FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史拾遺編》(113) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(6)


「推古紀」のウソ八百(3)


 「定説」が「唐は隋の誤り」とした理由は二つあると思われる。一つは『隋書俀国伝』の607年(煬帝・大業3年)と608年(煬帝・大業4年)の記事と、『日本書紀』の607年(推古15年)と608年(推古16年)記事の日付が一致していること。もう一つは「俀国伝」に出てくる隋(煬帝)が送った使者・裴清と、「推古紀」に出てくる唐からの使者・裴世清が同一人物と見なせること。しかしそれ以外は両者の記事の内容が相容れない矛盾だらけであることを意に介さない。すべて「…であろうか。」と推測したり、論証抜きで「…をさす。」と断定するだけである。

 岩波大系本の頭注が、「推古紀」には「俀国伝」の開皇20年(600)の記事に当たる記録がないことを指摘していた。なくて当然なのだ。608年(推古16年)9月11日の記事には推古から大唐への返書が記録されている。その中の次の一節を再度掲載する。(今度は岩波大系版の読み下し文で。)

使人の鴻臚寺の掌客裴世清等至りて。久しき憶(おもい)、方(みざかり)に解けぬ。

 「久憶」は「長い間の願い」という意。「方」を「みざかり」と訓読しているが、私には「みざかり」の意味が分からない。手元の古語辞典を調べたが、こんな言葉はない。「方」を『漢語林』で調べた。「方」には25通りの意味があるが、「まさに。ちょうどこの時」という意だろう。つまり「久憶方解」は「久しく願いであった国交がいまかなった」という意だ。つまりこの時の遣唐使がヤマト王権が送った初めての遣唐使であった。それより先に遣唐使記事がないのは当たり前なのだ。

 次は「定説」が「唐は隋の間違い」とした第一の理由、『「俀国伝」の遣隋使と「推古紀」の遣唐使の年代が同じ』という問題を取り上げよう。(ここからは古田さんの『法隆寺の中の九州王朝』を教科書とします。)

 結論から言うと、「推古紀」と次の「舒明紀」あたりの記事には10年以上の年代誤差がある。古田さんの論証を紹介しよう。

 わたしたちは現在、比較的安定した年表をもっている。しかし、過去においてはそうではなかった。古代どころか、近世においてさえ、干支の当てはめ等の錯誤の実例に出合うことは少なくない。普遍的な年表がいまだ成立していなかったからである。  『日本書紀』の場合も、例外ではなかった。この推古紀の前後において、10年以上(おそらく、同じ干支の現われる「12年」か)のずれが現われている。その例をあげてみよう。

(A)(舒明3年=631)
 三月庚申朔、百済王義慈、王子豊章を入れて質と為す。


 舒明3年は、百済では、武王32年に当っている。そして義慈王元年は、641年である。だから、明らかにここには10年以上のずれが存在する(このあたりの百済側の史料は、中国側の年代を基準としている。したがって右の誤差は、同時に、『日本書紀』の年代が、中国側の年代と比べても、10年以上、上にずれていることをしめしている)。

(B)(推古17年=609)
 「百済王命じて以て呉国に遣はす。其の国、乱れ有りて入ることを得ず。更に本郷に返る。忽ち暴風に逢ひ、海中に漂蕩(ひょうとう)す。然るに大事有りて聖帝の辺境に泊す。以て歓喜す。」


 これは、百済憎、道欣(どうきん)・恵彌(えみ)を首として10人、俗75人が肥後国の葦北津(あしきたのつ)に漂着したときの、彼等の言である。ところが、ここにも不審がある。この推古17年は、隋の煬帝の大業5年に当っている。煬帝の得意の時代に当っている。運河造営、流求国侵略など、すべて成功裡に着々とすすんでいた時期だ。とても「乱れ有り」どころではない。その上、レッキとした隋朝へ行くのにそこがたとえ江南地方であったとしても、「呉国に遣はす。其の国……」と表現するのは、おかしな話ではないか。

 『日本書紀』は、中国の南北朝対立の時期において、南朝の方を「呉国」と表現している。

(雄略6年夏4月)
 呉国、使を遣はして貢献するなり。

(雄略8年春2月)
 身狭村主(むさのすぐり)青・桧隈民使博徳(ひのくまのたみのつかひほかとこ)を遣はして呉国に使せしむ。


 右は、その例だ。だが、これは南北朝対立の時期のことだ。隋朝のように、レッキたる統一国家の時期、やはり右の表現には、何か違和感があるのである。

 ところが、これを10年以上くり下げてみよう。それは、唐初の混乱期に当っている。通例の年表上は、義寧2年(618)5月、隋朝の第三代の天子、恭帝から、唐朝の高祖に代り武徳元年を称したことになっている。しかし、それは年表上の建て前にすぎぬ。

 隋の煬帝は三回にわたって行った高句麗侵略戦に失敗した。そのため、いわゆる隋末の大乱期をむかえ、諸将の反乱と建国相ついだ。いわゆる「中原、鹿を追う」大争乱期が到来したのである。もちろん、唐の高祖も、その一部将であった。『隋書』の恭帝紀には、

(義寧2年5月)
 是の日、上(恭帝)、位を大唐に遜(ゆず)る。


と書いてあるけれど、これは『隋書』を書いた唐朝側の建て前だ。その『隋書』にも、当時の状況が次のように書かれている。

(義寧元年12月癸未)
 薛挙、自ら天子を称す。

(義寧元年12月丁亥)
 桂陽の人、曹武徹、兵を挙げて反し、「通聖」と建元す。

(義寧2年3月)
 化及(人名)秦王浩を立てて帝と為し、自ら大丞相と称す。


 このような群雄乱立の状況は唐朝創立の武徳元年(618)以後も変わっていない。『旧唐書』によれば、

(武徳2年=619)

① 夏4月乙巳、王世充、越王侗の位を簒(つ)ぎ、僭して天子を称す。国、鄭と号す。

② 9月辛未、賊帥、李子通、江都に拠り、僭して天子を称す。国、と号す。

(武徳4年=621)

③ (5月、丙寅)王世充、東都を挙げて降る。

④ (11月庚寅)会稽の賊帥、李子通、其の地を以て来降す。    (高祖紀)


 右のように、武徳4年頃までは、実質上は、唐の統一は成らず、天下大乱の中にあったのである。

 ことに注目すべき点、それは、武徳2年~4年の間には、江南地方に、まさに「呉国」が存在したことである。右の②④では、「賊帥」と呼んでいるけれど、これは、唐朝側からの大義名分用語だ。実際上は、この時期において、「会稽に天子あり、呉国を称す」という状勢にあった。しかし、その武徳4年12月、この国は亡国の悲運に遇うた。おそらく南朝回復の理想をかかげて破れたのであろう。

 さて、問題の推古17年(609)を10年以上くり下げてみよう。まさに、初唐の天下大乱期に当る。そして12年あとの武徳4年(621)は、まさに「呉国に乱有り」の当時に的中しているのだ。ここでも、『日本書紀』の推古紀の前後に、10年以上(おそらく12年)の紀年のずれがあることが裏付けされている。

 以上によってみれば、『日本書紀』が「唐」「大唐」と書いているところは、まさに中国側の唐朝期に当っていたのだ、という、きわめて平凡な解答を手中にすることができよう。

 実に見事な論証だ。これに比べて、さまざな矛盾に目をつぶって安易に「唐は隋の誤り」とかたづけてしまう「定説」は学問とは言えない。
スポンサーサイト