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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史拾遺編》(108) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(1)


井真成


 東京新聞(夕刊)で、4日から5回連続で「東アジア流」という連載が始まった。その連載の趣旨を次のように述べている。

「東アジアという風が吹いている。縄文の昔から極度に発達した資本主義の現代まで、吹いては凪ぎ、凪いでは時に、嵐ともなった。それぞれに語る東アジアの来歴と未来を、五回にわたって送ります。」

 私はこれを東アジアの平和的共存を探る企画と受け止め、深い関心を持って読んでいる。この連載の第二回は「ブックロード―文化圏の継承と創造を」という表題で、執筆者は王勇(ウン・ユン)さん。略歴は次のようです。

「中国の浙江工商大日本文化研所長・古代中日文化交流史 1956年、浙江省生まれ。著書に『唐から見た遣唐使』『中国史のなかの日本像』など。

 さて王さんは論文を古代史から説き起こしている。これを読んでいると、古田古代学で取り上げられているさまざまな問題が思い起こされてきくる。まず冒頭部分を引用する。

 東アジア共同体の話題が沸騰する中、一介の歴史研究者として、わたしは覚えず1200年も前の奈良時代に想いを馳せた。養老元(717)年、「咲く花の薫(によ)ふがごとく今盛りなり」と謳歌される「青丹よし奈良の都」を誇りにしていたであろう遣唐使は、「開元の治」と称えられる盛唐の都長安をめざした。一行には、留学生の双璧というべき阿倍仲麻呂と吉備真備のほかに、近年西安で墓誌が 発見された井真成(せいしんせい)らの顔ぶれが並んでいた。

井真成について

 2004年10月に中国・西安市で「井真成」墓誌が発見され、日本・中国両国で大きな話題となった。「井真成」という名は文献には見あたらず、この墓誌で初めて知られた名前である。  墓誌の訓読文は次のようである。(「ウィキペディア」から転載。「■」判読できない文字。)

贈、尚衣奉御、井公墓誌文、并序。
公、姓は井、字は眞成、國號は日本。
才は天縱に稱ひ、故に能く命を遠邦に■、騁を上國に馳せり。
禮樂を蹈み、衣冠を襲ひ、束帶して朝に■、與に儔び難し。豈に圖らんや、學に強めて倦まず、道を聞くこと未だ終へずして、■移舟に遇ひ、隙奔駟に逢へり。
開元廿二年正月■日を以て、乃ち官弟に終へり。春秋卅六。
皇上■傷して、追崇するに典有り。詔して、尚衣奉御を贈り、葬むるに官をして■せしめ、卽ち其の年の二月四日を以て、萬年縣滻水■原に窆るは禮なり。
嗚呼、素車は曉に引きて丹旐哀を行ふ。遠■を嗟きて暮日に頽れ、窮郊に指びて夜臺に悲しむ。
其の辭に曰く「乃の天の常を■、茲の遠方なるを哀しむ。形は卽に異土に埋むるとも、魂は故に歸らんことを庶ふ。」と。


 墓誌によると「國號は日本」とあるから、井真成さんはまぎれもなく日本人である。また玄宗皇帝・開元22年(734)に36歳という若さでなくなっている。開元22年は天平5年(733)の遣唐使派遣の翌年に当たる。そこでその前の養老元年(717)遣唐使の一人だろうと推定されている。もしそうだとすると、井真成は弱冠19歳で渡唐したことになる。ちなみに、阿倍仲麻呂(698-770、「古今和歌集目録」によれば、701年生れ。)も19歳である。

 阿倍仲麻呂は唐に残り、高級官吏に出世していて、その記録も、伝説を含めて、いろいろ残されている。

 一方の井真成。墓誌から玄宗皇帝に目をかけられていたことがうかがえる。彼の死を悼んだ玄宗皇帝から「尚衣奉御」(尚衣局の皇帝の近くに仕える責任者、従五品上)という役職を贈られているほどだ。それにもかかわらず井真成の記録は文献には皆無で、上記の墓誌だけがその存在を示している。

 阿倍仲麻呂は731年左補闕(門下省に属し、天子を諷諫してその過失を補うことを掌る役職。従七品上)に補されている。最後は潞州大都督(従2品)にまで出世するが、井真成が亡くなった時は二人はほとんど同じぐらいの位階の官吏だったと思われる。同じ遣唐使として唐に来て、帰国せずに唐の官吏となったにもかかわらず、二人には面識も交友もなかったのだろうか。不審だ。私は真成は遣唐使として仲麻呂と一緒に唐に来たのではなく、九州王朝からの亡命者として別途に来たのではなかったかと、勝手な想像をしている。亡命者と言えば、自らの意志で残った仲麻呂も一種の亡命者ではないだろうか。

 史料がないので井真成の出生地を確定することはできないが、いろいろな学者がいろいろな説を出している。「井真成」を王さんは「せいしんせい」と中国語風に読んでいるが、日本では「いのまなり」と読んでいるようである。「井」を「い」と読む立場からは次のような説がある。(以下の諸説はウィキペディアから拝借した。)

井上氏説 鈴木靖民(國學院大學教授)
 古代豪族で帰化人の末裔である井上氏の一族ではないかと主張し、葛井氏なら一字にする際に中国にも多い「葛」姓にするのではないかと主張。

葛井氏説 東野治之(奈良大学教授)・佐伯有清(元北海道大学教授)
 古代豪族で帰化人の末裔で外交官などを輩出している葛井氏の一族ではないかと主張。

 「井」を「せい」と読む立場からの諸説

情真誠説 張雲方(中日関係史学会副会長)
 中国の言葉でまじめでまっすぐな人柄を指すときに使う言葉の音に似た姓名を皇帝より下賜されたのではないかと主張し、日本名に関しては不明と主張。

中国姓説 王維坤(西北大学教授)
 「井」姓は唐の時代から長安周辺に多い姓であり、それを採用したと主張し、日本名に関しては不明と主張。

その他
 「井」という姓は、九州の熊本県に多く存在する。

 「倭の五王」の場合に劣らず勝手な憶測の百花繚乱である。しかしこの場合は、「倭の五王」の場合と違って、史料が墓誌しかないのでしかたないか。

 ところで、最後の「その他」と一段と軽んじられて扱われている説は、古田史学会の古賀さんの説である。「古賀事務局長の洛中洛外日記第1話 2005/06/11」から引用しておこう。

 最近何かと話題になっている「井真成(いのまなり)」についてです。中国で発見された墓誌により「井」さんが中国に渡り、当地で没したことが明らかになったのですが、藤井さんとか○井さんとかが日本名の候補として上げられているようです。

 他方、「井」という姓が日本に存在することから、文字通り「井(せい)」さんではないかという異見も出されています。古田先生もこの「井」という姓に注目されています。

 電話帳で調べた結果では、熊本県に圧倒的に濃密分布しています。中でも産山村・南小国町・一ノ宮町が濃密です。この分布事実は九州王朝説の立場からも大変注目されるところです。

 無根拠の推測ながら井真成は九州王朝からの亡命者ではないかと思っている私には、この古賀説はたいへん興味深い。

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