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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
権力と反権力の現在(3)

国家権力の現在


 フーコーが提起した権力論では「局所の権力以外に権力の問題はないし、局所の権力が支えになって形成される亀裂や断層」にしか意味をもとめていない。あるいは言い替えれば「現在の高度な資本主義諸社会では、国家とその下にある市民社会の対立に由来する権力の問題が、いちばん重要なものではなくなった」と言っている。

 これに対して、マルクス主義流の権力論(「国家=暴力装置論」)では「国家権力から分化して、局所の権力が上から下へ毛細管のように作用しているから、どんな社会体の局所に働く権力も収斂されれば国家権力に帰する」ということになる。(この言説を吉本さんは「マルクス主義のやりきれない宗教的な嘘」と断じている。)フ―コーはこのマルクス主義的言説をくつがえし、徹底的に解体している。

 吉本さんは、フーコーは「最初に権力について正碓なことをいい切つた」と評価している。しかし、「それにもかかわらず」と吉本さんは言う。「現在社会体の内部で散乱したベクトル方向をもつ徴局所の権力の多様性を、大局的に方向づけている上から下への傾斜は、国家の幻想(体)と現実の社会(体)とのあいだの対立から産み出されるものだ。」と。ここで吉本さんはフーコーから離れるが、ではこの吉本さんの言説はマルクス主義流の言説とどう違うのか。

 わたしはマルクス主義の国家観には未練はないが、マルクスの国家観には未練がある。

(中略)

 わたしの未練は、大局的に上から下への傾斜に方向づけられる権力線という考え方にのこされる。国家と市民社会のあいだの対立が問題なのではなく(それは先進地域では第一義的な意味を失った)、国家そのものの存在と、その持続それ自体が、現在もまだ依然として世界権力の問題だということだ。

 一方市民社会との対立においては第一義の意味を失いつつある欧米型の高度資本諸国の「国家」が、それでも依然として多国籍資本体に取囲まれながら存続をつづけている。他方では国家が存在するかぎり、マルクスやエンゲルスの学説は、まったく成立しようがない、いいかえれば社会主義とか共産主義などは、はじめから不可能だとわかっているのに、ソ連をはじめとする社会主義「国家」群が存在している。そして資本主義「国家群」と張合いながら核兵器蓄積の共存共犯関係を続けているばかりではなく、社会主義「国家」間の国境紛争を演じたり、他国への侵攻と侵略を演じたり、国境を侵犯したと称して民間旅客機を攻撃して墜ち落したりしている。国境をめぐる紛争や、国境を侵犯したなどとわめいている社会主義など形容矛盾としてしか存在しない。そしてこれらのことが頭のてっぺんから悲惨で滑稽なことだという認識など、毛のさきほどもないナショナルな社会主義者たちが、臆面もなく社会主義諸国を主導しているのだ。

  「社会主義」と「国家」とは相互否定の関係にしかないし、絶対的な矛盾である。つまり「国家」であるかぎり「社会主義」でないことは、原理的にも実際的にも、誰にでもわかる自明のことだ。でもこんなことを挙げつらったり、あらためて検討したりすればするほど馬鹿らしく胸が悪くなる。得体の知れぬ奇怪な、いったい何を考えているか、何を仕出かすのかさっぱりわからない国家群が、現在の社会主義国家群なのだ。

 国家はこのようにして現在の資本主義社会体の上部でも、社会主義社会体の上部でも、存続をつづけ、大局的な権力の上から下への傾斜を産み出す根源をなしている。これはいったいどういうことになっているのだ。第一義的な意味を失っているのに存続するもの、それが存在してはそれ自身の存在の根拠がないにもかかわらず、なお存在しているもの、それが現在の世界史上の「国家」の姿なのだ。

 現在こんなにまで存続の第一義的な意味を失い、自己矛盾の根拠であるものが、解体してゆくのは時間の問題だろうか? それとも誰か天使がやってきてこの二分割された「国家」群を解散させてくれるのだろうか? そしてこのばあい時間や天使とは何を指したらいいのか?

 わたしたち自身もまた、気分としてはナショナリティに就きながら、理念として二色に分割された「国家」群の何れかひとつの体制の存続も、両方の共同体制をも否定している。そしてこんなわたしたちの視野の外延で、第三世界や第四世界の末開発の地域では、部族連合である「国家」をはじめて造ろうとして、造山運動のようなものが頻発し、殺戮やテロが続発している。

  「国家」は縮小され、そして消滅した方がいい。それでもこの理念は、今なお第三世界や第四世界で「国家」が造成されようとしている地域にたいして、頭から否定できるような場所と根拠をもっていないこともはっきりしている。欧州共同体のように「国家」の消滅を頭の片隅におかざるをえない経済的な、軍事的な、局面をもっている地域もあれば、第三世界や第四世界のように部族連合を民族「国家」にまで統合すべき課題をもった地域もある。この円環するずれみたいなものが、現在の「国家」間と「国家」内における権力を伴った力動性の根源になっているのだ。



 『「国家」間と「国家」内における権力』とは、滝村国家論の概念で言えば、『 「共同体―即―国家」「共同体―内―国家」 の権力』ということにほかならない。

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