2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
ひらりちゃんの童話集
「弱虫ヨッちゃん木にのぼる」


弱虫ヨッちゃん木にのぼる

 むかーし、むかし、あるところに、弱虫ヨッちゃんという、七つの男の子がおったと。その子は、みんな木に登って遊ぶというにこわくて登れんかった。いつも六つのミサちゃんと、三つの花子ちゃんと遊んでいたと。

 ある日のこと、いじめっ子のサブやジローが、
「やーい弱虫毛虫はさんですてろ。」
「ミサや花子と遊んでばっかりいるぞ。ヨッちゃんヨッちゃんヨシ子さん!」
「木にも登れん弱虫だヤーイ!」
なんてバカにするもんだから、イラだって、
「木ぐらい登れんだ。」
と言うと、サブやジローは、.バカにして、
「ほんなら、向うの山の杉林の一本杉に登ってみろヤーイ!」
と言い返して、それから言うた。
「明日の三時きっかりにこいよ。」

 その夜、ヨッちゃんは明日のことが心配で、なかなかねむれんかったと。
(ああ、どおすんべえ、オラ、弱虫だってバカにされてもがまんしてだまっていれば、いかったな。んだが、ほんに変なこと言うてしもうた。ああ、どうすんベェどおすんベェ。)
と思っているうちに、眠ってしもうた。

 次の朝、ヨッちゃんは、ミサちゃんと花子ちゃんに、三時の約束のことを話した。ミサちゃんは笑って、
「でえじょうぶ、あたいだって、のぼれる。」
と言って、庭の柿の木にするすると登って、まっ赤な柿の実を、三つもいで、おりてきた。そして、花子ちゃんとヨッちゃんに、
「さあ、この柿食ったら、練習すんベェ。すぐ出来るようになるよ。」
と言って、一本杉のところへ連れていった。「ヨッちゃん、のぼってみい。木の幹にしがみついて、幹さけっとぱしていればいいだよ。」
と言った。そして、花子ちゃんに言った。
「ものさし持ってきてよ、花ちゃん。」
花子ちゃんは、テレテレと走ってすぐ帰って来た。一方、ヨッちゃんは、一生けんめい、木の幹をかかえて、ウンウンいっとるんだが、なかなかのぼれん。あっ、ちょっと尻が地面からういた。ミサちゃんは物さしで、
「やった。ヨッちゃん、2㎝、あ、5㎝になったぞ。もっときばれい。」
と、いちいち測って、応援してくれる。三時。

 三時。サブにジローに玉三郎、ゴンにノブに、大すけ、一郎。一本杉のまわりは、いっぱいだ。ヨッちゃんはのぼった。10㎝あがって5㎝下る。まっ赤な顔をしてがんばった。見ていて、みんなも応援しようと思った。
「がんばれ、よいしょ、がんばれ。」
と、尻をおす。ヨッちゃんのおしりをサブがおす。サブのおしりをジローがおす、ジローのおしりを玉三郎がおす、玉三郎のおしりをゴンがおす。ゴンのおしりを大すけがおす。大すけのおしりを一郎がおす、一郎のおしりをミサちゃんがおす。みんなで、ミサちゃんを、ひっはり上げて、ズラーッと木の枝にならんですわった。一人残った花子ちゃんは、ボケーつと見上げている。そして、「みんな、おりられるのけ?」と思った。上からは、みんながロをそろえて、半泣き声で
「花ちゃんー。はしごを持ってきてくれー。」
花ちゃんはあわてて走っていった。けれどもどうしたことか、いつまで待っても、花ちゃんは帰って来なかったと。ちょうど夕はん時の寺のかねが、のんびりと、なっておったと。

おしまい
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ひらりちゃんの童話集
「明日になったら」


明日になったら

「明日になったら、ママ、帰ってくるよね。」
ナナは、おばあちゃんのひざの上に頭をもたせてたずねました。
「ああ、ああ、帰ってくるともさ。」
おばあちゃんが言うとナナは、
「ああ、よかった。だって明日は入学式でしょ。ママがいないとこまるもん。」
と、ぴょんとはねおきていいました。
「今日はナナの好きなシチューにしてやる か。おいしいぞー。」
おばあちゃんが、かっほう着をきながら言いました。ナナは、
「ウン。おじいちゃんも、もうすぐ帰ってくるね。うれしいなー。」
と言いながらトントントンと、かいだんをのぼって自分の部屋にとびこみました。そしてピカピカの机にそっとさわってみました。それから机の下の赤いランドセルをしょってみました。そしてベッドにすわっている人形のリンをだきあげました。リンはお母さんが買ってくれた人形で、ふるとリンリンなるすずを手にもっているようせいの形をしていました。
「リン、かっこいいでしょ。このランドセル。ナナはねぇ、一年生よ。入学式にはママと行くんだ。リンはお家で留守番しててね。」
その時、ガラガラとげんかんのあく音がして、
「ただいまー。」
という声が聞こえました。
「あっ、おじいちゃん!」
ナナはリンをだいたまま、かいだんをかけおりていきました。

 ホカホカゆげをたてているシチューをおいしそうに食べながら、ナナは言いました。
「おじいちゃん、ママは何時ごろに帰ってくるの。朝、ナナがおきたらいる?」
するとおじいちゃんはちょっと考えて、
「そうだなあ。明日の夕めし時かなぁ。」
と言いました。ナナはびっくりして、
「えー。それならナナの入学式にこれないじやないのー。」
と言いました。おじいちゃんは、
「うーん、そうか。明日が……。こまったな。」
とひたいにしわをよせました。おばあちゃんは、ナナを安心させようと思って、
「大丈夫だよ。おばあちゃんが、いっしょに行とうてあげるからねー。ナナちゃん。」
と言いました。でもナナは泣きながら、
「いや、いや。ママじゃなくちゃイヤー。」
と言って、自分の部屋に、かけこんでいってしまいました。おじいちゃんとおばあちゃんはまだ半分のこっているナナのシチューを、とほうにくれてながめていました。
 「バカバカー。ママのバカー。」
ナナはリンをだいて、自分のベッドにもぐりこみました。まくらが涙でつめたくなってきました。
「今までずっとおりこうにしてたのにー。」
ナナは泣きつかれて、いつの間にかねてしまいました。

 おばあちゃんにお母さんが帰ってくる日をききながら、ようち園にかよっていました。おじいちゃんにお母さんの帰ってくる日を教えてもらいながら、夕飯を食べました。こんな毎日がもう二ヶ月も続いています。ナナのお母さんはお医者さんです。今、他のお医者さんたちといっしょに、アフリカへ出張しています。ナナは本当にこの日まで、よくがまんしました。

 朝はやく、ナナは目がさめました。ソッとおきて、リンをさがしました。リンはベットの下できゅうくつそうにねむっていました。ナナはリンのかみの毛をやさしくなでてやりました。リンリン……とかわいい鈴の音がナナの耳の中にひびきました。するとナナはとても悲しくなっておばあちゃんのねている部屋にそっと入って、ふとんにもぐりこみました。おばあちゃんはうす目をあけて、
「おや、おばあちゃんのふとんの中に、ナナねずみが入ってきたな。リンさまもいっしょかね。」
といいました。ナナはフフッとわらって、
「ねえおばあちゃん、ママのおはなしして。」
とせがみました。おばあちゃんはうんうんとうなずいて、こんな歌をうたってくれました。

 ちっちゃなねずみは知ーらない。
 となりのお部屋にやさしーい
 お医者さんねずみがいることを
 一番早い電車で来たことを。

ナナは、小っちゃいねずみは私みたい、と思ってあっと声をあげました。そしてふすまを半分あけてふり返り、
「きのうはごめんなさい。」
とおばあちゃんにあやまりました。となりの部屋にねていたお母さんのまくら元には紙づつみがありました。
「ママ」
ナナがよぶとお母さんはすぐに目をあけました。そして、
「ただいま、ナナちゃん。」
といいながらおき上り、ナナにほほずりしました。
「紙づつみはおみやげよ。」
ナナは急いで紙づつみをあけました。
「ナナちゃん、よめるでしょ。」
ナナは目をきらきらさせながら読みました。
「ナ・イ・チ・ン・ゲ・ル」
お母さんはナナにナイチンゲールの本を読んであげました。
「フローレンスは小さい時からとても心のやさしい子どもでした。……」

 ナナとお母さんは、ゆっくりとさくらのさいている小学校の門をくぐりました。
「ねえ、ママ。ママはナイチンゲールみたいだね。私もナイチンゲールみたいになりたいなー。」
と言いました。それから、
「なれるように、ちゃんとお勉強するよ。」
と言って先をかけていきました。そんなナナの後すがたを、お母さんはうれしそうに見ていました。(おわり)
ひらりちゃんの童話集
不思議なフウセンガム(2)


「てつくーん、遊びましょ。マムで遊びましょ。川に行って遊びましょ。」
するとてつうくんが二階の窓から顔を出して言いました。
「ゆりちゃん、上がってこいよ。」
「ウン!」
ゆり子はくつをポーンとぬいで
「おじゃましまーす。」
と、どんどん勝手にてつくんの部屋まで上がっていきました。ゆり子は自分のマムをかみながら、てつくんにも一つぶあげました。てつくんはすぐかんでみて
「おれの、メロン味だぜ。」
と言って、クチャクチャプーと風せんみたいにふくらませました。すると、メロンの形にふくらみました。いっぱいいっぱいふくらんで、窓から出ていそうになりました。てつくんはヘタの部分をしっかりつかんで、窓わくの所にふんばりました。そしてゆり子に
「ゆりちゃん、はやくふくらませ!」
と言いました。ゆり子ははじめてなのでドキドキしながら、フーッと息をふきこみました。するとイチゴの形に大きくふくらみました。二人はそれに乗って窓から飛び立ちました。その時、机の上にあった花びんの花が折れてしまいました。でもぜんぜん気が付きませんでした。二人はフワフワ飛んで行きます。てつくんが聞きました。
「あといくつ残っている?」
「えーと、1,2,3…5個よ。」
その時、スズメの大群がやってきました。
チュイチュイピピピピピ…… プツン!パチン!
スズメにつつかれてガムの飛行機は割れてしまいました。
「キャー、助けて!」
二人はドボンと川に落ちてしまいました。スズメたちが心配そうに集まって来ました。
「ごめんね。チュンチュンピピピピピ…」
ゆり子は大いそぎでマムを二つ出しました。一つぶてつくんにあげて、クチャクチャプー。そして
「長くのびろ、長くのびろ。」 と言うと、ビューとゆり子のマムがスズメの足にからみつき始めました。てつくんのマムも同じです。
「さっ、スズメさん、お家に連れてって!」
パタパタパタパタ…。てつくんの家についた時はもう六時でした。ゆり子は残りの三つぶのうち二つぶをスズメにあげました。そして最後の一つぶは大切に自分のたから物のふくろに入れておきました。

