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《「真説・古代史」拾遺編》(84)

地名奪還大作戦(12):春日なる三笠の山=福岡県の宝満山


(以下は古田さんの講演録「独創古代1」の要約です。)

 詩歌に少しでも関心・興味のある人なら誰でも暗唱していると思われる歌の一つに、『古今和歌集・巻第9』冒頭の406番歌がある。

もろこしにて月を見てよみける 安倍仲麿

あまの原 ふりさけ見れば かすががなる みかさの山に いでし月かも

この哥は、むかしなかまろをもろこしにものならはしにつかはしたりけるに、あまたのとしをへて、えかへりまうでこざりけるを、このくにより又つかひまかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとて、いでたりけるに、めいしうといふところのうみべでにて、かのくにの人むまのはなむけしけり、よるになりて月のいとおもしろくいでたりけるをみて、よめるとなむかたりつたふる
(岩波日本古典文学大系本による)

 詞書は「阿部仲麻呂が遣唐使で中国へ行って、帰りがけに明州という中国の東海岸で船出するときに、別れの宴を催してもらって、その時読んだ歌だ。」と言っている。

 定説は「かすがなるみかさの山=奈良市の東部、春日の地にある御蓋山」として、歌の意味を
「天空を見上げて、振り返れば月が見える。我が故郷の大和の春日の三笠山にでた月だ。」
という解釈をしている。私(たち)はこれを鵜呑みにして、この歌を理解してきた。ところがしかし・・・

 古田さんは古代史研究の目的で、対馬への旅をした。

 博多から壱岐を通って対馬へ船で向かったとき、あるところで西に向きを変える。博多からずーっと行きますと、対馬の西側浅茅湾へ入るには、大きい船は壱岐の北東側をまわって、そこの水道で、西に向きを変えるのがスムースなんです。

 船のデッキに出ていて、西むきの水道に入ったときに博多方面を観ていた。たまたま目の前に壱岐の島があり、船員さんに「ここはどこですか」と壱岐の地名を聞いたら、「天の原です。」と言われて、ギョッとした。こんなところに「天の原」がある。確かに考古学的には壱岐に天の原遺跡があり、銅矛が三本出土したことぐらいは知らないではなかったが、その遺跡がどこにあるかは、確かめたことはなかった。ところが目の前というか目の下に、曲がり角のところに「天の原」があった。

 太宰府の近くに宝満山という山がある。この仏教的な呼び名は後で付けられた名前であり、ほんらいは御笠山と呼ばれていた。太宰府市の西側に春日市があり、その間に御笠川がある。御笠山は御笠郡にあり、御笠川が博多湾へと流れている。史料例として、古田さんは『續筑前国風土記』の記事を挙げている。

筑前之二十四(御笠郡四)
寶満明神ハ在リ御笠郡竈門山上(又名寶満山、又名御笠山)


 「天の原」があり、そのあたりから見ると、御笠山が見える。仲麻呂の歌は中国で詠われたのではなく、中国に旅発つ船の中から「ふりさけみ」たときの感慨を詠ったと考えると、歌全体がにわかに生き生きとしてくる。

 しかし、仲麻呂は「筑紫なる御笠の山」とは詠わず「春日なる御笠の山」と詠っている。実は博多湾の志賀島にも御笠山がある。目の前に御笠の山が二つある。「筑紫なる・・・」ではどちらの御笠山か分からない。宝満山を御笠山に特定するためには、「春日なる・・・」と詠わなければならない。この観点から考えると、「定説」の立場からは「ヤマトなる三笠の山」と詠うのが筋ということになろう。

 私にはもうこれだけで「春日なる三笠の山=福岡県春日市の宝満山」説が正しいと納得できる。しかし、古田さんはさらに確固とした根拠を提示している。ここでもまた「歴史は足にて知るべきものなり。」という秋田孝季(『東日流外三郡誌』寛政原本の編著者)の教えを実行している。

   古田さんは奈良県奈良市へ、実際に三笠山と月の関係を観測しに行く。

 きちんと晴れまして朱雀門の所に陣取って、十人ばかりで観測しました。一目瞭然。三笠の山は奈良では無理がある。

 奈良市の中央、朱雀門から東を視ると、北寄りに若草山があり、その南に春日連峰が連なっている。春日連峰は花山、芳山、高円山などが連なっていますが、主峰が高円山です。高円山に向かってその左下に御蓋山がある。若草山と御蓋山、この二つが三笠山と呼ばれている。

 結局三笠山が二つある。これおかしいと思いませんか!。確かに地名もそうですが、山の名前も同じ音だったり、表記だったりするものが日本列島各地にある。これは別の国でもある。しかし同一地点からみて、同じ名前の山が二つある。そんなことがあると思いますか。わたしは、そんなことは、ありえないと考える。第一不便でしょうがない。名前を付ける意味がない。○○山と言っても、分からない。

 結局資料を調べたり、朱雀門を長年管理しているおじいさんや、平城宮跡博物館のボランティアの説明員のおじいさんなど地元の人の話を詳しく聞いた。それで分かったことは、現地で三笠山と言っているのは、低いほうの御蓋(みかさ)山のことである。この山から月が出ると言っても、余り低すぎて説明が付かない。

(中略)

 二つ三笠山があると言っているが、現地読みの三笠山・若草山と、学説三笠山・御蓋山がある。これが両方あるという意味である。

 学説御笠山もこれで良いかというと、そこから月が出るのは、見る角度や観る位置によって、なかなか難しい。

(中略)

 写真家の入江氏が、撮した写真の中で、両脇に若草山と御蓋山がならび、春日連峰の若草山寄りに月が出ている貴重な写真がある。これはどこから撮った写真かというと、西の京の薬師寺辺りから撮った写真である。もう一つ御蓋山から月が出ている貴重な写真を、「古田史学の会」の会員の方が、見つけて下さった。『歴史の舞台』という入江氏の写真集。ここには中央に御蓋山があって、真上に月が出ている。じゃあ、この写真はどこから撮ったかというと若草山からです。若草山の上に写真機を据え付けて、月と御蓋山を撮った写真である。たいへん苦労し抜いて撮った写真である。

 だから無理をして三笠山(御蓋山)から月が出る写真はあったのですけれども、普通に奈良市内から見たのではどちらも当てはまらない。普通に「三笠の山・・・」から月が出るとは言いにくい。どう観ても春日連峰から月が出るという言い方なら問題がない。
「・・・高円山に 出でし月かも」
「・・・春日の山に 出でし月かも」
なら当てはまるが、どうも「・・・三笠の山に 出でし月かも」とは言えない。

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《「真説・古代史」拾遺編》(83)

地名奪還大作戦(11):淡海の海=博多湾内?(3)


 新庄さんが『その上、「古事記」は博多湾のことを「近つ淡海」ともいっているのです。』と指摘しているので、それを調べてみた。

 『古事記』には「近つ淡海」が10例使われている。初出は序文である。太安万侶は条文で歴代大王の事績をたたえている。その中の若帯日子(わかたらしひこ 成務)と男浅津間若子宿禰(をあさづまわくごのすくね 允恭)の事績を述べている部分に「近つ淡海」だ出てくる。

 「成務記」の前後は「景行記」「仲哀記」である。この二つの記事は、『真説・古代史』の初めに取り上げたように、九州王朝の事績を盗用した説話がふんだんに盛り込まれた長いものである。これに対して「成務記」は、「岩波」でたったの5行の素っ気ないものである。短いので全文提示しておこう。

若帯日子天皇、近つ淡海の志賀(しが)の高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、穂積臣等の祖、建忍山垂根(たけおしやまたりね)の女、名は弟財郎女(おとたからのいらつめ)を娶して、生みませる御子、和訶奴氣(わかぬけの)王(一柱)。故、建内宿禰を大臣(おほおみ)と爲(し)て、大國小國の國造(くにのみやつこ)を定め賜ひ、亦國國の堺、及大縣(おほあがた)小縣の縣主(あがたぬし)を定め賜ひき。天皇の御年、玖拾伍歳(ここのそぢまりいつとせ 95歳 2倍年暦だから48歳)。(乙卯年三月十五日に崩りましき。】御陵は沙紀(さき)の多他那美(たたなみ)に在り。

 若帯日子が国の境界を定め、國造や縣主を任命したと言っている。

 また、若帯日子は「近つ淡海の志賀」で天下を治めたとある。では「近つ淡海」とはどこだろう? 「定説」は「近江国滋賀郡」としたいので、「志賀」を「しが」と訓じているが、これは「しか」と読み、博多湾の「志賀島」とすべきである。その論証が今回のテーマである。

 次は「允恭記」。男淺津間若子宿禰(允恭)は仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略と続く「倭の五王」の時代のヤマト王権の大王である。『古事記』から必要な部分だけを転載する。

男淺津間若子宿禰命、遠飛鳥(とおつあすかの)宮に坐しまして、天の下治らしめしき。 (中略)是に天皇天下の氏氏名名の人等(ども)の氏姓(うぢかばね)の忤(たが)ひ過(あやま)でるを愁ひたまいて、味白檮(あまかし)の言八十禍津日(ことやそまがつひ)の前(さき)に、玖訶瓫(くかべ)を居(す)ゑて、天の下の八十友緒(やそとものを)の氏姓を定め賜ひき。

 男淺津間若子宿禰が様々な団体(八十友緒)の氏姓を定めたと言っている。

 この二つの事績を、太安万侶は次のように簡潔にまとめている。

境(さかい)を定め邦(くに)を開きて、近つ淡海に制(をさ)め、姓(かばね)を正(ただ)し氏(うじ)を撰(えら)びて、遠つ飛鳥に勒(をさ)めたまいき。

 若帯日子の時代も男淺津間若子宿禰の時代も、ヤマト王権は九州王朝に従属している一地方の豪族にすぎない。国造や県主を任命したり、氏姓を定めることができる分際ではない。これらは明らかに九州王朝の事績の盗用である。

 ここで私は、太安万侶が二つの事績を一つにつなげて、「近つ淡海」と「遠つ飛鳥」という対が、いやがうえにも目に付く書き方をしていることに注目したい。どこを原点にして「近い」とか「遠い」と言っているのだろうか。私はここで、太安万侶の出自は九州王朝ではないか、という思いがふつふつと沸いてきた。もしそうなら太安万侶は九州王朝の痕跡を様々に工夫して残しているのではないか、と。

 太安万侶の出自を論じている人はいないだろうかと、調べたら、いました。斎藤里喜代という方の「太安萬侶 その一 出自」という論文に出会った。太安万侶の出自が九州王朝であることを論証している。斎藤さんの論証の核心を紹介しよう。斎藤さんは「天智紀」の次の記事を取り上げている。

