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《「真説・古代史」拾遺編》(58)

地名奪還大作戦(6):難波=筑前博多(3)


 前回の論証に一つ付け加えたいことがある。「新・古代学の扉」の論文を拾い読みしていたら、多元的古代研究会の灰塚照明(福岡市在住)という方が「筑前に難波の小字が存在していた」ことを指摘されているという。「難波池」だけでは心細かったが、字名に「難波」があったとは心強い限りだ。

 さて、以上で「難波=筑前博多」の論証は十分かな、と思っているが、なお納得しがたいという方がおいでかもしれない。すごく興味深い話題が含まれているので、せっかくだから傍証の一つとして、新庄さんの論文『蘆刈』・『弱法師』を紹介しようと思う。まず『蘆刈』から。

謡曲『蘆刈』のあらすじ
 津の国日下の里の住人・佐衛門は貧困のため、心ならずも妻を離縁する。その妻は都の高貴な家の乳母となって安定した生活を得て、3年後に従者を伴って難波の浦へ下り、夫の行方を尋ねる。佐衛門は零落していて蘆売りの貧しい男になっていた。しかし間もなく夫であると解って打ち連れて都へ帰る。

 話の筋はこれだけだが、妻との再会の場面がこの謡曲の見せ場である。左衛門は面白く囃しながら芦を売り歩いているが、妻の一行とは知らずに問われるままに、仁徳天皇の宮があった御津の浜の由来を語り、笠尽しの舞をまって見せる。この場面に注目して、新庄さんはこの謡曲は「博多どんたく」の由来を物語っていると言う。この謡曲の舞台「津の国日下」は「大阪府東大阪市」であるという定説を従来疑った人は皆無のようだ。新庄さんはそれに異を唱えたわけだ。

 ちなみに、大阪の「日下」は「くさか」と読む。イワレヒコ(神武)が侵略を試みて、長髄彦に大敗したのが「日下の楯津」だった。原文は「河内国草香邑青雲白肩之津」(日本書紀)。

 しかし「日下」は「ひのもと」とも読む。《「真説・古代史」拾遺編》(25)から引用する。

「博多には『ヒノモト』という字(あざ)地名が多くある。室見川の中流、やや河口寄りに日本(ひのもと)橋があり、その東には日本(ひのもと)団地がある。調べてみると、博多湾岸に3ヵ所日本(ヒノモト)という字地名がある。福岡県全体では5ヵ所あった。」

 「津の国日下(ひのもと)」で、『蘆刈』の舞台は「筑前博多」という方が信憑性がある。

 さて、博多の祭り「どんたく」は正確には「博多どんたく港まつり」と言う。毎年5月の初めに行われる。200万人を越える人出で賑わい、博多は町を挙げて浮かれ出す。

 この祭は「松ばやし」と呼ばれ、江戸時代には民政の一つとして奨励されていた。それがなぜか、明治5年に県知事によって禁止される。それでも博多っ子は知恵を絞り、オランダ語の「zongtag(休日)」にかこつけて、一時禁止されていた「松ばやし」を復活させた。そのときから、この祭りを「博多どんたく」と呼ぶようになったという。

 この祭りのそもそもの由来を主催者のHPは次のように書いている。

『「博多どんたく」は、わが国の古い民俗行事で凡そ830年余の伝統行事である。平安時代、京都御所の正月、宮中参賀の行事が地方に伝わり、この博多では源平時代のち冶承3年(1179)、正月15日、松囃子を取行う...とある。』

 この祭りは室町時代からのものと言っているが、『蘆刈』がこの祭りの由来を物語っているとすれば、それは5世紀にまでさかのぼることになる。新庄さんの論証を読んでみよう。

 この祭りは型にとらわれることなく特定の神を祀るためでもなく、男女共梅花飾りの菅の花笠を被って、民衆が台所のしゃもじまで持ち出して叩いてうかれ踊ると聞きます。そうです。(『蘆刈』の「笠尽しの舞」は)この祭りに違いありません。そのただむしょうに嬉しがるところが、他の祭りと違う大昔の名残りだと私には見えるのです。

 祭りの謂(いわれ)はもう遠に博多の人の記憶からは消えて、春が来ると必ず踊って喜びたい、不思議な祭りでありましょう。この謂はどなたに伺ってももう解らなくて、ただ謡曲のみが知る人ぞ知ると語っているように私には思えるのです。

 津の国、難波の都を初めて創られたのは仁徳天皇であると、謡曲『蘆刈』はさらりと臆面もなくいうのです。何故、仁徳天皇が博多に? 一昔前は驚き、また謡曲作者を私は出鱈目と笑いました。しかしもう笑うどころではありません。この『蘆刈』の舞台は「津の国難波の都・博多」の話に違いないのです。摂津の国を難波と呼ばせるようになったのは、聖武天皇「難波の宮造営」(『続日本紀』)に始まるものでありましょう。仁徳の時代はもとよりのこと、聖武時代までは末だ大阪を難波とは言わず摂津と言ったはずです。

(中略)

 二人(佐衛門とその妻)の帰って行った都とは多分高良の都ではなかったかと思われます。

 この文の中で、この夫が蘆を売るために様々な昔からの歌をおもしろ可笑しく賑やかに囃して謡うのです。それは、仁徳天皇がこの難波の浦に初めて大宮造りされて、波涛海辺の大宮であるから、この浜を御津の浜といった、一漁村に点すかがり火までも禁裏の御火かと見紛うほどの海近くであった、網子の網引する「えいやえいや」という呼び声が、御殿の中まできこえて目の前に網船や漁の様が見えたと、そして、この浜には大伴の警護の一団も控えていたと謡うのです。

 名に負ふ梅の花笠、難波女の被(かづ)く袖笠、肘笠の雨の蘆辺も乱るるかたを波、彼方へざらりこの方へざらり、ざらざらざっと風の上げたる古簾、つれづれもなき心よ

と囃して謡い、

 難波津に咲くや木の花冬籠り今を春べと咲くや木の花、と栄え給ひける仁徳天皇と。(木花咲耶姫と記される。また『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と)

これは難波の皇子の御事と重ねて説明しています。また古くは安積山の采女の盃とりあえぬという仁徳時代の倭歌のはじめといわれる古歌までも並べて、津の国の難波の春は夢なれや、と結ぶのです。この曲は大変調子がよくて、謡っていても晴れやかで手拍子でも打ちたくなるような、謡曲には珍しい浮き浮きしてくる謡です。

 つまり、この謡の原作者は貧しい蘆売りの口を借りて、博多における仁徳天皇時代の善政や華やかに栄えた難波の古い都を語りたかった、二人の男女の情けを演じるその「舞台」を、その土台の大地をこそ詳らかにしたい、これがこの作者の意図ではないかと思ったのです。

 しかし、読みの足りぬことに今頃気が付きました。それはひとたび雨風が来た時、この土地の産物、蘆の古簾はざらざらざっとひとたまりもなく飛ばされてしまって今は跡形もないことに、この作者の深い悲しみと諦めが沈んでいたのです。それは浮き浮きした曲の陰に隠されていました。謡曲は殆どが仏教的追善ものか、人間の深い業を語るもののようです。この曲もやはり、明るいばかりではなかったのです。

 仁徳天皇は高殿に登り民の竃(かまど)の煙の上がらぬのを憂えて、三年の課役を止めて民の潤うのを待ったという、その善政を国書に特筆される天皇です。しかも謡曲はこれが博多の天皇だというのです。国書とどちらが本当でしょうか。

 関西摂津の高津(今の新幹線大阪駅の辺り)が仁徳天皇の宮跡だと聞きます。しかし何の遺跡も残ってないのではないでしょうか。子供の時から遠足に行ったことも噂に聞いたこともないのです。これだけ民のために尽したという天皇をです。

 大阪の南、堺の街からそう遠からぬ所に、あの有名な巨大仁徳古墳が父天皇の応神古墳と共にデンとして静まってあるのです。しかしあの古墳の前で、昔の善政を称えて大阪人が大挙して押しかけ踊り狂い喜んだという話など、全く聞いたこともありません。

 私は思います。これは人攫(さら)いです。仁徳天皇は攫って行かれたのです。事蹟もろとも、国書に攫われたのです。博多の宮殿から三百年も経って居心地の悪い関西へ、国書『日本書紀』成立と共に連れ去られたと理解するよりほかありません。国民の全く与(あずか)り知らぬことです。だからこそ謡曲作者は、ざらざらざっと風雨が巻き上げたと言っているのです。

 そうして地元の「津の国難波」では仁徳天皇亡き後も毎年称えてお祭りして来たのでしょうが、天皇の歴史が関西へ行ってしまった後はお祭りの喜びの意味も分からなくなって、それでも春が来ると毎年浮き浮きと謡曲の中の佐衛門のように昔の歌を謡い踊り、長く先祖の踏襲してきたしきたりを続けて、何となく安心しているのではないかと考えます。司直の手により止めよと命令されても、オランダ語に変えてでもこの祭りを続けたいとは、私は博多人の因縁ともいえる不思議なエネルギーを感じないではいられないのです。

 今ふうに言えば遺伝子のなせる業とでも申しましょうか。今も謡曲の言うように梅の花笠を被っておもしろ可笑しく、踊りながら喜びを表すのでありましょうか。ちなみに、梅花は謡曲『老松』にいうように九州王朝の象徴であり紋どころなのです。



 新庄さんは「二人(佐衛門とその妻)の帰って行った都とは多分高良の都ではなかったかと思われます。」と書いているが、この仮説についてはこれ以上は何も述べていない。これについて補足しておきたい。

 「古田史学会」の事務局長・古賀達也さんが「良大社の祭神・玉垂命は九州王朝の王」という命題を追っておられる。その中の一論文 「高良玉垂命と七支刀」 から引用する。

 『高良社大祝旧記抜書』(元禄15年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。この記事の示すところは、玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累代相続しているということだが、玉垂命(初代)を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする『宋書』の記事「讃死して弟珍立つ」と一致するのだ。すなわち、玉垂命(旨)の長男斯礼賀志命が讃、その弟朝日豊盛命が珍で、珍の子孫がその後の倭王を継いでいったと考えられる。この理解が正しいとすると、倭の五王こそ歴代の玉垂命とも考えられるのである。



 『日本書紀』の中に拉致された筑前博多の王とは、言わずと知れた「倭の五王」の一人「讃」にほかならない。ちなみに、「定説」は『仁徳の名「大鶴鶉(おおささぎ)」の第三・四音に当る「さ」または「ささ」を切りとって、中国側が「讃」と表記した。』という学問の名に全く値しないこじつけで「讃=仁徳天皇」と断定している。( 『「倭の五王」とはだれか』 を参照してください)

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《「真説・古代史」拾遺編》(57)

地名奪還大作戦(5):難波=筑前博多(2)


《「真説・古代史」拾遺編》(52)に登場した黒姫に再登場してもらおう。黒姫が磐の姫の嫉妬を恐れて吉備に逃げ帰るという説話に、仁徳と黒姫が詠ったとされる歌が5首ある。そのうちの1首は次のようである。(岩波『古事記』利用)

おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島(あわしま) 自凝島(おのごろしま) 檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ 放つ島見ゆ

 磐の姫に追われて黒姫が「本つ国(吉備)」へと船出するのを仁徳は別れを惜しんで見送る。それにも嫉妬した磐の姫は黒姫を船から下ろして、徒歩で帰らせる。仁徳は「淡道島を見たい」と磐の姫に嘘をついて「淡道島」に出かける。そこから黒姫に会いに吉備へと行く。上の歌は仁徳が「淡道島」で詠ったと設定になっている。

 歌では仁徳は難波の崎にたって、そこから海の方を遠望している。 難波の崎から出で立って(海上から)の意。 「出で立ちて難波の崎より」とする説もある。「淡道島」で詠ったという設定と矛盾するが、一般に説話の中の歌の多くは、別に流布されていた歌をその説話に流用したと考えられる。『万葉集』の場合と同様に、説話の内容と歌の内容が矛盾しても、歌の方はそのまま改変することなく扱わなくてはいけない。