 次の日、お母さんはゆり子に言いました。
「ゆりちゃん、おつかいに行って来てちょうだい。おかし屋さんのとなりの八百屋さんよ。モモを四つ買ってきてちょうだい。」
ゆり子は
「ハーイ!」
と元気よく返事をすると、ビーズのさいふを急いで持ってきました。そしてお母さんから買いものかごを受け取ると
「行ってきまーす。」
と玄関から出て行きました。
「おばちゃーん、モモ四つください。」
とゆり子が大きい声で言うと、あばさんが出て来て
「ハイハイ、モモ四つね。」
と、モモをゆり子のかごに入れてくれました。帰り道、ゆり子は八百屋さんの方をふり返って、大変な事に気が付きました。
「マム屋さんがない!」
ゆり子は全速力で走って家に帰りました。
「ただいまー!」 「あら、ゆりちゃん、はやかったわね。」
お母さんにモモをわたすと
「大変、大変!」
と言って、自分の部屋にころげこみました。そして、たから物のふくろの中身を全部ぶちまけました。てつくんからもらったシール、キャンディのつつみ紙、赤い石ころ、おはじき、毛糸のきれっぱし……。けれどもマムはどうしてもみつかりませんでした。(おわり)
ひらりちゃんの童話集
不思議なフウセンガム(1)


不思議なフウセンガム

「ねえママ100円ちょうだい。」
とゆり子は顔を真っ赤にして、お勝手口からとびこんできました。れいぞう庫に卵をしまっていたお母さんはびっくりして卵を一つ割ってしまいました。
「まあ、ゆりちゃんどうしたの? びっくりするじゃないの。」
おかあさんは、ぞうきんでゆかをゴシゴシふきました。ゆり子はもう一度大きな声で
「だからね、100円ちょうだい。」
と言いました。
「100円で何を買うの?」
お母さんがきくと
「あのね、マム買うの。イチゴとレモンとメロンとハッカーとチョコレートの味の。」
とゆり子はいっきに言いました。
「えっ? まむってなあに。ママ知らないわよ。」
「だって、てつくんがいってたよ。マムって、あのね、おもちみたにクチャクチャってかんで、プーってふくらむマムよ。」
お母さんは笑いながら言いました。
「それはフーセンガムでしょ。マムじゃないわよ。ガム。」
そして、エプロンのポケットから、100円玉をひとつ出してゆり子ににぎらせてくれました。
「昨年おばあちゃんにもらったビーズのかざりのおさいふに入れていくのよ。」
「はあーい、いってきます。」
ゆりこはバババババーッと二階の自分の部屋に走りこんで、宝物のふくろからおさいふを出すと、その中から、いっぱいつまっていたおはじきをベッドの上にぶちまれると、100円玉をいれて、ニッコリ笑ってから、いちばんきれいなおはじきを一枚入れて、またバババババーッとお勝手口から出ていきました。
お皿をあらっていたお母さんは
「まあ、ゆりちゃん!」
と言ったとたん、おさらをわってしまいました。「ハーッ」と大きなため息をつくと
「まったくあの子は。」
と言いながら、マムのことを思い出してクスッとひとりで笑いました。

「マムはマムでもマムじゃない、マムはマムのなにかな、わーかる人。」
と歌いながら、ゆり子はスキップして行きました。そして坂の向こうの横断歩道をわたると、もういつもてつくんが行くおかし屋さんです。でも今日はちょっとちがいます。おかし屋さんが二つ並んでいるのです。
「あれー? おかし屋さん一つしかなかったのにー。そうだ、おちょんちょでどっちで買うか決めよう。どっちにしようかな、神様の言うとおり、おちょんちょおちょんちょまっくろこげやけた。こっちー。」
そして大きい声で
「こんにちは、マムください。いっぱいマムくださいな。」
するとニコニコ顔のおじいさんが出て来ました。ゆり子は、〈てつくんと来た時はおばあさんだったのに、私、まちがえちゃったみたい。でも神様がこっちって決めたんだから、ぜったいこっち〉と思いながらビーズのおさいふから100円玉を出しました。おじいさんが
「おじょうちゃん、この店のガムは100円。けれどもマムは100円とちょっとだよ。どっち買うの。」
と言いました。ゆり子は
「おじいちゃんて不思議ね。ママは私がまむって言うと『ガムよ』と言い直すのに、おじいちゃんはどうして言わないの?」
と聞きました。
おじいさんはやさしい顔で言いました。
「わしがマム屋だからさ。フォッ フォッ。」
「それなら私、マム買うわ。はい、100円とちょっと。」
ゆり子は100円玉とおはじきを差し出しました。おじいさんは大きな手で受け取って
「ほい、たしかに100円とちょっと。」
そして空色のガラスのビンをゆり子にくれました。ゆり子は栓をあけて、一つぶ口に入れてクッとかんでみました。イチゴの味でした。ゆり子はおじいさんのまねをして
「ほい、たしかに私のマム。」
と言いました。そしてスキップをしながら、てつくんの家に行きました。(つづく)
ひらりちゃんの童話集
「グリーン グリーン」(2)


 サンライズとサンセットはやっと泣きやんで、ホッとしたような声で、
「ムーン、スター、ボクらはここだよ。」
すると、月は星たちと一緒にゆっくりとグリーンの方に降りて来た。そして、グリーンの角の先にスッと立った。月はとてもやさしそうな顔をしていた。そして、真っ白なドレスを着ていた。身体からは青白い光を放っていた。うしろの星たちはじっとしている事が出来ないらしく、絶えず
「キララ キラキラ キララ」
と歌いながらクルクル回っていた。不思議なことに星たちは一人残らず黄色いスカートをはいた女の子だった。グリーンは
「ああ、このきれいなお月さまがサンライズの言っていたお母さんのムーンだな。するとこのキラキラ光っている嬢ちゃんたちは、サンライズやサンセットの妹だな。」
と思った。やがて静かにムーンが口を開いた。
「サンライズ、サンセット、わかっていますね。おまえたちが勝手なことをしたばっかりに、この地球は夕日がないまま夜をむかえ、朝日がないまま朝をむかえることでしょう。こんなことは初めてです。」
サンライズとサンセットは悲しそうに自分たちの美しい母さんみつめていた。グリーンは二人をかばうつもりで言った。
「きれいなお月さま、どうかこの二人をしからないで下さい。私が偉大なアポロンをけがしたために、アポロンはおおこりになったのでしょう。私がいけないのです。」
すると、月はゆっくりと首をふって
「いいえ、グリーン、アポロンはあなたのことをおこっていません。アポロンはおこって空から消えたのではありません。人々やあなた方はこれを日食と思っているようですが、それは違います。アポロンは自分の仕事をやり終えたから空から消えたのです。空の仕事のしくみはこうです。まずサンライズがゆっくりやみの中から出て来ます。そしてある決まった場所に来るとアポロンに交代します。そしてアポロンも、自分の仕事場所の終わりまで来たらサンセットと交代します。そして、夜になれば私たちの仕事です。だから、今日は日食ではなく、夕日が出なくて、その間だけ暗くなったという事です。おわかりになったでしょうか。」
と言った。グリーンは嬉しそうに
「本当におこってないんですね。」
と声をあげた。月はやさしそうに目を細めて
「おこるどころか、アポロンはあなたがさみしそうなので心配しているのです。」
とゆっくり言った。グリーンは
「そうなんです。私はしたい事がたくさんあるのに出来ないのです。」
「どうして?」
ムーンはたずねた。グリーンは
「どうしてって、私は地上絵だから、飛びたくても飛べないし、水のたくさんある所へも行けない。それに歌も歌えない。」
ムーンは今度はきっぱりと言った。
「あなたは、したい事は何でも出来ますよ。あなたは地上絵じゃないもの。ただ人々が地上絵と言っているだけです。さあ、飛んでみなさい。歌ってみなさい。」
グリーンは不安そうに羽を持ち上げてみた。羽はバッサと音をたてて地面から離れた。みんなはじっとグリーンを見つめていた。グリーンはいよいよ地面から浮き上がり、やがて舞い上がった。星も月もない真っ暗な空に円を描いた。
「とべる!」
グリーンは叫んだ。
「とべる、とべるんだ。歌もきっとうたえる。」
グリーンのあとから、月や星たちもうれしそうに舞い上がった。
グリーンはとても嬉しかった。
「とべた、とべた。歌もきっとうたえる。」
そして、一つ大きく息を吸って歌い出した。

1
 みどりを ください
 はなを ください
 あめよ 降ってください
 かんかん 照りつける
 太陽は いらない
 やさしい やさしい
 朝日と 夕日が
 あればいいのです
   グリーン グリーン

2
 忘れることは できません
 昔 昔の あの雨を
 白い白い 真っ白い
 砂なんか いらない
やさしい やさしい
みどりが
あればいいのです
   グリーン グリーン

3
 友だちを ください
 自由を ください
 海よ川よ みずうみよ
 「めずらしい地上絵だ」
 とさわいでほしくない
 めずらしくなんかない
 花と朝日と 夕日と雨と
 そして 自由を
   グリーン グリーン

4
 とびたい とびたい
 ただ とびたい
 私の前に 大空は
 いっぱい いっぱいに
 広がっているのに
 コンドルだって
 とんでいるのに
 何もかもが
 暑い暑い 太陽のせい
 私に必要なのは一つ
   グリーン グリーン

 いつの間にか、月や星は見えなくなり、サンライズが仕事を始めていた。そして、グリーンにささやいた。
「グリーン。アポロンが、暑すぎるのはどうしようも出来ないけれど、その分、ナスカに雨を降らせてくれる、ってさ。」
グリーンは、とても嬉しくなった。そして 「ありがとう! ありがとう!」
と叫んで、宇宙にとび出していった。

5
 とべた 歌えた
 自由に なれた
 友達 だって
 たくさん出来た
 もう 一人ぽっちじゃない
 暑い 太陽でさえも
 大切な 友達
 白いナスカを
 みどりと花で
 あふれさせてみせる
   グリーン グリーン

 そしてグリーンは、いろんな星へ飛んで行き、いろんな木や花の苗や種子を持ち帰ると、ナスカに植えた。一年、二年たつうちに、太陽と雨のお陰で、ナスカは自然がいっぱいの美しい場所となった。グリーンはそこに絶対人間を入れなかった。

 グリーンはもう悲しいさけび声を決してあげなかった。 (終)
ひらりちゃんの童話集
「グリーン グリーン」(1)


