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《「真説・古代史拾遺編》(124)
梅原猛「思うままに・二頭政治の善悪」をネタに


日本国の律令(2)


 日本国律令(大宝律令・養老律令)はおおむね北朝系の唐律令(新律令)を受けついで編纂された。従ってその内容の大部分は唐の影響で説明できる。しかし、それでは説明できない南朝系(古律令)の条文が入っていて、法制史上理解しがたい問題として今なお決着がついていないという。この問題に対して学者たちがどんな議論をしているのか、みてみよう。(増田論文より引用)

 この日本律令は、唐律令を継受して成立したものであるが、律の方は唐律より一般に刑を軽くした外には、大して改めたところもないが、令の方は我国在来の慣習に従って、かなり大きな変更を施しているとされてきた。

 しかし、石尾芳久らは、大宝・養老律の編纂は、固有刑法の伝統への深い顧慮のもとに行なわれたという。そして、曽我部静雄らによって、日本律令の条文の中には、魏晋南北朝の律令の影響を受けているものがあると指摘されている。

 井上光貞は、それは、古代の我国の国制が既に大化前代に、遠くは中国に由来し、朝鮮を経由した制度によって一応枠づけられ、律令法の体系的摂取は、この上に重層的にしかも大化前代の構造体を保存したまま、行なわれたからであろうという。

 唐律令の影響では説明できない部分について、慣習法の影響、伝統的刑法への配慮、朝鮮経由の前代の制度の保存などなどで説明しようとしている。どれもどうにも歯切れの悪い説明である。何度でも言うがヤマト王権一元主義の宿痾である。しかしこの問題は、「磐井の律令」や「多利思北孤の律令」など、先行する「倭国の律令」があったことを知っている私(たち)には、むしろ当り前の話ということになる。

 日本国はもとは倭国を本家とする分家国家であった。その本家の方に既に律令があった。分家が本家の律令に無関心だったり知らなかったはずがない。「倭国の律令」に大きな影響を受けていたはずである。近江令・飛鳥浄御原令と呼ばれているものはなかった。それは「倭国の律令」のことである。

 「日本国の律令」(大宝律令・養老律令)は推古期以来朝貢していた唐の新律令を真似て編纂されたが、当然「倭国の律令」の大きな影響下での作業であった。一部に古律令系の条文が残るのは当然ではないだろうか。しかし倭国を抹殺しようとしていた日本国は、「倭国の律令」の影響を公式記録に残すことはできない。例えばつぎのように粉飾することになる(『続日本紀』701(大宝元)年8月3日の記事)。

三品の刑部親王・正三位の藤原朝臣不比等・従四位下の下毛野朝臣古麻呂・従五位下の伊吉連博徳。伊余部連馬養らをして、律令を撰定せしむ。是において始ねて成る。大略は浄御原の朝庭を准正と為す。

 「倭の律令」の影響を示す一例を挙げよう。「磐井の律令」に裁判官として解部(ときべ)という部名があった。これは明らかに和語である。中国では古律令にも新律令にもこの語はない。つまり、解部は「磐井の律令」独自の用語である。この解部が『養老律令』職員令の刑部省と治部省の条に現われる。前回紹介したサイト『現代語訳「養老令』によると次のようである。

〈刑部省〉
大解部〔おおいときべ〕10人。{職掌は、争訟を問窮〔もんきゅう〕(=追究・審問)すること。}
中解部〔なかのときべ〕20人。{職掌は大解部と同じ。}
少解部〔すないときべ〕30人。{職掌は中解部と同じ。}

〈治部省〉
大解部〔おおいときべ〕4人。{職掌は、譜第(=系譜の次第)の争訟を鞫問〔きくもん〕(=鞫〔と〕い問う=追究・審問)すること。}
少解部6人。{職掌は大解部と同じ。}

 なお、解説で「当時の裁判」を次のように説明している。

 裁判は、まず解部の審問を経た後に、判事・刑部卿の再審問を受けることになっています。

 裁決は「律」(大宝律・養老律)に定められた「五罪」=「笞〔ち〕(=鞭打ち)・仗〔じょう〕(=笞よりも多い鞭打ち)・徒〔ず〕(内容は不明)・流〔る〕・死」に分けられ執行されます。

 ちなみに、「徒」の「内容は不明」と解説しているが、一般に「徒」は「労役に服させる刑」と説明されている。つまり「懲役刑」であろう。

 上の解部について、増田論文が詳しく論じているので、次に引用しよう。

 刑部省の大・中・少の解部は、争訟を問い窮めることを職掌とし、罪人に直接接触し、罪状を調べた。取調べに当たっては、拷問を実行する任に当たっていた。

 治部省の大・少の解部は、譜第の争訟を鞫問(きくもん)することを掌(つかさど)った。クガダチなどの神判も用いたことであろう。譜は系譜であり、第はその次第である。治部卿の職掌である本姓、すなわち氏姓の争訟を問うという重要な任務を負わされていた。

 そして、解部は、「其の解部は是れ別司と為す。同員に在(あ)らざる也。」(『令義解』治部省)とあるように、司法事務を管掌するある程度独立した品官であった。

 しかし、養老官位令によると、刑部大解部は従七位下、刑部中解部および治部大解部は正八位下、刑部少解部および治部少解部は従八位下であって、その相当官位は刑部省・治部省の他の官人と比して格段に低い。解部は、裁判手続における中枢的位置を、もはや占めていなかったのである。

 養老令刑部省および治部省の制は、それぞれ唐の刑部大理寺および礼部太常寺の官制であるが、解部に相当する「別司」たる官職は唐制にはない。解部は、我国独特の官職であって、唐制の導入によって設けられたものではない。

 解部は、いわゆる大化前代の180部の一つであって、部民を率いて司法事務に携わった伴造・伴部の一種である。伴部は、原則として負名氏(なおひのうじ)の入色者から採用されることになっている(『延喜式」巻18・式部上)。負名氏とは、職業に関係ある名称を氏名とする氏であり、後に別の氏名を称しても、もと負名氏より出て祖先の職業を世襲していたものは、依然負名氏とされていた。

 養老職員令の官司は、多くの伴部が配属されているが、それらは、倭国固有の政治組織に遡るものである。解部は、物部氏の支族である苅間連・韓国連などから補任されている。解部をもって氏名としなかったのは、衆人の嫌悪するところであったのであろうという。

 そして、養老律令の下では、唐制にのっとった司法官吏が存在し、彼らによって合理的な俗法裁判制度が励行されるようになると、神判や拷問の技術を世襲する解部は不要となり有名無実の存在となった。桓武天皇延暦18(799)年4月辛丑詔勅(『類聚国史』巻107・職官部12)および平城天皇大同3(808)年正月20日詔勅(『類聚三代格』巻4・加減諸司官員并廃置事)によって、令制下70人置かれていた解部は、わずかに治部省の解部6人のみに削減された。磐井の律令のもと、栄光に輝いた解部の歴史に幕が引かれたのである。

 「倭国の律令」は日本国によって抹殺されてしまったが、逆に「日本国の律令」の中から南朝系の律令の影響を受けているといわれているものを検討すれば、「倭国の律令」の一端を垣間見ることができるだろう。増田論文はこの観点から、「戸令」(年令区分・戸籍の様式)・「田令」(方格地割)・「公式令」(牒式・解式…公式文書の様式を定めたもの)の検討を相当専門的に検討している。(ここでは割愛しますが、興味のある方は直接 『倭国の律令』 をご覧下さい。)

 最後に増田論文の結語を引用して律令問題というテーマを終わることにする。

 日本律令に規定された制度のなかで、唐律令に存在せず、魏晋南北朝に特有な制度や我国固有の慣習法といわれる制度は、倭国の律令に淵源を有している可能性が高い。そのような制度は、前記の他にも数多く日本律令の中に「緑児」のように眠っている。古田武彦の唱える多元史観の手によって、ゆり起こされるのを待っているかのように。

 例えば、仕丁・采女・舎人の制度あるいは僧正・僧都制などは、魏晋南朝の制度の影響があるという。従来、そのような制度は、個々ばらばらに検討され、中国・朝鮮の制度を個別に受容したのであろう、あるいは固有法であろうという程度で、総合的に考察されることは少なかった。

 その原因は、「日本列島には、近畿天皇家以外に、律令を制定しうる公権力なしという、証明なき信仰に依拠していたため)」であろう。倭国=九州王朝に律令があったことを前提にして、始めてそれらは体系的な制度の一環として位置づけることができるようになり、その結果、倭国の歴史像の内容が一変することになるであろう。

 倭国が白村江の戦に敗れた663年から大宝元(701)年に至る期間は、近畿天皇家が倭国から日本列島の代表王者の地位・大義名分を奪取するために、列島各地の王者・豪族を、言向(ことむ)け平(やわ)し、あるいは討伐して、着々とその支配体制を築き上げ、新たな法体系を構築しつつあった時代といってよいであろう。

 『続日本紀』は、文武5(701)年3月甲午(21日)、「元を建てて大宝元年としたまふ。始めて新令に依りて官名・位号を改制す」という。近畿天皇家は、始めて独自の年号を制定し、始めて自ら制定した新令=大宝令によって官制・位階・服制を施行した。近畿天皇家は、日本列島の代表王者であることを宣言したのである。

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《「真説・古代史拾遺編》(123)
梅原猛「思うままに・二頭政治の善悪」をネタに


日本国の律令(1)


 日本国が制定した律令(大宝律令・養老律令)に先だって「近江令」「飛鳥浄御原令」があったとされている。この先行の二つは「律令」ではなく「令」である。「令」だけが制定されたということだ。高校の教科書では次のように書かれている。

近江令
 668(天智7)年制定
 671(天智10)年実施
 編纂中心人物・中臣鎌足

 しかし「天智紀」には「近江令」制定の記事はない。国政の根幹を決める法令の制定記事を書き忘れた? ありえない。それにしても上記の制定年や実施年は何によっているのだろうか。『藤氏家伝』(とうしかでん)の次の記事がその根拠のようだ。

「(天智7年)帝大臣(おほおみ)に礼儀を撰述せしめ、律令を刊定せしめたまふ。」

『弘仁格式』(序)にも「天智元年に令22巻を制定した。これが『近江朝廷之令』である」という記録があるようだ。

(注:教科書は天智の称制期間も含めて「天智~年」と言っている。上の二つの古記録は即位年を「元年」としている。)

 近畿王朝が正史と位置づけている『日本書紀』に該当記事がないので、「近江令」はなかったとする説もあるという。「存在説」と「不存在説」の言い分を聞いてみよう。(ウィキペギアより転載)

 当時は天智天皇のもとで政治体制の近代化が進められ、中国の諸制度の積極的な導入が行われており、その根幹となる律令(近江令)が当然に定められたはずと見るのが存在説である。存在説の立場では、近江令は律令制導入へ至る先駆的かつ重要な法令であり、後の飛鳥浄御原令や大宝律令へ影響を与えたとしている。

 しかし、『藤氏家伝』も『弘仁格式』も後世(8~9世紀)に編纂されたものであり、正史の『日本書紀』には近江令制定の記事はない。しかし、天智9年(670年)条「朝庭の礼儀と行路の相避ることを宣う」とある。これは令とともに礼を撰述させたのである。天智10年(671年)に「冠位・法度の事を宣い行い給う」とある。また、『弘仁格式』は、天智天皇系の皇統を重視した記述となっているため、天智天皇の業績をより大きく評価したものであると理解できる。これが非存在説の根拠である。