 さて歌には、自凝島・淡島・檳榔の島・放つ島と、四つの島名が歌いこまれているように読める。「岩波」は当然のことながら「難波=摂津(大阪)」としているから、この歌にはいろいろと困っているようだ。「岩波」の頭注は次のようになっている。

1 押し照るや
 難波の枕詞
2 難波の崎よ 出で立ちて
 難波の崎から出で立って(海上から)の意。「出で立ちて難波の崎より」とする説もある。何れにしても淡道島で歌われた歌というのと矛盾する。
3 淡島 自凝島
 淡島やオノゴロ島や。
4 檳榔の 島
 檳榔(蒲葵)の生えている島。
5  八 放つ島
 離れ島の意に解してみた。武田博士は、さ食つ島、即ち食物の島の意で、淡路島のことだろうとしておられる(記紀歌謡集全講)。この歌には黒日売を恋う趣は見えない。それはこの歌はもともと国見の歌だからである。しかし物語歌としては、離れ島も見える、しかし黒日売の姿はどこにも見えない、の意を添えて解すべきであろう。

 この注によると、歌の意は次のようになる。

難波の崎から出で立ち、海上からわが国を見ると、淡島や自凝島など、ビロウの生えている島も見える。離れ島が見える。

 つまり詠われている島は2島。その2島はビロウの生えている島で、離れ島である、と言っている。離れ島とは「陸から遠く離れている島。孤島。」(広辞苑)である。2島だから「孤島」は合わない。この2島は「陸から遠く離れている島」となる。難波の海から見える島と言ったらまずは淡路島。はっきりと書いていないが、「岩波」は「淡島」を淡路島に比定している。武田博士は、「放つ島」を淡路島に比定している。この場合は「淡島」は淡路島とは考えていないことになる。つまり全部で3島とみている。武田博士が「淡島」を、さらに言えば「自凝島」をどこに比定しているのか、「記紀歌謡集全講」が手元にないので、知ることができないが、「自凝島」については、「岩波」が触れようとしないところから、たぶん武田博士もお手上げなのではないか。

 ここでふと思いついたことがある。岩波の日本古典文学大系には『古代歌謡集』がある。これは歌謡に的を絞っているので、より詳しい注があるのではないか。ありました。古事記の歌謡担当は土橋寛博士。その頭注は次の通りである。

○おしてるや
 「難波」の枕詞。日がおし照る意のほめ詞。
○淡島
 記紀の諾冊二神の国生みの条に、出来そこないの小さな島として淡島のことが見え、万葉集には粟島と書いて風光の美しい所とされている。所在は確かではないが、淡路島の東北端、今の岩屋町(浮名郡)の東にある絵島の辺か。あるいは阿波の国か。
○淤能碁呂島
 これも前記の国生みの所に見える。二神が海中に下した矛の先から滴りおちる海水が自ら凝り固まって出来た島と伝える。絵島の近くの島か。
○檳榔の島
 アジマサの木が生えているのでそう呼ばれた島の名。アジマサは檳榔の字をあて(記垂仁・本草和名)、平安朝以後は檳榔毛の車、檳榔扇など音読するが、その実物は檳榔に似た蒲葵(ほき)で、日向・薩摩・土佐に自生する。淡路島附近の小島にも蒲葵葉を産する所があるという(言別)。
○佐気都島
 名義・所在ともに不明。
◎この歌の歌詞には、黒日売を思う意味はなく、淡路島で歌った趣もない。難波の崎から海上を見遙かした国見の歌であろう。

 島は4島との解釈をしている。しかし、「難波=摂津」だから、どの島もどこと確定できない。やはりどの学者もお手上げなのだ。

 さて、「自凝島(淤能碁呂島)=能古島」を知っている私(たち)にはこの歌の舞台が博多湾であることは自明だ。博多湾には志賀島・能古島があり、少し沖に玄海島がある。下の地図では見えないが、玄海島のまわりには大机島(さらに小さな島を伴う)・柱島という小さな島が点在している。博多湾はこの歌の舞台としてぴったりではないか。

博多湾地図

 富永さんの論文から一節を引いて、「難波=筑前博多」の論証を補強しよう。


 すなわち黒日売歌謡の「なにはの崎」も、淤能碁呂島の論理から博多湾にあったことになろう。淤能碁呂島が、なにはの崎から見えているのだから。またこの歌は多島海の景観を歌っているのでは、と先程述べた。大阪では相応しくなかったが、博多湾の光景としてはよろしいのではないか。かつての博多湾がより深く陸に湾入していたことは、万葉歌の故地が、埋立てによって著しく変っていることでも知られている(『九州の万葉』桜風社、等々)。また最近九州の灰塚照明氏は、住吉神社絵馬による博多古図なるものを紹介しておられる。それによっても古代の博多湾の状況が窺われる(なお青山富士夫氏より、檳榔の島が植物のアジマサによるのであるならば、アジマサとはビロウ〈ビンロウではない〉であるらしく、その分布は、福岡県沖の島、四国の足摺岬以南にあることを教えて戴いた)。

 黒日売歌謡における「やまと」「なには」はいずれもが近畿ではなく筑紫であった。ならばこの物語りの主人公は仁徳ではない。筑紫の大王伝承だ。それが仁徳記に盗用されていたのだ。



 富永さんは黒姫説話中の
倭方(やまとへ)に 西風吹き上げて 雲離れ退(ひ)き居りとも 我忘れめや
という歌を分析して、ここの「倭(やまと)」が、やはり筑紫であることを論証しているが、割愛した。

《「真説・古代史」拾遺編》(56)

地名奪還大作戦(4):難波=筑前博多(1)


 新庄さんは「難波=筑前博多」を指し示す謡曲として『蘆刈』と『弱法師(よろぼし)』を取り上げている。その二つの節を改めて詳しく読んでみると、私には納得できるのだが、やはり論理的な飛躍が多く、それを埋める必要を感じた。ここのところ、それをどう埋めようか、あれこれ試行錯誤していて、記事更新の間隔が開きがちになっている。ごめんなさい。

 まず、「難波=筑前博多」という仮説を設定する根拠はあるのだろうか。今は「難波」という地名は博多には残っていない。しかし、机の前に座っているばかりの私には確認のしようがないが、福岡市城南区堤に「難波池」と呼ばれる池があるという。また、筑紫には儺縣・儺河・那之津など「ナ」地名が残存している。そこで大阪以外に「難波」という地名はないか、ネット検索をしてみた。5例見つかった。

宮城県黒川郡大和町宮床字難波
福島県会津若松市河東町倉橋字難波
兵庫県 南あわじ市志知難波
青森県青森市大字原別字難波
京都府宮津市字難波野

 また、奈良県明日香村の向原寺には「「難波池」と呼ばれる池がある。

 もう一つ、『和名抄』に「讃岐国、寒川郡、難破・石田・長尾・造田・鴨部・神崎・多知」という記録がある。「難波」は大阪の専売特許ではない。「難波」といえば大阪、という先入観をまず脇に置いてみよう。

(ここから「古田史学の会」の富永長三さんの論文 「盗まれた大王伝承」 を利用させていただく。)

 「難波」という地名の初出は『日本書紀・神武紀』で地名説話の形で出てくる。

 皇師(みいくさ)遂に東(ひんがし)にゆく。舳艫(ともへ)相接(あいつ)げり。方(まさ)に難波之碕(なにわのみさき)に到るときに、奔(はや)き潮(なみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに會ひぬ。因(より)て、名(なづ)けて浪速国(なみはやのくに)とす。亦(また)浪花(なみはな)と曰ふ。今、難波と謂(い)ふは訛(よこなま)れるなり。

 もちろんこれは後代のこじつけ説話であり、『古事記』ではただ「浪速の渡(わたり)」というだけである。もとはやはり「なみはや」と呼んでいたのだろう。とまれ、そのあたり(現「大阪」)は「摂津国」であり、そこが「難波国」と呼ばれるようになるのは、大雀命(おおさざきのみこと 仁徳)がそこに「高津宮」をおいた以降だろう。

 では「なには」というのは本来どういう意味を持った地名なのだろうか。富永さんの論考の結論部分だけを引用する。

 「なには」とは「ナ・ニハ」の意ではなかろうか。「ナ」とは、肴・菜・魚であり、熟して、酒肴・御菜・真名等々に記される。  酒肴の酒は、古代において、今日わたしたちが日常茶飯に飲むそれではなく、神への捧物ではなかったか。・・・「ナ」とは、もと神への供え物、神饌をさす言葉ではなかったか。

(中略)

 「ニハ」は、齊庭・沙庭等々記される。神を祭る場所を「ニハ」という(『字訓』)。

(中略)

 「ナニハ」とは、もと神饌を捧げ、神まつりする場所をさす言葉ではなかったか。なには津、とはその神饌を集積する港の意だ。そうであるならば筑紫に、なにはがあって何の不思議もない。それゆえ筑紫には、儺縣・儺河・那之津等々「ナ」地名が残存したのではないのか。



 「難波」が本来このような意味の地名ならば、福島県会津若松市のような、全く海のない国にも「難波」という地名が残っていることも納得できる。

《「真説・古代史」拾遺編》(54)

地名奪還大作戦(3):紀の国=佐賀県北部?(2)


 巻六917番・山部赤人の歌が紀伊国(和歌山県)の雑賀崎で詠まれた歌ではないことがはっきりした。ではどこで詠まれた歌なのだろうか。新庄説を読んでみよう。巻六917番を提示して言う。

 右の歌は珍しく判然と、地名の解る万葉歌です。

一 雑賀野は、天皇の宮殿があった所である。
一 それは海岸であって、背後に沖の島がみえたと言う。
一 それは玉津島山のある地である。

 玉津島とは唐津湾松浦、玉津島明神の祀られる地であるということです。以上のことだけでも雑賀野は佐賀県北海岸であることが解るのです



 新庄さんはいとも簡単に「玉津島とは唐津湾松浦、玉津島明神の祀られる地」と断定しているが、その断定の根拠が示されていない。それが不満なので、唐津湾松浦に玉津島地名あるいは玉津島明神を祀る神社の痕跡があるかどうかいろいろ調べたが、ない。(玉島神社というのがあったが、これは島ではない。)雑賀野の手がかりがあればはなしは簡単なのだが、こちらもない。

 しかし、雑賀野には大王の「常宮」があったという。魏志倭人伝に出てくる「末盧国」は今の東松浦郡に比定されている。7世紀末の頃ここに九州王朝に帰属する大王があり、その大王の「常宮」があっても不思議はない。雑賀野という地名には何の手がかりもないが、雑賀野は東松浦郡のどこかではないか。

唐津湾
唐津湾 点在する島の向こうに見える半島が東松浦半島

 謡曲『淡路』を改めて読んでみた。冒頭のワキの台詞
「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。偖もわれ宿願の子細あるにより。住吉玉津島に参詣仕りて候。又よきついでなれば。これより淡路の国に渡り。神代の古跡をも一見せばやと存じ候。」

 玉津島は「住吉玉津島」とあった。「玉津島」は固有名詞ではなく「玉のように美しい島」という意味の普通名詞ではないだろうか。もしそうならば、「住吉玉津島」は「住吉明神が祀られている美しい島」となる。

 住吉神社は全国に約2000社あるそうだ。その中で一番古いとされているのは筑前一の宮住吉神社である。しかし今は、新庄説に沿って、肥前唐津湾松浦あたりの島を探ってみよう。候補が二つあった。壱岐島と神集島(かしわじま)。

 壱岐島は唐津湾東松浦から20キロくらい沖にあり、魏志倭人伝に出でくる「一大国」に比定されている古い歴史を秘めている島だ。さすがに壱岐島には50社ほども神社がある。その中の一つに過ぎない「住吉神社」をとって「住吉玉津島」という表現は果たして適切かどうか。ただし、神社の由緒書きは「日本最初の住吉神社総本宮なり。次いで御鎮斉あらせられたる長門摂津、筑前の住吉神社と共に、日本4住吉の1つにして、古来式内名神大社長崎県下筆頭の古社として知られたり。」と、その権威を披瀝している。

壱岐島
壱岐島

 神集島は唐津市西部の湊港から約1kmの沖合いにあり、周囲約8kmの小さな島である。「沖つ島」というにはちょっと近すぎるか。島には神社は7社ある。ここの住吉神社も「日本初の住吉神社」と自称しているようだ。また、延喜式神名帳では名神大社とされているという。ここを「住吉玉津島」と呼んでもよさそうだが、どうだろうか。

