2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
「財源=税」問題を考える。(2)

 今日の記事は、衆議院選挙投票日の前にアップしようと思っていたのですが、何十年ぶりかの発熱にみまわれ、つい延び延びになってしまった。発熱した日のうちに診察を受けましたが、新型インフルエンザの検査はマイナス判定でした。症状は熱だけで、咳や鼻汁や頭痛はない。解熱剤が処方されましたが、熱は上がったり下がったりで、快癒しない。未だ原因が分からない。ともあれ今日は小康状態なので、記事作成を再開しました。(他の人には関心のない私事を書いてしまいました。)

 さて、何ごとも、そのことについての歴史の正しい認識を欠くと、その現状の判断や未来への展望を誤る。その観点から、「政権交代選挙」と喧伝されていた今回の総選挙についても、マスコミの論調やいわゆる有識者たちの言説に大きな違和感を感じていた。ほとんどの論者は、現行の議会制民主主義こそ真性の「民主主義」であるという誤認識のもとに論説を展開している。議会制民主主義についておおまかな復習をしておこう。

 議会制民主主義は、歴史的には、ヨーロッパにおける数々の市民革命を経て編み出されたもので、ブルジョア(経済的支配階級)独裁を貫徹するための政治システムである。そして、資本主義経済システムにおける社会的不平等こそが、議会制度を屋台骨とする近代国民国家(ブルジョア独裁国家)の存立を可能としている。平等な一票は社会的不平等の下で反故同然となる。この「議会制民主主義」の歴史的成立事情は現在の成熟した国民国家においても貫徹されている。

 では、社会的支配階級であるブルジョアジーはどのようにして政治的支配をも掌中におさめるのか。その答えは、議会や政府(執行的諸機関)とブルジョアジーとの現実的な関係の中にある。

 ブルジョアジー内部では、個別資本の地域的・業種的特殊利害にもとづく様々な対立・抗争・軋轢などが渦巻いている。しかし、他の社会的諸階級・階層とくに被支配階級に対する支配階級の共通的な一般的利害が大きな問題としてある。その一般的利害とは、いうまでもなく、ブルジョアジーの存立条件である資本制的生産様式維持のための利害である。従ってブルジョアジーの対立・抗争は、支配階級としての統一され一般化された観念的「共通利害」の立場から、内部的に調整され制御され、外部的には大きく統一された階級的意志・総意として集成され、押し出される。これを「総資本意志」と呼んでいる。

 このようにして形成された総資本意志が、一般的「法律」として形成されていく道筋は、大きくみて二つある。

 一つは総資本意志が、直接の政治的代理人である有力議員層の手を通じて、政府-官僚機構へ強引に押しつけることにより、政府法案ないし官僚の手を借りた議員立法という形で押し出される場合である。2007年に経団連が発表した「御手洗ビジョン・希望の国」(これは被支配階級にとっては「絶望の国」にほかならない)がすぐに思い出された。自公政権の悪政の多くが「絶望の国」と重なっている。

 いま一つは、未だ明確に確定できていない総資本的意志を、政府-執行機関が、より観念的かつ国家的見地から先取りしてすくい上げてその能動性を発揮する場合である。この場合は「国家百年の大計」などといった意気込んだ言質をともなって官僚層が「法律」を立案することとなる。あるいは告示・通達の中に先取りすることもある。「学習指導要領」に盛り込まれた「君が代・日の丸」の義務化はそうした例の一つだろう。これには「絶望の国」が後追いをして、「企業や官庁が日常的に日の丸を掲げ君が代を斉唱すること」を提言している。

 ところで、国家意志として形成される一般的法律は、大きく「公法」と「私法」とに分類される。「私法」とは『社会・経済政策に関わる法的規範』であり、いわば社会的国家に関わる法律である。それに対して「公法」とは政治的国家として『直接の階級的支配体制を、大きく外面的に束ねる<政治的支配>に直擦関わる性格の国家意志』(外交など「共同体-即-国家=外的国家」としての国家意志もここに入る。)である。

 総資本意志が大きく国家意志形成に関与するのに対して、被支配階級の意志は、国家意志形成において部分的にでも反映されるとしても、それは原則上、各種公共土木事業や社会福祉また国民的諸階級・階層への各種経済的保護・育成などの、社会・経済政策に関わる経済的国家意志、つまり「私法」に限定される。しかし、「公法」においては、被支配階級の意志が反映されることは原則上不可能である。

 今回の総選挙で政権交代が起これば、それは「無血革命」だなどという言説もあったが、それ原理的に間違いである。そこまで幻想しては大きく落胆するだろう。私は、「私法」において被支配階級の意志がこれまでよりも大きく反映させることには期待している。しかし、「公法」においても被支配階級の意志が反映されなければ、その変革は「革命」とは言えない。

 以上に見てきたように、議会における国家意志を一般的「法律」として策定し、かつその内容を根本的に規定しているのは、ブルジョアジーの総資本意志であるある。ところが、小泉「偽」構造改革以来、ブルジョアジーの国家意志への関与は直接的で、極めてあくどくなってきていた。その典型が「経済財政諮問会議」である。

(枕が長すぎて、本題に入るところでくたびれてしまった。次回に続く。)
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「財源=税」問題を考える。(1)

 久しぶりに時事問題を取り上げます。

 今回の総選挙で政権交代が起こることが確実となったと、ほとんど全てのマスコミが口をそろえている。自民党はなりふり構わぬ野党攻撃を行っている。その狼狽ぶりは滑稽ですらある。いま公明党候補の選挙カーが、ただただ候補者の名前をヒステリックに連呼して近くを通り過ぎていった。まるで藁をもつかみたいといった焦りと悲壮感が漂っていた。自民の悪政に荷担してきたのだから、自業自得というべきだろう。

 自公与党は民主党などの掲げる経済政策に対して、「バラマキ」だと言い、「財源」の裏付けがないと批判している。自分たちが行ったバラマキには口をつぐんで、なんの反省もないから、全く説得力がない。

「不況で税収減の中、民主党はあれこれやると言っているがどうするのか。マジックでハトを出すのか。ハトがたくさんだから鳩山だと言っても、何のプラスにもならない」(小泉純一郎元首相、神奈川県鎌倉市での演説会で)

 野良犬となったブッシュ・ポチがまだデカイツラをしている。大企業・高所得者・資産家の大減税を行い、低賃金の派遣労働者を大量に作り出し、社会的弱者への高負担を推し進めてきた張本人が何を言うか。

 野党は、自公政権が主導した大企業・高所得者・資産家優遇のブルジョア独裁国家から、福祉国家への転換を打ち出している。デンマークやスエーデンのような社会民主主義的な国家にいたるまでの道のりは、財界や財界の代理人政治家や官僚の必死の抵抗があり、きわめて険しいと予想されるが、それへの第一歩を踏み出そうとしていることは評価したい。

 政府や官僚が垂れ流す情報には、いつも眉につば付けて接しているが、では正しい情報は何なのか。権力の支配下にあるマスコミには期待できない。情報不足のため、私(たち)は多くの判断を過つ。例えば、誰もが安心して生きられる高福祉の国家作りのためには、私は消費税の増税をやむを得ないものと肯定していたが、今はその考えが浅薄だったと反省している。福祉のための財源を消費税の増税に頼るのでは、自公政権と何ら変わらない。

 消費税に頼らないで、福祉のための財源は確保できるのか。「目からうろこ」の本に出会った。富山泰一(とみやま やすいち)著『消費税によらない豊かな国ニッポンへの道』(あけび書房)。この5月に出版されたばかりの本です。豊富な統計資料を駆使して、確かな論拠と明快な論旨。この本を教科書に、何回かにわたって、「財源=税」問題を深く考えてみたい。

 著者の富山さんは税理士で、かって全国税研中央推進委員会委員長を務められ、「国会大蔵委員会委員の想定問答集」作りに関与されたそうだ。現在は日本納税者連盟(不公平な税制をただす会)事務局長・日本租税理論学会、現代税法研究会会員・埼玉自治体問題研究所顧問・財源試算研究会主査・納税者権利憲章をつくる会運営委員など、幅広く活躍されている。

 まず本の内容を概観するために、目次を紹介しよう。興味がわいたら、ぜひ直接読んでみてください。多くの人に読んでもらいたい本です。どの党が政権を取ろうと、その党の政策を監視していくための必須の知見が詰まっていると思う。


第1章
 日本の税・社会保障負担は低いのか、
高いのか

 1「国民負担率が低い」にだまされるな

 2 EU主要国の社会保障給付費と比較し
  てみると

 3 日本企業の税・社会保障負担は国際
  的に最低水準


第2章
 日本はなぜ財源不足になったのか

 1 経済政策の失敗と大企業などの利益
  一人占め
   つくられた「経済失政」についての
  検証を
   大企業の利益一人占めは国益に反す
  る行為

 2 財政における「3つの機能」は
  有効に作用しているか

 3 低金利政策による国民の逸失利得


第3章
 なぜ・消費税は導入されたのか

 1「高齢化社会のためと言っておけば
  分かりやすいから」

 2 消費税には担税力はあるのか

 3 消費税の特徴と問題点

 4「日本の消費税率は低い」は本当な
  のか


第4章
 消費税導入後の税・社会保障の「抜本改革」

 1 消費税導入後の税制改革の流れ
   個人課税=総合課税・累進税率の
  破壊
   法人課税=特別措置の温存・拡大、
  税率引き下げ
   消費税=増税に伴う諸措置の
  改廃・緩和措置の廃止
   社会保障負担=ほぼ毎年の給付削減
  と負担増

 2 小泉内閣発足以降の税・社会保障の
  負担増と給付減


第5章
 税財政政策・社会政策を作っているのは誰か

 1 日本における政策策定過程はどう
  なっているのか

 2 誰が、誰のための、政策づくりをし
  ているのか

 3 国家を私物化している財界の構図

 4 日本経団連の政党「通信簿」


第6章
「構造改革」路線で格差と貧困が拡大

 1 企業課税に見る高蓄積のしくみと
  実態

 2 企業はどのように儲けているのか
   儲けた利益はどこへ行ったのか
   内部留保増加の要因は租税特別措置
  拡大と税率引き下げ
   大企業の法人税実質税率はかなり
  低い

 3 高所得者は特別措置と最高税率引き
  下げで大減税
   高所得者ほど減税額は多くなる
  ・・・最高税率引き下げの不合理性
   高給者の必要経費はなぜ高いのか
  ・・・給与所得控除の不合理性

 4 資産家はこんなにも減税されている

 5 税制改悪による中小事業者の経営難
  と生活破壊

 6 増税の標的にされている
  サラリーマン
   収入の二極化はどのようにして作ら
  れたのか
   収入の二極化に反比例した負担の
  二極化
   「食う前に税金を払え」
     ・・・税金とりたての仕組み
   課税最低限の額は先進国中で最低

 7 年金生活者の税金はどうなるのか

 8 所得再分配の悪化による格差と貧困
  の拡大
   税金による再分配はゼロに等しい
   金持ちから貧しき者への税・社会
  保障負担の付け替え
   貧困率悪化は非正規雇用の増加に
  よる格差拡大が主因

第7章
 消費税によらない豊かな国ニッポンの
創出のために

 1 国民はどのような国づくりを望ん
  でいるのか

 2 税金の使い道に納得していることが
  納税の原点

 3「広く薄く」の負担は国からの
  サービスの対価?