 ただし、非存在説はいくつかの立場に分かれている。まったく令は存在しなかったとする説、天智期に制定された諸法令を総称して、後代に近江令と呼んだとする説、完全ではないがある程度の令が編纂されたとする説、ほぼ完全な形に近い令が編纂されたが施行は一部にとどまったとする説、などである。非存在説の主張は、律令制構築への動きについて、天智天皇よりも天武天皇の影響力の大きさを重視する傾向が強い。

 どの説も推測の域を出ていない。たいへんな混迷ぶりである。ヤマト王権一元主義に立つかぎり、このような混迷は避けられない。日本国に先立って倭国ありという視点を持てば事態は実に簡明である。ただこの場合、もう一つの視点を加える必要がある。「日本国の律令」ということがはっきりとしている「大宝律令・養老律令」の方から眺める視点である。この二つの視点を持って眺めるとどう見えるか。それを論ずる前に「飛鳥浄御原令」についても調べておこう。まず教科書では次のようになっている。

飛鳥浄御原令
 制定年不明
 689(持統3)年実施
 編纂中心人物・粟田真人

 「持統紀」3年の条に次の記事がある。

(6月)庚戌(かのえいぬのひ 29日)に、諸司に令一部廿二巻を班(わか)ち賜ふ。

 しかし「持統紀にはやはり浄御原令の制定記事はない。「「定説」(岩波大系版の頭注)は上の記事を論拠に689年を浄御原令の実施年としている。ただしこの記事を「近江令の施行」とみる説もあるという。

 なお「定説」では「天武紀」の681(天武10)年2月25日の次の記事を「浄御原令の編纂開始」を示す記事としている。

天皇・皇后、共に大極殿に居(おは)しまして、親王・諸王及び諸臣喚(め)して、詔して曰はく「朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)ふ。故、倶に是の事を修めよ。…」と。

 ウィキペディアを読んでみよう。

 飛鳥浄御原令に先行する律令法には、天智天皇が668年に制定したとされる近江令がある。近江令の存在については、非存在説も含めて見解が分かれているが、近江令とは、律令制を指向する単行法令を総称したものであり、体系的な法典ではなかったとする見方が広く支持されている。

 天智天皇を後継した大友皇子から、軍事力によって政権を奪取した天武天皇は、政権中枢を皇子らで占める皇親政治を開始し、専制的な政治を行っていった。天武は、その強力な政治意思を執行していくために、官僚制度とそれを規定する諸法令を整備していった。このような官僚(官人)と法律を重視する支配方針は、支配原則が共通する律令制の導入へと帰着した。天武10年2月25日(681年)、天武は皇子・諸臣に対して、律令制定を命ずる詔を発令した。しかし、律令が完成する前の686年に天武が没したため、その皇后鸕野讚良皇女(うののささらのひめみこ 持統の幼名)と皇太子の草壁皇子が律令事業を継承した。服喪があけた後に、草壁が次期天皇に即位する予定だった。しかし、草壁は持統3年4月(689年)に急死した。

飛鳥浄御原令が諸官司に頒布されたのは、その直後の同年6月である。律は制定されず、令のみが唐突に頒布されていることから、草壁の死による政府内の動揺を抑え、天武の(律令制定という)遺志の継承を明示するため、予定を前倒しして、令のみが急遽公布されたのだと考えられている。

 「浄御原令」の場合も、「定説」はヤマト王権の制定によるものであると端から決め掛かっていて、その論証に四苦八苦している。やはり推測の域を出ていない。

 では多元史観の立場からはどのように論じられているだろうか。まず大宝律令と養老律令について、現段階で分かっていることを確認しておこう。

 日本国最初の体系的な成文法典である大宝律令については『続日本紀』の701(大宝元)年8月3日の記事に次のように記録されている。
「三品の刑部親王・正三位の藤原朝臣不比等・従四位下の下毛野朝臣古麻呂・従五位下の伊吉(いき)連博徳(あかとこ)・伊余部連馬養(うまかい)らをして律令を撰定せしむ。是に於て始めて成る。」

 この大宝律令は律・令とも散逸してしまい、『令集解』(りょうのしゅうげ 859~877)所載の「古記」に引用された逸文などによって、その一部が復元されているだけである。

 大宝律令撰定後、早くも養老年間(717~724)に藤原不比等を総裁として再び律令が刪定(さんてい)刊修され、757(天平勝宝9)年に施行された。これが養老律令である。これ以後は必要に応じて格を発して、律令そのものを改廃したり、新たに律令が編纂されることはなかった。

 養老律令は、大宝律令の若干の内容修正のほかは、単に字句等を修訂したにすぎないといわれている。現在、日本律令として伝えられているのは、この養老律令である。

 養老「律」は、全編の約4分の1が残存し、他の部分も諸書に引用された逸文がかなり蒐集されている。養老「令」の方はその大部が公定注釈書『令義解』(りようのぎげ 833年)に現存し、亡失した部分も諸書に引用された逸文によってほぼ再現されている。

(ネットはすごい。「藤氏家伝」も「養老令」も全文ネットで読めます。おおいに利用させても頂きます。)

『藤氏家伝』

『現代語訳「養老令」全三十編』
《「真説・古代史拾遺編》(122)
梅原猛「思うままに・二頭政治の善悪」をネタに


倭国の律令


 白村江の戦に破れ衰退した倭国に取って代わった日本国は全ての面で先進国であった倭国の制度や文化を引き継いでいる。律令制度の場合はどうであろうか。このような問題もあるので、前回に予告した「日本国の律令の歴史」を取り上げる前に、「倭国の律令」についても調べておこう。

 日本における最初の体系的な成文法典は大宝律令であるということから、従来の古代史学では8世紀初めが律令体制ができた初めであるとされてきた。しかしこれはヤマト王権一元主義の立場からの「定説」にすぎない。8世紀始め、日本国が抹殺した倭国も視野に入れれば話はまったく異なってくる。

 前回見たように、中国では秦の始皇帝の時代に既に律令が存在した。委奴(ゐど)国王に金印を授けた漢も当然律令国家だった。卑弥呼(ひみか)が使いした魏や倭の五王が使いした南朝劉宋ももちろん律令国家だった。委奴国王も卑弥呼も倭の五王も先進国漢・魏・宋の文化をおおいに取り入れていただろう。倭王・武は見事な漢文で上奏文を書いている。それくらい中国文明に対して傾斜を深めていた倭国が肝心かなめの「律令」を知らなかったはずはない。

 一年ほど前、6世紀前半の倭王・磐井が既に隋・唐以前の古律令を取り入れていたことに、 『謡曲のなかの「壬申の乱」』 で簡単にふれた。このことを今度は少し詳しく取り上げることにする。そのため、「筑後国風土記」の「磐井の君」の記録を再度掲載する(今回は岩波古典文学大系版から引用)。

筑後國の風土記に曰く、上妻(かみつやめ)の縣、縣の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、南と北と各六十丈、東西各卌(40)丈。石人(いしひと)・石盾(いしたて)、各六十枚。交陣(こもごもつら)なり行(つら)を成して四面に周匝(めぐの)れり。東北角に当り、一つの別區(ことどころ)あり、號(なづ)けて衙頭(がとう)と曰ふ。〈衙頭は政所なり。〉其の中に一人の石人あり。縦容(おもぶる)に地に立てり。號けて解部(ときべ)と曰ふ。前に一人あり。躶形(あかはだか)にして地に伏せり。號けて偸人(ぬすびと)と曰ふ。〈生けりしとき、猪を偸(ぬす)みき。仍(よ)りて罪を決められんとす。〉側に石猪四頭あり。臓物と號く。〈臓物は盗みし物なり。〉彼の處に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり。(以下「磐井の乱」の記述が続くが略す。)

 省略した部分の文中に「(筑紫君磐井)生平(い)けりし時、預(あらかじ)め此の墓を造る。」という一文がある。上記の石像群も生前に磐井が造ったものであろう。そして上記の文章から、この石像群は明らかに裁判の場面を表わしていることが分かる。

 縦容として立っている「解部(ときべ)」が裁判官である。磐井のもとに各種の「~部」があり、それぞれの長官と「部民」がいたことを示している。その前に、猪と共に猪を盗んだ者が地に伏せている。この罪人が解部によって裁かれている図である。

 では、なぜ磐井はこのような石像群を自分の墓のそばに造作らせたのだろうか。磐井は裁判の基礎をなす法令を制定施行して、それを自己最大の治績と見なしていた。そして磐井はそのもっとも誇るべき自己の業績を後世に伝え、その法治体制を守らせたいと考えたのだ。これがわざわざ自分の墓にこのような展示物を造った意図であったろう。

 では磐井が制定した法令はどのような性質のものだったろうか。それは明らかに律(刑法)を中心とする「古律令」であったろう。ここに展示された「裁判の場」こそ、「古律令の制定と施行」を象徴するものだったと言えよう。このことをより詳しく論じているみよう。

(ここで教科書を追加します。以下は増田修さんの論文「倭国の律令 筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」によります。)

 泰始4(268)年西晋の武帝が公布した泰始律令は、刑罰法規としての律と行政法規としての令が明確に分岐したのであり、中国法制史上画期的な意義をもつものであった。しかし、律と令の分業が成立しながら、刑罰法を重視する法家の伝統的思想は、この後も一貫して存続した。泰始律令は東晋・南朝宋・斉に承継され、梁・陳の律令も晋律令を基本としたものであった。律令格式(新律令)の体系が整うのは隋代以後である。

 磐井とほぼ同じ時代、新羅の法興王も律令を制定している。晋の泰始律令の影響下に成立した高句麗律令を基にしている。つまり泰始律令は、南朝の冊封体制下にあった東夷の国々にあまねく影響を及ぼしていったことになる。

 『晋書』によると、武帝年間の西晋には、東夷諸国がしきりに、来献・内附・帰化している。倭国の女王壹与も、泰始2(684)年西晋に入貢している。その後も倭国は、東晋の安帝の義煕9(418)年倭王讃が方物を献じたのを始めとして、南朝宋には珍・済・興・武と朝献して軍号を授与されるなどしている。、少なくとも倭王武が梁の高祖武帝の天監元(502)年鎮東大将軍から征東将軍に進号するまで、南朝の冊封下にあった。

 このような倭国が、晋泰始律令の影響を受けて、律令を制定するに至ることは、必然であろう。磐井の律令は、晋泰始律令を範として作られたと考えられる。しかし、解部という官職名が中国にはみられないように、律においては特に倭国の個有の伝統が重んじられていたと思われる。磐井の墓の別区=衙頭は、政所であるといい、石馬三疋・石殿三間・石蔵二間が存在する。石殿は政治・行政を執行する宮殿、石蔵は租税などを収納する倉庫と思われる。磐井は、律のみではなく、令も制定していたといってよいだろう。

 筑紫の君磐井に次いで、倭国において律令を制定したのは、あの日出づる処の天子多利思北孤である。磐井の半世記余りあと、「天子」を自称した多利思北孤が律令を制定しないはずはない。「隋書俀国伝」に次の一文がある。

新羅・百済、皆俀を以て大国にして珍物多しと為し、並びに之を敬仰し、恆(つね)に通使・往来す。

 新羅のみならず、この頃にはすでに、百済にも律令があった。その新羅・百済が大国として「敬仰」していた大国に律令がない方がおかしい。

 「俀国伝」が伝える刑罰記事は次のようである。

其の俗、人を殺し、強盗および姦するは皆死し、盗む者は臓を計りて物を酬いしめ、財なき者は身を没して奴と為す。自余は軽重もて或は流し或は杖す。獄訟を訊究(じんきゅう)するごとに、承引せざる者は、木を以て膝を壓し、あるいは強弓を張り、弦を以てその項鋸(きょ)す。あるいは小石を沸湯の中に置き、競う所の者をしてこれを探らしめ、いう理曲なる者は即ち手爛(ただ)ると。あるいは蛇を瓮中(おうちゅう)に置きてこれを取らしめ、いう曲なる者は即ち手を螫(さ)さると。

