2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(45)

壬申の乱(17):大乱戦闘の舞台


 大友皇子が筑紫大宰・吉備国守を味方に引き入れようとしたが失敗するという事件がある。大海人皇子が「肥前の吉野」にいるのなら、この事件も筋の通った話となる。その事件を『日本書紀』は次のように記述している。



且(また)、佐伯連男(さえきのむらじおとこ)を筑紫に遣す。樟使主磐手(くすのおみいわて)を吉備國に遣して、並(ならび)に悉(ふつく)に兵(いくさ)を興さしむ。仍(よ)りて男と磐手とに謂(かた)りて曰(のたま)はく、「其れ筑紫大宰栗隈王(つくしのおほみこともちくるくまのおほきみ)と、吉備國守當摩公廣嶋(きびのくにのかみたぎまのきみひろしま)と、二人、元より大皇弟(まうけのきみ)に隷(つ)きまつること有り。疑はくは反(そむ)くこと有らむか。若し服(まつろ)はぬ色(おもへり)有らば、即ち殺せ。」とのたまふ。是に、磐手、吉備國に到りて、符(おしてのふみ)を授(たま)ふ日、廣嶋を紿(あざむ)きて刀を解かしむ。磐手、乃(すなわち)ち刀を抜きて殺しつ。男、筑紫に至る、時に栗隈王、符を承けて対(こた)えて曰(まう)さく、「筑紫國は、元より邊賊(ほか)の難(わざわい)を戍(まも)る。其れ城(き)を峻(たか)くし隍(みぞ)を深くして、海に臨みて守(まほ)らするは、豈に内賊(うちのあた)の為ならむや。今命(おほせこと)を畏(かしこ)みて軍(いくさ)を発(おこ)さば、國空(むな)しけむ。若し意之外(おもいのほか)に、倉卒(にはか)なる事有らば、頓(ひたぶる)に社稷(くに)傾きなむ。然る後に、百(もも)たび臣(やつがれ)を殺すと雖も、何の益かあらむ。豈敢へて徳(いきほい)を背かや。輙(たやす)く兵(いくさ)を動さざることは、其れ是の縁(よし)なり」とまうす。時に栗隈王の二(ふたり)の子(みこ)、三野王(みののおほきみ)・武家王(たけいへのおほきみ)、劒を佩(は)きて側(かたはら)に立ちて退(しりぞ)くこと無し。是に、男、劒を按(とりしば)りて進まむとするに、還(かへ)りて亡(ころ)されることを恐る。故、事を成すこと能はずして、空しく還りぬ。

 大友皇子側が吉備に行って、天武達が反乱を起こしても味方をしないでくれ。そう言った。すると彼が聞かなかったので、直ぐに吉備の大宰を切り殺した。こう書いてある。同じことを筑紫の太宰府の栗隈王のところへ行って同じ事を言った。ところが栗隈王は断った。彼は自分は中立を保たなければならない立場だから、あなたの言うことは聞けない。そう言った。

 これも考えたら変な話で、公式には天智天皇が死んで大友皇子が正統の権力に成っている。その正統の権力に従うのが栗隈王の立場であるはずである。それを自分は要害の地に居って簡単に動けないと言っているのは、結局大友皇子の申し入れを拒絶したに等しい。つまり天武側に付くよと言っているのと同じなのである。それで切り殺そうとしたのですが、その時に栗隈王の子供と家来が剣を抜いて、すさまじい勢いで守ったので、彼を殺せずに帰ってきた。そういう面白い記事である。

 これは明らかに天武と大友皇子の戦闘があった場合は、吉備・太宰府の山陽道が主戦場となる。戦闘の主たる幹線道路となることを意識しての話です。それが今の『日本書紀』のように近江や大和、美濃の三角地帯で決着が付くのなら、何も吉備や筑紫は直接の関係はない。ところが、今のように理解すると完全にリアルな話となる。



 上記のように考えると、「倭京」問題(1)で取り上げた次の文も「完全にリアルな話」になってくる。

天武元年5月
 或いは人有りて奏して曰さく「近江京(あふみのみやこ)より倭京に至るまでに、處處に候(うかみ)を置けり。亦菟道(うぢ)の守橋者(はしもり)に命せて、皇太弟(まうけのきみ 天武。大海人皇子)の宮(みや)の舎人(とねり)の、私粮(わたくしのくらひもの)運ぶ事を遮(た)へしむ」とまうす。

 ここで大友皇子が、天武に対して「宇治から倭京」と言っているのは、宇治から大和までという小さい話ではなく、宇治から筑紫まで軍勢を張り巡らした。そうすると先ほどの吉備と太宰府の話と合うではないか。当然太宰府の栗隈王を殺し損ねたという小さな話ではない。それで終わりだということにならない。軍勢を山陽道に張り巡らさなければ話が合わない。「宇治から倭京」と言っているのは、非常にリアリティを持ってくる。



スポンサーサイト
《「真説・古代史」拾遺編》(44)

壬申の乱(16):「修行佛道」問題


 大海人皇子が出家して、修道のため吉野へ向かうという記事は、読者の注意をそこに引きつけたいかのように、「天智紀」の末尾と「天武紀」の冒頭と、二度出てくる。

天智10年10月17日
臣(大海人皇子)は謂願(こ)ふ、天皇(天智)の奉為(おほみため)に、出家(いへで)して修道(おこなひ)せむ」とまうしたまふ。天皇許す。東宮(まうけのきみ 大海人皇子)起ちて再拝(をがみ)す。便ち内裏の佛殿(ほとけのみあらか)の南に向(い)でまして、胡床(あぐら)に距坐(しりうた)げて、鬢髪(ひげかみ)を剃除(そ)りたまひて、沙門(はふし)と為りたまふ。是に、天皇、次田生磐(すぎたのおしは)を遣して袈裟を送らしめたまふ。壬午(みづのえうまのひ 19日)に、東宮、天皇に見えて、吉野に之(まか)りて、修行仏道(おこなひ)せむと請(まう)したまふ。天皇許す。東宮即ち吉野に入りたまふ。大臣等(おほまえつきみたち)侍(つか)へ送る。菟道(うぢ)に至りて還る。

天武4年冬10月17日
天皇、東宮に勅(みことのり)して鴻業(あまつひつぎのこと)を授く。乃ち辞譲(いな)びて曰(まうしたま)はく、「臣(やつがれ)が不幸(さいはひな)き、元より多(さわ)の病有り。何ぞ能く社稷(くにいえ)を保たむ。願はくは陛下(きみ)、天下(あめのした)を挙げて皇后(きさき)に附(よ)せたまへ。仍(なほ)、大友皇子を立てて、儲君(まうけのきみ)としたまへ。臣は今日出家して、陛下の為(みため)に功徳(のりのこと)を修(おこな)はむ」とまうしたまふ。天皇、聴(ゆる)したまふ。即日(そのひ)に、出家して法服(のりのきもの)をきたまふ。因りて以て、私の兵器(つはもの)を収(と)りて、悉に司(いほやけ)に納めたまふ。壬午に、吉野宮に入りたまふ。

 この記事に対する古田さんの論評は次のようだ。

 天武が、まだ天智が生きているときに「仏道を修行する為に吉野へ行こうと思う。」と言います。私などは、仏道を修行する為には、山の中の吉野が便利な所だ。そう今まで思っていた。しかし考えてみると仏道を修行する為に山の中へはいるという考え方はもっと後世の話である。当時の仏教7・8世紀の仏教は都会のど真ん中で修行する。奈良や京都はお寺だらけだ。奈良や京都は山の中ではない。都仏教です。むしろ高野山の方が例外である。(比叡山は京都のそばで、京都の守神の山である。)山の中へと仏教が一般化してくるのは、弘法大師あたりの後世の段階である。中心地としての都会の仏教である。

 それに当時奈良県吉野に大きな有名なお寺があったとは聞いてはいない。ですから奈良県吉野へ仏道修行に行くというのは当時としてはおかしい。

 ところが筑紫の方へ仏道修行に行くと言うのなら、中国から仏教が最初に入ってきたのは当然筑紫である。関係する話も必要ですが、今は省略して言うならば、筑紫の方へ仏道修行に行く。佐賀県吉野の方へ行くというならば、こういう話は意味がある。



《「真説・古代史」拾遺編》(43)

壬申の乱(15):「倭京」問題(2)


 この「倭京」問題も九州王朝の存在を認める立場に立てば、すっきりと解明できる。

 「九州年号」の中に「倭京(618~622)」という年号がある。( 「日出ずる処の天子(3) ― 九州年号(1)」 を参照してください)

 このような年号の存在は「倭京」という名の都域が存在していたことを示している。つまり、自国の都域を「倭京」と名づけ、そのシンボルとして、この「年号名」が採用された、と考えられる。

 ではその倭京はどこにあったのだろうか。九州王朝の年号に現れているのだから、当然「筑紫」であろう。その領域は、当然、「紫宸殿」「大裏(内裏)」「大裏岡(内裏岡)」「朱雀殿」などの〝地名群″をもつ太宰府の地をふくむ。さらに、「正倉院」の地をふくむ筑後川領域もまた、その中心領域に入る。つまり、例の神籠石群が取り囲む中心域の「筑紫の地」(筑前と筑後をふくむ)を中心とする領域である。従って、もしこれを「訓読」するなら、「やまとの京」ではなく、「ちくし(つくし)の京(みやこ)」と訓むべきだと、古田さんは提唱している。

 古田さんは、「肥前の国」の一画(筑後川の右岸領域、基肆郡・三根郡など)もまた、「倭京」領域に入っていた可能性がある、と言っている。「明治前期、調査報告書」によれば、基肆郡には都(みやこ)・都原(みやこばる)の「字地名」が残されているという。

 さらに、この「倭京」という年号を「倭京縄(じょう)」と伝えているものもある。現在の久留米市に城(じょう)の「字、地名」があり、近隣に「城島(じょうじま)」もある。このことから、古田さんは「この点、或は、この地帯が「倭京」の一角、乃至中枢地に属していたことの痕跡であるかもしれぬ。」と推測している。

 ともあれ「倭京」という年号で呼ばれていた時代は、九州王朝中興の祖とも言うべき「日出づる処の天子」多利思北孤の時代の直後に当たっている。九州年号は
定居(611~617)
倭京(618~622)
と続くが、この両年号は「都城の領域の制定」と共に施行されたこと考えて、ほぼ間違いないだろう。

 「倭京」という術語はすでに存在していた。7世紀前半の「618」以降「700」まで、83年間にわたって「年号」とは別個に、この述語は使用されていた。「701」の「倭国滅亡」まで、だ。

 その「倭京」の二字を、〝抜き出し″て日本書紀は「転用」した。白雉4年(653)~天武元年(573)の間に、これを〝ちりばめ″たのである。それが、先にしめしたような〝チグバグさ″の理由だ。前後の文面、言いかえれば「近畿周辺のデルタ地帯」(近江―吉野―関ケ原)の中に〝収り″が悪いのである。

 だがこれを、「吉野―肥前(佐賀県)」と見なした場合、何の矛盾もない。少なくとも〝収り″の悪さは存在しないのだ。なぜなら「吉野 ― 倭京」は、文字通り〝指呼の間″だ。場合によれば、その「吉野宮」は「倭京の西端部の一画」にあったかもしれないのであるから。

 ただし、日本書紀が〝緻密に、日誌風に記載した″あの「日程表」がはじけ飛ぶこと、とどめがない。すでにその「日程表」の不成立と不道理は、三森尭司氏の「騎馬行、批判」が見事に立証し尽くしたところだった。緻密に作製された「一片の作文」だったのである。

(中略)

 以上のような「全体像」の中でのみ、日本書紀の「孝徳・天智・天武」の三紀中に出現する「倭京」もまた、理解する他はないのである。

 日本書紀に描かれた「壬申の乱」像、それはついに一片の幻にすぎなかった。近畿周辺のデルタの上に造成された一個の蜃気楼にすぎなかったようである。



《「真説・古代史」拾遺編》(42)

壬申の乱(14):「倭京」問題(1)


 「倭京」という用語は『日本書紀』中に全部で7回出現している。全て「天智・天武」に関する記事の中である。

① 653(白雉4)年(「孝徳紀」)
 是歳(ことし)、太子(ひつぎのみこ 天智。中大兄皇子)奏請(まう)して曰(もう)さく、「冀(ねが)はくは倭京に遷(うつ)らむ」とまうす。天皇(孝徳)、許したまはず。

② 667(天智6)年
 八月(はつき)に皇太子(ひつぎのみこ 天智。中大兄)、倭京に幸(いでま)す。

③ 672(天武元)年5月
 或いは人有りて奏して曰さく「近江京(あふみのみやこ)より倭京に至るまでに、處處に候(うかみ)を置けり。亦菟道(うぢ)の守橋者(はしもり)に命せて、皇太弟(まうけのきみ 天武。大海人皇子)の宮(みや)の舎人(とねり)の、私粮(わたくしのくらひもの)運ぶ事を遮(た)へしむ」とまうす。

