2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(112)

抵抗権行使運動の未来(2)


 宙づり状態の政治的表出意識を生かす活路をどこに求めたらよいのだろうか。

 マルクス主義では資本主義を基盤とするブルジョア民主主義国家では絶対的な階級対立が必然的であり、それが最大の思想的課題であるとされた。しかし、三上さんは次のように現状認識をしている。

 現在の先進国ではこの思想的課題は部分的なものになった。社会的階級対立は部分的なものとなり、社会内部での権力関係こそが重要課題になった。自由や抵抗と権力との関係が社会関係の中で重要になる。国家権力に異議申し立てをし、それを構成し直すことが課題となる。つまり「国家を開く」という課題である。

 国家権力の在り方に対する異議申し立て、それを変革しようとする共同意志(表出意識)は、構成された理念や概念(制度的言葉)と矛盾し、対立する。 この矛盾はさまざまの現れ方をする。国家権力や国家は国民的意志と関係のないところにそびえ立つが、これを国民の意志によって構成しようとしたのが近代の政治革命である。そしてその結果としてできた国民国家は、現実との矛盾の中で構成し直そうとする力が発生し、それとの対立を必然化する。

 それは異議申し立ての運動が発生することだが、歴史的に見れば左翼とは構成し直そうとする力の表現であり、保守や右翼とはこの構成を保守しようとする力である。構成し直そうとする力は抵抗や自由であり、構成されたものを保守する力は権力と呼んでもよい。共同意志として構成されたものの保守として働く力と構成し直そうと働く力の関係は、自由や抵抗と権力の関係なのである。

 かつて僕らが共同幻想の構成転換と呼んだものは、構成する力で構成されたもの(権力や国家)を変えて行くことをさしていた。国民の意志で国家を構成することが近代の革命(国民国家の成立)であるとしても、その国家は過渡的なものである。そして、この構成の転換をめざす運動が絶えず出てくる。国家や国家権力を開くということはこのことである。



 1970年代の半ばで独立左翼的なものは政治表現の場所から消えてしまったが、新左翼的な政治集団は現在も存在する。しかし、それらはかつてのような《政治的意味》も《社会的意味》ももっていない。それは独立左翼的な政治表出の基盤をもっていないからである。しかし、独立左翼的な政治表出の基盤そのものが無くなったわけではない。独立左翼的なものは新左翼的な制度的言葉とは分離し、いまだ独立左翼的な制度的言葉が不在なのだ。独立左翼的な制度的言葉が創造される根底には、なによりもまず日本の国家の錯綜した構成(日本国家の制度的言葉)の正確な把握が必要である。

 日本の国家の錯綜した構成はかつて、多頭国家と呼ばれていた。これは単純な国家イメージでは把握できないし、移入された国家理論はそれを思想的に析出するのに成功したことがなかった。僕らが国家や権力を開いて行こうとするときの困難な要因になる。国家や権力の構成を変えようとする運動にとっては、それは障害物になるのだ。

 多頭国家とは国家の構成が重層的であるということを意味する。領域的に独立した構造をもちつつ、重層的に構成されているというのが国家イメージなのである。このことを最も示しやすいのは「天皇制」と「議会民主制」の関係である。ここではいろいろのことが試みられた。この多頭的、重層的な国家や国家権力を思想的に析出する試みは多く存在したけれど、ほとんど失敗した。



 三上さんは「この問題について理論的に語るというより、経験的に語ってみたい」と言い、沖縄闘争で直面した問題を取り上げて、この問題にアプローチしている。


 1960年代の後半から1970年代のはじめに沖縄闘争(沖縄問題)が存在した。そのとき僕は叛旗派という政治集団に在ったが、吉本隆明に講演を依頼した。吉本は南島論としてそれを展開した。南島論の思想的なモチーフは沖縄のもつ文化を掘り下げることで、天皇に収斂させられていた日本的共同意識(ナショナリズム)を相対化しようとするものだった。天皇制に収斂する共同意識をその起源までさかのぼることで相対化しようというものであった。これは日本列島の文化を天皇の文化として収斂させることの批判を含んでいた。日本文化は日本列島に住む住民の文化であり、それから見れば天皇の代表する文化は時間的にも空間的にもその一部であり、日本文化の概念を天皇に帰一させることの否定であった。

 三島由紀夫が「文化防衛論」の中で展開した日本文化=天皇の文化という概念はこの対極にある考えである。

 僕らはこの当時、復帰をめぐる沖縄問題を政治課題としていた。この吉本隆明の南島論的な沖縄論は魅力があったが、復帰問題や基地問題などの政治問題としての沖縄問題とどう関係させて扱えばいいのかわからなかった。沖縄問題とか沖縄闘争とかの言葉でごまかして対応した。それが実際だった。

 吉本隆明が展開していた南島論は長い時間的射程の中で展開されたものであるが、「共同幻想論」の延長にあるものだった。それならば当時、アメリカの軍政からの解放問題として展開されていた沖縄問題とは何であったか。それは軍事問題も含めた日本の政治国家の現在的な課題であった。

 当時の経験を振り返って思うのは、南島論は幻想国家の領域の問題であり、軍政と日本復帰をめぐる問題は政治国家の領域の問題であると考えればよかったのだと思う。このそれぞれを領域として取り出し、そこでの課題を考えられれば、沖縄問題としてごまかしていた問題が明瞭になる糸口は発見できたのだろうと考える。ここに経済国家の領域を加えればより一層、はっきりするかもしれない。これは現在の問題でもある。

 幻想国家領域の問題としての沖縄問題と、政治国家領域の沖縄問題は独自の領域としてある。経済国家領域の問題として沖縄問題はまた独自にある。この重層的な領域を理解することは、それに対応する僕らの戦略も重層的にあることの必要を意味する。

 南島論の内包する思想的なモチーフは天皇制という共同幻想への対応である。これは日本のナショナリズムの問題としてアジア的地域の問題に広げられる。また政治国家的な領域の問題は、中国・韓国・北朝鮮を中心とするアジア諸国との政治的関係に広げられる。経済国家の問題も同じである。ここで僕が沖縄問題として語ったことはアジア全体に広げられるのである。重層的な領域として対象を理解しなければ、政治戦略が立たないということは、それを沖縄問題からアジア諸国との関係に広げても言えることなのだ。僕がかつての沖縄問題の経験として語ろうとしていることはアジア地域の関係として現在的に語り得るのである。

 日本での共同幻想としては天皇制の存在と影響は大きい。日本列島の住民の文化(生活的な共同意識)が制度として構成されたものが天皇ないし天皇制である。それが民族意識の根幹とされたのは近世から近代にかけてのナショナリズムの運動である。

 この制度的な言葉としての天皇、あるいは天皇制をどのように構成し直すか(無化するか)というとき、制度的には憲法からの天皇の排除ということになるが、日本文化=天皇という概念の解体が課題となる。そのときの重要な媒介が南島としての沖縄である。沖縄の文化的な存在としての独自性である。アイヌ文化も東北文化も同じような役割がある。



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昭和の抵抗権行使運動(111)

抵抗権行使運動の未来(1)


(「『独立左翼論』を読む」の続きですが、表題を別立てにしました。)

 赤軍派の武装闘争の破綻や叛旗派における内部矛盾の逢着の根源は、独立左翼的な思想の徹底化ができず新左翼的な思想に侵食されたという点に求められよう。

 ここで「新左翼的」という概念は、60年安保闘争のときに敢然として現れた旧左翼思想(マルクス主義)や前衛党を否定する左翼反対派的な動きを指しているが、三上さんは「マルクス主義の枠を守りながらそのルネサンスをめざすものも」ここに含めている。

 独立左翼的な要素と新左翼的要素はブントそのものが内包していた矛盾であったし、後にもそれは大きな矛盾として発現した。僕は新左翼的なものから分離した形で独立左翼的なものを思想的に析出しようとしてきた。安保闘争やブントの存在に戻りつつその作業を行なってきたが、そこにはさまざまの困難が存在した。その中心問題は国家、あるいは国家権力についての考えであった。

 その作業は時代の行動的ラディカリズムを暴力革命の概念と分離して思想的に析出できるかどうかというところに行き着いた。国家も国家権力も過渡的な存在だが、それとどう関係すればいいのかというとき、この間題は現在の問題に連なる。テロリズムである。現在のテロリズムを否定する道は、暴力革命の概念の、その根底をなす権力概念の否定としてのみ可能である。



 「暴力革命の概念」と「その根底をなす権力概念」は、言うまでもなく、レーニンの国家論や権力論に依拠して構成されてきた。それはプロレタリア独裁論であり、暴力革命論であった。このプロレタリア独裁論・暴力革命論が日本の左翼運動に与えてきた影響について、三上さんは次のようにまとめている。

 これは歴史的に見れば議会民主制を超える、国家形態であり、権力形態であると喧伝された。ブルジョア社会を超える制度的な言葉であるとされた。反議会主義として現れる共同意識を吸引する力がかってはあった。そして1960年の安保闘争やその後の運動を担った部分が、この制度的言葉に影響されてきたことは不幸なことであった。日本共産党の50年代の武装闘争路線、日本の新左翼の赤軍派や蜂起戦争派の武装路線の引き起こした悲喜劇はこの象徴である。



 しかし、60年安保闘争でブントが目指したものは「プロレタリア独裁」や「暴力革命」ではなかった。

 それは議会制民主主義が非民主的にしか機能していないことへの抗議であった。それをより直接民主主義的なものに変えよという意思表示であった。正確に言えば、ここは微妙なところであったと言うべきで、ここが思想上の難所であった。急進的な行動は「プロレタリア独裁や暴力革命」という言葉では表現できないものという意識と同時に、「議会民主制」からもはみ出しているという意識もあったからだ。

 直接民主主義の内側にある意識は、どのような制度的な言葉も否定していて、宙づりに状態にあった。急進的行動は、日本の国家権力が民主制的な外観にもかかわらず、内実は民主制とは程遠い存在という直観に根ざしていた。



 議会民主制(ブルジョア民主主義)への不信は、たびたび表明してきたように、私も共有している。その理論的根拠を『統治形態論・「民主主義」とは何か』などで滝村国家論により学んできた。戦後日本の議会制民主制についての次のような三上さんの認識も、ブルジョア民主主義の当然の帰結として、私の共有するところである。

 戦後憲法では国家主権は国民に存在する。それは名目であって、その実際の構造は非民主的である。政党は国民の代表というより、支配制度の代表である。国民の意志とは別の形で支配共同体が存続していて、それは国民の共同の意志とは乖離した存在である。だから国家権力の在り方への異議申し立てと、それを構成し直そうとする意思は、絶えず反議会制民主制として出てくる基盤がある。



 反議会制民主制の運動がプロレタリア独裁や暴力革命ではあり得ないのなら、それにはそのどうな道が可能なのか。その道を見定めるために、三上さんは、まず日本の国家権力の特異性を取り上げながら、過去の運動の問題点を分析している。

 自由民権運動や大正デモクラシーのような運動は民主主義をめざすものだった。これは知識人や都市住民の一部の共同意識に基盤を持っていたにすぎない。日本の国民の大半の共同意識は天皇制の方にあった。そして、国民の天皇の統治力への幻想を基盤とする官僚権力が存在した。その力は強力だった。だから議会や議会民主制は日本の国家権力の主体的な構成体ではなく、議会には官僚という統治権力を統制する力はなかった。天皇の軍隊と議会の関係を見ればこれは明らかである。天皇の軍隊の中から出て来た叛乱が、天皇の周辺の官僚を排除して天皇親政をめざしたのは必然であった。日本の議会政治は党利党略に明け暮れ、その金権体質は国民的には不信の対象であり、天皇に匹敵する魅力ある政治家は存在しなかったし、それを育てることもできなかった。

 国民の国家権力への不信は《議会民主制》を作り直そうというより、天皇親政という幻想に基盤を与えもした。国民の意志が反映される国家権力の創出という革命幻想は右翼的には天皇親政になった。左翼的知識人には「プロレタリア独裁」の幻想が受け入れられる基盤はあった。近代的な国家権力の形態である「議会民主制」を超越しようとする幻想は左右から出てきたが、その基盤をなしていたのは「議会民主制」への伝統的な不信である。

 日本の左翼知識人の議会民主制への不信は根深い。国家権力への異議申し立ても、その構成のし直しという欲求も、反議会民主制という形をもつことは十二分に了解される。この知識人の反議会制意識と他方で「プロレタリア独裁」や「暴力革命」への信奉は重なっている時代もあったのだ。

 そうかと言って、僕らの国家権力への異議申し立てとそのための行動は「プロレタリア独裁」や「暴力革命」とは結び付いてはいなかった。それは別のものだという意識は強くあった。ここには学生たちの急進的行動を国家権力と関係づけることの難しさがあった。直接民主主義といわれた学生たちの行動の歴史的意味を普遍化して理解することの難しさは、ここに理由があった。

 直接民主主義は「プロレタリア独裁」にも「暴力革命」にも結びつかない別のものだとする意識は濃厚であったが、議会民主制の外に権力形態を模索しようという意識もあった。この直接民主主義を表現する制度的言葉はどこにも見当たらなかった。

 政治的な表出意識として理解し、思想的に認識するより方法がなかったのであるが、僕の考えでは「プロレタリア独裁」や「暴力革命」という幻想との結び付きを断ち切っておくことはとても重要なことだつたと思える。それは異議申し立てをし、構成をし直すという運動を制度的言葉の発見や模索と結びつけるために大事だったように思う。

 行動的ラジカリズムの基盤であった行動者の表出意識を直接民主主義意識、あるいは現存感覚としての反権力意識と呼んできた。これは資本主義の高度化の過程と市民社会の成熟が生み出したものであった。これは戦後世代の政治意識であり、共同意識でもあった。

 これは1960年の安保闘争を形成した学生たちの意識として表出されたことを起源にしながら連続し、広がった。その深さには差異があったにしても、連続性をもっていた。安保世代と全共闘世代の差異を語りたがる人もいるが、政治的表出の意識では同一的な枠組みにあると理解した方がいい。そしてこれは今、急進的な表現と結び付いていないとしても、成熟はしている。

 どこかで三島由紀夫は直接民主主義は空疎であると述べていた。それは「プロレタリア独裁」とも「議会民主制」とも結びつかないからであり、制度的言葉にならないからである。この空疎ということは、先に述べた宙づり状態ということと同じである。それをどう扱えばよいのだろうか。



昭和の抵抗権行使運動(110)

『独立左翼論』を読む(22)


 第1次ブントや全共闘運動が指し示した大きな可能性は、個人の主体性を重んじ大衆運動に組織存立の基盤があったこと、言い替えれば運動体が「開かれた組織」であった点にある。三上さんは叛旗派を第1次ブントや全共闘運動を継承する組織と位置づけている。では、それはどのような組織だったのか。どうして三上さんは組織を離れることになったのか。その経緯の続きを読んでみよう。

 叛旗派の組織観は伝統的な党という組織観の否定という点で一致はしていたけれど、組織観は模索状態だったのである。

(中略)

 叛旗派は大衆運動や個人の主体性を重んじるという思想的な特徴があり、「党が主体の大衆運動」に対して「大衆や個人が主体の大衆運動」という政治運動(政治表現)の歴史的転換をブントの伝統として受け継ごうとしていた。この志向性は全共闘運動の意味を思想的に受け継ごうとしていたことであって、広い支持を得ていた。全共闘運動などの大衆的運動の思想的意味を受け継ぐ政治組織という意味で注目されていた。

 多くの党派と違って、同盟員の数に比して膨大な支持層がいるという特徴を持ってはいた。叛旗派は無意識にせよ、大衆運動や個人という力の基盤によって、組織が内閉化することを防いでもいた。組織メンバーの数という意味で言えば、叛旗派は小さな組織だったけれど、シンパ層は多かった。この組織的な特徴は叛旗派の可能性を暗示していた。千人の組織メンバーに千人のシンパ層という組織より、百人の組織メンバーに一万人のシンパ層という方がいいのだ。叛旗派はそういう特徴を持っていた。

(中略)

 叛旗派は特異な組織だつたから、新左翼運動の衰退という時期に、その矛盾が露呈し、それが僕と神津の組織観の対立として現れたといえる。



 その叛旗派の矛盾は最も顕著な形では「組織活動を変えたり、そこから退いたりするものに」対する対処の仕方の違いとなって現れてきた。それは「出入り自由な組織」と「共同的意志の維持」いう組織観の違いの顕在化であった。三上さんの連れ合いの司法試験の準備の問題も、その矛盾の渦に巻き込まれ、三上さん自身が当事者となっていったようだ。

 僕は叛旗派の最高責任者の位置にいたけれど、抱えている矛盾は専従活動家と同じ条件にあった。女房が司法試験の準備をはじめるのであれば、生活費の稼ぐ上で僕の比重は重くなる。それは程度の問題であつても、疑いなかった。僕は活動歴も長かつたからカンパ組織などはそれなりに存在した。しかし、生活が綱渡り的になっていく矛盾は意識していた。闘争が激しくなれば、僕が生活費を稼ぐことは不可能になることは女房もよく了解していた。衰退期であつても、逮捕や長期拘留は予想されたし、僕の行動者としての考えはそれを踏まえていたから、そのときはそのときで、方法を考えることにしていた。とりあえず、やってみようということであった。

(中略)

 生活費の問題は個人の問題であり、どのようなスタイルでもいいが、個人の問題として処理するしかなかった。政治組織は生活費の問題に関与しないのだから、生活領域の問題は個人の問題であるほかなかった。個々人の恣意(自由)の問題というのか僕の考えであった。組織が共同的な課題としてこれを扱うことは、積極的に見えても、解決なき矛盾を提起するだけだと僕は考えていた。神津にはこの間題に積極的に踏み込むことが、全共闘運動の日常的場面に移行した継続であるという考えがあった。彼からすれば、僕の対応は消極的に見えたのかもしれない。全共闘世代よりは安保世代の対応に見えたのかもしれないが、ここに神津の自負するような処理は不可能だったのだ。

 女房の司法試験を準備することを神津は批判した。それは司法試験がアルバイトの片手間でできるものではないということと、本気でそれを認めるなら政治活動は辞めた方がよいというものだった。

 僕が女房に代わって稼がなければいけないから、政治活動をその分、制限するというなら批判があって当然だろう。しかし、そんなことは言うはずもなかったし、実際そのようなこともなかった。僕なりのやり方をしていた。生活はしんどかったけれど、僕の活動に変化はなかったのである。

 僕は神津がこの間題を通して、僕の日常的な思想態度批判を展開したとき、僕の方から、彼の思想批判をやるほかなかったし、そしてそれは決別への道になった。生活的な現実と思想活動という関係から発生する矛盾への対応が、決定的に異なることが明らかになったのだから。

(中略)

 女房の司法試験の準備を許容するのは特権的であるというのが神津の批判だったが、僕には信じられない批判だった。ちょっと試験でも受けて見るかということであり、そのことが生活問題を派生させるとしたら僕の家族の問題であり、そんなことは個人に属する問題なのだ。僕なら、生活が大変だろうと気を使うことはしたであろうが、批判はまさかということだった。

 稼ぎ方は夫婦で合意すればいいことであり、生活問題は夫婦の問題であった。どのような稼ぎ方も組織は関与しないのが、組織が生活を保証しないことから出てくる帰結だった。党(政治組織)が生活を保証しないことはそういうことを意味してもいたはずなのだ。

 神津陽は生活態度は相互批判で解決すべきであり、それが相互の関係の革命に連なるということだったが、僕の考えとは違った。生活をめぐる問題は誰しもが抱えていた問題であり、さまざまの戦いをそこでは演じていた。その解決は個人に委ねるしかないとしても、その重さを自覚していれば、そこに規範(戒律)を入れなくても、自ずと信頼関係として相互に浸透する。組織規範(戒律)でなく、他者の信頼ということが僕の態度だった。その程度には自分を信頼してもいた。

 そういう考えなら、政治組織を辞めてもいいぜということになったのだと思う。そんなにまで信頼がないなら一緒にやることはないよということだった。批判に驚いたというより、そこに現れた神津の考えに不信を抱いたということだった。

 何もわかつちゃいないな、という感想だったが、生活と活動の矛盾について、そこでの個々の戦いをわかってはいないということだった。逮捕されたり、長期拘留されたりすれば、誰でも個人は精神的にも生活的にもきつい苦闘を強いられた。政治組織は精神的、物質的にその闘争を担った個人を支えることはできなかった。それらを背負うしかない個人の重さを理解できたら、というのがその当時の政治組織ができる最良の方法だったのだ。あるいは政治組織の指導部がということだった。

