2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(94)

日大闘争(2)


 学生たちの「ヘルメットと角材」に対して「武装」という言葉を用いる文章によく出会うが、もちろんそれは「武装」とはほど遠い。また、機動隊の暴力と比べて、それは暴力というほどのものではないという言説にもよく出会う。しかし、暴力の「程度」での比較は意味をなさない。「質」において徹底的に違うのだ。機動隊は、人民暴圧を目的に訓練された暴力専門集団であり、暴力そのものである。それに対して学生たちの「ヘルメットと角材」は、吉本さんの言葉を借りれば、「ほんとうは暴力の問題ではなく、客観的な条件から、どうしても権力と接触しきれない距離に封じこめられた学生たちが、権力に接触しようとするときの、焦慮を象徴している。」

 さて、日大闘争が本格的なバリストに突入した同じ日(6月11日)、それに呼応するように、社学同の約500名が神田駿河台の明大前通りを占拠、バリケードを築いて「神田を日本のカルチェラタンに」と叫びながら機動隊と衝突している。

6月12日

 日大全共闘は、前日右翼が占拠していた経済学部本館も占拠し、バリケードで封鎖した。

6月14日
 日大経済学部で、バリケードの中で初の自主講座が開かれた。講師は三上治さんで「大学の自治と学生の役割」という題で講義をしている。

 日大全共闘は当初の要求(理事長総退陣、経理の全面公開、不当処分撤回、集会の自由、検閲制度の廃止)をスローガンに闘いを進めていく中から、「古田体制の帝国主義政策の先兵、帝国主義者に反抗せず支配者の言いなりになる人間の養成の場とした体制を打倒し、ブルジョアジー教育に於ける砦を破壊し、学生の戦闘的拠点を建設する闘い」へと、闘争を質的に深化していった。バリケードの中で生まれた自主講座は、古田体制の教育を拒否する闘争の象徴であった。

6月15日
 日大文理学部総会で無期限ストを決議。

 学園を私兵体育会系学生、右翼「日大学生会議」から守るため、直ちに1、2号館をバリケード封鎖してストに入った。300人余りが籠城した。

 バリケートには共同で炊事をしてささやかな食事を作る「食糧隊」もあり、女子専用の部屋もあった。ビラ、印刷用謄写版、角材、石塊、ヘルメットなども持ち込まれた。学生たちは床に直に敷いた布団か毛布の上で眠った。

 日大のバリケードの中では、トランペットを吹き鳴らし、ギターを弾いて、フォークソングを歌う学生がいた。

 日大のバリケードは、数次に渡る右翼や体育会の襲撃によって、どんどん強化された。「われわれはバリケードを打ち固め、決意を固めねばならない」。

6月17日
 日大文理学部バリケードで自主カリキュラムを創り、自主講座を開くことを確認。

6月18日
 日大商学部でもストライキに突入。本館を占拠しバリケードを構築した。

 6月19日
 日大本部封鎖が行われ、芸術学部もバリケード・ストに突入。

6月22日
 農獣医学部もストライキに突入。また、文理三島校舎もストライキに入った。

6月24日
 日大大学側は、依然として大衆団交には応じようとせず、この日の記者会見で、19項目の機構改革案なるものを発表。

 理事会で、顧問制など特別の身分・職制の廃止、体育会の改革、経理公開などの刷新案を提示した。全共闘の学生にとっては、自らの責任と理事会の教育方針の破綻を機構の問題に転嫁するもので、古田支配体制の利潤追求第一主義教育方針と、反動と暗黒の恐怖体制の確立を隠蔽するものと受けとめられた。「全理事の総退陣」と「大衆団交」を要求する学生側の姿勢とのあいだのへただりは大きかった。

 その間、理事者側は、約束した団交にかんする予備折衝を一方的にとり消した。学生が執拗に要求する大衆団交は、学園において学生と理事者は同等の立場であり、学園の教育方針など、根本的変革についてとりきめるときは全学生と全理事者が直接的に話しあうことが原則であるとの認識にたったものであった。

 この日、医学部を除くすべての学部がストライキに入った。

6月25日
 日大全共闘は法学部1号館で、6000人の大衆団交拒否抗議集会を開催。

 大衆団交に応じないばかりか、全理事退陣が学生の要求であるにもかかわらず居すわり、なおかつ、闘争を終息させようとする古田理事会にたいして、抗議のデモンストレーションを貫徹し、1号館をバリケード封鎖した。

 一方、全共闘に対抗して既成の学生会組織がでっちあげた6学部自治会は、全学総決起集会をひらき、国会、文部省に請願デモを行っていた。

7月4日
 全学総決起集会。

 11学部すべてから総数1万人の学生が集まり、デモ行進を行う。ジグザグデモ、フランスデモとデモを貫徹し、神田周辺を埋めつくした。

7月20日
 ついに古田が登場して予備接渉が成立。

 その場で8月4日に大衆団交を行うことで誓約書をかわした。

 その後、経済学部のデモ隊が校舎にひきかえそうとしたとき、第一方面機動隊が突然介入し、それに抗議する学生21名が検挙された。この不当検挙にたいする抗議行動をおこし、300余人のデモ隊が神田署に向かいシュプレヒコールを行ったところ、またも機動隊が襲いかかり65名の検挙者がでるにいたった。この不当弾圧による検束者は86名、重軽傷者は50余人にのぼった。

8月1日
 古田理事会は8月4日の大衆団交の無期延期を通告。

8月2日
 大衆団交破棄にたいする抗議集会が行われ、団交獲得に向けて闘うことを確認。

8月4日
 午後1時、大衆団交集会に300余名の学生が集まったが、古田会頭は、ついに現われなかった。

 のち集会はデモへ向かうが、古田は体育会系の暴力団学生を暴圧のためにに送り込むだ。

 このころから、学生の意識にもさらなる深化が現れ始めた。文理学部情宣紙「変革のパトス」は次のように述べている。

「大学における危機、矛盾の根底的解決は学園民主主義の次元での改良闘争ではその糸口が見出せず資本主義社会そのものに対する正面からの闘いにいどまなければならない。」

 古田体制を打倒し、日大の根底的変革をかちとることは、日本における反動的文教政策の重要な一角を切りくずすことであるとの認識に至り始めた。日大当局の危機は同時に、国家教育行政体制の基軸大学の危機であり動揺であった。

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昭和の抵抗権行使運動(93)

日大闘争(1)


 日大には過去学生運動の歴史が全く無い。日大の古田会頭は「日大こそは全国大学のなかで唯一学生運動のない大学である」と、それを自慢にしていた。なぜ日大には学生運動がなかったのか。

 建学理念の保守性を盛り込んだ「学生心得」、それを護持しようとする強力な右翼系体育会・応援団運動による自治活動の圧殺。これこそが日大の学生自治運動なのだった。

 日大の校舎にはキャンパスといったものがなく、学生が集会を開こうにもひらけなかった。その上、会合、ビラ、掲示などもすべて検閲制で、表現、言論、集会の自由が全くない状態にされていた。自治会もどきの「学生会」があったが、学生が選んだ代表により構成されているものではなく、当局の御用機関であり形式的な自治権を与えられているにすぎなかった。自治会的動きをすれば、直ちに大学側と癒着した右翼体育会学生の暴力的介入が行われた。つまり、日大闘争は、御用自治会と闘うことからはじめねばならなかった。

 このような状況であったが、日大闘争の発火点となる事件が明るみに出た。「理工学部小野竹之教授の不正入学金の脱税・日大使途不明金20億円」という内容の国税庁による発表がそれであった。この事件は、大学を利潤追求の場として恥じない古田体制の矛盾を露呈した事件であった。これを契機に、それまでの学内民主化へのささやかな抵抗が一挙に全学的な闘争となって爆発していった。

「日大闘争、それは日大の根底的な変革闘争である。それ故に〝日大革命″であり、古田体制に対する10万学生の総叛逆をひきおこした〝大衆闘争″であり、同時に日本最右翼大学における叛逆だからこそ、必然的に戦闘性をもつのである」(日大文理闘争委編『叛逆のバリケ―ド』より)

 5月に入って、各学科、クラス、サークル単位で学生たちの討論会が開かれ始め、次第に学部単位の抗議集会へとたかまっていった。そして、68年5月21日、経済学部地下ホールで日大生3万人の集会がもたれるに至る。この日が日大闘争の始まりの日とされている。この集会をきっかけにして、大学当局の意を受けた右翼体育会系学生の暴力に対する全学生の怒りが猛烈な勢いで燃え拡がり、総反撃が始まった。

5月23日
 前日経済学部学生会によって採択・掲示された抗議文の一方的な撤去に対する抗議集会。

集会後、神田三崎町の経済学部1号館前に集まった2000名の学生が日大生としては初めての「偉大なる200mデモ」を貫徹。

 これに対し大学当局はいち早く校舎をロックアウトし、体育会系学生による集会妨害を図った。それに反発して学生の数が増え続けた。

5月24日
 経済学部の学生を主体にしていた約800名の学生集会。

 これに右翼体育会系学生が殴りこみ、集会を妨害しようとすると同時に、校舎入口のシャッターを下ろしてロックアウトした。

 さらに、全学的な闘争の高揚を恐れた大学本部は、経済学部に告示をだし、4回の無届集会とデモ行進を理由に、15人の処分を発表した。この処分者の中に、後日日大全共闘の議長となる秋田明大(あきた あけひろ)さんの名もあった。

5月25日
 日大生5000名が錦華公園で集会。神田三崎町の白山通りでデモ。

 白山通りは学生デモで埋め尽くされた。このデモが、大学の強権的学生支配と、その支配下でつちかわれていた学生間の相互不信と無気力を一気に吹き飛ばした。「日大こそは全国大学のなかで唯一学生運動のない大学である」とされてきた日大生が、古田体制に対する叛逆を開始した。

5月27日
 経済、文理、法学、芸術、商学、農学、理工、歯学の各学部学生有志5千余名にのぼる「全学総決起集会」開催。

 この集会で日大全学共闘会議(日大全共闘)が結成され、議長に経済学部の秋田明大さんが選出された。「古田体制打倒」のシュプレヒコールの中、全理事総退陣、経理の全面公開、集会の自由、不当処分白紙撤回など5つのスローガンを決めた。

 以降、体育会系右翼学生の介入と襲撃が激しくなり、流血・負傷が繰り返され、日大闘争は激化していった。 5月28日
 日大全共闘総決起集会。6千余名のが結集し、各学部闘争委員会が結成された。

5月30日
 古田会頭(日大理事会)が、全共闘とは一切話し合わない方針をうちだす。

5月31日
 日大全共闘、大衆団交を要求して3万人デモ。

 大学当局は、臨時休講、ロックアウトで対抗した。正門を閉め、体育会系学生がピケをはった。

 これより以降、日本大学「学生会議」(古田体制の私兵)の車が文理学部の集会に突っ込み、体育系右翼学生が、牛乳ビンや角材をもって殴りこみ、30余人を負傷させた。そのうち3人は、内臓損傷、腎臓出血などで病院に運ばれた。これに抗議する7千人の学生が構内をデモ行進して、大衆団交集会を開催。「大学本部を包囲し、古田会頭をひきずりだし、大衆団交を成功させる」ことを目標にかかげる。

6月4日
 大衆団交が予定されていたこの日、大学当局はまたも大衆団交を拒否。 「全学総決起集会」開催。日大本部前において1万人が結集し、6月11日の大衆団交を要求した。

 6月6日
 日大全学共闘会議活動者会議。

 この会議において、この闘争は、日大を根底的に変革する闘いであり、ストライキ闘争を含めた長期の闘いを決意しなければならないことが確認された。

 一方、古田会頭は理事会を開き、全共闘との話し合いは一切拒否することを決定。

6月10日
 日大本部は、機動隊をも含めた弾圧を11日に行うことを決定。

6月11日
 経済学部で、約8千名の学生が集結し日大全共闘による大衆団交集会。

 この集会に対し学生課右翼グループが襲撃をかけ、学生側に200名以上の負傷者が出た。全共闘は、態勢を立てなおし、大学本部へデモ行進した。そのデモに対し、今度は3・4階に陣取った体育会学生によるガラス瓶投げつけがあり、数多の学生が負傷した。

 秋田全共闘議長は、「断固たる決意のもとに、暴力団の手から学園をうばいかえし、民主化闘争を前進させよう」との""ストライキ宣言"を発表した。急いで用意したヘルメットをかぶった先進的学生を先頭に、再び経済学部前に向かった。とってかえした学生の頭上に4階から10キロの鉄製のゴミ箱が投げ落とされ、デモ隊の真ん中に落ち2名の学生が重症を負った。更に、次々と椅子、机、酒ビン、ロッカーが落とされ、2・3階からは、消火液、催涙ガスがかけられた。日大全共闘が反撃に向かった。

 午後5時頃、大学本部の要請で、機動隊が導入されたが、たてこもる右翼暴力団を排除しないばかりか、その暴力行動を傍観し、抗議する学生に殴る蹴るの暴行をはたらきはじめた。この事態を目前でみた学生は、警察機動隊が、右翼暴力団を守り、古田理事会を守る、まさに国家権力の暴力装置であることを知った。

 学生が隊列を組みデモに移ると、突然、機動隊は、その隊列にジュラルミンの楯をふりかざしておそいかかり学生5名を逮捕した。抗議して座り込んだ300余の学生を足蹴にし、ゴボウ抜きにして蹴倒し、付近の学生たちをこづきまわし解散させた。

 この日の学生の被害は入院した者40余名、全治2週間ほどのもの60余名、軽症者全てを含めると、実に200人以上に達した。

 経済学部から機動隊に追われた学生は、法学部第三校舎を占拠し、右翼暴力団と機動隊の襲撃にそなえるため、急いで武装バリケードを構築した。ここに、日大はじまって以来のストライキ闘争が、右翼と官憲の暴力的弾圧の中ではじまった。

 11日 法学部、12日 経済学部、15日 文理学部、19日 芸術学部、22日 農獣医学部、7月8日 理工学部と、次々にバリケートを築き、それに立てこもって無期限ストに突入していった。ここに他大学でもみられない"最強のバリケード"がうまれた。

 これは、三度にわたって大衆団交を拒絶された学生たちの古田理事会への闘争宣言であった。また、バリケード・ストライキはそれまでの闘争の総括であり、新たなる闘いの開始でもあった。6月11日の闘いをつうじて、敵の暴力に対抗して自らを防御する必要を確認し、ヘルメットをかぶりゲバ棒を握るに至った。

昭和の抵抗権行使運動(92)

全国の学園闘争


 日大闘争・東大闘争を皮切りに全国に燎原の火のごとく広がった学園闘争は、1969年2月13日現在で実に72校にのぼっていた。この1年間では国立大学75校中68校、公立大学34校中18校、私立大学270校中79校が、それぞれの闘争の戦列に加わった。さらにその火は、大学ばかりではなく、高校、専門学校にまで及んでいる。

 次の表は朝日ジャーナル(69年3月2日号)」に掲載された2月13日現在での闘争校に一覧表です。学校によって闘争の争点が実に多種多様であることが分かる。このとき争われた事項は、さて現在の大学ではどうなっているであろうか。

(クリックすると拡大できます。)
学園闘争校一らん

 最も多いときで、全大学のほぼ半数に近い大学でさまざまな闘いが闘われたが、しかし、大学立法に基づく封鎖解除により、機動隊により次々と弾圧されていき、70年には紛争校46校、うち封鎖・占拠されているものは10校と減じている。

 さて、日大闘争は、東大闘争とは別の形態の闘争であり、ノンセクト・ラジカルが創出した希有にしてかつ驚嘆すべきもう一つの運動だった。次回から、日大闘争の経緯を追ってみようと思う。

昭和の抵抗権行使運動(91)

東大闘争(8)


 今回は、「大学立法」をめぐって行われた東大教授たちの発言に対する吉本さんの批判です。

 いずれも東大教授の発言だけをひろつた。そしていずれもこれ以上のレベルはかんがえられないほどハレンチな発言である。なぜならば、わたしが知っているかぎり、数多くの紛争大学のうち、大学による自主的な解決ができたところは皆無であり、ただ〈機動隊的・暴圧的解決〉いがいの例は、ほとんどひとつもみつけられないといっても過言でないからである。

 ことに〈東大〉は典型的にそうである。かれらはじぶんの無能さを度忘れして、おおきな口をきくべきではない。「大学人の多くが反対しているこの法案」とのべている加藤一郎は、いったいどのようにこの「法案」に反対であるのか? 加藤らの起草にかかる「大学法案反対 東大の見解」は、反対の根拠をつぎのようにのべている。

 たしかに、大学はおよそ暴力と相容れない場であり、手段を選ばずに自己の主張を貫こうとすることは、動機の如何を問わず許されるべきことではない。しかし、教育の場としての大学においては、そういう学生の逸脱した行動に対しても、ただちに力をもって対処するのではなく、できるかぎりの手段を尽くして、学生の自覚と反省を促す必要がある。われわれが理性的討議によって問題を解決しようと努めてきたのも、そのためである。

 これに対して、なお不法な行為がくりかえされたり、緊急の危険が生じたりした場合には、東京大学はこれまでも十分な決意をもってそれに対処してきた。このような暴力の排除は、現行法のもとでも大学の自主的判断によって十分対処しうることであって、政府が教育の場の実情を十分顧みることなく力による介入をはかっても、事態はけっして解決されるものではない。


 これはいったいなんのことだ。学生たちが集団的な〈暴力〉をふるつたら、現行法でも機動隊をよんで排除できるのだから、大学法案はいらないといっているだけではないか。しかもそれよりもひどいのは、「大学はおよそ暴力と相容れない場であり、手段を選ばずに自己の主張を貫こうとすることは、動機の如何を問わず許されるべきことではない。」などと鉄面皮なことを臆面もなくのべていることである。

 加藤一郎は、そして〈東大〉は、自衛隊をのぞけば最大の武装力をもった機動隊・八千五百人の「暴力」を「手段を選ばずに自己の主張を貫こうとする」ために大学構内に導入し、それによって学生たちを傷害し、不具にし、拘置所におくつて排除した最悪の〈元兇〉だということを度忘れしてしまったというのか?

