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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(10)

大嘗祭とはなにか(9)

 吉本さんは池上広正氏の論文「田の神行事」から次の文を引用している。

 先年調査する機会を得た能登の鳳至郡町野町川西では12月5日に田の神を家に迎へる行事が行はれてゐる。

 当日は甘酒を造り、種々の畠のものを煮て神を饗する料理を準備する。夕方になると主人は正装して戸口で田の神を田から家に迎へる。迎へられた田の神は風呂に入って頂いて、床の間にしつらへた席に紹ずる。ここにはへり取りの蓙を敷き、その上に山盛りの椀飯は勿論、オヒラや餅を初め数々の料理が二膳分運ばれる。特に「ハチメ」と呼ぶ魚を二匹腹合せにしたものと大根は欠くことの出来ぬものとされてゐる。之に副へる箸は中太の一尺二寸の「カツギ」の木で作るのが習はしとなってゐる。又台所の神棚に隣して種籾入りの俵(タネ様)を並べて置く。この「タネ様」は座敷の田の神の設けの座に置くのが一般的風習だが、調査の対象となった家だけは如何なる理由か置き場所が異ってゐた。供へた食物は下げてから主人夫婦が食べて、後は家中の人々が食べる。当夜の食事は出来るだけ何時もより早い目に済ますのが良いとされてゐる。

 この様にして「アエノコト」が終るとその日から田の神は家に上る事になる。「タネ様」は翌日戸口の天井等に吊して鼠から守り、2月9日の「アエノコト」まで丁寧に仕舞って置く。

 2月9日になると「タネ様」も天井から取り下して座敷に運び、12月5日の時と同じ場所に置き膳椀に料理を盛って供へる。凡て12月の「アエノコト」と同一の饗応が為される。

 2月10日は「若木迎への日」と称し、早朝に起き出でて乾し栗、乾し柿、餅一重を持って山に行く。枝振りの良い適当な松を選んでその根本に御供をし、拍手を打って豊作を祈ってから木を伐って持ち帰る。帰る時は御供も一緒に持ち帰るが、之は腹痛に良く効くとされてゐる。松は夕方迄座敷の隅等に置いておくが、その夜松飾りをする。七五三繩(しめなわ)を松に掛け、カラ鍬を松の根本に並べ、一斗箕の上に乾し柿、餅等を戴せて供へ、ローソクを点じ、夜食の時には甘酒をも供へる。

 この夜の行事は内容的に翌日の「田打ち」の行事に続くものであり、11日には未明3時頃主人が前日の飾り松・鍬を担ぎ、苗代田へ行き東方に向って松を立て、鍬で三度雪の上を鋤き、拍手を打って豊作を祈るのである。田の神はこの月を堺にして以後は田に下りられるのである。

 この田の神については同じ鳳至郡でも盲目、片目、すが目等とも考へられてゐて、多くは夫婦神である。


 大嘗祭がこうした民俗的な農耕祭儀を剽窃したものだとすれば、大嘗祭問題の核心のうちの一つである
「悠紀殿・主基殿と、主舞台がなぜ二つ用意され、同じ儀式を2回繰り返すのか。」
という問題の答を次のように引き出すことができる。


 「田の神」は夫婦神である。このを「天つ神」の「ろぎ・ろみ」と入れ替えて、この祭儀が初めから「天つ国」のものであるという偽装が行われた。


 12月の「田の神迎へ」のときに行われる「アエノトコ」と同一の饗応が2月の「田の神送り」のときにも行われる。これが一夜のうちに悠紀殿・主基殿で同じ祭儀が行われるという形に抽象化されて大嘗祭に取り入れられた。しかもそれが「ろぎ・ろみ」という二神の「天つ神」への別々の饗応という形にすり替わっている。

 私はこのように理解したが、吉本さんの解釈には私と異なる点がある。大嘗祭が悠紀殿・主基殿で同じ祭儀を二度繰り返す理由については同じである。しかし民俗的は農耕祭儀における夫婦神の大嘗祭における変化は、吉本さんの解釈では次のようになっている。つまり、大嘗祭では迎える神は一人であり、もう一人の神は司祭である天皇が演ずるという解釈をしている。この解釈では悠紀殿・主基殿は「ろぎ・ろみ」の二神を迎える神座ではなく、「対幻想の基盤である〈家〉とその所有(あるいは耕作)田のあいだに設けられた祭儀空間」を抽象化したものと考えられている。次のようである。

 いま、この奥能登の農耕祭儀にしめされるような民俗的な農耕祭儀を、〈空間〉性と〈時間〉性について〈抽象〉するとき、どういう場面が出現するだろうか?この問題が農耕社会の支配層として、しかも農耕社会の支配層としてのみ、わが列島をせきけんした大和朝廷の支配者の世襲大嘗祭の本質を語るものにほかならない。

 民俗的な農耕祭儀では、対幻想の基盤である〈家〉とその所有(あるいは耕作)田のあいだに設けられた祭儀空間は、世襲大嘗祭では悠紀(ユキ)、主基(スキ)田の卜定となってあらわれる。

 これは、一見すると占有田の拡大にともなって、祭儀空間が拡大したことを意味するようにうけとれるかもしれない。しかし、この拡大はたんなる祭儀の空間的な拡大ではなく、耕作からはなれた支配層が、なお農耕祭儀を模擬しようとするときに当然おこる〈抽象化〉を意味している。この〈抽象化〉は、ただ祭儀時間の圧縮によってのみ可能である。そこでつぎの問題が生じてくる。

 天皇の世襲大嘗祭では、民俗的な農耕祭儀の〈田神迎え〉である12月5目と〈田神送り〉である2月10日とのあいだの祭儀時間は、共時的に圧縮されて、一夜のうちに行われる悠紀殿と主基殿におけるおなじ祭儀の繰返しに転化される。かれは薄べりひとつへだてた悠紀殿と主基殿を出入りするだけで農耕民の〈家〉と所有(あるいは耕作)田のあいだの祭儀空間を抽象的に往来し、同時に〈田神迎え〉と〈田神送り〉のあいだにある二ヵ月ほどの祭儀時間を数時間に圧縮するのである。

 このあとでさらにつぎの問題があらわれる。

 民俗的な農耕祭儀は、すくなくとも形式的には〈田神迎え〉と〈田神送り〉の模倣行為を主体としているが、世襲大嘗祭では、その祭儀空間と時間とが極度に〈抽象化〉されているために、〈田神〉という土地耕作につきまとう観念自体が無意味なものとなる。そこで天皇は司祭であると同時に、みずからを民俗祭儀における〈田神〉とおなじように〈神〉として擬定する。かれの人格は司祭と、擬定された〈神〉とに二重化せざるをえない。

 私のような解釈だと、大嘗祭の第二の核心問題
「悠紀殿・主基殿に寝具が用意されるのは何故か。」
の答は古田さんの解釈に同調することになる。しかしこの第二の核心問題をも視野に入れたとき、私はやはり吉本理論に軍配を挙げざるを得ない。では吉本理論ではこの第二の核心問題はどのように論じられているだろうか。

 吉本さんは「田の神」の農耕祭儀は、『古事記』の説話や古代メキシコのトウモロコシ儀礼の「対幻想―共同幻想」の構造を継承しつつ、それをより高度に象徴化したものととらえている。つまり、前回に論じられた『古事記』の説話や古代メキシコのトウモロコシ儀礼の論旨の延長上で論じられることになる。

 この農耕祭儀では、女性が穀母神の代同物として殺害されることもなければ、殺害の擬態行為も演じられていない。その意味で『古事記』説話よりも高度な段階にあるといえよう。そのかわりに、対幻想そのものが共同幻想に同致される。

 「二匹腹合せ」の魚や「大根」(二股大根)は、いわば一対の男女の〈性〉的な行為の象徴であり、穀神は「夫婦神」として座敷にむかえられる。ここでは夫婦である穀神は〈家〉に迎えられて〈性〉的な行為の象徴を演じ、その呪力は御供物をたべた主人夫婦と種籾にふきこまれる。

 夫婦の穀神が〈死〉ぬのは、たぶん「若木迎への日」においてであり、「若木」はおそらくは穀神のうみだした〈子〉を象徴するものである。そしてこの〈子〉神が「田打ち」の田にはこばれたとき豊作が約束されるという機構になっている。

 この民俗的な農耕祭儀は、耕作の場面である田の土地と、農民の対幻想の現実的な基盤である〈家〉のあいだの〈空間〉と、12月5日から2月10日までの〈時間〉のあいだに対幻想が共同幻想に同致される表象的な行為が演ぜられる点に本質的な構造があるといえる。そのあいだに対幻想が死滅し、かわりに〈子〉が〈生誕〉するという行為が、象徴的に農耕社会の共同幻想とその地上的利害の表象である穀物に封じこめられる。

 この奥能登におこなわれている農耕祭儀が、さきにあげた『古事記』の説話や、古代メキシコのトウモロコシ儀礼よりも高度だとかんがえられる点は、対幻想の対象である女性が共同幻想の表象に変身するという契機がここにはなく、はじめから穀神が一対の男女神とかんがえられ、その対幻想としての〈性〉的な象徴が共同幻想の地上的な表象である穀物の生成と関係づけられているということである。

 したがってあくまでも対幻想の現実的な基盤である〈家〉とその所有(あるいは耕作)田のあいだの問題として祭儀の性格が決定されている。ここには対幻想が、あきらかに農耕共同体の共同幻想にたいして相対的に独立した独自な位相を獲取していることが象徴されている。

 これが大嘗祭では次のように抽象化される。

 そこで悠紀、主基殿にもうけられた〈神座〉にはひとりの〈神〉がやってきて、天皇とさしむかいで食事する。民俗的な農耕祭儀では〈田神〉は一対の男・女神であった。大嘗祭で一対の男女神を演ずるのは、あきらかにひとりの〈神〉とみずからを異性の〈神〉に擬定した天皇である。

 悠紀主基殿の内部には寝具がしかれており、かけ布団と、さか枕がもうけられている。おそらくはこれは〈性〉行為の模擬的な表象であるとともになにものかの〈死〉となにものかの(生誕〉を象徴するものといえる。

 このように大嘗祭の祭儀が「空間的にも時間的にも〈抽象化〉されている」ものだとすれば、「穀物の生成をねがうという当為」(西郷信綱)とか「純然たる入魂儀式」(折口信夫)のような平板な解釈は成り立ちようがない。吉本さんは次のように続けている。

 むしろ〈神〉とじぶんを異性〈神〉に擬定した天皇との〈性〉行為によって対幻想を〈最高〉の共同幻想と同致させ、天皇がみずからの人身に世襲的な規範力を導入しようとする模擬行為を意味するとしかかんがえられない。

 わたしたちは、農耕民の民俗的な農耕祭儀の形式が〈昇華〉されて世襲大嘗祭の形式にゆきつく過程に、農耕的な共同体の共同利害に関与する祭儀が規範力〈強力〉に転化するための本質的な過程をみつけだすことができよう。それをひと口にいってしまえば、共同社会における共同利害に関与する祭儀は、それが共同利害に関与するかぎり、かならず規範力に転化する契機をもっているということである。

 そしてこの契機がじっさいに規範力にうつってゆくためには、祭儀の空間性と時間性は〈抽象化〉された空間性と時間性に転化しなければならない。この〈抽象化〉によって、祭儀は穀物の生成をねがうというような当初の目的をうしなって、いかなる有効な擬定行為の意味をももたなくなるかわりに、共同規範としての性格を獲得してゆくのである。

 民俗的な農耕祭儀では、〈田神〉と農民とはべつべつであった。世襲大嘗祭では天皇は〈抽象〉された農民であるとともに、〈抽象〉された〈田神〉に対する異性〈神〉として自己を二重化させる。だから農耕祭儀では農民は〈田神〉のほうへ貌をむけている。しかし世襲大嘗祭では天皇は〈抽象〉された〈田神〉のほうへ貌をむけるとともに、みずからの半顔を、〈抽象〉された〈田神〉の対幻想の対象である異性〈神〉として、農民のほうへむけるのである。祭儀が支配的な規範力に転化する秘密は、この二重化のなかにかくされている。なぜならば、農民たちがついに天皇を〈田神〉と錯覚することができる機構ができあがっているからである。

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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(9)

大嘗祭とはなにか(8)

吉本さんはまず「未開人における〈死〉と〈復活〉の概念がほとんど等質に見做されている」ことを論じている。(以下の引用文では原文で傍点が付されている文字は太字で表わした。)

 かれらにとっては〈受胎〉、〈生誕〉、〈成年〉、〈婚姻〉、〈死〉は、繰返し行われる〈死〉と〈復活〉の交替であった。個体が生理的にはじめに〈生誕〉し、生理的におわりに〈死〉をむかえるということは、〈生誕〉以前の世界と〈死〉以後の世界にたいして心的にははっきりした境界がなかった。

 このことを暗示する説話として『古事記』から「伊邪那岐(いざなぎ)命・伊邪那美(いざなみ)命」神話の「黄泉(よみじ)の国」の段と「火遠理(ほをり)命=天津日高日子(あまつひたかひこ)穗穗手見(ほほでみ)命」神話の「鵜葺草葺不合(うがやふきあへず)命」の段を取り上げている。(吉本さんは現代語に訳しているので、その吉本訳を転記する。)

伊耶那岐は死んだ伊耶那美を追って死後の世界へ行き、「おれとおまえが作った国はまだ作りおわっていないから、還ってこないか」といった。伊那那美は「もっとはやく来てくれればよかったのに、わたしは死の国の食物をたべてしまった。だが、せっかくあなたがきてくれたのだから、死の世界の神にかけあってみましょう。わたしを視ないでください」とこたえて家の中へ入ったがなかなか出てこなかったので、伊那那岐が燭をつけて入ってみると、伊耶那美の頭や、胸や、腹や、陰部や手足には蛆がわいてごろごろ鳴っていた。伊耶那岐は恐怖にかられて逃げだすと、伊那那美は「わたしに辱をかかせた」といって死の世界の醜女に追いかけさせた。

海の神の娘、豊玉姫が「じぶんは妊娠していて子を産むときになった。海で産むわけにいかないから」というので、海辺に鵜の羽で屋根を葺いて、産屋をつくった。急に腹がいたくなったので産屋に入るとて、日子穂穂出見に「他国の人間は、子を産むときは、本国の姿になって産むものだから、わたしも本の身になって産みます。わたしを見ないで下さい」といった。妙なことを云うとおもって日子が子を産むところを覗いてみると、八尋もある鰐の姿になって這いまわっていた。日子はおどろいて逃げだした。豊玉姫は恥ずかしくおもって子を産んだ後で、わたしの姿を覗かれてはずかしいから、本の国へかえると云って海坂をふさいで還ってしまった。

 この〈死後〉譚と〈生誕〉譚とはパターンがおなじで、一方は死体が腐って姐がわいてゆく場面を、一方は分娩の場面をみられて、男は驚き、女は自己の変身をみられて辱かしがるというようになっている。死後の場面も生誕の場面もおなじように疎通しており、このふたつの場面で、男が女の変身にたいして〈恐怖〉感として疎外され、女が一方では〈他界〉の、一方では「本国の形」の共同幻想の表象に変身するというパターンで同一のものである。

 男のほうが〈死〉の場面においても〈生誕〉の場面においても場面の総体からまったくはじきだされる存在となる度合は、女のほうが〈性〉を基盤とする本来的な対幻想の対象から、共同幻想の表象へと変容する度合に対応している。『古事記』のこのような説話の段階では、〈死〉も〈生誕〉も、女性が共同幻想の表象に転化することだという位相でとらえられている。いいかえれば人間の〈死〉と〈生誕〉は、〈生む〉という行為がじゃまされるかじゃまされないかというように、共同幻想の表象として同一視されていることを意味している。

 では、人間の〈死〉と〈生誕〉が、〈生む〉という行為がじゃまされるか、されないかという意味で同一視されるような共同幻想は、どのような地上的な共同利害と対応するのだろうか?