神集島
神集島

 『淡路』の冒頭の台詞に、住吉玉津島から能古島(淡路の国)に渡る、とあった。壱岐島から能古島に渡るのには壱岐水道を横断し、さらに玄界灘を越えなければならない。直線距離で40キロぐらいあるだろうか。「よきついでなれば」ちょっと寄っていこうというには距離が離れすぎている。神集島からならば、「よきついでなれば」という表現が適切になると思える。

 一つの仮説に過ぎないが、以上から、取りあえず玉津島=神集島として、新庄説の続きを見てみよう。

巻七 1194番

紀の国の雑賀(さひか)の浦に出で見れば海人(あま)の澄火(ともしび)波の間ゆ見ゆ

 「そして次の歌でそれが決定的になります。」と言って、上の歌を引いている。

 これはもう判然としています。かつて天皇の宮殿のあった雑賀野という地が、紀の国にあったということです。山部赤人は紀の国へ天皇のお供をして雑賀野の宮殿へ行ったと歌っている。赤人は倭国に仕えた歌人と見ていますので、723年では辻妻の合わぬ感があり、添え書きをわざと変えたものかと思っています。

 とまれ雑賀野の宮殿は背向に沖の島が見えたといいます。これは九州北海岸ならではのことです。和歌山の背後に沖の島とは、どんなにしても無理です。これによって紀の国=和歌山はありえないということになります。



 ここでは、これまでの「紀の国=唐津湾東松浦」の論証が正しいことを前提している。その立場からは、巻七1194番歌により「雑賀野」は「紀の国=唐津湾東松浦」にあったという結論は必然である。逆に、万葉集の編者はこの歌の「紀の国=和歌山」との認識から、巻六917番歌にくだんの詞書を付したのだろう。

 なお、赤人の歌で詞書によって作歌年月が特定されている歌がもう一つある。1005番・1006番歌で、735(天平8)年6月吉野行幸のときとなっている。赤人が「倭国(九州王朝)に仕えた歌人」だとすれば、この詞書も眉唾ものと考えてよいだろう。

 この他にもまだありました。『万葉集』1796~1799まで「紀伊国にて作れる歌四 首」とあります。中でも、

古(いにしへ)に妹とわが見しぬばたまの黒牛潟(がた)を見ればさぶしも(1798番)

と歌いますが、黒牛潟は佐賀県有明海に出る河口。今、牛津川と言われるものがそれであろうと思うのです。また、

玉津島磯の浦廻(み)の真砂(まなご)にもにほひて行かな妹がふれけむ(1799番)

 があり、これも玉津島が歌われることで、佐賀県北海岸のことであろうと推測できうるものです。今までこの道の権威の方々が、何故これを和歌山だと肯定してこられたのか、私には不思議です。紀皇女、紀郎女、紀貫之、紀有常など時代は下りますが、紀姓はいずれも佐賀県出身ではなかろうかと思っています。



 1798番歌で「黒牛潟は佐賀県有明海に出る河口。今、牛津川」と推定している。「黒牛」という地名はいまどこにも残っていない。そこで「黒牛」と「牛」一字が共通する地名を選んだということだろう。同じ論法で、「岩波」では和歌山に「黒」一字共通の地名を探し出して、「和歌山県海南市黒江・舟尾(ふのお)あたりの海」と解説している。どちらも決め手にはならない。

 しかし、1799番の「玉津島」には「磯の浦」がある。玉津島は「島」であることをこの歌も主張している。つまりこの歌の「玉津島」も和歌山県の玉津島神社ではないことを示している。

 一つ補足すると、多次元史観の立場から柿本人麻呂のたくさんの歌が鑑賞(検討)し直されているが、いずれも人麻呂は倭国(九州王朝)の貴族であるという方向を指している。そして、上記の歌には「柿本朝臣人麻呂の歌集にいでたり。」という「左注」が付いている。「柿本朝臣人麻呂歌集」には人麻呂自身の歌のほかに、人麻呂が作歌の研究や参考のために採集したものも含まれているという。(古田さんによる論証がある。)そのいずれにしても、特に1799番歌は倭国で歌われた歌と考えてよいだろう。

《「真説・古代史」拾遺編》(53)

地名奪還大作戦(2):紀の国=佐賀県北部?(1)


 史料としての『万葉集』についてひとこと確認しておきたい。

 一般に詩歌は作者がその時の自らの思考や感情を言葉として定着させたものだから、同時代史料として扱える。つまり金石文と同様、第一史料である。(蛇足ながら、とうぜん過去のことや未来のことを空想して作られたものもある。今はそれらを除外して考えていることを、わざわざ付け加えるまでもないだろう。)

 特に『万葉集』の場合、7世紀の後半から8世紀にかけて起こった九州王朝から近畿王朝への権力交代という大事件の前後にわたる時期の作品群で構成されている。その時期の貴重な直接史料である。しかし、詞書や注は編者が後から付加したものだから、その扱いには注意を要する。その付加には近畿王朝の大義名分の立場からのものがある。従って、歌本体とその詞書や注とが矛盾するときは歌の方を「正」としなければならない。

 もう一つ、今回のテーマに入る前に前回の記事の補足をしておきたい。大八洲の「二 伊勢・志摩 筑紫の糸島」という比定について、新庄さんは「この所は古代、水道で怡都(いと)と志摩に別れていた由。伊勢は神風の伊勢(神が瀬の伊勢)として怡都の国にあったという(古田史学)。」と記していた。これだけでは納得しがたい方は、古田さんによる論証を紹介した次の記事を参照してください。

『「神武東侵」:生き返る挿入歌謡(1)』

『「神武東侵」:生き返る挿入歌謡(2)』

 さて、今回のテーマは「紀の国=佐賀県北部」という比定の論証だ。新庄さんはまず次のような仮説を立てる。

 紀の国とは、私達の認識では和歌山県のことになっています。しかし、『万葉集』等の古典を見る限りどうもおかしい。合わないのです。何故なら現代と違い交通の便も悪く、国王も違う他国へそう簡単に行き来のできるはずがないのです。それにも拘らず『万葉集』では、筑紫から紀国へ絶えず行き来している様が伺えます。「紀の国とは、筑紫国と同一天皇を戴いている国ではないか」。一つの国の範疇になければおかしいと思うようになったのです。しかもそれは地続きではなかろうかと。では何処かと言えば、それは佐賀県を指摘せざるを得ません。

 紀とは、掾、雉怡(ちい)、基肄(きい)、紀伊等と書かれています。佐賀県を仮定して見たとき、今の地図によっても、三養基(みやき)郡、基山町、彼杵(そのぎ)、杵島(きしま)、高来、雉怡の郷、紀郡と佐賀県は何と「き」の字の多い土地柄でありましょうか。古代の紀とは佐賀県のことではないかと思い至ったのです。

(振り仮名は私が付けたのですが、「掾」は何と読むのか、どこにあるのか、確認できませんでした。「紀郡」も確認できませんでした。)

 この仮説を論証する手がかりは、やはり万葉集であったと、新庄さんは次の歌を取り上げている。(新庄さんの論証は飛躍が多く、論理的に納得しがたい点が多々ある。表題に「紀の国=佐賀県北部?」とクエスチョンマークをつけたゆえんです。そこで、私なりの補充をしながら進めていく。)

巻六 917番、918番、919番

神亀元年甲子冬十月五日、紀伊国に幸しし時に、山部宿禰赤人の作る歌一首 短歌を併せたり

やすみしし わご大王(おほきみ)の 常宮(とこみや)と 仕へまつれる 雑賀野(さひかの)ゆ 背向(そがひ)に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干(ふ)れば 玉藻刈りつつ 神代より 然(しか)そ尊(たふと)き 玉津島山

反歌二首

沖つ島荒磯(ありそ)の玉藻潮干(しほひ)満ちて隠(かく)ろひゆかば思ほえむかも

若の浦に潮満ち来れば潟(かた)を無み葦邊(あしべ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る

右のものは、年月を記さず。但し玉津島に従駕(おほみとも)すといへり。これに因りて今行幸の年月を検注して以ちて載す。


 「左注」によると、いつ作られた歌なのか分からないが、「玉津島」とあるから、神亀元年の聖武天皇の紀伊国行幸に「従駕」して作ったのだろうと推測して、詞書を付けている。『続日本紀』からその行幸を書き抜くと次のようである。

724(神亀元)年10月
5日 天皇は紀伊国に行幸した。
7日 紀伊国那賀郡玉垣の勾頓宮(まがりのかりのみや)に到着した。
8日 海部郡玉津嶋の頓宮に至り、10日余り滞在した。
12日 離宮を岡の東に造った。・・・


 一行はその地に21日まで滞在している。なお、16日の詔の中に次のような文言がある。

「登山望海。此間最好。不労遠行。足以遊覧。故改弱浜名。為明光浦。・・・」
 山に登り海を望むにはこのあたりは最も好い。遠出の労もなく遊覧ができる。よって弱浜(わかのはま)という名を改めて、明光浦(あかのはま)とし、・・・」


 地図を見ると、雑賀崎という岬と、和歌浦の側に玉津島神社がある。玉津島神社は雑賀崎と陸続きで、そこから約5キロほど真東にある。和歌浦(和歌川の河口)ごく近くである。たしかに雑賀崎・玉津島神社・和歌浦と、「雑賀」「玉津島山」「若の浦」と比定できそうな地名・神社名がある。しかし、長歌の内容とは合わない。列挙してみる。

1
 現在「雑賀崎」はあるが「雑賀野」という地名はない。
2
 歌では「常宮」は雑賀野の海の近くにある。しかし聖武が滞在したのは玉津島である。しかもそこは「頓宮(かりみや)」である。
3
 歌によれば、雑賀野からは「沖つ島」が見える。雑賀崎のすぐそばに大小四つの島があるが、あまり近すぎてとても「沖つ島」とは言えない。地図には島の名も書かれていないし、「神代より然そ尊)き」ような神社もありそうもない。(「沖つ島」は固有名詞ではなく、普通名詞「沖の方にある島」だろう。歌は「沖つ島」=「玉津島」として詠っている。)

(写真をクリックすると大きくなります。)

手前の長堤の付け根あたりが玉津島神社。その長堤の向こう側が和歌浦。左上に島が見える。その島とほとんどつながって見える岬が雑賀崎。(写真は「和歌山情報サイト・和歌山であそぼ」さんから拝借しました。無断借用ごめんなさい。)

4
 雑賀崎から海の方を見るというのは、西の方を見ることである。しかし玉津島神社は雑賀崎の東の方約5キロの岡の上にある。また、そこは玉津島と言うほど高い場所なのだろうか。

 これらの矛盾を定説ではどう説明しているだろうか。「岩波」を見てみよう。

1
 雑賀野については「和歌山市雑賀崎近近の野」と説明しているだけ。地図で見ると、雑賀崎近辺に「野」と呼んでいいほどの平地(広がり)は考えがたい。
2
 私は「常宮」とは「行宮(かりみや)」に対して「つねにいます宮」と解しているが、「岩波」は「永久の御殿」と訳している。単なる「頓宮」を「永久の御殿」と装飾していると言っているのだが、私にはとてもおかしな解釈に思える。
3・4
 玉津島山について「岩波」の頭注は「玉津島。海中に山のように見えるので山といった。現在は陸上にあり、奠供山(てんくやま)と呼ばれ、和歌山市和歌浦の玉津島神社のうしろにある。」と言う。

 さらに、ネットで玉津神社を調べたら
「和歌浦にある船頭山、妙見山、霊蓋山、奠供山、鏡山、妹背山の六つの山は、もと小島で、当時それらはみな、玉津島山と呼ばれていた。今は、その一つ、妹背山だけが、もとどおり島のまま残っている。」
と言う説明に出会った。そのほか
「当時は、島山があたかも玉のように海中に点在していたと思われる」
とか
「いにしえ島山が恰も玉のように海中に点在していたと推察され、」
とか、いずれにしても、昔は島だったというわけだ。そう断言できる地質学的証拠でもあるのだろうか。みな憶測に過ぎないようだ。

