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《「真説・古代史拾遺編》(118) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(11)


王維の詩『送晁監帰日本』について(2)


 前回の補足を二つ。

(1)
 王さんの「書物の伝える文明の遺伝子は、…心通ずる文化共同体をつよく支える。」という認識に強く共感したが、それに関係することを一つ。

 私はあまりにも最隣国についての知識がなさ過ぎる。それを埋める一助にしたいといういう意図もあって、私はいま韓国流歴史ドラマを興味深く見ている。とても面白い。ドラマとしても面白いが、歴史の勉強にもなって面白い。しかし、時々間違った歴史認識がある。たとえばつい2・3日前「ヨン・ゲソムン」というドラマで630年頃(白村江の戦いの30年ほど前)の東アジアにおける国家間の対立がテーマになっていた。「高句麗・百済・倭」対「唐・新羅」という対立なのだが、ドラマでは「倭」ではなく「日本」と言っていた。でもこれは、日本でも「倭=日本」という間違った学説が流布しているのだから、咎められるべきことではないか。

 歴史の勉強になるだけではない。ドラマの台詞に頻発する漢字熟語は、発音は異なるが、日本で慣用されているものと同じである。改めて共通の「文明の遺伝子」を持つているのだなあ、と感じ入っている。また俳優たちの面立ちからは、「文明の遺伝子」だけでなく「生物的遺伝子」も同じだと強く感じる。

 日頃そんなことを思っていたところ、新聞(29日付「東京新聞」)で次のような素敵な人と出会った。その人の名は山本貫三(やまもとかんぞう)さん。愛知県豊橋市在住。65歳。

 「漢字を通して韓国語を理解できるのは日本人の特権です」。昨年12月、3年がかりで韓国語を学ぶ人たちを対象とした参考書「韓日・日韓漢字語用例辞典」を出版した。

 兄が経営する飲食店で働いていたが、心臓の弁がうまく働かなくなる病気にかかり、3ヵ月間入院したのを機に60歳で引退。退職後の生きがいを探していたとき、ソウル市に住む高校時代からの親友宅を10年前から20回ほど訪れていたことを思い出した。
「韓国語で両国の文化を語り合えたら、どんなに楽しいだろう」

 5年前から週一回、市内の韓国語教室に通い始め、単語の多くが漢字を元にしていることに注目。面白さに気づき、読み書きが楽にできるようになった。

 3年前から韓国人講師と一緒に、日韓で共通する漢字を一覧表にするなど工夫も、韓国語学習者のための参考書作りを始めた。白帝社(東京都)と交渉の末、出版が決まった。

「出版後は、大学の研究者からも反響があり、身が引き締まる思い。少しでも韓国語を学ぶ人の役に立てれば光栄です」。

   (池内琢)

(2)
 前回、『全唐詩』でも『送晁監帰日本』の第3句はたぶん「遠」でだろうと推測した。これについてさっそくゴンベイさんからコメントを頂いた。ネットに『全唐詩』から採録した『送晁監帰日本』を掲載しているサイトがあるという情報だ。確認してみた。中国語のネットで、詩も現代中国語で書かれている。表題は『送秘書晁監帰日本国』であり、第三句は次のように書かれている。

 「九州何」あとの2文字は現代中国漢字で
(第4字)「処」の旁部分「几」が「ト」の字
(第5字)「遠」の旁部分「袁」が「元」の字


 それぞれ「処」「遠」の現代漢字であることを、手元の『現代日中辞典』で確認した。どうやら『須渓先生校本・唐王右丞集』以来、中国でも須渓先生の原文改訂版を採用しているようだ。

 さて今回のテーマ、詩の意味を吟味してみよう。まず、古田さんが採録した『極玄集』版により、全文を現代文に訳してみる。(『中国名詩選』と『唐詩講義』を参考にした。)


(送晁監帰日本)
晁長官が日本へ帰るのを見送る

(積水不可極)
大海は果てしなく極めることができない
(安知愴海東)
大海原のさらに東は知りようもない
(九州何処所)
あなたが帰っていく九州はどこにあるのだろうか
(萬里若乗空)
万里の彼方あたかも虚空に浮かんでゆくようだろう
(向国唯看自)
故国にむかってひたすら太陽を目指し
(帰帆但信風)
ただ風にまかせて進むほかない
(鰲身暎天黒)
大きな海亀が天光をあびて黒々と巨体を現し
(魚眼射波紅)
大魚の目の光が波を赤く染めている
(郷樹扶桑外)
あなたの故郷の樹々は扶桑のさらにむこう
(主人孤島中)
あなたはその孤島へと行くのだ
(別離方異域)
ここで別れてしまえばもはや別々の世界
(音信若為適)
どのようにして音信を交わしたら良いのだろうか

 古田さんの第三句の解釈は次のようである。


 問題は第三行目の、「九州何処所 九州いずれか所(ところ)せし」(阿倍仲麻呂さん)あなたが帰ると言っている九州はどこにある。

 そうするとこれは、日本列島全体を九州と言ったことは聞いたことはない、それで九州島となる。それに後の方に「主人孤島中」の句があり、「孤島」と書いてある。

 この場合「主人」というのは阿部仲麻呂。宴を催した側が主人、宴を催された側が客です。このような「主人」いう語の用法は、王維の詩にたくさん出てきます。われわれは普通、送別会というのは、別れていく方の人が「客」で、送る方が「主人」というか会を催すけれども、当時は逆だった。おそらくご恩返しという意味で、「主人」として阿部仲麻呂が会を催して、お世話になった人を「客」として呼んだ。それで阿部仲麻呂が「主人」。

 ついで「主人孤島の中」の句があり、「孤島」は九州島となる。

 では第3句を「九州何処遠」としている場合はどう解釈しているのだろうか。

『中国名詩選』の場合

 「九州」について次のように解説している。
「戦国時代の学者鄒衍(すうえん)は、中国の外に、同じような世界が九つあるとして、これを九州といった。」
 そして第3句を次のように訳している。

「中国の外にあるという九つの世界のうち、どこが遠いかといえば、それは君の帰る日本。」

『唐詩講義』の場合

 「九州」について次のように解説している。
「中国の外にある異域である九つの世界。通常、中国国内を古代の禹帝が分割したという九つの地域をいうが、ここではそれ以外に同様な地域が九つあるという伝承に基づく。むろん、日本の「九州」を指すものではない。」
 そして第3句を次のように訳している。

「中国の外にある九州で、何処がもっとも遠いのか(それはあなたが帰る日本)」

 両者とも同じ解釈で、これは『唐詩選』の解釈を踏襲している。

 もう一つの解釈がある。『唐詩講義』がふれていたが採用しなかった九州の意味。中国国内を「禹帝が分割したという九つの地域」。これを「禹貢九州」と呼んでいる。この立場での解釈では「あなたが帰るところは中国本土からどのくらい遠いですか。」となる。しかし「九州」は主語だから、この解釈は相当無理。

 「九州何処遠」に対するこれら二つの解釈について、古田さんの見解を聞いてみよう。

 中国人にとってふつうの九州。伝統的な中国の九州の考え方で、つまり中国本土の意味「禹貢九州」。
「あなたが帰るところは、中国本土からどのくらい遠くはなれているところか?」
と読みたい、……つらい読み方ですが、本当は「自(から)」を入れなければならないが、……なんとか読めないこともない。そう解釈するのか。

 それとも、もっと都合のよい解釈。『唐詩選』の解釈。全世界が九州に別れている。……普通はそう解釈されていますが、司馬遷の『史記』の中で紹介されている陰陽家の説として否定的に紹介されている大風呂敷のような説がある。全世界九州で、その一部が中国(中心)であるという説……大風呂敷のような、超古代史の考え方のような、その立場に立って理解する。
「全世界の中で、あなたの帰るところは一番遠いところにある。」と解釈する。吉川幸次郎さんなども、そう解釈され、岩波文庫や他の詩集の解釈でも同じく全世界九州である。

 (上の二つの解釈は)「遠」なら、まだなんとか、それで通用する。しかし「九州何処所」となると、ちょっとそれは読めない。九州は主語ですから。「九州はどこにあるのか」という解釈にならざるを得ない。それでこれは「九州」島のことだと、なってくる。

 一般に流布されている『唐詩選』型の解釈は、原文改訂を最初にやった実行犯「須渓先生」の「中国は一番偉い」というイデオロギー(中華思想原理主義)に誘導された解釈である。「須渓先生」の計略にまんまと乗せられたというわけだ。

 中国でも唐は、外国人である阿部仲麻呂が高位高官の官僚になれたことでも分かるように国際的に懐のひろい国だった。南宋は元の圧力下にあったので、今度は逆に中華思想を極端に強調する。そういう立場に立ちますので、「九州」という言葉自身が、中国以外で使われていること自身が、もう承知できない。それで(須渓先生が)「遠」に手直しする。

 もう一つ、静嘉堂文庫本というものでは、北宋刊本の南宋再刻本ですが、「去」に手直してある。「去」に直しますと、「全世界の中であなたはどこへ去って行くか。」と、なんとなく読める。

 ということで直しの入った後世の版本が、「遠」や「去」の字になっている。これに対して本来の一番古い版本では間違いなく「所」である。そういうことを京大人文科学研究所の『極元集』の版本を見つけて確認しました。すると、やはりこれは「九州」島のことである。そう考えざるを得ない。

 では王維のこの詩の「九州」島は、(中略)このばあいも八世紀半ばの阿部仲麻呂が「九州」島と言わなければ、相手が「九州」島というはずがない。今の阿部仲麻呂が帰ると言った時代には、もう地名の「九州」になっている。唐は地名としての「九州」を許す雰囲気の国だった。ところが後の中華原理主義のはびこる世の中になると、九州を「中国本土」の意味に解釈してしまって、いろいろ改竄を加えている。歴史的な意味は変っていることもつけ加えさせていただきます。

 そうすると阿部仲麻呂は、「私はこれから九州へ帰る。」と言っていた。九州島、そこに帰ると言っているということになるわけですよ。

 ここで 『地名奪還大作戦(12)』 を参照してください。そこでは阿倍仲麻呂が九州出身の人であることが論証されている。つまり王維は「仲麻呂は九州に帰る」と認識していた。その認識があったからこそ第3句「九州何処所」が創作された。

 ここで『送晁監帰日本』→『送秘書晁監帰日本国』という表題の原文改訂が問題となる。
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《「真説・古代史拾遺編》(117) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(10)


王維の詩『送晁監帰日本』について(1)


 王さんの論文は次のように続く。

 唐の詩人王維は古今絶唱といわれる二首の送別詩を世にのこしている。西域に遣わされる友人の元二に対して「君に勧む更に尽せ一杯の酒、西のかた陽関を出づれば故人無からん」と惜別し、阿倍仲麻呂に向かっては「聖人の訓えに服し、君子の風あり。正朔は夏時に本づき、衣裳は漢制に同じなり」と日本を謳歌する。シルクロードとブックロードの景観をありありと描きわけている。書物の伝える文明の遺伝子は、共通の心象風景を織り成し、心通ずる文化共同体をつよく支える。

 王さんのこの論文には、「小野妹子は遣隋使」という日本の学者の間違った「定説」を鵜呑みにしたりなど、部分的に瑕疵があるが、全体の論旨には異論はない。相変わらず中国や朝鮮を蔑視したり、敵視したりする偏頗なナショナリストが後を絶たない中で、「書物の伝える文明の遺伝子は、共通の心象風景を織り成し、心通ずる文化共同体をつよく支える。」という認識はとても重要だと思う。

 さて、今回は王維の詩がテーマである。王さんは送別の詩2編をあげている。それぞれ「送元二使安西(元二の安西に使いするを送る)」・「送晁監帰日本(晁監の日本に帰るを送る)」と題されている。

 前者はどなたにもおなじみの詩でしょう。私は高校生のときにこの詩を習った。ご多分にもれず、暗唱した。もちろん今でもそらんじることができる。ついでなのでその詩を掲載しておこう。

渭城の朝雨 軽塵を浥す
客舎 青青 柳色新たなり
君に勧む 更に尽くせ 一杯の酒
西のかた陽関を出づれば故人無からん


 閑話休題。
 テーマは二つ目の詩である。753年、仲麻呂は唐からの使者という名目で、遣唐使としてやって来ていた藤原清河と同船して故国への帰国の途についた。その時の送別の宴で王維が仲麻呂に贈った詩である。

