2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(73)

「邪馬台国」論争は終わっている。(12)


 今回から古田さんの「吉野ヶ里」についての論究をまとめます。主な教科書は『「邪馬台国」はなかった』の「あとがき・二十余年の応答」、『吉野ヶ里の秘密』です。

 吉野ヶ里そのものの論究に入る前に、そのための予備知識として取り上げておきたいことが二点ある。一つは「倭人伝」の史料批判であり、二つ目は邪馬壱国時代の東アジアの国際情勢である。

「倭人伝」の史料批判

 『三国志』の著者・陳寿の記述に対する同時代人の信頼はたいへん厚かった。陳寿の後ろ楯になっていた張華は『次は晋書をまかせたい』と言っていたという。また当時、魏書を執筆していた著名な文人・夏候湛は、陳寿の魏書を見て自分の書を破棄し、書くのをやめてしまったというエピソードも伝えられている。

 では、同じ『三国志』中の「東夷伝」やその中の「倭人伝」は信頼に値しないのか。一般に、「倭人伝」には誤りがある、というのが共通の認識のようだ。もちろん、部分的には陳寿自身の誤解による誤りがあるかもしれない。あるいは写本を繰り返している間の誤字脱字もあるかも知れない。しかしその類の誤りは全体の整合性の中で訂正可能であろう。

 中には次のようなことを言う人もいる。

「実際に倭に渡航した人物の勘違い・誤った理解があるでしょう。通訳を介しても意思の疎通が完全でなかったことは想像にかたくありません。これは仕方のないことでしょう。最初に倭人伝をまとめた人物が、倭へ渡航した人物に直接話を聞いたとは到底思えません。提出された断片的な報告書か何かを参考にしながら書いたのではないでしょうか。ここでも誤りが混入されたことでしょうし、これはもう、どうしようもありません。」

 もしこのような根源的な誤りであれば、「倭人伝」は史料としての価値はないということになる。「倭人伝」を使っての全ての議論は無意味となろう。しかし、「倭人伝」にこのような根源的な誤りを想定するのはおおいなる誤解である。そのような根源的な誤りのないことは、なによりも古田さんの解読が指し示している。今まで見てきたように、古田さんの解読は考古学的遺跡・遺物とピッタリと整合している。もちろん古田さんの解読にも部分的には誤りがあるかも知れない。しかし私は、古田さんの解読には根源的な誤りはなく、従って「倭人伝」にも根源的な誤りはないと考えざるを得ない。古田さんは、「倭人伝」は邪馬壱国へ派遣された使者による天子への報告書を元に書かれたはずだから、そこには虚偽はないと、ひたすら陳寿を信じ切って研究を続けた。

 また、特に「倭人伝」の里程記事には根源的な誤りがあり得ないことを示す史料批判がある。木佐敬久氏がおおよそ次のような理路でそのことを論証している。

 「倭人伝」に次のような記事がある。
 狗奴(こぬ)国との戦闘を収めるため、女王卑弥呼は帯方郡の太守・王頎(おうき)に援助を要請した。その要請に応じて、帯方郡の塞曹掾史(軍司令官)張政が派遣された。247(正始8)年のことである。

 倭人伝の未尾に、彼の帰国の記事がある。
 卑弥呼の死後、そのあとを壹与が継いだ。壹与は帰国する張政に中国への使者を付けて見送った。倭国の使者は中国の都・洛陽に至って貢ぎ物を献上した。
 この記事で倭人伝は終っている。張政の帰国年時は書かれていない。

 しかし、張政の到来と帰国の間には、女王卑弥呼の死やそれにつづく倭国内の混乱のあったことが書かれてあり、そのあと、年若い女王、壹与が倭国の王として即位したことが書かれている。この壹与の即位では、張政が“後立て”となっていたようだ。従って張政の倭国滞在期間が、かなり「長期間」にわたっていたことは疑いがない。

 晋書倭国伝によると、張政の見送りをかねて渡った倭国の使者が落陽に着いたのは、魏朝をうけついだ次の西晋朝の最初、泰始(265~74)の初めだったとある。その上、西晋朝の記録官の記載によると、266(泰始2)年だったことが判明している。

 以上により、張政の倭国滞在期間は、247(正始8)年から266(泰始2)年までの20年間であったことが分かる。

(私はこの「張政の倭国滞在期間20年」説には後日疑問を提出している。『「倭人伝」中の倭語の読み方(94)』を参照してください。)

 以上のことを指摘して、木佐氏は次のように論を進めている。

 倭人伝の最初に書かれている行路記事は、張政の軍事的報告書を背景にもち、中国側の軍事用の目的にかなうものとして、書かれているものと見なければならなぬ。

 従ってそこに方角上の誤謬(たとえば、南と東のとりちがえ)や里程上の巨大な誤謬(たとえば、五・六倍の誇大値)があった、というような、従来多く行われてきた考え方は、ありえないと思う。

 また何より、帯方郡から女王の都までの「總日程」が書かれていなければならぬ。なぜなら、それなしには、中国側は、食糧の補給や軍事上の兵力増強などしようとしても、一切目算が立たないからである。

 この木佐氏の論になにか不都合があるだろうか。その論理に一点の瑕疵もないと、私は思う。また、張政の天子への報告は里程記事だけではあるまい。当然、20年にもわたって実際に見聞した邪馬壱国の政治・社会状況や風俗についての報告も含まれていただろう。

 倭へやって来た魏の使節は張政一行だけではない。また魏の使節が実際に倭国へ来たのは一回や二回ではない。「倭人伝」は言う。「(伊都国は)郡使の往来、常に駐(とど)まる所。」と。彼らの本国への報告書は物見遊山の記録ではない。その実務にもとづいて書かれたものだ。

 張政をはじめ何人もの吏官による諸報告書をもとに「倭人伝」は書かれた。とすれば、
「実際に倭に渡航した人物の勘違い・誤った理解があるでしょう。通訳を介しても意思の疎通が完全でなかったことは想像にかたくありません。・・・最初に倭人伝をまとめた人物が、倭へ渡航した人物に直接話を聞いたとは到底思えません。提出された断片的な報告書か何かを参考にしながら書いたのではないでしょうか。」
というような憶測、これまでの「常識」は全く無用である。

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《「真説・古代史」拾遺編》(72)

「邪馬台国」論争は終わっている。(11)



卑弥呼(ヒミカ)の比定


 「邪馬台国=大和」説が全く成り立たないという一点だけからでも、従来の神功皇后説・倭姫命説・倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)説などは問題とならない。どだい九州王朝を抹殺した上に成り立っているヤマト王権の史書『日本書紀』の中では、ヒミカの影さえ見いだすことができないのは当然なことだ。「倭の五王」をヤマトの大王に比定する愚と同じである。

 ヤマト王権が抹殺したはずの九州王朝の痕跡が万葉集や古今集や謡曲、あるいは様々な金石文などに残っていることを私(たち)は知っている。では、中国の文献に鮮明な姿を現わしている「倭国の女・王ヒミカ」の姿がどこかに残っていないだろうか。古田さんは『筑後国風土記』の次の一節に注目する。

昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極(いたく)く多(さは)なりき。因りて人の命尽(つくし)の神と曰ひき。時に筑紫君・肥君等占ふ。今の筑紫君等が祖、甕依姫、祝と為りて祭る。爾(それ)より以降(このかた)、路行く人、神に害(そこな)はれず。是(ここ)を以(も)ちて、筑紫の神と曰ふ。
(岩波古典文学大系『風土記』509ぺージ)

 上の赤字部分は「岩波」では「時に、筑紫君・肥君等占(うら)へて、筑紫君等が祖(おや)甕依(みかより)姫を祝(はふり)と為して祭らしめき。」となっている。これだと話全体がとても不可解なものとなってしまう。実はこの部分に原文「改定」が行われている。従来の学者たちはどうしてこうもあちこちでいとも簡単に原文改定をやってのけるのだろうか。その「改定」を元に戻して、古田さんが読み下し直したのが赤字部分である。(この場合の「改定」も不当であることを古田さんは詳しく論証しているが、それは略す。)

 さて、上の説話の内容は次のようである。

〈その一〉
 昔、此の堺(基山を指す)の上に“荒ぶる神”がいた。往来の人々に多くの死者が出た。そこで「人の命尽くしの神」と言った。
〈その二〉
 その時、筑紫君・肥君等が占いをした。(その結果)現在(筑後国風土記の成立時点)の筑紫君等の祖先に当る甕依姫が(招かれて)登場し、彼女が「祝」(司祭者)となって祭った。
〈その三〉
 その結果、路行く人が「神害」をこうむることがなくなった。そこで「筑紫の神」というのである。

 要するに、過去の一時点における“現実の巫女”たる甕依姫の活躍譚である。

 次いで古田さんは、この説話の内容を次のように分析している。

 まず、「甕依姫」ついて注目すべき点がある。

第一
 「よりひめ」は、「憑(よ)り代(しろ)」をもって神に仕える、権威ある巫女”を意味する称号である。「天之狭手依比売(あめのさでよりひめ 「狭手」は、漁具の一種のようである)」、「玉依毘売(たまよりひめ)」(ともに『古事記』神代巻)などと同じである。「甕依姫」の場合、「甕(みか)」が固有名詞(人名)部分、「依姫」は称号と考えられる。「ヒミカ」と固有名詞(人名)部分が一致している。

第二
 甕依姫が「甕」を“憑り代”としていた巫女であった、とすれば、いわゆる「甕棺」の盛行した、弥生時代の筑紫の巫女であったもの、と考えられる(考古学上では「カメカン」と言いならわされてきたけれども、“死者の死後を祈り、祀る”という、神聖な意義からすれば、「ミカカン」と呼ぶ方が正当であるものと思われる)。この点から、甕依姫はヒミカと同時代の人であった可能性が高い。

第三
 両者とも、呪術をもって神に仕える、すぐれた能力をもつ巫女であった。この点も共通している。

第四
 甕依姫は「筑紫君の祖」である、と記せられている。したがって彼女自身も「筑紫君」として、筑紫における中心権力者であった可能性が高い。この点も、「倭国の女王」として、中心権力者であったヒミカとの重要な共通点である。

 次に説話が伝える事件の経緯についてまとめると次のようである。

第五
 「麁猛神」が「半死半生」事件をおこした、というのは、要するに“この神を祭る氏族による、大規模な反乱”をさすものであろう。この大反乱に対し、筑紫君・肥君等は、これに対する術(すべ)を失った(「等」といっているから、他に豊君や日向君なども、含まれよう)。要するに、九州の北・中部を中心とする、大争乱だったのである。

 これは「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」という「倭人伝」の一節に符合する。ヒミカの登場以前に一大争乱があり、従来の権力者間で解決不可能の事態となったことが記せられている。

第六
 そこで筑紫君等は、占いによって甕依姫をえらび出し、彼女にその解決をまかせた。彼女は「祝(はふり)」(司祭者)となって、「麁猛神」を祭り、この大争乱を鎮めることに成功した(おそらく、軍事・政治・宗教にわたる各面での施策の成功をふくむものであろう)。

 これは「倭人伝」の「乃ち共に一女子を立てて王となす。」と呼応する。ヒミカは、人々から「共立」された、という。その「人々」とは、倭人伝の用語では「大人」であろう。この点、“筑紫君・肥君等の占いによって登場させられた”という甕依姫のケースと一致している。

第七
 そして注目すべきものは、次の点である。この大成功によって、以後、甕依姫の子孫が筑紫君となり、現在(六~七世紀後述)に至っているのである。いいかえれば、この画期をなす事件以前の、旧筑紫君と、この事件より後の、甕依姫を祖とする新筑紫君と、権力中心者の家の交替が生じた。このように語られている。

 これは「倭人伝」の「更に男王を立てしも、国中服せず。更ゝ(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。」と呼応する。ヒミカの「宗女」(一族の娘)である壱与が、「倭国の女王」となったことがのべられている。すなわち、卑弥呼は一代で終らず、その「血縁の娘」が後継者となった、と言っている。つまり、最初に、「その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七・八十年。」とあった、その旧「倭国の王権」が断絶し、新「倭国の女王の王統」に交替した、という王家の交替が記録されている。

 以上のように、「甕依姫」説話と「倭人伝」が伝える倭国が7つもの点で一致している。こういう場合も偶然と言うだろうか。ここまで一致すれば、甕依姫をヒミカに比定できる可能性はきわめて高いと言えよう。

《「真説・古代史」拾遺編》(71)

「邪馬台国」論争は終わっている。(10)


 (以下は『よみがえる卑弥呼』による。)


「卑弥呼」の読み方とその意義


 「卑弥呼」を「ヒミカ」と読む根拠を、古田さんは次のようにまとめている。

第一
 倭人伝において、対海国・一大国の「大官」が「卑狗」=「ヒコ」(=彦)と表記されている。「卑」は「ヒ」の表音文字として用いられている。

第二
 同じく、投馬国の「大官」は「弥弥」=「ミミ」、「副官」は「弥弥那利」=「ミミナリ」と表記されている。「弥」は「ミ」の表音文字として用いられている。(従来説では、「ヒメミコ」の略であり「ヒメコ」と読む、という説がある。「弥」の音は「ビ」または「ミ」であり、「メ」という音はない。原文を勝手に変えないというルールに立つ限り、この説は成り立たない。)

第三
 問題は「呼」である。この文字には「コ」と「カ」の両音がある。前者は「呼吸」などの場合。後者は「神に捧げる犠牲に加えた切り傷(きず)」を指す場合である。このいずれの音か。この吟味が従来欠けていた。