 4 すべての人への恩恵は減税でなく
  財政出動で

 5 企業増税で国際競争力は落ち、
  高額所得者は海外脱出?

 6 喫緊の課題は低所得者層の収入を
  増やすこと

 7「小さな政府」から「大きな政府」
  への転換を

   富める者には高福祉低負担、
  庶民には…
   高福祉高負担が日本を豊かにする
  カギ
   政府は国民に信を問わず
  「消費税増税法」可決


第8章
 生活大国ニッポンへの財源は充分にある

 1 無駄な歳出をなくすこと
   「公共投資型財政」から福祉型財政
  への転換を
   莫大な「在日米軍への思いやり予算」
   使途が不明瞭な「政党助成金」
   「埋蔵金」流用は一時しのぎに
  過ぎない

 2 税負担のあり方を応能負担に
  変えること
   課税の「公平」の考え方を庶民本位
  に変えること
   企業不公平税制を判定する基準
  はなにか


第9章
 国民本位の税・財政改革についての提案

    総合的な改革視点と具体的提案の
   ために
    今こそ「納税者権利憲章」の制定を
第10章
 不公平税制を是正するだけで、
20兆円の財源が確保できる

   消費税を全廃しても税をただせば
  20兆円創出
   税金の無駄づかいを試算すると何と
  38兆円にも

《「真説・古代史」拾遺編》(94)

地名奪還大作戦(22):飛鳥の雷岳=福岡県背振山脈の雷山(3)


 筑紫の雷山が235番歌の舞台だとすると、この歌はどのような意味になるだろうか。

「すめろぎは神にしませば」
 この雷山の上宮の祭神である神々、すなわちニニギノミコトや「天神七社」「地神五社」の神々は、(かつては生ある王者であったが)今や死者となり、「神」となっておられる。

「天雲の雷の上」
ほとんどの季節、天雲のおおうことの多い、この雷山、海が三方に近いこの山岳には、「天の宮」「雲の宮」と呼ばれる雷神社がある。そこに「すめろぎ」が祀られている。

「いほらせるかも」
この雷山の雷神社の上宮・中宮・下宮に、右の神々が祀られ、「社(やしろ)」としてまします。

 さらに、この歌には隠されたキイ・ポイントがあると、古田さんは次のように解説している。

 この歌のもつ特異性、それは「神が社に祀られている」こと、その実情を、「いほらせる」と、あたかも「人間の住居」のように表現している点だ。これはなぜか。

 ときは、七世紀末。白村江の敗戦のあとだ。多くの将兵は、百済の海中に没した。筑紫には唐の占領(進駐)軍が駐留していた。庶民の家々は荒れ、働き手(男)を失った庶民の生活はことごとく荒廃していた。一言でいえば、「民のいほりは荒れ果てていた」のだ。

 そのような荒廃した家々の間を通って人麻呂は雷山に登った。そこに「九州王朝の始祖」たるニニギノミコトをはじめ、「天神」や「地神」の社のみは、〝健全に″祀られていた。 ― その姿を歌った。その歌の背後には、「民のいほりは、荒れ果ててしまったが、…。」の余韻がこめられていたのである。

(「このような、人麻呂の「作歌法」は、この歌だけではない。」と言い、例として1798番歌を分析しているが略す。)

 ニニギノミコトたちは、九州王朝の始祖や歴代だ。その歴代の〝善き導き″のもと、民の「いはり」は安定し、生活を楽しんできた。それなのに今は、うって変った。誰の目にも明らかなように、倭国(「俀(たい)国」)のリーダー、九州王朝の君主たちは、大国唐朝との無謀な戦いに突入し、おびただしい自己の将兵を異国の海の藻くずと化せしめた。大量の血と汗を空しく没せしめたのである。そして残る遺族の、庶民の家々も、今やすっかり荒れ果ててしまった。見るにたえぬ。

 そのリーダーの責任を静かに問う目、そのような人麻呂の目を人々は感じないだろうか。わたしの目には、クッキリとそのように見えるのである。このような、この歌に対するわたしの感じ方は、果たして不当だろうか。

 ともあれ、わたしたちは、「珍妙」な、「ごますり」めいた歌などとは、とんでもない、全万葉集中にも、類を見ぬ、深い目指しの光の透き通る歌、そのような名歌を眼前にしていること、その一事は疑えない。わたしにはそのように思われるのである。

 九州王朝が無謀な戦争で滅亡してから約1300年後に、大日本帝国が同じ轍を踏んで人民を塗炭の苦しみに落とし込んだ。いま性懲りもなく、その大日本帝国のゾンビたちが増殖して、再度この国をあやまとうとしている。天皇制を無化しない限り、この国に真の平和はない。

 ところで、人麻呂の作歌とされる歌で、原文に「皇者」が含まれる歌がもう一つある。「長皇子(ながのみこ)猟路(かりぢ)の池に(いでま)しし時、柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌」という詞書が付されている239番・240番の後に「或本の反歌一首」として掲載されている241番歌である。

訓読
皇(おほきみ)は神にしませば真木(まき)の立つ荒山(あらやま)中に海を成すかも
原文
皇者 神尓之坐者 真木<乃>立 荒山中尓 海成可聞

 長皇子は「神でいらっしゃいますから、荒れた山の中に海を作おつくりになった」と歌ってる。「岩波」は「猟路の池を海に見立てている」と注記している。通説はこの池を香具山のふもとにある埴安の池に比定している。これも詞書通りに受けとれば、とんでもないオベンチャラのつまらない歌となってしまう。長皇子は天武の子。あくまでも「皇子」であり「おほきみ」ではない。この歌に付された詞書も大ウソである。

 この歌の古田さんによる訓読は
皇(すめろぎ)は神にしませば真木の立つ荒山中に海鳴りせすかも

 この訓読には「定説」とは際立った違いがある。原文「海成」を「海をなす」ではなく「海鳴り」と訓じている。「古田史学の会」会員の福永晋三さんの説に古田さんの蓄積された見識が即座に反応して、古田さんの採用するところとなったようだ。古田さんは海鳴りの後に起こった津波を目の当たりにした経験がある。

「海鳴り」
 暴風雨や津波襲来の前兆として海上から鳴り響いてくる音。うねりが海岸でくずれるために発生する。かいめい。(広辞苑)

 古田さんは、東京・高知・福岡などの気象台に問い合わせて得た知識や、NHKで永年気象問題を担当したベテランOBの方の話などを総合して、海鳴りについて次のようなことを明らかにした。


 海鳴りの原因は、波が海岸で空気を巻きこみ、これが沖合いで音響を発する因となっている。

 その音響が天空の厚い雲の層に衝突して反響し、その高度や角度によって、かなり遠方の内陸部にまで、到達することがある。たとえば、新潟県の沖合いに発生した海鳴りが、長野県の北部で「聞こえた」報告例があるという。

 福岡県の雷山は、三方(唐津湾、玄界灘、博多湾〉が海であるため、この種の音響(海鳴り)は十分に到達しうる。

 雷山には、玄界灘から、すさまじい風音を〝運ぶ″と信ぜられた「風穴」説話があるが、これも、右のような気象条件を背景としたものであろう。(法持聖、清賀上人にまつわる伝説)

   そして「さまざまの渉猟や現地調査を経た結果、「すめろぎは神にしませば」の先頭句を235番歌と共有する241番歌、この歌の舞台も九州背振山脈の雷山であると確信するにいたる。

 では241番歌はどのような意味をもった歌なのだろうか。

「ニニギノミコトたちは、今はすでに死者(神)となっておられますから、この真木(樹木の美称)のそそり立つ荒山の中に『海鳴り』として、その死者の声をとどろかせておられます。そしてその声は確かにわたしの耳へと伝わってきます。」

 現代人には、「台風や津波」の予兆としか聞こえぬ、そのとどろきは、単なる物理現象だ。だが、古代人たる人麻呂にとっては、そうではなかった。単なる自然現象に尽きるものでは、決してなかった。それは、他でもない。死者の声、死者が生あるわれわれに告げる声、その予告である。そのような形で受けとめていたのである。では、その予告とは、何か。

 一言で言えば、「王朝の滅亡の予告」だ。二二ギノミコト以来、つづいてきた九州王朝、その輝かしい歴史と伝統をもつ王朝は、今滅亡の寸前にある。異域の白村江へと出兵し、おびただしい艦船と将兵を海の藻くずと化せしめた王朝、その背後にあまりにもおびただしい庶民の家々の犠牲と亀裂と悲劇を巻きおこした王朝、その王朝にもはや滅亡の運命が近づいていること、その日の近いこと、それを予告する、死者の声だ。

 人麻呂は、そのとき、無気味に遠鳴りする海鳴りの中に、そのような、まざれもない「声」を聞き取っていたのではあるまいか。秀抜の歌だ。全万葉集中、これほど深い歌、人間の底の魂の歌をわたしは知らない。おそらく、全人類の産み出した詩歌の中にも、類い稀なのではあるまいか。

 従来はこれを、あくまで大和盆地周辺の、大和山地の中の作歌として理解したため、このような訓みを、およそ為しえなかった。ために、世にも珍妙なる、「阿諛の歌」として解する他に、道がなかったのである。

《「真説・古代史」拾遺編》(93)

地名奪還大作戦(21):飛鳥の雷岳=福岡県背振山脈の雷山(2)


 国家権力の思惑どおりに国家権力が垂れ流すウソを信じてしまう。今でもそのような人がワンサカいる。大日本帝国時代はほとんどの日本人が天皇制のウソを信じ込んでいた。ましてや、当時、古田さんはまだ十代だった。にもかかわらず、古田さんは自らに厳しく、「歴史を“足にて”知らなかった」ためだと反省する。そして、235番歌に対しても、「歴史は足にて知るべきものなり」という鉄則を貫徹する。

 古田さんは飛鳥の雷丘(いかづちのおか)を訪ねて驚いている。それは高さが十数メートルぐらいの小さい丘である。登るのに4・5分もかからないという。(以下の写真は英文解説「これらの歌は大和で天皇家に奉(たてまつ)られた歌ではない」から借用しました。)

飛鳥の雷山

「天雲の 雷の上に」なんていう表現は全く成り立たない。詞書の天皇が誰であれ、眺望を楽しむためにこの丘に登ったことがあるかも知れない。その折、丘の上に休憩所を設けたかも知れない。もしそうだとして、それを行宮(廬)とはなんと大げさな。そしてさらに、この丘に登ったからといって、天皇が生神様である証拠とは、イヤハヤというところ。折口信夫の批評が的を射ていることは明らかだ。たぶん、折口信夫の評価も実際に雷岳を見た上でのものだっただろう。