 長期拘留に遭遇した活動家が連れ合いとどんな問題に直面したか、みんな経験していたことだった。それが少しでもわかっていれば、こんな批判なんて出てくるはずはなかったのである。

 結局、神津陽は当時の指導部が経験するほかなかったこういう問題から免れていたために、こういう発想になったのだ。組織が神津をイデオローグとして温存するということもあったが、彼は自分で行動者として役割を引き受ける申し出をしなかった。指導部がつまらぬ官僚になり、指導者の名前で一番きつい場面を免れ、ということを避ける方法は行動者や運動者として、そういう行動を自ら引き受けて行くこととして可能でなかった。組織の官僚的性格を否定するのは個人の行動のなかにしかなかった。つまり、機会は自分でつくるしかなかったし、組織の中心へ行けばいくほどそうすべきだったのだ。それがこの時代の流儀だった。彼はそれを避けていた。避けているのは致し方なかったとしても、そのことで個人が引き受けている問題への洞察を欠如させていることに僕は愕然としたのだ。

 「優しくなければ男ではない」というのはチャンドラーのセリフだが、「優しくなければ革命家ではない」のだ。それは闘争の中で、個人が引き受ける現実の理解と洞察から生まれる。なぜ、吉本隆明は「政治理論や方針をあたえる指導者よりも、一人の肉体として戦う無名の大衆の方が重要なのであり、重いのである」と言ったのか。このことは個人が引き受けて行くほかないことへの洞察がなければわからない。

 僕は組織から離れることになったが、僕はこの過程を振り返るとき、多くの貴重な実験をしたのだと思う。僕は個人的に最高指導者の位置を放り投げることで傷も受けたし、さまざまのことを背負った。組織の持つ倫理性についても、考えさせられた。前衛思想だけでなく、日本的な共同体思想が、組織を閉じる契機を持っていること、左翼組織の官僚主義もそこに根を持っていること知った。



今日の話題

日教組執行部の堕落ぶり


 昨日、典型的なダメ組合として日教組を挙げました。その日教組執行部の惨憺たるていたらくを示す報告が、今朝、「都教委包囲首都圏ネットワーク」の渡部さんから送られてきました。転載します。

 2月21~23日まで、広島で日教組第58次全国教研が開かれました。

 東京教組の根津さんや菊岡さんのレポートを拒否するばかりか傍聴をも拒否した日教組執行部は、恥知らずにも、全体会で塩谷文科大臣のメッセージを読み上げました。そこには次のような文言がありました。(私は、時間の都合上全体会には入れませんでした)

「60年ぶりに改正された教育基本法に基づき、初めての教育振興基本計画を策定しました。・・・今後、この計画を着実に実行することが、私の最大の使命と考えております。・・・4月から一部先行実施される小・中学校の新学習指導要領を円滑に実施していくことが重要であり、・・・併せて、主幹教諭のマネジメント機能の強化・・・先生方の資質向上に向けて、本年4月からの教員免許更新制の実施に万全を期してまいります。・・・校長の下、全ての教職員が一致協力して適正な学校運営が行われ、公教育への信頼が回復されるよう、日本教職員組合におかれては、一層のご努力とご協力をお願いして、私のメッセージとします。」

 これに対し、会場から批判の野次を飛ばした組合員は、日教組のスタッフによって会場から排除されたということです。

 「平和教育分科会」では、始まって早々、都高教の女性のレポーターが根津さんの問題について発言し、「根津さんは組合からもいじめられている。組合の存在価値が問われている。」と述べました。彼女はその後もこの問題について何度か日教組の対応を批判しました。

 また、初参加という沖縄高教組の女性組合員は
「ここに来て始めて知った。非常におかしい。全体会では文科大臣のメッセージなどを読みげる一方、組合員を排除する。戦争はウソから始まるというが日教組のやっていることはまさにそうだ。」
として、日教組の執行委員に理由を問いただしました。

 しかし、日教組の執行委員は、「教文部長をとおして説明している。それぞれの都道府県教組で聞いてくれ」と言うばかり。

 沖縄の女性組合員は、翌日(22日)は、他のレポーターにも働きかけ、なんとか根津さん(分科会会場前で抗議をしていた)を会場に入れようとしました。私も助力しましたが、うまく行きませんでした。

 それでも、最終日(23日)も、「総括討論」の中でこの問題を持ち出し、「この分科会では<つながる>ことが大事だということが確認されたと思うが、とくに立場の弱い人とつながることが大事だ。根津さんは今、沖縄と同じ立場の弱い者だ。傍聴も認められないなどというのはおかしい。皆さん、それぞれの組合に戻ってこれを問題にして下さい。」と述べました。

 また、排除に関しては、広島教組が「君が代」起立斉唱に反対する組合員4人に対し、
①会場内外でビラ配布等は行いません。
②全体会場、分科会場での不規則発言等を行いません。
③行動は、日教組・広教組の指示に従います。
というような「誓約書」を求めてきました。これに対し別の組合員が「それはおかしい」と抗議すると、先程の4人と一緒に彼も傍聴から締め出されました。

 そのうちの若い元気な男性教員は、根津さん、菊岡さんらがビラまきをしていた全体会の会場前でマイクで抗議活動を行い、(機動隊から排除されたということです)、「平和教育分科会」の会場前でも、抗議活動を元気に繰り返していました。(広島教組の役員はタジタジのようでした。)

 傍聴で中に入れた私は、2日目の休憩時間を利用し、
・根津さんのレポートと傍聴の拒否は誰を喜ばせるか。
・日教組は根津さんを切り捨てることで彼らに力を貸したことになる。
・もし、解雇されるようなことになれば、反動の嵐はさらに強まり、こうした教研自体も危ぶまれることになるだろう。
と訴えました。

 「平和教育分科会」では、
・「在沖米海兵隊のグアム移転に係る協定」が結ばれ、普天間基地の辺野古移設などが明記されたた沖縄
・原子力空母ジョージワシントンが配備された横須賀
・米軍基地強化と住宅移転計画が持ち上がっている岩国
などの実態が報告され、
「日本全体が沖縄化しており、すでに日本は戦時下にあり、加害者側で戦争に加担しているのだ。」
ということが明らかになっていきました。このことは、どれほど強調しても、しすぎることはないと思います。その実態を明らかにしないまま、政府やマスコミなどでは、「テロ」、「過激派」、「海賊」とか言っていますが、そうした言葉に騙されてはなりません。それは戦前同様、侵略戦争を続けていく口実です。

 なお、「平和教育分科会」での特徴的な発言や、21日夜の<自主教研>については、改めて報告します。

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「都教委包囲首都圏ネットワーク」

「千葉高教組『日の丸・君が代』対策委員会」



昭和の抵抗権行使運動(109)

『独立左翼論』を読む(21)


 連合赤軍事件の思想面における問題点ついての三上分析のポイントをまとめると、森恒夫(連合赤軍)の思想的な誤りは「イデオロギー的な制度的言葉と個々の行動を支える内側の言葉をつなぐ思想」の欠如あるいは未熟性にあった、ということになる。より具体的には「内側の言葉は《共同的》なものとして安易に同質化できるものではない」という点に対する無自覚であり、それを「同質化ができると錯覚していた」点にある。

 「制度的言葉」と「内側の言葉」との問題は組織と個人の問題と言い替えてもよい。この問題は連合赤軍事件のように極限的な状況下でだけ顕在化するわけではない。この問題は政治組織に属して行動する活動家にとっては、いつ直面してもおかしくない日常的な問題である。三上さんは自らの体験を通して、この問題をどう解くべきかを論究している。これは政治党派に限らず、市民運動の組織や労働組合などのあり方を考える上でも大きな示唆を与えてくれるだろう。


 先に述べたように僕と神津との対立が大きくなったのは、僕の書いた政治論文が一つの契機をなしていた。それは僕が政治局論文として「恣意的自由の擁護」を根底にした政治イメージの形成を提言したのに対して、神津が批判し「集団論」のような対置をしたことである。

 組織観や運動観の対立が徐々に大きくなってきたのであるが、その対立が決定的になったのは、僕の女房の司法試験の受験準備についての批判であった。そこまでいうなら、かってにやれよということになった。

 1973年に僕は、1969年の4月28日の沖縄闘争で実刑判決を受け下獄していた。この下獄の最中に女房は弁護士を目指して、司法試験を受ける準備をすることを決めていた。僕が下獄する直前に子供が生まれ、下獄するときは子供は生まれて4カ月であった。女房は子供を抱えながら僕が中にいる間にいろいろ考えて結論を出したのだと思う。

 釈放されて、女房からこの話を聞いて僕は賛成した。僕も活動は従来と変わらないと思っていたから、生活的には大変きつくなると思った。が、なんとかやっていくしかないし、やれるところまではやってみようと思った。僕には何かの資格試験の準備をやること位しか思えなかった。医者になるから受験勉強をするというのとさして変わらなかった。

 ただ、この間題は活動家の生活問題を暗示していた。当時の叛旗派は党派として専従的活動家の生活は組織として保証しないという考えに立っていた。それは党派として金がなかつたというより党派理念として、党が活動家の生活を支えることはしないという考えに立っていた。

 もちろん、闘争の過程の中で、非公然的な活動を強いられる部分には生活を支える努力はした。それは一種の非常時的な処置であって、政治的な基本理念は専従的な活動家の生活は保証しないということであった。

 政治的な活動家は中心的な活動家になればなるほど、活動に専念し、専従活動家となっていく。ならざるを得ない状況に追い込まれていた。当時の新左翼運動は学生運動が中心であったから、専従活動家の生活問題は潜在的にはあったが、大きな問題だった。

 政治活動を専従的にやれば、生活費を得るために働く時間はなくなるから、生活費をどうするかという問題が必然のように出てくる。学生として親からの仕送りを受けられる間はいい。しかし、卒業したり、中退したりなどして学生でなくなり、なおかつ運動を専従的にやれば、生活費をどうするかということが出てくる。これは直接的には専従活動家の生活問題だが、広く言えば、革命運動と金の問題であった。政治活動と金の問題でもあった。基本的に言えば、専従活動を減らし、ボランティアのように空いている時間に活動するか、党が専従費を保証するかしかなかった。そうでなければ、女に稼いでもらうか、カンパなどの支援にたよるしかない。

 党という政治集団が専従的活動家の生活費を保証するということはあった。前衛党を名乗っている集団はそうしていた。僕も第2次ブントの一時期、学対委員として専従費をもらっていた時期もある。この変形として、生協活動や自治会費などがいろいろの形態で専従的活動家の生活を支えるということもあった。

 叛旗派の場合は、党派は専従的活動家の生活を保証しないという考えであったから、生活費の大半は女房に依存するか、友人などのカンパによるしかなかった。当時、僕も神津もアルバイトらしきものをやっていたけれど、結局は同じことだった。僕も下獄前までは女房に生活費の多くを依存していた。当時の活動家は大なり、小なりよく似た状況にあった。特別に経済的な余力がある場合を除けば、そうするほかなかったのである。

 僕らはすでに述べたように、党が活動家の生活費を保証するという方法を否定していた。党の活動家とよばれる専従的活動家は職業的な運動家になるけれど、それは党に生活を依存した運動家になることを意味する。そして党の活動家は生活のために党に隷属する。また、逆に政治集団は党の活動家の生活のための組織に変質する。専従者の生活のための組織になってしまう。日本共産党も新左翼の組織もほぼそうなっている。



 私が属していた組合に限らないと思うが、組合役員を組合貴族と呼ぶことがあった。これは、組合が組合の「活動家の生活のための組織に変質」し、「専従者の生活のための組織になってしま」っていたことを言い表していた 言葉だった。そのように変質してしまった組合では役員は保身に汲々とし、当然にも闘わない組合へと墜ちていく。その典型は日教組である。昨日、「我々は教育基本法を変え、いい加減な教科書を変えた。相手の方はご存じ日教組。私どもは断固戦っていく。それが自民党だ」と麻生首相が吠えたそうだが、権力の同伴者になってしまっている相手に得意げに力んでいる。オバカ政権だとかアホウ首相とが揶揄されているが、ほんとうにどこまでもピントのずれたアホウだ。

 僕らは専従活動家を党が職業運動家として抱える関係を否定したかった。専従活動家が職業運動家になり、生活のために党に隷属していく愚を避けたかったのである。これはよかったと思う。日本共産党を先例とするような政治組織にならないための模索をしたのであり、その模索を通して追求するものがあったのだから。これは自立した主体が政治集団を構成する一つの在り方だったのだから。

 政治組織が専従活動家の生活を保証するという組織方法を否定するならば、生活費は女房に依存するか、カンパに頼るかしかなかった。生活費を稼ぐ時間と専従的活動とは両立しなかったから、それができなければ、専従的活動を辞めて残った時間で活動を続けるしかなかった。これは僕らが生活と組織活動の間で抱えていた矛盾にほかならなかった。政治運動などが抱えていた矛盾の普通の在り方をそのまま体現していたと言える。

 叛旗派結成後も多くの活動家は専従的活動と生活問題の矛盾で去って行った。専従活動家であればあるほど、この矛盾は厳しく、絶えず、自分で生活費を稼ぐため専従活動家を辞めるかどうかの決断を迫られていたのである。そして、専従活動家を辞めて活動形態を変えて活動を持続することは道として残されてはいたが、自然に活動(政治組織的活動)を辞めることになってしまっていた。

 ここには反省はある。組織活動を変えたり、そこから退いたりするものに叛旗派は組織として柔軟ではなかった。これは神津陽の共同体観念が狭量で、専従活動を辞めることを、共同体的な裏切りのように処理したところがあったからだ。去っていく活動家への対処について僕は神津としばしば食い違ったが、彼の共同体観は出入り自由な組織ということとは違っていた。彼の組織観は出入り自由というより、共同的意志の維持という組織観で、出て行く者に厳格であった。その組織観の違いは肌合いの違いとして組織メンバーには映っていたと思う。

 政治表現は多様なのであって組織を媒介にした表現などもその一つ、というようにはなっていなかった。政治組織が共同性として現れることは確かであるが、それを過渡的なものとみてできる限り出入り自由なものに考えるのと、そこに意志的ものとしての意味を付与しようとするものとは明瞭に違う。この共同性をどう認識するかで、僕と神津は大きく違っていたが、それが抜き差しならぬものへとなって行ったのだ。



今日の話題

「老人は国会突入を目指す」


 3年ほど前の 『今日の話題:もう一つの可能性、沖縄独立を考える人たち』 は、『街から』という小冊子の紹介をかねて、その冊子の一つの記事を取り上げたものでした。以来この冊子の購読を続けていますが、昨日配送されてきた最新号(09年2・3月 98号)に紹介したい記事がありました。

 私はフォークソングの世界には全く疎いのですが、『街から』の編集発行者の本間健彦さんが「フォークソングの吟遊詩人 高田渡紀行」という高田渡さんの評伝を連載しているのを読んで、いくらか馴染みをもつようになりました。

 東大安田講堂の攻防戦のすぐ後、1969年2月頃から、新宿西口地下広場でヤング・べ平連の若者たちが毎土曜の夜、「フォーク・ゲリラ」と称されている歌の集会を開き始めました。数ヶ月後には多いときには1万人ほどの市民・学生が集まるようになります。警察当局はこの集会を止めさせようと、「広場」という名称を「通路」と言い替えて、「ここは広場ではありません。立ち止まらないでください。」などというアナウンスを執拗に繰り返しました。それでも集会は続けられました。6月28日、業を煮やした警察当局は機動隊を出動し,歌の集会を暴力的に排除したのでした。

 このフォーク・ゲリラ事件が「高田渡紀行」の中で取り上げられていました。本間さんは音楽評論家三橋一夫著『フォーク・ソングの世界』から、次のような論評を引用しています。

『正直のところ、フォーク・ゲリラを始めたヤング・べ平連の青年たちの歌は、お義理にも「うまい」とはいえない。かれらよりも歌がうまくギターがうまい人はほかにもいるだろう。その、うまくない歌に、どうして毎土曜日の夜、学生たちばかりでなく通りがかりの男女サラリーマンまでが足をとめていっしょにうたい、討論し、老人までニコニコしながら耳を傾けるのか。』
『音楽に関係のある人もない人も考えてほしいのは、歌をうたうことに機動隊が出たということだ。これは世界でもまれな事件である。歌をうたっているのを機動隊で追いちらそうというのは、腕力と暴力で歌をやめさせるということだ。そのことは口をつぐませるばかりではなく、人間がものを考えることをやめろというに等しい。』

 新宿西口広場では、歌を歌わせないことで「人間がものを考えること」を禁止しようとしました。今は学校で、無理に口をこじ開けて「君が代」を歌わせることで、学童・生徒・教師・父母にものを考えることを禁じようとしています。

 ところで、フォーク・ゲリラの始まりは大阪梅田の地下街だと言われています。当時、その関西に「フォークキャンパーズ」というバンドがありました。そのバンドのメンバーの一人に藤村直樹というシンガ―・ソングライタ-がいます。藤村さんはお医者さんで高田渡さんと親交があり、高田さんの主治医でもあったそうだ。『街から』で、その藤村さんの寄稿文に出会いました。今日はその文章を紹介しようと思ったのでした。下に藤村さんのホームページをリンクしておきます。

「The "Friensds' Lebel" site」


老人は国会突入を目指す

 2006年末からの半年間考えるところがあり、医師を休業しました。小泉改革の結果としての医療や介護の荒廃について考え直してみたかったからです。毎日を新聞記事や、雑誌に目を通し、知り合いの働く病院や介護施設を訪問したりしていました。そのうち、小泉改革とやらの問題点を整理するため、時系列を作ろうと思いつきました。自分の専門分野はわりと簡単にできたのですが、政治そのものは京都新聞の永澄デスクに助けていただきました。

 出来上がった年表をみて愕然としたのは、周到に推し進められた国民生活と福祉の破壊の完壁さでした。要約すると、国際協力という名目のもと、軍事費の増大と医療・福祉の切捨てという構図がみえみえになっていました。

 そこでこれを文章化するかどうかを考えたのですが、結局僕の一番慣れた表現方法の歌にしてみました。それがCD「老人は国会突入を目指す」です。実際にCDが作成されたのは2007年で、off-noteという竹中労さんに影響を受け、個性的なCDを数多くリリースしている神谷一義さんのレーベルからだしていただきました。

 そのころ僕は経済的問題もあり、医師の仕事にもどっていたのですが、僕が分析していたよりもひどい医療への政府の締め付けと、電子カルテという合理化について行けず、重症の鬱になり半年間、再び休むこととなりました。

 ようやく歌う力が戻って(抗うつ薬の力をかりて)、仕事にも戻り、CD発売記念ライブを行ったのですが、その反応の様々さに驚きました。京都・大阪と東京では若い方々も真剣に受け止めて下さったのですが、神戸は残念ながら多くの聴き手の方がひいてしまわれました。また、何人かの友人が今ではラディオ局の局長やプロデユーサーになっているのですが、「藤村くん、この歌だけはかけられない」といわれ、いわば放送自粛になってしまいました。

 ライナ―ノートで中川五郎さんは「『老人は国会突入を目指す』という曲名を見て、ぼくがすぐに思い浮かべたのは、『青年は荒野をめざす』だった。働き終えた老人たちにきちんとした保障が与えられるシステムはこの日本で完全に崩壊し、青年だけではなく、人は一生荒野をめざし続けなければならず、老人たちは最後の手段として命を賭けて実力行使にでるというこの歌は、最初はおもしろいとにこにこ笑いながら聞いていても、最後には笑い事ではない事実を鋭く突きつけられ、顔面蒼白となる。」と書いてくださっている。

 しかし、その後の時代の流れは、僕の歌詞を超え、10代から20代の若い人たちの就職難民というより、事実上の難民化、ロスジュネの難民化、中高年はもっと難民化、仕事も住む家もない状態になってしまいました。過激な歌だといわれていたものを、現実がはるかに追い抜いて悪化していったのです。

 今では僕は、この「老人は国会突入を目指す」という歌は現実の読みが甘かったとさえ考えています。現実はもつと残酷な、政府による赤ん坊から、若者、中高年全ての世代への国民生活、医療、介護、福祉、教育の破壊に進んでいたのだと実感します。

 それでも僕がこの歌をまだ歌い続けるのは、若い方々が自分たちのおかれている理不尽な立場に、老人のように「何も失うものはない!」と声を上げて欲しいからに他なりません。日本がこれ以上残酷で倫理観も何もない国にならないよう、僕たちは何ができるかを再考しつづける毎日です。けれど若い人たちには少なくとも生物としての未来が残されています。

 高齢の仲間の皆さん、若者に未来を託し、代わりに命を賭けて本当に国会突入を目指しませんか。もちろん犬死して政府を喜ばせるためではなく、本当に政府を倒すために! それが僕からのメッセ―ジです。



老人は国会突入を目指す
 作詞・作曲…藤村直樹、補作…長野隆


日本中の村から町から 都会の谷間から
車椅子で 松葉杖で 老人たちは 国会を めざす
よたよた よぼよぼ こけつ まろびつ
ぜいぜいと 這いずりながら
政府を 倒すために

その夜中 メ―ルは
日本中をとびかった
老人よ!見捨てられたものたちよ!
国会 をめざせ! 政府を倒すために!