 ちなみに、仲麻呂の乗った船は難破して、安南(ベトナム)に漂着し、仲麻呂は帰国を果たせなかった。755年に藤原清河とともに長安に戻ってきた仲麻呂は再び唐に仕えることになり、ついに帰国することはなかった。最後は潞州大都督(従2品)という高官にまで上りつめている。なお、仲麻呂の唐での名前は「晁衡」という。詩の題名中の「晁監」は「晁長官」という意である。

 さて、問題の詩は次の通りである。



送晁監帰日本 晁監の日本に帰るを送る

積水不可極 積水きわむべからず
安知愴海東 いずくんぞ愴海の東を知らん
九州何処所 九州いずれか所せし
萬里若乗空 万里、空に乗ずるがごとし
向国唯看日 国に向かいて、ただ日を看
帰帆但信風 帰帆ただ風にまかす
鰲身暎天黒 鰲身(ごうしん)、天に暎じて黒く
魚眼射波紅 魚眼、波を射て紅なり
郷樹扶桑外 郷樹 扶桑の外
主人孤島中 主人 孤島の中
別離方異域 別離 まさに異域
音信若為適 音信 いかんか通ぜん


 上の掲載した詩文は古田さんの講演録『古代史再発見 独創古代』から転載したもので、一般に流布されているものと異なるところが2ヵ所ある。表題と第3句で、一般にはそれぞれ次のようになっている。(以下、上記の講演録が教科書です。)

送秘書晁監還日本(秘書晁監の日本国に還るを送る)

九州何処(九州 いずれの処か遠き)

 古田さんが用いている底本は姚合(ようごう)という詩人の選した「汲古閣刊本 極玄集巻之上」である。上記のような違いが出てきた経緯を古田さんは次のように解説している。

『極玄集』。一番古い詩集である。これは9世紀、阿倍仲麻呂や王維がなくなってから百年も経っていない時期に、姚合(ようごう)によって編集された詩集である。彼自身は詩人でもあり、『唐詩選』の中に、彼の詩も二・三詩はある。その詩人の姚合が、八世紀以前の、七世紀ぐらいからの唐の初期の詩人の詩を編集したのが『極玄集』である。非常に古い。

 その他の詩集たとえば『唐詩選』。明代の偽作というか、現代中国では相手にされていない詩集です。商人が学生に頼んで編集した詩集、それは悪くはないのですが、明代の有名な大家の編集と偽って、「売らんかな。」で売り出した。後の人が調べてみると明代の大家の研究の記録が残っているが、全く『唐詩選』に関係した記録がない。それで中国では相手にされていない詩集です。

 ところが日本では荻生狙徠という江戸時代の有名な大学者が注目して、中国の詩をまとめてあって便利だということで大いに推奨したので有名になった。敗戦後はご存知の吉川幸次郎さんが名訳の岩波新書の『新唐詩選』を出されて、更に人気が高まった。その『唐詩選』では、「所」が「遠」になっている。

 では『極玄集』から直したのは、『唐詩選』が初めてかというと、そうではなくて南宋あたりに直されている。南宋の最後『須渓先生校本・唐王右丞集』という版本では「遠」に直されている。須渓先生(劉辰翁)というのはすごい先生で、自分で自分のことを「須渓先生」という朱子学の学者である。…朱子学、これは現在でいえば中華思想原理主義みたいなもの、中国は一番偉い。…そういうイデオロギーを強烈に主張する。その立場で校本を作る。それに反するものは書き直す。ひどいんですけれども。

 いま手元にある松枝茂雄編『中国名詩選』(岩波文庫)と赤井益久著『唐詩講義』(息子が大学で使っていた教科書)を調べたが、両者とも「遠」であった。

 『中国名詩選』は出典を明らかにしていない。『唐詩講義』は

『唐詩選』4、『全唐詩』127、『須渓先生校本唐王右丞集』5、『趙殿成注王右丞集箋注』12、など。

と記している。『全唐詩』・『趙殿成注王右丞集箋注』は清時代の編著だ。上で明記されている四つの詩選集では、たぶん全部「遠」なのだろう。

 ネットで調べたら、全部「遠」。「邪馬壹国ではなく邪馬台国」・「小野妹子は遣隋使」・「倭王武は雄略天皇」等々と同様に、間違いの方が大きな顔をしている。いやはや!!
《「真説・古代史拾遺編》(116) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(9)


「弥生の絹」・「國引き神話」


 王さんの論文の続きを読んでいこう。
 『続日本紀』を中心に、東アジアにおけるシルク類の流通を調べてみたところ、輸出二十六件に対し輸入は一件のみと、弥生時代から養蚕技術を導入し、奈良時代にいたると、高度な技術力と巨大な生産量をバックに、もっぱらシルクの輸出国に成長していたことが分かった。奈良朝にかぎっていえば、日本は海のシルクロードの終着駅というよりも、その始発駅だったといってもいいだろう。

弥生時代の倭国産絹

 弥生時代の倭国における絹生産の中心は、もちろんのこと筑紫である。既に『「邪馬台国」論争は終わっている。(7)』などでふれてきたことだが、今のところ、中国産の絹は春日市の須久(すく)岡本遺跡だけに出土している。他は全て倭国産の絹である。そして、倭国産の絹は博多湾岸とその周辺に集中している。

 近畿では奈良県天理市の黒塚遺跡の木棺から絹が出土している。もちろん倭国の絹で、その木棺はめずらしく桑の木で作られていろという。その墳墓の主は絹生産に一生をかけて、それを誇りにしていたのではないか。古田さんは「絹(蚕)を糸島・博多湾岸から近畿にもたらした人物であろう」と推測している。

 日本は周囲を海にかこまれた地縁により、大陸との人的交流がきわめて困難であり、したがって人よりも書物を師と仰ぐ独自の文明受容のモデルが考案されたのだろう。遣隋使以来、先進文明に追いつき追い越せで、江戸時代まで漢文書籍を孜孜(しし)として求めつづけ、ブックロードをきり開いたのである。

「大陸との人的交流がきわめて困難」?

 倭国以来日本が「漢文書籍を孜孜として求めつづけ」た理由の一つとして、「大陸との人的交流がきわめて困難」であったことをあげているが、その二つは無関係だろう。それに、果たして「大陸との人的交流がきわめて困難」だったろうか。私は、よく言われる「日本は稀なる孤島」という俗説を思い出している。(このテーマは 『「日本」とは何か』 で、かなり詳しく論じた。参照してください。)

 海を渡ることにはたいへんな危険が伴う。今でも海難事故は後を絶たない。ましてや古代の木造船ではその危険度は計り知れない。しかし、日本と中国・朝鮮との人的交流はその危険を越えて、縄文時代から盛んであったと思われる。古来、人間の活動範囲は意外と広かった。例えば次のような研究がある。(古田武彦著『吉野ヶ里の秘密』より)

 ウラジオストック周辺の三十数カ所の遺跡から出土した七十数個の黒曜石を顕微鏡による屈折率検査で鑑定した結果、その約5割が隠岐島の黒曜石、約4割が秋田県の男鹿半島の黒曜石、約1割が不明(中国と北朝鮮との国境の白頭山のものか)だったという。

 また、それら黒曜石の遺物(鏃)の出土遺跡は、放射能測定によると、前2000年から前1500年のものがという。縄文後期前半頃にあたる。

 古田さんは出雲風土記の「国引き神話」は縄文時代に成立した神話であるとし、その神話に出てくる「北門」を「大ウラジオ湾を原点にした沿海州の一帯」に比定している。この説が発表された当時、学者たちは“片腹いたい”とでも言うように一蹴したそうだ。上記の「発見」は、「国引き神話」についての古田説が正しいことを傍証することとなった。

 まず「国引き神話」を引用しよう。(岩波古典文学大系『風土記』より)

國引き神話(出雲國風土記 意宇郡)

意宇(おう)と號(なづ)くる所以(ゆえ)は、國引きましし八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)、詔(の)りたまひしく、
「八雲立つ出雲の國は、狭布(さの)の稚國(わかくに)なるかも。初國(はつくに)小さく作らせり。故(かれ)、作り縫はな」
と詔りたまひて、

「栲衾(たくぶすま)、志羅紀(しらぎ)の三埼(みさき)を、國の餘(あまり)ありやと見れば、國の餘あり」
と詔りたまひて、童女(をとめ)の胸鉏(むなすき)取らして、大魚(おふを)のきだ衝(つ)き別けて、はたすすき穂振り別けて三身(みつみ)の綱うち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來(くにこ)々々と引き來(き)縫へる國は、去豆(こづ)の折絶(をりたえ)より、八穂爾支豆支(やほにきづき)の御埼なり。此(か)くて、堅め立てし加志(かし)は、石見の國と出雲の國との堺なる、名は佐比賣(さひめ)山、是なり。亦、持ち引ける綱は、薗の長濱、是なり。亦、

「北門(きたど)の佐伎(さき)の國を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」
と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來々々と引き來縫へる國は、多久(たく)の折絶(をりたえ)より、狭田(さだ)の國、是なり。亦、

「北門の農波(ぬなみ)の國を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」
と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて三身の綱うち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來々々と引き來縫へる國は、宇波の折絶より、闇見(くらみ)の國、是なり。亦、

「高志(こし)の都都(つつ)の三埼を、國の餘ありやと見れば、国の餘あり」
と詔りたまひて、童女(をとめ)の胸鉏取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて三身の綱うち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來々々と引き來縫へる國三穂の埼なり。持ち引ける綱は、夜見の嶋なり。堅め立てし加志は、伯耆(ははき)の國なる火岳(ひのかみだけ)、是なり。

「今は、國は引き訖(を)へつ」
と詔りたまひて、意宇の社(もり)に御杖(みつえ)衝き立てて、「おゑ」と詔りたまひき。故、意宇といふ。謂(い)はゆる意宇の社は、郡家(こほりのみやけ)の東北(うとら)の邊(ほとり)、田の中にある墪(こやま)、是なり。圍(かく)み八 歩(あし)ばかり、其の上に一もとの茂れるあり。


 この神話に対する古田さんの読解は次の通りである。

『出雲風土記』中に、著名な神話がある。「国引き神話」だ。これによると、八束水臣津野命(やつかみづをみつののみこと)はつぎの四箇所から「国引き」し、大出雲を形成した、という。

 第一、志羅紀の三埼
 第二、北門の佐伎の国
 第三、北門の良波の国
 第四、高志の都都の三埼


 右の第一が新羅(朝鮮半島南半東岸)、第四が越(能登半島)を示す点、異論がない。この2例から考えると、つぎのルールがある。

①その二領域とも「出雲」に属しない。
②現在の日本国の内外を問わない。


 以上のルールによると、従来〝当て″られてきた、島根県北岸(鷺浦や農波等)・隠岐(島前・島後)は当らない(出雲と隠岐が別国とされたのは、後代の行政区画)。

 これに対し、妥当するところ、それはウラジオストックである。

(その一)
 「北」にある。また「門」というように、出入口、すなわち港である。
(その二)
 出雲から「北」に当っている。
(その三)
 四つのうち「二つ」を占める、その〝拡がりのバランス″から見て、この「北門」が小港や小領域では、ふさわしくない。

 以上だ。第二は、北朝鮮のムスダン岬である。北から見て、ウラジオストックの右翼に当る巨大な岬だ。第三は、これこそウラジオストック。沿海州を背景とし、「良波」は〝良港″の意であろう(「良い」の「ヨ」、「那の津」の「ナ」と「海」の「ミ」)。

 わたしは右のように理解した。

 では、この神話の「作者」は誰か。いうまでもない。出雲の漁民だ。なぜなら、「国」を綱で引き寄せて杭につなぐ、という、漁民が毎日の生活の中で行うべき労働、そのくりかえしだけで、この韻律豊かな神話が構成されている。インテリによる机辺の作ではない。漁民たちの集団、それが製作者たちである。 ― わたしはそう考えた。

 では、その製作時期はいつか。 - 縄文時代だ。なぜならそこに現われる、中心の「道具」は、縄と杭。金属器はない(「胸鉏」の語があるが、「すき」は木器あるいは栖(巣)城)。