 結局、この歌の詞書も大嘘というわけだ。第一史料である歌そのものにぴったりの「雷山」を探すことになる。

 福岡県前原(まえばる)と佐賀県との間にある福岡県背振(せぶり)山脈。その第二峯が雷山(らいさん)と呼ばれている。中腹に千如(せんにょ)寺という古刹がある。このお寺には「二世紀インドから青年僧侶が船で遣ってきた。中国経由でなく直接博多湾にきて上陸して九州で仏教を広めた。」というびっくりする伝承がある。

 また雷(いかずち)神社がある。もともと上社、中社、下社とあって、上社は「天の宮(あまのみや)」、中社は「雲の宮(くものみや)」と呼ばれていた。現在の雷神社はその中社あたりにあり、千如寺と同じ高度の位置だという。「らいざん」という山名は雷神社に由来するのであろう。

 上社には、中央にニニギノミコト、左右に天神七柱と地五柱が配祠されていたという。さらに山頂近くの平坦部には三列石(巨石・山柱。中央に女陰型、左右に男根型と鏡岩型。)が屹立していて、旧石器・縄文期以来の悠久の信仰史を物語っている。

背振山脈の雷山

頂上の巨石1

頂上の巨石2

頂上の巨石3

 雷山は高さ955メートル。三方が博多湾、玄界灘、唐津湾に囲まれていて、いつも雨雲が立ちこめている。古田さんは「わたしも何回も上がりましたが、一日中まったく晴れていたのは一回だけです。」と言っている。さらに中社が「雲の宮」。「天雲の 雷の上に」という表現にぴったりである。

 またさらに、雷山は倭国(九州王朝)の代々の王者の墓地である。雷神社はそれを祀っている。

 さてここから古田さんによる歌の解釈に入る。

 「定説」では原文の「皇」を「おおきみ」と訓じている。これは「すめろぎ」と読むべきであると古田さんは言う。そして「すめろぎ」という言葉は、死後に高貴な存在としてうやまって祀られたことを意味していると言う。その裏付けを得るため、『万葉集』を調べてみた。(取りこぼしがあるかも知れません。ご容赦を。)

4089番「須賣呂伎能可未」
4094番「須賣呂伎能神」


 これは万葉仮名表記なのではっきりしている。いずれも「すめろきのかみ」と読んでいる。「すめろき」と「神」とセットになっている。(定説では「伎」は濁音ではなく「すめろき」と読んでいる。「すめろぎ」と読んでいるのは一例だけあった。後述。)

1047番「皇祖乃神」
1133番「皇祖神」
2508番「皇祖乃神」

 いずれも「すめろきのかみ」と読んでいる。字面から意味は文句なく「死後に祀られた神」だ。以上のほかに「天皇」を「すめろき」と読んでいる例がかなりある。

29番「天皇の神の命 すめろきのかみのみこと」
167番「天皇之敷座國 すめろきの敷きます國」
230番「天皇之神之御子 すめろきのかみのみこ」
3312番「吾天皇寸与 わがすめろぎよ」
4360番「天皇乃等保伎美与 皇祖(すめろき)の遠き御代

79番・543番・948番・1032番・3291番・4408番では「天皇」を「おおきみ」と読んでいる。上の「すめろき」と読んでいるケースで167番・3321番などは「死後に祀られた神」と言う意味ではなく、生身の天皇を指している。つまり定説では「すめろき」と「おおきみ」をはっきり使い分けていないようだ。

 左注に記載されている歌の訓読もおかしい。原文が「大王」なら当然「おおきみ」と読む。原文の「王」を「おおきみ」と読むのはおかしい。これはすなおに「きみ」でよい。この王という言葉の意味は、ある領域を支配する者のことで、皇子は王ではない。この歌に付けられた詞書も大ウソということになる。

きみは神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます
 生きている王を「生き神様」と阿諛追従して、「献(たてまつ)」った歌ではない。王が亡くなって、雷山に葬られたことを歌ったもだ。そして心の奥底では、もし生きていれば豪華な宮殿に居られただろうと追憶している。

 235番歌に戻ろう。

 235番の歌そのものは、雷岳に歴代の神になった方々が安置されているという考えに基づいています。廬(いおり)そのものは、隠者が住んでいるところの家の意味です。この歌は神の加護に敬意を込めて死者の霊を慰めることを歌ったものです。

 特に、彼女持統が丘の上に亭(小屋)を作って何をするのですか。そのような記録も伝承もない。(ここの君主が持統女帝とするのも一説にすぎない。)

 明らかに柿本人麻呂が生きている個人である天皇持統を誉め称えるために大和で作ったと考える理由はありません。

 それでこの歌は白村江の戦いの後、人麿が雷山に来てこの歌を作ったのではないかと考えている。


《「真説・古代史」拾遺編》(92)

地名奪還大作戦(20):飛鳥の雷岳(いかづちのおか)=福岡県背振山脈の雷山(らいざん)(1)


 今回の話題は『万葉集』巻三冒頭の235番歌です。(教科書は古田さんの講演記録「神と人麻呂の運命」です。)

天皇、雷岳(いかづちのおか)に御遊(いでま)しし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首

大君は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほ)りせるかも
(原文)
皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬爲<流鴨>

右、在る本に云く。忍壁皇子(おさかべのみこ)に献(たてまつ)るといへり。その歌に曰はく、

大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます
(原文)
王 神座者 雲隠 伊加土山尓 宮敷座


 例によって「岩波」の頭注を読んでおこう。

(詞書について)
○天皇 ― 未詳。人麿の作歌だから天武・持統・文武の三帝のうちであろう。持統天皇か。
○雷岳 ― 奈良県高市郡明日香村雷にある丘。異説がある。

(歌について)
○神にし ― シは強めの助詞。
○座せば ― いらっしやるから。
○天雲の ― アマクモのクは清音。雷の丘という名にちなんで、その修飾語として天雲を用いた。
○雷 ― 雷の丘のこと。
○廬らせるかもーイホルという動詞は四段活用と推定されるので、敬意を表わすスという接尾語を添え、存続の意を表わすためイホラセルと訓む。
〔大意〕
大君は神でいらっしゃるから、大空の雷のその上にいほりしておいでになることである。
(雷岳を実際の雷のように見なして歌っている。)

(左注について)
○忍壁皇子 ― 忍坂部・刑部とも書く。(管理人追記 ― 天武の第9皇子。三品親王で没)
〇隠る ― カクルは当時四段にも活用したのでここはクモガクルと訓んで連体形。雷山にかかる。
○宮敷きいますー御殿をいとなんでおいでになる。

 この歌は大日本帝国の権威付けに大いに利用されたことで有名な歌だという。古田さんの体験を聞いてみよう。

 あまりにも有名な歌です。わたしも戦争中は耳にタコができるぐらい聞かされたあの歌。天皇が現神(あらひとがみ)であるなによりの証拠として憲法の解説にあげられた歌です。あの伊藤博文の『憲法義解』(岩波書店、伊藤博文著 宮沢俊義校註)の中で、「天皇ハ神聖ニシテ冒スベカラズ。」の根拠とされ載せられていました。わたしも戦争中にきいて、日本精神を一語で表す歌であるとして喧伝され、わたしもそのように想っていた。

(このあたりの経緯を詳しく知りたいと思った。講演録の注に、「詳しくは『古代史の十字架』を」とあったので、図書館からその著書を借りてきました。教科書に追加します。以下はその著書による。)

 賀茂真淵はこの歌を次のように解説している。
「天皇は顕(ウツ)し神にます故に、雲の中の雷の上にみやゐさせますとなり。岳の名によりてただに天皇のはかりがたき御いきほひを申せりける。さまはただ此人のはじめてするわざなり。」(『新採百首解』)

 このような国学のテンノロジー解釈に乗って、伊藤博文が『憲法義解』で天皇の神聖不可侵性を論じる。
「第三條 天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス
恭(つつしみ)て按ずるに、天地剖判(ほうはん)して神聖位を正す(神代紀)。蓋し天皇は天縦惟神(てんしようゐしん)至聖にして臣民群類の表に在り。欽仰(きんぎやう)すべくして干犯すべからず。(下略)」
(これに続いて、万葉集235番歌を引用している。)

 ここに「干犯」という言葉が使われている。後に大日本帝国の軍部が、黄門さんの印籠よろしく、ことある事に振りかざした「統帥権干犯」のでどころはここだろうか。

 さて真淵の解釈を受け継いで、235番歌を最大限ヨイショしたのは斎藤茂吉であった。茂吉はこの歌の大意を次のように書き表している。
「天皇は現人神(あらひとかみ)にましますからして、今や天空に轟く雷(いかづち)の名を持ってゐる山のうへに行宮(あんぐう)を御作りになって御入りになり給うた。天皇は現身(げんしん)の儘(まま)すでに神にましますから、神の命を受けられた、神随(かみながら)でましますから、その偉大萬能のゆゑに、かの天雲に轟く雷電(らいでん)の上に直ちに行宮し給うた。

 続けて次のように「鑑賞」している。
「内面動機は、人麿は心を引きしぼってせい一ばいの表現をして居る。ゆゑに當時の人々は寧ろかういふ聯想の手際をも喜んだものかも知れぬが、出来あがった此一首は、字面どほりに、天皇が直ちに雷電の上に御いでになる趣として味ふやうに出来て居る。そして一首を貫く聲調は太く強く荒々しく、天地渾沌の相を暗指し、奥に動いてゐるものは何か知らん、創造的元力と謂ふやうなものを感ぜしめる。そしてこの勢(いきほい)は何から来るかといふに、人麿の真率熱烈な態度から来るのである。(中略)人麿のこの歌は多くの萬葉學者からも餘り同情を牽かれてゐないものであるが、私は秘かにやはり人麿のものでは優れた部類の中に評價し来って現在に及んでゐるのである。」(『柿本人麿、評釋篇巻之上』)

 「餘り同情を牽かれてゐない」ばかりか、とんでもないオベンチャラの揶揄歌という評価もあったようだ。これに対して茂吉は言う。

「またマルクス學などの傳染を經たものは、人麿の作歌態度を阿諛と見做し御用歌人の職業的作歌などといふのであるが、そういう程度の批評が幾らあっても決して邪魔にならないほどの勢をもった歌だといふことを知らなければならない。」

 しかし、オベンチャラの揶揄歌という評価は「マルクス學などの傳染を經たもの」だけではなかった。折口信夫はこの歌を次のように評している。

「そして都からやつと半みちの飛鳥の神丘へ行かれた時も、人麻呂は帝王を頌する支那文学模倣とも言へば言はれさうな歌をことことごとしく作ってゐる」(『古代研究国文学篇』)

 「飛鳥の神丘(雷岳)」をこの歌の舞台とする限り、このような評こそが真っ当である。(その理由は次回で明らかになる。)しかし、テンノロジーというイデオロギーには、このような批評を聞く耳がない。山田孝雄も折口信夫の評に次のように反論して、結局、江戸の国学以来の説が「定説」となっていった。