その2日前 ついに 保検料は
年金より 高くなった
日本中の 僻地から
郵便も小包もなくなった

病気になっても 医者にかかれない
だいいち 医者まで 行くこともできない
治療薬は高くって もらった院外処方箋を破る

ひ孫はもう 産まれない
いや 孫はもう 産めないのだ
産科の医者は 過労で倒れ
金持ちだけが アメリカへ産みにゆく

たった2パ―セントの金持ちたちが
日本の富の 95%を持ち
貧乏なものは 孫子 まで
生きていくことさえ おぼつかないのだ

初夏の夜中 少し認知症 の
ひとりのオタク老人が 思い出した
そうだ 俺たちは 団塊の世代
果たせなかった 国会突入を!

その夜中 メ―ルは
日本中を飛び交った
老人よ!見捨てられたものたちよ!
国会を めざせ! 政府を倒すために

追い詰められた首相は ついに
国防軍への ホットラインをとった
老人のデモ陣へ 発砲せよ

兵士たちは とまどった
自分たちの 爺さんや
ばあさんを
撃ち殺せとの命令に

それでも アメリカ軍から派遣された
司令官は 命令した
引き金を 引かなければ
お前たちは 軍法会議だ!

泣きながら 兵士たちは
機関銃を 発射した

何万発の銃弾が
しわくちゃの 皮膚を裂き
しなびた肉を 骨租しょう症の骨を
こなごなに 吹き飛ばした

それでも 老人たちは たじろがなかった
失うものは 命さえ もう何もない
わしらの世代は 必死で 生きてきたのだ

たとえ精鋭の国防軍でも
何千万のじいさんを
何千万のばあさんを
すべて射殺する
ことはできない

ついに 国会正面を突破した
血まみれの 爺さんと ばあさんと
兵士たちは 抱きあった
泣きながら ともに 議事堂へ 行進した

そして ひとりの ばあさんが
血まみれのTシャツを
議事堂のてっぺんで
高々と 振りかざした
日本国政府に止めを刺すために

この話を 聞いたたあなたは
たわごとと いうだろう
けれど この国は きっと
その夏の夕暮れにむかって 進んでいる



昭和の抵抗権行使運動(108)

『独立左翼論』を読む(20)
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 12名もの同志を「総括」という私刑によって殺害するという凄惨な事件を誘発した原因は何なのだろうか。吉本さんはそれを「共同存在としての人間の心的な機制は、個体としての心的な機制と、おなじ次元で執ることも、みることもできない心的な領域を付加される」と指摘している。これはより具体的には、三上さんの概念を用いれば、「表出意識(実践的意識)」と「制度的言葉(外側の言葉)」との齟齬・軋轢が前者の後者への隷属にまで至ったときに生まれる「心的な機制」ということだろうか。三上さんの論考を読んでみよう。

 連合赤軍の「総括」では「共産主義化」という訳の分からない言葉がキーワードとなっていた。訳の分からない言葉が人をとらえ呪縛していくということは政治的集団やグルーブの中ではしはしば起こることで、叛旗派でも同じようなことがあったと三上さんは言っている。

 僕の所属していた叛旗派でも神津陽(叛旗派の理論的指導者・・・管理人注)がわけのわからない「関係の革命」や「集団論」などをとなえ、良く似た現象が起こった。「関係の革命」も「集団論」も「共産主義化」と同じように別に意味の不明な言葉ではない。言葉としてはわかる。それはどういうことなのかというとさっぱりわからない。本人も説明できないし、その内容を展開したことはない。それは一種のお題目で中身がない。しかし、中身が不明なまま題目だけだからそこには何かがあるのだろうと人々を思わせる。そして混乱を起こす。叛旗派はさっさと解散してしまったからさして実害はなかったけれど、このときの混乱はよく似た現象だった。



 こうした言葉をキーワードに据えることで、その提言者は何を意図しているのだろうか。三上さんは次のように分析している。

 森恒夫のとなえた「共産主義化」も神津陽の提起した「関係の革命」も制度的な政治的言葉とは別のものとしてある行動(行動を支える言葉)を共同化しようとしたのである。それに言葉を与えようとしたのだ。政治的言葉(外側の言葉)と行動の言葉(内側の言葉)をつなごうとしたのである。目のつけどころは悪くなかったのである。森も神津も活動家としては優秀だったということである。ただ、制度的な言葉と行動の言葉の構造の違いを良く認識できなかったために、それを同一的な共同性として取り出そうとしたところが誤りだった。それは構造的な差異の中にあり、簡単に取り出せないということだ。

 政治グループが制度的言葉ではなく、行動者の契機を共同化して自己の基盤を強化するという試みはいつの場合もある。それは毛沢東の言う「三大規律と八項注意」のような組織規律から、相互批判による関係の強化などだ。行動者として運動の中で存在する信頼関係を共同化し、組織化する試みだ。これは失敗するか、一種の粛清に終わる。行動者の間の信頼関係のような共同性は個別的関係としてしか不可能であるし、制度的言葉を介した共同性から自立していくことによって成立するからだ。個々人が内的言葉を自覚し、自立的に取り出せることで可能となる。共同的なものでしばるのではなく、共同的なものから自立することが共同性をつくりあげる。

 二つの世界を結ぶものは思想であるが、それは共同性といっても異なった構造にあることがわからなければどうにもならないのである。「共産主義化」でも「関係の革命」でも良いが、それは何だと言われると本人もろくな説明ができないのは、この構造がわからないからであり、結局のところ題目になってしまう。

 しかし、政治的集団では説明のつかない題目だから人に受け入れられるということは存在するのだ。



 連合赤軍は「前段階武装蜂起」とか「革命戦争」とかいう制度的言葉によってその政治的共同性を形成していた。しかし個々の行動者の内的契機(内的言葉)は千差万別である。「革命戦争」という死をも覚悟した共同目標を前にして、内的な意識(内的言葉)の在り方がバラバラであるということは大きな不安を生む要因であったろう。その不安を克服するものとして提起されたのが「共産主義化」であった。

 森恒夫の提起した「共産主義化という総括」は制度的な言葉の領域ではなく、内的な言葉の領域に踏み入ろうとしたのであり、この領域を《共同化》しようとしたのである。自分が山にくるという行動を支えているものがなんであり、それがどういう言葉なのか森は自己だけでなく、他のメンバーにとって納得できるものを追求しようとした。森は「共産主義化」という言葉によって、自己と他のメンバーの心的不安を解消しようとしたのである。だから、山岳ベースの中では、森の提起した「共産主義化という言葉」に他のメンバーは対抗不可能であったと想像できる。

(中略)

 政治的な集団が孤立し、追い詰められる場合に身を守るように相互の信頼を強めようとすることはむしろ悲劇を呼んでしまう。これは現実になれば誰も避けられないことかもしれない。行動が残滅戦として《死》を意識させられる局面で、それを担う個々人の内面の意識に言葉を与えようとした森や永田の行為に総括の対象とされた兵士の側からの対抗は不可能だった。そう思える。

(中略)

 森恒夫は制度の言葉と内側の言葉を《共産主義化》という言葉でつなごうとした。これは思想に該当するものであり、イデオロギー的な制度的言葉と個々の行動を支える内側の言葉をつなぐ思想だった。善意に解釈すればということになるが、そうだつたと僕は想像する。

 森恒夫の誤りはどこにあったのだろうか。それは制度の言葉と内側の言葉の構造的違い、とりわけ内側の言葉に対する彼の理解が浅薄だったのだ。彼の思想は、内側の言葉は《共同的》なものとして安易に同質化できるものではないという自覚に欠けていたのである。同質化ができると錯覚していたのだ。

 行動を支える意識は共同性を形づくるが、それは個別的に存在し、個別であることによって共同性をなすのであって、同質化のようなことを拒否する。行動者として面々の内にある意識は簡単に同質化も同質化という共同化もできるものではない。それは同質化を拒む形で共同性を成り立たせるのだ。

 政治組織は制度の言葉で成り立つとき、その成員を指導者や被指導者として関係づける。それならば行動者としてはどんな相互関係が成り立つのか。それは個々人の相互関係である。行動者の関係は個別的な相互関係としてしか現れない。自己批判や相互批判はこの行動者の個別関係とは無縁であり、制度的言葉を介した政治関係のなかでしか意味をもたない。森は政治的な行動者の内的な世界(内側の言葉)も行動者の間の関係も知らなかったのである。

 当時、《行為の共同性》という言葉があった。これは神津陽の言い出したものでなかなかすぐれた言葉であった。これは制度的な言葉を媒介した共同性(組織の成員であるという現象として現れる)とは別に行動者の共同性があるということだ。それは行動を支えている内側の言葉が形成している共同性のことである。行動者の間の連帯感として現れる共同性のことである。他の行動者の行動が自己の内側の言葉と共鳴したり、それを刺激されたりしてできていくものであり、これは制度的言葉を媒介しての共同性とは違うのである。この共同性は制度的言葉に解消されないで、個別にあり続けるのである。これは制度的言葉に対しては沈黙の言葉と言われるものであり、個別の中にあり続けるしかない。

 僕は政治的言葉は制度的言葉と内側の言葉の二重性のうちにあると語ってきた。これは制度の言葉と沈黙の言葉と言ってもいい。政治表現者と政治的行動者の言葉と言ってもよいのだが、この政治の二つの言葉を結ぶものは思想である。この結ぶということはここで形成される《政治的共同性》の構造が違うものであるという理解が前提になる。森には政治的行動者の構造を認識する思想がなかった。内側の言葉を理解する思想はなかった。それは彼の善意が混乱を招くほかなかった根拠である。

 森恒夫の「共産主義化」が内側の言葉を共同化し、同質化しようとしたとき、その構造を無視するものであり、何がなんだかわからないものとして現象するほかなかったのだと思う。山に参加するということから、残滅戦という行動へ、つまり死を意識した行動へ、行動を支える言葉を強固なものにしたいという欲求が森の中にはあつたと思う。それは自分の中で死と直面することであり、その怖さから逃れようとしたのかもしれない。そこで、彼が誤ったのは、それは結局のところ政治的行動者として個々が解決するしかないし、それに委ねるしかないという考えをもてなかったことだ。

 行動の高次化に対処できるのは組織規律や共同意識ではなく、行動者の内的な言葉である。それは他者がどうすることもできないのであり、制度的言葉を介した指導・被指導者の関係でどうにかできるものではないということだ。

 森や永田の悲劇は、この政治的行動者のうちに存在する内的言葉を理解し、信頼できなかったことである。森にとって7・6事件の総括は逆だったように思えてならない。この事件で逃亡した自己の弱さを克服しようとするより、その弱さを行動の構造の考察に向けていたら別のことが可能になったのではないか。自分のあるがままの姿を見つめていれば自己と他者の行動の世界が見えていたのではないか。弱さを克服するとは強くなることではない。自他の弱さを認めることなのだ。強さが生まれるとしたら何らかの契機でそれが反転することではないか。連合赤軍事件に触れるとそんな印象がつきまとう。



昭和の抵抗権行使運動(107)

『独立左翼論』を読む(19)


 連合赤軍事件を簡単に復習しておこう。

 共産主義者同盟赤軍派の軍事組織と京浜安保共闘の軍事組織を合併統合した組織が連合赤軍である。1971年7月15日に結成されている。この連合赤軍が起こした二つの事件、「山岳ベース事件」と「浅間山荘事件」を合わせて「連合赤軍事件」と読んでいる。

 連合赤軍は拠点になる秘密基地を作るために関東地方の山岳地帯に入り、山岳ベースと呼ぶ山小屋を建設して潜伏した。その山岳ベースでの党活動の過程で、「総括」という粛清が行われ、12名のメンバーが殺害された。これが山岳ベース事件である。

 浅間山荘事件は、山岳ベースから逃亡した5人の連合赤軍メンバーが「浅間山荘」という民間の宿泊施設を占拠し、山荘の管理人の妻を人質に篭城した事件である。9日間にわたる警察との攻防の末、人質は救助され、立て籠もった5人は全員逮捕されたが、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)という惨事になった。

 今回この連合赤軍事件についての、三上さんの論考を読んでいく予定だったが、その前に、ふと思い出したことがあって、それを取り上げることにした。

 当時、連合赤軍事件の全容が明るみに出るに従って、いわゆる識者やタレントの妄言がマスコミを賑わした。マスコミに登場する識者・タレントたちの大方は、その時々の時流におもねって、俗論レベルのご高説を得々と語って恥じない。その質の妄言は今も変わらず、大きな事件が起こるたびにしたり顔に繰り返されている。

 連合赤軍事件のとき妄言を、吉本隆明さんが「情況への発言(「詩的乾坤」所収)」で、辛辣に批判している。この論評を通して、いわゆる識者という反面教師たちの正体を知るのも無駄ではないだろう。

 <連合赤軍>事件なるものへの、マス・コミと権力の総和唱のなかで、<政治>的にと<精神>的にと伴奏された政治的知識人たちの、言動をとりあげることから、まずはじめようではないか。山崎カヲルという構革派のチンピラが『日本読書新聞』(昭和47年3月6日号)で、マラパルテという大根役者の『クーデターの技術』に言及しながら、あれよあれよとあきれるほかないことをいいはじめて、<連合赤軍>事件の前ぶれを告白してくれた。

曰く
「Gewaltを本質とする国家の問題と……」「マラパルテが到達しえたのは、戦略(イデオロギー)と戦術(クーデター)の分離可能性という命題であった。真に世界を動かしうるのは『左右』のイデオロギーではなく、『クーデター』という『技術』を習得しえた者たちなのである。」
「我々は、マルクスが『執行権力』としての『軍事―官僚機構』の『破壊』を、プロレタリア革命の第一の目標に置いたことを、思い出しても良いであろう。この真正な命題に到達するために、マルクスの才能などいらないのである。つまり、革命の問題とは、なによりもまず軍事の問題であり、軍事の90パーセントは『技術』の問題なのである。」
「革命の軍事的側面についての我々の理解の貧しさからすれば、マラパルテもまたひどく貴重ではないであろうか。」……

 ざっとこんな具合である。わたしは、ある種のチンピラのいうように、戦争期の体験にしらずしらず固執しすぎているのかもしれないが、それにしても、この<軍事>についての無智蒙昧さはひどすぎる。

 それに構改派といえば、道路が濡れていると、座り込みもやらない三流のスマート・ボーイの集団という先入見があって、いつの間にか、フルシチョフ路線を玉条として組織をつくったいいだ・ももが、第三世界などといいだしたり、山崎カヲルなどが、革命の問題は<軍事>の問題だ、などといいだすようになったのかつまびらかにしなかったので、びっくり仰天するほかなかった。もつとはっきりいえば、いいだ・ももや山崎カヲルのような、猪口才な軟派のスターリニストがつくづく嫌になった。

 わたしが、どんなにマルクスを「思い出」しても、プロレタリア革命の第一目標は、「軍事-官僚機構」の「破壊」だ、などというたわ言が浮んでこないのだ。また、革命の問題は、軍事の問題、軍事の問題の90パーセントは、「技術」の問題だ、などというあほらしい革命論を、まともにきいていられるか。Gewaltを本質とする国家などという国家論は、どこを圧せばでてくるんだ。馬鹿だねえ、この連中は。だが、馬鹿だねえ、でゆるされないのは小山弘健や浅田光輝である。

 山崎カヲルと、ほとんど同じ時期に、小山弘健が『図書新聞』に軍事技術研究の必要を説いているのに出会い、山崎とこみでわたしを驚かせた。すくなくとも小山弘健は、ライフル銃をかっぱらってきて、射撃訓練をやって、<軍事>技術を習得したなどとおもっている他愛ない小僧たちとちがう体験をもっているはずである。つまり、戦前の左翼運動の体験と、戦争の体験を。小山弘健の軍需産業と軍事工業技術の追及は、<生産力理論>のひとつの典型として、そのまま戦争讃美につながっていった。そういうにがい経験をもっているはずである。この経験の思想的な深化の課題は、小山弘健にとっては、思想的な死活の問題ではないのか。だが、小山弘健の発言は、懐かしのメロディーをうたっているにすぎないのだ。昔とった古い杵づかを、青年たちの<軍事だ、軍事だ>という浮かれ話に迎合して、ふところから取り出してみせたにすぎない。そこには、ひねりもなければ、屈折もないのだ。

 わたしは、あまりのひどさに憤りをおさえきれず、たまたま居合せた戦前からのマルクス主義者に、<山崎カヲルのような構革派の青年も、小山弘健のような戦前派の左翼も、軍事などと口にすべきではないのではないか>と語ったのを覚えている。そして、そのとき<軍事>の問題は、<観念>の問題ではないのだろうか。権力が十丁の銃をもっていれば、十一丁の銃をかきあつめてむかえば、権力を倒すことができるというような、プラグマチズムや、撃ちあいに<軍事>の本質があるというのは、まったくまちがいではないか、という考えをのべたことをおぼえている。

 しかり、<軍事>の問題とは<観念>の問題であり、権力のかんどころはどこにあり、そこにいたる経路は、どういう迂路を確実にとおらねばならないか、という筋道を発見する問題である。そんな筋道は、銃撃戦でも、ゲリラ戦でも、やってみないでどうやって発見できるのか、などというべきではない。銃撃戦やゲリラ活動で、筋道がつくくらいなら、なにも苦労はいらないのだ。

 すでに、山崎カヲルや小山弘鍵の発言のうちに、<軍事>というまったく<観念>の問題、政治権力の問題を、<技術>の問題にすりかえてしまう、マラパルテとかマリグーラとかいう、人殺しの技術いがいになんのとりえもない、無智な大根テロリストとおなじ発想がつらぬかれている。マラパルテ『クーデターの技術』やマリゲーラ『都市ゲリラ教程』などは、<技術>的にみても『戦陣訓』や『歩兵操典』以下のしろものである。こんなものにいかれる男たちが、大学の教授であったり、学生であったり、<評論家>であったり、学生運動上りであったりすることの不可解さは解明に価する。

 3月28日、<あさま山荘>に人質とともにこもった<連合赤軍>なるものに、「赤十字」の気持で現地へ駈けつけた浅田光輝は、『週刊サンケイ』(3月27日号増刊)で、二人の学生運動上りと座談会をやっている。わたしは、山崎カヲルや小山弘健の発言をよんだときとおなじように、浅田光輝の発言のいい気さに、ほとほと嫌気がさした。

 学生運動上りが、武装蜂起の決意を語り、<あさま山荘>の<連合赤軍>なるものの銃撃を、武器をエスカレ―トさせた闘争の発端として、高い評価をあたえるのはよい。どうせ、党派的主観を語っているだけで、全情況的な意味などないことは、はじめからわかりきったことだから、気焔をあげていると受けとればよいからだ。しかし浅田光輝はちがう。かれは戦争の体験もあり、戦後にも、日共の党派あらそいのとばっちりで自殺した、中央労働学院の講師の死を契機に、百万言をついやして、日共の非人間的な組織体質を糾弾したものである。その浅田光輝が、あまりに手易く、<武装闘争>を前提とした発言に移行してしまうことが不可解なのだ。知識人とは、そんなちゃちなものなのか。また、学生運動に依存しなければ、知力をもつことが、できない存在なのか。

 そのあとつぎつぎに<連合赤軍>なるもののリンチ殺人が明るみにでてきた。マス・コミもまた、一せいに<連合赤軍>なるものを、非人間的な<狂気殺人集団>として、なぶり殺しにするカンパニアをはじめた。わたしには、山崎カヲル、小山弘健、浅田光輝の発言はこの時点でけしとばされた、とおもえた。すくなくとも、その軽薄な武装へのシンパッシーは崩れおちたとしかおもえない。その時点で、こんどは、ヤブ医者の精神病理学者が、そのヤブさ加減を暴露するために、登場する番であった。

 東京医科歯科大学助教授、宮本忠雄は、『週刊朝日』(1972年3月24日号)で、「女性的犯罪の結末」という<誤診>を公表して、ヤブ医者の落ちゆく先をまざまざとみせている。

