないので、「定説」では671年条の重複記事とされている。しかし私は次のように考えている。

 初めの2000人は博多湾から上陸して抵抗勢力に迫ったが思うような進展が見られず、さらに2000人を派遣した。その2000人は有明海から上陸して、背後から迫った。挟み撃ちの作戦である。亡命政府は筑紫から肥後、さらに薩摩へと後退を余儀なくされた。

 亡命政府との戦いと同時に、占領軍は倭国の王宮・王墓・軍事施設などを破壊していっただろう。倭国はずっと南朝に帰属してきて、南朝が滅亡した後は自ら「「日出処の天子」を名乗っていた。唐にとっては「偽りの天子」であり、その痕跡を残すわけにはいかない。

 前権力の痕跡を物理的に抹殺することは、古代の覇権を賭けた戦争では常套手段であった。

 ローマがカルタゴを滅亡させたとき、カルタゴの都市は徹底的に破壊され、全くの更地にされてしまったという。さらに、後顧の憂いを払拭するため、カルタゴ人は虐殺されるか奴隷にされた。カルタゴ陥落時、ローマは5万人ものカルタゴ人を捕虜としている。

(古田さんの講演録「磐井の乱はなかった」を教科書に追加します。)

 隋が南朝・陳を滅亡させたとき、南朝の都・南京は、隋の軍隊に宮殿が壊されて跡形もなかったという。わずかに周りの古墳の、墓の番人のような辟邪(へきじゃ 神獣の一種)が残されているだけだった。

 百済を滅亡させた唐の軍隊も例外ではない。王を生け捕りにして長安に連れ去ったうえ、全てを破壊した。現在、新羅には王墓や遺跡が多く残っているが、百済には武寧王の墓が「土にまみれて、まぐれで残ったように」見られるだけだという。

 ではその破壊の痕跡は今に残っているだろうか。上記講演録後の質問に答えて、古田さんは次のように述べている。

 これをわたしが最初に感じたの土堤です。太宰府から有明海に向かって巨大な土堤が造られている。幅が5.6メートル、広いところはもっとある。高い土堤が造られている。それが何を意味するかは今のところわからない。結局潅漑のためとか、水害のそなえであるとか、いろいろの説があるがもう一つハッキリしない。それについて佐賀県教育委員会に電話すると幸いなことに徳富さんという方が出られた。この方は、この土手の問題について論文を書かれた専門の研究者だった。さっそく御自分の論文「肥前国三根郡の交通路と集落」(古代交通研究六号、一九九七年六月、徳富則久)と佐賀県教育委員会の資料を送って頂いた。堤土塁跡(県指定遺跡)となっている。この方はどうも軍事用のものではないかと書いておられる。それは納得できると、わたしは考えています。しかし、それは全体がつながっていない。太宰府近辺は、ちょんぎられているというか道路が途中で終わっている感じです。あれも唐の軍隊が来て、壊したと考えた一つの例です。

 もっとハッキリしているのは太宰府。あれが太宰府の遺跡だと現在展示してありますが、名前は朱雀門とか、紫宸殿とか、大裏とかの名前が点々と残っている。あれは今の太宰府には、ありうる名前ではない。天子の都にしかありえない名前です。きちんと残っています。それらの名前は残っていますが、太宰府遺跡としか扱っていない。しかし実は、あれは朱雀門遺跡、紫宸殿遺跡、大裏遺跡として扱わなければならない。それが破壊されて太宰府だけであるという形に残されているのではないか。今のところ、そのように考えています。

 そのように唐の軍隊が来て滅亡させた証拠というのは言い過ぎですが、痕跡とおぼしきところと考えています。神籠石もそうです。

 その他にも、これは古賀さんが詳しいですが、築後川流域でもかなり堤防や堀のようなものを造って壊された痕跡がある。また何の目的で作られたかわからない巨大な溜め池が、あちこちにある。従来は九州王朝という概念がないので意味不明なのです。しかしそれらを九州王朝という立場から、もう一度調べ直してみれば説明がつく。今のところ、そう考えています。

(「神籠石」については後ほど詳しく取り上げることになるだろう。)

 では、文献にはそのような破壊の記録は残っていないのだろうか。古田さんは『筑後国風土記』の中の「磐井君」を取り上げて、実に驚くべく説を展開している。

 古田さんは『失われた九州王朝』や『法隆寺の中の九州王朝』で「磐井の乱」を取り上げていた。私は『法隆寺の中の九州王朝』を用いて、その古田説を 「磐井の叛乱」 で、かなり詳しく紹介している。『古事記』や『日本書紀』が描く「磐井の乱」は大義名分を逆転して記録している。それは「磐井の叛乱」ではなく「継体のクーデター」だったというのが、古田さんの論旨だった。

 ところが、上のような今までの考えは誤った説だったと古田さんは言う。講演録「継体の乱はなかった」では、その後の研究の結果「磐井の乱」そのものが全部作り話だったというのだ。私にとってはまさに青天の霹靂だった。しかしその論証には「なるほど」と納得せざるを得なかった。

 古田さんが前説を考え直すきっかけになったのは、読者の方から指摘されて、次のような問題点に気づいたからだった。

 「継体紀」では磐井の乱は528(継体22)年のこことされている。九州年号の正和(526~530)年間にあたる。磐井の乱があって磐井が殺されたのに年号がそのまま続いているの変だ。また九州王朝は弥生時代から少なくとも7世紀末まで歴然と続いている。九州王朝・九州年号の概念と磐井の乱とは両立しない概念である。そこで新しい探求が始まったというわけだった。  さて、新説「磐井の乱」を紹介する前に、古田さんの論拠になっている『筑後国風土記』の「磐井君」を改めて読んでおこう。

 「磐井君」の前半部分は 「倭国の律令」 で掲載した。そのときに(以下「磐井の乱」の記述が続くが略す。)と、省略した後半部分がいま問題にされている。その部分は次のようである。

古老の傳へて云へらく、雄大迹(をほど)の天皇の世に當たりて、筑紫君磐井、豪強(つよ)く暴虐(あら)くして、皇風(おもむけ)に偃(したが)はず。生平(い)けりし時、預(あらかじ)め此の墓を造りき。俄にして官軍(みいくさ)動發(おこ)りて襲(う)たむとする間(ほど)に、勢の勝つましじきを知りて、獨自(ひとり)、豊前(とよのくにのみちのくち)の國上膳(かみつみけ)の縣(あがた)に遁れて、南山の峻(さか)しき嶺の曲(くま)に終(みう)せき。ここに、官軍、追ひ尋(ま)ぎて、蹤(あと)を失ひき。士(いくさびと)、怒泄(や)まず。石人(いしひと)の手を撃(う)ち折(お)り、石馬の頭(かしら)を打ち堕(おと)しき。古老(ふるおきな)の傳へて云へらく、上妻の縣に多く篤(あつ)き疾(やまひ)あるは、蓋(けだ)しくは玆(これ)に由るか。

 ここには『日本書紀』の記述とは大きく異なる点が二つある。一つは「記紀」では磐井は殺されたことになっているが、「風土記」では「遁れて…終せき」となっている。『日本書紀』の記述に合わせた物語を書いているとしても、磐井に同情的に書いている。二つ目は、「風土記」では磐井を見失った腹いせに石人や石馬を壊しているが、『日本書紀』にはその類の記述は全くない。

 (築後國『風土記』は)継体の軍勢が築後に来て、そして磐井を攻撃した。石人や石馬を壊したということを書いてある。事実、現在の岩戸山古墳に行くと模造品ですが、壊れた石人や石像が置いてある。だから『風土記』に書いてあるとおりだ。つまり『風土記』はほんとうだよ。学校の先生が生徒を連れて行けば、そのように説明されると思う。

 なるほどと、わたしも最初は思った。ですが行っているうちに、おかしいと気が付き始めました。なぜおかしいのかと言いますと葛子の問題。磐井には息子の葛子がいて、後を継いだと書いてある。葛子が壊れた石像を、そのまま大事に21世紀まで保存して伝えたのですかね。あんなものはやり直せばすぐです。あの石は材質は阿蘇山系ですから、たくさんある。もう一度キチンと親父さんのために作り直せばよい。それをしないで継体に壊されたものを、そのまま保存して後世に伝えた。完品はないですから。そういうことは言えば言えるけれども、そういう場景はわたしは想像できない。

 それだけ葛子は石が惜しかったのか。手間が惜しかったのか。そのように考えるとおかしい。そういうことに気が付いてからは、現地で何回か言いました。ところが、それはおかしいですね。そういう単なる印象批評にとどまっていた。

 ところが石像は実際には壊されている。実物が壊されているから模造品として、壊された石像を作った。そうすると壊されたのは、本当はいつなのか。そういう問題が出てくる。これも結論から言いますが壊されたのは7世紀後半。白村江の後である。誰が壊したのか、唐の軍隊。

(中略)

 だから壊されたのは7世紀後半、それから8世紀に近畿天皇家の世になる。だから石像を作り直す必要はない。このように考えると、話はひじょうに分かりやすい。継体の時にすると、どうにも分かりにくい。しかし白村江以後、あるいは8世紀という仮説に立てば、現在の事実関係がひじょうに簡明に説明できる。

(中略)

 ここに、「古老の傳へて云へらく、上妻の縣に多く篤き疾あるは、蓋しくは玆(これ)に由るか」とあります。「玆」をどう解釈しているか。岩波の注釈「磐井の君の祟りという意」を、そこに付けています。

 「玆」で、現在というのは8世紀前半以後『風土記』が作られて以後です。八女のあたりに「篤き疾」があって、手や足の折れた人・夫婦がたくさん居るというわけです。それは「玆」に依るだろうと言っています。「玆に由るか」の岩波の注釈では、いわゆる、これの祟りで、このようなことが起こったと注釈がついています。しかし考えてみてください。200~300前に手や足を折られた人が居た。負けたら折られるでしょう。しかし、その祟りで手や足を折られた人間がつぎつぎ生まれてくる。そんな祟りは聞いたことがない。祟り万能で、なんでも祟りのせいにして人間の理性的な判断を狂わせられると思っているから、そう書いてあるだけです。そんなことはありえないことです。わたしはそのように断言いたしますが、皆さんはどうですか。

 それでは、この文章はどう理解したら良いのか。とうぜん7世紀の終わりに白村江以後唐の軍隊が入って来れば、とうぜん人々は抵抗します。これで手や足は折られた。それが『風土記』が作られた8世紀前半になっても、まだ手や足は折られた人はたくさん残っている。これなら分かる。そういうたいへん分かりやすいことを、これは語っている。

 それを前のところを書き換えなければ、つごうが悪い。そんな唐の軍隊が壊したとか、(近畿)天皇家が見て見ぬふりをしたとか、それが分かるようではぐあいが悪い。書きなおせ。あの大化の改新の評制とおなじように、継体天皇の時に壊されたというように書きなおさせた。しかし部分的に書きなおしたから、ここの部分が残ってしまった。