「一首の意、攷證(こうしょう)(岸本由豆流-古田さんの注)に次の如くいへり。『天皇は神にてましませば、奇(クス)しくあやしき御しわざありて人力のおよぶまじき雷の上にいほりを作り給へるかなと申すにて雷山を實の雷にとりなしてよめるは歌の興なり』といへり。これをよしとす。」(『萬葉集講義』)

 「岩波」の頭注と大意はこの「定説」を踏襲したものである。
《「真説・古代史」拾遺編》(91)

地名奪還大作戦(19):吉野の三船山=佐賀県の御船山


(今日の資料は「古田武彦懇親会 2000年1月22日」の記録です。)

 今回は再び『古今和歌集・仮名序』の登場。仮名序の次のくだりが枕です。(岩波古典文学大系『古今和歌集』より。適当に段落を付けた。)

かのおほん時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、哥のひじりなりける。これは、きみもひとも、身をあはせたりといふなるベし。

秋のゆふべ、たった河にながるゝもみぢをば、みかどのおほんめには、にしきと見たまひ、春のあした、よしのの山のさくらは、人まろが心には、雲かとのみなむおぼえける。

又、山の邊のあか人といふ人ありけり。哥にあやしく、たへなりけ。人丸は赤人がかみにたゝむ事かたく、あかひとは人まろがしたたゝむことかたくなむありける。


 さまざまの解説書や鑑賞書や研究書などで、頻繁に引用されている有名なくだりだ。

 人麻呂は歌の聖と言われているが、貫之は低い評価を与えている。赤人の方が優れているという。人麻呂の欠点の一つとして挙げているのが赤字の部分だ。帝(文武天皇)が紅葉を錦と見て詠っているのと対比して、人麻呂は吉野の桜を雲としか見たてられない(あるいは雲を詠って、桜を詠っていない)と難詰している。そして、上の引用文の後に文武天皇の歌と人麻呂の歌を挙げている。(赤人の歌も挙げられているが、本論に関係ないので省く。)

ならのみかどの御うた、
 竜田川もみぢみだれてながるめりわたらばにしき中やたえなむ

人麿
 むめの花それとも見えずひさかたの あまぎるゆきのなべてふれれば
 ほのぼのとあかしのうらのあさぎりにしまがくれゆく舟をしぞおもふ


(これらの歌は『古今和歌集』に収録されている歌だが、いずれも「題しらず よみ人しらず」の歌で、左注に「ある人、・・・なむ申す」という言い方で、それぞれ「ならのみかど」あるいは「人まろ」の歌としている。)

 「ならのみかど」の歌は紅葉を錦に見たてているが、「人まろ」の歌には桜や雲の影も形もない。どうしたことか?

 「岩波」の頭注に曰く、
「春のあしたよしのの山のさくらは ― これに当たる歌は見えない。人麿の時代には、まだ、吉野山は桜の名所となっていなかったらしい。」

 古田さんは言う。
「古今和歌集の序文というのは、紀貫之が大変なエネルギーと独創力をつぎ込んで書いた名文章であると私は考えている。それを後世の人は誤解してきたのではないか。」
 貫之が渾身の思いを込めて書いた文に、「ない」歌を取り上げるはずがない。そこで古田さんは、人麻呂の歌で「吉野」と「雲」を含む歌を探し出している。

 『万葉集』巻3・244歌
三吉野の御船の山に立つ雲の常にあらむとわが思はなくに
 右一首、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。


 雲を歌って桜を歌っていない。紀貫之がいちゃもんを付けているというか、人麻呂のことを「歌の聖」と言われていたが、自分から言うと物足りないと云っている。確かに奈良県の吉野なら、桜を歌って当たり前だ。そう思われても仕方がない。『万葉集』でも桜の歌を結構歌っている。万葉に桜の歌はないというのは嘘で、万葉に桜の歌はかなり有ります。(管理人注:調べたら45首あった。)だのに桜を歌っていない。紀貫之がそうクレームを付けている。その意味で彼のクレームは非常に鋭い。そのクレームの後、人麻呂と赤人の比較論に入っていく。「人丸は赤人がかみにたゝむ事かたく、(人麿は赤人の上にいかない。人麿は赤人の上ではない。)」と書いてある。

(中略)

 結局どちらにしても「赤人が上だ。」という話に入っていく。いきなりその話に入っていくのではなくて、間にクレームが入っていることに意味がある。それで最後は、「いにしへをあふぎて、いまをこひざらめやも。」で終わっている。つまり我々の古今集がもっとも優れた歌である。赤人もかなり進んでいるが、もっと良いのは我々古今集が技巧的に優れている。これこそ芸術だ。そういう文脈となっている。

 だから今の人にとって、その歌がないと理解した為に、その歌が持っている仮名序における文脈上の役割が、カットされてしまった。私は、この歌を見つけたことに非常に意味があった。とにかくそういう経過で『万葉集』には、明らかにこの歌がある。人麻呂の若いときの歌のようで、また人麻呂歌集とあるので人麻呂自身の歌か議論がありますが、紀貫之の目から見ると人麻呂の歌である。

 さて、244番歌の分析に入ろう。
 その歌に「御船の山」とあるが、奈良県の吉野にも三船山はある。しかし行って見て、はてな?と首を傾げた。全然特徴がない。あれが三船山かとさんざん考えた。さらに宮滝の歴史資料館の方に行って、やっと確認した。その山は特に船の形をしていませんし、第一宮滝は舟遊びは出来るかも知れませんが、船になにか特徴があるような川でもない。そこで「御船の山」と『万葉集』に有ったから逆に付けた名前ではないか。

 そんな馬鹿なと思われかかも知りませんが、「水分(みくまり)山」という山がある。あれが「水分(みくまり)山」だと霞に霞んでいたが、宮滝の歴史資料館の方に教えていただいた。但しあそこの山は分水嶺になっていませんと正直に言われた。別の山があって、その山が本当の分水嶺の山である。分水嶺の山になって無くて「水分(みくまり)山」という名前を付けることはあり得ない。現在万葉を読んで「水分(みくまり)山」が無くては困る。だから名前を付けた。そういう話になっているようだ。

 だから「御船の山」もどうも同じ手口ではないか。どうもあの山を見ても、この山だという気がしない。

 吉野の三船山の写真を「いにしえの旅」さんから拝借しました。(無断借用、ごめんなさい。)

吉野の三船山
(クリックすると大きくなります。)

 なるほど、雲が立ち上るような山ではない。

 度々ふれているように、いわゆる「好字二字令」によって一斉に日本全国の地名の表記が全く変わってしまった。九州の倭(ちくし)を中心とする地名を近畿に移し、記紀や万葉集の記述に対応させる陰謀が、この命令の隠された真の目的だったのではないか。

 吉野の三船山に対して、佐賀県にも御船山がある。その山はどのような山だろうか。この山を実際に訪れて、古田さんはその印象を次のように記している。

 確かに素晴らしい山だ。一回見たら忘れられない御船山だ。船の形をして居て、平地の中にその山だけが突き出ているから印象的だ。しかも山の上の岩。岩があること自体は珍しくないですが、岩が実に小刻みに刻んだ岩が目の前に大きく連なっている。何とも言えない神秘的な忘れられない印象の山です。

御船山2
南東から見た御船山

御船山2
武雄温泉から見た御船山
(クリックすると大きくなります。)

 2枚とも古田さんが武雄市文化情報課から頂いた写真だそうだ。三つ見える嶺はそれぞれ左から、艫峯(ともだけ)・帆峯(ほだけ)・鞆(?)峯(みよしだけ)と呼ばれている。「みよしだけ」の「みよし」の漢字を古田さんは、「船偏に手の鞆と書いて「ミヨシ」と読みます。辞書を引いたら出てきます。」と言っているが、「船偏に手の鞆」の意味が分からない。講演記録なので記録間違いかも知れない。手元の漢和辞典で「船偏」の漢字を全て調べたが分からない。ただし艫(ヘサキ)の意味の中に「みよし」とあった。


(イ)ヘサキ。船さき。みよし
(ロ)トモ。船の尾。「舳―」
(ハ)フネ。フネに同じ。

 さしあたって、ここでは古田さんが「ミヨシ」に注意を促していることを確認して先に進もう。

 ここで、まず間違いなく、「三吉野の御船の山・・・」と人麻呂が歌っているのは、ここだと思った。この御船の山を歌わなければ詩人ではない。そのような山だ。歌うに価する山だ。そうすると、この歌はすごい歌になってきた。この歌は平凡な歌ではない。「常にあらむ いつも世の中は同じとは思えない」と歌っているとおり、無情というか、そういうものを述べている歌でなかなかのものですよ。

 以上で、「御船山=佐賀県の御船山」であると、十分に納得できた。しかし古田さんはさらにこの歌の解釈をさらに深めている。私には、ちょっと穿ちすぎではないかという思いもあるが、ともかく最後までたどってみよう。

 歌の冒頭が「三吉野」だった。これと御船山の「ミヨシ」とは何か呼応しているのだろうか。「三吉野」について、古田さんは次のように論じている。

 吉野ヶ里にも吉野がある。吉野山もある。ふたつ吉野がある。それから古賀さんに情報を頂いていたのは、武雄にも吉野はある。場所はどこか分かりませんが『太宰管内志』にも吉野がある。そうすると吉野が三つ有る。

 上の文だと吉野が四つあるように読める。「武雄の吉野=太宰管内志にある吉野」ということだろうか。地図検索したら次の三つが見つかった。神埼郡に吉野ヶ里、佐賀市に吉野山、あと伊万里市にも吉野がある。古田さんが指しているのと同じだとすると「武雄の吉野=伊万里市の吉野」となるが、武雄と伊万里ではチョット離れすぎている。今すぐは確認できないので、いちおう三つあるということで先に進もう。

 それまで私は「三吉野」という言葉が出てくるが、美称の接頭語である「御(み)」であると理解していた。皆さんもそうであったと思う。奈良県に吉野は三つ無いです。一つしかない。しかし佐賀県に三つ有る。文字どおり「三吉野」です。
(中略)

 しかし事の真相に気がつかなかった。なぜかと言いますと「三吉野」は三です。「三船」も三です。掛け算3×3=9です。

 冗談かと思われるかも知れませんが、これには伏線がありまして、人麻呂の他の歌に「十六社者」と書いてありまして「ししこそは」と詠んでいる歌がある。これは万葉では有名な例である。人麻呂が算術の計算をして表記している例なのです。そういう人麻呂ですから3×3=9の計算ぐらいは出来るでしょう。そうすると「3×3」とは何かというと、雲が立っている。その雲は「九重の雲」が立っているとなる。

 つまりこの歌の真意は、今は九重の雲が棚引いているが何時までもあるとは私には思えない。そういう歌になる。「九重の雲」とは天子のことで、天子と言って今は威張っているけれども、しかし何時までもあるとは限らない。今は覆(おお)っているが何時までも覆っているとは限らない。この歌は並の歌ではない。人麻呂歌集ですから若い頃の歌だと思いますが、若い頃からそういう非常に鋭い感じ方を持っていたのではなかろうか。そう思います。

