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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
権力と反権力の現在(10)

「連帯」の理論家による構想


 ワレサが描いた構想のほかに、理論家が描いた構想として、ヤツェク・クーロン「どのように進めるべきか」とヘンリク・シュライフェル「いかなる統一、いかなる共同管理か」、ボイチェフ・ビピフ/ヘンリク・シュライフエル「自主管理社会の展望」が取り上げられている。吉本さんは「これで〈連帯〉の指導者と理論家たちが描いたポーランドの国家と社会の構想は、たぶんすべて尽すことができる。」と言っている。

クーロンの構想の要約

 議会制民主主義と民族独立がポーランドのいちばん基本的な最終の願いである。

 「連帯」の自主的な労働組合の連合体は、労働者の利益を防衛するという本来の範囲を逸脱すべきではない。

 労働組合運動の外部に、経済をはじめとする各種の自主管理組織を創設すべきだ。
 ィ
  「労働者小議会」をつくり、共同管理者の資格で、労働者議員は政府側議員と交渉し、決定の責任は政府側が負う機構とする。
 ロ
  現在ある「工場評議会を労働者の真の代表機関とする」。評議会は労働組合から独立に、全従業員から選ばれて、社会基金、融資、相互扶助基金の管理と運用にあたる。
 ハ
  「経済改革のための運動体」を創設する。 ニ
  「社会生活のあらゆる領域での自主的な活動を組織する」。科学、文化、経済、教育、司法権、裁判権など。

 クーロンはたぶん〈連帯〉のいちばん優れた理論家であった。彼によっていちばん具体的な構想が提起された。だが素直にわたしの印象をいえば、生産社会機構の側面から、国家と社会の全体像が、あまりに短絡的に描かれている。そのために、国家と社会の平板な接合像が、すみずみまで組織化されたシステムとして浮び上ってくる。実際のポーランド国家と社会の全体像が、こんな平板ですみずみまで組織化された画像で、つかまえられるはずがないとおもえる。いっさいの政治的な変動にも不活性(イナート)な貯水池みたいな外部社会を包括していない全体像は、わたしには無効なようにおもわれてならない。その意味ではすべて左翼反対派的な理念を出るものではなかった。だがクーロンは社会主義の具体的な構想としては、史上はじめての場所に到達したといってよかった。



 次は「唯一の政治革命構想」ということで、ヘンリク・シュライフエルとボイチェフ・ビピフの著書が選ばれている。吉本さんは「ビピフとシュライフェルの構想だけが労働者が担当する政治革命の課題に接触していた。またそれだけに〈連帯〉の運動の意識と力量からは現実離れしているともいえた」と言っているが、それは次ような構想であった。


 労働者は国家権力の所有者として、これを指導する権利をもっている。

 まず経済的な権力が企業レベルでも、地域レベルでも全国レベルでも、労働者階級の手にじかに掌握されるように、現在の〈連帯〉の運動をひろげる基本綱領をもつべきである。

 国会内に〈連帯〉の労働組合代表を参加させるような、新しい選挙法にもとづいて、国会と全国評議会の選挙をおこなう。

 「労働者院」を創設する。

 統一労働者党(ポーランド共産党)は〈連帯〉の運動に参加する過程で自己変革を遂げるべきで、行政的な手段を直接行使することは許されない。

 この最後にあげた見解と構想ではじめて、〈連帯〉の運動がひらかれる過程で、労働者を主役として現在の統一労働者党をも一構成要素として巻きこみながら、新たに国家が形成されるべきだという政治的な革命の構図が語られている。

 この最後にあげた構想は、〈連帯〉の運動が高揚してゆくなかで生みだされた唯一の政治革命の具体的な構想であった。ここには初期レーニンがつかんでいた正統的な政治革命の像が復元されているようにみえる。だが同時に、ここには情況的な配慮はまったくといっていいほど存在しなかった。なによりも国家が〈開かれる〉ためのどんな構想もかんがえられた形跡はなかった。いわば左派〈マルクス〉主義の理念領域をでるものではなく、やがてはソ連とおなじ国家社会主義ないし、国家官僚専制の資本主義に収斂するほか、ゆきつくところほないかもしれなかった。

 かってレーニンは国家の高級官吏の俸給を、一般の労働者なみにひきさげて、国家を集権的な官僚の肥大した巣窟にするのを防ぐべきだという素朴な原始的民主主義の要求を擁護して、それを嘲笑するのはおかしい、ある程度の原始的な民主主義への〈復帰〉なしには、資本主義から社会主義への移行は不可能だ、「なぜなら、もしそうでなかったならば、いったい、住民の大多数、いな全住民による国家機能の遂行へどのようにして移ってゆくのか?」(『国家と革命』宇高基輔訳)と、おおきな夢をこめて語った。〈連帯〉運動の理論家たちは、政治的な国家の行方に思いをはせたとき、きっと心のなかでこのレーニンの言葉を思い浮べていただろう。

 たしかにわたしたちは〈連帯〉の指導者や理論家たちのいだいた運動の構想を、さまざまに論評し批評することができる。現にわたし自身がそうしている。だがこれらの構想がもっている意義を無視しようとしているのではない。これらの構想は企業レベルの労働組合の地域的、全国的な連合体の運動から発祥して、社会主義の原則にのっとって生産社会機構としての国家の在り方を模索してゆくとき、どういう具体的な構想が可能かという課題にたいして、世界ではじめてもっとも遠くまで具体的な構図を描いてみせた。その意味では、画期的な意義をもつものであった。現在までのどんな社会主義の構想も〈連帯〉の労働者、知識人が到達したほどに具体的で、生きいきとした図表を描くことができなかったのである。



 ここで私は日本国家の現在を振り返えざるを得ない。日本の現在は「国家官僚専制の資本主義」とは言えないが、財界とその代理人である政治屋と、それらを実質的に下支えしている(あるいはバカにしている)国家官僚の三者による「専制」と言ってよいだろう。さらに各種政策選択にはアメリカの圧力が大きな決定要因となっている。「アメリカ従属専制資本主義」とでも呼べばよいだろうか。

 植草一秀さんは、「政」(政治屋)・「官」(官僚)・「業」(財界)・「外」(アメリカ)のほかに、政治権力によって完全支配されるようになった「電」(電波=マスメディア)を加えて、「政官業外電の悪徳ペンタゴン」と呼んでいる。そして現在の政治状況を、これら5者の利権を追求するための政治でしかないと断じている。「悪徳ペンタゴン」の強固なもたれ合いが続く限り、また現在の選挙システムが続く限り、選挙によってのみでは真の民意が政治に反映されることはありえない。

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