 宮本忠雄の診断によれば、<連合赤軍>なるもののリーダー森恒夫は、パラノイアにちかい心理状態にあったとかんがえられ、「自分が全能者だという幻想を抱いた」と推定されている。さらに宮本によれば「パラノイアはふつう性格―環境-体験という三者の複合から形成されるが、森の場合にも既述の偏執的性格、山岳での孤絶の環境、同志の脱落や逃亡といった体験などが条件となって、異常性を強めていったと想像される」ということになっている。

 宮本の診断によれば、永田洋子も同様の心的メカニズムに作用されたと推断され、そのうえ永田にはバセドウ氏病があり、「バセドウ氏病の場合には一般に感情が不安定になり、興奮性や衝動性が高まり、不安・嫉妬・憎悪・怨恨などの情動が刺戟されやすくなる。こういう状態の彼女には人民裁判の検事役はたぶんうってつけのものだったろう。」ということになっている。

 そして、この森と永田の異常な心理が、同様な環境下の仲間たちに、感応(感染)していつた、というのが、宮本忠雄の<連合赤軍>なるものにたいする<総括>的な診断である。クレッチメルの『敏感関係妄想』の受け売りではないか。

 こういう馬鹿気た診断をくだす精神医学者に、世の精神病や精神異常の子弟をもつた親たちは、決して子弟の治療を托すべきではあるまい。宮本の現存在分析学や、人間学的精神医学の看板はどこにすっとんでしまったのか。ここにはつまらぬ常識人の心理的カングリ以上のものは何もないのだ。また、世のバセドウ氏病患者は結束して、こういう馬鹿気たデマゴギ―をふりまく自称精神医学者に、抗議すべきである。

 ここには、心的な存在としての人間存在を、全体像のうちにとらえようとする現象学的人間学の片鱗もなければ、共同存在としての人間の心的な機制の必然性にたいする洞察のひとかけらもないのだ。左翼ゴロ雑誌『流動』のダラクした左翼くずれの編集者におだてられて、特集「吉本隆明をどう粉砕するか」で道化を演じている自分に、歯どめをかける抑制心をうしなって、ついに『週刊朝日』などというくだらぬ週刊誌で、精神医学者として、ひとかけらの見識もない誤診をとくとくとして語るにいたるまで落ちぶれてしまう。その速やかな転落は、何に由来するのか。わたしはあらためて、精神医学的な治療が、同一の患者を基準にかんがえてみても、如何に医学者自身の人間観や人間洞察力に左右されるか、を痛感させられ、いわゆる<皮膚(はだえ)に粟を生ずる>おもいがした。

 わたしは、森恒夫も永田洋子も、精神異常者ではないと確信する。また、宮本のいうように、孤絶した環境のなかで異常性を強めていったともおもっていない。もし異常性がかんがえられるとしたならば、共同存在としての人間の心的な機制は、個体としての心的な機制と、おなじ次元で執ることも、みることもできない心的な領域を付加されるという点にあるのだ。このことを理解しないで、どうして森恒夫や永田洋子の心的な機制に接近することができようか。またこのことの理解があいまいなのは、宮本忠雄の依拠する現象学的精神医学の欠陥でもある。



昭和の抵抗権行使運動(106)

『独立左翼論』を読む(18)


 三上さんは大学入学早々から60年安保闘争に加わり、以来1975年に叛旗派を退くまで一貫してブント系の組織で活動を続けてきた。日大闘争・東大闘争という全共闘運動の最高揚期の後、新左翼運動は衰退期に入るが、三上さんは当時の状況を次のように分析している。

 僕は、1973年から1974年にかけて下獄して服役していたが、そこの中で徹底的に考えたのは、行動についてであった。とことん考えても、もう行動が切り開く展望はなかった。もう、1960年代のような行動的ラディカリズムは不可能であることを実感していた。全共闘のような大衆運動ももう不可能と判断していた。後退戦としてそれは散発的にあるが、社会的には退いていく過程としてあったのだ。



 「新左翼組織の前衛党論への変節と傾斜」とはブント―全共闘と継承されてきた闘争形態の否定に他ならない。それがセクト間の主導権争いを激化させ、内ゲバと武装闘争のエスカレートを招いていった。その典型的な事例が赤軍派ということになる。このあたりの事情をより詳しく次のように論じている。

 1970年の前半というのは大きな転換期であった。新左翼運動にとって、1969年の後退戦の過程から運動は衰退期に入っていた。連合赤軍事件や内ゲバの影響もあるが、三里塚闘争を最後の拠りどころとしながら、全体としては衰退期に入っていた。

 大衆運動のエネルキーを取り込むことで活性化していた新左翼組織は、組織としての力を失いつつあった。全共闘運動やベトナム反戦闘争の余波は残っていたとはいえ、運動も行動も衰退していく中で、組織活動を継続するという難問に、直撃されていたのだ。

 赤軍派の海外逃亡もそういう一つの現れだが、内ゲバもそういうものの一つだった。大衆運動という推力とそこからくるエネルギーの枯渇に直面した政治党派は、内部の密度を高める方法をとるしかなかったのであり、それは観念的に過激になることだった。赤軍派の軍事路線も内ゲバも、観念的に過激になることで組織の密度を高めようとしたのだ。連合赤軍の「共産主義化」と粛清劇はその象徴であった。

 全共闘運動を生み出した表出意識(時代的な反抗意識)は政治組織に背を向け、サブカルチャーの道に転身していつた。高度資本主義の時代意識を先駆的に表出していた全共闘運動の内在的意識を政治組織はくみ取れず、それらに見放されるか、その圧殺に向かったのだ。

 運動が衰退して組織はどうなるか。企業ならば経済活動があり、良くも悪くもそれに制約される。経済活動として破綻した企業は破産する。そこで組織は終わる。それならば、政治組織はどうなのか。その目的や目的としての理念が破綻したとき終わる。運動や行動を目的とした政治組織は、その衰退期に理念(組織の目的)を前衛思想(前衛的組織の保存を絶対化する)に移行させるか、衰退に対応した組織活動に変えるかするしかない。よく言う「党のための闘争」に軸を移行させるか、組織を分散させるかしか道はない。



 「前衛的組織の保存を絶対化する」とは、言い換えれば、「内側の言葉」が「外側の言葉」に隷属するということに他ならない。
 表出意識(実践的意識)が制度的言葉(外側の言葉)に隷属している団体・組織は自己目的的に閉じる。そこでは、個人があって団体・組織が成り立つことが逆転して、団体・組織のために個人が奉仕することになってしまう。そして、おおかたの団体・組織は、「国家のために国民が在る」という支配者の思想をそっくりなぞるものに変貌してしまう。連合赤軍派の総括・粛清という悲劇は、その最たる例と言えるだろう。

 その粛清劇は「共産主義化」というほとんど意味不明の言葉がキーワードであった。これは一種のお題目であり、中味がない。だからこそと言うべきか、この言葉が一人歩きを始め、肥大化し、構成員を呪縛していく。



 しかし三上さんは、この言葉自体はは制度的な政治的言葉とは別のものだと言う。この言葉によって、政治的言葉(外側の言葉)と表出意識(行動の言葉・内側の言葉)をつなごうとしたのだと言っている。言葉の二重性を解消するという目のつけどころは悪くなかった。しかし、制度的な言葉と行動の言葉を同一的な共同性として取り出そうとしたところが誤りだった。それらの言葉は構造的な差異の中にある。内側の言葉を自立せしめるほかに、言葉の二重性の問題を解く方途はない。

 このような観点から、三上さんは連合赤軍の悲劇を思想的に解明しようとしている。

昭和の抵抗権行使運動(105)

『独立左翼論』を読む(17)


 『独立左翼論』に戻る。

 60年安保闘争でブントと全学連主流派が開示した独立左翼的闘争は、全共闘運動などによって1970年代の半ばころまで継承されてきた。しかしいま、それを継承する運動や闘争はまったく影を潜めてしまった。しかしそれは、今それとしてはっきりとした姿は見えないが、社会の底流に連綿として受け継がれていると、三上さんは言う。

 確かに政治運動や社会運動としてそれを受け継いでいるように見えるものはほとんど存在しない。それはごく少数の形で存続しているだけである。

 けれども、政治的思考様式や政治的なものについての意識としては、その影響は強くあると考えられる。政治的な表出の意識、共同的な意志の基盤としてそれは広く存在している。

 例えば、選挙における無党派層の存在や動きはその影響を考慮しなければ理解できないものだ。彼らの行動様式はその影響を有形無形のうちにこうむつている。それらは、今は政治的な表現の契機を欠いているから、現象的には雲散霧消のようになっているだけで、何らかの契機があれば大きく出てくると思える。



 ところで、『獄中日記』で秋田さんは、「象徴化された自分」と「本来の自分」との間の亀裂の問題を一生懸命に考えていた。最後の日記では「その人が公のものとなる、あるいはなりつつあるのを、期待するのはかまわないけど、その人を尊重してあげるべきではないだろうか。・・・」というくだりがあった。ここで言う「公のもの」と「その人」という言葉で対比している問題も同じテーマの問題である。

 これと同じ問題を、三上さんは「外側の言葉」と「内側の言葉」、あるいは「政治的・制度的言葉」と「表出の意識(言葉)」という言葉の二重性の問題として理論化しようとした。これが「『独立左翼論』を読む」の前回のテーマであった。

 上に引用した『獄中記』の一節と同じ事柄を、三上さんは次のように述べている。

 政治組織から離脱する人間に対する組織の扱いは、その組織が個人をどう認識しているかを映す鏡だ。僕は活動の中で党派はどうして、活動家の人格を無視するというより、人を軽々しく扱うのか疑念を持った。

 かつて、日本の軍隊が兵士を虫けらのように扱つたのと同じことがある。それは政治組織が強いられる、場面での非情さの反映ではない。そうではなくて、組織を形成する個人の重さに対する思想的な理解が欠如しているのだ。その意味では日本の左翼組織は、日本的な共同体の歴史的な伝統に自覚的ではなかった。

 それは、組織規範を体現する人格は、共同規範的人格として個人という人格と逆立するということではない。政治組織が人間の一部の限られた領域しか扱えないのに、すべてを扱う存在のような錯誤があるためなのだ。



 これは「組織と個人」の問題、あるいは「広い意味での転向」の問題とも言える。三上さんはこの問題を、自らの「組織からの離脱」という体験を反芻しながら、解明しようと試みている。本論に入る前に当時の三上さんの立ち位置に簡単にふれておこう。

1969年4月28日 沖縄反戦デー闘争
 社共総評の統一集会に13万人参加。
 革マル派を除く新左翼各派は約1万名と反戦労働者5千名が共闘して武装デモ。東京駅・銀座・新宿・渋谷などの都心部で、火炎瓶、投石闘争を展開した。ベ平連も銀座・お茶の水・新橋で機動隊と衝突。
 全国で逮捕者965名(女性133名)、逮捕者の中には高校生も多く含まれていた。
中核、ブントに破防法適用。このときの容疑で三上さんは手配される。後に逮捕され、実刑判決を受けて下獄している。

 さて、この沖縄反戦デー闘争の総括をめぐって新左翼内に対立が発生した。新左翼各派は自画自賛的に「闘争は勝利した」旨総括したのに対し、ブントは、「67.10.8羽田闘争以来の暴力闘争が巨大な壁に逢着した」として「敗北」の総括をした。

 このブントの総括は、やがて「暴力闘争の質的転換」の是非をめぐるブント内論争に発展し、党内急進派は、「11月決戦期に、これまでどおりの大衆的ゲバ棒闘争を駆使しても敗北は決定的である。早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起すべきである」と主張して、本格的軍事方針への転換を強く主張した。この流れが赤軍派結成へと向かっていった。

 赤軍派が結成される過程で、赤軍派とは一線を画するセクトとして叛旗派が結成されている。三上さんはその叛旗派の最高責任者(議長)であった。このときの三上さんの基本的スタンスを、「宮崎学の叛乱者グラフィティ(論座2000年7月号)」が次のように伝えている。

三上
 闘争がだんだん、爆弾とかにエスカレートするでしょう。そうすると途端に大衆的支持を失う。そしてますます闘争手段は過激化する。そういう悪循環に入っていて、そこからもう抜け出せないと判断したからでしょう。その第一歩が赤軍派の発生でした。

 そういう認識があって、三上は全力をあげて中央大学の若い活動家たちを説得する。彼らは泣きながら「赤軍に行かせてくれ」と言い続けたが、三上は「絶対にだめだ」と説得するのだ。

三上
 中大というのは戦闘的なグルーブでした。右派と言われるのは屈辱で、死んでもいいから左派と言われたいと思っていた。だから、「左派と言われなくてもいいではないか、それは後でわかることだから」と、ともかくも説得したのです。

宮崎
 その状況を具体的にはどんなふうに分析していますか。

三上
 67年から70年のゲバルトの意味というのは、俗にいう革命暴力ではないのです。異議申し立てという政治的意思の表現なんです。その新しさだったのです。だから、政治的意思を行動として表現する人が、自分でわかっていればいいです。体を張って見える形でやっている限りはよかったんです。自己で行動に対して責任を負う形だからです。それは、警備を強化してくるのに対して、その壁を突破するという対抗策であって、一種の自衛的な要素もあるわけだから、運動の境界線も見えてくる。だけど、これが爆弾とかテロリズムになったり、人を盾に取ったりした途端に大衆的な支持を失う。さらに、匿名の形になると腐敗する。行動は無責任になるんです。そこから退廃していきます。だからそれはだめと思っていました。
 だから、僕らは基本的には爆弾闘争はやらない、せいぜい言えば竹竿以上のものは持たないようにしよう、右派と言われてもいいんだ、このあたりが現実的な運動の境界なんだ、という考えがありましたね。

(中略)

 60年代から70年代を振り返った時、自省的に言うと、この当時問われていたのは「いかに負けるか」ということではなかっただろうか。少なくとも「負け方」を視野に入れておくべきだった。ところが当時は勝つことばかりを考え、負け方を全然考えていなかった。しかし、三上は唯一の例外であったのかもしれない。赤軍派が勇ましく登場してきた69年の段階で、三上はすでに後退戦をイメージしていた。豊かな想像力と先見性がそこにあった。学生運動に限らず、組織の中では一見勇ましい言葉が主流になりがちである。「卑怯者」あるいは学生運動の中にあって「右派」という汚名を恐れず、あえて後退をはっきり公言したところに三上の誠実さがあり、部下のメンバーの跳ね上がりを抑えきったところに、指導者としての資質の深みがある。60年代以降の学生運動の中にあって、上手に負けることができた唯一の指導者ということになる。



昭和の抵抗権行使運動(104)

日大闘争(12)


1968年9月30日の「大衆団交」で日大全共闘に全面屈服した大学当局は、その後、佐藤栄作のお墨付きを押し戴いて、学生たちとの合意を反故にした。以来、古田会頭以下の理事会は居直り、機動隊をふる活用して、なりふりかまわぬ弾圧を繰り返した。

1969年3月4日、ホテルニューオークラで「古田重二良先生激励会」なる茶番が開かれている。主催者には「社団法人日本会総裁・佐藤栄作」と「日本会調和連盟会長・中原夷」とあり、発起人には賀屋興宣・田中角栄・山岡壮八などが名を連ねている。

 日大闘争の発端の一つであった「背任横領」事件は、例のごとく、事務次長の逮捕というトカゲのしっぽ切りで終息させられた。

 その同じ時期(6月2日)、古田会頭は会長となり、日大は名実ともに〝正常化″した。
6月14日(土)

 日本大学に再び〝正常化″がやってきた。すべての門は閉ざされ、人が一人入れる位の臨時の門が施設され、昨年の4月頃から騒がれた34億円事件は、1年と数ヵ月で1人の経済学部事務局次長を逮捕するに終った。この間、学生は一万人近い負傷者と一千人近い逮捕者を出した。バリケードの中で授業が行われる。ヤクザ、職員、ボデーガードの見守る中で屈辱と怒りを、ふつふつと、心の中で煮えたぎらせながら、前に立つ教授の顔を軽蔑のまなこで見ながらも。

 私の何かが、こらえられない衝動にかりたたせる。社会は、われわれに黙れといった。諸君達は、真面目に大学を卒業し、就職するのが一番すばらしい生き方であると。ノーノーと叫ぶ私の人間性を自ら圧殺して何がすばらしい人生だ。日大全共闘の某君のアジ演説の中に、僕たちは、生きるか、死ぬかしかないのだと言っていた事を思い出す。日大の正常化? を認める事は、まさに、私の「死」を意味するのである。私の人間性を完全に圧殺する事になるのだ。私は闘う。日大支配体制に。一人-でもかまわない。外にいる学友と共に、討論、オルグ、資料作成etc……。

 自己の感情をおさえるのが何か知的作業とでも思っている人達がいる。そのような人達の行為には虚偽とイヤラしい装飾がある。私は叫ぶ。何度でも。ここから早く出たいのだと。海や山や野を見たいと。人間は自由であり、そうでなければならないと思う。私は、それ故、捕われの身となった。何度でも叫ぶ。自由の叫びを。再び灼熱の闘いを闘い抜くために。

清宮さんへ

 週刊・月刊誌等の重要な論文、ないし日大関係の文書がのっていたら保管しておいてほしいのですが。よろしいでしょうか。
 (理由)この中(東拘)では、資料・週刊誌・日刊紙等は読んだら廃棄処分しなければいけない事になっています。シャバに出た時闘争の事実を早くつかむ為と資料にする為。

 次の日記では6月15日の「反戦,反安保,沖縄闘争勝利集会」を取り上げているので、この集会について、少し詳しく記録しておこう。(「新左翼運動全史」より)



『6月15日の日比谷野音の内外は万余の大衆で埋めつくされ、60年安保闘争以来の最大のカンパニア集会となった。362団体、3万余名の労農学市民は「反戦、反安保、沖繩闘争勝利6・15実行委員会」の呼びかけにこたえて総結集した。この日の中央集会には、既成左翼と革マル派を除いた全左翼勢力が、とりわけ全共闘、大学べ平連、市民団体などの広範な無党派活動家が総結集して圧倒的な盛上りを示し、全国29都道府県72ヵ所、総数5万名は、70年安保―沖繩闘争勝利を固く誓いあった。』

6月17日(火)朝から小雨

やり直そう

 もう一度やり直そう。初めから。君は君の立場がそうさせたと外に半分責任を転嫁させた。しかしそうであっただろうか。君自身象徴化は間違いだといいつつも、責任を転嫁させたところに、すでに自己の問題があったのではないか。それは自己に対するいつわりの心と自己満足が存在していたのではないだろうか。

 君に今、必要な事は、君自身の中をじっくりと見つめる事だ。そしてすべての心の中にあるものを洗いだし、捨て去る事だ。そこがどこであろうとかまわないじゃないか。そして、そこから新しく出発しょう。一歩一歩大地を踏んで。

 6月15日反戦反安保6・15統一集会に東京3万6千、全国6万(16日朝、『読売新聞』)集る。逮捕者220人、福富節男農工大助教授が一週間位前に密出国の幇助の容疑で参考人として警視庁に呼ばれ、6・15では吉川勇一べ平連事務局長がフランスデモを扇動したという理由で逮捕された。警察の手口、あまりにみえすぎている。第一に、70年を前にし、大衆運動で頭角を表わしてきたべ平連に対する ― 反体制運動すべてに言える事であるが ― 先制攻撃である。そして一連の逃亡・脱出の。

 6・15集会、こういう言い方はまずいのかも知れないがハナヤカなる戦いである。単にマスコミは表面の現象 ― その現象も最近は相当曲っているが ― だけしかとらえない。マスコミだけでなく、われわれにもその傾向がある。たとえば東大闘争と言ったら何を頭に浮べるか。安田講堂、1月18、19日の戦いであろう。しかしその中に何があるというのだ。全国から集って来、安田講堂で集った多くの学友の経緯を、その安田までの戦いのドラマを誰が知っているであろうか。そして、まだ東拘の独房の中で誰も会いに来てくれる人のない安田で闘った地方大学の無名の戦士の闘いを、また、それよりも18、19日は、ほとんどの人が知っていても東大闘争の一年間の苦難の闘いのドラマを誰が知っているだろうか。その中にこそ、その小さな歴史の流れの中に、闘いの真実がかくされているのに。

 われわれはマスコミ的人間に毒されているのではないだろうか。自ら毒しているのか、毒されているのかは別にして。6・15でも、そうではないだろうか。基地闘争、大学闘争、反戦闘争、労働運動・差別etc・・・いろいろな、そして、マスコミ的に比べたら、日大・東大闘争とは比較にならないほど小さな戦いが、そしてある小さな職場の闘いの蓄積総体が6・15を作り出したという事を。