④ 672(天武元)年6月

 (大友皇子が)穂積臣百足(ほずみのおみももたり)・弟五百枝(おとといほえ)・物部首日向(もののべのおびとひむか)を以て、倭京に遣す。

⑤⑥ 672(天武元)年7月
 是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂(うみつみちのいくさのきみのおみあへまろ)等、倭京の将軍大伴連吹負の近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分(くば)りて、置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)を遣して、千余騎(ちあまりのうまいくさ)を率(ゐ)て、急(すみやかに)に倭京に馳せしむ。

⑦ 672(天武元)年9月
 (天武は)庚子(かのえねのひ 12日)に、倭京に詣(いた)りて、嶋宮(しまのみや 明日香村島の庄にあった離宮)に御(おはしま)す。

 「岩波」は「倭京」をすべて「やまとの京(みやこ)」と訓んでいる。③には頭注があって「飛鳥の地を指す」と述べている。⑦の「嶋宮」には補注があって「明日香村島ノ庄にあった離宮」と解説している。つまり「倭京」は「大和」にあると解して疑っていない。

 古田さんは、この「定説」に、次のような疑点を挙げている。

(1)
 神武天皇以来、近畿天皇家の〝中心拠点″は、その多くが「大和」の中にあった。だから「倭(やまと)の京」というのでは、それらの中の〝いずれ″を指すか、明確ではない。

(2)
 上の①から⑦までの用例が示すように、『日本書紀』中のこの用語の出現は653(白雉4)年以降であるが、「孝徳紀」に「『倭京』 を制定した」という旨の記事はない。つまり、〝固有名詞″化したという、制度上の記載はまったくない。

(3)
 そのため、従来はこの「倭京」を以て 「難波京」(斉明天皇)・「近江京」(天智天皇)と区別して「大和の京」と解してきたが、
(a) 大和の中の〝どこ″を指すか。
(b) 最後の出現⑦(天武元年9月12日)以後、なぜ出現しないか。
といった点について、必ずしも明確な「答」が出されていない。

(4)
 『日本書紀』の成立は720(元正天皇の養老4)年であり、それは「大和の京」たる平城京の中で作られている。その第一の読者もまた「大和の京」の朝廷人・官僚たちである。このことを考えれば、この「倭(やまと)の京」という表現はいよいよ〝あいまい″である。

 厳密に理解しようとすればするほど、チグバグした問題が錯綜する。なぜ、「同じ大和でも、平城京ならぬ、これこれの地」をさすという明確な表記、たとえば「飛鳥京」「長谷京」といった様な表記を用いていないのだろうか。

《「真説・古代史」拾遺編》(41)

壬申の乱(13):「虎翼」問題


 天智の許しを得た大海人皇子は、出家して「吉野」へ入った。その吉野入りの時の記事は次のようである。

壬午(みずのえうまのひ)に、吉野宮に入りたまふ。時に左大臣(ひだりのおほまえつきみ)蘇賀赤見臣(そがのあかえのおみ)、右大臣(みぎのおほまえつきみ)中臣金連(なかとみのかねのむらじ)、及び大納言(おほきものもうすつかさ)蘇賀果安臣(そがのはたやすのおみ)等、送りたてまつる。菟道(うぢ)より返る。或(あるひと)の曰く、「虎に翼を着けて放てり」といふ。

 この「虎翼」は、中国の次のような故事からとられている。
「虎翼一たび奮わば、卒(つい)に制す可からず。」(後漢書、翟酺伝)

「諸橋、大漢和辞典」では「虎の猛き上に更に翼をつけると、其の凶暴の制し難くなること、転じて勢力家に権威をまし与へる喩」と解説している。

「虎の為に翼を傳(つ)く」という成句もある。

「虎の為に翼を傳(つ)くる毋(なか)れ。将(まさ)に飛びて宮に入り、人を擇んで之を食はんとす。」(逸周書、寤敬解)

「周書曰く、虎の為に翼を傳くる毋れ。将に飛びて道に入り、人を擇びて之を食はんとす。夫れ不肖人を勢に乗ず、是れ虎の為に翼を傳くるなり。」(韓非子、難勢)

 この印象的なフレーズは、一体何を語っているか。先ず、「虎」が天武(大海人皇子)その人を指していることは明白だ。では、「翼」とは何だろう。果して〝出家して(大和の)吉野盆地に入る〟ことか。

 人も知る、吉野盆地は″周囲が山地″だ。その盆地から周辺へ通ずる道は、わずかに三~四の小道。しかも、各道とも大和の人には周知の道だ。そこを〝ふさいで″おけば、中の盆地はおり「檻」と同じだ。いわば、「天然の檻」をなすような地形なのである。

 壬申の乱で有名な「吉野から関ケ原方面へ」の道も、「天武のみ知る」道ではない。この大和周辺の人々には周知の道だったのではあるまいか。もし、弘文(大友皇子)側が、天武を「ライバル」視し、彼を「不穏人物」視していたとするならば、当然、兵力をもって各道を〝ふさいだ″はずだ。そのためには、たいした「兵力量」もいらなかったであろう。

すでに、いわゆる「大化の改新」のあと、古人大兄も、同じ道を歩んだ。「出家」して「吉野」に入ったのである。そのさい、天智(中大兄皇子)が彼を斃すには、わずか「四十人」の兵しか必要ではなかった。

(「孝徳紀」からの引用文を略す)

右は、近江朝の人々にとっても、わずか26年前の極めて印象的な事件であった。いわば万人周知の事件だ。その悲劇の地、「吉野盆地」へ再び天武が〝行く″というのに、なぜ、「虎が翼を傳ける」などと形容するのであろうか。逆に、「虎も、遂に袋に入る」といった〝評言″となるのではあるまいか。

 もちろん、実際には、今回は天武が〝裏をかい″て、この「袋の鼠」状態を脱出しえたとしても、当初の「近江雀」(「京雀」)の〝うわさ″としては、やはり「大海人皇子も、ついにあの窮地に入った。」と言うべきところ。それが逆にこの「虎翼」評となっているのは、何か不可解だ。

 これに反し、わたしの立場の場合、この「吉野」は「大和の吉野盆地」ではなく、「有明海に臨む吉野」だ。そこには、絶大なる唐の制圧軍がいた。もし天武がこの巨大勢力と〝手を結ぶ″ならば、それこそ「鬼に金棒」だ。それでなくても、すでにその人間的魅力と迫力で「虎」にたとえられていた天武は、それこそ大いなる「翼」をうることとなるのではあるまいか。

 この「虎翼」評自体は、もちろん日本書紀の編者の「造作」 ではない。なぜなら、右にのべたように、前後のストーリー、その文脈と合致していない。何ともチグバクだからである。

 当時、人口に膾炙した、この評語を〝生かし″てはめこんださいの「不手際」、それがはからずもここのチグバグに現われているのではあるまいか。



 では大海人皇子はどのような「翼」(威力)を得たのであろうか。古田さんは、一つは駐留していた唐の水軍、その「海上」を〝疾走しうる能力″を挙げている。そしてもう一つの「翼」として、大海人側の一大勢力として大活躍をした大分君恵尺(おほきだのきみえさか)の存在を挙げている。

 彼が壬申の乱で活躍していることは有名だ。有名だけれども、その活躍が近畿内の「陸地」に限られているのは不審だ。なぜなら、彼の本拠は「大分」であるから、九州の一画だ。当然「九州の陸地」と共に、「九州内の水軍」それも瀬戸内海領域の西域は、当然彼の勢力範囲内に入っていたのではあるまいか。

 それだけではない。もう一つ、注目すべき重大事がある。それは、九州内の諸豪族、その大半は、「筑紫の君」すなわち「倭国(九州王朝)の天子」に従って、州柔(つぬ)城の陸戦や白村江の海戦に参加し、その多くは、或は海中に没し、或は唐側の捕囚の身となっていた。その可能性が大だった、と考えてほぼあやまりないのではあるまいか。これに対して「大分君恵尺」はちがった。「健在」だったのである。すなわち、彼は「白村江の戦」などに参加しなかった。中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足の「方向転換」に従って、「斉明天皇の喪」を「名分」として、対唐戦闘能勢からの離脱を決断したのである。だから、この時点(天智10年〈671〉)において、「出兵」し、さらに近畿に「軍事行動」を展開する能力を所有していたのである。思い切って言おう。「名」は「大分君」であっても、この時点では、事実上「九州一円支配」の実力をもっていたのではあるまいか。「陸上」はもちろん、「海上」においてもまた。

 この状勢は、次の一事を意味しよう。「日本列島へ到来した勝者、その唐軍(水軍と陸軍)を迎えた『列島内、親唐勢力』の筆頭は、この大分君恵尺である。唐軍に対する最大の(九州内)協力勢力であった。」この視点だ。この視点からすれば、その大分君恵尺の協力をえた時、天武(大海人皇子)はまさに「虎が翼をうる」ための基盤をえたのではあるまいか。

《「真説・古代史」拾遺編》(40)

壬申の乱(12):「留守司」問題


 「留守司」の存在意義を、古田さんは「留守司」と「留守官」との違いから説き起こしている。「留守官」は『日本書紀』では二回出現している。

 一回目は、658(斉明4)年11月の記事
(1)  十一月(しもつき)の庚辰(かのえたつ)の朔壬午(ついたちみづのえうまのひ)に、留守官(ととまりまもるつかさ)の蘇我赤見臣(そがのあかえのおみ)、有間皇子(ありまのみこ)に語りて曰く、・・・

 2回目は、「持統の吉野行き」問題の解明のときにも引用した692(持統6)年3月の記事
(2)  三月(やよい)の丙寅(ひのえとら)の朔戊辰(つちおえたつのひ)に、浄廣肆廣瀬王(じょうこわうしひろせのおほきみ)・直廣参当摩真人智徳(じきくわうさむたぎまのまひとちとこ)・直廣肆紀朝臣弓張(ちょくくわうしきのあそみ)等(ら)を以(も)て、留守官(とどまりまもるつかさ)とす。  「留守司」も「留守官」も「とどまりまもるつかさ」と訓んでいるが、このふたつはまるで違うものだ。

 上の「留守官」はいずれも、天皇の巡幸にさいし、「都」におく、留守番役を指している。それに対して、「留守司」は第一権力者が恒常的にいないときに、その留守をあずかり、軍事的にもっとも重要な要件である「駅鈴」発給の権限まで任せられている。まさに「異常事態」時の「司」(役所)である。

 天智や天武のとき、そのような「異常事態」があったか。 - ない。

 斉明天皇の「九州行き」は、確かに長期不在だ。だが、九州の朝倉に、現にいるのであるから、「留守司」などという役所の機構を「飛鳥」に作るべき理由はない。「留守官」で十分だ。

 その上、斉明7年(661)、彼女が崩じた後、当然「駅鈴」は天智と共に、近江京に置かれていたはずだ。少なくとも「天皇位に即いた」という「天智7年(668)」以降、そうでなければ、「天皇位に即いた」などということ自体、虚名となろう。

 そして天智が崩じ、弘文天皇(大友皇子)があとを継いだとき、何よりも先ず、「駅鈴」が(大友皇子にせよ、大海人皇子にせよ、)次の権力者の「手」に渡ったはずなのである。- 不審だ。

 何よりも先ず、「斉明在位」時点においても、飛鳥におかれたのは、せいぜい「留守官」だ。「留守司」などという″留守をあずかるための公的機構(役所)″などの作られるべき理由は全くないのである。

 また斉明天皇が「九州への発進」にさいして「飛鳥に留守司を置いた」旨の記事もない。そんなもの、略してもいいほどの記事、つまり「些事」なのだろうか。否、重大事である。その上、斉明は「観光旅行」などのために九州へ向けて発進したのではない。「戦う」ためだ。すなわち、軍事力の中心者として、決然と九州へと向ったのである。それなのに、その肝心の軍事力のシンボルである「駅鈴」を残してゆく、しかもそのための「公的機構(役所)」まで作る、というのは、まるでおかしい。全く″りくつ″があわないのである。

 従来の、壬申の乱研究の専門家たちが、この重大事を不審とし、論議の中心にすえた形跡のないこと、これがわたしにとっては一大不可解事だ。全く理解できないのである。

 では、わたしの立場から見よう。

 「倭国(九州王朝)」において、このような「留守司」は存在したか。或は〝存在せねばならなかった″か。 ― 「イエス」だ。白村江の戦において「捕囚」の身となった人、それこそ「倭国(俀国-たいこく-。九州王朝)の天子」たる薩夜麻(さちやま)である。筑紫の君と書かれている。

(A)
 天智10年(671)11月 ― 捕囚から帰国。「薩野馬」

(B)
 持統4年(690)10月 ― 大伴部博麻の表賞。「薩夜麻」

 右の(A)では特に、「野馬」という「卑字」が当てられている。これは逆に、このいわゆる「筑紫の君」が、近畿天皇家にとって〝目の上のたんこぶ″にも似た「存在」であったことをしめしている。その「薩夜麻」は、みずから一軍の先頭に立って戦に臨んだ。そして敗れたのである。

(中略)

 彼にとって″海外へ出陣する″という「長期不在」だ。当然、その本拠地である筑紫には「留守司」を置くはずだ。置かねばならないのである。そこはもちろん、太宰府。都府樓(都督府樓の略)の地である。そこには「(字)紫展殿」「(字)大裏」「(字)大裏岡」「朱雀門」等の地名が遺在し、この地がかつて「日出ずる処の天子」の在地であったことをしめしている。すなわち、ここに「留守司」がおかれていたのである。もちろん、「肥前(佐賀県)の吉野」とはきわめて〝接近″している。一日で到達可能の領域である。

