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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(64)

「邪馬台国」論争は終わっている。(3)


 「倭人伝」の里程記事を抜き書きしておこう。

郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。

始めて一海を渡ること千余里、對海國に至る。

また南一海を渡ること千余里、名づけて瀚海(かんかい)という。一大國に至る。

また一海を渡ること千余里、末盧國に至る。

東南陸行五百里にして、伊都國に至る。

東南奴國に至ること百里。

東行不彌國に至ること百里。

南、投馬國に至る水行二十日。

南、邪馬壹國に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月。 (中略) 女王國より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁國は遠絶にして得て詳かにすべからず。

郡より女王國に至ること萬二千余里。


 前回見たように、諸博士たちが四苦八苦していた点は二つある。一つは部分距離の合計が「萬二千余里」にならないこと。もう一つは「南、・・・水行十日、陸行一月。」という記述。これは距離として考えると、とてつもなく遠い。特に大和論者は「南」にも困った。南に「水行十日、陸行一月」では鹿児島を越えて海の彼方に行ってしまう。そこで「南」は「東」の誤りとし、「陸行一月」は「陸行一日」の誤りなどと勝手な原文改定をしている。

 勝手な原文改定をしている諸説は論外である。岩波文庫版の解説者・石原氏は、里程図を掲示している点から考えて、たぶん榎博士の説を最もまともなものと考えていたのではないだろうか。古田さんも「氏は少なくとも、この問題に対して正面からとりくんでいた。」(『日本古代新史』)と評価している。そして古田さんは、従来の諸説の中で最もまともと思われる榎説の検討を通して、里程問題の核心を明らかにしている。それは古田さんの史料解読姿勢の厳格さをも表明している。前回の里程図だけでは榎説のポイントが不明なので、古田さんがまとめた「氏の解答のポイント」を見ておこう。


 魏の使者は伊都国にストップし、そこから先へは行かなかった。

 それ以降の行路は、すべて「伊都国中心」の放射状行路として書かれている。

 「水行十日、陸行一月」も、「伊都国→邪馬台国」間の行路日程である。

「水行十日、陸行一月」は、「水行十日」あるいは「陸行一月」の意味だ。(管理人注:前回にあった志田不動麿氏の説を取り入れている。)

 唐代の『六典』に、「軍行、一日五十里」の記載がある。

 この軍行日程で「陸行一月」を計算すると、(50×30)=1500)で、1500里となる。

 「帯方郡治→伊都国」の各「区間距離」を足すと、一万五百里。これに右の千五百里を加えると、ちょうど「一万二千里」となる。

 右は伊都国にストップしていた魏使の計算であり、実際の「邪馬台国」は伊都国の南方、ほど遠からぬ〝筑後山門″付近にあった。

 これを古田さんは次のように批判している。

 この榎氏の立論は、たいへん〝巧緻″にできているけれど、ここには明白な矛盾がある。お気づきだろうか。

 第一の問題は⑤だ。唐代の里単位は、漢代とほぼ〝同じ″だ。それに対し、「魏・西晋朝」では、これとは全然別の里単位で、約5~6分の一だった。このように、前節でえられた結論(管理人注:後ほどその論証を紹介しよう。)に立ってみると、⑥の計算はまったくナンセンス。成立できないのである。

 その上、次の二つの問題点がある。

 第二に、「部分を足したら総里程になる」というのは、あくまで〝倭人伝に、それと書かれている里程″によらねばならぬ。全然別の文献である「唐代の六典」などをもち出さねば解けない、それでは困るのだ。何しろ三世紀の読者に、はるか後代の唐代の本など読めるはずはないのだから、この点から見ても、榎説には根本的な無理がある。〝そこに書かれていない里程″である「1500里」を、あえて後代の研究者(榎氏)が〝算出″せねばならなかったこと、 ― この一点である。

第三に、〝すぐそばの「邪馬台国」までの、本当の距離を知らず、伊都国で〝計算″にふける魏使(帯方郡の官僚)″というような姿、それはあまりにも〝常軌を逸し″ている。 ― これがわたしの正直な感想だ。

 以上が榎説のもつ根本の矛盾だ。榎氏の研究努力には敬意を表しつつも、わたしは榎説そのものに対しては、明確に「ノン」の一語を発せねばならなかった。

 わたしは従来説に訣別した。出色の榎説にも従えなかった。では、おもむくべき新しい道は何か。まどいはなかった。わたしが旧説にむけた批判の刃、その格率をわたし自身にむけることである。同じルールで自己を見ることだ。

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