(661年)九月に、皇太子、長津宮に御(おわしま)す。織冠(おりもののこうぶり)を以て、百済の王子(せしむ)豊璋(ほうしやう)に授けたまふ。復(また)多臣(おほのきみ)蒋敷(こもしき)の妹(いろと)を妻(めにあは)す。乃ち大山下狭井連(さいのむらじ)檳榔(あじまき)・小山下秦造(はたのみやっこ)田来津(たくつ)を遣して、軍(いくさ)五千餘(いつちぢあまり)を率(い)て、本郷(もとつくに)に衛(まもり)り送らしむ。是に、豊璋が國に入る時に、福信(ふくしん)迎え来、稽首(をが)みて國朝(くに)の政(まつりごと)を奉(あげ)て、皆悉(ことごとく)に委(ゆだ)ねたてまつる。

 661年は九州王朝が白村江の戦いで惨敗する一年前である。人質の百済の王子に軍五千餘を付けて、百済の王にして送り返すことができる人物は、遠征中の天子の留守を預かり、全権を委ねられている九州王朝の皇太子以外に有り得ない。この記事は九州王朝の事績を「天智紀」にはめ込んだものだ。

 従って、多臣蒋敷は九州王朝皇太子の腹心の部下ということになる。その妹を百済王となる豊璋の妻としてスパイがわりにつけて、百済へと送った。斎藤さんはふれていないが、檳榔(あじまき)という名前から、軍の指揮者も九州王朝の将軍であること分かる。(「地名奪還大作戦(8):難波=筑前博多(5)」を参照してください。)

 また、多臣蒋敷について「岩波」の頭注は次のように述べている。

「和州五郡神社神名帳大略注解に引く久安五年多神社注進状には、太安麻呂の祖父とする(岩波日本文学大系『日本書紀・下』P.353頭注)。

 以上から太安麻呂は九州王朝の出である。

 なお、氏(うじ)名の「多」と「太」の関係については、斎藤さんの考察をそのまま引用しておく。

 「太」字は近畿王朝では「太宰府」にも許されなかった文字である。九州では今日でも、官公庁関係は「大宰府」、地元では「太宰府」と争っている。

 「太氏」も安萬侶の登場までは「多氏」であり、宝亀元年十月以後再び「多氏」に戻ると『続日本紀』補注3・三〇にある。

 私は「多氏」ではなく「太氏」が本当の字ではないかと思っている。そして「安萬侶」の「萬侶」表記も、九州王朝ではざらにあった表記ではないかとあたりをつけた。
 さて、太安万侶は飛鳥(奈良)で『古事記』の編纂をしている。常識では「近つ飛鳥」・「遠つ淡海」(「淡海」が「近江」だとしても)でなけれればなるまい。しかし、太安万侶にとって原点は筑紫(ちくし)。「近つ淡海」であり「遠つ飛鳥」でなければならない。

 『古事記』本文に「近つ淡海」が初めて現れるのは「大年神の神裔」の段である。

次に大山咋(おおやまくいの)神、亦の名は山末之大主(やますゑのおほぬしの)神。この神は、近つ淡海国の日枝(ひえ)の山に坐し、また葛野(かつの)の松尾に坐して鳴鏑(なりかぶら)を用(も)つ神なり。

 「定説」では「淡海=近江」であるから、「日枝の山」を比叡山とし、大山咋神を祀っているのは近江国滋賀郡日吉神社であるとしている。(「日吉」は「ひえ」と読む場合も「ひよし」と読むこともある。)

 「近つ淡海=筑紫」に大山咋神を祀っている神社はあるか。吉野ヶ里の平面図をもう一度掲示する。

吉野ヶ里平面図
(クリックすると大きくなります。)

 図の左側、外濠と一キロ甕棺との間に日吉神社がある。祭神は、もちろん大山咋神。

 さて、冒頭に紹介した新庄さんの文章は次のように続く。

 では余談ながら「遠つ淡海」とはいずれかと問えば、ありました。『古事記』に対馬の県の直「遠つ江」の国造の祖なりとありました。これは思うに対馬の天神発祥の地、浅茅湾のことをいうのではないかと思い至りました。この時代は浅茅湾のことを、「遠つ淡海」といったのではないかと思います。

 これは残念ながら新庄さんの誤読。ここで新庄さんが利用しているは『古事記』の「天の安河の誓約」の段の次のくだり。

此の後に生まれし五柱の子の中、天菩比(あめのほひの)命の子、建比良鳥(たけしらとりの)命(此は出雲國造、无邪志國造、上菟上國造、下菟上國造、伊自牟國造、津嶋縣直、遠江國造等が祖なり)

 「直(あたい)」も「国造(くにのみやっこ)」も「姓(かばね)」であり、津嶋縣直と遠江國造は別人として併記されている。これを新庄さんは「津嶋縣直が遠江國造」と誤読した。従って、新庄さんの説は成り立たない。しかし私は、ここで一つ気づいたことがある。新庄さんはいま参考にしている論文の冒頭で

「淡海」とは今でも滋賀県近江と理解されています。近江と書いてどうして「オオミ」と読めるのでしょうか。「キンコウ」か「チカエ」としか私には読めないのですが、頭の悪いせいでしょうか。

と誰もが不審に思っていることを率直に述べている。上の『古事記』の一文から、私は「近江」という表記が作られた経緯が分かったと思った。

 『古事記』では「遠江」が現れるのは上記の原注の中だけで、後どこにもない。もちろん「遠つ淡海」もない。「岩波」は頭注で「原注」内の国々の読みとその国の比定を行っているが、「出雲」と「遠江」には注がない。この二国は注を付けるまでもないということだろう。つまり、「遠江」は「とおとおみ」と読むのだというわけだ。しかし、「近江」とおなじで、これは「トオエ」とか「トオツエ」としか読めない。

 8世紀の吏官は次のように考えた。
 「近つ淡海」があるのだから「遠つ淡海」があってもよいはずだ。しかし、いくら探してもない。「遠江」が似ている。それを「遠つ淡海」ということにしよう。そうすると逆に、「近つ淡海」を「近江」と書かなければつじつまが合わない。従って「近江」は「ちかつおうみ」、略して「おうみ」と読むことになる。
 これは単なる憶測に過ぎないが、当たらずといえども遠からず、ではないだろうか。

 ちなみに、『国造本紀』には「遠江国造」はない。代わりに「遠淡海国造」がある。もちろん「近江国造」や「近淡海国造」はなく、「淡海国造」がある。

《「真説・古代史」拾遺編》(82)

地名奪還大作戦(10):淡海の海=博多湾内?(2)


 「淡海の海」は琵琶湖ではないことがはっきりしたが、ではそれはどこの海なのだろうか。いろいろな仮説が出されている。


 最初に問題提起をされた木村さんは、万葉集の中の、「おふみ」・「ちどり」「いさなとる」を含む全ての歌を調べて、「淡海の海」が琵琶湖ではあり得ないことを確認している。そしてその海は博多湾近辺の海ではないかとしているが、はっきりとした論証はない。新庄さんもこの説を論じている。


 古田さんは『和名抄』にある邑美(おふみ)に着目して、鳥取県を候補とし、「いにしえ思ほゆ」を倭国誕生(大国の国譲り)から倭国の滅亡までの回想という壮大な解釈をしている。しかし、後に阿波近海と考えを変えているという。(この説の論文を読んだことがないので、その根拠は不明です。)


 西村秀己・水野孝夫さんは『倭姫命世記』に見える「淡海浦」の地勢記事を根拠に、熊本県八代市の球磨川河口付近という説を提示している。


 梨田鏡さん「會見の海」(鳥取県美保湾)を候補地をとしている。(この説の論文も読んだことがないので、その根拠は不明です。)

 これらいずれの説も決め手に欠けているようだ。表題に「?」を付けたのはそれが理由でした。しかし私は、1の「博多湾内」説が妥当だと考えている。そこで新庄さんの論証を検討しようと思ったが、今回も新庄さんの論証には飛躍や論証なしの断定が多々あった。特に『万葉集』の中の歌を用いた論証にその傾向が強い。その瑕疵を修復できないかと、いろいろ調べているうちに数日が過ぎてしまった。『万葉集』の中には「淡海の海」と言う表記を持つ歌は8例あるが、その海がどこかを比定できる歌はないようだ。しかし、新庄さんが提示している『古事記』の記事による論証は有効だと思われる。それを分析してみよう。

 淡路島の多賀に、伊弉諾命が祀られていると聞きます。これまで、関西の淡路島と混同してきたようですが、やはり伊弉諾命は発祥の地、博多湾内能古島が本拠であり、『古事記』真福寺本には「淡海の多賀」となっている由。今、滋賀県にある有名な「お多賀さん」は、大和政権の手によって移動させられたものでありましょう。

 『記紀』の国生み神話で最初に登場するのが「淡道之穗之狹別(あわじのほのさわけ)嶋」(『日本書紀』では「淡路洲」)。これに兵庫県のあの島に比定して、ヤマト王権はその島名を「淡路島」とした。それ以前はなんと呼ばれていたのだろうか。

 『古事記』の「須佐之男命の涕泣」の段の最後に「故(かれ)、その伊邪那岐大神は、淡海の多賀に坐(ま)すなり。」とある。「淡海」では淡路島(兵庫県)は該当しない。そこで「定説」(というよりヤマト王権が)はこの「淡海」を近江としている。近江の多賀大社に伊邪那岐・伊邪那美が祀られている。

 『日本書紀』では「是を以って幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つ)りて、寂然(しずか)に長く隠れましき。」(6段)とある。この『日本書紀』の記事を受けて、淡路島(淡路市多賀)に伊弉諾命神宮(「伊弉諾命」は『日本書紀』での表記)が設けられたのだろう。『日本書紀』にはその場所は淡路のどことも書いてないのに、なぜか、「多賀」なのだ。「多賀」という地名が先にあったのか後から地名を付けたのか分からないが、神名は『日本書紀』の表記に従っているのに、『古事記』の記事と整合性をもたせようと苦心したのだろう。

 『「古事記」対「日本書紀」』 で確認したように、『記・紀』の史料性格から、「古事記」と「日本書紀」の内容が異なる場合は「古事記」の方を正とするのが妥当である。しかし、いま扱っている問題では、どちらをとっても同じである。「地名奪還大作戦(1)」でみたように、謡曲『淡路』が描く初源の国生み神話では、国生みの舞台は「淡路島=能古島」であった。伊邪那岐命・伊邪那美命を祀る神社は全国中にあるが、伊邪那岐命・伊邪那美命を祀るのには博多湾周辺こそふさわしい。つまり、『古事記』が言う「淡海の多賀」の「淡海」とは博多湾周辺のことである。難波の海(博多)から志賀島に至る湾内の海が「淡海の海」。そして、この淡海を舟が行き来する道を「淡路」というのであろう。なお、福岡市南区に多賀という地名がある。
《「真説・古代史」拾遺編》(81)

地名奪還大作戦(9):淡海の海=博多湾内?(1)