(もうずいぶん昔のことです。私の身近にいた少女・にしのひらりちゃんが、小学校5年生~6年生の頃、「おはなしづくり」に興じていました。その「おはなし」のできばえに感心したひらりちゃんのお母様がその「おはなし」をまとめた冊子を何冊か手作りして、私に一冊下さいました。先日古い文書を整理していたら、長らく忘れていたその「おはなし」が出できました。改めて読んでみて、私もそのできばえに感心しました。私のホームページの所期の趣旨とは全く関係ないのですが、ちょっと息抜きということで、その「おはなし」を紹介することにします。)

グリーン グリーン

 1988年8月1日、南アメリカのアンデス山脈、ナスカはとても暑い。口では言い表せないほどだ。そこには不思議な地上絵がたくさんあった。くじら、鳥、魚、中でも一番大きく目立つものは、グリーンだ。グリーンと言っても緑色をしているのではない。ほかの砂地とかわらぬ白っぽい砂色だ。けれど、朝日が昇り始めた時や、夕日が沈み始めた時に、いつも
「グリーン、グリーン。グリーン、グリーン。オォー。」
という声が悲しそうにナスカの砂漠にひびきわたる。その声はどうやら、一番大きな地上絵から聞こえてくるようなのだ。
 地上絵の研究家はそれを聞いて言った。
「これはナスカの熱風が、夕日や朝日の一番きれいな時に一番速くなって、砂の吹く音が、グリーンと聞こえるのだ。」
「いいえ、これは飛行機の爆音です。」
などなど、もっともらしい話や、うそのような信じられない話、おばけ話、わらい話。そしてみんなはその声を録音したり、航空写真を撮ったりしてさわぎたてた。

 ある日の真昼、いつもと同じようにナスカは暑かった。その広い広い砂漠にポッツリと小さな点が二つ、グリーンに向かって歩いて来た。よく見ると、それは真っ赤なチョッキに真っ赤なくつ、真っ赤な帽子に真っ赤な半ズボンのふた子のかわいい男の子だった。二人はグリーンの長い長い角の部分に坐った。 グリーンは小さな声で
「お前達は研究隊か? もし研究隊員だったら、私の角に坐ることは許さない。」
二人の男の子はもっともっと小さな声で
「ボクたちは研究隊員なんかじゃありません。ボク、なんかあなたに呼ばれているような気がして、弟と来たんです。ボクの名前はサンライズ(朝日)。弟はサンセット(夕日)。」
するとグリーンは、感激したような大声で
「なんだって。君たちが、私のずっーと待っていたサンライズとサンセットかい。」
するとサンライズは人差し指を口にあて
「シ-ッ、ボクたち、アポロン(太陽)やムーン(月)やスター(星)たちに内緒で来たんだから。」
グリーンは小さな声で不思議そうに言った。
「えっ? アポロン? ムーン? スター?」
「そう、アポロンはボクの父さんさ。ほら、あそこだよ。空の真ん中にいるんだ。」
 グリーンは言われた通りに、カンカン照りつける大きな赤い太陽を見た。太陽はじっと動かずに自分の息子を見ているようだった。グリーンは大きなため息をついて
「君たちのお父さんは、あまりにも大きくて暑すぎるよ。君らはもう見つかっているさ。それにしてもなんて暑いお父さんだろう。」と言った。するとサンセットが弁解するようにしゃべり始めた。
「アポロンはとても大切だよ。アポロンが雲に隠れてしまって雨が降ると、町や村のみんなは『あーぁ、雨か。』とがっかりするよ。アポロンはとても好かれているんだ。」
するとグリーンは叫んだ。
「雨? 雨? 雨が降るの? あの冷たい小さな水の粒が雨でしょう? 雨! 雨!」
サンセットは不思議そうに言った。
「そうだよ。グリーンは雨を知らないの?」
グリーンは言った。
「知ってるさ、知っているとも。私が目を開いた時に見えたのは、青い空とコンドルと、ただ暑いだけのアポロンさ。暑くて暑くて身体がバラバラになりそうな時、降ってきたんだよ、雨が。気持ち良かったな。」
サンセットが口をとんがらせて言った。
「アポロンのこと、そんあふうに言わないで。」
 その時だった。空が急に暗くなった。夜のように暗くなった。三人はアポロンを見た。
「アポロン!」
「アポロン!」
サンライズとサンセットはびっくりして泣き出しそうになった。グリーンは
「心配することないさ。君らは知らないの? 今までに何回も何回もあったさ。ただの日食だよ。そんなに驚くことないよ。」
サンライズは心配そうに叫んだ。
「ちがう!」
「えっ?」
グリーンは訳がわからなかった。
「ちがうんだよ。アポロンが休憩する日は…つまり日食の日は。ボクや弟の誕生日や、春風が遊びに来た時や、何か特別なことがある時なんだよ。でも…、今日は何の日でもないんだよ。」
サンライズとサンセットはとうとう泣き出してしまった。グリーンはどうすれよいのわからなくて、ボンヤリと暗くなった空を見つめていた。

 その頃、人間たちもさわいでいた。
「日食が私たちに前もってわからなかったなんて、何ということだ。」
「地球に何かが起こったのだ! 地球は爆発するぞ。」
「私はまだ死にたくないわ。どこに逃げれば助かるの? お金ならたくさんあるわ。」
さわいでいるうちに夜が来た。といっても、空ははじめから暗いので人々にはそれとすぐにはわからない。ただ、月と星が出たのだ。時計を見て、人々は夜だということをやっと感じた。(つづく)
企業経営の社会主義化(17)
<まとめ>搾取資本主義からの脱却


 どんな贅沢をしても一生のうちで使い切れないほどの資産を持ちながら、なおも労働者からの大搾取によって暴利を貪る醜悪な資本家・経営者が多い中、必要以上の利益を求めず、顧客も従業員も大事にしている企業の例を見てきた。経営者も従業員も人間らしく生き生きとしている。とてもさわやかな気持ちになった。

 しかし、そのような顧客も従業員も大事にするような企業が自然増殖することを期待することはできない。暴利を貪って飽きない種類の人間性だけがその原因ではない。資本主義というシステムの欠陥・限界がその根底にある。

 今まで見てきた例を分析すれば、資本主義システムを越えていく道筋が見えてくるだろう。と思って、このことを記事にしてみようと悪戦苦闘をしていたとき、「五十嵐仁の転成仁語」がその道筋を示すような論攷をアップしていた。五十嵐さんの論攷は冷静沈着にして強固な論理性と広い視野を兼ね備えている。「五十嵐仁の転成仁語」は私が愛読しているブログの一つです。

 さて今回は、くだんの論攷 「活路は「技術立国」に向けた人材の育成しかない」 の立論を借用して、このシリーズのまとめを書くことにしよう。(直接の引用文は「」で示した)

 まず「日本経済の回復に向けて、企業に求められる経営はどうあらねばならないか。」と問い、「その答えは、一つしかない。堅調な内需に支えられた『技術立国』の道をもう一度めざすべきだということだ。それに役立つ経営が、今の企業には求められている。」として、企業が目指すべき方策を四つあげている。

(1)労働条件の画期的な改善
 資本主義経済は消費者がいなければ成り立たない。労働者は同時にもっとも頼むべき消費者でもある。労働者をただ搾取しているばかりでは資本主義経済は衰退するほかない。現在の逼塞状態から脱出するためには、まず従業員を大事にすること、つまり雇用・賃金・労働時間、さらには厚生福祉制度の面で画期的な改善が行われる必要がある。

「安心して働くことができ、可処分所得が増え、レジャーなども楽しむことができてはじめて、内需は大きく拡大する。このような働き方を実現することは、直接的短期的には働くものの利益となるが、間接的長期的には企業のためにもなるということを忘れてはならない。希望を持って働き生活することができる、安定した豊かな社会を生み出すことこそ、日本経済回復の基礎的な条件なのである。」

(2)海外市場の拡大化
 小売企業コストコは日本にも出店していることを知ったが、たぶん中国などアジアの他の国にも進出しているだろう。願わくば、顧客も従業員も大事にするという、その経営手法を堅持したまま進出してほしいものだ。

 日本の企業がアジアの周辺諸国を市場とする場合も、儲けることだけを優先してはならない。経済的に共栄共存するという理念が優先されるべきだ。そして、そのためには周辺諸国との間の政治的安定が不可欠である。いま鳩山首相が提唱している「東アジア共同体」構想がその方向に進むことが期待される。そのためには何よりもまず、日本国内にはびこっている偏頗なナショナリズムを克服しなければならない。

「堅調な内需だけでは不十分であり、輸出の拡大も必要になる。この点では、北米偏重の貿易構造を改め、中国など周辺諸国の市場を重視しなければならない。経済発展を続ける中国は、GDPにおいて今年中に日本を追い抜くと見られている。このような巨大な消費市場とどう付き合っていくのかが、今後の大きな課題となろう。小泉政権の靖国参拝のような政治による撹乱を許さず、過去の過ちと真摯に向き合うことにより、周辺諸国の信頼を得て未来志向の関係を築くことが必要である。」

(3)人材育成をめざす経営理念
 従業員を大事にすることが従業員を育て、優秀な人材が企業に定着する。さらにそのことが「教育費」というコストの大きな削減につながる。今まで見てきた成功例に共通した側面であった。

「コストの削減を最優先する『コスト・イデオロギー』から脱却する必要がある。コスト削減に心がけることは企業経営者にとって必要なことだが、それを最優先にしてはならない。人中心の経営理念を忘れて、人材を育て技術を高めるために必要な費用まで削ってしまうことがあるからだ。また、日本の国際的な環境からすれば、低価格によって国際競争力を生み出すことはできない。中国や韓国、台湾などと価格面で競争することは不可能だということを肝に銘ずる必要がある。」

(4)技能・技術の向上・環境保全を考慮した製品開発
 介護会社コーポラティヴ・ホームケア・アソーシエイツやラスヴェガスのカジノホテルでは従業員の技能・技術の向上のための環境がよく整っていた。それが企業の発展を根底で支えている構図になっている。

 また、アウトドア衣料会社パタゴニアは「最高の製品を作り、環境に与える不必要な悪影響を最小限に抑える」ことをモットーに新製品を開発している。また社を挙げて環境保全運動そのものにもたずさわっている。これからの企業経営には環境保全は無視して通れない問題である。

「それでは何によって競争するのか。それは技術である。日本製品の品質の高さを維持するだけでなく、ワン&オンリーの新たな製品開発やユニークなコンテンツ、ニーズへの即応性などの面で、さらに大きな技術力や独創性を発揮しなければならない。環境保全・公害対策や食糧生産、新エネルギー、医療や福祉、文化や観光などの分野における技術開発、コンテンツや魅力の創造こそが、日本経済回復の起動力となるにちがいない。」