 ここで、ちょっと疑問が出てきた。「呼」には本当に「カ」という音があるのだろうか。古田さんは「カ」=「神に捧げる犠牲に加えた切り傷(きず)を指す」という詳しい意味まで挙げているが、典拠を示していないので気になった。調べてみたが、手元のどの辞書にも「カ」という音は挙げられていない。

 論理に厳しい姿勢を貫いている古田さんが勝手な造作をするなど、とても考えられない。『よみがえる卑弥呼』のこのくだりは「すでに論じたところを要約し」たものだから、その根拠については省略したものと考えるほかないだろう。古田さんはしばしば、諸橋轍次編著『大漢和辞典』を典拠にしているので、もしかすると『大漢和辞典』にあるのだろうか。近いうちに図書館にいって確認してみようと思う。今はこの問題はおいて、ともかく先に進んでみよう。

 辞書を調べていて、想わぬ収穫があった。白川静『常用字解』に次のような解説があった。

形声。音符は乎(こ)。
 乎が呼のもとの字であった。乎は小さい板に遊板(紐でつないだ板)や鈴をつけて振って鳴らす鳴子板(なるこいた)の形で、人を呼ぶときや鳥を追うときに使用した。 もとは神を呼ぶときに使った。 それで乎は「よぶ、さけぶ」の意味となる。乎が助詞の「や、を、に」などに用いられるようになったので、別に呼の字が作られて「よぶ」の意味に使われ、さらに「息をはく、はく」の意味にも使われた。


 「乎」=「呼」にはもともと宗教的な用法があったことがここでも示されている。また、「乎」は終助詞として「カ」と読むことがある。さらにもう一つ、卑弥呼は「倭人伝」のほかに『三国史記』にも一か所出てくる。そこでは「倭女王の卑弥乎」と「乎」の字が使われている。

 さて、上記「第三」について、古田さんは次のように論じている。

 先に述べたごとく、「コ」の表音に「狗」の文字を用いている(この「狗」にも、「コウ」「ク」の両音があるが、「卑狗」が「彦」に当ると見られる点から、「コウ」系列の音に用いられているものと見られる)。したがって「呼」もまた、「コ」の音の表記に用いられているとは、考えがたい。すなわち、もう一方の音、「カ」の方の表音である可能性が高いのである。

 しかも、この音の場合、右にのべたような、きわめて宗教的色彩の濃い用法であるから、「鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。」とされた、この倭国の女王の人名表記に用いられたとすれば、きわめて適切である。なぜなら、中国の尨大な文字群の中で、一定の「音」をしめすべき文字は、常に数個ないし多数存在する。それゆえ、その中のいずれの文字をえらんで、そのさいの表音文字として使用するかは、その文字のもつ「意味」ないし「イメージ」による他はない。その点、「呼(カ)」、は、まことにこの倭国の女王のイメージにふさわしいからである(「コ」の場合も、「狗」は“卑字”だから、中国の夷蛮伝の中の表音文字として、そのイメージにふさわしいのである)。

 右の吟味によって「卑弥呼」の「呼は、「コ」より「カ」音に用いられた可能性の高いことが判明する。以上「卑弥呼」の読みは、通説に反し、「ヒミカ」と見なすべき可能性が高い。

 いまだ仮説(可能性)の段階だが、その正否の判断は、他の事項との整合性によるほかないだろう。ということで、次は「ヒミカ」の意義を考察することになる。

 まず、「ヒ」は「日」であり、太陽の義であろう。なぜなら、「卑狗=彦」の場合も、その原義は「日子」すなわち“太陽の男”を意味するもの、と考えられるからである。しかも、このさい、「日」と「子」との間には、「ノ」といった繋字がなく、しかも、“太陽の男”という意味が表現されている。これが、古代日本語の一表現法だったのである。

 他にも、「ツシマ(対馬)」は「津島」であり、「津(浅茅(あそう)湾か)のある島」の意と思われる。これも「AプラスB」と両者を直結する形であり、Aは“形容詞的用法“となっている。他にも、「山本」は“山のもと”、「川口」は“川の口”であるように、現代日本語にも、この形式の成語は数多いのである。

 次に、「ミカ」。これは「甕」であろう。

みか【甕】専ら酒を醸(かも)すに用いた大きなかめ。もたい。祝詞、新年祭「ーーの上(へ)高知り」〈広辞苑〉

 思うに、「カメ」と「ミカ」とは、語幹「カ」を共有している。これが実体をしめす、中枢語であろう。これに対し、後者はこれに「メ」という接尾辞が加わって成語となっている。一方、前者の場合、「ミ」という接頭辞が加わっている。「神(カミ)」、「御(ミ)」等の「ミ」に当るものであろう。すなわち、“神聖なるかめ”これが「ミカ」の意味するところではあるまいか。

 以上によって、「ヒミカ」は“太陽の「ミカ」”の意義であり、その語幹をなすものは「ミカ」である。すなわち、「ヒ」は、いわば、美称であり、その人名の実体は「ミカ」にある。

《「真説・古代史」拾遺編》(70)

「邪馬台国」論争は終わっている。(9)


 古田さんによれば、『三国志』における一字一音表記法の規則は次のようである。(論証は省略する。)

 『三国志』における表記法は、けっして「純音韻主義」的表記ではない。
()
 「音韻の一致」でなく、「音韻の類似」のみが必要とされている。
()
 対象の内実にふさわしい字面の意義が重視されている。
 また、万葉仮名でいう甲類乙類が区別して表記されているという表記法則性の立証はない。

 上のルールの具体例として、古田さんは「伊都国」という表記の分析を行っている。(以下は論文「邪馬壱国の諸問題」の補注2による。)

2 「伊都国」という表音表記の意義

 現地音「い」「と」に相当する表記として「伊」「都」という漢字が用いられている。この表記を、上の()「対象の内実にふさわしい字面の意義」という観点から、古田さんは次のような分析をしている。

 「倭人伝」中の一文「南、邪馬壹國に至る。女王の都する所。」によれば、邪馬壹国は倭国の王の「都」(倭王の治所)としてとらえられている。では、倭王の治所ではない「いとこく」になぜ「伊都国」という表記を用いたのだろうか。数多い「と」という音の文字(万葉仮名では甲類は25字、乙類は21字ある。)の中から特徴ある「都」字を選んだのにはそれなりの理由があるはずだ。

 この「伊都国」という表記は、洛陽にあった史官陳寿にとって、深い典拠と類縁を有したものであると考えられる。なぜならば洛陽の近傍にこれと相関する字面をもつ「伊闕」の地があったからである。

(「伊闕」の用例を『史記』や『淮南子』などから6例引用しているが、略す。)

(中略)

 「伊闕」の「闕」は、天子の居所たる宮殿の意義であり、「伊」は「伊邇」(イジ、“コレチカシ”の義で、近傍なるをしめす)の熟語にある発語の辞である。

(『詩経』から「伊邇」の用例を引用。略す。)

 「伊」そのものに直接「近」の意義があるわけではないけれども、この『詩経』の著名な詩句のイメージからしても、首都洛陽なる宮闕の西南関を擁する地として、「伊闕」地名は、きわめてふさわしき字面として洛陽の人々には感ぜられていたであろう。(この地に「伊水」もある。『史記』秦本紀正義、注水経)

 しかも、先の淮南子の例Cにあるように、この「伊闕」をひらいたのは聖天子禹である、という伝承がともなっていた。この禹の東治、五服の制を典範としつつ、その古制(夷蛮の王の、中国の天子への朝貢の礼)を今に守る国として、倭国を描き、その中心国家として「邪馬壹国」の名をはじめて記したのが『三国志』の著者陳寿であった。

 こうしてみると、この女王の都する国の西隣にあって、「郡使の常に駐まる所」として、その関塞の如き位置を占めた「伊都国」に対して、「伊都」の字面があてられたのは偶然ではないであろう。

 すなわち、この「伊都」の「都」は、その地そのものを「都」と見なしているのではなく、ほかならぬ「邪馬壹国」のことを指しているのである。すなわち、「伊都」「都」とは「女王の都に遠からず伊邇たる地」の意義をもつのである。

 これは中国側の「伊闕」が「宮闕」の存する当の地ではなく、中心地洛陽に隣接した関塞であったのと同様なのである。

 わたしは(中略)邪馬壹国の所在地をもって、“博多湾に臨む平野部とその周辺山地”として指定した。この解読結果は、伊都国をもってまさに“隣接した近傍の地”とする点、この字面の意義ともよく適合しているのである。

 以上の考察を要約しよう。

()
 倭人伝で「ト」音として用いられているのは「都」である。

()
 この「都」字は、意義上からも倭国の首都にあてる表記として、もっともふさわしい。

()
 それ故、「女王の都」の現地音がもしかりに「ヤマト」(大和・山門等)であったならば、当然それは「邪馬都」と記せられたはずである。

()
 しかるに『三国志』倭人伝に「邪馬都」というような表記が採用された痕跡は絶無である。

()
 それ故、この四点の論理から検しても、『三国志』倭人伝の中心国名を「ヤマト」という現地音の漢字表記と見なそうとする、一切の試みは遂に空しいことが確認せられるのである。

《「真説・古代史」拾遺編》(69)

「邪馬台国」論争は終わっている。(8)


 これまでの古田さんの論文では、「奴(な)国」→「奴(ぬ)国」、「卑弥呼(ひみこ)」→「卑弥呼(ひみか)」など、表音文字の読みの訂正が行われていた。従来の「定説」による読みが間違っていることを示唆している。この問題は定説論者の単なる読み間違いではなく、その背景にある誤った基本姿勢の反映なのだ。今回から、この問題を取り上げてみたい。

 周知のように『三国志』では、周辺国の国名や人名を当事国での呼び方で表記する場合、一音一字の漢字を当てて書き表している。一音読みの漢字には一般に複数の音があるので、そのどれを選ぶかで諸説が競うことになる。しかし正解は、全体のルールの中で検討すれば自ずと明らかである。

1 「奴国」の読み方

 どの漢和辞典を調べても「奴」の一音表音は「ぬ」または「ど」である。また、万葉仮名は「倭人伝」よりずっと後に、中国における表記法に習って設定されたものだが、当然そこにも「奴=な」なんて設定はない。

な ― 奈・那・難・儺・寧・乃・南・娜・名・魚・七・菜・中・莫

 「奴」は「ぬ」または「の」または「ど」である。

ど ―(甲類)度・渡・土・奴・怒
の ―(甲類)努・怒・弩・奴・野
ぬ ― 奴・農・濃・沼・宿・寐・渟

 実際「倭人伝」では、投馬国の副官「みみなり」を「弥々那利」と表記して、「な」の音には「那」が使われてる。

 ではなぜ定説論者は、「奴=な」という不当な読みを当てはめたのか。定説論者のつぶやきはこうだ。
『「倭人伝」における第一の大国・「邪馬台国」は「大和(やまと)以外にはあり得ない。第二の大国・投馬国は大和への行路からは外れているから論外。ならば第三の大国・奴国は博多湾周辺でなければならない。そこには「儺縣・儺河・那之津」など「な」地名がたくさん残っている。うんそうだ、「奴国」は「なこく」だ。』
 当たらずとはいえ遠からず、だと思う。

 このでたらめで不当な定説は実に罪深い。例の志賀島の金印「漢委奴国王」を「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と読む誤読はそこから生まれた。私も、もちろんこのまちがった読みを、学校で覚えさせられた。なんの疑いももたず、覚えた。いまでもこの間違った読みが堂々と流通している。

 ではどう読むのが正しいのか。「漢の委奴(ゐど)の国王」だ。『古代史の未来』から引用する。

 天明4年(1784)志賀島(福岡県)から発見された金印には「漢委奴国王」の五字が刻まれていた。後漢書倭伝の中で、光武帝が建武中元二年(57)に授与したとされるものである。この印文に対する理解の仕方が、日本の古代史像を真実(リアル)に把握するか否かの決定的な分かれ道をなす。

 中国の印文表記法は次のようだ。

(A)授与者(中国の天子)―(B)被授与者(配下)
(中国の内外各層により、金印・銀印・鋼印を分かつ)

 いずれも「二段」表記であり〝中間者″の介在はありえない。したがって、この印文の正しい解読は「漢の委奴(ゐど)の国王」である(「委奴」は光武帝のライバルであった「匈奴(きょうど)」に対する造語。〝従順な部族″の意)。

 つまり、従来の読解「漢の委(わ)の奴(な)の国王」はまったくの誤読である。中国の印文において、このような「三段」読みの国名はない。「漢匈奴悪適尸逐王」(大谷大学現蔵)という例があるが、「悪適尸逐(あくてきしちく)」は部族称号であって国名ではない。そのうえ「銅印」(もしくは金メッキ)であって「金印」ではない。

 金印の「三段」読みなど、まったくのルール違反だ。にもかかわらず、わが国の古代史学の定説派は、こぞってこのルール違反の道路を運行しつづけてきたのである。

 もしこの「奴国」が金印授与国であったとしたら、三国志の魏志倭人伝に二回も出現する奴国の記事中に、その旨の特記がない事実は理解不可能と言わねばならない。

 右の奴国(第一回出現)は、倭国中、第三の大国(第一位は邪馬壱国〈女王国〉。第二位は投馬国。戸数が各七・五・二万)である。にもかかわらず博多湾岸を「奴国」としたため、それ以上の出土物(三種の神器・絹など。)のあるべき女王国(いわゆる「邪馬台国」)を求めて、定説論者たちは永遠の流浪の旅に出ることになった。