 ちなみに、に「十六社者」という言葉遊びをしている歌は239番歌です。

(原文)
八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三猟立流 弱薦乎 猟路乃小野尓 十六社者 伊波比拝目 鶉己曽 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拝鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久堅乃 天見如久 真十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞

(訓読)
やすみしし 我が大君 高照らす 我が日の御子の 馬並(な)めて御狩り立たせる 若薦(わかこも)を 狩路(かりぢ)の小野に 獣(しし)こそば い匍ひ拝(をろが)め 鶉こそ い匍(は)ひ廻(もとほ)れ 獣じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り 畏(かしこ)みと 仕へまつりてひさかたの 天(あめ)見るごとく まそ鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 我が大君(おほきみ)かも
《「真説・古代史」拾遺編》(90)

地名奪還大作戦(18):天香具山=大分県鶴見岳(5)


 最後の問題。定説では「八間跡」を「やまと」と訓じているが、いままでの議論でこれがご都合主義訓読であることがはっきりした。では、これの正しい訓読は? 古田さんは、疑問符つきながら、一応「はまと」という訓読を提案していた。はたして「はまと」と呼ばれる国があるのだろうか。
 仕事で実家のある別府に移動された静岡古代史研究会の上条さんに、車で案内していただきました。それが良かった。それで二つある「登り立」、いずれも「登り立(のぼりたて)」が正しいということが分かったのですが、二つある中で現在別府市の天間区の「登り立」、湯布院よりの所。ここは界わいは見晴らしがよいが別府湾は見えない。もう一つの「登り立」、これは別府市浜脇区、そこに「登り立」がある。国東半島の反対側の宮崎県よりの所で大分市に近い、お猿さんで有名な高崎山の近く。海岸寄りを登っていくと、そこに工藤さんという自治会長さんのお宅がある。そこが「登り立」である。しかも後ろに崖がある。登っていくと、関西弁で「どんつき」・突き当たりとなり、そこを「登り立(のぼりたて)」と言っているみたいだ。別府湾全体を見下ろせる。そこはせいぜい海抜150メートルぐらいではないか。ここのように低い方がよい。

 なぜかというと、高くて見晴らしの良いところはたくさんある。この前行きました十文字高原は、別府湾を一望でき、百万ドルの夜景で見事なものです。また鉄輪(かんなわ)温泉の鉄輪山も高さも300メートルぐらい有り別府湾を一望できるということです。鉄輪山は上条さんに確認をお願いしています。そういう所は別府湾は見えるが鴎まではマークしにくい。高さも300メートルぐらい有れば海岸から離れすぎている。

 別府市浜脇区の「登り立」は150メートル位、そこまで行かなくとも良い。浜脇(温泉)から上がって行きますと「川内(こうち)」というバス停があって海抜100メートルぐらいではないか。そこから上がって行き、振り返ってみると、国東半島まで見下ろせ、別府市内は一望できる。脇の方の妨げがないから、ここだったら鴎は大丈夫である。「登り立(のぼりたて)」の方向へ100メートル位、歩いて上がれば見事な光景である。こちらなら鴎(かもめ)が見える。「登り立」でも工藤さんは鴎が見ることが出来ると言っていた。尤もその時は「登り立」には鴎はいなかった。

 しかし少し降りてお猿さんで有名な高崎山の駐車場に行った。そのファミリーレストランの近くに寄ると、鴎がいるわ、いるわ、乱舞している。夢中で写真を撮りまくった。かもめは雑食性で残飯等が餌になる。子供がポテトチップスなどやっていることもあるようだ。みんなそこへ群がっていた。「登り立」から横に直線距離100メートル位だから、みんなそっちに吸い寄せられていた。「登り立て」でも時間帯によって見える。以上で「海原は鴎立ちたつ」もここは問題なし。

 私は知らなかったが、鴎は渡り鳥です。11月始めから来て、2月一杯ぐらいでシベリアへ帰って行く。

 「別府市浜脇区」と言ったでしょう。そこでピンときた。そして調べてもらったら、万葉で「八 はち」は「八 や」とも読みますが、「八 は」とも読む例が結構少なくない。たくさんあるが今は例を一つだけ示せば、「吾八 我れは(われは) 歌3306」だって、主格の「我れは」を「八 は」を使っている例など結構ある。その他にもいっぱいある。(追加例 歌1113 八信井 走井)

 「は」と読む万葉仮名は次の通りで、「八」も含まれている。
「波 破 婆 八 半 方 房 防 播 幡 皤 薄 泊 巴 簸 伴 絆 泮 ・ 羽 葉 歯 者

 ちなみに、1113番歌と3306番歌の原文とその訓読は次の通りです。

1113
此小川 白氣結 瀧至 八信井上尓 事上不為友
(この小川霧ぞ結べるたぎちゆく走井の上に言挙げせねども)

3306
何為而 戀止物序 天地乃 神乎祷迹 吾八思益
(いかにして恋やむものぞ天地の神を祈れど我れは思ひ増す)

 ですから論理的には、「八間跡」は「やまと」とも「はまと」とも読める。今まで「やまと」と思っていたが「はまと」ではないか。ここ「登り立て」が浜脇区であり、浜脇区と言う言葉が出来ると言うことは、別府の中心が「浜(はま)」と呼ばれていなければ、浜脇(はまわき)という言葉が出来るはずがない。別府というのは先ほど言ったとおり官庁名で自然地名ではない。今は、北町・南町という名前が付いているが、その前は当然自然地名だった。

 推定だけではなくて、その先には、浜田・餅ヶ浜とか、いっぱい浜(はま)のある区名、地名がある。そうすると別府の中心を含んでこの海岸は浜(はま)と呼ばれていた。海岸だから、浜(はま)と呼ばれるのは当たり前ですが。そうすると、これは書き直しではなくて、

うまし国ぞ 秋津島 はまとの国は
怜〔立心偏+可〕國曾 蜻島 八間跡能国者


 という読まなければならない。これが正しい読み方である。そういうことに一昨日高田さんに言われて気がついた。

 さらに問題は進展した。『別府市誌』という本を別府市の図書館から京都府向日町の図書館へ送ってもらって、図書館でその本を見て字地名を調べたりした。(郷土資料は貸し出しできないので、図書館で閲覧した。)それで更に認識は前進した。

 「浜 はま」は海岸辺りだから当然だが、別府市の鶴見岳寄りの地名は「原(はら)」だらけ、別府の市街地を含めて、「何とか原」がいっぱい。原だけもある。南北につながっていた。そうすると私は今まで、「国原(くにばら)」という言葉をただ古典の抽象的な言葉だと思っていた。みなさんもそうでしょう。そうでなく「原 はら」という地名を背景に「国原」と言った。もうここまで来ると、この歌の原産地が別府であることは疑うことが出来なくなりました。

 この歌は別府で作られた。その別府の中心に聳(そび)えている鶴見岳を、そこから詠い初めた。そして浜脇区の「登り立て」のほうへ上って行って、そこで別府全体を見下ろせますので、そこで作った歌。そこで鴎(かもめ)もくるし、煙は、浜脇温泉自身も相当古い温泉であり、別府も温泉の煙は立ち登っていて当然見下ろせる。湯気が立ち登っているプロの方が撮った見事な写真がある。「登り立」の付近での鴎の写真もある。

(歌の読み例)
山根には 群山あれど とりよろふ 天香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ちたつ 海原は鴎立ちたつ うまし国ぞ 秋津島 浜跡の国は
(原文)
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜〔立心偏+可〕國曽 蜻嶋八間跡能國者


 以上、この歌は大和盆地で作られた歌ではない。もちろん大和盆地で舒明天皇が作った歌でもない。要するに別府で作られた。それも国見をするのは庶民がするということはあんまり有りませんから権力者、もしかしたら筑紫からやってきた権力者、この当時だったら多利思北孤、別に彼でなくてもかまいませんが、海から別府に来た。港に来て上がって行って、「登り立(のぼりたて)」で作った歌。そういうことを疑うことは出来ない。

 このことは重大な意味を持つ。我々は万葉というものを原本で最古典と思っていますが、そうではない。その前の歌集があって、そこからの改竄(かいざん)。作者を変えて、舒明天皇のときに出来たかも知れないが。大和盆地で舒明天皇が作ったという形に書き換えて万葉を作った。そういう重大な問題を今の論証は提起させて頂だいた。これ以外にもいろいろな例にぶつかってきたわけですが、私にとって最も印象的な例を申し上げたわけで御座います。

《「真説・古代史」拾遺編》(89)

地名奪還大作戦(17):天香具山=大分県鶴見岳(4)


 古田さんは次に、冒頭の詩句「大和には 群山あれど とりよろふ」の「とりよろふ」の意味を問題にしている。

「岩波」の頭注は「とりよろふ―ヨロフは都に近くある意。」としている。古田さんはこの「岩波」の解釈にふれていないが、この解釈に沿って検討してみよう。

 前回の「万葉散歩」さんから拝借した写真を改めて見てください。「万葉散歩」さんは「定説」に従っているので、香具山が都の近くにあることを証すべく、「藤原宮跡」を特記している。しかし、藤原宮は持統の造営であり、舒明よりずっと後の京である。

 舒明は推古朝の小墾田宮をそのまま継いだようだ。「岩波」の頭注は舒明天皇の宮を「奈良県高市郡明日香村雷の東の地という。」と書いている。はっきり「小墾田宮」と比定していないが、明日香村雷には小墾田宮跡がある。ここが舒明の宮だとすると最も「とりよろふ」山は甘樫丘(148メートル)だし、飛鳥三山の中では畝傍山(199メートル)が最も近い。小墾田宮に「とりよろふ」山が香具山だというのは、やはりチグハグだ。

 「とりよろふ」という言葉の使用は他に例がないようだ。『万葉集』を調べたが、少なくとも『万葉集』では2番歌以外に「とりよろふ」という言葉はない。それで、いろいろな解釈が出されている。多くの万葉学者の解釈は、「岩波」と違って、この言葉を「際だっている」「とりわけ立派である」と解しているようだ。あるいは「鳥が集まる」という解釈もあるようだ。古田さんはこれらの解釈で話を進めている。

 「とりよろふ」の解釈も色々あるでしょうが「際だっている」ということでしょうが、ぜんぜん際立っていない。それに鳥が集まってくる「山の中の山、目立つ山」という意味でしょうが、本当にそうでしょうか。

 今回も飛鳥三山の写真を撮ろうと思って撮ったが、香久山はいつも入っているか迷った。後の二つ畝傍山と耳成山は入っていると思いますよ。しかし香久山はいつも本当にカメラに写っているか不安でした。一番目立たない。なぜ「とりよろふ天香具山」でしょうか。幾らイメージだと言っても、イメージにむしろ反している。これはどうも違うのではないかと思い始めた。