 さらに、もしその憶測が当たっていたとしたら、ますますおかしいことになる。聖武の行幸記録に船に乗って島に渡ったという記事はない。そのとき聖武はモーゼになったのかしら。また、玉津島神社の周りが海だとしたら、聖武が風光明媚をめでた和歌浦はないことになる。

 従来はこうした矛盾にはしっかりと目をつぶってきていたわけだ。あるいは矛盾に気がつかなかったのかもしれない。しかし単なる「万葉愛好家」ならいざ知らず、「万葉学者」を名のる専門の研究家が「矛盾に気がつきませんでした」では、あまりにも情けない。

《「真説・古代史」拾遺編》(52)

地名奪還大作戦(1):淡路島=能古島


 謡曲は中世に成立したものであり、もちろんその当時に新たに創られたものが多い。しかし古代を題材とするものの多くは、くぐつによって伝承されてきた歌謡(猿楽)を典拠として編み直し作られてきたものである。そうした原本の中には、明らかに「白村江の戦」以前の、記紀成立を知ることのない人物によって謡われたと考えられるものがある。新庄さんは言う。それらは九州王朝の歌謡詩人が、あくまでも「自国の歴史のみを土台として謡ったものとして考えています。」新庄さんはそのような謡曲の一つ『淡路』を取り上げている。


 この謡の骨子は、
(1) 大八洲の範囲
(2) 扶桑の国とは何処か
(3) 淡路とは何処にあり何をなした土地か
ということを謡ったものと理解いたします。これは、この日本の国の遡原における大切な認識であったという思いから取り上げました。

 新庄さんは原文を提示していないので、原文から該当部分を提示しながら読み進めよう

(1)大八洲
「さればにや二柱の御神のおのころ島と申すもこの一島のことかよと。凡そこの島始めて大八洲の國を作り。紀の國伊勢志摩日向ならびに四つの海岸を作り出し。日神月神蛭子素盞鳴と申すハ。地神五代の始めにて。皆この島に御出現。」

 謡を謡う人も聞く人も「紀の國伊勢志摩」は近畿、「日向」は宮崎県と受け取っているだろう。1300年間、そのように偽装され続けてきたのだから、そのように受け取るのはやむを得ないことではある。しかし、新庄さんは次のように解読する。

 大八洲とは伊弉諾・伊弉冉の創った四つの陸地と、それに付随する海四つ、合わせて八つをいうと。それは、


紀の国  佐賀県北岸。
 これに就いては別稿にて述べますが、和歌山県が紀の国と言われるようになったのは『記紀』編纂の後、720年以後であると思うのです。

伊勢・志摩  筑紫の糸島
 この所は古代、水道で怡都(いと)と志摩に別れていた由。伊勢は神風の伊勢(神が瀬の伊勢)として怡都の国にあったという(古田史学)。

日向(ひなた)  筑紫の日向
 福岡県、天孫降臨の地。高祖山、日向川あり。

淡路島  お能古呂島(能古島)
 博多湾内にある小島。

 以上、「陸地」四つとこれらに付随する「海」が四つ、この八つが大八洲と言うと『淡路』は謡うのです。博多湾という小さな海もその一つなのです。

 大八洲の範囲を示す謡は『淡路』だけではなく、神歌『舟立合』を始め『逆矛』等の中でも同じことを言っています。

 何という小さな範囲でしょうか。謡曲以外では聞いたこともない歴史です。しかし、伊井諾・伊井冉が普通の人間だとしたら、交通機関も無い古代において小舟一つで、「これだけの地を確保した」というだけでも未曾有の偉業でありましょう。永く特筆されることはもっともなことと思われます。

 これとは別の逸話によれば、伊井諾はこの後、妻と死別してその妻を慕い、墓を尋ねますが、変わり果てた姿に驚き慌てて逃げ帰るという、極く普通の人間ではなかったでしょうか。



 『逆矛』では大八洲は次のようになっている。

昔伊弉諾伊弉冉の尊。此矛を携へて。天の浮橋を踏み渡り給ひ。地「則ち御矛をさしおろし給ひ。青海原を。かき分け探り給へば。矛のしたゞり凝り固まつて国となれり。まづ淡路島。紀の国伊勢島筑紫四国。総じて八つの国となつて。大八洲の国と名付け。

 「伊勢志摩」が「伊勢」となっており、「伊勢」を「島」だと言っている点や、「日向」が「筑紫」に変わっている点が注目される。「記紀」の大がかりな国生み神話は『淡路』『逆矛』よりさらに後の時代のものであることは明らかだ。

 ところで新庄さんは「紀の国」を佐賀県北岸と比定している。「別稿にて述べます」と言っている通り、その論証を行っている稿がある。それは次回に取り上げよう。

(2)扶桑国
「七つ五つの神の代の。御末は今に。君の代より。和光守護神の扶桑の御国に。風は吹けども山は動ぜす。げにありがたき御誓。」

 扶桑国とはどこか。諸説紛々、未だ決定打はない。蘇我王権国説・高句麗説.樺太説・琉球説、はてはメキシコ説・ムー大陸説まであるそうだ。謡曲『淡路』が語るところによれば、扶桑国とは伊弉諾・伊弉冉が造った大八洲のことである。

 しかも謡曲はこの小さな大八洲のことを「扶桑の国という」と謡うのです。それは、桑の弓と蓬の矢によってこの国を平定したと言います。伊弉諾は桑の弓に扶けられたと。それ故、「扶桑」なのです。

 これまで扶桑の国ほど、日本中を迷走してロマンに満ちた国はなかったのではないでしょうか。謡曲は至極あたりまえという如く、扶桑の国を語ります。

 このお話は遡源の時代のことであり、その後、国も段々富み勢力を増し九州全域にその支配を及ぼす時代には、扶桑の国といえばやはり九州全域を指したのではないでしょうか。



(3)淡路島
「ふりさげし。鉾の滴露こりて。一島となりしを。淡路よと見つけし此処ぞ浮橋の下ならん。げに此島のありさま東西は海漫漫として。南北に雲峯を列ね。宮殿にかゝる浮橋を。立ち渡り舞ふ雲の袖。さすは御鉾の手風なり引くは。潮の時つ風治まるは波の芦原の。国富み民もゆたかに万歳をうたふ松の声。千秋の秋津洲。をさまる国ぞ久しき。」


(淡路は)博多湾の海中にある小島のことで、伊弉諾はここを根拠地として大八洲を作り、子息達もここで生まれたと謡曲はいいます。日神、月神、蛭子、素戔嗚、これらの神々が日本の天祖となったと謡います。中でも日神は日向に天下ったといっています。能古島を、国産みを始め建国の根城としたことは至極自然で、絶好の地でありましょう。湾の中であり、波は静かで、しかも外敵に侵され難い地。謡曲はこれらのことを何の奇もなく、極く普通の夫妻の話として語っています。

 伊弉諾が「天の浮橋」に立って国作りしたということは、この博多湾内は潮の干満が激しく、能古島の海岸のある一点が時には深い海となり、またときには陸地となる、この海と島の関係の特殊性を表すものであり、これを一言にて「天の浮橋」とはよくも言いえて妙と感心するばかりです。

 「葦原中国(あしはらのなかつくに)」のことも謡曲は語ります。後の世では繁栄の中心部と言った土地の意となったようですが、伊弉諾の作った大八洲は祖源の頃、湿地帯が多く到るところ葦が生え、葦原をなぎ払い引き捨ててそれが山となり、方々に山ができて、山と言えば葦引き。『万葉集』にも歌う「足引きの山」は今も歌の枕言葉として残るもので、あの北九州大穀倉地帯はこうしてできあがったと、遡源の労苦を繰り返し謡うのです。この多大な労苦によって後の王朝繁栄の基をなしたといいます。

 今も佐賀県には、「芦刈」という地名が残っています。謡曲にも『蘆刈』があります。大阪の物語と思わせるように書いていますが、原作は九州の難波の話であるような気がいたします。



 「大阪の難波」を九州に奪還するのも課題の一つである。いずれ取り上げよう。

 さて、以上の締めくくりです。
 大和を中心とした大八洲(日本人の常識)は、『古事記』(712年)、『書紀』の成立(720年)に合わせて拡大解釈されたものと私は見ています。それは九州から瀬戸内海をばく進、四方を席巻、大和へ突入。もうこうなれば、伊弉諾は超々人間に成らざるを得ないのです。とても桑の弓や蓬の矢では追いつきません。

 大和朝廷はこの「拡大大八洲」に対し、なくてはならぬ「淡路島」を取り急ぎ比定したと考えます。大阪湾の鼻先の島をです。この島こそ誠に災難。「大昔、この島の名は?」と問いたいところです。この島を、ご丁寧に同じく「淡路島」と命名されました。勿論、まことしやかに定着して今日に及んでいます。ここが伊弉諾の国産みの地だと言ってです。この「拡大大八洲」ができたことにより、件の「豊葦原中国」は大和の国へ泣く泣く越して行きました。

 こればかりではなかったのです。西暦713年「諸国の地名を好字に替えよ」という政令を発したその後は、山も川も神社までもそっくり引っ越したかと思うほど、『万葉集』にある地名は余すことなく今、大和にあるのです。しかも「ここは万葉の故郷」などと平然と吹聴して千三百年経ちました。

 万葉は九州で謡われたものであり、古田史学において九州万葉であると、ひとつひとつ証明されつつある昨今です。もう千年以上経たものは総てが古く苔むして、何が古いか新しいか見分けはつきません。唯々呆然とするばかりです。自国の先祖にこれほど翻弄され愚弄された国民の例が世界にありましょうか。しかも、千三百年にも亘ってと言いたくもなりますが、こうして書いて批判できるだけでも隔世の感。自由に息のできるだけでも、千三百年にして漸く、びくともせぬ岩盤の、その風穴に感謝すべきかも知れません。

 謡曲は静かに倦むことなくむしろ頑固に謡い続けて、これを明かされる日を待ち続けていたのでしょうか。



《「真説・古代史」拾遺編》(52)

高松塚古墳の被葬者


 梅原猛さんに『黄泉の王』という著書がある。高松塚の被葬者の探索に挑戦している。新庄さんは30年ほど前に読んだ『黄泉の王』を再読して、次のように問題提起をする。

 あの頃は余り興味もなかったことを覚えています。今再び拝見すると、梅原先生の凄まじいまでの渾身の力作、深い探索、あらゆる角度からの推論を重ねられ誠に敬服するばかりです。今度この本のお陰を頂いて高松塚の被葬者を指摘させて頂くことができましたことを感謝申し上げ、一文にして書き留めて置きたいと思います。

 残念ながら梅原先生の結論の被葬者が「弓削王子である」ということには賛成させて頂く訳には参りませんが……。末だ高松塚は誰の古墳と決定打を発表した専門の学者はないようですので、それでは塚の主に失礼でもあり、何時までも学会が大和王朝一元主義で凝り固まっておられる以上、絶対名前は出てこぬものと思い、「それでは」と筆を取った次第です。

 梅原さんは他に類を見ない高松塚古墳の特徴を論拠としている。梅原さんが挙げているこの古墳の特徴を、新庄さんは次のようにまとめている。


 天武天皇と同時代の墳でありながら関西には例を見ない装飾壁画古墳である。

 その描かれた絵は朝賀の儀であり、四神と天皇制の思想によったもの。天皇の墓以外は考えられぬものでありながら、それは故意に傷つけられ、肝心の日や月、また玄武や亀の頭部が削り取られている。

 この墳の遺体は未だ壮年の男子であり頭部が抜き取られて無い。それは頭を切り取られたものではなく、もがりの間中に抜き取って持ち去ったものという。これは当時の死人に対する「頭部なくば再生せず」という死に対する思想によるものらしい。

 遺体の側にあった宝剣は装飾の美しい鞘のみで、中身の刀身は抜き取られて無かった。

 その内装は天皇の墓に匹敵するものでありながら、当時の薄葬令に準じた四位の位の人物のもので極く小型のもの。古墳としては最下位に属するものであった。

 以上の特徴をもとに推論を重ねて、梅原さんは「被葬者は弓削皇子」との結論を下している。この結論にはヤマト王権一元論者の限界が露呈している。探索場所をヤマトに限るほかないから、多くの矛盾を多く残したままの結論を提出するほかない。