 日本書紀の編者は、この特色ある「軍制中枢の公的機構(役所)」名を〝利用″した。これを、例によって例のごとく、「九州から大和へ」と〝移置″させ、あたかも「飛鳥の古京」にあった役所であったかのように「偽置」したのである。「換骨奪胎」だ。



 本来の「留守司」のありかが太宰府であるこを示す証拠がもう一つある。前回の「驛鈴」問題で引用した「延書式」の記述「大宰府、20口。三関・陸奥国・4口。大上国、3口。中下国、2口。」がそれだ。「大宰府」において〝異常″に多い。

 もちろんこれは、「大宰府は交通の要地である。」とか、「大陸への出発路である。」とか、種々の「理由」が考えられている。承知の通りだ。しかし、考えてみてほしい。右の「三関」など、「交通の要地」であるからこそ〝関所″なのではないか。大宰府だけの「理由」ではない。その上、「大陸への出発路」と言ってみても、玄海灘を「馬」で渡るわけではない。また、一方の大宰府から各地(近畿など)への交通も、陸路だけではない。島国の日本列島だから、海路も十分可能だ。

 だから、この「20口」という数値はやはり〝異常″に多い。わたしにはそう見えるのである。

 では、なぜか。わたしの立場から、これを見てみよう。

「『701』以前に、すでに倭国(九州王朝)には『駅制』があり、その中心は太宰府にあった。」

 これがわたしの基本の立場である。この立場から見れば、先の「20口」は何等不思議ではない。8世紀以降の近畿天皇家中心の駅制は、「701」以前の「倭国(九州王朝)」中心の駅制の〝継承と転換と発展″である。この命題をしめすもの、その遺制、それがこの「20口」なのだ。

 この「20口」問題もまた、今問題の「留守司」がどこにあったかを暗示する。当然それは太宰府の地である。(筑後川流域もふくむ。後述)



《「真説・古代史」拾遺編》(39)

壬申の乱(11):「驛鈴」問題


 今回からいよいよ「壬申紀」(「天武紀・上」)の解読です。

 「壬申紀」の記述には、従来の全ての研究者たちが気づかなかった(あるいは見て見ぬふりをしてきた)様々な矛盾がある。「壬申の乱(8)」で取り上げたように、三森氏の論文『馬から見た壬申の乱』によって指摘された「不可能な騎馬行軍」記事もその一つである。馬に関わることではもう一つ「驛鈴(うまやのすず)」問題がある。

 「驛鈴」とはなにか。「日本歴史大辞典」(吉川弘文館)によると、次のようである。

 古代、驛使が乗用を許された驛馬の匹数を刻んだ鈴。驛使の資格には厳しい規定があったが、驛使乗用の匹数もまた厳重な規制が行われた。
 親王・一位 10匹、三位以上 8匹等。この驛馬の匹数の証拠となるものが驛鈴。剋(きざみ)があり、10匹の場合は10剋の驛鈴が与えられる。
 驛鈴の出納は中務者の大主鈴・少主鈴が行う。『延喜式』主鈴によれば、天皇行幸の場合は、内印とともに主鈴と少納言とが預って供奉する。天皇巡幸の場合は皇太子が、皇太子不在の場合は京都の留守の官が、鈴契を給するとされている。
 驛鈴はこのように厳重に扱われ、天皇から賜わる形式をとっている。在京の役所が驛使を派遣する場合は、その役所から太政官に上申し、太政官奏によって勅の処分を仰いで驛鈴が与えられる。
 このように驛鈴がきわめて厳重に扱われたのは、驛馬の乱乗を厳しく取り締まるためであった。
 大宰府、20口。三関・陸奥国・4口。大上国、3口。中下国、2口。
 驛鈴はわが国の独創で、驛馬の鈴として首に下げられ、鈴の音を鳴らしながら驛使は旅を続けた。

これを受けて、古田さんは次のように、その解説を補強している。

 右によって見れば、次の点が明瞭だ。

 驛馬は、馬の「公的利用」の制度である。その馬は、軍事行動の中枢だ。だから「権力」をささえるための基盤、それがこの驛馬の制であると言うことができよう。従って「延喜式」が次の点を強調しているのは、当然だ。

(その一)
 驛鈴は常に第一権力者(天皇)のもとにあるべきこと。 (その二)
 もし「行幸」及至「巡幸」など、第一権力者の〝移動″があるときには、必ず側近(主鈴と少納言)や第二権力者(皇太子)及至、その留守役(「京師の留守の官」)が代行して保管すべきこと。

 要するに、いかなる場合にも、「京師」にそれは置かれているはずなのである。



 さて、「壬申紀」に次のような有名な事件が記されている。

 672(天武元)年6月24日、「乱」開始を宣言した2日後のこと。

(1)大分君恵尺(おほきだゑさか)、黄書造大伴(きふみのみやつこおほとも)・逢臣志摩(あふのおみしま)を留守司(とどまりまもるつかさ)の高坂王(たかさかのおほきみ)のもとに遣(つかは)して驛鈴(うまやのすず)を乞はしめたまふ。・・・既にして恵尺等、留守司に至りて東宮(まうけのきみ)の命(おおせこと)を挙げて驛鈴を高坂王に乞ふ。然るに聴(ゆる)さず。  大海人皇子は3人の腹心の部下を、「留守司」にいた高坂王のところに遺して、驛鈴を乞わせが、これを拒絶された、という事件だ。

 ここでは驛鈴は、「留守司」に置かれている。この「留守司」を「岩波」の頭注は
「飛鳥の古京守衛のために置かれた官司」
と説明している。実は「留守司」は上の記事のほかにもう一回出てくる。6月29日の記事である。「岩波」の注はそれを根拠にしている。

 是の日、大伴連の吹負(うけひ)密かに留守司の坂上直(あたひ)熊毛と議(はか)りて、・・・爰(ここ)に留守司高坂王、再び兵を興す使者穂積臣百足等、飛鳥寺の西の槻(つき)の下に據(よ)りて營(いほり)を為(つく)る。

 かくして「定説」は、「近江京」とは遠くはなれた「飛鳥の古京」に、この「驛鈴」はおかれていた、と断定したわけだ。この「定説」を、古田さんは「不可解」と言う。

 先の「延喜式」にしめされていたように、軍事体制の「要(かなめ)」としての驛鈴は必ず「京師」になければならぬ。そして第一権力者(もしくはその代行者)の「手」ににぎられていなければならぬ。 ― これがルールだ。

 この点、ことが権力者にとって肝心、要の軍事体制の全体と中心にかかわる問題であるから、「延喜式」以前の「七世紀後半」(天智・天武期)においても、ことの道理に変りはありえない。それがなぜ、近江京ではなく、飛鳥の留守司に。 ― 不可解だ。



 すでに吉野が「肥前の吉野」であることを知っている私(たち)にとっては、『日本書紀』の編者の設定した地理関係をそのまま鵜呑みすることはできない。だとすれば、「壬申紀」が描く「驛鈴」と「留守司」のチグハグな関係を読み解くためには、「留守司」という役所自体の「存在意義」を問うことになる。

《「真説・古代史」拾遺編》(38)

壬申の乱(10):大海人皇子、吉野行の目的


 大海人皇子が作った歌がもう一つある。

第27番歌

天皇、吉野の宮に幸(いでま)しし時の御製歌

よき人のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見(み)

紀に曰く。八年己卯の五月庚辰の朔の甲申、吉野宮に幸すといへり。


(歌の原文)
淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見〈与〉 良人四来三

 『万葉集』の歌をいくつか暗唱しているが、この歌はそのうちの一つだ。よく意味の分からないおかしな歌だけど、言葉遊びの歌としておもしろく思ったのだった。ちなみに「岩波」は次のように解釈している。

「昔のよい人がよい所だとよく見て、よいと言った吉野をよく見なさい。よい人よ、よく見なさい。」

 この歌の意味を古田さんはどのように解しているだろうか。まずその「訓み」に疑問を呈している。実は「原文改定」されていると言う。おおよそ次のようである。

 下の句が「芳野吉見与 良人四来三」=「芳野よく見よよき人よく見」と訓まれているが、その「原文」は「芳野吉見 多良人四来三」であり、「芳野よく見よ 多良(たら)人よく見」と訓まれるべきだ。「多良」は地名である。「多」を「与」と直し、「土地鑑」を〝削り去っ″て、一段と〝珍妙″な歌にしてしまっている。

 では「多良」とはどこか。「吉野の国」(佐賀県)にある。だが、あの「吉野の耳我の嶺」とは大分離れている。吉野ヶ里とは有明海の対岸になる。

 すなわち、「天武の視点」はただに有明海の北岸部にだけ、とどまってはいなかった。その西岸部の「多良」にも注がれていた。その視野は「有明海」そのものにひろがっていた。

 この点、「大和わく」に閉じこめられていた、従来の万葉学では、想到さえなしえないところだった。そのため、あの「元暦校本」 に対して〝後から書き加えられた″校注である「朱字記入」に頼って、「多」を「与」に直した。こうすれば、実質上〝面倒な″「多」字を消し去ることができるからである。



 「多」を「与」で置き換えた訓みでは「よき人」が二度出てくるが、原文では「淑人」「「良人」と違った字が使われている。その違いを「岩波」は、前者を「昔の優れた人」、後者を「歌いかけられた人をほめ」たものと説明している。これも苦しい説明だ。

 原文に沿って復元した訓みでは「よき人」は「淑人」だけだ。この「淑人」とはいったい誰なのか。この問いは「なぜ、大海人皇子は、肥前の吉野を目指したのか」という問いと重なる。そしてあの〝珍妙″な歌の意味を解くことにつながる。

 大海人皇子は「肥前の吉野」に向かった。ここは無論、「大和の吉野」のような〝観光名所″ではない。「持統紀」の吉野行は、軍事拠点への倭国(九州王朝)の天子の行幸だった。「白村江の戦」直前のことだ。大海人皇子の吉野行は倭国の「白村江の戦」敗戦直後のことである。決定的な敗戦直後に、今さら、実権を失った倭国の天子に会いに行くわけがない。しかし、天武は誰かに会いに行った。そう、その「誰か」とは「淑人」だ。

 この二字は、中国の古典の『詩経』の中に、くりかえし出現する有名な「術語」だそうだ。古田さんは7例もの事例を挙げている。それによると、この「淑人」は単なる「よい人」ではなく、〝国政をあずかる人々″〝国政を左右しうる地位の人″を指している。

 作歌者・大海人皇子は、当然なこと、文字が読めたろう。さらに、彼は「詩経」など「中国古典の教養」も持っていたに違いない。そして彼自身がこの「淑人」という文字を〝使っ″た。〝天武が口ずさんだ″のを記録したとすると、こんな「小むずかしい」文字を〝当てる″とは考えられない。「良寸比等」といった字を当てればすむ。やはりこれは、「天武自身がこの文字を〝選ん″で書いた。」そう考えるほかはない。

 つまり、「淑人」は、天武より上位の人である。この重要な一語を、「天武が使う」ということは、天武がその相手を「自分以上の存在」として、敬意をはらっている、ということになろう。「淑人」もこの言葉の意味を知っていて、天武は自分の相手への敬意を理解してもらえると期待したことだろう。つまり、「淑人」も「中国古典の素養」がある。

 以上から浮かび上がってくる人物は、筑紫に駐在していた占領軍(唐軍)を率いていた郭務悰だ。郭務悰は8年間に6回も筑紫にやってきている。率いてきた兵士たちも254人、2000余人、2000人と、極めて多い。彼らは何を目的でやって来ていたのか。

 その目的は

第一、中国(唐)のみが「天子」であるという、大義名分。
第二、ふたたび、唐に対して敵対しえないような「軍事的制圧」体制の安定化。

 この二点にあったこと、およそ疑いえないところではあるまいか。彼等は「筑紫」に駐在した。「大和」に駐在した形跡はない。これも、重要なポイントだ。「完勝国の軍」が戦敗国へこれだけ頻繁に「来倭」しながら、その「倭国の首都」に入ることをためらう理由は全くない。

 では、「筑紫」の中の、どこにいたか。その一中枢地、それは「白村江の戦い」のための発進基地たる有明海、大村湾(長崎湾)、伊万里湾だ。その中枢地こそ「肥前(佐賀県)の吉野」であった。彼等、唐軍はのどかな「観光旅行」のために、はるばるこの日本列島まで来たのではない。その、敵の「軍事拠点」を完全に制圧するために来たのだ。それに対する、並みなみならぬ執心と熱意、それが右のように〝執拗″な「8年に6回」もの「来倭」だったのではあるまいか。

 その最大中心、それは有明海を前にした「吉野の国(佐賀県)」だった。その前にひろがる有明海には、敗戦の破れ壊れた「倭国の軍船」群の中に、あたりを睥睨するかのように、「唐の一大軍船」が威容をしめしつつ〝もやい″していたのではあるまいか。それを率いていた将軍、それは劉仁願であり、劉徳高であり、そして最も長く、そして深く、郭務綜その人が「吉野と有明海」の一帯を支配していた、と思われるのである。

 その「吉野」に、大海人皇子は来たのだった。「物思い」にふけりつつ、やってきたのであろう。亡き兄(天智天皇)の遺言(大友皇子への補佐)と、大友皇子との決定的な対立、そのための「決断」の日を求めつつ、この「肥前、吉野の国」の山道を、その孤立の道を辿っていたのではなかろうか。

 その〝会うべき人″、それはもちろん「(倭国制圧の)全唐軍の総司令官」以外になかった。「朝散大夫」(従五品下)の任官をもつ、大国唐の官僚にして軍人だ。その人に対して、「淑人」 - 「良人」として、〝呼びかけ″たのであった。〝呼びかけ″は成功した。「多良」を西岸にもつ、有明海を自分の眼前にしつつ。その喜びの歌だったのである。

 そしてそれは(おそらく)「暗号文」のような形で、近畿(近江、大和など)にいる〝仲間″に知らされたのであろう。そのためにあえてこの一見〝意味不明の形″がとられたのではないか。 - これがわたしの推量の帰結するところであった。

(中略)

 すなわち、「壬申の乱」はやはり、従来信じられてきたような「近江と吉野と関ケ原(岐阜県)」という、小さな近畿周辺デルタの中だけで展開されたものではなかった。

 7世紀後半の白村江以後、くりかえし、執拗なくらい、日本列島内の九州の一角にやってきて、中国(唐)中心の「大義名分」のもと、西日本を中心に軍事的制圧体制を敷きつづけてきた、あの不可思議な唐軍の動きと無関係ではなかった。それを「無関係」に見せようとして、「日本書紀」は〝作ら″れた。そのように「造作」された。これが「造作」の根本の動機だったのである。



《「真説・古代史」拾遺編》(28)

「壬申紀」の吉野はどこ?