 この問に対する答をもっともよく象徴する説話として、続いて同じく『古事記』から、「天照(あまてる)大神・須佐之男(すさのを)命」神話の「五穀の起源」の段を取り上げている。

須佐男は食物を穀神である大気都(おほけつ)姫にもとめた。そこで大気都姫は、鼻や口や尻から種々の味物をとりだして料理してあげると、須佐男はその様子を覗いてみて穢いことをして食わせるとおもって大気都姫を殺害してしまった。殺された大気都姫の頭に蚕ができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳に粟ができ、鼻に小豆が、陰部に麦が、尻に大豆ができた。神産巣日(かむむすび)がこれをとって種とした。

 この説話では、共同幻想の表象である女性が〈死〉ぬことが、農耕社会の共同利害の表象である穀物の生成と結びっけられている。共同幻想の表象に転化した女〈性〉が、〈死〉ぬという行為によって変身して穀物になることが暗示されている。女性に表象される共同幻想の〈死〉と〈復活〉とが穀物の生成に関係づけられる。

 ここまでかんがえてくると、人間の〈死〉と〈生誕〉を、〈生む〉という行為がじゃまされるかじゃまされないかのちがいとして同一視されている共同幻想が、初期の農耕社会に固有なものであることを推定することができる。

 かれらの共同の幻想にとっては、一対の男女の〈性〉的な行為が〈子〉を生むという結果をもたらすことが重要なのではない。女〈性〉だけが〈子〉を分娩するということが重要なのだ。だからこそ女〈性〉はかれらの共同幻想の象徴に変容し、女〈性〉の〈生む〉という行為が、農耕社会の共同利害の象徴である穀物の生成と同一視されるのである。

 そしてこの同一視は極限までおしつめられる可能性をはらんでいる。女〈性〉が殺害されることによって穀物の生成が促されるという『古事記』のこの説話のように。

(中略)

 『古事記』は穀物についての説話をいくつも書きとめているが、このことは、『古事記』の編者たちの権力が、はじめて穀物栽培の技術を身につけて古代村落をせきけんした勢力を始祖とかんがえたか、かれらの勢力が穀物栽培の発達した村落社会に発祥したか、あるいはかれらの始祖たちの政治的制覇が、時代的に狩猟・漁獲を主とする社会から農耕を主とする社会への転化の時期にあたっていたかのいずれかを物語っているようにおもわれる。

 吉本さんは「『古事記』の編者たちの権力」の発祥として、3通りの可能性を指摘している。さすがだと思う。吉本さんは、今はたぶん、古田さんの解読した「天孫降臨」を知っていると思う。(どこかで吉本さんと古田さんが電話で対談した記録を読んだ記憶がある。)いまならためらうことなく、その権力の発祥は「かれらの始祖たちの政治的制覇が、時代的に狩猟・漁獲を主とする社会から農耕を主とする社会への転化」したものと言い切るだろう。

 この『古事記』の説話的な本質は、石田英一郎の論文「古代メキシコの母子神」が記載している古代メキシコのトウモロコシ儀礼とよくにている。

 古代メキシコの「箒の祭」では部落から択ばれた一人の女性を穀母トシ=テテオイナンの盛装をつけさせて殺害する。そして身体の皮を剥いで穀母の息子であるトウモロコシの神に扮した若者の頭から額にかけて、彼女のももの皮をかぶせる。若者は太陽神の神像の前で〈性〉行為を象徴的に演じて懐胎し、また新たに生まれ出るとされている。

 『古事記』の説話のなかで殺害される「大気都姫」も、「箒の祭」の行事で殺害される穀母もけっして対幻想の性的な象徴ではなく、共同幻想の表象である。これらの女性は共同幻想として対幻想に固有な〈性〉的な象徴を演ずる矛盾をおかさなければならない。これは、いわば絶対的な矛盾であり、したがって自ら殺害されることによってしか演じられない役割である。自ら殺害されることによって共同幻想の地上的な表象である穀物として再生するのである。

 つぎにわたしたちは、この『古事記』の説話の本質が、より高度になったかたちを想定することができる。この想定では、一対の男女の〈性〉的な行為によって〈子〉がうまれるということが、そのままで変身をへずに共同幻想によってうけいれられ、穀物の生成と結びつけられるという段階をかんがえることができる。このばあいは〈子〉を受胎し、分娩する女性は、あくまでも対幻想の対象であり、共同幻想の象徴に転化するために〈変身〉したり、〈殺害〉されたりすることはありえない。
 「『古事記』の説話の本質が、より高度になった」土俗的な農耕祭儀として、吉本さんは能登半島に伝承されている「田の神行事」に着目する。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(8)

大嘗祭とはなにか(7)

 大嘗祭問題の核心は次の二つに絞られた。
(1)
 悠紀殿・主基殿と、主舞台がなぜ二つ用意され、同じ儀式を2回繰り返すのか。
(2)
 その悠紀殿・主基殿に寝具が用意されるのは何故か。

 古田さんの答は次のようだった。
(1)
 もともと「神ろき・神ろみ」という二人の祖先神に対する儀式だった。天皇家はこれをそのまま踏襲したが、天皇家の祖先神は天照大神だけなので祭殿が二つある意味が分からなくなってしまった。
(2)
 大嘗祭は深夜から「夜明けざる前」に行われる。祭神はまだその寝床の中で寝てる。

 「祭儀論」で吉本さんは二人の先人たちの(2)の説を紹介している。


 西郷信綱は「古代王権の神話と祭式」で、天皇はこの寝具にくるまって胎児として穀霊に化するとともに、(天照大神)の子として誕生する行為だと解している。


 折口信夫は「大嘗祭の本義」のなかで、 天皇が寝所にくるまって(物忌み)をしそのあいだに世襲天皇霊が入魂するのをまつためにひき寵もるものだと解釈している。

(1)についてはお二人ともお手上げのようだ。「大嘗祭の本義」を読んでみたが、(1)については一言も触れていない。

 では吉本さんはどのように論じているのだろうか。これから吉本さんの「祭儀論」を読んでいくことになる。まず、この論文の理解に欠かせない吉本さん特有のキーワードについて簡単に確認しておこう。
 人間が人間と関係する関係の仕方は三つの軸が考えられる。
(1) 個の自己に対する関係
(2) 個と一人の他者との関係
 最も典型的で重要な関係は男女のペアの関係であるが、親子の関係や兄弟姉妹の関係もここに入れることができる。つまりは家族の関係と言ってもよいだろう。
(3) 個が虚像としてしか関われない共同の関係
 大は国家・社会から小さなサークルのようなものまでが想定されている。

 人間が世界との関係を通して自己疎外していく幻想(観念)の世界もこの三つの軸によって把握することができる。その観念の世界を吉本さんはそれぞれ
① 自己幻想
② 対幻想
③ 共同幻想
と呼んでいる。『共同幻想論』の序文(編集者の質問に答えたもので構成されている)から引用しよう。

 全幻想領域というものの構造はどういうふうにしたらとらえられるかということなんです。どういう軸をもってくれば、全幻想領域の構造を解明する鍵がつかめるか。

 僕の考えでは、一つは共同幻想ということの問題がある。つまり共同幻想の構造という問題がある。それが国家とか法とかいうような問題になると思います。

 もう一つは、僕がそういうことばを使っているわけですけれども、対幻想、つまりペアになっている幻想ですね、そういう軸が一つある。それはいままでの概念でいえば家族論の問題であり、セックスの問題、つまり男女の関係の問題である。そういうものは大体対幻想という軸を設定すれば構造ははっきりする。

 もう一つは自己幻想、あるいは個体の幻想でもいいですけれども、自己幻想という軸を設定すればいい。芸術理論、文学理論、文学分野というのはみんなそういうところにいく。

 つまりそういう軸の内部構造と、表現された構造と、三っの軸の相互関係がどうなっているか、そういうことを解明していけば、全幻想領域の問題というものは解きうるわけだ、つまり解明できるはずだというふうになると思うんです。

 この幻想領域の三つの軸のうち、『共同幻想論』を読み解く上で最も重要なキーとなるのは〈対幻想〉である。

 対幻想も一種の共同幻想と言えるが、それは男女の性関係という自然関係である点において〈共同幻想〉とことなる。吉本さんは、それは自己を否定しながらもそのことによって自己の本質を犠牲にする必要のない唯一の(共同の)関係性であり、そこでは疎外が疎外とはならないのだ、と言う。

 対幻想は社会が成立し消滅する全過程を通じて持続する。それは、自然な共同性として、あらゆる共同幻想(国家・社会)の基底にあり続ける。『共同幻想論』において重要なキーとなる所以である。

 さて、「大嘗祭とはなにか(3)」で私は「天国は海洋部族であり、主産業は農業ではなかった。海産物や海の利を生かした交易がその主な産業だったろう。…その天国が、畑作だけでなく水田耕作も盛んであった「瑞穂の国」(筑紫)の富は垂涎の的であったろう。その富の収奪が目的で筑紫に侵略した。これが「天孫降臨」の真の姿だ。」と書いた。このことが「大嘗祭」を読み解くキーポイントになる。

 高度な農耕産業を持たなかった天国に農耕祭儀があるはずがなかった。征服部族国家・天国は、その支配を筑紫の諸被征服農耕部族国家に成立し継承されていた土俗的な農耕祭儀を収奪し、あたかも自分たちが諸農耕部族国家の本来の宗主国であるかのように位置づける一つの方法として、それを極めて抽象的な国家的儀式に昇華させた。それが大嘗祭である。

 そうだとするならば、今に伝承されてきている土俗的な農耕祭儀に大嘗祭の原型を見いだすことができよう。そしてその土俗的な農耕祭儀に底流する共同幻想の源流は『古事記』の神話の中に見いだせるだろう。吉本さんは『古事記』の神話をどのように読み解いているだろうか。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(7)

大嘗祭とはなにか(6)

 今回からの教科書は吉本隆明さんの二論文「天皇および天皇制について」(『詩的乾坤』所収)と「祭儀論」(『共同幻想論』所収)です。

 なぜ長々と「大嘗祭」にこだわっているのだろうか、という疑問が聞こえてきそうだ。本題に入る前に「大嘗祭とはなにか」という問題を考える今日的意義を確認しておきたい。


 <天皇(制)>が統一的な国家の宗教的な権威を世襲するものとして確定された時期は、たかだか千数百年以前の時期としてしかかんがえることはできない。しかし、種族の最高の巫女が共同体の最高の宗教的権威であり、その肉親の兄弟が政治的な権力を行使するという政治形態は、わが国だけでも数千年をさかのぼることができる。この時代的な落差は、そのまま<天皇(制)>権力の出自不明な正体を象徴するといっていい。

 私(たち)の知るところによれば、近畿王朝が天皇世襲を確定したのは「千数百年以前の時期」ではなく、約1300年前であることは前にも指摘した。以後は繰り返さない。

 兄弟と姉妹によって政治的権力と宗教的権力を分担して統治するという政治形態は邪馬壹国にその典型を見ることができる。

共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼(ひみか)という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿(ふせい)なく、男弟あり、佐(たす)けて國を治む

 邪馬壹国は3世紀中頃の倭国であるが、吉本さんは初源の国家(数千年前と想定している)はこのような政教未分離の政治形態をとっていたと考えている。

 わたしたちはかつて戦争期に、<天皇(制)>から、神話から、伝統の美学なるものからあざむかれ、敗戦によって一挙にほうりだされた体験をもった。しかし、このあざむかれかたには一定の根拠がなかったわけではない。

 その根拠のひとつは、<天皇(制)>が共同祭儀の世襲、共同祭儀の司祭としての権威をつうじて、間接的に政治的国家を統御することを本質的な方法とし、けっして直接的に政治的国家の統御にのりださなかったことの意味を巧くとらえることができなかったことである。

 またべつの根拠は、<天皇(制)>の成立以前の政治的な統治形態が、歴史的に実在した時期があったことをみぬけなかったことである。わが列島の歴史時代は数千年をさかのぼることができるのに、<天皇(制)>の歴史は千数百年をさかのぼることはできない。この数千年の空白の時代を掘りおこすことのなかに<天皇(制)>の宗教的支配の歴史を相対化すべきカギはかくされているといっていい。

 8世紀始めに近畿王朝が日本の中心権力になる前に九州に先行する中心権力・倭国があったことを古田史学がつぶさに明らかにしてきている。吉本さんの営為は縄文時代にまでさかのぼる触手を持っているが、古田さんの論考も縄文時代からさらに石器時代にまでその触手をのばしている。いずれ取り上げたいと思っている。

 この空白の時代を掘りおこすために、さしあたって必要な前提は三つかんがえられる。

ひとつは、現在も宮廷の内部でおこなわれている祭儀が徹底的に公開されることである。もうひとつは、天皇陵と称せられているものの徹底的な発掘と調査を実施することである。さらにもうひとつは、わが南島(琉球・沖縄)における歴史学的・民俗学的・考古学的な研究と調査を徹底的に推進することである。とくにこれが南島出自の研究者によって行われることである。

 本来的にいえば、わが南島が本土と合体する必須の条件は、住民白身によって<天皇(制)>以後の本土中心の歴史を、相対化すべき根拠をみずから発掘することであるといえる。この手土産なしの合体は、ただかれらの不幸をもたらすにすぎないといえる。

 この論文は沖縄の本土復帰が日程に上ってきた頃に書かれたものである。「本土中心の歴史を、相対化すべき根拠をみずから発掘すること」なしの沖縄の本土復帰は「ただかれらの不幸をもたらすにすぎない」という指摘は今も生きている。厖大な米軍基地負担を強いられた沖縄の不幸は、今普天間基地返還問題に先鋭的に現れている。

 なお、沖縄出身の研究者たちの名誉のために一言付け加えれば、当然のことながら、沖縄の「歴史学的・民俗学的・考古学的な研究と調査を徹底的に推進」している人たちがいる。例えば、1998年に那覇市で『吉本隆明に聴く―琉球弧の喚起力と「南島論」の可能性』と題するシンポジウムが開かれた。そのときのパネルディスカッションには吉本さん、赤坂憲雄さんの他に沖縄出身の方が参加されている。そのときの記録をまとめた本「琉球弧の喚起力と南島論」が手元にあるので、そこに名を連ねている沖縄出身の方々を、氏名だけになるが、紹介しておこう。上原生男さん、比嘉政夫さん、嵩元(たけもと)政秀さん、渡名喜(となき)明さん、高良勉(たからべん)さん。

(ここで、以前にも沖縄問題について上と同じような事を書いたことを思い出した。興味のある方は 「沖縄が経済的に自立することは可能か。」 をお読みください。)

 話を戻す。吉本さんが挙げている「空白の時代を掘りおこすため」の他の二つの「前提」は、現在の支配階級の頑迷固陋さが払拭されないかぎり、実現の可能性は限りなくゼロである。しかしそのうちの一つ、「宮廷の内部でおこなわれている祭儀」の公開は望めなくとも、学問的に解明することはできる。その解明がどこまで進んでいるのかを知ることが目下の主題になっていたわけだった。
 天皇陵の発掘の重要性については古田さんも繰り返し指摘している。『天皇陵の史料批判』という論文(祝詞「大嘗祭」にもふれている。HP「新古代学の扉」で読むことができます。)で前方後円墳が持っていた役割を文献的に解き明かしている。その論文のあとがきを転載しておこう。

 天皇陵問題は、日本古代史の眼晴である。しかし、その眼晴はおおわれたままになっている。そしておおわれたままにしておくことが「天皇家の尊厳」を保つもの、そのように信ぜられている。

 本当に、そうか。確かに、そうだ。もし、民衆がすべて「無知」であるならば。何事のおわしますかは知らぬまま、否、知らぬがゆえに、敬意をはらいつづける。そういう時代も確かにあった。

 しかし、いつまでも民衆が「無知」でありつづけることは不可能だ。その証拠に、今、戦前風の皇国史観を語って、誰人がよく、これを信ずるであろうか。すでに、敗戦後の、より開かれた立場、それを人間の理性が知ったからである。

 それと同じだ。「天皇陵群の存在こそ、わが国の歴史が近畿天皇家中心に展開されたことをしめす。」、今なお、多くの日本国民はこの命題を“信じて”いる。戦前の皇国史類と同じように。いわば「戦後型の皇国史観」である。

 しかし、人間の理性は知った。吉備や日向には、天皇陵の多くより「巨大」な、前方後円墳の存在することを。この一点の認識を起点にして、新たな疑問に立ち向うとき、ついに、先の命題は“保持”しつづけることが不可能なのである。

 もしなお、これを疑う人ありとすれば、幸いにも、無上の方法がある。他にない。「天皇陵の学術的発掘調査」がこれだ。もし、「天皇」という象徴、その尊貴の地位が、日本国民の「無知」に依拠するのではなく、日本国民の「理性」に依拠しようとするならば、これ以外の方法はない。

 もしこのような、わたしの所論に対して、あるいは怒り心頭に発する人ありとしても、わたしはこれをよく理解できる。なぜなら、「国家の公定の歴史」に関する問題は、ただに人間の理性にかかわるものではなく、かえって時として、人間の感情や情念にもとづくものだからである。

 しかしながら、いかなる国家の権力も、個人の暴力も、しょせん亡ぼしうるのは、人問の生命のごときものにすぎず、決して真理そのものを亡ぼすこと、それは不可能なのだ。わたしはそれを信じ、ここに本稿を草し終ったのである。

《真説古代史・近畿王朝草創期編》(6)

大嘗祭とはなにか(5)

