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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(69)

「邪馬台国」論争は終わっている。(8)


 これまでの古田さんの論文では、「奴(な)国」→「奴(ぬ)国」、「卑弥呼(ひみこ)」→「卑弥呼(ひみか)」など、表音文字の読みの訂正が行われていた。従来の「定説」による読みが間違っていることを示唆している。この問題は定説論者の単なる読み間違いではなく、その背景にある誤った基本姿勢の反映なのだ。今回から、この問題を取り上げてみたい。

 周知のように『三国志』では、周辺国の国名や人名を当事国での呼び方で表記する場合、一音一字の漢字を当てて書き表している。一音読みの漢字には一般に複数の音があるので、そのどれを選ぶかで諸説が競うことになる。しかし正解は、全体のルールの中で検討すれば自ずと明らかである。

1 「奴国」の読み方

 どの漢和辞典を調べても「奴」の一音表音は「ぬ」または「ど」である。また、万葉仮名は「倭人伝」よりずっと後に、中国における表記法に習って設定されたものだが、当然そこにも「奴=な」なんて設定はない。

な ― 奈・那・難・儺・寧・乃・南・娜・名・魚・七・菜・中・莫

 「奴」は「ぬ」または「の」または「ど」である。

ど ―(甲類)度・渡・土・奴・怒
の ―(甲類)努・怒・弩・奴・野
ぬ ― 奴・農・濃・沼・宿・寐・渟

 実際「倭人伝」では、投馬国の副官「みみなり」を「弥々那利」と表記して、「な」の音には「那」が使われてる。

 ではなぜ定説論者は、「奴=な」という不当な読みを当てはめたのか。定説論者のつぶやきはこうだ。
『「倭人伝」における第一の大国・「邪馬台国」は「大和(やまと)以外にはあり得ない。第二の大国・投馬国は大和への行路からは外れているから論外。ならば第三の大国・奴国は博多湾周辺でなければならない。そこには「儺縣・儺河・那之津」など「な」地名がたくさん残っている。うんそうだ、「奴国」は「なこく」だ。』
 当たらずとはいえ遠からず、だと思う。

 このでたらめで不当な定説は実に罪深い。例の志賀島の金印「漢委奴国王」を「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と読む誤読はそこから生まれた。私も、もちろんこのまちがった読みを、学校で覚えさせられた。なんの疑いももたず、覚えた。いまでもこの間違った読みが堂々と流通している。

 ではどう読むのが正しいのか。「漢の委奴(ゐど)の国王」だ。『古代史の未来』から引用する。

 天明4年(1784)志賀島(福岡県)から発見された金印には「漢委奴国王」の五字が刻まれていた。後漢書倭伝の中で、光武帝が建武中元二年(57)に授与したとされるものである。この印文に対する理解の仕方が、日本の古代史像を真実(リアル)に把握するか否かの決定的な分かれ道をなす。

 中国の印文表記法は次のようだ。

(A)授与者(中国の天子)―(B)被授与者(配下)
(中国の内外各層により、金印・銀印・鋼印を分かつ)

 いずれも「二段」表記であり〝中間者″の介在はありえない。したがって、この印文の正しい解読は「漢の委奴(ゐど)の国王」である(「委奴」は光武帝のライバルであった「匈奴(きょうど)」に対する造語。〝従順な部族″の意)。

 つまり、従来の読解「漢の委(わ)の奴(な)の国王」はまったくの誤読である。中国の印文において、このような「三段」読みの国名はない。「漢匈奴悪適尸逐王」(大谷大学現蔵)という例があるが、「悪適尸逐(あくてきしちく)」は部族称号であって国名ではない。そのうえ「銅印」(もしくは金メッキ)であって「金印」ではない。