 だから明治以後の学者が天皇協力主義で、祟りという変な注釈を付けた。だからこれを200~300年前というのはウソです。手や足を折られたのは、これはその時のつい最近のことを話として古老は語っています。これなら分かるでしょう。200~300年前に、手や足を折られた人の産んだ子が、祟りで手や足を折られたままで生まれた。そんなバカな話は世界中のどこを捜してもありえない。占領の事例もありえない。祟りという言葉にだまされている。だからわたしは、「祟り売り」という言葉を使いたい。明治以後の天皇家の学者達は「祟り売り」によって、変えて読んでいる。だから史料をそのままに読まず、明らかに内容が書きなおされている。

 ですから、これだけは間違いないと思われていた話はアウト。ですから筑後國『風土記』が「継体の反乱(磐井の乱)」があったという証拠にはならない。『古事記』『日本書紀』に合わせているだけです。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(22)
「天智紀」(11)
「白村江の戦」の戦後処理(3)
「占領軍」は何をしに来たのか(2)


 今回のテーマは既に 『九州王朝関係書物は「禁書」として処分された。』『「竺志の惣領」は占領軍総司令官 』 で取り上げている。しかしその後いろいろと新たな情報を得たので、さらに詳しく書くことにした。

 郭務悰の随行員は第1回が130余人、第2回が254人だった。この程度の人数での来国ではかえって拘束されたり、場合によっては報復のための刑死にあってしまうのではないかと思う人もいるかも知れない。しかし、彼らの背後には勝ち誇っている唐・新羅連合軍が控えている。しかも王(筑紫君薩夜麻)をはじめ幾多の将兵が捕囚されている。このような状況下で戦勝国の使者を殺害したり追い返したりできるわけがない。

 私たちは65年前にアメリカ軍による占領を体験している。総司令官マッカーサーが厚木飛行場に降り立ったのは、ポツダム宣言受託の20日後(8月30日)だった。当時の朝日新聞は、出迎えた先遣隊の幕僚・幹部将校を含めて「乗用車23台、トラック10台に分乗」して横浜のニューグランド・ホテルに向かったと報じている。1台当たり乗用車には4人、トラックには20人と多く見積もっても300人ほどの随行員である。もちろん日本周辺には主だったアメリカ艦船がやって来ていただろう。先遣隊の人数は分からないが、高級将校や実務官とわずかの護衛兵だけだったのではないだろうか。マッカーサーが8000人の占領軍をともなって東京に進駐したのは9月8日(横浜に設置されたGHQの移転は9月17日)であった。

 飛行機使って迅速に進駐できる現在と違って、唐の占領軍は帆と人力が頼りの木造船で対馬海流を乗り越えてやってこなければならない。日本の遣唐使は全部で20回ぐらいあったようだ。往復で40回の渡航として、そのうち7回も遭難している。当時はリスクの大きい航海だった。天候や海流の状況を選んでの渡航だから、郭務悰の2回目の来国が最初の来国の約1年後というのものうなずける。

 郭務悰の初回の来国は、いわば先遣隊であったろう。倭国の留守政府との戦後処理についての直談判が目的だったと思われる。帰国は本国への報告とその後の指示を仰ぐためであり、帰国したのは責任者の郭務悰のほか、わずかな人数であり、大方は続いて駐留していたにちがいない。

 郭務悰の2回目の来国は、本国から交渉結果の承認と新たな指示を得て、本格的に倭国の政治中枢を変革するための進駐であったろう。いわば、傀儡政権の樹立が目的である。

 しかし、現在のイラクやアフガニスタンと同様、倭国全体がおとなしく帰順したわけではない。唐の占領に抵抗する勢力もあった。南へ南へと追い詰められながらも、その抵抗は続いた。

 ちょっと横道に入ります。「唐の占領に抵抗する勢力」は、九州王朝の後継者という大義名分をもった、いわば亡命政府のような組織だったということを、ここで確認したいと思った。

 その抵抗の経緯のあらましは『続日本紀』の記事からうかがい知ることができる。 『九州王朝関係書物は「禁書」として処分された。』 から、その記事を年代順に再録してみる。

700(文武天皇4)年6月3日
 薩末(さつま)の比売(ひめ)・久売(くめ)・波豆(はつ)・衣評(えのこおり)の督(かみ)の衣君県(えにきみあがた)・同じく助督(すけ)の衣君弖自美(てじみ)、また肝衝(きもつき)の難波、これに従う肥人(くまひと)らが武器を持って、さきに朝廷から派遣された覔国使(くにまぎのつかい)の刑部真木(おきかべのまき)らをおどして、物を奪おうとした。そこで筑紫の惣領に勅を下して、犯罪の場合と同じように処罰させた。

702(大宝2)年8月1日
 薩摩と多褹(たね)は王化に服さず、政令に逆っていたので、兵を遣わして征討し、戸口を調査して常駐の宮人を置いた。

702(大宝2)年10月3日
 これより先、薩摩の隼人を征討する時、大宰府管内の九神社に祈祷したが、実にその神威のお蔭で、荒ぶる賊を平定することが出来た。


 私は、この最後の記事から、九州王朝の滅亡は702年と考えていた。しかし読みが浅かった。「これより先」とあるから、隼人征討はまだ続いていたのだ。

707(慶雲4)年7月17日
 山や沢に逃げ軍器をしまいかくしている者は、百日を経て自首しなければ、本来のように罪する。

708(和銅元)年1月11日
 山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日経っても自首しないものは、本来のように罪する。


 「軍器」とは「軍用の器具」であり、兵器だけを指す言葉ではない。〝正規の軍隊の戦闘行動に必要な一切のもの″を指す。また「禁書」とは九州王朝の史書・公文書・詩歌集(万葉集には「古集」と呼ばれて痕跡を残している)などの重要文書である。つまり山沢に隠れていた人々は、山賊・盗賊の類ではなく、ヤマト王権に対抗する大義名分をもった正規軍の残党であった。細々ながら九州王朝の命脈はまだ続いていた。

717(養老元)年11月17日
 山野に逃亡し、兵器を隠し持ち、百日以上になる者は、大赦なく、もとの通り罪とする。


 「軍器」が単なる「兵器」に変わっている。「禁書」にもふれていない。狩り出されているのは、もはや正規軍ではなく、敗残兵である。

 以上より、708年と717年の間のどこかで九州王朝が完全に滅亡したことになる。私が見落としていた記事があった。713(和銅6)年7月の記事である。

713(和銅6)年7月
 次のように詔された。
「勲位を授けるのは、本来功績があるからである。もし功ある者を優遇しなければ、何のよって彼らを励まし勧めることができようか。今、隼人を討伐した将軍と士卒らのうち戦陣で功のあった者1280余人に、それぞれ功労に応じて勲位を授ける」


(ここでまたまた教科書の追加。古賀達也 さんの論文「続・最後の九州年号」)

 この授勲記事にはおかしな点がある。1280余人もの授勲だから、なにか大がかりな征討が行われたと予想できるが、征討記事がないのだ。702年(大宝2)8月の薩摩征討記事には9月に授勲記事あって、征討記事と授勲記事がチャンとセットになっている。

 ところで、二中暦の九州年号は「大化」で終わっているが、古賀さんは九州王朝の最後の年号は「大長」であり、「大化」のあと「大長」は9年続いたという仮説を「最後の九州年号」で論証している。

 もしそうなら、一方で近畿王朝が初めて年号(大宝)を立てているから、二つの年号が併存していたことになる。いいかえれば、九州王朝と近畿王朝が併存した時期があったことになる。細々ながら九州王朝が存続していた。そして、九州王朝の年号が終わった712年(大長9)年が九州王朝が完全に滅亡した年ということになる。古賀さんは、上の713(和銅6)年7月の記事は「大長が終わった712年頃、南九州において九州王朝と大和朝廷との一大決戦が行われたと考えざるを得ない史料痕跡」であるとし、それを次のように解読している。

 授勲と同年の和銅6年4月に、大隅国設置記事が見えることから、大和朝廷は隼人征討に勝利したことがうかがえるが、それならばその戦闘記事をカットしなければならない理由はないはずである。にもかかわらず、カットされているという史料事実は、九州王朝との関連を考えざるを得ない。

 すなわち、九州王朝を最終的に滅亡に追いやった一大決戦の記事が、九州王朝の存在そのものを隠すために意図的にカットされたとしか考えられないのである。

 そして、この授勲記事の前年が和銅5年(712)であり、わたしが提案した最後の九州年号大長の最終年、大長9年なのである。『続日本紀』からカットされた一大決戦が前年の和銅5年のこととすれば、まさにその年に九州年号は終了したのだ。

 これは偶然の一致とは思えない。大長9年に、南九州において大和朝廷は九州王朝の息の根を止めたのであり、それにより九州年号も終わったと考えざるを得ないのである。

 古賀さんの論究は、708年(「軍器」記事)と717年(「兵器」記事)との間のどこかで九州王朝が完全に滅亡したとする私の指摘とも一致する。これも「偶然の一致とは思えない」。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(21)
「天智紀」(10)
「白村江の戦」の戦後処理(2)
「占領軍」は何をしに来たのか(1)


(ヤマト王権一元論者が描く「戦後処理」の代表として、井上光貞氏の論文「大化の改新と東アジア」(岩波講座・日本歴史2」所収)を教科書に追加します。)

 郭務悰が最初に筑紫にやってきたのは664年5月だった。「天智紀」は白村江の戦いでの敗戦を663年9月としているので、その約半年後ということになる。「天智紀」には一行の人数は書かれていない。井上論文には「130余人」と書かれている。

 次の来国は665年9月である。総勢254人と「天智紀」は記録している。12月の帰国している。

 この終戦直後の2度の来国について、井上論文は次のように述べている。

 天智朝は対外関係からみると、戦後処理の時代であった。すなわち664(天智3)年、唐は劉仁願を百済の鎮将とし、旧百済国の太子扶余隆を熊津(ゆうしん)都督に任じた。これは余燼くすぶる「其(百済の)余衆を招輯」(『旧唐書』百済伝)するためと、百済・新羅の「和親」(同)を両国王家の間で誓わせるためであって、その年、扶余隆は、新羅金仁問(文武王の弟)と熊津において、「勅使」劉仁願を証人として和親を盟つた(『三国史記』羅紀)。

 そして『書紀』や「海外国記」(『善 隣国宝記』所引)によれば、この会盟の後、劉仁願は百済の郭務悰ら130余人を日本におくり、かれらは筑紫に来て「牒書」を朝廷におくった。これは唐が熊津の第一次会盟にもとづいて「百済領の安全を主眼とする修睦」を日本にはかったものと解釈されるが、朝廷はかれらを劉仁願の私使にすぎないという理由でうけとらなかった。

 ついで翌665(天智4)年、百済の熊津で第二次会盟がおこなわれ、新羅側は、文武王みずから列席し、今後、扶余隆は熊津都督として「其(百済)の祭祀を守り」、「新羅に依倚して長く与国たること」と、「各々宿憾を除き好を結び和親すること」とを誓いあい(『旧唐書』百済伝・劉仁軌伝)、唐の直轄領たる旧百済領と新羅国域との国境画定もおこなわれた(『三国史記』「文武王書」)。

 この第二次会盟についても、唐は本国からの劉徳高を首席として、前回の郭務悰ら250余人をおくり、かれらは筑紫に来て「表函」(『書紀』)を奉ったが、こんどは形式もととのい、内容も納得のいくものであったのであろう、かれらは入京を許され、12月帰国した。

 この2回の来国の目的を『「百済領の安全を主眼とする修睦」を日本にはかったものと言っている。注で池内宏という学者の論文「百済滅亡後の動乱及び唐・羅・日三国の関係」を参照していると記しているので、池内氏のこの説が「定説」となっているのだろう。岩波大系の頭注も次のように書いている。

「以下、郭務悰ら派遣の目的は、唐が百済占領政策について日本の諒承を得るためであったとする説がある。しかし朝廷は彼らを国使と認めず、筑紫大宰で処理して上京を許さなかった。詳細は海外国記に見える。」

 この注では「以下、…」と書き始めているので、全ての郭務悰の来国がそれを目的としていると言っているように読めるが、もしそうなら、何とも無茶な主張だ。その目的のために2000人からの軍隊を引き連れてきた?