(長い横道でした。本道に戻ります。)

 大嘗祭という儀式の中核については今でも不明な部分がある。その儀式に直接関わるごく一部の者にしかみることができない。たださまざまな史料・史実から推測することでその輪郭を知ることはできる。まず史料を読んでみよう。

 祝詞「大嘗祭」を岩波古典文学大系より転載する。

大嘗(おほにえ)の祭

「集侍(うごな)はれる神主(かむぬし)・祝部(はふりべ)等(ら)、諸(もろもろ)、聞(きこ)しめせ」と宣(の)る。

「高天の原に神留(かむづま)ります、皇睦(すめむつ)神ろき・神ろみの命もちて、天つ社(やしろ)・國つ社と敷きませる、皇神(すめがみ)等(たち)の前に白さく、今年十一月(しもつき)の中の卯(う)の日に、天つ御食(みけ)の長御食(ながみけ)の遠御食(とほみけ)と、皇御孫(すめみま)の命の大嘗(おほにへ)聞しめさむための故に、皇神等、あひうづのひまつりて、堅磐(かきは)に常磐(ときは)に齋(いは)ひまつり、茂(いか)し御世に幸(さき)はへまつらむによりてし、千秋(ちあき)の五百秋(いほあき)に平らけく安らけく聞しめして、豐の明りに明り坐まさむ皇御孫の命のうづの幣帛(みてぐら)を、明るたへ・照るたへ・和(にぎ)たへ・荒たへに備へまつりて、朝日の豐榮(とよさか)登(のぼ)りに稱辭(たたへごと)竟(を)へまつらくを、諸聞しめせ」と宣る。

「事別(ことわ)きて、忌部の弱肩(よわかた)に太襁(ふとだすき)取り挂(か)けて、持ち齋(ゆま)はり仕へまつれる幣帛を、神主・祝部等請(う)けたまはりて、事落ちず捧げ持ちて奉(たてまつ)れ」と宣る。


 農耕儀礼であることは分かるが、その儀式が具体的にどのような形式で行われるのかはこの祝詞からは分からない。しかしもう一つ史料がある。近衛天皇の時の大嘗祭(1142年)の時に唱えられた「天神(あまつかみ)の壽詞(よごと)」(「中臣(なかとみ)の壽詞」とも言う)を藤原頼長がその日記『台記』の別記「起居注」に書き残していた。これも岩波古典文学大系より転載する。

「現(あき)つ御神(みかみ)と大八嶋(おほやしま)國所しろしめす大倭根子(おほやまとねこ)天皇(すめらみこと)が御前(みまえ)に、天つ神(あまつかみ)の壽詞を稱辭竟(たたへごと)定めまつらく」申す。

「高天の原に神留ります皇親神ろぎ神ろみの命をちて、八百萬(やほよろず)の神(かみ)等(たち)を集(かむつど)へたまひて、『皇孫尊は、高天の原に事始めて、豐葦原の瑞の國を安國と平けく所知ろしめして、天つ日嗣(ひつぎ)の天つ高御座(たかみくら)に御坐(おほま)しまして、天つ御膳(みけ)の長御膳の遠御膳と、千秋(ちあき)の五百秋(いほあき)に、瑞穂を平けく安けく、齋庭(ゆには)に所知ろしめせ』と、事依(ことよ)さしまつりて、天降(あまくだ)しましし後(のち)に、中臣(なかとみ)の遠(とほ)つ祖(おや)天のこやねの命、皇御孫の尊の御前(みまえ)に仕へまつりて、天のおし雲ねの命を天の二上(ふたがみ)に上(のぼ)せまつりて、神ろぎ神ろみの命の前(みまへ)に受けたまはり申(まを)ししに、『皇御孫の尊の御膳(みけ)つ水は、顕(うつ)し國の水に天つ水を加えて奉(たてまつ)らむと申せ』と事教(ことの)りたまひしによりて、天のおし雲ね神、天の浮雲に乗りて、天の二上に上(のぼ)りまして、神ろき・神ろみの命の前(みまへ)に申せば、天の玉櫛(たまぐし)を事依(ことよ)さしまつりて、『この玉櫛を刺し立てて、夕日より朝日の照るに至るまで、天つ詔(のり)との太詔(ふとのり)と言(ごと)をもちて告(の)れ。かく告らば、まちは弱韮(わかひる)にゆつ五百(いほ)篁(たかむら)生(お)ひ出でむ、その下(しも)より天(あま)の八井(やゐ)出でむ。こを持ちて、天つ水と聞しめせ』と事依さしまつりき。

かく依さしまつりしまにまにきこしめす齋庭の瑞穂を、四國の卜部等、太兆(ふとまに)の卜事(うらごと)をもちて仕(つか)へまつりて、悠紀(ゆき)に近江(あふみ)の國の野洲(やす)、主基(すき)に丹波(たには)の國の氷上郡(ひがみ)を齋(いは)ひ定めて、物部(もののべ)の人等(ひとども)、酒造兒(さかつこ)・酒波(さかなみ)・粉走(こばしり)・灰焼(はひやき)・薪採(かまぎこり)・相作(あひづくり)・稲(いな)の實(み)の公等(きみら)、大嘗會(おほにへ)の齋庭(ゆには)に持ち齋(ゆま)はり参(ま)ゐ来て、今年の十一月(しもつき)の中つ卯(う)の日に、ゆしり・いつしりもち、恐(かしこ)み恐みも清(きままはりに仕(つか)へまつり、月の内に日時(ひとき)を撰(えら)び定めて、献(たてまつ)る悠紀・主基の黒酒(くろき)・白酒(しろき)の大御酒(おほみき)を、大倭根子天皇が天つ御膳の長御膳の遠御膳と、汁(しる)にも實(み)にも、赤丹(あかに)の穂にも聞(きこ)しめして、豐の明りに明り御坐(おほま)して、天つ神の壽詞を、天つ社・國つ社と稱辭(たたへごと)定めまつる皇神等(たち)も、千秋の五百秋の相嘗(あひにへ)にあひうづのひまつり、堅磐(かきは)の常磐(ときは)に齋(いは)ひまつりて、茂(いか)し御世(みよ)に榮えしめまつり、康治(かうぢの)元(はぢめ)の年より始めて、天地(あめつち)月日と共に照し明(あか)らし御坐(おほま)さむ事に、本末(もとすゑ)傾(かたぶ)かず茂(いか)し槍(ほこ)の中執(なかと)り持ちて仕(つか)へまつる、中臣の祭主(いはひぬし)正四(おほきよつ)の位(くらゐ)の上(かみ)にして神祇の(かむづかさ)の大副(おおきたすけ)を行ふ大中臣の朝臣(あそみ)清親(きよちか)、壽詞を稱辭(たたへごと)を定めまつらく」と申す。

また申さく、「天皇(すめら)が朝廷(みかど)に仕へ奉る親王(みこ)等(たち)・諸王(おほきみたち)・諸臣(まへつきみたち)・百(もも)の官人等(つかさびとたち)・天の下(した)四方(よも)の國の百姓(おほみたから)、諸諸(もろもろ)集侍(うごな)はりて、見(み)たべ、尊(たふと)みたべ、歓(よろこ)びたべ、聞きたべ、天皇が朝廷に、茂(いか)し世(みよ)に、やくはえの如く立ち榮え仕へまつるべき壽(よごと)を聞(きこ)しめせと、恐(かしこ)み恐みも申(まを)したまはく」と申す。


 祝詞「大祓」と同様、祝詞「大嘗祭」も「天神壽詞」も近畿王朝が作ったものではあり得ない。固有名詞(祭主の名前や新穀を提供する国名)はそのつど変わるが、全体は古来から伝わるものを継承している。祝詞・壽詞の内容は要するに「天孫降臨したニニギの命が始めて行った大嘗祭を大倭根子天皇(近畿天皇家)が行うので、忌部・神主・祝部たちは皆協力せよ」と言っているのが、この壽詞からは大嘗祭の具体的形がある程度読み取れる。

 悠紀・主基という二つの斎場を設け、それぞれに神供、神酒などを用意する。神饌を神に供するということだが、それを大嘗祭の儀式においては天皇が食する。神饌を神と共食することによって、神霊をじぶんの中に体得するというような宗教的な意味あいの儀式であることが分かる。またそれが農耕民に対して「天皇こそがお前達の首長である」という宣言ともなり、皇位継承の正当性の主張ともなっている。

 大嘗祭の中心儀式は深夜行われる。上の史料からは知ることができないが、悠紀殿・主基殿には布団のような物が敷かれているという。この殿内での儀式は秘儀とされていて、その寝床を用いて何をするのかは不明で実態はつかめていない。そのためいろいろな説が出てくる。これについては後ほど取り上げよう。

 この祝詞と壽詞には祝詞「大祓」と同じく「高天の原に神留ります、皇睦神ろき・神ろみの命もちて」という決まり文句が出てくる。「神ろき・神ろみ」という男女二神が「天つ国」の祖先神(天つ神)であると宣言している。壽詞では「神ろぎ神ろみの命をちて、八百萬の神等を神集へたまひて」とあるから、「神ろき・神ろみ」は「天つ八百萬の神」の統率神ということになる。

 「天つ神」は「天神」(てんじん)とも読む。「天神さま」=「菅原道真」と流布されているが、平安時代の人が「天つ神」であるわけがない。「天神」は『古事記』のイザナギ・イザナミの説話に出てくる。

天つ神の諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に、「この多陀用幣流(ただよえる)國を修め理(つく)り固(かた)め成せ。」と詔(の)りて…

 続いてイザナギ・イザナミは「国生み」をする。始めに「ヒルコ」を生んで失敗する。そのとき「天神」に教えを乞うことによってようやく成功する。この「天神」こそ「天つ国」の祖先神である。

 つまり「天神」とは、イザナギ・イザナミ以前の、「遠い誇るべき祖先神」である。ニニギの祖母・天照大神や、天照大神と並び称される高木神たちも「天神の子孫」である。ニニギたちの故国・対馬に「天神神社」がある。たいへん古い神社である。「天神神社」でその古色蒼然としたたたずまいを見ることができる。そのサイトによると「御祭神 天津八十萬神」「創祀年代は不詳」とある。

 さて、大嘗祭では悠紀殿と主基殿で同じことを2回繰り返す。なぜ同じことを2回行うのか、どの学者もうまく説明できなくて困っているそうだ。これを古田さんは次のように説いている。(講演録「大嘗祭と九州王朝の系図」より)

 さっきのニニギの祝詞、神ろき・神ろみ(皇親ですよ)の命(みこと)の命令である、とこういっているでしょう。二人ですよ。天神は神ろき・神ろみの二人ですよ。だから神ろきと神ろみの二つの御殿がいるんですよ。当たり前でしょう。

 それを現在、近畿天皇家になって天照一本にしぼってしまったわけです。だから天皇が向かう神様は天照大神だけでしょう。二つあるのが浮き上がってしまってるんですね。形だけ神ろき・神ろみの九州王朝の天神が残っているんです。そして肝心のご本体は天神を天照に替えたわけです。分家らしく替えたんですが、そのため二つの寝床の説明が不可能になってしまった。

 学者も近畿天皇一元主義では全然あれが説明できない、ということに気がつきましたらね。やっぱり九州王朝という仮説に立たなければ、ま、仮説でも中国の同時代史料に基づく立場、常識ですからね、それに立たなければ『日本書紀』が読めない。なぜ持統で終わっているかも説明できない。なぜ天智以前に大嘗祭の記事がないかも説明できない。同様に二十世紀に行なわれた大嘗祭で、なぜ同じものが二つあるかが説明できなかったわけです。

 さて、悠紀殿と主基殿には寝床が用意されている。これはなぜなのだろうか。これについては次のように述べている。

 しかも、もう一つ、なぜ寝床があるのかという間題。あれでセックスやるんだとか、処女を何とかするんだとかいって、よろこんでいる人もいますけれども、大ウソだと思いますよ。

 皆さん、多利思北孤(たりしほこ)を思い出してください、日出ずる処の天子の。夜いまだ明けざるに多利思北孤は宗教的な行事を行なう。夜が明けたら弟に政治をゆだねる、ということがあったでしょう。つまり宗教的祭祀は夜明けざる前の仕事なんですよ。だから神様はまだベッドに寝てるわけですよ。そう考えたら何も不思議ないんですね。

 それを日出ずる処の天子は聖徳太子だという無茶をやったもんですから、もう自分たちのやっていることは意味不明になっている。宮内庁の人たちも御用学者も、そろって説明不能の状況になっているわけです。

 古田さんの主張に関わらず、悠紀殿・主基殿での儀式がセックスに関係するという説を私は信憑性のある説と考えている。私が信憑性があると言うのは吉本さんの理論である。もちろん、他の論者はいざしらず、吉本さんはそれを「よろこんでいる」わけではない。ここでも、征服国家は被征服国家の「共同幻想」を取り込むかあるいは自らのそれと交換するなどして、支配を貫徹するという観点がキーポイントになる。次回詳論しよう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(5)

大嘗祭とはなにか(4)

天つ宮

 ここまでの考察から「天つ宮」が「天国(対馬・壱岐を中心とする領域)の宮殿」を意味することは明らかだ。対馬・壱岐にはなんとそれぞれ138・164もの神社がある。「古式ゆたかなたたずまいの神社」として古田さんは対馬の「海神(わたつみ)神社」「和多都美(わたつみ)神社」「太祝詞(ふとのりと)神社」を挙げている。「和多都美」という表音漢字での表記はその神社の建立年代の古さを示しているし、いまテーマにしている「祝詞」を神社名としている神社があるのも興味深い。対馬・壱岐は「天つ宮」の故地としていかにもふさわしい。(下の写真はネットから拝借しました。ありがとうございます。)

watatumijinjya2.jpg 「海神神社」

watatumijinjya.jpg 「和多都美神社」

「太祝詞神社」

大中臣

 『古事記』の「天孫降臨」記事の冒頭は次のようである。

爾(ここ)に天兒屋(あねのこや)命、布刀玉(ふとだま)命、天宇受賣(あめのうずめ)命、伊斯許理度賣(いしこりどめ)命、玉祖(たまのおや)命、并(あわ)せて五伴緒(いつとものを)を支(わ)ち加えて天降すなり。

 「ニニギ」に五人の人物がつきそって行ったと言っている。その筆頭の人物について『古事記』は「天兒屋命は、中臣連等の祖」と注記している。

 古田さんは「中臣(なかとみ)」を「ナカ(地名)+ト(戸あるいは門)+ミ(神あるいは海)」と分析している。そして、博多湾岸の那珂(なか)川との同地名音に着目して、筑紫での中臣氏の根拠地を示唆している。

 さらに、福岡市の田島八幡神社に伝わる祭祀(筑紫舞)の「天孫降臨」の場面に登場する主要人物「中富親王」との関連を指摘している。

中富親王、細姫命(うずめのみこと)を呼ぶ。「細姫命よ、お在(あ)しまする」
細姫命「中富親王の御声として、細姫命やあれ応(おお)せ候は、抑(そも)何の御為(おんため)にて候」


 なんと一緒に天下った「宇受賣(うずめ)命」が登場する。「中富氏」=「中臣氏」である。福岡市周辺には現在も「中富」姓が多く存在するという。堀内昭彦という方が電話帳調査をしている。(1979年2~3月)
中富姓分布(福岡県)
福岡市 86
筑後市 41
北九州市19
久留米市11
粕屋郡 10
宗像市  9
田川郡  7
大牟田市 7

 このようなところにも、神話を史実として扱う古田史学の信憑性が如実に表れてくる。またこれは後に取り上げることになる「中臣鎌足」の出自をも示唆している。

根の國・底の國

 「根の国」は「記紀」にも現れる。『古事記』「スサノオノ命の涕泣」の段に

僕(あ)妣(はは)の國根の堅州國に罷(まか)らむと欲(おも)ふ。故、哭(な)くなり。」

とある。また『日本書紀』第7段(スサノオの追放)の一書・第三では「底根の国」と表記している。

 この後、スサノオは出雲に「天」降(あまくだ)る。

(須佐之男命)故、避追(やら)はえて、出雲國の肥の河上、名は鳥髮という地(ところ)に降る。(『古事記』「須佐之男命の大蛇退治)

 『日本書紀』では「天より出雲國の簸(ひ)の川上に降り至る。」とある。

 「根の国」「底根の国」は"出雲そのもの"と見える文言もあるが、少なくとも出雲の方にあることが分かる。

四國の卜部等

 四つ国はともに卜部をだす国である。どこか。これについての古田さんの読解も、"伊豆・壱岐・対馬、もう一国は不明。(対馬を上県・下県二つに分けて四国とする説もある)"という「定説」を覆している。実はこの四国は祝詞にはっきりと書かれている。