 最後に五十嵐さんは、以上の方策は企業だけで成しえるものではなく、「企業、業界、行政などによる役割分担や総合的な対応が求められる」と指摘している。今日の政治経済の課題は、好もうと好まざるとに関わらず、システムの社会主義化なしには真の解決はできないだろう。それなしには国家社会はただ衰退していくばかりであろう。

「以上の点から、技術・技能に関する教育・訓練の役割は高まってきている。これまで企業内で行われてきたOJTだけでは不十分であり、コンピュータ技術などは企業特殊熟練のみでは対応できない。また、失業対策や再就職と組み合わせた職業訓練も登場した。その結果、技能・技術訓練を企業内から外部化するという方向性が強まってきている。この点では、職業訓練や産業訓練において、教育機関、企業、業界、行政などによる役割分担や総合的な対応が求められることになろう。企業と公的なシステムとの協働による「技術立国」に向けた人材の育成こそが、日本経済復興の唯一の活路なのではないだろうか。」

 最後に一点付け加えたいことがある。ラスヴェガスの例では、経営者と従業員との互酬的なあり方を構築する要となったのは労働組合であった。今新しくさまざまなユニオンが立ち上がり頼もしい活動を始めているが、この大きな時代転回期にのぞんで、既成労働組合も御用組合から脱皮して本来の姿に戻ることを期待したい。所属組合員のためだけでなく、広く社会全体への寄与という観点をもって、「企業と公的なシステムとの協働」に労働組合も加わり、大きな役割分担を果たすべきだ。それが低迷している組織率の回復につながるだろう。
企業経営の社会主義化(16)
アウトドア衣料会社パタゴニアの場合(3)


 完全フレックスタイム制のおかげで人生を堪能し、「収入の差なんて問題じゃない」と言っていたウェリングに再登場してもらおう。ウェリングがもう一つ活用してきたパタゴニア独特の制度がある。本社に設けられた託児センターだ。親たちは子供を預けた後、託児センターにふらりと立ち寄って子供と一緒にランチを食べたり、おしゃべりをしたりすることもできる。なにしろ完全フレックスタイム制なのだから。

 ウェリングは5歳と3歳の息子たちを預けている。毎朝9時に預け、夕方5時に迎えにいく。そこで子供たちはのびのびと育っている。ウェリングは言う。
「いつでもすぐ近くに子供たちがいるというのは、すばらしいですよ。よその会社に勤めていたら考えられなかったような触れ合いが持てます」

 この保育センターが生まれた経緯とセンターのサービスの内容は次のようだ。

 1970年代、事業が拡大を続けていたころ、シュイナードと数人の従業員が家庭を持つようになった。シュイナードの妻マリンダも登山愛好家だったが、何人かの従業員が赤ん坊を段ボール箱に入れて、仕事場に連れてくるようになったのを見て、本館に託児施設を作ってはどうかと言いだした。

 コストやルールについて何カ月も議論を重ねた結果、グレートパシフィック託児センターが生まれた。現在72人の子供を預かるこのセンターは、パタゴニア本社の3棟の建物のなかに設けられている。

 そのうち2歳未満の子供を預かる二つのクラスは、おもちゃやブロックやサークルベッドや魚の絵などが溢れる、明るい色の広い部屋を与えられている。二つの幼児クラスでは、子供たちがスペイン語のレッスンを受け、ピースウィークの催しとして、旗を作ったり、喧嘩をしないで仲良くすることの大事さをテーマに話し合ったりしている。広々とした遊び場にはすべり台や、ジャングルジムや、ブランコがあり、「カエルの子はカエル」を地で行くように、クライミングウォールやら、地上1、2メートルの高さに渡したロ一プにハーネスを取り付けて子供が滑空するスペーストロリーやらが備えられている。

 しかし、このセンターでは誕生したばかりの赤ちゃんの面倒は見きれない。これに対する対処もすごい。

 託児センターがオープンするとまもなく、産後まだ数日という母親たちが赤ん坊を預けに来るようになった。センターの従業員たちは、生まれたての赤ん坊を世話する設備がないと訴えた。そこでシュィナードは、赤ん坊は生後8週を過ぎるまではセンターに預けてはならないと通達を出した。ところが、数人の従業員から猛抗議を受ける。8週間も家にいなければならないとなると、その間給料が入らず、家族を養いローンを払うことができないというのだ。何人かが辞めると言いだした。

 妻の強い勧めもあり、シュイナードは8週間の有給産休を与えることに同意した。1980年代としては異例の措置だった。それからまもなく、父親にも、また養子を迎えた従業員にも、8週間の有給休暇を与えることになった。

「仕事をしている父親には、産休ってものすごい効果をもたらしますよ」
と、息子のゼインが生まれたときに1カ月休暇をとった、営業担当副社長のリッチ・ヒルは言う。
「人生でも一、二を争う特別な時間でしたね。1ヶ月仕事から離れているあいだ、みんながサポートしてくれる。それがすばらしいんてす。ほかの会社だったら、1ヶ月も離れていたら、それきりです。復帰はまず無理でしょう」

 パタゴニアにも、従業員にやさしい経営方針とあいまって、相互扶助の精神が息づいている。しかし、パタゴニアのオーナーの場合も特に社会主義的な思想があるわけではない。オーナーのシュイナードはパタゴニアの経営方針について次のように説明している。

「ま、たしかにいろいろやってはいるけれど、別に生まれてから死ぬまで面倒をみる社会主義のユートピアをここで実現しようというんじゃありません。どれもビジネスに有効なんですよ」

 どういう有効性かというと、パタゴニアの場合もその経営方針が「人材確保」と「教育費の節減」につながっている。

 もし有給の産休や社内託児施設がなかったら、従業員 ― 72%が女性 ― の多くが出産後に辞めてしまうかもしれないと、シュイナードは言う。

 労働問題の専門家は、辞めたホワイトカラー熟練社員の代わりに新しい人材を雇って教育するとなれば、1人当たり55000ドル(495万円)かかると見ているから、パタゴニアが託児センターに年間60万ドル(4500万円)の補助金を出しても、それは賢い投資なのだと。

 この補助のおかげで、パタゴニアの従業員は市場価格より23%安い託児費ですんでいる。

 パタゴニアは、フルタイムの従業員だけでなくパートタイムの従業員にも、医療保険の保険料を全碩負担している。これもビジネスとして意味があるのだとシュイナードは言う。パタゴニアが求めている熱血アウトドア派を惹きつけるからだ。山登りやサーフィンを愛し、その情熱を追求しながら、同時に会社の製品テストをし、それによって経験と熱意を消費者に伝えることのできるアウトドア派を、集めることができるというのだ。

 社会主義的な理念を持っているわけではないが、シュイナードには、今まで見てきたように、環境保護活動という高邁な志がある。

 シュイナードが自分の会社について語る言葉をほかのCEOが聞いたら、ほとんどが青くなることだろう。

 「実験ですね」とシユイナードは言う。パタゴニアの最大の目標は、利益を出すことではなく、環境保護活動を推進するための資金と方策を生み出すことだというのだ。

 パタゴニアのカタログを編集しているアリッサ・ファーミンは、会社の環境助成計画に従って2カ月間の有給休暇をとり、発展途上国の原野の保護活動をしている団体レアの研修を受けた。グァテマラやメキシコに渡り、欧米人向けのエコロジカルツア一をどううまく売り出すか、その方法を現地の人に教えてきた。

「パタゴニアがお金を出して、世界を変えたいという私の思いをサポートしてくれるなんて、すごいことだと思います」

 以上のような従業員や環境にやさしい経営がなぜ可能なのだろうか。シュィナード夫妻は、自分たちが所有する会社の株式を公開してしまったら、それはできないだろうと考えている。
「株式を公開したらいったいどうなるのか、詳しく調べてみました。公開していたら、うちの会社は死んだも同然の状態になっていたでしょうね。活力は失せてしまう。冒険はできない。経理担当者に言われるでしょう。そんなことをしても会社には何の得にもならない、他人の[株主の]お金をどうするつもりなのか、ってね」

 パタゴニアの環境助成金と環境保護計画を監督しているリサ・パイクも、シュイナードの慣習にとらわれないやり方は成功していると言い、シュイナードにエールを送っている。
「彼はウォールストリ一トが間違っていることを証明してみせています。正しいことをして、なおかつ非常に高い利益を生む会社を経営することは、可能なのです」

 株式を公開しないことがシュイナードの理想実現を保障しているという事実は、資本主義というシステムの限界と、資本主義に替わるシステムのあり方を示唆していると思う。
企業経営の社会主義化(15)
アウトドア衣料会社パタゴニアの場合(2)


 シュイナードがパタゴニアを創業するにいたる経緯をたどると、おおよそ次のようだ。

 若きシュイナードは、登山に熱中しながら、自力で強いハーケンを作り出そうとこころざした。独学で鍛冶屋仕事を覚え、廃品集積所から鍛冶道具を買い取り、質の高いハーケン造りに成功する。それを1個1ドル50セントで売るようになった。浜でサーフィンに興じながら、浜辺で常温のままハンマーとのみを使ってハーケンを作り続けた。1日1ドル以下の生活を何カ月も続けながら、車でハーケンを売り歩き、ワイオミングやカナダやヨセミテやアルプスで山登りに熱中した。

 やがて自分が作るハーケンへの需要が高まってきたので、ヴェントゥーラに波形トタンの小屋を借り、鍛冶屋仕事の助手を数人と、販売担当者と、経理係を雇い、小さな会社を設立した。

 まもなく、ロッククライミング用のシャツを手始めに、事業をアパレル関係にまで広げていき、会社は大きく成長していった。しかし、どんなに大きくなっても、ある鉄則がしっかりと守られていた。作業小屋から数百メートルの海の波がサーフィンに絶好の状況の時には、即座に仕事を中止してサーフィンを楽しむという鉄則だった。つまり、その創業時から「仕事と遊びの区別も、勤労時間と余暇の区別も、心と体の区別も、教育と娯楽の区別も、はっきりとはつけない」経営形態だったのだ。

 パタゴニアは1970年には、アメリカ最大の、しかもたいへん特異な、登山用品メーカーに成長していた。その「特異」ぶりは次のようだ。

 従業員2100人、年間売上高25000万ドル(225億円)。毎年この売上の1%を環境団体に寄付している。ここ20年でその総額は2000万ドル(18億円)に達している。

 本社のランチル一ムはオーガニックレストランになっていて、メニュ一には豆腐サラダや、インド式ミルクティーや、8種類の全粒粉パンが並び、壁には「コンドルを救え」のポスターが貼ってある。遇に4日、ランチタイムに会社主催のヨガやピラテスの講習会があり、ときにはフライフィッシングやナイフ研ぎの講習も開かれる。

