2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(74)

『独立左翼論』を読む(10)


 「SECT No6」のほかに、関西にもブントの思想と行動を継承しようとしたグループがあった。共産同関西地方委員会である。三上さんはこのグループが提唱した「政治過程論」に触れている。

 むかし関西ブントが提起した「政治過程論」というのが存在した。これは政治過程を独自の構造として取り出そうとしたものであり、優れた見解であった。着目点はよかったのである。しかし、意志(幻想)論がなかつたから革命理論としては発展しなかった。


 マルクス主義の大きな欠陥の一つは「意志論の欠如」である。「意志論」とはなにか。これについてはいずれ取り上げようと思っているが、いまは関西ブントのことを書きとめておこう。(以下は『新左翼運動全史』による。)

 1961年2月26日、京都で「共産主義者同盟全国労働者細胞代表者会議」が開催されている。参加メンバ―は、プロ通、革通、南部、西部、関西、九州、名古屋の各地区地方市委員会など70余名(学生半数)であった。戦旗派も参加したが、すでに革共同全国委との組織的統一を決定していたという理由で、立場表明を許されただけで退席させられている。

 労細代では、党内闘争の総括を行い、連絡会議の代表4名を決定し、3月を目標に同盟六回大会開催を申し合わせたが、反戦旗派=反革共同という点では一致したものの、総括内容ではなんら一致点を見出すことができず、六回大会を待たずに立消えとなり、混迷と挫折の根深さを露呈した。

 しかし、共産同関西地方委員会は第一次ブント崩壊以後も、関西社学同として自立化し、いわゆる「政治過程論」といわれた独自の安保闘争総括によって、関西地方における革命的左翼のヘゲモニーを引き続いて堅持していった。

 この政治過程論は、61年7月全学連第17回大会における京都府学連執行部の議案として執筆されたものである。その論の内容を、蔵田さんは次のように要約している。

 内容は、基本的にブント主義の継承、深化だった。すなわち、政治過程論は、小ブル学生運動の歴史的、階級的役割と性格を、その過渡性において正当に位置づけて評価し、運動の高次化、階級意識の高次化を運動論的に論理化し、安保闘争を総括したものである。

 だから、彼らは安保闘争を経済決定論的ドグマからではなく、政治過程の独自性から分析し、それを「予想外の大闘争」と総括した。そして「プチブルの街頭闘争と部分的な労働者の実力行使によって内閣危機が出現」したが、その反面では「内閣打倒→議会解散→総選挙という議会コース」が戦後の平和と民主主義意識=戦後デモクラシーに媒介されて反転力をつよめていった、という事実に着目し、この点に戦後学生運動の限界があったと主張した。

 また、運動におけるこの小ブル主義的限界性を突破するものとして「革命的戦術」を位置づけ、この「小戦術と大戦術」の連結性として貫徹されるべき革命的戦術は、必然的に国家権力との重大な対決へと発展していかざるをえないと主張し、「徹底した民主主義→二重権力状態」の創出を展望した。

 国家論、政治権力の構造分析などは一般論であり、粗雑さを否めなかったとはいえ、この政治過程論にある基本的視点は、のちに発表された「第三期学生運動論」や関西ブントのその後の根本路線となって継承されていった。



 関西社学同は、60年安保闘争の挫折のなかで唯一その動員力を維持し続けていき、ときには60年安保闘争を上まわる戦闘力を発揮し、府学連を領導していった。そしてそれが、第二次ブント再建の動因力となった。

 しかし、第二次ブント再建までにはなお数年にわたる「血のにじむような混迷と果てしない分裂」が続いた。第二次ブント再建は1966年9月1日のことである。

スポンサーサイト
今日の話題

東京「君が代」裁判・最終弁論


(「都教委包囲首都圏ネットワーク」・・「千葉高教組」・「新芽ML」の渡部さんからのメールの転載です。)

 本日(12月25日)、東京「君が代」裁判・最終弁論が東京地裁でありました。

 地裁前には200人以上の人が傍抽選で並びました。傍聴席は、記者席も入れて約100。満員となりました。

 今回原告団から出された最終準備書面は900ページに及ぶもの。公判では、原告1名と弁護士8名が意見陳述をしました。少し長くなりますが、以下それらを簡単に紹介します。

<原告協同代表・星野直之さん>は、
 「暴力といじめは絶対に許さない」を貫いた教育実践で生徒たちが成長したことを紹介し、都立高校の多くの教員が、「教育の条理に立って、一つの考えを絶対として押し付けるのは間違いだ、生徒自ら考えて判断する力を育てることが教育なのだと考えてきた」とし、そういうものを全て否定したのが、「10・23通達」であったと述べました。そして、その本質は「脅迫による価値観の押し付け」と断じ、自分の38年間の教師人生が否定される、この命令には従うわけにはいかないと決意した、と述べました。

 また、「いま、教育現場は自由にものがいえない窒息状態になっています。」「10・23通達と大量の懲戒処分を境に、都立高校は様代わりしてしまったのです」と述べました。

<弁護団団長の尾山宏弁護士>は、
 学校における民主主義と教員や子どもの思想良心の自由について述べ、人間の尊厳の核となるのは思想・良心の自由だ、だから、それを圧殺するものに対しては人生をかけても反対する、そうしなければ教師の職務も遂行できなくなる、「10・23通達」は違憲である、と述べました。

<青木護弁護士>は、
 「10・23通達」以前の生徒・教員・保護者により作られた卒業式がいかに感動的で、内容のあるものだったかを紹介、それが「10・23通達」により壊されたことを述べました。

<雪竹奈緒弁護士>は、
 原告らがどのような想いで教育活動をやってきたのかを述べ、「10・23通達」はそれを根本から覆したこと、生徒からも「強制はおかしい」という意見が出されたこと、を紹介しました。

 また、都教委の「外形的な行為を要求しているだけ」、校長の「心の中では自由だが公の式にふさわしい行為を」、の欺瞞性を指摘、「原告らは生徒一人一人を大切に思うから起立できなかった」と結びました。

<金哲敏弁護士>は、
 戦前いかに教育が国家主義的なものに変質して行ったか、戦後は、その反省から、教育は国家のものになってはならない、生徒が学校の主体にならなければならない、国は教育に直接介入してはならない、となったことを紹介、だから都教委が勝手に強制を定めることは許されない危険なことであると断じました。その弊害は三鷹高校の校長が出した「意見書」にも記されており、東京の教育は危機に瀕しているとも述べました。

<平松真二郎弁護士>は、
 「10・23通達」「職務命令」は自己の内心に反することを迫るもので、「心に刃を突きつけるもの」だった。憲法19条を無にするもので、戦前のような暗黒時代の到来しつつある。すでに思想による不利益が生じている。思想良心の自由が守られるかどうかの分水嶺に立っている、と述べました。

<澤藤藤一郎弁護士>は、
 式の妨害をしたわけでもなければ、そのことで式に落ち度があったわけでもない、著しく妥当性をかく処分だとし、その理由に、
①原告らの真摯性(不利益を覚悟でもなお不起立せざるを得なかった)
②処分・不利益の重大さ(「転向」「屈服」の強要、強制異動なども)
③都教委の教育内容への支配とそれに反対する教員の排除
④裁量権の逸脱・濫用
を上げ、憲法的判断をすべきと結びました。

<川口彩子弁護士>は、
 原告らの苦悩・損害として、「体調に変調をきたす教師の増加」「人権が引き裂かれる苦しみを味わう」「夜中にも胃・心臓が痛む」「踏み絵の前に引き出されるのと同じ思い」などを紹介し、処分された後も、再任用拒否、人事異動などで痛みは重層化していることを紹介しました。

<白井剣弁護士>は、
 人は誰しも心のよりどころを持って生きている。それは提出された170通の原告の陳述書に書かれている。「10・23通達」はこれを踏みにじるものだ。かつて日本が軍国主義化したとき、それは学校教育によって広められた。現在一般社会では、立つか立たないかはそれぞれの判断だ。しかし、都立の教員は画一的な命令に縛られ、処分されている。このギャップ。ここにどんな必然性があるのか。 ― と述べました。

 これらの陳述は、全体として、「10・23通達」とそれに基づく処分が現憲法下でいかに不当なものであるかを浮き彫りにするとともに、現在私達がどのような時代に生きているのか、また私達は何をなすべきかを、浮き彫りにするものでもあったと思います。

 とくに8人もの弁護士たちが次々に熱のこもった弁論をしたのは、まさに、<民主主義を守れ!>、<子どもたちを守れ!>、<再び戦前のような暗黒社会にしてはならない!>、という痛切な叫びにも聞こえました。

 最後になりましたが、私に傍聴券を譲ってくれた方に感謝します。

***********************************

2009年『2・8総決起集会』

<日 時>
 2009年2月8日(日)
 12:30開場、13:00~16:00
<場 所>
 全電通会館(東京・神田駿河台3-6)
 JR御茶ノ水駅(聖橋側)徒歩5分
<資料代> 500円
<内 容>  基調報告
 報告並びに発言
  ①「7・15分限対応指針通知撤回の闘い
  ②「10・23通知」撤回、「日の丸・君が代」強制反対の闘い
  ③改悪教育基本法の実働化反対の闘い
  集会決議・行動提起

 なお、私たちは全国各地の闘いも視野に入れた集会にしたいと考えておりますので、全国からの発言も期待しています。

**********************************

「都教委包囲首都圏ネットワーク」

のホームページ

「千葉高教組『日の丸・君が代』対策委員会」

昭和の抵抗権行使運動(73)

『独立左翼論』を読む(9) /BIG>


 ブントが体現した独立左翼的な運動と思想は、いわゆる新左翼に受け継がれたが、マルクス主義批判の点で質的に大きな幅があった。その違いを三上さんは次のように論じている。
 より具体的にいえば、ソ連や中国のマルクス主義をスターリン主義批判としてやるのか、もつと大きな幅のロシアマルクス主義批判としてやるのかの差異である。

 前者はスターリン(スターリン主義)はダメであるが、レーニンやトロッキーは正しいとするものであるが、後者ではエンゲルスを起源とし、レーニンやトロツキーによって発展させられてきた《ロシアマルクス主義》は普遍性を持たないとするものであった。

