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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
権力と反権力の現在(1)

散乱する権力線ベクトル


 「昭和の抵抗権行使運動(112)」で、先進国(高度資本主義国家)では階級対立の問題は部分的(二義的)なものとなった、という時代認識のことを書いた。そのとき、この現状認識にはたぶん多くの異論があるだろうと予想し、このことはもう少し詳しく取り上げるべきだと思った。

 昨年末からアメリカの金融危機に発した世界的な経済破綻のあおりを受けて、大企業が派遣社員を切り捨て始めた。そしていまは正社員まで首切りや賃金カットの攻撃にさらされている。情況はまるで初期資本主義時代に逆戻りしそうな気配である。しかしだからといって、階級対立が第一義の課題となるような逆戻りはあり得ないだろう。依然として、生存と自由のための抵抗と不断の異議申し立てを通して、社会内部での権力関係を解体・再構成し直すことが第一義的な重要課題であろう。

 さて、「ORGAN① 現代思想批判」に吉本隆明さんの『権力について―ある孤独な反綱領』という論考がある。この論考を教科書にしよう。

 「ORGAN①」は1986年11月に出版されているから、吉本さんのこの論考もその年に書かれたと考えてよいだろう。この論考には「ソ連」や「社会主義国群」に対する論評も含まれている。ちなみにソ連が崩壊したのは1991年である。「孤独な反綱領」という副題は、この論考が当時では全くの少数意見だったことを示しているのだと思う。

『19世紀の固定観念であった悲惨と貧困の問題は、もはや今日の西洋社会にとって最も重要なものではない。反対に次の間題、私のかわりに誰が意志決定をするのか? 私にこうしてはいけない、とか、こういうことをせよと誰が禁じたり命令したりするのか? 誰が私の態度や時間の使い方をあらかじめ定めるのか? 私はある所で仕事をしているのに、誰が私に別の場所へ住むように強制するのか? 私の生活と完全につながっているこれらの意志決定は、どのようにして行われるのか? それらすべての疑問が私には今日根本的であると思われる。』(M・フーコー「権力について」田村俶訳)

 このフーコーの文章を吉本さんは次のように敷衍している。

 このなかにはいくつか暗示がある。ひとつは権力は社会体や人間関係の微局所をとってくると、ベクトルが上を向いていたり(下から上へ)、下を向いていたり(上から下へ)、平行していたり(平等)、散乱したジグザグな方向線を描いていることだ。そしてもうひとつは、局所から大局に眼を移せば、権力はおおざっぱに上から下への傾斜(志向線)を描いていると見撤される。

 ところでこの上から下への大局的な傾斜ベクトルは、いったいどう描いたら像(イメージ)と抽象度として正当なのだろうか。これが誤解と正解をわかつ最初の別れ路だとおもえる。

 フーコーのいう「19世紀の固定観念」では、権力の大局的な傾斜ベクトルの原型は、国家とその下にある社会体としての市民社会とをつなぐベクトルである。このベクトルは幻想の共同体である国家から、現実の社会体である市民社会に、上から下へ描かれる傾斜をもっている。

 それはよくわかった。だが上方にある「幻想(体)」から下方にある「現実の社会体」にたいしてどんな線を作図すればいいのか。そんな幻想から現実への線はいったい描けるのか。これはそんなに簡単ではない。比喩的には上から下へ向って直線を、国家とおなじ外延をもった領域にわたって引けばいい。でもこれでは幻想(体)から現実(体)へ引かれた線だという目印しはどこにもない。せいぜい比喩の精密度を高めて、n個の屈折をもったフラクタル線分を上方から下方へむかつで引くことで、権力のベクトル線の原型にするほかないようにみえる。

 フーコーのいってることは「悲惨と貧困の問題」がおおよそ解かれてしまった現在の西洋社会(一般的には先進社会)では、この国家と社会体のあいだに上から下へ向うベクトルと、これに原型をおく市民社会と、その下層にはみだした労働階級のあいだを、上から下に向うベクトルは、いずれも輪郭を失い、第一義的な意味をなくした。せいぜい第二義以下の問題になってしまったということだ。その結果それまでは上から下へ向いて国家と市民社会のあいだに、また市民社会とそこから疎外された社会(労働者社会)のあいだに、引かれていた第一義的な階級線は、散乱して社会体の内部に、その日常生活や、経済的生産や、消費の場面に、勝手な方向性をもって分布するまで解体してしまった。ここでいわれているのはそんなことだ。

 現在ではベクトルは大局的には上から下へ向いているが、社会体のなかの徴局所では、まったく方向が散乱している。そんな権力の線が想定される。この有様をはっきり抑えるほかに、現在の権力線をつかまえることはできない。そしてこれをつかまえることは、現在の根本的な課題だとフーコーは述べていることになる。

M・フーコ―のこの権力の把握は、とても正確だと、わたしにはおもえる。そして正確なためには、何よりも迷信や信仰から自由な理念の把握が必要だが、これ自体が現在でもどんなに難しいか測りしれない。理念的な知の課題は現在でも迷信や信仰とのたたかいに大半のエネルギ―をひきさかれる。しかもこのエネルギーはまったく無駄使いだから、消耗しても疲れた貌など見せていられないのだ。そこで自問自答になるほかない問いを発してみる。

 国家権力の問題(いいかえれば階級社会の問題)は、先進資本主義社会では、もはや最重要ではなくなったのか?



 ここで吉本さんが「迷信や信仰」と言っているのは、「資本主義は悪だが社会主義は善だ」というような「教義」を指している。

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