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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(68)

『独立左翼論』を読む(4)


『畜生、畜生、このエネルギーが!このエネルギーが、どうにも出来ない!ブントも駄目だ!』

 この生田浩二さんの叫びは、6月15日から6月18日までの闘争をやり抜いたという一種の達成感と、クライマックスの6月18日に何もできなかったという敗北感とのないまぜられた感情の噴出だったろう。この「達成感」と「敗北感」は、60年安保を真摯に闘った人たちの共有するものであったようだ。

 この間題の背景には1960年の安保闘争で全学連主流派やブントは6月15日から6月18日のクライマックスに至る過程で何もできなかったということがある。

 確かに、6月15日は安保の最後の局面で停滞気味の流れを逆流させる最後の闘争であった。国会構内占拠を目指す闘争は極限的な形で展開された。この闘いは自然承認を目前にした安保闘争を盛りあげた。

 僕のいた中央大学では自然発生的にストライキが成立し、数千の学生が国会に向かった。いつもはバスや電車で国会周辺に駆けつけていたデモ隊は当時神田駿河台にあった大学から、延々として隊列となって国会に向かっていた。

 もはや全学連の主流派と反主流派という対立は姿を消していた。つまり、全学連の主流派に飲み込まれていたのである。逆にいえば、全学連主流派は膨大なデモの波に飲まれていったといえるのかもしれない。それほど6月15日の闘争の影響は大きかった。

 6月18日には何十万という人々が国会を取り巻いたが、国会の周辺で座り込みをしつつ夜を明かすしかなかった。

 これは一体勝利なのか。あるいは敗北なのか。なんともいえない空しさが残った。6月15日の国会構内占拠という抗議行動が何十万という人々を国会に引き寄せたとするなら、それは勝利とよんでもよかった。しかし、6月18日に国会周辺で徹夜の座り込みをする以外になすすべもなく、安保条約の自然承認を見送るほかなかつたとすれば、これは敗北というほかなかった。敗北といわなければどうしようもない空虚感が残ったことも事実であった。

 このとき僕らには安保闘争を全力でやりきり、とにかく6月15日から6月18日までのクライマックスを構築したという満足感と6月18日に何もできなかったという敗北感があった。これはとても矛盾した意識と呼ぶほかなかったのであるが、この内在的な意識に届くような安保闘争の総括は難しかったのである。

 島成郎がいみじくも告白しているように、ブントの総括をし、次の方向を描くことができなかったのは、この安保闘争の矛盾的意識を正確に析出することの難しさを暗示していた。



 1960年7月に開かれた5回大会でブントは解体する。その5回大会を島書記長はどのように迎えようとしていたのだろうか。

「闘争終了直後、まだ興奮さめやらぬ七月の初め開かれた全学連大会で挨拶にたった私は、3月大会でのような確信に満ちた言葉を叫ぶことはできなか った。リベラシオン社には直接ブンド加入を申し込みに訪れるものも後を断たず、労働者や学生の中で一挙に党勢を拡大する絶好のチャンスであったが、私はブンドをこの後どのようにするのか鮮明な画像が浮かばず昏迷のなかにいた。しかし、書記長としてこの闘いを締め括りながら次を模索するために、ブンド大会を準備しなければならなかった。4回大会以降の総括の文章を書くために私は箱根の旅館に数日間閉じこもったが、混乱の度は強くなる一方であった。『ブンド中央がいかに一貫して革命的方針を堅持し闘いを指導したか』などと作文する気はさらさらなれなかった。迷いに迷った挙げ句『ブンド中央批判』をそのまま提示して大衆討議に委ねる以外にはないと思い、4月以来の動揺したブンドの実情をありのままに描き、『戦旗』紙上に発表した。ブンド中央とは私自身である」(『ブンド私史』島成郎)

 安保闘争をどのように総括し、評価してよいのか見当がつかなかったのである。

 「4月以来の動揺したブンドの実情」とはどんなことだったのか。三上さんは「ブンドの安保闘争の方針が一致したものではなくさまざまの動揺を含んだものであったことは僕らでさえ目撃できた。」と、次のような例を書きとめている。

 例えば、1960年の4月26日のデモでは東大教養学部の部隊は装甲車の前でユータンしていた。僕にはこれが何を意味するのかわからなかったが、奇妙な行動であったことは疑いない。その印象は記憶に残っている。



 こうした中で、ブンドの5回大会が開かれる。

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