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《「真説・古代史」拾遺編》(52)

地名奪還大作戦(1):淡路島=能古島


 謡曲は中世に成立したものであり、もちろんその当時に新たに創られたものが多い。しかし古代を題材とするものの多くは、くぐつによって伝承されてきた歌謡(猿楽)を典拠として編み直し作られてきたものである。そうした原本の中には、明らかに「白村江の戦」以前の、記紀成立を知ることのない人物によって謡われたと考えられるものがある。新庄さんは言う。それらは九州王朝の歌謡詩人が、あくまでも「自国の歴史のみを土台として謡ったものとして考えています。」新庄さんはそのような謡曲の一つ『淡路』を取り上げている。


 この謡の骨子は、
(1) 大八洲の範囲
(2) 扶桑の国とは何処か
(3) 淡路とは何処にあり何をなした土地か
ということを謡ったものと理解いたします。これは、この日本の国の遡原における大切な認識であったという思いから取り上げました。

 新庄さんは原文を提示していないので、原文から該当部分を提示しながら読み進めよう

(1)大八洲
「さればにや二柱の御神のおのころ島と申すもこの一島のことかよと。凡そこの島始めて大八洲の國を作り。紀の國伊勢志摩日向ならびに四つの海岸を作り出し。日神月神蛭子素盞鳴と申すハ。地神五代の始めにて。皆この島に御出現。」

 謡を謡う人も聞く人も「紀の國伊勢志摩」は近畿、「日向」は宮崎県と受け取っているだろう。1300年間、そのように偽装され続けてきたのだから、そのように受け取るのはやむを得ないことではある。しかし、新庄さんは次のように解読する。

 大八洲とは伊弉諾・伊弉冉の創った四つの陸地と、それに付随する海四つ、合わせて八つをいうと。それは、


紀の国  佐賀県北岸。
 これに就いては別稿にて述べますが、和歌山県が紀の国と言われるようになったのは『記紀』編纂の後、720年以後であると思うのです。

伊勢・志摩  筑紫の糸島
 この所は古代、水道で怡都(いと)と志摩に別れていた由。伊勢は神風の伊勢(神が瀬の伊勢)として怡都の国にあったという(古田史学)。

日向(ひなた)  筑紫の日向
 福岡県、天孫降臨の地。高祖山、日向川あり。

淡路島  お能古呂島(能古島)
 博多湾内にある小島。

 以上、「陸地」四つとこれらに付随する「海」が四つ、この八つが大八洲と言うと『淡路』は謡うのです。博多湾という小さな海もその一つなのです。

 大八洲の範囲を示す謡は『淡路』だけではなく、神歌『舟立合』を始め『逆矛』等の中でも同じことを言っています。

 何という小さな範囲でしょうか。謡曲以外では聞いたこともない歴史です。しかし、伊井諾・伊井冉が普通の人間だとしたら、交通機関も無い古代において小舟一つで、「これだけの地を確保した」というだけでも未曾有の偉業でありましょう。永く特筆されることはもっともなことと思われます。

 これとは別の逸話によれば、伊井諾はこの後、妻と死別してその妻を慕い、墓を尋ねますが、変わり果てた姿に驚き慌てて逃げ帰るという、極く普通の人間ではなかったでしょうか。



 『逆矛』では大八洲は次のようになっている。

昔伊弉諾伊弉冉の尊。此矛を携へて。天の浮橋を踏み渡り給ひ。地「則ち御矛をさしおろし給ひ。青海原を。かき分け探り給へば。矛のしたゞり凝り固まつて国となれり。まづ淡路島。紀の国伊勢島筑紫四国。総じて八つの国となつて。大八洲の国と名付け。

 「伊勢志摩」が「伊勢」となっており、「伊勢」を「島」だと言っている点や、「日向」が「筑紫」に変わっている点が注目される。「記紀」の大がかりな国生み神話は『淡路』『逆矛』よりさらに後の時代のものであることは明らかだ。

 ところで新庄さんは「紀の国」を佐賀県北岸と比定している。「別稿にて述べます」と言っている通り、その論証を行っている稿がある。それは次回に取り上げよう。

(2)扶桑国
「七つ五つの神の代の。御末は今に。君の代より。和光守護神の扶桑の御国に。風は吹けども山は動ぜす。げにありがたき御誓。」

 扶桑国とはどこか。諸説紛々、未だ決定打はない。蘇我王権国説・高句麗説.樺太説・琉球説、はてはメキシコ説・ムー大陸説まであるそうだ。謡曲『淡路』が語るところによれば、扶桑国とは伊弉諾・伊弉冉が造った大八洲のことである。

 しかも謡曲はこの小さな大八洲のことを「扶桑の国という」と謡うのです。それは、桑の弓と蓬の矢によってこの国を平定したと言います。伊弉諾は桑の弓に扶けられたと。それ故、「扶桑」なのです。