 スターリン主義批判によってマルクス主義の再生ができれば現在への批判的思想は構築できるとするのが前者であった。これに対してスターリンのみならずレーニンやトロツキーも含めたロシアマルクス主義は批判的思想として有効ではないと考えるのが後者だった。

 新左翼はこの二つの思想を混在させていたが、この二つは全く別の系譜の革命思想であった。スターリン主義批判でソ連批判は解決されるという思想はレーニンやトロツキーの系譜の革命思想の展開を志向した。マルクス主義の原理的な再生と発展である。エンゲルスからレーニンへと発展してきたマルクス主義をロシアマルクス主義として否定する者は、ヘーゲルとマルクスを起源とする別の革命思想の系譜の模索を考えたのである。

 通俗的に言われてきたマルクス・レーニン主義はここでは切断されている。新左翼運動は前者の立場にしか立てないことで、ソビエトの崩壊の中でともに自滅して行っているが、後者はこれを予言しているおもむきすらある。

 ソ連批判をスターリン主義批判の枠にとどめ、ロシアマルクス主義批判にまで深められなかったのは新左翼の欠陥であり、これは1960年代の後半に露呈する。

 今、思えばソ連批判からはじまった独立左翼の立場はロシアマルクス主義の批判によって、独自の系譜の革命思想を進展させるしか道はなかった。このことを1960年の段階で自覚し、その展開を準備していたのは吉本隆明だけであった。



 新左翼の中では「SECT No.6」というグループだけが例外であったという。このグループは中央大学の社会主義学生同盟の学生たちを中心に構成されていた。マルクス主義の思想的な権威から解放され、マルクス主義に対して最も自由な立場を取り、マルクス主義の左翼反対派的な限界を思想的に理解していた。ロシアマルクス主義的な世界観や歴史観から自由になることで、ロシアマルクス主義とは別の系譜の革命思想(批判的思想)を模索していた。「これは明らかに吉本隆明から受けた影響であった。」と三上さんは言っている。しかし、その模索は「それを吉本隆明のようにヘーゲル・マルクスの系譜の、というようにははっきりさせられなかった。」

 吉本さんはこのグループについて『「SECT6」について』(「詩的乾坤」所収)という文章を書き残している。ブント解体後の左翼思想の混迷と頽廃の様子も描かれていて興味深い。その前半部分を掲載しよう。

 60年安保闘争の終息のあと、真向うから襲ってきたのは、政治運動の退潮と解体と変質の過程であった。この闘争を主導的に闘った共産主義者同盟は、この退潮の過程で、分裂をはじめ、分裂闘争の進行してゆくなかで、その主要な部分は、革共同に転身し吸収されていった。

 この間の理論的な対立と分岐点については、あまり詳かではないし、ほとんど、わたしなどの関心の外にあったといつてよい。ただ、あれよ、あれよというあいだに、指導部の革共同への転身がおこなわれたという印象だけが、鮮やかに残っている。

 この間に、指導部からいわば置き去りにされた学生大衆組織としての社会主義学生同盟にはいくつかの再建の動きがあり、まことにおっくうな身体で、それらの会合に附き合ったことを記憶している。

 わたしのかんがえ方では、社会的には楽天的な評価が横行しているのに、主体的には、ほとんど崩壊にさらされている学生大衆組織に、もし内在的な逆転の契機があるならば、<嘘を真に>としてでも、社会的評価とのバランスがとれるまで、支えるべきであるとおもわれた。しかし、これは甘い、ほとんど不可能に近いものであることをいやおうなしに思い知らされた。

 安保闘争に全身でかかわった学生大衆は、この間に上部との脈絡を絶たれて、ほとんどなす術を知らず、指導部と同じくマルクス主義学生同盟に移行する部分と、個にまで解体してゆく部分と、共産党の下部組織に融著してゆく部分とにわかれた。

 こういう外部的な表現は、あまり意味をなさないかもしれない。別の云い方をすれば、指導部の転身と分裂によって方途を失った社会主義学生同盟は、政治過程の遙か下方にある暗黒の帯域で、それぞれの暗中模索の過程に入つたというべきなのかもしれない。

 当時、共産主義者同盟の同伴者というように公然とみなされていたのは、たぶん清水幾太郎とわたしではなかったかと推測される。わたしは、組織的な責任も明白にせずに、革共同に転身し、吸収されてゆくかれらの指導部に、甚だ面白からぬ感情を抱いていた。おまけに、同伴者とみなされて上半身は<もの書き>として処遇されていたわたしには、被害感覚もふくめて、ジャ―ナリズムの上での攻撃が集中されてきたため、この面白からぬ感情は、いわば増幅される一方であった。

 公開された攻撃を引きうけるべきものは、もちろん革共同に転身したかれらの指導部でなければならない。しかし、かれらは逆に攻撃するものとして登場してきたのである。内心では、これほど馬鹿らしい話はないとおもいながら、それを口に出す余裕もなく、まったくの不信感に打ち砕かれそうになりながら、ただ、言葉だけの反撃にすぎない空しい反撃を繰返した。

 この過程で、わたしは、頼るな、何でも自分でやれ、自分ができないことは、他者にまたできないと思い定めよ、という者え方を少しずつ形成していったとおもう。

 わたしは、もっとも激烈な組織的攻撃を集中した革命的共産主義者同盟(黒田寛一議長)と、かれらの批判に屈して、無責任にも下部組織を放置して雪崩れ込んだ、共産主義者同盟の指導部(名前を挙げて象徴させると森茂、清水丈夫、唐牛健太郎、陶山健一、北小路敏、等)を、絶対に許せぬとして応戦した。おなじように、構造改革派系統からは香内三郎などを筆頭とし、文学の分野では、「新日本文学会」によって組織的な攻撃が、集中された。名前を挙げて象徴させれば、野間宏、武井昭夫、花田清輝などである。

 わたしは、これに対しても激しく応戦した。ことに花田清輝は、某商業新聞紙上で、わたしの名前を挙げずに、わたしをスパイと呼んだ。わたしが、この男を絶対に許さないと心に定めたのは、このときからである。それとともに、対立者をスパイ呼ばわりして葬ろうとするロシア・マルクス主義の習性を、わたしは絶対に信用しまいということも心に決めた。わたしは、それ以来、スパイ談義に花を咲かす文学者と政治運動家を心の底から軽蔑することにしている。

 後に、香山健一(現、未来学者)、竹内芳郎などが、わたしを「右翼と交わっている」と宣伝し、ことに竹内芳郎は雑誌『新日本文学』に麗々しく「公開状」なるものを書いた。わたしは、この連中が、どういうことを指そうとしているかが、直ぐに判ったが、同時にそれが虚像であることも知っていたので、ただ嘲笑するばかりであった。

 もっとも「新日本文学会」が竹内芳郎の「公開状」の内容に組織的責任を持つならば、公開論争などをとび越して、ブルジョワ法廷で、竹内芳郎および「新日本文学会」を告訴し、その正体を暴露してもいいと考えて注目していた。しかし「新日本文学会」は、その後の号の雑誌で、小林祥一郎署名で責任を回避した。わたしは竹内芳郎というホン訳文士などを相手にする気がないのですっかり調子抜けしてそのままになった。わたしは、たとえ百万人が評価しても、竹内芳郎や「新日本文学会」などを絶対に認めない。かれらが、いつどういうふうにデマゴギーをふりまくかを知ったので、その後、いっさい信用しないことにしている。

 これらの多角的に集中された、批難と誣告とは、ただひとつの共通点をもち、また共通の感性的、思想的な根拠をもっている。それは、どんな事態がやってきてもわたしが決して彼等の組織の同伴者などに、絶対にならないだろうということを、彼等が直観し、あるいは認識しているということである。そしてこの直観や認織は当っているといってよかった。そして、またこれこそが、誰れにも頼るなというわたしの安保体験の核心であった。

 ここで、わたしは、いつも衝きあたる問題に衝きあたる。退潮してゆく雪崩れのような<情況>の力は、ほとんど不可避的ともいうべき圧倒的な強さをもっているということであを。この退潮を防ぎとめる術がないという意味は、かつてわたしが戦争責任のようなものを提起したときに認識していたよりも、はるかに根底の深いもののようにおもわれる。抗することの不可能さといつてもよいくらいである。

 <情況>雪崩れに抗するということは、もちろんみせかけの言辞や、政治行動のラヂカルさということとはちがう。また、身を外らしてしまうことともちがう。比喩的な云い方をすれば、科学的な技術の発達が、政治体制の異同や権力の異同によって、抑しとどめることができない、というのと似ている。なぜそうなのか。それは、科学技術を支えている基礎的な推力が<そこに未知のことがあるから探求するのだ>といった内在的な無償性に支えられているように、<情況>の本質もまた、<そこに状況があるからそうなるのだ>という、自然的必然に根ざした面をもっているからである。

 個々人の<情況>についての意志の総和が、<情況>の物質力として具現する、という考え方は、たぶんちがっている。そして<情況>に抗うことの困難さ、不可避さということだけが、あとにのこされる。

(中略)

 おなじような<情況>のもとで、安保体験を経た中大杜学同のグループを中心に、「Sect6」を機関紙に、社学同再建の動きがはじめられた。わたしは、その内部的な動きを知らないし、組織化がどのように進められ、どのように展開されたかも知らない。むしろ、その意味では「Sect6」に結集した中大社学同グル―プとは私的に付き合っていたという方がよいかもしれない。

 この中心グループは、政治的には、谷川雁と大正行動隊の労働者の自立的な政治運動への越境から、多大の影響を受けたのではないかと推察する。わたしは、いくらか労働者の運動の実体を、それ以前に知っていたので、大正行動隊の活動に、それほど過大な実効性を認めていなかった。「Sect6」の中心グル―プが、大正行動隊と接触し連帯する志向性を示したとき、私的にはむしろわたしは、止め役だったとおもう。わたしの止め役の理由は、<労働者から学ぶものは、じぶんも労働者になるという位相以外のところでは、なにもない>ということであった。もちろん、わたしの<私語>は、「Sect6」の中心グループには通じなかったのではなかろうか。