 また、「朝廷はかれらを劉仁願の私使にすぎないという理由で(表函を)うけとらなかった」(井上論文)とか「朝廷は彼らを国使と認めず、筑紫大宰で処理して上京を許さなかった」(岩波大系の頭注)とか書かれている。「天智紀」の「郭務悰等を發(た)て遣す勅を宜たまふ」という文は「使者として認めずに送り返した」という意に取れるが、直接の出典は「海外国記」(『善隣国宝記』所引)としている。私には初耳の史書だが、どんな書物なのだろうか。(以下、岩波大系の補注による)

 「善隣国宝記」は1470年に瑞渓周鳳という僧が著わした外交史の本である。「海外国記」は733年に書かれたとされると同一のものだろうと推測されている。その書物は今に残っていない。周鳳が「海外国記」から引用した一文が典拠となっている。補注には
「周鳳は海外国記を直接見たわけではなく、元永元年(1118)4月の大外記中原師遠・師安・広宗・広忠・清原信俊らの勘申から引用したのである」
とあるから、いわゆる孫引きである。その引用文(漢文)を読むと、確かに「私使にすぎないという理由で(表函を)うけとらなかった」というようなことが書かれている。郭務悰の第1回目の来国時の随行員130余人というのもその引用文に見られる。

 大体学者さんたちは、国の命運をかけた戦争で大敗した国が戦勝国の使者を追い返したり、入京を許可・不許可を一方的決定することが可能だと、本気で考えているのだろうか。もしかすると唐が「百済・新羅の和親」に尽力していたことから、倭国に対しても親和的であったと推測しているのだろうか。「百済・新羅の和親」の意図は、新羅への牽制のために百済に傀儡政権を樹立することだろう。イラクやアフガニスタンにいて、アメリカ軍が駐留したままで傀儡政権を作っていることと同じようなものだ。

(教科書を追加します。前田博司さんの論文「九州王朝の落日」)

 前田論文の次のような解読こそリアルだと私は考える。

 百済の滅亡後、親「唐」的な百済国を再建するつもりの唐のプランにたいし、新羅は強硬に自国への併合につっ走り、ついには唐の軍勢を朝鮮半島から追いだしてしまうという挙にでた。唐に対抗するためには、まず背後を固めておくことが必要という立場から、新羅は西暦670年に「近畿王朝」すなわち日本国が日本列島の主権者であることを承認した。「三国史記」の新羅本紀の文武王10年11月に「倭国が国号を日本と改めた」とあるのは、このことを指している。

 新羅が日本国(近畿王権)承認したのは670年であったのに対して、唐が日本国を中心権力として公的に承認したのは則天武后が実権にぎっていた701年のことである。それまでは、唐はかたくなに倭国(九州王朝)を中心権力として扱っていた。郭務悰の来訪の相手国はあくまでも九州王朝であり、近畿王権ではない。したがって、駐留地は筑紫であり、大和や近江ではない。

 古代史の学者たちが史料として依拠している国内史書は全て九州王朝抹殺後の近畿王権の大義名分を前提に書かれているのだから、それらの史書に書かれていることをそのまま鵜呑みにしているかぎり、彼らはヤマト王権一元主義という「井」の中の「蛙」で終わるほかない。「井」のなかでは、中国や朝鮮の史書の利用も、都合のよいところだけを取り、都合の悪い部分には知らんふりをする外ない。

 では最初の2回の郭務悰の来訪は何が目的だったのだろうか。本来の史料が焚書されてしまっているのだから、戦勝国からの敗戦国への来訪と言うことをふまえて、常識的な推測をするほかない。(次回で)

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(20)
「天智紀」(9)
「白村江の戦」の戦後処理(1)
「唐の占領軍」記事


「白村江の戦」の続編です。

 近畿王朝の成立はひとえに「白村江の戦」で九州王朝が大敗した故に起こった「棚からのぼた餅」であった。しかし、その成立には唐の占領軍の介在が不可欠だったろう。唐の占領軍は物見遊山のために九州に上陸したわけではない。ここで、先の大戦で大敗した日本国で、天皇制が温存されたのも岸信介のようなCIAのエージェントが首相になったのも、アメリカ占領軍の思惑によるものであったことを思い出すのもよいだろう。

 唐の占領軍は何をしに来たのだろうか。次の2点であろうことは容易に想定できる。

 唐に頑強に抵抗してきた倭国を徹底的に壊滅すること。

 唐に従順に朝貢してきたヤマト王権を倭国の後継権力とすること。

 ただし、 「壬申の乱(1):近江遷都」で取り上げたように、天智は倭国王の血筋を引く九州王朝の人物の可能性がある。その場合は、「壬申の乱」の意味づけとも関係するし、②の構図はかなり違ったものとなる。このことと深く関連する事項がまだあるので、今は結論を急ぐことなく、その事項を取り上げたときに検討したい。

 さて、郭務悰(かくむそう)という人物が唐の占領軍の総司令官にあたるようだ。上の①・②を検討するために、どの記事を使うことになるか分からないが、ひとまず「天智紀」「天武紀」「持統紀」から、郭務悰が関わっている記事を全部抜き出しておく。

664(天智3)年
5月17日
 百濟の鎭将軍劉仁願、朝散大夫郭務悰等を遣わして、表凾(ふみひつ 上奏文を収めた凾)と獻物(みつき)とを進(たてまつ)る。
10月1日
 郭務悰等を發(た)て遣す勅を宜たまふ。是の日に、中臣内臣、沙門智祥を遣して、物を郭務悰に賜ふ。
10月4日
 郭務悰等に饗賜ふ。
12月12日
 郭務悰等罷り歸りぬ。

665(天智4)年
9月23日
 唐國、唐國、朝散大夫沂(き)州司馬上柱國劉徳高等を遣す。〈等といふは、右戎衛郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰を謂ふ。〉凡て254人。7月28日に、對馬に至る。9月20日に、筑紫に至る。22日に、表函を進る。
10月11日
 大きに菟道(うぢ)に閲(けみ)す。
11月13日
 劉徳高等に饗賜ふ。
12月14日
 物を劉徳高等に賜ふ。

 是の月に、劉徳高等罷り歸りぬ。

669(天智8)年
 是の年、小錦中河内直鯨等を遣して、大唐に使せしむ。…
 又大唐、遣郭務悰等二千餘人を遣せり。

671年(天智10)年11月10日
 對馬國司、使を於筑紫大宰府に遣して言さく、「月生(た)ちて二日に、沙門道文・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人、唐より來りて曰さく、『唐國の使人郭務悰等600人、送使沙宅孫登等1400人。総合(す)べて2000人、船47隻に乗りて、倶(とも)に比智嶋に泊(とま)りて、相謂(あいかた)りて曰く、今吾輩(われら)が人船、数衆(かずおほ)し。忽然(たちまち)に彼(かしこに)到らば、恐るらくは彼の防人、驚き駭(とよ)みて射戦はむといふ。乃(すなわ)ち道久等を遣して、預(あらかじ)め稍(やうやく)に来朝(まうけ)る之意を披(ひら)き陳(まう)さしむ。』とまうす」とまうす。

672(天武元)年
3月18日
 内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇の喪を郭務悰等に告げしむ。是に、郭務悰等、咸(ことごとく)に喪服を着て、三遍擧哀(みねたてまつ)る。東に向いて稽首(をが)む。
3月21日
 郭務悰等、再拝(をが)みて、書函と信物(くにつもの)を進る。
5月12日
 甲冑弓矢を以て、郭務悰等に賜ふ。是の日に、郭務悰に賜ふ物は、総合て絁(ふとぎぬ)1673匹・布2852端・綿666斤。
5月30日
 郭務悰等、罷り帰りぬ。

692(持統6)年
閏5月15日
 筑紫大宰率河内王等に詔して曰はく、「沙門を大隅与と阿多とに遣して。佛教を傳ふべし。復(また)、大唐の大使郭務悰が、御近江大津宮天皇の爲に造れる阿弥陀像上送(たてまつ)れ」とのたまふ。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(19)
「天智紀」(8)
番外編「泉涌寺の尊牌」

 図書館で遠山都美男著『古代の皇位継承』という本が目に入った。今私が扱っているテーマと重なるので借りて来た。著者はまぎれもなくヤマト王権一元主義者である。「天皇」と呼んでいいのは天武からであるという説(ただし論証抜き)を打ち出している点がヤマト王権一元主義者としては珍しいが、全体は『日本書紀』の記述だけを下敷きにした本であり、肯定的に利用できる論文はなかった。ただ「天武系皇統は実在したか」と題したプロローグに泉涌寺の尊牌をめぐる面白い議論があった。

 京都の泉涌寺(せんにゅうじ)の霊明殿には歴代天皇の位牌(または影像)が奉安されている。いわば皇室の菩提寺である。後小松天皇以後は全天皇の位牌があるが、それ以前については30数人の天皇が欠けている。天智天皇から大正天皇まで全部で52名の名が挙げられている。初めの10人を挙げると次のようになっている。(天智から数えることにする。)

第1代 天智天皇
第12代 光仁天皇
第13代 桓武天皇
第15代 嵯峨天皇
第16代 淳和天皇
第18代 文徳天皇
第19代 清和天皇
第21代 光孝天皇
第23代 醍醐天皇
第25代 村上天皇

 天武・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙(称徳)・淳仁の位牌が欠けていることが目に付く。このことから、これらの天皇は意図的に排除された、とする説が生まれている。

 これら「天武系」の天皇の位牌が霊明殿に安置されていないのは、「天智系」と「天武系」が対立関係にあって、「天智系」が復活した後は「天武系」が意図的に排除された結果と考えたくなるのも分からない話ではない。そうであるならば、泉涌寺に「天武系」天皇の位牌がないこと自体が、「天智系」と「天武系」とが対立関係にあった何よりの証拠ということになるであろう。

 さらに、泉涌寺霊明殿に「天武系」の位牌がないのは、天智と天武が実の兄弟ではなく(天武が兄、天智が弟で異父兄弟関係にあったとする説もある)、天武が実は天皇家とは無縁の存在だったからとする極端な所説も唱えられている。

 皇室の菩提寺(ほだいじ)なのにそこに天武らの位牌がなく、いわば先祖として供養されていないのは、彼らが天皇家とは本来縁のない存在だったからというわけである。

 「天武が実は天皇家とは無縁の存在だった」という説を遠山さんは「極端な所説」というが、多元史観の立場から、私は大いに正当性のある仮説だと思っている。このことについてはそのうち詳しく論じる機会があると思う。

