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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史拾遺編》(109) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(2)


『万葉集』巻3 328番歌


「咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」をめぐって

 王さんが引用しているこのおなじみの歌は万葉集巻3の328番歌です。例によって岩波「日本古典文学大系」より転載しよう。

太宰少貳小野老朝臣(をののおゆのあそみ)の歌一首

あをによし寧樂(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり


 試みにネットを検索したら、 【目で感じる万葉世界】 さんに出会った。写真を添えた美しいページではあるが、その解説は、最も典型的な「奈良自慢」の解釈に、さらに「げすのかんぐり」を付け加えたもので、いただけない。

「作者小野老(おゆ)は大伴旅人が太宰府の長官だったころにその下にいた次官クラスの役人です。旅人もそうでしたが、花の都奈良から地方への転勤、天離る鄙への都落ちは、やはり相当ショックだったようです。「太宰府だなんていってみたところで、所詮は九州の田舎だ。やはり奈良の都でなくっちゃ。奈良はよかったなあ…都は大きいし、美人も多いし…」

 ところで、私が頻繁に利用している『現代語訳・続日本紀』(講談社学術文庫)の訳者・宇治谷孟さんはその「まえがき」をこの歌の引用から書き始めている。さすが、平城京の賑わいを謳うこの歌の裏側の現実に意を注いでいる。

青丹よし 寧楽の京師は 咲く花の
匂ふがごとく 今さかりなり 小野朝臣老

 爛漫と咲きはこる桜花の匂うがごとく、美しく映え栄える寧楽の京師。人は奈良といえば、先ずこの歌を思い浮かべ、豪華絢爛を奈良文化の象徴のようにイメージすることが少なくないようである。

 世界最大の木造建築と評される壮大な東大寺大仏殿の迫力。そこに鎮座まします毘慮舎那仏の麗姿と混然一体となって奈良時代を思い描く。天平という妙なることばのひびき、これに連なる正倉院御物の数々。しかしこの歌の作者小野老は、青丹映える平和な平城京の空気を呼吸しながら、これを謳歌したものではなかった。

 学問の神と崇められる天神様菅原道真の例にも見られるように、都から却けられた宮人の任地とされることが珍しくなかった九州大宰府の、大宰大弐(二等官)の職を最後として、彼はその地に果てた。

 宇治谷さんも、小野老は都から太宰府に却けられて失意のうちにあったと解しているが、果たしてそうだろうか。失意のうちにあったのは確かだろうが、それは左遷ゆえの失意ではなかったと思う。いま論証を省くが(いずれ取り上げる機会があるかも知れない)、大伴旅人も小野老ももとは九州王朝の優秀な知識人であり、能吏であった(次の引用文に出てくる山上憶良もそうだ)。この事をふまえると、この歌には意外な意味が付加される。後ほど詳述しよう。

 「岩波」の頭注によると、小野老が太宰少貳であったのは天平2年(730)頃だという。ヤマト(New)王権が名実ともに九州(Old)王朝からの権力奪取を果たしたONライン(701年)から、30年。しかし717年には、九州王朝レジスタンスの残党がなおも抵抗していた。『続日本紀』より、関連記事を拾ってみよう。

養老元(717)年11月17日
 山野に逃亡し、兵器を隠し持ち、百日以上になる者は、大赦なく、もとの通り罪とする


 九州王朝レジスタンスの完全制覇は723年と思われる。

養老7年(723)4月8日
 大宰府は次のように言上した。日向・大隅・薩摩三国の士卒は、隼人の賊を征討するために、しきりに軍役に引き出されて…

養老7年(725)5月17日
 大隅・薩摩二国の隼人たち624人が朝貢した。


 『続日本紀』は『日本書紀』に続く第二の日本紀という意味合いで、文武天皇の元年(697年)から、桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を、全40巻に収めた編年体の勅撰史書である。『日本書紀』のように、国威宣揚を意識した記述ではなくて、当時の大事業であった律令制の施行と、度重なる天変と凶作・そして疫病の蔓延・謀叛なども包むことなく記録しており、今日も底知れぬ彪大な愛好者を擁する万葉歌群の背景を理解するのには貴重な資料書である。