 金印の「三段」読みなど、まったくのルール違反だ。にもかかわらず、わが国の古代史学の定説派は、こぞってこのルール違反の道路を運行しつづけてきたのである。

 もしこの「奴国」が金印授与国であったとしたら、三国志の魏志倭人伝に二回も出現する奴国の記事中に、その旨の特記がない事実は理解不可能と言わねばならない。

 右の奴国(第一回出現)は、倭国中、第三の大国(第一位は邪馬壱国〈女王国〉。第二位は投馬国。戸数が各七・五・二万)である。にもかかわらず博多湾岸を「奴国」としたため、それ以上の出土物(三種の神器・絹など。)のあるべき女王国(いわゆる「邪馬台国」)を求めて、定説論者たちは永遠の流浪の旅に出ることになった。

 しかしその到着点などあるはずがない。なぜなら、日本列島の弥生期において、金器・銅器・ガラス器、そして絹など、当代最高の器物が集中出土すること、当地域(博多湾岸とその周辺)に匹敵しうる地帯は絶無だからである。神殿・宮殿なども同じだ。

 平成5年、私は学術論文をもって学会にこの点を問うたが、応答はない。

 以上の立論を講演録『古代史と国家権力』からの引用で補強しよう。中におもしろくも滑稽な話があって、それの紹介もしたかった。

 ところが、これを三宅米吉という考古学者が「漢の倭の奴の国王」と読んだ。その意味は、倭というのは実際、大和なんです。漢の下に大和朝廷があって、その大和朝廷の下に奴という筑紫の王者がいると。その筑紫の王者が金印をもらったと、こういう解釈をした。しかし、日本の中で第二の、大和に附属する王者が金印を貰ったのなら、大和は何を貰ったのですか。貰うものがないじゃないですか。近畿からは何も出て来ていないでしょう。出てはいないけれども、大和朝廷を入れなければ我慢できないわけなんですね。三宅米吉は、強固な邪馬台国近畿論者でしたから。

 こっけいな話ですが江戸時代に、こんな話があります。あれは大和朝廷が中国から貰ってきた印であると。ところが、船の中で開けて見た。よく字を読むと、なんと奴隷の奴の字があるではないか。けしからん、こんなものを持って帰れるか、と投げ捨てたものが博多の志賀島に漂着して、そこから出たという説が、当時学説として出ていたそうです。

 これは皆さん、お解りの通り、大和朝廷の顔を立てたならば、こうならざるをえないですね。大和朝廷しか金印を貰うものはありえないのですから、今のような見て来たような嘘を言い、にならざるを得ない。

 それを笑っているけれども、実は笑えないのは皆さんが小学校時代から教えられてきた、「漢の倭の奴の国王」という読み。これは、今の話と同じ思想なんです。漢に附属した大和朝廷があって、それに附属した那の津の王者がもらいましたという、変な読みになっているのです。子供のころから教え込めば、ちゃんとみんな信じこむ。いくら批判だと言い出しても、ここのところは批判の対象にしないのですね。人間というものは。
 ですから、漢の委奴(ゐど)国王と読まなければいけない。そこで、倭国はその委奴国の後の国だと、旧唐書には書かれている。あと、卑弥呼の国、私は糸島、博多湾岸の国、邪馬壹国と考えているのですが、それも、後を受け継いだ国だとハッキリ書いてある。それに対して日本国は別の国だと書いてある。これは小国であると。しかし、小さな国と言うのは、必ずしも地理的に言っているのではなく、附属国、ご主人国に対する家来国のことを小国と言うわけなんです。いわゆる倭種で、倭人に属するが小国である。これが、ご主人国の倭国を併呑したと。併呑した日本国と我が中国が交流しはじめたのは703年であり、それまでは倭国との交流があった。こうちゃんと書いてある。

 これは唐の歴史書です。しかも、唐の中には阿部仲麻呂がいる。日本から行って中国にとどまり、ベトナムの大守にまで任命された仲麻呂が長安で没したわけですから、こういう記事は当然、仲麻呂のオーケーを取っているわけです。この倭国と日本国が、同じ国であるはずがないです。岩波文庫の解説(旧唐書)では「不体裁」などと言って処理してあるけれども、これも、子供のころの学習ロボット以来、教え込まれて今日に至っているのです。

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