 しかし、右に列挙致しましたことは大和の皇子としてはいちいち合わないのです。

第一
 父天皇天武の墓にもない装飾古墳を皇子に用いる必要はさらさらない。
第二
 弓削皇子は皇太子でもなく天皇になる約束はないのですから、朝賀の儀の絵は不当。
第三
 紀皇女との不倫関係を挙げられますが、それが事実としてもただ放蕩の罪だけで再び生まれて来るなと、頭部を抜き取る刑罰とは矛盾してはいないでしょうか。それは天武父王に対しても失礼です。これは考えられません。

 このことに就いて時代は少し下がりますが、朝廷内は「恋」というものに大らかであった気がするのです。『源氏物語』しかり。また、在原業平、行平等も天皇の皇子ですが、花から花へ移り舞う胡蝶にたとえられて、不倫は男の勲章の感さえあり、謡曲『井筒』『小塩』『松風』等の中にも見え、『伊勢物語』の伊勢女も、業平のことを「かのまめ男」と笑いの中に捉えています。

 時代は少し上がるとはいえ以上の考察により、弓削皇子の刑罰ということでは適当ではないと思うのです。



 次に新庄さんは『黄泉の王』に記されている大変特異なエピソードに注目する。そのエピソードとは、梅原さんが直接高松塚のある村まで足を運び見聞したもので、次のようである。

 この古墳は土地の人にとって特別なものであった。飛鳥村には無数の古墳がある中で何故かこの古墳だけ「神」として祀られ「古宮」と称せられ、この地(宇田、平田)に住む村人の中で共通の「橘」の紋を家紋としている九軒の家の人によって、代々祀られてきた。現在でも毎年1月16日に祀られている。

 この墓には由来話もあるらしいが、梅原さんには語って貰えなかったと言う。おそらく、権力者の逆鱗に触れるような、代々門外不出の話なのだろう。たぶん、その由来話を語ってもらえれば、正しい被葬者を特定できるだろう。しかし村民が口を閉ざしているのだから、手持ちの史料によって推論するほかない。

 さて新庄さんは、「橘の紋を家紋としている村人」というくだりから、『続日本紀』の異色の記事、「誠に退屈な眠気を誘うばかりの国書の中で、それは少々面白い文」を思い出す。それは、736年(聖武天皇 天平8年)11月11日の記事で、従三位葛城王と弟の従四位上佐為王が連名で出した上表文である。原文は500余の漢文で、現代語訳だと2ページ以上の長文である。その内容は要するに
「自分(葛城王)の母親は「橘」と言う名の家のものです。私も母の家の苗字を名告りたいと思うので、葛城王の名を返上して橘姓になることを許可してほしい。」
というものだ。11月17日、聖武天皇はこの願い出を「誠に時宜を得たもの」とほめて、許可する。
 王という先祖代々の名誉の名を捨ててただの平民姓を取る。奇想天外な申し出だったでしょう。家柄が何より優先された時代にです。朝廷は驚きました。しかし喜んだのです。それ故国書は二ページにも渡って特筆したのです。九州王朝、葛城王家、誰れ知らぬ者もない。大和王朝より数段も格上の王家が消える、目の上の痛的な存在がなくなる。この国書の逸話は、大和朝廷の嬉しさの現れではないでしょうか。この若い葛城王は、絶えず朝廷より白眼視される身分の高さよりも、気楽な平民を選んだのでしょう。その心底は解かる気が致します。世の中総て変わったという諦観。名誉より「生きること」の優先です。

 端的に申し上げましょう。高松塚の被葬者はこの若い葛城王の父親(葛城王)であると思い至りました。この父王は九州の家に妻子を置いたまま、大和朝廷の捕われ人として大和へ連行された王の一人でした。その後便宜上、この地の村娘を娶り、その女性に生まれたのがこの若い葛城王(改め橘氏)であったということです。この若い葛城王が橘姓に変わった時代には、もはや父王は亡くなっていたはずです。

 「九州王朝の王が捕虜となって連行された」等と申せば、大和朝廷一元史観の立場からは奇異な感をもたれましょうが、大和の朝廷が口を鍼して一切国書に書かなかった九州との関係。しかし、何時までもこれを抜きにしていては国書は勿論のこと、『風土記』も『万葉集』も理解不可能のまま終わることになりましょう。



 「橘」姓を願い出た葛城王は、後に権勢を極めた橘諸兄である。その祖父は、あの大友皇子の使者を追い返した筑紫大宰栗隈王(つくしのおほみこともちくるくまのおほきみ)である。そのとき「劒を佩(は)きて」栗隈王の側に控えた二人の息子がいたが、諸兄の父王・葛城王は兄の方の三野王(みののおほきみ)にほかならない。( 「壬申の乱(17):大乱戦闘の舞台」 を参照してください。)

 さて、葛城王家が如何に位の高い家柄であったかを、お話しする必要がありましょう。

 葛城家は倭国において、神代からの名門でした。謡曲に『代主』というのがあり、葛城山は事代主を祀った山、高間の山ともいわれ、王城の鎮守と謡本は記します。今、名は変えられているでしょうが、王城とはそれを太宰府と見ると、多分基肆城、恐らく基山と今言われている山が「葛・基山」ではなかろうか、と。葛城王家は「神の山」とも言われたその末孫なのです。

 『古事記』によると、仁徳天皇の皇后・磐之媛(いわのひめ)は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘である。この皇后は大変嫉妬深く、この時代には珍しく天皇の側室を一人たりとも許さなかった。『古事記』は、その嫉妬深さを示す逸話を二つ書き留めている。

 仁徳は吉備の黒姫を愛していたが、黒姫は即刻、磐の姫によって辛辣に追い返されてしまう。仁徳はこの後、妻に隠れてこっそりと黒姫に逢いに行くことしかできなかった。
 もう一つの話。
 磐の姫が祭祀用に必要な柏の葉を取りに、能古島まで出かけた帰りのこと。天皇が御殿で八田姫を招いて楽しんでいると、磐の姫に告げ口をした者がいた。逆上し烈火の如く怒った磐の姫は、舟一杯に積んだ柏の葉を皆海中へぶち撒いて、博多から河を遡り、さっさと実家へ帰ってしまった。驚いた仁徳は詫びの使者を出したが、磐の姫は許すことなくとうとう死ぬまで宮中へ帰らなかった。

 誠に激しい女性です。何故天皇に対しこのような振る舞いができたのでしょうか。それは思うに実家の家柄です。天皇家と同格かそれ以上の場合のみ、許された行為であるということでしょう。葛城王家は倭国においてもトップクラスの王家であったと考えていいと思います。

 この王は大和王朝にとって再びこの世に生まれて欲しくない王様でした。そのため、古墳の中を種々傷付け、頭部まで持ち去ったのです。今も村人の手によって祀られるということは、大和朝廷とは無関係の被葬者ということでしょう。その上高松塚は上に松の木が高く生えている由。松は倭国を象徴する木といわれ、梅花、鶴亀と共に国を代表するものであるといいます。敗戦国倭国の名門王者、しかも理不尽に捕われたまま大和の地に果てた古墳の主、葛城王。高松塚の主はこの方を置いて他にはないと考えます。

 千三百年前。あれ程、倭国との関りの隠滅を謀り通した大和朝朝廷の努力も、この古墳の出現によって悪事露見の糸口になるのではないか。捕われ人の代表王者として、この古墳は頑固に歴史を語り続けていると思うこと、切です。



《「真説・古代史」拾遺編》(51)

「九州王朝」抹消大作戦


 今回から、新庄智恵子著『謡曲のなかの九州王朝』から、私が強く興味を引かれた問題を紹介しようと思う。話題は多彩にわたるが、著書内の順序にこだわらず、興味のおもむくままに書き進めていく。

 700年までは、倭国(ちくしのくに 九州王朝)が日本列島(九州から関東あたりまで)における宗主国であり、対外的にも倭国が日本の代表者だった。倭国支配下の一従属国に過ぎなかったヤマト王権が、倭国を占領していた唐の助力を得て、倭国から権力を簒奪し、大和王朝として名実ともに列島の支配者となったのは701年からである。

 しかし、それは単に権力が移行したというだけではなく、新権力が盤石のものとなるまでの数十年の混乱期間に、九州王朝を完全に抹消するという一大騒動が展開されたはずである。そして大和王朝はそれに成功した。その秘密事項は一切、どの国書にもそれとしてはっきりと書かれていない。しかし、1300年を経てようやく、古田さんの研究を嚆矢として、抹消された古代史の真の姿が立ち現れ始めたのだった。

(以下、新庄さんの文章を引用し、それに注釈を着ける形式で進める。)

 それまでの大和王朝は単なる一つの王国に過ぎず、九州王朝に隷属していた小国という身分から、一躍700年以後は日本を代表する国になったということです。この時、大和朝廷は勝者の立場から、九州に対してこればかりは理解致し難い行動に出ました。それは、莫大な賠償を求めたことです。同じ日本人が戦わずして。何の権利があったのでしょうか。外国との長い戦いに疲れはてて敗戦した同胞に対して、深手負う者の足切るが如き仕打ちは、よほど積年の恨みでもない限りは人間のすることではありません。日本人のすることではありません。

 九州倭国は文化的にも総てにおいて大和国より優れていたのです。種々の技術者達が賠償金代わりとして連行されたことは、今も正倉院文書に残る由。今、奈良東大寺にある正倉院御物と称されるものは、元九州筑後川沿いにあった正倉院の御物をそっくり取り上げて持ち去った物といいます。名前までもそのままとは……。これは賠償の一例です。

 宝物のみならず、大和王朝は、王と名づく人々をはじめ人間までをも捕虜として大量に連行したのです。国書『続日本紀』を見れば解るように、いったい何処から出てきたか不明の「無位の王」という名も知らぬ人々が、続々と何の紹介もなく出てくる不思議。継体天皇から僅か170年間にこれだけの親戚ができるはずもない大和王朝の不思議。



 「継体天皇から・・・」のくだりについて注釈する。新庄さんは倭国初期の歴史変遷を、元々の倭国の支配者である饒速日命(にぎはやしのみこと)系の王家と、倭国への侵略を繰り返す邇邇岐命(ににぎのみこと)系の王家との抗争史として描いている。継体は邇邇岐系の侵略者であり、それまでの大和の支配者は饒速日系の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が、「倭国大乱」のときに筑紫から大和の地に遷都して建てた国だと言う。つまり、近畿天皇家の祖としてのヤマト王権は継体に始まるとしている。(この問題はいずれ取り上げる予定です。)

 連行されたのは技術者ばかりではなく、あの額田王や鏡王という才色兼備の王女も、倭国から大和国へ献上させた戦利品だという。702年(文武天皇 大宝2年)4月19日に次の記事がある。

「令筑紫七国及越後国簡点采女・兵衛貢之。」
筑紫七国と越後国に命じて、采女(うねめ)・兵衛(とねり)を貢進させた。

 この驚くべき新庄説もいずれ詳しく紹介する予定です。

 「無位の王」とは位を剥奪された人ということではないか。大和にこの様な人の居るはずはないのです。それが、当時毎年の如く起こる天災……地震、洪水、干魃、疫病……と次々襲われた朝廷は、それが余程応えたとみえ、天罰か神の怒りと思ってか、天災がある度にこの無位の王達に四位、五位と官位を授けているのです。位を貰うということは、衣食をやっと保障されたということではないのでしょうか。天災の度に、捕虜の待遇を改善している様が伺えるのです。



 ちょっと調べてみた。ざっと調べただけなので、もしかすると見落としがあるかもしれないが、初めて「無位の王」への叙位が行われたのは704年(元明天皇・慶雲元年)正月7日である。