 現在、残されている機関紙「Sect6」を読めば直ぐに判るが、このグループの政治意識には、わが国の左翼的な常識にくらべて、開明的なところがみられる。それとともに問題提起の仕方に学生運動を独自的な大衆運動として固有にとらえようとする態度が、かなり明確に打ち出されている。

 この態度は、学生運動を、政治党派の<学生部>の運動とみなしてきた既成の概念と、枠組が異なっているということができる。このことが組織体として有利に作用したかどうかは、まったくわからない。ただ萌芽としては、その後にジグザグのコ―スをとりながら行われた60年代の学生運動の問題意識は、ほとんどこのグル―プの問題意識のなかに含まれているといってよい。



昭和の抵抗権行使運動(72)

『独立左翼論』を読む(8)


 60年安保闘争について、当時の既成左翼は、それをアメリカの帝国主義的支配から脱却するという反米愛国闘争と認識していた。アメリカの帝国主義侵略反対と民族的独立を掲げた。左翼ナショナリズムと言えよう。

 これに対して、保守派の安保推進論はソ連や中国の脅威(共産主義の侵略の脅威)を理由としていた。アメリカの戦略に沿って、共産主義の侵略からの民族的防衛を掲げていた。

 つまりは、安保改定の反対論も推進論も、米ソの世界的対立 ― 資本主義と社会主義の対立 ― という戦後の思想的枠組みを絶対視する中でのみ思考されていた。そしてどちらも、安保問題を民族(国民)的な課題としていた。

 しかし、どちらの掲げる民族(国民)的課題も、国民の意向とも意志とも異なっていた。それらは支配共同体の内部での保守と左翼の対立であり、彼らの提示する国民像は、現実の国民の存在とは関係がなかった。

 ブントの60年安保闘争における歴史的意義の一つは、保守も左翼もが取り込まれていた戦後世界の米ソ支配という思想的枠組みに亀裂を入れたことである。ブントは安保改定を復活した日本資本主義の国家的意志とみなし、それとの闘争を宣言していた。それを通して米ソの世界支配との闘争を宣言していた。どちらの体制を選択するかではなく、日本資本主義の政治意志との独自の闘いをやり、そして米ソの世界支配の枠組みを超えることを志向していた。ブントは保守と左翼という日本の支配的な思想と、その背後の米ソの世界的思想の双方に異議をとなえたのだった。そして、そのブントの思想と行動は、戦後の大衆のナショナルな感情(国民の意志)につながっており、大きな可能性を孕んでいた。

 以上のことは、戦後における支配共同体内の戦争観と大衆の戦争観の違いを通して、はっきりと見ることができる。

 保守も左翼も米ソの対立の枠組みの中で思考し、それぞれアメリカあるいはソ連による戦争は「良い戦争」「正義の戦争」とみなした。しかし、戦後大衆にとっては戦争は全て悪であった。このような戦争観の違いは今なお変わらない。このことについて、三上さんは次のように詳論している。

 日本国民にとって敗戦から戦後にかけて一番大きな思想問題は政治的には戦争の処理であり、社会的には生活の再建だった。

 日本の大衆は敗戦後、敗戦の責任を追及し、国家の組み替えに向かうことで天皇制を処理しなかった。天皇制を護持するにせよ、廃止するにせよ自らの力を行使しなかった。むしろ支配共同体に背を向ける形の対応をした。これは戦後史の謎とでも言うべきことだが、この過程で一番大きな問題は大衆の戦争観の問題であった。

 太平洋戦争にいたる過程で日本の大衆は戦争を「聖戦」として推進した。この力が戦争を根底で支えたことは論をまたない。この大衆の戦争観は戦後「非行・蛮行」に変わった。「聖戦」は「非行・蛮行」へと変わった。

 戦争観のこの変貌は、戦後と戦前を分かつ最大の政治的出来事であるが、日本のナショナリストはこれを日本が敗戦の結果、アメリカやソ連の世界思想に屈したためであるという。僕はこの戦争観の「聖戦」から「非行・蛮行」への転換には二つのレベルがあると考えてきた。

 その一つは戦後の支配層であり、支配共同体の周辺の人々の転換である。これは保守思想から左翼思想を含むのであるが、戦後の支配共同体の戦争観の転換である。これに対してもう一つは大衆の戦争観の変化である。そして、この二つのレベルは同じではない。

 支配共同体の内部や周辺にある人たちの戦争観はアメリカやソ連という世界支配の思想的枠組みの中にあるから、その戦争観は制約されたものであった。そしてソ連やアメリカの政治戦略の変化にそって変わった。かつて日本の演じた戦争はファシズムによる戦争として否定されるという共通性を持つが、保守思想に取ってはアメリカの戦争は「良き戦争」であり、左翼にとってはソ連や中国の戦争は「良き戦争」であった。 つまり、戦争には「義のある戦争」と「義なき戦争」とがあるというわけである。義の対象が「日本」から「アメリカ」や「ソ連」に変化したのである。

 これに対して日本の大衆の戦争観の転換は「戦争には義のある戦争と義のない戦争がある」という戦争観ではなく、あらゆる戦争は「非行・蛮行」であるというものだった。第二次世界大戦で日本の演じた戦争が非行なら、アメリカの戦争もソ連の戦争も非行であるというものだった。ソ連満州参戦も非行であれば、アメリカの原爆投下や焦土作戦も非行とするものであった。

 この二つのレベルの戦争観の転換は明らかに異なるものである。日本の支配層がアメリカの意向によって「良き戦争」のための再軍備を進めようとしたとき、戦後の大衆の戦争観はその拒否の力として働いた。ソ連や中国が自国の戦争は「良き戦争」として原爆実験を強行し、それを左翼が支持したとき、大衆は失望し冷笑を浴びせた。

 1960年の安保問題が、米ソの対立の中で露呈する軍事的緊張の問題であったとすれば、どちらにも異議をとなえたブントが支持された背後にはあらゆる戦争を「非行・蛮行」とする意識的な基盤が存在した。これは支配共同体(国家)が与える《国民》思想ではなく、支配共同体の外部に存在する大衆的(国民的)思想であった。支配共同体から降りてくるナショナリズムではなく、それとは別の次元に存在したナショナルな思想だった。

 ブントには大衆的な思想基盤への直観的な洞察はあったかもしれない。しかし、それを思想として自覚的に取り込む能力はなかった。無意識に戦後大衆の戦争観を代表しえたかもしれないが、それを繰り込むことで自己思想をつくり変えることはできなかった。世界思想として流通していた世界観や歴史観をこのナショナルな思想によって書き換えるまでの力はなかった。例えば、現在の、そして歴史的な戦争観を根底から書き換える基盤はあり、その契機は存在した。戦争と平和と革命についてこれまで存在してきた思想を根底から変える機会はあったが、ブントはそこに視座を延ばすことはできなかった。



今日の話題

川辺川ダムとアステロイド


 表題を「川辺川ダムとアステロイド」としましたが、この二つには全く関係がありません。話題二つということです。

 今年の3月に 「五木の子守唄」 を取り上げたとき、五木村頭地地区が建設予定の川辺川ダムの水没予定地になっていること憂慮して以来、どうなるのかと、ずっと関心を持ってきました。

 一昨日の夕刊によると、地質や環境の調査費用など本体工事に向けた予算が認められなかったため、2009年度の着工は見送られる見通しとなったということです。国土交通省は「一定の予算は認められており事業は継続中」と言いまだ諦めていないようですが、財務省は「知事が反対する中で建設を前提にした予算は認められない」と強調しているといいます。記事の内容からは「休止」ということであり、まだ予断は許されませんが、知事が反対を撤回しない限り、実質的に「中止」と考えてよいのではないでしょうか。

 記事によると「五木村での生活再建費用」が15億円計上されたといいます。これは、強制移転させられた村民たちが元の土地に戻るためのものでしょうか。国土交通省に振り回され、村民同士が反目しあうことを強いられて約40年、村民の皆さんに静かな生活がもどることを祈りたいと思います。

 話は変わって、けさ床を上げているとき、お隣さんの窓に眼を奪われました。夏の間、日よけに使われていたすだれがたたまれて立ててありました。それがちょっと形が崩れて、写真のような形になっていたのです。


 これを見たとたん、「あっ! アステロイドだ!」と思ったことでした。日常の中にアステロイドを発見してうれしくなり、写真まで撮ってしまいました。

 アステロイドは両端がそれぞれx軸・y軸上にある線分の包絡線です。下のアニメをご覧ください。上の写真のすだれと同じでしょ。


 これを四つの象限全部に描くと、お星さんがキラキラ輝く形と似ているので星芒形(せいぼうけい)とも呼ばれています。

 またこの曲線は、一つの円の中側を円周に沿って、半径が4分の1の円がなめらかに転がっていくときに、その円周上の一点が描く軌跡でもあります。次のアニメをご覧ください。


 アステロイドは式では

x2/3+y2/3=a2/3

と表せます。aは線分の長さあるいは大きい方の円の半径です。また、媒介変数θを用いて

  x = acos3θ,y = asin3θ


とも表せます。

 なお、上のアニメは 「DOZONO Home Page」 さんから拝借しました。すばらしいホームページです。管理人は高校の数学の先生のようです。世の中にはすごい人がいるなあ、と改めて感心しています。

末尾ながら、DOZONOさん、無断借用ごめんなさい。すてきなアニメをありがとうございます。

昭和の抵抗権行使運動(71)

『独立左翼論』を読む(7)


 三上さんは、さらに、『擬制の終焉』から次の文を引いている。

 ここでもつとも滑稽なのは、はじめに、安保闘争の主導的勢力に水をかけながら、運動がおわり、これらが一定の成果をおさめたとみるや、おれたちはきみたち学生運動を支持してきたのだなどとおべんちゃらを呈し、じつは、無名の無党派学生および市民大衆がじぶんの足と手でもってあがなった運動の成果をわが田にひき入れて、過去もそうであったように現在もまた『バスに乗り』はじめたものたちである。

 わたしは共同にしろ革共全国委にしろ、安保闘争を無名の学生大衆の行動過程において考察せず、自らの指導性について手前味噌な自惚れをならべたてるとき絶望をかんじないではおられない。かれらもまた、ロシア革命や中国革命を、レーニンやトロツキーや毛沢東において考察し、たおれた無数の大衆の成果について考察できない官僚主義者に転落するみちをゆくのであろうか?