 もちろんわたしは、アメリカ法的なプラグマチズムの立場にたつ不法行為法の研究者である加藤に、ほんとうの〈暴力〉というものは、現在の世界ではさまざまな政治体制をもった(つまり社会主義とか資本主義とかいう体制をもった)〈国家〉の暴力のことだけを指す、という見解に同意すべきだなどという野暮なことをいわない。法家としての加藤にとって、現在のわが法的国家は、そのまま法的な先験性であるから、この先験性を擁護するための〈暴力〉(機動隊などの)は暴力とみなさないとかんがえられているとしても、それはこの際それでいい。大多数の大衆もまたそうかんがえているのだから。

 しかし、よりによって、じぶんが最高責任を負っている大学の構内に、圧倒的な武装力をもつ圧倒的な多数の機動隊の〈暴力〉を導入して、ほんらい教え子であるはずの学生たちを負傷させ、不具にし、身柄を拘置所におくつた自分のすがたを鏡にうつしたことはないというのか? 〈東大〉なるものは、それでもなお、「大学法案反対」の「見解」をのべる資格があるとおもっているのか?

 加藤や〈東大〉 は、じぶんたちが戦争責任を不問にして滑りこんだ戦後の白っ茶けた「デモクラシー」とやらを擁護するためには、「手段を選ば」ない暴力を学生に行使しながら、政府・保守党にたいしてはルールとおりの〈話し合い〉や〈対話〉をつくしてくれることを期待しているのである。

しかも、じぶんたち教授・職員層の自己暴力によって、直接身をもって学生たちをなぐり倒したというならまだ〈可愛い気〉があるが、国家の暴力をつかい、じぶんたちはおどおどしなおらも、指ひとつ動かそうとはしなかったのである。

 加藤のブレインとして、近代史上最大の国内武装力を大学構内に導入して、学生を弾圧した篠原一は、政府が「大学立法」を強引に成立させた日に「デモクラシーにとって戦後もっとも暗い日曜日 ― 国民は忘れてはならない」などと「国民」にお説教をたれている。ふざけるなとはこのことだ。

 ひとりひとりの「国民」にあたったわけではないが、篠原のように気易く「国民」という言葉をつかわしてもらえば、「国民」は東大教授として篠原が演じた役割を断じて忘れはしない。すくなくとも、わたしにとって、戦後もっとも暗い日曜日は、1月18・19日加藤・篠原たちが安田講堂にこもる学生たちを弾圧するために機動隊八千余を東大構内に導入して、しゃにむに学生たちを排除したあの「日曜日」である。

 その〈暗さ〉は、保守政府の政治委員会が、じぶんたちに都合のいい「大学立法」を多数をたのんで議会でごりおしに成立させた、ということと同日にくらべられないほどの深い〈暗さ〉である。なぜなら、だいいちに、その日、戦後の「デモクラシー」なるものが、篠原のような戦後デモクラート自身によってかなぐりすてられ、ふみにじられたからである。このことの絶望的な〈暗さ〉は、ほとんどどんなものともくらべることはできない。

 もうひとつの〈暗さ〉は、〈ひとはじぶん自身がなしえない他者にたいする行為を、別のものに依存して為してはならない〉という加藤や篠原ら戦後デモクラートの思想のうち唯一の取柄である〈自己責任〉の論理を、かれらがみずから放棄したということである。

 もうひとつの〈暗さ〉は、かれらのように〈異なれる立場からの協力〉を理念上のうたい文句として、柔軟な思考を誇示してきたものでさえも、地金をだしてしまえば、スターリンまがいの人間〈抹殺〉の論理を行使できるものだ、ということが露呈されたことである。かれらがスターリンや毛沢東とちがうところは、スターリンや毛ならば、じかに公然とじぶんの手を汚してやれることを、卑怯だから権力の手を借りなければできないという点だけである。

 こういうかれらの人格的な破産さえも勘定にいれなければ理解できないような、深い〈暗さ〉にくらべれば、大学紛争にたいする政府の介入権を確保しようとする「大学立法」のほうがはるかに〈暗さ〉はすくないといってよい。なぜならば、保安隊・自衛隊のなしくずし創設と拡大のときのように、新憲法の範囲でふるまっているようなオブラートにつつみながら、悪政策をやってのけることを常套としてきた保守的な政治委員会が、こんどの「大学立法」では、いわば素面の論理を公然と行使しているからである。

「大学立法」というのは、つまるところ政府の大学にたいする介入権をみとめさせるために、大学の〈紛争〉について広範であいまいに定義し、大学当局が〈紛争〉経過を報告すべき義務を規定し、〈紛争〉が未解決のまま長びいたときには、政府による停校、休校の指令権と勧告権を認めさせようとするものである。

 これにたいする加藤らの反撥は、この法案の〈紛争〉の定義が、大学の施設の〈占拠〉や〈封鎖〉だけではなく〈授業放棄〉をふくめて正常教育、研究その他の運営の阻害もふくまれているために暖味なものになり、〈紛争〉の解釈いかんでは、ほとんど任意の学内のもめごとに政府が介入できることになり、大学の自治や学問研究の自由という原則が侵犯されるおそれがある、という点にある。

 これにたいする保守政府のかんがえは、自力では自治能力もなければ、〈紛争〉をじぶんたちだけで解決する能力のない大学教授や管理者を、必要に応じて援助するだけのもので、弾圧したり大学の運営に介入したりするつもりはすこしもないという弁明につきている。

 いずれの言い方にも半分くらいは真実がふくまれているだろう。そしてただそれだけである。

 加藤や篠原ら東大執行部が、手段を選ばぬ暴力を大学構内に導入して〈全共闘〉の学生たちに傷害をくわえ、拘置所におくつて東大紛争にけりをつけようとしたとき、すでにこの程度の〈大学立法〉が立案されることは当然予測できたことである。そんなことがわからなかったのは、鈍感というか非常識といおうか、じぶんたちの思想的な外濠を、あたかもいいことでもしているかのように錯覚して、みずからの手で嬉々として埋めておきながら、いまさらのように保守政府の「大学立法」を憤ってみせているこの連中だけである。やるこということが、頓馬でカマトトで救いようがないのだ。

 それにこの「大学立法」というのは、よくよむと加藤、篠原のような〈大学人〉から日共までの全政党が、学生を弾圧するためにやった行為を、明文化しただけのもので、かれらには反対する理由はないはずである。加藤らは口を開けば、「学問と教育の荒廃」などと大きなことをいうが、〈東大〉などがつぶれたくらいで、学問や教育が荒廃するなどとかんがえるのは、とんだ自惚れというものだ。大学などがぜんぶつぶれたって学問や教育は荒廃などしないのだ。



昭和の抵抗権行使運動(90)

東大闘争(7)


 東大当局とそれに追従する教官たちの安田講堂攻防以後の挙動についても、『情況(畸型の論理)』で、吉本さんは厳しい批判を浴びせている。「まくら」として次のような加藤一郎教授の学問成果(?)を取り上げている。

(1)
 そもそも通常人とは、実在しない抽象化された人であって、問題は、具体的状態において、その立場におかれた通常の能力をそなえた人に、どういう行動が合理的に期待されるか、ということである。アメリカ法では、reasonable man under like circumstances(同様な状況下におかれた合理的な人間)を基準として過失を考えているが(Restatement of Torts §283)、それはまさにこのことを意味している。

(2)
 近代法においては、ひとは、他人の行為について責任を負うことなく、自己の行為についてのみ責任を負うという、自己責任の原則または個人責任の原則が確立されている。過失責任の原則は、自己の行為に過失があることを責任の根拠としているから、過失責任の原則がとられているかぎり、自己責任の原則はその当然の前提となっている。もっとも、親権者が子の行為について、また使用者が被用者の行為について、責任を負うことがあるが(714・715)、それもやはり監督上の注意義務を怠ったことを根拠としており、注意義務を怠らなかったことを立証すれば責任を免れるものとされている。(加藤一郎「不法行為の一般的成立要件」)

 吉本さんはこの論文の中の「その立場におかれた通常の能力をそなえた人」と「監督上の注意義務」という概念を取り上げ、『「通常の能力をそなえた人」という概念は成立しうるか(実在しうるかではない)』、さらに『「監督上の注意義務」という概念は、一般的にいって大学教授と学生とのあいだの関係についても拡大しうるか』と問いかけている。

 つまり、「通常の能力をそなえた人」とか「監督上の注意義務」とかいった法律上の概念は『ひとりの人間のなかで法律用語からメタフィジカルな用語に転化する契機があるはず』だが、そのような観点をとるとき、加藤の学問上の見解は、加藤自身の内面ではどのような様相を示すのだろうか、と問いかけている。たぶん、そこに露呈する「内面と外面の乖離」が、ちょうど「東大と民衆の乖離」とあいみあっていて、加藤らの人間的頽廃の本質となっている。

 わたしがことさらこのふたつのことにこだわるのは、東大総長代行時代から東大総長就任後にかけての加藤一郎の挙動が、このふたつの点について疑義をいだかせるところがあるからである。

 もちろん、わたしが加藤一郎にこだわるのは、かれがいわゆる東大紛争の責任者のひとりだからである。ではどうしてわたしは東大紛争にこだわるか、ということになると、かくべつ理由があるわけではない。大学紛争の範型をもとめるつもりならば、べつだん〈東大〉にそれをもとめる必要はないといえる。ただ、眼のまえをとおりすぎるニュースをおおざっぱに観察したところでは、紛争大学の教授たち、評議員たちの挙動には、おもな筋で加藤一郎の挙動を範型としている点がみつけられる。とくに、政府にたいする挙動と、機動隊にたいする挙動についてその感が深い。

 そうだとすれば、加藤一郎の挙動が「その立場におかれた通常の能力をそなえた人」に該当するかどうか、加藤一郎が学生にたいして「監督上の注意義務」があるかどうかという問題は、すべての紛争大学の管理者の内面と外面にまで拡張しうる点をもっているといっていい。

 具体的にいえば、まず、1月18日の安田講堂事件以後、学生がちょっとでも大学内で集団示威をやれば、すぐに機動隊を構内に呼び込むという鉄面皮な〈範例〉を、専門の不法行為についてではなく、大学紛争について真さきにつくったのは加藤一郎である。この〈範例〉以後、紛争大学の責任者はなんの痛みもなくつぎつぎに、じぶんたちの学生を鎮圧するのにすぐれた装備をもった機動隊の学内導入を依頼するようになった。この〈範例〉は、日本近代教育史上に時期を劃する悪〈範例〉であることを、加藤をはじめ大学の教授や責任者たちは胆に銘じておいたほうがいいようにおもう。

 教授と事務職員と学生しかいない大学構内で、じぶんの教授すべき学生たちを怖れて、白昼散歩することもできないという状態で、この連中は、なにを学生に〈教え〉ようとするのだろうか。しかも、学生たちの集団示威が学内におこなわれれば、いかに子供だましの武器とはいえ、武器をもてあそぶことを専門に訓練された機動隊を呼びいれてこれを追い散らす。そこには論理もなければ、知的な優位もなく、人格的な規範力もない。そしておそらく、「その立場におかれた通常の能力をそなえた人」も存在しないのである。

 こういう状態のなかで、加藤一郎らはなにを守りたいのか、なにをしたいのか、わたしには了解することができない。することがなければ引退してごろごろ寝ころんでいればよいのだ。辞任するジェスチャーを公表したあとで、なぜしゃしゃりでて、ことさら悪〈範例〉をつくるために奔走したりするのだろうか。そればかりではない。加藤らは、タイホされた学生にたいする公訴をたすけるために、いかにも実務的法家のいやらしさをまるだしにして、かれらを告訴している。これほどひどい男たちを、わたしは知らない。



 上で吉本さんが「政府にたいする挙動」といっているのは、安田講堂陥落をまっていたかのように自民党政府が打ち出してきた「大学立法」の成立にさいして、加藤を初め東大教授らが繰り広げた言動を指している。加藤らは、この自民党政府の攻撃に対して、相変わらずの破廉恥な対応を続けている。吉本さんはつぎのような発言を拾い出している。

加藤一郎
 大学法案が異常な方法で採決され成立するに至ったことに対して、私は強い憤りを持って抗議する。(中略) 大学人の多くが反対しているこの法案が強行されたことは、大学人に強い衝撃を与えるとともに、法律としての権威を疑わせるものである。このことは、法律の内容上の問題点とあいまって大学紛争の解決をますます困難にしていく危険をはらんでいる。
 私としては、法律にかかわらず、大学の改革を自主的に推進していくほかに問題の真の解決の道はないと信じてきたが、この信念はいまでも変わりない。(「読売新聞」1969年8月4日)

篠原一
 この採決強行は大学法案の問題として考えてはならない。ことは重大で、議会政治の命運にかかわる。政治を今国会ほど悪魔的なものと感じたことはない。(中略) この際、国会はただちに解散されるべきであり、自民党は権力の座から降りなければなるまい。デモクラシーにとって戦後もつとも暗い日曜日 ― 国民は忘れてはならない。(「朝日新聞」1969年8月4日)

 渡辺洋三
 法案の目的ですが、表向きうたっていることをみると、あちらこちらの大学で紛争がたくさん起こっていながら解決していないので、大学紛争について大学が自主的に収拾するということを前提としながら、それを国家が援助するためにこの法案を出したということになっています。しかし、あとで説明するように、その中身を見ると、表向きうたっている法案の目的と中身とは全く逆になっており、一言で言えば、法案の内容は、大学による自主的な解決でなくて、国家権力の手によって強権的に大学紛争を収拾させるということを内容にするという点に特徴があるわけです。
 しかし、こういう権力の手による収拾では、ほんとうに大学紛争が解決するはずがないのであって、この点はほとんどすべての大学が一致して、この法案に反対している理由であります。((「安保体制と大学立法」)

昭和の抵抗権行使運動(89)

東大闘争(6)


 今回は、「大学建造物の荒廃をなげき、研究資料の紛失を悲愴がる」東大教官たちへの批判です。まず「ナチスも日本の軍国主義もやらなかった」暴挙という丸山真男教授について。

 吉本さんは冒頭で『現代日本の革新思想』に収録されている丸山教授の次の発言を引用している。

『私がいうのは、おそろしく「抽象的」な術語や象徴をつかいながら、「具体的」には街頭や集会ですぐ肉体的に激突するような傾向、(笑)或いは、実現可能性からいえば、いろんな時間的な幅をもっている闘争目標が、すべて資本主義社会における疎外の回復といった雄大な目標に目盛がセットされ、その結果、絶対革命主義が結果としては絶対現状維持になっちゃうような傾向ですね。なぜそういう純粋主義が受けるか、という問題です。もちろん、こういう「抽象派」あるいは「具象派」(笑)が輩出したのは、前にも論じられましたように、伝統マルクス主義ないしは前衛神話の崩壊という歴史的背景があるわけです。
 ただもう少し微視的に個々人を見てみると、こういうラディカルは政治的ラディカルというより、自分の精神に傷を負った心理的ラディカルが多いですね。その心の傷は、ある場合には党生活のなかでの個人的経験に根ざしているし、ある場合には戦中派の自己憎悪に発しているし、ある場合は、俺は一流大学を出て本来は大学教授(?)とか、もっと「プレスティジ」のある地位につく能力をもちながら、「しがない」「評論家」や「編集者」になっているという、自信と自己軽蔑のいりまじつた心理に発している。学生の場合は、現代の、とくに大都会でマス・プロ教育を受ける環境に当然ひろがる疎外感と孤独感が下地になっているでしょう。』

 丸山真男は「街頭」や「集会」や大学構内で、「すぐ肉体的に激突するような傾向」が、けっして「純粋主義」や「しがない」「評論家」の特性ではなく、人間の社会的な存在の仕方が、ある局面で強いられる本来的な行動様式のひとつであることを、こんどはかれ自身の行為によって、身をもって立証したのだ。

 しかし丸山は「肉体的に激突」した瞬間にも、しがない評論家とちがって、「大学教授」が社会的に「プレスティジ」のある地位だ、という無意識の錯覚からは、自由ではなかった。そうでなければ、たかがじぶんの研究室に、じぶんの大学の学生たちから踏みこまれたくらいで、このような暴挙はナチスも軍国主義もしなかった、などと大げさなせりふを口走れるはずがない。

 「しがない」「評論家」は、いつも延々とならんでいる図書館の入館者の列にはいって、調べ物をしたり、生活費をかせぐ仕事の合間をつかって研究をつづけている。まったくこういった文化的な環境の貧困と、いわれのない「プレスティジ」の差別は、戦後民主主義社会に特有な〈暴挙〉のひとつである。

 かりに、わたしの〈研究室〉であり〈仕事部屋〉である部屋に、学生たちが踏みこんで追い出したり、蔵書を無茶苦茶に荒らしたとすれば、わたしは、丸山とちがって〈軽蔑〉するだけではおさまりがつかず、〈憎悪〉するかもしれない。また、「肉体的に激突」するくらいではおさまらず、菜っ切り包丁のひとつもふりまわして、学生たちとわたりあうかもしれない。あるいはただ黙ってさせておくかもしれない。ただ、確実なことは、わたしが〈ナチスも日本の軍国主義もやらなかった暴挙〉だというセリフは、決して口走らないということである。

 なぜならば、この問題は、どうかんがえても、〈私的〉な問題にすぎないからである。丸山はじぶんの〈研究室〉が荒らされたということが、まったく私的なことであるか、まったく公的なことであるかのいずれかであり、混同された公私の問題ではない、ということがわからなくなっている。

(中略)

 大学の教授研究者にとっては、大学は学問思想研究の自由と設備が保証され、社会から「プレスティジ」のある地位として評価されることが必要にちがいない。そして大正期のリベラル・デモクラシィの思潮のなかで、この願望はある程度実現された時期があったのである。そして十五年戦争に突入する過程で、この虫のいい幻想はかれら自身の手によって、また政治的強制によって崩壊した。学生たちは動員されるか軍隊にかり出され、教授たちは思想的にまたは行動的に軍国主義に従属した。