「無位長屋王授正四位上。無位大市王。手嶋王。気多王。夜須王。倭王。宇大王。成会王、並授従四位下」

 この後、ほとんど毎年「無位の王」への叙位が行われている。「無位の王」の数はたいへんなものだ。

 なお「無位の」という形容句の初出は701年(文武天皇 大宝元年)正月23日の記事で「無位山於億良為少録」とある。あの山上憶良を少録(記録係)に任命したというのだ。定説は億良を「下級貴族出身」としている。「無位」からの推定であろう。しかし新庄説によれば逆に、「無位」から億良はもともとは倭国の上級貴族だったと推定できる。どちらが妥当か。億良についてもいずれ取り上げよう。
 人々を遠慮なく連行して一体何をさせていたかは一切不明ですが、今度は人間だけではなく、九州王朝の総てを剥奪したい欲望に駆られたのでありましょうか。山も、川も、名所も。神代から続いてきた長い長い歴史もです。


 周知のように、九州と関西にはたくさんの「同地名」が併存する。なぜか。新庄さんは713年(元明天皇 和銅6年)5月2日の勅命に着目する。

「畿内七道諸国郡郷名、着好字。」
畿内と七道諸国の郡郷の名を、好(よ)い字を選んで着けよ。」

 一見何気ない見過ごされるような令に見えます。今までかつてこの令が問題にされた書物を見たこともありません。

 しかし私の目から見るとこれはただごとではない。政権交代後大和政府は如何ばかり、テンヤワンヤであったことか。矢継ぎ早に発令される政令。評が郡に代わり、通貨が代わり、国民も右往左往の最中に何ゆえ郡、郷の名までも全国的にこの混乱の最中に変える必要があったのでしょうか。もしこの政令なくば、と見たとき気が付いたのです。

682年 この年から『記紀』編纂に着手
712年 太安万侶が『古事記』を選上
713年 『風土記』を編纂
720年 『日本書紀』完成

 右のような書物が次々とできあがる年であった。これらの書物の舞台が九州王朝に関係ありと露見すれば「大和建国を称える」歴史書とは成りかねる。その上、『万葉集』もその地名根拠が九州にあると解かれば王朝の尊厳を失う。右の様な懸念一杯の中で、完全抹殺の令を出さざるを得なくなった、ということでありましょうか。思えば、この令の的は九州にあったのだと見ます。福岡県、佐賀県全土の土地名を剥奪せんがための魂胆、そのための令ではなかったでしょうか。

 大和朝廷は歴史が欲しかったのです。総ての九州の歴史は全部、余すなく大和発としなければならぬ。この命題を掲げた時、この713年の令ほど有効なものはないのです。なんという凄い智恵でしょうか。ただ感嘆のほか言葉もありません。

 九州倭国は、大和の思惑の通りに見事に消し去られたのです。戦い破れて山河あり、と言います。しかし山河すらも名はなくて、持ち去られたまま今に至るのです。勝者の立場でこれ程徹底した戦後処理のあり方は、敗者への抹殺のやり方は、恐らく世界にも例を見ないのではないでしょうか。

 『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』、『風土記』。これ等に出てくる地名は全部余すなく関西にあります。摂津、大和、河内、泉、琵琶湖に散りばめるように定着しています。しかしそれが右に掲げた本の中身と殆ど合うことがない。『万葉集』は特にひどい。大和の真ん中にカモメが乱舞するワ、漁り火が見えるワ、海士の小舟が行き交うワ。これが大和の真ん中から見えるのだそうです。

 こうして千年以上も経た今、北九州を尋ねてみても歴史の故郷は、これと思えと比定することも叶わず、大和にも何の愛着も感じられず、後世の人の何と悲しいことでしょうか。私は歴史を繙きながら、そのように嘆息するのです。



《「真説・古代史」拾遺編》(50)

壬申の乱(22):謡曲のなかの「壬申の乱」(2)


 『謡曲のなかの九州王朝』には取り上げたい話題がたくさんある。追々紹介していきたいと思っているが、取りあえずいまテーマにしている「壬申の乱」の部分を紹介しよう。

 謡曲『国栖(くず)』は、「壬申の乱」の前夜、大海人皇子(天武天皇)が吉野へ逃れたときの道中で起こった事件を題材に作られたものだという。国栖という土地を舞台としている。あらすじは次にようである。

 大海人皇子は大友皇子に追われて吉野の山中に逃げ、国栖の首領である老夫婦(漁師)の家にかくまわれる。その老夫婦は、皇子が二三日の間なにも食べてないと聞き、翁が国栖川で釣った取りたての鮎を焼き、姥は根芹を洗って供御に供えた。皇子が食べ余した鮎を翁に下される。その半身の鮎を吉野川に放すと鮎は溌剌と泳ぎだす。それを見て、皇子が無事帰還できる吉兆と喜ぶ。そこへ追っ手がやってくるが、老夫婦は川船を覆して、その中に皇子を隠した。追っ手が不審がるが、老夫婦は追っ手を言いくるめて追い返す。皇子は老夫婦の機転に助けられ深く感謝した。夜が更けて老夫婦の姿が消えると、天女が天より降って五節の舞を舞い、蔵王権現も姿を現して、大海人皇子の未来の佳きことを祝う。

 奈良県吉野町に大字国栖がある。しかし新庄さんは、大海人皇子が入った吉野は「肥前の吉野」という古田説に則って、九州の「くず」探しをする。そして、この謡曲の真の舞台が大分県の「玖珠」であることをつきとめる。

 最初にこの話を書いた作者はともかく、これを謡曲に仕立てた後世の作者の目には当然、この舞台とされる吉野という地は大和の吉野山。翼ある虎と恐れられた人物、天武天皇の逃げ先も当然この吉野山を想定したお話です。そして壬申の乱の舞台も真に小範囲のものであり、大和と美濃、山崎に終わった如くにこれまでの歴史は理解されてきたことです。しかしあの吉野山の頂上へ登る道は間道を入れても知れたもの。各々封鎖すれば瞬く間に袋のネズミであり、翼の虎の形容は余りにも不自然なのです。

 古田武彦先生も以前から大和の吉野は他にもいろいろと歴史的に当てはまらぬことありとお考えのようでありまして、先般ついに、この吉野は大和の吉野山にあらず佐賀県の「吉野が里」がそれに匹敵する吉野であると発表されました。私も大和ではおかしいとは思っていましたが、吉野が里とは本当に思いも掛けぬ所で大変驚いたものでございました。

 そして昨年の秋、『「邪馬台国」はなかった』出版三十周年のお祝いの期に、『壬申大乱』と題する、かつて人の指摘したこともない九州佐賀の大事件とする歴史書をお出しになりました。大変な力作を拝見させて頂いたものでございました。私もその時、お祝いの気持ちに添えて「謡曲にも天武天皇は九州へ逃げたといっています」と、本当はそう申し上げたいと切に思ったのでございましたが―。悲しいかな無いのです。見つかりません、「国栖」という文字が、地図に。探しました、福岡県も佐賀県も折あらば。もうぼろぼろの地図を広げては何とか見つけたい、何としても『国栖』という謡曲が九州の物語であることを証明したいと、その思いが消えぬまま日が過ぎました。土地勘の無いことは本当に悲しく一年見送りました。思えば、鉄道と幹線道路を吉野が里から有明へかけて行ったり来たり、「国栖」を探して地図の上に目を走らせてばかりいたということです。

 ところが昨日偶然、九州の昔のガイドブックを何気なく手にしてパラパラと。何と何とそこに「日田」「天が瀬」「玖珠」とあるではありませんか。地図にも大きな字で並んでいるのです。あれほど苦労して探し求めた「国栖」が「玖珠」として筑後川の真ん中辺り。ここは筑後川の上流でこの辺りの流れを玖珠川というらしく、川の名までもが堂々と出ています。北側には日田の町もあり、その並び東に玖珠の町が開けています。思いもしなかった所です。

 天武天皇がこんなルートで逃げ込まれたとは。ここは水郷で今も鵜飼いで有名の由。古代の幹線道路は川であったと、今更のように迂闊さを思い知った次第です。

 謡曲の国栖とは字の違う玖珠ですが、恐らく同じでありましよう。天皇は筑後川をここまで逃げ伸びた時、大和からの追っ手が迫ったのです。地方の小さな首領であった国栖と言う翁と姥は、その時舟で多分鮎でも漁って帰って来た所でした。翁と姥は高貴の人の危険の迫るのを知るや、咄嗟の機転で舟を伏せて天皇を隠してこの難を去らせるのです。そして家へ伴い「二、三日、供御を近づけ給はず」と言う天皇に国栖川(玖珠川)にて釣った取りたての鮎を焼き、姥は根芹を洗って供御に供えたと。

「蓴采(じゅんさい)の羮(あつもの)、鱸魚(ろぎょ)、とてもこれにはいかで勝るべき」「朕帝位に上らば翁と供御とを召さん」

と言って深く感謝された由。その後、天武朝廷において元日のお祝いには必ずこの翁が参上して喜びの舞を舞ったと謡曲は言い伝えるのです。

 この後、天皇は筑後川を西へ下り有明の海の側に進駐していた「淑き人」に会われて淑き多良(たら)人の協力を得て関西における戦いにのぞみ、天智朝を倒してこの乱は終わります。

 私は古田武彦氏の『壬申大乱』を取り出して再び読ませて頂きました。そして自分の本の読み方の杜撰なこと、飛ばし読みの失礼さを、半分より理解できていなかったことを心より悔いたことです。もっとちゃんと隅々まで理解していたなら玖珠の在所くらいはすぐに察することができたのです。それはこの戦いに大きく力となった大分の君恵尺(おほきだのきみえさか)。この君の勢力範囲は玖珠川のすぐ南ではありませんか。天皇がここでひとまず船を捨てたことも、恵尺の援けを得るためであったと思えるのです。

 九州における大きな中央部勢力の九州王朝からの離脱は、薩夜麻(さちやま)君にとりこれは痛手であったことでしょう。天武が筑後川を遡り玖珠の地でしばし身を隠そうとしたことも、やはり大分の恵尺を頼ってのことではなかったでしょうか。親唐勢力の筆頭は恵尺であったと書かれています。

 また、いつものことながら古田先生の余人を許きぬ博学の凄さを、詩経の中の「淑き人」を示されて天武の万葉歌を解読され、天武は詩経にも造詣のあった人物と看破されました。余人の容喙を許さぬ万葉解釈であり、壬申の乱を述べることの決め手として後世の歴史に長く残ることと存じます。

 この壬申の乱前、天智天皇と藤原鎌足との接近を、対唐戦闘態勢からの離脱と方向転換を密約するための大和来訪と見抜かれております。この時既に恵尺君、鎌足、大和天皇家の親唐態勢はできあがっていたと。天智亡き朝廷はこのことをよく知っていたために、天武の吉野行きを虎に翼と恐れたのであると。よくこれほど透徹した解説をなされた歴史書をお出し頂いたことと今更のように思います。



 遺跡からの出土物、金石文、中国や朝鮮の史書、万葉集、由緒ある神社や寺院の由来書などのほかに伝統舞踊や謡曲までもが、隠蔽された古代史の真実を解明するため史料となるとは驚きだ。『日本書紀』という権力による検定合格国書の記述をそのまま「真」とするヤマト王権一元主義論文はすべて無効である。

 これで「壬申の乱」を終わります。

《「真説・古代史」拾遺編》(49)

壬申の乱(21):謡曲のなかの「壬申の乱」(1)


 図書館の「古代史」関係の書棚で、新庄智恵子著「謡曲のなかの九州王朝」という本を見つけた。明らかに古田古代史をベースにした論文だ。万葉集や金石文には九州王朝の存在を示す多くの史料が潜在していることを知ってきたが、謡曲にもあるとは驚いた。さっそく借りてきた。すごくスリリングな本だ。

 新庄さんは古田さんの『よみがえる九州王朝 -幻の筑紫舞』という本から示唆を受けて、ご自身深くたしなんでいた謡曲にも九州王朝に関する記述があることを確信し、謡曲集二百番を通読したという。その成果が上記の著書である。

 新庄さんの著作を読む前に、新庄さんに大きな刺激を与えたという『よみがえる九州王朝 - 幻の筑紫舞』も読んでみたいと思って、サイト「新古代史の扉」を訪ねてみたら、ありました。第三章を除いて、すべてネットで読めるようになっていた。 「第四章 幻の筑紫舞」 を読んでみた。これも感動的でスリリングな論文だ。伝統舞踊の中にも九州王朝の存在を示す伝承があるとは、本当にびっくりした。権力の目をかいくぐって、千年以上もの間、代々「筑紫舞」を伝承してきた人々の、滅亡した国への深い哀惜と、抹消されたその国の存在を伝えようとする強固な意志と、震えるほどの感動を覚えた。(かなり長いですが、興味のある方はぜひ直接読んでみてください。)