 「地名奪還大作戦」に戻ります。今回も「?」付きですが、この「?」の意味については後ほどはっきりさせます。

『万葉集』巻3、266番
柿本朝臣人麿の歌一首
淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

あふみのうみ ゆふなみちどり ながなけば こころもしのに いにしへおもほゆ

 この人口に膾炙(かいしゃ)された歌で、定説は「淡海の海=琵琶湖」としている。まずこの定説がペケであることをはっきりさせよう。(この問題はいろいろな人が論じていますが、主として古田さんの論考〔講演録〕を用います。)

 「あふみのうみ」と訓読している原文は「淡海乃海」。「淡海」という地名は原文で「淡海國」とも使われている。どちらの場合も「淡海」を「近江」と読み下している場合もある。つまり、「淡海=滋賀県」と主張している。だから「淡海乃海=琵琶湖」というわけだ。しかし、詳しい論証をはぶくが、「淡海國」が使われている歌の内容から、「淡海國」は「近江の国」で間違いない。つまり滋賀県を指している。これに対して、「淡海乃海」の場合は「近江(滋賀県)」ではない。それを如実に示している歌が次の歌だ。

『万葉集』巻2、153番
太后(おほきさき)の御歌一首
鯨魚取り 近江の海を 沖放けて 漕ぎ来る船 辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫の 思ふ鳥立つ

いさなとり あふみのうみを おきさけて こぎきたるふね へつきて こぎくるふね おきつかい いたくなはねそ へつかい いたくなはねそ わかくさの つまの おもふとりたつ

 「岩波」はこの歌のを次のように訳している。

「淡海の海の遠く沖辺を漕いで来る舟よ。岸辺について漕いで来る舟よ。沖の櫂もひどく水を撥ねないでおくれ。岸辺の櫂もひどく水を撥ねないでおくれ。なつかしいわが夫の愛していた烏が、驚いて飛び立つから。」

 この歌の作者とされている太后とは天智の皇后を指している。天智の殯(かりもがり)の時に作った歌とされている。しかし、太后の歌としては内容がおかしい。

 まず定説の読み下しは、「鯨魚取り 近江の海を ・・・」としているが、近江の海(琵琶湖)では鯨は捕れない。「鯨魚取り」を用いているどの歌も海が舞台になっている。このことは、「鯨魚取り」は海の枕詞だから当たり前のことなのだが、定説論者は次のようにこじつける。「海にかかる枕詞だから、「海」という字を引き出すのに使われている。実態は琵琶湖でもいっこうにかまわない。」と。しかし、枕詞とはいいながら、読む人は「鯨の捕れる淡海の海」と受け取るのが自然ではないだろか。

 この歌の舞台が琵琶湖ではあり得ないことが、詞書にとらわれることなく、この歌の内容を解読することによってはっきりしてくる。

 実は、上の「定説」による訓読には二点、例のお得意の原文「改定」が行なわれている。「船」が2度出てくるが、最初の方は原文では「舡(こう)」だ。もう一つ、「夫(つま)」は原文では「嬬」。この二つの「改定」に対して、古田さんは次のように批評している。

 ところが「若草の夫」と書いてあるところは、原文は「若草の嬬」で「嬬」である。女編に「需」と書いてあるから、ここは当然のことながら女性である。ところが前書きで天智の妻の歌にしてしまったから、ここは男にしなければならないから、読み換えて「夫」と読まなければならなくなった。しかし女編の「嬬」だから、女性と考えるのが自然である。特に「若草の嬬(つま)」と言えば、これを特に天智にすれば、彼は死ぬときは髭の生えたむさ苦しい私より年輩の男です。そんな男を「若草の嬬(つま)」と言いますか。言うのは勝手だと言っても、やはり「若草の嬬(つま)」と言えば、どう見ても結婚して間もない妻と見るのが自然です。そのような結婚して間もない妻の胸が、またざわざわと痛むからあんまり櫂の音を起てるな。

 また船という言葉ですが、この場合同じ船と解釈されていますが、一番目の船は、原文は「舡」です。これを諸橋大漢和辞典を見ますと、どんな船を「舡(コウ)」と言うか。「舡」の意味は揚子江の船をいう。ジャンク船。これもやはり漢字の国、中国らしいですね。どの船でも使ってはいけない。ジャンク型の船をいう。船は黄河でも使える。そうしますと、ここでは沖を通っている船は、呉のスタイルの船が通っている。船の方は小さい船でしょう。その音を若妻に聞かせるな。

 ここまでくれば、もうお分かりですね。白村江でたくさんの若い兵士が海に沈んだ。死んだ。しかしぜんぶ海に沈んだわけではない。捕虜になった者もいる。その捕虜になった者が、さきほどお話ししましたように、同じように中国・呉越に連れて行かれた。そのような歌も万葉に別にある。

 同じようにこの歌でも、夫が中国・呉越に連れて行かれた妻がいる。そのような若い妻がいつも夫の帰りを待っている。そのことを漁師たちは知っている。だからあまり櫂の音をたてるなよ。特に呉のほうから来た「舡(コウ)」の櫂の音をあまりたてるなよ。そうでなくとも今帰るか、今帰るかと待ち望んでいる若草の妻の胸が、また一段と騒がしくなるから。

 凄い歌ですね、これは。『万葉集』に白村江の歌がないとは、大ウソだった。このような素晴らしい歌は『万葉集』ではあまり見たことはない。しかもそれが、むつくけき漁師さんたちの歌であった。しかもこれだけ繊細なこまやかな心を持って、帰らざる夫を待ち続ける妻に対して深い思いやりをしている歌だった。

 けっきょく種は割れたのです。「淡海」を「近江」だけに結びつけて天智の奥さんの歌に取り替えてしまった。あとは合わないのは当たり前ですよ。それを合わないのを、万葉学者は、ここだけ「鯨魚(いなさ)取り」は枕詞だから、これは関係ない。そのように逃げていた。しかし他の枕詞の「鯨魚(いなさ)取り」は、すべて海の歌です。ですから「鯨魚(いなさ)取り」の歌は、すべて海の歌と考えるのが筋です。そうしますと、このような素晴らしい歌が表れてきた。「皇(すめろぎ)は神にし座せば・・・」も素晴らしい歌ですけれども、それとはまた違う素晴らしい名歌です。

 実は「淡海の海」問題の発端は、冒頭に掲げた歌だった。古田史学会の木村健という方が、「私は琵琶湖の側に釣りのため小屋(別荘)を持って住んでいるが、琵琶湖では千鳥を見たことがない。この歌は琵琶湖の歌と言われているが、琵琶湖の歌ではないのではないか。」と問題提起した。この千鳥問題は、「千鳥にも多くの種類があって、川や湖にもいる」ことが分かって一段落したが、それが「鯨魚取」問題へと発展し、古田さんの見事な解読につながったのだった。

 さて、「淡海の海」が琵琶湖ではないのだから、冒頭の人麻呂の歌の解釈も、近江京(天智)の廃墟を悼んだとする「定説」とは違ったものにならざるを得ない。これは、白村江で敗れて滅亡した九州王朝をしのんで詠んだ歌だった。

 ところで、上記の木村さんの家系が、偶然にも、古田さんの解読の正当性を保証する証拠の一つだったという、実に驚くべきおまけが付いていた。

 それで一言つけ加えて言っておきますが、白村江の戦いや『万葉集』に関連して木村さんのご先祖は凄(すご)い御先祖です。木村さんの御先祖は、白村江の戦いで負けて中国・唐の捕虜になって、中国南部の越の国に連れて行かれた。そこで現地の人と結婚して子どもが産まれた。混血児ですね。その混血児となった人が大きくなるに従って、「自分の父の国が見たい。」と言って日本に来た。その人が木村さんの先祖です。その御先祖が「越智」と名乗り、その子孫が戦国時代に名前を変えて「木村」を名乗られた。そういう凄(すご)い伝承を持つ家系です。

 初めて聞いたときは「なんとばかなことを言われる。」、そう思っていた時期もありましたが、しかし馬鹿なことではなかった。これは白村江で捕虜となった人が歌った歌もありますし、これから述べる問題(上で論証した「鯨魚取」問題のこと)もある。

《「真説・古代史」拾遺編》(80)

『魏志倭人伝』の和訳文(3)


 景初二年六月(237)、倭の女王は、大夫の難升米(なんしようまい)らを帯方郡に遣わし、天子に朝見して献上物をささげたいと願い出た。太守の劉夏(りゅうか)は役人と兵士をつけて京都(みやこ)まで案内させた。その年の十二月、倭の女王へのねぎらいの詔書(みことのり)が下された。

「親魏倭王・卑弥呼に制詔(みことのり)を下す。帯方太守の劉夏が使者をつけて汝(なんじ)の大夫の難升米、副使の都市牛利(としぎゅうり)を護衛し、汝の献上物、男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布(はんぷ)二匹二丈を奉じてやってきた。汝ははるか遠い土地におるにもかかわらず、使者を送って献上物をよこした。これこそ汝の忠孝の情のあらわれであり、私は汝に大いに心を動かされた。いま汝を親魏倭王となし、金印紫綬(しじゅ)を仮授するが、その印綬は封印して帯方太守に託し、代って汝に仮授させる。汝の種族のものたちを鎮(しず)め安んじ、孝順に努めるように。汝の送ってよこした使者、難升米と牛利とは、遠く旅をし途中苦労を重ねた。いま難升米を率善(そつぜん)中郎将となし、牛利を率善校尉となして、銀印青綬を仮授し、引見してねぎらいの言葉をかけ下賜品を与えたあと、帰途につかせる。いま絳地(コウチ)交龍文の錦五匹、絳地縐粟罽(スウゾクケイ 毛織物)十張、蒫絳(センコウ つむぎ)五十匹、紺青(コンジョウ)五十匹をもって、汝の献上物への代償とする。加えてとくに汝に紺地句文(コウジコウモンキン)錦三匹、細班華罽(サイハンカケイ 毛織物)五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二ふり、銅鏡百枚、真珠と鉛丹(エンタン)おのおの五十斤ずつを下賜し、みな箱に入れ封印して難升米と牛利に託し、帰ったあと目録とともに汝に授ける。これらのすべてを汝の国中の者たちに示して、朝廷が汝らに深く心を注いでいることを知らしめよ。それゆえことさらに鄭重に汝に良き品々を下賜するのである。」

 正始元年(240)、帯方太守の弓遵(きゅうじゅん)は、建中校尉の梯儁(ていしゅん)らをおくり、詔書と印綬とをたずさえて倭国に行くと、倭王に位を仮授し、同時に詔とともに金帛、錦罽(キンケイ)、刀、鏡、采物(サイブツ 身分をあらわす采〔いろどり〕のある旗や衣服)を下賜した。倭王はその使者を通じて上表し、厚い詔に対する感謝の気持を表わした。
(卑弥呼に詔書を与えた明帝は景初三年正月に急死した。その喪があけてから、魏使が倭国に遣わされた。)