 どうやらこの歌の「天香具山」が飛鳥三山の香具山ではないことが明らかになってきた。では何処のどの山を指しているのだろうか。

 古田さんはこの歌に二回出てくる「大和」という言葉に注目する。この二つの「大和」の原文は、先頭の「大和」は「山常」であり、後の方は「八間跡」である。これをどちらも「やまと」と訓読している。この訓読は本当に正しいのか。古田さんの分析は次の通りである。

 「常世 とこよ」の「常 とこ」だから、上を取って「常 と」と読めないことはないけれども、下の発音を採るのが(万葉かなでは)普通ですから、「山常 やまこ」と読むのが普通だ。又もう一つの読み方「常 つね」を取れば、「山常 やまね」と理解するのが普通だ。第一大和の表記はいっぱい出てくるが、「山常 やまと 大和」の表記は他に全くない。ここだけだ。これを本当に大和と読んで良いのか。むしろ後の読み方の下のほうを取って「山常 やまね 山根」と読むべきだ。小学校・中学校を通して山根君が居ましたし普通の呼び方だ。島根県の「島根」と同じ接尾語である。

 「山根には」というと、山の幹に対して、根がずっと広がっている。これに対して幹になる中心になっているのが高い香具山である。かなり高い山ですよ。

山常庭 村山有等 取與呂布 山嶺には 群山あれど とりよろふ
(『別府史談』入江秀利さんのご協力により「山嶺 やまね」と後日改訂)

 これに対してもっとおかしいのが最後の「八間跡 大和 やまと」である。こんな大和は他に全くない。本当に大和か。「八間跡」は「はまと」ではないか。ハブの港ではないが。それで大和が二つあるから間違いないと思っていたのが、これで二つとも駄目となり、大和と言うことがあやしい。大和とは読めないのではないか。

 「八間跡」をどう読むべきか、と言う問題はひとまずおいて、先へ進もう。

 ここで決め手となるのがもう一つの固有名詞、「うまし国ぞ 秋津島 大和の国は」の「秋津島」である。これについて「地名奪還大作戦(13):再び、大日本豊秋津洲=国東半島の南東部」で「秋津島」の奪還は終わっている。「海原」は別府湾ではないか? 2番歌の舞台は別府付近であるとして、歌を検討してみよう。(スリリングなクライマックス。古田さんならではの徹底した探求が展開される。古田さんの言葉を直接引用する。)

 別府湾なら「海原」があって「鴎(かもめ)立ちたつ」も問題なし。のみならず「国原に煙立つ立つ」も問題がなくなった。私の青年時代、学校の教師をやったのが松本深志高校。そこに通うとき浅間温泉の下宿させていただいた。坂を下り学校に通うとき、冬など温泉のお湯がずっと溝に流し出され、それが冷たい外気に触れて湯気が立ち上がっていて、本当に「煙立ちたつ」の感じだった。そこをぬうようにして降り、なかなかいい光景だった。浅間温泉のような小さな温泉でそうだから、別府となりますと日本きっての温泉の一大団地。そうすると、まさに「煙立ちたつ」ではないか。学校の授業の時は「民のかまどの煙が立ちこめ」と注釈にもそう書いてあったので「家の煙」だと解説していた。しかし良く読んでみると、「海原は鴎立ちたつ」は自然現象。鴎が自然発生しているのと同じように、それと同じく「国原に煙立ちたつ」も自然現象。煙が自然発生しているのと同じ書き方である。同じ自然現象です。それで熱中して調べて見た。

 それでは別府に「天香具山」はあるのか。まず「天 あま」はあった。別府湾に「天 あま」はあるのかと調べると、まずここは『倭名抄』では、ここら一帯は「安万 あま」と呼ばる地帯だった。この間行ってきた別府市の中にも天間(あまま)区(旧天間村)など、「あま」という地名は残っている。天間(あまま)の最後の「ま」は志摩や耶麻の「ま」であり、語幹は「あま」である。奈良県飛鳥は「天 あま」と呼ばれる地帯ではない。

 現在でも大分県は北海士郡・南海士郡というのが有り、南海士郡は大分県の宮崎県よりの海岸から奥地までの広い領域を占め、北海士郡は佐賀関という大分の海岸寄りの一番端だけになっている。点に近い所だけだが大分市や別府市が独立して喰いちぎられていったことは間違いない。これはもう本来は北海士郡は別府湾を包んでいたに違いない。それで海部族が支配していて「天 安万 あま」と呼ばれる地帯だったことは間違いがない。

 それでは香具山はどうか。別府の鶴見岳の存在です。別府へ行くといやでも1350メートルの鶴見岳が正面に聳(そび)えている。そこに神社が平野と中腹の二つありまして、その神社を火男小売(ほのをほのめ)神社と言い、ここの祭神がいずれも火軻具土(ほのかぐつち)命です。

 ここの「土」は当て字でして、津(つ)は港、「ち」は神様を意味する言葉です。あしなずち、てなずち、八叉の大蛇(おろち)、大穴持命(おおなむち)の「ち」です。港の神が「つち」である。

 ですからもう一言言いますと、「土蜘蛛 津神奇藻(つちぐも)」というばあいも、「くも」というのは「ぐ、く」は不思議な、神聖なという意味、「も」は(海の)藻のように集まっているという意味で、「くも」は不思議な集落という意味で、「津神奇藻(つちぐも) 土雲」は「港に神様をお祭りしている不可思議な集落」という誉め言葉なのです。それをへんな動物の字を当てて卑しめていて野蛮族扱いにイメージをさせようとしているのが『古事記』・『日本書紀』です。それを見て我々は騙されている。本来はこれは良い意味です。岡山県には津雲遺跡などがあります。そういう知識がありましたので、「ほ」は火山のことになる。

それで平安時代に、この鶴見岳の火山爆発があり『三代実録』にめづらしく詳しい状況が書いてあります。頂上から爆発し、三日三晩かけて吹っ飛び、大きい磐がふっ飛んできて、小さい岩でも水を入れる瓶ぐらいの大きさの岩が飛んできた。又硫黄が飛び散って川に流れて何万という魚が全部死んだという非常にリアルな描写があります。現在はそれで1350メートルで、今は隣の由布岳より少し低い。その鶴見岳は吹っ飛ぶ前は高さが2000メートル近くあったのではないかという話があり、もしそうであれば鶴見岳の方が高かった。

 それで元に戻り、鶴見岳には火軻具土(ほのかぐつち)命を祭っている。「か」はやはり神様の「か」で神聖なという意味で、「ぐ く」は先ほどの不可思議なという意味であり、「神聖な不可思議な山」が「香具山(かぐやま)」である。火山爆発で神聖視されていた山である。もう一つ後ろに神楽女(かぐらめ)湖という湖がある。非常に神秘的な湖ですが、その神楽女湖も、「め」は女神、「ら」は村、空などの日本語で最も多い接尾語で、これもやはり語幹は「かぐ」である。

だから並んで山も「かぐ」、湖も「かぐ」である。ですからやはり本来のこの山の名前は「かぐやま」であろう。「香具山(かぐやま)」とは本来ここであろう。それで安万(あま)の中にありますから「天香具山(あまのかぐやま)」である。

 「岩波」の頭注に「香具山は天から降った山だという伝説があったのでアマノカグヤマという。」とあったが、この説話は伊予の風土記と阿波の風土記に出てくる。伊予の風土記の方を引用する。(岩波古典文学全集『風土記』より)

伊豫の國の風土記に曰はく、伊予の郡(こほり)。郡家(こほりのみやけ)より東北(うしとら)のかたに天山(あまやま)あり。天山と名づくる由(ゆゑ)は、倭(ちくし)に天加具山(あめのかぐやま)あり。天(あめ)より天降(あも)りし時、二つに分れて、片端(かたはし)は倭の國に天降(あまくだ)り、片端は此の土(くに)に天降りき。因(よ)りて天山(あめやま)と謂ふ、本(ことのもと)なり。其の御影(きかげ)を敬禮(うやま)ひて、久米寺に奉(まつ)れり。(釈日本紀巻七)

 赤字の部分について、「岩波」は例によって「やまと」と詠んでいるが、私(たち)は「ちくし」と詠むのが正しいことを知っているので、その正しい詠みに訂正した。この説話の「天加具山」は飛鳥三山の香具山ではない。この説話は鶴見岳の火山爆発を下敷きに作られたものだ。鶴見岳=天加具山は、山を吹き飛ばす恐い火山として瀬戸内海で有名だった。その吹っ飛ぶ火山の片割れが、伊予の国の「天山」だという話である。火山でもないし標高163メートルの飛鳥の香具山では全く話にならない。

 あの山(飛鳥の香具山)も不思議な山である。何故かというと「天乞いの山」で神が祭られていて、不思議な名前で「櫛真智命(神名帳の記載例、同音異字)」と言い、それで雨ごいのお祭りをする。そうすると十回に九回は雨が降るという確率がよい不思議な山として伝説が伝わっている。しかし、ただの「香久山(かぐやま)」であり、言うのならば飛鳥の香具山であり、あるいは磐余(いわれ)の香具山である。あそこは海部族が支配した形跡はない。

 ということを見ますと、やはり先ほどの別府の鶴見岳は「天香具山(あまのかぐやま)」である。奈良県の歌ではない。。初めはおっかなびっくりでしたが、最後は確信を持って鶴見岳という別府の天香具山であるということを主張出来ました。

《「真説・古代史」拾遺編》(88)

地名奪還大作戦(16):天香具山=大分県鶴見岳(3)


 長~い寄り道から本道に戻ろう。改めて問題の歌を読んでおこう。

大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 海原(うなはら)は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は

 この歌の天香具山の原文は「天乃香具山」であり、原文改定は行われていないので、ここには問題はない。しかし「海原は鴎(かまめ)立ちたつ」の部分が大問題。天香具山から海原が見え、そこには鴎(カモメ)が飛んでいると詠っている。

 飛鳥三山の香久山は決して高山ではなく低山である。香久山の標高は163メートル。奈良盆地自身が海抜100メートルぐらいだから、香具山の奈良盆地での実質的な高さは50メートル位である。古田さんは「私でも頂上までさっと十分ぐらいで上がって行けた」と言っている。前々回の飛鳥三山の写真と、前回の大和三山の地図を眺めながら、香具山からの国見を想像してみてください。海が見えますか。鴎が飛んでいるのが見えますか。とても見えるわけがない。

 「岩波」の頭注では「鴎」については「かまめ―水鳥の一種」とあるが、誰もが知っている「かもめ」にわざわざ注はいらない。この注は言外に「鴎とはかぎらない。他の水鳥かも知れない。」ということを匂わせている、と勘ぐるのはひが目だろうか。

 それに対して「海原」については、訓読の仕方を注しているだけで、あとは知らんふりで、なんだかそっと避けているようだ。この問題について、「歌というのは、目に見えるものを詠うだけではない。頭の中のイメージで詠うことが本領である。」と、苦しい注釈している「偉い先生方」がいるそうだ。

 また、「海原」とは香具山の側にあったと伝えられている「埴安(はにやす)の池」という説があり、現在ではこれが「定説」になっているようだ。ネットで検索したら、「万葉散歩」というサイトに出会った。「定説」の代表として、利用させていただく。そこでは第2番歌の大意を次のように述べている。(「岩波」はこの歌には大意を添えていない。)

大意
 大和には多くの美しい山々があるけれど、中でも都に寄りそっている天の香具山。その香具山に登り立って国見をすれば国原には炊事の煙があちこちから立ち昇り、海のように広い水沼には水鳥が盛んに飛びかっている。よい国だ!大和の国は!!