 これに対し、『古事記』・『日本書紀』の「国生み神話」。ここでは「矛」と「戈」が主役だ。場所は筑紫。この状況は、考古学上の弥生時代の分布図と一致している。博多湾岸とその周辺を中心として、「矛」と「戈」の鋳型や実物が分布している。このような神話と弥生分布図との一致、それは偶然ではありえない。必然だ。すなわち、「この国生み神話は、弥生時代、筑紫の権力者によって作られた」、この帰結である。権力者は、自己の政治的支配の正当性を主張するために、この神話を作ったのだ。弥生新作神話である。

 以上のような、わたしの視点からすれば、金属器の登場しない「国引き神話」は、縄文期の成立。論理はわたしをそのように導いたのであった。

 さて、くだんの黒曜石の出所発見の意義について、古田さんは次のように述べている。

 この「発見」は、日本の学界に対して、画期的な意義をもつ。

 第一に、「縄文は、沿岸漁業に限る。彼等に遠出は不可能」そのように主張してきた、考古学の旧常識、それは打ち破られた。

 第二に、「現在に伝わっている伝承は、せいぜい室町以降。ほとんど江戸時代以降である」といった、「伝承」に関する民俗学の常識は打ち破られた。

 第三に、日本列島の歴史を「大和中心」でまとめることは不可能だ。まして「天皇家中心」など、とても、とても。あるいは「出雲中心」あるいは「東北、中心」の歴史観、すなわち、わたしのいう多元史観が、やはり不可欠だった。

 第四に、何といっても、「シュリーマンの原則」は、ここでも貫徹していた。神話・伝承の記録と考古学的出土物との一致、この肝心の一事がここでも、立証された。

 まして、ずっとあとの弥生時代、その同時代史料たる倭人伝と、日本列島の出土物分布と、この二つが一致せぬはずはない。

 そして第五。どんなに、従来の常識から見て、突拍子がなかろうとも、論理に従いきる。それが学問の生き死にする、要(かなめ)の場所である、ということ。

 古田さんの解明してきたことのうち、「従来の常識から見て」最も「突拍子」もない理論は、おそらく『魏志倭人伝の「裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)」は南アメリカの西海岸北半部(エクアドル・ペルー辺り)』という説だろう。この説も多くの学者により、一笑に付され、嘲罵されたのだった。(この古田説については既に 『「魏志倭人伝」の和訳文(2)』 で取り上げました。参照してください。)
《「真説・古代史拾遺編》(115) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(8)


「舒明紀」の遣唐使


 今回は「舒明紀」と「唐書倭国伝」の遣唐使問題。改めて簡単にまとめると次のようである。

「舒明紀」
630年 唐へ遣使
632年 唐使・高表仁をともなって帰国
633年 高表仁帰国

「旧唐書倭国伝」
631年 倭国が唐に遣使。唐使・高表仁が倭国に来訪。

 つまり高表仁という同一人物が631年には筑紫(倭国)を訪れすぐ帰国し、その翌年には近畿(ヤマト王権)を訪れている。不可能ではないが、高表仁にとってかなりきつい日程だ。また「舒明紀」の遣唐使は「旧唐書」には記録がない。これらから私は、「舒明紀」のこの記事は「倭国伝」の記事の剽窃ではないかと考えていた。しかしこの考えは、「推古紀」の場合と同様、次の3点から否定されなければならない。

(1)
 「旧唐書」においても分国との外交記事は記録していない。舒明時代も九州王朝が倭国の中心権力であった。「舒明紀」の遣唐使が「旧唐書」に記録されていないのは当然である。たぶんヤマト王権以外の倭国内の分国(吉備や毛野や出雲など)の権力者も、それぞれ中国との交流を求めたのではないだろうか。

(2)
 日程についても、「推古紀」と同様なずれが考えられる。(以下は『失われた九州王朝』による。)

631年(舒明3年) 3月1日
 百済王、義慈(ぎじ)は王子豊章(ほうしょう)を人質として送ってきた。


 この記事は当然九州王朝の記録の盗用である。
 ところで、631年の時の百済王は武王であり、義慈王ではない。義慈王の在位年代は641年~660年である。朝鮮側の年代は、中国側の年号で書かれているので、これを間違っていると言うことはできない。間違っているのは「舒明紀」の方であり、「推古紀」の場合と同様、10年以上のずれがある。

(3)
 その内容の著しい違いから見てヤマト王権の遣唐使は実際にあった事件だろう。しかし(2)により、実際の年代は10年以上後のことである可能性が強い。

 内容の違いのおおよそは前回次のように書いた。

 「舒明紀」の方は和気あいあいにのうちに親睦を深めたようだが、「旧唐書」では「礼を争い、朝命を宣ずに還って」ってしまった。

 この問題は古田さんが詳述しているので、それを転載しよう。(『法隆寺の中の九州王朝』より。なお〔〕内は管理人による注です。)

 これ〔「舒明紀」の仲むつまじさ〕に反し『旧唐書』倭国伝の場合、「王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」というのだから、結局、外交目的は不成功に終ったのである。「表仁、綏遠の才無く」とまで、いわれている。史書としては異例のことに属しよう。

 これも考えてみれば、当然のことかもしれぬ。なぜなら、多利思北孤は、みずから「日出づる処の天子」を称していた。それが訂正された形跡はない。裴世清は口頭外交をもって、事態の悪化を回避したにすぎぬ。

 したがって、まともに、両者が自己の格式(ともに天子)を主張すれば、大唐の使者と倭王と、相対するときの座の取り方一つで、衝突することであろう。そしてそれは原理上、和する可能性はない。

 なぜなら、たとえば魏使と卑弥呼の対面の場合、必ず、魏帝の代理人たる魏使が上座、卑弥呼が下座であったことと思われる。

 この点、大唐の使者(高表仁)もまた、それを要求し、倭国側は対等(天子同士)を要求するとすれば、高表仁が倭王に会う前に(前段階に王子と会ったさい)、すでに位取りをめぐる紛争が生じることは自明だ。高表仁は、四角四面に大唐の立場を主張し、倭国の王子側の大義名分論とおりあうことができなかったのではあるまいか。

 この点、舒明の方は逆だ。「天子―天皇」〔舒明時代は「天皇」ではなくまだ「大王」に過ぎなかった。後生、『日本書紀』の編者がヤマト王権の大王を全て「天皇」と言い換えた。〕だ。これは前者が優位、後者が劣位なのである。推古時代、「皇帝―天皇」〔唐からの国書では「倭皇」と呼んでいる。〕であって、しかも朝貢の語が使われていた。推古側も、これを容認して返報している。おそらく舒明時代も、これと同じ態度だったであろう。高表仁はここに、和すべき相手を見出したはずである。

 要するに、近畿天皇家の使者は、九州王朝の使者の配下(地方の雄者、分流)として、同時に、あるいは前後して、大唐と交流した。しかし、両者の姿勢は、大唐側から見て、決定的にちがっていた。一方は、戦うべき相手、他方は和すべき相手だったのである。

 大唐側は、ただ漫然と決戦〔白村江の戦い〕に突入したのではない。相手の内側を見定め、戦中と戦後への手を打っていた。少なくとも、手を定めていたのではあるまいか。

 裴世清・高表仁と、相次ぐ近畿天皇家との交流は、そのための下見、あるいは根まわしだったのではあるまいか。

〔注〕:唐が推古に対して使った「倭皇」という称号について、古田さんの論考を紹介しておこう。

 (推古の唐への国書で、推古は)相手(中国の天子)に対して「皇帝」と呼び「尊」と呼んでいる。自分については「天皇」という呼び名は使っても、慎重に「帝」とか「天子」とかいう至尊の用語は避けている。

 中国側では、天子の親族に対して「-皇」という追号をしても、「-皇帝」という追号はすべきではない。そういった言語感覚があったようである。

「君親を崇高し、功懿を褒明するに、乃ち皇号有り、終(つい)に帝名無し」(子彧、北魏の荘帝を諌む。『魏書』巻18。)

 上の『魏書』からの引用文の背景と意味ははおよそ次のようである。

 北魏の荘帝は、天子になった嬉しさからか、やたらに自分の兄弟などに、「何々皇帝」という名前を追号しようとした。それを硬骨の老臣子彧(しいく)が諫めた。
「それはだめです。そんな例は歴史をふり返ってみてもありません。「皇」だけならよろしい。それなら実際は皇帝などにならなかった兄さんにあげてもいい、その例はある。しかし「帝」というのは、もうこれは使ってはなりません」と。

つまり「倭皇」とは兄弟や臣下に与える称号なのだった。
《「真説・古代史拾遺編》(114) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(7)


「推古紀」のウソ八百(4)


 「推古紀」の次の「舒明紀」にも遣唐使記事がある。次のようだ。

630(舒明2年)8月5日
 大仁犬上君三田耜(だいににぬのかみみたすき)・大仁薬師恵日(くすしえにち)を大唐に遣わした。

632年(舒明4年)8月
 大唐は高表仁(こうひょうじん)を遣わして、三田耜を送らした。共に対馬に泊った。この時学問僧霊雲(りょううん)・僧旻(そうみん)および勝鳥養(すぐりのとりかい)・新羅の送使らがこれに従った。

10月4日
 唐の使者高表仁らが難波津に着いた。大伴連馬養を遣わして、江口に迎えさせた。船32艘と鼓・吹(ふえ)・旗職をかざってよそおいを整えたこれを迎えた。そして高表仁ら告げて言った。
「唐の天子の遣わされたお使いと聞き、天皇の朝廷にお迎えさせます」
高表仁はこれに応えて言った。
「この風の寒い日に、船を飾り整えて、 お迎え頂きましたことお迎え頂き、喜びに堪えません。」
難波吉士小槻(おつき)・大河内直矢伏(おおしこうちのあたいやひし)に命じて先導させ、館の前に案内し、伊岐史乙(いきのふびとおと)等・難波吉士八牛(やつし)を遣わして、客たちを伴って館に入らせた。その日、神酒を賜わった。

633年(舒明5年)正月26日
 大唐の客高表仁らが帰国した。送使吉士雄摩呂(きしのおまろ)・黒摩呂らは対馬まで送って還った。


 一方、『旧唐書・倭国伝』には次の記事がある。

631年(貞観5年)
 使を遣わして方物を献じた。太宗はその道の遠さを衿(あわ)れみ、所司(担当役人)に勅して毎年の入貢をしなくてもよいことにした。また、新州の刺史高表仁を遣わし、節(はたじるし)を持っていかせ、これを按撫させた。表仁は綏遠(遠方の国を按撫すること)の才が無く、王子と礼を争い、朝命を宣ずに還ってきた。


 どちらも唐からの使者は高表仁という同一人物だが遣使派遣の年が微妙に異なる。またその内容の方は著しく異なる。「舒明紀」の方は和気あいあいにのうちに親睦を深めたようだが、「旧唐書」では「礼を争い、朝命を宣ずに還って」ってしまう。何という違いだろう。

 『旧唐書』の「東夷伝」は「高麗・百済・新羅・倭国・日本」という5本立てで構成されている。つまり倭国と日本は異なる国として扱われている。「日本伝」は次のように始まっている。

日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大(きょうだい)、実を以て対(こた)えず。故に中国焉(こ)れを疑う。

 そして「旧唐書・日本伝」に記録されている遣唐使は、「隋書・俀国伝」や「旧唐書倭国伝」の場合と違って、ことごとく「続日本紀」の記録と一致している。

 『旧唐書』が言う倭国は九州王朝で、日本国は近畿王朝であることは明らかなのに、ヤマト王権一元主義にどっぷりつかっている学者たちは、「倭国と日本を併記する不体裁」と決めつけ、「倭国=日本国」として扱っている。

 以上のことから、「推古紀」・「舒明紀」の遣唐使記事は中国側には記録がないことになる。そこで私は、「推古紀」・「舒明紀」の遣唐使記事はそれぞれ「隋書・俀国伝」・「旧唐書・倭国伝」からの剽窃であろうと、考えていたが、古田さんによって、その蒙を啓かれることになった。この問題について、古田さんは次のように述べている。