速川の瀬―瀬織つひめ
八百會 ―速開つひめ
氣吹戸 ―氣吹戸主
根の國・底の國―速さすらひめ

 もちろんここで「国」というのは「国家」のことではない。四つの領域とそこでの主宰神が示されているのだ。神があれば当然その神を祭る神聖な司祭者(卜部)がいる。それが「四国の卜部」である。詳しい論証を省くが、この場合の「卜部」は国譲りを強要された「出雲王朝」下の成立した「部」の一つである。「天孫降臨」にともなって九州王朝に編入された司祭者たちであった。

 以上より、「四國」は"筑紫から出雲へ"の通路上あるいは通路近辺(日本海沿い、九州と本州の北岸部)に存在する国(領域)という事が出来る。この祝詞が舞台としている全領域がはっきりとした。

 最後にこの論考の古田さん自身による「総括」を転載しておこう。

第一
 この「大祓」の祝詞は、弥生時代の前半期、「天孫降臨」当時、降臨地たる筑紫(筑前中城。糸島と博多湾岸の間の高祖山連峯近辺)において作られた。

第二
 その目的は、この征服戦争ないし権力交替争乱のさい、生じたさまざまの凶事、ことに新支配者側(ニニギノミコト側)の加害による「罪」を、一掃(帳消し)するためであった。そのための「宗教行為」としての「大祓」だったのである。

第三
 この文中の眼晴の句、「大倭」の二字は、本来の意義「オホチクシ」を意味した。これを、のちの近畿天皇家が〝換骨奪胎″して、「オホヤマト」と唱えつづけることとなったのである。

第四
 そのため、この文面のもつ、生き生きした原初性は見失われ、〝一般的″〝普遍的″〝観念的″理解において、ここにしめされた「罪」、また「大祓」の意義が解されつづけて、今日に至っているのである。

第五
 旧来の「大和中心主義」の観念的理解と、わたしの新たに提起した「筑紫中心」の実証的理解、それはいずれも、「祝詞」という史料を理解する上の「仮説」だ。その「二つの仮説」のうち、いずれが是か、いずれが否か。それを決するものこそ、対馬海流をめぐる「海流の論理」だ。

 〝筑紫から出雲へ″ ― このコースは、いかにも自然。自然そのものだ。

 これに対し、「大和」を原点にしたら、― どうか。大和川を下り、大阪湾に出、瀬戸内海に出、関門海峡をめぐって、はるばると出雲に流れ着く。こんなルートを〝想像する″論者があろうか。あるとすればそれは、あまりにも迂路、あまりにも恣意なのではあるまいか。

 もし、「然らず。」と、なお主張する論者は、この「大祓の祝詞」を封じこめたガラスびんを大阪湾に何十個か、投下してみれば、よい。果して、その何割が、かの出雲近辺に漂着するであろうか。

 これに対して、筑紫の北辺、玄海灘にこれを投じてみよ、その大半は〝出雲方面″へと流れゆき、あるいはその沖合いに、あるいはその岸辺に漂流し、ときあって漂着することであろう。少なくとも、そのように自然に〝イメージ″できるからこそ、この祝詞の「道行き文」はつづられた。それは、〝のべ手″と〝聞き手″に共通した〝イメージ″だ。そしてこの一点こそ、「生きた祝詞の誕生」を語るさい、この上なく重要な、核心をなす一点なのである。

 祝詞は弥生前半期の人たちの言葉を今に伝える貴重な史料である。ヤマト王権一元主義という虚偽意識(イデオロギー)を払拭したところから真実が始まる。

 最後にもう一つ、「記紀」に描かれているヤマト王権の初期大王たちの長い寿命(例えば神武は137歳)や『魏志倭人伝』伝える倭人の平均寿命(90歳ぐらい)は従来は「誇張された記述」(ウソ)として還り見られていなかった。これに対して、古代には「二倍暦」が使われていた時期があったことを始めて指摘したのも古田さんだった。「二倍暦」だと1年に2度年をとる。今の年齢でいうと137歳は68~68歳、90歳は45歳となり、誇張でもなんでもない。実にリアルだ。

 今はあまり行われていないようだが、私たちは年末には隣近所一斉に大掃除をやる習慣があった。私の母は古いしきたりをよく守った人だった。大掃除が済んだ後、神棚・台所・厠の神社からのお札を張り替えていた。一種の「お祓い」だったのだろうと思う。

 ところで祝詞「六月の大祓」には問わず語りに語っている面白い事実がある。祝詞の表題に〔十二月(しはす)はこれに准(なら)へ〕という注意書きがあった。つまりその祝詞が作られた頃(弥生前期)は年に2度「大祓」をしていた。「大祓」というのは単なる「お祓い」と違って、1年間の「罪障」を総括をする重要な神事であった。それを1年に2度やっていたとは!? これはその頃は「二倍暦」を用いていた証拠ではないか。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(4)

大嘗祭とはなにか(3)

 まずキーワード(赤字部分)を一つ一つ取り上げていこう。(古田さんはそれぞれを詳しく論証しているが、ここでは論証は最小限にして、過去の記事で既に取り上げている事項については結論だけを確認しておく。)

「天(あま)」

 「天」はいわゆる"美字"であり、もともとは「海人(あま)」の意である。「天つ国」とは「天つ神」の住まう国であり、具体的には対馬・壱岐など対馬海流上の島々を指す。「天神」は天照大神のことではない。祝詞では「皇親(すめむつ)」と表現されている「神ろき・神ろみ」という二神を指す。対馬に「天神神社」がある。天照大神を祭る「阿麻氐留神社」も対馬にある。

皇御孫

 天照大神の孫「ニニギノミコト」のことである。祝詞はニニギの「天孫降臨」で始められている。ニニギが天下った地は「竺紫(ちくし)の日向(ひなた)の久士布流多氣(くしふるだけ)」(『古事記』)である。これは宮崎県の高千穂山ではない。博多湾岸と糸島郡との間の高祖山連峰には日向峠・日向山・日向川などがあり、「くしふるだけ」もチャンと存在している。高祖山を中心とする連山こそ「天孫降臨の地」である。

大倭日高見之国

 この語句には初めて出会ったので少し詳しく書こう。

 「倭」・「大倭」は「天智紀」末年以降では「やまと」「おおやまと」と読み、「大和(奈良)」を指しているが、それ以前の文章では「ちくし」・「おおちくし」と読むのが正しい。(例えば『万葉集』などの史料で「倭」が出てきた場合、それが「ちくし」を指すか、「やまと」を指すかはその前後の文脈から判定しなければならない。)

 ニニギノミコトを『古事記』では「天津日高日子番能邇邇藝命」と呼んでいる。岩波大系ではこれを「あまつひこひこほのににぎのみこと」と訓じている。「日高」「日子」とわざわざ違った表記を用いているのに両方とも同じ「ひこ」と読むのは変だ。古田さんは「あまつひたかひこほのににぎのみこと」と訓じている。「伊波禮毘古(いわれひこ)」(神武)の例に見るように、「ひこ」の上の「日高」は地名である。

 対馬の北端やや東よりの所に「比田勝」という地がある。対馬海流の激流を避けうる地であり、弥生時代には繁栄した港津であったろう。

 「比田勝」は「日高津」である。「ひたかひこ」とは「日高」に拠点を持った「長官」という意となる。ニニギは対馬(少なくとも上県郡)を支配していた。ちなみにニニギの子も「天津天津日高日子穗穗手見命」であり、そのまた子の名も「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」(「伊波禮毘古」の父)と、同じ称号を継承している。つまり「天津日高日子」という称号は、本来対馬北部の長官を表わしたものであったが、「天孫降臨」後も「大倭(ちくし)」の大王の尊称として使われたと考えられる。

 次に「日高見」の「み」はなにか。「ひたかみ」は「日高の海」または「日高の神」(「かみ」は接頭語「か」+語幹「み」、「~み」と呼ぶ神も多い)であろう。

 以上より「大倭日高見之国」は本来対馬北部を呼ぶ国名だったものが「天孫降臨」後に「筑紫を中心とする地域」の名として使われるようになった。

「天つ罪」と「国つ罪」

 祝詞は「天孫降臨」にともなう問題として「雑雑(くさぐさ)の罪」を列挙している。そしてその罪を祓うのがこの祝詞の目的である。

 「国譲り」を受けて平和裡に「天孫降臨」したという『古事記』が描く"美談"が隠している罪悪(残虐な武力行使)があったことをこの祝詞が見せつけている。『日本書紀』には武力行使の片鱗を示す一文がある。(「神代下」第九段本文)

是に、二の神(経津主神・武甕槌神)、諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ鬼神等を誅(つみな)ひて、果して以て復命す。〔一に云う、二の神、遂に邪神及び草木石の類を誅ひて、皆巳(すで)に平げぬ。其の服せざる者は、唯星の神、香香背男のみ。故、また倭文神(ひとりがみ)建葉槌命を遣はせば服しぬ。故、二の神天に登る、といふ。〕

 「草木石」の類が誅殺の対象とされているが、この祝詞の中で語られている「語(こと)問ひし磐ね樹立、草の片葉(かきは)をも語止(や)めて」と共通している。これは「草木石」を"信仰対象"とする、旧石器・縄文以来の民衆を指しているものと思われる。

 さて、「天つ罪」のうち「畔放ち・溝埋)み・樋放ち・頻蒔き・串指し」(「串指し」は田畑に呪いの串を刺すこと、あるいは田畑に串を押し立てて耕作の邪魔をすることという説もある)の五つは農地の管理・占有に対する破壊行為である。

 生け剥ぎ・逆剥ぎ・屎戸については「定説」は「暴風雨」の災害としている。罪とは"人間の行為"に関する概念であるから、この解釈はおかしい。「屎戸」は、スサノオの悪行の一つでもあったが、文字通り悪質な"嫌がらせ"と考えてよいだろう。「生け剥ぎ・逆剥ぎ」については古田さんは、獣や魚の皮剥には神聖なルールがあって、そのルールを破る罪ではないかという説を出している。そのようなルールがあり得ることは、例えばアイヌのイヨマンテを想起すればよいだろう。

 ここでは一つ一つの罪がどういう罪なのかについてはこれ以上深入りする必要はないだろう。ポイントはこれらの罪の中心は「農業に対する破壊行動」であり、これがなぜ「天つ罪」と呼ばれるのだろうかという点にある。古田さんは「天孫降臨」(侵略戦争)のときの「天つ国側からの『加害』」ということで「天つ罪」と呼んでいると解釈しているが、この点には私には異論がある。後ほど述べよう。

 次は「国つ罪」。
 現代の私たちからは全く理解しがたい「罪」がある。例えば「生膚斷ち・死膚斷ち」。天つ罪の「皮剥」が獣や魚が対象だったのに対して、これらは明らかに対象は人間である。これについての従来の説明は通り一遍で陳腐なものだ。古田さんの次のような仮説は私にはとてもよく納得できる。

 『魏志倭人伝』が描く邪馬壹国の習俗・習慣の中に「男子は大小なく皆鯨面文身す。」という身体への「入れ墨」がある。この入れ墨によって、その男が倭国のどの国に属するどのような身分の者かが分かったという。この入れ墨は男たちの身分を保障するシンボルのようなものであった。このような習俗は邪馬壹国の時代(弥生期後半)に忽然と現れたわけではないだろう。この習俗は、入れ墨のデザインはいろいろと変化してきただろうが、天孫降臨の時代(弥生前期)から受け継がれてきたと考えてもよいのではないだろうか。

 「生膚斷ち・死膚斷ち」とは「天孫降臨」という侵略戦争で敗れた側のシンボルを消して奴隷化したり、戦死した者を傷つけて辱めた行為ではないだろうか。天つ国による征服によって大きな社会変動・身分変動が起こっただろうことは容易に想像できよう。新権力による公的な変動のほかに、戦闘時の直接的・暴力的な「生膚斷ち・死膚斷ち」もあったに違いない。

 「おのが毋犯せる罪・おのが子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪」なども戦乱の中での戦士たちのあるまじき犯罪行為と解することができる。

 そのほかの「国つ罪」についても、古田さんは詳細に論じているが省略する。古田さんは全ての「国つ罪」を天国の侵略時のまがまがしいさまざまなトラブルとして説明している。しかし、私は全てを侵略戦争時の「罪」と考えなくともよいと思う。「畜犯せる罪・昆ふ虫の災・高つの災・高つ鳥の災・畜朴し、蟲物する罪」などは国家以前の共同体の頃からの「掟」(法)に関わる「罪」と考えられよう。

 この祝詞は、以上のような罪悪を祓う("帳消し"にし、"無罪放免"にする)ための「まじない」である。しかもその祓うべき「罪」の持ち主は、「天皇が朝廷」であり「諸官司」であり「天の益人等」であった。つまり、これは権力の中枢部での「国家的儀式」であった。

 ところで先に私は、天つ罪を侵略戦争時の「天つ国側からの『加害』」とする古田さんの解釈に異論があると述べた。そのことにふれておこう。

 天国は海洋部族であり、主産業は農業ではなかった。海産物や海の利を生かした交易がその主な産業だったろう。朝鮮半島経由で得た金属武器を持ち、武力面では圧倒的な優勢を誇っていたその天国が、畑作だけでなく水田耕作も盛んであった「瑞穂の国」(筑紫)の富は垂涎の的であったろう。その富の収奪が目的で筑紫に侵略した。これが「天孫降臨」の真の姿だ。そうだとすると侵略者は、侵略の目的である富の源泉(農業施設)を故意に徹底的に破壊するようなことはないだろう、と私は考える。

 私の解釈では「天つ罪」(農業への破壊行為)はもともと征服された側(筑紫)の国々に設定されていた「掟」(法)に盛り込まれていた「国つ罪」であった。そして祝詞で「国つ罪」とされている「罪」こそはもともとは天国の「罪」つまり「天つ罪」であった。そう、ここで私は吉本理論を思い出している。筑紫の群立国家で支配的であった「掟・罪」(国つ罪)と、その諸国家に覆いかぶさってきた統一国家勢力(天国)の「罪」(天つ罪)が交換されたのだ。その交換によって、天国が筑紫において「それ以前からあたかも存在したが如くに」その国家権力を確立していったのだ。

蛇足を一つ。
 従来は「天つ罪・国つ罪」がどのように解釈されていたのか知ろうと、岩波大系本の頭注のほかに、ウィキペディアの記事を読んでみた。それによると、現在は
「神社本庁およびその配下の神社で用いられる大祓詞では、国つ罪に差別的な表現があるとして、天つ罪・国つ罪の罪名の部分はカットされている。すなわち、現在の大祓詞で「天つ罪 国つ罪 許許太久(ここだく)の罪出でむ」
とだけになっていてそうだ。これではますます本来のこの祝詞の意味するところが不明になってしまう。訳の分からない祝詞を聞いて何をありがたがっているのだろう。

 大体、祝詞は「皇御孫(すめみま)」(ニニギ)を頂点とする部族国家(あるいはその国家の共同幻想)を言祝いだり祓ったりするもので、祝詞そのものがその時代の「差別」の所産である。「差別的な表現」が気になるのなら、そんな時代錯誤の儀式そのものをきっぱりと止めたらどうだ。それは史料としてだけ残せばよい。
蛇足でした。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(3)

大嘗祭とはなにか(2)

 「天武紀」には「大嘗す」という記事がないのに祭祀に関わった者たちへの褒美授与の記事があるのは何故か。古田さんは「確認はできませんけど、非常に魅力的な仮説」ということで香川さんという方の次のような仮説を紹介している。

 天武に殺された大友皇子は明治になってから弘文天皇という諡号を付け天皇として扱っている。『日本書紀』は反逆者・天武の大義名分を主張するための「正史」だから当然のことに、大友皇子の方が反逆者であり大友皇子を天皇として扱っていない。しかし大友皇子は実際には天皇として即位したではないか。もしそうだとすると、弘文天皇によって大嘗祭が行なわれていて、そのときの「褒美の記事」だけが「天武紀」に使われたのではないか。

 文献的には近畿王朝で大嘗祭を最初に行ったのは持統であった。上の仮説が正しいとすれば最初の大嘗祭を行ったのは大友皇子(弘文)ということになるが、いずれにしてもそれは近畿王朝の独創したものではあり得ない。その様式が整えられるまでには多くの時間を要したはずである。大嘗祭を創出したのは九州王朝であり、近畿王朝の大嘗祭はそれを踏襲しただけである。

 すると「天武紀」の大嘗祭記事についてのもう一つの仮説として、九州王朝で行われた大嘗祭の記事の盗用が考えられる。少なくとも白村江の戦いで捕虜になった筑紫君・薩夜麻(さちやま)までは九州王朝で大嘗祭が行われていた。