 敗戦によって思想的な二重底の仕掛けをとり払われたかれらは、戦場から、あるいは研究室に居据わったまま、一夜にして楽天的な戦後民主主義者に変貌した。そして学問研究の自由、思想言論の自由という、すでにかれらも手をかして葬ったはずの死滅した理念で、大学を復興できるものと錯覚したのである。学問研究の自由、思想言論の自由を葬った罪責は、すべて軍国主義の必然悪になすりつけられた。このとき、大学は、そして大学の担い手である教授研究者たちは、日本軍国主義の〈寛容さ〉に二重の負債を負つたというべきである。ひとつは、すでに死滅したはずの学問研究の自由、思想言論の自由という幻想を、大学の理念として復元したことによって、もうひとつは自身の手も汚して扼殺した学問研究の自由、思想言論の自由にたいする思想的な責任を、ことごとく軍国主義になすりつけて、そしらぬ貌をきめこんだことによってである。



 次は「被害は三億円を越す」というマイクロ・フィルム室の災難を嘆く篠原教授の言説に対しての批判。


 じぶんの責任(学生たちを統御できないということだけでも、それ自体でかれらの責任と大学知識人失格の根拠は問われ得るのだ)についての内省力の無さと、大げさな身振りや思い入れで学問研究者のポーズをとっていることでは、共通している。

 君たちの公表された研究業績のどれが、このような思い入れに価するのかなどとはいうまい。じぶんの個人的な研究室をそれ自体としては不作為な類災として荒らされたくらいで、「文化の破壊」などとはふざけたせりふである。また、貴重な(三億にものぼる! そしてその三億はだれから集めたのだ!)資料の損失を嘆いてみせたりするが、かつてその貴重な資料なるものは、かれら自身の口から、自由なる市民や在野の研究者たちに差別なく解放される共有財産であると宣言されたことなどはないのだ。

 たしかに学問的資料にブルジョア的もプロレタリア的もありはしない。それとともに学問的資料には、私有や占有を超えた公開許容性の原則もまた存在しなければならないのである。

 ここに垣間見られる大学教授研究者たちの感性は、無作為のうちに、じぶんの特権的な位相にたいする無自覚さをあらわにしている。そしてその無自覚な特権は、新聞ジャーナリズムによって甘く感傷につつまれて擁護されている。

 現在のわが国家の社会において、AがBよりも特権的であり、BがCよりも特権的であるという制度的な連環が存在することは、もちろんこれらの大学教授、研究者の責任ではなく、資本制社会そのもののなかに責任の客観的な根拠をもっている。しかしじぶんの特権性にたいして、自覚的であるか否かの責任は、かれらの思想そのものの問題である。特権性を拒むかどうかは、個人にとってはたかだか自己倫理の問題にすぎないが、特権性にたいして自覚的であるか否かは、感性的な変革の政治的、課題でありうるのである。

 かれらがそのことに気づいていたら、大学紛争の政治的な解決に関するかぎりは、急進的な学生たちと共通の基盤に立ちえたはずだといっていい。しかし、加藤一郎らを先頭とする大学教授研究者たちはこの方法をえらばず、大学そのものを政治的国家の貧弱な、だが本質的な武装力の制圧にゆだねたのである。

 大学構内に、保護されたまま、戦後二十数年をジャーナリズムで囀ってきた心情のスターリン主義者、心情の市民民主主義者は、この法的プラグマチズムの支配下でいま何処にいるのだ?



昭和の抵抗権行使運動(88)

東大闘争(5)


 今回は、1月18日・19日の機動隊導入による学生暴圧に対する吉本さんの批判です。
 1月18日、かれらは持ち込まれた危険物を排除するという名目で、ふたたび八千余の機動隊の導入を懇願し、安田講堂に籠つた全共闘主導下の学生たちを武装暴力の攻撃の手にゆだね、みずからはこれを傍らで見物していた。

 学生たちの果敢なそして節度のある抵抗が、機動隊の完備された装備のまえで徐々に追いつめられていったとき、かれらは平然として眉をひそめるふりをした〈良識的な〉ジャーナリズムとかけ合いで、学生暴力談義にうつつをぬかし、加藤一郎のごときは〈学生諸君、無駄な抵抗はやめて下さい〉などと臆面もなくマイクで呼びかけさえしたのである。

 このとき、かれらを支えたのは、日共の支持であるのか、偽造された世論であるのか、東京大学エゴイズムであるのか、自己保身であるのか知らない。かれらはただ入試の存廃、授業の再開という大学の本質の問題とも全社会的な問題ともかかわりない一連の事態収拾の論理のうえを走ったのである。東京大学の入試が実施されようと、授業が再開されようと、そんなことは社会的には三文の値打もない問題で、もちろんわたしの知ったことではない。また、つまらぬ一国立大学の存廃などは、当事者以外には社会的な考察に価しはしない。

 ただ、安田講堂に籠つた急進的な学生たちの抵抗が、機動隊の装備と威圧力のまえに次第に追いつめられ排除されてゆく姿と、無量の思いでそれを傍観しているおのれの姿のなかに、全情況の象徴をみていたのである。もし東大紛争のなかに、貴重な社会的、政治的、思想的課題が含まれているとすれば、この光景と、これをとりまくさまざまな思想的または政治的位相のなかに集約されていた。この場面で、すでに、大学教授研究者たちにより喧伝され、流布されてきた戦後民主主義の理念は、自身で破産して、〈情況〉から退き、機動隊の武装威力に自身を肩代りさせていたのである。

 そのあと加藤一郎、大内力らがやったことは、たんに保守権力によってのみではなく、全社会的大衆によって正常な神経を疑われるような、まったくの茶番であった。かれらは全共闘主導下の急進的学生たちを、機動隊の手に引きわたしたあと、その汚れた掌の乾かぬうちに、政府に暴力学生は始末したから入試の復活をしたいと申し入れたのである。

 現在の保守政府の政治委員会が、どんなに頓馬の集まりであっても、加藤一郎らの打った破廉恥な猿芝居が見抜けないはずがない。かれらは政府から自治能力の無さと精神的な頽廃を指摘されて、入試復活どころのさわざではないではないかと拒まれたのである。わたしと一緒になりたいなら、ほかの女と手を切って頂戴などと女に言われて、手を切ったまではよかったが、女のほうでは、いっこうにぐうたら男の意を迎えてくれなかった、というのが加藤らと政府の関係である。加藤と追従する教授研究者たちが、入試問題に干渉するのは、大学自治の侵害だなどといまさらのように騒いでも、なんの意味もあるわけがない。かれら自身が、先ずじぶんの手で、大学正常化を武装暴力にゆだねた張本人であり、かれらこそ戦後民主主義思想をみずから扼殺した元凶だからだ。

 新聞ジャーナリズムにあらわれた偽装された世論なるものは加藤らの処置を是認しているようにみえたかもしれない。しかし真の社会的な大衆の世論は、加藤ら大学教授研究者たちを、じぶんの大学の学生たちすら統御できない無能力者と見做して、紛争の最大の責任を、古風な教師像にてらして加藤らの処置に集中していたのである。

 いうまでもなく、大学教授研究者たちの挙動から実証された戦後民主主義理念の終末は、戦後大学の理念の終焉である。そのあとの空洞が、より保守的なまたはより反動的な大学理念によってみたされたとしても、責任はかれら大学教授研究者たちが負うべきである。わたしたちは愚者の楽園などに三文の社会的な値うちも認めないのだ。

 そしてこの現在の全社会の〈情況〉が、大学紛争のなかで鏡にうつされているのだとすれば、その〈情況〉については、かれら大学教授研究者たちの判断をいっさいたたき出しても、〈情況〉の本質を固執しなければならない。かれらが愚者の楽園から首をだしてふたたびジャーナリズムのうえで進歩的幻想をふりまきにかかったとき、かれらは苛酷にその本質を粉砕されなければならない。

 加藤一郎らは、大河内一男の退場のあとに登場するにあたって「従来のいきさつにとらわれず、学生諸君の提起した要求項目について討議する」全学的な集会を開催するポーズをしめした。ところが、紛争が長びき入試中止かどうかを決定すべき期限の問題が、公然と保守政府と新聞ジャーナリズムによってとりあげられるようになると、わが国のいかなる大学教授研究者たちの類型にも当てはまらないような、凄まじい豹変ぶりをしめした。

 そこでは民主的思想原理を貫ぬき、紛争の解決のために、急進的な学生たちによって提起された大学の制度的改革と、大学知識人の感性的な変革を要求する声の、矢表てに、悪びれずに直面するポーズは突如かなぐり捨てられ、しゃにむに事態を収拾し入試を強行し、大学が存続する社会的条件を名目だけでもとりそろえる目的のために、大学そのものを機動隊の武装威力の管理下に置くという最悪の手段を思いついたのである。

 このすさまじい豹変の論理と、鉄面皮な手段は、わが国の知識人のとりうる態度のうちでも、最低のものであったといえる。かつてわたしたちが共通に所有している知的な慣行例のうち、これほど無惨な手口を厚かましく行使した知識人たちは、皆無であったといっていい。じぶんの大学の学生たちから、行動について一片の信任をもえられていない教授研究者たちの執行首脳部が、学生の信任をえられていないことにすこしも責任を感ずることもなく、平然と積極的に機動隊の武装威力によってのみ事態を収拾しようとする厚かましさ、無神経さをまざまざとみて、怪奇な化けものをみたときのように、しばらくぼう然としたといってよい。



昭和の抵抗権行使運動(87)

東大闘争(4)


 安田講堂が機動隊によって「陥落」させられた後、全共闘に対するマスコミによる集中攻撃はいよいよ苛烈を極めていった。そのような中、知識人有志による声明文が発表されている。それは全共闘に結集した学生たちへの激励と連帯の意思を表明するものであった。その声明文は次のように述べている。

 加藤代行を筆頭とする東大執行部の諸氏、これに追従する多数の教官諸氏。政府権力の暴力の下に身をゆだねようとする貴方がたには、学閥・研究の自由を説く資格はおろか、一人の教師としての基本的良心をも認めることはできない。

 そもそも、東京帝国大学以来九十年の東大の恥ずべき歴史 ― 人民抑圧の知的センターとして、また日本帝国主義の担い手をつくりだす特権的権威主義的組織としての歴史 ― にたいして、学生諸君が提起した根本的な問いに貴方がたはどう答え、それをどう受けとめたのか?

 大学建造物の荒廃をなげき、研究資料の紛失を悲愴がる前に.東大教官としての特権にしがみつきながら一切を発想する貴方がた自らの精神の荒廃をのぞきこんでみなければなるまい。学生諸君の暴力を云々する前に、貴方がた自らの思想の頽廃を恥じるがよい。それこそが、学生諸君がその正当な論理と闘争によって切除し、解体しようとした東京大学の恥ずべ過去と現在を支えているものなのだ。



 学生たちは「東京帝国大学90年の恥ずべき歴史」の秩序に挑戦した。そしてその帰趨は、90年の歴史の中であぐらをかいている教官たちの「荒廃した精神」「頽廃した思想」と、民青同の欺瞞的大衆迎合路線とが結託して、授業再開・入試続行を大義名分に、機動隊導入という最悪のシナリオを強行することによる暴圧であった。

 何が残ったのか。東大はますます国家権力の支配力のもとに包摂され、生きのび、たちなおり、相も変わらず民衆の生活と隔絶した地点で、明治以来の役割を順調に果しつづけている。

 生き残った教授たちの「大学建造物の荒廃をなげき、研究資料の紛失を悲愴がる」言動を拾ってみよう。

 一番有名(?)なのは丸山真男の次のような言動だろう。新聞はおおよそ次のように報じていた。

 学生たちが丸山真男の属する東大法学部の学館になだれこみ、丸山真男を研究室から追いだした。丸山真男は封鎖する学生たちの群れにむかつて、「君たちのような暴挙はナチスも日本の軍国主義もやらなかった。わたしは君たちを憎みはしない、ただ軽蔑するだけだ」といったことを口走った。学生たちは「われわれはあんたのような教授を追い出すためにきたのだ」とこたえた。

 また、安田講堂陥落後のことでは、次のようなエピソードが伝えられている。

『万が一の無事を祈って自分の研究室にはいった丸山真男教授は、しばらく声も出せなかった。「部屋の中央にあった本ダナが、そっくりなくなつちまった」 ― やつと口を開いてがっくり肩を落とす。「学生は研究室を教授がすわっている部屋ぐらいにしか思っていないんだ」といいながら、小さな懐中電灯で薄暗くなった研究室を照らし、床にばらまかれ、泥に汚れた書籍や文献を一つ一つ拾いあげ、わが子をいつくしむように丹念に確かめながら「建物ならば再建できるが、研究成果は……、これを文化の破壊といわずして、何を文化の破壊というのだろうか」とつぶやいていた。押えようとしても押えきれない怒りのため、くちびるはふるえていた。』(「毎日新聞」1969年1月19日)

『各国の外交文書などをフィルムに写しとった四階のマイクロ・フィルム室は、約四千巻にのぼり、来訪の外人学者も「本国にすらない」とうらやむほど。それが十八日にほとんど焼かれた。わずかに残ったフィルムも踏みにじられ、使うことのできぬクズとなった。政治学専攻の篠原教授は「原爆ドームのように東大紛争の記念として末長く保存すべし、という声すらある。金に換算できないが、あえてすれば、被害は三億円を越す」としぼり出すような声。かたわらで若い助教授は「私たちの学問を共闘派の諸君はプチブル的という。しかし学問研究の資料はブルジョアのものでもプロレタリアのものでもない。資料自体の価値すら認めないとは一体どういう精神の持ち主なのか」と叫ぶような口調で語っていた。』(「読売新聞」1969年1月19日)

 実はこれらの新聞報道は、吉本隆明著『情況』の中の「収拾の論理」から書き出したものである。これら教授たちの言動に対して、吉本さんは痛烈な批判をしている。まず、安田講堂攻防にいたるまでの収拾の仕方について、次のように批判している。

 ここ数年来火をふきだした大学紛争の過程で、大学教授研究者たちが、ジャーナリズムと戦後社会から過剰に甘やかされて育てられた、社会常識以下の判断力しかもたない過保護な嬰児にすぎないことが暴露された。

 急進的な学生たちを先頭とする〈学閥支配体制を解体せよ〉・〈学問研究の専門的な分野以外のところでは、教授研究者と学生とは人間的に対等であるという原則を認めよ〉というような、それ自体きわめて感性的な要求から発して、大学制度改革の項目をつきつけられたとき、かれら大学教授研究者たちは、まったく不可解な人種の言葉を耳にしたときのように、為すすべを知らず右往左往した。

 かれらのうちただ一人も、大正リベラル・デモクラシイの原理が戦争期になめた苦渋な体験と、戦後二十数年のあいだ磨きをかけてきたはずの市民民主主義思想に根ざして、急進的な学生たちの前面に立ち、まさに思想原理的に対決する姿勢をしめしたものはいなかった。また学生たちから不信任をつきつけられ、〈おまえ〉呼ばわりされたとき、学生たちと人間的対等の立場に駒をすすめて、自力でこれを粉砕しようとする者もいなかった。また、〈おれはこんな頓馬な学生たちに教えるのは御免だ〉と公言して辞表をたたきつける者もなかったのである。

 かれらが社会に身をもって示したのは、怯懦・女々しさ・小狡さ・非常識、ようするに特権的な知識人が共有する最大の悪徳だけであった。かれらは戦争期とまったくおなじように、思想と感性との二重底を使いわけることで、ただ当面する事態を巧みにすりぬけようとする態度を公然としめした。

 それは戦後市民民主主義の思想が、戦争体験を忘れ、戦後二十数年をただ徒食のうちに空費しただけであることを見事に露呈した。安保条約を論じ、日韓間題を規定し、ベトナム反戦を唱和しているあいだは、どうせ他人事であるため、ただ現実認識のお粗末さを露呈しただけで、かれらの醜悪な本性はまだ覆われていた。しかしかれらが、じかに足もとから市民民主主義思想を問いつめられたとき、完膚ないまでにその思想的な根底の脆さをさらけだしたのである。

 現在、大学紛争の根底にあるのは、戦後の大学の理念として潜在してきた市民民主主義思想のなか身の問題である。かれらは学問研究の自由、思想の自由という名目のうちにある特権を、じっさいに大学が温存してきた前近代的な学閥支配体制の解体のために行使せずに、「プレスティジ」のある地位を保守するために逆用してきたのである。総体的な社会の大衆のなかに、どんな自由も自治も存在しないときに、大学の自由や自治などが現実に存在しうるはずがない。ただ理念としてだけ自由と自治の仮象が大学構内に流通しうるにすぎない。

 したがって大学紛争の本質は、大学理念の担い手である教授研究者たちの市民民主主義思想が、理念と現実性のあいだに口をあけている裂けめの問題である。制度としての大学がどうあるべきかなどということは、もともとわたしの知ったことではない。わたしは現在の大学紛争のなかで、試練に立たされている市民民主主義理念が、どのように思想的な原理を貫きつつ、急進的な学生たちに押しまくられて果敢に沈没するか、あるいは急進的な学生たちをおさえきって公然と本来の面目にたちかえるかにもっとも関心をいだいた。

現在、スターリン主義として世界的に展開されたロシア・マルクス主義が、思想的には問題にならない以上、市民民主主義思想の去就は全情況の象徴でありうるといえる。わたしは大学の教授研究者の挙動のうちに、市民民主主義の思想原理が確乎として貫徹される姿をどんなに願ったか知れない。それはわたしにとっていつも思想的な敵対物であり、批判と反批判の対象であったが、どんな思想も敵対する思想の媒介なしにじぶんを成熟させることはできない。

 もともと戦後の市民民主主義の思想が、ろくでもない戦争体験に蓋をして出発したもので、ときに応じて体制と反体制の補填物として機能する双頭の蛇であることはわかりきっていた。しかしわが国では思想の根底が問われるときは、体制的か反体制的かが問題なのではない。思想がその原則を現実の場面で貫徹できるだけの肉体をもっているかどうかが問題なのだ。