 さて、遠山さんはこれらの説に次のように反論している。

 しかし、このような考えが間違っていることは、霊明殿に祭られている位牌の来歴を見れば明らかであろう。

 1876(明治9)年6月、宮内省から泉涌寺に対して、
「尊牌・尊像奉護料トシテ年々金千二百円下賜候事)」
という通達があった。泉涌寺は歴代天皇の陵墓や位牌を守護してきたが、神仏分離・神道の国教化政策により陵墓は泉涌寺から切り離された。そして、今後は上記の「奉護料」を得て、歴代天皇の位牌を奉安する寺院として国の保護を受けることになったのである。

 さらに同日、
「京都府下各寺院の尊牌・尊像、悉ク皆、其ノ寺へ合併仰出サレ候」
との通達も下された。これにより、京都府下の各寺院に奉安されていた歴代天皇および門院・皇子・皇女の位牌や肖像は、特別の寺院を除き、すべて泉涌寺に合併されることになった(『泉涌寺史』による)。

 「これによって、新たに位牌が泉涌寺に安置されることになった天皇はつぎのとおり。」と言って、26名の天皇名を挙げている。この26名の中にないはずの「元明」が入っていたり、先に挙げられていた全52名にはない名があったり、ちょっといい加減なデータだけど、このあと遠山さんは「元明」も入れて論を進めている。もし元明の位牌も奉安されているのなら、天武系排除論は初めから成り立たたないことになる。しかし今、私の関心はこの論争にあるのではない。

 元明が入るのか入らないのか、真偽のほどは分からないが、泉涌寺のパンフレットには「平安京の第一代天皇桓武天皇、その御父光仁天皇、その直系の御祖天智天皇、この三天皇が霊明殿に奉祀の特にお古い御方で、歴代天皇が奉祀されてい」と書かれているらしいので、ここでは全員の名を挙げていた最初の名表を信じよう。もし元明の位牌も奉安されているとすると、これからの私の議論も反故になってしまうのだが、ともかく続けよう。

 先に記載した初めの10名の名表で、明治になって新たに加えられた天皇に「・」をつけてみた。
・第1代 天智天皇
・第12代 光仁天皇
・第13代 桓武天皇
・第15代 嵯峨天皇
・第16代 淳和天皇
・第18代 文徳天皇
第19代 清和天皇
・第21代 光孝天皇
・第23代 醍醐天皇


 近江(滋賀県)の法傳寺には「天智天皇御尊牌奉安 法傳寺」という碑が立っているという。天智の位牌は法傳寺にあったと考えていいだろう。宮内省の通達では「京都府下各寺院」とあった。遠山さんは「京都府下」を「京都とその周辺」と拡大解釈しているようだが、近江が「周辺」で奈良は「周辺」ではないのだろうか。天武系の位牌があってもおかしくないことになる。とすれば、天智の位牌だけは特別に泉涌寺に運ばれたことになる。

 さて、ここで私は「天智紀(1)」で取り上げた延喜式にある国忌の規定を思い出したのだった。

国忌
イ、天智天皇 12月3日 崇福寺
ロ、天宗高紹(光仁)天皇 12月23日 東寺
ハ、桓武天皇 3月17日 西寺

 上の泉涌寺の名表とピッタリ同じである。偶然の一致だろうか。あのときの中村さんの言論がそのまま通用する。

「光仁以前の天皇達のうち、国忌として定められている天皇は天智のみである事実を何と理解すべきであろうか。官撰の歴史である『日本書紀』には堂々と神武以下の天皇が継続しているのである。」

 以上が前回私が、「天智が近畿王朝の始祖であるという認識は天皇家に代々受け継がれているのではないか」と推測した根拠である。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(18)
「天智紀」(7)
天智称制の秘密(6)
「伊勢王とは誰か」(2)


 「白雉改元」記事に登場する人物の中で「王」と呼ばれているのは伊勢王だけである。この記事の中で見るかぎり伊勢王の地位は、天皇(実は倭国王)―皇太子―伊勢王と三番目の人物と言うことになる。皇太子はこの記事を盗用した近畿王朝の立場では中大兄皇子(天智)を示すので特別に挿入されたとも考えられる。もしそうだとすれば伊勢王は二番目となり、王位継承者の可能性もある。

 ここで山崎さんは「天智紀」の「伊勢王の死亡」記事に着目する。「伊勢王-弟王」つまり「兄―弟」がセットになっている。すぐ思い出されるのは『隋書俀国伝』が伝える多利思北弧の兄弟執政(これは古田さんの造語。山崎さんは「兄弟首長制」と呼んでいる。以下は山崎さんの用語に従うことにする。)である。

 兄弟首長制は古代の氏族国家や部族国家の一つの習俗であったようだ。「紀記」や「風土記」のなからいくつか例を引くと、神武紀の「兄猾(えうかし)―弟猾(おとうかし)」・「兄磯城(えしき)―弟磯城(おとしき)、また「播磨国風土記」に「兄太加余志-弟太加余志」がある。姉弟首長制もある。『魏志倭人伝』の「卑弥呼(ひみか)―男弟王」が有名だ。隅田八幡神社伝来の人物画像鏡(503年の鏡であることが明らかにされている)の銘文には「日十大王年―男弟王」がある。(『「男弟」を考える』で富永長三さんが「日十大王年」は女王であることを論証している。)

 以上のことをふまえて、山崎さんは、伊勢王は「白村江の戦」で捕囚になった筑紫君薩夜麻(さちやま 「天智紀」では「薩野馬」と卑語を用いて表記している。「持統紀」では「薩夜麻」。)の弟王だったのではないかという仮説をたてている。つまり、「白雉改元」記事中の天皇は実は倭国王・薩夜麻であり、伊勢王はその弟王であった、としている。

 さて、九州年号は、白雉の後、661年に白鳳に改元される。この白鳳は23年間続く。九州年号の中で白鳳の次に長いのは明要の12年。古代における改元は、現在と違って天子の代替わりの時だけに行われるわけではない。白鳳の期間の長さは異常である。なぜそのように長い期間改元がなかったのだろうか。

 この白鳳期間はヤマト王権では斉明7年から天武11年に相当する。その間には白村江の戦・筑紫君薩夜麻の虜囚と帰国・筑紫大地震・唐軍の筑紫駐留・壬申の乱などがあり、九州王朝から近畿王朝へと権力が交代していく大動乱の期間であった。山崎さんはこの大動乱時に生きた伊勢王の運命を次のように推定している。

 この白鳳の時代に白村江の敗戦(662年)があって、九州王朝大王の薩野馬は唐の捕虜となったのです。大王が戦闘に参加したのですから、留守は伊勢王が預かっていたのです。

 敗戦の報とともに大王は行方不明になってしまい、さらにこの混乱の渦中、天智の反乱がおきたのです。兄王の安否が不明のなか、王位継承権は彼にあったとしても、直ちに即位もできなかったのではないでしょうか。改元が行われていないのはこのためでしょうが、伊勢王は自他ともに認める九州王朝の大王たるべき立場の人であったと考えられます。
 多分、天智4年の初頭、天智の革命は成功し、彼は天智の手中に落ちたのです。そして「書紀」に従えば天智7年6月伊勢王と弟王は天智の手により殺害され、九州王朝はここに滅亡したのです。

 正確には、九州王朝は完全に滅亡したわけではなく、力は徹底的に削がれたが存続している。九州年号も白鳳のあと朱雀・朱鳥・大化(~704年)と続く。(最近の研究では大化のあと、大長という年号あったという。後ほど詳しく取り上げる機会があるかも知れない。)

 讖緯説の辛酉革命の革命とは王朝交替があくまでその原意です。即ち、旧王朝の滅亡と新王朝の成立のことが書かれなくては王朝交替となりません。もし、「書紀」編纂者が一度完成していた「書紀」を書き替えて、讖緯説を導入するため天智称制即位を造作したことが確実であるならば、天智称制即位は新王朝の成立を記したといえましょう。ですから、どうしても、旧王朝の滅亡を記す必要があるのです。

 斉明7年の伊勢王の死の重出記事は、天智紀では同じ月でありながら天智即位の後になっているのに、称制即位では前となっている点が注目されます。讖緯説通りの旧王朝の滅亡が書かれているといえるのです。

 このことの意味は、伊勢王こそ九州王朝の大王たるべき人物だと、「書紀」自らが告白したことになるのです。

 『日本書紀』の編纂者はなぜ讖緯説を導入しなければならなかったのか。この問は、なぜ天智称制を造作しなければならなかったのか、と言い換えてもよい。最後に山崎さんはこの問の答を次のように推測している。

 讖緯説が「書紀」に導入された背景は、万世一系の天皇制の自己矛盾によるものと考えられます。王朝にとって、王朝の始祖の名誉と栄光とは最高のものであって、言葉を尽くしてその史書に書かれること当然のことと言えましょう。

 しかし、万世一系の天皇制を偽造したことによって、近畿天皇家王朝の始祖の名誉と栄光とは架空の神武なる人に捧げられてしまったのです。

 天武天皇がこの万世一系の天皇制の構想者ですが、彼の書いた史書を「古事記」とすると、真の王朝の始祖の天智について、何も書かずに死んでしまったのです。この父天武の遣命のもとで舎人親王は「書紀」を編纂し、実際に天智紀を書いていったのです。

 ここで、舎人親王は真の王朝の始祖たる叔父の天智に、王朝の始祖としての名誉と栄光を書き得ないことにはじめて気付いたと思われるのです。ひとまず「書紀」は完成したというものの、この「書紀」では天智天皇に対して申し訳ないという気持ちから、冒涜と贖罪の念にかられ、彼はうつうつとし楽しまなかったのでしょう。

 このような苦悩の日々に、天智即位を七年間ズラすと讖緯説の辛酉革命になるというヒントが浮かび(与えられ)、この考えによって舎人親王は天智称制即位を辛酉の年に設定し、神武紀を600年ほど延ばし「書紀」を大幅に書き替え、讖緯説による革命の帝王の名誉を、秘かにではあるが、天智に捧げることをはかったのです。

 さもありなん、と思う。近畿王朝の始祖は天智であるという認識はこの新王朝成立を目の当たりにした当時の人には常識に属す。しかし九州王朝は存在しなかったことにしなければならない。天智が始祖であることを史書にはっきりと書き残すことはできない。

 さらに私は、天智が近畿王朝の始祖であるという認識は天皇家に代々受け継がれているのではないかと、推測している。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(17)
「天智紀」(6)
天智称制の秘密(5)
「伊勢王とは誰か」(1)


 「白雉改元」の記事はかなり長い。私はこれを通して読んだことがないので、この機会に読んでおこうと思った。以下の議論では多くが不要な部分だが、ついでなので全文転載しておく。長いので読み下し文は煩わしい。宇治谷孟訳の現代語版『日本書紀』(講談社学術文庫)を使う。(読みやすくするため、適当に段落を付けた。)

 白雉(はくち)元年1月1日、天子は御車で味経宮(あじふのみや)(長柄宮に近い所か)にお越しになり、拝賀の礼を行われた。この日に御車は宮に帰られた。

(管理人注:「天子は御車で」の原文は「車駕」。岩波大系は「すめらみこと」と訓じている。)

