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《「真説・古代史拾遺編》(107)
「倭の五王」補論(10)


「倭の五王」とはだれか:真説編(8)

 これまでのまとめとして、良山「古系図」で「倭の五王」と、今まで取りざたされてきた著名な王を比定してみよう。


初代玉垂命〔旨〕
 ↓
朝日豊盛命〔讃〕―暮日豊盛命〔珍〕
 |(九躰皇子次男)  (三男)
 ↓
物部日良仁光連〔済〕
 ↓
日往子明連〔興〕―日男玉頼連〔武〕
(宋書によれば
「讃・珍」と「興・武」は兄弟。
「珍」と「済」の続柄は記されていないが、
一応「讃」の世子とした。)
          |
          |(3代)
          |
         日往玉尊連
          ↓
         日明玉連尚
(「…連」から「連」+「一字名称」に変わる。
これは「松野連」系図の
「⑤「牛慈」(「武」の3代後)の時
  金刺宮の時、降伏して夜須評督になった。」
と符合する。)
          |
          |(10代)
          |
         神天子連家
                  〔多利思北孤〕
          |
          |(6代)
          |
         神面土連篤〔薩夜麻〕


 さて、稲員家の系図と高良大社の伝承によれば、稲員家は玉垂命の末裔であると言う。古賀さんは、広川町郷土史研究会より発刊された稲員家文書の冊子巻頭の佐々木四十臣氏(同会顧問)による解説を引用している。

 稲員氏の出自を同氏系図でみると高良大明神の神裔を称し、延暦21年(802)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。

 正応3年(1290〉鎌倉幕府の下知により、稲員良参(よしなが)が上妻郡古賀村(現在は広川町)に移り館所を構え田戸70町を領したことに、広川稲員氏の歴史が始まる。

 南北朝時代の稲員氏の動静は不詳であるが、戦国時代に入ると一貫して豊後大友氏の旗下として行動し、在地豪族としての地歩を固めながら、高良社神管頭としても大きな役割を担った。稲員孫右衛門安則(1633~1707)の孫安綱が著した『高良玉垂宮旧傳祭祀神職略記』によると、
『(前略)八人神管の頭領にして、同社の諸式令の行務・御幸・遷宮ならびに神輿一件の司職にて、先駈の吏務あり。金鼓具の護人を司り、且つ当社の重器三種の神宝出納職たり(以下略)』
ということからも、いかに大きな役割を占めていたかがうかがえよう。

(中略)

 稲員氏は天正16年(1588)から寶暦2年(1752)に至る165年間、8代にわたり広川谷において大庄屋職を勤めた。中でも前掲した稲員孫右衛門安則は『家勤記得集』を著したのをはじめ、数多くの記録類を書き残したことで知られる人物であり、広川谷のみならず、あまたの水利土工を手がけて抜きん出た事蹟をも残している。はたまた寛文9年(1669〉大祝保正・座主寂源とともに、絶えて久しかった高良社御神事の復活を成し遂げたことは、同社の歴史においても燦然と輝く功績といえよう。

 この解説を受けて、古賀さんは稲員家についてさらに次のように解説を加えている。(少し長いがそのまま引用する。)

 このように稲員家は時々の権力者からも崇敬を得ていたことが、同家文書の内容からもうかがいとれるのだが、なによりも注目すべきは、同家が高良大社の重器「三種の神宝」の出納職であったことだ。天皇家のシンボルである三種の神宝を持つ家柄こそ、九州王朝の末裔にふさわしい。

 同時に高良大社が三種の神宝を持つ社格であることは重要だ。伊勢神宮や熱田神宮でさえ三種の神宝すべてを持っているとは聞いたことがない。しかも高良大社では三種の神宝を隠し持っているわけではない。御神事祭ではその行列中に堂々と並んでいるのである。天皇家以外で三種の神宝をシンボルとして堂々と祭っている神社があれば教えてほしいものである。

 康暦2年(1380)の奥書を持つ高良大社蔵書「高良玉垂宮大祭祀」にも
「三種之神宝者、自草壁党司之事」
「草壁者管長先駈諸式令職務也」
とあり、稲員家が草壁を名乗っていた頃から三種の神宝を司る高良大社でも中心的な家柄であったことがわかる。ちなみに、高良大社は三種の神宝のみならず、「神功皇后の三韓征伐譚」(八幡愚童訓等)で活躍する「干珠・満珠」の二つの宝珠も神宝としている。更には七支刀も持っていたのだから、なんとも豪華絢爛、九州王朝の天子の居所にふさわしい宝物群だ。

 しかし、これだけではなかった。この地が九州王朝の王都であった証拠が高良大社文書『高良記』(中世末期成立)に記されていた。

「大并(高良大菩薩)、クタラヲ、メシクスルカウ人トウクタラ氏ニ、犬ノ面ヲキセ、犬ノスカタヲツクツテ、三ノカラクニノ皇ハ、日本ノ犬トナツテ、本朝ノ御門ヲマフリタテマツルヨシ、毎年正月十五日ニ是ヲツトム、犬ノマイ今ニタエス、年中行事六十余ケトノ其一ナリ」 (( )内は古賀注)

 ここで記されていることは、百済からの降人の頭、百済氏が犬の面をつけて正月15日に犬の舞を日本国の朝廷の守りとなって舞う行事が今も高良大社で続いているということだが、初代高良玉垂命がこの地に王宮をおいた時期、4世紀末から5世紀初頭にかけて百済王族が捕虜となっていることを示している。これに対応する記事が朝鮮半島側の史書『三国史記』百済本紀に見える。

「王、倭国と好(よしみ)を結び、太子腆支(てんし)を以て質と為す。」(第三、阿莘宰王6年〈397〉5月条)

「腆支王。(或は直支と云う。)……阿莘の在位第三年の年に立ちて太子と為る。六年、出でて倭国に質す。」(第三、腆支王即位前紀)


 『三国史記』のこの記事によれば、397年に百済の太子で後に百済王となった腆支が倭国へ人質となって来ていたのだ。この397年という年は、初代玉垂命が没した390年の後であることから、倭王讃の時代となろう。

 『日本書紀』応神8年3月条に百済記からの引用として、百済王子直支の来朝のことが見えるが、書紀本文には『高良記』のような具体的な記事はない。すなわち、百済王子が人質として来た倭国とは、近畿天皇家ではなく、九州王朝の新都心、三瀦あるいは高良山だったのである。

 百済国王子による正月の犬の舞は、いわゆる獅子舞のルーツではないかと想像するのだが、七支刀だけではなく王子までも人質に差し出さねばならなかったことを考えると、当時の百済と倭国の力関係がよく示された記事と思われる。この後(402)、新羅も倭国に王子(末斯欣)を人質に出していることを考えると、東アジアの軍事バランスが倭国優位となっていたのであろうが、倭の五王が中国への上表文にて、たびたび朝鮮半島(百済など)の支配権を認めることを要請しているのも、こうした力関係を背景にしていたのではあるまいか。

 このような東アジアの国家間の力関係をリアルに表していた伝承が、百済王子による犬の舞だったのであるが、現地伝承として、あるいは現地行事として伝存していた高良大社にはやはり九州王朝の天子が君臨していたのである。

 もう少し正確に言えば、現高良大社は上宮にあたり、実際の政治は三瀦の大善寺玉垂宮付近で行われていたと思われる。いずれも現在の久留米市内である。大善寺坊跡が「天皇屋敷」と呼ばれていたことは既に紹介した通りだ。

 さて、初代玉垂命には九人の皇子がいたが、次男朝日豊盛命の子孫が高良山を居所として累代続き(稲員家もその子孫)、長男の斯礼賀志命は朝廷に臣として仕えたとされている。しかし、その朝廷が太宰府なのかどうか、今一つ判らなかった。それがようやく判明した。高良大社発行『高良玉垂宮神秘書同紙背』所収の大善寺玉垂宮の解説に次のように記されていた。

「神職の隈氏は旧玉垂宮大祝(大善寺玉垂宮の方。古賀注)。大友氏治下では高一揆衆であった。高良大菩薩の正統を継いで第一王子斯礼賀志命神の末孫であるという。」

 玉垂命の長男、斯礼賀志命の末裔が、三瀦の大善寺玉垂宮大祝職であった隈氏ということであれば、斯礼賀志命が行った朝廷とは当時の王宮、三瀦だったのだ。すなわち、長男は三瀦で政治を行い、次男の家系は上宮(高良山)で神事を司ったのではあるまいか。これは九州王朝の特徴的な政治形態、兄弟統治の現れと見なしうるであろう。

 こうして、わたしの玉垂命探究はいよいよ倭の五王から筑紫の君磐井、そして輝ける天子、多利思北孤へと向かわざるを得なくなったようである。

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《「真説・古代史拾遺編》(106)
「倭の五王」補論(9)


「倭の五王」とはだれか:真説編(8)

 良山「古系図」の分析に戻る。

②高良玉垂命神―(2代)→朝日豊盛命神

 良玉垂命が高良山に来臨したのが仁徳55年(367)であることは、大善寺玉垂宮の由緒書により、すでに私(たち)の知るところであるが、高良山「古系図」にも「仁徳天皇治天五十五年九月十三日」という注記がある。古田さんもこれを倭国の「遷宮」と考えている。古賀さんの説くところ同じ判断をしている。

 中国の南北朝分立(316年)以後、高句麗と倭国は対立し、撃突した。その危機(高句麗の来襲)を怖れ、博多湾岸中心の「倭国」(弥生時代)は、その中枢部をここ高良山へと移動させたようである。それが右の「仁徳55<皇暦>」(367)だ。それ故、高良大社は、この「高良玉垂命神」を以て「初代」とする。

 ①の「孝元」(前214~前158)から②の玉垂命(367)までは数百年の隔たりがあるが系図①には「二代」(彦太忍信命・屋主忍武雄心命)しか記録されていない。古田さんはこれを各代の“集約形”と考える。

 これは「X(エックス)代」各代の“集約形”と見なさなければならぬ。たとえば、古事記の神代巻の末尾で
「故、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に伍佰捌歳(580才)坐しき。
として、一名の「ヒコホホデミノミコト」を以て「589年」(二倍年暦とすれば、290年)の各代の“代表名”としているのに、まさに同している。

 良山古系図はこの後、「九躰皇子」の第二子・朝日豊盛命神を「元祖」として展開していく。改めて「九躰皇子」の名称を記す。

(1)斯礼賀志命神 (2)朝日豊盛命神 (3)暮日豊盛命神 (4)渕志命神 (5)谿上命神 (6)那男美命神 (7)坂本命神 (8)安子奇命神 (9)安楽応宝秘命神

③物部日良仁光連―(6代)→日往玉尊連

 この世代はいずれも、末尾が「連(つら)」(「むらじ」ではない。)という称号で結ばれている。

 (1)物部日良仁光連→(2)日往子明連→(3)日男玉頼連→(4)神力玉依連→(5)日光玉一連→(6)日往玉尊連

 この世代の名称に使われている「連」について、古田さんは次のように解読している。

 「連(つら)」は、「津ら」であり、「ら」は「うら」「そら」「むら」などの「ら」である(「ぼくら」の「ら」と同じく、複数形か。力石巌 氏の説。)。“港の支配者”の意の称号、「海洋民族(海人<あま>族)の長」である。

 次の系図④の世代は「連」のあとに「和風一字名称」を添える時期である。

④日明玉連尚―(20代)→公賢皇連岩

1.日明玉連尚→2.舎男連常→3.日柱男連廣→4.大直連俊→5.大全神連親→6.日天男連信→7.大長津連秀→8.大勝津連平→9.神仲熊連豊→10.神天子連家→11.神道天連良→12.神司宮連法→13.神天仲連就→14.神頭国連軌→15.神斗玉連仍→16.神面土連篤→17.賢名皇連忠→18.意賢皇是連→19.賢天皇兼連→20.公兼皇連岩

 ③の6名と④の20名の名称に共通するものとして古田さんは『「神道式戒名」とも言うべきもの』をあげている。そして、この「神道式戒名」という概念が「今回、わたしがこの「古系図」の史料分析をなすべき基礎概念となった」と言う。

 仏教において、死後「戒名」の贈られること、周知のごとくである。「~院~居士」等の類である。これに対し、神道では「おくり名」(貴人)や、「霊璽」のあることも、当界では知られている。

 これに比し、高良山(大社)の場合、明治維新の「神仏分離」以前は、神仏習合の時代だ。「大祝」(神道)と「座主」(仏教)の両者並存であったこと、周知のごとくであるから、その時間帯の中で、「おくり名」としての「神道式戒名」が存在したとしても、何等不思議ではない。

