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《「真説・古代史拾遺編》(112) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(5)


「推古紀」のウソ八百(2)


 隋の時代に遣唐使を派遣したという「推古紀」の年代の齟齬を「定説」は例の如く「唐」は「隋」の誤りとして解決をはかっている。宇治谷孟訳『現代語訳・日本書紀』では「唐(隋)」と表記して、この「定説」に従っている。「推古紀」をネタにしている記事をネット検索してみたら、私が調べた範囲ではすべて「唐」の「と」の字もなく、みんな揃って「隋」としている。誰も何の疑念を持つことなく「ウソ」が流布している。「定説」学者たちを信用しているからだが、罪は学者たちにある。

 岩波の日本古典文学大系は、「大唐」が初出する607年(推古15年)の記事「小野臣妹子を大唐に遣わした」の頭注で、論証抜きで「事実は隋」と断定している。「多利思北孤=聖徳太子」という「定説」に固執する限り真実への道は永久に開かれない。

 続いて頭注は『隋書俀国伝』(頭注は「倭国伝」と表記している)から、かの有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という文言を含む「大業3年」の記事を原文で全文引用している。(ただし「俀王」の名前「多利思孤」を「多利思孤」と原文改定している。「彦」に結びつけるための原文改定である)。そして、「なお同書に、これより先開皇20年(600)の遣使のことがみえるが、書紀には見えない。」と指摘している。これは「唐は隋の誤り」という愚説を改めるカギの一つなのだが、このことについては何も論じていない。

 さて、「推古紀」の謎を解くためには「推古紀」と『隋書俀国伝』の記事との対比が欠かせない。『隋書俀国伝』から関連記事を抜き書きしておこう。

600(文帝・開皇20年)
 俀王がおり、姓は阿毎(アメ)、字は多利思北孤(タリシホコ)、阿輩難弥(アメキミ?)と号した。使を遣わして闕(けつ 隋都長安)に詣った。上(文帝)は役人(係官)にその風俗を訪ねさせた。使者は次のように言った。
「倭王は天を兄とし、日を弟としている。天がまだ明けないとき、出かけて政を聴き、結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢で坐り、日が出れば、すなわち理務をとどめ、わが弟に委せよう、と言う」
 高祖(文帝)は「これは大いに義理のないことだ」といって、訓(おし)えてこれを改めさせた。

607年(煬帝・大業3年)
 その王多利思比孤が、使を遣わして朝貢した。使者は次のように言上した。
「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興す、と聞いている。故に遣わして朝拝させ、かねて沙門(しゃもん)の数十人が、中国に来て仏法を学ぶのである。」
 その国書に曰く
「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。
 帝はこれをみて悦ばず、鴻臚卿(こうろけい 外交官)に次のように命じた。
「蛮夷(俀国)の書は、無礼なところがある。ふたたび以聞(天子に申上)するな。」

608年(煬帝・大業4年)
 明年、上(煬帝)は文林郎の裴清(はいせい)を遣わして倭国に使させた。百済を度り、竹島にゆき、南に〈身冉〉羅(たんら)国(済州島)を望み、都斯麻国(対馬)をへて、はるかに大海の中にある。また東にいって一支国(壱岐)に至り、また竹斯(ちくし)国(筑紫)に至り、また東にいって秦王国に至る。
 その(俀国の)住民は華夏(中国)の人と同じだ(似ている)。ここは夷州であるが、それが疑わしく明らかにできないほどだ。
 また十余国をへて海岸に達する。竹斯国から以東は、みな倭に附庸する。
 倭王は小德の阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓角(太鼓と角笛)を鳴らして来迎した。十日後にまた、大禮の哥多毗を遣わし、二百余騎を従えて郊外で慰労した。
 既に彼の都に至った。その王、清(裴清)と相見え、大いに悦んで言った。
「私は海西に大隋、礼儀の国があると聞いている。故に遣わして朝貢した。私は夷人にして、海隅の辺境にあって、礼儀を聞くことがない。そこで境内に留まり、すぐに相見えなかった。今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待っている。願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい」。
 清が答えて言った。
「皇帝の德は二儀(あめつち)にならび、沢は四海に流れる。王が化を慕う故に、使者を遣わして来させ、ここに宣諭する次第です。」
 既に清を案内して館に就かしめた。その後、清が人を遣わして、その王に言った。
「朝命は既に伝達したので、戒塗(旅行、つまり帰国の準備)をお願いしたい。」
 そこで宴を設けて清を遣わして享受させ、また使者を清に随伴させて方物を貢献させた。
この後、遂に途絶えた。