 これまで、古代史の真実を解明するための第一史料として、万葉集が貴重な役割を果たしてきた。大海人皇子が行った吉野が何処なのかの解明も、『日本書紀』だけをいくら精読しても解決しない。その解明の手がかりは、やはり万葉集にあった。古田さんは『万葉集』中の天武天皇の歌(第25・26・27番歌)に着目する。

第25・26番歌

天皇の御製歌(おほみうや)

み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくそ 雪は降りける 間(ま)なくそ 雨は零(ふ)りける その雪の 時なきが如(ごと) その雨の 間なきが如 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道を

或る本の歌

み芳野(よしの)の 耳我の山に 時じくそ 雪は降るといふ 間なくそ 雨は降るといふ その雪の 時じきが如 その雨の 間なきが如 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を

右句々相換れり。因りてここに重ねて載す。


 ちなみに「岩波」は第25番歌の大意を次のように書いている。

「吉野の耳我の嶺にはいつも雪が降っていた。ひっきりなしに雨が降っていた。その雪や雨が絶えず降るように、やむときもなく物思いにふけりながら、自分はその山道をやって来たことだ。」

 もちろん「定説」では、「み吉野(み芳野)」を大和の吉野に比定している。しかし、全ての専門家が例外なく「耳我嶺(みみがのみね)」にお手上げになっている。つまり奈良県吉野をいくら調べても「耳我嶺」という山がない。ちなみに、「岩波」の頭注は次のように述べている。

「み吉野の耳我の嶺」
 この歌の類歌(巻13、3293)に御金高(みかねのたけ)とある。金峰山その他に擬せられているが、吉野山中の高峰であろうということ以外は不明。

 大海人皇子は無い山を空想して歌を作った?! そんなバカなことはあるまい。「大和の吉野」にこだわらずに、「耳我嶺」を探すのが順当だろう。「持統紀」の吉野が「肥前の吉野」だったのだから、当然、「肥前の吉野」を検討するのが順当だろう。「耳我嶺」探しの古田さんの理路もとてもスリリングだ。講演録からそのまま引用しよう。

 それで、これは佐賀県に有るのではないか。それで佐賀県を調べ始めた。吉野はありましたし「耳我」は、それに関連があるような名前で「耳田 みみた」と言うのがある。この「耳 みみ」は、魏志倭人伝と同様の長官を表す「彌彌 耳 みみ」だと思う。この長官を表す彌彌(みみ)は各地で残ってます。奈良県耳成山もその一つだと思う。大阪府堺市仁徳陵(大仙古墳)のある「耳原」もそうだと思う。そして田圃があるから「耳田 みみた」です。「我 が」と言うのは一定の集落の単位で本当は「衛 が」だと思う。今日古賀さんも来ておられるが、本当は児衛(こが)であろうと思う。吉野ヶ里の「が」も集落の意味だと思う。そうしてみると固有名詞部分は「耳」。「耳我 みみが」や「耳田 みみた」というのは有り得る。ここまで理解は進んだ。

 しかし困っていたのは「耳我嶺 みみがのみね」の「嶺 みね」というのは何処だろう。それが偶然理解が進展した。先ほど言いました土塁という300メートルの高速道路。それを佐賀県教育委員会にお電話をした。土塁を説明されている時に、徳富さんからその地名は上峰(かみみね)町にあります。峰郡ですから、同じ「峰」ではないかと言われた。私も上峰町というのが、吉野ヶ里の隣にあり、また峰郡も知っていた。そういうことは知ってはいたが、ところが字面が違うものだから、同じだと余り考えたことがなかった。言われて一瞬「ああ、そうですね。」と惑った。

 その翌翌日この歌に再度取り組んで、はっと思った。「耳我嶺尓 耳我の嶺に」と「嶺 峰 みね」があるではないか。私も今までこの「みね」をマウンティン(mountain)の事だと思っていた。専門家は全て山のことだと考えてきた。しかし、この「みね」は固有名詞なのだ。「三吉野之 耳我嶺尓 三吉野の耳我の嶺に」、AのBのCという三段地名である。吉野の耳我の峰に、つまり佐賀県吉野である。天武は壬申の乱直前佐賀県吉野。そこに来ている。そういう事に気が付いた。

 この話を群馬県の平田さんにお話ししたところ、この方が熱心な方で、関係する記事を『日本書紀』雄略紀から見つけて頂いた。

『日本書紀』雄略紀(岩波古典文学大系に準拠)

十年の秋九月の乙酉朔日戊子に、身狭村主青等、呉の献れる二の鵝を将て、筑紫に至る。是の鵝、水沼君の犬の為に囓まれる死ぬ。

別本に云く。筑紫の嶺の県主泥麻呂(ねまろ)の犬の為に囓まれる死ぬといふ。・・・


 そこに「筑紫の嶺の県主」、その形で登場する。呉の国から鳥を献上して来て、それを水沼君の犬が鳥を喰い殺した。その注にこれは嶺(みね)の県主(あがたぬし)の犬が喰い殺したとも言う。そう書いてある。これが「嶺(みね)」という字で正確に出てくる。「筑紫の嶺の県主」ですが、あの辺を筑紫風土記という場合は、肥前(佐賀県)を含んで出てきます。もっと細かく考えると「嶺の県主」は、現在の佐賀県峰(みね)の県主。その県主が川一つ隔てた水沼の君の支配下にある。水沼の筑後君の犬と言っているが肥前の峰(みね)県主の犬。その犬が献上してきた鳥を喰い殺した。それで明らかに「嶺の県主」は肥前の峰(みね)です。「嶺の県主」は「山の県主」では意味を成しませんから、やはり地名と考えざるを得ない。そういうことから見ましても、やはり天武の歌の「耳我の嶺に」の「嶺(みね)」は、佐賀県の峰(みね)という地名です。

 奈良県には無かった。どの専門家も困っていたのが、佐賀県に持っていくと答えが出た。それでやはり天武は、奈良県の山奥である吉野へ行ったのではなくて、佐賀県の吉野へ行った。そういう事を知った。



 それでは大海人皇子は何を目的に肥前の吉野へ行ったのだろうか。

《「真説・古代史」拾遺編》(36)

壬申の乱(8):「壬申紀」も改ざん記事だった。


 古田さんの『壬申大乱』は2001年のに出版されている。それまでは古田さんは「壬申の乱」を正面から扱ったことがなかった。そのことを古田さんは「うっかり壬申の乱に手を出すと大やけどする。やばい!。警戒心を深くずっと持っていた」と言っている。そしてその理由を二つあげている。

 一つは『日本書紀』天武紀の壬申の乱の記事が異常に詳しい。何月何日どういう行動をした。日記みたいに詳しく書いてある。あれは歴史を書く人間に非常に有り難い。それに基づいて書いておられる歴史家や、また小説家もおられる。しかし私の目から見ると、全部『日本書紀』が日記みたいに詳しく書いてあれば良いが。また全部とは言いませんが、天武紀や持統紀が全部日記で詳しく書いてあれば良いのですが、壬申の乱だけが異常に詳しいと思いませんか。壬申の乱だけが異常に詳しい。私はそのように感じた。そういうことは壬申の乱だけ、何か別史料をはめ込んだような違和感を覚えた。うっかりそれをまともに信用して扱うと大やけどする。史料を扱う人間の警戒心。私はそのような人間の警戒心を拭ぬぐうことは出来なかった。これが第一の理由です。

 もう一つ、第二の理由はもっと大きな理由です。白村江で敗れて、郭務悰(かくむそう)が唐の軍隊を連れてきた。郭務悰以外の人も来ていますが、二千人、二千人と書いてある。・・・二回二千人来ている。少なくとも四千人筑紫に来ている。そうすると『日本書紀』ように壬申の乱が、近江と大和吉野と美濃の三角地帯で行われたとします。そこで天下の中心権力が一変した。革命か維新かは知りませんけれども日本の中心権力が一変した。そうするとその時唐の軍隊は何をしていたのか。何をとぼけていたのか。



 このように考えていた古田さんが壬申の乱に本格的に着手したきっかけが二つある。一つは、持統の31回にわたる吉野行きが大嘘であることが分かったこと。持統の吉野行きは単なる個人的な趣味といった意味しか持たない。歴史の記録としては無意味な記録だ。元の記録そのものは、九州王朝の天子の吉野閲兵という重要な歴史的な記録であった。それを盗用して、なぜあんな大嘘をはめ込む必要があったのだろうか。

 「偽装・壬申の乱」では大海人皇子(天武)は妃(後の持統)を伴って吉野に行っている。天武の吉野行きは「持統紀」の吉野行きの原点に当たっている。「持統紀」の吉野行きが大嘘ならば、天武の吉野行きも眉唾ものと考えるのが自然だ。それでは天武の吉野行きは一体何なのだろうか。

 もう一つは三森堯司氏の論文『馬から見た壬申の乱─騎兵の体験から「壬申紀」への疑問─』(1979年発表)との出会いであった。三森氏は上海派遣戦闘指令部所属騎兵部隊で実際に騎馬行軍の経験豊富で、馬の能力についても確かな知識をもっている方だ。その論文での三森氏の分析結果を、古田さんは『壬申大乱』で丹念にたどっているが、ここでは結論だけを紹介する。

 古田さんは「壬申紀」から馬に関する記事を抜き出しているが、実に27例もある。「壬申の乱」は騎馬軍を使っての戦いが主戦だった。三森氏は、「壬申紀」に出てくる騎馬による行軍の「経過と距離と時間」を克明に調べ上げて「壬申の乱での乗馬による踏破行路は、古代馬のみならず品種改良された強靱な現代の馬でも困難である」と結論している。つまり、壬申の乱での天武等の行動記事は虚構だったことが科学的に証明されたのだ。この三森論文の出現により、『日本書紀』を下敷きに書かれた「壬申の乱」についての従来の全ての論説が反古になったことになる。しかし、三森氏のこの重要論文も無視されている。大和一元主義者たちはいまだに「壬申紀」を下敷きにした論文を得々として書き続けている。

 以上の二つの根拠から、古田さんは、「壬申の乱」の舞台も、「大和の吉野」ではなく「肥前の吉野」であるとの確証を得て、「壬申の乱」の全体像の見直しを行うにいたった。その結果、従来の近畿を中心として理解されてきた「壬申の乱」のスケールは拡大され、九州と近畿を含む「壬申の大乱」であったとする真説が解明された。著書名を『壬申乱』としたゆえんである。次回から「真説・壬申大乱」の論証を読み進めることになる。

《「真説・古代史」拾遺編》(35)

壬申の乱(7):「偽装・壬申の乱」


 古田さんが解明した「真説・壬申の乱」に入る準備ができたが、その前に『日本書紀』が描く「偽装・壬申の乱」のあらすじを復習しておこう。

 『日本書紀』の「壬申の乱」の叙述は、『紀』の中で他に例のない異常なものである。まずその長さが異常だ。第28巻(「天武紀」上)全部がそれに当てられている。次にその叙述法が異例だ。ドキュメント風に微に入り細を穿って描写している。そのあらましは次の通りである。(この頃、ヤマト王権の最高権力者は「天皇」ではなく「大王」に過ぎなかったのだが、以下は『日本書紀』の記述に従って記載する。)