 さてまずは、謡曲は本当に古代史の史料として扱えるのか。いわばその史料批判に当たる部分の引用から始めよう。

 謡曲とは室町の頃、観阿弥・世阿弥がくぐつの歌謡であった猿楽の原本等を典拠として編み直し作ったものといわれています。謡曲の中には西暦千年以後の文学を題材としたものも多々ありますが、それ以前、六百年代の古いものと思われるものも、思いのほか多く混じっているのです。それらは何人たりとも、何の典拠もなく創作するわけにはゆかないものだと思います。



 「何の典拠もなく創作するわけにはゆかない」一例として、新庄さんは「はじめに」で『砧(きぬた)』という謡を取り上げている。「第四章 幻の筑紫舞」の概略を紹介することから始められている。

 (「筑紫舞」とは)神戸の人であった西山村光寿斎という女性が、戦時中、九州のくぐつの一団により極秘の中、筑紫舞という九州王朝宮廷舞を習い、戦後晴れて世間に発表したものといいます。それは北九州、宮地嶽古墳の洞窟の中において、限られた少数のくぐつ達が毎年寄り集まり、古墳の主への慰霊を兼ねて、筑紫舞の発表会を千年もの長さに亘り行なってきたという不思議なお話でした。

 その本の中に、「松虫」という筑紫舞の歌詞の一節がありましたが、その時代色を帯びた歌詞が、謡曲のそれと全く同じ物であり、題名までも同じであることを知った時の驚き―。これは筑紫舞も、謡曲も、作者は同一人物、典拠も一つであり、くぐつの手により二つに分けたものと知りました。

 くぐつという特殊な職業人の手に在ったればこそ、室町の時代まで官憲の手を逃れて生き延びた歌曲であり、もしもこれが権門に在れば、とうの昔に消されていた運命ではなかったでしょうか。

 謡曲は今では単なる猿楽、遊芸物として軽く見られがちの古典ではありますが、官制の国書や司直の手を経た現存の書物以外、古代を知る手立てを持たぬ私達には、謡曲は数少ない文献として見直して価値あるものと私は思うのです。いっこうに物言わぬ考古学的出土品を待つよりも、文字あるということは遥かに納得のゆくものではないでしょうか。

 例えば、『砧』と題する謡などは九州の話で、その北岸遠賀川の河口、芦屋の人物が都へ自訴のために出かける話です。その「都」には日本中から裁判を受けるために人々が集まり、二年も三年も順番を待つことになったらしく、家族と別れて暮らすうち悲劇も起こることになって、『砧』はそれを題材とした物語なのです。

 「都」とは一体何処を指すのでしょうか。この謡を習っている時、二、三の方に尋ねてみたところ、「京都?」「奈良?」という答えが返ってきました。これが普通の日本人の常識です。しかし、先入観を捨てて聞いて下さい。『砧』の文章をよく見ると、都は芦屋から西にあると言っています。大和や京都が西であるはずはありません。大和や京都の西で都だったところ、それは古田史学にいう「九州王朝」以外にはありません。時代は西暦500年から600代に当たりましょうか。古田史学によればこの当時、都とは九州久留米、高良玉垂宮(たからたまだれのみや)ということになりましょう。

 現存する九州、岩戸山古墳は筑紫の君岩井の墓であるのみならず、この当時すでに、律令国家であることを顕し、石人を墓の上へ並べて裁判の模型としたものが今も残る由です。これは六世紀代の話ですが、片や大和王朝の律令は国書によれば八世紀代にできたといいます。果たしてこの大和王朝の律令が時の裁判所として機能していたかははなはだ疑問です。

 『砧』という謡は古代九州物のほんの一例に過ぎませんが、これ一つを取り上げて見ても、九州王朝が我国において抜きん出て文化水準の高かったことが解るように私には思えます。

 筑紫の君岩井は、この時三井に居られたといいます。援軍の名目で筑紫へ来ていた継体の軍によって俄の反乱の不意打ちで殺されるという大難に遇いましたが、この後約二百年間、九州王朝は健在であったということです。



 引用文中の「石人」については、少し説明を要するだろう。「石人」とは何か。

 以前、 『「倭の五王」と「磐井の反乱」』 を取り上げたとき、磐井の最も大きな業績、律令の制定については割愛していた。この機会にそれを補充しておこう。

 日本古代史学界では、初めての「律令制定」は8世紀の大和朝廷によるもの、というのがの「定説」である。しかし古田さんによれば、それは「新律令」であり、それに先んじて「古律令」があったという。それを証言しているのが「石人」である。古田さんは『筑後国風土記』を引用して、その真実に迫っている。(以下は「法隆寺の中の九州王朝」より)

筑後国の風土記に曰く、上妻の県、県の南二里、筑紫の君、磐井の墓墳有り。高さ七丈、周り六十丈。墓田は、南北各六十丈、東西各卌(40)丈。石人・石盾、各六十枚。交陣、行を成し、四面に周匝(しうさう)す。東北角に当り、一別区あり、号して衙頭(がとう)と曰ふ。①衙頭は政所なり。其の中に一石人あり。縦容(しようよう)として地に立てり。号して解部(ときべ)と曰ふ。前に一人有り。蒶形(らけい)にして地に伏す。号して偸人(とうじん)と曰ふ。③猪を偸(ぬす)むを為すを生ず。仍(よ)りて罪を決するに擬す。側に石猪四頭あり。臓物と号す。③臓物は盗み物なり。彼の処にも亦、石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり。

 右において、古墳のそばに石像展示場がもうけられている状況が描かれている。右の文のあと、

(筑紫君磐井)生平の時、預(あらかじ)め此の墓を造る。

とあるから、この展示場も、磐井がみずから作らしめたもの、そう考えていいであろう。

 しかもこれは、単にバラバラの石像展示ではない。一個の意味をもって配置せられているのだ。それは何か。 ― ズバリいおう。「裁判の場」だ。中央に「解部」と呼ばれる人物が、威厳をもって立っている。裁判官だ。磐井のもとに「-部」という名の各種の「部」が成立しており、それぞれの長官と「部の民」(部民)のいたことをしめす。その中に、この「解部」がいたのである。もちろんこれは、「ときべ」と読む。倭語であろう。その前に、猪と共に猪を盗んだ者が伏せ、解部によって裁かれているのである。

 では、なぜ磐井はこのような展示場を自分の墓のそばに作らせたのか。わたしは考える。「それは、彼にとって、自己の業績の中で、もっとも誇るべきものであったからであろう」と。すなわち、彼は裁判の基礎をなすべき法令の制定を施行、それをもって、自己最大の治績と見なしていたのである。

 それだけではない。彼は、自己の死後も、この功業を永遠に伝え、それ(法治の立場)を守らせたいと考えたのである。そうでなければ、わざわざ自分の墓にこの展示場を作らせる意味はないであろう。

 では、なぜそれを。その答は、先の「古律令」の本質をかえりみれば、判明しよう。それは「律」、すなわち、刑法を中心とするものだった。「令」とて、その補いであり、細則であり、別物ではなかった。このように考えてくれば、ここに展示された「裁判の場」こそ、「古律令の制定と施行」をシンボライズするものだったことが浮かび上ってこよう。



《「真説・古代史」拾遺編》(48)

壬申の乱(20):『古事記』序文が描く「壬申の乱」(2)


 『日本書紀』では、大友皇子が大海人皇子を討つべく兵を整えたので、大海人皇子はやむなく挙兵したという大義名分、大海人皇子こそが正当な皇位継承者であると強調している。ただこの一点を主張するために『日本書紀』が編まれたと言ってよいくらいだ。

 これに対して『古事記』では、大海人皇子は南山に入る前に挙兵(謀反)を決意している。つまり、大海人皇子は近江朝を滅ぼすための準備をする目的で南山に入り、その地で軍勢も備わってきた(「人事共給はり」)ので東國に進軍した、と言っている。しかもその決意を促したものは「夢の歌」の占いによると、こどもだましのような正当化をしている。

 『古事記』序文は後代に付け加えられたとする論者は、『古事記』序文の「壬申の乱」は『日本書紀』の「壬申紀」を使って書かれているから、ということをその論拠の一つに挙げている。上に述べたように私には、『古事記』序文は『日本書紀』の大義名分に真っ向から対立していると読めるのだが、学者さんたちにはそうは読めないらしい。従って当然、『日本書紀』の記事と整合性をもたせるため、「夜の水(かは)に投(いた)りて」を「夜半に川に至り」と解釈して、その川は「伊賀の名張の横河」と解釈することになる。しかし、『日本書紀』では、横河にさしかかったときに占いをしたのは、吉野に入るときではなく、吉野からの脱出行の途次のことである。また、何の根拠も示さずに「南山」は「吉野山」としてすましている。はたして吉野山を「南山」と呼ぶ例があるのだろうか。これは固有名詞ではなく「南にある山」という普通名詞と考えても、「伊賀の名張の横河」の「南にある山」では、あまりにも離れすぎているし、吉野山は伊賀の名張の南でもない。無茶な比定だ。『古事記』が描く「壬申の乱」と『日本書紀』のそれとはおおいに異なる。

 さて、古賀さんは「夜の水に投りて」(原文「投夜水而」)という従来の訓読に疑問を呈し、次のように読解している。

 古田氏が指摘されたように、壬申の乱の吉野を佐賀県吉野とするならば、『古事記』序文に見える「夜の水」や「南山」も九州の地と考えるべきであろう。通説では「夜の水」を名張の横河とするが、原文の「夜水」は河名の漢文風表記と考えるべきではあるまいか。例えば、中国では河の名称として「洛水」「漢水」と言うように、「夜水」を日本風に言えば「夜川」となろう。このような名を持つ川が九州にあるだろうか。ある。九州第一の大河、筑後川は「一夜川」という別名を持つ。たとえば、江戸時代の筑後地方の地誌『筑後志』には次のように記されている。

 「一夜川 是も亦筑後川の異称なり、俚俗の傳説に、普光山観興寺の佛像を刻む所の異木、往昔、豊後國の山渓より流れ出て、一夜にして此川に到り。大城の邑に止りぬ。爰を以て一夜川と名くと。按ずるに、例の浮屠の妄説にして、論ずるに足らず。一夜川の名實未だ詳ならず。」(『筑後志』)

 室町時代の連歌師宗祇(1502没)の著書『名所方角抄』にも「一夜川、千とせとも俗に筑後川ともいう也」と記述されている。この一夜川こそ夜水と表記するにふさわしい川名である。



 では「南山」とはどの山を指しているのか。次のように続けている。

 近畿から九州に落ちのびた天武はこの一夜川(夜水)に至り、自らの運命を「夢の歌」として聞いたのだ。それは大友皇子や九州王朝に替わって自らが「天位」につくことを告げていた。しかし、「天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し」た。この南山も当然九州だ。しかも、夜水(筑後川)の近くでなければならない。そのような山はあるか。これも、ある。筑後川を渡るとそこには「曲水の宴」の遺構を持った筑後国府がある。そして、その先には有名な高良山神籠石山城が屹立している。この高良山こそ、九州王朝の都大宰府のほぼ真南に位置しており、南山と呼ばれるにふさわしい山である。高良山神籠石に籠もり、天武は時を待った。「人事共給」わる時を。



 次に古賀さんは「人事共給(そな)はりて」(原文「人事共給」)という訓読(「共給」=「そなわる」)にも疑問を呈している。

 この読みは強引ではあるまいか。「共給」とあれば、「共に給わる」と読むのが普通であろう。人と事を共に給わった、である。

 ところが、この「給う」という語は上下関係を前提とした言葉であり、上位者が下位者に物を与える時に使う用語である。従って、これでは天武よりも上位者が下位者たる天武に軍勢を与えたという意味になり、通説では理解困難な読みとなるのだ。岩波の編者達が「共給」に「そなわる」という無理な訓を与えたのもこうした事情からであろう。