 わずかひとりの大学知識人の挙動によってでもよいから、戦後民主主義が思想として定着した姿をみることができれば、というわたしの願望は空しかった。大学教授研究者たちがみせたのは、戦後民主主義の予想できる最悪の姿だったといっていい。

 かれらは急進的な学生たちのごくあたりまえの要求を、まるで異邦人の言葉のように仰天してきき、はじめは脅しによってなだめようとし、それが不可能と知ると、なし崩しに学生たちの要求をうけいれるようなポーズをとり、それが拒否されると臆面もなく機動隊のもつ武装した威圧力を導入して、事態を技術的にだけ収拾しようとしたのである。

 おそらく急進的な学生たちが、大学教授研究者たちに本質的につきつけたのは、学問の知的な授受以外の場面では、教授するものと教授されるものとは、いかなる特権的な学閥体制も人間関係をももつべきではないという感性に根ざした要求であったとおもえる。そしてこの感性的な要求は、感性的であるがゆえに教授研究者たちにとってもつとも受けいれがたく、また了解しがたいものであった。なぜならば、かれらが知的優位と知的特権とを、社会的優位と社会的特権に無意識のうちにすりかえて保ってきた心性は、急進的な学生たちのこの感性的な要求によってのみ転倒され得るもので、大学の制度的な改善の具体的項目によっては、けっして侵害されないものだからである。学生処分のやり方と原因とが紛争の過程で固執されたのは、おそらく、それが教授研究者たちと学生たちの感性的なせめぎ合いの焦点として大きな意味をもつものだったからである。

 東大紛争の過程で、加藤一郎、大内力、坂本義和、篠原一、寺沢一らは、かれらの思想的な同類とともに、戦後民主主義の思想原理をじぶんの手で最終的に扼殺したといいうる。

 かれらは東大入試決定の期限切れという、それ自体が全社会的には三文の価値もない問題を焦慮するあまり、学生同士の流血の衝突を回避するため、という名目をつけて、機動隊の武装力を要請して全共闘の急進的な部分を制圧し、日共系学生たちの寝返りにたすけられて、機動隊の保護下に学生集会を開き、事態を技術的に処理しようと試みた。

 入試を実施するか否かという問題は、東京大学の学内問題ではありえても、大学紛争の本質とはなんのかかわりもないことである。またそこには一片の思想原理的な課題も含まれえないことは明瞭である。

 はじめに、大学紛争の本質的な課題を解決するポーズで登場したかれらは、束の間のうちに東京大学さえ存続すれば、ほかのことはどうなってもいいという、なりふりかまわぬ破廉恥漢に変貌した。

 かれらはじぶんの学生の一部を、じぶんの手で処分することも説得することもできないと知るや、武装した官憲に懇願して、これを武装力によって拘置所におくつたのである。

 それ以後、かれらの採用した態度は、すでに社会的な非常識を超えて、精神病理学上の廃疾者の態度であった。かれらは戦後民主主義の思想的原理を、じぶんの手で扼殺することで、じぶんで幻想した大学の理念を扼殺しただけではない。おおよそ人間的な感性を喪失した人格崩壊者としての本質をさらけ出したのである。



昭和の抵抗権行使運動(86)

東大闘争(3)


 前2回で東大闘争のあらましを追った。今回は実際に安田講堂の攻防を目撃した人の生々しい記録を、前2回の記事の補充として転載しよう。資料は「朝日ジャーナル(69年2月2日号)」の「新しい季節へのうつろい ― 安田トリデの攻防」という記事で、とても優れたルポルタージュだと思う。無署名記事で、筆者は(ん)と略記名している。たぶん朝日ジャーナルの記者さんだろう。

新しい季節へのうつろい    ― 安田トリデの攻防

存在の根源へ

 東大の安田講堂ならびにそのほかいくつかの建物が、機動隊によって攻め落される現場を私は見た。みなさんの多くもまた、報道によって、そのもようをお知りになったと思う。とくにテレビの現場中継はなまなましかった。

 1月18日から19日にかけて、社会の耳目は本郷に集中した。それはもはや、東大の入試が行われるかどうかとか東大が持っている社会的意味がどうこうとかいうことを乗越えた地点での関心であった。それは、人間の存在の根源に触れる事件であった。

 東大がどうのということは、いわば制度の、形式の問題である。だが、実際の攻防戦を行なったのは人間たちであり、しかも、それは見ている人に対して、その意識の深い領域にまで迫るイメージとしてあった。あえていえば、人間が生きるということは結局このようでしかありえないのかどうかという問題であった。

 たてこもつた学生たちの行動は、実は彼らの行動が現わしうる領域のかなたにあるものへの志向であった。そして、彼らの行動をそのようにとらえた人は、自らの存在に耐えがたい嘔吐をもよおし、人間を形式としてしか見ない人は、パリサイ人のあざけりを彼らに与えて去って行った。



 18日午前5時45分。安田講堂のいわゆる「時計台放送」は次のように叫んだ。これが幕あきであった。

「こちらは時計台防衛司令部。ただいま、機動隊は全部、出動しました。すべての学友諸君は戦闘配置についてください。われわれのたたかいは歴史的、人民的たたかいである」

 それから一時間ほどして太陽がのぼった。機動隊はそのあとでやってきた。時計台の頂上に立てられた赤旗と淡青旗の向うで、空は色を失い、化粧レンガの色は、いっそう深いものになった。

 そのとき、彼らの言葉を越えたところで、たしかに何かが賭けられたのだ。だが、それを具体化する行動として、彼らは、月給をもらって民衆を「整理」するプロフェッショナルを相手にするという、みにくい闘いしか表現方法を持たなかった。それが、この事件に矮小な外観を与え、その点にしか視線をそそぎえない人に対するつまずきの石となった。

 では、いったい「東大闘争全学共闘会議」が起した運動は、結局、何であって、どうしてここまでやれたのだろうか? いまこのことが、ことの善悪に対する評価を越えて明らかにされなければ、東大を荒廃に招いた代償はえられないであろう。

 問題は端的に煮つまっている。それは「かかる状況のなかにおいて、なお自由に生きることは可能か」という問いかけであった。

 第一の答えは明らかである。それは不可能だ。だから彼らはその現実的表現として、全員逮捕されたのだ。だが、問題をこのように設定した以上、生きることの営為の深みにおいて、それは可能であるという、さらに高次元の答えが用意されていた。彼らは、彼らなりに、その存在の秘められた封印を切って、その答えを知ったのだ。

 「問題をこのように設定した」とは、一っには、存在論的にということであり、一つには「自由に生きること」という述語に対して、主語がなかったことが示すように、すべての人に対して問われる問題だということである。そして「すべての人」とはもちろん、なんらかの意味において抑圧された人であり、抑圧された人こそ人間的特権を持っているのだ。

 このことが、見ている人に対して、共闘会議に対する多くの根強い批判は批判としてなお自ら考えさせる要因となった。自由ということは、抽象的、幻想的なものではなく、具体的、現実的なものなのだ。自由は人間の行動によって表現されたとき初めて存在しうるのである。それが、18、19の両日にわたって、安田講堂が多くの人をテレビの前にひきつけえた理由であったろう。

 時計台の上に立つ学生のシルエットを見て、「カッコいい」といった人は、単純で、いわば無責任な表現方法しか知らなかったけれど、実は、このことを、心のどこかで感じていたにちがいない。

終りなきたたかい

 19日午後5時45分。機動隊の姿が、最後のトリデである屋上にまで達したとき、電源を切られて「時計台放送局」は死んでいたが、ハンディ・マイクが次のように叫んだ。これが終幕であった。

「こちらは時計台放送局です。時計台放送は再び真に再開されるまで休みます」

 報道によれば、全学共闘会議は、かねて「われわれの闘争は終りなきたたかいだ」といっていたそうだ。この最後の放送はそれをいいたかったのだろう。そして、その夜、神田の学生街一帯は、「東大闘争支援」「東大奪還」を唱える多くの学生たちによってバリケードを築かれ、相貌を変えた。

 東大全学共闘会議は、これまでにもたびたび日大全学共闘会議と共催して集会を開いてきた。これはセクト間共闘ではなく、個別学校の共闘会議間共闘であり、おそらく、日本の学生運動史に新しい一時期を画するものであった。東大、日大の事例は古い時代の終りであり、新しい時代の開始を告げている。従来のような形での個別学園闘争は変貌してゆくであろう。

 学生たちのいわゆる「国家権力」は、本郷の「東大闘争」のために、神田へ、明治へ、中央へ、日大へと警官を出動させなければならなかつた。これが、60年安保全学連が崩壊したあと10年の執行猶予のうち9年目にして、学生運動が出した回答であった。

 安保以降、学生運動は大きな街頭行動は組めなくなり、学園内闘争に主力をおくようになった。そしてまさにそこにおいて、大学とは何をするところなのか、自分は何のために大学にいるのか、つまり自分はどのように生きようとしているのか、ということが問われていった。昭和41年の「早稲田闘争」以降、明治、中央と受けつがれてきた思想はそれであり、東大、日大はまったくその延長線上に、そしてその極点に位置した。

 一方で街頭行動は「日韓闘争」「砂川基地闘争」をへて、一昨年の「羽田闘争」以降、再び社会に大きな衝撃を与えた。その行動の激しさが、東大、日大に引きつがれてることは明らかだろう。

こうして片方における「学園闘争」の思想のつきつめ、一方における街頭行動の激化、この二つが交差したところに、現在の学生運動はおかれている。

 60年安保闘争は、もう昔ばなしのようである。『朝日ジャーナル』1月19日号の最首悟氏の論文(「玉砕する狂人といわれようと」)のなかに、60年当時、大学は帰るべきところとしてあった、と書かれている。樺美智子慰霊集会には、学生も教官もともに手をとりあって焼香した。だがいまは・・・・・・。

 学生運動の思想は、ただ単に、一組の支配者を他のものと取りかえる試みより、はるかに遠くまで行ってしまったようにみえる。それはいまや、自由に生きるということの、全存在をかけた試みとなったのだから。

反逆のバリケード

 さて、人間が自由に生きるということがどのようなことであるかは、彼がおかれている個別的状況によって異らざるを得ない。なぜならば、自由の企てとは、ほかならぬ彼を取巻く状況を具体的に乗越えるところにあるからだ。全学共闘会議の学生たちは、どうどうたる世の非難にさからって、それをスローーガン的には「大学の帝国主義的再編反対」とい言葉で現わし、具体的行動においては、教室、研究室、大学事務局を占拠するという自己流の表現をとった。

 「東大闘争」に対して「日大闘争」がもった意味は大きい。日大生たちは、「こんな日大ならつぶしてしまえ」と叫んだ。現体制の管理者養成機関である東大の学生たちは、「こんな東大ならつぶしてしまえ」と主張するものが共闘会議に走り、それ以外のすべては「東大を守れ」と叫んだ。

 共闘会議に属する部分は、まず初めに、自らの心のうちなる東大を否定しなければならなかった。それがすなわち、彼のおかれている状況のなかでなお、彼が自由に生きるという企ての唯一の方法であるとかたくなに信じた。自分が自由に生きるということは、他人に対しても由に生きることを要求することであった。ことがらはすべての人間にかかわる問題だったのだ。安田講堂にたてこもった学生たちが、機動隊に向つて、「東大闘争の意味」なるものを演説したのは、彼らのいう「国家権力の暴力装置」に対してもまた、彼らの信ずる自由の意味を説明しようとしたのであろう。

 こうして、彼らが否定している教育の場である大学の建物そのものが、まさに彼らのトリデとなり、彼らが自ら破壊した、心のうちなる東大を形成した机そのものが、「反逆のバリケード」となった。



 機動隊が構内に姿を現わしてまもない18日午前8時20分ごろ、正門前にいた青年・学生たちが警備線を突破して約300人のデモを組み、講堂前まで進んだ。彼らと講堂の屋上の学生たちは、たがいに手を振りあった。凄惨な二日間が始る前の、ひとときの点景であった。

 このデモの中心は反戦青年委員会の労働者たちだった。この日は15日に続いて「労学総決起集会」が開かれる予定になっていた。つまり、「東大闘争」には、労働者が参加していたのだ。それまでにも労働者の参加はあった。だがそれは、特定のセクトのメンバーとして、そして多くは特定の色のヘルメットをつけての参加であった。

 この新しい事態は、安田講堂およびその他の建物の、物理的な攻防戦の陰にかくれて、世間の目をひかなかったものの、実は注目すべきことであった。

 それにしても陰惨な見せ物であった。そう感じるには、視点の問題が重要な要素となっていた。ほかのことなら、われわれは警察の側からも、またその逆の側からも見ることができる。だが、この籠城戦ばかりは、初めから終りまで、警察の側から見守るしかなかった。

視点の位置

 ガス弾は打続けであった。しばしば直撃をねらっていた。それはもはや催涙が目的ではなく、ライフルを持たない警察が使う、実質的なその代替物であった。

 射手は一列横隊に並び、地上から上に向けて、あるいは隣の建物の屋上から水平に銃をかまえ、屋上の学生が顔を出すたびに射撃した。そのために、眼球破裂や口蓋破裂で重傷者が続出したという(『朝日新聞』1月19日)。

 「あたったあ」とこおどりせんばかりに喜んでいる機動隊員の姿を目撃して、私は西部劇を思った。白人の視点に立ってインディアンをやっつけてゆく西部劇を。あるいはまた「ベトコン」をやっつける米軍を見ているようでもあった。そして、自分の視点がそういう場所にしかないということを感じるとき、実に陰惨な思いであった。



 われわれの生命はたえず何ものかによって侵されている。その何ものかとは、資本いい、時間といい、あるいは非現実という言葉で現わそうと、ともかく非人間的なものである。共闘会議は「国家権力」も、つまりはそれだという。だが、安田講堂を攻めたものは、なまなましい人間的なものであった。

 そして攻める側が人間的であると主張し、あるいはそうよそおっているとき、相手を非人間的なものと措定する傾向は強く生れてくる。たてこもる学生たちはまるで虫けらのように扱われていた(断っておくが、私はここで視点の位置による人間的観察を行なっているのであって、道徳的非難や、あるいは正当防衛論その他の法律論を展開しているのではない)。

 〝催涙″弾の直撃、〝催涙″液の強襲的な放水、そして〝催涙″剤の空中からの散布。この最後のものは、殺虫剤散布のおもむきであった。それは、ヘリコプターの爆風の使用とともに〝催涙″のためだけではなく、全身衰弱をねらっているようであった。

 ここではもう見ていること自体が一種の責苦であった。そしてテレビを通して見ている人も、それを免れることはできなかった。それが苦しく、しかもなお見続けている人は、どこかに救いを求めようとした。

夕暮れの静寂

 第一の救いの手だては、共闘会議を非難することであった。彼らがこのように、武力的に見て絶望的とわかっている龍城戦を行わなければ、自分もこんな胸の悪い思いをしなくてもすものに、というのがその論理であった。

 第二の救いは向うからやつてきた。二日間にわたった攻防戦の終末近く、安田講堂の屋上の学生たちは、抵抗をやめ、残された人数で最後の集会を開いた。機動隊がそこまで踏込んだときも、だから、地上からはよく見えなかったものの、そうひどい取扱いを受けたわけではあるまいと推測したのだ。

 私の友人たちは口をそろえていった。「最後の場面がせめてもの救いだった」と。こういう慣用句は深い吟味なく使われ、共闘会議に対する救いだという、漠然たる思いを込めていたのかもしれないが、もちろん、自分に対する救いだったのである。



 トリデの頂上で赤旗を振っていた最後の学生も連れ去られたとき、あたりにしばらくの静寂があった。夕暮れのなかに、講堂の影は再びとけ込もうとしていた。燃え残りの煙が、時計台にまつわっていた。

 ジャンヌ・ダルク火刑 ― のちの歴史が、名誉回復を宣言したとき、火刑台上のジャンヌ・ダルクは、奇跡によって昇天したという信仰が生れた。それもまた、共犯者のやりきれなさが生んだ自分への救いであった。

 そしてこの世のこわさは、同じ時間に、同じことが、別の場所では平然と行われているということである。駒湯の第八本館にたてこもった共闘会議系に対する包囲がそれであった。

 私は現場を見ていないので、この間の事情をよく報道していた『朝日新聞』によると、代々木系学生と一般学生の連合軍は、あらゆる方法で龍城組をいじめた。まず、この建物の電源とガスと水道を絶った。さらにガラス窓を投石で割り、吹きさらしにした。そして昼夜をわかたず見張りを立て、兵糧攻めにしたうえで、差入れにきた人たちにも乱暴を加えた。また夜眠らせないためドラムかんをたたいて近所から苦情が出たこともあり、殺虫剤を、占領した一階でたくといった戦法もとった。そして「オレたちは機動儀ほどやさしくないぞ」と叫び、概嘆すべきことには「20日からは病人の救出も代々木系に断られたといっている」そうだ(『朝日新聞』20日付夕刊)。

 21日になって、やつと彼らは迎えにきた全学共闘会議と一部教官に守られて撤退した。包囲組はもともと、暴力で排除せず自主的な撤退を待つという態度のはずだったのだが、籠城組が去るとき、「逃げようとする共闘派学生をひっぱりこんでヘルメットをとったり、袋だたき」(『朝日新聞』21日付夕刊)「リンチを加えた」(同日付『毎日新聞』夕刊)というありさまだったという。

 そしてもつと不可解なのは、この事件に対する大学当局の対処の仕方であった。

 つまり、1月9日、本郷の経済学部に代々木系学生たちが逃げ込み、それを追って共闘会議派がバリケードを解きかかったとき、人命の危険という名目のもとですぐ機動隊を導入したのに、この兵糧攻めについては、一部の良心的教授の個人的動きをのぞいては黙殺する態度に出たのである。

 はっきりいって、大学当局と代々木系学生との連動は、入試実現のための利害の一致からであった。そうして、そのために、一年にわたる「東大闘争」のにない手であった共闘会議をソデにした結果が、大学の荒廃と入試の中止とは、まったく皮肉であった。