 671年、病床に伏せっていた天智天皇は弟の大海人皇子を呼び,譲位の意志を伝えた。天智は子の大友皇子を太政大臣に任じており,次の天皇にするつもりでいた。そのような状況で譲位意志の表明は自分を陥れる謀略、返答によっては命すら危ないと大海人皇子は用心した。大海人皇子は天皇になる意志がないことを伝え,出家の許しを請うた。出家を許された大海人皇子は武器を朝廷に返し,出家して、妃の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ 後の持統天皇)と幼い子供たちを連れて吉野に入った。従者は数人の舎人(とねり)だけだった。

 671年12月、天智が没し、子の大友皇子(当時25歳)が政治の実権を握った。

 672年5月、吉野の大海人皇子のもとへ緊急事態を知らせる者がやってきて、近江の朝廷が先の天皇の墓陵を造ると言って美濃と尾張の農民を集め,武器も持たせていると伝えた。さらに、大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きも伝わってきた。大友皇子の妃で、十市皇女(大海人皇子と額田王との間の子)からも朝廷の動きが伝えられてきた。

 大海人皇子は身に危険が迫っていることを知り、吉野を出て戦うことを決意した。そのためには安全な地へ身を移さなければならない。大海人皇子は自分の私領地がある美濃への脱出を決行する。そして,舎人たちに命じて、東国の豪族たちを味方にする策を計った。

6月22日
 村国男依(おより)を美濃に派遣、挙兵を命じる。

6月24日
 倭京留守司に駅鈴を乞うが拒否された。
子の高市皇子・大津皇子の都からの脱出と、東国(美濃・尾張・三河から甲斐・信濃)の兵を集めることを部下たちに指示した。そして、大海人皇子は子の草壁皇子・忍壁皇子・鸕野讃良皇女(持統)、数人の舎人と十数人の侍女を連れ吉野を脱出し、夜を徹して伊賀に向かった。

6月25日
 加太(かぶと)峠を越えて味方が待つ伊勢へ向かった。途中甲賀を越えて脱出した高市皇子と合流して、伊勢に入った。そして、交通の要所である鈴鹿道と不破道を完全に確保して、近江京と東国とを遮断した。

6月26日
 大津皇子が近江より脱出してきた。美濃の挙兵が成功した。高市皇子(19歳)を不破(美濃)に派遣、また東海・東山両道の兵を出立させた。大海人皇子は伊勢桑名郡に至る。
 朝廷方は諸方に募兵使を出立させた。この夜、東方への募兵使が不破で高市皇子方の伏兵に捕われた。また、佐伯連男(さえきのむらじおとこ)を筑紫に、樟使主磐手(くすのおみいわて)を吉備国に遣わし、筑紫大宰・吉備国守を味方に引き入れようとしたが、失敗した。
 大和の大伴吹負(おおとものふけい)が挙兵を企て軍勢を集めた。

6月27日
 大海人皇子は、高市皇子の要請を受けて、前線本部のある不破へ行った。不破の近くの野上で、尾張氏(尾張地方の支配者)の私邸を行宮(あんぐう 仮の宮)とした。桑名にとどまっていた高市皇子を総大将とする前線本部には東国(美濃・尾張・三河・甲斐・信濃方面)からの兵数万が集結した。

6月29日
 大伴吹負が挙兵して飛鳥の古京を占領した。大和の諸豪族みなこれに従った。大海人皇子は吹負を大和の将軍に任命した。

7月1日
 大伴吹負が、近江に進撃するため、乃楽(なら)に向った。吹負は河内方面の近江軍防衛のため諸道に兵を配置した。坂本財(さかもとのたから)らが朝廷軍の拠る高安城を占領した。

7月2日
 大海人軍、伊勢・近江両方面から攻勢を開始した。
 坂本財らは朝廷軍の将・壱伎韓国(いきのからくに)の軍と衛我河(えがのかわ 河内)で戦い、敗れて懼坂(かしこさか)の陣に退いた。

7月3日
 大伴吹負は乃楽山に駐屯した。

7月4日
  大伴吹負が乃楽山で朝廷軍の将大野果安(おおののはたやす)の軍と戦い敗走した。果安は飛鳥にいたるまで追跡したが、伏兵を恐れて引返した。
 朝廷軍が諸道より大和へ侵入した。
 吹負は逃走中、東方からの置始菟(おきそめのうさぎ)の救援軍にあい、引返して金綱井(かなずなのい)に駐屯した。そして、河内方面から侵入した朝廷軍の壱伎韓国の軍と当麻に戦い、これを破った)。
 この後東方から軍勢が多数到着し、朝廷軍を大破した。

7月5日
 朝廷軍の別将田辺小隅(たなべのおすみ)が倉歴(くらふ 近江甲賀郡)に駐屯していた田中足麻呂(たりまろ)の陣を奇襲した。

7月6日
  小隅はさらに進軍して、荊萩野(たらの 伊賀阿拝郡)の多品治(おおのほんじ)の陣を襲ったが、撃退された。

7月7日
 村国男依らが、息長(おきなが)の横河(近江坂田郡)において、朝廷軍を破った。

7月9日
 鳥籠山(とこのやま)の戦いで、再び村国男依らの軍が朝廷軍を破った。

7月13日
 安河の戦いで、大海人軍が朝廷軍を大破した。

7月17日
 栗太(くるもと)の戦いで、大海人軍が朝廷軍を破ってさらに追撃した。

7月22日
 最後の決戦が瀬田唐橋(せたからはし)で戦われた。村国男依の軍と大友皇子率いる朝廷軍とがそれぞれ両端に陣取って対峙した。朝廷軍は軍の後方が見えないほどの大軍であった。朝廷軍は橋の中程の板をはずして敵を落とすという罠を仕掛けていた。その罠を大津皇子の家来の大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)が見破り、朝廷軍が射る激しい弓矢の中を突撃して罠を破った。それをきっかけに朝廷軍は総崩れとなった。
 大津京は陥落し、大友皇子ら逃亡した。
 大海人皇子軍は決着をつけるため一気に対岸を目指してつっこんだ。決戦は大海人皇子軍が朝廷軍を破り、大海人軍は瀬田川を渡った。
 大伴吹負は大和を完全に平定し、難波に至った。配下の別将は大和より北上して、山前(やまさき)の河南(山城乙訓郡)に達した。

7月23日、朝廷軍は敗走し、大友皇子は山前(やまさき)に逃れた。大友皇子はそこで、大津京を眼下に見ながら自害した。

7月24日
 諸将軍筱浪(ささなみ)に集い、さらに罪人を追捕した。

7月26日
 将軍たちは不破の宮にいたり、大友皇子の頭を大海人皇子に献じた。

9月8日
 不破を出発した大海人皇子は吉野からの道を戻り飛鳥に向かった。

9月15日
大海人皇子は飛鳥の嶋宮(しまのみや)に入った。

 673年2月27日、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位(天武天皇)した。

 以上、「岩波」で25ページにおよぶ「壬申紀」を駆け足でおさらいしました。

《「真説・古代史」拾遺編》(34)

壬申の乱(6):度重なる吉野行幸はなぜ?


 吉野ヶ里と言えば弥生時代の話で、3世紀の遺跡と言われている。しかしその後、吉野ヶ里に堤土塁跡があることがわかった。鎮西山から南に延びる八藤(やとう)丘陵と二塚山丘陵との谷間をふさぐように築かれた土塁である。築成当時は両丘陵を東西につないでいたと思われるが、現在では中央部に切通(きりとおし)川が流れ、東西に分断された格好で残存している。東西長約300㍍。東側で幅が10~15㍍。高さが15~2㍍。西側で幅34~40㍍、高さ4.5㍍という大規模な遺跡である。

調査の結果、7~8世紀頃のものと考えられている。築成目的に関しては、切り通し川を塞ぎ止めていることから、農業用水を蓄えるための潅漑施設説、外敵の侵入を防ぐための防衛施設説、両者の併用説などがあるが謎が多い。いずれにしても古代においてこのような大規模かつ高度な土木技術が存在したことを示すとともに、その歴史的背景を研究する上でも非常に重要な位置を占める遺跡である。

 この遺跡を実際に観察して、古田さんは次のように述べている。

 叩き締める「版築(はんちく)技法」で築かれており、西側の切り通し断面でその状況がよく観察できる。それで先日行ったときには、その切り通し断面の「版築技法」をしっかり観察して来ました。

 時期については判別できないが、版築の技術が基山町関屋土塁や佐賀市帯熊山神護石の土塁のそれと類似している点等から7~8世紀と考えられる。つまり神籠石と同じ技術で作られている。いわば神籠石と神籠石を結ぶ性格を持っている。



 神籠石(こうごいし)については、おおよそ次のようなことが明らかにされている。それらは古代の軍事要塞(山城)跡で、その石群は、四つ(以上)のグループに分けることができる。
(A)有明海と長崎・大村・佐世保・伊万里湾等に対するもの
(B)太宰府を中心とするもの
(C)筑後川(上・中流、生葉郡等)周辺
(D)関門海峡の両側


 吉野ケ里はAグループの結節点(軍事中心)にあたる。Aからは白村江に直航できるが博多湾からは対馬海流に逆行する難点があり、「白村江の戦い」に参戦した軍船はA地域に待機させたものと、古田さんは考えている。その仮説を証明するものとして、古田さんは『日本書紀』の中の天智3、4年の記事に注目する。『日本書紀』では「白村江の戦い」を663年(天智2年)としているから、天智3年は「白村江の戦い」の翌年ということになる。

天智三年・・是歳、対嶋・壱岐嶋・筑紫國等に、防(ぼう)と烽(ほう)とを置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名なづけて水城(みずき)と曰ふ。

天智四年・・・秋八月に、達率(だちそち)答ほん[火+本]春初(たふほんしゅんそ)を遣して、城を長門の國に築かしむ。達率憶禮福留(おくらいふくる)・率憶四比福夫(しひふくふ)を筑紫國に遣して、大野及び椽き、二城を築かしむ。耽羅(たむら)、使を遣して來朝り。


 「防」は、防人の立てこもる拠点であり、「烽」は狼煙(のろし)を挙げる所だ。この記事は全く真実性の全くないおかしな記録である。「防」・「烽」・「水城」は明らかに軍事的な目的を持った施設である。対馬と壱岐の「防」と「烽」を置くという目的は、明らかに朝鮮半島・大陸に仮想敵国が居るという前提に立っての軍事的要塞だ。「水城」を作るというのも攻め込まれたときの備えだ。「白村江の戦い」で大敗して、唐の占領軍あるいは進駐軍が筑紫に来ている。その占領軍が来た後に、唐や新羅を仮想敵国にする軍事要塞を作るという馬鹿げたことを記録している。

 倭国が「水城」や「防」や「烽」などを築かずに、いきなり白村江の海へ戦いに出かけていった、そんな馬鹿なことはありえない。当然、海上での戦いは、色々な軍事的措置を取ったうえでの、最後の雌雄を決着する戦いだ。そう考えるのが常識である。何もせずにいて海で負けました。負けた後に軍事要塞を作りました。そんな馬鹿な話を、ヤマト王権一元主義者以外に、いったい誰が信じるだろうか。これらの記事は明らかに「白村江の戦い」以前の記事である。そう見ない方がおかしいのだ。この結論には科学的裏付けがある。

 現在では放射性炭素による年輪年代測定法がもっとも信頼すべき年代測定法と言われている。それによると「考古学の編年は従来より100年ぐらいさかのぼらなければ年輪の示す実体と合わない」という報告が出されている。このことを古田さんは繰り返し指摘している。しかし、従来の論者たちはそれを無視している。それを認めてしまうと、自分たちの理論が音を立てて総崩れになってしまいかねないことを恐れているからだろうか。古田さんは次のようなエピソードを語っている。

 対馬金田城山城跡自身の放射能測定も、7世紀から6世紀になるという記事が現地の新聞に報道されたことがある。しかし東京や近畿の新聞は無視した。やばいというか『日本書紀』と合わないから。それで朝日新聞の内倉さんが、水城の放射能測定がどうも『日本書紀』の言っているような7世紀後半ではない。放射能測定が6世紀前半から7世紀前半となる記事を書いて最後にデスクに止められてアウトにされた。そういう悔しがっている話を何回も聞きましたが。とにかくデスクとしては水城の成立年代が、『日本書紀』と合うと教育委員会を初め今まで全部書いてきたのに、合わないと言われる記事は都合が悪い。想像するに思ったのだろう。

 とにかく私から見ると、今までのしがらみや関わりを持っていない私としては、『日本書紀』の神護石や水城の記事は、本来から白村江以前に持ち上げなければ成り立ち得ない記事である。あれを白村江以後に、はめ込んでいることこそ大きな嘘だった。この記事を見ても天智紀が嘘であることは、この問題一つ取っても疑い得ないのではないでしょうか。それが最近の年輪年代測定や放射能測定で、科学的裏付けを得てきた。やはりそうでしたね。そういうことなのです。