 なお、「給」には「たまう」と「たまわる」の両方の語義があるが、今回のケースの場合は「たまわる」と解さざるを得ない。主語を天武として「たまう」としたのでは、天武が最初から軍勢を持っていたことになるし、誰に与えたのかも不明である。やはり、ここは「たまわる」と読むほかない。天武よりも上位者が天武に軍勢をたまわったのである。

 この「人事、共に給わる」という読みは、一元史観では理解困難な読みであるが、多元史観、古田説に立脚すれば二つの可能性が考えられる。一つは、中国(唐)の筑紫進駐軍、郭務悰が天武に援軍と近江朝打倒の承認を与えたという可能性。たとえば、『釈日本紀』に記された壬申の乱の時の天武と唐人による次の会話からは、唐との協力関係がうかがわれるのである。

「既而天皇問唐人等曰。汝国数戦国也。必知戦術。今如何矣。一人進奏言。厥唐国先遣覩者以令視地形険平及消息。方出師。或夜襲、或昼撃。但不知深術。時天皇謂親王(以下略)」(『釈日本紀』)

 天武が唐人に戦術を問うたところ、唐ではまず先遣隊を派遣し地形や敵の状況などを偵察した上で軍を出し、夜襲や昼に攻撃を行うということを助言したとある。こうした記事から、郭務悰帰国後も唐人の一部は天武軍に同行したようである。

 もうひとつは、九州王朝が与えたというケースだ。たとえば、壬申の乱の功臣に大分君恵尺(おほきだのきみえさか)がいる。九州は大分の実力者と推定されるが、こうした人物が天武に従ったことを考えると、九州王朝が天武に援軍をさしだしたとも考えられよう。いずれも、当時、天武よりも上位者である。現在の所、どちらが天武に援軍や承認を給わったのか断定できないが(唐と九州王朝の両者が天武を支持したという可能性もあろう)、天武より上位者が九州の地に存在したことは間違いないし、太安萬侶はその事実を知っていたのである。



 最後に、『古事記』序文の史料性格と残された問題点について、次のようにまとめている。

 『古事記』序文における壬申の乱の記述は、大変慎重かつ巧妙に書かれている。『日本書紀』のような虚構に満ちた記述ではなく、上表文として恐らくは大和朝廷内周知の歴史認識(九州王朝の先住と王朝の交代)に基づいて記されているのであろうが、九州王朝の存在を直接的には見えない文章表現としている。それでいながら、「夜水」や「南山」などというギリギリの表現で壬申大乱のスケールを記していると言えよう。

 壬申大乱の勝者、天武は「天位」に即位した後、事実上の列島内第一実力者として、本格的な王朝体制の構築を開始する。律令や条坊制を持つ藤原京など、天武紀には様々な事業の開始記事で飾られている。この時期、九州王朝との力関係や大義名分上の関係など、まだまだ不明な問題が多いが、間違いなく言えるのは、国内的には壬申大乱こそ、大和朝廷が列島の代表者となった画期点の一つだったことである。その証拠に、大和朝廷は八世紀半ば時点でも、壬申の乱の功臣やその遺族を顕彰し続けた事実が上げられる(『続日本紀』天平宝字元年(757)12月)。これからは、そうした視点から壬申大乱の更なる研究が望まれるであろう。



《「真説・古代史」拾遺編》(47)

壬申の乱(19):『古事記』序文が描く「壬申の乱」(1)


 古田史学をベースにして、実にたくさんの方が古代史を研究している。お互いに刺激し合い、論争を重ねながら、古田史学は日々深化発展をしている。古田さんが発表した論考は部分的には訂正が必要になっている事柄も結構出てきている。古田さん自身による訂正事項もある。ヤマト王権によって抹消された「真の古代史」の全貌がはっきりと確定されるためには、まだまだたくさんの研究されるべき事柄がある。優秀な専門家(学者)たちの参画が待たれる。しかし、古田史学(多元史観)を古代史研究のベースとすべきことが、「古代史研究の常識」として学者たちに認知されるにはまだまだたくさんの時間を要するようだ。

 さて、古田史学会の事務局長・古賀達也さんが『古事記』序文の「壬申の乱」を取り上げている。その論文(『古事記』序文の壬申大乱)を利用させてもらう。

 「岩波」では序文を3段に分け、次のようは表題を付けている。「第一段 稽古照今」「第二段 古事記撰録の発端」「第三段 古事記の成立」。「壬申の乱」の経緯は第二段のはじめに書かれている。文章は漢文で、「岩波」は次のように読み下している。

飛鳥の清原の大宮に大八州御(しら)しめしし天皇の御世に曁(いた)りて、濳龍(せんりょう)元(げん)を體(たい)し、洊雷(せんらい)期に應じき。夢の歌を開きて業(わざ)を纂(つ)がむことを相(あは)せ、夜の水(かは)に投(いた)りて基(もとゐ)を承けむことを知りたまひき。然れとども、天の時未だ臻(いた)らずして、南山に蝉蛻(せいぜい)し、人事共給(そな)はりて、東國に虎歩(こほ)したまひき。皇輿(くわうよ)忽ち駕して、山川を浚(こ)え渡り、六師(りくし)雷(いかづち)のごとく震ひ、三軍電(いなづま)のごとく逝(ゆ)きき。杖矛(ぢやうぼう)威(いきほひ)を擧げて、猛士烟(けぶり)のごとく起こり、絳旗(かうき)兵(つわもの)を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。未だ浹辰(せふしん)を移さずして、氣沴(きれい)自(おのづか)ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息(いこ)へ、悌(がいてい)して華夏に歸り、旌(はた)を卷きて戈(ほこ)を戢(をさ)め、儛詠(ぶえい)して都邑(といふ)に停まりたまひき。歳(ほし)大梁(たいりやう)に次(やど)り、月夾鍾(けふしよう)に踵(あた)り、清原(きよみはら)の大宮にして、昇りて天位(あまつくらい)に卽(つ)きたまひき。

 現在では全く遣われていない漢語のオンパレードで実に難しい文章だ。「岩波」の頭注を頼りに意訳してみる。

 天武天皇の御世のこと、大海人皇子(天武)は天子たるべき徳をそなえ、活動すべき時期がやってきた。夢で聞いた歌を解釈して帝業を継ぐことを占い、夜半に川に至ったとき皇統を継ぐべきことがわかった。しかし、その天皇位に即く時がいまだ訪れず、南山に蝉のようにこっそりとぬけていったが、味方の軍勢も備わってきたので、東國に虎のように威風堂々と進軍した。輿(こし)を進め、山を越え川を渡り、皇子の軍勢は雷のように奮い立ち、諸侯の軍勢は稲妻のように進んだ。矛が威力を示し、勇猛な兵士が砂煙を立て、赤い旗は兵器を輝かせて、悪逆の輩は瓦のように砕け散った。短期日の間に妖気は清まっていった。すぐに戦いをやめて、心楽しく安らかに都に帰り、旗を巻き矛を収めて、喜びに舞い踊り都に留まった。そして酉年(天武2年)2月、原の大宮で天皇として即位した。

 『古事記』偽書説は影をひそめたが、『古事記』序文を後代の偽作とする説は今なお盛んのようだ。本文成立の100年ほど後に付け加えられたとしている学者もいる。だが、序文が描く「壬申の乱」が序文偽作説を一蹴している。そこで記述されている「壬申の乱」は『日本書紀』が描くそれとは相容れない。『日本書紀』が正史としてすっかり定着しているのに、権力(天皇家)の逆鱗に触れるような偽作文を、いったい誰が書いたというのだろうか。『古事記』序文も当然『日本書紀』成立以前に書かれたものだ。『古事記』序文こそが、『古事記』が検定不合格史書とされ抹殺された第一の理由だったのではないか。

 『古事記』と『日本書紀』の記述が相容れないとき、『古事記』の方を正とするというのが、両史書に対する史料批判よって導かれた原則であった。
( 『「古事記」対「日本書紀」』 を参照してください。)
 しかも、『古事記』序文は元明天皇への上表文として書かれている。上表文にわざわざ虚偽を書くとは考えられない。『古事記』序文の記すところが、当時の一般的な共通認識だったのではないだろうか。

 では、『古事記』序文が描く「壬申の乱」を検討してみよう。

《「真説・古代史」拾遺編》(46)

壬申の乱(18):大海人皇子と郭務悰


 次いで古田さんは「持統紀」の中の「不思議な文」を取り上げている。

692(持統6)年閏5月
己酉(つちのとのとりのひ 15日)に、筑紫大宰率河内王(つくしのおほみこともち)等に詔して曰(まう)さく「沙門(ほふし)を大隅と阿多とに遣わして、佛教(ほとけのみのり)を傳うべし。復(また)、大唐(もろこし)の大使(おほつかい)郭務悰(かくむそう)が、御近江大津宮天皇(あふみのおほつのみやにあめのしたしらしめししすめらみこと 天智天皇)の為に造れる阿彌陀像(あみだのみかた)上送(たてまつ)れ。」とのたまふ。

 この記事以前にも、以後にも、これに関連すべき記載はない。

誰かが、筑紫に来ていた郭務悰に会い、天智天皇の「病い深き」さま(或は「崩」)を告げた。これは確かだ。さらにその誰かが、相手の郭務悰に向って、「阿弥陀の作造」を要請した。この可能性もまた、極めて高いのではないだろうか。なぜなら、それなしに「旧、敵国の将軍」たる郭務悰が、いきなり天智天皇のために「阿弥陀仏像を作る」などということは考えがたいからである。明らかにこの「郭務悰と持統天皇との間」には、介在した、謎の「誰か」がいる。

 その「誰か」は、おそらく「僧形」の仏教者である。そしてその「誰か」は、持統天皇と「深い関係」にある人物だ。そしてその「誰か」は、郭務悰と「深い信頼関係」を結んだ人物だ。〝並みの人物″などではありえない。

 そしてこの記事は、大国(唐朝)派遣の中心人物にかかわる記事であるから、この記事自体が「一片の造作」としての虚事というようなことはありえない。なぜなら日本書紀は漢文であり、中国(唐)側に〝見られる″ことを十分に〝予想″した、或は、〝予想しすぎた″史書だからである。

 すなわち、この一見〝唐突″に見える「郭務悰が天智天皇のために、阿弥陀仏像を作った。」という記事は、史実だ。つまり真実(リアル)なのである。その作製場所は「筑紫」だった。だから「筑紫大宰率」に対して、持統はその仏像の「上送」を要求したのである。たとえ「持仏のような小仏像であったとしても、持統天皇にとっては、忘れる能わざる「思い出」の仏像、記念の仏像だったのであろう。たとえ朽ちやすい「小さな木像仏」だったとしても、彼女にとっては放置しがたいもの、そして〝手もと″にとっておきたいものだったのであろう。

 この「誰か」とは、誰か。すでに本稿を読みすすんでここに至った人には誰人にも明らかであろう。 ― 天武天皇だ。

 日本書紀の編者は、全体においては「郭務悰と天武天皇との、筑紫における出会い。そして深い、両者の信頼関係、それを〝隠し″た。おそらく、両者からの「要請」にもとづくものであったであろう。〝止むをえぬ″秘密事項に属したのであろう。けれども、ここでもまた、史家は己が性(さが)に従い、真実の「一断片」を、この〝唐突″な一記事、一見些細な一挿話の中に、ひっそりと封じこめたのではあるまいか。

 歴史の女神は天地をおおう一大雲霧の中から朽ちぬ真実の相貌を徐々にしめしはじめ、今はクッキリとその眼晴を見せたように思われるのである。



 『真実の「一断片」を、ひっそりと封じこめた』のは、ミスではなく、意図的だったのではないだろうか。『日本書紀』の編者たちの中には滅亡した九州王朝ゆかりの知識人もいただろうと、容易に想像できる。日本の天子は近畿天皇家だけという大和王権の大義名分のもとに編まざるを得ない史書の中に、九州王朝の存在を示唆する記事をひっそりと潜ませていたのではないか。

 万葉集にも真実の「一断片」がたくさん隠されていることを私(たち)は既に知っている。万葉集の選者・大伴家持も九州王朝ゆかりの歌人ではなかっただろうか。こうした問題は改めて取り上げたいと思っている。