 仏教の「戒名」でも、その中には“生前の業績や遺業”を、一部分に挿入すること、一般によく知られている。従って「神道式戒名」もまた、「戒名」の一種であるから、この類の一部挿入、もしくは業跡の反映があった、と考えても、決して不自然ではない。

 以上の前提に立って、④の「一字名称」を次のように分析している。

 このような「和風一字名称」(倭の五王)、そして先述の「仏教的一字名称」(「利」)との間には、命名文化上、何等かの「相関関係」あり、と見なすこと、十分に可能なのではあるまいか。中国的文化(一字名称)の影響である。

 この点、記・紀に現われた、近畿天皇家の「天皇名称(おくり名)」には、その痕跡乃至“同類表現”を見ることができない。この点と、好対照である。

 ④の「10.神天子連家」がある。「天子」の二字が含有されているのは、この一例だけだ。「日出ずる処の天子」を称した多利思北孤との関連が注目されよう。

 次に目立つのは、同じく④の16.神面土連篤」である。「面土」には“郷土に向う”“郷土にそむく”の意味がある。更に「面縛」の術語がある。

「面縛」
 両手を後に縛り、面を前に向ける。

 周の武王、紂を伐ち殷に克つ。微子乃ち其の祭器を持ち、軍門に造(いた)り、肉袒・面縛し、左に羊を索(ひ)き、右に茅を把(と)り、膝行して以て告ぐ。<史記、宋微子世家>

 この語は“王者が降服する際の儀礼”をしめす。この人物の「神道式戒名」に、他に例のない「面土」の表記が入っているのは、或は“降服した王者”であることを、一字もしくは二字として「反映」させているのではあるまいか。唐側の“捕虜”として年月をすごし、帰来をようやく許された、あの薩夜麻、筑紫の君である。(日本書紀の天智10年11月、及び持統4年10十月項)

 他にも、今後、史実との関連の指摘されうる事例を見出すことが可能であると思われる。

 ④の次の世代・系図⑤は「麻呂」という、明白に「臣下の位階」をしめす称号となっている。

⑤高麻呂連時―(26代)→星明麻呂保重

 ④のの終り「20.公賢皇連岩」と⑤の冒頭「高麻呂連時」の間には、「皇」=「天子時代」と「麻呂」=「臣下時代」という画然たる落差がある。これを古田さんは『旧「倭国」と新「日本国」との画期線』ととらえている。つまり、701年の権力交代を示している。

 このような“名称上の一大落差”を、後人がみだりに「仮構」しうるものではない。すなわち、他に非ず、史実の反映である。

 以上の史料批判により、良山「古系図」と稲員家「古系図」は、史実を反映した史料として使用できる重要な記録であることが分かった。
《「真説・古代史拾遺編》(105)
「倭の五王」補論(8)


「倭の五王」とはだれか:真説編(7)

②高良玉垂命神―(2代)→朝日豊盛命神

 朝日豊盛命神とは例の「九躰皇子」の第二子である。「九躰皇子」伝説は筑前(竈土神社)・筑後各地やその周辺に多く伝えられている。この「九躰皇子」について、古田さんは独自の解釈を提出している。それは意外にも、「隋書俀国伝」の解読の中にあった。今までの解読事項を概観した上で、その新たな解読事項を読んでみよう。(青字は「隋書俀国伝」からの引用)

<1>

開皇二十年、倭王あり、姓は阿毎(あめ)、字は多利思北孤(たりしほこ),阿輩雞彌と號す。使を遣わして闕に詣る。上、所司をして其の風俗を訪わしむ。使者言う、「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聽き、跏趺(かふ)して坐し、日出ずれば便(すなわ)ち理務を停め、云う我が弟に委ねんと。」

(中略)

名太子為利歌彌多弗利。
(この一文の読みについては後ほど取り上げられる)。

大業三年、其の王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて佛法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門數十人、来って佛法を學ぶ」と。其の國書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す、恙無きや、云云」と。

 『「日出ずる処の天子」を称した多利思北孤は、推古天皇や聖徳太子ではなく、「九州王朝の天子」である』ことはすでに私(たち)の知るところである。その論証の骨格は次のとおりである。

☆多利思北孤は男性であるが、推古天皇は女性である。

☆多利思北孤は“第一権力者(天子)”であるが、聖徳太子は“第二権力者(摂政)”である。

☆推古天皇や聖徳太子には「タリシホコ」という名称はない。

阿蘇山有り。其の石、故無くして火起り天に接する者、俗以て異と為し、因って禱祭を行う。

☆阿蘇山があるのは、言うも愚か、九州である。大和三山や三輪山の記事はない。また中国人には珍しい「内海」である瀬戸内海の風物も、一切記されていない。

<2>

名太子為利歌彌多弗利。

 この文の従来の読みは
「太子を名づけて利歌彌多弗利(リカミタフツリ)と為す。」
である。この読み方を古田さんは否とする。

 従来も太子の名とされたのは「リカミタフツリ」であるが、先頭と末尾が「リ」であるような名辞は、日本語にはない。

 「名太子為利歌弥多弗利」は
「太子を名づけて利と為す。歌弥多弗(カミタフ)の利なり。」
と訓む。「利」は仏教的一字名称、「カミタフ」は「上塔」。現在の九州大学の地に「上塔ノ本」「下塔ノ本」(字地名)がある。

 俀国からの国書の主署名が「多利思北孤」、副署名が「(第一行)歌弥多弗利(第二行やや下に)利」と書かれていたものであろう。「利」は“衆生利益”の意。「多利思北孤」の第二字にも、現れている。

 すなわち、彼等(王と太子)は、「和風称号」(多利思北孤)と「一字名称」(利)とを交て用いている。「一字名称」は、当然「倭の五王」以来の伝統の継承である。

<3>

其の地勢は東高くして西下り、邪靡堆に都す、則ち魏志の所謂(いわゆる)邪馬臺なる者也。

 このくだりの「邪靡堆」について、岩波文庫は次のような注を付けている。

「靡」は「摩」の誤りであろう。すなわちヤマト(邪馬台)。

 しかし、これは、実はありえない。なぜなら隋書俀国伝は「都斯麻」(対馬)「一支」(壱岐)「竹斯」(筑紫)というように、現地名(筑紫は現地名では「ちくし」)を厳密に表記している。その上、「靡」には「ひ」の音しかない。その「音」を指示すべき「音標文字」として加えられているもの、それが「麻」の下の「非」なのである。ことさら「ひ」の音であることを、明示しているのだ。それを「摩のあやまり」と称するなど、あまりにも法外な「原文改定の手法」だ。わたしには、全く同じえない。それゆえ、これは「やひたい」と訓まねばならぬ。「都」の地に対する、「現地音の表記」なのである。

 「やひ」は「八日」。“八つの太陽”の意。「堆(たい)」は、湿地帯に土埋めした領域を指す。(古田『失われた日本』原書房刊、参照)

倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。

 多利思北孤は、みずからを「阿毎(あま)」(天)と称し、弟を(日)と呼んだ、という。

 従来は、この「弟」を“一人”と「断定」的に考えてきていたけれど、この「弟」は複数存在しうる。八人の弟、つまり「八日」だ。「天(あま)である中心王者のもと、「日(ひ)」である、八人の弟たちがこれを支えるところ。」この意味をこめた「自称」、それがこの「やひたい」だったのではないか。

 この「仮説」が、今やわたしの眼に映じてきたのである。すなわち「九躰の皇子」伝説に立つ、歴史に由緒(ゆかり)深き「自称」だったのではあるまいか。とすれば、有名な「日出ずる処の天子」の名文句も、実は“八つの太陽を出だすところ(「八日堆」)に都する「天(あま)の子」(天神<あまつかみ>の子孫)”を誇示していた「自称」だったこととなろう。

 ― これが新たな「仮説」だ。そしてこの「古系図」理解の柱なのである。同時に、筑紫(筑前と筑後)を中心に、九州の中に数多く分布する「九躰の皇子」伝説に対応する「歴史認識」となるのではあるまいか。

《「真説・古代史拾遺編》(104)
「倭の五王」補論(7)


「倭の五王」とはだれか:真説編(6)

 今回の教科書は 『高良山の「古系図」 「九州王朝の天子」との関連をめぐって』 (以下『良山古系図』と略記)です。

 古田さんによれば、高良山の「古系図」は、稲員家の「古系図」と多くの共通点をもち、「特に、今回の主たる考察対象となった前半部に関しては、ほぼ「同型」と見なすことができ」るという。従って、この古田さんの論文を読むことは、稲員家「古系図」を知るという私(たち)の当初の関心をも満たしてくれるだろう。

 さて、古田さんはまず高良山「古系図」の全体像を紹介している。次のようだ。

①孝元天皇―(3代)→屋主忍武雄心命
②高良玉垂命神―(2代)→朝日豊盛命神
③物部日良仁光連―(6代)→日往玉尊連
④日明玉連尚―(20代)→公賢皇連岩
⑤高麻呂連時―(26代)→星明麻呂保重
⑥保家―(57代)→定儀
⑦称とその子供6人(二代) ⑧明暦3年の奥書、物部安清
⑨古文書目録(14種)
⑩文久元年の奥書、物部定儀誌


 この10項目を、古田さんは順次分析していく。

①孝元天皇―(3代)→屋主忍武雄心命

 12月19日付コメントでゴンベイさんが指摘してくれた三宅利喜男「『新撰姓氏録』の証言」を古田さんも取り上げている。それによると、『新撰姓氏録』の「皇別」の項では「孝元」が圧倒的に多く108家もある。その「孝元」の時代を表す「皇暦」を西暦に換算すると「前214~前158」である。紀元前3世紀末から2世紀前半という時代である。

 この「紀元前3世紀末から2世紀前半」という時代は、考古学編年で言うとどの時代に当たるだろうか。ここで従来の考古学編年を修正しておこう。

 従来の考古学的時代区分は土器形式の編年や出土遺物の年代観によって行われていた。長年の研究の積み重ねの結果、土器による編年は精緻を極めている。ゆえに大方の考古学者は土器による編年に疑いを持たない。しかしちょっと考えれば、この方法が正確さに欠くことは素人にも分かる。例えば土器の場合、同じ土器は全国ほぼ同じ時期に作られたとみなされ、形の違う土器でも同じ場所から出土すると全く同じ時に作られ使われたとみなされるようだが、文化や技術の伝播・交流はそんなに単純ではない。同じ土器でも地域が違えば作られた年代が違うことは当たり前ではないか。

 また従来は、日本列島の文化的先進地は畿内であるという先入観により、畿内の出土物を基準に各地の年代を推定している。8世紀までは、日本列島の文化的先進地は北九州であったことを私(たち)は知っている。

 どんなに精緻であっても、土器による編年は土器形式の変遷の順を示すだけのものである。あくまでもごく限られた地域についての相対的な編年を表す過ぎない。絶対年代を示す客観性はない。

 では考古学では絶対年代は決められないのだろうか。そんなことはない。『「倭の五王」とはだれか:真説編(3)』で古田さんが論拠に用いていたように、近年放射性炭素(14C)測定法や年輪測定法が進歩して、かなり正確な絶対年代が測定可能になった。にもかかわらず、大方の学者はこの理化学的年代判定を受け入れようとしないという。これを受け入れると、長年積み上げてきた古代史の多くの「定説」が反故になってしまうからだ。ヤマト王権一元主義の場合と同様な頑迷さである。理化学的年代判定の正当性は世界の常識なのに、このままでは日本の考古学会は世界の笑いものとなるだろう。

 理化学的年代判定については「太宰府は…」で内倉さんが詳しく論じている。年輪測定法によれば、九州地方の編年は従来考えられたものより「100~50年」さかのぼるという。内倉さんによる修正された考古学編年表を転載しておく。

古代史編年表

 『良山古系図』に戻ろう。上の表によると、「紀元前3世紀末から2世紀前半」の頃とは、「弥生前期末~中期初」頃に当たる。真説古代史を知る者には、これを文字通り「孝元」の治世などと考えるオチョコチョイはいない。これはいわゆる「天孫降臨」の時間帯である。古田古代学の常識である。

 わたしは早くより、「天孫降臨」を史実の中核と見なしてきた。福岡県を中心とする、弥生期の「前末・中初」の画期線を以て、その史実の反映と見なしてきたのである。

 圧倒的多数の「108家」は、“我は、ニニギノミコトの天孫降臨以来、倭国(九州王朝)に帰属してきた。”と、これを誇りにしていたのだ。これに反し、文字通りの「孝元」というのでは、意味不明である。なぜなら、記・紀とも「孝元」の代には何等“目立った事蹟は存在しない”からである。

(中略)