 同四年、倭王はふたたび大夫の伊声耆(いせいき)、掖邪狗(えきやこ)ら八人を使者に立てて、奴隷、倭錦(ヰキン)、絳青縑(コウセイケン)、緜衣(メンイ)、帛布(ハクフ)、丹(タン)、木〔犭付〕(モクフ)、短弓矢(タンキュウシ)を献上した。掖邪狗らはそろって率善中郎将の印綬を賜わった。

 同六年、詔があって倭の難升米に黄色の幢(ドウ 旗さしもの)が下賜され、帯方郡を通じて仮授された。

 同八年、〔弓遵が韓との戦いで戦死して後任の〕太守の王頎(おうき)が帯方郡に赴任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男子の王・卑弥弓呼(ひみこか)ともともと不和だったのであるが、二国の間で戦闘が行なわれているということを、倭載(ゐさい)・斯烏越(しおえつ)らを帯方郡に派遣して、報告させた。帯方郡から塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちようせい)らが遣わされ、そのついでに〔六年に下された〕詔書と黄色の幢をたずさえて難升米に仮授するとともに、檄文(ふれぶみ)によって両国が和解をするよう教えさとした。

 卑弥呼が死ぬと、大規模に冢(チョウ 塚)が築かれた。その直径は百余歩(30~35メートル)。奴碑百人以上が殉葬された。つづいて男王が立ったが、国じゅうの者が服従せず、殺し合いがつづいて、このとき、千人以上の死者が出た。そこで卑弥呼の血族の娘、十三歳の壹与(いちよ)が王として立てられ、国の中もやっと安定した。張政らは檄文によって壱与に立派に政治を行なうよう教えさとした。

 壹与は、倭の大夫で率善中郎将の掖邪狗ら二十人を遣わして、帯方郡へ帰る張政らを送らせた。使者たちはそのまま帯方郡から中国の朝廷におもむいて男女の奴隷三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠(コウジュ めのう)二個、異文(イモン)の雑錦二十匹を貢物としておさめた。

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 以上で「魏志倭人伝」は終わりです。最後に、『「邪馬台国」はなかった』から、邪馬壹国や壹与の「壹」の字の意義についての論考を取り上げよう。ここでも古田さんの論理に遺漏はない。「邪馬壹国」→「邪馬臺国」という「改定」のバカバカしさをさらに際立たせている。

 「壹」という字には「天子に対し、二心なし」という意味が込められている。それには歴史的由来がある。まず、禹のはじめた夷蛮統治の基準「五服」の制の中で用いられ、それは周代に「六服」「九服」の制としてうけつがれた。この古制は、陳寿の「東夷伝序文」にも最初に特記されている。

「六服」(『周礼』秋官、大行人)
 邦畿は方千里、其の外は方五百里、之を侯服と謂ふ。歳に壹見す。其の貢は祀物。
 又、其の外、方五百里。之を甸(でん)服と謂ふ。二歳に壹見す。其の貢は嬪(ひん)物。
 又、其の外、方五百里。之を男服と謂ふ。三歳に壹見す。其の貢は器物。
 又、其の外、方五百里。之を采服と謂ふ。四歳に壹見す。其の貢は服物。
 又、其の外、方五百里。之を衛服と謂ふ。五歳に壹見す。其の貢は材物。
 又、其の外、方五百里。之を要服と謂ふ。六歳に壹見す。其の貢は貨物。


 このように、諸侯・夷蛮が中国の天子に貢献することを「壹見」の用語をもってあらわしている。このような『周礼』の用字法は、のちの史書にもうけつがれた。

三歳に壹朝す。(『漢書』西南夷両えつ朝鮮伝)
数歳に壹反す。(『漢書』地理志)
数年にして壹至す。(『漢書』西域伝)


 夷蛮の王の、中国の天子に対する貢献について、いずれも「壹」字を用いた熟語で表現している。

 「倭人伝」中にも、この歴史的由来を負うた用字法が用いられている。

其の四年、倭王、復た使大夫伊声音・掖邪狗等八人を遣はし、・・・掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝す。

 これは、倭人が禹の遺制・感化を守り、「中国正統の天子」にむかって「遠夷朝貢」してきたことを表す記述である。

 こうした「壹」の字の意義に対して、『三国志』において、一番憎悪された文字として「貳(に)」が使用されている。「壹」に対して、「二心あり」という意味合いである。魏の同時代は、三国相対立し、離反・内応が絶えることのない状況にあった。この「貳」を悪徳としてにくむ時代背景があったのだ。したがって、『三国志』中には、この文字が頻出している。古田さんは8例抜き出している。

(1)
 今仁等、重囲の中に処(お)りて死を守りて貳無き者なり。<魏志〉
(2)
 欽も亦感戴し、心を投じて貳無し。<魏志〉
(3)
 比能は別の小帥瑣奴(さぬ)をして豫(よ)を拒ましむ。豫進んで討ち、破りて之を走らしむ。是に由りてを懐く。〈魏志〉 (4)
 其の国を挙げ、孤を諸葛亮に託するに及びて、心神貳無し。〈蜀志〉
(5)
 民夷、業に安んじ、或(うたが)ひ、攜貳(けいじ そむきはなれる)する無し。〈呉志〉
(6)
 姦讒(かんざん よこしまにそしる)、並び起り、更に相陥懟(かんたい おとしいれ、うらむ)し、転じて嫌貳(けんじ うたがう)を成す。〈呉志〉
(7)
 孫綝(そんりん)、政を秉(と)り、大臣疑貳(ぎじ うたがい、はなれる)す。〈呉志〉
(8)
 甘心景従、衆、攜貳する無し。〈呉志〉


 三国時代の支配者がいかに臣下や被統治階級の「貳」をおそれ、不安としていたかがありありとあらわされている。もちろん現在でも、どこの国でも、支配階級は常に被支配階級の抵抗権行使におびえて、それに対する弾圧に心を砕いている。

 このように警戒され、排斥された〝悪徳″である「貳」の反対語が「壹」である。すなわち、「貳無し」にとどまらず、積極的に臣下最上の徳目をしめす言葉こそ「壹」にほかならない。「貳」がいつも警戒されねばならない政治状況下において、倭国の「遠夷朝貢」が魏朝の特別の歓迎をうけたのもむべなるかなである。中国の天子に対する倭王の二心なき忠誠心が、『周礼』の「六服 - 壹見」以来の由緒深い「壹」の字をもって、賞揚されたわけである。

 「遠夷朝貢」を賞されて、「壹」の字を名前に付されたのは「壹与」だけでない。『魏略』に次の一文がある。

 西且弥(しょび)国・単桓(たんかん)国・畢隆(ひつりく)国・蒲隆(ほりく)国・烏貪(うどん)国、皆、車師後部王に并属(へいぞく)す。王、干頼(うらい)城に治す。魏、其の王壹多雑(いちたざつ)に守魏侍中を賜ひ、大都尉と号せしめ、魏王の印を受けしむ。

 周辺の国々を統属し、朝貢してきた車師後部の王に対し、「壹与」と同様に、魏朝は「壹多雑」と「壹」の字を与えている。東西、軌を一にしている。

 前者は「多雑」=「各種の小国」、後者は「与」=「幾多の与国」の字に頭に「壹」字が付されている。すなわち、それらを統属して、魏晋朝の天子に対し、二心なく忠節をつくしてきた、という意義があらわされている。

 このようにしてみると、東夷伝中「天子にむかって二心なき朝貢」という事実が特筆大書された倭国(「東夷伝」で天子からの長文の詔書が下されたのは倭国だけである。)に対し、「邪馬壹国」という表記が用いられたのは、けっして偶然ではない。

《「真説・古代史」拾遺編》(79)

『魏志倭人伝』の和訳文(2)


 倭国では男子は、大人も子供も、顔や身体に入れ墨をしている。周時代ころから、倭国の使者が中国にやってくるときには、みな自分のことを大夫(たいふ)と称している。夏(か)王朝の主君であった少康(しょうこう)の息子が会稽に封ぜられたとき、民が蛟龍(こうりゅう)の害に悩んでいたので、髪を切り身体に入れ墨をして、蛟龍の害を避けさせた。いま倭の水人(あま)たちは盛んに水に潜って魚や蛤(かい)を捕っているが、身体に入れ墨をするのは同様に大きな魚や水禽(すいきん)を追いはらうためであって、それが後にだんだん飾りとなったのである。国ごとに入れ墨がそれぞれ異なり、左がわにあったり右がわにあったり、あるいは大きかったり小さかったりし、尊卑による区別がある。

 倭までの道のりを計ってみると、会稽東治(とうち)の東方に位置する。

会稽の東

 その風俗は淫らではない。男子は冠をつけず、木綿で頭をしばって髷を作る。その着物は横に幅広いきれをただ結び合わせるだけで、縫い合わせたりすることはほとんどない。女子は、ざんばら髪でその一部をたばねてまがった髷を結い、着物は単被(ひとえ)のようなものの中央に穴をあけ、その穴に首を通して着るだけである。

 禾稲(かとう 稲)や紵麻(ちょま 麻)を植え、蚕をかってそれを糸に紡(つむ)ぎ、目の細かい紵(ちょ 麻布)や縑嫌緜(かとりぎぬ)を産出する。その土地には、牛、馬、虎、豹、羊、鴇(かささき)はいない。兵器として、矛、楯、木弓を用いる。木弓は下が短くて上が長く、竹の箭(やがら)に鉄製の鏃(やじり)をつけたり骨製の鏃をつけたりする。こ地の産物は、儋耳(たんじ 広東省内の郡名)や朱崖(しゅがい 広東省内の郡名)と同じである。

 倭の土地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べ、誰もがはだしである。ちゃんとした家に住み、父母兄弟で寝間や居間を異にしている。朱や丹をその身体に塗るが、それはちょうど中国で白粉を身体に塗るのに用いるのと同様である。飲食には?籩豆(へんとう たかつき)を用い、手づかみで食べる。

 死ぬと、棺に収められるが槨(かく)はなく、土をつんで冢(ちょう 塚)を作る。死ぬとすぐ十日余り喪に服し、その間は肉を食べず、喪主は哭泣し、ほかの者はそのそばで歌ったり踊ったりして酒を飲む。埋葬が終ると、家じゅうの者が水中に入って身体を洗う。その様子は中の練沐(れんもく)とよく似ている。

 倭の国の者が海を渡って中国と往来するときには、いつも一人の者をえらんで、髪の手入れをせず、しらみも取らず、衣服は汚れたままで、肉を食べず、婦人を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを持衰(じすい)と呼ぶ。もしその旅が無事であれば、皆でその者に家畜や財物を与える。もし病気が出たり、思いがけない災害にあったりすれば、人々はその者を殺そうとする。彼の持衰が充分に謹しみ深くなかったために事故が起ったという理由からである。