 しかしその到着点などあるはずがない。なぜなら、日本列島の弥生期において、金器・銅器・ガラス器、そして絹など、当代最高の器物が集中出土すること、当地域(博多湾岸とその周辺)に匹敵しうる地帯は絶無だからである。神殿・宮殿なども同じだ。

 平成5年、私は学術論文をもって学会にこの点を問うたが、応答はない。

 以上の立論を講演録『古代史と国家権力』からの引用で補強しよう。中におもしろくも滑稽な話があって、それの紹介もしたかった。

 ところが、これを三宅米吉という考古学者が「漢の倭の奴の国王」と読んだ。その意味は、倭というのは実際、大和なんです。漢の下に大和朝廷があって、その大和朝廷の下に奴という筑紫の王者がいると。その筑紫の王者が金印をもらったと、こういう解釈をした。しかし、日本の中で第二の、大和に附属する王者が金印を貰ったのなら、大和は何を貰ったのですか。貰うものがないじゃないですか。近畿からは何も出て来ていないでしょう。出てはいないけれども、大和朝廷を入れなければ我慢できないわけなんですね。三宅米吉は、強固な邪馬台国近畿論者でしたから。

 こっけいな話ですが江戸時代に、こんな話があります。あれは大和朝廷が中国から貰ってきた印であると。ところが、船の中で開けて見た。よく字を読むと、なんと奴隷の奴の字があるではないか。けしからん、こんなものを持って帰れるか、と投げ捨てたものが博多の志賀島に漂着して、そこから出たという説が、当時学説として出ていたそうです。

 これは皆さん、お解りの通り、大和朝廷の顔を立てたならば、こうならざるをえないですね。大和朝廷しか金印を貰うものはありえないのですから、今のような見て来たような嘘を言い、にならざるを得ない。

 それを笑っているけれども、実は笑えないのは皆さんが小学校時代から教えられてきた、「漢の倭の奴の国王」という読み。これは、今の話と同じ思想なんです。漢に附属した大和朝廷があって、それに附属した那の津の王者がもらいましたという、変な読みになっているのです。子供のころから教え込めば、ちゃんとみんな信じこむ。いくら批判だと言い出しても、ここのところは批判の対象にしないのですね。人間というものは。
 ですから、漢の委奴(ゐど)国王と読まなければいけない。そこで、倭国はその委奴国の後の国だと、旧唐書には書かれている。あと、卑弥呼の国、私は糸島、博多湾岸の国、邪馬壹国と考えているのですが、それも、後を受け継いだ国だとハッキリ書いてある。それに対して日本国は別の国だと書いてある。これは小国であると。しかし、小さな国と言うのは、必ずしも地理的に言っているのではなく、附属国、ご主人国に対する家来国のことを小国と言うわけなんです。いわゆる倭種で、倭人に属するが小国である。これが、ご主人国の倭国を併呑したと。併呑した日本国と我が中国が交流しはじめたのは703年であり、それまでは倭国との交流があった。こうちゃんと書いてある。

 これは唐の歴史書です。しかも、唐の中には阿部仲麻呂がいる。日本から行って中国にとどまり、ベトナムの大守にまで任命された仲麻呂が長安で没したわけですから、こういう記事は当然、仲麻呂のオーケーを取っているわけです。この倭国と日本国が、同じ国であるはずがないです。岩波文庫の解説(旧唐書)では「不体裁」などと言って処理してあるけれども、これも、子供のころの学習ロボット以来、教え込まれて今日に至っているのです。

《「真説・古代史」拾遺編》(68)

「邪馬台国」論争は終わっている。(7)


 『「邪馬台国」はなかった』では、「三国志」全体のルールに従って「倭人伝」を読むという方法に徹することだけによって、「邪馬壱国の在処は博多湾周辺地域」という結論を得た。そこでは考古学的な資料はいっさい用いていない。その後、古田さんは考古学的資料に取り組んで、「邪馬壱国の中心地はどこか」という問題に迫っている。その結果が「倭人伝」の読解から得た結果と一致すれば、古田説が真実であることがいっそう明らかとなる。

 それでは、弥生時代のものとされる遺跡から出土した遺物の出土状況を見てみよう。(以下の資料はは『日本古代新史』による)なお、各資料の数値は、その後の発掘調査などの進展により、現在明らかになっている数値とは多少の違いがあるかも知れない。しかし、その基本的な傾向には変わりはない。

鉄器出土全分布図

鉄器分布図


 福岡県が106で圧倒的に多い。兵庫42、大阪27、奈良はゼロ。

大型鉄器出土分布図

大型鉄器分布図

 これも福岡県が圧倒的で、近畿はほとんどない。

ガラス勾玉出土分布図

ガラス勾玉分布図

 弥生時代のガラスの勾玉は近畿にもあるが、やはり九州糸島・博多湾岸が圧倒的に多い。とくにガラスの勾玉の鋳型は、糸島・博多湾岸に集中している。

九州における銅矛と銅戈の出土分布図

銅矛分布図

 銅矛・銅戈ともに福岡県が圧倒的に多い。対馬が福岡県と連動していることに注意したい。対馬と壱岐を、古田さんは「倭国の定点」と呼んでいる。なお、この頃の近畿は銅鐸圏であった。

北九州における銅器鋳型の出土分布図

銅器鋳型分布図

 銅矛と銅戈の鋳型も糸島・博多湾岸が中心だ。

 以上だけでも、弥生時代の政治・文化の中心は九州北部であることが、誰の目にも明らかではないか。この事実に目をつむって、相変わらず「邪馬台国=近畿」説に固執する学者たちの頭脳と神経は一体どうなっているのだろうか。古田さんの造語を借りると、まさにテンノロジーという虚偽意識に呪縛されている哀れな人たちと言うほかない。

 ところで「倭人伝」によると、魏の明帝は詔書とともにたくさんの宝物を卑弥呼(ひみか)に下賜している。とくに「鏡百枚」や種々の絹(錦)が目立つ。では次に漢式鏡と絹の出土状況を見てみよう。

漢式鏡の出土分布図

漢式鏡分布図

 福岡県が149、佐賀県が11と、他を圧倒している。近畿はきわめて少ない。大阪、京都はゼロ。

九州北部の絹の出土分布図

絹分布図
(布目順郎氏作成)

 倭国産の絹もやはり博多湾岸とその周辺に出土している。特に注目すべきは、中国産の絹は春日市の須久(すく)岡本遺跡だけに出土している。他は全て倭国産の絹である。

 以上から、邪馬壱国の中心地は福岡県春日市周辺ということが明らかである。

 なお、奈良では弥生時代の絹の出土例はない。しかし、古墳時代の遺跡・黒塚から絹が出土している。もちろん倭国産の絹である。これについて、古田さんは次のように述べている。(講演録「卑弥呼と黒塚」より)

 非常に興味深い。被葬者の木棺自身も桑の木で出来ている。これはおもしろい。黒塚に葬られた人は蚕、絹の製法を始めて大和にもたらしたことを誇りに一生を終えた人ではないか。

 桑の木というのはあまり木棺を作るのに適した木だとは思えない。それをわざわさ葬られた人の気まぐれで桑の木にしたとは考えられない。やはり桑の木に葬ることが、葬られた人にとっては本望であろう。多少木棺の部材としては具合が悪いでしょうが、それを越えて値打ちがある。だから桑の木の木棺にした。こう考えて間違いない。事実倭国の絹が出てきた。

 倭国の絹が出てきたということは中国ではない。中国から絹が来たのなら、中国の絹が全部ではなくとも一部でも出なければおかしい。中国の絹は全くゼロ。全くなかった。倭国の絹ばかりである。そういうことは彼がもたらしたのは中国からでなくて、博多湾岸からである。そういうことは誰も言わないでしょうが論理的にはそうなる。

《「真説・古代史」拾遺編》(67)

「邪馬台国」論争は終わっている。(6)


 「1里=約75メートル」という魏・晋時代の物差しを使って「倭人伝」の記述に忠実に従えば、邪馬壱国の位置を決定できる。邪馬壱国はどこか?

 「不弥国は邪馬壱国の玄関である」、わたしはそういう命題(それが真理とされたテ ーマ)に達していた。「部分」をなす「区間距離」が、「不弥国」で終っている以上、これは当然の帰結だった。

 その不弥国は、伊都国から東へ百里。7.5キロだ。基準をなす伊都国は、旧怡土村。今の前原町か糸島神社あたりとすれば、不弥国は、今宿か姪の浜あたり、ということになろう。博多湾岸への、西からの入口である。そこが玄関となれば邪馬壱国は当然、博多湾岸一帯となろう。

邪馬壱国

 旧来の論者が「奴(な)国」に当ててきた地帯だ。しかし、真の「奴(ぬ)国」は伊都国の東南、百里。つまり糸島郡の平野部(旧、糸島水道以南)。わたしはそう考えた。第三の大国である。

 次の問題は、では邪馬壱国の範囲はどこまでで、その中心はどこか?

 この問題は『「邪馬台国」はなかった』(古田さんは「第一書」と呼んでいる。)ではまだ未解決だった。その後の探求により、古田さんは次のような結論に達した。

 邪馬壱国(旧「邪馬台国」)の〝比定地″は、けっしていろいろは存在しない。博多湾岸、その中心は博多駅から太宰府に至るゴールデン・ベルト、それ以外に見出すことができぬ。わたしは堅く、そのように思っているのである。

 次は範囲。これは、倭人伝からはわからない。これが原則だ。魏の使者にとって、女王国の都に到達したこと、それで十分だった。それ以上に、その国の東西南北の範囲を確認して報告する、そこまではいたっていなかった。三国志に次ぐ、晋書 ― それも陳寿に委ねられるはずだったようであるが ― でも、できていれば別だったかもしれないけれど、それは成立しえぬまま陳寿は死んだ(今ある『晋書』は、ずっと後の唐代 - 7世紀-の成立)。

 したがって、第一書のさいはそれにはふれえなかった。しかし、今は一歩前進できた。筑後川流域もまた、邪馬壱国の範囲内と考える。そこにある有名な「山門」、それは文字通り「山の門」である。肥後(熊本県)にも「山門」があったという(和名抄)。さらに博多湾岸西北の入口、あの姪の浜の近くにも「山門」(下山門)がある。これらの「山門」群は、この地名群の内側に「山」と呼ばれる領域があったことの反映だ、わたしにはそのように思われる。

 一方、「邪馬壱国」とは、「邪馬(山)プラス壱」という字面。「壱」(壹)は、〝二心なく忠節″という意味で、壱与が中国(西晋の天子)に対して〝名乗った″国名と考えられる。「壱与」は、その「国名」の「壱」(「倭〈ゐ〉」に代って)を姓とし、中国風の一字名称「与」を名としたもの、そのように考える。

 狗邪韓国といえば、韓地における狗邪の地。不耐濊(ふたいわい)王といえば、濊国の中の不耐の地の王。同じく「邪馬壱国」は、「壱」(倭国を指す)国における、「邪馬」(=山)の地、それを指す言葉である。わたしはそのように考えた。したがって、右の「山門」群の囲続は偶然とは思われなかった。そこで、筑後川流域も邪馬壱国の範囲内、そう判断したのである(ただし可能性)。

 もちろん、これは先の「里程分析」のような確実度にもとづくものではない。たとえば「山門」という地名が、3世紀にまでさかのぼれるかどうか、厳密には不明だからである。倭人伝からいえることは、「戸数七万」の大国は一博多湾岸だけでは狭すぎる。少なくとも、筑後川流域もふくむ、そう考える方が妥当、そのように判断されるのである(壱岐一郎さんは、佐賀県までふくんだ大領域を考えておられるようであるが、もちろんその可能性もあろう)。

 何でも、倭人伝からわかる。そんなものではない。わかるものをわかるとし、わからないものをわからないとする、これこそ真実探究者にとって基本のマナーではないだろうか。

 次の問題は、では邪馬壱国の中心はどこか?