 従って本稿で扱うべきこの「古系図」においても、この「孝元」が始源とされているのは、きわめて“リーズナブル”だ。すなわち「天孫降臨」のニニギノミコトを「始源」とする系図という性格だったのである。

《「真説・古代史拾遺編》(103)
「倭の五王」補論(6)


「倭の五王」とはだれか:真説編(5)

 前回、古賀さんは大善寺玉垂宮の由緒書の記録から、初代玉垂命が水沼に王宮を置いたのは仁徳55年(367)であることを明らかにした。この367年という年は 「七支刀」補論(2) で取り上げたように、「高良社大祝旧記抜書」「筑後国高良山仮名縁起」等に明記された年、さらに七支刀の銘文に刻印された年と同じである。つまり、七支刀を贈られた「倭王旨」とは初代玉垂命にほかならない。ということは、百済王は九州王朝の水沼への遷宮を祝って七支刀を贈ったものと考えられる。九州王朝が遷宮を必要とした時代背景を、古賀さんは次のように論述している。


 この時期、九州王朝は新羅と交戦状態にあり、新羅の軍隊に糸島博多湾岸まで何度も攻め込まれているという伝承が現地寺社縁起などに多数記されている。もちろん、朝鮮半島においても倭国百済同盟軍と新羅は激突していたに違いない。

 そういう戦時下において、九州王朝は王宮を筑後川南岸の水沼に移転せざるを得なかったのであり、百済王もそれを祝って同盟国倭国に七支刀を贈ったのだ。そう理解した時、七支刀銘文中の「百錬鋼の七支刀を造る、生(すす)んで百兵を辟(しりぞ)く」という文が単なる吉祥句に留まらず、戦時下での生々しいリアリティーを帯びていたことがわかるのである。

 さらに、初代玉垂命(倭王旨)以降の玉垂命が「倭の五王」であると考えて間違いないであろう。

 玉垂宮史料によれば、初代玉垂命は仁徳78年(390)に没しているので、倭の五王最初の讃の直前の倭王に相当するようだ。『宋書』によれば倭王讃の朝貢記事は永初2年(421)であり、『梁書』には「晋安帝の時、倭王讃有り」とあって、東晋の安帝(在位396~418)の頃には即位していたと見られることも、この考えを支持する。

 さらに現地(高良山)記録にもこのことと一致する記事がある。『高良社大祝旧記抜書』(元禄15年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。この記事の示すところは、玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累代相続しているということだが、玉垂命(初代)を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする『宋書』の記事「讃死して弟珍立つ」と一致するのだ。すなわち、玉垂命(旨)の長男斯礼賀志命が讃、その弟朝日豊盛命が珍で、珍の子孫がその後の倭王を継いでいったと考えられる。

 この理解が正しいとすると、倭の五王こそ歴代の玉垂命とも考えられるのである。この仮説によれば、倭王旨の倭風名や倭の五王中、讃と珍の倭風名が判明する。さらに推測すれば、三瀦地方の古墳群(御塚・権現塚・銚子塚)が倭の五王の墳墓である可能性も濃厚である。

 上に「玉垂命には九人の皇子」がいたとある。この九人の皇子は「九躰皇子」と呼ばれている。古賀さんによると「九躰皇子」の名称は次のようである。

九躰皇子

 古賀さんは長男斯礼賀志命が倭王旨の跡を継いだ讃、次男朝日豊盛命が讃の跡を継いだ珍と推定しているが、私は長男と次男については、いわゆる「兄弟統治」(兄が神事を司り、弟が政治を担当する。)の可能性もあると思う。そうすると次男朝日豊盛命が讃であり、三男暮日豊盛命が珍ということになる。このことは「朝日豊盛命」・「暮日豊盛命」という二人の名前の類似点もその可能性を示唆していると思う。

 また、古田さんに『高良山の「古系図」 「九州王朝の天子」との関連をめぐって』という論文がある。そこで「九躰皇子」も取り上げている。次回はこれを読んでいこうと考えている。今は古賀さんの論述の先を読んでいこう。次に古賀さんは倭王旨が女性である可能性を論じている。

 さて、今回報告した論証は、現地伝承(玉垂宮関連史料)、万葉集(水鳥のすだく水沼を都となしつ)、『宋書』『梁書』(倭の五王記事)、金石文(七支刀)のそれぞれの一致という非常に恵まれた証拠群の上に成立している。そして本論証の成立は、玉垂命の末裔である稲員家系図の分析というテーマへ筆者を誘う。同系図を倭の五王以後の九州王朝王統譜と考えざるを得ないからである。

 ちなみに、松延清晴氏によれば、同系図には筑紫の君磐井は中国風一字名称「賢」と記されているそうである。

 なお若干の残された問題を指摘しておきたい。それは、倭王旨は女性ではなかったかというテーマだ。その理由の一つは七支刀記事が『日本書紀』では神功皇后紀(神功52年・252)に入れられていることだ。一応、『日本書紀』編纂時に百済系史書にあった七支刀記事を単純に干支二巡繰り上げた結果ということも考えられるが、七支刀贈呈時の倭王が女性であったため、『三国志』倭人伝中の卑弥呼・壱與の記事と同様の手口で神功皇后紀に入れられたのではないかという可能性もあるのだ。そして何よりも、現地伝承に見える「高良の神は玉垂姫」という記録の存在も無視できない。『筑後国神名帳』の「玉垂姫神」以外にも、太宰管内志に紹介された『袖下抄』 に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」という記事もあるからだ。

 一方、糸島博多湾岸での新羅との戦いに活躍する「大帯比賣(おおたらしひめ)」伝承(神功皇后(おきながたらしひめ)のこととして記録されているものが多い)も、この玉垂命(倭王旨)の事績としての再検討が必要のように思われる。現時点での断定は避けるが、検討されるべき仮説ではあるまいか。

 以上、四世紀後半から六世紀にかけての倭国王宮が筑後地方に存在し、倭の五王は歴代玉垂命としてその地に君臨したというテーマを明らかにし得たと思われるのである。

《「真説・古代史拾遺編》(102)
「倭の五王」補論(5)


「倭の五王」とはだれか:真説編(4)


 万葉集4261番歌が歌う水沼が確かに皇であった痕跡を、古賀さんが古田さんとは別の観点から確認している。古賀さんはまず「太宰管内志」で三瀦郡を調べる。(青字は「太宰管内志」からの抜粋文。その後の引用文は、それに対する古賀さんの考察。)

注:「太宰管内志」
 九州の地誌(壱岐・対馬を含む)。1841年(天保12)。福岡藩の学者・伊藤常足が調査し作成した書物で約37年を費やしたという。


○御船山王垂宮 高良玉垂大菩薩御薨御者自端正元年己酉
○大善寺 大善寺は玉垂宮に仕る坊中一山の惣名なり、古ノ座主職東林防絶て其跡に天皇屋敷と名寸て聊残れり


 玉垂大菩薩の没年が九州年号の端正元年(『二中歴』では端政。589年)と記されていた。ここの玉垂宮とは正月の火祭(鬼夜)で有名な大善寺玉垂宮のことだ。しかも、座主がいた坊跡を天皇屋敷と言い伝えている。玉垂命とは倭国王、九州王朝の天子だったのだ。端政元年に没したとあれば、『隋書』で有名な俀王・多利思北孤の前代に当たる可能性が高い。

○高三瀦廟院三瀦郡高三瀦ノ地に廟院あり(略)玉垂命の榮域とし石を刻て墓標とし(略)鳥居に高良廟とあり

 なんと玉垂命の御廟までがあると記されている。「歴史は足にて知るべきものなり」という古田さんのモットーを古賀さんも共有している。古賀さんは現地調査に乗り出す。

 年末の大善寺は正月の行事、火祭の準備で忙しそうだった。火祭保存会会長光山利雄氏の説明によれば、玉垂命が端正元年に没したという記録は、大善寺玉垂宮所蔵の掛軸(玉垂宮縁起、建徳元年銘《1370》、国指定重要文化財)に記されているそうだ。

 いただいた由緒書によれば玉垂命は仁徳55年(367)にこの地に来て、同56年に賊徒(肥前国水上の桜桃ゆすら沈輪)を退治。同57年にこの地(高村、大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫を治め、同78年(390)この地で没したとあり、先の端正元年に没した玉垂命とは別人のようだ(『吉山旧記』による)。

 とすれば、「玉垂命」とは天子の称号であり、ある時期の九州王朝の歴代倭王を意味することとなろう。その中に女性がいてもおかしくはない(『筑後国神名帳』には玉垂媛神とある)。

 「その中に女性がいてもおかしくはない」という一文に唐突さを感じられた方もいるかも知れない。実は上の引用文の前に「父の運転する車に乗り、三瀦の大善寺に急いだ。玉垂命は九州王朝の天子だったという仮説を父に説明すると、父は『大善寺の神様は女の神様と聞いているが』と不審そうだった。」という一文がある。これをふまえた判断である。ちなみに、『高良山の「古系図」』という論文で古田さんが「高良大社の“生き字引き”ともいうべき碩学、古賀壽(たもつ)氏」と書いている。たぶんこの方が古賀さんのお父上だろう。(『高良山の「古系図」』には後ほどお世話になる予定です。)

 大善寺から少し離れた高三瀦の廟院にも行ってみた。それは小さな塚で、おそらくは仁徳55年に来たと言う初代玉垂命の墓ではあるまいか。この塚からは弥生時代の細型銅剣が出土しており、このことを裏づける。

(中略)

 天孫降臨以来、糸島博多湾岸に都を置いていた九州王朝が、4世紀になって三瀦に王宮を移したのは、朝鮮半島の強敵高句麗との激突と無関係ではあるまい。この点、古田氏の指摘した通りだ。天然の大濠筑後川。その南岸の地、三潴は北からの脅威には強い場所だからだ。従来、三瀦は地方豪族水沼の君の地とされていたが、どうやら水沼の君とは九州王朝王族であったようだ。そしてこの地は4世紀から7世紀にかけての九州王朝の王宮が置かれていたことになる。万葉集の歌「水鳥のすだく水沼を都となしつ」はリアルだった。

 古賀さんは「遷都」ではなく、慎重に「遷宮」と言っている。「都」全体の移動ではなく、王宮だけの移動という可能性の方が高いとの判断からだろう。

 ところで、九州王朝の遷宮(あるいは遷都)という問題については、すでに古田さんが『失われた九州王朝』で次のように概観している。

 九州王朝の都は、前2世紀より7世紀までの間、どのように移っていったのだろうか。少なくとも、1世紀志賀島の金印当時より3世紀邪馬壹国にいたるまでの間は、博多湾岸(太宰府付近をふくむ)に都があった。5世紀末には、太宰府南方の基肄城(きいじょう)辺りを中心としていた時期があったように思われる。

(中略)

 そのあと、6世紀初頭の磐井は筑後の八女市に近い、岩戸山古墳の近傍に都していたことは、よく知られている。

(中略)

 けれども、『博多湾岸―基肄城―筑後』(ただし『博多湾岸』には基肄城をもふくむ)という単線的な移行を想定すべきではない。なぜなら、のちの近畿天皇家の場合をモデルとして見ればわかるように、奈良県内の各地に都を転々とし、時には滋賀県(大津)、大阪府(難波)と、広域に都を遷しているからである。その点、九州王朝も、筑紫(筑前・筑後)を中心として、時には九州全域が遷都の対象として可能性をもっていた、といわねばならぬ。

 こうなると、倭王・磐井の墳墓とされている岩戸山古墳だけでなく、三潴近辺の他の古墳も倭王の墳墓という可能性がでてくる。

 そうすると、同地にある古墳(御塚、権現塚)も九州王朝天子の古墳としなければならないが、5世紀後半から6世紀前半にかけてのものとされ、筑紫の君磐井の墓、岩戸山古墳の円筒埴輪との類似性からも同一勢力の古墳と見て問題無い。

 更に、大正元年に破壊された三瀦の銚子塚古墳は御塚(帆立貝式前方後円墳、全長123㍍以上)・権現塚(円墳、全長150㍍以上)の両古墳よりも大規模な前方後円墳だったが、これも九州王朝の天子にふさわしい規模だ。こうして見ると、今まで岩戸山古墳以外は不明とされていた九州王朝倭国王墓の候補が三つ増えたことになる。

 これら古墳の他、都にふさわしい遺構として、高良山麓からわが国最古の「曲水の宴」遺構が発見されている。筑後川南岸の新都心三瀦と筑前太宰府との関係は複雑だが、今後明らかにされるであろう。

《「真説・古代史拾遺編》(101)
「倭の五王」補論(4)


「倭の五王」とはだれか:真説編(3)