 唐初における推古朝の対唐外交が『旧唐書』などに記載されていないのはなぜか、という問題だ。中国側の史書は、各夷蛮の代表の王者との国交をその夷蛮伝に記すことを常としている。これ以外に、各夷蛮内部の「別国の王」「分流の王」たちが競って中国の天子に遣使したこと、それは当然だ。また、中国側も、これに応答したことであろう。しかし、それらはいちいち史書内に記録されるとは限らない。むしろ、記録されない方が通例なのである。

 『旧唐書』は、七世紀段階では「倭国」(九州王朝)を代表の王者と見なし、八世紀初頭にいたってはじめて「日本国」(近畿天皇家)をもって代表の王者と見なした。

 それにしても、隋から唐への転換の直後、この新興の唐朝へ遣使した近畿天皇家(推古朝)の外交政策は、まことに機敏であると共に、その後の展開(白村江の戦いなど)への大きな伏線となった。

 さて、「隋書・俀国伝」と「推古紀」に裴世清という同一人物が出てくるし、「旧唐書・倭国伝」と「舒明紀」には高表仁という同一人物が出てくる。この問題取り上げよう。

 まずは「定説」が「推古紀」の「遣唐使」を「遣隋使」の誤りと断じた理由の一つであった「裴世清」問題について。

 本題に入る前に、煬帝(隋)はなぜ、国書を持たせず、単なる口頭外交にとどまる遣使(裴世清)を俀国に遣わしたのだろうか。

 俀国伝では、国書はとどけられていない。これも、故あることだ。なぜなら、その前年(607)、多利思北孤は例の国書
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無さや、云々」
を送った。これに対して煬帝は不快の意をしめし、鴻臚卿(4夷に関する事務、朝貢来聴のことをつかさどる官)に対して
「蛮夷の書、無礼なる者有り、復以て聞する勿れ」
と語ったとしるされている。

 にもかかわらず、翌年(608)煬帝が特に裴世清をその倭国に派遣したのは、なぜか。

 思うに、この不遜なる国、ないし人物(王)の実状を調査させること、それが目的だったのではないであろうか。

 ただ、みずから「天子」を称して送ってきた国書に対して、同じく国書をもって返礼する、それはすなわち、相手の天子自称を認めることとなろう。ここに国書不携帯の遣使、その背景があったのではあるまいか。

 さて、古田さんは『失われた九州王朝』では、「俀国伝」中の文言「請う塗(みち)を戒めよ(旅行の準備をお願いしたい)。」を九州から近畿への旅行と考えていた。つまり、九州王朝との国交を済ませた裴世清が分国のヤマト王権との交渉のために九州から近畿に向かったと。これについて『法隆寺のなかの九州王朝』では次のように述べている。

 けれども今ふりかえってみると、ここには史料批判の方法論上、大きなあやまりがあった。次の二点だ。

(1)
 右のような理解の仕方は、『隋書』倭国伝と『日本書紀』推古紀とを、安易に結びつけて解しようとする立場であった。確かに、推古紀には「裴世清の来訪記事」があり、近幾天皇家側は彼を難波に迎え、飛鳥なる都の地へ導いている。そして推古天皇に接見している。
 しかし、『隋書』は、七世紀前半(621~36)に初唐において成立した。したがってその読者は、長安を中心とする初唐期のインテリであった。もちろん、一世紀近くおくれて成立する『日本書紀』のことなど、夢にも知らない。だから両書を合せ解するのではなく、『隋書』それ自身によって、この倭国伝を解する、それが正道だ。

(2)
 そこで、その『隋書』俀国伝そのものによって見る限り、隋使裴世清の行路記事中、所在の明確なものは、「都斯麻・一支・竹斯・阿蘇山」という九州内部の地名だけだ。「難波」や「飛鳥」に類する地名も、瀬戸内海行路の叙述も、日本海沿岸の叙述も、一切出現していないのである。
 この史料事実を、先入観なく見つめる限り、わたしは次の命題を確認せざるをえない。 -「隋使、裴世清は九州より東(ことに近畿)へは行かなかった」と。

(3)
 したがって右の「戒塗」の語も、これを〝近畿への旅″と解することは適切ではなかった。

(4)
 とすれば、この一文は一見異例なほど、きわめて友好的な交歓ののち、無事帰国の旅へと出発したこと、そのさい「倭使」を同道したことがのべられていることとなろう。

 以上が、わたしの新しい理解だ。では、同じ裴世清という人物の出現する、俀国伝と推古紀との関係は、どのようになるのだろうか。

 古田さんは裴世清の官職名に注目する。

俀国伝では
 文林郎(従八品)
推古紀では
 鴻臚寺の掌客(正九品)

 二つの事件の間には10年以上(おそらくは12年)のずれがあることは前回確認した。この間に裴世清は降格したことになる。この官職名の違いについて、「定説」論者たちは
「同一人の並称もしくは兼務」
あるいは
「一方(文林郎)は旧称、あるいは通称」
というような解釈をしてきた。二つの事件の10年以上のずれの間には隋→唐という激変(王朝の交代)があったことを考えれば、この裴世清の「降品」問題もなんら不思議ではない。

 唐の高祖は、名は「禅譲」ながら、その実際は一部将であった彼が天子に成り上ったのであるから、そのさいの信賞必罰・論功行賞にもとづき、「昇格」「降格」例を大量に生んだことは当然だ。右は、その一例にすぎぬ。(古田さんは『旧唐書』から2例をあげているが略した。)

 裴世清の場合も、そうだ。彼は隋代「文林郎」の職にあった。これは秘書省に属し、いわば煬帝の懐刀的な存在として、俀国に派遣された。正規の外交官僚ではなかったのである。口頭外交にふさわしい。彼はそれに見事成功して帰国した。

 隋滅亡後、唐朝が興ってより、煬帝の恩寵を受けていた彼は、当然ながら「降格」された。それがわずかにとどまったのは、唐朝もまた、彼の才能を利用せんと欲したからであろう。そして正規の外交官僚たる「鴻臚寺の掌客」に任用されたのである。

《「真説・古代史拾遺編》(113) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(6)


「推古紀」のウソ八百(3)


 「定説」が「唐は隋の誤り」とした理由は二つあると思われる。一つは『隋書俀国伝』の607年(煬帝・大業3年)と608年(煬帝・大業4年)の記事と、『日本書紀』の607年(推古15年)と608年(推古16年)記事の日付が一致していること。もう一つは「俀国伝」に出てくる隋(煬帝)が送った使者・裴清と、「推古紀」に出てくる唐からの使者・裴世清が同一人物と見なせること。しかしそれ以外は両者の記事の内容が相容れない矛盾だらけであることを意に介さない。すべて「…であろうか。」と推測したり、論証抜きで「…をさす。」と断定するだけである。

 岩波大系本の頭注が、「推古紀」には「俀国伝」の開皇20年(600)の記事に当たる記録がないことを指摘していた。なくて当然なのだ。608年(推古16年)9月11日の記事には推古から大唐への返書が記録されている。その中の次の一節を再度掲載する。(今度は岩波大系版の読み下し文で。)

使人の鴻臚寺の掌客裴世清等至りて。久しき憶(おもい)、方(みざかり)に解けぬ。

 「久憶」は「長い間の願い」という意。「方」を「みざかり」と訓読しているが、私には「みざかり」の意味が分からない。手元の古語辞典を調べたが、こんな言葉はない。「方」を『漢語林』で調べた。「方」には25通りの意味があるが、「まさに。ちょうどこの時」という意だろう。つまり「久憶方解」は「久しく願いであった国交がいまかなった」という意だ。つまりこの時の遣唐使がヤマト王権が送った初めての遣唐使であった。それより先に遣唐使記事がないのは当たり前なのだ。

 次は「定説」が「唐は隋の間違い」とした第一の理由、『「俀国伝」の遣隋使と「推古紀」の遣唐使の年代が同じ』という問題を取り上げよう。(ここからは古田さんの『法隆寺の中の九州王朝』を教科書とします。)

 結論から言うと、「推古紀」と次の「舒明紀」あたりの記事には10年以上の年代誤差がある。古田さんの論証を紹介しよう。

 わたしたちは現在、比較的安定した年表をもっている。しかし、過去においてはそうではなかった。古代どころか、近世においてさえ、干支の当てはめ等の錯誤の実例に出合うことは少なくない。普遍的な年表がいまだ成立していなかったからである。  『日本書紀』の場合も、例外ではなかった。この推古紀の前後において、10年以上(おそらく、同じ干支の現われる「12年」か)のずれが現われている。その例をあげてみよう。

(A)(舒明3年=631)
 三月庚申朔、百済王義慈、王子豊章を入れて質と為す。


 舒明3年は、百済では、武王32年に当っている。そして義慈王元年は、641年である。だから、明らかにここには10年以上のずれが存在する(このあたりの百済側の史料は、中国側の年代を基準としている。したがって右の誤差は、同時に、『日本書紀』の年代が、中国側の年代と比べても、10年以上、上にずれていることをしめしている)。

(B)(推古17年=609)
 「百済王命じて以て呉国に遣はす。其の国、乱れ有りて入ることを得ず。更に本郷に返る。忽ち暴風に逢ひ、海中に漂蕩(ひょうとう)す。然るに大事有りて聖帝の辺境に泊す。以て歓喜す。」


 これは、百済憎、道欣(どうきん)・恵彌(えみ)を首として10人、俗75人が肥後国の葦北津(あしきたのつ)に漂着したときの、彼等の言である。ところが、ここにも不審がある。この推古17年は、隋の煬帝の大業5年に当っている。煬帝の得意の時代に当っている。運河造営、流求国侵略など、すべて成功裡に着々とすすんでいた時期だ。とても「乱れ有り」どころではない。その上、レッキとした隋朝へ行くのにそこがたとえ江南地方であったとしても、「呉国に遣はす。其の国……」と表現するのは、おかしな話ではないか。

 『日本書紀』は、中国の南北朝対立の時期において、南朝の方を「呉国」と表現している。

(雄略6年夏4月)
 呉国、使を遣はして貢献するなり。

(雄略8年春2月)
 身狭村主(むさのすぐり)青・桧隈民使博徳(ひのくまのたみのつかひほかとこ)を遣はして呉国に使せしむ。


 右は、その例だ。だが、これは南北朝対立の時期のことだ。隋朝のように、レッキたる統一国家の時期、やはり右の表現には、何か違和感があるのである。

 ところが、これを10年以上くり下げてみよう。それは、唐初の混乱期に当っている。通例の年表上は、義寧2年(618)5月、隋朝の第三代の天子、恭帝から、唐朝の高祖に代り武徳元年を称したことになっている。しかし、それは年表上の建て前にすぎぬ。

 隋の煬帝は三回にわたって行った高句麗侵略戦に失敗した。そのため、いわゆる隋末の大乱期をむかえ、諸将の反乱と建国相ついだ。いわゆる「中原、鹿を追う」大争乱期が到来したのである。もちろん、唐の高祖も、その一部将であった。『隋書』の恭帝紀には、

(義寧2年5月)
 是の日、上(恭帝)、位を大唐に遜(ゆず)る。


と書いてあるけれど、これは『隋書』を書いた唐朝側の建て前だ。その『隋書』にも、当時の状況が次のように書かれている。

(義寧元年12月癸未)
 薛挙、自ら天子を称す。

(義寧元年12月丁亥)
 桂陽の人、曹武徹、兵を挙げて反し、「通聖」と建元す。

(義寧2年3月)
 化及(人名)秦王浩を立てて帝と為し、自ら大丞相と称す。


 このような群雄乱立の状況は唐朝創立の武徳元年(618)以後も変わっていない。『旧唐書』によれば、

(武徳2年=619)

① 夏4月乙巳、王世充、越王侗の位を簒(つ)ぎ、僭して天子を称す。国、鄭と号す。

② 9月辛未、賊帥、李子通、江都に拠り、僭して天子を称す。国、と号す。

(武徳4年=621)

③ (5月、丙寅)王世充、東都を挙げて降る。

④ (11月庚寅)会稽の賊帥、李子通、其の地を以て来降す。    (高祖紀)