 ここには、すでに北魏で成立している五刑(死・流・徒・杖・笞)対応する死・流・杖という法律用語がみられる。また、盗物の量を計って、それに見合う物を罪人が被害者に賠償する制度や、その賠償をするための財力を持たない者には被害者に身柄を委付して奴となって被害を償わしめる刑は東夷の諸国において古くから行なわれてきたものであり、もちろん唐でも制度化されていた。

 このように「俀国伝」の刑罰記事は、俀国に律があったことを明示している。しかし、その裁判の手法は、磐井の時代と同じく、拷問・盟神探湯(くがたち)などという古来からの手法を存続させたままであった。

 倭の五王が南朝の冊封下にあったことから考えれば、九州王朝系の律令は当然ながら南朝系の古律令を核心としていたと思われる。しかし多利思北孤の律令は、隋の影響下にあったことを考えると、「古律令」に「新律令」的な要素も加味されていたのではないか。ともあれ、当然「律」のみではなく「令」も制定していたはずだ。「十七条の憲法」はその「令」の一部だったのではないか。
《「真説・古代史拾遺編》(121)
梅原猛「思うままに・二頭政治の善悪」をネタに


続・「推古紀」のウソ八百(2)

「十七条の憲法」


 「律令体制」とか「律令国家」とか言うときの「律令」とは一体何だろうか。実は、私は高校で学んだ程度の知識で、何となく分かっているつもりで過ごしてきた。「十七条の憲法」を取り上げる前に、「律令」という概念の理解を深めておこうと思う。

(以下は、古田さんの著書『古代をゆるがす』の中の「十七条の憲法を作ったのはだれか」と講演録「大化の改新と九州王朝」を教科書としています。「古田さんによれば」というような断り書きを省きます。)

 律令の歴史を顧みると、その性格は発展し変わってきている。大きくは隋・唐代の律令とそれ以前の律令とはその性格が違う。これをそれぞれ「新律令」「古律令」と呼ぶことにする。

 古律令は秦の始皇帝に始まる。「律令」と言い「令律」とは言わないのにはそれなりの理由がある。始皇帝の古律令は、律が中心で令はそれを補ったもので、いわば付則にあたる。つまり刑法的な掟(律)が中心で、それを分けて丁寧に説明するのが令である。律が根本だから律が先になり「律令」。この古律令は漢・魏晋南北朝と受けつがれている。

 これに対して新律令は古律令とは概念が違う。令が法律の基本になる。令を補ったものが格式。令に対する補いが格で、それに対する補いが式である。令格式が中心になる。法律で令格式を作る。その規定(成文法)に背いた者を律で罰する。律はそういう役割になる。

 この新律令は、次のような意味で、現代法治国家の法律と同じ概念になる。つまり、法律に書いてある事に背くことをすれば罰せられる。逆に言えば、法律に書いてない事なら決して罰せられることはない。現代の刑法と同様に、新律令は“法律に書いてあることなら捕まえますよ、それ以外は、捕まえません”という約束をしていることになる。日本の近代法の概念はヨーロッパ、アメリカから学びとったものではあるが、基本概念は唐の律令格式、それに倣った「大宝律令」以来の伝統の中にあるということもできる。

 ここで思い出したことがある。高校で日本史を学んだとき、「大宝律令」以前に「近江令」とか「浄御原令」とかがあった。しかし、今回のテーマの参考資料をいろいろあさってきたが、どこでも「近江令」「浄御原令」は姿を現さない。この問題「日本国(倭国ではない)の律令の歴史」は後ほど取り上げることにして、今回の本テーマに入ろう。

「十七条の憲法」について

 「隋書俀国伝」で天子を名のる倭王・多利思北弧(たりしほこ)を聖徳太子とする「定説」がとんでもなく無茶苦茶な「珍論」であることは、既に 「日出ずる処の天子」 で明らかにした。隋の煬帝に強い不快感を与えたが、隋への国書の中で多利思北弧は自ら「天子」を名のっていた。

 一方周知のように、ヤマト王権の王は自らのことを「大王」と呼んでいた。天皇という称号は、本格的には、8世紀以後に使い出されたものである。それまでは基本は「大王」だった。ただし、7世紀前半にも使われている例が多少はある。例えば7世紀前半史料と思われる法隆寺の「薬師仏造像記」では、用明天皇のことを「天皇」、推古天皇を二回にわたって「大王天皇」といっている。

 中国の『資治通鑑(しじつがん)』という史料をみると唐代のところで第三代の天子の高宗は高宗天皇と表現されている。天皇という名称はもともとは「殿下」などと同じ敬称である。その上にくるものによって実質な地位や身分が分かる。高宗天皇といえば天子に対する敬称であり、大王天皇といえば大王に対する敬称となる。つまり「大王は天子ではない」。

 さて、「十七条の憲法」には重要な二つの特徴がある。ひとつは「篤く三宝を敬へ」という仏教崇拝の思想で、もうひとつは君臣の関係を述べたものだ。

三に曰く、詔を承りては必ず謹め、君をば天とす。臣をば地とす。天は覆ひ地は戴(の)す。四時順ひ行ひて、萬気通ふこと得。地、天を覆はむとするときは、壊(やぶ)るることを致さむ。是を以て、君言(の)たまふとことをば臣承る。上行ふときは下靡(なび)く。故、詔を承けては必ず慎め。謹まずは自づからに敗れなむ。

 つまり君はひとり、臣はひとつ。この関係をこわしてはいけないという君臣の秩序を強調している。「十七条の憲法」における重要な思想を表わしている。

 君臣という言葉は諸豪族の場合でも使えないことはないが、天子とその家来に使うのが本来のもっとも適切な用法である。ここでは「天地」にたとえているので「君臣」の用法もはっきりしている。天地はこの世にひとつ。天地が絶対であるように、君臣は絶対であり唯一であると言っている。これが、「天地」という言葉とともに使うときの、「君臣」と言う言葉の根底にある思想だ。

 中国の例で言うと、君臣だけだったら、魯とか斉とかいうところの国で使える。洛陽の天子だけに限られない。しかし魯や斉の君だったら、「君は天と同じ、臣は地に同じ」という絶対化はできない。

 ところがあの「十七条の憲法」は絶対化している。ということは「十七条の憲法」にとっての「君」は天子であるということになる。大王ではだめ。大王が「天と同じ」なんて言うことはできない。そうするとあの「十七条の憲法」は聖徳太子(ヤマト王権)のものではない。日本書紀の記事は、7世紀前半に九州王朝で倭王・多利思北孤が天子を称しはじめた段階で作られたものを、転用あるいは「盗用」したものであったということになる。
《「真説・古代史拾遺編》(120) 梅原猛「思うままに・二頭政治の善悪」をネタに

続・「推古紀」のウソ八百(1)

「冠位十二階」


 梅原氏は古代史から「善い二頭政治」の例を挙げ、それと対比して「鳩山・小沢の二頭政治」を「悪い二頭政治」としてこき下ろしていた。氏が取り上げていた「善い二頭政治」とは次のようである。

 日本で二頭政治が甚だ成果を挙げた例がある。それは、表の頭に元明及び元正天皇をいただき、裏の頭の藤原不比等が政治を執った奈良時代初期のことである。

 このような政治が行われたのには特殊な事情がある。持続皇后は天武天皇とともに壬申の乱を起こして近江王朝を滅ぼし、飛鳥浄御原に君臨する天武天皇の王朝を樹立した。天武天皇の死後、皇后は、次期天皇の有力候補者であった大津皇子を謀反の罪をでっち上げて殺し、わが子草壁皇太子の成長を待ったが、草壁皇太子は天折した。それで皇后が即位し、無事、草壁皇太子と元明妃の間の軽皇子すなわち文武天皇に皇位を譲ることができた。しかし文武天皇も天折したので、草壁皇太子妃であった元明が即位し、文武天皇の遺児の首皇子の成長を待ったが、元明天皇は万一のことを考えて、文武天皇の姉・元正天皇を即位させ、皇位を保持させた。

 このような女帝たちを助け、無事首皇子すなわち聖武天皇の即位を実現させたのは、権謀術数に富む稀代の政治家、藤原不比等であった。不比等は女帝たちの悲願を達成させたばかりではなく、日本を中国にならって律令国家にするという聖徳太子によって始められた大事業を成し遂げた。平城遷都、律令の整備、『古事記』『日本書紀』の編纂などはこの時代になされたことである。

 また不比等は、皇帝が絶対の権力をもつ中国の律令に対し、太政官を牛耳る藤原氏による専制政治を行いやすい日本独自の律令を作り、藤原氏の栄華の基礎を築いた。

 これは二頭政治が成功した例であるが、それが成功したのは、元明天皇と藤原不比等が一心同体になって統治を行ったからである。

 梅原氏は「ヤマト王権一元主義」の枠内にとどまる学者なので当然なことではあるが、日本書紀の記事の信憑性にまったく疑念を持たない。私(たち)にはいろいろな疑念がもやもやと湧いてくる。大きく次の2点に分けて、そのもやもやを晴らしていこうと思う。

(1)続・「推古紀」のウソ八百
「日本を中国にならって律令国家にするという大事業」を始めたのは聖徳太子だろうか。
(2)近畿王朝草創期(7世紀末~8世紀始)の真実
「元明天皇と藤原不比等」の二頭政治を成功した例と言うが、要するに朝廷内の権力闘争に成功したのであって、「一心同体になって統治」というより「一心同体になっての謀略」と言うのがふさわしい。この問題は「天智天皇と藤原鎌足」の二頭政治までを視野に入れなければ真相は見えないのではないか。

(1)続・「推古紀」のウソ八百

 『書紀』の編者は倭国史書(日本旧記など)からの盗用改竄記事のほかに、遣唐使が買いあさって持ち帰った漢籍からの盗用改竄記事もたくさん挿入している。これまでの研究によると「史記・漢書・後漢書・三国志・梁書・隋書・芸文類聚百巻・文撰一四巻・金光明最勝王経」などの利用が確認されている。

 特に「推古紀」「舒明紀」は俀国(倭国)の多利思北弧と同時代であり、「隋書俀国伝」からの盗用が考えられる。しかし「隋書俀国伝」の記事は同時代の大和王権の状況とはあまりにも齟齬が大きいため大幅な改竄がむつかしい。従って例えば「遣唐使」を「遣隋使」に代えてしまうような無茶はやっていない。その無茶なこじつけをやっているのは現代の「定説」論者たちである。

 さて、「日本を中国にならって律令国家にするという大事業」を始めたのは聖徳太子だという説を唱えるのは梅原氏に限らない。これはヤマト王権一元主義者たちの「定説」である。ではこの「定説」は何を根拠にしているのだろうか。手元にある水野裕著『日本古代史の謎』では次のように説いている。

冠位制と十七条憲法

 推古天皇の11年(西暦603年)から同18年までの8年間、つまり私が第三期と位置づける聖徳太子の30歳から37歳までの期間、太子はそれまでに練り上げた政治改革を一挙に断行されます。蓄積した知識や太子の胸のうちに築かれたであろう国家仏教的政治理念が、いよいよ具体的なかたちをとって現れてきたのです。