 真珠・青玉が産出する。山には丹がある。木材には枏(だん クス)・抒(ちょ トチ)・予樟(クスノキ)・楺(ぼう)・櫪(れき)・投・橿(きょう)・烏号(うごう ヤマグワ)・楓香(オカツラ)がある。また竹には篠、簳(かん)、桃支(とうし)がある。薑(きょう ショウガ)、橘、椒(しょう サンショウ)、蘘荷(じょうか ミョウガ)などが生えるが、それらが滋味であることを知らない。獮彌猴(びこう オオザル)や黒雉(こくち)がいる。

 その地の風習として、なにかを始めたり旅行をするときなどは、必ず骨を焼いて卜(ぼく)し、吉凶を占う。卜に先だって占う内容を告げるが、そのときの言葉は中国の命亀(めいき トに先だって占いの内容を亀甲に告げる)の法と同じで、焼いてできた割れ目を見て吉凶の兆を占う。

 倭人の会合の場での席次には、父子や男女の区別がない。人々は生れつき酒が好きである。大人に敬意を表すときにも、ひざまずいて拝する代りに拍手をするだけである。

 人々は長生きをし、百歳だとか八、九十歳の者もいる。
(裴松之〔はいしょうし〕の注がある。「魏略に曰(いわ)く『其の俗、正歳四節を知らず。但々(ただただ)春耕、秋収を計りて年紀と為す』」いわゆる「2倍年暦」である。50歳と45歳とかで、弥生人の人骨がしめす実際の寿命とよく符合している。)

 風習として、国の大人たちは四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ者がいる。婦人たちは身もちがよく、嫉妬することもない。盗みをせず、訴訟ざたは少ない。法を犯す者がいると、軽い場合にはその妻子を没収し、重い場合には一門全体が根絶やしにされる。尊卑についてはそれぞれ序列があって、その関係はよく守られている。

 租税や賦役の徴収が行なわれ、その租税を収める倉庫が置かれている。国々に市が開かれ、それぞれの地方の物産の交易が行なわれて、使大倭(したいゐ)がその監督の任に当っている。

 女王国より北の地域には、特別に一大率(いちだいそつ 検察機関)が置かれて、諸国を監視し、諸国はそれを畏れている。一大率は常に伊都の国にその役所を置いている。国々には中国の刺史(しし)のような役割を果たす行政官がいる。

 倭王が京都(みやこ)や帯方郡や韓の国々へ使者をおくる場合、あるいは逆に帯方郡からの使者が倭に遣わされるときにはいつも港で荷物を広げて数目を調べ、送られる文書や女王のもとにもたらされる賜わり物にまちがいがないように点検をする。

 下戸の者が道で大人に会うと、後ずさりをして草の中に入り、言葉を伝えたり説明したりするときには、うずくまったりひざまずいたりして、両手を地につき、大人に対する恭敬を表わす。答えるときには「噫(あい)」といい、中国で承知しましたというのとよく似ている。

 その国では、もと男子が王位について七、八十年(これも2倍年歴)もつづいたが、その王がなくなった後、倭の国々に戦乱がおこって、互いの戦闘が多年(7,8年)続いた。そこで国々は一人の女子を王として共立した。その者は卑弥呼(ひみか)と呼ばれ、鬼道をよくし、人々の心をつかんだ。彼女はかなりの年齢になっても、夫はなく、その弟が国の統治を輔佐した。王位に即いて以来、彼女に目通りした者はほとんどない。千人の侍女を自分のまわりに侍(はべ)らせ、男子がただ一人だけいて、飲食物を運んだり、命令や言上の言葉を取り継いで、居処に出入りした。宮室や楼観や城柵がいかめしく設けられている。そして常に武器を持った兵が守衛に当っている。

 女王国から東に一千余里の海を渡ると、別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。さらに侏儒(しゅじゅ)国がその南にあり、そこの者は身の丈が三、四尺、女王国から四千余里の距離にある。裸国(らこく)・黒歯(こくし)国がさらにその東南にあり、船で一年の航海(2倍年歴なので実日程は「船行半年」)をしてそこに行きつくことができる。

五点論証
(侏儒国・裸国・黒歯国を真正面から取り上げた人は、古田さん以外にいない。下に、『古代史の未来』から関係の2章を転載する。)
(画像はクリックすると大きくなります。)


 いろいろな情報を総合してみると、倭の地は、大海中の孤立した島の洲の上にあって、国々は連なったり離れたりしながら分布し、ぐるっとめぐると五千余里ほどである。


五点論証 ― 倭人伝は南米大陸まで記述している

 倭人伝にまつわる重要な論証として、《五点論証》について確認しておこう。

 倭人伝の目的は「裸国・黒歯国」の記述にある。「女王国(邪馬壱国)」は途中経過地に過ぎない。実際、倭人伝に特記された行路記事は女王国で終結してはいない。「(侏儒国)女王を去る四千余里」の一句がある。これが不可欠のキイ・ワードだ。

 ここで、倭人伝内の行路記事の筋道を記そう。

A 洛陽から帯方郡まで
 魏・西晋朝には周知の行路範囲だから、歴史書にはあえて書く必要がない。
B 帯方郡から女王国まで
 一万二〇〇〇里(各部分里程も併記)。
C 女王国から侏儒国まで
 四〇〇〇里。
D 侏儒国から裸国・黒歯国まで
 船行一年。

 すなわち、倭人伝の目的は「洛陽から裸国・黒歯国までの全行程を記す」ことにあった。史記・漢書が大宛列伝や西域伝によって西方への行路を記し、「日の没する処に近し」に至っているのに対し、三国志は「日の出づる処」に当たる〝東の果て″への行路を記すことを目指したのだ。

 簡略化すれば、倭人伝には五つの原点が存在すると言える。
第一原点
 洛陽(「臺に詣る」倭人伝末尾)
第二原点
 帯方郡(「郡より倭に至る」倭人伝冒頭)
第三原点
 女王国(邪馬壱国)
第四原点
 侏儒国
第五原点
 裸国・黒歯国

 これが《五点論証》であり、倭人伝の骨格をなしている。すなわち「侏儒国」「裸国・黒歯国」を主柱に据えずしては〝倭人伝を論じたことにはならない″のである。

 さらに重大な視点がある。倭人伝に、「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」と記されている。「千余里」の地は「短里」であるから、関門海峡付近だ。だから「皆倭種」とは、瀬戸内海領域のこと、そう考えてきた。しかし、一昨年以来、新たな概念へと進んだ。「侏儒国」も「裸国・黒歯国」も、「皆倭種」なのではなかろうか、と。

 後述の《四柱論証》、第-にエバンズ説、第二に私の説、第三にアラウージョ説、第四に田島説、そのいずれもの帰着するところ、それは当地(南米北・中部)の原住民(インディオ)が日本列島人と〝血縁の人々″であることを示していた。とすれば、右の新概念もまた、一笑に付し得ないのではあるまいか。


黒潮 ― 縄文人が太平洋を渡った〝四つの証拠″

 倭人伝の中に女王国(邪馬壱国)以外に「短里」で指定されている、唯一の重要な国がある。「侏儒国」だ。この国は二つの文脈で指定されている。

A
 「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。また侏儒国あり、その南にあり」
B
 「人の長(た)け三・四尺、女王を去る四千余里」

 右の二つの情報を「短里」で理解すると、「千余里」の地は関門海峡、「四千余里」の地は足摺岬近辺(高知県)となる。そして倭人伝には、この「侏儒国」を原点として、〝東の果て″なる「裸国・黒歯国」への行路が描かれている。

「またその東南にあり。船行一年にして至るべし」

「一年」は「二倍年暦」で半年に当たる。日本列島とサンフランシスコの間が約三カ月前後のコースであることは、すでにくりかえされた航海実験によって知られていた。したがって黒潮に乗じて六カ月行くところ、それは南アメリカの西海岸北半部、エクアドル・ペルーの地である。これが私の判断だった。

 この帰結が得られたのち、私は先行研究者の存在を知った。エストラダ(エクアドル)・エバンズ夫妻(ワシントンDC、スミソニアン)の研究である。エクアドル・バルディビア遺跡出土の土器群が日本列島の九州や三浦半島(関東)の縄文土器と類似していることから、「縄文人の南米渡来」学説を出していた(1965年)。

 さらに1980年、ブラジルの寄生虫学者、アラウージョやその共同研究者フェレイラ(1983、88)の論文により、南米の北・中部に分布するモンゴロイドのミイラ(3490~3440年前)の糞石中の寄生虫がアジア原産、ことに日本列島に多い種属であったことが報告された。ベーリング海峡経由では(気温が22度以下のため)生息不可能のため、エバンズ説が支持されることになった。

 さらに1994年、名古屋のガン学会でHTLV・I型のウイルスに関する田島和雄氏の研究が発表された。それによると、日本列島太平洋岸(沖縄・鹿児島・足摺岬近辺・和歌山・北海道)に分布する一方、南米北・中部のインディオに分布している。つまり、両者、共通の祖先をもつことが判明した(中国・韓国・ミクロネシア・ポリネシア等になし)。

 ここでエバンズ説・古田説・アラウージョ説・田島説は、それぞれ独立であり、別個の研究目的、各別の素材、別々の研究方法に由っている。

 すでに私の研究において「侏儒国 ― 裸国・黒歯国」間の行路記載が黒潮の起点(足摺岬は黒潮がアジア大陸の尖端部に当たる日本列島唯一の接触点)から終着点(北上するフンボルト大寒流と衝突し、大暖流・黒潮は終結する)に当たっていた。この自然原理との合致に注目すれば、これを軽視あるいは無視してきた多くの「邪馬台国」論者は、あまりにも怠慢だったという誹りをまぬがれないのではあるまいか。

《「真説・古代史」拾遺編》(78)

『魏志倭人伝』の和訳文(1)


 『「邪馬台国」論争は終わっている』は前回で終わるつもりだったのですが、ふと思いついて、最後のまとめという意味合いで、「魏志倭人伝」を和訳してみることにしました。ただし、表題を改めました。
 『筑摩古典文学全集・三国志Ⅱ』の和訳文を下敷にしますが、読み下し文は古田さんのもの(『倭人伝を徹底して読む』所収)を用います。通説とは違う訓読がたくさんある。その場合はもちろん古田説を採用します。また必要に応じて、古田さんの解読に従った意訳をしたり、図版や注を入れます。


『魏志倭人伝』和訳

 倭人(ゐじん)は、帯方郡の東南の大海の中にあり、山の多い島の上にそれぞれの国邑(こくゆう)を定めている。もともと百余国があって、漢の時代に中国へ朝見に来たものもあった。今は、使者や通訳の往来のある国が三十国ある。

 帯方郡から倭に行くには、まず海岸にそって船で韓国の西北端に行く。そこから上陸して、南に進んだり東に進んだり、韓地を巡行視察しながら倭の北岸である狗邪(こや)韓国にいたる。そこまでが七千余里。