 例の方法、〝三国志全体の用例から倭人伝を見る″。この方法から見ると、中国の場合、「~洛陽に至る」という文形の場合、洛陽城の一角、その都門に到着したことをしめす。そこから先、城内に入ってからの中心地、それはまた別の話なのである。中国の「都」や「町々」に当る各地の大・小の中心地は、原則として〝城壁″に囲まれている。そういう習慣に立った書き方だったのである。

 今は邪馬壱国の玄関、不弥国に立った。博多湾岸の西北の入口だ。そこから先に女王国はひろがっている。その中で中心地はどこか。それはそこまで着けば一目瞭然。たとえば、洛陽城の一つの都門に入って、そこから先の市街案内、そこまで書いてはいない。それが三国志の書き方なのである(また多くの他の史書もそうだ)。

 こう考えてみると、真の中心地、・・・それは、志賀島から朝倉まで、その線上の中心域である。弥生のゴールデン・ベルトなのだ。こここそ、弥生の第一の大国、邪馬壱国にふさわしい。

福岡県遺跡群
(『古代史の未来』より)

 ここを、弥生の「第三の大国」である「奴(ぬ)国」に当てたら、それに対する「第一」「第二」の大国は、日本列島中、いったいどこにある。弥生の出土分布図を見渡しても、どこにもないではないか。

 この地帯から豪華な弥生の出土物が出土するたびに、「奴(な)国から、また出土」と書きつづけてきた新聞記事、そこに古代史界における「現代の迷妄」が象徴的に表現されている。そういったら、果して過言だろうか。

《「真説・古代史」拾遺編》(66)

「邪馬台国」論争は終わっている。(5)


 「倭人伝」の里程記事が誇大記事ではなく、事実に即したものであることが分かった。次に問題になるのが、従来説では「部分里程の総和が総里程にならない」という問題である。この問題の解読には大事なポイントが3点ある。



〔1〕
 榎説では、奴国・不弥国・投馬国・邪馬壱国への行路は伊都国を中心に放射状になっていると解釈していた。この「放射状行路」説に対して、古田さんは「傍線行路」説を主張する。

 「倭人伝」原文では「いたる」という文字は「至」と「到」が用いられている。前々回に提示した行路の現代語訳文では全て「至」が使われているが、原文で使われている文字に復元して、里程記事を再掲示する。(赤字強調は「傍線行路」説の論拠となる。)

①あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗邪韓國に到る七千余里。
②始めて一海を渡ること千余里、對海國に至る。
③南一海を渡ること千余里・・・一大國に至る。
④また一海を渡ること千余里、末盧國に至る。
⑤東南陸五百里にして、伊都國に到る。
⑥東南奴國に至ること百里。
⑦東不彌國に至ること百里。
⑧南、投馬國に至る水行二十日。
⑨南、邪馬壹國に至る。

 榎博士は「到」を用いている場合を最終到着地と考えた。そこで魏の使者の最終到着地は伊都国とし、その後の行路は「放射線行路」とした。この説の正否を確かめるため、古田さんは、三国志全体から「至」と「到」を全部抜き出して検証したが、両字間に用法上の違いは見出せなかった。

 しかしこの検出の際、「三国志」における行路記述のルールは「進行動詞(上記赤字)プラス至(到)る」であることを、古田さんは見いだした。つまり⑥と⑧は主行路から外れる「傍線行路」である。邪馬壱国への行路からは外れているが、邪馬壱国に次ぐ第二・第三の大国として付記したのだ。従って邪馬壱国への行程図は次のようになる。

行路図

〔2〕
 第二点は「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月。」の解釈だ。従来説は「水行十日、陸行一月」を不弥国あるいは投馬国(榎説では伊都国)から邪馬壱国までの距離を表すものと考えて困っていた。

 これに対して古田さんは、「区間距離」の中で「・・・里」の形で書かれているものだけが、真の「部分里程」であり、「水行二十日」や「水行十日、陸行一月」は部分里程ではない、と言う。言われてみれば、至極もっともな読み方だ。すると当然、「水行十日、陸行一月」は「帯方郡治→女王国」間の総日程ということになる。誇大な表現だ、などと「倭人伝」を貶める必要は全くない。

 すると不弥国から邪馬壱国までの距離が書かれていないのはなぜか。隣接国だからだ。

〔3〕
 第三点は対海国と一大国の面積記事の扱いである。現在では対馬・壱岐と呼ばれている島である。それぞれ「方四百余里」・「方三百里ばかり」となっている。

 従来論者はこの二つの島の通過を一点通過として扱い、何の疑問も持たなかった。しかし、魏使はそれらの島をただ素通りしたのではなく、上陸して実地検分した記事を残している。その島を「周旋」(はしを経めぐってゆくこと。「倭地」を「周旋」するむねが、記されている)したのだ。その場合、二辺として計算するのが自然である。四辺なら、もとへ戻ってしまう。つまり、次のような「周旋」となる。

周旋図

(以上の3つの問題についても『「邪馬台国」はなかった』で実に緻密な論証が行われている。ここではほとんど結論だけに絞った。)

 以上により、部分里程の総和を計算すると

 7000里  帯方郡治-狗邪韓国(水・陸行)
 1000里  狗邪韓国一対海国(水行)
  800里  対海国(半周,陸行)
 1000里  対海国-一大国(水行)
  600里  一大国(半周,陸行)
 1000里  一大国-末廬国(水行)
  500里  末廬国-伊都国(陸行)
  100里  伊都国-不弥国(陸行)

計12000里(全里程)


 ぴったり「万二千余里」である。

《「真説・古代史」拾遺編》(65)

「邪馬台国」論争は終わっている。(4)


 榎氏が唐代の『六典』を根拠に里程を計算していたのに対して、古田さんはあくまでも『三国志』の記述のルールに従う方針を貫く。つまり古田さんは『三国志』中の里数値を全て書き出して調べている。古田さんの解読の厳格さを示す好例なので、その部分の叙述をそのまま引用しよう。

 三国志全体の中には、159個の「里」があった。その中には、固有名詞中のものや、距離でなく、別の意味(たとえば〝むらざと″など)に用いられた「里」、またいずれとも判断できるような「里」もあって、数え方によって若干の誤差はあるけれど、大約に変わりはない。ことに「里」の長さ、つまり「里単位」を測定する直接の手がかりにできる例は、ここにふくまれている。

 〝そんなにあれば、一里がどのくらいの長さで使われているかすぐわかるだろう″。そう思われる方もあろう。だが、そうはいかない。測定技術上の難点があるのだ。

 かりに〝A地(地名)からB地(地名)まで何里″とあったとしよう。第一に問題は、そこに書かれているA地やB地とは三世紀の地名だ。それが現代の中国地図のどこに当るか。それが問題である。一般にはなかなか確定しにくい。

 第二の問題は、もし確定できたとしても、三世紀のA地と二十世紀のA地とでは、ピタリ、一致するはずはない。多かれ少なかれ、ずれている。それが当り前だ。だから、「何里」とか、「何十里」とか、そんな短い距離ではあぶない。「何百里」でも、必ずしも安心できない。倭人伝では、末盧国から伊都国まで「五百里」、狭い距離である。

 第三の問題として、A地とB地の中のそれぞれどのあたりを測定の基点にするか、それによってえらく〝狂ってくる″のである。

 このような困難点を回避するため、わたしは次のような基準を立てた。

(1)
 A地からB地まで、という二点間の距離の形をとっていること。
(2)
 A地・B地とも、三世紀のその地点が現在も確認できること。
(3)
 その距離が「千里」台であること。

 このようなケースなら、たとえ先にのべたような測定上の〝ズレ″の問題があったとしても、〝影響をうけない″ - そう考えたのである。

 この厳格な基準にパスした例、それが二つあった。

(A)
 (韓地)方四千里なる可し。(魏志、韓伝)
(B)
 (武陵郡治〈常徳〉から五渓まで)山険に縁(よ)りて行き、二千里に垂(なんな)んとす。(呉志、鐘離牧伝)


 これはすばらしいことだった。わたしの方が、いわば〝勝手〝に立てた基準だ。そんなもの、なし。こうなっていても、文句をいえた義理ではない。

 二例では少ない。そういう人もあろう。しかし、「里単位」というものの性格からいえば、これで十分ともいえよう。一つの本の中の各ぺージにあらわれてくる「里」の基本の長さが、無原則に各ページまちまち、そんなことはありえないからである。ところが、右の二例とも、じつは倭人伝と同一の「里単位」に立っている。それが判明したのだ。(A)は明快な例だった。韓地は、東と西が海。「方四千里」というのは、一辺が四千里の正方形、という意味だ。だから東西四千里の実際の長さが明快なのである。

朝鮮半島

測ってみると、約300~360キロメートル。したがって1里は約75~90メートルということとなろう(海岸線の海浸などを考慮して誤差を見こんで測定した)。

わたしはこの例を見て思った。〝倭人伝の里程誇張説は無理みたいだな〟と。なぜなら、韓地は倭国などと異なり、漢代にすでに、「漢の四郡」がおかれていた朝鮮半島だから、その東西幅の実際の長さを中国の朝廷の側(漢-魏-晋)が知らなかったはずはない。それを「四千里」といっているのだから、この「一里」は漢の長里(一里=約435メートル)などであるはずはないのである。

 してみると、中国(魏朝)は、一里を約七75~90メートルと考えている、そう見なすほかはないのだ。そしてこの韓地面積の「里単位」と倭人伝内の「里単位」が同一だとしたら、あの「倭人伝内、里程誇張説」など、吹っ飛んでしまうではないか。

 この点、(B)の場合も同じだ。常徳というのは、洞庭湖西南岸の都邑として著名である上、到着地の五渓は、現在も著名な名勝地である。ちょうど、ナイヤガラの瀑布や琵琶湖のように、昔も今も、その存在自体は疑いようがない。

 その常徳から五渓の入口まで、川ぞいに測ると、入口の沅(げん)陵までほぼ150キロ前後、これが〝二千里弱″というのだから、やはり「一里」は約75~90メートルでピタリ。漢の長里の方では、たとえ「五渓の奥」までとしても、まったく足りない。そこで〝五渓の中の山中を、四通八達に行軍した、その総合計だろう″という声が、「漢の長里説」をあてはめようとする論者から出てくることになる。

 しかし、では問おう。そんな〝山中の四通八達の行軍距離″など、どうして測る必要があるのか、また、どうして測りうるのか、と。要するに、論争を〝うやむや″にもちこむためのテクニックにすぎないのではなかろうか。それを「不定化の方法」とわたしは名づけたい。

 「1里=75~90メートル」では大まかすぎる。古田さんの探求は続く。もっと精密な里単位を知ることはできないか、と。

 その方法が見つかった。意外にも、それは倭人伝にあった。

(一大国)方三百里なる可し。

 この一大国が壱岐の島であることは、ほぼ疑いがない。狗邪韓国(釜山あたり)から対海国(対馬の下県郡)、対海国から一大国(壱岐)、一大国から末盧国(松浦湾岸の唐津あたりか)と渡ってくるルートは、昔も今も、変わりようのない地形である。日本列島が大陸にくっついていた、などという氷河期ならいざ知らず、三世紀と二十世紀など、巨大な地質年代の基準尺からいえば、同一時期。同じ現代とさえいえるかもしれぬ。

 そこで測ってみた。

壱岐島地図
(画面をクリックすると大きくなります。)

 このように「一里=90メートル」では〝すきま″があきすぎる。「一里=75メートル」の方が適切だ。もちろん、若干の浸蝕や変動は、三~二十世紀の間にありえよう。しかし、大約はこれで見通すことができる。わたしはそう考えた。

 とすると、韓地で測った「里単位」をこの一大国で〝徴差調整″すると、75メートルに近い数値だ。そこで「75~90メートルの中で、75メートルに近い数値」、そういう結論をえたのである。この数値は、のちにのべるように、思いがけぬところから追証されることとなった。わたしはこれを「魏・西晋朝の短里」と名づけた。

 古田さんの解読の正しさを理解するのに、秀才・偉才の誉れ高い学者級の頭脳は必要ない。私のような凡才でも理解できる。この後「追証」の記述が続くが、私(たち)にはもうこれで十分だろう。ただ追記しておくと、「追証」に対しても、秀才・偉才の誉れ高い学者たちから、「不定化の方法」という子供じみたイチャモンが出てきたという。恥の上塗りをしているだけだ。いい加減に目を覚ましなさい!!

 最後に古田さんは、史記の里程記事(漢の長里)とを対比した上で、「里程問題」を次のように結んでいる。

 歴史書では、そこに使われたキロやメートルについて、いちいちその実定値はいくらいくら、などと書きはしない。その知識は、著者と読者と「共通の教養の土俵」にいるからである。

 これに対し、右のような一国の使者の異国への派遣、その行路の報告、その個所においてこそ、その王朝の採用した正規の「里単位」がどうどうとそこにしめされるのであった。史記では、大宛列伝、三国志では、倭人伝、それらこそ、それぞれの歴史書の中でももっとも晴れがましい、いわば晴れの舞台だったのであった。

 倭人伝を法外の誇張として嘲笑してきた、明治以来の研究史に終止符を打ち、本来の倭人伝の面目を人々が正視するとき、その時節が今、ようやく到来したようである。


 悲しいかな、真実を正視できない学会という閉鎖集団には、いまだその時節は遙かに遠い。
《「真説・古代史」拾遺編》(64)

「邪馬台国」論争は終わっている。(3)


 「倭人伝」の里程記事を抜き書きしておこう。

郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。

始めて一海を渡ること千余里、對海國に至る。

また南一海を渡ること千余里、名づけて瀚海(かんかい)という。一大國に至る。

また一海を渡ること千余里、末盧國に至る。

東南陸行五百里にして、伊都國に至る。

東南奴國に至ること百里。

東行不彌國に至ること百里。

南、投馬國に至る水行二十日。

南、邪馬壹國に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月。 (中略) 女王國より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁國は遠絶にして得て詳かにすべからず。

郡より女王國に至ること萬二千余里。


 前回見たように、諸博士たちが四苦八苦していた点は二つある。一つは部分距離の合計が「萬二千余里」にならないこと。もう一つは「南、・・・水行十日、陸行一月。」という記述。これは距離として考えると、とてつもなく遠い。特に大和論者は「南」にも困った。南に「水行十日、陸行一月」では鹿児島を越えて海の彼方に行ってしまう。そこで「南」は「東」の誤りとし、「陸行一月」は「陸行一日」の誤りなどと勝手な原文改定をしている。

 勝手な原文改定をしている諸説は論外である。岩波文庫版の解説者・石原氏は、里程図を掲示している点から考えて、たぶん榎博士の説を最もまともなものと考えていたのではないだろうか。古田さんも「氏は少なくとも、この問題に対して正面からとりくんでいた。」(『日本古代新史』)と評価している。そして古田さんは、従来の諸説の中で最もまともと思われる榎説の検討を通して、里程問題の核心を明らかにしている。それは古田さんの史料解読姿勢の厳格さをも表明している。前回の里程図だけでは榎説のポイントが不明なので、古田さんがまとめた「氏の解答のポイント」を見ておこう。