 毎年40人の従業員が2カ月の有給休暇をとって、自由に選んだ環境団体に研修に行くことを許される。イエローストーン公園でバッファローの保護活動をした人もいれば、グアテマラで熱帯林の保存活動をした人もいる。

 ハイブリッドカーを買ったり、車の燃料を、マクドナルドのフライドポテトに使った油など、料理用油のリサィクル品に替えたりした従業員には、会社から2500ドル(225000円)の補助金が出る。本社の駐車場でいちばんいい場所は最も燃費のいい車に割り当てられる。

 駐車場の10カ所以上には支柱が据えられて、ソーラーパネルが取り付けられている。パタゴニア本館一棟分の電気は、すべてこれでまかなわれている。

 社の基本方針声明に言う。
「最高の製品を作り、環境に与える不必要な悪影響を最小限に抑える」
 このモットーが生かされた製品が開発されている。パタゴニアオリジナルのシンチラフリース・ベストは、ペットボトルをリサイクルして作られる。殺虫剤を使わず、したがって環境にやさしいオーガニックコットンだけを使用している数少ないアパレルメーカーの1つでもある。

 鳩山首相がぶち上げたCO225%削減にたいして、財界は経営が成り立たなくなると猛烈に反対しているようだ。戦時中、生活物資の不足に苦しむ庶民を恫喝(あるいは励ます意味だったかもしれない)するような標語があった。「たらぬたらぬは工夫がたらぬ」。この標語を財界に進呈したいものだ。

 さて、パタゴニアの「特異」さはまだまだある。年に6回ほど著名な講演者を招き、環境問題や登山・サーフィンなどスポ一ツを演題にした講演会が開催されている。

 本社では、2階に通じる階段の下に20本のサーフボ一ドが詰め込まれている。裸足で仕事をしても咎める者はいない。パタゴニアの研修部長ルー・セトニッカは言う。
「会社に入っても、あくまで自分らしくあってほしいですからね。」

 ヴェントゥーラには50万ドル(4500万円)をかけて新入社員用の住宅を借り上げているが、この地域に家を持てない新規採用者のために、社宅として庭付きのアパートメントを建てる計画もある。

 「特異中の特異」とも言うべき事業がある。驚くなかれ、環境問題の抗議運動に参加したい従業員には「市民的不服従」のトレーニングを受けさせ、従業員がそういう平和的な抗議活動で逮捕された場合は保釈金を払う約束になっているのだ。

 なんと魅力的な企業ではないか。パタゴニアの従業員に1人欠員が出ると、900人からの応募があるという。
企業経営の社会主義化(14)
アウトドア衣料会社パタゴニアの場合(1)


 パタゴニアは他に類を見ない特異な会社だ。完全なフレックスタイム制を取っている。そして、従業員には仕事だけでなく、遊びにも仕事と同じくらいまじめに取り組ませているという。例えば、従業員はランチタイムを次のように過ごしている。

 毎日のように、ランチタイムになると、デザィナーも、販売担当者も、情報技術者も、受付係までが2時間サ一フィンに興じ、何人かは太平洋を見渡す丘の43キロの自転車100分間コースを走る。そのほか大勢の従業員が7、8キロのジョギングをし、少数ながらカヤックを操る人もいる。

 汗まみれのサイクリングシャツの一枚は、アンディ・ウェリングのものだった。カリフォルニア州ロサンゼルスのダウンタウンから北西に100キロ近く行った、ヴェントゥ一ラのパタゴニア本社に勤める営業部長である。ランチタイムのサイクリングから戻ってシャワ一を浴びたばかりのウェリングは、頬を紅潮させていた。41歳、体を鍛えることに熱心な彼は、週のうち3、4日はランチタイムに自転車を漕ぎ、毎週開かれる寄せ集めサッカー試合にも出場する。サイクリングのために昼休みを2時間とる日は、その分の遅れを取り戻すために、家で数時間仕事をすることも少なくない。

「ほかの会社で働けば、今よりかなり収入はいいだろうけど、サイクリングやサ一フィンで生活の質も体型も保てることを考えれば、収入の差なんて問題じゃない」
とウェリングは言う。

 完全フレックス制だから、長期休暇も取ることができる。「11回もフリスビーの世界チャンピオンになった本社の受付係など、サーフィンスクール運営のために、毎年夏には3ヶ月の休みをとるほどだ。」

 パタゴニアの創業者で筆頭オーナーのイヴォン・シュイナードさん自身が率先して長期休暇を楽しんでいる。シュイナードさんは長年にわたり、一度に6カ月も会社を留守にして、アルプスでアイスクライミングを楽しんだり、南太平洋でフィッシングに興じたり、南アメリカでサーフィンや山登りなどと、世界中を遊び回っているという。シュイナードさんはご自身の人生哲学と会社の経営方針を次のように語っている。

「(創業当時)ビジネスマンになりたい人間は一人もいなかったので、仕事と遊びの境をなんとなくあいまいにしておきたかったんですよ。毎日背中を丸めて仕事ばかりしている生活なんて、真っ平だった。階段を二段ずつ駆け上がっていきたかった。そうなると、ビジネスのルールはあらかた破ることになる。そしてそうなると、フレックスタイム制にするしかない。と、こういうことだったんです」

 人事管理の理念を説明するのに、シュイナードはしばしば19世紀フランスの文学者フランソワ=ルネ・ドゥ・シャトーブリアンの言葉を引用する。

「人生の達人は仕事と遊びの区別も、勤労時間と余暇の区別も、心と体の区別も、教育と娯楽の区別も、はっきりとはつけないものだ。本人にもどちらがどちらともわからない。ただ、なんであれそのときしていることを通してひたすら至高の状態を追い求め、働いているのか遊んでいるのかの判断は人に任せるのである」

 大方の企業経営者は根底において、労働者は強い規制と監視を怠れば怠けるのもだ、というような貧しい人間理解のもとで会社経営を行っているように思われる。パタゴニアのような完全なフレックスタイム制には仰天し、これでは会社は成り立たないと考えるに違いない。また、オーナーが6ヶ月も会社を留守にすることなども全く理解できないだろう。

 そのころ(創業のころ)シュイナードは自身の経営哲学を、冗談まじりに「MBA」と称していた。経営学修士のことではない、マネジメント・バイ・アブセンスの略、つまり「不在による経営」ということだ。

 従業員を信頼し、自分が留守のあいだも、もちろんサーフィンをしながら、きちんと仕事をやってくれると信じていたのだ。

 自伝『社員をサーフィンに行かせよう』のなかでシュイナードは、もしビジネスマンになるのなら、古い慣習を打破するビジネスマンになるつもりだったと語っている。

「通常のビジネスル一ルを守っていたら、絶対に幸せにはなれないこともわかっていた。航空会社の雑誌広告で見かける、スーツに身を包んだ死人のような人たちからは、できるだけ遠い存在になりたかった。もしどうしてもビジネスマンにならなければならないのなら、自分のやりたいようにやるビジネスマンになろうと思った」

シュイナードには、パタゴニアの従業員に確実に仕事をさせ、他に類を見ないフレックスタイム制を悪用させない(と本人の言う〉簡潔な経営哲学がある。

「信頼できる人間を雇うこと。自分の仕事に情熱を持ち、自分が今していることに情熱を持つ人間を雇うこと。それができれば、あとは放っておいても、彼らがちゃんと仕事をしてくれます」

 人事担当副社長のシャノン・エリスは、パタゴニア独特のフレックスタイム制が生産性に悪影響を及ぼすことはないと言う。

「むしろ頭をすっきりさせる効果があるんです。従業員の多くが、ここのやり方がどんなにユニークか認識していますから、それを危うくするような真似をするつもりはないでしょうね。みんなわかっているんです。ランチタイムにサ一フィンに行くぞ、だけど、もし何かへマをやってここにいられなくなったら、もう二度とこんなことはできないだろうなって。これは自分で管理しなくてはならないニンジンなんです。そこを大事にしないと、結局また別の企業で働くことになってしまう。みんな別のところで働いた経験を持っていますから、もう戻りたくないって、そう思っているんです」

企業経営の社会主義化(13)
<番外編>デンマークの労働組合


 「すくらむ」 というブログの11月8日の記事が、NPO法人POSSEが企画したシンポジウム「どう変わる? 新政権のセーフティネット」(10月18日開催)での竹信三恵子さん(朝日新聞編集委員)の講演の要旨をまとめている。その記事を紹介しよう。

 最近次のような主張をする無責任が論者がいるという。

『デンマークは「解雇の自由な国」「フレキシキュリティ政策を実施する国」である。解雇規制を自由化しているが、セーフティーネットをきちんと整備しているので問題がない。日本もデンマークに習って、正社員の解雇規制を取っ払って、解雇を自由化すべきだ。セーフティーネットを充実すれば問題ない。』

 しかし現在、日本の企業の解雇は、次に指摘されているように、恣意的でデタラメなのが現状だという。

 日本の解雇のひどいのは、グローバル化で逃げ足の速い企業が仕方なく整理解雇する ― つまり仕事がなくなって仕方なく整理解雇するということではまったくないということです。いま起きている解雇の多くは、パワハラ解雇など気に入らないからクビを切るというような、とにかくグローバル化なんだから何をしてもいいと言わんばかりの解雇が異常に多いのです。

 最近、私が実際に取材したケースでは、目が細いからという理由で解雇された正社員の女性が本当にいます。また、ジョークがおもしろくないという理由で解雇された男性正社員も実際にいます。そうした企業がまれにあるブラックな企業というわけでなく、普通の企業の中に続出しているのが日本の現状です。

 つまり現実の職場ではすでに企業側にとって解雇はほとんど自由になっているわけです。

 ヨーロッパ諸国には解雇規制法がきちんと存在しますが、そもそも日本には解雇規制法はありません。解雇を規制する法律も存在しない上に、日本の労働者は18%しか労働組合に入っていません。デンマークの87%とは天と地の差があるのです。日本には整理解雇の4要件がありますが、それが機能するのは実際のところ、それを背景に労働者を支援できる労働組合が存在したり、蛮勇をふるって裁判などに立ち上がることができる一部の労働者だけというのが日本のリアルな現実です。

 竹信さんは実際にデンマークを訪問し、デンマークでの解雇問題の実態を視察してくる。デンマークをお手本にする日本の解雇自由化論者の論拠が全くの誤解の上に成り立っていることが分かる。

 まず、デンマークにおける解雇は日本のようなデタラメなものでもないし、企業の人件費削減のための解雇でもない。それは産業構造の変動による「労働者の移動」である。従ってデンマークでは「解雇の自由化」ではなく、「雇用を柔軟化」と言うべきだろう。「食べられなくなった産業から食べていける産業へと労働者を移動していくために、解雇を比較的ゆるやかにして、労働組合と企業と国が協力しあっていくという仕組み」になっているのだ。