 3万のデモが行われた現実そのものの意義は大であろうが、その事実に、どれだけの真実がかくされているだろうか。われわれはその真実を追求する必要があるのではないだろうか。現代を追求し、そこで生きていく為には。

 われわれはよくいう。「10・8以降の闘いが日大・東大闘争の闘いが、現在の闘いを作り出したのだ」と。単にしゃべる事によって、闘いの重みを理解したと思ったらおおまちがいである。

 女の人が面会に来た。職員が名前を言った時、誰かと思ったら、姉の義妹だった。苗字が結婚している為変ったので知らなかった。姉に手紙を出してやってくれとの事である。そういえば、まだ姉の所はさておき、家にさえ一度も手紙を出した事がない。すでに一年半位になるか。戸川さんにも言われた。何も書く事ないのだが……。

 闘いの中では体制内化するおそれはないと思っていた。しかし、君はこの一年間で、その危険性がある事を知ったではないか。君には、君ではないものが常につきまとっている事を。そしてそれが君を常に体制内化させる危険性を有している事を。

 これは、誰しも大なり小なり持っている事であるが。では、君はどうすればよいのか。ただ捨てるだけでいいのだ。どうせ君のものでないのだから、君は今、考える時間が有り、そして空間を遮断させられる事によって、そのチャンスをつかんだのだ。君にとって、この時間、ここのような状況は二度と訪れはしない。君が、ここから出たら、その時、君の持った自由のない生活が、どうであったかがきまるのだ。そして、長い人生の一道程が……。

 だから、君の出たい気持は、よく判るが、その気持とは関係ない。今の君の時間は、戸川さんが言ったように、一秒一秒が君の長い人生にとって重要な時間なのだ。ここに幾月いようと関係なしに。

 弁護士が来る。田賀さん、前から比べると(12月頃より)顔の色がよくなっていた。言っている事もさえている。心と体は一心同体か。9・4の件で分裂裁判をやった八木君、実刑(1年何ヵ月といつたと思う)を食らったそうだ。権力もずいぶん卑劣な事をやるものだ。9・4は明らかに権力の側が、もし法によって集約するのであるなら - そんな事不可能だが ― 裁かれるべきである。


6月19日(木)

お馬鹿さん

 二重の苦しみだ。そこには、二つの問題がある。自己の未熟さと、他人様を公有物だと考えているお馬鹿さんとの。多分このお馬鹿さん、客観的には他人様を、公有物でなくして、意識しようが、しまいが自己の私有物としている。

 その人が公のものとなる、あるいはなりつつあるのを、期待するのはかまわないけど、その人を尊重してあげるべきではないだろうか。そうでなければ、その人は、自分の未熱さを知りつつも、いつもせいいっぱい生きているのだから、あまり苦しみを与えない方がいいんじゃないでしょうか。

 お馬鹿さんをせめるつもりはない(その資格を永遠に放棄しなければいけないような気が最近している。 - 人間全般にいえる事だ―)。だけどイヤな事だ(なぜなら自己の問題だけで解決しないからだ)。

 私は両親と、思想的問題に関して、ほとんど話合った事がない。また、私は親が私の問題に乗出してくるような場合があれば絶対反対する。というのは、いささか観念的になるが、親子の関係は現実に不可解の要素がいっぱいある。たとえば、子供のやっている事を、この事柄が何であるかは別にして、正当化したい、理解したいという気持、あるいは、子供のやっている事を真向から反対しつつも、心の奥底では認めている。

 この場合など現実には、その親が反対しているのだからと安心して、他人様がその息子の行動・思想を批判すると、その親は、いい気持はしない。かえって批判した人に腹を立てる場合などが多いのではないだろうか。親馬鹿という言葉もこのような事から生れてきたのだろうが、このような関係があるが故に、双方の思想が違っていた場合など悲劇を起すことなどが考えられる。

 親子の関係を維持するには、やはり、単純な親と子という関係でなくして、一人の人格者として双方が尊重するしかない。それがあるべき親子関係なのかも知れないが。こんな所でいう事は簡単だが、実際は非常にむずかしいと思う。私も、その自信がないから、「ほとんど話合った事がない」というふうになってしまっているのだが。

 今もつて自分の問題を親に伝えるのがイヤであるし、自分の事を少しでも知らないでほしい。なぜかそれでも、親子の関係が保てるような気がする。というのは、切つても切れない関係が、そこにあるという確信のもとでだが。



 学生運動の本質についての秋田さんの自問自答が続いているが、朝日ジャーナルに掲載された秋田さんの「獄中記」はここで終わっている。

昭和の抵抗権行使運動(103)

日大闘争(11)



6月9日(月)

転向・死刑……

 過去の事を、いろいろ書いた。そこから何かがつかめると思い。しかし、書いた事は同じような事ばかりで、私の脳裏には新しい問題、役に立つものはそこから出てこなかった。もう、ここらへんで中止する。ただ一つだけ記しておかなければいけないことがある。それは日大闘争が起り、私の思想が、現実を見たり、ないしは参加する事により、闘争に満足したという事である。そこには客観的闘いは存在したとしても、私自身の内的闘いは放棄されていた。自らの存在に疑いを持つ事なく。過去の事をとやかく言ったところでしかたがない。過去は、現実を変革し、未来を展望する事のみにおいて、重要なのではないだろうか。

 私の頭は混乱している。私に今必要なものは、何かといったら何もないと答えよう。君に今必要なものはすべてを捨て去る事であると。「私」から出発するのではなくして、無から、初めからやりなおす必要がある。いろんな障害が私の前に立ちふさがって来ることもあるであろう。それを突破する為にも初めからやりなおす必要がある。

 〝転向″。 ― 支配者はその言葉によって、事の是非を決めるかの如くの価値判断をする。私はまず、この言葉自体に疑問を持つ。はたして転向という事があり得るのであろうか。よく学生運動、労働運動を闘っていた人が、就職などすると、ヤツはヒヨッタなどといって批判する人がいるが、そうではなくて、過去持っていた彼の闘いの思想が、現在の就職であったわけで、他の何ものの思想でもない。また、闘っている人達の中で、いわゆる転向者に対して、罪を犯したかの如く批判する。しかし本当に批判出来るであろうか。そのような人達はこの地球上には万余と存在する。

 世の一人一人に憎しみを持って生きていけると思いますか。絶対できっこない。憎みや批判自体問題だと思うが、その論議は別として、もしその人に憎みを持つなら一度も闘いの過程を経ていない人達を憎むのがまだ妥当と言えないであろうか。多分憎しみを持つのは自らが内部に持っている闘いへの道の可能性を危険視して、他者がそれを行使する事により、自らの可能性を隠蔽し、一つの自主規制の為の手段としての他者に対する憎悪である。このような自己中心人物は ― 話が飛躍するが組織的問題として ― 内ゲバの論理の中にも一視点として明確に表われている。

 他者に対して自己は、いかなる強制力も保持しない。他者が体制内化されようとも客観的、科学的批判は出来たとしても人間的批判はゆるされないものではなかろうか。ただし、その人が自己の立場、現実を事実として語る限りにおいて。

 死刑 ― これは一人の人間を強制的に死に追いやる事により、生存するすべての人間に対する権力の恫喝である。なぜなら被死刑者にとって死が何の利益をもたらすというのだ。彼にとって「死」という言葉の意味の他、他の何ものをも持たない無・抹殺である。しかし、権力にとっては抹殺する事により、万民を支配できる秩序がためになるのである。これが、いつの世を問わず、権力が保持する本質である。

 風邪、ほとんどなおつた。多分五日の裁判所に行った日ひいたのであろう。何せ、人と接触する事がなかったから免疫がなくなっている。3ヵ月対話する相手が存在しない。この中にも思想的問題においては単に法という事において、規制されるだけではなくして、権力の思想対反体制の思想というように明確に対立している。独房・これも一つの対決である。集団房に入れたなら……。時間切れ。



 ここでも大変重要な問題が考察されている。

 転向は、狭義には国家権力に屈服して起こる思想的変節あるいは思想転換という意だが、秋田さんは何らかの事情で組織や運動から退くというようなことも含めて、もっと広義の〝転向″を思考対象としている。そうした意味での「転向者」を個々人がどう考えるかは大きな問題ではないと、私は思う。「他者に対して自己は、いかなる強制力も保持しない。」という秋田さんの判断につきる。

 秋田さんは「話が飛躍するが」と断りを入れているが、「組織的問題」としての「転向」こそ重要である。それは「内ゲバ」の問題につながる。そしてさらに、組織を「開いていく」という問題に関わる。この問題は『「独立左翼論」を読む』の続きで取り上げる予定である。

 死刑についても秋田さんは「生存するすべての人間に対する権力の恫喝である」という重要な観点を指摘している。先頃、「光市事件」の被告人に対して「殺せ!殺せ!」の大合唱が起こったが、死刑制度の本質をわきまえない醜悪な騒動だった。なおついでながら、「きっこの日記」はその大合唱のお先棒をかついでいた。「きっこの日記」の政治批判や社会時評を買っていたのだが、以来閲覧をやめた。

 さて、日記は次に「獄中での闘い」を考察しているが、獄外の動きにも触れているので、「日大闘争一周年全学総決起集会(5月21日)」以降の日大全共闘の動向を記載しておこう。

6月6日
 経済学部1号館7階大講堂で経済学部学生集会を企画。学校当局は立入り禁止処置を執る。機動隊の弾圧があったが、学部前での集会を貫徹。

6月7日
 横浜国立大において、労学総決起集会開催。

6月8日~6月10日
 アスパック川奈会議粉砕闘争。

6月11日
 明大学館前で日大バリスト闘争1周年全学総決起集会。
 経済学部前で経法奪還闘争。
 4000名が結集。不当逮捕者46名。

6月13日
 授業料納入拒否闘争を宣言。
 日大全共闘法闘委、授業料不払い同盟を結成。

6月15日
 反戦,反安保,沖縄闘争勝利集会。
 『「大学立法」粉砕、中教審答申粉砕!全国学園闘争勝利!』を掲げて「大統一行動」。
 日大全共闘5000名参加。

6月20日
 明治大学学生会館で新入生(藤沢校舎)討論集会

6月12日(木)

権力の手中で闘う

 第4回ASPAC - アジア太平洋閣僚会議、伊東川奈で8日から開催(たしか3日間だった)される。これは朴が共産主義の侵略にそなえ自由? アジア諸国に呼びかけたものである。第4回のASPACでは、その本質を見やぶられるのがこわいのか、愛知はしきりに非軍事的意図からもたれた会議であり平和的機関である事を強調する。これが東南アジアをめぐる軍事的・経済的・政治的意図から持たれたのは確かであろう。第4回だから第1回が1965年として、その時期はベトナム戦争の拡大と米軍及び米国に対する世界各国の批判と、ベト反戦闘争の高揚の中から生れているという事から、米国のおぜんだてがありアジア帝国主義国の危機感から持たれたのであろう。軍事的意図は、直接的なものより間接的なものであろう。

 11日、バリケード一周年学生総決起集会が明治大学で開かれたそうだ。昨日の7時のNHKラジオニュースでは学生二千人であるのに、今日『読売新聞』には一千人と書いてある。事実は一つなのに、どうしてこう食違つちゃうのかな。多分私の予測では三千はかたいな。経法奪回闘争三十数人か四十数人逮捕されたと聞く。

 〝闘い″ ― 闘いにおいては、自己の目的が万民の目的と合致する事が、第一番目に必要であろう。〝闘い″自己に対する対立物が自己の外側に存在してこそ、自己との闘いも可能になるのである。自己との闘いが存在するから外との闘いが存在するのでは決してない。そして、闘いは、自己の人間的欲望をみたす、具体的変化が必要である。内的変化でなくして、外的変化が。ただし内的変化を否定するものではない。外的な物を動かす事により内的な物も変化する。また、外的変化の形態により内的変化も規定される。

 よく集会などで数日間逮捕された学友が「私は国家権力の弾圧にも屈せず、完全黙秘で闘ってきました」などと出獄の挨拶なんていうらしいが、私はそれを開いている時、常に一種の違和感を持っていた。その違和感が何であるかが権力に捕われる身になってようやく判るような気がしてきた。

 まず、大上段に、ハッキリいうが、捕われの身は闘い ― 運動 ― ではないという事である。拘置そのものは権力と闘うものにとって耐えがたき屈辱である。「自己」対「権力」という関係においては圧倒的に権力の力が強いのだから、そのような関係は現実として認めざるをえないのだが、現実にはその力に屈したという事である。 ― 一時的に出ることが永遠に不可能であるなら一時的ではない。 ― 権力により拘束された人が強固な反権力思想を持っていたとしても、しょせん闘いとしてはなりたたないであろう。権力強圧機構の真っただ中に、権力により強制的に入れられた人の闘いは、存在しないのか。

 それはある。ここから脱走闘争を展開する事である。しかし、現実の社会情勢では無意味に近い。東大闘争の闘いの過程で行われている統一公判を実現する為の分離公判粉砕闘争は「権力の中」での闘いとして、闘いといえる唯一のものであるだろうが、これとて、闘いの二次的要素しか持ちえない。しょせん、勝利しても権力の中である。また、これが第一次的闘いになったら大変だ。

 ひたすら、屈辱に耐えながら、理論武装にはげむ。再び闘いぬく為に。するどい正義のキバをとぐことが今の私にとって、唯一、権力に対する反抗である。

 うまく、いいたい事が書けなかったけど私は出所した時「……で闘ってまいりました」なんて絶対にいわない事にする。欺瞞である。そして、拘束された中で闘う事も確かに闘いだが、われわれが外で言っている闘いと性格が異るような気がする。ここの中での闘いを軽視するものでは決してない。しかし、権力により闘いの性格をゆがめられ、無意味にされているという現実を言いたかったのだ。だからこそ、権力は長期大量拘留を行うのであろうが。



昭和の抵抗権行使運動(102)

日大闘争(10)


 闘争の過程で、秋田さんは日大全共闘の議長という役割を担わざるを得なくなった。秋田さんが自己に忠実に真摯に生きる道を選んだが故の結果であったが、秋田さん自身は自分自身を「指導者」とは規定していない。「自分達の問題は自分達で」やるという原則の下で、指導者は必要としない。ここにもあり得べき組織の的確な洞察が光っている。

 また、学園闘争の象徴として「秋田明大」という名がカリスマ的に全国に知られていったが、秋田さんはその「虚像」と本来の自分との亀裂を悩んでいる。本来の自分をいかにして取り返すか、模索している。

 6月3日(火)

自分をとり戻したい

 私は、この1年間、何を得たか。この1年間、組織に拘束され自己というものをなんら真剣に見つめる事が出来なかった。逆に、私が組織になっていたのだが。そして、権力と組織、闘いetc・により私の思考力はすでに能動性を喪失し、過去において蓄積されていた知的本能でしか行動出来得なかった。

 私がこのような私自身の立場、自己を感じたのは、昨年の6月か7月頃であったと思う。その時感じたのは、苦しかった過去の闘い ― 4・20以降の経済学部の生々しい闘いの ― あの感覚が無性になつかしかった。そして、その時点での苦しみは過去に此べると無に等しかった。そして、私は、その時私の置かれた立場、身動きできない所に立たされているという事も感じていたからである。私はそれが無性にいやであったし、しかし、どうする事もできなかった。

 結論から言うと、私は、私の置かれた重さに耐える事が出来なかったのかも知れぬ。(認めたくない。これは!)

 名前ではなくして、自己としての私が、その契機を作ったのは、3月21日の逮捕である。そして獄中である。過去を遮断する事によって、再び私が再生しようとしているのである。私は、もし、ここを出て、議長というイスが、自己というものでなく、虚像化された名前であったなら、そんなもの、ほうり出してやるつもりだ。それが運動にとっても、私にとってもいい事であるという事は絶対的に言えるのではないだろうか。

 私は何も語らなかった。他人様を指導しようと思った事は、ほとんどなかったと言ってもよい。人間が人間を指導するなんて、私には、それ自体、罪悪のような気がした。その為か私には、ずいぶん無理おし、利用しようとする人達が出てきた。他方、自分達の問題は自分達でやろうとする連中も出てきた。私は、この連中を、前の連中の行う屈辱に耐えながら待っていたのだ。それのみを、心の奥底からの気持として、長く長く屈辱に耐えながら。

 松島という男、今日、接見に来る。何者かよく判らないが、右翼的部類に入る事間違いない。そして、日大関係のバックがある事も。帰る時、物騒な事を言って帰った。「全共をおさえる」と。あんまり日大闘争と(純粋)関係ない人にこられては困る(三度目である、東京拘置所に来てから)。

追記・・・最近、気のせいかも知れないが接見の時、看守が記録する手がよく動く。手紙・接見の会話すべて権力につつぬけというのは、おもしろくない。



6月7日(土)

私という虚像

 自分をとりかえす為にくり返し、過去から現在までの思想的総括を行う。それが私にとって、今一番重要な事だ。

 これまで闘いの積極性・能動性を強調してきた。無意識の内に、あまりにも。それ故に浮足たった私があった。そしてイラダッタが。現在私は捕われの身だ。過去から現象的にせよたち切る事ができた。私が再び自己を取りもどすチャンスがきた。戦いの中に埋没し、組織化された自己の思想から自己を切離す事ができる可能性がある。

 戸川さんの手紙に、私が拘置所の生活が退屈だといったら、「何をねぼけた事をいっているか」と言われてしまった。強烈な言葉だ。私は、こう答えざるをえない。「ねぼけていたのは拘置所だけでなく、この一年間ねぼけていました。少なくとも、私の思想的基盤から考えても認めざるを得ない」と。

 私が日大闘争を、個人として闘うようになったのは、今から3年前だが、私は、一度日大での闘いを放棄しようとした事があった(数回あったといってもよいであろうが、はっきり決意したという意味である)。日大の強大な支配機構の中で闘う事が無意味で、運動の前進がなんらないと、主観的に思った時であった。

 しかし、運動から逃避する事ができなかった。逃避する事は、私の思想的原点を自らが否定する事になり、どうしても私にはできなかった。それを、私の心の中から取りされば、私には何も残らない。その時決意せざるを得なかった。一般的社会がもっている価値観を否定して生きていくしかないと。自分がもっている思想的原点を行使するためには、それがいかにみじめであろうとも、苦しかろうとも(その時そう思っていたのだが)、私には、これしか生きる道がないのだと。生きる為に闘いを選択したのであった。それが日大闘争の勃発により、自らの思想に満足してしまい、闘いの中に埋没してしまったのである。



 同じ日の日記で、心優しい闘士はバリケート闘争の折の西条警部の死を悼むことも忘れてはいない。さらに続いて、5日に行われた拘留開示の裁判の様子を記録している。

 死はいかなる理由によっても正当化できない。特に、それが、社会的死であればなおさら。闘争の間、西条警部の死によって私が得た結論である。西条警部の死はわれわれが今後解決していかなければいけない問題である。現在の社会のこのような課題は永遠の課題なのかも知れない(それを永遠というふうに認める事はできないが)。

 暴力についても同じ事である。死・暴力について、無責任な評論家どものように是非論を問うているのではない。人間の思想的問題としてである。

 5日に拘留開示の裁判があった。2ヵ月ぶりに東京の街を見る事が出来た。外界になれてないせいか護送車で地裁へ行くだけで疲れる。30~40人来ていたであろう。裁判官に拘留の不当性について述べたが、自分でも何を言ったか判らないくらいだった。相当興奮していたのだろう。その時、あの浮足たった気持がおきた。虚像と自己、学生の声(ヤジ)の中にいた私は、なおさら、あがった。しかしよく考えてみると、それは、自己の問題である。裁判所で2人の経済の学友、富樫、塙が逮捕されたそうだ。思いもかけぬ所で逮捕されたものだと考えているだろう。常習犯だから消耗するヤツではないが。意外な場所でつかまったものだからどうだろう。

清宮さんへ

 元気でやってます。戸川さんから手紙もらいました。「徐々に、目をさます」とお伝え下さい。「それは私にとって、永続的に行わなければならない問題であるし、特に今が一事重要な時期かも知れません」



昭和の抵抗権行使運動(101)

日大闘争(9)


(5月27日の日記の続き)