 右のように、武徳4年頃までは、実質上は、唐の統一は成らず、天下大乱の中にあったのである。

 ことに注目すべき点、それは、武徳2年~4年の間には、江南地方に、まさに「呉国」が存在したことである。右の②④では、「賊帥」と呼んでいるけれど、これは、唐朝側からの大義名分用語だ。実際上は、この時期において、「会稽に天子あり、呉国を称す」という状勢にあった。しかし、その武徳4年12月、この国は亡国の悲運に遇うた。おそらく南朝回復の理想をかかげて破れたのであろう。

 さて、問題の推古17年(609)を10年以上くり下げてみよう。まさに、初唐の天下大乱期に当る。そして12年あとの武徳4年(621)は、まさに「呉国に乱有り」の当時に的中しているのだ。ここでも、『日本書紀』の推古紀の前後に、10年以上(おそらく12年)の紀年のずれがあることが裏付けされている。

 以上によってみれば、『日本書紀』が「唐」「大唐」と書いているところは、まさに中国側の唐朝期に当っていたのだ、という、きわめて平凡な解答を手中にすることができよう。

 実に見事な論証だ。これに比べて、さまざな矛盾に目をつぶって安易に「唐は隋の誤り」とかたづけてしまう「定説」は学問とは言えない。
《「真説・古代史拾遺編》(112) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(5)


「推古紀」のウソ八百(2)


 隋の時代に遣唐使を派遣したという「推古紀」の年代の齟齬を「定説」は例の如く「唐」は「隋」の誤りとして解決をはかっている。宇治谷孟訳『現代語訳・日本書紀』では「唐(隋)」と表記して、この「定説」に従っている。「推古紀」をネタにしている記事をネット検索してみたら、私が調べた範囲ではすべて「唐」の「と」の字もなく、みんな揃って「隋」としている。誰も何の疑念を持つことなく「ウソ」が流布している。「定説」学者たちを信用しているからだが、罪は学者たちにある。

 岩波の日本古典文学大系は、「大唐」が初出する607年(推古15年)の記事「小野臣妹子を大唐に遣わした」の頭注で、論証抜きで「事実は隋」と断定している。「多利思北孤=聖徳太子」という「定説」に固執する限り真実への道は永久に開かれない。

 続いて頭注は『隋書俀国伝』(頭注は「倭国伝」と表記している)から、かの有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という文言を含む「大業3年」の記事を原文で全文引用している。(ただし「俀王」の名前「多利思孤」を「多利思孤」と原文改定している。「彦」に結びつけるための原文改定である)。そして、「なお同書に、これより先開皇20年(600)の遣使のことがみえるが、書紀には見えない。」と指摘している。これは「唐は隋の誤り」という愚説を改めるカギの一つなのだが、このことについては何も論じていない。

 さて、「推古紀」の謎を解くためには「推古紀」と『隋書俀国伝』の記事との対比が欠かせない。『隋書俀国伝』から関連記事を抜き書きしておこう。

600(文帝・開皇20年)
 俀王がおり、姓は阿毎(アメ)、字は多利思北孤(タリシホコ)、阿輩難弥(アメキミ?)と号した。使を遣わして闕(けつ 隋都長安)に詣った。上(文帝)は役人(係官)にその風俗を訪ねさせた。使者は次のように言った。
「倭王は天を兄とし、日を弟としている。天がまだ明けないとき、出かけて政を聴き、結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢で坐り、日が出れば、すなわち理務をとどめ、わが弟に委せよう、と言う」
 高祖(文帝)は「これは大いに義理のないことだ」といって、訓(おし)えてこれを改めさせた。

607年(煬帝・大業3年)
 その王多利思比孤が、使を遣わして朝貢した。使者は次のように言上した。
「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興す、と聞いている。故に遣わして朝拝させ、かねて沙門(しゃもん)の数十人が、中国に来て仏法を学ぶのである。」
 その国書に曰く
「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。
 帝はこれをみて悦ばず、鴻臚卿(こうろけい 外交官)に次のように命じた。
「蛮夷(俀国)の書は、無礼なところがある。ふたたび以聞(天子に申上)するな。」

608年(煬帝・大業4年)
 明年、上(煬帝)は文林郎の裴清(はいせい)を遣わして倭国に使させた。百済を度り、竹島にゆき、南に〈身冉〉羅(たんら)国(済州島)を望み、都斯麻国(対馬)をへて、はるかに大海の中にある。また東にいって一支国(壱岐)に至り、また竹斯(ちくし)国(筑紫)に至り、また東にいって秦王国に至る。
 その(俀国の)住民は華夏(中国)の人と同じだ(似ている)。ここは夷州であるが、それが疑わしく明らかにできないほどだ。
 また十余国をへて海岸に達する。竹斯国から以東は、みな倭に附庸する。
 倭王は小德の阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓角(太鼓と角笛)を鳴らして来迎した。十日後にまた、大禮の哥多毗を遣わし、二百余騎を従えて郊外で慰労した。
 既に彼の都に至った。その王、清(裴清)と相見え、大いに悦んで言った。
「私は海西に大隋、礼儀の国があると聞いている。故に遣わして朝貢した。私は夷人にして、海隅の辺境にあって、礼儀を聞くことがない。そこで境内に留まり、すぐに相見えなかった。今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待っている。願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい」。
 清が答えて言った。
「皇帝の德は二儀(あめつち)にならび、沢は四海に流れる。王が化を慕う故に、使者を遣わして来させ、ここに宣諭する次第です。」
 既に清を案内して館に就かしめた。その後、清が人を遣わして、その王に言った。
「朝命は既に伝達したので、戒塗(旅行、つまり帰国の準備)をお願いしたい。」
 そこで宴を設けて清を遣わして享受させ、また使者を清に随伴させて方物を貢献させた。
この後、遂に途絶えた。


 さて、『日本書紀』の編者は「隋」をすべて「唐」と取り違えていたのだろうか。そんなことはない。「推古紀」に次の記事がある。

618年(推古26年)8月1日
 高麗が遣わして使いをおくり、土地の産物をたてまつった。そして次のように言った。
隋の煬帝は、30万の軍を送ってわが国に攻めてきました。しかしかえってわが軍のために破られました。今そのときの捕虜貞公(ていこう)・普通(ふとう)の二人と、鼓吹(つづみふえ)・弩(おおゆみ)・石弓の類十種と、国の産物・駱駝一匹とをたてまつります」といった。


 618年は隋が滅亡した年である。もちろん、ここの高麗は後の王氏高麗(918年~1392年)ではなく、高句麗のことである。煬帝は高句麗に三回(611年 612年 614年)侵攻し、三回とも失敗している。そのときの戦勝報告だから、この記事には年代の齟齬はない。しかし高句麗の遣使の相手国は九州王朝だろう。この記事は盗用記事ではないか。

 このころの倭と高句麗は友好関係にあり、文化的な交流が盛んであったようだ。このときからおおよそ40年後の白村江の戦い当時、倭・百済・高句麗は同盟関係にあった。白村江の戦いで、倭・百済・高句麗軍は唐・新羅軍に敗退する。「旧唐書・百済伝」に次のような記事がある。

662年(龍朔2年7月〉
 (扶余豊)又使を遣わして高麗及び倭国に往かしめ、兵を請いて以て官軍を拒(ふせ)がしむ。

同年(白江の戦)
 仁軌(帯方州刺史、劉仁軌)、扶余豊之衆に白江之口に遇い、四戦皆捷つ。其の舟四百般を焚き、賊衆大潰す。扶余豊、身を脱して走る。偽王子、扶余忠勝・忠志等、士女及び倭衆を率いて並びに降る。百済の諸城、皆復(また)帰順す。孫仁師(左威衝将軍)と劉仁願(郎将)等と、振旅して還る。

665年(麟徳2年8月)
 其の盟文に曰く「往者、百済の先王、逆順に迷い、鄰好に敦(あつ)からず、親姻に睦(むつま)じからず。高麗に結托し、倭国に交通し、共に残暴を為し、新羅を侵削し、邑を破り城を屠り、略寧(ほぼやす)き歳無し。……」


 一方、ヤマト王権は度々遣唐使を送り、唐とよしみを通じていた。この東アジアにおける国際関係は推古の時代でも同じであったと思われる。また、「旧唐書」に「日本(近畿王朝)は旧小国、倭国(九州王朝)の地を併せたり」とある通り、推古の時代、ヤマト王権は「小国」というのが唐や高句麗の認識だったろう。高句麗の遣使が九州王朝の分流であるヤマト王権に貢物を持参して朝貢するいわれはない。

 ともあれ、『日本書紀』の編者は、言うも愚かなことながら、隋と唐は違う国であると認識している。唐(則天武后)は「倭国(九州王朝)の別種」として「日本国(近畿王朝)」を認めた。前々回で取り上げたように、『日本書紀』が編纂された時、近畿王朝は遣唐使を派遣していた。「隋」との外交記事全てで、相手国名「隋」をうっかり「唐」と書いたなどあり得ない。つまり「推古紀」の遣使は「遣隋使」ではなく、書かれた通り、「遣唐使」である。『日本書紀』の編者が間違ったのは年代の方なのだ。次回詳しく論じよう。
《「真説・古代史拾遺編》(111) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(4)


「推古紀」のウソ八百(1)


 『古事記』は「推古記」で終わっているが、その記事は次のようになっている。

 妹(いも)、豐御食炊屋比賣(とよみけかしぎやひめ)命,小治田(おはりだ)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしめすこと、參拾漆歳(みそぢあまりななとせ)なりき。【戊子の年三月十五日癸丑の日に崩りましき】御陵大野の岡の上に在りしを、後に科長(しなが)の大き陵に遷しき。

 これで全部だ。ヤマト王朝の正当性(大義名分)を粉飾するという観点から、『古事記』が検定不合格になったのは「むべなるかな」である。

 これに対して「推古紀」(『日本書紀』)は、「推古の即位・聖徳太子摂政のこと・新羅征討・冠位12階の制定・17条の憲法・鞍作鳥のこと・遣唐使・兔田野の薬猟・聖徳太子の死亡記事・新羅征討の再開・寺院僧尼の統制・蘇我馬子のこと・天皇の崩御」と、虚実取り混ぜて華々しい記事となっている。岩波大系本では、前後の「崇峻紀」10ページ・「舒明紀」20ページに対して、「推古紀」は43ページにわたる。いかに力を入れて書かれているかが分かる。

 さて今回のテーマは

「小野妹子を隋に通わした」?

である。まず「推古紀」における「唐」との外交記事を抜き書きして見よう。(現代語訳で記載する。)

607年(推古15年)7月3日
 大礼(だいらい)小野臣妹子を大唐に遣わした。鞍作福利(くらつくりのふくり)を通訳とした。

608年(推古16年)
4月
 小野妹子が大唐から帰ってきた。大唐の国では妹子を名づけて、蘇因高(そいんこう)とよんだ。大唐の使人裴世清(はいせいせい)と下客(しもべ)12人が、妹子に従って筑紫についた。難波吉士雄成(なにこわのきしおなり)を遣わして、大唐の客裴世清らを召した。大唐の客のために新しい館を難波の高麗館(こまのむろつみ)の近くに造った。

6月15日
 客たちは難波津に泊った。この日飾船(かざりふね)30艘で、客人を江口(えぐち)に迎えて、新館に入らせた。中臣宮地連烏摩呂(なかとみのみやどころのむらじおまろ)・大河内直糠手(おおしこうちのあたいあらて)・船史王平(ふねのふびとおうへい)を接待係とした。
 このとき妹子が奏上した。
「私が帰還の時、唐の帝が書を私に授けました。ところが百済国を通った日に、百済人が探りこれを掠(かす)めとりました。書をお届けすることができません。」
 群臣はこれを詮議して言った。
「使者たるものは死をもっても、任務を果すべきである。この使いはなにを怠って、大国の書を失ってしまったのか。流刑に処すべきである。」
 このとき、天皇は次のように言った。
「妹子は書を失った罪があるが、軽々に処罰してはならない。大国の客人の耳に入ってはよろしくない。」
 妹子を赦して罰しなかった。

8月3日
 唐の客は都へはいった。この日、飾騎(かざりうま)75匹を遣わして、石榴市(つばきいち)の路上に迎えた。額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじひらふ)がお礼の言葉をのべた。