 太子のこの政治改革は、着手すると同時に矢継ぎ早にその眼目が打ち出されているのが大きな特徴です。第三期のはじめ、わずか3年の間に内政改革の基本政策はすべて示されているのです。『日本書紀』「推古天皇紀」によれば、推古天皇の11年12月5日、太子はまず第一に冠位制を定めました。いわゆる「冠位十二階」、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・中信・大義・小義・大智・小智の順に位を設け、位ごとに色を定め、中国風の服装を採用するというものです。これは能力主義的な官司登用による人材発掘、そしてそうした官司による集権的な支配体制を意図するもので、後の律令制への前提をなすものです。

 翌12年の正月1日、早速、その冠位制に基づいて諸臣に冠位が授けられました。

 次いで4月3日、聖徳太子はいわゆる「十七条憲法」を定められています。

 「推古天皇紀」は「憲法十七条を作りたまう」と「憲法」という字を当てているのですが、これは決して今日の公法としての憲法の意味ではありません。十七条憲法はその内容からみて、公法ではなく、総じて官司の服務規定というべきものです。

 冠位制が国家組織の基本を定めたものであるとみるならば、十七条憲法はその組織構成員が守るべき規則・心得を定めているのです。したがって、冠位制と十七条憲法はセットになって国家組織の大本を定めたものといえます。

 両施策によって、聖徳太子が中国的な官司制度による国家組織の構築を企図されたことは明白です。太子はそれまでの日本の社会組織であった氏姓制度社会を解体し、後に完成される律令国家の中央集権的な官僚支配型の国家組織、その国家組織へつながる支配体制を構築しようとしたわけです。冠位制と十七条憲法は、太子のそうした国家構想を端的に表しているのです。

 「冠位制と十七条憲法」が律令国家への道筋をつくったというわけだ。ではその「冠位制」と「十七条憲法」を検討してみよう。

「冠位十二階」について

 「推古紀」の該当部分(603〈推古11〉年12月5日の記事)は次の通りである。(岩波古典文学大系より)

十二月の戊辰(つちのえたつ)の朔壬申(ついたちみづのえさるのひ)に、始めて冠位を行ふ。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、幷(あわせ)て十二階。並に當れる色の絁(きぬ)を以て縫へり。頂は撮り總べて嚢(ふくろ)の如くにして、縁?緣(もとほり)を着く。唯(ただ)元日(むつきのついたちのひ)には髻花(うず)着す。

 一方「隋書俀国伝」に次の記事がある。(岩波文庫版より)

内官に十二等(注1)あり、一を大德(注2)といい、次は小德、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大禮、次は小禮、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信、員に定数なし。

(中略)

隋に至り、その王は始めて冠を制す。錦綵(きんさい)を以てこれを為(つく)り、金銀を以て花を鏤(ちりば)め飾りとなす。


 「俀国伝」では、あらかじめ「内官十二等」が制定されていて、後に隋に倣って「冠制」を作ったと読める。

 「推古紀」の階位名は「徳仁礼信義智」の順であるのに対して「俀国伝」の方は「徳仁義礼智信」の順である。この違い以外はとてもよく似た記事である。同じ時期に盟主国(俀国)と分流国(ヤマト王権)がかくも似た制度を別個に制定したなんて、とても考えがたい。私には、聖徳太子の冠位十二階は『日本書紀』編者による「俀国伝」からの盗用としか思えない。

 上記の階位名順序の違いについて「俀国伝」の訳者(石原道博)は(注1)(注2)を次のように注釈している。

(1)聖徳太子の制定された冠位十二階であろう。(「推古紀」の記事を引用している。略す。)
(2)このよみかたは末卑騰吉味(マヒトギミ真人公)であった(『翰苑』)。以下その順序も徳仁礼信義智であって、五常の仁義礼智信に正したつもりが、かえって誤っている。

 (2)が素人の私には意味不明。『翰苑』に従って「真人公」という人物が順序を変えてしまった、と言っているのであろうか。『翰苑』は中国史書の類書である。ここでそれを持ち出す意図が分からない。原典である「俀国伝」に従って論ずれば足りる。

 いずれにしても「推古紀」の方が正しく、「俀国伝」の方が間違っていると言いたいのだろう。あるいは「俀国伝」の方が「推古紀」の階位を盗用しているとでも言いたいのだろうか。もしそうだとすると、これは噴飯ものだ。『隋書』の方が『日本書紀』より先に成立しているのも関わらず、平気でこんな無茶な注釈をするとは!!

 すべては「推古紀」の遣唐使は遣隋使の誤りとしたことに端を発する。つまり「俀国伝」はヤマト王権が送った遣使がもたらしたヤマト情報をもとに書かれた、よってヤマト王権の実情と合わない事項はすべて「俀国伝」の方の間違いである、というわけだ。
今日の話題

クイズ「珍らしい名字」


 前回の続きです。

 珍名の中には言葉遊びのようなものがある。「一」を「はじめ」と読むのは割とポピュラーなのではないか。私もこっそり使ったことがある。若い頃身の程知らずにも自分にペンネームをつけようと、身の程知らずのことを思いついて「了 一」(りょう はじめ)というのを考えた。当然のことながら結局は使う機会もなく「はじま」らずに「おわって」しまいました。

 「一」を「にのまえ」というのは言葉遊びが過ぎて、まるでトンチ問答ですね。でもこれは、どうしてそう読むのか、説明を聞かなくとも納得できる。しかし「小鳥遊」が「たかなし」というのにいたってはご本人以外に、読める人は皆無だろうし、その理由を解ける人も皆無だろう。

 さて、「こちら特報部・珍名さんを追いかけて」には高信さんが作成したクイズが掲載されていた。ちょっと遊びましょう。

《1》 トンチ的な珍名問題です。何と読みますか。
①九 ②中 ③隣 ④前 ⑤一口

《2》 次の中でまだ確認されていない名字が一つあります。どれでしょうか。
〈お金編〉
①一円 ②百円 ③十万 ④百万 ⑤億
〈魚介編〉
①鰹(かつお) ②鯨(くじら) ③鯰(なまず) ④海月(くらげ) ⑤秋刀魚(さんま)


〔答〕
《1》(理由はご自分でお考えください。⑤が難しいですね。)
①いちじく ②あたり ③ちかし ④すすめ ⑤いもあらい

《2》〈お金編〉②百円 〈魚介編〉⑤秋刀魚(ということは、あとの全ては名字と使われている! ずいぶんと変わった名字です。)

 ついでにもう一問。手元に『読めない漢字の読本』(小学館)という本がある。この本から、一つ一つは読める字だけども、全体が常識的な読みではなくなっているような超難読問題を選んでみました。トンチ的な名字もあります。

〔問題編〕
 左側(漢字)の正しい読み方を右側から選んでください。(ヒントにもならないヒント:漢字の方は五十音順になっています。)

粟飯原	  ますき
四十物	  しめ・しめかけ
日外	  まるとみ
若木	  きのと
生明	  おむか
十六原	  にっとの
女部田	  かぶき
浮気	  さきさか
雨車	  いさはら
胡	  そが・そがわ・そごう・とかわ
五十殿	  ちぎら
正親	  しめだ
大社	  のぞき
麻績	  こが
相川	  しぶいち
甲地	  あいもの
冠木	  おおこそ
乙	  なるか
木全	  うえだ
条原	  すねや
古閑	  みぞろ
雑賀	  ぬかりや
道祖土	  あぐい
勾坂	  たちもり
四分一	  すのはら
七五三	  やまなし
卜田	  たちごもり
末包	  きまた
強谷	  すえかね
春原	  くだはら
十河	  はなぶさ
財部	  おおぎみ
朔晦	  ぶすじま
日月	  うき
父母	  はぜもと
千金楽	  たらち
廿酒	  つつうら
街風	  あさみ
百々	  かっち
百目鬼	  どうど
長廻	  どうめき
奈流芳	  かいかわ
入戸野	  はぜのき
忽滑谷	  あいはら
及位	  えびす
穂木	  あさぎ
炉本	  つむじ
栄	  たからべ
毒島	  ふたまた
貳又	  さいど・さえど
一寸木	  むらやまし
丸宝	  ながさこ
御菩薩池  さいか・さいが
郡山	  うるま
月見里	  おみ



〔解答編〕
粟飯原  あいはら
四十物  あいもの
日外   あぐい
若木   あさぎ
生明   あさみ
十六原  いさはら
女部田  うえだ
浮気   うき
雨車   うるま
胡    えびす
五十殿  おむか
正親   おおぎみ
大社   おおこそ
麻績   おみ
相川   かいかわ
甲地   かっち
冠木   かぶき
乙    きのと
木全   きまた
条原   くだはら
古閑   こが
雑賀   さいか・さいが
道祖土  さいど・さえど
勾坂   さきさか
四分一  しぶいち
七五三  しめ・しめかけ
卜田   しめだ
末包   すえかね
強谷   すねや
春原   すのはら
十河   そが・そがわ・そごう・とかわ
財部   たからべ
朔晦   たちごもり
日月   たちもり
父母   たらち
千金楽  ちぎら
甘酒   つつうら
街風   つむじ
百々   どうど
百目鬼  どうめき
長廻   ながさこ
奈流芳  なるか
入戸野  にっとの
忽滑谷  ぬかりや
及位   のぞき
穂木   はぜのき
炉本   はぜもと
栄    はなぶさ
毒島   ぶすじま
貳又   ふたまた
一寸木  ますき
丸宝   まるとみ
御菩薩池 みぞろげ
郡山   むらやまし
月見里  やまなし

今日の話題

「珍らしい名字」のお話


 約4年前、30数年間購読していた朝日新聞をやめて、東京新聞に代えた。朝日新聞の劣化にあきれ、いま最もジャーナリズム精神を発揮している新聞は東京新聞と判断したからでした。( 「今日の話題:朝日新聞の欺瞞」 を参照してください。)

 かつて朝日新聞のスター記者として活躍した本多勝一さんが『週間金曜日(2月5日号)』の連載記事「貧困なる精神」で『「朝日」「東京」のどちらを止めるか』という問題を取り上げている。結論として本多さんも東京新聞に軍配をあげている。曰く、
『かっての「朝日」は個性的記事によって他紙と区別されたけれど、今は横ならびの一紙になり、関東で見るかぎりかっての"芸能新聞"「東京」にとって代わられたようですね』

 東京新聞の数ある個性的記事(署名記事)の中で最も注目されているのは「こちら特報部」でしょう。他紙がタブー視して絶対取り上げようとしない問題も記事にしている。政治・経済・社会問題だけでなく、時にはホッとするような楽しい話題もある。私のホームページの話題として、これまでに「こちら特報部」を数度利用させてもらっている。

 今日の「こちら特報部」は「珍名さんを追いかけて」という楽しい話題。とても面白いので紹介したくなった。

 話題の主は「苗字研究家」の高信幸男さん。「16歳のころ、家にあった地域の電話帳に、何種類の名字があるか数えてみた」のが、高信さんが珍名研究にのめり込んでいくきっかけだという。その後、各地の電話帳を調べたり、協力者の紹介や情報を頼りに珍名さんを集めてきた。それを基に本を2冊出版している。

「難読稀姓辞典」
 29460個の名字(読み方は40205通り)を収録している。
「名字歳時記」
 季節にちなんだ名字を集めている。

 高信さんは言う。
「これまで電話帳で確認しただけでも13万種類もの名字がある。日本国中にどれだけあるか、一生かかっても調べられないでしょう」

 また高信さんは珍名さんにお会いして直接の聞き取り調査もしている。その理由を次のように説明している。
「名字の珍しさはもとより名字にまつわる逸話、つまり人生に興味があるからだ」