 そして次の写真を掲示している。

埴安の池

 いま「埴安の池」跡とされているのは小さな校庭程度のため池がある。実際現場に行った古田さんも「ここ(講演会場)の2,3倍ぐらい」と言っている。そのあたりの地形から見て、当時(7,8世紀頃)でも大きくともせいぜい野球場程度の池だったと思われる。それにここが「海原」では歌の調子ともマッチしない。「国原は 煙立ち立つ」と、遠く国中(高さ50メートルの丘ではたいして遠くまで見えないが)を見晴るかしている視線が、いきなり足下に移り、「海原は 鴎立ち立つ」という、全くさえない歌になってしまう。

 万葉散歩さんは「当時、天の香具山周辺には埴安の池や磐余(いわれ)の池など多くの池や沼があったようで、香具山の南麓にある南浦町(橿原市)・・・の地名からも推測されます。」と言っているが、池がいくつあっても、「海原」=「海のように広い」とは大げさ過ぎる表現だ。この歌を詠んだ人の言語感覚がよっぽどおかしかったことになってしまう。
《「真説・古代史」拾遺編》(86)

地名奪還大作戦(14):天香具山=大分県鶴見岳(2)


 「高山」は高い山、つまり普通名詞とも考えられるが、三山争いの場合は明らかに固有名詞でなければならない。22例の高山の中に、はっきりと固有名詞と分かる高山で、しかも中大兄が知っていたと考えられるものがあるだろうか。ここであの浮気な仁徳と嫉妬深い后の磐(いわの)姫に登場願うことになる。

 今回の仁徳の浮気の相手は黒姫ではなく、八田姫命(やたのひめみこ)。仁徳が八田姫命と浮気をしていることを知った磐姫は非常に怒って、浪速宮を捨てて実家の方へ帰ってしまう。そのときに磐姫が詠った歌の一つに高山がある。高山が出てくるその他の歌はみな8世紀のものだから、中大兄が知っていたはずがない。磐姫の歌に現れる高山が三山争いに歌われている高山だ。

『万葉集』巻二 第85~89歌
難波高津宮に天の下知らしめしし天皇の代大鷦鷯天皇、謚(おくりな)して仁徳天皇といふ

磐姫皇后、天皇を思(しの)ひたてまつる御作歌四首

君が行き日(け)長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根(いわね)し枕(ま)きて死なましものを
ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに
秋の田の穂の上(へ)に霧らふ朝霞何處邊(いつへ)の方に我が恋やまむ


 夫恋しさと夫への恨み辛みの間で、千々に心をかき乱している様子がよく伝わってくる歌だ。それはさておき、磐姫が詠った高山は何処にあるのだろうか。

 磐姫が詠った高山とイコールの高山だから、中大兄が「高山」と書いた。中大兄は詠ったが、字を知らないと言う人はいませんから、当然中大兄が「高山」と書いた。そうであるならば磐姫が詠った「高山」とイコールの「高山」という認識が中大兄にあったからそう書いた。理屈ですけれども単純な理屈ですね。そうすると中大兄の高山という山の存在がどこであるかを知るためには、仁徳の后の高山を調べれば良ろしい。このように考えてきた。さいわい仁徳の高山の存在は分かる。

(中略)

 (磐姫が)帰ってしまった場所が分かっている。山城の筒城宮(つづきのみや)である。この名前は関西、なかんずく京都に住んでいる人にとっては馴染みの場所である。なぜかというと2・30年昔は山城のこの辺り、今の木津町・山城町あたりを綴喜(つづき)郡と言った。手紙の宛先にいつも書いていた。発音は馴染みの場所でした。そこの山城町の中に綴喜郡の郡名の元となった筒城(つづき)がある。現在の同志社大学新田辺校舎のある所がそこである、と言われている。そこから遺跡が出てきて、どうも山城の筒城宮の遺跡であろうと認定されている。磐姫が拗(す)ねて帰った山城の筒城の宮の場所はおおよそは分かっている。どう間違っていても山城町界隈、その辺りである。そうしますと、その山城の筒城宮、しかもその裏山に高山がある。これも「高山はどこだ。どこだ。」と探していたら、生駒市高山町に高山があった。それで生駒市の正木さんという郷土史のベテランの方、この方にお聞きしますと「高山に御案内します。」と言って、御案内していただいた。

 そこの高山、そこを高山として御案内して頂いた。生駒市高山町から車で10分。地理的にはゴルフ場があって、車で池やゴルフ場を通り、そのゴルフ場から歩いて十分ぐらいで岩を上れば頂上に達する。そこへ行ってビックリした。ご存じの方には分かり切っていることだが、辺りの景色が八割方見える。大阪府の七・八割方が見え、仁徳の浪速の宮があったとおぼしきところも見え、仁徳陵もおぼろげながら位置が推定できる。それから北は私の住む向日市も見えている。比叡山が北の正面に観察でき、京都(市)は全部見える。北の七割は見える。南東の奈良市も北の三割は見える。ところが山城の綴喜(つづき)郡の所は見えない。なぜ見えないかというと樹木が茂っていて見えない。正木さんは「あの木を切ったら見える。」と言っていた。そういう感じのところである。京都と奈良の間だから、ほとんど目の下に見える。わずか3・400メートルの高さで、絶景で三都を見下ろせる、そんな見晴らしのよいところがあるとはぜんぜん知らなかった。

(中略)

 〔編集者別記。行政区画から言うと現在は大阪府交野(かたの)市に属する交野(こうの)山です。その交野山は海抜344メートルです。南の生駒山は642メートルです。〕

 ということで、彼女が詠った、磐姫が詠った「高山」は、実家の直ぐ裏の「高山=交野山」であるということを確信した。それで私が凄いと思ったのは、「高山の磐根しまきて死なましものを」というのは、「あなたが浪速宮でいちゃついているのを、不倫をしているのを、私は死んで死骸となって、それを見下ろしていますよ」とそういう歌だった。今まで思いもしなかった。ゾッとする、鬼気迫る歌だった。私は思いもしなかった。『人麻呂の運命』(原書房)でこの歌を扱ったが、そこまでの理解には達していなかった。あの「高山」を見て、この歌の真の姿を知ることが出来ました。

 さらに磐姫の最初の歌が、私には意味が分からなかった。

君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ

 「あなたが出て行かれて、日が経ち長く経った。山を訪ねて迎えに生きましょうか。それとも待っていましょうか。」となる。意味は訳せるけれども、ピンと来ない。仁徳は登山家だったのかという感じでしか受け取れなかった。ところが今回歌の持っている意味が分かった。案内して頂いた正木さんに聞きますと、今でも鷹が、空を飛ぶ鷹が急降下してパッと降り、野ネズミか野兎などを捕まえて上がっていく。正木さんは何回かその光景を見たと言っていた。中近世では鷹匠の拠点があったそうだ。つまりここは禁猟区だった。関係する地名も幾つも挙げられていた。もちろん古代もそうである。そのような歌がある。となりますと、この歌が分かるんですよ。仁徳はいわゆる狩りに行くと称して、高山の方へ行った。狩りに行くと言ったのだから、三日ぐらいは帰らなくとも良い。ですけれども一週間経っても、十日経っても帰らない。ほんとは狩りは口実で、密かに八田姫といちゃついていた。それが結局磐姫には分かった。

 「もしかしたら傷でもしたらいけないので、高山にお迎えに行きましょうか。しかし大体は真相は分かっている。それともここでじっと待っていたら良いでしょうか。」きちんとピントが初めて合った。高山が禁猟区であると分かってから。ですからこの高山は山城からすぐ裏の、現在の交野山である。この「高山」は本来は神野山(こうのやま)ではないか。神様の「神(こう)」、野原の「野(の)」と読むのだと思います。現在の交野「交(こう)」は当て字というか、音を当てているだけです。

 ということで、私にとって仁徳の后磐姫の詠った「高山」が判明した。とすると同時に自動的に、中大兄の「高山」も先ほどの論理によってイコール。こうならざるを得ない。

大和三山
(クリックすると大きくなります。)

 大阪府交野市の交野山の「高山」では、大和三山とちがうではないか、という方がおられるかも知れないが、今あるのは飛鳥三山である。大和三山とは言えない。なぜ飛鳥三山を、大和三山とオーバーに言うのか。畝傍山、耳成山、香具山だったら飛鳥三山である。ところが「高山」だったら、ぐっと北側にあり大和三山である。それで交野山の高山、畝傍山、耳成山が大和三山である。

《「真説・古代史」拾遺編》(85)

地名奪還大作戦(13):天香具山=大分県鶴見岳(1)


(今回の資料は講演録『国見の歌』です。)

『万葉集』巻一の2番歌は、その詞書では、息長足日広額(おきながたらしひひろぬか 舒明天皇)が香具山に登って国見をしたときの歌とされている。

大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 海原(うなはら)は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は

 まず「定説」の頭注を読んでおこう。

舒明天皇の皇居について
 奈良県高市郡明日香村雷の東の地という。
香具山について
大奈良県磯城郡香久山村(現在、桜井市)にある。大和三山の一。

<語句の意味>について
○群山あれと―多くの山々があるが。
○とりよろふ―ヨロフは都に近くある意。
○天の香具山登り立ち―大和には多くの美しい山々があるが、中でも都に寄りそっている天の香具山、その香具山に登り立っての意。香具山は天から降った山だという伝説があったのでアマノカグヤマという。
○国原―大和平野。
〇かまめ―水鳥の一種。
〇うまし国そ―よい国である。
〇あきづしま―枕詞。大和にかかる。

 「定説」によるこの歌の解釈(訓読みの妥当性も含めて)にはおかしいことがたくさんある。まず、香具山を「大和三山の一つ」としていることを取り上げよう。古田さんは「香具山・畝傍山・耳成山」は「飛鳥三山」と呼ぶべきであり、「大和三山」というのは別の組み合わせになると言う。本題とは直接関係のない問題だが、おもしろいので、ちょっと長~い寄り道をしよう。(この問題についての参考資料は講演録『大和三山の歌』です。)

『万葉集』 巻一 第13歌・14歌
中大兄近江宮に天の下知らしめし天皇の三山の歌
香具山は 畝傍雄々しと 耳梨と 相あらそいき 神代より斯(か)くなるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を争うらしき
  反歌
香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に来(こ)し印南国原(いなみくにはら)


 畝傍山をめぐって、香具山と耳梨山が争ったという説話を下敷きにした歌だ。(上の訓読では畝傍山を男に見たてているが、畝傍山を女とする説もある。その場合は「雄々し(原文は〔雄男志〕」を「愛し」あるいは「惜し」と訓読している。)