 歴史がひとつのうねりを示すとき、ふだんは底にたまっていて見えない人間の醜悪さが、悪臭を放つガスのように、ぶくぶくと表面に出てくることがある。ジャンヌ・ダルクはいつの時代にもいるのだし、またそうである以上、死刑執行人もいつも存在するのだ。




昭和の抵抗権行使運動(85)

東大闘争(2)


6月29日
 「安田講堂封鎖実行委員会」が結成され、各学部で学生大会が開かれた。工、法、教育学部が1日ストを決め、農学部と理学部では学生の一部が授業放棄をした。経済学部と教養学部代議員大会では、無期限ストライキが提案されたが、否決された。

7月2日
 時計台を再び占拠、封鎖。

7月5日
 全学共闘会議が結成され、3000名で決起集会を開く。

7月16日
 全共闘、代表者会議で処分撤回、大衆団交、機動隊導入を自己批判せよ、等の七項目要求を確認。

7月23日
 全学助手共闘会議結成。

8月10日
 大学当局は東京大学告示を全学生に郵送。

9月27日
 医学部赤レンガ館を研究者自身の手で自主封鎖。

10月12日
 全学無期限ストに突入。

11月1日
 大河内総長辞任

11月4日
 加藤一郎総長代行に就任。

11月21日
 総合図書館前で全共闘と民青衝突。

11月22日
 「東大・日大闘争勝利全国学生総決起大会」開催。

12月29日
 当局入試中止を決定。

 入試中止決定は、加藤代行と坂田文相との合意であったが、1月15日までに事態収拾の場合は再協議という条件が付されていた。スト解除による正常化をして入試を実施したい大学側は、事態収拾を急いでいた。

1969年1月4日
 加藤総長代行、「非常事態」を宣言。

1月9日
 全共闘と民青が激突。

 「7学部集会」を翌日に控えたこの日、都内9大学の全共闘と各派3000人が「東大闘争・日大闘争勝利全都総決起集会」を開催した。日共系学生も3000人を動員して教育学部と理学部の建物にたてこもった。全共闘は、民青同の根拠地化していた教育学部奪還闘争の挙に出て民青同と激突。激烈な乱闘になった。

 加藤総長代行は、「第一に経済学部で危険な状態にある学生の救出、第二に教育学部で包囲されている学生の救出、およびそれに伴う必要な措置をとるため、警察力の出動を要請する」旨を、警察当局に伝えた。これによって全共闘系の学生のみが51名逮捕された。この時の機動隊導入は、それまでの対大学当局と学生間の抗争に関連しての導入ではなく、学生運動内部の抗争に対してなされたものであるという点が注目される。

 この経過に関して、「日本共産党の65年」で、日共が次の様に対応したことを明確に述べられている。

「東大では、学生、教職員自ら暴力集団の襲撃を阻止し、校舎封鎖を解消する闘いを進め、1月19日日には、7学部代表団と大学当局との交渉を妨害する為に各地から2千人をかき集めて経済学部、教育学部を襲った暴力集団の襲撃を正当防衛権を行使して机やいすのバリケードなどで跳ね返した」
「党は、これらの闘争が正しく進むよう積極的に援助した」

1月10日
 国立秩父宮ラグビー場で「東大7学部学生集会」開催。

 医・文・薬の3学部を除いた7学部、2学科、5院生の学生・院生約8000名という予想以上に多くの学生が参加した。学生側の代表団と東大当局の間で「確認書」が取り交わされた。これは民青同が主導したもので、泥沼化する東大紛争の自主解決の気運を急速に盛り上げていくことになった。

 この集会では、「大学当局は、大学の自治が教授会の自治であるという従来の考え方が誤りであることを認め、学生・院生・職員も、それぞれ固有の権利を持って大学の自治を形成していることを確認する」などが確認された。

 この確認書の内容は、当初全共闘側が目指していたものであるが、全共闘運動はいつの間にかこうした制度改革闘争を放棄し始め、この頃においては「オール・オア・ナッシング」的な政治闘争方針に移行させていた。この時、全共闘約3000名は、「闘争収拾の為の代議員大会粉砕」を掲げて参加を拒否、全都総決起集会を開催した。

 この集会をめぐって、「れんだいこ」さんは次のように論評しているが、同感である。

 この頃全共闘は、民青同ペースの「7学部集会」に反発するばかりで、制度改革闘争を含めた今後の東大闘争に対する戦略-戦術的な位置づけでの大衆的討議を放棄していた観がある。

 なぜかは分からないが、運動の困難に際したときに、決して大衆的討議の経験を持とうとしないというのが新旧左翼の共通項、と私は思っている。この頃より一般学生の遊離が始まったと私はみる。

 それと、全共闘運動がなぜ制度改革闘争を軽視する論理に至ったのかが私には分からない。果たして、我々は戦後人民的闘争で獲得した制度上の獲得物の一つでもあるのだろうか。反対とか粉砕とかは常に聞かされているが、逆攻勢で獲得する闘争になぜ向かわないのだろう。



1月11日
 駒場寮の屋上で行われた教養学部の代議員大会では、ストライキ解除提案が可決された。

1月12日
 6学部のスト解除、封鎖解除等を目指す「全学投票」を寮食堂及び北寮で行う。

 この投票は、民青同と右翼系学生が組織した「防衛隊」の護衛下で行われたが、投票者は極めて少なかった。

1月13日
 投票者は依然と少なかった。防衛隊は投票所防衛の名目で正門から北寮への通りを制圧、第8本館への投石始める。駒場共闘の300名がこれに抗議してデモを行い、防衛隊の阻止線を突破して第8本館前集会を行う。民青同は、一研、5号館を占拠し泊り込む。

1月14日
 夕方から民青同の総攻撃が開始される。駒場共闘200名が第8本館前に結集し、バリケード構築し徹夜集会を行う。

 1月15日
 第8本館前に結集した400名に民青同の武装部隊が襲い掛かり、委員長・今村他数名がリンチされる。防衛隊は1階に入り、電気水道を止める。

 同じ日、全都労学(全共闘系)決起集会開催。
 東大では、安田講堂前に3500人の学生、青年労働者が集まり、「東大闘争勝利・全国学園闘争勝利労学総決起集会」が開かれた。

 東大全共闘は、機動隊が導入されるという情報を得て、法学部研究室、工学部列品館、法文2号館、医学部図書館、安田講堂のバリケードを強化し、資材と食糧を運び込んだ。

 各派から500名が籠城。中核派は法研、ML派は列品館、革マル派は法文2号館というように、各派が主要な建物を一つずつ受け持っていた。

 この頃、山本義隆東大全共闘議長に逮捕状が出た。

1月16日
 東大当局は、依然、占拠を続ける全共闘学生との意見の合致は不可能と判断し警察力の導入を決める。午後1時、加藤代行らは警察へ出向き、警視庁に正式に機動隊の出動要請をした。

1月17日
 全共闘系の学生は、決戦を控えて守備隊を配置した。

 安田講堂には志願者を残し、医学部図書館と法文二号館には医学部と文学部の部隊が入り、教養学部では、第8本館を全共闘駒場部隊が防衛していた。東大全共闘の主力は、その後の闘争の継続に備えて学外にでた。

 安田講堂に、学外からの支援学生が続々と到着する。最後の日に安田講堂に入ってきた東大の学部学生は約40人だった。

1月18日
 午前6時、民青同が教育学部より石などを運び出し、赤門前路上を掃き清めて全員退去。

 この時の民青同の動きが次のように伝えられている。
 機動隊の安田講堂突入の事前情報をつかんだ日共は直接指令を出し、民青同側の鉄パイプ、ゲバ棒1万本を一夜の内に隠匿、処分させた。平井啓之ら教官立会いの元に角材を焼いて、鉄パイプを捨てるというセレモニーを行った。

1月18日~19日
 機動隊8500名出動、安田講堂攻防戦。学生側は各セクトから選ばれた約500名。

 1月18日午前7時頃、機動隊は医学部総合中央館と医学部図書館からバリケードの撤去を開始。投石・火炎瓶などによる学生の抵抗を受けつつ、医学部・工学部・法学部・経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し安田講堂を包囲、午後1時頃には安田講堂への本格的な封鎖解除が開始された。

 しかし強固なバリケードと学生の予想以上の抵抗に機動隊は苦戦を強いられ、午後5時40分、警備本部は作業中止を命令。やむなく一旦撤収、放水の続行を残し、その日の攻撃は中止となった。

1月19日
 午前6時30分、封鎖解除再開。この日も学生の激しい抵抗があったが電気ドリル、切断機を使ってバリケードを破り、12時30分には2階まで侵入。2時50分には4階まで制圧した。午後5時46分、屋上で最後まで抵抗していた学生90人を検挙し、激闘は終わった。

 東大安田講堂攻防戦等の学生側の負傷は、火傷109人、打撲87人、裂傷65人、骨折8人、眼球損傷19人。警察官の負傷者は710名。

 逮捕者は全共闘各派の767名(内、東大生38名)。そのうち616名が起訴された。一審では133名が最高懲役4年の実刑判決を受けた。

 なお、この安田攻防戦と呼応するかたちで、神田バリケード解放区闘争が機動隊との間で激しく闘われていた。

 安田講堂に立てこもった学生たちによって続けられていた「時計台放送」の最後のメッセージ。
「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、 この放送を中止します」

 学生たちが突きつけた真っ当な要求に、真っ正面から対応できない大学当局の無能さ、あるいは対応しようとしない不誠実さが、東大闘争の解決を機動隊による暴力制圧でするほかなくなった根本的な原因であった。学生たちとまともに対峙した教授たちは数えるほどしかいなかった。機動隊が守ったのは既得権にしがみつき、保身に汲々とする醜悪な顔をさらした教授たちであった。

昭和の抵抗権行使運動(84)

東大闘争(1)


 東大闘争の発端となったのは


 医学部における青年医師連合の基本的権利を守る闘い

 医療部門における人民収奪の強化に対する闘い

 医学部における研究教育体制の合理化=帝国主義的改編への闘い

 であった。その学生たちの「異議申し立て」を東大当局は、独立資本との産学協同を推進する「国立大学協会自主規制路線」のもとに、圧殺しようとした。そのために、闘いは東大当局に対する叛乱として展開されていった。 その経緯をは次のようであった。

 医学部学生は、登録医制とインターン制に反対し再三再四、その推進者である医学部長、病院長に対して話し合いを求めてきたが、彼らは一向に応じようとしなかった。その過程で2月19日、東大病院において春見医局長ら医局員数人をまじえて、こぜり合いが起こった。このことが、学生が暴力をふるったとして医局内に伝えられており、学生側はそのことで春見医局長に抗議、翌20日に春見医局長は謝罪文に署名する。「春見事件」と呼ばれている。 以下、東大闘争の経過を年表風に追ってみよう。

1968年1月27日
 医学部医学科が全学学生大会を開く。医学部1年生から4年生までと卒業生の42青年医師連合(昭和42年卒業の青年医師)全体が参加。賛成229、反対28、保留28、棄権1で、無期限ストライキを決定。

 全学闘争委員会(全学闘)が結成され、無期限ストライキに突入するとともに、200人がピケをはって、四年生の卒業試験を中止させた。

1月29日
 東大医学部自治会と42青医連が、医学部教授会および病院側にたいし、インターン制にかわる登録医制度反対の意思表示をもとめて無期限ストに突入。

 東大闘争の発端が、医学部の闘争であったことは象徴的であった。この時期、インターン制度や医局制度が抱える構造的矛盾が露呈した。

 インターン制度は、国家試験を通った卒業生はまずインターンとして1年間を医局で働くことが義務づけられていた制度を云う。「無給医局員」とも「研修医」とも云われており、深夜や休日の緊急の当直医として下働きに使われていた。これに講座制と云われる徒弟制が結びついていた。

 「青年医師連合」が組織され、67年4月から医局研修を「青医連」による自主カリキュラムで行う等抵抗し始めた。

 東大医学部と付属病院側、政府厚生省は、「青医連」対策もあり、インターン制度に代わる「登録医制度」に切り替えようとし始めた。67年、「医師法一部改正案」が国会に提出された。これは、卒業後2年間の研修を義務づけ、当局側が、医師の研修を正規に終えたと認めた者を「登録医」とし、国家試験を通っただけの医師と区別させようとするものであった。医学生たちは、階層分断策であり、管理体制を強めるだけで、これまでのインターン制度の矛盾を何ひとつ解決されないままの「登録医制度」であるとして反対した。

 医局講座制の枠組みにおける特権的立場に固執する医学部長、病院長をはじめとする当局は、登録医制度の推進に狂奔していた。

2月5日
 東大41青年医師連合がストライキ開始。

2月19日
 春見事件

3月2日
 医学部教授会、春見事件に対して、退学4名を含む17名の大量処分を上申。

3月11日
 東大評議会、春見事件の処分決定。

3月12日
 東大医共闘が、東大評議会の処分決定に抗議して、評議会に押しかけ評議員を徹夜でかんずめにする。その日のうちに学生は、医学部総合中央館を占拠。

3月22日
 東大校内で総決起集会。東大全共闘・日大全共闘3000名結集。

3月26日
 処分された学生のうち1人が、同事件と同じ時間に久留米市にいたことが立証され、東大側の誤認の可能性があると各学部教授懇談会で報告。
 医学部学生のストライキ闘争に賛同した学生有志で、「医闘争支援全東大共闘連絡会議」が結成され、安田講堂を一時占拠し、翌日予定されていた卒業式の実力阻止に入った。

 春見事件の誤認処分を契機にして不当処分白紙撤回闘争が開始される。処分という稚拙な処理の仕方、その上さらに誤認処分という杜撰な調査、これは当局の体質をあらためて浮かびあがらせるものであった。

3月27日~28日朝
 卒業式阻止闘争。300名が時計台前坐り込み。

3月28日
 大学当局は卒業式を中止し、各学部での卒業証書の伝達式にかえた。

4月12日
 東大入学式で大学当局がピケを張り、入学式を強行。

4月15日
 1965年に「インターン制度の完全廃止」を求めて闘ったが切り崩される。
 40青医連がスト権を確立し、43までの各青医連と、医学部医学科の学生四世代、あわせて八世代がストライキに入った。

 卒業式、入学式闘争を経て、東大全学の有志学生の支援連絡会議ができたが、全学の自治会への拡大はならなかった。それは、日共系の自治会中央委員会と七者協の、医学部闘争への敵対が影響していた。彼らは、卒業式阻止闘争を行うことは、機動隊の導入を招くから反対という理屈をとっていた。

5月10日
 政府は、登録医制度を実質化する「医師法一部改正案」を参議院本会議で可決し、学生たちの運動を、徹底的に叩き潰すことを画策した。

6月15日
 医学部全共闘・医学連の学生ら数十人が安田講堂(時計台)再度占拠。大学側は機動隊を導入、これを排除。学生はこれを大学側の自治放置とみなし、激しく反発し、ストを敢行。

6月17日
 この日の午前中に、、東大当局(大河内一男東大総長)は、「機動隊導入に関する大学告示」を出した。そのあと体調不良のため入院した。その告示は、大学はおよそ力をもって問題の解決をするところでない。暴状にたいしてやむなく、国家の最大の暴力装置である警察力に懇願して、封鎖を解除して大学の正常化を図ったという趣旨であった。これに対して全学の学生の反発が高まる。

 機動隊導入を聞いてかけつけてきた学生や大学院生によって、安田講堂の前で、自然に集会が始まった。たちまち300人を越える抗議集会になった。

 文部省から派遣された事務次官が大河内学長に詰め寄り、「あの学生たちを講堂から追い出せ」と指示する。これに基づき、東大当局が機動隊を導入し、1200名の機動隊員が安田講堂占拠の医学部学生排除。

6月18日
 東大大学院生が東大全学闘争連合(全闘連)を結成。代表に理系大学院生の山本義隆が就任。

 この日キャンパスは一日中騒然として、各部とも自然休講になった。昼過ぎには3000人規模の集会とデモが行われた。翌日には、各学部で学生大会が開かれ、続々とストライキが決定された。

6月20日
 法学部を除く9学部が次々に一日ストライキに入る。

 全学総決起集会には7000人の学生が集まった。
 同日の教養学部の学生投票では、賛成3270、反対1301、保留46でストライキを可決した。
 また、全学集会の代表団が、「総長団交」を要求した。

 当時医学部の今井澄さんは次のように述懐している。

 私にとっても全く新しい経験だったんですけれども、学科ごとクラスごとにそれぞれ旗を押し立てて安田講堂に抗議に押しかけてきたんです。その光景を見て、私はもうたいへんびっくりしました。

 それまでの学生運動というのは選挙で選ばれた指導部があって、その指導部が方針を出すことによって運動が始まるものだったんです。労働運動もそうでした。ところが、全くそうじやない。自主的に、下から、個々に、分散的に起きた。そういう人たちがほとんど安田講堂前を埋めつくしたんです。

 私はそこへ行って呆然として見ていました。これはいったいなんだろう、全く新しい運動の始まりだというふうに思いました。



 今井さんは翌年の安田講堂の攻防戦で防衛隊長を務めることになる。

6月21日
 大河内総長、大衆団交拒否回答。

6月26日
 文学部、無期限ストに突入。

 同日、豊川行平医学部長は、記者会見で、「処分撤回はしない。他学部の学生と会う気はない」と述べた。

6月27日
 経済学部大学院と「新聞研」研究生自治会が無期限ストライキに突入。

6月28日
 東大紛争の事態打開の為、大河内総長と学生代表との「総長会見」が行われた。約3000名の教職員、学生らで埋まり、あふれた約2000名はテレビ中継した教室で集会に加わった。

 大河内総長は激しいヤジの中で、約11時間20分にわたり所信を表明し、学生の質疑に応じた。警官導入問題については、「全責任は自分にある」と言い切り、医学部の処分問題については「粒良邦彦君の譴責処分は、事実誤認だという粒良君の言を尊重して医学部教授会に差し戻し、残りの学生は再調査するよう医学部教授会に要請する」と約束。

 一方、「東大集会」に先立ち、午前中から開いた東大評議会でも、粒良邦彦君の処分は白紙に戻し、残り16名の研修生、学生らの処分についても改めて事情聴取など再調査する方針を決めた。