 ところで何を称して「珍名」と呼ぶのか。高信さんの基準は次のようです。


 一般的に難読と思われる

 地域によって読み方が違う

 難読ではないが数が少ない、または名字としては珍しい
 ―のいずれかに該当すること。

 高信(たかのぶ)さんご自身の名字も③に当たるのではないでしょうか。名前が「高信」と言う方には出会ったことがあるが、名字が「高信」さんには私は初めて出会った。この記事を書いた記者は篠ケ瀬祐司さん。この名字「篠ケ瀬」は①に該当するでしょうか。「ささがせ」と読むようです。

 それでは記事の本文中に出てくる珍名とそれにまつわる記事を抜粋していきます。

☆「黒葛原」は何と読みますか。

 今月5日夜、高信さんは東京都国立市内のライブハウスで、シンガー・ソングライターの黒葛原(つづらはら)りつさんと再会した。

 高信さんは2008年に一度、同じライブハウスで黒葛原さんのコンサートを見た。その時はあいさつ程度だったため、この夜、あらためて出身地や名字の由来などについて、聞き取り調査を行った。

 高信さんの真骨頂は、このフットワークの良さだ。最初に黒葛原さんと会った時も、偶然見かけたポスターを見て、「これは珍しい」とライブハウスに飛び込んだのだ。

☆「一」は何と読みますか。

 翌6日は水戸市のそば店「にのまえ」を訪問。「一」と書いて「にのまえ」(二の前)と読む名字があると聞いていたので、「もしかすると経営者が一(にのまえ)さんではないか」と調査してみた。

 すると、経営者は「真家(まいえ)」さんだったが、名前が「一(はじめ)」。真家さんも「一」と書いて「にのまえ」と読む名字を知っており、屋号にしたという。

☆「嵐」「百足」「霊」「攝待」「銭袋」はそれぞれ何と読みますか。

 コンビニエンスストアで出会った女性アルバイトの「嵐(あらし)」さん。文字が持つ語感は荒々しい。人気のイケメン歌手のグループ名でもある。戸惑いはないかとたずねると、嵐さんは「確かに男性だったら格好いいかも。彼氏も『結婚したら嵐を名乗る』と言っています」と答えたという。

 苦労を伴いそうな名字の持ち主は、一様にたくましかった。

 茨城県ひたちなか市の「百足(むかで)」さん。姿が気味悪く、かまれると痛い虫と同じ名別はさぞ嫌だろうと思ったが、百足さんは「足が百本だから速く走ることができる。おかげで会社で出世できました」と淡々としたものだった。

 奈良県内には「霊(みたま)」さんがいた。「僧侶なのでぴったりの名字です。ただ、病院などにお見舞いを持っていくときは、草書でさっと書きますけどね」と笑っていたという。

 逆に思わずうらやんでしまう名字もある。岩手県宮古市の「攝待(せったい)旅館」は攝待(接待)さんが経営していた。「サービスがいいと思って予約したというお客さまが多い。名に恥じぬようサ一ビスを心掛けている」とはあるじの話だ。

 同県普代村の「銭袋(ぜにぶくろ)」さんは、飲み会などで、いつも会計を任されているという。それはそうだろう。名前も「金也(きんや)」なのだから。

 これまでに高信さんが実際に会った珍名さんは千人を超える。
「皆、自分の名字に誇りを持っている。子供の時は嫌だなと思っていても、『すぐに覚えてもらえるから得をしている』などと前向きにとらえている人ばかりだった」
と振り返る。
「それが楽しい。こちらもうれしくなり、元気をもらえる気がするんです」

☆「小鳥遊」「台」「土師」「垂髪」「四月朔日」はどうでしょうか。

 高信さんは電話帳で珍名を見つけてはその方を訪ねていきます。

 最初にたずねたのは、和歌山県那智勝浦町のたかなし「小鳥遊(たかなし)」さん。もとは「高梨」だったが、先祖が明治初期に名前を登録する際、高梨ではつまらないからと「タカが無しなら小鳥が遊べる」と「小鳥遊」で届けたとのことだった。

 豊かな自然に囲まれ、今でもタカの多い集落だった。「なんと柔軟な発想か。名字は土地の風土や文化に根差していることも痛感した」と、高信さんはますます名字研究にのめり込んでいった。

 名字の中に、今は使われなくなった古い言葉や風習が残されていることにも気付いた。    「台(うてな)」(高楼、高殿)

  「土師(はじ)」(土器、はにわの制作者)

「垂髪(うない)」(子供の髪形)

「四月朔日(わたぬき)」は、四月朔日(一日)ごろには、着物から綿を抜いたことに由来しているようだ。

 「名字は大切な日本の文化だ」と高信さんは考えている。

 記事は最後に高信さんの連絡先を掲載している。たぶん「珍名さん」の情報を期待しておいでなのだろう。もしかすると、このホームページを訪れた方に珍名をお持ちの方、あるいはその情報をお持ちの方がおいでかも知れない。お節介ですが転載しておきます。

高信幸男さん
 〒234-0055
 横浜市港南区日野南3の7の3-203
 電話・ファクス 045(832)1679
 メールアドレス takanobu.31@docomo.ne.jp
今日の話題

反「日の丸・君が代の強制」闘争の現在


 「都教委包囲首都圏ネットワーク」・「千葉高教組」・「新芽ML」の渡部さんからのメールを2通転載します。

 1通目は去る1月28日、東京高裁での「君が代不起立」嘱託不採用裁判の判決についてです。この判決についてのマスコミ報道はまったく内容のないおざなりなものだった。渡部さんのメールはこの判決の要点を簡潔に整理していいます。

 この判決の論理もまた、 『「君が代解雇裁判」オソマツ判決の詭弁(2)』 『「君が代解雇裁判」オソマツ判決の詭弁(1)』 で分析したと同じく、詭弁だけで成り立っているオソマツなものです。銀行型教育の秀才たちは臆面もなく詭弁を弄する。今回のオソマツ判決文を書いた裁判長は稲田龍樹。よく覚えておこう。

 都教委の「裁量権乱用」とした一審判決を覆し、全面的に都教委の主張を認めるという不当判決でした。

 「判決要旨」では次のようなことが述べられています。

【職務命令は・・・憲法19条に違反するか】
・「憲法19条は、人の内心における精神活動が外部に現れる行為を保障するものではない・・・・」
・「本件職務命令は、直接的に一審原告らの歴史観ないし世界観又は信条を否定する行為を命じるものではなく、憲法19条に違反するものではない」
・「不起立行為をすることが、一般的に一審原告らの内心の自由の本質又は核心と不可分に結びつくものであると認めることはできない」

【都教委が各校長に行った指導は、「不当な支配」に該当するか】
・「本件通達を発出する必要性の存在したこと、本件職務命令が内心の自由を侵すものではないこと、その他の諸点にかんがみると、本件通達が合理性を欠くとはいえないから、・・・・『不当な支配』に該当するとはいえない。」

【職務命令について】
・「大学教育とは異なり、普通教育においては、教師に完全な教授の自由を認めることはできないと解される。」
・「教職員に対して、国歌斉唱時に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することを求めることは、生徒に対して特定の思想のみを教えることを強制する性質のものではない」
・「教授の自由ないし教職員としての専門職上の自由を侵害するものでもない」

【嘱託不合格について】
・「再雇用に係る要綱に定める要件を欠くとして・・不合格としたものであり、・・特定の思想、良心を持っていることを理由として不合格としたものではないから、・・・19条に違反するものではない」

【裁量権の逸脱、濫用について】
・「再雇用に係る要綱に定める成績要件についての評価及び判断に係る裁量権は、かなりの程度に広いので、その不採用が不法行為を構成するのは、例外的である。」
・「本件不合格が、裁量権の著しい濫用ないし逸脱に当たるとはいえない。」

報告集会で弁護士さん方は次々に次のような感想を述べていました。

「何のための裁判所、何のための裁判官か」
「行政ついづいの判決だ」
「司法を否定するような判決だ」
「先に結論ありきの判決だ」
「裁判所の名に値しない」
「人の痛みが分からない裁判官だ」
「思い上がった裁判所だ」
「東京高裁はひどいところだ」

 司法の反動化ここに極まれり、と言わざるを得ません。

しかし、全国の皆さん!
こうした反動的な裁判状況にもかかわらず、東京では、この2月初めに、また新たな裁判を起す被処分者がいるのです。「2・6総決起集会」ではその方も発言します。

「強制・弾圧は闘いを生み、広げる!」

 2通目は「2・6総決起集会」の報告です。現在の政治状況についての分析や、都教委の新たな愚策も報告されています。

 本日(2月6日)、東京では様々な集会がかち合う中、「2・6総決起集会」(第六回)が開かれ、220人が参加しました。

 集会ではまず、主任教諭制度が導入された東京都の学校現場の様子が小学校、養護学校、高校のそれぞれの現場から報告されました。

 中でも、興味深かったのは、高校で各人に、コンピューター(1台)と覚えにくいパスワード(2つ)が配布され、その管理がすごくうるさく、置き方まで指定され、戦中鉄砲などが兵隊に渡された時と同じ状態になりつつと報告されたことです。しかも成績は都が集中管理、電子黒板なるものも導入され、そのための強制的研修なども行われています。(コンピューター会社に儲けさせるため?)

次ぎに斉藤貴男さんの講演。
 斉藤さんは、「政権交代」は起きたが、民主党は自民党がやっていた「新自由主義」路線を批判したわけではなく、「仕分け人」の顔ぶれを見ても小泉・竹中の「新自由主義」路線の人たちが多く参加していることを紹介しました。

 また、教育面でも彼らが出した「日本教育基本法」は自民党よりも露骨に「愛国心」を謳っていること、新しい教員免制度は法科大学院同様、大学院までいける金持ちしか教員になれなくなること、などを強調しました。

 また、「新自由主義」改革である「公設民営化」のアメリカの実態を紹介し、コカコーラ社が支援する学校では「全校コークの日」と言うものが儲けられており、その日に「ペプシ」のTシャツを着てきた生徒は停学になったことなどを紹介しました。

 石原東京都知事の批判では、オリンピック招致での「既存施設の利用」は、実はそこに全く新しい施設を作ることだったりした事実を明らかにしました。

そして「10・23通達」以降東京の教育は最悪の状態になっていること、しかし、マスコミも学者もはっきりしたことを言えず、現場の教職員の反対・抵抗が大きな役割を果たしていることを強調、卒・入学式での抵抗を呼びかけました。

次ぎに裁判闘争原告から3人が発言。
 とくに最高裁でまもなく判決が出される予定の藤田さんは、司法が腐っていることを自分の経験を紹介しながら暴露しました。

次ぎに不起立を続ける被処分者の発言。(近藤順一・根津公子・河原井純子さん)
 その中で近藤さんは、
「現場から教員が行動を起さない限り事態は動かない、そして税金で雇われている教員は行動について説明責任がある。教員は変革の原動力になりうる」
と述べました。

次ぎに全国から、
①東京杉並区の和田中「夜スペ」裁判、
②千葉高教組の日教組全国教研レポート却下問題、
③大阪門真三中の「君が代」処分撤回裁判、
④福岡の「君が代」不起立宣言の闘い、
などが紹介されました。

②の報告には次のような部分がありました。
「少なくとも、毎年の卒・入学式の度に、生徒に『日の丸・君が代』が刷り込まれていくのを、何もしないで座視しててよいとは日教組組合員の誰もが言わないだろう。・・・『日の丸・君が代』問題から逃げてはいけない。・・・『日・君』強制反対の闘いを担う中心は教職員以外にはあり得ない。・・・私たちが諦めたり座視し続ければ、刷り込みは完成し、『思想・良心の自由』は完全に空文化する。」

③の報告では、
「東京のような学校現場にならないために闘っている」
という発言がありました。

④の報告では、卒業式に向け、「不起立宣言」をして闘っていることが報告されました。

最後に、
・「2・6総決起集会決議」、
・「民主党による新たな教員免許法案に反対する2・6集会アピール」、
を採択し、集会を終えました。

 私たちはこの集会の成功を受けて、卒・入学式に向け、「日・君」強制反対の態勢を作っていきます。
全国の皆さん!ともに闘いましょう!!