 2月9日、長門国司草壁連醜経(ながとのくにのみこともちくさかべのむらじしこぶ)が白雉(しろきぎす)をたてまつって、国造首(くにのみやつこのおびと)の一族の贅(にえ)が、
「1月9日に麻山(おのやま)で手に入れました」
といった。

 これを百済君豊璋(くだらのきみほうしょう)に尋ねられた。百済君は
「後漢の明帝(みょうだい)の永平11年に、白雉があちこちにみられたと申します」云々
といった。

 また法師たちに問われた。法師たちは答えて、
「まだ耳にせぬことで、目にも見ません。天下に罪をゆるして民の心を喜ばせられたらよいでしょう」
といった。

 道登法師(どうとうほうし)が言うのに、
「昔高麗(こま)の国で伽藍(てら)を造ろうとして、たてるべき地をくまなく探しましたところ、白鹿がゆっくり歩いているところがあって、そこに伽藍を造って、白鹿薗寺(びゃくろくおんじ)と名づけ仏法を守ったといいます。また白雀(しろきすずみ)が、ある寺の寺領で見つかり、国人はみな『休祥(よきさが)(大きな吉祥)だなあ』といいました。また大唐に遣わされた使者が、死んだ三本足の鳥(からす)を持ち帰った時も、国人はまた『めでたいしるしだ』と申しました。これらはささいなものですが、それでも祥瑞(しょうずい)といわれました。まして白雉とあればおめでたいことです」
と。

 僧旻(みん)も、
「これは休祥といって珍しいものです。私の聞きますところ、王者の徳が四方に行き渡るときに、白雉が現れるということです。また王者の祭祀が正しく行なわれ、宴会、衣服等に節度のあるときに現れる、と。また王者の行ないが清素(しずか)なときは、山に白雉が出て、また王者が仁政を行なっておられるときに現れる、と申します。周の成王(じょうおう)の時に越裳(おつじょう)氏が来て、白雉を奉って、『国の老人の言うのを聞くと、長らく大風淫雨もなく、海の波も荒れず3年になります。これは思うに聖人が国の中におられるからでしょう。何故、行って拝朝しないのだ、とのことでした。それで三ヵ国の通訳を重ねて、はるばるやって来ました』と言ったということです。また晋(しん)の武帝の咸寧(かんねい)元年に、松滋(しょうじ)県でも見られたことです。正しく吉祥(きっしょう)でありますので、天下に罪をゆるされるがよいでしょう」
といった。

 それで白雉を園に放たれた。

 15日に朝廷では元日の儀式のように、儀仗兵(ぎじょうへい)が威儀を整えた。左右大臣、百官の人々が四列に御門の外に並んだ。栗田臣飯虫(あわたのおみいいむし)ら4人に雉の輿(こし)をかつがせ、先払いをして進み、左右大臣、百官及び百済の豊璋君、その弟塞城(さいじょう)と忠勝(ちゅうしょう)、高麗の侍医毛治(もうじ)、新羅の侍学士(じがくじ 家庭教師)などがこれに従って、中庭に進んだ。三国公麻呂(みくにのきみまろ)・猪名公高見(いなのきみたかみ)・三輪君甕穂(みわのきみみかほ)・紀臣乎麻呂岐太(きのおみおまろきだ)の4人が、代って雉の輿をとり、御殿の前に進み、そこで左右大臣が輿の前をかき、伊勢王(いせのおおきみ)・三国公麻呂・倉臣小屎(くらのおみおくそ)が輿の後をかき御座の前に置いた。

 天皇は皇太子を召され、共に雉を手にとって御覧になった。皇太子は退いて再拝された。巨勢大臣(こせのおおおみ)に賀詞(よごと)を奉らせ、
「公卿百官の者どもが賀詞を奉ります。陛下がお徳をもって、平らかに天下を治められますので、ここに白雉が西の方から現れました。何とぞ陛下は千秋万歳(ちよよろずよ)にいたるまで、四方の大八島をお治め下さい。公卿・百官・あらゆる百姓も忠誠を尽して、勤めお仕えいたします」
とのべ奉り、終って再拝した。

 すると天皇は詔されて、
「聖王(ひじりのきみ)が世に出でて天下を治めるときに、天が応えてめでたいしるしを示すという。昔、西の国の君―周の成王(じょうおう)の世と、漢の明帝(みょうだい)の時とに白雉が現れた。わが国では応神天皇の世に、白い烏が宮殿に巣をつくり、仁徳天皇の時に竜馬(りゅうめ)が西に現れた。このように古くから今に至るまで、祥瑞(しょうずい)が現れて有徳の君に応えることは、その例が多い。いわゆる鳳凰(ほうおう)・麒麟(きりん)・白雉(びゃくち)・白烏(びゃくう)、こうして鳥獣から草木に至るまで、めでたいしるしとして現れるのは、皆天地の生むところのものである。英明の君がこのような祥瑞を受けられるのはもっともであるが、不肖の自分がどうしてこれを受けるに値しようか。思うにこれは専ら、自分を助けてくれる公卿・臣・連・伴造・国造らが、それぞれの誠を尽して、制度を遵奉(じゅんぽう)してくれるからである。故に公卿より百官に至るまで、清く明らかな心をもって、神祇を敬い、皆でこの吉祥を受けて、天下をいよいよ栄えさせて欲しい」
といわれた。また詔して、
「四方の諸(もろもろ)の国・郡など、天がゆだね授けられるので、自分がまとめ天下を統治している。今わが祖先の神のお治めになる長門国からめでたいしるしがあった。それ故に天下に大赦を行い、白推(はくち)元年と改元する」
といわれた。

 よって鷹を長門の地方に放って生きものを捕えることを禁じ、公卿大夫(まえつきみ)以下史(ふびと)に至るまで、位に応じて下賜品を頂いた。国司草壁連醜経をほめて、大山(だいせん)の位を授け、また多くの禄を賜わった。また長門国に三年間の調役を免除された。


 この記事が倭国史料からの盗用であることは論証するまでもないことだが、いくつかその証拠を挙げてみよう。

 百済王子豊璋の名が見えるが、豊璋は倭国へ「人質」となって来ていた王子であり、白村江の戦いのときの百済国王である。そのときまで豊璋はずっと倭国にいた。

 応神天皇の時代に白烏が宮に巣を作ったとか、仁徳天皇の時代に龍馬が西に現れたという吉祥記事が特筆されているが、『日本書紀』の両天皇紀にはそのような記事はない。これらのエピソードが『日本書紀』編纂者の創作物語だとしたら、同じエピソードを両天皇紀に挿入すしておくことなど簡単なことだろう。倭国史料の記事の天子名を入れ替えて盗用した公算が大きい。

 古賀達也さんの論文「盗用された改元記事」に決定的な論証がある。

 『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉に2年のズレがあることは既に述べた通りであるが、それであれば九州王朝による白雉改元記事は、本来ならば孝徳紀白雉3年(652)条になければならない。そして、その白雉3年正月条には次のような不可解な記事がある。

三年の春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。

 正月条に「正月より是の月に至るまでに」とあるのは意味不明である。「是の月」が正月でないことは当然としても、これでは何月のことかわからない。岩波の『日本書紀』頭注でも、「正月よりも云々は難解」としており、「正月の上に某月及び干支が抜けたのか。」と、いくつかの説を記している。

 この点、私は次のように考える。この記事の直後が三月条となっていることから、「正月より是の月に至るまでに」の直前に「二月条」があったのではないか。その二月条はカットされたのである。そして、そのカットされた二月条こそ、本来あるはずのない孝徳紀白雉元年(650)二月条の白雉改元記事だったのである。すなわち、孝徳紀白雉3年(652)正月条の一見不可解な記事は、『日本書紀』編者による白雉改元記事「切り張り」の痕跡だったのである。やはり、白雉改元記事は九州王朝史料からの、2年ずらしての盗用だったのだ。

 古賀さんはこの後、上の「班田記事」を検討することによって、「白雉改元」が行われた場所の考察をしている。これは後に改めて取り上げることにする。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(16)
「天智紀」(5)
天智称制の秘密(4)
甲子革令


 讖緯説は「辛酉革命」と「甲子革令」がセットになっている。天智の称制即位の年(661年 斉明7年)が「辛酉」であり、664(天智3)年が「甲子」に当たる。では664年に「革令」はあったか。この年は「白村江の戦い」で倭国が大敗北した翌々年(「白村江の戦い」の年は『日本書紀』では663年としているが、ここでは中国や朝鮮の史書に従って662年とする。)であるにもかかわらず、実に華々しい「革令」があった。この「革令」の記事は既に 「白村江の戦」 で引用している。再録する。

三年の春二月の己卯朔丁亥に、天皇、大皇弟に命じて、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上・民部・家部等の事を宣ふ。
 其の冠は二十六階有り。大織(しき)・小職・大縫(ぶう)・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上、大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建(こん)・小建、是を二十六階とす。
 前の花を改めて錦と曰ふ。


 実はこの記事には671(天智10)年正月6日に重出と思われる記事がある。

東宮太皇弟(ひつぎのみこ)奉宣(みことのり)して、〈或本云はく、大友皇子宣命す。〉冠位・法度の事を施行(のたまひおこな)ひたまふ。天下に大赦す。〈法度・冠位の名は、具に新しき律令の載せたり。〉

 この二つの記事は双方共にいろいろと問題があり、重出記事かどうか、まだ確定的な説はない。岩波大系はその問題点を次のように述べている。

 この3年2月9日条の場合も、7年間隔であるにもかかわらず、この条と10年正月6日条との新冠位の施行には、重出の疑いが濃い。すなわち新冠位の施行にさいしては、書紀はすべてその内容を記すのが例であるのに、10年正月条のみはその内容にふれていないこと、また天智紀では称制時代にかぎり天智天皇を「皇太子」と書くのが通例であるのに、3年2月条のみは「天皇」と記していることなどの例外が認められるのみならず、10年正月以降の記事に見える冠位はそれ以前と格別変っていないからである。

 この新冠位の施行時点の問題については、重出記事と認めるか否か、認めるとすれば3年2月とすべきか10年正月とすべきかで諸説があり、10年正月条を重出記事と認めて事実を否定する場合には近江令の存否の問題にも関連してくるのである。

 7年のズレは山崎さんの称制造作説にピッタリとあっている。称制造作説をとれば10年の記事をもとに3年の記事を造作したということになる。しかし山崎さんはこの場合の7年のズレは「偶然だろう」としている。そのことをめぐって、山崎さんの論証の中に私としては納得できない点がある。私の中で全体の筋道がもう少し煮詰まるまで、山崎さんの論証には今は立ち入らないでおく。

 ところで、讖緯説は王朝交代を予言する説だから、滅亡した前王朝のことが書かれることが不可欠であるのに、「天智紀」にはそのような記事はない。しかし山崎さんは、前王朝の滅亡を暗示する記事として「伊勢王の死亡」記事を取り上げている。これも7年のズレがある重出記事である。