 ところが実際に、デンマークへ行ってみると、こうした日本における考え方とはまったく違う話だということが分かりました。

 たしかにデンマークの解雇規制はゆるくて、妊娠している女性以外は基本的に解雇していいとか、解雇理由も労働者に聞かれなければ開示しなくてもいいとか、一見すると驚くような話が出て来るのですが、じつはよくよく聞いてみると、労働者の解雇から再就職までのプロセスにおいて、労働組合がしっかり監視し、規制し、再就職支援をきちんと実施している事実があるということです。

 デンマークの労働組合の組織率はなんと87%です。どんな職場にも必ず労働組合があり、すべての労働者の周りには必ず労働組合員がいるのです。そもそも、労働者の人権を無視した経営側の一方的な解雇というのが原則として起こり得ない職場環境にあるのです。

 そういう日本社会とデンマークの社会は大きな違いがあるのです。デンマークのようにほぼ全員に近い労働者が労働組合に入っていて、労働組合が本当にこの人たちを解雇していいのかという相談に乗るところから出発して、企業の経営実態なども精査をして、本当にどうしようもなくて解雇しなければいけないとなるデンマークと日本とは大きな違いがあるのです。

 実際、今回のリーマンショックで、デンマークの大手企業でも大量の解雇がありました。しかし、そのときでも、一人ひとりの労働者が企業側から解雇通告を受けるときに、労働組合の人間が労働者が解雇通告を受ける部屋の外で待っていて、すぐに個々の労働者への支援をするのです。

 個々の労働者が解雇通告を受けて精神的なショックを受けていれば、ちゃんとカウンセラーを労働組合の責任で手配したり、公共職業紹介所から、労働組合が次の仕事のリストをもらってきて、個々の労働者にどの仕事をしたいか希望を聞き、そして次に移りたい企業と労働組合が交渉をして、その仕事に移るための職業訓練費を企業からも出させるのです。もちろん労働組合からもお金を出し支援します。

 私が取材した大手企業では、解雇された工場労働者が、次の仕事にバスの運転手を希望していました。バスの運転手を希望する労働者が数名いて、それでチームをつくって、解雇される企業の工場の敷地内でバスの運転手の講習をやって、解雇の期限が来るまでには、バスの運転手の訓練ができていて、次のバス会社で仕事ができるようになっているわけです。そこまで労働組合が、解雇された労働者を支援しているわけです。

 こうしたデンマークの実態を見ると、いま日本で言われている「解雇を自由にして、セーフティーネットを充実すればOK」などという簡単な話ではないことが分かるでしょう。

 労働者は、解雇され、仕事を失えば、生きていけません。しかし労働者には生存権があります。生存権から言えば、企業が安易に解雇できるということは原則的にはありえないわけです。

 しかしながら、産業の消長があまりに激しい今の時代に入って、どうしても産業が衰退し、仕事が無くなってしまうケースは以前よりは多くなっているとはいえるでしょう。そうしたときに、デンマークは、解雇の規制がゆるくても、労働組合がきちんと規制しながら、労働者の次の新しい仕事への移行まで、労働者をサポートするということを行っているわけです。デンマークでは、そういう形で、産業の構造転換に対応しているわけです。

 ですから、デンマークにおける「解雇の自由」「フレキシキュリティ政策」というのは、企業の人件費削減のためにやっているわけではくて、産業構造の変動による労働者の移動をなるべく被害が少ないように、雇用を柔軟化させていく、食べられなくなった産業から食べていける産業へと労働者を移動していくために、解雇を比較的ゆるやかにして、労働組合と企業と国が協力しあっていくという仕組みです。

 いま日本で、「とにかく解雇規制を無くして、失業手当を少し厚くすればOK」などと主張している人は、デンマークなどの現実がまったく分かっていらっしゃらない方だと私は思います。労働者の生存権を守っていく主体である労働組合が87%の組織率を持つデンマーク社会と、労働組合の組織率が18%しかなく力関係で圧倒的に企業側が優位に立つ日本社会で、これ以上、労働者の解雇規制を自由にすると、労働者の生存権が守られず、自殺者年間3万人どころか餓死者が多発するようなことにもなりかねないと思います。

企業経営の社会主義化(12)
ラスヴェガスのカジノホテルの場合(3)


 カジノホテルの経営側と労働組合キュリナリーが協同して築いてきた組合員(従業員)への福利厚生事業を列挙してみよう。

キュリナリーの医療保険
 組合員の保険料負担はない。ただし組合員は、処方箋、受診、通院の費用の一部負担金として、年間数百ドル(数千円弱)を支払う。また歯科医療も、組合員の基本検診と詰め物は通常無料で、もっと複雑な治療にのみ10ドル(900円)から40ドル(3600円)を支払う。組合未加盟のホテルの従業員の場合、200ドル(18000円)以上かかることも少なくない。

労働形態
 キュリナリーの労働協約により、清掃員の監督は週40時間の勤務が保証されている。
 ほかの都市では、週25時間から30時間しか勤務の割当がないところが多いし、多くのホテルが従業員をパートタイムで雇って、福利厚生の手当をしない。また、勤務のスケジュ一ルにゆとりを持たせて、客が多いときに就労時間を増やしても週40時間を超えることがなく、したがって通常の5割増しの賃金も支払う必要がないようにしようとしている。

賃金の例
 組合に加入しているラスヴェガズの清掃員監督は、週給548ドル(約50000円)、年収だと29000ドル(260万円)がふつう。
 ほかの都市の組合に入っていない清掃員監督はその5分の3以下で平均年収16000ドル(144万円)。これは貧困ラィンをはるかに下る低賃金である。

研修制度
 前回紹介したトレーニングアカデミーは、キュリナリーの組合員ならすべての科目を無料で履修できるのすることができるが、その経費はどうまかなっているのか。
 アカデミーの年間予算は300万ドル(27000万円)。これは組合加盟のホテル二十数社の拠出金(組合員の勤務1時間につき3.5セントを拠出)と、州や国の教育補助金でまかなわれている。失業中の労働者も無料で学ぶことができる。キュリナリ一の財務担当書記D・ティラーは次のように語っている。
「組合の目標も、トレ一二ングアカデミーの目標も同じです。英語がしゃべれない労働者でも、厨房で働く下級労働者でも入ることができて、本人が望めば、グルメの給仕にも、副料理長やマスターソムリエにもなれるというのが目標なんです。すべては本人の野心次第、という状況をつくりたいですね」

 さて最後に、グラシエラ夫妻のその後を追ってラスヴェガスからお別れしよう。
 野心に燃えるグラシエラは、ラ・サルサのウェイタ一助手として働きはじめてから3年後に、アカデミーでウェイトレスになるための科目を受講し始めた。彼女の休日である水曜と木曜に、ウェイトレスを目指す1日6時間のコースをとった。

「もっと上に行きたかった。家族がもっと豊かになれるように。家族にはどんな不自由もさせたくないです」

 グラシエラは5カ月間、給仕の仕事について研修を受けた。研修は、ショートスタックとはパンケ一キ何校のことかとか、パフタのフェットナーネとファルファッレの違いは何かとか、細かいことにまで及ぶ。

 ある水曜の午後、グラシエラと8人の生徒仲間 ― 皿洗い、ホテルのメィド、ウェイター助手、失業者などさまざまな職種の人たち ― が、7台のテーブルが据えられた食堂兼教室に座っていた。生徒の出身地も、ロシア、ボスニア、タイ、フィリピン、メキシコ、それにモンタナ州と、実にさまざまだった。
 講師のナタリー・ロドリゲスが、強い緊張を強いられるような状況で客のオーダーをとる模擬演技をして見せた。機関銃のような早口で、本日のスペシャル料理と添え料理、さらにどんなサラダドレッシングの用意があるかをまくしたてる。それから、今度は自分が客になって生徒一人一人にオーダーし、数分後には何をオーダーしたか確認していく。
 英語の覚束ない一人の生徒が「フレンチフライ」でつまずいて、失敗した。突然、講師がグラシエラのほうを振り向き、本日のスペシャルを三種言ってみなさいと言った。黒いパンツに黒いエプロン姿のグラシエラは、一瞬ためらったのち、すぐに立ち直って小さな声で答えた。
「チキンヴェズヴィオと、バーベキューチキンと、シーフードサラダです」
 講師はそのとおりとうれしそうだったが、
「グラシエラ、もっと大きな声を出さなきゃだめ」
と注意した。

 アカデミーのコースが終了するとすぐ、グラシエラはラ・サルサのウェイトレスに昇進した。メキシコ大歌手の低い歌声が流れる、この黄褐色を基調としたレストランで、グラシエラは今6つのテーブルを担当している。多少おずおずした英語ながら、満面の笑みで客を迎え、自分の好きなファヒータサラダを勧めたりしている。ラ・サルサの看板には、マルガリータを巨大なビール用フラスコのヤードオブエールで出すと誇らしげに書いてある。グラシエラも、このレストランのトレードマークの飲み物を勧めなければと思っている。

 グラシエラの仕事は順調で、夫のマヌエルも冗談めかして友達に言うほどだ。
「グラシエラの稼ぎがいいから、そのうちこっちは仕事を辞めて、家事に専念するかな。大黒柱様が帰ってきたときには、テ一ブルで料理が湯気を上げて待ってるようにさ」

 そう言う夫マヌエルの仕事の方はどうなっただろうか。

 マヌエルは、ベラジオの建設作業に携わったあと、初めのうちは重い建設用資材を運ぶ重労働に従事していた。腕や胸の筋肉の盛り上がりが、どれほどの肉体労働だったかを物語っている。

 その後、スティーヴ・ウィンの夢のプロジェクトに加わることになった。ベラジオをしのぐ豪華絢爛なカジノホテル、ウィンラスヴェガスの建設である。そこでは肉体より頭を使った。鉛管工や電気技師がパイプやワイヤーを埋設するための土地を、選別する作業だった。時給は23ドル66セント(約2130円)、時間外手当も含め、総収入が6万ドル(540万円)を超える年もある。

「メキシコにいるころの20倍くらいもらってます」
とマスエルは言った。成功した移民であることに、いささか後ろめたさを覚えているような口ぶりだった。

「僕らは誰も羨んだりしない。せっかくこっちで生まれても、与えられたチャンスのありがたみを知らないから、努力しない人がほんとに多い。なにしろ、国境を越えるとか、僕らが耐えなくちゃならなかった苦労なんて、初めからないんだから」