今日の話題
新聞の記事から3題(1)

「民主党政権批判」三面鏡(2)


(2)反民意


 東京新聞夕刊(2月1日)のコラム「放射線」から、丹羽宇一郎氏(伊藤忠商事会長)の「〝成権″政治の危うさ」と題した論評を論評する。

 国会論戦が激しい。そこで鳩山由紀夫首相や、民主党議員たちが発する言葉を聞いて違和感を感じるのは私だけではあるまい。一月半ばの世論調査では、鳩山内閣の支持率41.5%で、44.1%の不支持率が初めて上回った。それなのに民主が国民からの白紙委任を取り付けたかのような発言を目にする場面が続いているからかもしれない。

 時計の針を昨年夏の衆院選に戻してみよう。8月30日、歴史的な政権交代があり、各メディアは永田町、民主党本部のすさまじい熱気を興奮気味に伝えた。全国300の小選挙区のうち、民主の獲得議席は221議席で圧勝。一方、野党に転落した自民党は54議席だった。

 だが、あえて両党の得票数を示すデータにこだわりたい。小選挙区で民主が得た票は3300万票で投票総数の47%。一方の自民は2700万票で39%。その差はわずか8ポイント、600万票でしかない。

 自民に票を投じた人も国民だ。にもかかわらず、鳩山政権や党幹部らが自民支持者がゼロであるかのような発言で全部を否定するのは、民意の反映と言えるのだろうか。

 将棋の駒をひっくり返すように、成金ならぬ〝成権″を手中にした民主。突然金持ちになったような成金感覚をぬぐい去って、与党としての謙虚さを取り戻さねばならない。さもなくば「信なくして国立たず」の赤信号の点滅はさらに激しくなるだろう。

 いま国会では、自民党が「政治と金」の問題で盛んに民主党政権を責め立てている。しかしそれを聞いていると、その議論が「正論」であればあるほど、私はしらけた気分になる。いままでさんざん金まみれの政治をやって来た者が、それについての真摯な総括をすることもなく、同じ穴の狢を責め立てている。片腹痛い所行と言いたい。

 丹羽氏の論評は「正論」であろう。だがその「正論」がそのダブルスタンダードの上に立てられているので、ここでも私の片腹は痛くなる。氏自身が自公政権時代にその政権の独善的強権的政治手法を批判したことがあるのかどうか知るよしもないが、氏が自公政権の悪政を強力に補佐あるいは主導した内閣府経済財政諮問会議の議員であったことは知っている。氏個人とは言うまい。悪法の強行採決を繰り返して独裁的な国会運営を強行してきた自公政権に、財界が一度でも「謙虚さ」をお説教したことがあるだろうか。

 氏の文章の主客を入れ替えることによって、その論評がダブルスタンダードに立脚していることが露呈する。
「自民・公明以外に票を投じた人も国民だ。にもかかわらず、自公政権や党幹部らが非自民支持者がゼロであるかのような強行採決で全部を否定してきたのは、民意の反映と言えるのだろうか。」

 また、今回の総選挙で、獲得議席数と得票数とが著しく齟齬している点の指摘は重要だ。しかし、それは小選挙区制への批判へと向かわなければ意味をなさない。小選挙制そのものが民意を正しく反映しない悪法なのだ。

(3)小沢の強権


 東京新聞夕刊(2月4日)のコラム「放射線」の執筆者は武村正義氏(元新党さきがけ代表)だった。「どうした民主党!」と題した論評を寄せている。

 「せっかく政権が代わったのに…」という思いで政治をみている人は多い。しかしここのところ、がっかりすることが増えてきた。「民主党よ、おまえもか」と支持者を落胆させている。

 二つの理由を挙げたい。

 一つは「張り切りすぎ」ではないか。民主党にとっては政権の座に就くことが十年来の悲願だっただけに、意気軒昂なのは分かるが、新入りにしてはちょっと格好を付けすぎていないか。「脱官僚」も「政治主導」も、コトバと形ばかりが先行している。国民は、民主党の皆さんが胸を張られるほど、皆さんの能力にまだ全幅の信頼を置いていないし、リーダーとしての人間的魅力も感じていない。まずは初々しさを失うな、謙虚さを忘れるなと言いたい。ましてや傲慢な印象だけは困る。

 もう一つは「明るさがない」ことだ。皆が何かを怖がっているのか、組織全体が縮こまっている。草創期の民主党には、自民党にはないフレッシュさや自由闊達さがあった。人材はベテランも若手も多いはずなのに生かされているように思えない。新人議員は、「一年生」として囲ってしまわないで、国会や党で伸び伸びと発言できるように解放せよ。政策の勉強会も質問も、他党との交流も自由に許してこそ、素養のある人材は大きく育っていくと思う。

 自由な議論のない政党には魅力を感じない。バラバラな意見の開陳から民主主義は始まる。もっとおおらかになってほしい。

 丹羽氏の論評との著しい違いは「民主党よ、おまえもか」という文言がはっきりと示している。つまり自公政権の体たらくをも視野に入れて論評している。

 批判は2点とも正鵠を射ていると思う。2点目の批判の矛先は小沢一郎幹事長の独裁者ぶりに向けられている。新人議員たちを抑圧するな、自由に行動・議論させろと警告している。私は諸手を挙げて拍手をしたい。

「自由な議論のない政党には魅力を感じない。バラバラな意見の開陳から民主主義は始まる。もっとおおらかになってほしい。」

 まさにその通りである。これは民主主義の鉄則である。つまり「政党」以外のあらゆる組織に当てはまる。私は「政党」を「学校」に置き換えて読んでいた。石原慎太郎とその提灯持ちたちよ、武村氏の爪の垢でも煎じて飲め。

(4)二重権力


 梅原猛氏が東京新聞夕刊に月に1度(だったかな?)「思うままに」という題で日記風の評論を連載をしている。2月1日の題材は「二頭政治の善悪」で「行動力ある首相望む」という副題が付されている。

 鳩山政権には頭が二つあるといわれる。一つはもちろん首相の鳩山由紀夫という表の頭であるが、もう一つは民主党幹事長の小沢一郎という裏の頭である。この裏の頭は表の頭よりはるかに強い権力をもち、表の頭は何ごとも裏の頭の意向に従って決定しているとさえいわれる。

 日本国憲法下の二頭政治は異例であるが、日本で二頭政治が甚だ成果を挙げた例がある。それは、表の頭に元明及び元正天皇をいただき、裏の頭の藤原不比等が政治を執った奈良時代初期のことである。

 ここでひとしきり、九州王朝から近畿王朝への政権移行期から近畿王朝確立期にかけての実質的第一権力者として活躍した藤原藤原不比等の役回りに蘊蓄を傾けている。実はこれをきっかけに「真・古代史」の続きを書こうと思っている。梅原さんのこの部分の文章はその時の枕に使うとことにして、いまは省略して先に進む。

 これは二頭政治が成功した例であるが、それが成功したのは、元明天皇と藤原不比等が一心同体になって統治を行ったからである。

 翻って現政権の二頭政治をみると、小沢氏には表の頭を真に尊敬し仕えるという不比等のような謙虚さはなく、鳩山氏にも元明、元正帝のようなカリスマ性が欠如し、政治を思いきって裏の頭に任せるという覚悟も乏しいようである。したがって今、日本を統治しているのはそれぞれ独立した二つの頭と四本の手足をもつ怪物ということになる。鳩山首相は「宇宙人」といわれているらしいが、日本は宇宙人というより奇怪きわまる化け物の支配の下にあるといわねばならない。

 このような化け物が支配する日本がよい国になるとは思われない。一刻も早く、正しい道徳的感性とともに、現在の世界の情勢において日本はどうあるべきかについての哲学に裏付けられた政治目標をもち、それを実現する行動力を備えたまともな首相が政治を執る国になってほしいと願うものである。

 私が知る限りでは、梅原氏は不偏不党の立場に立つ人だと思う。たぶん自公政権に対しても非は非として批判をしていただろうと推測している。しかしこの批判には首を傾げざるを得ない。

 民主党の新人議員たちが小沢一郎の威力の前で萎縮しているという情報によく接する。一年生議員の活動を制限したり、国会での質問を禁じたりしたという報道があったが、それが本当なら萎縮もするだろう。竹村氏の指摘の通り、その独裁者的な振る舞いは大いに批判されるべきだ。しかし民主党が二重権力組織であるという俗受けする論評は浅薄すぎる見方だと、私は思う。

 そもそも、民主党に対する「二重権力」批判は昨年3月の西松献金問題に端を発する。その折、小沢代表は代表辞任に追い込まれたが、鳩山新代表が小沢を代表代行に任命した。これをとらえて「二重権力」批判を大合唱したのは当時の与党とマスコミであった。

 そして今回の民主党政権では鳩山首相が小沢幹事長の言いなりになっていると、今度は野党とマスコミが大合唱を始めた。

 私には政府と与党が当面する問題について意見を交わしたり合議をするのは当たり前だと思える。政府の首長である鳩山氏と党のまとめ役である小沢氏とが直接意見を交換することもあるだろう。その結果、小沢氏の意向が通ることもあるだろう。その際に、小沢氏が権力的に恫喝でもして鳩山氏を屈服させたのなら「二重権力」という批判が成り立つが、そのような事実が本当にあるのか。マスコミの報道だけでは、私はにわかには信じない。批判は事実に基づいて行われなければならない。

 梅原氏は、あたかも周知の事実でのあるかのように、検証抜きで端から「二頭政治」と断じている。小沢氏に「謙虚さ」がなく、鳩山氏には「カリスマ性」が欠如しているという人物評は、その通りかも知れない。しかし、二人がそっぽを向き合ってそれぞれ勝手な政治をしているように印象づける「それぞれ独立した二つの頭と四本の手足をもつ怪物」というおどろおどろしい批判は見当外れではないか。

 この伝で言えば、派閥の親分と実力者と呼ばれる長老の意向で首相をたらい回しにしていた前政権は、一体いくつの頭といくつの足をもった怪物と言えばよいだろうか。
今日の話題
新聞の記事から3題(1)

「民主党政権批判」三面鏡(1)


 前回、「心に留まった文章が3編」と書いた。残りの2編はいずれも民主党政権への批判文である。ところで、今日の朝刊でまた一つ民主党政権批判の文章に出会った。これら併せて3編の論評を紹介して、それぞれに感想を付したいと考えているが、その前に私の立ち位置をはっきりさせておこう。

 私のホームページを続けて読んでくださっている方には改めて言う必要もないことながら、私はかって一度もあらゆる選挙でいわゆる保守政党に投票したことはない。それが昨年の総選挙の選挙区では民主党の候補に投票した。長年の自公政権の悪政に心底から怒っていた。民主党候補の対立候補である公明党候補を落としたい一心での行動であった。