 なんべんも強調しなければならないが、いかなる前期段階でも、一定の政治理論と行動方針を大衆のなかに与える指導者よりも、ひとりの肉体としてたたかう無名の大衆のほうが重要なのであり、また重たいのである。ここでは、やむをえない場合、必然的に指導者はじぶんの責任をかたるのであり、自らの指導性を手前味噌に誇張するとき、官僚主義が生まれるほかないことは、あらゆる前期段階の歴史があきらかにしている。


 これを受けて、三上さんは第一次ブントが果たした歴史的意義を次のように論じている。

 安保闘争は政治集団の政治戦略のいかんというよりも、大衆が主体として闘争を主導していったということにこそ歴史的な意味があった。吉本がここでいうひとりの肉体としてたたかう無名の大衆たちの集合的な力の上にこの闘争は成立したのである。それは前衛党主体の大衆運動を打ち破りつつ実現した。これは政治的意志の登場の仕方の新しい歴史的形態だった。

 ブントはそれを代表しえた限りにおいて、政治指導の機能を果たせたのである。ブントの政治戦略も情勢分析も実際にはさしたる意味を持たなかった。そういう実態だったのである。大衆が主体となる独立左翼的な運動を実現したことにブントの秘密はあったのだ。もし、この内在的な過程の考察から6月15日の意味と限界を考察しえていたら、東大細胞の意見書もなかったであろうし、それに振り回される形でのブントの解体もなかったはずである。

 東大細胞の意見書は党(政治集団)が主体としてあり、大衆的運動を主導しているという伝統的左翼の思考に支配されていたし、ブントもまたそれから自由ではなかったのである。



 さらに、伝統的な左翼思想が「一定の政治理論と政治行動を大衆の中に与える指導者よりも、ひとりの肉体として闘う大衆のほうが重いし、重要である」ことを認識できないのはなぜか、と問う。そして、「マルクス主義の思想の中で意志論(幻想論)が欠落していることが根本的な理由であるように思える」と指摘し、その観点から「エンゲルスからレーニンにいたる」マルクス主義の革命論の欠陥を論じた上で、次のように続けている。

 よく知られているように、有名な階級意識の外部注入論がある。階級意識(意志)は、外部から注入される。注入する階級意識(共同意志)を形成するのは誰か。意志の実態をなす、諸個人の外部に存在する前衛という政治集団である。

 この政治集団は意志の表現であるという本質論をもたないため、先験的に設定される。別のいい方をすれば、超越的なものとして設定される。意志の所有者の外部に存在する。共同意志を階級意識とするなら、それは個々人の中にあるのではなく、先験的な前衛集団(党)の中にある。真理は教祖や宗教的な集団にあらかじめあるというのと同じである。マルクス主義の政治集団が必然のように宗派的(宗教的)になっていくのは、真理(階級意識)が実存する意識(意志)から超越した、先験的なものとしてあるからだ。これは外部注入論と不可欠な関係である。

 レーニン的な前衛論(マルクス主義) では、肉体としてたちあらわれてくる政治的行動者には、彼自身が政治意志の主体として評価される場所はない。それはこの政治的な行動者が大衆であっても、知識人であっても同じである。個的な意志という意志の実態として評価されることも、位置づけられる場所もないのである。

 「ひとり肉体としてたたかう無名の大衆」とは個的に政治意志を発現する存在である。その総和が共同意志をなすのであるから、これこそが本来的な存在である。政治集団の超越性は革命集団という先験性(ようするに思い込み)にしか根拠はないのである。なぜ、それが前衛という幻想を生むのか。知識人の思い込みに過ぎないのである。

 レーニン主義と呼ばれる伝統左翼の思想はなぜ、我が国の知識人たちをとらえ、そして深く呪縛してきたのであろうか。そこにはロシア革命や中国革命が与えた世界史的な影響がある。しかしそれ以上に、支配共同体と生活共同体の間の意志(言葉)と隔絶してあるほかなかったからだ。つまり知識人は大衆の生活的な共同体の外部にあり、国家に依存する存在だった。国家が国民の生活共同体に対して、超越的に存在してきたように、超越的だったのである。

 とりわけ政治的な知識人はそうだった。この国家の超越性が解体し、共同意志(幻想)が大衆の意志に転換していくところに近代の革命があった。共同意志(幻想)の超越的形態の転換こそが近代革命だった。

 国民国家の形成という、大衆の共同性が国家に登場し、専制権力を制限し、限定づける立憲主義(近代国家)も、我が国の場合にはこの溝を解体させなかった。むしろ、この溝を全体とし(袋のように)包み込むものとして、近代国家はできたのである。

(中略)

 政治的な共同性が反体制や左翼というイデオロギーをもち、その内部の構成員が、内部で観念的に〈階級移行〉を繰り返しても、国家に依存し、その枠組みから自由になれないのはここに根拠があった。政治集団や知識人が転向を繰り返すという我が国の政治的伝統は、ここに歴史的基盤をもっていたのである。



昭和の抵抗権行使運動(70)

『独立左翼論』を読む(6)


 第5回大会後、ブントは三派に分裂し、三つどもえの党内闘争を展開していくことになった。その三派の理論の違いについては今は立ち入らない。その帰趨についてだけまとめておく。

 大会後、東大細胞は組織体制の強化をはかり、9月26日に『革命の通達』を創刊した。このグループを「革通派」と呼んでいる。

 この「革通派」に反発して、「反東大連合フラク=労対グループ」が分派を形成していった。8月11日に初会合をもち、『戦旗』誌上で革通派批判を開始した。このグループを「戦旗派」と呼んでいる。

 上の2グループに対して、学連書記局細胞は中間主義的立場の分派を形成して、9月14日、『プロレタリア通信』復刊第一号を出す。このグループを「プロ通派」と呼んでいる。

 革通派は一時主導権を掌握するかに見えたが、池田内閣打倒ゼネストに失敗、さらに、10月8日の都学連第22回大会では、下部代議員多数派を獲得しながらも、執行部段階ではプロ通派に一票差で敗れ、大会は流会となって、大きく後退していった。とくに、池田内閣打倒闘争の敗北以後は方針と展望を全く失って実践的に破産し、61年に入って早々と解体した。

 革通派が破産した後、戦旗派も解体へ向かう。戦旗派は、共産同を全面的に否定し、その立場は革共同全国委員会と同じであった。戦旗派は革共同全国委のオルグを受け入れ、まず2月頃、革命的戦旗派が更に分派し革共同全国委への流れを作り出した。さらに3月7日、共産主義者同盟革命的戦旗派指導部名で、戦旗派の革共同全国委への合流が打ち出された。

 この頃、プロ通派も解散決議をし、多くが革共同全国委へ流れ込んでいった。戦旗派に続いてプロ通派も後追いしたことになる。

 戦旗派・プロ通派がなだれ込んでいった革共同全国委(黒田寛一)の体質について、「れんだいこ」さんは次のように言っている。

「ここで付言しておけば、黒寛と宮顕の論理には非常に共通したものがありますね。一言でいえば「排除の論理」です。言い回しが替えられておりますが、どちらも左派運動の発展には非常に有害な方向を指針させる同じ穴のムジナのように思います。この愛情の無さは、左派精神とは異質な白色系のものだと受け止めております。なぜ、このことを見抜けなかったのだろう。」

 さて、以上のような動向と革共同の思想について、三上さんは次のように論評している。

 革共同は古典的な革命像からブントや全学連の行動をプチブル急進主義やブランキズムとして批判しつつ、他方でそれがスターリン主義を暴露したところに意味を与えていた。これは一方で伝統的左翼の枠組みというか、思考形態に支配されつつあったことを意味する。他方でブントや全学連の大衆運動として実現したものをスターリン主義批判として意味づけようとしたのである。

 東大細胞の意見書はより急進的な方針を準備していたらというものであるから、革共同のブランキズム批判とは対極にあるようにみえるが、古典的な革命像という枠組みに思考が呪縛されているという意味では共通しているのである。それほど、フランス革命からロシア革命にいたる中で形成された革命の像や理念は強力な影響力があったのである。レーニン的な前衛党の指導という理念は特にそうだったのである。

 革共同とブント諸派の差異はブントが実現した大衆運動の意味を、スターリン主義批判に見いだすのとそれを無意識的にだがもっと大きな歴史的なものとみるかにあった。意識的にはその歴史的意味が分からなかったということで共通している。ただブントは自ら解体することで、自己の実現した大衆運動の意味の理解は既存の左翼理念では理解不可能であることを告知した。ブント諸派はブントの実現した大衆運動の歴史的意味を無意識のうちに評価していた。

 それを除けば意見書を出した東大細胞のグループもプロ通派も前衛党が主体であるという伝統左翼の思考の中にあった。前衛党が主体ではなく、大衆運動こそが主体であるという独立左翼的な発想はどこにもなかった。革共同や「戦旗」派の一部に見られるような、ブントの大衆運動はプチブル急進主義だという批判に対して、反発する部分の中にブントの実現した大衆運動の意味を守ろうとする部分が存在したに過ぎなかった。

(中略)

 僕は革共同の欺瞞的な態度には怒りを持っていたが、批判は難しかった。労働者階級に基盤を持つ前衛党の建設というのは左翼的な正論であったからだ。それは古典的な左翼論理だった。

 確かに、僕はロシア革命をイメージした革命像を歴史的真理とすることに疑念を持っており、こういう正論にも疑いを持っていたから、それにやすやすといかれることはなかった。ロシア革命以来、歴史的な真理として流布されてきた革命のイメージや像に疑念を持ち、それを自覚すれば革共同のような共産党の原理主義的な修正にやすやすといかれはしない。が、それに代わる革命の像やイメージは未知の領野にあり、その分だけ自己主張することは難しかったのである。

 安保闘争でのブントの闘争をプチブル急進主義やブランキズムとして批判しながら、それがスターリン主義の批判をやったところはいいということには胡散臭さと疑問を感じていた。僕らが安保闘争を通して実現しつつあるものは、ロシア革命の像やイメージとは別の革命(高度資本主義下での革命)という未知の世界を切り開いていくものであって、それをスターリン主義批判という狭い思想に矮小化してもらいたくなかった。