 大嘗という言葉は相当古くから使われていたと思われる。『古事記』の「スサノオノミコト(須佐之男命 日本書紀では「素戔嗚尊」と表記されている)の勝ちさび」の段に出てくる。

ここに速須佐之男命、天照大御に白(まを)ししく、「我が心清く明し。故(かれ)、我 が生める子は手弱女(たわやめ)を得つ。これによりて言(まを)さば、自ら我勝ちぬ。」と云(まを)して、勝(かち)さびに、天照大御の營田(つくだ)の畔(あ)を離(はな)ち、その溝(みぞ)を埋(うづ)め、またその大嘗(おほにへ)を聞(き)こしめす殿(との)に尿(くそ)まり散らしき。汝(かれ)、然爲(しかす)れども天照大御は咎めずて告(の)りたまひしく、「屎如(くそな)すは、酔い醉(ゑ)ひて吐き散らすとこそ、我(あ)が汝弟(なせ)の命(みこと)かく爲(し)つらめ。また田の畔(あ)を離ち、溝を埋むるは、地を惜(あたら)しとこそ、我が汝弟の命、かく爲つらめ。」と詔(の)り直(なほ)したまへども、なほその悪しき態(わざ)止まずて轉(うたて)ありき。天照大御神、忌服屋(いみはたや)に坐(ま)して、御衣(かむみそ)織らしめたまひし時、その服屋(はたや)の頂(むね)を穿(うが)ち、天(あめ)の斑馬(ふちこま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕(おと)し入るる時に、天の服織女(はたおりめ)見驚きて、稜(ひ)に陰上(ほと)を衝(つ)きて死にき。

 『日本書紀』では「大嘗」は「新嘗」となっている。一般に『古事記』と『日本書紀』で共通の記事がある場合、『古事記』の方が原型であり、『日本書紀』の記事は作為的な改竄がされているとみなされる。「スサノオノミコトの勝ちさび」段でもそのことがよく読み取れる。例えば「(服織女が)稜に陰上を衝きて死にき。」という、おおらかというかあからさままというか、野卑的な表現が、「(天照大神が)梭を以て身を傷ましむ。」という穏当な表現に変わっている。『日本書紀』の方の記事も引用しておこう。

この後(のち)に、素戔鳴尊の爲行(しわぎ)、甚だ無状(あづきな)し。何(いかに)とならば、天照大神、天狭田(あまのさなだ)・長田(ながた)を以て御田(みた)としたまふ。時に素戔鳴尊、春は重播種子(しきまき)し、また畔(あ)毀(はなち)す。秋は天斑駒(あまのぶちこま)を放ちて、田の中に伏す。また天照大神の新嘗(にいなめきこ)しめす時を見て、則ち陰(ひそか)に新宮(にいなえのみや)に放[尸+矢](くそま)る。また天照大神の、方(みざかり)に衣(かむみそ)を織りつつ、齋服殿(いみはたどの)に居(ま)しますを見て、則ち天斑駒を剥(さかはぎには)ぎて、殿(おほとの)の甍(いらか)を穿ちて投げ納(い)る。この時に、天照大神、驚動(おどろ)きたまひて、梭(かび)を以(も)て身(み)を傷(いた)ましむ。

 上の記事は近畿王朝が踏襲した大嘗祭の原型はアマテルやスサノオの時代(弥生早期)にはあったということを示している。そして、ここに出てくるスサノオの悪行は「六月晦大祓」という祝詞(のりと)に書かれている天つ罪である。また「大嘗祭」という祝詞もある。祝詞は、それこそ縄文時代にまでさかのぼれそうな古い言葉である。祝詞も真実の古代史を知るための史料の宝庫である。

 ここで祝詞「大嘗祭」を取り上げようと思っていたが、また横道のそのまた横道に入ることにした。図書館で物色していたら古田さんの著書『まぼろしの祝詞誕生』が目に入って借りて来た。そこでは「六月晦大祓」が取り上げられている。「大嘗祭」をよりよく理解する上で、「六月晦大祓」が密接に関わっているようなので、まずこれを読んでみることにことにした。まずは祝詞「六月晦大祓」の全文を掲載する。

(訓読みは(日本古典文学大系『古事記・祝詞』から。長くしかもかなり古い文である。意味のよくわからない部分もあり、このような文を読み慣れていない私にはちとつらいので、一区切り毎に古田さんによる「大意」を挟んでいくことにした。なお、赤字部分はこの祝詞を解読するためのキーワードを示している。)

六月(みなづき)の晦(つごもり)大祓(おほはらへ)
 〔十二月(しはす)はこれに准(なら)へ〕

「集侍(うごなわ)はれる親王(みこたち)・諸王(おほきみたち)・諸臣(まえつぎみたち)・百(もも)の官人等(つかさじとたち)、諸(もろもろ)聞(きこ)しめせ」と宣(の)る。


「(朝廷に)集りひかえいる、親王・諸王・諸臣・多くの官人たち、皆、お聞きなさるように。」と宣告する。

「天皇(すめら)が朝廷(まかど)に仕へまつる比礼(ひれ)挂(か)くる伴(とも)の男(を)・手襁(たすき)挂くる伴の男・靫(ゆき)負ふ伴の男・剣(たち)佩(は)く伴の男・伴の男の八十伴(やそとも)の男を始めて、官官(つかさづかさ)に仕へまつる人等(ひとども)の、過ち犯しけむ雑雑(くさぐさ)の罪を、今年の六月の晦の大祓に、祓へたまひ清めたまふ事を、諸聞食せ」と宣る。

「『天皇の朝廷』に仕えたてまつる、〝ひれをかけた伴の男(おそばに仕える人々)″〝たすきをかけた伴の男″〝やぎ(矢入りの具)を負うた伴の男″〝剣を身につけた伴の男″ーこれらの多くの伴の男たちをはじめ、各官司に仕えたてまつる人々が過ち犯したであろうと思われる、さまざまの罪を、今年 の六月の大祓で、祓い清めたまう言葉を、皆、お聞きなさるように。」と宣告する。

(ここまではいわば「序」で、これから祝詞を挙げるぞと宣言している。以下が祝詞の本体になる。)

①〔天孫降臨の決定〕
「高の原に神留(かむづま)ります皇親(すめむつ)神(かむ)ろき・神ろみの命もいちて、八百萬の神等(かみたち)を神集(かむつど)へに集へたまひ、神議(はか)りに議りたまひて、『我が皇御孫(すめみま)の命は、豊葦原の水穂の國を、安國と平らけく知ろしめせ』と事依(ことよ)さしまつりき。

「高天原におこもりになっておられる、皇神の、神ろき、神ろみの命の仰せで、ありとあらゆる神々を集め、御相談なさって、『わが皇御孫の命(天照大神の孫であるニニギノミコトのこと。)は、豊葦原の水穂の国を、安らかな国になるように、統治しなさい。』と(ニニギノミコトに)委嘱された。

②〔天孫降臨の実行〕
かく依さしまつりし國中(つぬち)に、荒ぶる神等をば、神問(なむと)はしに問はしたまひ、神掃(はら)ひに掃ひたまひて、語(こと)問ひし磐ね樹立、草の片葉(かきは)をも語止(や)めて、天の磐座(いわくら)放れ、天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて、天降し依さしまつりき。

このように委嘱なきった、(豊葦原の水穂の)国の中で、乱暴している神々(荒ぶる神等)に問いたずね、これを追いはらい、(不平など)言いつのっていた磐の根の木立ちや草葉の類いもおとなしくなったので、(ニニギノミコトを〉天国の八重雲をかきわけて天降し、この国の統治を委嘱なさった。

③〔天孫降臨後の宮殿造営〕
かく依さしまつりし四方(よも)の國中に、大倭日高見(おほやまとひたかみ)の國を安國と定めまつりて、下(した)つ磐(いは)ねに宮柱太敷き立て、高天の原に千木(ちき)高知りて、皇御孫の命の瑞(みづ)の御舎(みあらか)仕へまつりて、

(ニニギノミコトは)このように、(天国の神々が)統治を委嘱なさった、四方の国々の中で、「大倭日高見の国」を安らかな国としてお定めなさって、その地に、下の磐には宮柱を太く建て、高天原に向かって千木を高くそびえさせ、皇御孫の命(ニニギノミコト)の麗わしい御殿をお建てになった。


天の御蔭・日の御蔭と隠(かく)りまして、安國と平らけく知ろしめさむ國中に、成り出でむ天の益人等(ますひとら)が過(あやま)ち犯しけむ雑雑(くさぐさ)の罪事は、天つ罪と、畔放(あはな)ち・溝埋(みぞう)み・樋放(ひはな)ち・頻蒔(しきま)き・串刺(くしさ)し・生(い)け剥(は)ぎ・逆(さか)剥ぎ・屎戸(くそへ)、許多(ここだく)の罪を天つ罪と法(の)り別けて、國つ罪と、生膚(いきはだ):斷ち・死膚:斷ち・白人(しろびと)・こくみ・おのが毋犯せる罪・おのが子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪・畜(けもの)犯せる罪・昆(は)ふ虫の災(わざわい)・高つの災・高つ鳥の災・畜朴(けものたふ)し、蟲物(まじもの)する罪、許多(ここだく)の罪出でむ。

その宮殿の中に、(ニニギノミコトは、天孫降臨の事業の成就を)天国の神々や日の大神(天照大神。祖母)のおかげと感謝しつつお住まいになり、(この豊葦原の水穂の国、その中心の降臨地としての「大倭日高見の国」を)安らかな国として、平らかに統治しようとなさると、その国の中に数多く住むようになった、天国の人々(天の益人)が過ち犯したような、その罪事は、次のようだ。

天(あま)国の罪
〝田のあぜを破壊すること″〝溝を埋めること″〝木で作った水の通路を破壊すること″〝かさねて種子をまくこと″〝他の田に棒をさし立てて横領すること″〝動物の皮を生きたまま剥ぐこと″〝動物の皮を逆さに剥ぐこと″〝きたないものを(戸のそばなどに)まきちらすこと″など、たくさんの罪を天国の罪と定め別ける。

国の罪
〝生きた人のはだを切ること″〝死んだ人のはだを切ること″〝はだの色の白くなった人″〝こぶのできること″〝自分の母を犯した罪″〝自分の子を犯した罪″〝母と子と犯した罪″〝子と母と犯した罪″〝家畜を犯した罪″〝這う虫(ヘビ・ムカデなど)の災難″〝高地の神の災難″〝高地の鳥の災難″〝家畜を斃(たお)したり、まじないをして相手をのろう罪″など、たくさんの罪がいろいろと出てくることだろう。


かく出でば、天つ宮事もちて、大中臣(おほなかとみ)、天つ金木(かなぎ)を本(もと)うち切り末うち断ちて、千座(ちくら)の置座(おきくら)に置き足(たら)はして、天つ菅麻(すがそ)を本苅(もとか)り断ち未苅り切りて、八針(やはり)に取り辟(さ)きて、天つ祝詞の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣れ。

このように(たくさんの罪が)出てくれば、天津宮(天国の宮殿)のやり方に従って、大中臣(中臣氏の祖先。神祇を司る。「大 ― 」は美称。)の者が、天国の清らかで堅い木の上下を切り去り、たくさんの祭祀の物を置く神聖な台の上にたっぷりと置いて、天国の清らかな菅(すげ)のほそく裂いたものの上下を切り去り、八つの針で細かに切り割(さ)いて、(これらの準備がととのったら、その祭儀の場で〉天国の祝詞の、太祝詞(立派な祝詞)の言葉を宣告せよ。


かく宣らば、天つは天(あめ)の磐門(いはと)を押し披(ひら)きて天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて聞しめさむ。國つは高山の未・短山(ひきやま)の末に上(のぼ)りまして、高山のいゑり・短山のいゑりを撥(か)き別けて聞しめさむ。

このように宣告するならば、天国の神は天国の磐門(堅固な門)を押し開き、天国の八重雲をかき別け、かき別けして、(この祝詞を)お聞きになられよう。国(豊葦原の水穂の国)の神は高山のはしや低山のはしにお上りになって、高山の「いゑり」(雲霧の意か)や低山の「いゑり」をかき別けて、(この祝詞を)お聞きになられよう。


かく聞しめしては皇御孫の命の朝廷を始めて、天の下四方の國には、罪といふ罪はあらじと、科戸(しなど)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝(あした)の御霧(みきり)・夕べの御霧を朝風・夕風の吹き掃(はら)ふ事の如く、大津邊(おほつべ)に居(ゐ)る大船を、舳(へ)解き放ち・艫(とも)解き放ちて、大海(おほみ)の原に押し放つ事の如く、彼方(をちかた)の繁木(しげき)がもとを、境鎌(やきがま)の敏鎌(とがま)もちて、うち掃(はら)ふ事の如く、遺(のこ)る罪はあらじと祓(はら)へたまひ清めたまふ事を、高山・短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川(はやかは)の瀬(せ)に坐(ま)す瀬織(せおり)つひめといふ、大海の原に持ち出でなむ。かく持ち出で往(い)なば、荒鹽(あらしほ)の鹽の八百道(やほぢ)の、八鹽道(やしほぢ)の鹽の八百會(やほあひ)に坐(ま)す速開(はやあき)つひめといふ、持ちかか呑みてむ。かくかか呑みては、氣吹戸(いぶきど)に坐す氣吹戸主(いぶきどぬし)といふ、根の國・底の國に氣吹き放ちてむ。かく氣吹き放ちては、根の國・底の國に坐す速(はや)さすらひめといふ、持ちさすらひ失ひてむ。

(天国や水穂の国の神々が)このように(この祝詞を)お聞きとどけになると、「皇御孫の命(ニニギノミコト)の朝廷」をはじめとして、天国の統治する、四方の国々には、罪という罪は消え失(う)せるように、と、風の吹きおこるところから、吹き立つ風が、天国の八重雲を吹きはらうときのように、朝の御霧(海の霧か)・夕べの御霧を朝風・夕風が吹きはらうときのように、大きな港のほとりにもやいする大船を、舟の先やうしろの綱を解きはなして、大海の原に押しはなつときのように、彼方の生(お)いしげった木のもとを、火で鍛えた鋭い鎌でうちはらうときのように、遺(のこ)る罪はもはやないようにと、祓い清めたまうとき、その高山・低山の麓から、勢いよく落ちたぎる、〝速川の瀬〟にいらっしゃる 『瀬織つひめ』という神が、(その罪という罪を)大海の原に持ち出してしまうだろう。このように持ち出していってしまうと、海の潮流のもみあうところ、そのもみあうところの潮流の中の〝八百屋会″にいらっしゃる『速開つひめ』という神が、海の中に流れ出た罪を勢いよく呑みこむだろう。このように呑みこむと、息を吹くところの〝気吹戸″にいらっしゃる『気吹戸主』という神が、根の国・底の国へと息で吹き飛ばしてしまうだろう。このように息で吹き飛ばすと、〝根の国・底の国″にいらっしゃる『速さすらひめ』という神が、持ちさすらって(これらの罪を)消え失わせてしまうだろう。

(祝詞の本体はここで終り。以下は終了宣言。)

かく失ひては、天皇が朝廷に仕へまつる官官の人等を始めて、天の下四方には、今日より始めて罪といふ罪はあらじと、高天の原に耳振り立てて聞く物と馬牽(ひ)き立てて、今年の六月の晦の日の、夕日の降(くだ)ちの大祓(おほはらへ)に、祓へたまひ清めたまふ事を、諸聞しめせ」と宣る。

「このように消え失われると、『天皇が朝廷』に仕えまつる各官司の人々をはじめとして、天国の統治下の四方には、今日という日をはじめとして、これより以後は、罪という罪は存在しないであろうと、高天の原に向かって耳をふり立てて聞くものとして、馬を引き立てて、今年の六月の晦の日の、夕日のくだるときの大祓に、はらい清めたまう言葉を、皆、お聞き下さい。」と宣告する。

「四國(よくに)の卜部等(うらべども)、大川道(ぢ)に持ち退(まか)り出でて、祓(はら)へ却(や)れ」と宣る。

「四国の卜部たち、大川の方に(これらの祭祀に用いた種々のものを)はらい流し去れ。」と宣告する。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(2)

大嘗祭とは何か(1)

 大嘗祭は実質的な践祚を示す大事な儀式である。裕仁から明仁への皇位継承の時にも、この時代錯誤の大嘗祭がチャンと行われている。しかしここには単に時代錯誤と一蹴してしまえない問題が孕まれている。そこには天皇制が今日にまで生き延びてきた秘密がある。大きく横道に逸れる嫌いがあるが、しばらくこの問題を学習していこうと思う。