 しかし、大衆団交を求める学生側との話し合いがつかず、総長がドクター.ストップにより退場、物別れに終わった。大河内執行部は、無能、無策ぶりを万人の前にさらしたにすぎなかった。

昭和の抵抗権行使運動(83)

鈴木邦男さんの「全共闘」評


 今日はちょっと横道へ。

 14日の日本テレビのドラマ「東大陥落-40年目の真実」につづいて、17日はNHKが「安田講堂陥落―学生たちのその後」というドキュメンタリーを放映した。これもビデオに収録しておき、けさ見た。東大全共闘議長・日大全共闘議長・安田講堂の防衛隊長など10名ほどの闘士たちのその後を追っている。どなたも反権力の基本姿勢を堅持して、権力に媚びず、世間の風当たりにおもねず、それぞれの選んだ道で自前の人生を真摯に生きておられる様子に感動を禁じ得なかった。すばらしい人たちだ。

 弾圧側からただ一人、機動隊による学生排除を強行した当時の総長代行・加藤一郎が登場していた。当時を振り返っての感想を聞かれて、誰がやっても自分と同じようにしかできなかっただろうと述べたうえ、薄ら笑いを浮かべながら「ノスタルジア、一つの思い出」だと言った。インタビュアーがあきれたように「一つの思い出ですか?」と更に問うと、顔をこわばらせて絶句し、ついに次の言葉を発することができないでいた。

 真摯に闘った人たちの中には、精神に変調を来したり、自死した人たちも多くいたことを、私たちは忘れずに心にとどめておくべきだろう。加藤一郎にはその人たちへの思いはひとかけらもないのだろうか。この人にはいずれ厳しい批判の俎上に載ってもらうことになるだろう。

 ところで、本屋の雑誌コーナーは体制べったり雑誌であふれている。気骨のある反権力・反権威の月刊誌・週刊誌が少ない。その少ない中から、月刊誌『創』と週刊誌『週間金曜日』を、応援の意味も込めて購読している。『創 2月号』に、いま私(たち)が取り上げているテーマに重なる記事があった。鈴木邦男さんの「言論の覚悟」。

 鈴木さんは学園闘争当時、右翼の学生活動家として、全学連と命がけで渡り合っていたという。そんな鈴木さんが近頃どんどん限りなく左翼になっている。

 私がいう左翼とは「被抑圧者・被支配者の側に立つ」ことであり、右翼とは「抑圧者・支配者の側に立つ」ことである。「被抑圧者・被支配者の側に立つ」ことを標榜する右翼もあるが、もしそれが正真正銘の本心だとしても、天皇制を担ぐという方法論において左翼になりきれていない。現在でも天皇は「抑圧者・支配者の側」の頂点に立つ存在である。貧窮のどん底にあえいでいた農民を救おうと蹶起した2・26事件の青年将校たちは、その天皇に裏切られている。

 上のような意味で、鈴木さんは限りなく左翼であるが、いまなお天皇(制)の呪縛をとけず、左翼になりきれていない。しかし、鈴木さんの言動は真摯で純粋だ。命がけで発言している。私は鈴木さんの文章を愛読している。

 さて、鈴木さんは「共産党宣言」を読み直しながら、そこからいろいろと考えをめぐらしている。「共産党宣言」で労働力が「1個の商品」に過ぎないと説くくだりを引用して曰く。

 そうか、僕らも「一個の商品」なのだ。学生時代、左翼の学生はよく言っていた。我々は搾取され、抑圧され、人間的に否定、抹殺されている、と。でも、当時、学生は優遇された階級だ。大学に入る人は全体の一割か二割しかいなかった。恵まれていた。何を言ってるんだ、と思った。でも、だからこそ、「大学解体」や「自己否定」も言ってたのか。

『共産党宣言』の次の箇所では、アッと叫んだ。彼ら左翼学生は当時このことを言ってたのか。

(プロレタリアの労働は、機械使用の増大と分業とのために、全くその独立した性質を失い、従ってまた労働者の興味を失った。すなわちプロレタリアは単なる機械の附属物となり、その機械に対して彼の要求されるところは、ただ最も単純な、最も単調な、最も容易に習得される手業である)

 当時、左翼学生は「産学協同路線反 対」を叫んでいた。大学は企業の下請けになってはならない……と。それでは「学問の独立」はないと言っていた。これには共感した。企業は「人間」を要求しているのではない。機械に合わせて、右手だけ、あるいは右足だけを要求している。映画『モダンタイムス』のチャップリンもそうだった。「小さな機械」「小さな部品」としての人間が要求されている。全人格的なものは要求されてない‥‥と。

 彼らの言うことは正しいと思った。又、学問は自由であり、あらゆるものから独立すべきだ。企業に頼まれて学問をしたり、その下請けになるのでは「学問の死滅」だ。又、学生の自治、学問の独立が大切だ。警察官を学内に入れるなど、あってはならない。そう叫んでいた。これも大賛成だ。

 ところが今、大学はどこも企業との直結を謳い、「産学協同路線」を誇示している。学生も、就職に便利な大学を選ぶ。愚かだ。だったら大学を全廃し、企業が企業人になるための専門学校を作ったらいい。又、大学で立て看板を出したり、ビラを撤いただけで処分し、退学にしている。さらに教え子を警察に引き渡している。これではもう大学ではない。

 僕も、もう一度大学に戻り、今度は左翼学生になって闘いたい。産学協同路線を打倒し、学問の独立を守る為に。



昭和の抵抗権行使運動(82)

学園闘争とはとは何だったのか。


 東大・日大で始まった学園闘争は、燎原の火のごとく、たちまち全国に広がっていった。

 1969年1月、バリケード封鎖で越年した大学は東大、東京教育大、東京外大、電通大、日大、中大、明学大、青学大、芝浦工大、山梨大、富山大、大阪大、神戸大・関西学院大、長崎大の25校。

 2月には、闘争中の大学はさらにその数を増した。京大、立命館大、大阪市大、岡山大、和歌山大・関東学院大・福島医大、お茶の水女子大など、全国で70余校を数えた。

 契機はそれぞれの大学でいろいろであった。それは学費値上げ反対であったり、寮の管理運営権の問題であったり、中教審路線による大学再編と管理操作体制への反対であったり、あるいは自治会のヘゲモニー争いであったりした。しかしその根底には、闘争が全国的に爆発していく根源的な問題があり、それが普遍的な問題として自覚されていった。ノンセクト・ラジカルが主勢力を担うことになっていく所以である。

 その根源的問題とは、支配階級が露骨に打ち出してきた教育の管理体制強化の方針であった。それが、教育が学生の労働力商品化に他ならないことを際立たせていった。自らの労働力商品化を拒否するということが闘いの普遍性を示していった。それは「自己否定」という言葉によって象徴された。

 例えば東大闘争においては、医学部不当処分問題から端を発し、全学的な闘争へと進展していった。この闘いが単なる要求闘争から大学解体闘争へ飛躍していつたのは、国大協路線による教授会自主規制粉砕闘争を通じてであった。東大闘争はこうしたなかで、大学自治の一切の幻想性を暴露していった。

 また日大闘争においては、68年5月21日の集会を皮切りに、授業料不正使用に対する闘争として一挙に全学化し、9月30日の大衆団交で勝利し、解決の一歩を踏み出すかに見えた。しかし、佐藤栄作の介入により9・30確認事項・団交確約は破棄される。その結果、日大闘争は教育資本としての私立大学を産学協同路線の下に完全に企業化している実態を暴露したのあった。

 以上のような経過をたどっていった東大―日大闘争を先頭とした全国学園闘争は、次のような点において、それまでの闘争にはない全く新たな質をもった闘いであった。
①闘争の世界的普遍性
②闘争の日常性に対する根源的変革志向=自己否定
③ポツダム自治会の幻想性を打破した全学共闘会議(全共闘)という組織形態

 ③について少し説明を加えると、ポツダム自治会は一種の代行主義と、多数決の原理に基づく間接民主主義であるのにたいして、「全共闘」は直接民主主義であり、「行動隊」としての要素を持った組織として形成された。いわば〝コンミユ―ン″の崩芽を内包していた。また、「反大学」「自主講座」という学問・思想を点検し再構築する作業にも着手していった。反大学自主講座は、学園の枠を越えて労働者、学生、市民に解放されたものとして位置づけられ、「教える―教えられる」という関係性を止揚すべく、自主的に運営された。

 こうした思想的・社会的構造を持った全共闘は、69年1月18日~19日の東大安田講堂攻防戦を一大頂点として燃え広がったのである。大学という社会の一角からブルジョア支配秩序が音を立てて崩れていくことに恐怖した権力が、一大決戦の場として攻撃を開始したのがこの安田講堂攻防戦であった。これにたいして全国の先進的学生、革命的左翼が一丸となって闘い抜いた、まさに歴史的な闘いであった。

昭和の抵抗権行使運動(82) 学園闘争の発端

 『「独立左翼論」を読む』は連合赤軍派の悲劇を取り上げるところにやってきた。そこに入る前に、ここで少し構成修正をしようと思う。

 当初、このシリーズ「昭和の抵抗権行使運動」では、60年安保闘争を中心に取り上げ、その後の闘争については、個々には詳しく取り上げないつもりだった。

 一昨日(14日)、日本テレビで「東大陥落-40年目の真実」と題したドラマが放送された。どんな扱い方をするのか興味があったので、ビデオに記録しておいた。それを今日見てみた。必敗の闘いをよく闘った学生たちを同情的に描いていた。また、こちらはそのまま額面どおりに受け取ることはできないが、機動隊側にも、指揮官が学生の身の安全を配慮したり将来を案じたりするなど、好意的であった。一方それらに対して、ほんのわずかであったが、大学教授たちの無能ぶりと破廉恥ぶりが描かれていた。

 このビデオを見て、1968年~1970年の学園闘争を改めて振り返っておきたいと思った。それはまた、連合赤軍が生まれる背景を知ることにもなるので、ちょっと横道に入ることにした。

 さて、この時期の闘争の特徴をよく現している言葉はノンセクト・ラディカルであろう。活動家集団がいくつもの党派に分かれて主導権争いをいている中、党派とは一線を画したノンセクト・ラディカルが急速に台頭してきた。このノンセクト・ラディカルを主勢力として反代々木系セクトが提携し、全共闘運動および反戦青年委員会運動が展開されていった。

 ノンセクト・ラディカルの台頭の背景は、いわゆる「団塊の世代」である。「団塊の世代」はちょうどこの時期大挙して大学生になり、世界的にもベビーブーマー世代の叛乱として共時的なブームを生み出しつつあった。新左翼の学生運動の創成期に言われた「層としての学生」にマスが加わって、新しい形の全共闘運動を創出していくことになった。

 折しも1968年は、泥沼化していたベトナム戦争が解放戦線側有利のまま最終局面を向かえてますます激化していた。そのベトナム戦争の動向が学生運動にも反映していた。ベトナム戦争の犯罪性とそれへの日本政府の荷担に対して、青年期特有の正義感が彷彿としてわき上がっていた。ベトナム戦争反対の民衆の闘いは全世界に広がっていた。このことも、この時期の学生運動を特徴づけている背景の一つである。

 この年初めの時期の世界の民衆の闘いを拾い出してみる。

3月3日
 ロンドン、口ーマ、西ベルリンなど世界各地で反米デモ。

3月4日
 ブリュッセルで2万人の反米デモ。

3月17日
 ロンドンで1万数千人、ニュルンベルグで3千人の反戦デモ。
 ロンドンの集会では、8千人がアメリカ大使館へデモを行って警官隊と衝突。負傷者百余名を出す流血の事態となった。逮捕者は300人に達した。

3月23日
 ニューヨークで3千人、パリでは5千人以上、西ベルリンで8百人、ローマで1千人のデモ。

4月4日
 アメリカ黒人解放運動の指導者・マーチン・ルーサー・キング牧師がテネシー州メンフィスのモーテルのバルコニーで射殺される(享年39歳)。全米各地で黒人暴動続発。米コロンビア大学封鎖される。

5月
 フランス「5月革命」はじまる。
 3月に始まったソルボンヌ大学のナンテール分校の学生改革要求の大学占拠闘争は、ナチス以来のソルボンヌ大学封鎖となった。学生は、カルチェ・ラタンにバリケードをつくって警官隊と対峙した。この要塞化したバリケードをめぐる学生と警官との衝突は激しいものとなった。これに抗議する学生と労働者の運動は、反ドゴールのゼネストにまで発展した。これは6月まで続き、結局、ドゴールに鎮圧された。

 アメリカでは、ベトナム反戦を主張するSDS(民主主義社会のための学生連合)の学生が、コロンビア大学で大学占拠闘争をはじめた。これは《いちご白書》として報告され有名になったが、これを契機に、全米に学園闘争が広がっていった。

 大学封鎖闘争が世界的な現象になっていたのだ。アメリカでは黒人運動が学生運動、ベトナム反戦運動、女性解放運動などと連動して、アメリカ社会に大きなインパクトをあたえていた。

 さて日本では、1月に医学部から発生した東大闘争が次第に全学部へ広がりを見せていった。それに呼応するかのように、日大闘争も勃発し、この東大・日大闘争の経過が全国の学園闘争に波及していった。

1月13日
 中央大学昼間部自治会が学費値上げ阻止闘争の全学ストに突入する。

1月19日
 東大医局長缶詰め事件。

1月19日
 東京医科歯科大学で、「登録医制度反対」を掲げて、全学無期限ストライキに入る。

1月26日
 日大理工学部の小野竹之助教授の5千万円の裏口入学斡旋謝礼金の着服事件発覚。
 さらに、東京国税局の調査により、日本大学に20億円に上る使途不明金があることが発覚した。
 日大はこれまで、古田重二良会頭のもとで営利第一主義的経営に勤しんでいた。学生数10万人の日本一のマンモス大学となっており、いわゆるマスプロ教育を推し進めていた。これが日大闘争の発端となった。

1月27日
 東大医学部医学科が全学学生大会を開き、5世代(医学部1年生から4年生までと卒業生の青医連)全体が参加し、賛成229、反対28、保留28、棄権1で、無期限ストライキを決定。

1月29日
 東京大学医学部で研修医(インターン)の無権利状態に反対し民主化を求める改善闘争の過程で為された不当処分を契機に、医学部学生自治会が無期限ストライキに突入。

 こうして、東大闘争は医学部の闘争からはじまった。発端は、東大医学部自治会と42青医連(42年度卒業の青年医師連合)が、医学部教授会および病院側にたいし、インターン制にかわる登録医制度反対の意思表示を求めたことであった。

昭和の抵抗権行使運動(80)

『独立左翼論』を読む(16)


 共同幻想として認識される国家や政治は、「外側の言葉」と「内側の言葉」という二つの言葉で構成されている。そして、「外側の言葉」と「内側の言葉」という言語の二重性は、政治行動の場面では「共同の言葉=政治的言葉」と「政治的表出」のねじれとして現れる。

 私(たち)は往々にして組織というもの、とりわけ国家や政治的組織に不信感や嫌悪感あるいは疎外感を抱くが、その根拠はその「ねじれ」の中にある。『「制度的言葉(外側の言葉)」から「個々人の表出意識(実践的意識)の発語(内側の言葉)」を奪還する』とは、言い換えれば、その「ねじれ」を根源的に是正することである。これが「抵抗権行使行動」の根底にある大目標に他ならない。

 さて、60安保闘争の大衆的な行動の中にその「ねじれ」を壊そうとする契機があったと、三上さんは言う。

 僕らが、共産党や社会党を《秩序側の存在》と非難したのは、彼らが安保闘争を秩序的な闘争に押し込めたからか。それも確かに存在した。それは彼らが大衆的な行動に《敵対》し、抑圧の側にまわったことのなかに、もつと本質的なことを見たからではなかつたか。

 社会党も共産党もその理念や思想(政治的言葉)で言えば、大衆の側にあった。彼らは大衆の利益(共同性)を代表する政治集団であった。だが、そういう建前とは別に大衆が主体でなく政治集団が主体となっていた。大衆のための党派(政治集団)ではなく、政治集団のための大衆になっている構造をそこに感知したのである。

 なぜそうなっているのか。そうなっていくのか。それは政治表現に不可欠な政治的な言葉(外側の言葉)が国家の側に独占されているからだ。国家の側に独占されていると言うとき、共産党や社会党も含まれる。国家が独占する言葉のなかで、共産党や社会党は左派という場所を支配しているだけなのだ。支配共同体のなかの左派の位置を占めているに過ぎない。

 国家を共同幻想というとき、その構成要素である言葉(共同の言葉・制度的言葉)は支配共同体が独占してきた。支配共同体という意味は国家の肉体である《官僚制》ということでも間違いではない。国家は共同幻想としてあり、大衆は共同幻想を媒介にしてその構成に関わるが、それを構造として見ると、内部では支配共同体が国家を独占している形になっている。

 国民国家以前の国家は専制国家であるから、支配共同体が専制であったのは避けがたい。明治時代以前のアジ ア的段階の国家だけでなく、外観的には国民国家の形態をとる近代国家においても、その構造は存続している。 (中略)

 「主権在民」や「民主主義」は国家が国民の意志で形成されるという言葉である。日本国家も近代国家として外観上は国民国家になったが、支配共同体の支配する国家という本質は変わらなかったのではないか。「主権在民」や「民主主義」は国家理念となったけれど、国家が言葉だけ変えただけで、国家は支配共同体の支配するものという伝統は近代国家形態の下でも存続してきたのではないか。

 支配共同体は大衆の生活過程(市民社会)とは別のものとしてあるということの連続性である。これは根本的には支配共同体が共同的言葉(制度的言葉)を独占していることによる。日本での共同幻想(国家)の構造は共同的言葉を独占する支配共同体と大衆の存在(大衆的な生活共同体)はそれぞれ関係のないものとしてある。共同の言葉(政治的・制度的言葉)は支配共同体に独占され、共同的な表出の意識(言葉)はそれから切り離されて存在しているのである。