 「革共同の欺瞞的な態度」については、吉本隆明さんも次のように批判している。

「革共全国委が共同をブランキズムとし、市民主義の運動をプチブル運動として、頭のなかに馬糞のようにつめこんだマルクス・エンゲルス・レーニンの言葉の切れつばしを手前味噌にならべたてて、原則的に否定するとき、彼らは資本主義が安定した基盤をもち、労働者階級がたちあがる客観的基盤のない時期 ― いいかえれば前期段階における政治闘争の必然的な過程を理解していないのだ。プチブル急進主義と民主主義しか運動を主導できない段階が、ある意味では必然的過程として存在することを理解できないとき、その原則マルクス主義は、『マルクス主義』主義に転化し、まさに今日、日共がたどっている動脈硬化症状にまで落ちこまざるをえないのである。」(『擬制の終焉』)

 これを引用して、三上さんは言う。

 これは1960年のブントの実現した大衆運動を起源とする運動が論理を獲得したことを意味する。その端緒に立ったのである。かつてのブントや全学連の指導部にいた連中が、革共同に移行するか、いなくなるかの中で、僕らは中央的な政治集団なしで闘いを持続するしかなかった。前衛的な政治集団としてではなく、せいぜいのところ大学単位の左翼グループとして安保闘争後の歩みを始めるが、吉本さんがこのころ書かれた論文は強い援護の役割を果たした。



昭和の抵抗権行使運動(69)

『独立左翼論』を読む(5)


 島書記長は『「ブンド中央批判」をそのまま提示して大衆討議に委ねる』という方針でブント第5回大会に臨んだ。

 大会冒頭、東大本郷細胞が一枚のビラ(意見書)を配布した。その意見書の見出しには「くりかえされ深められた中央指導部の解体、革命的街頭デモの否定、問題をえぐりだすことによって同盟の官僚的固定化を防げ!」とあった。その意見書の要旨を、三上さんは次のように書きとめている。

 東大細胞の意見書は1960年の4月の4回大会でブント中央が情勢分析を誤らなければ「政治的危機を革命情勢」に転化できたというものであった。これは安保闘争で革命情勢が切り開かれるという展望の下で政治的準備(より本格的な武装闘争など)をすれば、6月15日で生み出した闘争の高揚を政権の打倒なりに転化できたというものであった。

 これは当時の活動家の願望をまとめた典型的な作文であった。ブントが革命党(前衛党)としての政治的準備をおこたらなければ6月15日の政治危機を有効に生かした闘争を6月18日の過程で実現できたとするものである。



 東大細胞は、引き続いて大会席上で独自の総括を展開し、本格的な党内闘争の口火を切った。また、大会では旧日共港地区委を中心にした南部地区委が、政治局批判を展開した。「5回大会以前の同盟政治局の一切の路線を全面的に否定する立場にたち、旧政治局を打倒することこそ同盟再建の鍵である」と強調した。

 結局、大会は第6回大会の開催を確認し、大会準備委員を選出しただけで二日間にわたる重苦しい討論の幕を閉じ、同盟政治局の解体、党内闘争へと突入することになった。

 東大細胞の意見書について、後に島さんは『ブンド私史』で次のように述べている。

「私は中央批判が続出することは予知し、ある意味では期待もしていたのだが、こともあろうに安保闘争の期間中どの段階でも状況とチグバグな日和見主義で足をひっぱり続けた東大細胞の連中が批判者の中心になったのには呆れはてた。しかもいうことには、あの6・18のクライマックスでブンドが何もなしえなかったのはブンド中央が4回大会で情勢分析を誤ったためで、そのために政治的危機を革命情勢に転化することができなかったというのだ。馬鹿も休み休みいえ! いつも肝腎の山場で大衆から浮いてしまうといって日和見、情勢を一歩一歩きりひらいていくブントの方針に反対し、最後の土壇場まで行動の一致を妨げていた奴が何をいうか、怒りは頭のてっぺんまで上がった。しかも、その尻馬に全学連の書記局が乗ったのだ」

 三上さんは、その意見書を「願望をまとめた典型的な作文」と書いているが、それを「作文」と呼ぶ所以を次のように論じ、そこに表明されている思想的誤謬(独立左翼的思想からの後退)を指摘している。

 僕がこれを作文というのは一活動家の目からみても、ブントは6月15日が精一杯であったと判断しえるからである。そして膨大に参加者の増えた6月18日に何かができたというのは錯覚である。

 島成郎は東大細胞の意見書の内容というより、意見書の提出者が重要な場面で日和見をくり返してきたことを怒っているが、そのことは島の誤りではないが限界を示していた。多分、島の怒りは空想的な作文など出しおって、ということであり、この怒りは正当だった。だが、お前らはそんなことをいう資格があるかという批判以上を出ず、それを空想的な作文として批判する明晰な論理を提起できなかったことは限界であった。

 島成郎と東大細胞の意見書として現れた対立は当時の活動家たちの二重の意識に根拠がある。つまりブントがともかく6月15日から6月18日までの闘争をやり抜いたという一種の達成感と6月18日に何もできなかったという敗北感である。

 敗北感を願望にして提出したのが東大意見書であるとすれば、島の批判のなかには安保闘争や4月以降の闘いでは相対的には自分が一番正しい路線を提出してきたということがある。これは達成感を代表するものといってよかった。ブントはこの二つの見解が対立する中で解体していくが、これは誰も、戦後史の中で安保闘争の意味を析出するだけの思想的力を持っていなかったことを意味する。特に全学連の主流派が展開した大衆的な運動の歴史的意味を明らかにする思想がなかったのである。この矛盾的な意識そのものを歴史的な意識として対象化するだけの思想がなかったのである。

 安保闘争の中で誰もが感じていたのはどんなに激しい闘争を展開しても結局のところ、政策阻止や政権担当者の交替くらいをできることが精一杯であるということであった。その闘争はどんなに激しく展開しても、権力奪取や権力の獲得などという事態には程遠いものであった。僕らは何物かにせつかれでもするように急進的な行動を展開したが、それを権力奪取などの革命闘争というには醒めさせられていた。デモの中で「ああ革命は近づけり」という歌などは歌ったにしても、そういう意識にはとうていなれなかったのである。

 僕らの行動が「革命」というイメージや理念に直結するという意味では、それはあらかじめ不可能が予測されたのであり、敗北ははじめから分かっていたことのように思う。僕は大学一年生であり、さして左翼運動のことも革命運動のことも知っているわけではなかった。けれども、そういうことは何となく理解していたのである。(中略)僕らが素手とスクラムで国会構内に突入するということと武器をも持つ本格的な闘争とには大きな壁のあることは何となく分かっていたのである。

(中略)

 ブントは伝統的な前衛党として、つまり主体として大衆運動を指導したのでなく、ブントは必要な政治的機能を果たしたに過ぎなかった。日本の政治運動の中で、前衛党が主体ではなく、大衆が主体として立ち現れてくるという運動を初めて実現したのである。そこにブントの意味はあった。これはブントが意識的に実現したというよりは、無意識のうちに実現したものである。

 なるほど、ブントも日本共産党などのような組織形式をとり、政治的役割を演じようとした。だが、ブントは大衆主体の運動に依拠せざるをえなかった。そして、そのことにおいて新しい大衆運動の様式を生み出したのである。1960年の6月15日はその実現であり、そこに僕らの希望はあった。僕はこれをブントが生み出した独立左翼の大衆運動というのだが、それは伝統左翼とちがって運動の主体が大衆にあるということである。

 多分、島成郎が安保闘争において、4月以降の闘争において自分が相対的に最も正しかったというとき、彼は直観的にブントの実現したものを理解していたのである。

 それならば東大細胞の意見書とは何だったのか。それは6月15日が安保闘争の限界であることを知りつつ、6月18日に何かをやりたかつたというブント同盟員の願望を現していたことは間違いないとしても、彼らは無意識のうちに伝統左翼の大衆運動観に戻っていた。それは主体は党(前衛党)であり、そこが何か方針を出せば何とかなったという考えである。急進的な方針を考えているということにおいて、日本共産党とは違うがその思考形態は同じだったのである。

 ブントと共産党との差異は急進的な運動を展開したか、いなかにあったのではない。それは歴史的な無意識によつたにせよ、構造として異なる大衆運動を実現したことに存在した。東大細胞の意見書にはこの構造の理解が欠落していたのである。



昭和の抵抗権行使運動(68)

『独立左翼論』を読む(4)


『畜生、畜生、このエネルギーが!このエネルギーが、どうにも出来ない!ブントも駄目だ!』

 この生田浩二さんの叫びは、6月15日から6月18日までの闘争をやり抜いたという一種の達成感と、クライマックスの6月18日に何もできなかったという敗北感とのないまぜられた感情の噴出だったろう。この「達成感」と「敗北感」は、60年安保を真摯に闘った人たちの共有するものであったようだ。

 この間題の背景には1960年の安保闘争で全学連主流派やブントは6月15日から6月18日のクライマックスに至る過程で何もできなかったということがある。

 確かに、6月15日は安保の最後の局面で停滞気味の流れを逆流させる最後の闘争であった。国会構内占拠を目指す闘争は極限的な形で展開された。この闘いは自然承認を目前にした安保闘争を盛りあげた。

 僕のいた中央大学では自然発生的にストライキが成立し、数千の学生が国会に向かった。いつもはバスや電車で国会周辺に駆けつけていたデモ隊は当時神田駿河台にあった大学から、延々として隊列となって国会に向かっていた。

 もはや全学連の主流派と反主流派という対立は姿を消していた。つまり、全学連の主流派に飲み込まれていたのである。逆にいえば、全学連主流派は膨大なデモの波に飲まれていったといえるのかもしれない。それほど6月15日の闘争の影響は大きかった。