 魏の使者は伊都国にストップし、そこから先へは行かなかった。

 それ以降の行路は、すべて「伊都国中心」の放射状行路として書かれている。

 「水行十日、陸行一月」も、「伊都国→邪馬台国」間の行路日程である。

「水行十日、陸行一月」は、「水行十日」あるいは「陸行一月」の意味だ。(管理人注:前回にあった志田不動麿氏の説を取り入れている。)

 唐代の『六典』に、「軍行、一日五十里」の記載がある。

 この軍行日程で「陸行一月」を計算すると、(50×30)=1500)で、1500里となる。

 「帯方郡治→伊都国」の各「区間距離」を足すと、一万五百里。これに右の千五百里を加えると、ちょうど「一万二千里」となる。

 右は伊都国にストップしていた魏使の計算であり、実際の「邪馬台国」は伊都国の南方、ほど遠からぬ〝筑後山門″付近にあった。

 これを古田さんは次のように批判している。

 この榎氏の立論は、たいへん〝巧緻″にできているけれど、ここには明白な矛盾がある。お気づきだろうか。

 第一の問題は⑤だ。唐代の里単位は、漢代とほぼ〝同じ″だ。それに対し、「魏・西晋朝」では、これとは全然別の里単位で、約5~6分の一だった。このように、前節でえられた結論(管理人注:後ほどその論証を紹介しよう。)に立ってみると、⑥の計算はまったくナンセンス。成立できないのである。

 その上、次の二つの問題点がある。

 第二に、「部分を足したら総里程になる」というのは、あくまで〝倭人伝に、それと書かれている里程″によらねばならぬ。全然別の文献である「唐代の六典」などをもち出さねば解けない、それでは困るのだ。何しろ三世紀の読者に、はるか後代の唐代の本など読めるはずはないのだから、この点から見ても、榎説には根本的な無理がある。〝そこに書かれていない里程″である「1500里」を、あえて後代の研究者(榎氏)が〝算出″せねばならなかったこと、 ― この一点である。

第三に、〝すぐそばの「邪馬台国」までの、本当の距離を知らず、伊都国で〝計算″にふける魏使(帯方郡の官僚)″というような姿、それはあまりにも〝常軌を逸し″ている。 ― これがわたしの正直な感想だ。

 以上が榎説のもつ根本の矛盾だ。榎氏の研究努力には敬意を表しつつも、わたしは榎説そのものに対しては、明確に「ノン」の一語を発せねばならなかった。

 わたしは従来説に訣別した。出色の榎説にも従えなかった。では、おもむくべき新しい道は何か。まどいはなかった。わたしが旧説にむけた批判の刃、その格率をわたし自身にむけることである。同じルールで自己を見ることだ。

《「真説・古代史」拾遺編》(63)

「邪馬台国」論争は終わっている。(2)


 『魏志倭人伝』(岩波文庫新訂版)を読み直してみた。前回は本文を通読しただけで、「注」を読み飛ばしたが、今回は「定説」がどうなっているのかに関心を持ち、「注」にも目を通した。編訳者・石原道博氏の現代語訳は「倭人伝」原本に従って、「壹」を常用漢字の「壱」に変えているが、「邪馬壱国」と表記している(以下、この表記を用いることにする)。そして次のような注を付けている。

 邪馬台の誤とするのが定説であったが、ちかごろ邪馬壱(ヤマイ)説もでた。九州説でも日向・大隅の一角にあてるものと、肥後または筑後の山門とするものや、薩摩・豊前とするものもある。大和説でも瀬戸内海航行説と日本海航行説がある。

一、九州説では熊襲(本居・鶴峯)、北九州(藤井)、大隅薩摩(菅)、筑後山門郡(那珂・星野・橋本)、肥後菊池郡山門郷(久米・白鳥)などがあり、豊前山戸、宇佐説もでた。

二、大和説では『日本書紀』をはじめ、親房・松下これをうけつぎ、内藤・三宅・山田・高橋・梅原諸博士が賛成しているが、日本海航行説をたてているのが笠井氏である。

 諸説紛々、「邪馬台国」論争の混迷の深さが伺われる。ところで、私が注意を惹かれたのは「ちかごろ邪馬壱説もでた。」という一文である。厳密な論証をした上で、この説を提示しているのは古田さんだけだ。私が読んでいる本は1985年に新訂されたものだから、そのときは既に古田さんの「邪馬壹国」についての各種論文が発表されていた。石原氏は古田さんの論文を読んでいたのだ。試みに巻末の参考文献を調べたら、古田さんの論文も挙げられている。しかし、一応公平に古田説(邪馬壹説)を注記していが、九州説の中に古田の名前がないのはどうしたことだろう?

 なお、石原氏は「邪馬壱」を「ヤマイ」と読んでいるが、「邪馬壱」の読み方について古田さんの見解は次の通りである。

 本来ならヤマイじゃなくて、ヤマウィ(邪馬倭)ということになりますが・・・かりにヤマウィ(倭)国と発音されるとしても、またヤマイッ(壹)国と発音されるとしても、本当に“魏の時代通りの発音”となるとなかなか面倒です。ですから発音しやすいようにヤマイチ国でいいではないか、と思ったのです。・・・要するに発音の便宜上の問題です。

 さて、邪馬壱国をどこに比定するかという問題と密接に絡まった問題として里数問題がある。自説の「邪馬台国」に合うようにするため、この問題でも勝手な原文改訂や原文無視が行われている。石原氏の解説から該当部分を引用しよう。

 帯方郡と邪馬台国とのあいだの里数については、『魏志』に「郡より女王国に至る万二千余里」とあり、これについていろいろの解釈がある。

三宅米吉博士は
 帯方郡から末盧国(まつろこく)までの海路合計一万二千余里と、末盧国から伊都国・奴国をへて不弥国(ふみこく)にいたる陸路合計七百里とを通計したもの(海路の里数はいずれも余里がついているから、その余里をくわえて約一万二千余里とした。不弥国から邪馬台国までは水行三十日・陸行一月と日数でしるされ、これは里数に換算しがたいので除外した。すなわち帯方郡・不弥国間が一万二千余里)、

山田孝雄(よしお)博士は、
 万二千余里は帯方郡から女王国までの実際の距離とはべつに関係なく、ただ郡から狗邪韓国(くやかんこく)までの七千余里と、『魏志』に倭の地は「周旋五千余里ばかり」とあるのをくわえたもの、

橋本増吉博士は、
 帯方郡から不弥国までは一万七百余里、邪馬台国までは一万二千余里であるから、不弥国から邪馬台国まではその差の一千三百余里であることはあきらかである。しかるに『魏略』ないし『魏志』の編者は、邪馬台までをできるだけ絶遠の国としようとするかんがえから、里数記事とはべつにえた知識の水行三十日・陸行一月(これは千三百余里よりはるかに大である)を採用して、不弥国より邪馬台国までの里数を曖昧にした。九州北岸から水行三十日で達するところは、畿内の大和であろうから、『魏志』の記事には、伝聞による畿内大和(途中イツモ=出雲という地に寄泊する)と、じつさいの見聞による筑後山門(やまと)郡(途中ツマ=妻という地をとおる)との記事が混同しているとするもの、

また志田不動麿氏は
 問題の投馬国から邪馬台国までの「水行十日陸行一月」を、本居宣長以来の陸行一月を一日のあやまりとするのにたいし、水行すれば十日、陸行すれば一月かかるという新釈をくだした。

また榎一雄博士の新説があり、それを要約表示するとつぎのごとくである。

里程榎説

 邪馬壱国問題がかくも絶望的に混迷しているのは、各学者が、「倭人伝」の記述のルールに従って読むべきところを、それぞれ自説に都合のよいように勝手に読んでいる(あるいは読んでいない)からにほかならない。次回は古田さんの里程解読を紹介しよう。

《「真説・古代史」拾遺編》(62)

「邪馬台国」論争は終わっている。(1)


 古田さんによると、最初の邪馬台国近畿説論者は松下見林(けんりん 1637~1703)で、見林は『異称日本伝』で、次のような趣旨を述べていると言う。

「卑弥呼は倭国の女王である。わが国で『王』といえば、天皇家のみ。その天皇家は、光仁天皇まで、代々大和(やまと)におられた。だから『ヤマト』と読めなければいけない。読めなければ、それは外国人 ― この場合、中国人 ― がまちがえたに決まっている。だから、読めるように直せばいい」

 このイデオロギーのもと、『魏志倭人伝』の中の「邪馬壹国(やまいちこく)」を「邪馬臺国」と書き変え、これを「ヤマト」と読んだ。「壹」と「臺」は似ているから、『魏志倭人伝』の書き手が間違えたのだというわけだ。現在は「臺」の代わりに「台」を用いているが、どちらにしても「ト」とは読めない。だからさすがに今は「ヤマタイ」と読みならわしている。

 結論が先にあって、全てをそれに当てはめようとする。このような学問とは言えない方法を、現代でも踏襲している学者がいる。情けない。

 古田さんは第一史料(今の場合『魏志倭人伝』 以下単に「倭人伝」と呼ぶ。)を、その史料の成り立ちのルールに従って読むという堅実な方法論に立脚して「邪馬台国」論争に決着を付けた。古田さんが解読した結論が正しいことを考古学的遺跡や出土品も保証している。以下、古田さんの解読のあらましをまとめてみようと思う。(以下、講演録「邪馬台国論争は終った=その地点から」を用います。)

 まず、国名問題(「壹」→「臺」という書き換え問題)について、三国志の全版本が「邪馬壹国」(壹の代わりに「一」を用いているものもあるという)となっている事実を確認している。さらに、三国志に用いられている「壹」(86個)と「臺」(56個)を全て調べ、「壹」と「臺」を取り違えている例が皆無であることまで確認している。

 もう一つ、『「邪馬台国」はなかった』執筆の段階ではまだはっきりと主張されてはいなかったことがある。
「古代、中国にかぎらず、一般に近隣諸国の国名や王名をいわゆる卑字で書き表していた。「邪馬国」の「邪」や「馬」は卑字である。では「臺」の字は?」
という問題である。その後新しい発見があって、この問題が一層はっきりと解かれ、「邪馬国」という表記はあり得ないという強力な論証となった。これは少し詳しく紹介しよう。

 次の文は『三国志』の中の「蜀志(しょくし)」の中にある。5世紀の注釈者・裴松之が書いた文章だ。

「臣松之(しょうし)、案ずるに、魏臺(ぎだい)、物故の義を訪う。高堂隆(こうどうりゆう)、答えて曰く『之を先師に聞く。物は無なり。故は事なり。復(また)事に能くする無きを云うなり』と。」

 魏臺が高堂隆という人に「物故」の意味を聞いた。これに対して高堂隆は、自分の先生から聞いた話として、「物故」の意味を説明した、という話が書かれている。

 魏では「臺」とは「天子の居処・宮殿」を表す言葉として用いられていた。上の引用文の場合、「魏臺」というのは、「訪う」の主語だから「宮殿」ではなくて、当然人間だ。一方、高堂隆という人物は魏の明帝のときの最高の名臣と記録されている。この高堂隆に魏臺が質問しているというのだから、「魏臺」というのは当然「魏の天子」、つまり明帝をさすことになる。
 この例から見ますと、魏臺の「臺」は天子をさすのではないか。だいぶ後世ですが、江戸時代には「殿」とか「殿様」というようなことをいいます。その場合は、当然御殿に住んでいる主人公をさしています。あれと同じ伝(でん)で、“洛陽の宮殿”といういい方で、宮殿の中心に住んでいる“天子それ自身”をさす。こういう代名詞みたいな用語なわけです。ですから「臺」というのは天子一人をさしているのではないか、こう考えたわけです。

 しかしながら、史料的にいいまして、裴松之の地の文章の形をとっておりますので、5世紀の文章だと一応考えられる。3世紀の文章だといきなりいえない点があるのです。もちろん問答体ですから、裴松之が引用したそのバックは、当然3世紀の魏の時代、明帝の時代の文章だったろう、と想像したんです。ただ史料上ひっかかるところがあったので、あまり大っぴらには出さなかったのです。・・・「伝統と現代」(26、昭49・3)の中の論文(邪馬壹国の論理性 ― 「邪馬台国」論者の反応について)でちょっとふれたところがありますが、『「邪馬台国」はなかった』では出さなかったのです。

 ところが、これについて新しい史料が見つかったわけです。

 『隋書』「経籍志」です。中国の正史には、「地理志」とか、「礼儀志」とか、「音楽志」とかあることは皆さんお聞きになっことがあると思いますが、『隋書』以前にはなかったものが「経籍志」です。つまり7世紀はじめの隋の時代に、中国の朝廷を中心としたところに存在したすべての本の名前があげてあるのです。現代の学者にとっては非常にありがたい便利なものです。この時代にはたしかにこの本はあったという確認がとれるわけです。この『隋書』「経籍志」の中にこういう本があることを私はこんど見つけたのです。