 その後(2002年)、グラシエラとマヌエルは215000ドル(1935万円)をはたいて、ダウンタウンの北十数キロの砂漠に建設されたサダークリ一クというゲーテッドコミュニティにマイホームを取得した。愛娘セシリアは8歳になっている。愛娘の成長とその将来を期待しながら、生き生きと働きかつ生活を楽しんでいる。
企業経営の社会主義化(11)
ラスヴェガスのカジノホテルの場合(2)


 記憶が定かではないが、もう30年ほども昔になるだろうか。日本で組合の御用組合化という警鐘がさかんに論じられ、組合役員は労働貴族とかダラ幹とは揶揄されていたのは。以来、日本の労働組合の組織率は年々低くなってきた。

 アメリカの労働組合はもっと悲惨な状況にあるようだ。『大搾取!』目次の第十章を再掲載すると
「第十章 瀕死の労働組合
 労働者にとって必要なのは、労働組合なのだ。しかしアメリカの労働組合は腐敗しきっており、組織率は一割にも満たない。蘇る道はあるのか?」
である。こんなアメリカでも労働者の生活向上のために果敢に闘っている組合もある。前回紹介した「ラスヴェガス料理関連職トレ一二ングアカデミー」が生まれた背景には、この街が誇る二つの最強組織がある、とグリーンハウスさんは書いている。

 一つは、ラスヴェガスで急成長し、熟練労働者を飽くことなく求め続けるカジノホテル業界。もう一つは、並外れた先見の明を持つ労働組合、キュリナリーワ一カーズ(料理関連職従事者連盟〉第226支部である。

 キュリナリーと呼ばれるこの組合支部は、いろいろな点で、国内で最も成功した支部と言える。労働運動が全体的に衰退している今、組合員数を1980年代末の18000人から三倍以上の60000人へと増やしているのだ。キュリナリーが勢力を拡大した結果、今やラスヴェガスの住民の10人に1人が、この組合の医療保険に加入している計算だ。

 ベラジオ、MGMグランド、パリスなど、巨大カジノホテルが立ち並ぶ大通りに面したホテルの従業員は、90%以上がこの組合に加入している。キュリナリーはまさに「虹の連合」だ。65%が有色人種で、58%が女性、また、中央アメリカの農民や旧ユーゴスラヴィアの難民を含む移民と、最南部のアフリカ系アメリカ人が55%を占めている。

 大通りの労働者をこれだけ高い率で組織化することで、キュリナリ一はカジノホテルがいやでも無視できない一大勢力になった。

 しかし、キュリナリーがこのような成功した組合になるには次のような経緯があった。

 1984年の賃上げ闘争で、ホテル経営側は賃上げ交渉に対して強硬策を貫いた。それが組合をストライキに追い込んだ。ストライキ参加者は団結し、大規模なデモを敢行して、デモ隊とピケラインが通りを埋めた。この闘いで、900人が逮捕された。また、テレビカメラが入って、騒乱の逮捕劇が放映されてしまった。

 ラスヴェガスは不名誉な過去を清算して安全な(少なくともかなり安全な)リゾートになったと、大枚かけて宣伝してきたのに、それが台無しとなった。さらに街のサービス業者たちは、労働者にはむっつりしていられるより機嫌よくしてもらったほうが得策だと気づいた。

「遊びに来る人たちに、ピケだの、怒った労働者が通りをふさぐ光景だのを見せるなんて、いちばんあってほしくないことですからね。こんなことは二度とふたたび起こさないと、あのとき誓いました」
「サービス業では、お客様が最初に触れ合うのは客室係であり、食事や飲み物を給仕する人間であるわけでして、もしその人たちが気分よく働いていなければ、それはすぐにお客様に伝わってしまいます」
とJ・テレンズ・ラニは言った。客室数5035、従業員数8200を誇る世界最大のホテル、MGMグランドのオーナー、MGMミラージュの会長である。

 一方のキュリナリーもこの騒乱に大きな衝撃を受けた。協約にサインすることを拒んだ六つのホテルで組合が排除されてしまったのだ。キュリナリーは闘いの次のステップへの準備を開始した。

 まず、ベテランのオルガナイザーを招き入れ、各ホテルに活発な一般組合員の委員会を立ち上げた。

 また、ホテル側の対立意欲を殺ぐために、若い大学卒業者のチームを雇い、業界にとって不利な情報を探る調査を始めた。そして彼らは、「いくつかのカジノは高額な負債を抱え、ストライキが起きれば持ちこたえられないかもしれない」とウォール街に訴えた。これはカジノホテル会社を慌てさせた。

 このような組合の手ごわい攻勢を受けて、ホテル側は戦術変更をして、組合と友好的な態度とることにした。1989年、ミラ一ジュをオープンさせたとき、その責任者スティーヴ・ウィンは、キュリナリ一と画期的な協定を結んだ。

ミラ一ジュ側
 ミラージュの従業員の過半数が組合加入賛成を表明するカ一ドにサィンした時点で、キュリナリ一を認めると言明。

 これに対してキュリナリー側は二つの見返りを用意した。

キュリナリー側
 従来の協約を書き直して、134に区分されていた職種を30に減らし、柔軟性と効率を上げること。
 キュリナリ一の親組合である全米ホテル・レストラン従業員組合の政治的圧力によって、「外国から来たギャンブラーが大勝するたびに税金を源泉徴収する」という法案が議会を通過しないよう働きかけること。(そんな法律ができたら外国人のギャンブラーに逃げられてしまうと、ホテル側は恐れていたのだ。)

 このキュリナリ一とミラージュの協定に刺激され、シーザ一ズパレス、バリーズ、サーカスサーカスなど、ほかのホテルも同じような協定を結ぶことになった。組合の存在を認めさせて、キュリナリ一は組合員の生活向上のための活動を再開する。
企業経営の社会主義化(10)
ラスヴェガスのカジノホテルの場合(1)


 ギャンブルで名高い沙漠の中の観光都市ラスヴェガス。グリーンハウスさんはこの特異な都市の情景描写から書き始めている。

 ラスヴェガスの有名な大通りを歩くと、そこでしか見られない数々の驚異を目にすることになる。まがい物のエッフェル塔、ミニチュアのブルックリンブリッジ、ヴェニスの宮殿もどき、そして暗い砂漠の空に一条の光を放つエジプトのピラミッド風建物。

 もう一つの驚異が、漆黒の髪をポニーテールにし、ドッジラムの白いピックアップトラックを駆って、ウェイトレスとして働くピラミッド内の戦場に通う小柄な女性、グラシエラ・ディアスだ。

 グラシエラは、ロサンゼルスに住む兄を頼って、メキシコからアメリカ合州国に密入国した女性だ。アメリカに流入し続ける単純労働者群の代表として、このグラシエラさんの半生を縦糸にしながら、ラスヴェガスの労働組合の活躍ぶりが紹介されていく。まずグラシエラの半生を、かいつまんで追ってみる。

 ロサンゼルスでグラシエラはアパレル工場で服にアイロンをかける仕事に就く。そこは、仕事は単調な上に、監督する上司は金切り声を上げて怒鳴り散らす典型的な搾取工場だった。グラシエラはやがて裁縫係にとり立てられたが、それでも賃金は、1日10時間の労働に対してたったの30ドル(2700円)だった。

 しかし、グラシエラはここで、やはりメキシコからの移民のマヌエルという男性と出会う幸運を得た。二人は結婚し、マヌエルの小さなアパートメントで暮らし始めた。梱包係のマヌエルの賃金もまた1日30ドル、年にして7500ドル(67500円)の収入しかなかった。やがてグラシエラは妊娠したが、その喜びは不安に変わっていった。

「お金はないし、家賃は高いし。ご飯を食べるともう家賃が払えないということが何度もあって。私たちはなんとかしようと話し合いました。だってもう二人だけじゃない、赤ん坊が生まれるんだからって。なんとかしなければ、何か別の仕事を見つけなければ、と思いました」

 ラスヴェガスのホテルで清掃員の監督をしているマヌエルの姉が、ホテルのカジノにいい仕事があると紹介してくれた。二人はラスヴェガスに向かい、マヌエルの姉夫婦の厄介になった。

 グラシエラはモーテルチェーンのベストウエスタンでベッドメイクとバスルーム清掃の仕事に就く。しかし仕事は単調で、福利厚生などいっさいない低賃金の仕事だった。

 マヌエルの方は、トラックショップで18輪トラックを洗う仕事。こちらも給料は安く、仕事は心弾まない。しかもアスベストを扱っていて、アスベストは危険だと友人たちに忠告されていた。まもなくマスエルは、義理の兄から建設労働者募集の話を聞いて、建設の仕事に転職した。初めての仕事は、ラスヴェガスの豪奢を極めつくした新しい巨大カジノホテル・ベラジオの建設現場だった。マヌエルは、やがて労働組合に入り、満足のいく賃金にも福利厚生にも恵まれることとなる。

 グラシエラの方は、はじめの3年間は、ホテルの後は裁縫仕事(ナイトクラブのショーに出演する人の衣装を縫う仕事)・カジノでの清掃員の監督と、次々に仕事を替わり、そのたびに落胆していた。

 マヌエルが働いている作業現場の監督の奥さんから、ピラミッド形のホテル・ルクソールのレストランに欠員があると聞いて、グラシエラはすぐに飛びついた。ルクソール内のメキシコ料理店(ラ・サルサ)に応募し、雇れることになった。ウェイターの助手という下級職だが、組合に加入できる職種だった。

 グラシエラの仕事は、料理を運び空の皿を下げるという単純なものだったが、賃金は時給10ドル14セント(913円 ラスヴェガスのウェイター・ウェイタ一助手に支給される基本給)で、国内では最高のレベルのものであった。ちなみに、ニューヨーク市では1時間当たり4ドル60セント(414円)だという。

 この基本給のほかに、1時間平均5ドル(450円)のチップが加算される(ウェイターとウェイター助手はチップを分け合う)。1日7時間のペースで働くと、年27000ドル(243万円)の収入になる。実に、ホテルの清掃員監督時代の約2倍、搾取工場時代の3.5倍になる。

 さらにグラシエラは、多くの不法移民に恩赦を施す1986年の連邦法の施行によって永住権を取得し、晴れてアメリカ市民となった。

 ラスヴェガスには、ホテルやレストランの従業員が学ぶ国内随一の研修センタ一(ラスヴェガス料理関連職トレ一二ングアカデミー)がある。ルクソ一ルに雇われたグラシエラはこの研修センターで好きな科目を無料で履修できることになったのだ。つまり、努力次第でより高度な職業に就くための足がかりを得たということだった。

 この研修センタ一にはさまざまな科目が揃っていて、毎年3000人の労働者が受講している。年収27000ドル(243万円)のウェイター助手を、年収50000ドル(450万円)のウェイターに、さらに頑張って勉強を続ければ年収75000ドル(675万円)のバーテンダ一やソムリエにさえなれる。なかには年収10万ドル(900万円)を超えるような、副料理長やマスターソムリエになるための科目をとる人たちもいる。