 文武帝という諡号からは文武両道に勝れた聖帝の感を与えられるが、多病で二十五歳という若さで夭逝された。その子・首(おびと)皇子が聖武帝であるから、頑健な体質ではあり得なかった。光明皇后との間に儲けられた第一皇子は、名前も定まらぬまま一歳となって他界する。

 聖武帝の生母宮子(文武の妃。不比等の娘)は、わが子の生誕の後36年目に、初めて母子対面したと記録されている。産後、長らく続いた鬱病のためということになっているが、尋常でない事情があったものと考えねばならない。

 律令制の下、人民は租・庸・調の重税にあえぎ、山上憶良の「貧窮問答」はその窮状を生々しく描写している。

 大宰少弐として九州に飛ばされた藤原宇合(うまかい)の長子広嗣(ひろつぐ)は、朝廷の失政と側近の非を鳴らて、中央に叛旗を翻した。これに通ずる者が少なからず、身の危険さえ感じた天皇は都を脱出するに至っている。広嗣はやがて斬殺されて乱は平げられ、帝は恭仁京(くにきょう)遷都を宣言し、廬舎那大仏の顕造を発願する。しかしその後も難波,信楽(しがらき)などと迷い続けた末、奈良に落着くことになるが、近侍の女官何人かが配流されるのは、帝を批判したことに依るらしい。

 聖武天皇の時、「藤原広嗣の乱」(740年)のほかに「長屋王の変」(729年)と呼ばれる事件があった。長屋王は「ひそかに左道(妖術)を学んで、国家(天皇)を倒そうとしている」と密告されて自殺に追い込まれている。そのとき長屋王は左大臣正二位という高位にあった。藤原氏による謀殺だったのではないか。密告をうけて長屋王の邸宅を包囲した軍勢を率いていたのが藤原宇合である。

 東大寺は総国分寺の意味を持ち、全国にはそれぞれ国分寺と国分尼寺が設けられるのであった。国を傾ける程の莫大な資財と労力を投入してなし得たことである。

 聖武の一人娘阿倍内親王は、聖武歿き後、女性ながら孝謙帝そして称徳帝として重祚し、藤原仲麻呂(恵美押勝〉・僧道鏡などを寵愛しすぎたため、王族たちにも背かれ乱を招き、幾多の犠牲者を生むことになる。

 ヤマト朝廷による陸奥侵略も庶民に大きな負担を与えていただろう。

養老4年(720)9月28日
陸奥国が次のように奏言した。「蝦夷が反乱して、按察使・正五位下の上毛野朝臣広人を殺害しました。」

養老4年(720)9月29日
播磨の按察使・正四位下の多治比真人県守を持節征夷将軍に任じ、左京亮・従五位下の下毛野朝臣石代を副将軍に任じ、軍監3人・軍曹2人を配し、従五位上の阿倍朝臣駿河を持節鎮狄将軍に任じ、軍監2人。軍曹2人を配し、その日に節刀を授けた。


 高校生用の年表を見ると、このときの遠征で蝦夷を征したように書かれている。しかし、陸奥の頑強なレジスタンスはさらに続いている。

神亀元年(724)3月25日
……海道の蝦夷が反乱を起こし、大掾従六位上の佐伯宿禰児屋麻呂を殺した。

神亀元年(724)4月7日
式部卿・正四位上の藤原朝臣宇合を持節大将軍に任じ、宮内大輔・従五位上の高橋朝臣安麻呂を副将軍に任じた。このほか判官8人・主典8人を任じた。海道の蝦夷を征討するためである。



 天平9年(737)4月14日の項には、陸奥の国に派遣された持節大使・藤原麻呂の言上文が4ページにわたって記録されている。『続日本紀』に記録されている最後の陸奥侵略記事は桓武天皇のときで次のようである。

延暦10年(791)正月18日
正五位上の百済王俊哲、従五位下の坂上大宿禰田村麻呂を東海道に、従五位下の藤原朝臣真鷲を東山道に遣わし、兵士を選んで検閲させ、さらに武具を検査させた。蝦夷を征討するためである。


