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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(45)

壬申の乱(17):大乱戦闘の舞台


 大友皇子が筑紫大宰・吉備国守を味方に引き入れようとしたが失敗するという事件がある。大海人皇子が「肥前の吉野」にいるのなら、この事件も筋の通った話となる。その事件を『日本書紀』は次のように記述している。



且(また)、佐伯連男(さえきのむらじおとこ)を筑紫に遣す。樟使主磐手(くすのおみいわて)を吉備國に遣して、並(ならび)に悉(ふつく)に兵(いくさ)を興さしむ。仍(よ)りて男と磐手とに謂(かた)りて曰(のたま)はく、「其れ筑紫大宰栗隈王(つくしのおほみこともちくるくまのおほきみ)と、吉備國守當摩公廣嶋(きびのくにのかみたぎまのきみひろしま)と、二人、元より大皇弟(まうけのきみ)に隷(つ)きまつること有り。疑はくは反(そむ)くこと有らむか。若し服(まつろ)はぬ色(おもへり)有らば、即ち殺せ。」とのたまふ。是に、磐手、吉備國に到りて、符(おしてのふみ)を授(たま)ふ日、廣嶋を紿(あざむ)きて刀を解かしむ。磐手、乃(すなわち)ち刀を抜きて殺しつ。男、筑紫に至る、時に栗隈王、符を承けて対(こた)えて曰(まう)さく、「筑紫國は、元より邊賊(ほか)の難(わざわい)を戍(まも)る。其れ城(き)を峻(たか)くし隍(みぞ)を深くして、海に臨みて守(まほ)らするは、豈に内賊(うちのあた)の為ならむや。今命(おほせこと)を畏(かしこ)みて軍(いくさ)を発(おこ)さば、國空(むな)しけむ。若し意之外(おもいのほか)に、倉卒(にはか)なる事有らば、頓(ひたぶる)に社稷(くに)傾きなむ。然る後に、百(もも)たび臣(やつがれ)を殺すと雖も、何の益かあらむ。豈敢へて徳(いきほい)を背かや。輙(たやす)く兵(いくさ)を動さざることは、其れ是の縁(よし)なり」とまうす。時に栗隈王の二(ふたり)の子(みこ)、三野王(みののおほきみ)・武家王(たけいへのおほきみ)、劒を佩(は)きて側(かたはら)に立ちて退(しりぞ)くこと無し。是に、男、劒を按(とりしば)りて進まむとするに、還(かへ)りて亡(ころ)されることを恐る。故、事を成すこと能はずして、空しく還りぬ。

 大友皇子側が吉備に行って、天武達が反乱を起こしても味方をしないでくれ。そう言った。すると彼が聞かなかったので、直ぐに吉備の大宰を切り殺した。こう書いてある。同じことを筑紫の太宰府の栗隈王のところへ行って同じ事を言った。ところが栗隈王は断った。彼は自分は中立を保たなければならない立場だから、あなたの言うことは聞けない。そう言った。

 これも考えたら変な話で、公式には天智天皇が死んで大友皇子が正統の権力に成っている。その正統の権力に従うのが栗隈王の立場であるはずである。それを自分は要害の地に居って簡単に動けないと言っているのは、結局大友皇子の申し入れを拒絶したに等しい。つまり天武側に付くよと言っているのと同じなのである。それで切り殺そうとしたのですが、その時に栗隈王の子供と家来が剣を抜いて、すさまじい勢いで守ったので、彼を殺せずに帰ってきた。そういう面白い記事である。

 これは明らかに天武と大友皇子の戦闘があった場合は、吉備・太宰府の山陽道が主戦場となる。戦闘の主たる幹線道路となることを意識しての話です。それが今の『日本書紀』のように近江や大和、美濃の三角地帯で決着が付くのなら、何も吉備や筑紫は直接の関係はない。ところが、今のように理解すると完全にリアルな話となる。



 上記のように考えると、「倭京」問題(1)で取り上げた次の文も「完全にリアルな話」になってくる。

天武元年5月
 或いは人有りて奏して曰さく「近江京(あふみのみやこ)より倭京に至るまでに、處處に候(うかみ)を置けり。亦菟道(うぢ)の守橋者(はしもり)に命せて、皇太弟(まうけのきみ 天武。大海人皇子)の宮(みや)の舎人(とねり)の、私粮(わたくしのくらひもの)運ぶ事を遮(た)へしむ」とまうす。

 ここで大友皇子が、天武に対して「宇治から倭京」と言っているのは、宇治から大和までという小さい話ではなく、宇治から筑紫まで軍勢を張り巡らした。そうすると先ほどの吉備と太宰府の話と合うではないか。当然太宰府の栗隈王を殺し損ねたという小さな話ではない。それで終わりだということにならない。軍勢を山陽道に張り巡らさなければ話が合わない。「宇治から倭京」と言っているのは、非常にリアリティを持ってくる。



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