661(斉明7)年
六月(みなづき)に、伊勢王(いせのおほきみ)、薨(みう)せぬ。

668(天智7)年
六月に、伊勢王とその弟王(おとみこ)と、日接(しき)りて薨せぬ。〈未だ官位(つかさくらゐ)を詳(つばひらか)にせず。〉


 たったこれだけの記事からは何も明らかにできないが、「未だ官位を詳ならず」という注が気になる。

 三宅利喜男さんが『日本書紀』に現れる①「未だ詳ならず」「知らざる人なり」・②「名を闕(もら)せり」という文言を調べ上げている(「九州王朝説からみる『日本書紀』成書過程と区分の検証」)。それによると
①は29例
 内訳は〈百済記3・百済新撰1・百済本記11・百済記事8・其の他(任那・新羅・筑紫記事)6〉
②は44例(うち重複)
 臣・連が特に多い。内訳は〈(臣(オミ)18・連(ムラジ)14・造(ミヤツコ)4・君3・直(アタイ)3・首(オビト)1・法師1〉
「これら官名は出雲や倭国で早くから使用されていて、大和はのちに利用している。ここにあらわれる氏族は本貫を筑紫にもつものがほとんどで、筑紫や韓半島南部の倭地の人名である。」

 百済史料や倭国史料の人名・事跡が不消化で利用されたためと考えられるが、何事かを隠すためのおとぼけといったようなケースもあるだろう。「「未だ詳なら」ないのが官位である例は上の伊勢王の死亡記事だけである。

 伊勢王が登場している記事がもう一つある(天武紀には伊勢王が頻出するが、上の死亡記事の後のことだから当然別人である)。「孝徳紀」の白雉元年正月15日の「白雉改元」記事である。そこで伊勢王はかなり大事な役割をしている。「未だ官位を詳ならず」は大いに不審としなければならない。

(訂正:天武紀の伊勢王も同一人物でした。『「天武紀」の伊勢王(1)』をご覧下さい。)

 「白雉改元」の記事の検討に入る前に『日本書紀』に盗用されている九州年号について改めてまとめておこう。(九州年号の基本については 「日出ずる処の天子」 で取り上げている。参照してください。)

 『日本書紀』には飛び飛びに次の年号が盗用されている。

大化元年(645)~5年
白雉元年(650)~5年
朱鳥元年(686)(元年だけで終わる)

 このうち「大化」については 「偽装「大化の改新」(2)」でふれたように、50年も繰り下げて盗用している。「白雉」も正しい九州年号と2年のズレがある。正しくは「白雉元年=652年」であり、その期間は5年ではなく。660年まで9年間続く。「朱鳥」は686年~694年の8年間だが「天武紀」で使われている「朱鳥」は元年だけで終わっている。これについては「天武紀」を読むときに詳しく取り上げよう。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(15)
「天智紀」(4)
天智称制の秘密(3)
「斉明天皇の埋葬記事」


 山崎説をまとめると次のようである。
 讖緯説を組み込むために「天智称制」が造作された。『「書紀」初稿』では「天智紀」の編年は4年で「斉明紀」の編年は13年であったのを、「斉明紀」の後半6年分を「天智紀」に編入するという離れ業がその造作方法であった。

 しかしその造作での書く換えに遺漏があって、「斉明紀」~「持統紀」の記事にはさまざまな矛盾・齟齬が残された。その一つとして、山崎さんは「斉明天皇の埋葬記事」を取り上げている。

667(天智6)年2月27日
 六年春二月(きさらぎ)の壬辰(みづのえたつ)の朔戊午(つちのえうまのひ)、天豊財重日足姫天皇(あめとよたからしひたらしひめのすめらみこと)と間人皇女(はしひとのひめみこ)とを小市岡上陵(おちのおかのうへのみさざき)に合せ葬(かく)せり。この日に、皇孫(みまご)大田皇女を、陵の前の墓に葬す。高麗・百済・新羅・皆御路(おほち)に哀(みね)奉る。……


 斉明の死亡は661(斉明7)年7月24日である。死後5年7ヵ月目に埋葬したことになる。この奇っ怪さを「定説」はどう処理しているのだろうか。この記事に対して岩波大系は次のような頭注を付している。
「間人皇女のなくなったのは4年2月、斉明陵に合葬したのもこれより先のことで、戊午の日付けは「是日」以下にかかる。この種の書き方は書紀に往々見える。例えば継体23年条参照。」

「天豊財重日足姫と間人皇女を小市岡上陵に合せ葬せり」の部分は飛ばして読むべきだと言っている。

 頭注が同例としてあげている継体23条とは百済との外交記事(本論に関係ないので記事の引用は略す)で、その頭注は「…実は23年のことではなく、さかのぼって7年条にみえる。…」と言う。そこで継体7年条を見るとそこの頭注は「…23年条の第1・2段はその別伝。」と書いている。つまりこの場合は重出記事(別伝)である。斉明と間人皇女の埋葬の記事は上の条文しかなく、重出記事ではない。事情は全く異なる。斉明と間人皇女の埋葬の記事をとばして読むなどというおかしな読み方はつじつま合わせの苦しい言い訳にしか聞こえない。山崎さんの論考を読んでみよう。

 特に、形式的にしろ朝鮮三国の代表の人々が「哀奉る」としています。欽明・孝徳には海外の弔使を記していますが、この斉明の埋葬記事もこれと同等に扱っているのです。皇極記2年7月の吉備嶋皇祖母命には海外の弔使は記してありません。天武の大内陵への埋葬には海外の弔使は書いてありませんが、時代の外交関係を反映する面があり、一概には断定できません。しかし、海外の弔使を記すのは天皇限りとみて誤りはないと思います。

 この天智6年には前条に続いて、「石槨の役(管理人注:石室墳墓造営の労役)を起さしめず。冀ふ所は、永代に以て鏡誡とせよ」とあって、薄葬を遺言しています。斉明の陵に、斉明と間人皇女を葬ったこと間違いないと解せるのです。

 なお、「岩波書紀」の注のように、「是日にかかる」として、その前の文章は読まなくてもよいとするが、このような日本語の文法があるはずがない。

 斉明天皇が「書紀」の通り斉明7年に死んで、天智6年に埋葬されたとすると、死後5年7ヵ月であって、継体以降の天皇のなかでは、敏達天皇(5年8ヵ月)に続いて、その埋葬までの期間が長いことになります。次に、長いのは天武の2年2ヵ月ですから、異常であることがわかります。

 私の提起している斉明・天智紀書き替えの仮説でみると、天智6年とは本来斉明13年であって、斉明が前の年に死んで斉明13年2月に埋葬されたとすれば、ごく自然のこととなります。間人皇女も4年2月ですから2年後に母と同じ墓に入ったということです。この場合、天智紀7年の条にある「或る本」(管理人注:〈或本に云はく。六年の三月に、位に即きたまふ。〉)の異伝と天智の即位は一致することになります。

 讖緯説の導入にともなって斉明紀から天智紀に書き替えたとき、斉明の埋葬記事を動かすことを失念したのでしょうか。間人皇女との合葬となっていますから、4年2月(管理人注:間人の死亡日時)以前にはできなかったし、海外の弔使や薄葬の遺言を、唐、新羅との戦いの最中(管理人注:天智元年・2年 つまり斉明死亡の直後)に移動することをためらったのであろうか。

 「岩波書紀」の注は新しい文法を作って苦肉の解釈を行ったが、私の立場では、この矛盾は書き替え時に修正を失念したからと考えられるのです。『「書紀」初稿』のままの文章が残っていたのです。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(13)
「天智紀」(3)
天智称制の秘密(2)

 今回はまず改めて「称制とはなにか」という問題を取り上げよう。

 岩波大系の補注によると
『称制とは、史記、呂后紀に「孝恵帝崩……太子即位為帝……太后称制」、また漢書、高后紀に「恵帝崩、太子為皇帝、年幼、太后臨朝称制」とあるように、中国では本来、天子が幼少のとき、皇太后が代って制令を行うことを意味する言葉であった』
と解説している。これを『日本書紀』が借用して「天智紀」と「持統紀」に用いた。

 しかし天智称制は「即位をしないまま政務を執る」という意味に使っていて、中国史書が言う称制とは全く違う。通説では天智称制は「唐・新羅との戦争のために即位を遅らせたため」の称制とみなしている。持統称制の方は草壁皇子が即位していないので、本来の意味に近い。

 既に「書紀」は持統紀まで一度は完成していたとする仮説にたつと、「書紀」の称制という呼び方は中国文献をみて、持統称制が最初に考えだされ、これが天智称制に転用されたのではないでしょうか。この方が、称制という呼び方が日本で消化されていく過程として合理的に思えるのです。

 これは山崎仮説の信憑性を示す例の一つと言える。

 さて、山崎さんは、『日本書紀』の前に一度完成していた史料を『「書紀」初稿』と呼んでいる。山崎さんによると、『日本書紀』の中には、『「書紀」初稿』のままの修正漏れのミス・矛盾と推定されるものがたくさん紛れ込んでいるという。山崎さんの計算によると『日本書紀』全体の「誤りと矛盾」が312ヶ所のうち、書き替えによる「誤りと矛盾」は153ヶ所で50パーセント弱になるという。それらの「誤りと矛盾」の一つが「天智紀」の編年数である。  「天智紀」は10年で編纂されている。

661(斉明7)年7月24日
 (斉明が)崩(あむあが)りましぬ。皇太子、素服たてまつり稱制す。


 この天智称制は7年続く。そして即位後4年で亡くなる。

668(天智7)年正月3日
 皇太子、即天皇位(あまつひつぎひろしめ)す。〈或本に云はく。六年の三月に、位に即きたまふ。〉
671(天智10)年12月3日
 天皇、近江宮に崩りましぬ。


 ところが「天武即位前紀」では天智の死亡記事は次のようになっている。

(天智)四年の冬十月の庚辰(十七日)に、天皇、臥痛したまひて、痛みたまふこと甚し……
十二月に天命開別天皇崩(あむあが)りましぬ。


 「天智紀」と6年のズレがある。このようなズレは「持統紀」にもある。

690(持統4)年10月22日
 軍丁筑後国の上陽郡の人大伴部博麻に詔して曰く、……天命開別天皇の三年、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶の児、四人、唐人の計る所を奏聞(きこえまう)さんと思欲へども、……


 筑紫君薩夜麻の帰国は「天智紀」では「三年」ではなく、「十年」である。

670(天智10)年11月10日
 対馬國司、使を筑紫大宰府に遣(まだ)して言(まう)さく、「月生(た)ちて二日に、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人、唐より来たりて曰さく、・・・・・・


 ここでは7年のズレがみられる。

 岩波大系では上のようなズレが起きた原因を、『日本書紀』の編纂者の手元に「天智紀」の原史料として、即位以後の4年間だけの史料と称制期間も含めた10年間の史料の二種類があったため、と推定している。山崎さんの仮説とどちらが正しいだろうか。山崎さんは次のように論考している。

 私は天智紀は最初は4年で書かれていたが、後に10年に書き替えられたので、このような誤りが発生したと考えます。誤りの発生した経過を次のように想定します。

 まず、天武・持統紀は天智4年を引き継いで、一度は生成させたのです。ところが、この完成の後に、辛酉革命説の「書紀」への導入が決定され、天智称制なるものを天智紀に組み込み、斉明紀を短縮して、4年から10年に書き替えたのです。この時、既に完成していた二つの天皇紀(天武・持統紀)には修正を加えたのですが、その一部に修正漏れが発生してしまったのです。これが天武即位前紀の天智4年の記事なのです。