 (今回からは、古賀達也さんの論考「九州王朝の筑後遷宮(『新・古代史学4集』所収)とHP「新古代学の扉」の諸記事が教科書です。)

 高良山の麓で育った古賀さんは高良大社の祭神・高良玉垂命は何者かという問題を、避けて通れなかったテーマだと言う。上記論文はその問題の解明報告である。

 問題解明の発端となったのは、作者不詳の万葉集巻19の4261番歌であった。例によって定説(岩波「日本古典文学大系」)の訳を転載しよう。

4261番
(原文)
大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通

(読み下し文)
大君は神にし坐(ま)せば水鳥の多集(すだ)く水沼(みぬま)を都(みやこ)と成しつ


(大意)
天皇は神でいらせられるから、水鳥の多く集まっている沼地を、たちまちのうちに立派な都となさった。


 天皇を超能力者に仕立て上げて、揶揄追従のオベッカ歌にしてしまっている。こういう珍解釈はヤマト王権一元主義の宿痾である。はなからヤマト王権に由緒のある歌と決めかかっているので、「水沼」を「沼地」という一般名詞にしてごまかすことになる。また、原文の「皇都」を読み下し文では単に「都」と変えている。もう一つ、これは以前にも取り上げられているが、「大王」=「天皇」としている点も問題である。

 実は「水沼」という地名は日本書紀に出てくる。学者たちが知らぬはずがないのだ。

① 神代紀上(素戔嗚尊の誓約、一書第三)
筑紫の水沼の君等が祭る神、是なり。

② 景行紀(景行の九州大遠征、景行18年7月)
時に水沼県主猿大海(さるおほみ)、奏して言(もう)さく。「女神(ひめかみ)有(ま)します。名を八女津媛(やめつひめ)と曰(もう)す。常に山の中に居(ま)します」ともうす。故、八女国の名、此に由(よ)りて起れり。

③ 雄略紀(月夜の埴輪馬、10年9月)
身狭村主青(むさのすぐりあを)等、呉(くれ)の献(たてまつれる)二(ふたつ)の鵝(が)を将も)て、筑紫に到る。是の鵝、水間君(みぬまのきみ)の犬の為に齧(く)はれて死ぬ。

 水沼は筑紫にあることが明らかで、②の頭注は「水沼県は筑後国三潴郡。今、三潴郡・大川市。和名抄に美無万と詠む。」と、その現在地まで明らかにしている。三潴は現在では「みずま」と読んでいるが、もとは「美無万」=「みぬま」であることがわかる。

 さて、ヤマト王権一元主義者には、4261番歌の「水沼」が「三潴」であっては困るのだ。九州に「皇都」があったことになってしまう。たいへん不都合である。「水沼」=「沼地」という苦肉の策をとらざるを得ない。

 ではこの歌の真の意味はどうなるのか。実はこの歌については古田さんが詳しく論じている。この歌は4260番歌と対になっていて、古田さんはその二つの歌を関連させながら論じている。

「四千二百六十番と四千二百六十一番」

 この講演録から4261番歌についての分析部分だけを要約する。

 この歌には一見矛盾がある。「皇都」とは天子が居る都城である。「大王」は天子ではない。大王が居るところを皇都とは言わない。大王と皇都とは両立しない。ではこの歌をどう評価すればよいのだろうか。

 この歌は、自身は亡くなられた大王のおかげで皇都になったという考えに基づいて歌われている。「大王は神にしませば」は亡くなった大王への常套句である。歌の大意は次のようになる。

 大王は水沼に宮殿を作り、亡くなった。そして彼の死後、彼の息子は中国の天子と同じ称号を名乗った。それゆえ筑紫の水沼は皇都に成った。

 上の解釈が妥当である確かな論拠は「隋書・俀国伝」の証言である。

 中国の歴史書によれば、倭王は中国南朝の支配下にあった。しかし西暦589年南朝陳は北朝隋に征服された。盟主国が滅んだため、西暦600年、天毎氏多利思北孤は隋書に対して天子を名乗り、海西の菩薩天子と称した。また、隋の外交使節団が倭国に来訪している。そしてその記録によれば、首都の位置は阿蘇山の噴火を眺められる所であると証言している。九州筑後水沼(三瀦)が皇都であることは、これらの事実が支える。さらに古田さんは、この論拠を補強する事実を8件列挙している。

1)
 天の長者伝説がある。彼は日田から三沼の筑後川流域を支配した。しかしその伝説には701年以降にすべての筑後川流域を支配した人は誰一人存在しない。古賀さんは、天の長者は九州王朝の天子として筑後川流域を直轄支配していたと考えている。

2)
 久留米の筑後国府跡に天子の遊びである曲水の宴の遺跡がある。曲水の宴は天子の遊びである。さらに、曲水の宴跡は701年以前には、宮城県仙台多賀城と福岡県筑後久留米にしか存在しない。倭国の首都が筑後にあり、蝦夷国の首都が仙台にあった証拠である。唐の時代の記録に、蝦夷国の使者が倭国の使者に伴われて唐に朝貢を行った、とある。

3)
 筑後国交替実録帳によると、竹野郡(現田主丸町)に正院があった。正院は寺院のような壁に囲まれた二重の石垣で構成された宮城大垣の中に存在していた。その正院は法皇の居るところを意味する。現在まで平安時代末期の大和朝廷の法皇でここに居た人物は誰一人存在しない。また、いわゆる崇道天皇はここに来たことはない。それにも関わらず古いお寺の字地名が多数存在する。お寺はほとんど存在しないにも関わらず、石垣、踏石、礎石がある。加えて筑後随一の井の丸長者井戸がある。ここに法皇が居たことは確実と言える。

4)
 同じく築後国交替実録帳によると、浮羽町に正倉院があった。701年以後書かれた正倉院文書築後国正税帳によれば、たくさんの宝物を近畿天皇家に献上させている。大和朝廷はここの宝物の一部を奈良の正倉院に持って行った。たとえば
 a)
  天子の遊びである鷹狩りのための15匹の御鷹犬と30匹の鷹。
 b)
  多くの鋳造師・ろくろ・木地師。(たぶん東大寺の大仏を作るための)
 c)
  113個の白玉(真珠)701個の碧玉(紺玉?サファイア)、933個の縹玉 (ガラス玉)4セットの赤勾玉(ルビー)その他管玉(竹玉)、縹玉、 勾玉。
 これらのものは天子しか所有できない。

5)
 田主丸町を中心にした条里制の遺跡がある。これらの条里制はいわゆる国司が施行したと言われています。しかし明確な記録がない。

6)
 4・5世紀の古墳は300基を越える。(明治時代までは1000基近くあった。)有名な古墳では御塚・権現塚、珍敷塚(めずらしつか)古墳などがある。

7)
 久留米と太宰府を含む筑紫をとりまいて、神護石式山城と朝鮮式山城と呼ばれる一連の古代要塞がある。これらの山城は大和朝廷を護るために造られたと言われているけれども、しかしながらそれでは何の目的で筑紫をとりまいているか不明である。

8)
 より確実な絶対年代を測定する科学的な方法が開発されてきている。放射性炭素式年代測定法と年輪年代測定法である。それらによると、たとえば太宰府の防衛のための水城では、前の堀から出た木樋の14炭素年代測定で、紀元400年±40年と検出された。博多湾に存在した外交使節を迎えるための鴻臚館の木樋では、紀元385~475、紀元465~555、紀元525~605、紀元565~655が検出された。放射性炭素式年代測定法は年輪年代測定法に比べて測定精度は良くないが、ほとんど全てが白村江の前を指している。これは水城が太宰府を防衛するために6世紀に構築されたことを示している。

 また、対馬の金田城の14炭素年代測定は紀元540~640、紀元590~650が検出された。壱岐と対馬の狼煙を揚げる要塞の構築は、白村江の戦いの前の6世紀であったことが明確になった。

 以上から、曲水の宴、条里制、神護石式山城と朝鮮式山城が確実に白村江の戦いの前の6世紀以前に作られたことが明らかになった。これらの事実は、筑紫における九州王朝の存在を疑問の余地なく主張している。これを認めないのは、ヤマト一元主義というイデオロギーにとらわれたものだけである。
《「真説・古代史拾遺編》(100)
「倭の五王」補論(3)


「倭の五王」とはだれか:真説編(2)


『太宰府は…』に戻ります。

 「姫(き)」という氏族名は、『十八史略』に「呉は周と同じ姫姓の国」とある通り、周王朝に係累している。姓や地名に頻繁に現れる「紀」・「木」・「貴」・「基」などはみな「姫」のバリエーションだろう。ではその「姫氏」が「松野連」を名のっているのは何故だろうか。

 この系図のおおもとのものは、8世紀ごろ藤原不比等らによって墓記が没収されたときに、うろおぼえの記憶をもとにして復元しようとして作られたのではないかと考えられている。従って、書き落としや誤記入もあるかも知れない。また、後に書き加えられたものもあるようだ。一応そこに書かれた通りに、初代の首長から「松野連」を名のるまでのこの一族の歴史をまとめてみよう。

① 「忌」(呉王夫差の次の代、つまり渡来一族の初代首長)の時
 「姫氏」は、紀元前473年に火の国(肥の国)山門郡(現在の福岡県八女市の南西)周辺に渡ってきた。

 「忌」のところに「孝昭天皇三年来朝。火の国山門に住む。菊池郡」とある。「孝昭天皇三年」は皇暦(神武天皇から数えて何年という大和政権独自の年歴)では「紀元前473年」にあたる。夫差の呉国が滅んだ時である。

 鈴木真年という系図研究家は、「資治通鑑」(1084年成立)という中国の史書に、「周の元王3年(管理人注:「十八史略」では「周の元王の4年」となっている)、越は呉を亡し、その庶(親族)、ともに海に入りて倭となる」と記しているという。確認できていないが、中国でも、夫差の一族が日本列島に落ちのびて倭人になったという伝承が伝えられていたようだ。「周の元王3年」は、「孝昭天皇3年」と同じく紀元前473年である。松野連の系図の書き込みはこれらの記事を参考にしたのかもしれないが、松野連家そのものがそういう伝承をもっていたことは十分考えられる。

 中国の正史では晋書や梁書にも、
「倭人自らいう、太伯の後(子孫)なり、と」
と記録している。(管理人注:「十八史略」に太伯は「周の文王の伯父」とあった)

 周代の後半、東周時代(春秋戦国時代ともいう。紀元前771ー同256年)には中国各地に封ぜられた周王室の王や各地の豪族が独立し、多くの半独立国が建てられた。現在知られている約200国のうち、約50国、すなわち4分の1ほどは姫(紀)氏の国だった。日本の縄文時代晩期から弥生時代にあたる。

 戦国時代をへてこれらの国はつぎつぎ淘汰され、負けた国の王やその一族は殺されたり奴隷にされたり、日本列島や朝鮮半島に新天地を求めてぞくぞく渡って来たらしい。中国は倭のことを「東海姫氏国」と呼んでいた(釈日本紀など)という。いろいろな、あちこちの姫氏がかなりの数渡来して、それぞれが日本列島のあちこちで国を建てたことを物語る話と思われる。古事記では「木」、日本書紀では「紀」と表示される人々だ。埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた「記」もその可能性が高い。

②「順」(「忌」の次の代)の時
 委奴に移住して王になり、前漢の地節2年(紀元前68年)、宣帝に使いをだした。


 「委奴」の位置について、内倉さんは次のように述べている。

 「委奴」は現在の福岡市西部から佐賀県北東部の唐津市周辺、糸島半島を中心にした地域である可能性があると筆者は思う。魏志倭人伝にいう「伊都(いと〉国」の地である。伊都国を望む志賀島は「漢の委奴国王」の金印が出たところである。糸島半島は後まで「火(日、肥)の君」すなわち「紀氏」が住んでいた場所でもある。現存するわが国最古の戸籍、大宝2年作成で正倉院文書に残されていた「筑前国嶋郡戸籍川邊里」に数多くの「火の君」が記録されている。



 私は上の比定を「委奴」=「伊都国を含んだ地域」と読んだ。もしも「委奴」=「伊都国」と考えているのなら、それは間違いである。実は例の「漢の委の奴国王」という読みは明治時代の三宅米吉という学者が提唱して定説となったものだ。それ以前は「漢の委奴(いと=伊都)国王」と考えられていた。三宅説が定説になったのは、「委」の音は「ゐ」であり「伊」の音「い」とは違うこと、また「奴」に「と」という音はなく、「都」に「ど」という音はない、「委奴」=「伊都」は間違いという三宅の論理がまさっていたからである。「委奴」=「伊都国」では2代前の間違いに先祖帰りすることになる。