8月12日
 客を朝廷に召して使いのおもむきを奏上させた。阿倍鳥臣(あべのとりのおみ)・物部依網連抱(よさみのむらじいだき)の二人を、客の案内役とした。大唐の国の進物を庭の中に置いた。使者裴世清は自ら書を持ち、二度拝して使いのおもむきを言上した。その書に曰く、
「皇帝、倭皇をとぶらう。使人の長吏(ちょうり)大礼蘇因高らが訪れて、よく意を伝えてくれた。私は天命を受けて天下に臨んでいる。徳化を弘めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持は土地の遠近にかかわりない。皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内は平和で人々も融和し、深い心映えには至誠あって、遠く朝貢することを知った。そのねんごろな誠意は私の嘉するところである。ようやく暖かな時節である。私は常の如く過ごしている。鴻臚寺(こうろじ)の掌客(しょうかく)(外国使臣の接待役)裴世清(はいせいせい)を遣わして送使の意をのべる。あわせて別途のように送り物をする」と。
 そのときに阿倍臣(あへのおみ)が進み出て、その書を受けとり進んだ。大伴囁連(くいのむらじ)が迎え出て書を受けて、帝の前の机上に置いた。儀式が終って退出した。このときには皇子・諸王・諸臣はみな冠に金の飾りをつけた。また衣服にはみな錦・紫・繍(ぬいもの)・織(おりもの)および五色綾羅(あやうすはた)をもちいた。

8月16日
 客たちを朝廷で饗応した。

9月5日
 客たちを難波の大郡(おおこほり)でもてなした。

9月11日
 唐の客裴世清たちは帰ることになった。また小野妹子臣を大使(おほつかい)、吉士雄成(きしのおなり)を小使(そいつかい)、鞍作福利を通訳として随行させた。このとき天皇は唐の帝をとぶらって次のような書を持たせた。
「東の天皇が西の皇帝に敬い申し上げます。使人鴻膿寺の掌客裴世清らがわが国に来り、久しく国交を求めていたわが方の思いが解けました。秋となりようやく涼しくなりましたが、貴国はどのようでしょうか。貴方はいかがお過ごしでしょうか。当方は無事に過ごしています。今、大礼蘇因高・大礼雄成らを使いに遣わします。意をつくしませんが謹しんで申し上げます」
 このとき唐に遣わされたのは、学生倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのをさえみょう)・高向漢人玄理(たかむこのあやひとげんり)・新漢人大圀(いまきのあやひとおおくに)・学問僧新漢人日文(いまきのあやひとにちもん)・南淵漢人請安(みなふちのあやびとしようあん)・志賀漢人慧隠(しかのあやひとえおん)・新漢人広済(いまきのあやひとこうさい)ら合せて八人である。

609年(推古17年)9月
 小野妹子らが大唐から帰った。ただ通訳の福利だけは帰らなかった。

614年(推古22年)6月13日
 犬上君御田鍬(いぬかみのきみみたすき)・矢田部造(やたぺのみやつこ)〈名前は不明〉を大唐に遣わした。

615年(推古23年)9月
 犬上君御田鍬・矢田部造が大唐から帰った。百済の使いが犬上君に従ってやってきた。


 相手の国名は全部「(大)唐」である。しかし、隋が滅亡して唐が建国されたのは618年なのだ。上の記事は年代にはまだ唐は存在しない。隋の時代だ。

 これら一連のおかしな「遣唐使」記事を従来の「定説」はどのように解釈しているのだろうか。
《「真説・古代史拾遺編》(110) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(3)


養老の遣唐使


 王さんの論文は次のように続きます。

 中国の歴史書をひもとくと、彼らは長安に入ると、儒学者の趙玄黙に『論語』その他を習い、孔子廟や道観などを参拝してのち、
「得る所の錫賚(しらい)、ことごとく文籍を市(あがな)い、海に浮かんで還る」(旧唐書)
と記されている。

 唐王朝は50あまりの国々から遣唐使を受け入れているが、それぞれの朝貢品に対して返礼した錫賚とは、ほとんどがシルク類であった。それを目当てにした西域諸国の使節らによって、東西間をむすぶシルクロードが賑わったわけだが、日本の遣唐使はなぜシルクを売って書物を持ち帰ろうとしたのか。一見すれば、養老の遣唐使がとった行動は怪異にも見えるが、じつは書物招来こそ、その前の遣隋使以来、日本側が一貫して定めた目標だったらしい。

 平安期の文献『経籍後伝記』によると、小野妹子を隋に通わしたのは「書籍を買い求めしむ。兼ねて隋の天子を聘(と)う」とあり、つまり書物購入がもともとの使命で、煬帝にまみえる政治的行為は兼業にすぎなかった。そういえば、奈良時代の太子伝で、小野妹子が政治中心地の大典城(隋の都)をはるかに離れた南方の衡山(こうざん)にのぼり、『法華経』を捜し求めたと語られる不思議な苦労話も、ただの伝説として片づけられなくな る。

 王さんは『経籍後伝記』とか「太子伝」とか、マイナーな文献から引用して、小野妹子が派遣されたのは隋としているが、これはもちろん間違い。小野妹子は遣隋使ではなく、遣唐使である。ヤマト王権が遣隋使を送ったことはない。この問題は後ほど詳しく検討しよう。いまは「養老の遣唐使がとった」怪異な行動の動機を検討する。

「得る所の錫賚(しらい)、ことごとく文籍を市(あがな)い、」について

 錫賚(陶磁器・金銀器・絹製品など)とは唐の皇帝から朝貢国の王に下賜された貴重品である。当然遣唐使はそれらを本国に持ち帰り、天皇に報告しなければならない。遣唐使が勝手に処分できる物ではない。それをすべて金に換えて書物を買いあさったというのだから、下賜した唐の皇帝に対しても失礼であり、たしかに「怪異な行動」である。しかし、錫賚は遣唐使が勝手に処分できない物なのだから、その行動は当然出発時に朝廷から命じられた予定の行動のはずだ。ではなぜそのような命令が発せられたのだろうか。くだんの旧唐書の記事をONライン(701年)前後の年表の中に置いてみよう。(以下は内倉武久著『太宰府は日本の首都だった』を参考にしています。)

687年(天武10年)3月17日
 天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁(おさかべ)皇子…(以下10名略す)…に詔して、定帝および上古の諸事を記し校定させた。(日本書紀)


 九州王朝が大敗したあの白村江の戦い(663年)の24年後のこと。近畿王朝の正当性(大義名分)を主張する史書作成の準備を命じたものだ。『古事記』序文の次のくだりと軌を一にしていよう。

ここに天皇詔(の)りたまひしく、「朕(われ)聞きたまへらく『諸家の賷(もた)る帝紀及び本辭、既に正實に違(たが)ひ、多く虚偽を加ふ』といへり。今の時に當りて、其の失(あやまり)を改めずば、未だ幾年をも經ずして其の旨(むね)滅びなむとす。これすなはち、邦家の經緯、王化の鴻基(こうき)なり。故(かれ)、帝紀を撰録し、舊辭を討覈(とうかく)して、偽りを削り實(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」とのりたまひき。

 この天武の「削僞定實」のためには諸氏族の墓記(先祖の事績をのべたもの)を没収し、『日本旧記』など九州王朝の史書を禁書とする必要があった。

691年(持統5年)8月13日
 十八の氏(大三輪・雀部・石上……)に詔して、その先祖の墓記(先祖の事績をのべたもの)を上進させた。(日本書紀)

701年(文武5年)  大和王朝の初めての年号「大宝」を立てる。(続日本紀)

708年(和銅元年)
正月11日
 山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日経っても自首しないものは、本来のように罪する。
3月13日
 大納言正二位の藤原朝臣不比等を右大臣に任じた。(続日本紀)


 「墓記」の提出命令や禁書について、内倉さんは次のように論じている。

 (「墓記」の提出命令は)「古事記」の序文のなかで述べている「偽りを削り、事実を定める」という言葉に沿った措置であろう。何が「偽り」 であり、何が「事実」なのかは言及していない。記紀の叙述から判断すれば、「古来、日本列島の支配者はわれわれだった」という大和政権の大義名分が「事実」であり、紀氏らそのほかの氏族の伝承は「偽り」ということにされたと思われる。

 「奉らせる」という表現は、「死を賜る」と同じで、強制を伴う表現だ。平たくいえば「没収」である。偽りがある、といわれて、氏族の誇りであり、氏族の宝でもある「墓記」を没収され、誇り高い歴史を消された諸氏はどんな気持ちだったろうか。憤慨した氏族がほとんどだっただろう。しかし、にらまれればどんなことになるか……。黙りこむか、迎合するか、逃げるよりしかたなかっただろう。

 708年の「禁書提出命令」はさらにえげつない。「亡命」という言葉を使っている。「亡命」は律令で定められた罪のなかでもっとも重い「八逆の罪」のひとつである。国家や天皇に対する反逆であり、捕まれば死罪は免れない罪とされる。

 「禁書」が何という本なのか、書名はいっさい出していないが、「国家の存立とか、アイデンティティにかかわる本である」ことは言うまでもないだろう。そうでなければ天皇の命令である『詔勅』の形をとることはない」と古田さんは言う。

 なぜ禁書にしたのか、そしてなぜその本を抱えて山や沢に身を隠した人がいたのかを考えれば、逃げた人が所属していた国や個人のアイデンティティにかかわるもの、何よりも門閥や出身、氏族の歴史を重んじた当時の世相から考えると、「墓記」とか「史書」の類いであることは間違いないだろう。書紀・雄略紀にちらりと顔をだしている「日本旧記」もそのひとつである可能性が高い。要は、「新しい歴史づくり」、「偽りを削り、事実を定める」ことに、きわめてじゃまな存在の本であろう。これをまずつぶしておこうというねらいだったと考えざるをえない。新しい国家権力を背景に、「殺してでも」すべてを没収して闇に葬る必要があったのではないか。

 上の年表でことさらに藤原不比等の昇進記事を掲載したのは、以後大和朝廷の実質的な権力者は不比等であることを確認するためである。遣唐使の「怪異な行動」の命令者は不比等であったと思われる。

712年(和銅5年)
 太安万侶が「古事記」を撰上(古事記序文)

714年(和銅7年)2月10日
 従六位上の紀朝臣清人と正八位下の三宅臣藤麻呂に詔し、国史を撰修させた。(続日本紀)

717年(養老元年)2月23日
 遣唐使らが天皇にまみえた。(続日本紀)

開元の初、また使いを遣わして来朝す。… この題得る所の錫賚(しらい)、尽く文籍を市(か)い、海に泛(うか)んで還る。(旧唐書日本伝)

718年(養老2年)12月13日
多治比真人県守らが唐から帰郷した。

720年(養老4年)5月21日
一品の舍人親王は勅をうけて日本紀の編纂に従っていたが、この度それが完成し、紀卅巻と系図一巻を奏上した。

720年(養老4年)8月3日
 右大臣正二位の藤原朝臣不比等が薨じた。

 『古事記』についての記事は『日本書紀』にも『続日本紀』にも一切出てこない。検定不合格本となり、抹殺された。そして新たに『日本書紀』の編纂が始まる。それは「養老の遣唐使」をはさんで720年に一応の完成を見る。

 717年、唐に行って書物を買いあさった、という記事は興味深い。しかしこの記事は今、古代史学界で表立って取り上げられることはほとんどない。こんな記事があるということを知る人はほとんどいないのではないか。

 「日本の正史」である書紀の権威を傷つけることになり、ひいては書紀を「研究のよりどころになる唯一の史書」と位置づけようとする研究者にとっては、「あってはならない話」かもしれない。

 書紀は、天皇や臣下が言ったという言葉や行為の記事に、中国の史書や名文集を徹底的に利用して飾り立てている。元大阪市大の小島さんらの研究では、わかっているだけでも4000ヵ所近い。「史記」「漢書」「後漢書」「三国志」「梁書」「隋書」などの史書をはじめ、「文選(もんぜん)」、百巻ある「芸文類聚」という名文集、「金光明最勝王経」などの仏典が利用されている。時期が時期だけに、「買いあさった」という「文籍」がこれらの本であることはまず間違いなかろう。

 「新しい歴史」を飾るために不可欠な材料であり、「買い物」だったと思われる。「市中の文籍を買い尽くした」という表現は、唐の都・長安の市中でもトピックニュースだったのだろう。「下賜品を売り払うという失礼を犯し、あの連中は何をしようとしているのか」と疑いの目をむけている文面だ。