 6月18日には何十万という人々が国会を取り巻いたが、国会の周辺で座り込みをしつつ夜を明かすしかなかった。

 これは一体勝利なのか。あるいは敗北なのか。なんともいえない空しさが残った。6月15日の国会構内占拠という抗議行動が何十万という人々を国会に引き寄せたとするなら、それは勝利とよんでもよかった。しかし、6月18日に国会周辺で徹夜の座り込みをする以外になすすべもなく、安保条約の自然承認を見送るほかなかつたとすれば、これは敗北というほかなかった。敗北といわなければどうしようもない空虚感が残ったことも事実であった。

 このとき僕らには安保闘争を全力でやりきり、とにかく6月15日から6月18日までのクライマックスを構築したという満足感と6月18日に何もできなかったという敗北感があった。これはとても矛盾した意識と呼ぶほかなかったのであるが、この内在的な意識に届くような安保闘争の総括は難しかったのである。

 島成郎がいみじくも告白しているように、ブントの総括をし、次の方向を描くことができなかったのは、この安保闘争の矛盾的意識を正確に析出することの難しさを暗示していた。



 1960年7月に開かれた5回大会でブントは解体する。その5回大会を島書記長はどのように迎えようとしていたのだろうか。

「闘争終了直後、まだ興奮さめやらぬ七月の初め開かれた全学連大会で挨拶にたった私は、3月大会でのような確信に満ちた言葉を叫ぶことはできなか った。リベラシオン社には直接ブンド加入を申し込みに訪れるものも後を断たず、労働者や学生の中で一挙に党勢を拡大する絶好のチャンスであったが、私はブンドをこの後どのようにするのか鮮明な画像が浮かばず昏迷のなかにいた。しかし、書記長としてこの闘いを締め括りながら次を模索するために、ブンド大会を準備しなければならなかった。4回大会以降の総括の文章を書くために私は箱根の旅館に数日間閉じこもったが、混乱の度は強くなる一方であった。『ブンド中央がいかに一貫して革命的方針を堅持し闘いを指導したか』などと作文する気はさらさらなれなかった。迷いに迷った挙げ句『ブンド中央批判』をそのまま提示して大衆討議に委ねる以外にはないと思い、4月以来の動揺したブンドの実情をありのままに描き、『戦旗』紙上に発表した。ブンド中央とは私自身である」(『ブンド私史』島成郎)

 安保闘争をどのように総括し、評価してよいのか見当がつかなかったのである。

 「4月以来の動揺したブンドの実情」とはどんなことだったのか。三上さんは「ブンドの安保闘争の方針が一致したものではなくさまざまの動揺を含んだものであったことは僕らでさえ目撃できた。」と、次のような例を書きとめている。

 例えば、1960年の4月26日のデモでは東大教養学部の部隊は装甲車の前でユータンしていた。僕にはこれが何を意味するのかわからなかったが、奇妙な行動であったことは疑いない。その印象は記憶に残っている。



 こうした中で、ブンドの5回大会が開かれる。

昭和の抵抗権行使運動(67)

『独立左翼論』を読む(3)


 ブントが内包していた矛盾は、独立左翼的な思想と新左翼的な思想との混融であった。その矛盾が、その後、新左翼的な思想の侵食と言う形で、大きな矛盾となって発現していった。

 三上さんは「新左翼」と「独立左翼」をはっきり区別して使っている。その違いは論を進めるに従って、より鮮明になっていくと思われるが、差し当たって三上さんは「新左翼的なもの」を「旧左翼(マルクス主義)に対する左翼反対派的なもの」であり、「マルクス主義の枠を守りながらそのルネサンスをめざすものもここに入る」と述べている。

 三上さんは自らが行ってきた思想的営為の中心課題について、次のように述べている。

 僕は新左翼的なものから分離した形で独立左翼的なものを思想的に析出しようとしてきた。安保闘争やブントの存在に戻りつつその作業を行なってきたが、そこにはさまざまの困難が存在した。

 その中心問題は国家、あるいは国家権力についての考えであった。

 その作業は時代の行動的ラディカリズムを暴力革命の概念と分離して思想的に析出できるかどうかというところに行き着いた。国家も国家権力も過渡的な存在だが、それとどう関係すればいいのかというとき、この間題は現在の問題に連なる。テロリズムである。

 現在のテロリズムを否定する道は、暴力革命の概念の、その根底をなす権力概念の否定としてのみ可能である。



 さて、三上さんは論述の発端として、60安保闘争を中心で担っていた二人の人の、闘争について述べたとされる言葉を取り上げている。

 一つは、60年安保闘争での理論的指導者であった姫岡玲治(青木昌彦)の「あの闘争が何であったかよくわからなかった」という述懐である。三上さんはこの言葉を「記憶」の中から取り出しているが、調べてみたら、この言葉は島成郎への追悼文の中にあった。

「あの(安保闘争の)写真集をみていると、やはり安保闘争は20世紀の日本の歴史の中でも希有な出来事だったのだ、と実感されました。だが、安保闘争が、歴史の中でどういう意味をもっていたのかということになると今もって僕にはよくわからないところがあります。」

 二つ目は、島成郎とともにブントの組織的な指導者であった生田浩二が語ったとされる「ブントもだめだった」という言葉である。三上さんは「伝説的な言葉」と言っているが、この言葉は、安保条約が自然成立した時(1960年6月18日)のデモの様子を描写した島成郎の文章(「生田夫妻追悼記念文集」)の中にあった。

「日米新安保条約自然承認の時が刻一刻と近づいていたあの夜、私は国会を取り巻いた数万の学生.市民とともに首相官邸の前にいた。ジグザグ行進で官邸の周囲を走るデモ隊を前に、そしてまた動かずにただ座っている学生の間で、私は、どうすることも出来ずに、空っぽの胃から絞り出すようにヘドを刷いてずくまっていた。その時、その横で、『共産主義者同盟』の旗の近くにいた生田が、怒ったような顔つきで、腕を振り回しながら『畜生、畜生、このエネルギーが!このエネルギーが、どうにも出来ない!ブントも駄目だ!』と誰にいうでもなく、吐き出すように叫んでいた。この怒りとも自嘲ともいえぬつぶやきを口にした生田・・・」

 僕はブントという安保闘争を指導した組織の中心にあった彼らの言葉に注目したいと思う。

 安保闘争が何であったかよくわからないということと、ブントもだめだったというのは同じではないが、それは安保闘争としてあった全学連主流派の闘争を内在的に理解していないということ、それを誤読していたこととしてある。これはブントが五回大会で安保闘争の総括をめぐって崩壊して行く要因になった。

 この安保闘争の理解はそれを乗り越えることを目標としたその後の闘争にも重大な影響を与えた。安保闘争やブントの存在の正確な理解の基盤のないところで、乗り越えを目標としてもそれ自身がおかしな道にふみこむことは当然のこととしてある。

 赤軍派や蜂起戦争派という1969年以降の運動はかつてのブントを乗り越えようとしたのだが、これが赤色テロリズムにしかならなかったのは60年安保闘争の正確な理解を欠如させたうえで目標を設定したからである。

 生田浩二の伝説的な言葉は、島成郎が「三千人の抜刀隊がいれば」と語つたとされるもう一つの伝説と重なりあうのであるが、それは1960年の安保闘争に対する願望も含めた誤読からきていたと思えてならない。



 「三千人の抜刀隊がいれば」という言葉の出所は、ブントの第4回大会での島成郎の演説だろうか。その演説では、「3千名蜂起説」、「安保をつぶすか、ブントがつぶれるか」、「虎は死んで皮を残す、ブントは死んで名を残す」等の言葉が発せられたと伝えられている。

 結論的に言えば、6月15日に国会構内に突入し、占拠した段階から6月18日闘争の過程でより急進的な蜂起(武装闘争)がイメージされていて、そこから見れば何もできなかったということである。それならば、6月15日までの急進闘争が、こういう武装闘争と接続(連続)する質をもっていたか、ということがある。

 島はどこかで、「何を目標に闘つたか」と質問されて、あの闘争は革命とはむすびつかないと思っていた(醒めていた)」と述べている。この認識は当時の活動家が直観的に理解していたことでもあった。ここから島はこれはフランス革命やロシア革命のような武装革命(蜂起)とは別(接続しない、連続しない)の思想的系譜に属する運動であり、別の意味での革命性を提起しているという理解にいたらなかったのだろうか。

 僕らは言葉(制度的言葉)はなかったけれどそういう直観(内的言葉)はあった。ここから6月15日への急進的行動を、ロシア革命などの歴史的な革命概念とは系譜を異にする革命的なものとして析出できていれば、全共闘運動やゲバ棒闘争も違った評価や認識が与えられたのだろうと思う。



昭和の抵抗権行使運動(66)

『独立左翼論』を読む(2)


 60年安保闘争を「壮大なゼロ」と揶揄する言説がある。一方、「戦後左派運動の金の卵」と、ブントが体現した思想・行動の可能性を称揚する言説もある。もちろん私(たち)は後者の立場を採る。

 ブントが解体した後、ブントを後継する立ち位置にあった全学連主流派は、60年安保闘争の総括をめぐって求心力を失い、分裂していった。その原因は、運動を根底で支えていた理論の未成熟に求められるだろう。

「それは・・・行動を急進主義的に為しえたとしてもそれを支える理論が貧困であれば、真に情況を切り開くことにはならないことを物語っている。但し、理論化は断じて思弁化では無い。時の無産階級に自信と励みと自覚を与え、更なる高次的運動へ導くようなものとして生み出されねばならない。」(れんだいこ「第一次ブント論」)

 後継者たちは、ブントの更なるブント化を目指すべきであった。つまり、ブントの独立左翼的萌芽を析出し、発展させる理論的営為こそが必要とされていた。私は、そうした営為の一つの成果として、『独立左翼論』を読んでいる。

 それでは、ブントが体現した独立左翼的萌芽とはなんだったのだろうか。第4回『「独立左翼」とは何か』で検討したことと重複するが、改めて、『独立左翼論7』から引用しておこう。

 僕は独立左翼の起源的位置をもつと目しているブントや全学連が表現しようとしたことは二つあつた。あれから既に40年が過ぎているが、それはまだ色あせてはいないと思える。