誇りを内に


 6月1日号のジャーナル差入れされる。日大闘争一周年特集号だ。意外にも いっさい黒く塗りつぶされていなかった。中島さんとの座談会、大衆闘争についてであったが、何か鋭いものがなかった。もちろん全共闘に今必要な事は、この事と内と外との状況をいかに打破するかである。この二つが理論的に結合し理論化すれば、もっと鋭い展開が出来たと思う ― 1、2月初め、私が言った問題からあまり発展していない ―。頭でっかちの現実逃避は絶対避けねばならない。入試粉砕を前面にかかげるのは、理論的におかしいし、現実的に出来ない。われわれはヘルメットと角材がなければ闘えないという意識があるが、これは絶対克服しなければならぬ。現状を考えるなら、このような意識をすてて学生と徹底的に討論し、問題に答えるべきである等々 ― 思えばこの時期が運動の展開期であった。

 倉田さんの文章、日大闘争の根本的思想をとらえていた。やはり日大で闘った人だ。郡山の闘争記、まさに日大そのものである。体が自由であれば、郡山に行って共に闘ってやりたい気持である。へコタレなければいいがと思う。こういう所から立派な運動と思想が創造されるのである。過去に経済学部がやったように、そして日大闘争のように。

 〝闘いを乗りこえ、継承し、新たな闘いを″〝誇りをすてよ″(絶対にいい言葉である)と倉田さんの文章に書いてあった。誇りをすてよ! 過去のいっさいの誇りを。巨大な闘争をなしえたという誇りを。しかしその誇りを忘れてはならない。その誇りは、心の片すみにしまっておくものである(思想化)、それは、他人様に絶対しゃべるものではない。そして、現実の闘いにすべての思想を〝ブッ ツケロ!″

 酒井が今日(27日)来てくれる。闘いは良くなっているそうだ。5・21の一 周年闘争に三千人集ったといっていた。ただ前とちがって集会にしか集らないそうだ。沖縄デーで日大も逮捕者が出たそうだ。私にはなかなか会いにくいそうだ、1日1人だから。各学部のメンバーが若い人と入れかわったと言っていた。非常によい事である ― 詳しい事が解らない。 ― 闘いのスケジュール化がおきているようだ。一つに拠点がないという事はいたいことであろう。そして、学内に入れないという事も。これはあらゆる方法で内と外を結びつける必要がある。そして、それらを毎日、日常活動として全面的に強力に(そこから新たな組織化もなされる)行うべきである。スケジュール闘争では、ほとんど運動の前進はみられないであろう。外の部隊は、自らを外として位置づけるのではなくして、当局の不当な行為によって外におらざるを得ないのだという事を自覚して、内と外の壁をブチヤブるチャンスを常にねらい、日常的に壁を形骸化させて行くべきである。すなわち、闘いは常に日常化させなければならないし、闘いは常に敵との接点を持たなければならない。闘いは常に能動的でなければならない。

清宮様へ
拘置所の中は少し暑くなって来ました。聞く所によると、闘いは相当忙しくなって来たようですが、ジャーナルを読んだら1日中興奮して夜も眠れませんでした。― この中刺激が少ないですからね ― 思っている事を何でも書こうと思っていますが、いろいろと制約があるから ―。自分で読んでみても、何か隠しているようです。出来るだけ、好きかってな事を書 くように致します。
 追伸  この手紙ついたら返事下さい、と言うのは、私の手紙が着いていないのか確認出来ないから。

 1969年5月27日 秋田明大



 獄中にありながら、なお闘志満々である。

 多くの闘争(抵抗権行使運動)は闘いがスケジュール化することによって衰退する、というより、運動の衰退の結果が「闘いのスケジュール化」となって現れるというべきか。秋田さん、さすがは日大闘争を引っ張っていた闘士だ。その辺の事情を見抜いている。「闘いのスケジュール化」を克服する方法も的確に述べている。「闘いは常に日常化させなければならないし、闘いは常に敵との接点を持たなければならない。闘いは常に能動的でなければならない。」と。

 この頃の日大全共闘は拠点を奪われたため、明大や法政大などキャンパスに間借りしていた。秋田さんの逮捕の頃から「5・21の1周年闘争」までの日大全共闘の闘いを年表風に追ってみよう。

3月23日
 経法奪還闘争

3月25日
 法政大学内での新入生連帯・経法奪還闘争総決起集会に5000名が結集。

3月30日
 三里塚空港建設阻止闘争に日大全共闘1000名参加。

4月12日
 明大駿河台での日大闘争勝利・経法奪還闘争集会に3000名結集

4月28日
 沖縄闘争に日大全共闘1000名参加。

 この沖縄闘争は激しい闘いだった。4・28闘争救援対策本部によると次のような被害者が出た。(5月12日現在の数字)

逮捕者 965名
拘留者 766名
入院  11名


 この沖縄闘争は新左翼運動の大きな転換点になった。「れんだいこ」さんの「戦後学生運動史」から引用する。

『4月28日の沖縄反戦デー闘争の総括をめぐって新左翼内に対立が発生した。新左翼各派は自画自賛的に「闘争は勝利した」旨総括したのに対し、赤軍派を生み出すことになる共産同派は、「67.10.8羽田闘争以来の暴力闘争が巨大な壁に逢着した」(69.10「理論戦線」9号)として「敗北」の総括をした。この総括は、やがて「暴力闘争の質的転換」の是非をめぐる党内論争に発展し、党内急進派は、「11月決戦期に、これまでどおりの大衆的ゲバ棒闘争を駆使しても敗北は決定的である。早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起すべきである」(前記「理論戦線」9号))と主張して、本格的軍事方針への転換を強く主張していくこととなった。この流れが赤軍派結成に向かうことになった。』

 『独立左翼論』の筆者・三上さんは、このとき共産同(第2次ブント)に所属しており、この闘争で逮捕されている。後に赤軍派が結成されたとき、これとは袂を分かって結成された叛旗派の代表を務めることになる。

5月17日
 明大学館で経済学部討論集会・経済2年全体集会

5月20日
 理工1号館で理工学部教授会団交

5月21日
明大記念館で日大闘争一周年全学総決起集会。4000名が理工へデモ。校舎内に突入。

 さて、秋田さんの日記では「組織と個人」の問題と「スケジュール闘争の克服」の問題への思索が続けられている。

5月28日(水)

自ら創り出そう

 日大において、全共闘なるものが大衆組織として存在するが、この組織自体、前衛的役割を持っているし、前衛組織といっても過言ではなかろう。しかしながら前衛といったら、すぐに思い当ることが「運動の指導」という言葉であろう。この全共闘組織は、いっさい指導という言葉は存在しないし、指導組織ではない。指導なき前衛組織などありそうにないといわれるかも知れないが、まさにそうである。この全共闘組織総体が前衛であるが故に、闘いに参加するすべての学生が、前衛的役割をはたしているのである。すなわち闘う学生一人一人が前衛であるという事である。本来組織自体矛盾の媒介物によって出来たものであるが、この全共闘組織の前衛理論が行使されるなら、組織の本来的矛盾は解消されるであろう。また、組織内の真の直接民主主義も貫徹されるであろう。

 あれはたしか、2月11日だった。五 万人集会が終り、また私のモグラ生活が続く、まっくらな室に入る。今夜はここがわれのねぐらである。催涙弾をうつ音が、デモのかけ声と共に不連続的に聞える。

 今日は人数が多いし、別に行動目的を打出していないから、大丈夫であると思う。催涙弾の音も別段気にならない。外から見えないように、体を折ってタバコをすっていると、1月19日の神田解放区で先頭で闘った東大の学生が一人とその付添いであろうと思われる学生が入って来た。彼にも逮捕状が出たとの事である。

イタズラ独房より

 保釈。それは何に依って決定されるか。六法全書。そんなものではない。出来るだけとどめておこうとするだけさ。国民に害を与えるから。そんな事ないさ、支配者に害を与えるからだよ。じゃ、永遠に出獄出来ないじゃないか。そんな事ないよ、日本は法治国家だもの?

 身体をもて余しています。横1.5㍍たて3㍍の広野で?

5月31日(土)

 〝戦い″。権力との接点に立つ事。

 闘いは戦いの存在する所で戦うのではなく、闘いのない所で戦うのが真の戦いだ。すなわち、闘いの中に依存する事なく、埋没する事なく。闘いは自らの力で創り出すものである。

 今日、父が来た。身体障害者の旅行で会津磐梯まで行って帰りとの事である。私が逮捕されてから、これで四度目だ。一度目は、接見禁止がかかっていたから会えなかったが、今日を入れて後の三度は東京拘置所で会った。兄は元気で働いているそうだ。回を重ねるごとに、父の気分、心配事も薄らいでいるようだ。私の心配したほどでもない。仕事もうまくいっているそうだ。

 昨日の雨とは違って、今日は雲はあるが初夏を思わせるいい天気だ。グングンと夏になってくるに従い、落ちつかなくなってくる。夏に〝熊の檻″みたいな所にいたのではやりきれない。

 昨年の夏は忙しすぎて、ずつとバリケードの中、今年こそは夏の太陽が拝めると思っていたのだが……。だが、まだ可能性がある。どこだつて、夏は近くともまだ夏ではないから。無神論者だが、7月10日頃までには、頼みますよね。 ― 最近半年かそれ以上位ぶちこまれるのではないかという予感もしないでもない。



昭和の抵抗権行使運動(100)

日大闘争(8)


5月24日(土)

 起訴されて今日で2ヵ月目だ。昨日、39番から34番室に変った。23番新宿、24番東大、岡山大の学生、いずれも闘士である長期拘留者の間にはさまれると、おれももう2、3ヵ月は覚悟しなければならないと思う。

 組織と個人 ― 組織じたい本来的に矛盾物であり、これ自体が矛盾するものであり相互に補足し合うものであろう。そしていかなる組織にせよ、ある場合、人間の成長をさまたげるし、自由を拘束する。

 私は、この1年間何を学んだろうか、2、3年前までの私が培ってきた思想を燃焼させたに過ぎないのではないだろうか? こういう疑問は常に私の心の中にあった。だが現実の闘い ― この一年間の ― があまりにも大きいがゆえに、それを断言する事ができなかった。この1年間の闘いは私にいろんな教訓を与えたはずだと。しかし、その教訓を私は見出す事が出来ない ― これは、単なる組織に原因があるのではない。

 ただいえるのは、私の立場が私の頭に自由を与え、自由な思考判断を妨げていた事を ― これは自身のり越えなければいけなかったんだろうが ― 学園闘争、政治闘争結合上からの理論体系から解明するより現実の闘いの中から総括的に解明していったほうが良い方法だと思う。

  組織・セクト  ⇔  個人
         矛 盾

  方法      ⇔  ?
         矛 盾




 同じ拘置所に拘置されていた「新宿」というのは、たぶん、1968年10月21日の国際反戦デーのときの逮捕者だろう。騒擾罪が適用され、約450人が逮捕されている。東大生は東大闘争のときの逮捕者だろう。・岡山大生は東大闘争の応援学生だろうか。

 ここで秋田さんは「組織と個人」の問題を考察している。いま中断している『「独立左翼論」を読む』は、この問題を取り扱こうとするところであった。とりあえず学園闘争の全共闘組織について述べておく。

 全共闘組織と政治的党派(セクト)との違いは、その組織が「開かれている」かどうかにあると思う。全共闘を担った主体は、いわゆるノンセクトラジカルであり、闘争への参加・不参加はあくまで個人の判断に任せられていた。東大闘争で安田講堂に残った東大生は自分の自由意志で残った。最終段階で退所した人たちが非難されるようなことはなかったと思われる。私はこのようなあり方こそ理想と考えているが、これが政治的党派においても可能であろうか。秋田さんの悩みも、たぶん、そのようなことであったろう。

 全共闘は、結局は「セクトの論理」に浸食されていき、そのラジカル性と大衆性を失っていったのではないかと思う。

 もう少し付け加えると、「閉じられた」組織は、そのタガが強固になればなるほど、内ゲバや内部粛清の危険性が大きくなる。「集団と個人」の問題を思想的に解くことは重要事である。

 「日の丸君が代の強制」による処分者の闘いにはさまざなな市民団体・個人が支援に参加している。あるいは政治党派の人たちもいるかもしれない。その闘いの集会では次のような取り決めを共通理解としている。

 本集会は、下記の「申し合わせ事項」にもとずいて運営されています。

1.集会タイトルに示された一致点で、協力・協同する
2.非暴力であること。
3.互いに誹謗、中傷、攻撃を行わないこと。
4.意見の相違を認め合い、一致点を大事にすること。
5.組織、個人にかかわらず、互いに対等・平等であること。


 これまでのさまざまな闘争であらわになった弱点を克服する道筋、「開かれた組織」のあり方を示していると思う。


5月27日(火)

 この1年間の闘いは、私の思想を燃焼させたが、その中から得られた教訓は、現実的に何もないのではないかと前に書いた。そして何かがあるはずだとも書いた。それはあまりに現実になしえた事が偉大であったから。しかし、偉大な闘いを思想化する事をこの1年間おこたっていたのである。

 私の頭には未整理な状態である ― この間題を考えてみたのだが、一つに理論と思想というものを便宜上区別して考えてみると、私の思想過程の中でこの大闘争が始る時にはすでに、一応の思想的確立がなされていたのではないかと ― もちろん人間は一生自己変革をなすものであるが―。そして 日大闘争が顕在化した時に、ある一定の思想をもって戦って来たともいえる。

 私がこの闘争が起きて何か思想的に(=理論的に)獲得したと言えるものがあったかと言われたら、自分の思想 ― 根本的 ― に確信を持ったというのが正直な答えである。しかしながら1年間の教訓(あくまでも1年前の私の思想と相対的な関係においてである)が現実に存在しないと思われるのは、一つにあまりに急激に闘いが進行したが故に、理論的 ― 思想的 ― 飛躍を要請され、その結果理論的迷いが生じた事によるのだろう。この間題には、私の立場、組織的問題があった事をつけ加えておいて良いであろう。

 この文書を見て解るように、結論は、私の頭の中が未整理であるという事である ― 試行錯誤する事は良い事である。なぜなら、新たな思想の芽生えであり、自己変革の一過程であるから―。



 日大闘争という「偉大な闘争」が,当事者たちの思惑をはるかに超えて「あまりに急激に・・・進行し」ていったことに対する戸惑いが率直に語られている。このような「偉大な闘争」を思想的に総括することは大変な難問であろう。

昭和の抵抗権行使運動(99)

日大闘争(7)



5月13日(火)

判事はデタラメだ

 昨日、二度目の保釈却下の理由書を見る。却下理由は、
一、住居不定
二、証拠隠滅のおそれあり
三、果した役割、立場
等々であった。

 私はこの理由書を見て、法というものが、いかにいいかげんなものかを、まのあたりに見たような気がするし、実際頭にくる。私は、阿佐谷に、チャント下宿があり、今でも家から部屋代を送金してもらっている。

 理由書いわく。昨年の八月頃迄は、下宿に帰っていたが、本件がおこってからは、ほとんど帰宅していない、その後、知人宅、日大分校、友人宅を転々としていたとの事だから、住居不定は免れないとの事である。明らかにこれは、こじつけであるし、事実と違っている。どうもこの部分は、私が警察でいいかげんに答えた所を引合いに出しているらしい。このようなことを調べもせず、イイカゲンに友人宅、知人宅とのせるのがコッケイであるし、まったくのデッチあげである。あんまり馬鹿らしいので反論しない事にする。

 とにかく、この裁判所の出した保釈却下理由書は、何がなんでも私を出したくない、出さないと決定して、あとから却下理由をさがして、つけ加えたようなものだ。このような状況をみると、どうも私は、裁判所のこじつけ理由がなくなるまで、出られそうにない。権力の方は最大限拘束すのであろう。



 公安関係や行政訴訟の裁判での大方の判決は、初めに結論ありきで理由は後付だから、その判決文は詭弁の見本市のようなものになる。『「君が代解雇裁判」オソマツ判決の詭弁』で、私は次のように書いた。

 君が代解雇裁判の判決言い渡し法廷。裁判官は「原告の請求を棄却する」と述べるやいなや、逃げるように退廷した。その間おおよそ10秒。原告はじめ多くの人が時間をやりくりして法廷に参加しているのに、何たる無礼。ただただ驚き呆れる情景だ。その判決内容もこれ以上は悪くなりようがないほどのオソマツなものだった。裁判長の名は佐村浩之。

が、場数を踏んできた弁護士さんはこれが大方の裁判官の実態だという。

 裁判所も所詮はブルジョア民主主義を支える一機関に過ぎない。と言ってしまえば身も蓋もないが、この国の裁判の実態をみればそういわざるを得ない。公害関係の裁判などでは被害者よりの判決がないではないが、行政訴訟では行政権力に媚びた行政追認の判決のオンパレードだ。

 裁判とは、慎重に事実関係を調べ、客観的証拠をもとに、憲法の理念と条文に照らして判決を決めるものと、私(たち)は思っている。もし裁判官がそのように正しい裁判理解のもとで正しい手続きを踏んで判決すれば、 9.21難波判決のような判決が当たり前になるはずだ。当たり前のはずの難波判決が稀有のものとなっているのが現状だ。

5月20日(火)

 毎日が単調な生活であきあきしている。最近、運動の事があれやこれやと頭に浮んできて退屈をまぎらわしてくれるかと思ったが、その実、気分を安めるものではない。闘争に関して、今私に出来るものは一つもないのだから。

 ふと、頭の中で、ここから脱走できないものだろうかと、その方法を考えてみたりする事がある。それは空転にすぎない。実際、権力は、いい事を考えた。一人の人間を、一時的に無能にするには、ここへ連れて来てしまえばよい。ただし闘いは弾圧によっては終らないだろう。

 現在、東京拘置所には、教育大の学生が拘置されている。昨年の米タン阻止、東大、4・28沖縄デー、少なくとも500人前後はいるのではないだろうか(その中の何割かは、縦三㍍、横1.5㍍の独房)。それらのほとんどが、次期の闘いにそなえているわけである。

 ここは、精神修業と肉体を休めるには理想的(?)なほど環境が整っている。朝7時起床、7時半野獣のような看守の声と共に点検、8時朝食、11時半昼食、4時半夕食、5時点検、5時半仮就寝、9時就寝。牛後5時~9時まで毎日、文部省推薦のラジオ番組(主に野球、音 楽、漫才)、毎日30分体操、独房から、その3~5倍位の広さにすぎないが、ともかく解放されるわけだ。

 早寝早起きで、老人向きには良いだろうが、われわれには、どうみでもむかない。 ― ときたま、学生の遠ぼえがする ― ここでは休養をとる所と考えておけばよい。多分、ほとんどの学生は、休養を取り過ぎてエネルギーの発散に困っていると思う。だから、権力はわれわれを、出さないのだと思うが――。

 丸の内署で、4月3日ごろ、隣の房の人からこんな事を聞いた。万世橋の刑事が「秋田をねらっていた右翼を逮捕した」といっていたという。くわしく聞こうとしたら看守がとめた。私は、一週間前の、私のしらべの時、刑事が「一月頃から君をねらっていた右翼がいた」といっていた。私は、その時半信半疑であったが……。

清宮さんへ
 元気でやっています。ただ一つだけ残念なのは、ここから出られないという現実だけです。日大闘争は終りなき闘いであるという事を大衆的に確認して、すでに数ヵ月たちますが、この中にいても1年や2年では 終りっこないという事をハダで感じます。 ― 出たら終っていたという心配はないわけですね ― マアのんびりやるよりしかた ないのでしよう。気候もよくなったので夏までには出たいのですが ― 私は、夏が一番好きです。では、闘いはは長いのですから体に気をつけて頑張って下さい。むりをしないように。前いっしょに来た人に、会うことがありましたらよろしくつたえてくだ さい。



(注: 文中の「清宮さん」は日大闘争救援会の清宮誠氏のこと)

 拘置所(=代用監獄)の様子がよく分かる。こんなところに3ヶ月上もぶち込まれたら、私などは発狂してしまうかもしれない。秋田さんの精神力は相当なものだ。

 5月22日(木)

父を思う

 咋日計量する。68㌔もあった。3月12日丸の内署夜61㌔。

 家の事が気にかかる。家のことはすでに私の心の中で決着をつけたはずだった。と言うより、戦いの中で乗越えたものとして忘れていたのに、父母がどんなに心配しているか気になる。父は深く考える方だから。 ― 私は家庭の事を考えて心配するという事は、自分が将来に対して生きる自信がないからだと、ずっと自分をいいきかせてきた。そして私の運動の事は一度も話 したことがなかった。父は1年半~2年前頃から、うすうす気づいていたらしかった。