 だから初めから民主党に多くを期待していた訳ではない。ただ自公政権よりはましなのではないかという期待はあった。いまマスコミからは「民主党には裏切られた」という声ばかりが届いてくるが、民主党政権がもたもたしている問題の多くは自公政権が残していた負の遺産である。私はまだ全否定はしたくない。私にはまだ期待したいことが二つある。

 一つは、雇用問題・社会福祉問題など個々の具体的な政策以前に、その政策実現の基盤となる「財源=税制」問題だ。未だにあちこちで消費税増税の声が絶えないが、自公政権が残していた悪政の一つ「大企業・資本家・資産家」優遇の改悪税制を再び改正すれば消費税は無用になるはずなのだ。「担税力に応じた税制」という正道を実施した上でなお消費税を必要とするならば、私(国民)は喜んでそれを受け入れるだろう。

『「財源=税」問題を考える』を参照してください。)

 『週間金曜日784号(1月29日発行9)』が「民主党政権の増税論」という特集をしている。
「庶民・小企業増税/資産家・大企業減税」(浦野広明)
と、さらなる改悪をもくろむ動きを危惧する記事がある一方
「消費税たのみではなく、税収調達能力の回復を」
という記事がある。

 後者は、民主党政権下の新しい「政府税制調査会」のシンクタンク機能を務める「政府税調専門委員会」の座長になった神野直彦氏へのインタビュー記事である。その中で
「神野さんはこれまでも政府税調に参加されていましたが、旧政権における税調との違いはありますか。」
という質問に答えて、神野氏は次のように述べている。

 もし、かつての政権だったならば、財界などの影響が強く、租税特別措置にも手をつけることはなかったでしょう。また、扶養控除の廃止など思い切ってやっている点も評価できます。扶養控除の廃止だけを取り上げて、増税だ、悪代官だ、と思われるかもしれませんが、全体の財政構造から見ることが必要です。ジグソーパズルの小片だけを見て、そこだけを変えていくようなことはもうやめましょう。

 問題は政府という共同事業体で何をやって、そのための共同負担をどうするのかということを私たちは考えないといけないでしょう。

 当面の課題は税収を上げる力を増やすということです。1990年代以降、税収調達能力が著しく小さくなってしまいましたが、その能力を回復させるのです。

 その一例が、租税特別措置の見直し、所得税の控除の見直しです。これらは景気回復したときに自然増収が出るように課税ベースを広げておこうという政策です。

 90年代の日本は、資本所得に対する租税負担を軽くすれば、日本に資本が流入し経済は成長する、と信じて法人税を引き下げ、所得税の累進税率の最高税率を引き下げてきた。その代わりに消費税に重点を置いていたのです。

 しかし、消費税の問題は、経済成長をした場合に自然増収がないことです。いくら経済成長をして所得が増えても、消費には、貯蓄に回る割合が増えて所得よりも少ない分しか回りません。しかも、税収を増やそうとすると、税率を上げるしかないのです。

 一方で、所得税の累進税率の場合は、国民所得が一伸びれば、税率が高い上のブラケット(所得階層)に入るために税収は一・五倍などに伸びる、という自然増収が働きます。

 不況のうちに、自然増収ができる構造を作っておけば、景気がよくなったら自然増収につながります。一方、不況が悪化すれば自動的に減税になり、利益が上がっていた企業の税金も軽減される。所得税も累進税率のブラケットが下がりますから、減税になるわけです。

 実は1990年の一人当たりの国民所得と2000年のそれはまったく同じです。日本は失われた10年を経て、2000年の時にはバブル時の一人当たり国民所得に追いついたのですが、所得税は16兆円減り、法人税は10兆円近く減ってしまっていました。これは税収調達能力が著しく小さくなっている例です。

 にもかかわらず、今後10年で2兆円増やさなければならない。だからこそ消費税を上げるしかないというのがこれまでの風潮ですが、このように所得税に見直す余地が多いのです。

 ただ見直すと言っても、単に最高税率を引き上げるという形式面ではなくて、課税ベースと税率を組み合わせる。または控除を考慮して、実質的に累進性を高める方法もあります。

 もともと日本は欧州のように所得税に限界が生じたので消費税を上げたわけではありません。ですから消費税ではなく、所得税こそ見直さなければならないのです。まずは所得税を見直して、税収の調達能力を回復させる必要がある。これが、今後、必要なビジョン的改革につながっていくのです。

 現在の日本のような構造転換期はチャンスなのです。これから必要とされるビジョン的改革は、「所得税と付加価値税を車の両輪とするような、基幹税(キータックス)とする租税構造を構築していく必要がある」と考えています。

 この神野氏の現状認識と改革ビジョンは、私(たち)が(『「財源=税」問題を考える』から得た認識とほぼ同じだと思う。実際にどのような税制改革が打ち出されるか予断を許さないが、注視していこうと思う。

 もう一つ期待していることは普天間基地返還問題である。これも自公政権が残していった大きな負の遺産の一つである。この問題は多くの人が言うように、アメリカの要求通りに追従してきた隷属外交から脱却するための試金石である。

 この問題に限らず、民主党政権は閣内不一致が多いとか、ぶれにぶれまくっているとの批判の声が大きい。しかし、ことこの普天間基地返還問題については、意図的であるか否かは知らないが、決着を先延ばしにしてきたこれまでのぶれぶりが大いに功を奏している。しかしこれからはアメリカと真っ正面から向き合い、真っ当な外交交渉を通して、対等な国家間関係を築く基とすべきだろう。

 これもたいへん難しい問題だが、自公政権ではとうてい望めなかった成果を上げることを、私は期待している。

 ところで、次の一文をどう読みますか。

『左翼の連中がいまつくろうとしているいわゆる「民主党」というのは、かての社会主義の最悪の部分を受け継ぎ一方で、新自由主義の最悪の部分をも取り込んでいるのです。』(アントニオ・ネグリ著〈廣瀬純訳〉『未来派左翼―グローバル民主主義の可能性をさぐる』より)

 ネグリはもちろん日本の民主党を語っている訳ではない。これはイタリアの民主党結成時のネグリの評言である。しかし最初の「左翼の連中がいまつくろうとしているいわゆる」を削除して読むと、なんと日本の民主党への評言としてぴったりである。

 日本の民主党は左翼がつくった訳ではもちろんない。中心となったのは小沢一郎氏で、むしろ小沢一郎氏がつくったといっても過言ではないだろう。しかしその内実はネグリの評言が当てはまってしまうような問題を抱えている。これはいわば民主党の宿痾のようなものである。多くの人が指摘している民主党のさまざまな「危うさ」はこの宿痾のよってきたる結果ではないだろうか。この宿痾をどう解決するかも、これから注視していきたい問題である。

 前置きが思いかけず長くなってしまった。3編の民主党政権批判の紹介に入ろう。(次回につづく)
今日の話題
新聞の記事から3題(1)

「迎合の奴隷根性」を育てるもの


 昨日の東京新聞夕に、久しぶりに心に留まった文章が3編あった。まずは、大いに共感にした文章から。

(1)

 評論家・脇地炯(わきじ けい)氏。私には未知の方でした。『ソ連弾劾と『信仰』者批判  内村剛介氏の思い出』と題する評論文です。昨日のブログ記事のおしまいのところで、支配階級がもくろむ「教育」のことにふれました。そのことと重ねて脇地氏の論文を読んだのでした。

 「著名な人権活動家、サハロフ博士がソ連軍のアフガニスタン侵攻を批判して流刑された1980年1月」、当時新聞記者だった脇地氏は内村剛介氏に初めて原稿を依頼した。承諾をうけ、無事記事になるまでのエピソードを語った上で、その時の内村氏の論文「トレランスの袋小路」の紹介をしている。

 改めて読み返してみると、この中で氏は
「全体主義は情報の国家独占を意味し、この独占は迎合の奴隷根性を育て、不信の画一主義が全社会をおおう。かくてモラルの堕落はとめどがない」
と訴えた。

 (サハロフ)博士の「世界へのアピール」を紹介し、言論上の寛容(トレランス)を一切認めないソ連権力と闘ってきたことを称賛している。博士は前世紀末にドストエフスキーが予見し、いまや現実と化したニヒリズムという「文明の敵」のまっただ中にいるのだ。けれど、民主的寛容をむねとしてきた日本人は、彼を救おうにも、こうした非寛容のシステムにどう対してよいか分からない。それは別の意味の非寛容がわが国にあって、私達を金縛りにしているからではないか、と氏は指摘する。そういう内容である。

(中略)

 日本にも非寛容があるのではないかという言い方で氏は、「信仰」によって他の意見を排除している知識人の「奴隷根性」を批判したのだ。この工夫は当時、必ずしもマスコミには容れられなかった氏が苦労して体得したものだろう。


 日本人が「民主的寛容をむねとしてきた」かどうかは議論の余地があると思うが、「非寛容がわが国にあって、私達を金縛りにし」「迎合の奴隷根性」が蔓延してきているのは確かだ。そうした事態がじわじわとそこここに露出してきている。もちろんその事態が及んでいるのは知識人に限らない。

 「日の丸・君が代の強制」と闘っている「被処分者の会」の尾山宏弁護団長は、東京都の教育行政の根底に巣くう「非寛容」なイデオロギーを批判し、強い懸念を表している。内村氏が「信仰」という言葉で言い表していることは、私が使ってきた言葉で言えば、虚偽意識(イデオロギー)と同じであろう。その「信仰」ともいうべき「非寛容」イデオロギーの行き着く先にあるのが、例えばあの醜悪な「在特会」である。まさに「ラーゲリ」のイデオロギーと軌を一にしている。

 剛直な氏の姿勢はソ連崩壊後も変わらなかった。93年8月に新聞掲載の「『報い』とロシア知識人」の中で氏は、文学者リハチョフが自身のラーゲリ体験について「雨に遭い、体を濡らしたようなことだ」と述べたことを嘆じ、「社会主義国家が冒した地球大の犯罪」を「自然現象」のように容認してしまうとは何事か、と強く批判している(『わが身を吹き抜けたロシア革命』五月書房=所収)。

 この文章は、ラーゲリ体制と情報独占のシステムが残したニヒルな倫理的退廃を憂え たものだ。と同時に、崩壊を目の当たりにして、これも「自然現象」だとばかりに、無反省なまま「信仰」を捨て、「信仰」の責任逃れを始めたわが国知識人への異議申し立てでもあった。

 「雨に遭い、体を濡らしたようなことだ」と、「日の丸・君が代」を強制されるたびにじっと面従腹背を続ける生徒や教師たちが、もしかすると陥るかも知れない「ニヒルな倫理的退廃」を、私は憂えている。「ニヒルな倫理的退廃」とあらがう過程で、精神的な疾患に陥る人や退職せざるを得なくなる教師が増えている。自ら命を絶つ人もいる。次の紹介する文章(野田正彰著『なぜ怒らないのか』より)はもう6年ほど前のものだけど、いま学校はますますおかしくなっている。

辞めていく熟練教師たち

 教育の荒廃はすさまじい勢いで進んでいる。今週末の参議院選挙の焦点の一つは教育基本法であり、教育基本法と直接結びつく憲法改正問題だが、あいかわらず集票戦術の陰に隠されてしまっている。

 いかに学校が病んでいるのか、1998年より教師への抑圧を続け、自殺者を出し続けている広島県の最近の数字を見てみよう。たとえば定年前の退職者が急増している。広島市を除く小中学校教諭の早期退職者は、98年度は70人だったのに2002年度は119人になり、03年度には189人に激増している。この年の教諭の全退職者は213人なので、早期退職者が89%を占める。他方、校長の全退職者(同年)は91人であり、早期退職者は25%、定年退職者は75%である。学校の先生は安定した職業であり、ほとんどの人は定年まで勤めたいと思っている。にもかかわらず、多くの先生が無念の思いで辞めている。