 ここで僕がいう共同の言葉(政治的・制度的言葉)は宗教や文化、あるいは統治の技術などをイメージしてもらうとよい。これに対して、大衆の存在様式とともにある表出意識は、生活共同体に属する文化や宗教などをイメージしてもらうとよい。

 政治表現の言葉と政治表出の言葉を共同体というスケールで見るとき、表現された言葉と沈黙の言葉というように向かいあっているというより、そこには大きな対立(分裂)がある。大衆の生活過程に基盤を持つ政治的表出意識(言葉)は支配共同体の独占する政治的言葉への無関心か不信を持っている。

 日本の共同幻想は支配共同体と大衆の存在(生活共同体)の間でねじれている。この独特な構造は、国家の創成期から近代国家まで貫かれている。

 国家が大衆の共同意志によって構成されるということは、この構造(関係)が変わるしかない。「主権在民」や「民主主義」が支配共同体から流れてくる言葉ではなく、大衆的な表出的言葉に裏打ちされて出てこなければならない。それが歴史的に登場したものとして、僕は安保闘争での意思表示をみた。

 国民という言葉はあるけれど、大衆の自己意識として国民という言葉は存在したのではない。それは国家が啓蒙的に出してきたものであり、「民主主義」と同じでカッコ付きの言葉である。大衆の共同意識という内側の言葉、つまり肉体を欠落させたものなのだ。僕らが夢みてきたのは、大衆の共同意志が国家の構成の主体になることであるが、反権力的な大衆的行動はその現れだった。それは何よりも、日本における支配共同体と大衆の存在様式(関係)を変えることだった。

 それならば、この大衆の共同意志の政治過程への登場ということと行動とはどんな関係にあるのか。

 日本国家が形式としては国民国家の外観を取ろうとも、支配共同体の支配する国家である根本的な理由は、共同的言葉(制度的言葉)が支配共同体の独占物であるということだ。共同的言葉、政治的言葉が独占され、大衆がそれからは疎外されてきたということである。

 共同的言葉(政治的言葉)がかつては漢文であり、その言葉は支配共同体やその内部の知識人に独占されてきた。そうであれば、大衆の共同の意志が政治過程に登場するとき、それは言葉なのだが、官僚に独占された言葉への不信として現象する。行動もまた言葉なのだが、それが一見、言葉の否定のようにあらわれるとすれば、政治的言葉が支配共同体の独占物であったため、あたかも言葉そのものの否定のように現象する。

 行動が対立するのは、制度的言葉であって、表出意識も含めた言葉ではない。これは大衆の共同の意志が表現(制度的言葉の連続性)より、表出(個々人の現実意識)を重要視することである。表出意識として生活過程の内に、孤立して存在している共同意識を政治的言葉(制度的な言葉、このなかには共産党や社会党などの政党の言葉も含まれる)より重くみることである。この制度的な言葉への不信は行動(表出的言葉)へ幻想をもつことと同じである。



昭和の抵抗権行使運動(79)

『独立左翼論』を読む(15)


 三上さんが言うところの「歴史的な限界」を具体的に言えば、次のようになるだろうか。つまり、高度資本主義の段階に入った先進国には、ロシアや中国におけるような暴力革命の基盤も現実性もない。先進国での国家(政治)の課題は暴力革命ではあり得ない。

 では、現実のさまざまな問題から浮かび上がってくる課題は何なのだろうか。その課題は、レーニン的な国家論(国家=階級支配の暴力装置)に依拠している限り、正しく把握されることはないだろう。三上さんはレーニン的国家論に代えて、「国家の本質は共同幻想である」という吉本隆明国家論に依拠して論究を試みている。

 国家の本質を共同幻想として理解することから、この共同幻想の構成や構造を変えること、それを政治的言葉としてそれを展開することは可能である。

 国家を開くというのもそういう政治的言葉である。宗教・権力・民族・戦争・言論の自由などの歴史的構成と構造をどのように変えていくかということを、国家(政治)課題として提起しなおせばよいのだ。

 国家権力をどの階級が握り、道具として行使するかではなく、権力の構成はどうあるべきか、権力はどのように制限されるべきかなど国家的課題を別の形で提出すればよい。

(中略)

 レーニン的な政治理念に基づき、国家権力の暴力的な打倒を志向するなら、行動は《革命的暴力》のような言葉としてある。武装闘争や軍事闘争は革命的暴力から出てきた言葉である。僕はこれよりは《異議申し立て》という言葉の方がよいと思う。権力の行使や決定のみならず、その構成に異議を申し立て、それを絶えず開いて行く行動である。

 1960年代から1970年代の僕らの行動を国家との関係で総括する試みをやっているときに思いついたのであるが、1960年安保闘争も、1960年代の諸闘争も《革命的暴力》ではなく《異議申し立て》として理解したほうが実情に合っていると思う。

 こういう観点に立てば、「10・8時代」のヘルメットやゲバ棒で武装したことを、国家の権力奪取に向けての闘争として位置づけることは誤りである。こういう行動を国家との暴力的対抗として理念化したことは誤りであり、後の赤軍派的な武装闘争論を生みだすことに連なった。主観的願望としてあつたということは別にしてだ。



 ここで言われている《異議申し立て》とは、私(たち)が用いてきた「抵抗権行使行動」あるいは「非暴力直接行動」さらには「市民的不服従」などと別物ではないだろう。このとき、行動の主体は組織(党、党派)ではなく、あくまでも「大衆」でなければならない。そしてこれは、「制度的言葉(外側の言葉)」から「個々人の表出意識(実践的意識)の発語(内側の言葉)」を奪還する道筋でもあると言えよう。

 現存の国家(ブルジョア国家)をプロレタリアート(労働者階級)の独裁国家に変えること、それも暴力的な権力奪取としてそれは実現するという政治的言葉は古典的である。そういう古典左翼的な政治的言葉は意味がないし、死語というべきである。

 だが、1960年代から1970年代にかけてはこの言葉は政治的言葉として流通していた。左翼的な関係のなかではその圏外にでるのは困難だった。

(中略)

 革命的暴力論という観点で10・8以降の闘争形態を位置づけることは間違いであった。暴力革命の基盤も現実性もないところで存在づけたことが矛盾であった。それは空想的な軍事論や武装闘争論という政治的言葉だけが一人歩きした理由である。

 あの時代、国家に対して武装闘争をめざしたということを今も主張する人はいる。そして、僕の《異議申し立て》というのを誤解したがる連中もいる。主観的願望としてそういう夢想をしていたというのはいい。致し方ないというべきだろう。しかし、本当に武装や暴力を考えていたのなら、それはどういうこととしてイメージしていたかを言わなければ無意味だ。あの当時のレーニン的な国家に依存し、そういう政治的言葉を信じていたというなら、それだけのことではないか。いまでもレーニン的な国家論を信じているのなら僕と考えが違うというほかない。

 警官と暴力的に衝突すること、ゲバ棒などで武装するようなことは異議申し立てでも展開される。火炎瓶やゲバ棒くらい持つ闘争はどこでもある。

 武装闘争というのは国家の暴力的な打倒をめざす闘争である。そういう理念に導かれた闘争である。火炎瓶やゲバ棒程度で武装闘争というのはおかしいとも言える。武装という言葉にどういうイメージや理念があるかであって、それのないところで今さらのように言葉遊びをしても意味はない。

 大事なことは闘争の現象形態ではなく、何をめざした闘争かということである。国家や権力の在り方に対する異議申し立ては、無意識ではあるが国家の構成の転換の要求をふくんでいる。国家権力の暴力的打倒や暴力的対抗ではなく、国家の構成を変えようということなのだ。これは先進国での国家(政治)の課題の歴史的な基盤そのものの現在に対応しているのである。



昭和の抵抗権行使運動(78)

『独立左翼論』を読む(14)


 60年安保闘争の大衆的行動や60年代後半のゲバルト闘争の評価を、マルクス主義的な理念で理解し認識しようとすることには、現実認識における錯誤が横たわっていると、三上さんは異議をとなえている。

 マルクス主義的な認識に対して、三上さんは「歴史的な限界」という視点を対置している。そして、「大衆」と「行動」をキーワードに、1960年闘争と「10・8」以降の闘争の中心にあった「行動」の「思想的な解読」を試みている。当時、闘争の渦中にあった人の分析として興味深い。少し長いが、そのまま転載しよう。


 僕は1960年安保の6月15日の限界を歴史的な限界と見た。だから、6月18日に内乱状態を空想することも、それから敗北を論じることも意味がないと考えた。僕が空想としてそういう願望やイメージを抱いたにしてもである。

 肝心なことは、6月15日にいたる、大衆闘争の歴史的な意味を思想的に析出することであった。その行動をささえた行動者たちの表出意識を想像力によって把握することだった。それがマルクス主義の政治理念(暴力革命論)では析出不可能であることは直観していた。

 同じように、10月8日以降のゲバルト闘争の限界を歴史的限界とみていた。

 こういう考えは、60年安保闘争や10・8以降のゲバルト闘争を国家との対抗暴力という政治理念で評価しないことを意味する。それらの行動はマルクス主義的な政治理念でいう国家との対抗暴力、権力奪取を目指す暴力ではなかった。俗に言う革命的暴力ではなかったのである。それはもつと別のものであり、ほかの政治的言葉を与えられてしかるべきものだった。

 このことは東大意見書や赤軍派のマルクス主義的な暴力論のもとに想定された6月18日へという構想や1970年への展望が空想的であった理由である。そこに国家権力の大きな壁があり、それで何もできなかったというより、その時代の大衆運動の限界であった。その限界を認識することは、逆にいえば、その歴史的な意味を認識することでもある。

 僕は1960年安保時の6月15日から6月18日の過程を「敗北の構造」として思想的に析出してみること、1969年の東大闘争や沖縄闘争から1970年の過程を同じように析出することを考えてきた。そこには同じ構造があるはずだ。

(中略)

 話の場面を1969年から1970年の過程に戻してみる。

 僕は赤軍派の面々(赤軍派はこの段階では存在せず、それが結成され登場するのは1969年の秋だが、赤軍派をつくる面々も赤軍派としておく)と1970年に向けての展望や東大全共闘の安田講堂闘争などの総括をめぐって対立していた。

 東大安田講堂闘争は全共闘を含め新左翼の総力をかけた闘争だつたから、それが警察権力との攻防で負けたことは大きな痛手だった。

 4月の沖縄闘争は出撃拠点として東京医科歯科大を選ぶ背水の陣であったから、その敗北的状況はきつかった。東京医科歯科大を拠点にしたのは、病院を背後に控えているから警察が介入しにくいだろうということであり、いわば病院を人質にしての出撃拠点確保であった。これについてはブント内では可否をめぐって論争があったけれども、その方針を採用していた。

 「10・8」以降のゲバルト闘争は、大学という出撃拠点も碓保できず困難な局面にあった。大学占拠のバリケードは東大や日大、中大など次々に撤去されていた。こうした中で赤軍派は警察権力による警備強化によって敗北状況に追い詰められているとした上で、これを突破する路線をこちらの暴力的力(武装力)の強化として打ち出した。理念的には軍事や武装という言葉で語られたが、武器の強化が提起された。これは最初は突撃部隊の編成ということであったが、それはいつの間にか、前段階武装蜂起などにエスカレートして行った。

 これが、戦術的に有効ではないとか、組織準備もできないでというのが、ブントの反対派の批判であったが、それは同じ土俵での批判であった。僕は少なくとも、それが現実性を持たないと批判したが、ゲバルト闘争の認識や評価が違っていたからであり、赤軍派の政治理念である国家暴力装置論や対抗暴力論が違っていたのである。

 この対立の根幹にあったのは直接的には1970年に向けて、武闘路線を拡大できるかということにあったが、また、10・8以降の行動をどう評価するかにあったのだ。赤軍派は「10・8時代」の限界(「ヘルメットとゲバ棒」の限界)を党派の戦略と決意で乗り超えるられると言ったのである。

 僕は彼らとは違った判断をしていた。「10・8時代」の限界は歴史的な限界であって、願望はともかくとしてそれは乗り超え不可能であると認識していた。

 例えば、東大安田講堂での攻防戦は警察権力に負け、その力で封じこめられたように見えた。現象的に見れば警察の力で負けたというように思われた。しかし、詳細にみれば、東大全共闘の運動も、日大全共闘の運動も1969年の時点で内的な推進力を減衰させていたのであって、そこに限界を読み取れた。警察権力との攻防というより、闘争を構成する活動家たちの活力に限界があったのだ。

 行動者の集合的力ということで、これらの諸闘争を内観するとき、実感しえていた限界であり、多分、この限界は1960年の安保闘争でよくも悪くも、6月15日が限界であったのと同じである。

 軍事や武装ということでそれを飛躍させようとする。党派がそういう政治的プログラムを書くのは簡単であるが、行動者たちが、それをどこまでやろうとしているのかは、簡単ではない。「角材とヘルメット」という闘争形態も、大学のバリケード占拠も政治党派が政治理念に基づいて指導したものではない。それまでの大衆運動が自然発生的に生み出したものである。

 それは個々の共同意識(実践的意識)が生み出した(外化した)ものである。それは行動が行動を呼ぶように広がった。それは共同意識(自己意識としての共同意識)が、政治的な表出意識として個々人の内側にあるものが響きあうという形で広がったのである。政治理念や政治的言葉(外側の言葉)によって啓蒙されたためでなく、他者の行動によって内側の自己意識が響きあうように喚起されたのだ。内側の意識が、想像力によって膨らみ、行動に転化するように刺激をされたからだ。

 行動者の集合というのは、表出意識を行動に転化した人々の集合ということである。この表出意識は個々人の内側にあるから、孤立しているようにみえるが、その共同意識の内に他者は含まれている。孤立しながら、集合力として全体性を獲得していく行動は個々が主体なのである。行動は、この個々の表出意識の力(水準)に規定される。それは行動者として自己を内観するところからしか、見えないものである。

 政治的言葉は行動を媒介するものである。それは行動を理念として表すものから、何々のような行動をせよという指令のようなものまで含む。行動が政治的な言葉(外側)の言葉を必要とすることは確かであるが、それは行動を媒介するものであって、行動を喚起させるものではない。行動を喚起するのは表出意識であり、他者の行動から受け取る刺激である。想像力が刺激されるのだ。政治行動が外側の言葉で喚起されるというのは啓蒙主義だが、それは行動の理解として浅薄なのである。

 早い話がこの段階では赤軍派はまだ火器(銃)の使用も決めてはいなかった。森恒夫の遺稿集を読むとそういうことが書かれている。武装するとは相手を殺すということを内包しているし、暴力ということもそういうことを含んでいる。そういう行動形態に、10・8以降のゲバルト闘争が飛躍するためには行動者の飛躍が不可欠である。それを簡単に可能と考えていたところが違ったのだ。

 赤軍派の提起した前段階武装蜂起も蜂起戦争も爆弾闘争やハイジャックや連合赤軍事件などを展開したに過ぎなかった。このテロリズム色の濃い闘争は、どうみても1960年代後半の全共闘運動や急進的政治闘争とは関係がなかった。それは大衆的な反権力闘争という意味では、まったく別の系譜の闘争であったと思う。いくらか過激な路線というのではない。それらは系譜の異なる闘争として位置づけるべきものである。



昭和の抵抗権行使運動(77)

『独立左翼論』を読む(13)


 10・8羽田闘争の闘争形態は佐世保・王子・成田・新宿などでの政治闘争へと広がって行った。そしてそれは、東大全共闘や日大全共闘などの大学占拠のバリケードとともあいまって、急進的な学生闘争の高揚期を生み出した。

 しかし、この一連の闘争をどう評価するかという運動への思想的理解において、60安保闘争のときと同様な本質的な対立があった。ここでの対立もマルクス主義的な政治理念に基づく理解とそれに批判的な見解との対立であった。マルクス主義的な政治理念に基づく理解では、これらの闘争は国家権力の奪取を目指す行動、あるいは国家権力という暴力装置に対抗する暴力と言う評価になる。三上さんはこの「マルクス主義の言葉」による見解に批判的な立場を採っていた。

 当時さかんに使われた言葉として「10・8時代」の終わりというのがある。・・・・・・「10・8時代」の終わりとはこうした闘争が限界に達していたことである。これは闘争の行き詰まりということでもあった。こういう限界状況を現場の活動家や諸個人は感性的には認識していた。

 こういう現実を直視する能力を当時の政治集団や政治組織の指導部は欠如させていた。というより急進的であることを競う党派意識が、現実を認識させることを阻んでいたとも言える。政治党派や指導部はこのときこそ「10・8時代の終わり」の意味の認識を必要としていた。

 そもそも10・8時代といわれた闘争を自分たちが切り開いたと自惚れていた政治党派や指導部は本当のところが何も分かっていなかった。必要な認識というより、とんでもない思い違いをしていたのである。



 第2次ブントは1969年から1970年にかけてどう対応すべきかで分裂し、解体して行った。その分裂・解体は、第1次ブントが東大意見書をきっかけに分裂していったときと、その構造を同じくしていた。

 東大意見書は、ブントが情勢分析を誤らず、本格的な闘争の準備をしていたら、1960年の6月15日から6月18日に内乱的な政治危機を生みだせたというものだった。

 第2次ブントでは、この東大意見書に当たるのが赤軍派の主張であった。赤軍派は、「素手」や「角材」からより本格的な武装部隊を用意すれば、後退局面を突破し革命的高揚期を可能にするというものであった。

 第1次ブントの東大意見書も、第2次ブントの赤軍派も、より急進的な方針を出せば敗北状況が超えられるとしていた点で共通していた。

 この急進的な方針は活動家たちの願望を代表しているところがあった。東大意見書が活動家たちの心情をとらえたように、赤軍派も活動家たちの共感を獲得していた。赤軍派として登場したときの喝采はそれをあらわしている。

 ここで根本的に問われていたのは1960年の6月15日の行動(国会占拠という急進的な大衆行動)は、当時の伝説でいわれていたような「抜刀隊三千人」の行動と結び付く(接続する)かどうかにあった。仮に三千人が用意されたとしてである。つまり、単純にいえば、6月15日の行動は、6月18日により本格的な闘争になったか、どうかである。行動の質としてその発展形態が考えられたかということである。僕はそういうことを空想した。多くの活動家たちも空想した。自衛隊が出てきて、より本格的な闘争になったかも知れないと思ったり考えたりした。