 というのは、昨年の冬休みだったと思ったが、郷里に私が帰った時、車の中で、私にそれとなく「就職する際に思想的な事を会社が聞くのか」と聞いた事があった。父は、この時、私がどういうか、その反応や気特を知りたかったのだろう。

 私は、この言葉を忘れる事が出来なかった。それはすべてを察して私には直接なにも言うことなく、それとなくわが子の事を心配している、その親の気持が、そしてその時私が思ったのはその言葉にまずドキリとしたが、自然なふるまいで「それはそうだよ」と、答えながら、親はだませないものだと思った。

 私が直接、父母と思想的な事を話したのは、これが初めで終りだった。それ以降は、日大闘争が社会的に知られるようになり、私の名前がマスコミにのり、私が運動をやっている事を知ってからの事である。この時になって、もはや親としては私のすべてというよりは体の事を心配することぐらいしか出来なかったらしい。

 私は、親をだますつもりはあまりなかった。心配をかけまいとする気持がおおいにあって、しらさなかったのかもしれない。もう一つの要因は自分の事は自分でやるという主体性を重んずる気拝が強かったのだろう。一年近くも家庭のことを考えなかった私の心が、むしろ異常だったのかも知れぬ。その問題一つとってみても一生つきまとう問題なのかも知れない。



 ご両親はあくまでも息子を信じ、温かく見守っていたことがうかがい知れる。ご両親も立派だと思う。

昭和の抵抗権行使運動(98)

日大闘争(6)


 日大全共闘は、安田講堂攻防戦以後も、さまざまな集会やデモにおいて高い動員力を誇っていた。それだけに受けた被害も大きかった。日大闘争救援会は、1969年5月20日現在の日大生の被害を次のように記録している。

逮捕者 997名
うち起訴されたもの 68名
拘留中のもの 27名
重傷者 713名(うち失明3)
軽傷者 6,296名

 この日大全共闘を指揮した秋田明大議長の人物像を、「ウィキペディア」は次のように描いている。

 「ビラ配りもできない日大で学生運動を始めた男」「リーダーの名は、日大なのに"メイダイ"」。その名はカリスマ性を持って瞬く間に全国の同世代の学生たちに広がった。アジ(agitation)を得意とはしなかったが「大衆」、「自己主張」、「自己否定」、「自然発生」、「大学解体」などの言葉を好んで使い茫洋とした包容力で全国的に名を高めた。

 『秋田日大全共闘議長の獄中日記』(以下、「獄中日記」と略す。)の前書きでは、その人となりを次のように描いている。

 「とぎすまされた」山本義隆・東大全共闘代表に比べ、秋田君は、大人物、といわれている。人間的、あまりに人間的。そのおおらかさはすべての学生をつつみこんでしまう。どこまでも厳しいはずのいまの生活にもかかわらずかれの人間性はある意味で読むものをホッとさせる。

 お二人とも議長になりたくてなった分けではいが、それぞれの特質を生かして、それぞれ日大闘争・東大闘争を精一杯真摯に闘った見事な闘士だった。

 後日(1969年9月5日)、日比谷野外音楽堂で、新左翼各派の統一連合的共闘運動体とも言うべき「全国全共闘会議」が結成されたとき、全国全共闘は、議長に山本義隆さん、副議長に秋田明大さんを選出している。このときの集会には革マル派を除く新左翼8派・全国478大学の全共闘組織が参加して、全国から約34000名の学生が結集している。しかし、議長・副議長に選出された二人はともに、どのセクトとも特別の関係を持たない活動家である。これはノンセクト・ラディカルのイニシアチブの下に結成されたという「全国全共闘会議」の特徴を如実に示している。

 さて、秋田さんは3月12日に潜伏先の渋谷で逮捕された。そして3ヶ月以上もの拘留が続く。拘留開示公判が行われたのはやっと6月5日のことであった。「獄中記」には5月10日から6月19日までの日記が掲載されている。秋田さんの日記を通して、日大闘争のその後を概観してみよう。

5月10日(土) マイカーと護送車

 逮捕されて二カ月の留置生活が続く。皮肉な事に、権力の機構の中で、まったく自由がきかないにもかかわらず、私にとっては、最も貴重な日々なのかも知れない。というのは、この一年間、あまりにも忙し過ぎた。そして、残して来たものが、未整理なものが山積されていて、私の頭にはオボツカナイくらいだ。

 さて、何から書いて良いのか、この一年間、文章らしいもの、書きたいものを書いた事がない。なかんずく逮捕されてから一ヵ月は、丸の内署でいっさいの執筆は厳禁であったし、ここへ来てからは、手紙のみは許されることになったが、めんどうくさいのと、東京拘置所のふんいき ― 重圧的な感じ ― がいやで、いままで実行できなかった。

 3月12日の逮捕は、私がそれ以前に考えていた事と驚くほど関連があった。関連というより、私が日大闘争にかかわってきた思想が3月12日に凝集表現されていたような気がする。

 私は昔から、海や山や野が好きである。自然は人間のように汚らしさがない。事実は事実として表現する。対立関係に立った事がなく、そこしれず人間をくみいれてくれる。東京を雪がおおつた日、私にとって東京が自然の世界のように見えた。

 そして、私の昨年の10月からの身体的逃亡と、日大闘争の議長という立場の中でハリつめていた気特は少なからずときほぐしてくれたのだが、しかし東京は雪でおおわれていただけであって「自然」ではなかった。それはなんら変化していず、牙が存在していた。

 あの私の行為が一つの思想的問題をなげかけた。虚像化された私の名前、そして私の脳裏に一貫してあり、現実に克服していかなければならない問題、象徴化、ブルジョアイデオロギーのいつやむことのない体制内化を、私自身この日、私の思想性をもってブチャプル事が出来たのである。

 あれは3月の終り頃のうららかな日和であった。地検からの帰り、護送車の中で担当と呼ばれる看守の目をぬすんで、15人ぐらいの手錠を掛けた人達の中から、自分の調べについての話がおもしろおかしくはじまる。多分調べが終った解放感と外をながめる事の出来る車の中であるからであろう。

 車の外は、堀をアベックが歩く姿と、隣の車が真下に見えるぐらい混んでいるようすが見渡せられた。そして一台の自家用車の中を見ると、4人位の人が乗っていた。私はフトその時思った。護送車の中にいる手錠を掛けられ小話をしているいろんな層の人達と、自家用車に乗っている人達と、どこがどうちがうのだろうか。そして、私がかりにその自家用車を運転していても何の不思議はない。私はその時、少しではあったが、心の中からこみあげてくるような、顔に表われるか表われないぐらいの笑いが出たのを今でも覚えている。



 必敗の闘いを闘って手錠をかけられた者と、自家用車を運転(たぶん楽しげに)している者を分かつ契機は何なのだろうか。吉本さんの言葉で言えば「関係の絶対性」と言うほかないだろう。

今日の話題

「腐れ文学者」の本質


 前回に続いて『情況・倒錯の論理』を読み続けます。しかし、吉本さんの論考は「日大闘争」そのものからは離れるテーマになっていきます。そのテーマに私は別の問題に関連した事柄として関心があるので、「今日の話題」として記録することにしました。

 さて吉本さんはさらに、『教えの庭』の「二十年」という作品の一節と、『さらば日本大学』の一節を引用している。

 「二十年」からの引用。

 しかしまた、そんなこと(研究室員の不行跡-註)でやめるのはあまりに子供くさいように思った。それに、そのころの私は、原稿の注文というと、短篇を書けという口が年に一度、あるかないかという有様なのに、妻の方は一種の流行作家になっていたから、私は時には、どうかすると崩れそうになる自尊心を支えるためには、大学の助教授という肩書きさえも自分自身にむかつて利用しようとする瞬間があった。大学をやめた私は一体何だろうと考えると、辞職すること自体が一つの思い上りであるように感じられた。



 『さらば日本大学』からの引用。

 どんなことになっても、男には出世欲のようなものがある。役職についたり、えらそうな立場につきたくない、という人がいたら、それは嘘をいっているのだ。たゞ、そういう地位に伴う負担、責任、そういうものをわずらわしく思う気持もある。要は満足感と負担とどちらが大きいか、ということだ。紛争大学の学長という仕事は、負担の方が大きいから、なかなか成り手がないが、教職員学生が一体となって、何かを成しとげようとしている大学の学長なら、なつてもよいと思う人が多いであろう。(「芸術学部の執行部」)



 これらの引用文から吉本さんは、「三浦朱門に固有なものではなく、いわゆる第三の新人とかってよばれた、そしていまではなにやら中堅大家のような口ぶりをしだしたほぼ同年代の作家に、共通に」見られる特質を摘出している。

 流行作家になった妻にたいして、いっこう流行しない作家である夫が、それでもおれは大学の助教授なんだとじぶんにいいきかせて、妻にはりあう自尊心の支えにしようとする瞬間があったとかくのも、どんなときも男には出世欲があって、おれにはそんなものはないという人間は嘘をついているのだというのも、人間性の解釈についての凄まじい自信であるとおもえる。わたしにはとうていそんなことを自分に言いきかせたり、他人に断定したりする自信はない。

 それは当然である。人間性の複雑さ、奇怪さは、それ自体でも底知れない淵をのぞかせて限りがないという認識は、ほかの何者にも不要であるかもしれないが、文学者にとっては前提にしかすぎないからだ。ならばこの凄まじい断定は、そのまま凄まじい自信と解するほかに術がない。わたしはここで、戦後第三番目に登場した作家たちにたいするかねてからの疑問は、案外こんなところにあるのではないかとふと 感じた。



 吉本さんは続いて吉行淳之介や安岡章太郎の作品を取り上げ、そこに「不可解な自信のようなものがちらばっている」ことを確認して、「わたしには、これらの作家たちは、これから〈人間〉がはじまるのだといったところで、〈人間〉にたいする省察を終えてしまっているようにみえる。」とまとめている。

 さて、私が関心をもっていた「別の問題に関連した事柄」を書きとめておこう。

 私は以前に、三浦朱門と石原慎太郎に対して「腐れ文学者」という悪態をついたことがある。(下記の記事を参照してください。)

『抑圧者の正体』

『「君が代日の丸」が「考えるな、服従せよ」と恫喝する』

『石原による都政の私物化』

 それぞれに都知事(石原)や教育課程審議会会長(三浦)に成り下がったこの二人の「文学者」の言動から、この二人には文学者としての共通の欠陥、ある種の資質上の欠如があるのではないかと思っていた。それがどのような「資質上の欠如」なのか、私には言い当てる言葉がなかったので、とりあえず地に落ちた文学者というような意味で「腐れ文学者」という悪態で表現した。

 吉本さんの評論を読んでいて、それがどのような「資質上の欠如」なのか分かったと思った。石原は第三の新人には分類されないようだが、同世代ではあり、その「資質上の欠如」は同じだと思う。彼らは「〈人間〉がはじまるのだといったところで、〈人間〉にたいする省察を終えてしまっている」のだ。これはいわば文学の放棄である。人間への深い省察を欠くにもかかわらず、その皮相な人間理解に「凄まじい自信」を持っている。これが、彼らの他者への不寛容や弱者への無理解・無神経の拠ってくる根源なのだと、納得した。

昭和の抵抗権行使運動(97)

日大闘争(5)


 バリケード内の学生は吉本さんに「明るく、落着いた印象」を与えていたが、三浦朱門は小説でまったくちがった学生像を描きだしていると、吉本さんは連作『教えの庭』の中の『異分子』という作品の一場面を取り上げている。そして、「三浦朱門の小説作法からかんがえて・・・これにちかい事実があつたとしてもそれほど見当ははずれない」として、日大闘争に直面したときの三浦朱門の言動の思想的背景を分析している。

 ある日、学校へ出てみると、主人公が苦心して集めた現代文学関係の雑誌資料が、研究室を封鎖にきた学生たちによって荒され、雨に濡れて地面にほっ散らかされている。主人公はそれをひろいあげて倉庫に運びこむが、全部集めても全体の三分の一にもみたない。主人公は、将来この資料をつかって重要な論文をかくかもしれない学生たちのことをかんがえ、雑誌をとりもどそうと決心して、ヘルメット学生たちのバリケートの前にたつ。
「雑誌を全部返してほしい。」
「何の雑誌だよ。」

 手前にいる学生が棒をしごきながら、上目使いに見た。はじめから喧嘩腰だった。

「現代文学研究室の雑誌だ。一部はあそこに落ちていた。」
とそのあたりを指さした。そこはバリケードの番人からよく見える位置だった。彼らは沖が何度もぬかるみの中から雑誌を拾い集めて倉庫に運ぶのを見たにちがいない。

「君たちは僕が雑誌を拾っているのを見たはずだ。」
「だから、何だつてんだよ。」
「誰があの雑誌を、棄てたんだ。」
「知らねえよ。誰が棄てたつていいじゃねえか。」
「あれは大切なんだ。あれだけ集めるのに、何年という時間と、千万をこす金がかかっているんだ。」
「そんな大事なものを、誰でもはいれるような研究室にほうり出しておく方が悪いんだ。」
「鍵もかかっていたはずだ。いや、そんなことはどうでもいい。残りの雑誌はどうなっているか知りたい。」
「おい、知ってるか。」

 入口の学生が後ろの学生に声をかけた。彼はそれまで、棒にすがって立ったまま、ニヤニヤ笑いながら、沖と手前の学生の問答を聞いていた。

「さあ。古雑誌なら、今朝、寒いから、廊下で焚火した時、大分燃したな。」
「本当か。」

 思わず、中にはいりかけて、沖は棒で外へおし返された。

「君達の責任者を呼んでくれ。確かめたい。」
「責任者なんていねえよ。皆が責任者さ。」
「君は、何学部の何という学生だ。」
「名前なんかどうだっていいじゃねえか。全部の責任だから。」
「全部というのは、君たちのセクトのか。」
「ちがう。全学生のよ。それから、お前たち全教員のよ。」

 そんな押し問答しても、何もならない。腹が立って仕方がないが、帰りかけた。そばに看板がある。「ネズミ共の牙城、研究室館を、実力を以て解放……」という字が見えた。何が解放だ。沖は力一杯看板を蹴った。看板は隅が破れ、はずみでふらふらとよろめいて、泥水の中に倒れた。



 主人公の沖は、たちまちヘルメットの学生にかこまれ、看板の修理代として千円とられたうえ、謝罪文を書かせられる。

「いいか、言う通り書けよ。謝罪文。私は暴力を振るって看板を破損し、それを制止した学生にも暴力を振い、学生の言論を弾圧したことを、自己批判します。年月日、名前。」

 釈放されてみると、ズボンもコートも泥で汚れていた。傘はもうどこにあるかわからなかった。泥に汚れ、びしょ濡れになって家に帰ると、妻が、

「どうなさったの。」

と驚いて声をかけた。

「学生に水溜りにつき倒された。」

 美都子は一瞬目を見張り、すぐ目をおとした。服を着かえ、風呂場で体を拭いて、机の前にすわると、はじめて、目頭に涙がにじんだ。



 これは『教えの庭』一連の作品のなかでのクライマックスであり、また、主人公の美談の最たるものである。ことに学生どものタテカンを、主人公が蹴っとばした場面のところまで読んできて、わたしはおもわずククとして笑いがこみあげてきた。〈よう大統領その意気だ〉と声をかけたいところである。

 すべからく大学教師たるものは、他のなにものにも頼らず、学生の知にたいしては知を酬い、暴にたいしては暴を酬い、思想にたいしては思想を酬い、腕力にたいしては腕力を酬いるべきものである。そうすれば、現在の大学紛争などは、あらかたけりがついたはずだ。

 主人公の沖は、せっかく学生たちの看板を蹴つとばして、ある眼にみえない意志疎通の境界線がみえるところまで瞬間的に跳躍したのに、つぎの瞬間にはありふれたひとりの知識人にまですべりおちてしまう。そしてこのつぎの瞬間を、ヘルメットの学生たちが見逃がすはずがない。たちまち数人のヘルメット学生にまわりをとりかこまれ、弁償させられ、謝罪文をかかせられる。

 通常の論理では、ヘルメット学生たちが、せっかく主人公が苦心してあつめた雑誌資料を無造作にほっ散らかし、暖をとるために燃してしまったのだから、学生たちのつくった看板を蹴つとばして地面に倒したとしてもあたりまえのことである。また学生たちが雑誌資料を損傷してしまってべつに弁償する気もないくらいだから、主人公が蹴っとばして破損させた看板の修理代をだす必要はないはずである。また、雑誌資料を損傷したことを学生たちが謝罪しないのだから、主人公もまた看板を蹴っとばして損傷したことに謝罪文をかく必要はないはずである。だが、主人公は蹴っとばして破損させた看板の修理代をだし、謝罪文をかいてしまう。

 このとき、主人公の挙動を支配した論理は「話してきく相手ではないし、腕力でもかなわない。仕方がない。」というものである。これは奇怪な倒錯した論理である。

 主人公は学生たちの看板を蹴っとばしたとき、じつは学生たちにほんとうの意味で〈話しかける〉きっかけを作つたといえる。このきっかけから、はたして学生たちが「話してきく相手」かどうかを決めるためには、看板の修理代はださない、謝罪文もかかないという主張と行動がつづかなければならない。そうでなければ学生たちが「話してきく相手」かどうかは確かめられないはずである。

 また、「腕力でもかなわない」かどうかを確か.めるには、学生たちをぶんなぐつてみなければわからない。これはほんとうは腕力の問題.ではない。ヘルメットと角材が、ほんとうは暴力の問題ではなく、客観的な条件から、どうしても権力と接触しきれない距離に封じこめられた学生たちが、権力に接触しようとするときの、焦慮を象徴しているのとおなじように、だ。主人公の論理では、そこのところをどうしても汲みあげることができないようになっている。

 主人公にはこの場面のあとになって、わりあいに正確な反省がおとずれる。じぶんはもともと大学教授などに生き方の重点をおいているのではなく、作家(作中では評論家となっている)を本領だとおもっているはずだ。それなのに教師になったばかりに、現代文学研究室をつくり、資料雑誌を蒐集し、そこにある種の研究者的な夢をえがいたりしたために、じぶんが集めた雑誌資料の損傷にこだわることになったのではないか、というように。

 この反省は大学教師的ではなく、文学者的である。屑屋にとっては、古雑誌などは目方にかけて貫目数十円といったお粗末な紙屑である。また、内容に無関心なばあいには、じぶんにとってさえ、かさばって荷厄介な手におえないしろものである。ところが、内容に切実な関心をもっているときには、一冊に数千円をかけても購いもとめなければならない貴重な資料である。書物のもつこういう奇怪な性格は、日常しばしば遭遇するありふれた体験であるといっていい。

 だから主人公にとっては、千万円以上を投じてあつめた貴重な雑誌資料も、ヘルメット学生にとっては、ことのついでに地面にはうりだしても、薪がわりに火にくべても、さしてさしさわりのない古雑誌にしかすぎない、ということはありうるのだ。そうだとすれば、このような場面で、ヘルメット学生だけがことさら憎々しく描かれねばならない必然性はないといっていい。



昭和の抵抗権行使運動(96)

日大闘争(4)


 吉本隆明さんは『情況・倒錯の論理』で、日大闘争についても論評している。その論評を読むことによって、別の側面から日大闘争が提起した問題を俯瞰してみよう。

 吉本さんは日大全共闘の自主講座の講師を請われて、それに応じている。その時のことを、次のように書きとめている。

 わたしは一度〈自主講座〉というのに頼まれて、日大文理学部に喋言りにいったことがある。たいへん基礎的なことを基礎的にしゃべったので、学生たちに巧く了解できたかどうかまったくわからなかった。ただ学生たちの印象は明るく落着いていて、決してわるくはなかつた。

 駅から構内へ歩いてゆく途中で、〈あんたたちの学校には、ぼくの知っているかぎりでも、いい先生がいるのに、どうして外部からわざわざ人を呼んだりするの〉と訊ねてみた。そのとき、わたしは奥野健男とか、三浦朱門とか、ひと伝えに日大の教師をしているときいている文学者を念頭に描いていた。学生は〈たしかにいい先生がたくさんいます。けれどいまの情況で、内部の先生に講座をおねがいすると、その先生方が教授会のなかで辛い立場に立つことになると気の毒だから、外部からお願いしているのです〉とこたえた。

 わたしはこの学生の発言が正直であるのかどうかしらない。しかしバリケード内の教室での、かれらの明るく、落着いた印象とかんがえあわせて、これくらいの配慮をかれらがもっていることがそのまま信じられるように思われた。



 機動隊によって大弾圧された1968年10月5日以降の日大全共闘の動向については、秋田明大議長の獄中日記(「朝日ジャーナル 69年7月13日号」)とからませながらたどっていこうと思い、今その獄中日記を読んでいるが、それからも私は吉本さんと同じ印象を受けた。