(「韓伝」に「韓は・・・東西海を以て限り為し、南、倭と接す。方四千里なる可し」とある。魏晋朝時代に用いられていた「1里」は約77メートルである。)
(「方四千里」とは、正方形に見たてて、その一辺を示している。)
(「南、倭と接す」。当時、朝鮮半島南岸部は倭国であった。狗邪韓国は倭の中の一国である。)


 そこからはじめて一つの海を渡る。その距離は一千余里。対海(たいかい)国〔対馬の下県部を指す国名〕につく。そこの長官は卑狗(ひこ)と呼ばれ、副官は卑奴母離(ひぬもり)と呼ばれる。この国は海の中の孤島で、その広さは方四百里ばかり。土地は山が険しく深い森林が多く、道はけものや鹿の通り道のようである。千余戸の家があり、良い田畑がなく、海産物を食べて生活をし、船に乗って南や北に海を渡って穀物を買い入れている。


(「方四百里」は下県部の大きさと合う。)
(この行路は、狗邪韓国―末廬国間を「南や北に」交易をする対海国や一大国の民が日常的に用いている航路である。)


 さらに南に向って瀚海(かんかい 対馬海峡)という海を千余里船行すると、一大(いちだい)国につく。そこでも長官は卑狗、副官は卑奴母離と呼ばれている。広さは方三百里ばかり。竹や木のやぶが多い。三千ばかりの家がある。田畑はあるが少なく、農耕によってだけでは食料の自給ができず、そこの人々も南や北に海を渡って穀物を買い入れている。

 さらに一つの海を渡り、一千余里で末廬(まつろ)国につく。そこには人家四千余戸があり、山と海のあいだの海岸地帯に住んでいる。草木が繁茂して、道をあるいていると前を行く人が見えない。魚や鰒(あわび)をとることに巧みで、水がいかに深かろうとも、潜って取ってくる。



 東南に陸路を五百里行くと、伊都(いと)国につく。そこの長官を爾支(にし)といい、副官を泄謨觚(せもく)、柄渠觚(へこく)という。千余戸の人家があり、代々王がいて、ずっと女王国の支配下にある。帯方郡からの使者が往き来をする場合、いつもここにとどまる。

 東南の奴(ぬ)国までは百里。そこの長官は兕馬觚(じまく)と呼ばれ、副官は卑奴母離(ひぬもり)と呼ばれて、二万余戸の人家がある。

 〔伊都国から〕東に進んで不弥(ふみ)国まで行くには百里。長官は多模(たも)と呼ばれ、副官は卑奴母離と呼ばれ、千余戸の人家がある。

 南の投馬(つま)国〔薩摩か〕までは、水路で二十日かかる。そこの長官は弥弥(みみ)と呼ばれ、副官は弥弥那利(みみなり)と呼ばれ、五万余戸ほどの人家がある。

 〔不弥国の〕南が邪馬壹(やまいち)国である。女王が都している国で〔帯方郡からここまで〕水路十日、陸路一カ月がかかる。長官には伊支馬(いしま)がおり、その下に弥馬升(みましょう)、さらにその下に弥馬獲支(みまかし)、またその下に奴佳鞮(ぬかてい)と呼ばれる官が置かれ、七万余戸ほどの人家がある。




 女王国から北にあたる国々については、その戸数や道のりをほぼ記載することができるが、それ以外のその外側にある国々については遠くへだたっているため、詳細を知ることができない。

 女王国のさらにむこうには、斯馬(しま)国があり、つづいて巳百支(いはし)国があり、つづいて伊邪(いや)国があり、つづいて支(とし)国があり、つづいて弥奴(みぬ)国があり、つづいて好古(こうこと)国があり、つづいて不呼(ふか)国があり、つづいて姐奴(せぬ)国があり、つづいて対蘇(たいそ)国があり、つづいて蘇奴(そぬ)国があり、つづいて呼邑(かゆう)国があり、つづいて華奴蘇奴(かぬそぬ)国があり、つづいて鬼(き)国があり、つづいて為吾(ゐご)国があり、つづいて鬼奴(きぬ)国があり、つづいて邪馬(やま)国があり、つづいて躬臣(くしん)国があり、つづいて巴利(はり)国があり、つづいて支惟(しい)国があり、つづいて烏奴(うぬ)国があり、つづいて奴(ぬ)国がある。ここで女王の領域は終る。
〔ここまでで30国の国名が記載されている。冒頭に「使訳通ずる所、三十国」とあった。邪馬壹国がその30国の代表と言うことになる。〕

 その南に狗奴(こぬ)国があり、男子が王となっている。そこの長官は狗古智卑狗(ここちひこ)と呼ばれ、女王の支配は受けていない。〔女王国と敵対関係にある。〕

 帯方郡から女王国までは、〔総里程〕一万二千余里である。

(続く)
《「真説・古代史」拾遺編》(77)

「邪馬台国」論争は終わっている。(16)


吉野ヶ里の中心人物(2)

さて、墳丘墓中央の発掘結果はどうだったのだろう。

 中央西寄りの甕棺からは有柄(ゆうへい)銅剣と70個のガラス製管玉(くだたま)、南寄りの甕棺からは分離型有柄銅剣(そして絹らしき付着物)が出土した。これら倭国の有力者を“家来”として横に従えている人物が埋葬されている中央大型甕棺から何が出たのか。なんと、銅剣一本だけだった。発掘現場に立ち会った古田さんはそのときの驚きを次のように表現している。
「最後の逆転劇、肩すかし。ショック。ガッカリしたんだ、本当に。予想どおり、中央に大型甕棺は、たしかにあったものの、中身が、これ、とは。誰が予想しよう。すくなくとも、わたしはしなかった。まったくの“予想はずれ”といっていい。」

 「しかし」と古田さんは続ける。

 帰る途次、夜に入ってから、気がついた。わたしは、ガッカリすることのできぬ「唯一」の人間だ、ということを。なぜか。この中央大型甕棺の主は、「30分の1」だ。倭人伝の中に、国名だけ投げ出された30国。その一国だ。それなら、細剣一本。ふさわしい。近畿や東日本には、出ない。しかし、北部九州や瀬戸内海(淡路島以西)なら、かなり出る。「倭国の中の30国の当主なら、O・K」そういった感じなのだ。

 すなわち、この墳丘墓の主は、「倭国、30分の1」の“位取り”である。これが、第一世代。

 その南の甕棺は、第二世代だ。新聞で見ていたときは、中央の頂上から、ちょっとさがった、南寄りのところにあるのか、と思っていた。ところが、来てみると、ちがう。頂上部に、中央巨大甕棺と、まさに“並んで”いる。二つの甕棺の間は、3~4メートル前後。埋められた深さも、同じくらい。墳頂部は、尖(とが)ってはいない。なだらかな平地状だから、二つの甕棺が、南北に並びうるのだ。

 これは、主人と家来ではない。親と子、そういった“並び方”だ。家来なら、こういった“並び方”はできないだろう。だから、北の中央巨大甕棺を「第一世代」、南寄りの甕棺を「第二世代」と呼んだ。例の、西寄りの甕棺は、あるいは、「第三世代」か。

 ここで、わたしの提起する仮説。それは、「世代差の仮説」。

 第一世代は、先に書いたとおり。倭国の30国の一つの首長だった。しかし、第二~第三世代となると、激変した。急速に、富と軍事力を蓄積した。その秘密は何か。おそらく、第一のカギは、「巴型銅器の鋳型」だ。前にも書いたように、弥生時代という銅器の時代、その最高度の技術だった。その先端技術集団を、この「第二~第三世代」の首長はにぎっていた。

 すぐ隣りの大和町から、剣や矛の鋳型(破片)も、出土している。金属器時代の花形の技術集団、それが富と軍事力の源泉だった。(吉野ヶ里の外濠からも、細剣の鋳型出土) 中国・朝鮮半島の製銅技術を摂取したうえ、ユニークで、高度の技術を有する、東アジアでも出色の工業技術、それがこの、東脊振・吉野ヶ里・大和町の一帯に存在していたのだ。(「巴型銅器」は、中国・朝鮮半島でなく、日本列島、それも北部九州・瀬戸内海周辺、独自の紋様だ)

 第二のカギ。それは、ガラスだ。ガラスは、現在でこそ安い。大量生産の技術が開発されたからだ。それ以前には、宝石だった。弥生では、もちろん、最高度の貴重品だ。

 3月2日の夕暮れ、わたしは西寄りの甕棺から出た二個のガラス製管玉を見た。“中国や朝鮮半島からの輸入品か”そう思った。 ― が、翌日、翌々日と土がとり除かれると、出るわ、出るわ、総計70個。最長6.6センチのものまであった。こうなると、「輸入」なんて、到底無理。倭国産の可能性が高くなった。

 そのうえ、隣りの大和町の石蓋(ふた)つき土壙(どこう)墓。三本の銀の指輪と、約6900個のガラス製丸玉。この土墳墓は、年代が決めにくい。弥生にも、古墳にも、ある。だが、吉野ヶ里の展示場にも、これとソックリさんがあった。数は少ないけれど。おそらく、吉野ヶ里と同じ、あるいは、それにつづくものか。弥生末から古墳初の頃だ。

 これらのガラス製の玉類の多さは、ただごとではない。おそらく、ガラス製造工場を、この吉野ヶ里「第二~第三世代」の王者たちは支配し、あるいは関与し、掌握していたのではあるまいか。

 これらの、新しき富と力、それがこの広大な、環濠、墓地、集落を作らせた、根本のエネルギーだったのであろう。

 「第二~第三世代」それは、けっして「30分の1」ではない。倭国の副王クラスの実力をもつ。「東脊振~吉野ヶ里~大和町」この一帯は、倭国の副心臓部だ。それは、巴型銅器(吉野ヶ里)・剣(吉野ヶ里)・矛(大和町)・剣(大和町)・小型銅鐸(東脊振)といった、バラエティ豊かな鋳型群の存在がそれを語る。

 倭人伝も語る。卑弥呼の前に、男王がいた。治世(ちせい)70~80年、「二倍年暦」を考えれば、35~40年。その死後、複数乃至多数の「倭王候補者」が乱立し、激戦をくりかえした。前にのべたとおりだ。そして卑弥呼という巫女が、各「倭王候補者」たちの“妥協”によって成立した。その「倭王候補者」群の一人、それがこの「第二~第三世代」の当主だった可能性もあろう。すくなくとも、その一人を擁立していた実力者、それに当たることはまちがいないであろう。なぜなら、右のような鋳型群の存在が、それらの支配者の経済力と軍事力、すなわち、実力をしめしているからだ。

 では、倭国の主心臓部はどこか。それは、鋳型分布図(『「邪馬台国」論争は終わっている。(7)』に掲示した。)がしめしている。福岡市・春日市の周辺だ。

 わたしたちは知った、吉野ヶ里によって。「これは、倭人伝の世界だ」と。環濠と城柵、そして楼観(物見やぐら)の存在がそれをしめした。それは、墓制においては、甕棺の世界だ。倭国は、甕棺国家だった。とすれば、その甕棺の中で、もっとも豪勢・華麗な副葬品をもつところ、そこが倭王の墓域だ。