 天智称制の造作は、讖緯説による「書紀」の書き替えの第一歩です。称制即位をもって一蔀の計算の起点とし神武即位を定め、これにより各天皇紀は個々に引き延ばされ、新しい天皇紀も造作されていった ― 神功紀 ― と考えられます。

 天智紀十年と天武即位前紀の天智四年の記事との違いを、二冊の原史料によるものとするか、天智紀を書き替えたからとするかは、誠に重大な問題をうちに孕んでいるといえましょう。

 この後、山崎さんは「斉明紀」と「天智紀」に重複して出てくる全ての記事のズレを調べて、岩波大系説ではいろいろと矛盾が出てくることを論じているが、この部分は割愛する。ただ山崎さんが指摘している「常識」で、上のズレは十分説明できることを確認しておこう。

 きわめて常識的な発想ですが、即位前紀を書くに当り、前の天皇紀をみて書くのが当り前であって、わざわざ別の原史料をもってきて書くということは考えにくいのです。天智紀は一度は4年として編纂されたのです。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(13)
「天智紀」(2)
天智称制の秘密(1)

(今回から『古代に真実を求めて・第1集』に所収されている山崎仁礼男さんの論文『造作の「天智称制」』を教科書とします。)

 『日本書紀』は讖緯(しんい)説によって編纂されている。讖緯説については過去に2度取り上げている。そこで取り上げたのは通説となっている明治時代の学者・那珂通世の説だった。復習しておこう。

 讖緯説はもともと中国でとなえられたもので、「辛酉(しんゆう)」という年は大革命(王朝の交代)の起こる年とされている。「辛酉革命」と呼ぼう。辛酉革命は、どういう訳か理由は分からないが、「甲子の年に令を革める」という「甲子革令」とセットになっている。

神武が即位した年が「辛酉」の年とされている。(もちろん『古事記』には即位年の記述はない。)

辛酉(かのとのとり)の春正月の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたちのひ)に、天皇、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳を天皇の元年とす。

 ところで、干支は60年で一周する。これを「一元」と言い、21元を「一蔀(ほう)」と言う。つまり「一蔀」は60(年)×21=1260(年)である。

 那珂通世は蔀首が辛酉の年を起点とする一蔀(1260年)をサイクルとして革命が起こるとした。
「此ノ紀元ハ、人皇ノ世ノ始年ニシテ、古今第一ノ大革命ノ年ナレバ、通常ノ辛酉ノ年二ハ置キ難ク、必一蔀ノ首ナル辛酉ノ年ニ置カザルベカラズ。」

 推古9年(600年)が辛酉の年なので、ここから逆算して神武の即位は紀元前660年というわけである。しかし推古9年に王朝交代のような大革命はないのだから、ちょっと、いや相当おかしい。那珂は次のような弁明をしている。
「推古朝ハ、皇朝政教革新ノ時ニシテ、聖徳太子、大政ヲ執り給ヒ、始メテ暦日ヲ用ヒ、冠位ヲ制シ、憲法ヲ定メ、専ラ作者ノ聖ヲ以テ自ラ任ジ給ヘル折柄ナレバ、此朝ノ辛酉ヲ以テ第二蔀ノ首ト定メテ、神武紀元ヲ第一蔀ノ首二置カレタルハ、蓋此ノ皇太子ノ御所爲ナラン。」
 聖徳太子の偉業は革命並というわけだ。でもやっぱり変だ。

 さて、山崎さんの論文には『「日本書紀」の二段階編纂論』という副題が付けられている。この副題の意味するところはおおよそ次の通りである。

 讖緯説を取り入れた『日本書紀』の前に、讖緯説を考量していないものが一応完成していた。それをもとに讖緯説を取り入れて書き換えたものが現在の『日本書紀』であり、その結果600年ほど年紀が延ばされているという。山崎さんの論文はこの仮説の論証と言うことになる。(詳しいことは知りませんが、江戸時代の藤貞幹(とう ていかん)と言う人が、『日本書紀』が讖緯説によって編纂され、600年ほど年紀が延ばされていること見抜いていたそうです。)

 さて、山崎さんは通説となっている那珂通世の讖緯説に代わって、三善清行(847~918)の讖緯説を取り上げている。三善は一蔀プラス一元(1320年)を讖緯説の一サイクルとしている。

 三善清行はその「革命勘文」などにて、天智称制辛酉の年の即位を讖緯説の蔀首として「革命の期」と主張して、「上は神武より下は天智まで」「分銖(ほんのわずか)の違い無し」として、神武と天智とを明確にワン・セットで記しています。これら明らかに、天智辛酉の年即位から逆算して神武即位が決定されたことを想定させます。

 しかしながら、三善清行の一蔀プラス一元という周期には、どうも腑に落ちないものを感ずるのです。この点、一蔀は二十一元とする明治の学者の那珂道世の考えがよりスッキリとしていて周期の点では明解といえます。

 この場合、三善清行は「書紀」成立126年後の生まれで、奈良から京都に都は移ったとはいえ、律令体制下の実質同一王朝の人ですから、なんらかの根拠または確信があって、このように発言しているとみるべきでしょう。彼の「革命勘文」が以後の時代に大きな影響を与えており、これらの多くの改元の歴史のなかで、神武と推古とがセットであるという声は全く聞こえてこないのではないでしょうか。

(中略)

 以上によって、本稿は三善清行の説に従い、天智称制即位辛酉の年AD661年が「書紀」の識緯説の第二の蔀首であり、讖緯説導入の本当の起点であるという仮説のもと、論をすすめていきます。

 しかし、九州王朝の滅亡は663年の白村江の敗戦の後であって、王朝交替は辛酉の年(661年)より後に起きている。歴史はそうはたやすく讖緯説の予言の通りには動かない。ここに『日本書紀』の編纂者はある「造作」を施すことになる。旧王朝の滅亡と新大王の即位とを適当にズラすことによって、辛酉革命が予言の通り起きたとすればよい。山崎さんは「天智称制とはこのためのこしらえものであろう」と考える。そして、この仮説の正しいことを論証している。その論証は同時に『「日本書紀」の二段階編纂論』の論証でもある。次回はその論証を読んでいこう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(12)
「天智紀」(1)
「天命開別天皇」の意味

 「下手な考え休むに似たり」をまたまたやってしまい、十日間をむなしく費やしてしまった。「ともかく『日本書紀』を順番に読みながら問題を拾っていく」ことに落ち着いた。

(以下は、中村幸雄さんの論文「誤読されていた日本書紀」を教科書にしています。)

 さて、近畿王朝で大嘗祭を始めて執り行ったのは持統であった。持統以後いまに至るまで、歴代の天皇は必ず大嘗祭を執り行ってきている。つまり近畿王朝において名実共に天皇と呼んでよい最初の大王は持統ということになる。しかし実質的な近畿王朝の皇祖は天智である。「天智紀」は次のように始まる。

 天命開別天皇 天智天皇
天命開別天皇は息長足日広額天皇の太子なり。


 「天命開別」天皇を岩波大系では「あめのみことひらかすわけ」天皇と、ずいぶんと凝った訓み方をしている。この読みでは意味が全く分からない。素直に読めば「天命を受けて別の国を開いた」天皇と意になる。天智が即位した天智7年の条に次の一文がある。

秋七月に、高麗、越の路より、使を遣して調進る。風浪高し。故に歸ること得ず。栗前王を以て、筑紫率に拜(め)す。時に、近江國、武(つはもの)を講(なら)ふ。又多(さわ)に牧を置きて馬を放つ。又越國、燃土(もゆるつち)と燃水(もゆるみづ)とを獻る。又濱臺(はまのうてな)の下に、諸の魚、水を覆ひて至 る。又蝦夷に饗(あえ)たまふ。又舎人等に命して、宴を所所にせしむ。時の人の曰はく、「天皇、天命将及乎」といふ。

 「天命将及乎」を岩波大系では、頭注で「中国で王朝交代の意」と言いながら、「みいのちをはりなむとするか」と訓じている。文庫本(講談社現代語訳)では「天皇は位を去られるのだろうか」と訳している。天智が亡くなるのは3年後である。前文の賑わいぶりに全く合わない読みであり、訳である。「てんめいまさにおよばんか」と、どうして素直に読まないのか。いや、読めないのだ。「定説」では王朝交代などあってはならないのだから。

 中国における王朝成立は例外なく「天帝─天命─天子─高祖」という図式で表わされる。『九州王朝(天孫降臨)にこれを当てはめると
天帝→天照大神
天命→天壌無窮の神勅(神命)
天子→天孫ニニギ尊
となる。神命(天壌無窮の神勅)を受けた天孫ニニギこそ、中国史書が示す「天命を受けた高祖」に相当する。つまり「天照大神─神命─天孫─皇祖」という図式になる。ちなみに、ニニギが天孫降臨した「竺紫の日向(ひなた)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)」を含む地は高祖(たかす)山と呼ばれている。

 さて、『日本書紀』には「皇祖」がもう一人いる。「孝徳紀」大化2年3月20日の皇太子の上奏文中の次のくだりに出てくる。

現爲明神御八嶋國天皇(あきつみかみとやしまぐにしらすすめらみこと)が臣(やつかれ)に問ひて曰(のたま)はく、『其れ群(もろもろ)の臣・連及び伴造・國造の所有(たもて)る、昔在(むかし)の天皇の日に置(お)ける子代入(こしろのいり)部、皇子等の私に有てる御名入部、皇祖大兄の御名入部及び其の屯倉、猶古代(むかし)の如くにして、置かむや不や』とのたまふ。

 かつて皇族領であったが、いまは民間領となっている「部」 ― 代々の天皇の子代入部・代々の皇子らの御名入部・皇祖大兄の御名入部 ― とその中にある「屯倉」をそのままにしてよいのであろうか(朝廷の用に資するので、献上させよ)といっている。

「皇祖大兄」には「彦人大兄を謂ふ。」という原注がついている。岩波大系ではこの原注に忠実に「皇の祖」=「孝徳の祖父」の意としている。従来のこの解読は果して正しいか。中村さんはこれを次のように解読している。

(1)
 皇祖を皇ノ祖父と解釈するならば、『記紀』全体を通じ無数の皇祖がなければならないのに、「皇祖」と表現されているのは、ニニギ尊とこの「皇祖大兄」のみである。

(2)
 彦人大兄は皇位にも就かず(敏達の後を継がなかったのは敏達より早世であったとも考えられる)、
 (イ)代々の天皇
 (ロ)代々の皇子ら
に匹敵する程の領地を持っていたとは思えない。

 故に、この註は『日本書紀』成立当時の註ではなく後で入れられた註であると解釈すべきである。


 『偽装「大化の改新」』) で明らかになったように、「孝徳紀」の「大化の改新」記事は持統~文武の頃のはめ込みである。

 上の引用文は皇太子の上奏文である。これが本当に「孝徳紀」の記事であるのなら、「皇太子=中大兄=天智」であるから、「皇祖大兄=中大兄=天智」ではおかしな文章になってしまう。このことに気づいた『日本書紀』の編集者がこのとってつけたような注を残したのだと、私は考えている。

 しからば「皇祖大兄」は誰であろうか。

 私見を述べると、この場合戦後の歴史学の成果である「大化改新はなかった」の立場を導入すると、この問題は解決するのである。

 「郡評論争」により、既に大化改新の詔に文武の詔が混入されていることは明らかであり、この大化2年の記事も、天皇を持統、皇太子を文武に比定するならば、「皇祖大兄」は中大兄即ち天智であるといえるのである。