③「熊鹿文(くまかや)」(「順」の8代後)の時
 西暦57年、後漢に使いをだして印綬をもらった。


 この遣使は後漢書に記されている遣使にあたる。熊鹿文が金印を授与された王ということになる。

 ついでに金印に刻まれた文字「漢委奴國王」の読みについて記しておこう。定説となっている読み「漢の委(わ)の奴(な)國王」がだめなことは古田さんが詳しく論証している。要点を簡単にまとめると
★「委」を「わ」と読むのは無理「委」にそのような音はない。
★「委」国の支配下にある国「奴」の王が金印を授与されるなどありえない。
 「委=倭=大和」としたいためのヤマト王権一元主義者の苦肉の愚説だ。古田さんは、この系図とは無関係に、「委奴」で一つの国名であり、これを「いど」と読むべきとしていた。最近は「いぬ」説をとっているようだ。

④ 「熊鹿文」の11代後が「讃」であり、あと珍・済・興・武と続く。この王家が一番繁栄していた時代だ。

⑤ 「牛慈」(「武」の3代後)の時
 金刺宮の時、降伏して夜須評督になった。


 夜須評は福岡県朝倉郡夜須町付近のことだろう。太宰府の隣、筑紫野市に隣接しているところである。「金利宮御字の時、大王の座から降ろされ、評督の位をもらった」という。「金刺宮にいた天皇」とは記紀にいう天国排開広庭天皇(諡は欽明天皇、六世紀中ごろ)なのだろうか。

 内倉さんは、「金刺宮」とは欽明天皇だろうか、と推定しているが、ちょっと混乱しているようだ。欽明紀には任那日本府の経営や新羅との交渉記事が盛りたくさんだが、もちろんこれらは九州王朝の事績の盗用である。また「郡評問題」で明らかにされたように、「評督」は九州王朝における官職である。私は「姫氏」から、あの多利思北孤を出した「阿毎氏」への政権交代ではないかと推定する。

⑥ 「津萬侶」(「牛慈」の3代後)の時
 「松野連」の姓を負った。


 「松(野)」の姓は「甲午の年(持統天皇694年)に負う」という。「姫氏政権隠し」のために強制的に変えさせられたとも考えられる。一連の「氏族の歴史隠し」のひとつだろう。

 「松野連」は本来、「松の連」だったのではないかと思う。「野」は接続詞の「の」だ。中、北部九州には今も「松尾」「松延」「松田」「松井」「松隈」「松永」「松丸」「松雪」など「松」を冠した苗字の家が驚くほど多い。もちろん「松野」もある。例えば、福岡市の電話帳を引いて見ると「松」を冠した苗字の人が延々34頁にわたって名を連ねている。この方々のすべてが「松の連」と関係があるのかどうかはわからないが、福岡市内やその周辺部の市町村でも随一の多さである。北部九州以外の地域では見られない特徴だ。

 福岡市の北東、宗像都津屋崎町にある宮地嶽古墳を祭る宮地嶽神社の紋も松である。この古墳(現在は7世紀代の築造とされている)は、長大な石室のなかに火葬骨用の金色の蔵骨器や王冠を納めていたことなどで知られるきわめて特異な古墳である。また、各所に老松神社もある。八女市にお住まいの「松延」さんのご本家稲員(いなかず)家は、「九州王朝の末裔」を名乗り、系図もお持ちである。

 稲員家の系図は、このHPに何度か登場していただいている「古田史学の会」の古賀さんによって発見され、研究されている。それによると、稲員家は高良大社の祭神・高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)の末裔であり、歴代の高良玉垂命が倭の五王であったという。次回から、「松野連」系図と比べながら、この古賀さんの論考を読んでいくことにしよう。
《「真説・古代史拾遺編》(99)
「倭の五王」補論(2)


「倭の五王」とはだれか:真説編(1)

 日本側には「倭の五王」の存在を示す資料は全くないのだろうか。それがあることを『太宰府は…』で知った。
 倭の五王の中国風一字名「讃・珍・済・興・武」は対外的に外交用として使われたもので、国内的には倭風の名前を使っていたと思われる。その中国風一字名そのものを記した系図が国立国会図書館と静嘉堂文庫の2ヵ所に所蔵されているという。『太宰府は…』には国会図書館所蔵の系図の写真が掲載されている。その系図の表題には「松野連 姫氏」とあり、系図は「呉王夫差(ふさ)」から始まっている。松野連は平安時代に編集された「新撰姓氏録」の「右京諸蕃上」(諸蕃=渡来系の氏族)にも次のように記載されている。

松野連(まつののむらじ) 呉王夫差より出づ

(インターネットはすごいと、改めて感心している。 「新撰姓氏録」 が全て読める。ちなみに、諸蕃氏族は上巻に39、下巻に63も記録されている。)

 呉王夫差とは「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」などの成句のもとになっている春秋時代の故事に出てくる呉の王である。越王勾践(こうせん)に破れた後、生き残った一族郎党が九州に逃れてきたのだろうか。

 ここで関心が逸れてしまった。ちょっと横道に入ります。

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(付録)

 「臥薪嘗胆」の故事は知っていたが、その故事を含む一連の記事を読んだことがない。ついでなので読んでみようと、現代語訳をネット検索をした。いくつかあった。自分で訳したように扱っているが、ネタ元があってそれをコピーしたもののようだ。まったく同じ文章で、原文に忠実ではなく、冒頭部分を欠くのも同じ。(どなたのがネタ元なのか分からない。コピーした人はネタ元を明らかにするのがマナーでしょう、と思ったことでした。)

 ついでなので、原文に忠実なまともな訳をアップしようと思った。丸山松幸・西野広祥訳『十八史略』(徳間書店)を使います。原文、読み下し文は省略して、現代語訳のみを転載する。

〔十八史略・呉〕

墓前に剣を献じる

 呉は周と同じ姫(き)姓の国で、周の文王の伯父にあたる太伯(たいはく)、仲雍(ちゅよう)が封せられて創建された。十九代目の寿夢(じゅぼう)のときになって、はじめて王と称した。

(注:兄太伯が周から南方に奔って呉を建てたが、子どもがなかったので、弟の仲雍がそのあとを継いだ。)

 寿夢には4人の男の子があり、末子を季札(きさつ)といった。季札は人並みすぐれた人物だった。

 寿夢はなんとかして季札に国を継がせたいと考えた。そこで、男の子の上のほうから順に継がせ、ゆくゆくは季札に継がせようとした。しかし、季札はそれでは義にそむくとして、したがおうとはしなかった。結局、季札は延陵(えんりょう)の地に封ぜられ、廷陵の季子と呼ばれた。

 あるとき、季札は王命を受けて他の中原の諸侯に挨拶まわりに出かけた。その途中、徐(じょ)の国に立ち寄ったときのこと、徐の君が季札の佩(お)びていた宝剣に格別の関心を示し、いかにもほしそうな顔を見せた。それと察した季札は、すぐにも宝剣を贈ろうと思ったが、なにぶんにもまだ使命をはたしていない。そこで、使命をはたしてから贈るつもりでいったん徐の国を離れた。

 しかし、使命をはたしたのち、ふたたび徐の国を訪れたときは、すでに徐君はこの世にいなかった。そこで季札は、宝剣を徐君の墓前に献じて帰途についた。

臥薪嘗胆

 寿夢ののち、四代を経て、闔廬(こうりょ)にいたる。闔廬は伍員(ごいん)を顧問に取り立てて国政の相談相手にした。

 伍員は楚の人伍奢(ごしゃ)の子であり、字を子胥(ししょ)といった。伍奢が楚の平(へい)王に殺されたので、子胥は復讐を誓いつつ、呉に亡命していたのだった。

 子胥は、闔廬に引き立てられると、呉軍を率いて楚都郢(えい)に攻め入り、念願をはたした。

 その後、呉がふたたび越を攻めたとき、闔廬は傷を負い、それがもとで死んだ。

 闔廬が死ぬと、その子夫差が王位を継いだ。子胥はひきつづき夫差(ふさ)に仕えることになった。

 夫差は父の仇を討とうと心に誓い、朝晩たきぎのなかに寝起きしてはわが身を苦しめ、出入りのさいには、臣下に、
「夫差よ、父が越王に殺されたことを忘れたのか」
といわせては、復讐の念を新たにした。

 周の敬(けい)王の26年、夫差は夫椒(ふしょう)の戦いでついに越を破った。越王句践(こうせん)は残兵を率いて会稽(かいけい)山に逃げこみ、夫差にこう申し出た。
「どうかわたしを大王の臣にし、妻を大王の妾にしていただきたい」


 子胥はこの和議を受諾しないよう主張したが、越から賄賂を贈られた呉の太宰(たいさい)の伯嚭(はくひ)は、句践をたすけるよう夫差に説いた。夫差は伯嚭の言を入れて、句践を許してしまった。

 こんどは句践が復讐を誓う番となった。帰国するや、句践は自分の部屋に干した獣のキモを吊りさげておき、いつもそれを口にして苦さを味わっては、
「会稽の恥を忘れはすまいな」
と自分自身にいいきかせた。そして国政はすべて大夫の文種(ぶんしょう)にまかせ、自分は賢臣范蠡(はんれい)とともに軍を鍛え、呉への復讐だけに専念した。

(注:〈臥薪嘗胆〉…夫差が."臥薪"―たきぎの中で寝る―し、句践が"嘗胆"―キモをなめる―して、ともに復讐を誓ったことから「臥薪嘗胆」の成語が生まれた。辛苦に耐えて将来を期す意味である。)

子胥に会わせる顔がない

 太宰の伯嚭は、子胥を失脚させようとして夫差に讒言(ざんげん)した。
「子胥は、自分の意見が取り入れられなかったことを根に持って、大王を怨んでおります」

 怒った夫差は、属鏤(しょくる)という剣を子胥にあたえた。この剣で自殺せよ、という意味である。

 死に臨んで、子胥は家族の者にこう告げた。
「おれの墓には檟(ひさぎ)の木を植えてくれ。呉王の棺桶がつくれよう。また、おれの眼をえぐり取って東門にかけてくれ。越軍が攻めて来て、呉を滅ぼすのを見とどけたい」

 そして、みずから首をはねて死んだ。このことを伝え聞いた夫差は、子胥の屍を取りあげて馬の革でつくった袋につめ、揚子江に投げ捨てた。

 呉の人びとは、子胥をあわれんで揚子江のほとりに祠(ほこら)を建てて子胥を祀り、「胥山」と名づけた。

 さて、復讐を誓った越は、最初の10年を民生の回復にあて、つぎの10年を兵の訓練にあてた。かくして、周の元(げん)王の4年、越はついに呉を攻めた。

 呉は越と三度戦いを交えたが、三度とも敗れた。夫差は姑蘇(こそ)山に逃れ、越に和議を請うた。だが、范蠡が断固として反対したため、越王はこれを受け入れなかった。

 もはやこれまで、と悟った夫差は、「子胥に会わせる顔がない」といって、自分の顔を布で覆い、自殺した。

范蠡の転身

 越が呉を滅ぼし、句践が覇王となると、范蠡は越を去った。かれは斉から大夫の文種(ぶんしょう)に手紙を送り、こういった。
「越王は首が長く、口が黒くてとがっている。あれは凶悪の相、苦労は人にわかつことができても、楽しみはわかてぬお人柄です。あなたも躊躇なさってはいけません」

 これを読んだ文種は、病気と称して家にひきこもった。すると、句践にこう讒言する者が現われた。
「文種は反乱をたくらんでおります」

 怒った句践が文踵に剣を下賜したので、文種は自殺した。

 范蠡は越を出るとき、持ち運びのできる宝石類を船に積みこみ、一族郎党とともに、水路を通って斉に移住したのである。斉では名も鴟夷子皮(しいしひ)とあらため、息子たちと蓄財にはげみ、またたくまに数千万の富を築いた。

(注:〈鴟夷子皮〉…長居をしては、子腎のように馬の革でつくった袋につめられる運命になるという意味がこめられている。)

 このため、かれは斉君にその能力を見こまれ、宰相就任を懇請された。

 范蠡は深いため息をついた。
「野(や)にあっては千金の財を築き、仕えては宰相にのぼる。匹夫の身にとって、これ以上の栄達はない。だが、栄達が長くつづくのは禍のもとだ」

 范蠡は斉の招きを固辞し、資産をことごとく人びとにわけあたえ、特別高価な財宝だけを持って、ひそかに村を離れ、陶(とう)に移住し、その名も陶朱公(とうしゅこう)とあらためた。

 陶においても、范蠡はたちまち巨万の富を築いた。

 あるとき、魯の猗頓(いとん)という者が范蠡をたずねて来た。
「金持になる方法を教えてください」
「それではまず、牝年を五頭飼ってみなさい」

 猗頓が、いわれたとおりに猗氏という土地で牧畜にはげんだところ、10年もたつと王公と肩を並べるような金持になった。以来、天下では、金持といえば、陶朱と猗頓の名をあげるようになった。