 といいますのは、「魏臺雑訪議(ぎたいざつほうぎ) 三巻 高堂隆撰」です。当然著者は高堂隆です。内容は、「魏臺雑訪議」というのですから、いろいろの問題について“魏臺が訪うたことについての高堂隆の答え”その問答を書いた本です。ですから、先ほどの裴松之が書いた、そのバックの本がわかったわけです。当然隋の時代にこれは残っていますから(現在は残っていないのですが)、5世紀、つまり2世紀前の裴松之は当然それを見ていたわけです。それをバックにさっきの文章が書いてあるわけです。要約して「物故」問題だけを取り上げたので ― 裴松之というのは厳密な人ですから ― 「魏臺雑訪議に曰く」という直接法の形にせずに、自分の文章の形にして要約文を出したのです。それがわかってきたわけです。

 そうしますと、魏の朝廷の中の高堂隆の書いた本ですから、まさに第一史料ですね。その魏朝において、「魏臺」というのは、戦前、「上御一人」という言葉がありましたけれども、それをさしているということがわかってきたわけです。そうしますと、魏朝(次いで西晋朝ですが)の雰囲気の中で、高堂隆よりずっと下級官僚である陳寿(ちんじゅ)が、「邪馬臺(たい)」などと、天子一人をさす「臺」の字を持ってきて表記するということは、絶対にあり得ない。「ダイ」に当てる字はいくらでもあるんですから。厳密に同音を当てても、十や二十ではないのです。自分たちのみならず、高堂隆などの高位の臣下が天子を「臺」と呼んでいるのです。だのに、片方で卑弥呼の「卑」だの、「邪」だの、「馬」の字を使いながら、同じ字面に天子をさす「臺」を使うなどということは、これはどう間違ってもあることではない。このことを『「邪馬台国」はなかった』のとき以上にはっきりと確信したわけです。
 

《「真説・古代史」拾遺編》(61)

あいかわらず破廉恥な考古学会


 今回は、「地名奪還大作戦」を中断して、「邪馬壹国(やまいちこく)」を取り上げたい。と、いう気になったのは次の新聞記事(5月29日付「東京新聞・夕刊)による。写真付きでかなり目に付く記事だ。
箸墓古墳は『卑弥呼の墓』濃厚
 炭素年代測定死亡と築造の時期一致


 邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)の墓説がある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳の築造時期が、土器などの科学的分析で240~260年と推定されることが、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループの調査で分かった。

 中国の歴史書「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は248年ごろに死亡したとされる。研究グループの春成秀爾(はるなりひでじ)同館名誉教授(考古学)は「時期が一致し、卑弥呼の墓の可能性が極めて高くなった」と指摘。畿内説と九州説に二分される邪馬台国の所在地論争に大きな影響を与えそうだ。

 箸墓古墳は、三世紀初めごろに出現した当時国内最大の集落跡、纒向(まきむく)遺跡にある全長280メートルの前方後円墳。宮内庁が陵墓に指定しているため、墳丘内の発掘はできず、周辺の調査で見つかった土器などが年代を知る手掛かりになっていた。

(中略)

 研究成果は、日本考古学協会総会で31日に発表する。
(以下略す)

 「畿内説と九州説に二分される邪馬台国の所在地論争に大きな影響を与えそうだ。」とは恐れ入った。古田さんの著書『邪馬台国」はなかった』が出版されたのは1971年。その後も古田理論は成長を続けて、さらに精緻にして堅固な理論となっている。その古田理論に背を向けて、いまだに「近畿説」にしがみついて恥じない学者がいるとは!! もしあいかわらず「近畿説」に固執するのなら、古田理論を真っ正面から取り上げ、キチンと反論批判をするのが学者としてのまっとうな態度だろう。まともな反論ができないままに自説にこだわるのなら、それはもう学者とは言えない。

 上記引用記事にあるように「研究成果は、日本考古学協会総会で31日に発表」された。東京新聞夕刊の6月2日付の『月間・歴史考古ニュース』という記事で、そのことが報告されている。現在その欄は坂詰秀一(さかづめひでいち)という考古学者が担当している。上記記事とほとんど同じことを書いている。

「箸墓」土器の測定
 卑弥呼死亡の年代ほぼ一致


 日本考古学協会第75回総会が5月30、31日に早稲田大で開催された。研究発表会で春成秀爾氏など国立歴史民俗博物館のメンバーは、前方後円墳「箸墓」(奈良・桜井)の周壕築造直後の土器の年代を「放射性炭素年代測定法」によって測定した結果、240~260年代と推定されたと報告した。この推定は『魏志倭人伝』に記載された卑弥呼の死の年代とほぼ一致し、前方後円墳の出現とその背景めぐる問題に一石を投じ、邪馬台国近畿説の証跡かと注目された。



 違う点が一つある。「前方後円墳の出現とその背景めぐる問題に一石を投じ」たという観点が付け加わっている。この「前方後円墳の出現とその背景めぐる問題」についても古田さんはすでに詳しく論究している。

 「邪馬台国近畿説」を支えていた論拠は大きく4つある。古田さんの論考によって、それらは既に破綻している。その4つの論拠を簡単にまとめておこう。(詳しい論証は追々紹介していきます。)


 「ヤマト(大和)」と結びつけたいと、『魏志倭人伝』の原文にある「邪馬壹国」の「壹」は「臺」の誤りと原文ご都合改定をして、邪馬臺国=邪馬台国はヤマト(大和)にあったとした。

 「邪馬台国」を「ヤマト(大和)」に連れて行くために、同じく『魏志倭人伝』の原文の中の「南」は「東」の間違いとし、原文ご都合改定した。

 卑弥呼(ひみか)が魏からもらった「鏡百枚」は三角縁神獣鏡であり、この鏡は奈良から大量に出土している。だから邪馬台国はヤマト(大和)と主張した。しかし、全ての三角縁神獣鏡が中国製ではなく国産品であることが判明した。

 『魏志倭人伝』は卑弥呼の「居処」は環濠集落であったと伝えている。環濠集落遺跡は「ヤマト(大和)」にしかない。だから邪馬臺国はヤマト(大和)と主張した。これも吉野ヶ里遺跡の出現で反故になった。

 このような事情にもかかわらず、上の記事のように、考古学的新発見がある度にその報告の中に、学者たちは既に破綻したはずの「邪馬臺国近畿説」をこっそりと忍び込ませる。この破廉恥とも言える言動を促す心的機制はいったい何なのだろう。実は上記「4」はきちんとした論文で主張されたことはない。このことについて、古田さんは次のように述べている。(『吉野ヶ里の秘密』より)

 奈良県の、有名な唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡や大阪府堺市の池上(いけがみ)、四ツ池(よついけ)遺跡。みな外濠に囲まれた集落群だ。唐古は特に大きい。これに対して、九州には環濠集落はなかった。(一部分くらいはあっても)とても、こんな大きなものは見いだされていなかったのである。「やっぱり、『邪馬台国』は近畿だ。三角縁神獣鏡が、いろいろいわれたって、大丈夫。環濠集落があるから、な」これが近畿説の学者たちの間の“ささやき”だった。

 “ささやき”といったのは、ほかでもない。論文がないからだ。「環濠集落の問題から見ても、『邪馬台国』は近畿である」こういった論文は作成しにくい。なぜなら、そこ(環濠集落問題)から、ここ(邪馬台国問題)までは、まだ“あいだ”があきすぎている。越えなければならぬ、ハードル(障害物)がいくつもあるからだ。いわく、「邪馬壱国」から「邪馬台国」への“手直し”問題。いわく、「南」から「東」への“手直し”問題。いわく、「三角縁神獣鏡、中国製」否定説への対応問題。

 これらのハードルをそのままにしておいて、いきなり「答えは、邪馬台国」では、論文にはなりにくい。論証のていをなさないからだ。だから、環濠集落を根拠として、邪馬台国を「主題」とする、そんな論文は現われていないのだ。だから、わたしは“ささやき”といった。

 けれども、「手」は残されている。考古学者にとって、もっとも“親密なレポート”、発掘報告書の中に、「近畿邪馬台国説」を“しのびこませる”のだ。“環濠集落から見ても疑いがたい”そういう“匂におい”をたきこめるのだ。そういう報告書は、数多く“出まわっている”のである。うるさい“古田など”の反論に出合わない、そこは「天国」である。しかも、費用は公費。国民の税金(わたしのも、一部分は入っていよう)、あるいは土地会社などの拠出(きょしゅつ)金なのだ。

 渋い話になったのを許してほしい。だが、わたしのいいたいのは、こうだ。発掘報告書は、事実を書く。それが基本だ。すべてをつらぬく魂。そういっていいすぎではないであろう。なんで、こんな当たり前のことを書くか。それは「説」でおおわれた報告書が少なくないからだ。ひどいのになると、その報告者の「先生」の説を立証する。そういった形で、長い報告書がつづられる。そういった感じのものも少なくないようである。

 同じ考古学者同士なら、その報告書を読んだだけで、「ああ、この男の先生は、誰々だな」と、見当がつくという。わたしなどには、とても、そこまでは分からないけれど。 しかも、学界に有名となった「名発掘報告書」ほど、その「臭におい」がきつい。つまり、名前は「報告書」でも、その実、「特定学説の陳述書」となっているのだ。

 こういっただけでは、無責任だから、一つだけ、例をあげておこう。昨年、発見されて有名となった、千葉県の稲荷台(いなりだい)古墳。銀象眼の文字「王賜・・・敬」をもつ、鉄剣の現われた古墳の報告概要。「稲荷台一号墳出土の『王賜』銘鉄剣」(昭和63年1月11日、市原市。財団法人市原文化財センター)これは、千葉県にある国立歴史民俗博物館の方々の手になるものだ。「名報告書」として、吉川弘文館で直ちに公刊されたが、その内容は、同博物館生みの親、故・井上光貞さん、それに京大の故・岸俊男さん等の「獲加多支(わかたける)大王=雄略天皇説」(「近畿が関東を支配していた」という立場の読解法)を前提とし、それを裏づける形で、「論」が立てられている。こういうものが、「たんなる報告」に終わらぬ、“いい報告書”とされているのだ。

 「師説を補強する」それはまことに、“後継者”のうるわしい所業かもしれぬ。けれと、それは、堂々たる論文の場ですべきこと。すくなくとも、「発掘報告書」のやる仕事ではない。そう思う、わたしの頭の方が“おかしい”のだろうか。

 さて、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるはずはない。その古田さんの論証のあらましは次のようである。

 『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓について「「大いに冢(ちょう)を作る」と言っている。「冢」と「墳」は異なる。「冢」とは「棺を容るるに足る」程度のものだ。また『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓の大きさを「径百余歩」と言っている。これは直径のおおきさを述べている文であり、卑弥呼の墓は前方後円墳ではなく円墳である。またその直径は、古田さんが解明した魏時代の長さの単位(短里)で計算すると、百余歩=30~35メートルである。一方、箸墓古墳は前方後円墳であり、墳丘の長さは276メートル、後円部の直径は156メートルである。

 箸墓古墳を卑弥呼の墓とする論者は「長里」を使って計算して、大きさが一致すると主張している。長里で邪馬壹国の在処を決めようとすると、邪馬壹国ははるか海の彼方になってしまう。「長里」を用いる論者は、『魏志倭人伝』が誇大に記録したのだと、言い逃れてる。

 「短里・長里」問題について、古田さんは次のようにまとめている。(「日本国家に求める 箸墓発掘の学問的基礎」より)

 わたしはこの「短里」問題に対して、従来くりかえし論じつづけてきた。その要点(の一端)を左に摘示しよう。

(一)
 倭人伝中の「其の道里を計るに、当に会稽東治の東に在るべし。」の一句は、大陸側(中国内部)と朝鮮半島・日本列島側(帯方郡・韓国・倭国。「万二千余里」)とが「同一の里制」に依拠していなければ、成り立ちえない。

(二)
 倭人伝中の「其の北岸狗邪韓国に到る、七千余里。」は中国直轄領(帯方郡)や、旧・中国直轄領(漢の四郡。「韓国」を含む。)を内包する「里程」であるから、中国本土と別里程ではありえない。

(三)
 倭人伝の内容は、中国(帯方郡)から倭国へ派遣された使者(梯儁・張政等)からの報告書(軍事報告)を「基礎資料」として作製されたと考えられる。その中国の天子に対する報告書で使用された「里程」が、中国(魏・西晋の天子)内部の「里制」と全く異なる(五~六倍の大差をもつ)里単位で書かれる、というような事態は全くありえない。

(四)
 計測の専門家たる谷本茂氏が周密な計算で確認されたように、周代の天文・数学書として著名な『周髀算経』は、「周朝の短里」(一里=約77メートル)で記せられている。しかも、その編集・成書時期は「漢末」であり、魏朝成立の直前に当っている。すなわち、同じく「一里=77メートル」近い数値をしめす「魏・西晋朝の短里」と無関係とは思われない。すなわち、後者は「前者の復活」である。

(五)
 従来、依拠されてきた「史記・秦始皇紀」の「六尺、歩と為す。」の一句は、五行思想(秦を「水徳」あり、とし、「六」字に配当)による、イデオロギー的「新制」であった。それ故、「一歩」は「六尺」(一尺=約23センチ。六尺=138センチ)となり、人間などの通例の「一歩」とは全く“かけはなれ”ている。超巨人の「超一歩」だ。
 これに対し「周朝の短里」にもとづく「周朝の短歩」の場合は、「約26センチ」であるから、左の典拠とよく対応している。

