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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(66)

「邪馬台国」論争は終わっている。(5)


 「倭人伝」の里程記事が誇大記事ではなく、事実に即したものであることが分かった。次に問題になるのが、従来説では「部分里程の総和が総里程にならない」という問題である。この問題の解読には大事なポイントが3点ある。



〔1〕
 榎説では、奴国・不弥国・投馬国・邪馬壱国への行路は伊都国を中心に放射状になっていると解釈していた。この「放射状行路」説に対して、古田さんは「傍線行路」説を主張する。

 「倭人伝」原文では「いたる」という文字は「至」と「到」が用いられている。前々回に提示した行路の現代語訳文では全て「至」が使われているが、原文で使われている文字に復元して、里程記事を再掲示する。(赤字強調は「傍線行路」説の論拠となる。)

①あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗邪韓國に到る七千余里。
②始めて一海を渡ること千余里、對海國に至る。
③南一海を渡ること千余里・・・一大國に至る。
④また一海を渡ること千余里、末盧國に至る。
⑤東南陸五百里にして、伊都國に到る。
⑥東南奴國に至ること百里。
⑦東不彌國に至ること百里。
⑧南、投馬國に至る水行二十日。
⑨南、邪馬壹國に至る。

 榎博士は「到」を用いている場合を最終到着地と考えた。そこで魏の使者の最終到着地は伊都国とし、その後の行路は「放射線行路」とした。この説の正否を確かめるため、古田さんは、三国志全体から「至」と「到」を全部抜き出して検証したが、両字間に用法上の違いは見出せなかった。

 しかしこの検出の際、「三国志」における行路記述のルールは「進行動詞(上記赤字)プラス至(到)る」であることを、古田さんは見いだした。つまり⑥と⑧は主行路から外れる「傍線行路」である。邪馬壱国への行路からは外れているが、邪馬壱国に次ぐ第二・第三の大国として付記したのだ。従って邪馬壱国への行程図は次のようになる。

行路図

〔2〕
 第二点は「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月。」の解釈だ。従来説は「水行十日、陸行一月」を不弥国あるいは投馬国(榎説では伊都国)から邪馬壱国までの距離を表すものと考えて困っていた。

 これに対して古田さんは、「区間距離」の中で「・・・里」の形で書かれているものだけが、真の「部分里程」であり、「水行二十日」や「水行十日、陸行一月」は部分里程ではない、と言う。言われてみれば、至極もっともな読み方だ。すると当然、「水行十日、陸行一月」は「帯方郡治→女王国」間の総日程ということになる。誇大な表現だ、などと「倭人伝」を貶める必要は全くない。

 すると不弥国から邪馬壱国までの距離が書かれていないのはなぜか。隣接国だからだ。

〔3〕
 第三点は対海国と一大国の面積記事の扱いである。現在では対馬・壱岐と呼ばれている島である。それぞれ「方四百余里」・「方三百里ばかり」となっている。

 従来論者はこの二つの島の通過を一点通過として扱い、何の疑問も持たなかった。しかし、魏使はそれらの島をただ素通りしたのではなく、上陸して実地検分した記事を残している。その島を「周旋」(はしを経めぐってゆくこと。「倭地」を「周旋」するむねが、記されている)したのだ。その場合、二辺として計算するのが自然である。四辺なら、もとへ戻ってしまう。つまり、次のような「周旋」となる。

周旋図

(以上の3つの問題についても『「邪馬台国」はなかった』で実に緻密な論証が行われている。ここではほとんど結論だけに絞った。)

 以上により、部分里程の総和を計算すると

 7000里  帯方郡治-狗邪韓国(水・陸行)
 1000里  狗邪韓国一対海国(水行)
  800里  対海国(半周,陸行)
 1000里  対海国-一大国(水行)
  600里  一大国(半周,陸行)
 1000里  一大国-末廬国(水行)
  500里  末廬国-伊都国(陸行)
  100里  伊都国-不弥国(陸行)

計12000里(全里程)


 ぴったり「万二千余里」である。

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