(注:〈陶朱猗頓の富〉…陶朱公と猗頓が大金持になった故事により、ふたりの名前をあわせて、大金持のことを「陶朱猗頓」または「陶猗」といい、その富をさして「陶朱猗頓の富」または「陶猗の富」というようになった。)
《「真説・古代史拾遺編》(98)
「倭の五王」補論(1)


「倭の五王」とはだれか:珍説編


「真説・古代史(2)・(60)~(63):倭の五王」の補充です。

 先日「珍説愚説辞典」という表題にひかれて、約750ページの分厚い本を買ってしまった。著者はフランス人で、「珍説愚説」渉猟の対象は、もちろんのこと、フランス語による言説にかぎられている。気分が向いた時に少しずつ読んでいる。共有したいようなためになる?「珍説愚説」を発見したら紹介しようと思う。

 ところで、この本の表題からすぐに連想したことがある。日本における「珍説愚説辞典」を編集するとしたら、古代史が「珍説愚説」の宝庫になるだろう。そして最も笑える「珍説」は、さしずめ「倭の五王」の人物比定であろう。『真説・古代史(2)「倭の五王」とはだれか』では「倭王讃」の珍説だけを紹介したが、改めて「五王」全部の定説を記載しておこう。(以下は『失われた九州王朝』による。)

 「倭の五王」の人名比定の珍説を生み出す方法を編み出したのは江戸中期の国学者・松下見林である。その後の学者たちもその方法に準拠した。

 松下は「宋書」の記録が示す倭王武の年代とおおよそ同じ年代の雄略天皇を取り出し、雄略の諱(いみな)は大泊瀬幼武(オホハツセワカタケ)の中に「武」の一字があるから「武=雄略」は間違いなしとした。(この説には異論がなく、従来の全ての学者が賛同している。)そこで歴代の天皇をさかのぼって、次のように比定した。

(1)讃―履中(第17代)
(2)珍―反正(第18代)
(3)済―允恭(第19代)
(4)興―安康(第20代)
(5)武―雄略(第21代〉

しかし(5)以外は諱に一致する一字がない。ここから珍説が始まる。

「今按、……讃、履中天皇の諱(いみな)、去来穂別(イサホワケ)の訓を略す。珍、反正天皇の諱。瑞歯別(ミズハワケ)、瑞・珍の字形似る。故に訛りて珍と曰ふ。済、允恭天皇の諱、雄朝津間稚子(オアサマワクコ)。津・済の字形似る。故に訛りて之を称す。…興、安康天皇の諱。穴穂(アナホ)訛りて興と書く。武、雄略天皇の諱、大泊瀬幼武、之を略するなり」(『異称日本伝』)

 ところで、この比定では(1)において在位年数が「宋書」の記録と著しく合わない。(詳細は略す。)そこで一代飛ばして「(1)讃―仁徳(第16代)」説が生まれる。しかしこの説にも大きな矛盾がある。「宋書」では「讃―珍」は兄弟となっているが、「仁徳―反正」は親子なのだった。この矛盾については、例によって『「宋書」が間違ったのだ』ということで切り抜けている。ではその後の学者たちの説も含めて諸珍説をまとめてみよう。

(1)讃
 ①履中説
   去来穂別の第二音「サ」を「讃」と表記した。(見林)(賛同者:志村幹・新井白石・白鳥清・藤間生大・島礼二)
 ②仁徳説
   大鷦鷯の第三、四音の「サ」(または「ササ」)を「讃」と表記した。(吉田東伍)(賛同者:星野恒・菅政友・久米邦武・那珂通世・岩大慧・池内宏・原勝郎・太田亮・坂本太郎・水野裕)

 ③履中もしくは仁徳説(賛同者:津田左右吉・井上光貞・上田正昭(やや②に近い))
 ④応神(第十五代)説(前田直典)

(2)珍
 ①瑞歯別(反正)説
 第一字「瑞」を中国側がまちがえて「珍」と書いてしまった。(見林)(前田直典以外全員)
 ②仁徳説(前田直典)

(3)済―雄朝津間稚子(允恭)(異説なし)
 理屈1
  第三字「津」を中国側でまちがえて「済」と書いてしまった。(見林)
 理屈2説
  第三、四音の「津間」は「妻(ツマ)」であり、この音「サイ」が「済」と記せられた。(志水正司)

(4)興
 ①穴穂(安康)説(水野裕以外全員)
 理屈1
  穴穂がまちがえられて「興」と記せられた。(見林)〈この理屈は私には理解できない〉
 理屈2
  「穂」を「興」(ホン)とあやまった。(新井白石)〈中国では「興」に「ホン」という読みがあるのだろうか? この理屈も私には理解できない。近現代の学者による理屈がないようだが、お手上げなんだろうな。〉
 ②木梨軽皇子説(水野裕)

(5)武―大泊瀬幼武(雄略)(異説なし)
 第五字(最終字)「武」をとった。(見林)

 諱の第一字をとったり、第二字をとったり、第三字をとったり、第五字をとったり、「字」ではなく「音」をとったり、「宋書」の編者間違いにしたり、まったく一貫したルールのない恣意的な説で、とても「学説」とは言えない。「珍説」がふさわしい。

 どうしてこんな混乱が起きるのか。大和王権一元主義という頑迷なイデオロギーのなせるわざだが、その淵源は大和朝廷による九州王朝の史書抹殺にある。九州王朝の史書が残されていれば、そうそうたる学者たちがこのような珍説をひねり出す必要はなかった。そういう意味では学者さんたちも被害者なわけだ。お気の毒に。
《「真説・古代史拾遺編》(97)
「七支刀」補論(3)


なぜ七支刀は石上神宮にあるのか


 『原色日本の美術1』に七支刀が収録されている。その解説では
「古くから石上神宮の神宝として伝えられており、早く平安時代の終りごろから人々の関心が寄せられた。」
と書かれている。「古くから」とか「平安時代の終りごろ」とか、全て曖昧だし、このような断定ができる記録があると聞いたこともない。この解説はまったく根拠のない単なる憶測に過ぎない。

 七支刀をネット検索してみた。信憑性のある事実だけをまとめてみる。

 石上神宮は古代の豪族物部氏の武器庫であったという。境内には本殿がない特異な神社である。現在の本殿は1913年に建てられたもで、それまでは本殿がなかったのだ。本殿に当たる所(拝殿の奥側)には「平国之剣(くにむけしつるぎ)」(神武記の伝承)が埋められていた。その剣と剣の霊威が祭神であり、「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」として祀られている。その場所は「高庭之地」と呼ばれていて、禁足地、つまり立入禁止の場所とされてきた。

 七支刀がにわかに脚光を浴びたのは明治時代初期である。当時の石上神宮大宮司菅政友(かんまさすけ)が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見したのがそのきっかけであった。以来その銘文の解釈・判読を巡って論争が続いてきた。この論争も古田さんが決着を付けたことは、「真説・古代史(51)~(53):七支刀」 で見たとおりである。

 ところで、『太宰府は…』で内倉さんが七支刀について次のように論じている。

 石上神宮が古くからこの刀を大事に所蔵していた記録や伝承はない。なんらかの事情で九州に本拠を置いていた物部氏の手に入り、大和の物部氏(石上神宮の建立氏族)にもたらされた。しかし本来、大和とは縁のない刀であるから、神宮の宝庫には入れず、境内に「禁足地」を設けて埋めておいた、と思われる。

 この異形の刀は、国と国の交渉を物語る貴重な歴史遺産であり宝である。石上神宮を建立した物部氏はその辺のことは十分承知していたであろう。しかし、大和の物部氏はそれをあたかも自分のもののように扱う、などということはしなかった。歴史隠しの陰謀を推し進めていた大和政権からは、廃棄命令が出されていたかもしれない。物部氏や石上神宮の見識の高さやきちっとした扱いがしのばれる。

 「九州に本拠を置いていた物部氏」とか「大和の物部氏」とかに疑念を感じる人がいるかも知れない。「物部氏」については別稿で取り上げようと思っている。ここでは「こうやの宮」の正式名称が「磯上物部神社」であること(『太宰府は…』による)を指摘しておこう。  ところで、禁足地「高庭之地」が1874年に発掘されている。公式に発掘されたのはたぶんこれが初めてであろう。Wikipediaによると、禁足地には「2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた」とある。私は「2つの神宝」とは上記の平国之剣と、もう一つは七支刀かと思った。しかし、出土したのは「剣(布都御魂剣)や曲玉などの神宝」と記録されていて、七支刀は明記されていない。上記の「金象嵌銘文の発見」記事と考え合わせると、七支刀は相当以前に石上神宮の神宝として密かに「地上で」秘蔵されていたようだ。

 では七支刀はいつ地上に姿を現したのだろうか。記紀成立時点においては石上神宮に七支刀はなかったことは、古田さんが『失われた九州王朝』で詳しく論証している。さらに古田さんは、七支刀はその時点以後において九州の地から天皇家に献上させられた、と推定している。何らかの形で九州から奈良へ移動したのは確かだが、「天皇家に献上」という形だったどうかは、何の記録のない以上、単なる推測に過ぎない。七支刀はかなり腐食している点から、私は内倉説をとりたい。

 内倉さんは「最初から同神宮の宝庫に納められていたのでなく、近世に、境内の禁足地から出土したというなぞの刀である。」と述べているが、「近世に、境内の禁足地から出土した」とする根拠(出典)が明らかにされていないので、全面的に支持することは出来ないが、私は一番真実に近いのではないかと考えている。
《「真説・古代史拾遺編》(96)
「七支刀」補論(2)


「こうやの宮」の秘密


 「こうやの宮」の背後には、神籠石(こうごいし)に囲まれた有名な山・高良(こうら)山がある。そしてその頂上には高良大社という名社がある。古田さんは、「こうやの宮」と高良大社に共通の語幹「こう」は、例えば神戸の「こう」と同じで、「神」ではないかと言う。さらに次のように考えている。「こう」に接尾辞の「や(屋)」と「ら(羅)」が付加されて「こうや」「こうら」。「こうや」は「こうら」の山麓という意味合いになる。平地で「こうや」、高地で「こうら」と呼ぶ。これは百済や新羅と共通した都城の在り方だ。今は小さな祠の名として残っているが、「こうやの宮」と高良大社とはそのような関係だったのではないか。

 さて高良大社の祭神は高良大名神(玉垂命)と言う。この神が高良山に鎮座した年が、「高良社大祝旧記抜書」「筑後国高良山仮名縁起」等に明記されている。

「仁徳天皇五十五年」

 ところで七支刀の銘文に次の年月日が記されている。

「泰和四年五月十六日丙午正陽」

 これは東晋の「泰和四年」であり、西暦に換算すると367年である。

 では高良大明神の鎮座(即位)したという「仁徳五十五年」は西暦に換算すると何年になるか。仁徳55年は「皇暦」では1027年。皇暦は神武即位とされる紀元前660年を起点としているから、皇紀1027年は西暦では「1027-660=367」年。七支刀の銘文とピタリと対応している。

 上の事実は「こうやの宮」の主(七支刀を贈られた倭王旨)と良大社の祭神(玉垂命)が同一人物であることを主張している。

 さらに、倭王讃が中国の史書に最初に現れるのは『梁書』倭伝であり、
「晋の安帝の時(396年~418年)、倭王賛有り。」
とある。倭王旨は倭王讃の先王と考えられる。

 さて、七支刀とは直接関係ないのだが、古田さんはさらに、高良大社にに残された唯一の文書「高良記」(高良玉垂宮神秘書同紙背)に記されている系図を取り上げている。ついでなので、この記事も紹介しておこう。

 「唯一」といったのは、他でもない。明治初年、維新政府の使者が来て、〝一週間にわたり″、当社の文書を焼きつづけた、という。ひどい話だ。この「高良記」のみ、〝社格調べ″のため、京都の吉田家に寄託され、かえって「明治初の焚書」をまぬかれた、という(糸永明典前権宮司による)。

 九州王朝から権力を簒奪した大和王権は、九州王朝の史書や歌集などを焚書し、九州王朝関係の神社仏閣や墳墓を破壊し、貴重な文化財を全て略奪した。つまり、九州王朝の存在の完全な抹消を企てた。しかしそれは失敗している。これまで見てきたように、「記紀」・「万葉集」・「神社仏閣に残された記録」・「謡曲」そして種々の金石文が九州王朝の存在を明らかに主張している。