 さて、『日本書紀』の編者は「隋」をすべて「唐」と取り違えていたのだろうか。そんなことはない。「推古紀」に次の記事がある。

618年(推古26年)8月1日
 高麗が遣わして使いをおくり、土地の産物をたてまつった。そして次のように言った。
隋の煬帝は、30万の軍を送ってわが国に攻めてきました。しかしかえってわが軍のために破られました。今そのときの捕虜貞公(ていこう)・普通(ふとう)の二人と、鼓吹(つづみふえ)・弩(おおゆみ)・石弓の類十種と、国の産物・駱駝一匹とをたてまつります」といった。


 618年は隋が滅亡した年である。もちろん、ここの高麗は後の王氏高麗(918年~1392年)ではなく、高句麗のことである。煬帝は高句麗に三回(611年 612年 614年)侵攻し、三回とも失敗している。そのときの戦勝報告だから、この記事には年代の齟齬はない。しかし高句麗の遣使の相手国は九州王朝だろう。この記事は盗用記事ではないか。

 このころの倭と高句麗は友好関係にあり、文化的な交流が盛んであったようだ。このときからおおよそ40年後の白村江の戦い当時、倭・百済・高句麗は同盟関係にあった。白村江の戦いで、倭・百済・高句麗軍は唐・新羅軍に敗退する。「旧唐書・百済伝」に次のような記事がある。

662年(龍朔2年7月〉
 (扶余豊)又使を遣わして高麗及び倭国に往かしめ、兵を請いて以て官軍を拒(ふせ)がしむ。

同年(白江の戦)
 仁軌(帯方州刺史、劉仁軌)、扶余豊之衆に白江之口に遇い、四戦皆捷つ。其の舟四百般を焚き、賊衆大潰す。扶余豊、身を脱して走る。偽王子、扶余忠勝・忠志等、士女及び倭衆を率いて並びに降る。百済の諸城、皆復(また)帰順す。孫仁師(左威衝将軍)と劉仁願(郎将)等と、振旅して還る。

665年(麟徳2年8月)
 其の盟文に曰く「往者、百済の先王、逆順に迷い、鄰好に敦(あつ)からず、親姻に睦(むつま)じからず。高麗に結托し、倭国に交通し、共に残暴を為し、新羅を侵削し、邑を破り城を屠り、略寧(ほぼやす)き歳無し。……」


 一方、ヤマト王権は度々遣唐使を送り、唐とよしみを通じていた。この東アジアにおける国際関係は推古の時代でも同じであったと思われる。また、「旧唐書」に「日本(近畿王朝)は旧小国、倭国(九州王朝)の地を併せたり」とある通り、推古の時代、ヤマト王権は「小国」というのが唐や高句麗の認識だったろう。高句麗の遣使が九州王朝の分流であるヤマト王権に貢物を持参して朝貢するいわれはない。

 ともあれ、『日本書紀』の編者は、言うも愚かなことながら、隋と唐は違う国であると認識している。唐(則天武后)は「倭国(九州王朝)の別種」として「日本国(近畿王朝)」を認めた。前々回で取り上げたように、『日本書紀』が編纂された時、近畿王朝は遣唐使を派遣していた。「隋」との外交記事全てで、相手国名「隋」をうっかり「唐」と書いたなどあり得ない。つまり「推古紀」の遣使は「遣隋使」ではなく、書かれた通り、「遣唐使」である。『日本書紀』の編者が間違ったのは年代の方なのだ。次回詳しく論じよう。
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