歩----長さの単位。「ひとあし」
  貍歩を以てす(周礼、夏官、射人)
  〈注〉鄭司農云、貍歩は、一挙足して歩を為すを謂う。今に於いて半歩為り。

 「貍」は“野猫”であるから、人間の「しのび足」の一歩をしめす。その「一歩」は、後には「半歩」に当る、というのであろうか。ともあれ、「長歩(138センチ)」では、到底妥当しえないけれど、「短歩(約26センチ)」の場合、「静歩」として、十分妥当しうるのではあるまいか。おそらく、動詞の「歩む」と名詞の「歩」とは、本来キッチリと“相対応していた”のであろう。

(六)
 先述のように、壱岐島が現状の36倍もの巨大島ではありえないのと同じく、日本列島に「直径125メートル以上」もの「円墳」は存在しない。ために論者は、或いは「方部カット」の描写(A)と考えたり、「方部後造」(河上氏)といったアイデアに腐心せねばならなかった。

 しかし、「短里」の場合、「百余歩=26メートル以上」であるから、吉野ケ里にも見られたように、弥生期の墓として何の他奇もない。あの吉武高木遺跡や三雲・須玖岡本・井原・平原などの王墓も、現在は「民家」や「田畑」や「果樹園」の“地下”から出土した形だけれど、本来はその上に“円形の山盛り”の存在したこと、疑いがたい。(吉武高木の西南に当る「樋渡遺跡」にその“原形”が存した。現在は削平。)

 すなわち、右のように壮麗な「三種の宝物(神器)」をもつ王墓が、「二十~三十メートル」級の“盛り土”をもっていたとしても、何の不思議もない。かえってそれらが一切「ない」方が奇態なのである。

(七)
 なお論者の中には「大いに冢を作る」の一句に対し、「大いなる墳を作る」の意として「錯認」している人も存在するようである。「大作冢」と「作大墳」のちがいである。用語(冢と墳)と文脈(「大」の修飾対象)を異にしているのである。

(八)
 さらに「穆天子伝」(周代)に使用せられた「周朝の短里」を先範として、西晋の陳寿は、同じく「魏・西晋朝の短里」によって倭人伝を書いた。この点、今夏(8月)、中国の蘭州(甘粛省)で行われた、物理学・日中国際学会において、日本の理論物理学者、上村正康教授(九州大学)が発表された。「蘭州~九州(博多)」間の古代交渉に関する紹介とその(古田の説の)理論的基礎を代表報告の冒頭に述べられたのであった。

 けれども、右の(一)~(八)とも、肝心の日本の古代史学会、ことに考古学会において「討論」せられた、との話は全く聞いたことがない。不可解である。

《「真説・古代史」拾遺編》(60)

地名奪還大作戦(8):難波=筑前博多(5)


 「地名奪還大作戦:難波=筑前博多」は前回まででもう十分だろうと思っていたが、追加したいことが出てきた。もう一回おつきあいください。

 昨日、古田さんの講演録『真実の近畿-三世紀以後』を読んでビックリした。「難波=筑前博多」の論証を語っている。私が不満のまま終えていた数々の事項が見事に明かされている。この講演録を先に読んでいれば、きっちりとまとまりのある記事が書けたのにと、盛んに残念がっています。

 それにしても、今更ながら古田さんの力量には感服する。古今東西の史料と考古学の最新成果とこれまでの学者たちの論文がすっかり頭に入っているようだ。まさに博覧強記の人だ。それともう一つ、古田さんは「歴史学は足で学ばねばならぬ。」ということを金科玉条としている。現地に足を運んで自分の目で確認する。それが古田さんの論理構築をさらに揺るぎないものとしている。

 さて、上記の講演録で新たに分かったことを紹介していこう。まず、古田さんが「難波」問題に関心を持ったきっかけは、「古田武彦と古代史を研究する会」高木さんに案内されて、「難波池」の存在を知ったことであるという。この池のことを古田さんは、おおよそ次のように説明している。

 博多に「難波」という字名があったという典拠は『明治前期全国小字調査書』(内務省地理局編纂基本行書、ユマニ書房刊、第二次世界大戦の空襲で、ほとんど消失、北部九州と青森が残る)だった。そこには「難波(なにわ)と書かれている。「難波池」はかなりの広さのよどんだ池で、土地の人は今は「なんば」池と呼んでいる。そこは、現在では住宅建設で段々埋められてしまっているが、もともとは海につながっていた海岸部だった。現在残っている池もやがては住宅建設で埋められて、やがて姿を消すだろう。

 次は、黒姫説話の歌謡の中に出てくる四つの島「淡島(あわしま) 自凝島(おのごろしま) 檳榔(あぢまさ)の島 放つ島(さけつしま)」について。いままでの記事で比定できたのは「自凝島=能古島」だけだが、古田さんは「淡島」と「檳榔の島」もはっきりと比定している。

 百科事典によると、日本列島で檳榔が植生しているのは南九州・九州西岸部・九州の北の玄界灘。その玄界灘の小呂島(おろのしま)と沖の島に檳榔が生えている。小呂島の位置は壱岐島の東30キロぐらい、沖の島の南40キロぐらいだろうか。能古島からは北西方向に30キロぐらい離れている(距離は小さな地図上での推測だからかなり大雑把なもの)。沖の島が檳榔植生の北限だという。だから朝鮮半島には檳榔は植生していない。東の方では九州の東岸部(大分県)には檳榔はない。瀬戸内海もだめ。淡路島近辺ももちろんだめ。この歌は淡路島では作れない。

 この歌の作者の立つ位置は、博多湾を玄界灘に出て少し北へ行ったあたり。振り返れば目の前に能古島が見え、前の方の左手に小呂島が見える。「放つ島」は固有名詞ではなく、「遠く離れた島」だろう。そのあたりは島はたくさんある。沖の島や壱岐島が見えるだろう。たぶん対馬も見えるのではないか。では「淡島」はどこだろう。「淡島」という地名はどこを探してもない。ここからが古田さんの真骨頂である。

 ですが、わたしには「淡島」 に見覚えがあった。何だろう。三月の終わりになって神社だと気付いた。淡島神社だ。末社・摂社は幾らでもある。それを思い出した。近くに淡島神社があるのではないか。それで『福岡県神社誌』を見るとあった。宗像神社の近いところ福岡県福間町に淡島神社があった。

 それから東を見れば「淡島」が見える。(淡島神社が見える。)それでこの歌の理解には、データはぜんぶ揃った。

 そこから先は、私はあらためてこの歌をそうだと思った。別の理解から、再度考えてみた。淡島神社は各地にある。和歌山県は加太にもある。大分県にもある。末社・摂社は幾らでもたくさんある。いくらあっても淡島神社の御祭神は、ぜんぶ決まっている。それは少名彦名(すくなひこな)命である。



 少名彦名は大国主と出雲の国を共同経営した神だが、国が形を整えるとすぐ、「もう出雲には興味がない。私は常世の国に行く。」と去ってしまう。まるで革命後キューバを去っていったゲバラみたいにかっこいい神様だ。古田さんは、この少名彦名は博多湾岸、須玖(すく)岡本にいた王者であり、例の歌を作った本来の主人公である、という仮説を立てている。

 この歌では少名彦名は、博多湾岸を出ていく時とうぜん振り返った。「我が国」というのは須玖の王者ですから少名彦名にとって、博多湾岸はとうぜん我が国です。わが国の一部分という言い方ではない。振り返ればとうぜん私の国だ。そういう言いかたをしている。少名彦名には、まことによく当てはまる。博多湾岸に淡島という少名彦名を祀っている神社がある。そこを「淡島」と呼ぶのを少名彦名が歌うのがまことにふさわしい。

 一番ふさわしいのは、これから彼はどこへ行こうとしているのか。少名彦名は常世の国に行こうとして、わが国を出発しょうとしている。「檳榔の島も見ゆ」と言っているのは、ただ小呂島に檳榔が生えていて見えていたから言っただけという話ではない。つまり檳榔が見えるということは、檳榔の本家本元である常世の国・熱帯地方に行こうとした。そこへ行く少名彦名物語の終りに近い一節だと私は理解した。

(中略)

 この少名彦名の出発の時間帯は「天孫降臨」の前です。ですから「天孫降臨」は、少名彦名の留守をねらって筑紫を襲った。大国主に国を譲れという言いかたをして、大国主が留守預りであった板付という日本最大の縄文水田の地帯を襲った。これは留守狙いだ。

 この話なら、三世紀の『魏志倭人伝』より前。また天孫降臨の前。この少名彦名の話なら本来は弥生前期の終わり頃。今までの編年で言うとBC100年以前。年輪年代測定法では100年遡らせねばならないと言っているから、それで言うとBC200年以前(天孫降臨の前)。その前後ですからBC250年ぐらい前。

(中略)

 これはわたしの仮説なのですが、主語は少名彦名であると理解すれば、この歌は後ぜんぶ合う。大阪湾仁徳だったらぜんぜん駄目であるけれども、少名彦名博多湾なら完全に合う。


 このあと古田さんは、「今のところ想像にすぎないが」と断ったうえで、少名彦名が帰ろうとしている熱帯にある「常世の国」と魏志倭人伝に出てくる「裸国・黒歯国」を結びつける論を展開している。たいへんおもしろい仮説だが、ここでは割愛する。

 最後にもう一点、新庄さんが謡曲『蘆刈』の中の一節「難波津に、さくやこの花冬ごもり、今は春べと咲くやこの花」を取り上げていたが、この歌についても古田さんは瞠目すべき論を展開している。

 この歌は謡曲『難波』にも出てくる。いろいろなところで使われているようだ。古今集仮名序の中にも出てくる。古田さんは古今集仮名序の中に出てくる歌として知っていた。古今集仮名序では、この歌に次のような注釈が付いている。

おほさゝぎのみかど、なにはづにて、みことをきこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁という人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける哥也。この花はむめの花をいふなるべし。

 この歌について古田さんは気になっていたことが二つあったと言う。一つは、大阪市に此花(このはな)区がある。この歌の舞台は大阪なのだろうかということが気になっていた。大阪市此花区役所に電話して確かめたそうだ。何のことはない。大正14年此花区が北区から分区するとき、古今集のこの歌にちなんで此花区と名付けましたということだった。従来の古代史学者や万葉学者へのいい教訓だ。『いま地名があるからというだけで「ご当地ソング」と決めつけてはいけない。』

 二つ目は、この歌は王仁が仁徳(おほさゝぎ)に奉ったものだという古今集仮名序の注。王仁は日本人ではない。百済人か中国人。その人がこのような日本語の歌を作った?

 この「難波津(なにわず)」も九州博多湾と考えても良いのではないか。そのように考えてきました。そういう視点から見ると簡単に答えが出て来ました。

(中略)

 この天孫降臨を行ったのは誰か。それは天照大神(あまてるおおかみ)の孫に当たる邇邇藝命(ににぎのみこと)が博多湾岸に侵攻した。・・・『古事記』に書いてあるように「筑紫の日向(ひなた)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)」に降りた。筑紫の日向、吉武高木遺跡があるところが日向です。すぐ西側にある山が高祖(たかす)山連峰の日向山、日向峠。そこから博多側に流れ出している川が日向川。日向川が室見川に合流するところにわが国最古の三種の宝物が出ました先ほどの吉武高木遺跡。

 そこでニニギノミコト、わたしが言う九州王朝の初代。そのニニギが海岸を歩いていたとき博多湾岸だと思いますが、出会ったのが木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)。そうしますと、この歌はコノハナサクヤヒメが対象になった歌であるとわたしは考えます。

「なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまは はるべと さくや このはな」

 この短い五・七・五の中に、二回も「このはな」という代名詞が出てくる。このように「このはな」が二回も出てくる歌は、普通はいやらしい話です。ところが花之佐久夜毘亮が歌われていると考えるなら良くわかる。

 コノハナサクヤヒメがニニギと結婚して、今で言う御成婚の時の歌。即位の式の歌。この時歌われたコノハナサクヤヒメ側の歌である。ニニギ側の歌もあったはずだ。それは今は伝わっていない。そのように理解してきました。

 そうしますと、この歌が解けてきます。王仁はまず百済から博多湾岸に来た。そこでこの歌を知った。それで次に大阪湾に来た。そうすると近畿の大阪湾で即位をめぐって兄弟で、もめていた。「やめなさい!」と王仁が、ニニギがコノハナサクヤヒメと結婚してうまく行ったという話があるではないか、そう思ってこの歌を持ってきた。外国人である自分が、直接そう言うのは生意気だから、この歌を書いたものを持ってきて彼らに進呈した。仲良くしなさいと示唆した。そう考えると疑問が解け、分かります。王仁が自分で、日本語のこの歌を作って差し出したと考えるとおかしい。話がめちゃめちゃになってしまう。それでわたしとしては、この歌のいちおうの理解ができたと考えております。



《「真説・古代史」拾遺編》(59)

地名奪還大作戦(7):難波=筑前博多(4)


 新庄さんの論文『弱法師(よろぼし)』を紹介する前に、ちょっと長い前置きをします。

 東京新聞夕刊に梅原猛さんが「思うままに」というエッセイを連載している。5月25日のエッセイに次のくだりがあった。

 私の主著とされる『隠された十字架―法隆寺論』や『水底の歌ー柿本人麿論』はデカルトの方法論によって書かれている。それはまず通説への懐疑があり、その懐疑の末に新しい仮説の直観があり、そしてその仮説を帰納と演繹によって粘り強く証明し、そこに一つの理論的体系を構築するという方法である。