 だが、倭国の首都圏は「筑前中域」から「肥前東域」にひろがっている。現代も、横浜や千葉や大宮が「首都圏」であるように。同じく、まさに吉野ヶ里は「首都圏の一端」に属していたのである。玄海灘にのぞむ糸島と、有明海にのぞむ吉野ヶ里、それは“二つの横浜”だったのだ。

 倭国の全貌が明らかになった。当初に予定していたより3倍ほどの長さになってしまったが、ここでこのシリーズを終わることにします。

《「真説・古代史」拾遺編》(76)

「邪馬台国」論争は終わっている。(15)


吉野ヶ里の中心人物(1)

 女王卑弥呼(ひみか)の居処は春日市(須玖岡本)近辺である。では吉野ヶ里を治めていた中心人物は誰か。前々回、吉野ヶ里遺跡の特徴を概観したが、その中の墳墓と甕棺(みかかん)について、今度は詳しく見ていこう。そこから吉野ヶ里の中心人物の姿が浮かび上がってくるだろう。古田さんの推論をたどっていこう。

吉野ヶ里全図
(クリックすると大きくなります。)

 環濠集落(内濠に取り囲まれた住居址)が、AとBと二つある。

 Aのほうがやや古いが、ほとんど未発掘である。かなり畑地として“荒らされ”ていて、発掘不能の部分が多く、将来もあまり期待できない。

 Bの方は、やや新しく、弥生後期のものとされている。南北約160メートル、東西約70メートル。その中の約五割弱が発掘されていて住居の戸数は約100戸。未発掘部分をふくめると数百戸にも及びそうだ、といわれている。その外濠の内側の中枢に墳丘墓がある。(南にも、もう一つの墳丘墓のある可能性が指摘されているが、未発掘。)

 この墳丘墓の前(南側)には、二列の甕棺のつらなりがつづいている。古田さんはこれを「参列甕棺」と呼んでいる。逆の側(北側)にも同類の列があるようだが、すでに破損をうけ明確にはしにくいという。

 さて墳丘墓。この墳丘墓の甕棺の一つから有柄(ゆうへい)銅剣の出土した。その形から、古田さんはこれを「十字剣」と呼んでいる。この甕棺からは、さらに2個のガラスの管玉(くだたま)が出土していた。管玉の出土数はふえつづけ、約70個にも達している。その中には、長さ約6.6センチの、従来の管玉中、最長のものまでふくまれている。

 この甕棺の出土位置は墳丘墓の真ん中から、やや西寄りにずれている。したがって、この甕棺の人物は中心者ではない。しかし、この十字剣の甕棺の人物は、明らかに“将軍クラス”だ。その“将軍クラス”の人物を配下にもつ人物、それは倭王、もしくは“副王クラス”の人物でなければならない。

 果たして、墳丘墓の中心の奥深くに巨大な甕棺が横たわっていた。周辺の甕棺(それも、墳丘墓の一部)と比べて、墓壙(ぼこう 甕棺を埋納するために掘りこんだところ)が三~四倍も大きい。そして、この中心甕棺の周囲に、点々と数個の甕棺が見いだされている。その中の二つから、それぞれ細形銅剣、および細形銅剣と十字形の把頭飾(はとうしょく)が出土した。いずれも、優品である。

 細形銅剣が対馬・壱岐から、唐津・糸島・博多湾岸(福岡市・春日市・太宰府市・筑紫野市)さらに朝倉・東脊振(ひがしせぶり)といった地帯に多く分布していることは知られている。また後者のセットは、長崎県の対馬、シゲノダン遺跡、福岡県の福岡市西区の吉武樋渡(よしたけひわたし)遺跡に次ぐ、三例目だという。

 もう一つ、古田さんの目を奪ったものがある。総計2300個の甕棺の大海だ。いままでにのべたもの以外に、外濠内の甕棺群がある。これも、参列甕棺と同じく、二列に並列している可能性もあるけれど、よく分かっていない。

 ここまでをまとめると

〈その一〉墳丘墓(外濠内)
〈その二〉参列甕棺(外濠内)
〈その三〉その他の甕棺(外濠内)
〈その四〉一キロ甕棺(外濠外)

 これら各甕棺のしめす「身分階層」のちがいは何か。古田さんは次のように推定する。

〈その一〉支配の頂点に立つ人々。その人々は、墳丘墓に葬られた。
〈その二〉“死しても、主君の御前に”そういった感じだ。これは彼等の、生前の「生きざま」や身分を反映しているだろう。
〈その三〉。上の人々につづく身分。もし、右と連続したつらなりだった、としても、こちらより、「墳丘墓の直前の人々」のほうが、“生前も、死後も”上位にあること、当然だ。〈その四〉間に“谷あい”があるから、実質、900メートルくらい。だが、これは、重要な甕棺列だ。なぜなら、この存在によって、上の〈一〉~〈三〉が、全体の社会構造の中で「上位」に立つ。そのことがしめされているからだ。彼等は、外濠の内側に、葬られることができない。そしてこの一キロ内には、金属器なく、ただ、ゴホウラ(沖縄の南海で産する貝)の貝輪(かいわ)が出てきている。

金属器人間と、ゴホウラ人間と、この二つの層が、外濠によって、画然と区切られている。当時の社会構造の仕組みが浮きぼりになっている。

 だが、問題はここで終わらない。なぜなら、当時、こんな大型の土器、甕棺の中に葬られる人々、その資格のある者は、少数だからだ。大多数の人々、いわゆる庶民は、甕棺にも入れてもらえず、土中に“素(す)のまま”で葬られたであろう。

 今回出土した2300の甕棺中、人骨の出てきたのは、約300。他はみな、“蒸発”してしまっている。日本列島の風土では、よほど条件に恵まれなければ、人骨は“消え去って”しまう。だから、“素のまま”埋められた人骨は、とうぜん消え去っている。

 下には、下がある。奴婢や生口(せいこう 捕虜)だ。彼等の遺体の運命は、まず分からない。まとめて、堀か溝か谷あいか、そんなところに投げこまれたことだろう。「奴婢」とか「生口」とか、「名」だけ残して、考古学的探究の対象としては“消え失せ”ている。

 「倭人伝」には、ハッキリと、倭国の「階層秩序」が描かれている。
 第一、女王。卑弥呼は「共立」された、と書かれている。
 第二、有力大人。前に、男王がいて、「在位70~80年」に及んだという。「二倍年暦」だから、「35~40年」。その男王が死んで、後継ぎ争いの「倭王」候補者が対立した。決着がつかず、倭王候補者が妥協して、卑弥呼が共立された。
 第三、一般大人。各30国の中の、支配層であろう。
 第四、有力下戸。下戸の中にも、「一夫多妻」の者が出ていたという。経済活動で富をたくわえた者であろう。
 第五、一般下戸。いわゆる、庶民である。
 第六、奴婢。
 第七、生口。

 弥生時代とは、「落差の時代」だ。、大陸伝来の金属器をもつ者と、縄文以来の金属器なき者。戦争すれば、前者が勝つ。もちろん、個々の戦闘ではいろいろだろう。だが、結局は「金属器をもつ」者の側が勝つ。

 一方、当時は稲作の時代。際限なき肉体労働を必要とした。生産力をあげようと思えば、方法は一つ。人間の数をふやすことだ。どうしてふやす。攻めることだ。「金属器なき民」を襲撃し、これを「捕獲」し、奴隷として「労働力」にくりこむ。そして、奴隷たちは、死しても金属器をもたず、甕棺にも入れられず、“消えて”しまった。

 以上が、倭人伝のさししめす七層の過酷な階層社会。この社会構造を、吉野ヶ里遺跡が見事に示している。つまりここでも、「倭人伝」の記述が「リアル(真実)」であることが示された。(続く)

《「真説・古代史」拾遺編》(75)

「邪馬台国」論争は終わっている。(14)


 吉野ヶ里は強大な軍事的機能を持った環濠集落だが、そこから出土する遺物は、なぜか「吉野ヶ里は弥生期末で、(軍事的機能を)消滅した」ことを示している。これは吉野ヶ里を知る人にとって周知の事実だ。しかし、「では、なぜそうなったのか」。この問いに対しては、これまで誰一人答えることがなかった。これに対して、「当時の倭国にとって、呉はもっとも巨大な『仮想敵国』であった」という古田さんの洞察が見事な解答を導いてくれる。

 およそ延々と軍事的環濠を掘る、あるいは維持するという行為は、おびただしい労働力と歳月をともなう一大集団作業である。何等の「仮想敵国」なしに、このような行為をなすことは、およそ考えられない。

 その呉は、天紀4年(280、西晋の太康元年)の4月、滅亡した。「仮想敵国」が消滅したのである。さらに、その西晋が建輿4年(316)滅亡した。匈奴・鮮卑の南下によって洛陽・西安の両都は陥落し、南北朝時代が開始された。西晋朝の一派が、建康(南京)で東晋朝を開き、倭国は、その東晋の天子に「臣属」したのである。このことは、かつての1仮想敵国」の呉地が、今は「臣属」すべき天子の都の地となったことを意味するのだ。

 それだけではない。「316」の南北朝時代の開始以来、倭国の北方、朝鮮半島に、「実在の敵国」があらわれた。高句麗である。かつての楽浪・帯方の二郡は、大義名分上は、東晋に属しながら、間に海をへだてているため、実質上の支配力を失い、「軍事的空白地」を現出した。その「空白」を埋めるべく、北の高句麗は主として「北朝」を背景にもち、南の倭国は、ひたすら「南朝」を背景として、その「軍事的空白」を埋めるべく、撃突することとなった。これが四世紀から五世紀にかけての「高句麗と倭国の対立時代」だ。これ、高句麗好太王碑文に活写された世界と時代であった。

 一方では、かつての「仮想敵国」の呉地が今や「臣属」すべき天子の都の地となり、他方では、北に「実在の敵国」高句麗との撃突時代に入る。すでに、呉を最大の「仮想敵国」として構築された、吉野ヶ里が存続すべき意義はない。その余力もない。もし存続すれば、一には、大義名分上の「背叛心」の表現であり、一には、維持費等の経済的・労働力的消耗をまぬがれえぬ。それゆえ、吉野ヶ里は〝廃棄″された。その時期は「280~316」の間にあったのである。

 わたしはすでに「吉野ヶ里の仮想敵国」を論じたことがあった。南九州、薩摩や肥後の地を、それに擬したのであった。金属器の武器が朝鮮半島より北部九州にもたらされ、その「武力の優越」をもって、金属器の武器の乏しい南九州への侵入・征服が行われた。労働力獲得のための「生口」、また美女などを取得し、そのため、南九州側の「奪還」「反撃」を恐れて、この吉野ヶ里が構築された。そのように考えたのである。おそらく吉野ヶ里の当初の構築動機は、このようなところにあったであろう。「弥生前期、中期初の甕棺」の時代などが、これに当るであろう。