 さて、「白村江の戦い」では倭国の船は400隻も沈んだと言われている。合計600隻あるいは800隻といわれる船は、白村江に行く前、どこに集結していたのか。

 博多湾はまずあり得ない。何故かというと、博多湾には鴻廬館(こうろかん)がある。(これも天智天皇の時と言われてきたが、最近の発掘調査によると6・7世紀になる。)外国の使者が何時も来ている。そんなところに600隻もの船が集結すれば、軍事秘密が筒抜けになってしまう。さらにもう一つ、博多湾から済州島までが大変である。対馬海流を逆流しなければならない。済州島から後はよい。1隻や2隻なら行けないことはない。しかし、数百隻もの船が一斉に海流を逆流して行くなどどいうのは、常識的には考えられない。現代の船とは違う。そういう機能的な面でも博多湾はあり得ない。そうするとどこか。

 ずばり、有明海だ。有明海から洋上に出て行けば、目の前が対馬海流。さっと済州島まで行ける。済州島まで行けば、そこから別れて真っ直ぐ進めば北のソウルにも行ける。

 そうすると、神籠石の西の端山(おつぼ)神籠石が武雄温泉にあるが、この位置にある理由が非常によく分かる。武雄は北に行けば伊万里湾へ、東へ行けば左世保湾へ、南へ行けば大村湾・長崎湾、そして西に行けば吉野(ヶ里)。三つの湾をにらむところが神籠石の西の端にあたる。

 この神籠石が山城群の西の端にあることが非常に意味があることが分る。帯隈(おぶくま)山というのが佐賀市。その東が吉野ヶ里。そして高良山。女山(ぞやま)。有明海を取り巻いている一群が有ることは明らかである。その有明海を取り巻いている一群の結節点になっているところが吉野ヶ里。その吉野ヶ里に白村江以前に高速道路(堤土塁)が付けられている。軍船が集結している。そして当然、山城にも軍船にも将軍や防人がいる。全国から防人が集まってくる。その結節点が佐賀県の吉野。

 防人として来た人々は、勝手に好き好きに軍船に乗ったり、神護石山城に行くわけではない。当然集まった防人は一定の所で閲兵を受け、ねぎらいや激励をうけてから役割分担されて任務に就く。高速道路の終点、佐賀県の吉野へ再三九州王朝の天子が行くのは当然なことだろう。この度々の行幸は「持統紀」が指し示すような慰安や祭祀のための旅行ではなく、軍隊閲兵のための行幸だった。

 「持統紀」の吉野行きが、実は九州王朝の天子の吉野(ヶ里)への軍事的目的を持った行幸記事の剽窃であったという驚くべき結論の確かさを、古田さんはさらにいろいろと補強している。私(たち)にとっては古田説が正鵠を射ていることはもう十分納得できているが、そのなかから一つ、最も説得力のある論証を紹介しておこう。

 持統8年(694年)の夏、持統は3回吉野に行っていることになっている。その中の一つの記事中に次の一文がある。

夏四月・・・庚申(かのえさるのひ)に、吉野宮に幸(いでま)す。・・・丁亥(ひのとのいのひ)に天皇、吉野宮より至(かえりおは)します。

 問題は「丁亥」という日付。持統8年(694年)の夏4月には「丁亥」という干支(えと)の日が存在しない。注釈者たちは困ってしまった。そこで例によって、原文改定をやったり、4月を別の月に比定したり、いろいろと姑息な「手直し」を考えているが、全てペケ。

 古田さんは厳密な史料批判をした上で論を進めているが、その部分は省略して結論だけを記載しよう。

 上記の事例以外の「持統紀」に現れる干支による年・月・日は全部うまくあてはまっている。ここだけどうして間違っているのか。持統の吉野行きの記事が「白村江の戦い」以前の九州王朝史料を盗用したものであることを知っている私(たち)にとっては、次のように考えるのが自然な理路だ。つまり元の史料に「丁亥」とあった。それがそのまま、うかっりミスで生き残った。うっかりミスで元あった正しい干支がここにだけ姿を現した。

 では「白村江の戦い」直前に、これに当たる干支が存在するだろうか。古田さんは、660年4月24日が「丁亥」であることを突き止める。(次の引用文中にある『三正綜覧』とは、1880年に日本で刊行された暦の対照表です。また「顕慶」「龍朔」は唐の高宗李治の時の元号です。)

 『三正綜覧』(内務省地理局編纂)により顕慶5年(660年)に有りました。660年、この年の4月が、大の月で「辛未」が一日です。それを『大日本百科辞典小学館(ジャポニカ)の干支五行配合表』で見てみますと、「辛未(8番目)」が1日ならば、17日(24番目)が「丁亥」となる。そこに「丁亥」が出てくる。ここだと問題なくあり得る。無くて困っていたものが決まってきた。

 それで顕慶5年(660年)を持統8年に当てはめて、9年・10年・11年と年を追って持統天皇吉野宮行幸の記事を当てはめていきますと、最後の吉野宮行幸が持統11年4月14日に成っていました。それが龍朔3年(663年)4月に当たるわけです。つまり「丁亥」を顕慶5年(660年)という定点にしますと、後同じバランスで見ていきますと、最後の持統11年4月14日は、実際は龍朔3年4月14日ということに成るわけです。ところがその年の8月か9月のところで、白村江の戦いが行われる。逆に言うと白村江の戦いが行われたその年の3・4カ月前までは、吉野へ行っている。ところが白村江の戦い以後は行っていない。そういう形になる。これは分かりますよね。花の吉野と違いますから。吉野へ行った目的が軍事目的で、神護石や軍船に来る防人を閲兵する為に行っているわけです。白村江の戦い以後も行っていたらおかしいわけです。ところが白村江の戦いの4カ月前でストップしている。非常にリアリティがある。それでやはり、この吉野行きは、本来の姿は佐賀県吉野である。そういうことを実は確信したのは、この丁亥問題である。



 全く見事な論証だ。これほど堅固な論理によって史実が解明されても、ヤマト王権一元主義者たちは知らんふりを決め込んでいる。

 思えば奇しくも、『日本書紀』の編者はミスという方法で、自らの手で抹消したはずの、非常に貴重な史実を書き残しておいてくれたことになる。

《「真説・古代史」拾遺編》(33)

壬申の乱(5):「持統紀」にもあった盗作記事(2)


 次に古田さんが取り上げたのは持統天皇の吉野行幸記事である。この記事も謎だらけである。まず、その回数。「持統紀」によればわずか9年の間に天皇として、なんと31回も吉野に行っている。譲位した後では太上天皇(だじょうてんのう)として1回だけ行っている(続日本紀)。<持統年 回数 滞在期間>という形で列挙してみる。

3年 2回 4日間・もう一回は不明
4年 5回 前3回は不明・最後は4日間
5年 4回 8日間・7日間・10日間・8日間
6年 3回 5日間・20日間・8日間
7年 5回 8日間・7日間・10日間・5日間・5日間
8年 3回 不明・8日間・不明
9年 5回 8日間・4日間・9日間・7日間・9日間
10年 3回 11日間・7日間・9日間
11年 1回 13日間
(8月1日禅位)
大宝元年 1回 12日間

 この異様な吉野行きについて、従来は「これは当人の趣味の問題だ。」「権力者は、しばしば気まぐれなものだ。」ぐらいの感覚で、見すごしてきていた。あるいは、「何等かの理由で、持統天皇が吉野を愛し賜うたからだろう。」とか「吉野の風物、たとえば桜や水辺の風景を愛されたがらだろう。」、「吉野の水神に対する信仰が厚かったのだろう。」いったような説明を工夫する論者もいた。古田さんは31回の吉野行きの行われた月を調べて、それらの説に疑問を呈する。

1月3回
2月2回、潤2月1回(2月、計3回)
3月2回
4月4回
5月3回
6月3回
7月3回
8月4回
9月1回
10月3回
11月1回
12月2回

 吉野と言えば桜。吉野の桜が盛んなのは、旧暦で言えば、3月の中旬から下旬である。ところが31回中、3月は2回しかない。後の行幸は桜のない季節に行っている。

 さらにおかしいのは、7回ある滞在期間不明の行幸。出立の日だけで、帰りの記録がない。ならば日帰りと考えればよいだろう。実際に藤原宮から吉野への山道を歩いた人の話では日帰りの不可能ではないということだ。しかし、持統天皇はハイキングに行くわけではない。行宮(あんぐう 仮宮のこと)があるのに、強行軍でその日の内に急いで引き返す必要はない。やはりおかしい。

 以上のように、持統天皇の吉野行幸は謎に満ちている。非常におかしい。この謎を解く手がかりが、またまた『万葉集』にあるのだった。

『万葉集』第36~39番歌

吉野の宮に幸(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌 (36番)
やすみしし わご大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも
反歌(37番)
見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む

(38番)
やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激(たぎ)つ河内(かふち)に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなづく 青垣山 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり [一に云ふ][黄葉かざし] 逝き副ふ 川の神も 大御食(おおみけ)に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも
反歌(39番)
山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも

右、日本紀に曰く、三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸す。八月吉野宮に幸す。四年庚寅の二月吉野宮に幸す。五月吉野宮に幸す。五年辛卯正月、吉野宮に幸す。四月吉野宮に幸すといへれば、未だ詳(つまび)らかに何月の従駕(おほみとも)に作る歌なるかを知らずといへり。


 詞書きは、これらの歌は吉野で柿本人麻呂が持統のために作った、と言っているが、これは歌の内容と相容れない。


 36番歌と38番歌には、大王と書かれている。この大王という言葉は、ある領域を支配する王を意味する。大王は天皇を意味しない。

 吉野の宮滝には「河内」という地名はない。「激つ河内」と呼ばれるところはあるが、それは川の瀬であって地名ではない。

 宮滝には滝がない。「夢のわだ」とよばれる3メートル程度の水落(みずおち)があるが、滝と呼ぶには恥ずかしいほどチャチなものである。

 吉野川は山の中の上流であり、「激つ河内」と呼ばれるところから船は海に出発できない。

 古田さんはこれらの問題点に対して緻密な論証をしているが、私(たち)としてはこれで十分だろう。結論を書き留めれば、この歌の舞台は「大和の吉野」ではない。真の舞台は「肥前の吉野」。歌に「吉野川」とあるが、これは現在の嘉瀬川(かせがわ)。上流に「吉野山」があり、下流領域には「字、吉野」やあの有名な「吉野ヶ里」がる。舞台をここにとれば、歌は生き生きとよみがえり、全てがぴったりと収まる。



(上記結論の詳しい論証を知りたい方は 「この歌は吉野で持統に奉られた歌ではない」 を参照してください。)

 一連の歌の背景は次のようになる。(論文「この歌は吉野で持統に奉られた歌ではない」からの抜き書きです。)  人麻呂は大王に付き添ってここに来た。最初彼らは、古湯温泉へ来て川舟を並べて遊び下った。それから彼らは、雄淵の滝で、饗応の櫓を建てて楽しんだ。それから熊川古城に上がって、雌淵・雄淵を見ながら、国見を行なった。そして鮎瀬に出て鮎漁を楽しんだ。それで最後は船に乗り、嘉瀬川を下って(筑後川と合流し)有明海に出た。

 さてそうすると、前回の「第44番歌の注」のときと同じ論理で、上記の一連の歌の注に登場する天皇、頻繁に吉野に行幸している天皇は持統ではなく、九州王朝の天子ということのなる。「持統紀」の吉野行幸の一連の記事は、九州王朝の天子の行跡を盗用してはめ込んだものでだったのだ。

 ではその天子は、なぜかくも頻繁に吉野へ行幸したのだろうか。

《「真説・古代史」拾遺編》(32)

壬申の乱(4):「持統紀」にもあった盗作記事(1)


 『日本書紀』には、九州王朝の史料をはめ込んで天皇家の歴史を偽装するというなんともやりきれぬ盗作手法がある。「神功紀」と「景行紀」の中にその例があることを私(たち)はすでに知っている。( 「真説・古代史:九州王朝の形成」 を参照してください。)

 ところがなんと、『日本書紀』の最後の「持統紀」にも九州王朝の事績をはめ込んだ盗作記事がある。その記事が盗作であることを論証するための前準備として、前回「中皇命」が九州王朝の天子であり(第4番歌)、「紀温泉」行がその中皇命が妻(皇后)を伴って行った「博多→瀬戸内海の児島→淡路島→南紀白浜→志摩英虞湾」という大旅行であった(第10,11,12番歌)ことを明らかにした。

 さて今度は『万葉集』巻1の第44番歌である。

石上大臣(いそのかみのおほまえつぎみ)の従駕(おほみとも)にして作れる歌

吾妹子(わぎもこ)をいざ見(み)の山を高みかも大和(やまと)の見えぬ国遠みかも

右、日本紀に曰く、朱鳥(あかみどり)六年壬辰の春三月丙寅の朔の辰、浄廣肆広瀬王(ひろせのおおきみ)等(たち)を以(も)ちて、留守の官(つかさ)となす。ここに中納言三輪朝臣高市麻呂(みわのあそみたけちまろ)、その冠位(かがふり)を脱(ぬ)ぎて、朝(みかど)に上(ささ)げて、重ねて諫(いさ)めて曰(もう)さく、農作(なりはい)の前(さき)に、車駕(きみ)未だ以て動ふべからず。辛未に、天皇諫(こと)に従はず、遂に伊勢に幸す。五月乙丑の朔の庚午阿児(あご)の仮宮(かりみや)に御(いでま)すといえり。