 その一つは現在の世界を代表する普遍としての《「社会主義」と「自由主義」》の二つに異議を立てたことである。

 第二次世界大戦を対ファシズム戦争として勝利した「社会主義」と「自由主義」は、世界の普遍性をめぐって争っていた。そして、敗戦国日本ではどちらの側を選択するかにしか、世界の未来の思想はないと信じられていた。そのどちらにも異議を唱えたブントは、この世界的な思想の枠組みをはじめて否定した。それは今でこそ常識になっていることでも、当時は狂気の沙汰のように思われていた。

 今やその「社会主義」は消え失せ、対抗的力であったアメリカ主導の「自由主義」が勝利したように見える。しかし、「自由主義」(アメリカのリベラルデモクラシー)は一人勝ちの背後で、多くの異議申し立てに囲まれている。リベラルデモクラシーの陣営にあるフランスやドイツからのアメリカへの異議申し立てすら登場している。かつて米ソの冷戦構造後の世界がどうなるのかは未知の領域に属していたように、アメリカの一人勝ち後の世界も未知ではある。だが、アメリカの一人勝ちの状況が永続的に続くと信じる連中を除けば、世界はその思想的な枠組みの変化に直面する。

 かつてブントが提起した戦後に支配的だった世界観や世界像への異議申し立ては大きな課題として出てくると思える。リベラルデモクラシーが過渡的には普遍性を代表するだろうが、それへの異議申し立てを通して世界観や歴史観を書き換えていく動きが大きく出てくると思う。

 日米同盟と言いながらアメリカの思想的枠に呪縛されてきた日本が、アジアを対象にして新しい関係を考えなければならなくなれば、このことは大きな課題として浮上するだろう。冷戦下の思考から自由になり得ていない矛盾が出てくるとき、ブントの提起したものはよみがえる、と思う。



 この文章は数年前に書かれたものだが、まさに今、大規模な金融破綻をきっかけに、アメリカの一極支配は終わりを告げようとしている。そして日本は、アメリカの属国状態から脱却して、「アジアを対象にして新しい関係を考えなければならな」い課題に直面している。しかし、日本の政治家・官僚たちは、そうした歴史的兆候に全く鈍感のようだ。

 ブントが提起したもう一つの問題は運動を運動として展開するということであった。それは運動の自立性を提起したのである。やさしく言えば「何かに利用するための運動」を否定したということである。

 党勢を拡大すること、組織強化のために運動を利用することを否定した。党勢の拡大が前衛組織を含む政党の強化のためであれ、選挙のためであれ、そこに目的があるという考えを拒否したのだ。

 これは単純なことに見えるかもしれないが、その後の政治的なものの思考に重要な影響を与えたのである。

(中略)

 構成されたもの、即ち制度的言葉に根拠を置き、構成する力への視線や理解を欠く傾向を《官僚主義》とよぶ。それが支配的なものとして閉じられていく傾向を官僚的という。左翼運動もまたこの官僚主義と呼ばれる日本的な病に侵されてきた。

 ブントは運動の自立性ということで構成する力の復権を提起したのである。この運動についてブントの提起したものは現在でも、政治的思考として生きているし、いろいろの領域での官僚主義との闘いの経験的な基盤になっている。組織至上主義と官僚主義が日本的停滞の根拠となっているとき、この運動の自立という思考はそれを打ち破る可能性として生きている。



 60安保闘争を起源にした独立左翼的運動は、1970年代の半ばころまでは、全共闘運動などとして継承されてきた。しかし今、そのような運動や闘争はほとんどどこにも存在しないように思える。60安保闘争が「壮大なゼロ」と呼ばれるゆえんである。

 けれども、政治的思考様式や政治的なものについての意識としては、その影響は強くあると考えられる。政治的な表出の意識、共同的な意志の基盤としてそれは広く存在している。例えば、選挙における無党派層の存在や動きはその影響を考慮しなければ理解できないものだ。彼らの行動様式はその影響を有形無形のうちにこうむつている。

 それらは、今は政治的な表現の契機を欠いているから、現象的には雲散霧消のようになっているだけで、何らかの契機があれば大きく出てくると思える。


 1960年代から1970年代の抵抗権行使行動を振り返ることには大きな意義がある。

 抵抗権行使行動のさしあたっての目標は 「国家を開く」 ことにあるだろう。そして「国家や権力を開くというとき、その対象が重層的であれば、こちらの戦略も重層的でなければならないということ」が、過去の運動や闘争を総括することのよって明らかになるだろうし、その方法は「包括的な政治戦略を可能にするはずである。」

昭和の抵抗権行使運動(65)

『独立左翼論』を読む(1)


 まず、『独立左翼論』の著者・三上治(みかみおさむ)さんの経歴を概観してく。三上さんは60年安保闘争に参加してから1975年まで、政治活動を続けられていた。従って、その経歴を概観することは、60年~75年間の独立左翼の動向の一側面を知ることにもなるだろう。

 1959年の国会構内突入闘争の時、三上さんは郷里(三重県)にあって、高校三年生であった。全学連の国会構内突入のニュースを知った時のことを、三上さんは次のように振り返っている。 (例によって、読みやすくするための段落を設けている。)

 この行動に対して、神聖な国会を汚すものであり、民主主義を冒涜する行為だという非難の声が自民党やマスコミから浴びせられた。

 当時、高校三年生であった僕はこの事件からすごい衝撃を受けた。当初は新聞などの報道のままに、この行為を非民主的な行為と思っていた。何と無茶なことをするのだろうという素朴な反応である。

 高校生同士でこの事件について話合いをしたり、『朝日ジャーナル』などを読んだりしたりしているうちに僕のこの素朴な反応は変わっていった。いつの間にか、この行為を支持するようになって行ったのである。

 一緒に構内に入った、共産党や社会党は、世論の批判を恐れて、詫びを入れる状態になっていたが、全学連だけは袋だたきに合いながら頑張っていた。

 この事件の余波で、東大生の二人が駒場に籠城するという事件があったが、全学連は孤立しながら頑張っていた。僕は心情的に全学連のシンパに変わって行ったのである。

 もちろん、全学連がどんな主張を持ち、それを背後で指導していた共産主義者同盟(ブント)がどんな見解を有していたのかなどは知るよしもなかった。僕は一種の半官びいきで全学連を支持していた。だから、東京へ行って、学生運動をやるなら全学連の方に加わるとこころでは決めていたのである。



 翌年(1960年)、中央大学に入学した三上さんは、すぐに安保闘争に加わり、そのまま学生運動の活動家になっていった。

1962年
 再建された社会主義学生同盟の全国委員長になる。

1966年
 中央大学中退。
 第二次ブントに加わり、全共闘運動やベトナム反戦闘争にも加わる。

1969年
 ブント内部の党派闘争で統一派として赤軍派と対立する。
 4月28日の沖縄闘争で指名手配され、潜行しつつ活動していたが、9月に逮捕される。

1970年
 一旦保釈されるが、保釈取り消しで東京拘置所に。この間、共産主義者同盟叛旗派をつくり、最高指導者となる。

1975年、叛旗派を辞め、政治的実践活動から退く。
 以後、執筆活動に専念する。

 政治活動から身を引いていった背景を、三上さんは次のように述べている。(『1970年代論』の前書きから)

 1969年に始まったやがて赤軍派の結成に至る部分との政治集団(共産主義者同盟)内部の党派闘争はさまざまの問題を提起していた。それらはまだ思想的には整理された形では析出されてはいない。

 僕はこの党派闘争の中から発生した赤軍派やそれに続く蜂起戦争派を1960年闘争を通して出てきた独立左翼的な思想と運動とは系譜を異にするものと位置づけた。この党派対立の根底には第一次ブントが内包していた初源の理想(左翼的理想)を維持するかどうかの思想的生命がかけられていたからだ。

 それは急進的な戦術という次元を超えたものだった。この点について特に暴力の問題を中心に僕の考えを展開した。これは現在の「テロリズム」の評価に連続していると思っている。僕にとって切実だったのは独立左翼的な初源の理想を保持するか、それを踏みにじっていくかだったが、その思いは今も変わらないで僕の中ではある。

 僕が保持したかったのは組織でも党派でもなく第一次ブントがちらりと示してみせた初源の理想だけだったからだ。理想を失った左翼や反権力思想には何の意味もない。



 三上さんが政治活動から身を引いていった背景にある最大の問題は「暴力の問題」だった。その問題について、もう一文、引用しておこう。(「宮崎学の叛乱者グラフィティ」から)

― 三上さんが叛旗派を解散することになった背景には何があったのか。

 闘争がだんだん、爆弾とかにエスカレートするでしょう。そうすると途端に大衆的支持を失う。そしてますます闘争手段は過激化する。そういう悪循環に入っていて、そこからもう抜け出せないと判断したからでしょう。その第一歩が赤軍派の発生でした。

― そういう認識があって、三上は全力をあげて中央大学の若い活動家たちを説得する。彼らは泣きながら「赤軍に行かせてくれ」と言い続けたが、三上は「絶対にだめだ」と説得するのだ。

 中大というのは戦闘的なグルーブでした。右派と言われるのは屈辱で、死んでもいいから左派と言われたいと思っていた。だから、「左派と言われなくてもいいではないか、それは後でわかることだから」と、ともかくも説得したのです。

―その状況を具体的にはどんなふうに分析していますか。

 67年から70年のゲバルトの意味というのは、俗にいう革命暴力ではないのです。異議申し立てという政治的意思の表現なんです。その新しさだったのです。だから、政治的意思を行動として表現する人が、自分でわかっていればいいです。体を張って見える形でやっている限りはよかったんです。自己で行動に対して責任を負う形だからです。

 それは、警備を強化してくるのに対して、その壁を突破するという対抗策であって、一種の自衛的な要素もあるわけだから、運動の境界線も見えてくる。だけど、これが爆弾とかテロリズムになったり、人を盾に取ったりした途端に大衆的な支持を失う。さらに、匿名の形になると腐敗する。行動は無責任になるんです。そこから退廃していきます。だからそれはだめと思っていました。

 だから、僕らは基本的には爆弾闘争はやらない、せいぜい言えば竹竿以上のものは持たないようにしよう、右派と言われてもいいんだ、このあたりが現実的な運動の境界なんだ、という考えがありましたね。