 これに対し、吉野ヶ里がもっとも活力に満ちた時代、それは「対、南九州」より「対、呉」へと主目的の移った時間帯ではあるまいか。

 以上のように「反呉倭王の仮想敵国」という新仮説の導入は、「吉野ヶ里の消滅」問題に対する明快な解説となったのであるけれど、ここから、二つの帰結、いわば、〝重大な波及効果″を生ずるのである。

 その一は、「倭国の首都圏」問題だ。いうまでもなく、吉野ヶ里は有明海の北端部に当っている。すなわち、この場合、有明海に侵入した敵の戦闘船団(南九州あるいは呉)はまっすぐ北上して、吉野ヶ里を突く。そのように想定されているのである。なぜか。

女王国地図
(『吉野ヶ里の秘密』より転載)

 それは当然、南九州を征圧した「倭国の首都圏」、そして「反呉倭王=親魏倭王の中心居城」が「吉野ヶ里の北方」にあり、とされているからに他ならぬであろう。

 さらに、わたしたちは知っている。吉野ヶ里の「軍事要塞」は、その東西の丘陵部に拡がっていることを。そして福岡県の小郡市にも、吉野ヶ里以上に長大な「楼観」(物見やぐら)の痕跡が見いだされているのである。

 このような、東西に展開された「マジノライン」の北方に存在する領域はどこか。いうまでもなく、「糸島・博多湾岸」を中心とする筑前領域だ。ここが「親魏倭王」たる卑弥呼の居した、倭国の中枢部、真の首都圏だったのである。

 わたしははじめて吉野ヶ里発掘の報に接し、くりかえし現地に足を運ぶとき、いつも内心に「一個の問い」を内蔵していた。それは次の一点だ。

 「吉野ヶ里は、その巨大な軍事施設を〝それ自身″のために作ったのか、それとも、〝他の中心点″のために作ったのか」と。今は、その解答が出た。東の小郡市に至る「マジノライン」の各拠点だけが偶然、〝自分自身″のために、自己の要塞を構築した。そのような想定は、しょせん空想的だ。やはり「反呉倭王」の中心拠点は、「三種の神器」セットを内蔵する五つの王墓(さらに最近発見された、韓国の良洞里の王墓をふくむ)の領域のための〝長大防御線″と考えざるをえないのである(時間の順に書くと、①吉武高木〔福岡市〕②三雲〔糸島郡〕③須玖岡本〔春日市〕④井原〔糸島郡〕⑤平原〔糸島郡〕。⑥良洞里は「小型彷製錬」をもつ「三種の神器」セットである点から見て、あるいは最末か。少なくとも、③以後であることは、疑いがない)。

 以上、近来最大の発掘経験であった、吉野ヶ里の経験、その示す客観的情報は、はからずも、本書(『「邪馬台国」はなかった』)の二十余年前の孤立の探究を〝裏書き″してくれることとなったのであった。

《「真説・古代史」拾遺編》(74)

「邪馬台国」論争は終わっている。(13)


237年の東アジアの国際情勢

 237(景初2)年、卑弥呼(ヒミカ)は魏の明帝より「親魏倭王」の金印を授与されている。古田さんは「親魏倭王は反呉倭王である」と言う。

 当時、魏と呉は共に「天子」を称して対立していた。いわゆる「共に天をいただかざる」間がらだ。だから、その一方の魏から、右の称号をうることはすなわち、呉に対して「不倶戴天」の敵であることを宣言することを意味したのである。ということは、いつ何時、呉の武装船団が大挙して倭国に侵入するかもしれぬ、というその「可能性」に直面することとなったのだ。

 これは、決して杞憂ではなかった。なぜなら、第一に、・・・卑弥呼が魏に遣使した、その第一回(景初2年)は、「戦中遣使」であった。魏の明帝が遼東半島の公孫渊(こうそんえん)に対して渡海作戦を実行し、一大包囲網を完成して、その落城の刻々迫りつつあったとき、敢然として卑弥呼は対魏遣使に踏み切った。おそらく倭国内には、従来から公孫渊を通じて漢に通交していたため、「公孫渊派」とも呼ぶべき勢力も強かったであろう。けれど、東アジアの大勢を見て決然と「親魏政策」に踏み切ったのであった。その公孫渊が海を越えて呉と親交を結んでいたことはよく知られている。「親、公孫渊派」を切ることはすなわち、「親・呉派」を切ることだったのである。

 第二、魏もまた、倭国と結ぶことによって大きな軍事的利益をもっていた。というのは、楽浪・帯方郡は「韓」の独立と自立(魏から見れば「反乱」)に悩まされていたからである。ために、帯方郡の太守が戦死したことが、『三国志』の魏志韓伝に記されている。

東夷伝地図
(「東夷伝」地図。筑摩世界古典文学全集『三国志Ⅱ』より転載)

 そのような状勢に対し、魏は、その韓国の向うの倭国と結ぶことによって「韓の反乱」を鎮圧しうる、と考えたのではあるまいか。いわゆる「遠交近攻」の策である。

 事実、中国が軍事司令官(塞曹掾史)を倭国に派遣し、二十年間滞在せしめたことは、単に〝渺(びよう)″たる一狗奴国に対するがためだった、とは考えられない。それに対する卑弥呼の要請を奇貨として、一方は「対、韓国(独立運動)」、他方は「対、呉」の軍事的拠点として、倭国に「二十年間」も滞在した。これが中国側の国際的・軍事的視野だったのではあるまいか。

 第三、呉もまた、右のような魏の軍事的動向に無関心だったとは思われない。なぜなら呉はしばしば公孫渊と友好を結び、軍事的にこれを支援すべき一大軍事船団を遼東半島へ派遣していたこと、『三国志』の呉志に記載されているからである。先の、魏の公孫渊大包囲作戦は、この「公孫渊~呉」間の軍事的連係を断ち切るための一大作戦でもあったのだ。

237年頃の東アジア
(237年頃の東アジア。「東アジア歴史地図」というすごいサイトを見つけました。そのサイトからいただきました。)

 地図を開けば明白であるように、「遼東半島~呉(建康)」より、むしろ「九州~呉」間の方が〝近い″のだ。そしてこの区間は、すでに縄文早期末(6600年前)より、「石玦(玦状耳飾り)文明圏」として、濃密な交流を経験していたのであった。

 陳寿が倭人伝で、其の道里を計るに、当に会稽東治の東に在るべし。と書いたとき、夏后少康の子の時代について語りながら、ついこの間まで、そこが「敵地、呉国の東に当っていた」ことをも、十分に示唆していたのではあるまいか。

 さて、「吉野ヶ里」問題に入ろう。

 吉野ヶ里遺跡の出土は、考古学界、古代史界に激震を与えた。とりわけ「邪馬台国=大和」論者にはショックだったはずだ。その仮説の考古学的論拠が次々と反故になってきても、「環濠集落は大和にしかないからな。」という事実にすがって、なお誤謬が明らかな自説を捨てようとしなかった。その最後の砦が、吉野ヶ里の出現によって、脆くも崩れてしまったのだ。しかし、にもかかわらず、このシリーズを書き始めたきっかけになった報道にあったように、なお頑迷に「邪馬台国=大和」説を捨てられない学者がたくさんいるのだからあきれる。

 それでは、吉野ヶ里遺跡の特徴を概観してみよう。(以下は『古代史の未来』による。)


 その領域の広さは他に類を見ない。。外濠が南北約1キロ、東西約400メートル、推定総延長は2.5キロ、外濠内面積は40ヘクタール、甲子園球場の約六倍の大きさである。(1989年段階)

吉野ヶ里俯瞰図
(クリックすると大きくなります。)


 「倭人伝」中、卑弥呼の居処についての記事に「宮室・楼観(ろうかん)・城柵(じようさく)、厳(おごそ)かに設け、常に人あり、兵を持(じ)して守衛す。」とある。吉野ヶ里には「楼観(物見やぐら)」「城柵」「邸閣」(事用倉庫)」などに当たると思われる遺構がある。


 墳丘墓は盛り土と階段状の土型をもち、直径約40メートルである。倭人伝の卑弥呼の「冢(ちょう)」(径百余歩 30メートル前後)を想起させる。


 その墳丘墓の中の甕棺からは「有柄銅剣」や「ガラスの管玉」や「縮布類」が豊富に出土している。


 銅器の鋳型(前期)が出土している。福岡県でも最古クラスの銅器生産の遺址とも見られる(墳丘墓の反対側)。


 「埋列甕棺」。墳丘墓の「前」や「脇」に、一列もしくは二列に甕棺が“列をなして”並んでいる。社会の階層序列の表現であろう。それは「倭人伝」が伝える女王国の「女王―有力大人―一般大人―有力下戸―一般下戸―奴卑―生口」という階層社会と照合している。


 その後、当遺跡の東西線をなす「環濠集落」が次々と発見された。その中で、太宰府の南に当たる位置の「楼観」は、吉野ヶ里の場合以上の「高層建築物」と推定された。


 高床式建物の角柱。木柱も樹木そのものの形(円形)ではなく、“削られた”角柱の形跡が存在した。

 以上のような「全構造」は、その規模と質の両面において、従来の環濠集落に見出しえない壮観を示している。しかも、多くの点で「倭人伝」の記述するところと照応している。古田さんは吉野ヶ里遺跡を訪ねたときの感動を次のように綴っている。

 来た。見た。あった。 ― 広大な吉野ヶ里(よしのがり)丘陵がそこに広がっていた。

 延々(えんえん)と何キロもつづく外濠(そとぼり)。そそり立っていた、10メートルを越える物見やぐらの痕跡。そしてなによりも甕棺(みかかん)の大群。累々(るいるい)たる屍(しかばね)の海だ。それも激烈な戦闘の存在を証(あか)しする、12本の鏃(やじり)の突きささったままの遺体。見る人をふるえあがらせる首なし遺体の数々。それらが次々とわたしの眼前に立ち現われていた。

 これが弥生(やよい)だ。倭人伝(わじんでん)の世界だ。あの古代世界がそっくり、眼前にいま、立ち現われたのだ。これを「奇跡」と呼ばずして、何か。

 しかも、まだわたしの生きている時間帯に。そして幸いにもこうしてすぐ現場にかけつけることができた。歴史研究者にとって不可欠の健康をもっているときに、この「奇跡」に合うことができたのだ。そのことをわたしは歴史の神に深く感謝せねばならぬであろう。

 一日、歩き疲れたことも覚えず、丘から谷へとたどりつつ、わたしはそのような思いに満たされていたのである。

 では、壮大な吉野ヶ里が女王国の都だったのだろうか。答えはもちろん「否」。詳しくは次回で。