 このときの蝦夷側の指導者はあの英雄・阿弖流爲(あてるい)である。阿弖流爲が降伏して陸奥が完全に帰順したのは延暦21年(802年)である(『日本紀略』)。
以前にも紹介しましたが、阿弖流爲が主人公の高橋克彦『火怨』をおすすめします。

 さて、328番歌である。この歌を古田さんが講演録『大嘗祭と九州王朝の系図』で取り上げている。それを紹介しよう。

 高校教師の頃、古田さんもこの歌を奈良の繁栄を手放しで謳歌している歌のようにとらえていたようだ。『私、国語で教える時、あれあんまり好きな歌ではなかった。なんかこう道長の「この世をばわが世とぞ思う」みたいなね、ああいう感じの歌のイメージで理解していたんです。』

 『法隆寺は移築された』(新泉社)の跋文で著者の米田良三さんがこの歌を取り上げている。古田さんはその跋文からこの歌の解釈について大きな示唆を受けたという。米田さんが指摘したのは、この歌が太宰府で作られていることから『太宰府で九州王朝の滅亡をみて、その廃墟で作っていることになる。そうすると普通に考えられているのと違った感じになるのではないか』というのである。

 もう一つ、誰もが328番歌の花は桜と考えるだろう。そして桜は平城京=ヤマト朝廷のシンボルだとも。

 この桜に対して、梅についての「富永さんの発見」というのがある。『万葉集』の中に梅の花を詠んだ歌がズラッと続くところ(815番~853番)がある。太宰府に赴任した大伴旅人が、中級・下級の官僚を集めて、そこで梅花の宴をや開いたときの歌だ。この一連の歌について富永さんは『梅の花というのは九州王朝のことをいってるんじゃないか。梅の花が散って桜の花の時期になった、桜の花の時期になったということは、近畿天皇家の時代になったことをいってるんじゃないか。』というのである。

 考えてみると、これは8世紀半ばですから、この人たちが生まれたのは7世紀後半なんですよ。つまり九州王朝の時期に生まれているわけです。下手したら青年時代も九州王朝かもしれない、そしたら皆胸の中に複雑なものがあるはずですよ。それがどうも歌い込まれているんじゃないか。もちろん菅原道真はまだ登場していませんよ、8世紀半ばですから、菅原道真がやってくる以前です。天神、それは天満宮です。天神さんは梅の花です。梅の花が天神さんのシンボル。天神さまは九州王朝の、ちょうど天皇家の伊勢の皇大神宮みたいなものなんです。そうすると天神イコール梅の花。梅の花を惜しむ、とこうなってくるとね、ちょっと聞いたら何を馬鹿な、といいたいところだが馬鹿じゃなくなってくるんです。これは実例をみないと。皆さん帰って『万葉集』をその目で見直してください。

 以上のことをふまえると、328番歌の次のような解釈がたいへん妥当なものとなってくる。

 太宰府となると九州王朝の廃墟です。8世紀ですから。もう九州王朝は亡んだと。そして今、大和で花が、花といえば桜の花でしょう、盛りである。しかし桜の花もまた散るわけですよ。永遠に咲きつづけている桜の花なんてないわけです。あの桜の花もいつの日か散る日があるであろう。ね、ドキッとするじゃないですか。そりゃ何百年だろうが何千年だろうが歴史の中では瞬間みたいなものですから。いつの日か桜の花も、この太宰府の九州王朝のように散る日がくるであろう。もうね、ノーテンキなおべんちゃらどころではなかったですね。ものすごい歴史観、何千年も見通した、するどい歴史観をのべていたわけです。

 思いがけず長くなってしまった。最後に、あの梅の連作の中に小野老さんの歌があるので、それを掲載しておこう。328番歌と響き合っていると思いませんか。

巻5 816番
 梅の花今咲ける如(ごと)散り過ぎず我が家(へ)の園にありこせぬかも 小貳小野大夫
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