 さて、吉本さんは「いい先生」の一人と想定した三浦朱門を俎上に乗せている。まず、三浦朱門と赤塚行雄の共著『さらば日本大学』から次の一節を引用している。

 いよいよ、芸術学部のバリケードを警察力で排除する時が来たようだった。何にせよ、個人が物理的な力で目的を達成することを、私は認めない。そのために、合法的な暴力は国家のみが持つことにしたのであろう。しかし、共闘は力によって、学校を占領し、学校の財産を破壊し、捕虜に非人道的な拷問を加えたりした。

 全共闘に対する世論もすこしずつ変ってゆき、殊に安田砦のころを境いにして、ヘルメット学生に非難が集るようになった。警官を殺しておいて、「しかし世論は、我々を支持してるんじゃないですか。」とうそぶいてはいられなくなった。

 8月のころは、タカ派の教員が、すぐにも警察を入れるべきだといった時に、私は「警察がそう簡単に動いてくれるものですか。第一、.世論と多くの学生の感情をどうするんです。」と言った覚えがある。

 しかし半年で情勢は変った。私個人としては、日大を一時閉鎖して、大掃除をしてから再開すると考えたのだが、情勢が変ると、共闘さえ掃除すれば万事元通りにやってゆけそうだ、というムードができはじめた。私の考える大掃除は理事会や評議会をふくめたものだが、そちらの方はほとんど手をつけていないというのに、学則の基本的な改正は終ったのだと主張する声が強かった。しかし、そんな変り方だったら、建物にたとえると、ペンキを塗りかえた程度のことにすぎない。

 それですむならそれもよい。たゞ、今の所安田砦などで、暴力学生の悪い面がクローズアップしているが、やがて、もうすこし落ちついてくると、日大の理事の図太さがもう一度思い出されるであろう。その時に理事会の手先になっていることは、私としては釈然としないものがあった。



 ここで表明されている「通俗的暴力論」、あるいは物事の皮相的なとらえ方は、三浦が「文学者」であるが故に、厳しく批判されなければならない。吉本さんは次のように批判している。

 おなじ出来事を対象にして、人間がどれだけ異つた〈事実〉をひきだせるかをしめす典型的な文章である。誇張していえば、空おそろしさを感じさせるものだといっていい。この種の文学者に出あうとわたしは言葉をうしなう。どうしてよいかわからないのだ。

 もちろんこの種の見解をもった非文学者あるいはごくふつうの大衆にはたくさん出あったことがある。しかし、そのばあいに、言葉をうしなうということはない。かれらとのあいだには、通じあう知見がなくても、共通の生活感情があるにちがいないことが信じられるからである。じぶんの近親を延長しただけでも、この種の人物はいくにんもみつけられる。

 しかし、この種の知識人あるいは文学者は周辺にはみあたらない。その生活、その日常性はどういうことになっており、この種の感情をそだてあげるには、人間は幼時からどんな環境にあることが必要なのか、見当がつかないのだ。きつと眼の前に出あってみると、それそうとうに礼儀正しい紳士であり、事物にたいする理解力もそなえていて、かなり好感をもてるにちがいない。しかし、それからあとはどうしたらよいのか。途方にくれて、きっとかれの〈ものの考え方〉だけを把もうとつとめるにちがいない。そして、そこでなら、解釈がつくところがある。

 三浦朱門の〈ものの考え方〉は、「何にせよ、個人が物理的な力で目的を達成することを、私は認めない。そのために、合法的な暴力は国家のみが持つことにしたのであろう。」というところにあらわれている。

 個体がある目的を達しようとするときには、物理的な力をつかうか観念的な力をつかうかのいずれかである。観念的な力をつかうのは認められるが、物理的な力をつかうのは認められないという見解は理解できない。それは選択でもなければ倫理でもありえないからだ。つまり個体はいつも時に応じて物理的な力か観念的な力を行使して挙動している存在で、このことには例外はないといっていい。

 あるいは、三浦朱門は、ここでそんな〈高尚〉なことを言おうとしているのではなく、腕力をふるったり角材をふりまわしたりして他人を圧服させたり、当人の意志に反して追っぱらったりして、目的をとげることは納得できない行為であるといっているだけかもしれない。しかしそうかんがえても疑問は残る。それならば観念的な力をつかって陰険な策謀をめぐらし、他人を圧服させたり追っぱらつたりすることなら認められるのか。そのほうがよほど嫌悪をよびおこし、またよほどひどい行為だといえる場合は体験的にもありうる。これにもまた例外はないといっていい。

 いや、そこまでのことも言おうとしているのではなく、三浦朱門はここで、どうもおれはヘルメットをかぶって角材をふりまわしたりする学生は虫がすかないのだ、といっているだけかもしれない。ここまでくれば、〈はいそうですか〉というよりほかない。体験としていえば、偏見による批判は、反駁によって納得させることもできるが、憎悪や嫌悪にもとづく批判は納得させることはできそうもないとおもうからだ。

 そうだとすれば、三浦朱門が「そのために、合法的な暴力は国家のみが持つことにしたのであろう」というのは、いちじるしい飛躍というべきである。じぶんの虫が好かないという感情を、国家の暴力の合法性とむすびつけられたりしたら、たまったものではない。それに、合法的な暴力は国家のみがもつという〈考え方〉は、論理的な倒錯である。〈国家〉は暴力をもっているときでも、ほかのなにかをもっているときでも、ことごとく〈合法的〉なのだ。なぜならば〈国家〉は、観念的な上層では〈法〉そのものを意味しているから、合法だ非合法だというまえに、〈国家〉イコール〈法〉だからである。



今日の話題

抵抗権行使運動の今


 安保闘争や学園闘争のような激しく大規模な闘争は影を潜めてしまいましたが、それらの闘争とは全く異なる形態で、力強く着実に抵抗権行使運動は続いています。

 最近ニュースや雑誌でよく取り上げられているものでは、さまざまな「ユニオン」の新しい労働運動、「舫(もやい)」に代表される反貧困運動、京品ホテルの自主管理闘争などがすぐに思い出されます。

 また、司法の場で闘われているさまざまな裁判闘争も抵抗権行使運動と考えられます。あるいは日常の労働現場や生活の場で人間としての良心に従う生き方を貫くことも抵抗権行使運動と言ってよいと思います。今日、このような観点から強く感銘を受けた文章にであいました。昨日届いた『「日の丸・君が代」強制反対予防訴訟をすすめる会』の機関誌「おしつけないで No.46」の中の二記事です。一人でも多くの人に紹介したいと思い、さっそく転載します。(無断での転載、ごめんなさい。)

 一つは、「予防訴訟」の弁護団長・尾山宏弁護士の『私たちの裁判の意義と展望』という論説です。

 第一次懲戒処分取消訴訟の判決日が迫ってきましたが、この機会にこの裁判を含む私たちの君が代訴訟の意義を、もう一度確認しておきたいと思います。

 これらの訴訟は、日の丸・君が代の強制が子どもと教師の思想・良心の自由、信教の自由を侵害するものとして、その違憲性を追及する裁判です。この裁判も教育裁判の歴史の重要な一環をなすものですが、学テ裁判、教科書裁判などの一連の教育裁判の流れの中で、初めて教育内容統制が教育の自由のみならず思想・良心の自由、信教の自由(以下、これらの自由を単に「良心の自由」という)の侵害にほかならないことを問うているところに教育裁判史上の新しい特徴があります。

 このことは裏を返せば教育に対する権力的統制がそこまで深化していることを示しています。つまり権力の側が個人の内面の最奥まで侵すようになったということであり、子どもの教育に携わる教師としては、これ以上譲ることのできないぎりぎりの線まで権力的介入が進んでいるということです。

 このように君が代訴訟は教育裁判の中でも画期的な意義を有するに止まらず、日本社会に対する社会的、歴史的な意義を有しています。日本の社会では明治維新以後、近代化が進められ、とくに戦後は自由と民主主義の時代を迎えましたが、良心の自由が正面から問題にされた例はきわめて稀です。戦前戦後を通じてみても、明治期の内村鑑三事件、戦後のレッドパージ事件、靖国神社をめぐる事件などわずかしかありません。そのため戦後60年以上を経過した現在も、良心の自由がこの国に定着していると言える状況にはないのです。

 君が代訴訟は、訴訟の提起それ自体によって、国民に改めて良心の自由を意識させ、それがどのようなものかを考えさせ、訴訟の継続中、訴訟とそれを支える運動によってそのような作用を与え続けるのです。つまりそれは、良心の自由を日本の社会に定着させる一つの大きな契機となっているのです。

 良心とは、どのように自分自身の行為や発言を決定し、また事後に自分自身の言動を裁く、その人にとってはかけがえのない、国家をも超える心のもっとも内奥にある決定者であり審判者であるのです。「良心の命ずるところに従い」人は時として自らの生命をも賭けるものなのです。だからそれは、その人の人格の核をなすものです。また良心は、その人の人生経験のただなかから生まれ育つものです。したがって人に対してその人の良心に反することを強制することは、その人の人生とその人格の核心を破壊するものにほかならないのです。

 公立学校の教師も、公務員の勤務関係にあるとはいえ、自らの良心に反することを強制されない自由を有しています。いかに公務員だからといって、その人の人間の尊厳まで侵してもいいとは言えません。良心の自由に反することを強制することは、人間の尊厳を蹂躙するものです。さらに教師は、教師としての良心の自由を有しています。

 この裁判の展望も、実は以上に述べたことと大きくかかわっています。この裁判の展望は既に「あるもの」ではなく、私たちが主体的に「創りだすもの」なのです。私たちは、この訴訟を基盤として自覚的に国民に広く訴え、国民の意識を前進させ、この国を、良心の自由を大切にする国になるように変えてゆかなければなりません。そのことが他にならぬこの裁判の展望を切り拓いてゆくことになるのです。



 もう一つは「内山」という方の寄稿文です。機関誌「おしつけないで」で新しく始まった<シリーズ今学校は>のトップバッターで、『格差の中での学校』と題するレポートです。私はそこで、「日常の労働現場や生活の場で人間としての良心に従」って、真摯で自己に厳しい生き方を貫く姿に感動しました。

 暮れから正月、日比谷の「年越しテント村」のニュースが駆け抜けた。このことについては今更述べるまでもないが、実は、暮れに「テント村」村長の湯浅誠氏が事務局長を務めるNPO「舫(もやい)」の事務所に出向き、冬休みの間「舫」の活動で何か手伝えることはないか訪ねたところ、新宿中央公園の「新宿連絡会」が主催する「越冬テント村」を紹介された。暮れから正月にかけて、新宿周辺のホームレス支援活動である。日比谷の件は知っていたが、かなりのボランティアが行くだろうと想像し、紹介されるまま新宿を選んだ。

 主な仕事は、一日二回の炊き出しと衣料品配布、それに夜のパトロールや細々した手伝いである。知人友人にも声をかけ、時間の長短はあるが何人かが参加した(「被処分者の会」の大能さんも参加し、元旦の「東京新聞」26面で記事になっている)。

 大晦日のコンサートには、かつての教え子のバンドや、タイ関係で知り合った(先方は忘れていたが)世界の梅津和時(知る人ぞ知るサックスプレイヤーである)の出演があり、年明け3日には、やはり旧知の「水族館劇場」のユニット芝居「さすらい姉妹路上劇」が行われ、自分がこの場にいることをユングの予定調和的な「偶然」に感じられたのである。そしてまた、自分の仕事を投影しながら、いくつものことを考えさせられた。

 一昨年、初めて定時制に異動した。それまで「困難校」と呼ばれる職場は充分経験したつもりだつたが、また自分の経験則に新たな「修正」を加える必要に迫られた。どこまで彼らの生活に手を突っ込めばいいのか、底なしの 感触に珍しく戸惑いを覚えた。

 実に様々な生徒が在籍する。何度も高校生活を失敗している生徒、小学校以来ほとんど学校には通っていなかった子、発達障害をはじめ心身のハンデを抱える子。人生に一区切りついて70才を過ぎてから入学をした生徒には、その生きるエネルギーの強さに圧倒されるし、生育歴を聞いて心の中で深々と頭を下げたくなる生徒もいる。また幾度となく警察のご厄介になった子も数多く在籍することは言うまでもないか。

 彼らが不登校になったり、高校生活に失敗したのがちょっとしたボタンの掛け違いが数度続いたのと同様、新宿で出会いわずかな時間会話を持ったホームレスの人たちも、ちょっとしたことで帰るべき家を失っているように感じた。

 必要なとき、きちんとした相談をできる相手がいなかつたこと。売り言葉に買い言葉が続いてしまったこと。忙しかつたり面倒なことを口実に、つい延ばし延ばしにしていたことの締め切りが来てしまったこと。そんな日々の生活にはつきものの「失敗」が、ある日偶然彼らを襲ったように思えてならない。それは目の前の生徒たちにも当てはまるし、その意図とは関係なく、結果的に「悪い偶然」に教師自らが加担してしまうこともあるだろう。そこでは、改めて自己を省みることに迫られた。

 そしてまた、生徒たちを取り巻く環境は厳しい。都の推進する競争原理は教員や生徒、さらにこの国の未来を蝕んでいる。そこで成果を上げるものが、わずかばかりの「おこぼれ」をいただける仕組みになっている。すでに教師たち自身が、その渦中に置かれてしまった。

 競争原理そのものを否定する気はないが、競争が苦手だったり、それによって大きく傷ついた子どもたちに対して、一律の価値観で臨むことが教育だろうか。多様性の容認と「チームプレー」こそが、この国の未来を支えられると信じている。



昭和の抵抗権行使運動(95)

日大闘争(3)


9月4日
 東京地裁がバリケードを非合法とする「占有排除仮処分」を強制執行。

 経・法・本部のバリケ―トが500名の機動隊によって解除され、132名全員が逮捕された。

 その抗議集会に3000人が結集した。抗議集会は、「古田理事会は学園を国家権力に売りわたした」、「われわれ学生の力で国家権力の手から学園を解放しよう」と、怒りのシュプレヒコールに包まれデモ行進に移った。校舎内にいた職員と右翼学生は追い出され、学生たちは法学部・経済学部を再占拠した。

 なおこの日、封鎖解除警備にあたっていた第5機動隊西条秀雄巡査部長が、学生が屋上から放った大きなコンクリートを頭に受け重傷。9月29日に死亡した。

9月5日
 再度機動隊導入によってバリケ―トが破壊された。法経再占拠闘争に5000名が結集し、再占拠。生産工学部もこの日、ストに突入。

9月6日
 再び機動隊が導入される。古田理事会にたいし抗議する5000名の学生が大フランスデモを行い、機動隊と激しく衝突。

9月11日
 日大全共闘大衆団交。この集会に対し学生課右翼グループが襲撃をかけ学生側に200名以上の負傷者が出た。

9月12日
 日大全共闘総決起集会。法経占拠で機動隊と激突。

 4日から12日に至る法・経奪還闘争で、6日35名、7日129名、12日154名総計318名の逮捕者が出た。

 318名もの逮捕者をだしながらも、全共闘に2万余が結集した。学生たちは、白山通りを中心に三崎町一帯を埋めつくし、経済、法学部をまたまた奪還。歓喜の紙吹雪が舞う。

9月14日
 商学部へ鉄棒をもった右翼暴力団学生が乱入。

9月19日
 医学部もストを決定。

9月20日
 日大11学部すべてがストライキに突入。

9月21日
 日大の古田会頭、「大学の定款を改正した後に全理事が総退陣する」と発表。

9月24日
 日大全共闘は、法学部一号館前の2000人の集会のあと、午後7時、大学本部を再封鎖し、27日には郡山市の工学部校舎も再封鎖した。

9月30日
 学生側の断固とした闘いにおされ、日本大学側はついに学生との大衆団交要求に応じた。日大緊急理事会が開かれ、午後3時、両国講堂で学生側が要求した「大衆団交」が開かれることになった。

 両国講堂には、35000人の学生が集まり、古田重二良会頭以下全理事が壇上に並び、大衆団交が開かれた。団交は、翌日の午前3時まで約12時間続けられ、6月11日の弾圧、8月4日の大衆団交破棄、9月4日の仮処分強制執行、機動隊導入への自己批判書を読み上げて全理事が署名捺印した。

 さらに検閲制度の廃止、思想、集会、表現の自由の承認、指導委員会制・顧問制の廃止、本部体育会の解散、学生会館の設立、ヤミ給与問題の全容解明、経理の全面公開、全理事の即時退陣、大衆団交の継続を理事の総退陣を前提として、10月3日開催するなどの確認書に全理事が署名した。大学側は学生に全面屈服したことになる。

 両国講堂は、学生たちの拍手と大歓声にわき、紙吹雪が舞った。古田体制打倒をめざした全共闘側の大勝利であった。

 当時、全国で51大学が闘争中だった。9月7日の校舎占拠で始まった東洋大闘争では、この日、理事長が退任した。同じくこの日、京大医学部では87人全員に卒業を認定し、闘争を終結させていた。

10月1日
 佐藤首相が閣僚懇談会で、日大の大衆団交に激怒。「大学問題を政治問題としてとりあげる」と発言。

 佐藤首相は、全理事を居座らせた上で強権弾圧に乗り出すよう指示した。

10月3日
 大学当局は大衆団交での確認書を白紙撤回して、全理事がそのまま居座った。

 大学闘争に対して、政治・警察権力むきだしの大弾圧がはじまった。「大衆団交によって、大学側を全面屈服まで追い込み、大学闘争に金字塔をきずいた日大闘争」は国家権力との直接対峙の闘争となった。もはや大学闘争は、日大や東大だけの問題でなくなっていた。

10月5日
 秋田明大議長など日大全共闘幹部8名に逮捕状が出された。(秋田議長は69年3月に都内の潜伏先で逮捕される。)

 大学側は機動隊の力で次々とバリケードを解除しはじめた。

11月8日
 職業右翼に率いられた体育会系学生400名が黒のヘルメット、マスクをつけ、日本刀、樫の木刀、熊手、鉄棒、ライフル銃で武装し、日大芸術学部のバリケードを襲撃。

 この時、バリケードの中には46名の日大芸術学部闘争委員会(芸斗委)のメンバーしかいなかった。彼らは次々にバリケードを破って全共闘を追い詰め、午前2時には屋上に通じるバリケードだけになった。

 急報を受けた日大全共闘の行動隊200名が朝一番の電車にのって駆けつけた。日大全共闘は体育会系学生を捕捉し、自己批判させた。この事件で、芸斗委側も重傷者4名が入院した。日大全共闘はこの後、神田三崎町で全学抗議集会を開いた。

 この襲撃事件にたいして、警視庁は1500人の機動隊を動員し、芸術学部バリケードを攻撃し、芸斗委46名を全員逮捕した。だが、日大全共闘は、同じ日、午後4時にはバリケードを再建した。

11月16日
 文部省、東大・東京教育大・東京外語大・日大に、「授業を再開せよ」との通達を出す。

11月18日
全共闘、全都総決起集会

11月22日
 日大全共闘が総力をあげて結集。「日大・東大闘争勝利全国総決起集会」を予定し、この連帯の力を背景に、全学バリケード封鎖を実行することを宣言した。

 これにたいして日共系学生は「全学封鎖断固阻止」を掲げ、全面対決になった。

 全共闘が、東大構内で「日大・東大闘争勝利全国総決起集会」を開催した。午後2時頃から安田講堂前に集結し、銀杏並木と正門前が約20000名の学生でうずめられた。安田講堂前の広場は、赤、白、青、緑、黒、銀色のヘルメットで埋めつくされ、その周囲に報道、一般学生が隙間なく立ち並んでいた。講堂正門には、各派と各大学の旗が立ち並び、それを背景に各派のマイクアジテーションが続いた。

 午後4時前、日大全共闘は神田三崎町の日大経済学部バリケードを出発した。無届のデモの日大全共闘3000人は、2000人の機動隊の壁を破り、銀、黒、赤、青、白と色とりどりのヘルメットで東大正面に入場してきた。どよめきがおこった。日大全共闘のために正面の席があけられた。秋田明大日大全共闘議長は、この日の演壇に姿を現し、数万の学生たちの前で演説をした。

 午後8時全共闘の集会が終わって、学内デモが始まった。

 一方、全共闘に反発する民青同系は約7000名を動員し、教育学部前に集結した。東大構内の外では4000人の機動隊が待機していた。夜遅くまで7000人の学生が東大構内にとどまっていた。こうして、東大全共闘と日大全共闘とが合流をはたした。