 明治新政府による焚書なんて知らなかった。この焚書の受難にあったのは高良大社だけではないだろう。この焚書の目的は何だったのだろうか。「万世一系」のウソを暴くような文書をターゲットにしたのではないだろうか。

 さて、「高良記」末尾に、「異国征伐之時三百七十五人ノ神立」という、ことごとしい表題がつい不思議な「系譜」があるという。その系図は各種の神系図が〝合成″された形をしていて、その末尾に天照大神にはじまる系譜が書き留められている。

天照大神(  神)…天忍穂耳尊…神皇彦帝(カンスベタマノミコト、ニニギニミコトに相当)…(三十数代)…天日神命(アマノヒノクマノミコト)〈巳上三十九命。下文略〉

 右は、〝天照大神より、代々継承して、天日神命(現在)に至る″の意をしめした系図である。「天」は「アマ」。隋書タイ国伝にタイ王の姓が「阿毎(アマ)」である、といわれているのと一致する。「高良記」では、「神代」は「クマシロ」と読むべきを指示しているから、「日神」は「ヒノクマ」であるかもしれぬ。(佐賀県、吉野ヶ里の北方に「日隅(ヒノクマ)神社」がある)

 問題は次の点だ。右の歴代中、五櫛彦命から次のように系図が分岐している。

五櫛彦命-湯津彦命…(中略)…天日神命 〔本流〕

五櫛彦命…………
           |
           |
鸕鷀草葺不合尊……彦五瀬命…稲飯姫命…三毛入野命…磐余(いはれ)彦尊(神武) 〔分流〕
注(鸕鷀草葺不合=ウガヤフキアエズ)


 〝われは天照大神の本流。神武たちの近畿天皇家は、わが五櫛彦命からの分流に当る。″

 これが、この系図の「主張」である。わたしの
「九州王朝が本流、近畿天皇家はその分流」
 この分析は、ここに系図化されていたのである。

《「真説・古代史拾遺編》(95)
「七支刀」補論(1)


「七支刀は百済王から倭王への贈り物」・その傍証

 久しぶりに古代史です。

 内倉武久著『太宰府は日本の首都だった』(「太宰府は…」と略記する)を読んだ。著者は「古田史学の会」の会員ではないが、古田さんの多元史観に立たなければ古代史の真実は語れないという立場から、論を進めている。興味深い論題がたくさんあった。この本から題材を選んでいこうと思う。私なりにまとめるに当たっては、例によって古田さんの著書やHP「新・古代学の扉」の記事を援用する。

 さて、「七支刀は百済王から倭王への贈り物」ということは、古田さんにより論証済みの命題です。(下記の記事をご覧下さい。)

「真説・古代史(51)~(53):七支刀」

 この論証を補強する物があった。「太宰府は…」に、福岡県瀬高町太神(おおが)にある「こうやの宮」と呼ばれる小さな祠にご神体として祀られている5体の人形が取り上げられていた。この話から始めようと思っていたところ、たまたま図書館から借りてきた古田さんの著書『古代史60の証言』にその御身体が取り上げられていた。今回の話題はこの本を利用しよう。

 『古代史60の証言』は美しい本です。B4版ほどの大判の本で、前ページにカラー写真が添えられている。その写真を見ていると、古田さんが解明した古代史の真実がより一層リアルになってくる。まず、この本に掲載されている「こうやの宮」のご神体の写真を紹介しよう。

こうやの宮のご神体
(クリックすると大きくなります。)

 これらの人形や祠がいつの頃に作られなのかつまびらかでないが、因幡家など当地の人々が代々守ってきたという。人形の色は時々塗り変えられ、大事に受け継がれている。祠で祀られている位置で向かって右から、それぞれの人形の特徴をまとめると

(1)上の真ん中の人物
 貴人の風態で、胸に鮮やかに桐の紋が描かれている。二重敷物の上に坐っている。他の4人は立像である。像の大きさも、他の4人より一段と大きい。
(2)右側の人物
 百済の宮人といった風態で、七支刀をもっている。1刃が欠けているのは、子どものいたずらによるとのこと。
(3)上の左側
 〝みずら″風の髪型で、手に柄つきの鏡をささげ持っている。
(4)下の真ん中の人物
 背が高く、〝マント風″の衣をまとっている。
(5)下の左側の人物
 裸でパンツ風の下衣をつけ、両腕に金の輪をはめている。手にひも状のものをさげているが、その先のものは失なれていて何かは分からない。

 これらの人形は何を意味しているのか。古田さんは次のように解説している。

 その一の人物が主人公。この「こうやの宮」の当主であろう。今、この洞は小さいけれど、当人の住んでいた宮殿の地の一角(おそらく奥宮)が、この「こうやの宮」と遺称された、当地なのではあるまいか。

 その二の人物は、百済の宮人。当主の祝典(「即位」など)に参じたのであろう。そのとき持参した宝刀、それが「七支刀」である。

 その三の人物は、近畿天皇家(分王朝)から来た、祝いの使者であろう。鏡を祭器に用いるのは、天照大神系の文明である。

 その四の人物は、北方からの使者。おそらく高句麗などか。

 その五の人物は、南方からの使者。王子であろう。「珍魚」などの〝引出物″を持参したのではあるまいか。

 要するに、「祝典あり。四方より使者きたる。」の姿を、人形で表現したのだ。慶州の掛陵(元聖王785~798)では、アラビヤ人の使者をふくむ、〝遠方からの四人の石像″が列示されている。同類の発想だ。わたしがかつて分析した通り「七支刀」は本来、当地(九州王朝)にもたらされたものだったようである。

 この時の祝典が何であったのか、古田さんは断定はしていないが(例えばとして「即位」をあげている)、「古田史学の会」の古賀さんは「遷都」という仮説を提出している。

 この時期、九州王朝は新羅と交戦状態にあり、新羅の軍隊に糸島博多湾岸まで何度も攻め込まれているという伝承が現地寺社縁起などに多数記されている(この伝承については別に論じる予定)。もちろん、朝鮮半島においても倭国百済同盟軍と新羅は激突していたに違いない。そういう戦時下において、九州王朝は都を筑後川南岸の水沼に移転せざるを得なかったのであり、百済王もそれを祝って同盟国倭国に七支刀を贈ったのだ。そう理解した時、七支刀銘文中の「百練鋼の七支刀を造る、生(すす)んで百兵を辟(しりぞ)く」という文が単なる吉祥句に留まらず、戦時下での生々しいリアリティーを帯びていたことがわかるのである。

 この仮説の信憑性は、七支刀を贈られた当主(倭王旨)がどういう人物かを解明することに掛かっている。それは同時に、古賀さんが遷都先としている「水沼(みぬま)」に王宮の痕跡があるかどうかという問題でもある。いずれその問題にたどり着くだろう。
東京の教育が悲鳴を上げている。


 「都教委包囲首都圏ネットワーク」・「千葉高教組」・「新芽ML」の渡部さんからのメールを転載します。東京の教育現場はひどい状況になっています。イシハラを選んだ都民は早く目を覚まして、2度とこのような醜悪なファシストを選ばないでくれ。

 昨日は上記集会でのMさんの基調報告から 民主党の教員免許制度の問題点を紹介しました。

本日(12月7日)は、上記集会での八王子の現場からの発言(ほぼ全文)を紹介します。

「義務教育教育現場の実態…10・23通達以後」

・職員会議の有名無実化

 2003年以降、都教委による教育への不当介入と強権的な教職員管理は、学校現場に異常なまでの多忙化を進行させています。そして、何よりも教職員の「やる気」を低下させてきています。

 まずは、職員会議の軽視です。教職員による協議・意見を述べ合うことをないがしろ にして、「学校経営」という言い方で「職務命令」の日常化とでもいう校長・教委の一方的考えを伝達していくだけの会となってきました。そのことの最たる問題が、「職員会議での挙手による採決の禁止」でしょう。東京の小・中学校に、まだこの通達は直接出されてはいませんが、学校現場で様々な考えを許さぬことは、事実として毎日の学校に起きています。

 例えば、学校の研究内容や研究日程を校長が一方的に決めてしまう。研究会当日の計画が勤務時間無視の形ですすめられ、時間設定の変更を提案しても受け入れられない。また、移動教室・校外学習の担任以外の引率を学校長だけで決め、当該教諭は、授業の計画と家庭両方に大きな負担を強いられる。クラブ担当顧問も同じ。校長の一存で決定され、土・日曜の対外試合・練習など負担が一身に来ている、など多くの教職員の叫びがとどいています。

 日頃の行事計画では、授業時数の増加で会議の時間が確保できなくなっています。殆どが「見ておいてください。」式の伝達となり、実際の活動での時間ロスが、かえって多くなる結果となってきます。子どもたちに「こうしろ、ああしろ」の指示ばかりがふえ、行事の楽しさよりも、厳しさを押しつけていることになっていきます。子どもとじっくり向き合う時間もなく「注意をしても指導が通らない。」「授業が成立せず、保護者のクレームに対処できない。」「毎日40人近い子どもと格闘して、気がついてみるとうつ病に。」ということが、都内どこの学校でもおきてくる状況になっています。

・「主任教諭」制度(職務・職階制)によるモチベーションの低下

 09年4月より、都教委は給与によって教職員を分断し「教諭―主任教諭―主幹教諭―副校長―校長―統括校長」という差別構造を完成させました。給料を高くしたいなら、この差別構造に「のっからなくてはならない」ようにしたわけです。この「主任教諭」選考では、選考基準が不透明なまま大量の不合格者を出し、大きな問題となっています。長年その学校で、生活指導や学年でのいわゆる「主任」経験者が選考からもれ、代わりに30代前半の教師が「主任教諭」合格となるという「意味がなく分断された職場」は混乱しています。

 特に、2009年度より書式変更された教職員の「主任教諭」の「自己申告書」では「学校運営力・組織貢献力」を最重点としていくことを明言し、記入をさせています。「授業より学校経営参加」を主任教諭に求めるわけです。「学校運営に参加」するとは、「いかに命令を聞くか」と読み替えるとわかりやすくなります。研修報告の{事例文}の言葉を借りれば、「(一般教員に)指導実践を報告させ、先輩教員の助言を受けさせ」、「研究会等で、複数の意見を調整する意見を言わせる」などが職務遂行時の訓練だと言っています。これまでも職場の同僚・先輩からアドバイスを受け、授業や事務分掌をこなしてきています。しかし、OJTと銘うたれ、自己の担当と定められた「主任教諭」からの助言と指導を受け、仕事を覚えさせられることが常となるということです。人間関係が複雑に入り組む職場において、このような上位下達式のやり方で、働く意欲がかき立てられるわけがないことは誰の目にも明らかだと思います。

 こうした管理強化の職場体制が「10・23通達」以降つぎつぎとすすめられ、教育現場には、「自由に考える」ことができなくなっています。

・新学習指導要領移行による超多忙化

 今年4月からの忙しさは、普通ではありません。殆どの学校で、平日は午後8時~10時ごろまで、誰かしら残って仕事をしています。持ち帰り仕事は当然であり、土曜日・日曜日となれば誰かがやって来て印刷をしたり、次週の準備をしています。いくらやっても終わらない仕事量です。「時間をください。」と強く訴えたいというのは、教職員がみんな同じ気持ちでしょう。

 勤務時間が来年度4月より7時間45分となるそうですが、学習指導要領の時間数はふえていくのですから、忙しさはかえって増すことになるのでしょう。教員の仕事を増やしてますます過密にしておいて、学級の人数は減らさない・教職員数もふえるどころか減らされていく、おまけに給与は10年間減り続けています。

 学習時間増と「英語活動」の実施が、忙しさを直撃しています。週学習時間の「1時間」の増加は、放課後の時間を奪い、教材研究と指導準備・ノート等の事後処理の時間を遅くしていきます。ある小学校3年生の担任は「学級の仕事を始めるのは、午後7時30分から。それまでは学校の分掌事務や話し合い、学年の打ち合わせに時間がかかる。次の日の体育・社会科見学コースといった学年の翌日以降の予定を打ち合わせている現実です。若い人が多くなって、教える内容の打ち合わせをしないと…。帰る時間は9時を回るのが普通。」と時間の厳しさを語っています。

 高学年で行われる「英語活動」の時間も、ALT講師との打ち合わせがなくては成り立ちません。小学校教諭の免許には想定されていなかった新たな教科への研修が30時間義務付けられましたが、それ以上に、チームで行う新たな試みは、時間をかけて話し合う必要のあることですから。

 その上驚くことに、私が勤務する八王子市では、来年度授業時数増を計るため、「公開授業を条件に土曜日の授業を年20日間までやってもよい」とする教委の提案までが出てきました。20日といえば、年間35週と考える学校現場では、3分の2の土曜日となります。まさに「学校5日制」をやめるのかという提案を市の教委委員会が出してきています。これについては、現在交渉中で、都教委・文科省も驚く内容であると思いますので「考え直せ」と言っているところです。

・教職員の健康・安全はもはや臨界点まで?