〈以下は吉本隆明さんの論考「天皇および天皇制について」(『詩的乾坤』所収)・「宗教としての天皇制」「敗北の構造」(『敗北の構造』所収)・「祭儀論」(『共同幻想論』所収)が教科書です。〉

「敗北の構造」は講演録であり、その講演は次のように始まっている。

 只今、ご紹介にあずかりました吉本です。今日は、ひとつ「敗北の構造」ということで、お話したいとおもいます。あんまり景気のいい話じゃないので、がっかりでしょうけれども、只今、ぼくが仕事としてやっていることがそういうことだもんですから、まあそういうことでやりたいと思います。

 ぼくがやっているのは現代の敗北ということじゃなくて、大変大昔の敗北ということなんです。皆さんのほうではそういうことはあんまり厳密でないかもしれないですけれども、日本の統一国家というものが成立した時期を千数百年前というふうに考えまして、千数百年前以前に、まあ小さな島ですけれども、小さな島に人間がいなかったかというと、そういうことでないので、そこではやはり、わかりやすくいうと、現代のなになに郡というようなくらいの大きさ程度の国家というものが、群立状態で存在したというふうにいうことができます。

 われわれが普通、日本民族という場合には、統一国家が成立した以降の、いわば文化的、あるいは言語的に統一性をもった、そういうものを想定しているわけですけれども、しかし、日本民族という場合と、日本人という場合とはまるでちがうので、日本人という場合には、すでに日本国家成立以前に、群立した多数の国家が存在していたというふうに考えることができます。

 そこで、天皇制権力が、その群立していた国家を、武力的にあるいは国家的に制圧して統一国家というものを成立させたわけです。

 古田さんの「邪馬台国はなかった」・「失われた九州王朝」の出版はそれぞれ1971年・1973年だった。吉本さんのこの講演は1970年に行われているから、この時点では吉本さんはまだ「古田史学」はご存じなかったと思われる。「日本の統一国家」として近畿王朝を想定しているのも、その「日本の統一国家」が成立した時期を「千数百年前」と考えている(古墳時代を想定しているようだ)のも、やむを得ないことである。私(たち)が知っている「古田史学」と齟齬する部分はそれなりに読み替えていくことにする。しかし吉本さんの論考は、さすがにヤマト一元主義の陥穽には落ち入ってはいないので、その本質的な部分に誤りはない。

 さて、近畿王朝に先行する九州王朝は統一王朝ではない。「群立した多数の国家」の中心権力という意味での「王朝」である。その初源の姿は魏志倭人伝(邪馬壹国)によく現れている。「群立した多数の国家」の地域的範囲は「倭の五王」の頃には九州から関東地方ぐらいまでに広がっていたようだ。

 「群立した多数の国家」の中心権力として「日本国」が九州王朝に取って代わったのは701年。この段階ではまだ「日本の統一国家」とは言えない。厳密に言うと、阿弖流爲(アテルイ)が坂上田村麻呂に降伏して、蝦夷が近畿王朝に完全に帰属したのは802年のことだから、「日本の統一国家」が成立した時期は「1200年ほど前」と言うべきだろう。

 その場合の天皇制権力、あるいは天皇制部族、あるいは種族かしりませんけれども、そういうものはどこの出身だということは、全く現在でもはっきり判りません。朝鮮から、つまり大陸から朝鮮を経由してきたというふうな説もありますし、あるいは、南朝鮮と文化的には近縁関係にあった北九州における豪族が、だんだん中央に進出してきて統一国家を成立せしめたというような考え方もあります。またそれとは別に畿内、つまり現在の京都とか奈良とか大阪とかですけれども、畿内における豪族が、勢力を拡張して統一国家を成立せしめたというような考え方もあります。いずれにしても決定的な考え方というのはないわけで、その三つのうちどれかに該当するでしょうけれども、素姓がわからない勢力が、とにかく統一国家を成立せしめたわけです。

 このあたりの事情も古田さんによってかなり解明されている。九州王朝は対馬・壱岐などを根拠とする部族(アマ氏)が「天孫降臨」して始まった部族国家である。近畿王朝はその九州王朝の分流(分国)であった。
「真説・古代史3」 を参照してください。)

 では九州王朝の始祖であるアマ氏の出自は? この問いはほとんど意味がない。部族国家以前の「氏族的―部族的」共同体は長期にわたって、それこそ東アジア全体を舞台に、政治的・社会的・経済的・文化的にさまざまな交流や抗争を繰り返してきただろうから。そして当然、その過程で血の混合も進んでいっただろうから。そういう意味では東アジアの氏族・部族は全て出自を同じくするといってよいのではないか。 (部族国家については 「<部族国家>とは何か。」 を参照してください。)

 しかし、わたしたちが日本人という概念を使う場合には、それをちっとも指していないのであって、日本人という概念で成立している概念は、それ以前に、郡単位くらいの国家が群立していたというような考え方からいけば、まあ少くとも三千年から四千年はさかのぼれるわけで、それ以前に人がいたかどうかというようなことを問うならば、それは何十万年前にまでさかのぼることができるわけです。

 そうしますと、ここで、何が敗北したのかというと、天皇制権力自体が、統一国家をせしめる以前に存在した、そういう日本の全大衆が総敗北したというふうに考えることができます。それでは、その総敗北した時の敗北の仕方は、どういうふうにしてなっていたかを初めにお話します。

 いままでの議論から、「天皇制権力自体が、統一国家をせしめる以前」という文章は当然「九州王朝(ニニギノミコト)が天孫降臨した以前」と読み替えねばならない。以下、いちいち断らないが、そのような読み替えをしながら読んでいくことにする。

 統一国家以前に、郡単位程度の国家が成立しており、それぞれの内部で、国家としての法権力というものが成立して存在していました。そういう小国家が、群立していたというような状態が考えられます。それに対して天皇制権力は、どういう出自かわかりませんけれども、それをどういうふうにして統合していったかというようなことが問題になるわけです。つまり、統合の過程における、国家としての本質構造は、どういうふうになっているのかということが問題になるわけですけれども、それには大体二つのことが考えられます。

 吉本さんが「国家の本質」というとき、それは「共同幻想」を意味している。以下、征服王朝(天孫降臨した王朝)によって支配を貫徹するための「共同幻想」がどのように構成されていくかという「国家の本質」論が語られる。
 一つは、天皇制権力が統一国家を成立せしめる以前に存在した法的権力あるいは法的国家の法のうち、都合のいい法を天皇制権力がみずからの法として吸いあげ、その結果、それ以前に存在していた小さな群立国家は、国家としての統一性のある部分を、徹底的に欠いてしまう状態が一般に考えられます。だから、ある一つの小さな共同体、あるいは国家に、おおいかぶさるように統一国家が成立したとき、その統一国家は、以前に存在していた群立状態の国家または、共同体の法的規範を、自らの規範として吸い上げることによって、以前に存在していた国家または、共同体は、法的統一性を失っていく敗北の仕方というものが一つ考えられます。

 もう一つ考えられることは、こういうことなんです。その状態で存在していた群立国家における法、宗教、それから風俗、習慣、そういうもの全てを含めまして、これを共同幻想と呼びますと、その共同幻想と、それから統一国家を成立せしめた勢力の共同幻想を、交換するということなんです。つまり互いに交換したうえで、めいめいが混合してしまうということが、統合の一つの形態だということができます。だから、以前に存在したであろう法律とか宗教的儀礼、それから群立国家で支配的であったろう風俗、習慣というようなもの、あるいは不分律とか、掟てとか、あるいは村落の村内法、そういうようなものすべてと、元来そこの上におおいかぶさってきたその統一国家勢力におけるそういう習慣、風俗あるいは保存している宗教あるいは法概念、そういうようなものをそこで交換するわけです。これは別に等価交換じゃないわけですけれども、とにかく交換するということ、それで交換することによって、統一国家を成立せしめた勢力というものが、それ以前からあたかも存在したが如くに国家というものを、国家権力というものを制定することができるということです。それと同時に逆に交換された群立国家における首長、大衆というものが、今度は支配的に統一国家を成立せしめた勢力の法あるいは宗教、習慣っていうものを、あたかも自らの習慣あるいは自らの法律あるいは自らの宗教というような受けとり方で、受けとるという、かたちになってゆきます。

 その交換によって、たかだか千数百年前に存在したにすぎない統一国家の勢力が、あたかも遠い以前から存在したかの如く装うことができますし、また交換させられたものは、あたかも自分が本来的にもっていた風俗、習慣、法というようなものよりも、もつと強固な意味で、あたかも自分のものであるかの如く受けいれる形態がでてくるわけです。それが恐らく統一国家成立期における、日本の総大衆が、全面的に敗北していったことの、最も基本にある構造だということができます。

 奇妙といえば奇妙なことですが、本来的に自らが所有してきたものではない観念的な諸形態というものを、自らの所有してきたものよりももっと強固な意味で、自らのものであるかの如く錯覚するという構造が、いわば古代における大衆の総敗北の根柢にある問題だということができます。この敗北の仕方は、充分に検討するに価するので、国家といえば天皇制統一国家、という一種の錯誤、あるいは文化といえば天皇制成立以降の文化というふうな錯誤が存在するのですけれども、その錯誤の根本になっているのは、統一国家をつくった勢力の巧妙な政策でもありましょうけれども、ある意味では大衆が、自らの奴隷的観念というもので、交換された法あるいは宗教あるいは儀礼あるいは風俗、習慣というものを、本来的な所有よりも、もっと強固な意味で、自らのものであるかの如く振舞う構造のなかに、本当の意味での、日本の大衆の総敗北の構造があると考えることができます。

 ここで大嘗祭問題とドッキングする。大嘗祭は民俗的な農耕祭儀が抽象的な宮中祭儀として昇華されたものである。そこでは支配部族の共同幻想と被支配部族の共同幻想の巧みな交換が行われている。次回はその論点から大嘗祭の本質を検討していこう。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》



『日本書紀』はなぜ「持統紀」で終わるのか。


 梅原氏の論説「二頭政治の善悪」から頂いた第二のテーマ「近畿王朝草創期の真実」を取り上げようと思い、いろいろと資料を集めて全体の構想を練っていたが、あまりに大きなテーマでなかなかまとまらない。「下手な考え休むに似たり」と、毎度のことながら見切り発車をすることにした。そして、あっちに行ったりこっちに飛んだり、かなり長くなりそうなので表題を独立させることにした。

 今まで私は「九州王朝」に対して、奈良(大和)に拠点を置いた分流国家を「ヤマト王権」と呼んできた。多元史観に立つ大方の人は「大和王権」と漢字で表記している。また古田さんは「近畿天皇家」と呼んでいる。これはこの国家の拠点が「大和」だけでなく河内なども含むことを考慮した表記だと思われる。

 これから取り上げる国家は、「九州王朝」に取って代わり、一地方の王権から王朝となった国家である。そこで以後は、「九州王朝」との整合性にこだわって、王朝となった「ヤマト王権」を「近畿王朝」と呼んで区別することにする。大表題を《「真説古代史・近畿王朝草創期編》とした理由である。

 さて、近畿王朝草創期の皇位継承についての梅原さんの解説は次のようであった。

 持続皇后は天武天皇とともに壬申の乱を起こして近江王朝を滅ぼし、飛鳥浄御原に君臨する天武天皇の王朝を樹立した。天武天皇の死後、皇后は、次期天皇の有力候補者であった大津皇子を謀反の罪をでっち上げて殺し、わが子草壁皇太子の成長を待ったが、草壁皇太子は天折した。それで皇后が即位し、無事、草壁皇太子と元明妃の間の軽皇子すなわち文武天皇に皇位を譲ることができた。しかし文武天皇も天折したので、草壁皇太子妃であった元明が即位し、文武天皇の遺児の首皇子の成長を待ったが、元明天皇は万一のことを考えて、文武天皇の姉・元正天皇を即位させ、皇位を保持させた。

 このような女帝たちを助け、無事首皇子すなわち聖武天皇の即位を実現させたのは、権謀術数に富む稀代の政治家、藤原不比等であった。

 近畿王朝草創期のこの複雑な皇位継承関係を系図としてまとめると次のようである。

syokikeizu.jpg
(第一学習社版「新選日本史図表」より)
(クリックすると大きくなります。)


注1
 藤原宮子は藤原不比等の長女である。母は第三夫人・賀茂比売。

注2
 藤原光明子は藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘であり、聖武の母・藤原宮子の異母姉に当たる。県犬養三千代は軽皇子(文武)の乳母を務めていた。

注3
 「淳仁」は廃帝であり、その諡号は1870年(明治3年)に明治天皇から追号されたものである。またそのとき、壬申の大乱で天武に殺された大友皇子も「弘文」と追号されている。

注4
 持統に殺された大津皇子はこの系図には載っていないが、彼の母親(大田皇女 おおたのひめみこ)は持統(鸕野皇女 うののひめみこ)の姉である。


 上の系図から、天智王朝(近江王朝)→天武王朝→天智王朝というおおまかな王朝の変遷が見える。しかし少し注意してみると、天武王朝は実質的には藤原王朝と言ってよいであろう。

 すなわち、天智の後継者・大友皇子を殺して天智王朝から王朝を簒奪した天武王朝であったが、その天皇制構想は、持統天皇死後の不比等の策謀によってその実質を徐々に失っていったのだ。

 不比等は母系系譜を最大限利用した。まず娘・宮子を文武の妃にすることによって、藤原氏の血を引く聖武を天皇据えた。それをさらに、光仁を天皇に立てることによって、天武系から再び天智系へとひねり直した。かくして不比等は、天武の血脈を引き継ぐかに見えた王朝を、天武構想とはまったく違う藤原天皇制を創り変えたのであった。不比等は「女帝たちを助け」たのではなく、女帝を自らの謀略の梃子として利用したのだ。

 さて、「文武紀」に次のような記事がある。これは何を意味しているだろうか。

大宝元年春正月乙亥朔。天皇御大極殿受朝。其儀、於正門樹烏形幢。左日像・青竜・朱雀幡。右月像・玄武・白虎幡。蕃夷使者、陳列左右。文物之儀。於是備矣。 701(大宝元)年
春正月一日、天皇は大極殿に出御して朝賀を受けられた。その儀式の様子は、正門に烏形の幢を立て、左に日像・青竜・朱雀の幡、右に月像・玄武・白虎の幡を立て、蕃夷の使者が左右に分かれて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。


 近畿王朝が倭国の別種の国・日本国として国際的(東アジア)に認められて後、始めて自前の元号「大宝」を定めた。上の記事はこの年(701年)に始めて正式な朝賀の儀が開かれたと語っている。つまり近畿王朝が名実ともに王朝としての体裁を整え終わったのは文武天皇の大宝元年であった。

 従って、文武以前の天智・天武・持統の時期は近畿王朝揺籃期と呼ぶのがふさわしい。そしてこの揺籃期に始めて正式な天皇位に即いたのは天智でも天武でもなく持統であった。以下はこの命題の論証である。

 『日本書紀』ではヤマト王権の王たちにも全て漢風諡号が付けられて、全ての王たちを「天皇」と呼称している。言うまでもなく、これはもちろん神武以来ヤマト王権がこの国の支配者であったということを主張するためのトリックである。では真に天皇という呼称で呼んでもよいのは誰からだろうか。それにふさわしい人物は践祚の実質的な儀式である大嘗祭(だいじょうさい 「おおなめまつり」と訓じる)を最初に執り行った者である。大嘗祭を広辞苑は次のように解説している。

だいじょう‐さい【大嘗祭】
天皇が即位後、初めて行う新嘗(にいなめ)祭。その年の新穀を献じて自ら天照大神および天神地祇(てんじんちぎ)を祀る、一代一度の大祭。祭場を2カ所に設け、東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)といい、神に供える新穀はあらかじめ卜定(ぼくじょう)した国郡から奉らせ、当日、天皇はまず悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。おおなめまつり。おおにえまつり。おおんべのまつり。


 この解説には悠紀殿・主基殿という二つの祭場を設けるとあるが、なぜ二つの祭場を必要とするのか、かってキチンと説明できた学者はいない。いまだ謎とされている。この謎は後ほど明らかにされるだろう。

 ところでウィキペディアでは大嘗祭を次のように解説している。

毎年11月に、天皇が行う収穫祭を新嘗祭という。その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す新嘗祭のことを、古くは「毎年の大嘗」と称した。当初は通常の新嘗祭と区別されなかったものの、後に即位後初めて一世一度行われる祭として、「毎世の大嘗」「大嘗祭」として重視された。大嘗祭と新嘗祭が区別されたのは、天武天皇の大嘗祭のときとされる。

(以下、古田さんの講演録「大嘗祭と九州王朝の系図」を教科書とします。)