 この注を訳すと次のようである。

 3月3日、天皇は広瀬王を留守の官にして出かけようとした。すると大三輪朝臣高市麻呂が反対した。しかも冠位をなげうつという思い切った行動で「止やめて下さい。」といさめた。しかし天皇はそれに従わず、振り切って3月6日に遂に伊勢へと向かった。そして5月6日に三重県の阿胡(あご)の仮宮に着いた。

 これは中皇命の大旅行のときのエピソードにほかならない。それを盗用している。

 これによると中皇命の旅行は、2ヶ月にわたる大旅行(3月~5月)であったことが分かる。ところが「岩波」は「朱鳥六年」を持統4年として、持統天皇の旅行としている。すると当然出発地は奈良(藤原京)。到着は三重の英虞湾。2ヶ月もかかるはずがない。この謎に困った通説論者はどのように解決したか。「岩波」の頭注に曰く、「この(五月の)行幸は三月のとは別」。おいおい、これ、誰が読んだって一つの旅行についての記述だよ。「この(五月の)行幸は三月のとは別」と断定する根拠などどこにもない。私はヤマト王権一元主義者たちの知的退廃を嘆かざるを得ない。

 ところで、『日本書紀』の「持統紀(持統6年)」の段に次の記事がある。

三月(やよい)の丙寅(ひのえとら)の朔戊辰(つちおえたつのひ)に、浄広肆広瀬王(じょうこわうしひろせのおおきみ)・直広参当摩真人智徳(じきくわうさむたぎまのまひとちとこ)・直広肆紀朝臣弓張(ちょくくわうしきのあそみ)等(ら)を以(も)て、留守官(とどまりまもるつかさ)とす。是に、中納言大三輪朝臣高市麻呂(すけのものまうすつかさおおみわのあそみたけちまろ)、其の冠位(かうぶり)を脱ぎて、朝(みかど)に上(ささ)げて、重ねて諫(あは)めて曰く、農作の節(とき)、車駕(きみ)、未だ以て動(ゆ)きたまふべからず」とまうす。辛未(かのとのひつじのひ)に、天皇(すめらみこと)諫(あわめ)に従ひたまはず、遂に伊勢(いせのくに)に幸(いでま)す。

 明らかに『万葉集』にある「日本紀」の記事の改ざん編である。日本書紀の方は留守の官として、持統天皇と関係の深い二人「直広参当摩真人智徳・直広肆紀朝臣弓張」をプラスして、まさに持統紀の記事であると繕っている。そして最後は「伊勢に幸す。」であり、「阿児の仮宮」をカットしている。このカットはつまり「2ヶ月の謎」のカットでもある。

 古田さんの講演録を引用してまとめとしよう。

 私のようにように出発点を筑紫太宰府と考え、二カ月かかって三重県の阿胡の仮宮に着いたとします。その間吉備の大宰に会ったように表面は観光旅行のように見えて政治的な目的を持った旅行です。そう寄り道しながら行くのなら、二カ月は決して掛かり過ぎではない。

 太宰府の九州王朝となりますと、時期はもちろん白村江の以前です。白村江663年以前の記事を切り取って『日本書紀』に、はめ込んでいる。ここで万葉集にあるものを『(朱鳥)日本紀』と言いますが、これは現在の私たちが見ている前段階。簡単に言いますと、我々の見ている『日本書紀』を完成本としますと、初稿本に当たるのが『(朱鳥)日本紀』です。その『(朱鳥)日本紀』では、白村江以前の九州王朝の中皇命大旅行を、そのまま切り取って持統6年のところにはめ込んでいる。朱鳥という九州年号は、これも一応別ですが、白村江以前の記事をはめ込んでいる。そういうことが分かる。



《「真説・古代史」拾遺編》(31)

壬申の乱(3):中皇命の活動範囲


 長歌(第3番歌)を前回のように解すると、反歌(第4番歌)に現れる地名関係も明快に解くことができる。

たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野
(原文)
玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野


 「岩波」は原文の「内乃」を「宇智の」と表記しているが、この歌の舞台をはなから奈良と決めかかっているためにこのような解釈をしてしまう。古田さんが解く正解は次のようである。

 「内乃」。太宰府の東側の山一つ越したところに「内野(うちの)」がある。その近くに「大野」もある。太宰府の側の大野城の「大野」も有名だが、それ以外に大野城の山一つ越えたところに「大野」がある。その間に「馬敷(ましき)」がある。「内野大野に馬並めて・・・」と全部揃っている。さらに前回指摘されたそうに「那珂(なか)」もある。舞台を太宰府にとれば全部地名がそろっている。

 これだけ揃っていて、わたしが屁理屈で会わせられるはずはない。実体がここで作られたからである。そう考えるのが筋ではないか。奈良県で作ったと考えると、中皇命を女性の名俳優にして、両性具備の人物を演じなければ成らない。また「中弭」をひっくり返して「金弭」と原文改訂を行わなければならない。そして中皇命は歌だけ献上させる役という変な出方。『万葉集』の他の例にないような変な役割を割り当てなければならなかった。そのようなことが全部一掃されるのが、わたしの理解でございます。

 以上述べたことに対し、古田の言うことは理屈はその通りだが、ちょっと付いていけない。そういう意見もあると思う。とくに頭の中に深く入った知識からは付いていけない。頭の良い方は特にそうであると思う。頭の中に今までの知識が深く入っています。



 そこで古田説の信憑性をさらに確定的にする証拠がある。『万葉集』にもう一度「中皇命」が登場している。しかも歌人としてである。第10,11,12番歌である。

中皇命(なかつすめらみこと)、紀温泉(きのゆ)に往(いでま)しし時の御歌

10
君が代も我が代も知るや磐代(いわしろ)の岡の草根をいざ結びてな

11
我が背子は仮廬(かりほ)作らす草(かや)なくば小松が下の草(かや)を刈らさね

12
我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根(あごね)の浦の珠(たま)そ拾はぬ

或は頭に云く、我が欲りし子島は見しを
右、山上憶良大夫の類聚歌林(るいじゅうかりん)を檢(かむが)ふるに曰はく、天皇の御製歌(おほみうた)云々


 この歌も専門家には悩みの種の歌だった。一番の悩みの種は敬語の問題である。

 第11番歌には尊敬の助動詞が二回出てくる。「仮廬作らす」の「す」が尊敬の助動詞。「草を刈らさね」の「さね」が尊敬の助動詞。(「さ」が尊敬の助動詞。「ね」は接尾語と考えてもよい。)

 ところが第10番歌、第12番歌には敬語がない。尊敬の助動詞がない。

 この現象も通説に従えば、うまく解釈できない。中皇命が舒明天皇の皇后あるいは間人皇后など女性であったとすれば、相手方は夫の舒明天皇となる。すると自分より目上と考えられる天皇に対して敬語抜きで歌を作るのはおかしいとなるしかない。第11番歌には二回も敬語を使っているのに、その前後では敬語の使用を忘れてしまったとなる。専門家としては頭をかかえざるを得ない。そこで斉明天皇が天皇の代作をしたという「代作説」がでてくる。代作にして敬語抜きを合理化するという姑息な解決を試みている。

 しかし現実は三つの歌があって、一つの歌だけ敬語があって他はない。それが事実であり、それが説明できない説は無効である。

 通説論者を困らせていることがもう一つある。ここに出てくる地名に困っている。「紀温泉」というのは和歌山の白浜温泉。次の第10番歌の「磐代」は、白浜からちょっと西よりに寄ったところに、有馬皇子が作った有名な歌に出てくる「磐代」がある。前書きと第10番歌は不都合はない。

(参考:有馬皇子の歌とは第141番歌「磐代の濱松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む」)

 第11番歌は地名がない。問題は第12番歌の「野島」と「阿胡根の浦」。

 「野島」は白浜温泉の近く和歌山県御坊市の字地名に「野島」というのがあり、そこだろうと言われている。しかし残念なことに、ここは海岸に面していない。さらに、「我が欲りし野島は見せつ」(どうしても見たいと思っていた野島を見せてくれた!)と歌っているのだから「野島」はすごいところだったはずだ。しかし、そんな名所旧跡でもない。

 次の「阿胡根」。この地名がない。本居宣長がアコヤ貝が取れた所を、そう言うのではないかと言ったので、時折その説を採用する人がある程度で、だれも説明できない。「岩波」の頭注は「所在不明。野島付近の海岸であろう。」と、お手上げを宣言している。

 さらに、「或は頭に云く」の方の「我が欲りし子島は見しを」(見たい!と思った子島はもう見た。)。この「子島」についても「岩波」の頭注は「不明」としている。

 以上のような従来説では説明のしようがない諸問題が、「中皇命は九州王朝の天子である」という古田説にのっとれば、すんなりと解決される。

 当然中皇命の出発地は博多太宰府。船で出発すれば、当然瀬戸内海を通って行く。まず「子島」というのは当然各地にある。数ある「子島」の中で最も有名なのは「吉備の児島(こじま)」である。そこにはすぐ近いところに吉備津神社があり、吉備の大宰(たいさい)が居る。中皇命は吉備の大宰に会いたかった。「私は吉備の児島に用事があった。しかしもう会うことができた。」これで「子島」は解決する。

 次のポイントは「野島」、明石海峡を人麻呂が歌った歌がある。『万葉集』第三巻「柿本朝臣人麻呂の覊旅(たび)の歌八首」の中の第250、251番歌。

玉藻刈る敏馬(みるめ)を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ

一本云
処女(をとめ)を過ぎて夏草の野島が崎に廬(いほり)す我れは

淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す


 「野島」が三つ出てくる。この「野島」は明石海峡の淡路島の北端である。淡路島の北淡町、そこの字地名にも野島がある。中皇命は明石海峡ファンで、ぜひ奥さんに「明石海峡を見せたい。」と思って、太宰府を出発して来た。古田さんはこの「野島」について「私も中皇命と同じくして、独身時代神戸の須磨離宮道に住んでいた時期があるのですが、明石海峡に通って飽きることなく、何時間も夕日の落ちる姿を眺めていた記憶があります。」と回顧している。すばらしい景観のようだ。

 中皇命は次は白浜へ行ったり、磐代へ行ったりしている。そのあと「阿胡根の浦」に行く。これは三重県の英虞(あご)湾。中皇命は「岩代の岡の草根をいざ結びてな」と詠っている。「草根」に「根」という接尾語を付けている。そうすると「底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ」も「阿胡根」にも「根」という接尾語を付けている。従って、固有名詞部分は「阿胡(あご)」であり、「阿胡根の浦」は三重県の英虞湾ということになる。

 出発点は太宰府博多湾(もしかしたら有明海かも)。到着点は三重県の英虞湾。このように考えると、所在地不明というようなことはなく、地名関係は非常にスムースに理解できる。旅の進行関係も非常にスムースに理解できる。

 敬語の問題の解答については、講演記録にはその言及がない。『古代の十字路―万葉批判』で詳述しているらしい。その本はいま手元にないので後ほど確かめることにして、取りあえず私なりの説明をしておこう。

 第10番歌と第12番歌は最高権力者・中皇命の作歌だから、当然敬語がなくて当然。それに対して第11番歌は「我が背子は・・・」とあるから女性の作品である。奥さん(皇后)または恋人の詠んだ歌である。「中皇命、紀温泉に往しし時の御歌」という詞書きから、全部が中皇命の詠んだ歌である必要はない。全てが中皇命の詠んだ歌なら詞書きは「御製歌」となるべきだろう。

《「真説・古代史」拾遺編》(30)

壬申の乱(2):中皇命って誰?