 都内新宿区の新規採用の教員が、就職2ヶ月で死を選んだという衝撃的な出来事は、私たち教職員にとって、本当に身につまされる事でした。こうした教職員の「自死」の事実は、03年以降、確実にふえてきています。若い人たちの状況はさらにひどくなっていきます。

 昨年度(08年度)公立学校の教員採用にされながら1年間の試用期後に正式採用とならなかった教職員は315人そのうち88人は精神疾患に陥っての退職との文科省調査で発表がありました。

 若い人だけでなく年配者も苦しんでいます。別の調査では「精神疾患で休職した公立学校の教員は約5000人。15年連続で増加。」日本の教職員は在校時間が長く、授業準備回数は少なく、文書作成が多い。(「教職員労働国際比較研究委員会」報告2009年2月)という結果もでています。

 この秋10月はじめ、八王子の27才の教職員が亡くなりました。・・・その若い教職員の死に至る3日間は次のようでした。社会科見学を終えた日の週末金曜日。学年会を午後9時過ぎにおえて、仲間と過ごした後ブログ書き込みなどを終えたのが未明の2時。土曜日1日は体調が悪く、寝ていたとのこと。よく日曜日朝、救急車を自分でよんで病院へ行く。入院を勧められたようでしたが、休み明けの月曜日の授業参観・保護者会と翌々日水曜日の研究授業が気にかかったためでしょう、帰宅を選んだとのことです。ただ、その後学年の先生に「授業参観・保護者会当日は出勤できそうにない」との連絡をして、月曜日は休むことにし、体力回復を図ったのですが病状は悪化しました。保護者会が終わった月曜日の夕方、心配になって連絡を取ろうとした学年の先生の電話に応答はなく、アパートで亡くなっていたのです。亡なったのは月曜日 と思われます。・・・赴任からそれまで退勤時刻の殆どが、8時9時が当たり前。土日のいずれかは出勤していたと、同僚は話しています。つまり「過労死」。想像するに、若いからこそ「疲れた」「つらい」と言えなかったのではないでしょうか。

 管理職もつらさを隠せなくなってきました。管理職や主幹教諭からの希望降格が増加していることです。11月の文科省の調査で、前年度より73人も希望者がふえ、179名になったそうです。パセンテージから言えば、40%増です。降任の理由は「健康問題」が179人中の53%を占めています。副校長・教頭も仕事の多さに悲鳴を上げています。何とかしなければ、学校の殆どが壊れてしまうでしょう。

 教職員が安心して教育実践を積み重ねることができる職場をつくることが、今もっとも大事な「教育改革」といえると思います。そうした訴えが学校現場のあちこちから叫ばれていますが、03年東京都に出された「10・23通達」以降、教育現場のまともな訴えは、かき消されてきました。学校長自身にも、現場の裁量が殆ど許されていない事は「土肥三鷹高校元校長」が裁判に訴えたことで、その実態が問われることになってきています。

 こうした現場の実態から見て、民主党の示した「教員免許制度」をはじめとする教育制度へ視点は、果たして現場の混乱を回復できるものなのか、甚だ疑問が生じます。教職員の希望者が果たしてこの制度で、「教員免許」を是非取ろうと考えるでしょうか。2年も大学にお金を払い込み、1年間もの「教員見習い」を勤める。ともすれば「超過勤務や過労で命さえ危うい」という学校状況では、とても教員を目指すなど、普通の学生は考えないでしょう。

 また、学校にとっても、1年間の「教育実習・研修」プログラムに付き合うことは、新たな忙しさ・負担となってくることでしょう。学校の中に新たな階層が生まれる事が目に見えています。

 現職の教職員はどうでしょう。給与を上げるためのキャリアアップをせまられ、忙しさをさらに引き受けていくのでしょうか。もはや「うつ」か、人生の「ギブアップか」の瀬戸際に立たされているにも拘わらずに…です。

・こうした現状をもたらしているもの

 「教育改革」の声が叫ばれて、30年近く経過しています。1980年「ゆとり教育」、84年「臨教審」による新自由主義からくる「個性重視」「学校の多様化」=学校選択制(競争の奨励)がはじまってから、20数年がたっています。これだけ長い間「教育改革」と言い続けてきて、一向に改革されていない「教育改革」は、方向が誤っていることに気づくべきでしょう。

 自由と言えば聞こえはよいが、「自由」と「自己責任」という言葉で、教育の「機会均等」という側面をそぎ落とし、「学校のスリム化」としての教育行政の経費を減らし、「民間に力を借りる」と言って、教育産業にとっての絶好のビジネスマネージメントをおこなってきたわけです。つまりこの間の教育改革の背景には、いつでも経済資本の思惑がうごめいていたのでしょう。

 競争によって教育の効率をあげ、「予算をかけないで、高学力のエリート養成をとする考え方は、絶対に間違っています。競争することを是とするならば、スタートの位置の公平さがあってはじめて成り立ちます。教育は、そのスタートでの「公平さ」・「機会均等」を補償する最も重要なファクターとなってくるのですから…。

 「富める者」である一部の者たちが、いつでも勝者となるような「自由な競争原理」を作ろうとしているのが「新自由主義」と言う考え方なのでしょう。もうこんな考え方の誤りに引きずられることなく、子どもたち自身が学ぶ主体となる教育・働く私たちの生活と権利が補償される学校を取り戻すことが第一です。東京都が行ってきた教育行政の仕組みを、逆方向から検証していけば、殆どのゆがみが取り除かれていく気がしてなりません。(以上)

ひらりちゃんの童話集
「雨の降る日は・・・」


雨のふる日は
   空色のかさと
    銀色のしずく


ポッポッポツーンシュシュシュバーンポンサー。
 強くなってきた雨が、ちひろの空色のかさをたたく。
トンパラトンパラツツツツツー
〈もう。早く帰んなくっちゃ、ピアノに遅れてしまうわ。〉
 ちひろは、雨で顔をぬらして、横断歩道のむこうの信号を見た。
〈黄色か。いいや、わたっちゃお。〉
ちひろは、急ぎ足で横断歩道をわたり始めた。
 ブッブー! いきなりクラクションがなって、トラックが、つっこんできた。
「あっ!」
 キキキキキーッ! 急ブレーキの音がして、ちひろは、はねとばされた。宙にういたその瞬間、ちひろは、信号が赤く光っているのを見たような気がした。そして自分の空色のかさが、銀色のしずくといっしょに泣いているように思えた。

 エーンエーンちひろちゃーん。はやくわたしをさして。エーンエーン。かさは泣きつづけた。しずくはかさをなぐさめているかのように、トンパラトンパラとかさの上におちてきた。それでもかさは、いっそう悲しそうに声を上げて泣いた。エーンエーンヒッヒッヒーッ。ちひろはこまってしまった。そして、なぜか急に重たくなってしまった手をいっしょうけんめいにかさの方にさしだした。けれども手はなかなか言うことをきかない。思わずちひろはウーンとうなってしまった。そうすれば少しでも力が入ると思って。ウーンウーン。その時、パッとかさと銀色のしずくがわれるように消えた。見えるのは真っ白い空だけ。それでも泣き声はまだ聞こえる。ちひろは手をその泣き声の方にさしのばした。首もまわそうとした。ズキーンと、いたみが首から頭全体にはしった。
「いたい。」
 ちひろは小さく声を出した。

「まあ、ちひろ気が付いたのね。わかる?お母さんよ。」
 ちひろはその女の人のぬれた顔を見て、泣き声の主だと分かった。けれどもお母さんだとはわからない。女の人はちひろのまくらもとの白いブザーをおして二言三言話した。すぐに真っ白い服をきたかんごふさんが二人走りこんできた。めがねの男の先生もいっしょに入ってきた。。そしてびっくりしているちひろの眼をじっと見ると、かんごふさんに何かしじした。ちひろは、そんな様子を不思ぎそうにじっと見つめているだけだった。

 やがてかんごふさんがもどってきた。手にはそれぞれ黄色い大きい板をかかえていた。その板には、絵やひらがな・かたかな・数字、漢字などが書いてあった。先生はまず、絵のかいてある板を受け取って、一つの絵を指した。
「ちひろちゃん、これなんだかわかる?」
「時計」
「そうだね。じゃ、これは。」
「めがね」
「これは。」
「ちょうちょう」
「じゃあ、これは?」
「自転車 ― でしょ」
先生は、ウンウンとうなずいて、今度はひらがなの板をとり出した。そして一番上の字をさした。
「これ、なんて字だかよめる?」
「あ。」
「そう。じゃこれは?」
「き」
「そう、よめるね。」
そして心配顔のお母さんに
「大丈夫。べつじょうありません。けれどもうしばらく様子をみましょう。あと左手のけがは、かるいこっせつですので、心配はありませんよ。それでは、ちひろちゃんはあまり動かないようにね。おだいじに。」
と言って、病室から出て行った。後にのこった二人のかんごふさんは、黄色い板をかたづけ始めた。ちひろは痛む首をわずかに動かして、それを見ていた。年とった人の方はかんご婦長のマークをつけていた。もう一人の若い方の人は、とってもきれいで、やさしそうだった。そしてかんご婦長が帰った後、
「ちひろちゃん、私がこれからあなたのお世話をする秋みよ子です。よろしくネ。さっきの主治医の先生は野本先生とおっしゃるのよ。」
と若いかんごふさんはニッコリわらった。ちひろはあわてて
「ちひろです。よろしく。」
と言った。そして、ねたままあいさつをするのは変な気分だなぁ、と思った。秋かんごふは
「それでは。」
とお母さんに頭をさげると、ちひろにバイバーイと手をふって出て行った。お母さんは、
「なんだかおもしろい人ね。」
と言って、
「お母さんは家に電話かけてくるわね。お父さんも心配しているだろうから。動いちゃだめよ。まっててね。すぐにもどるから。」
と心配そうに言って、パタンとドアをしめて病室から出て行った。

 ちひろは何が何だか、わからなくなってしまった。
〈あの女の人が私のお母さんだとすると、お父さんもいるのよネェ。でも私はお父さんの顔を知らない。お母さんだって会ったばかりにおばさんみたいな感じなんだもの。だいたいが、どうして私はこんな所にいるんだろう。頭や手に白いほうたいなんかまいて…。ああ、わからないわ。でも先生はべつじょうないって言ったし、字だってちゃんと読めたもの。…そうね、心配することないんだわ。〉
ちひろは自分にそう言ってみたものの、何かすっきりしない。頭の中の一部が、とうめいになってしまったように、一番大切なことが思い出せないのだ。それが何だかはよくわからない。けれども、とっても悲しい声が聞こえてくるような『何か』なのだ。

 お母さんがおぼんを一つもって帰ってきた。
「ちひろ、お父さんは明日来て下さるってよ。よかったわね。はい、これはお夕食よ。お母さんが食べさせてあげるから、ちひろはねたままでいいのよ。」
ちひろは知らない人としゃべっている時みたいにコチンコチンになって、
「ありがとう。」
と言った後に、「あばさん」と言いそうになって、あわてて口をつぐんだ。
〈おばさんと言えば、私のお母さんだという女の人はびっくりするだろう。そして、こわい検査やちりょうをやられるだろう。〉
ちひろはブルブルッと身ぶるいをして、できるだけ明るい口調で、
お母さん、こんだては何?」 と聞いた。お母さんはおどけて言った。
「真っ白いご飯に、じゃがいもとにんじんと玉ねぎと肉のにものよ。それに牛にゅうとヨーグルトでございます。おじょう様。きらいな玉ねぎも食べねばなりませぬ。」
ちひろもクスッとわたって、
「ぜったい食べねばいけませぬか。」
「はい、ぜったいでございます。おじょう様。まあ、食べてみなされ。」
しかめっつらをして玉ねぎを食べているちひろを見て、お母さんは声をたてて
「アハハ…、ちひろったら。」
とわらった。そのわらい声を遠くに聞きながら、ちひろは考えていた。
〈あの私のお母さんという人が、私が玉ねぎがきらいだって言うから、どんな食べ物かと思ったら…。そういえば口でトロッと、とけるみたいできもち悪いわ。〉
それからちひろはアッと思った。
〈私、こんなもの食べたことなかった。私いままで、いつも何を食べていたのかしら。いつもこの人といっしょだったのかしら。〉
―つづく―

(「つづく」となっていますが、この話の続きが見つかりません。続きは創られていなかったようです。どなたか、続きを創ってくれませんか。)