 その方法と成果を相当に自負されていらっしゃる。しかし、その方法を徹底しきれなければ、その成果にも大きな瑕疵がでてくる。梅原さんほどの方でもそうした陥穽に陥ちいる。私のような素人が書く文章は、できるだけ論理的にと心懸けているが、恐らく隙だらけだろうと危惧している。

 梅原さんの自負にかかわらず、『水底の歌―柿本人麿論』の結論には決定的な瑕疵がある。この稿には関係がないので深入りしないが、古田さんが厳しく批判しているので紹介しておこう。

「歴史と歌の真実―人麿終焉の地をめぐって」

 仮説を立て、科学的方法論でそれを論証する。それには異論はないが、その前提、いわば数学で言う「公理」が間違っていては全理論が無効になってしまう。『隠された十字架―法隆寺論』がそのいい例である。ヤマト王権一次元主義という間違った「公理」を大前提に理論を進めているための破綻である。

 一見、今回のテーマと関係ない話をしてきたが、じつは新庄さんの『弱法師』が、『隠された十字架』を引き合いに出しながら論を進めているので、梅原さんのエッセイの上記引用部分に注意が引かれたのだった。そして、新庄さんの論旨を理解するには、あらかじめ正しい『法隆寺論』が必要だと思った。詳しくは 「真説古代史(8)―日出ずる処の天子 をご覧いただくとして、取りあえず要点をまとめておく。

 『隋書俀国伝』の解読から判明したこと。

 「日出ずる処の天子」を称したは、推古天皇や聖徳太子ではなく、九州王朝の天子「多利思北孤(たりしほこ)」である。
2(「真説古代史(8)」では割愛した部分なので、ちょっと詳しく書き留める。もちろん、古田理論です。)
 『俀国伝』中の「名太子為利歌弥多弗利」を従来は「太子を名付けてリカミタフツリと為す。」と訓んでいたが、「リ・・・リ」などど、「リ」で始まり「リ」で終わるような名辞は日本語にはない。これは「太子を名づけて利と為す。歌弥多弗(カミタフ)の利なり。」と訓む。「利」は仏教的一字名称、「カミタフ」は「上塔」。現在の九州大学の地に「上塔ノ本」「下塔ノ本」という字地名がある。多利思北孤が送った国書の主署名が「多利思北孤」、副署名が「(第一行)歌弥多弗利(第二行やや下に)利」と書かれていたものであろう。「利」は"衆生利益"の意。「多利思北孤」の第二字にも、現れている。すなわち、「多利思北孤」と「歌弥多弗の利」は王とその太子であり、「和風称号」(多利思北孤)と「一字名称」(利)とを交て用いている。「一字名称」は、当然「倭の五王」以来の伝統の継承である。

 法隆寺釈迦三尊像の光背銘の解読から判明したこと。

 銘に記された「上宮(じょうぐう)法皇」とは多利思北孤のことである。

 以上より、『日本書紀』は聖徳太子を「上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)」と呼称しているが、「上宮太子(じょうぐうたいし)」という呼称にふさわしいのは多利思北孤の皇子「利」である。「白村江の戦」のとき唐に捕囚された「筑紫君薩夜麻(さちやま)」はこの皇子ではないだろうか。

 では、新庄さんの論文を紹介しよう。

『弱法師』の粗筋
「河内国高安の里の左衛門尉通俊(みちとし)は、人の讒言を信じ、その子俊徳丸を追放してしまう。しかし、すぐにそれが偽りであることがわかって悔い、我が子の二世安楽を祈って難波の天王寺で施行を行う。一方、俊徳丸は悲しみのあまり盲目となり、今は弱法師と呼ばれる乞食になっている。俊徳丸は施行を受けるため、杖を頼りによろめきながら天王寺にやって来る。折りしも春の彼岸の中日、梅の花が盛んに散りかかる中で、弱法師は仏の慈悲をたたえ、仏法最初の天王寺建立の縁起を物語る。その姿を見て、通俊はその弱法師こそ我が子であると知るが、人目をはばかって夜になってから名乗ることにし、弱法師に日想観を拝むようにと勧める。弱法師は入り日を拝み、かつては見慣れていた難波の美しい風景を心に思い浮かべ、興奮のあまり狂ったようによろばい歩く。やがて夜も更け人影もとだえると、通俊が名乗り出る。俊徳丸は我が身を恥じて逃げようとするが、父はその手を取り、連れ立って高安の里に帰って行く。」

 梅花匂う難波津の春、仏教初伝の頃の仏閣を中心として、殷賑を極めた博多(難波)の物語です。河内国高安とは今の武雄の近く、おつぼ山神護石の辺りではないでしょうか。佐賀県です。高安とは烽火のあった所と聞きます。父親は随分遠い所までこの仏に祈りたいと出かけてきたのです。いかにこの寺が筑紫だけではなくて各地に知れわたっていたことかと察するのです。

 ところが例によって、関西の謡曲作者はこの四天王寺を大坂に据えて、摂津の国を津の国の難波と言い換えて(この時代関西に難波はありません)、大阪の四天王寺の話と思わせるように書いています。従って河内の高安も東大坂と見てくれるようにと書き直しているのです。また須磨明石等と「博多の難波」とは何の関係もない地名を差し込んでみたりしています。

 しかし、この謡は概ね原作のままではないかと思えるほど言語表現が素晴らしく曲ともよく合っています。そこで、私は筑紫の物語であることを明らかにしてみたいと思い立ちました。

 この謡曲は言います。仏教興隆に伴い日本最初の仏閣を「津の国難波津」に建てられたのは上宮太子であると。大阪は「摂津」の国で「津」の国ではありません。寺の名は四天子寺と。そこまでは博多の辺りを思い浮かべて頷きました。ところが次の文字に私は仰天、なんとご本尊は「救世(くせ)観音」であると。

 救世観音が何故この謡曲に? しかも日本最初の仏像であると? 思いも掛けぬ文字に出会って、心臓は早鐘を打ち、目はもう点になって、体がしばし硬直する程の驚きを今も忘れられません……。

 西暦700年、九州王朝滅亡後、種々の宝物が大和へ送られてきたことは承知しておりました。正倉院の御物も七支刀も、種々の仏像も果ては宮廷女性まで……。そして、無冠の王といわれる名も知らぬ王様達までが大和へ続々と拘引されたさまが『続日本紀』に見受けられるのです。無冠の王とは王の位を剥奪された九州王朝の王様達でありましょう……。

 しかし、救世観音までもが九州宮廷にも等しい博多四天王寺のご本尊であられたとは考えもしなかったのです。「救世観音は法隆寺」と相場の決まったものと認識していたのです。

 思えば驚く方がおかしいのです。釈迦三尊という、九州宮廷にとって最も大切と思われる仏像さえ、容赦なく大和へ送られていることを既に教わっていたのに、です。

 救世観音とは何処にもここにもある仏ではなく、この隠れキリシタンの如き名の仏は、恐らく日本にただ一体、大和法隆寺のいわく言いがたき因縁付の仏ではありませんか。この仏が仏教の先進国九州王朝において、我国最初にできた仏閣に、しかも最初の仏像として作られ祀られた仏様であったと謡曲は言うのです。謡曲は誰も一度も漏らしたことのない歴史を、『記紀』が一言も語らぬ歴史を、恬然として『弱法師』の一節の中に胸はって語っているのです。

救世観音1 救世観音2

 この仏像は上宮太子のお姿を象ったものであるといいます。博多の四天王寺に在ったはずのこの仏が、はるばる大和の法隆寺へ運ばれたのは碓かなことです。それは今も八角堂の夢殿に在(おわ)すのですから。

 しかし、この仏は明治17年、アメリカ人フェノロサの手により戒めを解かれるまでは未曾有の虐待に遇っていたと。五百ヤードにも及ぶ白布で息もできぬようにして全身縛り上げられた上、厨子に込められ鍵を掛けられ、夢殿のなかへ蛇とネズミと埃にまみれて、末代開けぬという寺の言い伝えで夢殿の外からも厳重な鍵がかかっていたといいます。僧侶の制止を振り切って、外国人が開けたのです。千二百年もの獄舎に押し込まれて在した仏さまということです。

 しかも長い長い白布の戒めを取り去った時、もうもうたる埃の中から出てきたお姿は後ろ半身はこわされて、頭も胸もところ構わず五寸釘が打ち込まれていたといいます。いえ、今現在もそのままの姿であの重そうな光背を頭骨に打ち込まれたまま少し前屈で立っておられる由。ああそれは余りにも重く、過酷の年月でありました。こんな残酷な話を……、私はもう書けません。

 これは昭和48年に出版された梅原猛氏の『隠された十字架』に拠るものです。氏の渾身の力作と存じます。その後この仏を修理したという話は聞きませんので、まだ仏像にも似合わぬ赤いカーテンの中から前身だけを見せておられることと思います。しかしこの仏が再び日の目を見られた時からもはや百年以上。何時までこのような無惨な上宮太子を、日本人は捨てておけるのでしょうか。知らぬが仏とは……。日本人は知らないのです。 なんにも。『記紀』を盲目的に信じて一歩も動けぬ学会と国民です。私もそうでした、古田武彦氏の学説を存じ上げるまでは。

 この方が……、あの十七条の憲法を日本において始めて作られ、法華経や勝鬢経の講読をされて初めて我国に仏法を広められたという、十人の言を一度に聞き分けられたともいう傑出の名君であったのです。利歌弥多仏利です。「利」という一字名の上宮太子でおわしたと思われるのです。私はこの太子が亡くなられた後、諡(いなみ)として聖徳太子と改めて筑紫では言われて来たのではないかと、どうしても思えるのです。九州年号に「聖徳」というのも見受けられます。謡曲ははっきりと「ジョウグウ太子」といっています。

 太子のご前生は宸旦国の思禅師であり、如意輪観音の応化(おうげ)とも言われていたと謡います。しかし、この曲ができたときは太子はまだ生きておられて、諡の「聖徳太子」とは謡曲は言ってはいません。九州には天子の宮殿跡と見るところには上宮、中宮、下宮と宮跡が在る由。宝満山にも阿蘇の山裾にも上宮、下宮が在るとききます。「斑鳩のかみつみや」等と舌噛むような変な言い方はしないのです。

 聖徳太子といえば誰がなんといおうと厩戸王子、国書がそういうようですから。しかし思っても見てください。推古天皇は女帝です。立派な跡継ぎがいれば、さっさと譲って楽もしたいが人情です。それが厩戸は42歳にもなりながら、とうとう死ぬまで天皇にもなれなかった人物です.私はこれを見るだけで甚だしく凡庸な男子ではないか、とても憲法十七条だの、仏法を初めて国に広めた等という人物とは……、人違いも甚だしいと思います。そうお思いになりませんか。

 それに『書紀』に29年2月5日「厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨(かむさ)りましぬ」とあり、決して「聖徳太子薨(こう)ず」とは記してはいないのです。厩戸と聖徳太子とを同一人物と思わせるように巧みに書きながら、最後の死亡記事には、ここぞとばかりきわどい逃げの一手を打っているのが解るのです。

 厩戸の一族は斑鳩に居住していました。そしてここで一族が滅んだことは確かでしょう。しかし権力の手で滅びたのはこの家だけでしょうか。古代史を少し繰れば五指には余るほどもあるのです。にも拘らずこの家一族の恨みばかりを何故過大に強調しなければならぬのか。私はこの斑鳩一族の滅亡を利用したのであると思うのです。隠れ蓑として、聖徳太子、聖徳太子と吹聴しながらその実、滑稽なまでに朝廷のやたらと何かを恐れおののくその的は最初から九州王朝へ向けられていたものではないのかと思うのです。その戦後処理の余りにも理不尽な大和朝廷のやり方、同朋への心なき仕打ちを、それら誰が聞いても呆れるばかりの人でなしのやり方を。さすが神仏への恐れからか、偉大であった九州の上宮太子イコール聖徳太子への恐れへと向かっていったものと思わざるを得ません。

 しかし、梅原氏渾身の力作も、九州王朝実在概念の導入が全くないために、恨みの相手が厩戸では、のれんに腕押し、手応えもなくて、これでは大和朝廷の一人芝居、朝廷の病的神経症としか思えなくて、折角の力作も本当に惜しいと思うことです。

 いまも不思議な微かな笑みを湛えて、何事もなかったかのようにすらりと立たれる救世観音。仏像には不似合いなカーテンの陰に後ろ半身を隠して、何時までこのようなお姿でと嘆くのは私だけではないはずです。日本人の90パーセントは仏教徒だと言います。この日本の国に最初の寺に、初めての仏としてお立ちになったこの観音菩薩。そのときこの国の人がどれ程喜び喝仰したことでしょうか。

 折角このどうしようもなく乱れた日本を救うてやろうと仰せであられるものを、千二百年前、厭魅(えんみ)され毀されたままのご身体で余りにも痛わしく勿体ないことと、皆様お思いになりませんか。ささやかな力でも、みなで合わせて見たらなんとかならぬものかと思うことです。

 古田史学によれば、上宮太子の父天皇は多利思北弧。「日出る処の天子、日没する処の天子に書を至す、恙なきや」と隋国へ書を送ったという、初めて日本において天子を名告った方であると言われています。華の如く豊かに輝いたこの国の爛熟期でありました。この謡曲『弱法師』の曲の中も、梅花薫る誠に華やいだ活気あふれる難波の都をこの世の春と謡い上げて、この寺と仏を讃仰しているのです。このとき太子を象ったというご本尊救世観音の、千年の虐待と流浪の未来を誰が想像できたことでしょうか。