 東大意見書は、政治集団の決意と準備があれば、内乱状態に近づくような政治的危機を生み出せたという考えにあった。この想像を支えているのは、安保闘争の急進的な大衆行動を国家への対抗的暴力として認識していることである。国家との暴力闘争としてそれは連続すると考えられていたのである。マルクス主義の政治理念から分析し、解釈すればそうなる。

 そこには簡単に連続しない質の差異が存在したのではないか。6月15日を頂点とする1960年の大衆行動は、東大意見書が想像するような内乱状態を生み出す行動に簡単に接続しなかったのではないか。当時の自分を行動者として内観するときそう言えると思う。

 1960年安保闘争の学生たちの急進的行動は左翼思想の武装闘争の観念(願望も含めて)では理解しえない表出意識の総和としてあったのではないか。そして、それを理解できなかったという意味では、日本共産党もブントもさして違いはなかった。

 それらはマルクス主義で想定されていたような内乱に発展もしなければ、ゼロでもなかった。そういう言葉ではとらえられないものだった。ブントはそれを無意識に実現したが、理解しえてはいなかったことを東大意見書は暴露してしまったのである。

 同じように、10・8以降のゲバルト闘争も、赤軍派が想定していたような武装や軍事に連続し発展する可能性を内包していたのか、どうか。つまり、国家権力への対抗的暴力ということでは包括できない質的な差異を有していたのではないか。

 闘争形態や戦術形態ということを超えて、国家に対する行動としてそこには質的な差異が存在していた。これは1960年安保闘争の大衆的行動や1960年代後半のゲバルト闘争を暴力革命というマルクス主義的な理念で理解し認識することと、その現実的性格の間に横たわる錯誤の問題である。

 僕はこれらの行動はまったく別の思想的な析出を必要としているように思った。学生たちの行動を支えていた表出意識はこうした言葉とは別のものだったのだ。



昭和の抵抗権行使運動(76)

『独立左翼論』を読む(12)


 理論的・思想的瑕疵は運動の後退期にその欠陥の本質をあらわにするものだ。

 三上さんは、「1960年代には未だマルクス主義の言語表現に代わる理論・思想を構築し得ていなかった」が、「言語の表出意識(実践意識)に対する認識を欠くマルクス主義の欠陥に対して、実践で対抗していた」と言っている。

 行動や大衆的運動に取って大事なのは、表出意識であり、その認識である。それを通して共同的な存在の把握だった。

 左翼党派の言葉はマルクス主義であり、それが僕らの制度的言葉だつたが、ほとんど信用していなかった。日本 での政治行為(政治表現)にとって今重要なのは表出の側であると思っていた。それが行動として外化することで、制度的言葉の限界を照らし出すということを考えていた。そして、そこでは自信を持っていた。

 大衆的運動が上昇期でなく、後退期になって、表出意識の現実の水準や実態の正確な認識や判断が要求されたとき、困難に逢着するしかなかった。当時の政治党派やグルーブは急進的な方向を競うという党派意識が強く現実が見えなくなっていた。後退期であればあるほどそうなった。安保決戦を怒号し、より急進的な方針を競うだけで、現実の動向や基盤を少しも見ようとしなかった。見ようと思つても、それを政治理念や路線の問題にする方法も糸口も分からなかったのである。

 内側の言葉、その言葉の集合という側面を見ることはできなかった。そこでの現実を理解できなかった。その分だけ外側の言葉に傾斜していつた。赤軍派や蜂起戦争派はその象徴的な連中であるが、当時の政治党派はよく似たものだった。戦術判断などで違いはあつても、構造はほとんど同じであった。

(中略)

 僕らは、1970年の前後、急進的な闘争を展開していた。この闘争の実現(行動)そのものが何事か(政治的に意味のあること)と考えていた。その行動にはらまれる、表出意識に、時代を超えていく共同性を見いだそうとしていた。

 1967年10月8日の佐藤訪べ反対闘争で登場した「ゲバ棒とヘルメット」は新しい闘争形態として僕らを歓喜させた。大学占拠のバリケードとともに出現したこの闘争形態は闘争空間の創出として僕らを興奮させた。これらは1960年の安保闘争の形を変えた再現であった。安保闘争の伝統を引き継いだ、大衆的かつ急進的な運動であった。



 このヘルメットにタオルで覆面、角材のゲバ棒という闘争スタイルの登場した背景を考えると、自由民権運動の「激化」と同じ構造が見て取れる。権力の弾圧方法の激化が先行する。

 65年あたりから機動隊の装備が向上し、装甲車、高圧放水車、ガス銃、防石面つきヘルメット・ジュラルミン盾などが登場していた。これらの「武器」を背景に機動隊のデモ隊に対する「先制的並列サンドイッチ規制」が常態化する。これがデモ隊に無力感を与え、いずれ闘争現場で乱闘することが双方に明白になっていた。

 学生側には、機動隊のこの規制をどう打ち破り、壁を如何に突破するかという対応が課題となり、遂にこの頃から学生運動急進主義派の方もヘルメット・タオル覆面・ゲバ棒という闘争スタイルを編み出していくことになった。れんだいこさんによれば、この闘争スタイルを「当時の法規制すれすれの自衛武装戦術」である。むろん、警官の「武装」とは比較すべくもない。

 さて「10・8」羽田闘争とはどのような闘いだったのだろうか。(以下は、れんだいこさんの「戦後学生運動史」による。)

 佐藤首相の南ベトナム訪問に対して、全学連は「ベトナム戦争の激化に伴い安保体制の下で参戦国化しつつあった佐藤政府」に対する怒りの抗議を突きつける必要があった。中核派、社学同、解放派からなる三派全学連は、反戦青年委員会を巻き込みながら「労学提携による実力阻止」の強硬方針を打ち出した。この時、中核派は「ゲバルトで闘う」という方針を提起している。これをめぐって社青同解放派は「中核派の玉砕主義」と野次り、中核派は「社青同の日和見主義」とやり返したと伝えられている。しかし、この方針が受け入れられていくことになる。

 10月7日、三派全学連は中核派と社学同.社青同解放派の二派に分かれて集会を開いている。社学同.社青同解放派900名は中大に、中核派1000名は法政大に結集した。この二派はあわや衝突寸前の動きをも見せていた。

 明けて10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問日を迎えた。ヘルメット.角材で武装した両派は数を増やしながら別個に羽田空港へと向かった。

 午前7時30分頃、社学同、解放派部隊1500名が、国電御茶ノ水駅から羽田へ向かった。午前8時、京浜急行大森海岸駅で下車した部隊は、佐藤首相が通過する予定の高速1号線の鈴ケ森ランプから柵を乗り越えて乱入、高速道路上を進撃していった。待ち受ける機動隊と乱闘になるも数で圧倒し、60年安保闘争以来はじめて機動隊の阻止線を撃破し実力で突破した。

 羽田闘争はこれでフタ開けした。部隊は空港へと向かった。そして、穴守橋付近で、萩中公園からデモしてきた反戦青年委員会グループと合流、同橋を固める機動隊と衝突して角材、投石でぶつかってゆき、これにたいし、機動隊は激しい放水で防戦した。

 早大からは革マル派400名、社会党本部のある社会文化会館からは構造改革派300名も向かった。まず、革マル派が機動隊と衝突した後穴守橋下流の稲荷橋で集会を始めた。次に中核派が機動隊を「一瞬のうちに粉砕」して弁天橋に到着した。社学同.社青同解放派は穴守橋で投石.乱闘し始めた。装甲車が放火され燃え上がり始めた。迂回した機動隊は革マル派が陣取る稲荷橋に突っ込む形になりここでも乱闘となった。

 一方、法政大学に結集した1000人の中核派は、萩中公園で総決起集会ののち、直線道路を突進してきたが、弁天橋から迎えうった200人の警官隊を、勢いのまま完全に圧倒して四散させ、弁天橋を固める警官隊と対峙していた。角材と投石で進んでくる学生たちを阻止し、放水車で追いかえそうとする警官隊、その激しい放水で川の中へたたき落とされる学生も多数いた。

 その間、10時半すぎ、佐藤首相の乗った特別機は、羽田空港を飛びたった。

 10時50分分頃、中核派のいる弁天橋上でも乱闘となったが、体制を立て直して猛然と殺到した中核派は装甲車を奪取した。1台の警備車の警官がキーを残したまま逃げ、学生がその車に乗り込んで獲得したものであった。

 学生は、バックして他の警備車を押しのけようと突進させた。その周辺で乱闘していた学生や警官が、危険を避けて、川の中に自分から飛びこんで難を逃れる。学生の乗った警備車は、前進しては速度をつけてバックし、他の警備車や放水車にぶつかっていく。その運転席に、ものすごい放水車からの水があふれた。運転席の学生がマイクで叫ぶ。「こちらは全学連主流派。すべての学友は、この車に続いて空港の中へ進撃してください」。この声に、周囲のビルの上や道に群がった野次馬の間から拍手があがった。

 その後一瞬、橋上の学生と警官隊の乱闘がやんだ。「誰か死んだ」の声が、野次馬の間にもひろがった。午前11時25分、京大生・山崎博昭の死亡事件が発生した。

 警察発表は、「学生が運転した車によるれき殺」であり、中核派は「機動隊員の警棒による撲殺」と解剖所見などをもとに発表し、見解が対立している。山崎さんの死の疑問は、現在にいたるまで解明されていないが、60年安保闘争の樺美智子さんに次ぐ、政治闘争史上二人目の犠牲者であった。

 いずれにせよ事件が起こった。午後1時居合わせた全員が一分間の「黙祷」を捧げた後、学生部隊は再び空港突入をはかろうとして突っ込んでいった。機動隊は60年安保闘争以来初めてガス弾を使用した。この日最後の大乱闘となった。

 結局3時頃、萩中公園に集まって解散し、10・8羽田闘争は終わった。この時、山崎さんの死のほか、重軽傷者600人以上、北小路敏元全学連委員長ら58名が逮捕された。

 この日、反戦青年委員会の労働者約2000名も参加している。青年部決定で組合旗を持って参加したのは、国鉄労働組合、動力車労働組合、東交等々であった。

 10・8羽田闘争は全世界に巨大な衝撃を与え、全米のラジオ・テレビが8日朝のトップ・ニュースで伝え、イギリスBBC放送、タイム紙、中国新華社、北京放送、パキスタン放送なども報道している。

 ちなみに、民青同系全学連はこの日、形だけの代表数十人を羽田に派遣しただけだったと言われている。また、日本共産党は多摩湖畔で「赤旗祭り」にうち興じていた。10月9日の赤旗は、山崎さんの死亡事件に対し、「反革命分子と反動勢力とのあいだの衝突」と見解発表し、民青系全学連もこれに同調する中執声明を出している。

 岸信介のアメリカ属国路線強行のとき樺さんが殺され、岸の弟の佐藤栄作のベトナム戦争荷担のときに山崎さんが殺された。私はいま、佐藤栄作のノーベル平和賞受賞という茶番を思い出している。

昭和の抵抗権行使運動(75)

『独立左翼論』を読む(11)


 連載「独立左翼論」の最終回(第7回)から読み始めて、第1回に戻り、第2回と読み進めてきた。第3回の内容は「行動とは何か」をテーマに、三島由紀夫と新左翼との関わりと相違を論じている。いわば一つの「三島由紀夫論」となっている。私は三島由紀夫については、何編かの小説を読んでいるだけなので、今このテーマに深入りすることは憚られる。いずれ稿を改めて取り上げることにして、今は先に進みたい。

 さて、独立左翼的な思想と運動は、70年安保においてどのような命運にあったのだろうか。まず、60年代末の年表を再録しておこう。

1967年
1・20 明大学費値上げ大衆団交
1・22 高崎経大、不正入学反対バリスト突入
3・2 善隣会館事件
7・9 ベトナム反戦・砂川基地拡張阻止大集会
10・8 佐藤訪べ卜阻止羽田現地闘争。羽田で三派と機動隊激突、山崎博昭虐殺。街頭実力闘争の高揚へ
10・17 虐殺抗議山崎君追悼中央葬
10・21 ベトナム反戦統一行動
11・12 第二次羽田闘争

1968年
1・15 佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争。一週間現地で激闘
2・16 中大学費値上げ闘争、白紙撤回で勝利
3・10 三里塚闘争。機動隊と衝突
3・28 王子野戦病院反対闘争。基地突入
4・3 マル戦派、ブントから分裂
4・26 国際反戦統一行動
5・31 日大闘争、三万人大衆団交要求デモ
6・15 6・15記念首都総決起集会。中核派と革マル派衝突。
6・17 機動隊、安田講堂占拠の学生排除、全学ストへ。東大―日大闘争激化
6・26 米タン阻止新宿闘争
7・14 中核派全学連結成。三派全学連分裂
7・19 反帝全学連大会で社学同と解放・ML派衝突
9・30 日大全共闘、両国講堂で大衆団交
10・8 羽田闘争一周年集会。米タン阻止闘争
10・21 国際反戦デー。新宿、防衛庁、国会等でデモ、機動隊と激突。騒乱罪適用

1969年
1・9 東大全共闘、教育学部奪還闘争。民青と衝突
1・18 安田攻防戦。二日間にわたって激闘、神田でも解放区闘争。全国学園闘争の爆発
4・28 沖縄闘争。銀座、お茶の水、新橋で機動隊と衝突。中核、ブントに破防法
6・8 アスパック粉砕闘争
7・10 大学立法粉砕闘争
8・17 広島大死守闘争
9・3 早大死守闘争
9・5 全国全共闘結成大会。日比谷野音に三万人結集。赤軍派登場
9・20 京大時計台死守、街頭バリケード戦
10・10 安保粉砕・佐藤訪米阻止十万人集会
10・21 国際反戦デー。新宿、高田馬場で機動隊と激突。1500名逮捕
11・5 赤軍派、大菩薩峠事件
11・16 佐藤訪米阻止、11月決戦。品川、蒲田で機動隊と激突。2000名逮捕

1970年
3・31 赤軍派、よど号ハイジャック
4・28 沖縄デー。各地でデモ
6・14 全国全共闘、反安保集会
7・7 蘆溝橋事件33周年記念.華青闘、新左翼批判、入管闘争に問題提起
8・4 海老原事件。革マル派、中核派に報復宣言
9・30 三里塚、立入調査で公団側と激闘
10・8 羽田闘争三周年。入管闘争
10・21 国際反戦デー。各地で集会、デモ
12・18 京浜安保共闘、板橋で交番襲撃
12・20 沖繩・コザ市で暴動。騒乱罪適用

 三上さんは60年代末の新左翼運動の情勢を次のように分析している。

 1969年から1970年にかけての、いわゆる全共闘運動は新左翼運動の大きな転換点であった。1969年1月の東大安田講堂の攻防戦を頂点として全共闘運動は後退局面に入っていた。

 新左翼の政治闘争も同じ状況にあった。1968年の10月の反戦闘争で1960年代の新左翼の運動は頂点を迎え、それ以降は後退局面にあった。沖縄闘争を経て、「1970年安保決戦へ」という政治的な掛け声は声高くあがっていたが、闘争は実質的にはピークを過ぎていた。

 東大安田講堂での攻防戦の後、全共闘運動は京大など関西に引き継がれて行った。そして大学臨時措置法に対する闘争を契機に全国化もしていた。また、沖縄闘争は現地を中心にして盛り上がっていた。フォークゲリラのようないろんな領域へ闘争は広がりつつあった。しかし、闘争はその外観や掛け声とは別に内部的な空洞化を進行させていた。

 しかし、当時「こういう状況を正確に認識し、闘争を展開することは難しいことだった。」という。その困難さの理由を、三上さんは次のように分析している。

 それは一言で言ってしまえば、僕らの政治言語の構造にあった。政治行動はどういう構造として成立するかと言えば、それは共同意識(幻想)の表現としてある。その場合に先に僕が外側の言葉と呼んだ共同幻想(意識・言葉)を必要とする。この外側の言葉は国家の言葉であれ、政治党派の言葉であれ、個々人の政治理念や思想として表現されたものであれ、大きく制度的言葉として個々人の外にあるものだ。

 文学作品が表現として現れれば、作者にとってすら第三者的存在のように一人歩きするものであることを想像してくれるとよい。この言葉によって、政治行動は対他性を獲得する。同時に対他的であることによって対自的なものにもなる。他者との関係の中で、自己(自己意識)という存在を確保するのである。共同幻想的な存在となる。

 これに対して、もう一つ政治的な表現には僕か先のところで内側の言葉と言ったものがある。これは共同意識(言葉)であるが、表出意識、あるいは実践的意識と呼んだもので、個々人の内在的な意識としてある。

 この実践的意識は個々人の内在的な意識としてあるから、個別的にある。個々人の内側にある言葉(意識)としてあるが、その集合や総和が共同意識をなす。この言葉は対自的である。対自的である表出性を獲得する。そして対自的であることで対他性を獲得する。幻想が身体化することで、誰でもそうであるような他者性を得る。これは自己意識の深まりが他者性を得ていくことである。

 この共同意識は自己の表出意識(実践意識)を内観することによって掌握することができる。それは推察したり、想像したりすることで理解することができる。

 マルクス主義の政治言語は、この言語の二重性を構造として認識する方法を持たないために、表出(実践的意識)をよく了解できない。

 政治表現は制度的言葉(外側の言葉)で認識することができる。なぜなら、政治表現は制度的言葉の連続性として現象すると考えられるからだ。これに対して、政治表現は個々人の表出意識(実践的意識)の発語という側面があるが、これは個々人の意識の総和としてあり、想像力でとらえるしかない。



 制度的言葉(外側の言葉)と個々人の表出意識(実践的意識)の発語(内側の言葉)という言語の二重性を良く認識し得ているかどうかが、組織や運動のあり方を大きく左右する要とある。そこが組織や運動が独立左翼的なものになるか否かの分岐点となる。