 早期退職の理由を尋ねると、
「現場の意向を無視した教育行政に憤りを感じる」
「強制と処分の教育行政による教育意欲の喪失」
「報告など事務的なことが多すぎ、子どもに向き合えない」
「不当な配転による意欲喪失」
などを訴える。

 年休者の増加、そのなかでの精神疾患による休職者の急増を見ても、同じ現象である。広島市をのぞく全教職員について、2000年度の全休職者は161人だったが、03年度には202人(25%増)になっている。精神疾患の比率は、99年度に35%だったのに、03年度は55%に急増している。

 一般の企業ならば、これほどの精神疾患の増加は人事問題や経営問題として調査検討される。だが学校についてのみ、教育行政の問題が分析されず、教師が弱いからだと片付けられている。労働者の休退職を労働者が弱いからだと切り捨てていた、半世紀前と変わらない。

 子どもたちは先生たちの葛藤を通して、彼らの社会観を形成していることを忘れてはならない。先生が快く働けなくなっているのに、どうして子どもが活き活きと生きられようか。

《「真説・古代史拾遺編》(119) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(12)


王維の詩『送晁監帰日本』について(3)


 今回は『送晁監帰日本』→『送秘書晁監帰日本国』という表題の原文改訂の問題です。

 表題の原文改定のうち「秘書」の追加は、「監(長官)」だけでは何の「監」だか分からないからという親切心によるもので罪は軽い。しかし、意味変更を意図したものはもちろんのこと、たとえ善意や親切心によるものであっても、誤植などの明らかな間違い以外の原文改定はすべきではない。

 もう一つの改定「日本→日本国」にも悪意はないのだろうが大きな問題が含まれている。その意味を古田さんは講演『独創古代』の聴講者の質問に対する回答の中で指摘している。他にも興味深い話題が含まれているので、全文転載しておこう。

質問
「則天武后が、日本国(近畿天皇家)という名を承認した」と先生は言われたが、承認したという事は、その前に日本という名前を使っていた人がいたから承認したと理解して良いのか、それともう一つ、それ以降日本という名前を、時の権力者が使ったのかどうか。確認したい。

(回答)
 最初の点、「日本国」が公式の称号になったのは701年以後である。701年以後から使った名前であることは中国側の歴史書が示すところである。それ以前はどうだったかというのは、わたしにとっては非常にありがたい質問です。

 ここで王維の詩を見て下さい。阿倍仲麻呂と別れる詩です。その表題、極玄集では「送晁監帰日本」とあり、「日本」と書いてある。「日本に帰る」と書いてある。「日本国」ではない。これが後世の本、たとえば『唐詩選』や『須渓先生校本・唐王右丞集』という改訂した本は「日本国」となっている。私は、これをはじめ見たとき、気が付いたけれどもあまり大したこととは思わなかった。「日本」と書いてあっても「日本国」のことだと考えていた。しかし良く考えてみると、どうも簡単ではないという問題にぶち当たってきた。

 「日本国」が正しい。つまり後になって正確に「日本国」と直しただけだと考えた場合、なぜ王維が日本国の、「国」を付けなかったかという問題を考えなければならない。忘れたのか。うっかりミスで日本国の「国」を付けなかったのかとなる。この場合、王維がうっかりミスで「国」を付け忘れたという考えは採りにくい。一番古い版本である極玄集に「国」がないのだから、そういう考えは採りにくい。

ここにとんでもない問題がある。

 ごぞんじ博多湾福岡市板付遺跡(博多空港近く)、ここに最古の縄文水田があることはご存じだとおもいます。その板付の字地名が「日本(ヒノモト)」。又もうひとつ「日本(ヒノモト)」がありまして、吉武高木遺跡のある室見川の下流にある。中間に樋井(ひい)川をはさんで両岸にも「日本(ヒノモト)」がある。

 『明治前期、全国村名小字調査書、第四巻<内務省地理局編纂善本叢書33>(ゆまに書房刊)』という書物がある。この調査書は第二次世界大戦の空襲でほとんど消失したが、北部九州と青森のが残った。古田さんはこれを用いて調べたと言う。それによると、福岡県には「ヒノモト」という字名が全部で5ヵ所ある。

筑前国那珂郡屋形原村日本(ヒノモト)
筑前国那珂郡板付村日ノ本(ヒノモト)
筑前国早良郡石丸村日ノ本(ヒノモト)
筑後国生葉郡干潟村日本(ヒノモト)
筑後国竹野郡殖木村日本(ヒノモト)


(中略)

 話をもとにもどして、つまり博多湾岸は日本(ヒノモト)の地である。そうなると阿倍仲麻呂は、日本(にほん)に帰ると言わずに、日本(ヒノモト)へ帰ると言ったのでないか。王維と阿倍仲麻呂は関係が深いので、あえて日本国と言わずに日本(ヒノモト)へ帰ると言ったのではないか。これは断言は出来ないが、そう考えることが出来るという面白い問題がある。

 そのように理解すると、今まで解けなかった問題が、解けてくるというおもしろい発見がある。

 『失われた九州王朝』で取り上げてあるが、『三国遣事』の六世紀の新羅の記事の中に、星が不思議な輝きを見せた。今までにない、きらきら輝いているのを見た。いったい何だと、新羅の国王がおいている卜者(占い官僚)に占わせた。すると「日本の兵、故郷に帰る。」という良い知らせ・前兆だと言った。それで喜んでいたら、はたして日本兵は引き揚げていった。これは6世紀に、詩の形で出てくる。

 1世紀後半から7世紀にかけて、倭国は頻繁に新羅を侵していた。『三国史記倭人伝』では倭人侵略の初出記事は72年(脱解尼師今17年)である。その倭人の長期侵略によって、新羅王も一般民衆もたいへんな辛苦をなめされてきた。上の説話の背後にはそういう事情がある。

 その説話は「融天師彗星歌」と呼ばれている。新羅・真平王(579~631)の時代である。岩波文庫『三国史記倭人伝』から引用する。

第五の居烈郎、第六の実処郎〈一に突処郎に作る〉、第七の宝同郎等、三花の徒、楓岳に遊ばんと欲す。彗星有りて心大星(しんだいせい)を犯さんとす。郎徒、之を疑いて、其の行を罷(や)めんと欲す。時に天師、歌を作りて歌うに、
「星の恠(かい)、即ち滅し、日本の兵、国に還り、反(かえ)りて福慶を成(な)せり。」
大王、歓喜して、郎を遣わして岳に遊ばしむ。(『三国遺事』より)


 「花の徒」という言葉が出てくる。以前にこれを読んだ時、一体この人たちは何者なのか、疑問を持った。それを韓国風歴史ドラマに教えられた。十分に鍛錬された貴族の子弟からなる新羅の最強軍団を「花郎」(ファラン)と呼んでいる。皆名前に「郎」が付いているのは、そういう訳かと納得できた。

 その6世紀という倭のまっただ中、倭国が当たり前のさなかに、詩の形で「日本兵故郷に還る」と書いてある。国号として日本国になったのは701年であるが、倭国段階で「日本(兵)」を使っている証拠としてあげた。

 しかしそれは、その詩を理解する上で、そう理解しなければならないというだけであって、なぜ6世紀に「日本兵)」が出てくるのかは分からない。

 ところが今王維の詩を「日本(ヒノモト)へ帰る博多へ帰る」という意味で、8世紀段階で使っていると考えれば、6世紀段階でも「日本(ヒノモト)の兵故郷に還る」を「博多湾岸に帰る。」と考えれば、意味がつながってくる。

 それからあとのほうは、日本という言葉は後の段階でも、たとえば豊臣秀吉の段階でも思い出したように使われる。それと「日の丸」も、けっこう古いみたいですね。福岡県朝倉の方でも筑紫舞というおもしろい舞がありまして、神社の奉献額の絵馬の中に、それを舞っている人の扇に「日の丸」がある。その額は最近のものではない。ですからわたしの想像ですが「日本(ヒノモト)」という言い方と「日の丸」は、何らかの関わりがあるのではないか。いまのところ、そう思っています。これもいまは単なる作業仮説であって、途中をつなぐつなぎ目がないので今後の課題にしたい。

(王さんの論文を読んでいて頭によぎった古代史の話題はこれでおしまいですが、ついでなので王さんの論文の続きをおしまいまで掲載しておきます。王さんは次のように締めくくっています。)

 東アジア諸国の間に、政治外交が時にギクシャクし、経済貿易摩擦も後を絶たないのに、なぜ鳩山由紀夫首相の提唱した東アジア共同体構想に、中国も韓国もそれぞれの利害関係をさておき、すばやく賛同を示したのか。その理由は、ふたつ考えられる。つまり、伝統ある東アジア文化圏の継承と、新しい国際関係の再構築への創造とであろう。継承と創造は自然界にあっても人間界にあっても、生命あるものの本能にほかならない。

 はるか奈良時代に、鑑真は長屋王から送られてきた袈裟に「山川域を異にすれど、風月天を同じくす」と刺繍された偈(げ)句に感銘をうけ、風俗も言語も政治も異なる日本へわたった。また今や村上春樹の小説や宮崎駿のアニメなど日本の大衆文化は違和感なく中国の若者を引きつけている。価値観を共有する若者こそ、斬新なる東アジア共同体の担い手になると確信する。

 つまり、それぞれの個性ある風土や伝統を超越して、より大きな地域共同体を築きあげるためには、シルクのような物流だけでは足りない。ブックに代表される精神文明の交流が何よりも重要ではないか。

 王さんは未来の「東アジア共同体の担い手」として若者に大きな期待を掛けている。この事に関連して、1月8日付東京新聞の次の記事が目に付いたので記録しておいた。

15~20歳の中国人
 『最も好きな国』は日本

【北京=安藤淳】
 中国紙のア、と答えた人が、15~20歳で一位になった。中国でも、アニメを筆頭に、日本のファッションや歌が、インターネットや雑誌などを通じて深く浸透していることが、主な理由とみられる。

 調査によると、15~20歳で「最も好きな国は」との質問に、「日本」とした回答者は12.3%だった。二位はフランスと米国で、それぞれ11.8%、韓国が10.9%、英国が7.7%とつづいた。全年代では、日本は米国、フランス、オーストラリア、シンガポールに次いで27ヵ国中5位だった。

 一方、30~40歳で「最も好きな国は日本」と答えたのは2.5%にとどまった。1990年代、抗日戦争を教材にした愛国教育が強化された際に、10~20歳代だった世代だ。

 反日デモで対日関係が悪化した2005年の別の調査では、日本の好感度は15ヵ国の中で最下位だった。

 今回の調査は、共産党機関紙・人民日報系の環球時報が昨年12月、北京など5都市の居住者計1350人を対象に実施した。

 どこの国でも、支配階級は教育を支配と抑圧を貫徹するために、被支配者を従順で実直な人間にしようと常にもくろんでいる。時には「日の丸・君が代の強制」のように、あからさまな恫喝で屈服させようとする。

 支配階級がもくろむ教育は学校教育にかぎらない。テレビ・新聞など、あらゆる情報手段を用いて洗脳しようとしている。情報を正しく取捨選択するため、お仕着せのではなく、自前の正しい知識と思考力を身につける必要を、改めて強く感じさせる記事でした。そのために、情報を上手に取捨選択できれば、インターネットは強力な教材となるだろう。