 これまで扶桑の国ほど、日本中を迷走してロマンに満ちた国はなかったのではないでしょうか。謡曲は至極あたりまえという如く、扶桑の国を語ります。

 このお話は遡源の時代のことであり、その後、国も段々富み勢力を増し九州全域にその支配を及ぼす時代には、扶桑の国といえばやはり九州全域を指したのではないでしょうか。



(3)淡路島
「ふりさげし。鉾の滴露こりて。一島となりしを。淡路よと見つけし此処ぞ浮橋の下ならん。げに此島のありさま東西は海漫漫として。南北に雲峯を列ね。宮殿にかゝる浮橋を。立ち渡り舞ふ雲の袖。さすは御鉾の手風なり引くは。潮の時つ風治まるは波の芦原の。国富み民もゆたかに万歳をうたふ松の声。千秋の秋津洲。をさまる国ぞ久しき。」


(淡路は)博多湾の海中にある小島のことで、伊弉諾はここを根拠地として大八洲を作り、子息達もここで生まれたと謡曲はいいます。日神、月神、蛭子、素戔嗚、これらの神々が日本の天祖となったと謡います。中でも日神は日向に天下ったといっています。能古島を、国産みを始め建国の根城としたことは至極自然で、絶好の地でありましょう。湾の中であり、波は静かで、しかも外敵に侵され難い地。謡曲はこれらのことを何の奇もなく、極く普通の夫妻の話として語っています。

 伊弉諾が「天の浮橋」に立って国作りしたということは、この博多湾内は潮の干満が激しく、能古島の海岸のある一点が時には深い海となり、またときには陸地となる、この海と島の関係の特殊性を表すものであり、これを一言にて「天の浮橋」とはよくも言いえて妙と感心するばかりです。

 「葦原中国(あしはらのなかつくに)」のことも謡曲は語ります。後の世では繁栄の中心部と言った土地の意となったようですが、伊弉諾の作った大八洲は祖源の頃、湿地帯が多く到るところ葦が生え、葦原をなぎ払い引き捨ててそれが山となり、方々に山ができて、山と言えば葦引き。『万葉集』にも歌う「足引きの山」は今も歌の枕言葉として残るもので、あの北九州大穀倉地帯はこうしてできあがったと、遡源の労苦を繰り返し謡うのです。この多大な労苦によって後の王朝繁栄の基をなしたといいます。

 今も佐賀県には、「芦刈」という地名が残っています。謡曲にも『蘆刈』があります。大阪の物語と思わせるように書いていますが、原作は九州の難波の話であるような気がいたします。



 「大阪の難波」を九州に奪還するのも課題の一つである。いずれ取り上げよう。

 さて、以上の締めくくりです。
 大和を中心とした大八洲(日本人の常識)は、『古事記』(712年)、『書紀』の成立(720年)に合わせて拡大解釈されたものと私は見ています。それは九州から瀬戸内海をばく進、四方を席巻、大和へ突入。もうこうなれば、伊弉諾は超々人間に成らざるを得ないのです。とても桑の弓や蓬の矢では追いつきません。

 大和朝廷はこの「拡大大八洲」に対し、なくてはならぬ「淡路島」を取り急ぎ比定したと考えます。大阪湾の鼻先の島をです。この島こそ誠に災難。「大昔、この島の名は?」と問いたいところです。この島を、ご丁寧に同じく「淡路島」と命名されました。勿論、まことしやかに定着して今日に及んでいます。ここが伊弉諾の国産みの地だと言ってです。この「拡大大八洲」ができたことにより、件の「豊葦原中国」は大和の国へ泣く泣く越して行きました。

 こればかりではなかったのです。西暦713年「諸国の地名を好字に替えよ」という政令を発したその後は、山も川も神社までもそっくり引っ越したかと思うほど、『万葉集』にある地名は余すことなく今、大和にあるのです。しかも「ここは万葉の故郷」などと平然と吹聴して千三百年経ちました。

 万葉は九州で謡われたものであり、古田史学において九州万葉であると、ひとつひとつ証明されつつある昨今です。もう千年以上経たものは総てが古く苔むして、何が古いか新しいか見分けはつきません。唯々呆然とするばかりです。自国の先祖にこれほど翻弄され愚弄された国民の例が世界にありましょうか。しかも、千三百年にも亘ってと言いたくもなりますが、こうして書いて批判できるだけでも隔世の感。自由に息のできるだけでも、千三百年にして漸く、びくともせぬ岩盤の、その風穴に感謝すべきかも知れません。

 謡曲は静かに倦むことなくむしろ頑固に謡い続けて、これを明かされる日を待ち続けていたのでしょうか。



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