 ウィキペディアの解説では大嘗祭を始めて執り行ったのは天武としている。その論拠はたぶん「天武紀」の次の記事である。

十二月壬午朔丙戌。侍奉大嘗中臣。忌部。及神官人等。并播磨。丹波二国郡司。亦以下人夫等、悉賜禄。因以郡司等各賜爵一級。

673(天武2)年
12月5日、大嘗(おほにへ)に仕え奉った中臣(なかとみ)・忌部(いむべ)および神官の人たち、ならびに播磨、丹波二国の郡司、さらにまたその配下の人夫らに、褒美を賜った。郡司たちにはそれぞれ爵(酒盃か)一品を賜った。


 これは『日本書紀』に「大嘗」という言葉が出てくる最初の記事である。大嘗祭に参加した人たちに褒美をあげたという記事だ。しかし大嘗祭を行ったという記事はどこを探してもない。『日本書紀』の編纂者がかきわすれた? 近畿王朝の正史に実質的な践祚を示す大事な儀式を書き忘れるなんであり得るだろうか。不可解だ。(この問題も後ほど取り上げることになる。)

 『日本書紀』で「大嘗祭を行った」という最初の記事は「持統紀」にある。

十一月戊辰。大嘗。神祗伯中臣朝臣大嶋、読天神寿詞。

691(持統5)年
11月1日に、大嘗祭を行った。神祇伯(かむつかさのかみ)中臣朝臣大嶋が天神寿詞(あまつかみのよごと)を読んだ。


 『日本書紀』ではこの記事が「大嘗す」という言葉が出てくる最初で最後の記事である。神武から天武まで「大嘗す」という言葉は皆無である。何故だろうか。ヤマト王権一元主義の立場では謎と言うことになってしまうが、多元史観に立てば当然すぎるほど当然なことである。

 新嘗祭は誰でもどこでも行うことができる。新嘗祭の記事なら『日本書紀』にもたくさん出てくる。「推古紀」以降を調べてみた。舒明紀と「皇極紀」に出てくる。天武紀には6ヵ所もある。

 しかし大嘗祭は誰が行ってもよいものではない。大嘗祭とは中心権力者が行なう新嘗祭である。中心権力者ではなかった時代のヤマト王権が大嘗祭を「行えなかった」(「行わなかった」ではない)のは当然のことなのだ。だが持統天皇のときになってようやく何の遠慮もなく大嘗祭を行なった。大嘗祭を行うことによって、近畿王朝こそが中心の権力者であることを始めて宣言したのだった。

 持統天皇の後、文武、元明、元正と皇位が継承されていく。『日本書紀』は元正天皇のときに編纂された。ではなぜ、『日本書紀』は「持統紀」で終わって「文武紀」や「元明紀」がないのだろうか。文武天皇や元明天皇を軽視していると言われてもしかたないだろう。しかし上で明らかになったように、持統天皇が「大嘗祭を行うことによって、近畿王朝こそが中心の権力者であることを始めて宣言した」のだから、『日本書紀』を「持統紀」で終えるのは実に理にかなった処置なのだった。
今日の話題

素敵な会社とその経営者


 「企業経営の社会主義化」 でアメリカの素敵な企業とその経営者の経営哲学を紹介しました。そのとき
「従業員を搾取することなく(=人間として大事に扱い)成功している企業は日本にもかなりあると予想しているが、私の狭い情報源には入ってこない。できれば日本の例で話を進めたいのだけれど、やむを得ない。」 と書きましたが、昨日、日本の素敵な会社とその経営者を知りました。それを紹介します。

 東京新聞夕刊に「あの人に迫る」という好企画記事があります。昨日(3月5日)の「あの人」は「万協製薬」社長の松浦信男さん。レポート記者(インタビュアー)は我那覇圭さん。

 松浦さんはお父上が神戸で経営していた会社の工場が阪神大震災で壊滅的な打撃を受けた後を継いで、その会社を三重県多気町で再興しました。松浦さんは「今、全国の会社経営者から熱い注目を集める人」だそうです。まずは松浦さんの履歴から。

 まつうら・のぶお1962(昭和37)年神戸市生まれ。高校を卒業して進学を目指すが、2浪の末に万協製薬に入社。働きながら別の商業高校の夜間学級で簿記を習う。84年に徳島文理大薬学部に入学、薬剤師の資格を得て卒業。現在は三重大大学院の博士課程で化粧品の美肌成分の研究にも励む。

 三重移転後の15年間で売り上げを50倍の17億円に伸ばした。福利厚生では育児休暇を3年間認め、地域貢献ではトレーニングジムを住民に無料開放している。2006年から3年連続で三重県経営品質賞の知事賞などを受賞。本年度の「日本経営品質賞」(中小企業部門)にも輝いた。日本経営品質賞の授賞理由には「優しさによる相互扶助の精神性が根付いている」とある。

 3年間の育児休暇とか、社員用にトレーニングジムの設置とそれを地域住民に無料開放とか、これだけで杉浦さんの経営哲学がうかがい知られますが、我那記者のレポートから杉浦さんの経営哲学をうかがってみましょう。

まずは会社の概要から。
 おやじが1960(昭和35)年に創業しました。自社商品だけを作っていましたが、震災後に三重県の誘致を受けて移転してからは、スキンケアクリームを中心とする他社商品の受託製造に力を入れています。顧客が欲しいと思う商品を欲しい分量だけ安価で迅速に提供しています。

震災でどんな被害を受けたんですか。
 工場が全壊し、二階部分が一階部分にそのまま落ちました。おやじは何も考えられないような状態になってしまい、二代目の僕が経営者代行となりました。初めてした仕事は当時の従業員25人の解雇です。
 西日が差す工場の跡地で、ぼうぜんと立ち尽くした彼らの表情が忘れられません。今、「互いに励まし合う組織づくり」を目指しているのは当時の罪滅ぼしでもあります。

松浦さん自身の被災の記憶は。
 自宅で寝ていて襲われた。妻と10ヵ月の娘は隣の部屋にいて、娘の布団には32インチのテレビが落ちてきた。布団からはい出していたので娘は助かったんですけど。会社が気になり、家を飛び出した。あちこちで巨大な煙の柱が上がり、見える明かりはすべてが火事だった。この世の終わりのようでした。

再起のきっかけとなったのは。
 震災から数週間後に神戸の隣の明石市で、銭湯が再開したというニュースを新聞で見て行きました。順番待ちをして入った浴槽には膝が漬かるほどのお湯しかなく、暗がりの中で体を寄せ合って漬かった。
 初めての風呂で人心地がつき、ふと考えたんです。人生で最も衝撃的な体験をしている今を、新たに生まれ変わる契機にしたい。おやじや従業員らの意見の調整にばかり気を使って押さえ付けてきた自分を、外の世界に積極的にさらけ出していこうと決めたのです。

1年後、三重県での操業にこぎ着けました。
 当初は僕と妻と大学時代からの友人の三人だけ。別の会社に預けていた機械を返してもらい「デンタルピルクリーム」という口内炎の薬を作った。
 97年1月にそのラベルを張った時、長い旅を終えた安心感があった。商品を取り戻し、震災からの復興という意味では一区切りを付けた。次は自分たちの存在を社会に認めさせてやろうと考えました。

それはなぜですか。
 正直、震災で社会に対して悲観的な見方を持つようになっていた。あの時、誰も助けに来てくれなかったのは一生忘れない。なぜ自衛隊はすぐに出動しなかったのか。もっと早く救助が来ていればもっと多くの人が救えたんじゃないか。
 どっかのヘリコプターは上空をぐるぐる回っていた。風圧で火事が大きくなっているような気がした。仕事でも見向きもされず、必要とされない時期が続いた。なぜこんな目に遭わなければいけないんだと、世の中を恨みました。
 だから今やっているアウトソーシングサービス(受託製造)は、ある意味で社会への〝復讐″といえるかもしれない。相手への関与を強め、いざ地震が起こった時に「万協を助けなければ、自分たちの会社も大変なことになる」と感じてもらえるように。

経営を軌道に乗せるまでに困難もあったのではないですか。
 わずかに入社してくれた従業員と一緒に仕事をするしかなかった。不良品ばかりつくってよく顧客に謝りに行きました。でも厳しくしかるようなことはしなかった。僕と同じようにほかに居場所がない人たちなのかもしれないと思った。
 万協は中途採用者が8割を占めていて学歴などもさまざま。一流の人間が一流の仕事をするより、二流が集まって一流を目指す方に意味があると訴えて、世の中に切り込む執念を一緒に燃やした。

逆境に立ち向かえた最大の要因は。
 僕には幸せな家庭があった。それがすべてです。被災後にすぐ家を出てから一時は妻と娘がどこにいるか分からなくなった。一晩中捜して避難所で再会した。
 どんなにつらい状況に直面しても、「家族と生きているだけで丸もうけ」という気持ちがあり、基本軸が悪い方向にぶれなかった。逆に家族を失った人のつらさは痛いほど分かる。
 従業員をはじめとする周囲も悲しみを癒やしてくれた。絶望のふちに立った人生を語ると励ましてくれたし、「松浦さんの頑張りに勇気づけられる」とも言ってくれた。僕の思い出話に価値を見いだしてくれた。

震災の教訓は経営にどう生かしましたか。
 徹底的に従業員を大事にするようにした。営業はすべて一人でやり、成功すれば彼らの努力の結果であると褒め続けた。経営幹部との垣根を取っ払い、個人的な相談でも何でも受け付けている。飲み会などに補助を出したり。従業員が幸せでない会社が顧客を幸せにできるわけがない。

今後の目標は。
 震災を生き延びた者として、亡くなった方々の分までしっかりと生きる。仕事や各地での講演会などを通じて、公私ともに誰かを元気にしたい。
 三重大で講演した時、ボランティアでアフリカを訪れたという男子学生が「現地の貧困の様子が頭から離れず、友人らと楽しく遊べなくなった」と悩みを打ち明けてくれた。
 僕は「いずれ君の気持ちが誰かの役に立つ日が来る」と伝えた。僕も震災を経て、自分の気持ちを表現し分かってもらえるまで20年かかった。彼から感謝のメールが届いたのはうれしかった。
 3年前には母親が風呂場でおぼれ死ぬ事故があった。もっと話しておけばよかったという無念さが募り、コミュニケーションを増やそうという気持ちもより強くなった。
 その際、「結局は金でっせ」とか、「勝つか負けるかしかありませんわ」とか、現実的な話はしたくない。僕だからこそ、人生はいつでもやり直しができる、励まし合おうやないかと叫び続けたい。そして周りにも問いたい。どれだけ立派な人生を生きたかよりも、どれだけ人を励ましたかを語りませんかと。

今日の話題

それでも政権交代は意義があった


 鳩山内閣は何事にも歯切れが悪く、公約実行はもたもたしている。断念した公約もある。初めから大きな期待をしていなかった私でも何とも歯がゆく、情けない気持ちになってくる。もともと大きな期待を持てなかった理由の一つは次の通りである。

 鳩山内閣がもたもたしているように見える原因の一つは民主党が「寄せ集め所帯」であり、前回の「今日の話題」で指摘したように、自民党のカスを引きずっている政治家が結構たくさん紛れ込んでいることである。特にいまだにアメリカ製新自由主義を後生大事に信奉している連中が足をひっぱている。その多くは野田グループ(花斉会)や前原グループ(凌雲会)に属している。もっとも、「新憲法制定議員同盟」の顧問であったり、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」に参加したりという点で、鳩山首相自身がカスを引きずっていることになる。『週間金曜日775号』(11月13日発行)から転載する。

野田グループ(花斉会) 約20~45人
野田佳彦彦(財務副大臣)が率いる若手議員グループ。松下政経塾出身者が中心で、所属議員のメディア出演も多い。田村謙治、長島昭久、三谷光男ら保守系議員が目立ち、党代表選などで前原グループと協調路線をとることも多い。グループ内の入閣者はいない。武正公一、近藤洋介ほか

前原グループ(凌雲会) 約20~45人
旧日本新党、さきがけ系の流れをくむ若手議員を中心に構成。小沢氏と距離を置く議員もいる。「前原・野田グループ」と一括りに呼ばれることも。外交防衛政策ではタカ派・改憲派が多いが、個別政策によってはリベラルな立場をとる議員もいる。前原誠司(国交相)、仙谷由人(行政刷新担当相)、枝野幸男ほか

 次は「右翼」議連のメンバーになっているものたち。

日本会議国会議員懇談会
「日本を守る会」「日本を守る国民会議」が統合して1997年に括成された、伝統的保守団体「日本会議」に呼応する超党派の会。元号法制化、憲法改正、首相の靖国参拝推進、国旗掲揚・国歌斉唱の推進、男女共同参画条例への反対などを目指す。

渡部恒三、吉田泉、松原仁、長島昭久、笠浩史、鷲尾英一郎、糸川正晃、田村雄治、牧義夫、中井洽、前原誠司、三谷光男、松野頼久

新憲法制定議員同盟
会長は中曽根康弘。1955年に結成された「自主憲法期成議員同盟」を原点とする超党派の改憲派同盟。会長代理は中山太郎、顧問は安倍晋三、谷垣禎一ら。福田康夫は首相就任を桟に退会。

・顧問…鳩山由紀夫
・副会長…前原誠司
・常任幹事…松原仁

みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会
日本遺族会が中核となって1981年に結成された。春季例大祭(4月21日~23日)、終戦記念日、秋季例大祭(10月17日~20日)に靖国神社に集団で参拝する超党派議連。

鳩山由紀夫、田名部匡代、鹿野道彦、笠浩史、松原仁、田村謙治、奥田建、糸川正晃、羽田孜、吉田治、滝実、原口一博、鈴木克昌、田島一成、伴野豊、中根康浩、樽床伸二、大畠章宏、若泉征三
※靖国議連の議員はリスト化されていないため、過去10年間に靖国神杜の春季例大祭、終戦記念日、秋季例大祭に参拝、および代理参拝した「靖国議連」メンバーを抽出している。(協力:「子どもと教科書全国ネット21」)

「慰安婦」の強制性を否定する『ワシントン・ポスト』紙(2007年6月14日付全面広告に名前を載せた議員
米国下院で、従軍「慰安婦」問題について日本政府に謝罪を求める決議案が提出されたことに対し、日本軍の強制性を否定する日本側の意見広告が『ワシントン・ポスト』紙に出された。日本の国会議員約40人も名前を連ねていた。

松木謙公、吉田泉、石関貴史、松原仁、笠浩史、泉健太、鷲尾英一郎、北神圭朗、神風英男、田村謙治、牧義夫

 しかし政権交代によって、自公政権では決してあり得なかったことがいくつか現れ始めている。政権交代が起こった意義は大いにある。東京新聞から二つの記事を記録しておいた。一つは「23年越しの春近し」と題した鎌田慧(かまたさとし)さんの「本音のコラム」(3月2日付東京新聞朝刊)。

 バルセロナ(スペイン)の自動車工場を見学したとき、労働者が作業着の胸にゲバラのバッジをつけていた。驚いた私に「よく見ろ」とばかりにそっくりかえった。

 そのころ、JRでは職場で国労のバッジをつけていると、「職務専念義務違反」というわけの分からない理由で、昇給カットなどの処分がだされていた。そんな人権無視がまかり通っていた。旧運輸省が不当労働行為を黙認していたからだ。

 中曽根首相(当時)は「ひとりの労働者も路頭に迷わせない」といって「国鉄分割・民営化」を断行した。しかし、それに反対した労働者1047人が解雇された。自殺者も多かった。それから23年たって、ようやく政治的解決の機運がでてきた。政権交代のおかげである。

 この原稿を書きながら冷静になれないのは23年間、信念を捨てず、アルバイトで暮らしてきた、組合員とその家族の苦労と表情を思い出すからだ。平均年齢56歳、亡くなったひとは60人。知り合いもいる。

 JR各社は冷酷だったし、政府は無責任だった。鳩山首相も「人道的な立場から解決を急がなければならない」というようになった。与党と公明党による和解案では230人の雇用や解決金などがまとめられている。23年間も見捨てていたのだ。値切らずに解決してほしい。

 日本は経済面では先進国の仲間入りを果たしたが、人権面では度し難い後進国である。「日の丸君が代の強制」とそれに荷担しているオソマツ判決裁判官がそのことを象徴している。

 上記記事の「バッジ」で思い出した。卒業式でピースリボンを付けた教員が文書訓告を受けている。金井康雄という権力の番犬がその処分にお墨付きを与えている。オソマツ裁判長曰く「実害がなくても精神的な活動を理由に処分を行うことはできる」「公務員は表現の自由についても勤務時間中は制約される度合いが高い」