 反歌の意味が分かりにくい。「岩波」は次のように訳している。
「香具山と耳梨山とが争った時に、阿菩(あぼ)の大神が立って見に来た印南国原はここなのだなあ」  いきなり「阿菩の大神」という聞き慣れない神が出てきたが、くだんの説話(播磨風土記)を読んでおこう。

上岡の里 元は林田の里なり土は中の下なり。出雲の國の阿菩の大、大和の國の畝火・香山・耳成、三つの山相闘うと聞かして、此を諌め止(や)めむと欲(おもほ)して、上り來ましし時、此處に到りて、乃ち闘い止みぬと聞かし、其の乗らせる船を覆(ふ)せて、坐(いま)しき。故、神阜(かみおか)と號(なづ)く。阜(おか)の形、覆せたるに似たり。

 この説話によると、阿菩の大神が、仲裁に行こうと思ったが、争いが終わっていたというのだから、三山の三角関係は決着が着いているはずだ。しかし、香具山と耳梨山のどちらが勝ったのは分からない。

 三山の恋争いの伝承はほかにもある。古田さんは2例紹介している。

1 大分県
鶴見岳と由布岳という山があり、その下に離れて祖母岳(もしくは久住山)がある。この三山が争う説話で、結論は祖母岳が負けて、すごすごと現在の位置に逃げていった、というお話。鶴見岳と由布岳は近くにあって、仲むつまじいが、祖母岳はこの二山からは離れたところで寂しくしている、というわけだ。

2 岩手県
 ここでは岩手山、姫神山、早池峰山の三山がもめている。岩手山と姫神山が夫婦だったが、岩手山が横暴で、何かにつけて姫神山が気に入らず、姫神山を追い出してしまう。姫神山は泣く泣くずっと南の方にある早池峰山のところへ逃げていって泣きついた。それを聞いて怒った岩手山は、けしからんと怒鳴り込んで、姫神山を取り返した。いまは岩手山と姫神山は東西に並んでいて、仲むつまじい。早池峰山は岩手山や姫神山から遠く離れてたところで、寂しくしている。

 つまり、三山争いの説話は、一山が遠くにあって初めて説話が出来る。飛鳥三山(畝傍山・耳成山・香具山)は三山とも近すぎて、決着が付いていないことになる。また、このこぢんまりと固まった狭い地域を「大和」と言うのは大げさだ。説話が言う大和三山は「畝傍山・耳成山・香具山」ではない。

飛鳥三山(クリックすると大きくなります。)
(上から見ると飛鳥三山はほとんど正三角形を作っている。)
飛鳥三山
「行雲流水」さんから拝借しました。無断使用、ごめんなさい。)

   古田さんは、原文と比べて、「定説」が無理な訓読をしていることに大きな不審を抱く。冒頭の「香具山は」の原文は「高山波」であり、反歌の第一句「香具山と」の原文は「高山与」である。「高山」を「香具山」と訓読できるのか。これは無茶だ。

 そこで古田さんは『万葉集』原文の中の「高山」を全て調べる。「高山」が合計22個。その中で「高山」という字を「香具山」と読んでいるのはこの二つの例だけである。後は全部、高山は「高山」。第13歌・14歌の高山も「高山」と読むべきである。それはごく常識的な判断だ。では「高山」とはどこの山か。
《「真説・古代史」拾遺編》(85)

地名奪還大作戦(13):再び、大日本豊秋津洲=国東半島の南東部


 今回は『「神代紀」の解読(4) ― 大日本豊秋津洲 』 の続編です。

 『「神代紀」の解読(4)』では、古田さんの論証により、「大日本豊秋津洲」が国東半島の南東部(豊後国国埼郡)あたりであることを知った。そして最後に私は次のように書き残した。

 「豊秋津洲」を大和(奈良県)に見たてる「神武紀」の地名説話の中の一節「猶(なお)蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)の如し」の意味は「トンボの交尾の形のようだ」である。上述の論考の後、古田さんはそのような地形の場所を探っている。興味深い論考(結論は「由布院盆地」)だが割愛して「大八洲」の稿を終わる。

 そのとき割愛した話題を、ここで取り上げて、「豊秋津洲」をよりはっきりと比定したい。(講演録『九州 記紀説話と倭の五王の諸問題 1』を利用します。)

 まず、『「神代紀」の解読(4)』を簡単に復習すると、「大日本豊秋津洲」の「大日本」は、「豊秋津洲」を大和に強奪し、大和が日本の中心であることを喧伝するために後から付け足した美称であった。そして、「豊」は「豊国」であり、豊国の中の秋津を探った結果、それは別府湾に注ぐ安岐川の河口にある安岐町に行きあったった。そこの港が「アキ津」である。つまり、「豊秋津」というのは、豊国の中のアキという港の表現である。古田さんは『「アキ津」というと、おそらく別府湾それ自体を指すのではないかと思います。』と言っている。

 さて、問題の「神武紀」に出てくる説話とは、秋津洲の名の由来を説明している説話で、次のようである。

神武三十有一年の夏四月(うづき)の乙酉(きのえのとり)の朔(ついたちのひ)に、皇(すめらみこと)輿巡(めぐ)り幸(いでま)す。因りて腋上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘に登りまして、国の状(かたち)を廻(めぐ)らし望みて曰(のたま)はく、「妍哉乎(あなにや)、国を獲(え)つること。内木綿(うつゆふ)の真迮(まさ)き国と雖(いへど)も、なほ、蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)の如くにあるかな」とのたまふ。是に由りて、始めて秋津洲(あきつしま)の號(な)有り。

 南葛城郡に腋上村がある。この村名は明治22年に付けられたものという。上の説話の信憑性を示唆しようという魂胆が丸見えだ。その腋上村の地にある山の一つに、紀元2600年(昭和15年)を記念して造られた石碑が立っているそうだ。「神武天皇が国見をした記念のところだ」ということが書いてあるという。古田さんは実際にその山に行かれている。

 そこへ行ってみてわかったことは、その位置からは大和が全然見えないんです。目の前にたくさん山がありまして、それほど高い山ではないけれども、しかし平野部は見えない程度の山がふさがっている。ですから、全然「国見」ができない。大和平野を見渡すことができないわけです。その点、実地に立ってみてもおかしいのです。

 なおおかしいのは、嗛間(ほほま)の丘というのは本間のことだろうと、宣長なんかが書いているんですが、本間というところを捜すのに苦労しました。なかなかないんです。やっとここだというところを見つけたんですが、ずっと離れた場所でして、「国見」の場所と、位置が分裂しているわけです。

 もう一つ。この話は大和の国のことをいっている、という形になっているわけですが、「内木綿(ゆふ)の真迮(まさ)き国」の「真迮(まさ)き」というのは「狭い」という意味なんですが、「内木綿」という言葉の意味がわからない。宣長以来、枕詞だとか何だとか、学者がいろいろいってきたんですが、結局はっきりつかめないでいままできた。次の「あきつのとなめ」自身は意味がわかっています。トンボが交尾するスタイルです。

 この問題のくだりを、「岩波」は「狭い国ではあるけれども、蜻蛉がトナメして飛んでいくように、山山が続いて囲んでいる国だなあ」と訳している。

 トナメして飛んでいるときのトンボは、いわゆる「おつながり」で、メスのしっぽをオスの口が咥える形でメスとオスが一列になっている。それで上のような解釈をしたのだろう。しかし、原文ではトンボは飛んでいるとは表現していない。

 飛んでいないときの本来のトンボのトナメは下の写真のように、「メスのしっぽがオスの口のところにいき、オスのしっぽがメスの口のところにいき、何ともいえない変なねじれひょうたん型といいましょうか、Sの字をもう一ひねりか、二ひねりしたような、変な格好で交尾する。」それを「あきつのとなめ」といっている。
蜻蛉のトナメ
(『盗まれた神話』より転載)

 しかし、大和がそんな格好をしているとは、私には想像力が豊かでないのか、どうにも見えませんでした。第一大和盆地はそんなに狭くないですね。日本列島の中では最大の盆地の一つではないでしょうか。それに大和に住んでいる人間が、「ここはまことに狭い」というのはおかしい。第一、大和盆地全体が一目で見える場所というのは、私が見た限りではそうないですね。飛行機に乗れば別でしょうけれども。

 以上の点から、どうもおかしいということで、捜し求めていました。そうすると、その話にぴったりした地点が見つかりました。見つけたヒントは先の国生み神話です。というのは、「あきつのとなめ」というのですが、先ほど豊秋津洲は「豊の安岐津のクニ」で、別府湾のことだといいましたね。ですからあの辺ではないかと思って、地図を捜してみますと、まさにあったわけですね。それが下の図です。
由布盆地
 別府湾の奥に由布院(ゆふいん)盆地というのがあります。温泉が出ますので行かれた方もあると思いますが、そばに由布岳があります。そして驚いたことに、由布岳に向かい合って福万(ふくま)山というのがあるのです。

 「嗛間(ほほま)」は従来「ホホマ」と読んでいましたが、調べてみると、非常に苦しい読み方でして、「嗛」というのは、鳥なんかが、えさを口にふくむという言葉なんです。ですから「嗛間」を素直に読めば「フクマ」です。ところが「フクマ」と読めば、そういう地名が奈良県にない。似たのもない。だから「ふくむ」のことを「ふふむ」「ほほむ」といった例があるというので、それにして「ホホマ」と読む。その上で「嗛間(ほほま)」だろうと、宣長は“こじつけた”わけです。本間がだいぶ離れていることに、宣長は気がつかなかったのかもしれません。

 そのあと、明治以後の音韻学者によって、「ホホマ」は「ホンマ」にはならない、ということが指摘された。発音の構造が全然違うから、「ホホマ」がいつのまにか「ホンマ」になることはないと、指摘されたわけです。ところが、大分県の由布院盆地の現地に行きますと、ここにはまさに福万山があるわけです。そして「腋上」ですが、「ワキガミ」と読んだのが、実は「上」は「ホトリ」と読めますので、「ワキのホトリ」 ― 福万山のそばに井手脇という地名があります。「××脇」というのがこの辺にいくつもございます。

 一番いいのは、解けなくて従来困っていた「内木綿」が解けてきたことです。つまり「ユフ」というのは「由布院盆地」の「ユフ」です。なぜ「内」か。別府湾に対して「内」なんですね。外は別府湾が広がっている。それに対して内側の「由布」という土地なので「ウチユフ」 ― 「内木綿」となるわけです。たいへん自然な表現です。

 福万山に登ってみたんですけれども、だいぶ苦労しました。暑くて、裸に近いような格好で、頂上に登りついたのを覚えています。登ってみますと、まさに“ねじれS字型”です。そして非常に狭いのです。福万山をめぐって、前に由布院をおいて、200度以上ぐるっと盆地が広がっているわけです。それが屈折してまわっている。これだったら「あきつのとなめのごとし」にぴったりです。ということで、この話は意外にも、大和とは全く関係がない、別府湾の奥の由布院に関する説話だ、ということがわかってきました。