(以下は古田さんの論考の紹介です。教科書は講演記録「壬申の乱の大道」、東洋書林版『壬申大乱』。)

 『万葉集』にはヤマト王権一元主義者には解くことのできない謎がたくさんあって、万葉集の研究者たちを悩ましている。その中の一つが「中皇命」。この人物が初めて登場する歌は3・4番歌で次の通りである。(引用歌はすべて「岩波古典文学大系」に準拠。以下「岩波」と略す。)

天皇、宇智の野に、遊猟(みかり)したまふ時、中皇命(なかつすめらみこと)の間人連老(はしひとむらじおゆ)をして獻らしめたまふ歌

やすみしし 我が大君の 朝(あした)には 取り撫でたまひ 夕(ゆうべ)には い寄り立たしし み執(と)らしの 梓の弓の 金弭(かなはず)の 音すなり 朝猟(あさかり)に 今立たすらし 夕猟(ゆうかり)に 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 金弭の音すなり

反歌 たまきはる宇智の大野に馬並(な)めて朝踏ますらむその草深野

注1:「金弭」は原文では「奈加弭」。
注2:後の方の「み執らし<の 梓>の弓の」の「の 梓」の部分の原文は「御執<梓能>弓之」。

 この三番歌は斉藤茂吉が『万葉集』最高の秀歌であると評価した歌だ。ところがこの歌には問題が多い。

 まず詞書きに登場する「中皇命」が何者か分からない。「岩波」の頭注には「間人皇后。舒明天皇の皇女、天智天皇の妹、天武天皇の姉、孝徳天皇の皇后。天智四年(六六五)没。万葉初期の有名な歌人。なお中皇命を斉明天皇とする説もある。」と書いてあるが、どちらの説も推定しているだけで決め手がない。また、中皇命の役割が分からない。中皇命が間人連に歌を献上させるためだけに登場している。しかし『万葉集』には歌を献上させるだけに登場する人物は他には全くない。歌を献上する相手の天皇は舒明天皇だが、彼が狩りを行った。これもおかしい。

 歌の内容にもおかしなことがある。

我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし

 「大君は狩が好きで朝には弓矢を大切そうに撫でている。」この部分は男のしぐさとしてよくわかる。すると、「夕には い寄り立たしし」という言葉が変だ。この言葉は「女性が、男の人や男の人の持ってい るものに寄りそう」といった意味で、『万葉集』の中では女性の表現としてしか出てこない。つまりこの人物は、朝は男性的な行動をし夜は女性的な行動をしている。まるで両性兼備の人物である。もちろん、このような両性兼備の人物は『万葉集』では他には例がない。しかし今までどの専門家も変だと言ったことがない。

 次は「梓の弓の 金弭の 音すなり」の「金弭」。『万葉集』にはたくさんの写本があるが、すべての原文で「奈加弭=中弭」である。この「奈加」を入れ替えて「かな=金」と、してはならない原文改訂をしている。「岩波」は「吉永登氏説」と脚注を付けている。この説を望ましいものとして採用しているわけだ。

 なぜこんな勝手な書き換えをしたのか。「中弭」では困るからだ。なぜ困るのか。「弭(ハズ)」というのは弓の上と下の端のことである。だから「中弭」では意味不明となる。だれもうまく説明できなかった。それを万葉学者の吉永登氏が見事に解決した。『全写本が間違っているのだ。「ナカハズ」ではなく「カナハズ」なのだ。「金弭」なら金属製の部品が上と下の端についているということで、何ら不思議はない。』と。

 さて、これらの問題点を古田さんは、以下のように見事に解明している。

 まず「中皇命」。

 「皇」は皇帝の「皇」である。第一権力者である天子を意味する。「命(みこと)」は、大国主命など亡くなった人によく使われるが、生きている人に使う場合は最高の倭語である。「皇命」と揃えば最高の権力者、つまり天子の呼び名と考えるほかない。

 次に「中(なか)」は何か。これは地名である。額田王(ぬかた)が額田出身の王を表すように、本人の生まれた所の地名を取って呼ぶことは珍しくない。では「中」はどこか。博多に那珂川があり、有名な中州があり、那珂郡那珂村もある。博多の真ん中から北にかけて「中」という地名がある。そこの出身であるから「なかつすめらみこと」である。

 彼は弓矢が好きなようだが、その愛用の弓矢は「中」で作られた弓矢、当時の先進地帯である「那珂=中」で作られた弓矢ではないか。だから、今の博多ラーメンなどと同じように地名を付けて「奈加弭 中弭」と呼ぶ。これで専門家が悩んでいたことが一挙に解決する。

 次は両性兼備の問題。

 定説では「我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之」という原文を「我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし」と読んでいるが、この読みが間違っている。古田さんは「朝庭=ちょうてい」と解している。次のように詳述している。
 大王が居るところを朝庭とは言わない。天子のいるという特別な場所のこと朝庭という。その特別な場所を単なる表音で使うとは考えられない。使ったから仕方がないと言う声もあるが「には」には色々ある。「には 尓破」等を使って書けばよいし他にもいろいろある。それをわざわざ古代において、うっかり大それた「朝庭」という字を使いました。私のミスです。そういうことは許されない。「朝庭(ちょうてい)」という字を使っている以上、天子の居るところを指している。こう見なければならない。

 するとこれを私は「朝庭 みかど には」と読むと考えます。「朝」一字を、「みかど」と読んでいる例もある。「帝=朝庭=みかど」とは当然天子のことである。

 次に「夕庭」という言葉が出てきていますが、私はこれを「夕庭=后(きさき)には」と読むことを提案する。これは奥さんと考えるわたしの新案特許です。

 「朝庭には」=「帝(みかど)には」は男の方である。これに対して「夕庭には」=「后(きさき)には」、后のことを洒落て、そう表現をした。



 古田さんの新案特許によると、歌の意は次のようになる。すなわち「弓好きの天子が弓矢を立てて撫でて喜んでいる。そばで后がそういうりりしい帝に寄り添っておられる。夫婦相和して、男は男らしく、女は女らしく、朝にも夕べにも、仲むつまじく居られる。」

もちろん、歌を作ったのは間人連であり、この歌を作らせたのは中皇命であり、この歌の主人公も中皇命ということになる。

 『「万葉集巻三の第304歌」をめぐって』で明らかにされたように「やすみしし 我が大君の 朝には」の意味は「我が大王の仕え奉る帝には」という意味であり、「我が大王」は舒明天皇である。舒明天皇は間人連を伴って、大和から太宰府(朝庭)にやって来ていた。この歌は舒明天皇のことを歌ったのではなくて、中皇命のことを歌っている。我が舒明天皇のお仕えする中皇命は夫婦合和して仲睦まじくおられる。そういう歌と理解できる。『万葉集』の編者がちゃっかりと主従関係を逆転させ詞書きを添えて盗用したために、歌の意味が全く分からなくなってしまったというわけだった。

(参考)

第996回 4月19日:《「真説・古代史」拾遺編》(13):「万葉集巻三の第304歌」をめぐって(1)

第997回 4月20日:《「真説・古代史」拾遺編》(14):「万葉集巻三の第304歌」をめぐって(2)

第998回 4月21日:《「真説・古代史」拾遺編》(15):「万葉集巻三の第304歌」をめぐって(3)

第999回 4月22日:《「真説・古代史」拾遺編》(16):「万葉集巻三の第304歌」をめぐって(4)

《「真説・古代史」拾遺編》(29)

壬申の乱(1):近江遷都


 今回のテーマは「壬申の乱」です。

 古代史学者の間では、『続日本紀』の記述は史実として信頼できるというのが定説になっているようだ。さらに『日本書紀』の最後の三編「天智紀」「天武紀」「持統紀」は信頼できると、おおかたの学者は考えているらしい。試みに、図書館へ行って、いわゆる学者さんの著書で「壬申の乱」を扱っているものを何冊かくってみたが、どれも大筋は『日本書紀』の記述にそったものであった。しかし、「天智紀」「天武紀」「持統紀」もそのまま信じることのできないしろものである。その一端は既に 「白村江の戦」 で、私(たち)の知るところである。

 さて、九州王朝(倭国)の王・薩夜麻(さちやま)が率いる倭軍が白村江の戦いに惨敗したのは662年(「天智紀」では663年)のことであった。薩夜麻は唐・新羅連合軍の虜囚となり、唐軍が倭国(筑紫)に進駐してきた。その激しい戦いが続いている間、倭国では王朝の王族・官僚たちは手をこまねいて何もしなかったのだろうか。

 ここで「近江遷都」が問題となる。「近江遷都」も謎だらけの事案である。

   『日本書紀』によれば、667年(天智称制6年)に、奈良飛鳥から滋賀大津への遷都が行われた。そして翌年正月、即位して正式に王位に就いた。この遷都に対しては、大和の人々の不満は大きかったという。『日本書紀』には、近江遷都に際して民衆の不満がつのり、日夜、不審火が続いたとの記事がある。

(注:「称制」・・・即位の式を挙げずに政務を執ること。いずれ、この「称制」問題も取り上げることになるだろう。)

 なぜこのような遷都が行われたのか。その理由が分からない。通説では、「白村江の戦い」に惨敗したのは近畿天皇家(ヤマト王権)としているので、当然次のような理由付けになる。すなわち、「白村江での惨敗を受けて、唐や新羅など外国勢力の侵入に備えて都を飛鳥から、さらに内陸部へ入った近江の地に移した。」

 「唐や新羅など外国勢力の侵入に備え」るのに、飛鳥より、わずか離れた大津の方に、どんなメリットがあるというのだろうか。私にはさっぱり分からない。

 そこで、次のような説が出てくる。すなわち、「近江遷都が白村江の敗戦を直接の契機として、唐・新羅との緊張した状況のなかでおこわれたことは事実だが、遷都そのものはヤマト王権の意志(宮都防衛のため)でおこなわれたのではなく、それは戦勝国である唐の意向であり要求であった」

 それでは戦勝国(唐・新羅)が遷都を強要する意図はなんだったのだろうか。戦勝国に何か大きなメリットがあったのだろうか。敗戦国をより弱体化するための単なるイジワルといったようなものだったのだろうか。私には理解できない。

 遷都の理由のほかにも、近江遷都についてはいろいろな疑問が提出されている。中にはその存在そのものを否定する論者もいる。

 「当時の政治状況下、大津宮へはやむを得ない遷都であり、天皇が飛鳥から一時的に行幸するだけ、との考え方だったのではないか」。(日本古代史学者・山尾幸久)

 『日本書紀』天武元年5月の条に「近江京より、倭京に至る…」という記事がある。これについて、律令国家と古代天皇制の発足以前に「京」が存在するはずがない。「これは、倭京を『やまとのみやこ』というように、近江京は『おうみのみやこ』であり、今日いうところの『京』の意味ではない」。「古文献の名称にしたがえば、近江大津宮とよぶのが適当のようである」。(考古学者・田辺昭三)  行政組織としての京職と、住人を管理する条坊制がないことなどから、『日本書紀』に記された「近江京」には根拠がなく、明治時代からの研究者の議論で「大津京の存在は否定され」ている。(考古学者・小笠原好彦)

 ヤマト王権一元主義にたつ限りただただ謎は深まるばかりだ。上に、「天武紀」の中の一文「近江京より、倭京に至る…」の「京」の意味を勝手に変えている論があるが、九州王朝(倭国)の存在を知っている者にとってはその文に何の疑問もない。文字通り「近江の京から筑紫の京に至る」で、何の問題もない。言うまでもなく、上の論者は「倭」=「飛鳥」と考えている。

 「近江遷都」は、倭・百済連合軍と唐・新羅連合軍との激突という国家の命運を賭けた一大決戦を前に、倭国(九州王朝)が緊急避難的に王朝の一部(王族・官僚・民などの)を近江に遷都したと考えれば、上のすべての疑問は解消する。ただし、根拠のない単なる推測では説得力がない。また遷都の年が「天智紀」の記録の通り667年だとすると、遷都が敗戦5年後ということになり、この仮説は年代的にちょっと不都合である。

 ところで、「古田史学の会」の古賀達也さんが「近江遷都九州王朝論」を論じている。古賀さんはその論拠として、15世紀成立の朝鮮史料『海東諸国紀』を用いている。この史料が研究資料として使えるものかどうかという史料批判については本文 「九州王朝の近江遷都 ─『海東諸国紀』の史料批判─ 」 をお読みいただくことにして、「近江遷都」の部分について、以下に紹介する。

 上記史料『海東諸国紀』に次のような記事がある。

「(斉明)七年辛酉、白鳳と改元し、都を近江州に遷す。」

 白鳳元年(九州年号)は西暦では661年にあたる。先に見たように『日本書紀』で「近江遷都は667年と記録されている。6年も差がある。古賀さんは言う。

 同書の成立過程を考慮すれば、単純なミスとは考えにくい。やはり、九州王朝が近江遷都し、それにともない白鳳と改元したのではあるまいか。この白鳳元年(661)は九州王朝滅亡の原因となった白村江戦(『日本書紀』では663年)の前々年のことである。国家の命運を賭けた唐との一大決戦を前に、緊急避難的に王朝の一部(大皇弟か)が近江に遷都したとすれば、その理由がよく理解できる。これが従来のように、大和にいた天智達による遷都とすれば、近江では余りにも近すぎて何のための遷都か理由がはっきりしなかった。ところが、唐の侵攻を恐れた九州王朝による遷都と見たとき、その行動はリーズナブルなのである。

 そして、この九州王朝による近江遷都という仮説を導入したとき、あの壬申の乱の性格が、天武と唐による九州王朝近江遷都一派の殲滅戦としての位置付けが可能となるのである。例えば『釈日本紀』に記された壬申の乱の時の天武と唐人による次の会話からも、両者の協力関係がうかがわれるのである。

「既而天皇問唐人等曰。汝国数戦国也。必知戦術。今如何矣。一人進奏言。厥唐国先遣覩者以令視地形険平及消息。方出師。或夜襲、或昼撃。但不知深術。時天皇謂親王(以下略)」

 天武が唐人に戦術を問うたところ、唐ではまず先遣隊を派遣し地形や敵の状況などを偵察した上で軍を出し、夜襲や昼に攻撃を行うということを助言したとある。こうした記事から、郭務棕帰国後も唐人の一部は天武軍に同行したことがうかがえるのである。

 考古学的にも、天智が造ったという近江京の崇福寺の伽藍配置は西に金堂、東に塔という太宰府観世音寺形式である。九州王朝中枢の寺院と同じ伽藍配置を持つ寺院が九州王朝の近江遷都に伴って建立されたと考えれば、これもよく理解できるのではあるまいか。更に、その崇福寺跡から出土した「無紋銀銭」も九州王朝貨幣と見れば、その突出した出土事実を説明しやすいのである。



 大胆で魅力的な仮説である。後に、古田さんによる「壬申の乱」の驚くべき真相解明を取り上げる予定だが、それに対して上の古賀説はどのように呼応するだろうか。