 もう一つは新聞記事ではなく、広告である。それはなんと厚生労働省発の政府公報(2月27日付東京新聞朝刊)である。

 大企業・資本家・資産家とべったりと癒着した自民党政権では絶対にあり得ない政府公報であると思った。その広報からは社会を下支えしている労働者への優しいまなざしはが感じ取れた。それは参与として政府に参加した湯浅さんの功績(ハローワークで生活保護相談も受けられる「ワンストップサービス」の導入)だ。だいたい湯浅さんのような方を政府の参与に招くこと自体が自民党政権では全くあり得ないことだ。

「政府から『緊急雇用対策の』お知らせです。」

①事業主のみなさんへ!
○「雇用調整助成金」をご利用ください。
 労働者の雇用を維持するために休業や教育訓練等を行う場合、休業手当や賃金の一部を助成(昨年12月から要件緩和)。
○体験雇用の受入れを応援します。
 就職が決まっていない新卒者を1か月間体験雇用した場合、1人につき8万円を助成。
○介護人材の確保・定着を支援します。
 介護関係業務の未経験者を雇い入れ、一定期間定着させた事業主に助成。

②仕事・住まい・生活にお困りのみなさんへ!
○無料で職業訓練、生活費も。
 雇用保険を受けていない方でも、受講可能。訓練中に生活費(月10~12万円)を給付。
○家賃を補助するため、住宅手当を支給します。就職活動している場合、さらに支給期間を延長(最長6か月→最長9か月)。〔自治体窓口へ〕
○ハローワークで生活相談も受けられます。
 住まい・生活支援を必要とする求職者のご相談にお答えする「住居・生活支援アドバイザー」を配置。

③就職が決まっていない新卒者のみなさんへ!
○ジョブサポーターが就職を支援します。
 ハローワークに、高卒・大卒就職ジョブサポーターを倍増配備し、新卒者の就職を支援。
○仕事の体験を応援します
。  1か月間の体験雇用を通じて、その後の正社員への移行を目指す「新卒者体験雇用事業」を創設。
○無料で職業訓練が受けられます。
 訓練中に生活費(月10万円)を給付(3月下旬開始)。

 この政府公報に感心していたら、昨日の日刊ゲンダイがこの公報の内容に関係する記事を書いていた。

政権交代で変身したハローワーク
完全失業率ダウンし有効求人倍率はアップ

●自ら求人開拓の攻めの姿勢
 1月の完全失業率や有効求人倍率が改善した。失業率は4.9%と10カ月ぶりに4%台を回復し、有効求人倍率は0.46倍と4カ月ぶりに高くなった。これ、長年チンタラやってきた「ハローワーク」がガラリと変わった成果なのだという。

「いまのハローワークは、“待ち”の姿勢から“攻め”の姿勢に変わってきています」

 こう指摘するのは、人材派遣関係者だ。たとえば、窓口に来た求職者に担当者が名刺を渡す。これだけで求職者がハローワークを訪ねる回数が増えた。電話で相談することもできるようになり、求職者の就労意欲が高まったという。

 求人開拓にも動いている。
「民主党政権になって、正規の職員のほかに、ジョブサポーターと呼ぶ人たちを2倍に増やしました。多くが定年退職者ですが、現役の時に豊富な営業経験を持っている。彼らは、毎日せっせと企業に出向き、社長や人事担当者と会ってその場で求人票を書いてもらい、その日のうちにハローワークの求人情報にアップする。不況下にもかかわらず求人件数が増えたのは、こうした事情があると考えられます。しかも情報が早いから求職者の評判がいい」(前出の人材派遣関係者)

 “実弾”も使った。民主党は、高校や大学を卒業したのに就職できなかった人を採用した企業に1人当たり8万円、未経験の人を訓練する企業に1人4万円を支給するなど求人を増やす努力を続けた。その結果、有効求人が昨年12月より2.3%増えたり、新規求人倍率が12月を上回ったりしたのだ。

 資金面の裏づけも見逃せない。地方自治体が積んでいた緊急雇用対策基金を前倒しで活用したことだ。「そのために厚労省の政務三役が県知事に直接交渉することもあった」(民主党幹部)という。厚生労働省は先週、全国紙に「緊急雇用対策」を告知する広告を出した。前代未聞だという。

 自民党はハローワークも基金も活用できなかった。政権が民主党に代わったら可能になった。まさに政治主導のたまものだろう。

今日の話題

長島昭久と言う政治家の正体



 今日の東京新聞朝刊第2面(政治)に見過ごしてしまいそうな目立たない場所に、しかし見過ごすわけにはいかない次のようなとんでもない記事があった。

5月決着破れば米海兵隊撤退も 防衛政務官  長島昭久防衛政務官は一日に都内で開いた講演で、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題に関して「五月までの決着は政府の国際公約。仮に失敗すれば、米国は(海兵隊の沖縄駐留を)すべて見直すこともあり得る」と述べ、米国が沖縄から海兵隊を撤退させる事態に陥る可能性を指摘した。

 長島氏は「米国は歓迎されないところには置かない。沖縄が本当に反対し、日本政府も出て行けとなれば、簡単に出て行く可能性は非常にある」と発言。「沖縄の海兵隊は日本の安全保障の根幹。駐留は当分続かざるを得ない」と述べ、海兵隊を沖縄にとどめておくためにも、五月までの決着が必要と強調した。

 何が「とんでない」のか。「沖縄の海兵隊は日本の安全保障の根幹」というウソが。そして長島昭久といううさんくさい政治家のそういうウソをつく裏の動機が。

 「沖縄の海兵隊は日本の安全のための大きな抑止力になっている」というウソは、ほとんど全てのマスゴミの主張するところである。

 「米海兵隊撤退」でなぜ誰が困るの。願ったり叶ったりではないか。「どうぞお引き取りください」と、私は諸手を挙げて歓送しよう。

 マスゴミはどこからかの情報を垂れ流すだけでなく、まずは海兵隊という殺人専用部隊が本当に抑止力になるのかということを検証すべきなのだ。沖縄の基地利権に群がる糞蝿たちはそのことには口をぬぐって、国民をだまそうとしている。

 坂井定雄(龍谷大学名誉教授)さんが「リベラル21」というHPで海兵隊が抑止力とは全く無関係であることを詳細に論じている。特に 「普天間移設をめぐる嘘と虚構(5)」 では、よくある「嘘と虚構」の好例として、元米国防総省日本部長・ポール・ジアラの「沖縄の海兵隊 抑止と危機対応で重い役割」という朝日新聞共犯の論説を取り上げて、そのウソを暴いている。ここでは 「普天間移設をめぐる嘘と虚構(5)」 から、一部を引用しておこう。

 2006年日米合意を鳩山政権に迫る勢力の言説には、重要な事実を隠す、あるいは触れないことが多い。米軍事態勢の任務分担上、海兵隊は戦争・紛争に突入する地上軍で、空輸や海上輸送で世界のどの地域にも、主として米本土から、開戦のかなり前に送り込まれる。ベトナム戦争以降の海兵隊参戦の実例のすべてが、沖縄駐留が「抑止力」として必要だという主張が嘘、虚構だということを示している。

▽米国外の常駐海兵隊基地は沖縄だけ

 米海兵隊が常駐する海兵隊基地は、大使館警備などごく小さな単位を別にすれば、沖縄だけだ。この事実を日米合意推進勢力は、まったく言わないか、議論を避けたがる。もし沖縄海兵隊の抑止力が米軍の世界戦略上、あるいは同盟国(日本や韓国)や台湾の安全保障上、必要不可欠だと主張するのなら、海兵隊が自国や周辺に常駐していない、世界中の同盟国とパートナー(友好協力国)はどうすればいいのか。

 米海兵隊は、悪名(あるいは勇名)をはせたベトナム戦争の終結(1973年)以後、数多くの戦争・紛争に参戦してきた。1980年のイラン人質奪回作戦、83年のレバノン戦争、グレナダ侵攻、89年のパナマ侵攻、90年のリベリア内戦、90-91年の湾岸戦争、92-95年のソマリア内戦。そして2001年から現在に至るアフガニスタン戦争とイラク戦争。パナマを別とすれば、そのすべての戦争・紛争国や地域の近くに、海兵隊の常駐基地はない。

海兵隊は「殴り込み部隊」とよく言われるが、極めて攻撃的な戦力だ。治安維持部隊として海外に駐留することはあるが、どこかに常駐して周辺の敵勢力を強大な報復戦力で威圧し、敵勢力の攻撃を阻止する「抑止力」としての役割を、米軍事態勢の中で担っているわけではないのだ。

(中略)

 前回書いたように、現実にはあり得ないことだが、もし中国が台湾を、あるいは北朝鮮が韓国を攻撃するとした場合、その事態を米軍がまったく予測できないはずはない。予測した場合、事前に海兵隊を派遣することはあり得るが、1日、2日の違いを争うことではない。その部隊は沖縄からである必要もない。グアムからでもハワイからでも、米本土からでも充分間に合あう。

 もし、仮に中国軍や北朝鮮軍の奇襲攻撃が行われたのだとすれば、米軍は核攻撃の可能性も除外していないし、在韓・在日の米第5空軍、第7艦隊空母からの航空部隊が、中国軍あるいは北朝鮮軍を激しく爆撃して大きな打撃を与える態勢にある。地上作戦では、台湾では台湾軍が、朝鮮半島では韓国軍と在韓米軍が、航空支援の下で反撃を開始する。海兵隊の出番はあってもその後だろう。

 どのようなシナリオも想定することはできるだろうが、台湾や朝鮮半島に米海兵隊が沖縄から緊急投入されるので、中国や北朝鮮はそれを恐れて侵攻を思いとどまるだろうという想定を、沖縄海兵隊の「抑止力」の根拠とする言説は、お粗末なだましの手口だ。

 昨年(2009年)の2月、小沢一郎が、神奈川県横須賀市に拠点を置く米海軍第7艦隊を引き合いに「第7艦隊で米国の極東におけるプレゼンスは十分だ」と発言して、マスゴミから総攻撃を受けた。しかし、あれは正論なのだ。抑止力としては第7艦隊だけで十分である。あの頃「愛川欽也 パックインジャーナル」という番組を見ていたが、その番組のレギュラーである軍事評論家の田岡俊次さんは小沢発言は正しいと断言していた。

 さて、「長島昭久といううさんくさい政治家がウソをつく裏の動機」とはなにか。

 2月の始め、私は副島隆彦さんのHPで 「目下の小沢攻撃をまだ画策する者たちがいる。その米国側で攻撃を行っているもの達の素顔を晒(さら)します。」 という記事を読んで、アメリカの日本支配の奥深さとその手先・アメリカ拝跪主義者のおぞましさに暗澹たる気持ちになった。

 副島さんのような論調を「陰謀史観」と揶揄する人たちは多い。しかし、私には検証するすべがないが、私はおおいに信憑性のある論説だと思っている。今日の話題の長島昭久の発言がそれを裏付ける根拠の一つを提供しているように思ったのだった。上記の副島さんの記事から、長島昭久など民主党の獅子身中の虫どもに関する部分を引用しておこう。
 今、私たちの日本国を、一番上から操(あやつ)って、東京で各所で暗躍し、動き回り、政治干渉しているのは、ふたりのアメリカ人だ。一人は、マイケル・グリーン(Michael Green) CSIS (シー・エス・アイ・エス、ジョージタウン大学戦略国際問題研究所研究員)で、先のホワイトハウスの東アジア上級部長をしていた男だ。

マイケル・グリーン  グリーンの暗躍と謀議は、すでに目に余る。彼が、今の「小沢攻撃、小沢を排除せよ」の東京のあらゆる権力者共同謀議(コンスピラシー)の頂点に居る謀略人間である。駐日アメリカ大使館の、日本政治担当の外交官(国務省のキャリア職員、外交官)たちの多くも、今のグリーンの凶暴な動き方に眉(まゆ)を顰(ひそ)めている。  今は、外交官たちに力がない。米国務省の一部局なのに、CIA(米中央情報局)と軍事部門の情報部が一体化して、政治謀略を仕組む部署が青山と横田(横田基地内と外)にあって、そこの100名ぐらいの部隊が、マイケル・グリーンの配下として、暴走している。

 それを、温厚な、ジョン・ルース大使は、止めることが出来ない。どっちつかずでやってきた、ジム・(ジェームズ)・ズムワルド代理大使(筆頭公使)も、グリーンらの謀略行動に、見て見ぬ振りをしている。

 このグリーンの、忠実な子分が、数人いるが、その筆頭が民主党の現職の若手の議員で、東京の21区(立川市他)から出ている長島昭久(ながしまあきひさ)である。

マイケル・グリーンのお友達、長島昭久

 彼は、なんと、日本防衛省の今の政務官(せいむかん)であり、防衛大臣、副大臣に継ぐ3番目の政治家である。長島は、何の臆することなく、「鳩山政権は、アメリカの言うことを聞くべきだ。今の対立的な日米関係は、危険である」と、アメリカ側の代表のようなことを連発して発言している。北沢防衛相(大臣)たちとは、犬猿の仲であり、若い民主党の議員たちからは、毛虫のように、獅子身中の虫のように、裏切り者として扱われているが、長島は、自分にはM・グリーンという凶暴な強い親分がついているので、「平気の屁の河童」のような態度である。

 長島昭久は、鳩山政権の決議事項を、アメリカ側に伝えて、交渉する係りであるのに、アメリカの手先となって、鳩山政権を攻撃するような男である。

 この長島が、立川、福生、横田という米軍基地のある選挙区から出ている衆議院議員であるということに意味がある。アメリカが育てた男である。長島は、10年昔は、石原慎太郎の馬鹿息子で、次の日本の首相だと、アメリカから、お墨付きを貰いたいと主観的には思っている、石原伸晃(いしはらのぶてる)の議員秘書をしていた男だ。石原伸晃とは、喧嘩別れしたことになっている。

 マイケル・グリーンが、手足として使っているもう一人の男は、小沢一郎からの分離、反抗の態度で、すぐに浮ついたこと発言するようになった、民主党の長老の渡部恒三(わたなべこうぞう)議員の息子の、渡部恒雄(わたなべつねお、読売新聞の独裁者の、84歳の老害のナベツネとは字が違う)である。彼もM・グリーンの教え子で、肩書きもCSIS(シー・エス・アイ・エス)の研究員である。

渡部恒雄・研究員  彼は、東北大学の歯学部を卒業した後、ワシントンDCで政治学を研究して、そしてグリーンの忠実な子分として、洗脳されて、今の立場にいる。だから、本来は温厚で立派な政治家である、“福島のケネディ“であるオヤジの恒三が、息子のアホに、ひきづられて、「小沢は幹事長を辞任すべきだ」という攻撃を仕掛ける。

 息子の恒雄が、そして、前原誠司(まえはらせいじ)や、枝野幸男(えだのゆきお)ら、民主党内の、反小沢グループを、何かあるとすぐに、唆(そそのか)して、民主党の分裂策動を開始する。今は、「七奉行の会」とかを作って、定期的に会っている。ここに、岡田克也外務大臣までが、すぐにひきずられて連れてゆかれるのが、痛手である。

 「アメリカとしては、鳩山、小沢のあとは、お前たちに、日本の政治を任せようと考えている」と、マイケル・グリーンが、渡部恒雄と出てきて、盛んに煽動する。

 小泉純一郎の息子で、横須賀市の地盤を継いだ、進次郎(しんじろう)の御養育係もまさしく、マイケル・グリーンである。進次郎をワシントンのCSISの研究所に入れて、それで、属国の指導者となるべく教育した。グリーンが指導して論文まで書かせている。進次郎は、皆が知っているとおり、大変なハンサムで女性には人気があるだろうが、同じく日本基準では、大変な不秀才であろうから、石原伸晃と同じで、自分の頭が悪すぎて、鈍(にぶ)くて、親のあとを継ぐことは出来ないだろう。

 検察警察、国税の二大実働部隊の反政府クーデター計画部隊のもうひとつの、アメリカの手先の主力勢力である、テレビ6社(NHKを含む)と大手新聞5社の11大メディアは、政治部長会議(せいじぶちょうかいぎ)を、現在、頻繁に開いている。議長は、代々、日経新聞の政治部長(中曽根派の子飼いの政治部記者あがりが付く職)だと決まっている。

 ここに、マイケル・グリーンと長島昭久、渡部恒雄らも出席して、「小沢一郎を逮捕、有罪として、葬り去るための謀議」を開いている、と私はにらんでいる。合議の場所は、大手町の経団連の建物か、日経新聞の立替中の建物の奥の方の古いビルか、あるいは、笹川会館(ささがわかいかん、日本財団)であろう。ここには、樋渡利秋(ひわたりとしあき)検事総長や、漆間厳(うるまいわお、元警察庁長官、前内閣官房副長官事務方 )らも密かに顔を出す。

 ここに登場する日本の政治家たちの最近のおかしな言動の意図が、この副島さんの言説を念頭に置くとき、実によく分かってくる。