 「墓記」や「禁書」の提出を命じたのは、持統天皇とか元明天皇だが、それが天皇の意志かというと、それはもちろん、「読みが浅すぎる」解釈である。今も昔もそうだが、国家組織の意志は天皇の詔勅とか、将軍とか総理大臣、省庁大臣の名前で世に出る。しかし、それが天皇など個人の意志かというと、決してそうではない。この当時の大和政権を牛耳っていたのは藤原不比等という恐るべき政治家、謀略家である。

(中略)

 一連の「史書狩り」や史書づくりを指図していたのは不比等にほかならないと思われる。不比等は史とも書く。そして、日本書紀の筆者に紀氏の一人である紀清人を入れたのも、いかにも不比等らしい采配だ。紀氏は、おそらく6世紀ごろまで日本列島を代表する権力者で、「倭の五王」もこの氏族が出した大王だという系図もある。紀氏や、それを受け継いだ阿毎(天 あま)氏を中心にした政権の歴史を消すために紀氏を登用する。それは、「毒をもって、毒を制す」という戦略であったのではなかろうか。

 苦しい立場の紀清人はそれでも、できうるかぎりの抵抗をしているようだ。例の「日本旧記」という書名を、不必要と思われる形で出していたりしている。明らかに事実と違うことは書かなかったり、重要人物の名を「わからない」ととぼけたりして、苦労しつつも、本当の古代史解明への手がかりを残してくれているようだ。

 不比等が720年、「大義名分の史書・日本書紀」が出来上がるのを見届けるかのように死ぬのも何かしら象徴的である。

 『日本書紀』が引用・盗用・剽窃しているのは中国の文献や九州王朝の史書だけではない。朝鮮の史書「百済本記」「百済新撰」なども徹底的に利用している。
《「真説・古代史拾遺編》(109) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(2)


『万葉集』巻3 328番歌


「咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」をめぐって

 王さんが引用しているこのおなじみの歌は万葉集巻3の328番歌です。例によって岩波「日本古典文学大系」より転載しよう。

太宰少貳小野老朝臣(をののおゆのあそみ)の歌一首

あをによし寧樂(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり


 試みにネットを検索したら、 【目で感じる万葉世界】 さんに出会った。写真を添えた美しいページではあるが、その解説は、最も典型的な「奈良自慢」の解釈に、さらに「げすのかんぐり」を付け加えたもので、いただけない。

「作者小野老(おゆ)は大伴旅人が太宰府の長官だったころにその下にいた次官クラスの役人です。旅人もそうでしたが、花の都奈良から地方への転勤、天離る鄙への都落ちは、やはり相当ショックだったようです。「太宰府だなんていってみたところで、所詮は九州の田舎だ。やはり奈良の都でなくっちゃ。奈良はよかったなあ…都は大きいし、美人も多いし…」

 ところで、私が頻繁に利用している『現代語訳・続日本紀』(講談社学術文庫)の訳者・宇治谷孟さんはその「まえがき」をこの歌の引用から書き始めている。さすが、平城京の賑わいを謳うこの歌の裏側の現実に意を注いでいる。

青丹よし 寧楽の京師は 咲く花の
匂ふがごとく 今さかりなり 小野朝臣老

 爛漫と咲きはこる桜花の匂うがごとく、美しく映え栄える寧楽の京師。人は奈良といえば、先ずこの歌を思い浮かべ、豪華絢爛を奈良文化の象徴のようにイメージすることが少なくないようである。

 世界最大の木造建築と評される壮大な東大寺大仏殿の迫力。そこに鎮座まします毘慮舎那仏の麗姿と混然一体となって奈良時代を思い描く。天平という妙なることばのひびき、これに連なる正倉院御物の数々。しかしこの歌の作者小野老は、青丹映える平和な平城京の空気を呼吸しながら、これを謳歌したものではなかった。

 学問の神と崇められる天神様菅原道真の例にも見られるように、都から却けられた宮人の任地とされることが珍しくなかった九州大宰府の、大宰大弐(二等官)の職を最後として、彼はその地に果てた。

 宇治谷さんも、小野老は都から太宰府に却けられて失意のうちにあったと解しているが、果たしてそうだろうか。失意のうちにあったのは確かだろうが、それは左遷ゆえの失意ではなかったと思う。いま論証を省くが(いずれ取り上げる機会があるかも知れない)、大伴旅人も小野老ももとは九州王朝の優秀な知識人であり、能吏であった(次の引用文に出てくる山上憶良もそうだ)。この事をふまえると、この歌には意外な意味が付加される。後ほど詳述しよう。

 「岩波」の頭注によると、小野老が太宰少貳であったのは天平2年(730)頃だという。ヤマト(New)王権が名実ともに九州(Old)王朝からの権力奪取を果たしたONライン(701年)から、30年。しかし717年には、九州王朝レジスタンスの残党がなおも抵抗していた。『続日本紀』より、関連記事を拾ってみよう。

養老元(717)年11月17日
 山野に逃亡し、兵器を隠し持ち、百日以上になる者は、大赦なく、もとの通り罪とする


 九州王朝レジスタンスの完全制覇は723年と思われる。

養老7年(723)4月8日
 大宰府は次のように言上した。日向・大隅・薩摩三国の士卒は、隼人の賊を征討するために、しきりに軍役に引き出されて…

養老7年(725)5月17日
 大隅・薩摩二国の隼人たち624人が朝貢した。


 『続日本紀』は『日本書紀』に続く第二の日本紀という意味合いで、文武天皇の元年(697年)から、桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を、全40巻に収めた編年体の勅撰史書である。『日本書紀』のように、国威宣揚を意識した記述ではなくて、当時の大事業であった律令制の施行と、度重なる天変と凶作・そして疫病の蔓延・謀叛なども包むことなく記録しており、今日も底知れぬ彪大な愛好者を擁する万葉歌群の背景を理解するのには貴重な資料書である。

 文武帝という諡号からは文武両道に勝れた聖帝の感を与えられるが、多病で二十五歳という若さで夭逝された。その子・首(おびと)皇子が聖武帝であるから、頑健な体質ではあり得なかった。光明皇后との間に儲けられた第一皇子は、名前も定まらぬまま一歳となって他界する。

 聖武帝の生母宮子(文武の妃。不比等の娘)は、わが子の生誕の後36年目に、初めて母子対面したと記録されている。産後、長らく続いた鬱病のためということになっているが、尋常でない事情があったものと考えねばならない。

 律令制の下、人民は租・庸・調の重税にあえぎ、山上憶良の「貧窮問答」はその窮状を生々しく描写している。

 大宰少弐として九州に飛ばされた藤原宇合(うまかい)の長子広嗣(ひろつぐ)は、朝廷の失政と側近の非を鳴らて、中央に叛旗を翻した。これに通ずる者が少なからず、身の危険さえ感じた天皇は都を脱出するに至っている。広嗣はやがて斬殺されて乱は平げられ、帝は恭仁京(くにきょう)遷都を宣言し、廬舎那大仏の顕造を発願する。しかしその後も難波,信楽(しがらき)などと迷い続けた末、奈良に落着くことになるが、近侍の女官何人かが配流されるのは、帝を批判したことに依るらしい。

 聖武天皇の時、「藤原広嗣の乱」(740年)のほかに「長屋王の変」(729年)と呼ばれる事件があった。長屋王は「ひそかに左道(妖術)を学んで、国家(天皇)を倒そうとしている」と密告されて自殺に追い込まれている。そのとき長屋王は左大臣正二位という高位にあった。藤原氏による謀殺だったのではないか。密告をうけて長屋王の邸宅を包囲した軍勢を率いていたのが藤原宇合である。

 東大寺は総国分寺の意味を持ち、全国にはそれぞれ国分寺と国分尼寺が設けられるのであった。国を傾ける程の莫大な資財と労力を投入してなし得たことである。

 聖武の一人娘阿倍内親王は、聖武歿き後、女性ながら孝謙帝そして称徳帝として重祚し、藤原仲麻呂(恵美押勝〉・僧道鏡などを寵愛しすぎたため、王族たちにも背かれ乱を招き、幾多の犠牲者を生むことになる。

 ヤマト朝廷による陸奥侵略も庶民に大きな負担を与えていただろう。

養老4年(720)9月28日
陸奥国が次のように奏言した。「蝦夷が反乱して、按察使・正五位下の上毛野朝臣広人を殺害しました。」

養老4年(720)9月29日
播磨の按察使・正四位下の多治比真人県守を持節征夷将軍に任じ、左京亮・従五位下の下毛野朝臣石代を副将軍に任じ、軍監3人・軍曹2人を配し、従五位上の阿倍朝臣駿河を持節鎮狄将軍に任じ、軍監2人。軍曹2人を配し、その日に節刀を授けた。


 高校生用の年表を見ると、このときの遠征で蝦夷を征したように書かれている。しかし、陸奥の頑強なレジスタンスはさらに続いている。

神亀元年(724)3月25日
……海道の蝦夷が反乱を起こし、大掾従六位上の佐伯宿禰児屋麻呂を殺した。

神亀元年(724)4月7日
式部卿・正四位上の藤原朝臣宇合を持節大将軍に任じ、宮内大輔・従五位上の高橋朝臣安麻呂を副将軍に任じた。このほか判官8人・主典8人を任じた。海道の蝦夷を征討するためである。



 天平9年(737)4月14日の項には、陸奥の国に派遣された持節大使・藤原麻呂の言上文が4ページにわたって記録されている。『続日本紀』に記録されている最後の陸奥侵略記事は桓武天皇のときで次のようである。

延暦10年(791)正月18日
正五位上の百済王俊哲、従五位下の坂上大宿禰田村麻呂を東海道に、従五位下の藤原朝臣真鷲を東山道に遣わし、兵士を選んで検閲させ、さらに武具を検査させた。蝦夷を征討するためである。


 このときの蝦夷側の指導者はあの英雄・阿弖流爲(あてるい)である。阿弖流爲が降伏して陸奥が完全に帰順したのは延暦21年(802年)である(『日本紀略』)。
以前にも紹介しましたが、阿弖流爲が主人公の高橋克彦『火怨』をおすすめします。

 さて、328番歌である。この歌を古田さんが講演録『大嘗祭と九州王朝の系図』で取り上げている。それを紹介しよう。

 高校教師の頃、古田さんもこの歌を奈良の繁栄を手放しで謳歌している歌のようにとらえていたようだ。『私、国語で教える時、あれあんまり好きな歌ではなかった。なんかこう道長の「この世をばわが世とぞ思う」みたいなね、ああいう感じの歌のイメージで理解していたんです。』

 『法隆寺は移築された』(新泉社)の跋文で著者の米田良三さんがこの歌を取り上げている。古田さんはその跋文からこの歌の解釈について大きな示唆を受けたという。米田さんが指摘したのは、この歌が太宰府で作られていることから『太宰府で九州王朝の滅亡をみて、その廃墟で作っていることになる。そうすると普通に考えられているのと違った感じになるのではないか』というのである。

 もう一つ、誰もが328番歌の花は桜と考えるだろう。そして桜は平城京=ヤマト朝廷のシンボルだとも。

 この桜に対して、梅についての「富永さんの発見」というのがある。『万葉集』の中に梅の花を詠んだ歌がズラッと続くところ(815番~853番)がある。太宰府に赴任した大伴旅人が、中級・下級の官僚を集めて、そこで梅花の宴をや開いたときの歌だ。この一連の歌について富永さんは『梅の花というのは九州王朝のことをいってるんじゃないか。梅の花が散って桜の花の時期になった、桜の花の時期になったということは、近畿天皇家の時代になったことをいってるんじゃないか。』というのである。

 考えてみると、これは8世紀半ばですから、この人たちが生まれたのは7世紀後半なんですよ。つまり九州王朝の時期に生まれているわけです。下手したら青年時代も九州王朝かもしれない、そしたら皆胸の中に複雑なものがあるはずですよ。それがどうも歌い込まれているんじゃないか。もちろん菅原道真はまだ登場していませんよ、8世紀半ばですから、菅原道真がやってくる以前です。天神、それは天満宮です。天神さんは梅の花です。梅の花が天神さんのシンボル。天神さまは九州王朝の、ちょうど天皇家の伊勢の皇大神宮みたいなものなんです。そうすると天神イコール梅の花。梅の花を惜しむ、とこうなってくるとね、ちょっと聞いたら何を馬鹿な、といいたいところだが馬鹿じゃなくなってくるんです。これは実例をみないと。皆さん帰って『万葉集』をその目で見直してください。