 何となれば、天智を皇祖に比定することにより、次の問題が解決するからである。

 『日本書紀』を読まれた方は、斉明が皇祖母尊・斉明の母吉備姫、欽明の母糠手姫が皇祖母命と諡名されている事実をご存知であろう。通説的には『古事記』成立時の元明の祖母が斉明であるから、「皇の祖母」の意味であろうと解釈されているが、その誤解は明らかであり、皇祖=天智が基準であり、一親等の母である斉明に皇祖母尊、二親等の祖母である糠手姫吉備姫が皇祖母命であり、「尊」の方が「命」より上位であることが理解されるであろう。

 天智が皇祖である証拠は「懐風藻序文」の中にもある。

淡海先帝の命を受けたまふに及びて、帝業恢開……

 懐風藻が孝謙の時代に編集された詩集である。その序文に淡海先帝(天智)「受命」と明記されている。中国史書においては「受命の君」とは高祖に該当する。天智が皇祖であった事実の明白な証明である。

 まだある。『続日本紀』孝謙天平宝字元年の藤原仲麻呂の上奏文。

淡海大津宮御字皇帝は天縦聖君なり………」

 「天の縦せし聖君」が天命を受けた天子であり、天智以外にこのような敬称を受けた天皇はいない。初めて天命を受けた皇祖にふさわしい敬称であるといえる。

 中村さんはもう一つ証拠を挙げている。延喜式(十世紀前半成立)にある国忌の規定。その内容は各省より出席すべき定員、参加者への記念品、無断欠席者の罰則等明細に定められている。ここで肝心の被祭祀者であるが、『日本書紀』『続日本紀』に出現する天皇全員ではなく極めて限定されている。(以下のとおりだが、桓武以後の天皇皇后は除く。それ等の天皇皇后は延喜式成立直前の天皇であり、近親祭祀に当り、祭られて当然である。)

国忌
イ、天智天皇 12月3日 崇福寺
ロ、天宗高紹(光仁)天皇 12月23日 東寺
ハ、桓武天皇 3月17日 西寺

 桓武忌は桓武が平安京に都を遷した天皇なのであるから、平安時代の朝廷にとっては最も重要な天皇であったはずであるから国家の記念日である国忌に登場するのは当然であろう。

 光仁忌は桓武の父であり、平安朝の国忌は桓武より始り継承されたはずであるので桓武が父親である光仁の忌日を国忌としたのも当然である。

 光仁以前の天皇達のうち、国忌として定められている天皇は天智のみである事実を何と理解すべきであろうか。官撰の歴史である『日本書紀』には堂々と神武以下の天皇が継続しているのである。

(1)  或は次のようにいわれるかもしれない。
 「国忌は仏式で施行されるから、仏教伝来以前の天皇を祭るはずはない。」と。

 しかし仏教伝来以後の天皇でも天智しか祭られていないのである。

(2)
 また、次のようにいわれる方もいるであろう。
 「壬申の乱で近江朝を倒し皇位に就いた天武系の皇統は孝謙で絶え、天智の孫である光仁以後平安朝の皇統は天智系であるから、直系の祖先である天智を敬慕するため国忌に入れた。」と。

 現在の歴史家は壬申の乱に勝った天武に大きな評価を与えられているようである。論文の量がそのことを物語っているのである。しかし、私見を述べると、壬申の乱は大友皇子(弘文)に対する天武の私怨であり、単なるクーデターに過ぎず、コップの中の嵐であるとの評価を下し得るのではなかろうか。なぜなれば乱後も天武の天智の他の皇子達に対する待遇は公正であり、また、天武系の天皇である元明・聖武・孝謙の即位の詔においては天智を「大倭根子天皇」と礼賛し、反対に天武に対しては全く何も言及していないのである。

 また、もし平安朝の朝廷に天智系・天武系を区別する考えがあったとしても、両者に共通する斉明以前の天皇を国忌より省くのは不自然である。

 となると結論は一つしかないのである。 「延喜式成立時代の朝廷は、元明・聖武・孝謙・桓武の各天皇が即位の詔において云っている天智が定め賜える不改常典が、前に説明したように天壌無窮の神勅であり、天智が大和朝廷の皇祖である事実を正確に知っていたからである。」と。

 「不改常典」については後ほど詳しく取り上げよう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(11)

大嘗祭とはなにか(10)

 大嘗祭問題の解明という所期の目的は達せられたと思う。今回は今までのまとめの意味で、吉本さんの論文「天皇および天皇制について」(『詩的乾坤』所収)から「天皇制の権威の本質」を論じている部分を転載して、「大嘗祭とはなにか」を終わることにする。

 まず、大嘗祭ついての吉本理論を古田多元史学の立場から概観しておこう。(筑紫に侵略した当初の「天国」の王たちも「倭王」と呼ぶことにする。なお以下の文章では吉本さん自身による概略説明を下敷きにした。)

 大嘗祭の本質の一つは、これが農耕祭儀の模写という意味をもっている点にある。神田から抜穂された穀物を食すという儀式は、穀物の豊饒をねがうという意味をもつとともに、穀物の生々する生命をわが身にふき込むという意味をもつ。

 そして重要なのは、このような農耕儀礼を倭王の世襲の式に行うことによって、たとえ現実的に何人もそれを認めないとしても、倭王は自らの祭儀の内部では、農耕民の支配者であるという威儀を保持しつづけてきたということである。

 もう一つの本質は、倭王が式殿の寝具にくるまって横たわるという行為が<性>的な祭儀行為であり、いわば象徴的に<性>行為の模倣を意味しているということである。この祭儀行為で倭王の<性>的な相手は、かれらが祖霊とかんがえているもの、またはその現世的な代理(巫女)である。農民ではこれは田神であるが、倭王では穀霊であるとともに宗教的な祖霊である。この宗教的な秘儀によって、倭王はいわば宗教的な権威を世襲することになる。

 筑紫を席巻した天国の勢力は、世襲的な祭儀の中枢のところで、あたかもじぶんたちが農耕社会の本来的な宗家であるかのような位相で土俗的な農耕祭儀を儀式化したのである。つまり大嘗祭の祭儀において、かれらは農耕祭儀を収奪し、それをきわめて抽象的なかたちで昇華させたといってよい。

 異族関係と支配被支配関係とを縫目がわからないほど完壁に消滅させ、即位の祭儀として収奪した仕方はあまりに見事なもので、歴史的な各時代はほとんどこの縫目をみつけだすことができなかった。そしてこのことが祭儀の司掌自体に、最高の<威力>をあたえてきた唯一の理由であるとおもえる。

 この見事な倭国の世襲祭儀を、倭国から中心権力を簒奪した近畿王朝はそれをそのまま踏襲した。権力の正当性を主張するためにはその世襲祭儀が不可欠だったのだ。あるいは、九州王朝の存在を抹殺したかった近畿王朝にとって、「天孫降臨」以来ずっと近畿王朝が中心権力だったという偽装を完璧にするためには、その祭儀は不可欠なものだったと言ってもよい。

 では九州王朝・近畿王朝の権威を持続せしめるために大嘗祭が果たした役割の核心はどこにあるのだろう。吉本さんはつぎのような比喩によってたいへんわかりやすく解説している。

 たとえば、わたしが<生涯ニワタツテ国家社会ノ万人ノタメニ奉仕スベシ>という家訓を代々継承していたとする。わたしはじっさいに生涯のある時期には<国家社会ノ万人ノタメニ奉仕>することがありうるかもしれない。また、その他の時期には事志と反して<国家社会ノ万人ノタメニ奉仕>することなどできず、じぶんとじぶんの家族のことをかんがえるのが手いっぱいであったとする。ところで、わたしはどんな時期であろうと、一日に一度は<国家社会ノ万人ノタメ>に祈祷しなければならないという宗教的な義務だけは負っていた。そして、じつさいに<国家社会ノ万人ノタメニ奉仕>できなかった時期にも、そのために祈祷するというしきたりだけは実行し、子の世代に世襲的に伝承した。

 ところで、わたしが生涯にわたってこういう祈鋳だけは怠らず、これを子の世代に世襲するという情熱を持続したとすれば、この情熱の根拠はなんであろうか?

 すぐにかんがえられることは、じぶんは<国家社会ノ万人ノタメ>をかんがえる資格をもっているという人間的な自負をわたしが抱いている場合である。しかし、こういう人間的な自負は、<国家社会ノ万人ノタメ>に何ごとかを実行しうる現実的な基盤がどこかにあり、また一方で<国家社会の万人>のほうで、わたしのそういう資格を承認しているところがなければ、すくなくとも人間的には持続することが不可能であるし、ましてやそれを世襲して子に伝えるだけの情熱をもちうるはずがないのである。

 そこで、わたしは、もしもそういう現実的な基盤もなく、また<国家社会ノ万人>がわたしのそういう資格を承認しないとすれば、家訓を放棄するより仕方がない。だが、<天皇(制)>は持続や世襲が不可能とおもわれることを、時代によってはまったく現実的な基盤のないところでも実行してきたのである。そしてこの人間的にはまったく不可能としかいいようのない情熱が<天皇(制)>の威力をささえてきたといっていい。

 かれらの情熱と威力の根源はなにか? その秘密のカギはなにか? それは依然として解明に価するというべきである。

 じっさいに<天皇(制)>が農耕社会の政治的な支配権をもたない時期にも<自分ハソノ主長ダカラ農耕民ノタメ、ソノ繁栄ヲ祈祷スル>というしきたりを各時代を通じて世襲しえたとすれば、この世襲には<幻想の根拠>または<無根拠の根拠>が、あるひとつの<威力>となって付随することは了解できないことはない。

 いま、<大多数>の感性が<ワレワレハオマエヲワレワレノ主長トシテ認メナイ>というように否認したときにも、<天皇(制)>が<ジブンハオマエタチノ主長ダカラ、オマエタチノタメニ祈祷スル>と応えそれを世襲したとすれば、この<天皇(制)>の存在の仕方には無気味な<威力>が具備されることはうたがいない。

 わたしの考察では、これが各時代を通じて底流してきた<天皇(制)>の究極的な<権威>の本質である。

 ところで、現実的になんの権力的な基盤もない時代でも、こういう<権威>を次の世代に世襲するまで持続してゆく<天皇(制)>の忍耐力をささえているのはなんであろうか? かれら自身の異族意識からくる恐怖をじぶんで和げるためであろうか、天皇の特異な人格によるのであるのか、それとも強制された義務であるのか?

 もちろん天皇なるものが、こういう馬鹿気た宗教的な秘儀をなんの根拠も支えもないところで生涯持続してゆくほど人間的に特異な人格ばかりであったということは考えにくい。また強制された義務であるということも、持続的な世襲のしきたりを守るためのさしておおきな根拠とはなりえないようにみえる。

 すると<天皇(制)>は、かれらが社会的に何ものでもないということ、その生活過程に社会をもたないということ、観念上の<非人間>であるということによって、このような祭儀の世襲を可能にしてきたというべきであるのかもしれない。そしてこの観念上の<非人間>をとりまいている環境は、特異なしきたりからできあがっていて、世襲力を構成的にささえたとみられる。