 以上のように、ラスヴェガスのホテル従業員が賃金の面でも福利厚生の面でも優遇されるようになるまでには、経営側と労働組合との激しい攻防があった。次回はその経緯を追ってみよう。
企業経営の社会主義化(9)
介護会社コーポラティヴ・ホームケア・アソーシエイツの場合(2)



 コ一ポラティヴの会長サーピンがこの会社を興したのは1985年、ナーシングホームに代わるものについて論文を書いたあとだった。70年代にニューヨーク市のナーシングホームがひどい状況にあることが次々とあきらかになり、それに発奮して書いた論文だった。

スペインのバスク地方で従業員がオーナーの協同組合が成功しているという話に刺激を受けたサーピンは、従来の営利または非営利の訪問介護サービス組織とは違う、従業員がオーナーでもある訪問介護サービス協同組合をつくることを思いついた。

「営利でも非営利でも、従業員の扱いがよくないことに変わりはないことに気づいたんですよ。営利事業者は利益を上げるために、また非営利組織の場合は、彼らにとって労働が問題ではなく、利用者やプロのスタッフのほうがずっと大事だから、従業員の待遇が悪かったんですね」

 従業員がオ一ナーという介護サービス業界では珍しいこの会社は、多くの職場研究の専門家や介護のプロたちから、全国の低賃金労働者のモデルとして注目を浴びている。

 コーポラティヴの取締役会の役員12名のうち8名が従業員である。つまり従業員がみずからの賃金や福利厚生やボ一ナスを決定する最終的な発言権を持っているというわけだ。このことについて、会長のサーピンは次のように述べている。

「経済関係の資料などを読むと、労働者は本来愚かで利己的だという説があるようですが、ここではそんなことはまったくありませんでした。彼らが下してきた決定を見れば、彼らが一貫して、会社が生き残れるよう、今後もよりよい賃金と福利厚生を提供できる力を蓄えるようにと気遣っていることがよくわかります」

 コーポラティヴの代表取締役マイケル・エルサスも次のように会社の経営哲学を述べている。
「従業員はわれわれのあらゆる活動の中心です。ほかのことはすべてそのまわりを回っているだけです」

 コーポラティヴでは従業員が取締役会の実権を握っているので、従業員の福祉についても最善の策が考えられている。

 コーポラティヴでは、低金利のローンや一部給付奨学金を提供して、ヘルパーたちがたとえば看護師や呼吸療法士になるための教育を受けられるようにしている。

 幼い子供を抱えたヘルパーが、託児のトラブルのため約束の時間に利用者の家に到着できなかったような場合でも、会社はほかの業者のようにすぐに解雇したりはしない。また同じことが起こらないように、カウンセラーがいっしょになって子供を預かってくれるところを探すのだ。

 またコーポラティヴが頻繁に実施するちょっとしたプログラムも、従業員にとってはありがたい。従業員だけではなく、従業員と子供のためのクリスマスパーティもある。職場の仲間意識を育て、会社を単なる働く場所以上のものにするために、毎年船遊びや、何十人ものヘルパーたちが集まって映画やビンゴやダンスや工芸を楽しむ「ファンフライデー」も催される。

「前に働いていた会社では、連帯感なんて感じたことはなかったし、自分はお給料をもらって利用者のところへ出向くただの従業員としか思ったことがなかった。でも、ここでは、みんな家族みたいなんです。気分よく過ごせるいろいろな仕組みがある。悩み事があっても、いつでも相談できる相手もいるし」
とコーポラティヴに勤めて4年のザブリナ・ホリーは言った。

 コーポラティヴでは、従業員の話を聞くことも経営者の責任の一つだ。もう13年コーポラティヴに勤めているヴィヴィアン・キャリオンは言う。
「ここでは怖いものがないから、言いたいことが言える。誰も賛成してくれないようなことを言っても、そのことで非難されたりはしません。発言権があるって、そういうことでしょ? ちゃんと尊重してくれるんです。ここに来るまでいろいろなところで働いたけど、経営側はあちら、従業員はこちらって、はっきり分かれているところが多かった。間に壁をつくってしまうことが多かったけど、ここでは行き来は自由。壁なんてありません」

 コ一ポラティヴが営利事業者より高い賃金が出せる理由が三つある。一つは、一般の営利企業では、総収入の5%から8%がオーナーの利益となっている。コーポラティヴの場合は、その分をほとんど賃金につぎ込むことができる。

 二つ目。これはコストコの場合もそうであったが、患者(顧客)も従業員も大事にする経営方針がコーポラティヴの移動率をほかより断然低くしている。これは研修予算を低く抑えるのに役立っている。

 三つ目。コーポラティヴに所属している訪問介護ヘルパーは1100人で、そのうちの99%が女性である。そして、そのほぼ全員がヒスパニック系かアフリカ系アメリカ人で、70%が福祉の援助を受けた過去を持っているという。福祉の援助から抜け出す従業員が非常に多いため、研修費としてさまざまな政府補助を受けることができ、賃金に回す資金をさらに増やすことが可能になっている。

 コーポラティヴもすべてが完璧ではないと初めて声を上げたのは、マルガリータ・ピロットだろう。自分たちで選んだ取締役ではあるけれど、昇給や年末ボーナスに関して、あまりに財布の紐が固すぎるとこぼす従業員は多い。

「もっとお給料を上げてもらいたいって切実に思います。アパートメントの家賃に700ドル(63000円)払わなきゃならないから、ほんとに苦しいんですよ」
と時給8ドル25セント(約740円)のマルガリ一夕は言う。

 州政府からの払戻率が据え置かれて、特に厳しい運営を余儀なくされた5年間、取締役会は賃上げゼロの決定を下した。このゼロ回答に従業員の怒りは爆発したが、その怒りが鎮まるきっかけになったのは、取締役会の従業員オーナーも昇給ゼロだとわかったことだった。

 もう長く取締役をやっているジョアン・ポーは言う。
「従業員オーナーになったら、従業員オーナーとはどういうものかを理解しないといけない。いいことも、よくないことも、みんなで分かち合うってことですから」

 この会社は企業というよりむしろ共生・相互扶助を旨とするコンミューン型の共同体のようではないか。
企業経営の社会主義化(8)
介護会社コーポラティヴ・ホームケア・アソーシエイツの場合(1)


 グリーンハウスさんは従業員を優遇する企業のその動機に三つのケースがあること指摘した。これから取り上げる三例は、それぞれその三つのケースに対応する例だが、さらに驚くべき斬新にして大胆な経営方針を貫いている。今回取り上げる例は取締役に従業員が参加している。労働者による自主管理に限りなく近づいたという意味で、非常に社会主義的である。

 グリーンハウスさんはコーポラティヴ・ホームケア・アソーシエイツ(以下コーポラティヴと略す)の紹介を、銃弾を受けて両足が麻痺し自力ではほとんど何もできない被介護者(ウィルフレド・グラウロー)と、その人の訪問介護ヘルパーを務めている介護者(マルガリータ・ピロット)とのエピソードの紹介から始めている。

 マルガリータは明るくきびきびと介護をしながら、ウィルフレドにどんな話題で話しかければウィルフレドの気持ちを引き立てることができるかということにまで細かく配慮して、心の交流を確かなものにし、信頼関係を築いている。ウィルフレドは言う。

「もうどこにも出かけることはないのに、いまだに6時半になると日が覚めるんです。そして10時半か2時ころには気分が落ち込んで、どこかに行かなくちゃと考えるようになる。そんなときにマルガリータがやってきて、話しかけてくれる。すると気分がよくなってくるんです。彼女は僕を元気にしてくれます。何かしようという前向きな気持ちにさせてくれるんですよ」

 ウィルフレドはマルガリータを寄越してくれるコーポラティヴに感謝している。コーポラティヴではカウンセラーが長い時間患者にインタヴユ一し、どのヘルパーがその患者にいちばん合うかを考えた上で、担当の介護ヘルパーを選んだでいるのだ。

 そのマルガリータは10年以上もあちこちの訪問介護サ一ビス会社を渡り歩いてきた。そして、どこでも同じ問題に突き当たった。

低賃金と、福利厚生の貧弱さと、ヘルパ一を名前のない、取り替えのきく部品か何かのように扱う無神経な上司たち。

 私の縁戚に介護ヘルパーを勤めている女性がいて日本の介護サービス会社の様子を知る機会があるが、全く同じ状況である。周知のようにいま雇用拡大問題とも絡んで、介護ヘルパーの待遇改善が重要な政治課題となっている。

 さて、マルガリータはその会社がどんな会社かも知らぬまま、友人に紹介されて、コーポラティヴに応募し入社した。マルガリータは入ってすぐその会社がそれまでの訪問介護サービス会社とは違うことを知る。

 ほかの会社のように、研修費として300ドルを請求されることはなかった。健康診断の費用50ドルも請求されなかった。

 マルガリータはすでに介護の研修を受けていたが、無料で新たに研修を受けてほしいと言われた。コーポラティヴの研修プログラムは実に念入りに組まれていて、期間も大半の介護サ一ビス会社の倍の4週間だった。

 ほかの会社では2週間の研修の大半が、当然とは言え、家事のやり方とか、患者を受診に連れていくヴァンの手配のし方など、実際的な要請に応えることに重きを置いていた。コーポラティヴでは、あとの2週間で、心臓発作の症状の見分け方や、急病になったときの対処のしかたや、鬱状態の患者の心を動かすにはどうしたらいいかなど、健康上の問題に注意を向ける時間がたっぷりとってあるのだった。

「コーポラティヴのほうがいいと思う。患者さんにとってどうするのがいいか、そこを中心に考えているから」とマルカリータは言った。

 コーポラティヴは、患者ばかりではなく従業員にとってどうするのがいいかも、ほかのところより考えている。マルガリータが働いていたほかの会社では、医療保険もなければ、有給の病気休暇制度もなかった。息子が喘息の発作を起こしたので欠勤したいと電話すると、クビだと脅されたことも一度や二度ではなかった。

 15時間や20時間しか勤務を割り当てられない週も多く、3人の子供を抱えるマルガリータは家計のやりくりに苦しんだ。コーポラティヴでは、三年以上在職した従業員には、たとえ勤務の割当が少なくても、週最低30時間分の給与が保証される。

「前の職場では福利厚生なんて、いっさいなかったわ。会社は従業員のことなんて何一つ考えてくれなかった。でもコ一ポラティヴでは、従業員同士みんな知っているし、家庭の問題を抱えていたら、カウンセラーが相談にのってくれる」