 以上のことをふまえると、328番歌の次のような解釈がたいへん妥当なものとなってくる。

 太宰府となると九州王朝の廃墟です。8世紀ですから。もう九州王朝は亡んだと。そして今、大和で花が、花といえば桜の花でしょう、盛りである。しかし桜の花もまた散るわけですよ。永遠に咲きつづけている桜の花なんてないわけです。あの桜の花もいつの日か散る日があるであろう。ね、ドキッとするじゃないですか。そりゃ何百年だろうが何千年だろうが歴史の中では瞬間みたいなものですから。いつの日か桜の花も、この太宰府の九州王朝のように散る日がくるであろう。もうね、ノーテンキなおべんちゃらどころではなかったですね。ものすごい歴史観、何千年も見通した、するどい歴史観をのべていたわけです。

 思いがけず長くなってしまった。最後に、あの梅の連作の中に小野老さんの歌があるので、それを掲載しておこう。328番歌と響き合っていると思いませんか。

巻5 816番
 梅の花今咲ける如(ごと)散り過ぎず我が家(へ)の園にありこせぬかも 小貳小野大夫
《「真説・古代史拾遺編》(108) 東京新聞連載
「東アジア流2」をネタに(1)


井真成


 東京新聞(夕刊)で、4日から5回連続で「東アジア流」という連載が始まった。その連載の趣旨を次のように述べている。

「東アジアという風が吹いている。縄文の昔から極度に発達した資本主義の現代まで、吹いては凪ぎ、凪いでは時に、嵐ともなった。それぞれに語る東アジアの来歴と未来を、五回にわたって送ります。」

 私はこれを東アジアの平和的共存を探る企画と受け止め、深い関心を持って読んでいる。この連載の第二回は「ブックロード―文化圏の継承と創造を」という表題で、執筆者は王勇(ウン・ユン)さん。略歴は次のようです。

「中国の浙江工商大日本文化研所長・古代中日文化交流史 1956年、浙江省生まれ。著書に『唐から見た遣唐使』『中国史のなかの日本像』など。

 さて王さんは論文を古代史から説き起こしている。これを読んでいると、古田古代学で取り上げられているさまざまな問題が思い起こされてきくる。まず冒頭部分を引用する。

 東アジア共同体の話題が沸騰する中、一介の歴史研究者として、わたしは覚えず1200年も前の奈良時代に想いを馳せた。養老元(717)年、「咲く花の薫(によ)ふがごとく今盛りなり」と謳歌される「青丹よし奈良の都」を誇りにしていたであろう遣唐使は、「開元の治」と称えられる盛唐の都長安をめざした。一行には、留学生の双璧というべき阿倍仲麻呂と吉備真備のほかに、近年西安で墓誌が 発見された井真成(せいしんせい)らの顔ぶれが並んでいた。

井真成について

 2004年10月に中国・西安市で「井真成」墓誌が発見され、日本・中国両国で大きな話題となった。「井真成」という名は文献には見あたらず、この墓誌で初めて知られた名前である。  墓誌の訓読文は次のようである。(「ウィキペディア」から転載。「■」判読できない文字。)

贈、尚衣奉御、井公墓誌文、并序。
公、姓は井、字は眞成、國號は日本。
才は天縱に稱ひ、故に能く命を遠邦に■、騁を上國に馳せり。
禮樂を蹈み、衣冠を襲ひ、束帶して朝に■、與に儔び難し。豈に圖らんや、學に強めて倦まず、道を聞くこと未だ終へずして、■移舟に遇ひ、隙奔駟に逢へり。
開元廿二年正月■日を以て、乃ち官弟に終へり。春秋卅六。
皇上■傷して、追崇するに典有り。詔して、尚衣奉御を贈り、葬むるに官をして■せしめ、卽ち其の年の二月四日を以て、萬年縣滻水■原に窆るは禮なり。
嗚呼、素車は曉に引きて丹旐哀を行ふ。遠■を嗟きて暮日に頽れ、窮郊に指びて夜臺に悲しむ。
其の辭に曰く「乃の天の常を■、茲の遠方なるを哀しむ。形は卽に異土に埋むるとも、魂は故に歸らんことを庶ふ。」と。


 墓誌によると「國號は日本」とあるから、井真成さんはまぎれもなく日本人である。また玄宗皇帝・開元22年(734)に36歳という若さでなくなっている。開元22年は天平5年(733)の遣唐使派遣の翌年に当たる。そこでその前の養老元年(717)遣唐使の一人だろうと推定されている。もしそうだとすると、井真成は弱冠19歳で渡唐したことになる。ちなみに、阿倍仲麻呂(698-770、「古今和歌集目録」によれば、701年生れ。)も19歳である。

 阿倍仲麻呂は唐に残り、高級官吏に出世していて、その記録も、伝説を含めて、いろいろ残されている。

 一方の井真成。墓誌から玄宗皇帝に目をかけられていたことがうかがえる。彼の死を悼んだ玄宗皇帝から「尚衣奉御」(尚衣局の皇帝の近くに仕える責任者、従五品上)という役職を贈られているほどだ。それにもかかわらず井真成の記録は文献には皆無で、上記の墓誌だけがその存在を示している。

 阿倍仲麻呂は731年左補闕(門下省に属し、天子を諷諫してその過失を補うことを掌る役職。従七品上)に補されている。最後は潞州大都督(従2品)にまで出世するが、井真成が亡くなった時は二人はほとんど同じぐらいの位階の官吏だったと思われる。同じ遣唐使として唐に来て、帰国せずに唐の官吏となったにもかかわらず、二人には面識も交友もなかったのだろうか。不審だ。私は真成は遣唐使として仲麻呂と一緒に唐に来たのではなく、九州王朝からの亡命者として別途に来たのではなかったかと、勝手な想像をしている。亡命者と言えば、自らの意志で残った仲麻呂も一種の亡命者ではないだろうか。

 史料がないので井真成の出生地を確定することはできないが、いろいろな学者がいろいろな説を出している。「井真成」を王さんは「せいしんせい」と中国語風に読んでいるが、日本では「いのまなり」と読んでいるようである。「井」を「い」と読む立場からは次のような説がある。(以下の諸説はウィキペディアから拝借した。)

井上氏説 鈴木靖民(國學院大學教授)
 古代豪族で帰化人の末裔である井上氏の一族ではないかと主張し、葛井氏なら一字にする際に中国にも多い「葛」姓にするのではないかと主張。

葛井氏説 東野治之(奈良大学教授)・佐伯有清(元北海道大学教授)
 古代豪族で帰化人の末裔で外交官などを輩出している葛井氏の一族ではないかと主張。

 「井」を「せい」と読む立場からの諸説

情真誠説 張雲方(中日関係史学会副会長)
 中国の言葉でまじめでまっすぐな人柄を指すときに使う言葉の音に似た姓名を皇帝より下賜されたのではないかと主張し、日本名に関しては不明と主張。

中国姓説 王維坤(西北大学教授)
 「井」姓は唐の時代から長安周辺に多い姓であり、それを採用したと主張し、日本名に関しては不明と主張。

その他
 「井」という姓は、九州の熊本県に多く存在する。

 「倭の五王」の場合に劣らず勝手な憶測の百花繚乱である。しかしこの場合は、「倭の五王」の場合と違って、史料が墓誌しかないのでしかたないか。

 ところで、最後の「その他」と一段と軽んじられて扱われている説は、古田史学会の古賀さんの説である。「古賀事務局長の洛中洛外日記第1話 2005/06/11」から引用しておこう。

 最近何かと話題になっている「井真成(いのまなり)」についてです。中国で発見された墓誌により「井」さんが中国に渡り、当地で没したことが明らかになったのですが、藤井さんとか○井さんとかが日本名の候補として上げられているようです。

 他方、「井」という姓が日本に存在することから、文字通り「井(せい)」さんではないかという異見も出されています。古田先生もこの「井」という姓に注目されています。

 電話帳で調べた結果では、熊本県に圧倒的に濃密分布しています。中でも産山村・南小国町・一ノ宮町が濃密です。この分布事実は九州王朝説の立場からも大変注目されるところです。

 無根拠の推測ながら井真成は九州王朝からの亡命者ではないかと思っている私には、この古賀説はたいへん興味深い。

《今日の話題》

マスコミは相変わらず
  大資本の支配下にある。


 自民党小泉政権が行ってきた構造改革とは、要するに、大企業・高所得者・資産家の大減税であり、低賃金の派遣労働者を大量に作り出し、社会的弱者への高負担推進であった。この悪政を正して、担税力に応じて相応の税負担を分担する税制に戻せば、消費税増税などまったく不要であることは、 『「財源=税」問題を考える。』 を通して私(たち)の知るところである。

 民主党鳩山政権は、昨年12月22日、「2010年度税制改正大綱」を閣議決定した。この大綱の最後<今後の進め方>2項目で
「税制抜本改革実現に向けての具体的ビジョンとして工程表を作成。国民の納得を得たうえで工程表に基づき税制の抜本改革を実現。」
と謳っているが、「大企業・高所得者・資産家の優遇税制」の是正に真っ正面から向き合うことができるのかどうか、この大綱からはその気配はまったく感じられず、はなはだ心許ない。また、マスコミを通して私の耳目に入ってくるのは「消費税増税やむなし」の大合唱ばかりで、「大企業・高所得者・資産家の優遇税制」を取り上げた声は皆無である。しかし元日の東京新聞社説で、初めてそれを目にした。その部分を引用する。

 福祉や社会保障は弱者救済や施しの制度ではありません。われわれ自身の安心のためのシステムです。企業や家庭からみんなが支え合う時代へと移りつつあります。個人の自己責任でリスクに備えるよりみんなで支え合う方が有効ですし、失われてしまった社会連帯の精神を取り戻すことにもなるはずです。

 政府も税や社会保険など国民負担について率直に語り、論議は深められていくべきです。消費税ばかりでなく所得税も。1970年代は75%だった最高税率は現在40%、税の累進制や社会的責任の観点からこのままでいいかどうか。グローバル時代に適合する公平・効率の税制が構築されるべきです。わたしたちもその責任から逃れることはできません。

 前にもいくつか紹介したように、インターネットでは「大企業・高所得者・資産家の優遇税制」問題は多くのHPやブログで取り上げられている。今日も、そうした記事に出会った。

 私は『五十嵐仁の転成仁語』を毎日閲覧している。広い視野に立ち冷静で緻密な論理を展開していて、最も信頼できる論説の一つと評価している。このブログの1月3日の記事
新政権発足後の情勢と運動の課題 がすばらしい。現在の政治経済の問題点が余すところなくまとめられている。その中の税制問題の部分を転載させていただく。

 第3に、経済・産業政策では、日本産業の外需依存体質を改め、堅調な内需の喚起を図る必要がある。そのためには、自由に使えるお金と時間を増やすことが不可欠だ。輸出相手を北米・先進国中心からアジア・新興国向けにシフトし、税制面などでの大企業優遇を改め、中小零細企業への支援に力を入れ、緑のニューディールや福祉のニューディールなどによって新しい産業・技術・ニーズを開拓しなければならない。コスト削減を最優先に考える「コスト・イデオロギー」を払拭し、「技術立国」をめざすことこそ、日本産業再生への道だ。

 第4に、生活支援のための所得の再分配機能を強めることである。公益法人や業界団体などの中間団体を介在させず、直接的支援によって国民の可処分所得の増大を図らなければならない。「長生きを喜べる社会」「子どもを産むと得する社会」に変えること、貧困と格差を是正し、日の丸・君が代の強制や教育基本法改定による教育の歪みを正すことも必要だろう。税金は「富めるものから取る」べきであって、「貧しい者からは取らない」姿勢を明確にすべきだ。

 「日の丸・君が代の強制」や「改悪教育基本法」よる「教育の歪み」をも取り上げいるのはさすがである。この教育問題もマスコミが故意に避けている問題の一つだ。