 さて、『独立左翼論』は「吉本隆明が語る戦後55年」(1巻~12巻)に断続的に連載されたもので、全部で7回の連載である。パラパラと眺めただけで、実はまだチャンと読んでいない。適切な判断かどうか、はなはだ頼りないのだが、60年安保闘争の総括という意味では最後の「7」が適切なようだ。それから読み始めることにする。

昭和の抵抗権行使運動(64)

「死者の視野にあるもの」(5)


〈暴力学生〉
 この無規定な罵言
 2年前(1968年・・・管理人注)、日大、東大に端を発した学園闘争のさなかに、従来の教師と学生といった取り澄ました関係においてではなく、人間として私は多くの若い人々と接触し、互いの存在をぶっつけ合う関係をもつたが、そのうちから得た実感の一つは、多くの樺美智子、多くの奥浩平、多くの山崎博昭が何処にもいるということだった。

 〈暴力学生〉なる汚名にもかかわらず、また確かに孤立しており悩んでおり、ある場合は打ちのめされて意気銷沈していても、その人たちは、誇張ではなく日本の最良の息子たちなのだと思う。

 マス・メディアがどんなに事実を歪曲しようと、事実を知っている人は知っており、〈専門バカ〉と罵られた教授たちのうちにすら、たとえば卒論を例にとれば、全共闘、ノンセクト・ラディカルスの人々のそれが、秀れた問題意識、みずみずしい感受性、豊かな 可能性をはらんでいることを、認めざるをえなかったのである。

〈暴力学生〉の汚名のゆえに遣家族のなかには息子のことに触れられたがらない場合があることを伝記の執筆者は伝えている。たとえば和井田史朗の伝を担当した穂坂久仁雄は死者の死因を明快に判断するデータのすでに失われたことを歎きつつ、「そつとしておいてほしい」という和井田家の意向と、学生側の真相追及の不熱心さが、この事件を闇から闇へと葬り去ったようである」としるしている。

 〈暴力学生〉という無規定な罵言が、あたかも戦争中の〈非国民〉という言葉のような作用をもち、社会から家族をも疎外するに至っている。庶民は常にそのように悲しく隠忍し、最も甚だしい被害、理不尽な被害を受けたものが、かえってすみませんとあやまるのである。

 かつて一教師だった者として、そうではないのだ、あなたの息子はまつとうだったのだ、と伝えたい気持を抑え得ないが、しかし為すべきことは、最大の被害者がかえって謝罪してしまう精神構造を、その根底から思想的に顚倒することであるかもしれない。



死者の眼の中の残像は・・・
 くだくだしい解説は、これ以上必要ないが、ただもう一つ、注意をうながしておくべきことがある。それは、この10人の伝記のうち、その死が現在に近い人ほど、日記やメモの中に、死についての省察の占める比重が大きくなり、デモへの参加が謂わば決死の覚悟のもとになされるようになっている事実である。

 69年9月、京大闘争に参加し、大学近くの街路に幻想の砦を築こうとする闘争のさなか、火焔瓶の焔をあびて死んだ関大生津本忠雄は、そのノートの中に、こうしるしている。
「私には許されない、最後に人知れずほほえむことを

〈私はどこで死ぬのだろうか?〉
どこで……
病院のベット
道路の上
戦場のザンゴウの中……
私は恐ろしい死が、死のもたらすものが

〈私は自分の道を行く〉 私は……」



 こうした、後になってみれば自己の運命を予見したような死にまつわる想念の述懐は、青年らしい思念の極限化や、個人的な感受性の繊細さにのみ帰せられるべきものではない。本当に、一つの労学蹶起集会、一つの反戦デモに参加することすらが、その参加者に決死の覚悟を要請するような状態になっているのであり、また覚悟しての参加者でなくとも、1968年4月、王子の米軍の野戦病院設置反対闘争の際にまきこまれて死んだ榎本重之の場合が象徴するように、傍観者すらが容赦なく殺されているのである。

 言うまでもなくデモは表現の自由のうちに属する基本的権利の一つであるが、それが徹底的に規制され、機動隊にサンドウィッチのように挟まれてしかなしえない現実は、一見放任されているように見える他の表現、たとえば文章表現においても、やがて同じ運命がおとずれるだろうことを物語っている。

 いつの時代にも既成事実を巧みに理論づけ、いつの世にも権力に媚びて自己を権威づける道化師はいるものだが、そういう表現の横行を、言論の自由と称するのであるか。そうした大人は、いま、経済の成長を謳歌し、消費欲の充足を讃美している。しかし、他者の自由の抑圧を見すごすことは、ただちに自己の自由の制限につらなることをやがて思い知るであろう。

 榎本重之の場合だけではなく、べ平連が主催した幾度かの新宿集会においても、通行人であって機動隊の規制で負傷させられ不当逮捕された人が少なからず出ている。そのうちの幾つかの事件は裁判にもちこまれて争われており、「私はデモとは無関係であったのに……」という形の弁護弁論が行なわれているようだが、そうした主張の仕方は間違っている。なぜならデモの中にいたら、機動隊に負傷させられてもいいというわけではないからである。

 また、その人が殴られた理由は、その人の行動の如何にかかわらず、その人がまさしく群衆の一員だったからであり、国会周辺にせよ、都市のターミナルにせよ、群衆の結集自体が一つの抗議として権力者に嫌悪されるのであってみれば、具体的に負傷するか否かは、たまたま機動隊員の目についたか否かによってきまるにすぎないのである。

 路傍に打ちすてられ絶命していった人々の眼球には、いまは、機動隊員の靴底が、決して消えることのない怨みとともに刻印されているが、このままうちすごされれば、やがては、次々と斃れる犠牲者の最後の視野の中に、にんまりと笑い、邪悪な瞳を光らせている共犯者の顔、―そう、あなたの顔が映ることにならないとは限らないのである。

 かつて魯迅が言った「いま住んでいる場所が人間の世でないことを感ずる」というその非人問の世界とは、そういう世界のことを言うのだと私は思う。




地の中に眼がある
拒むこと以外に 死を
死に続けるすべをもたない移しい屍体の。
腐蝕し土と化した肢体の痛みを
一点に凝縮して腐蝕を拒み
あらゆるモニュメントを拒み
歴史へのいかなる記載をも拒み
数であることを拒み
大きく見ひらかれたまま
閉じることを拒み
無駄死を強い続ける卑小な生者のための
奈落への心やさしい道づくり。
数千年の眼孔の堆積は巨大な穴となり
ふるさとの墳墓
あるいは忿怒は増殖する。

〈ふるさともとめて 花一匁〉


昭和の抵抗権行使運動(63)

「死者の視野にあるもの」(4)


日本の最良の子どもたち
 樺美智子から中村克己にまでいたる、反戦運動やその派生的運動における犠牲者たちの、10年におよぶ死の経緯は、このように、限りもなく堕落しつづける日本の精神の暗黒を啓示している。

しかも、はじめは人々に悼まれた死は、10年の経過のうちに、いつしか、そっぽむかれ、無視され、忘却され、ついには、その死すらはじめからなかったものとされるようになってしまっている。

 魯迅は民国15年、段棋瑞政府の軟弱外交に抗議するデモ隊が銃撃され、彼の教え児を含む学生たちが殺された時、「わたしはただ、いま住んでいる場所が人間の世でないことを感じるだけだ」と書いた。手痛い錯誤を25年前に悔悟したはずの私たちもまた、現在同じ歎きを歎かねばならないのだろうか。

 共同執筆によってなるこの書物(『明日への葬列』)にしるされている反戦運動の途上の死者たちを、魯迅が哀誄(あいるい・・下の注参照)した劉和珍や柔石を直接知っていたようには、私は直接知りあっていたわけではない。またすべての場合に、同じ思想上の戦列に属していたわけでもない。

 ある人がおそらく叫び声すらあげえずその最後の視覚に機動隊の泥靴をとらえている時、私は古都の会議室で真摯なものではあったろうが、恵まれた文学の共同研究に耽っており、またある人の絶命の瞬間、顔をあわせればあるいは友人にはなれたかもしれぬ志向の近接性はありながらも私は病み呆けて病床に横たわっていた。

 直接知りあっていたわけでもなく、また中国の哭人のように、死とその儀式を彩るつもりもない。しかしながら、たとえいささかは汚濁しようとも、価値も反価値も、存在と、存在を前提とするなんらかの労作からしか生み出されないことを知っている者として、これら道半ばに斃れた人々の無念さを思わずにはいられない。

 これらの人々は、ある評者が既に言ったように、「日本の最良の息子」たちであり、最良の娘たちであり、最良の隣人であると私も思う。それは、特別にこの人たちが、ぬきんでて意思強固であり、秀才であり、烈士であるという意味ではない。

 簡単ながらも要を得ている伝記によって知れるように、この人たちは、それぞれの場で実に真摯に自己を追究した人たちであり、正当な意見とともに、自分の弱点やためらいをも決して隠さなかった素直な人たちだった。



(管理人注:この言葉には初めてであった。『広辞苑』はじめ最近出版のどの辞書でも見つけられなかった。最近あまり使っていない古い漢和辞典『新修漢和大字典(博友社 1955年第5版)』も調べたら、あった。「死者を悲しみ嘆いて、生前の功績をほめる文章」の意)


所美都子さん、
奥浩平さん、
和井田史朗さんの死
 東大の新聞研究所の研究生であり、学業と新たな反戦運動に60年安保の挫折感を克服しようとしながら過労でたおれた所美都子は、もともと自然科学を学んでいたのに何故方向を転じたのかと問われると、
「あと何年生きられるかわからないとしたら、あなたでも、やっぱり人間性そのものを追究する学問をやりたいと思うでしよう」
と言っていたという。

 あるいはまた、65年2月17日、椎名外相の訪韓阻止闘争で、機動隊の警棒に鼻硬骨をくだかれ、退院後服毒自殺した横浜市大生奥浩平は、その日記の一節に次のように書いている。
「ぼくは一人のばかばかしい人間だ。病床の中でねむれない夜に向かって叫ぶ言葉もなく、涙でなぐさめ、いつしかとろとろまどろんでゆく何者でもない人間だ。体制か反体制か、そんなことはおれにはどういっていいかもわからないし、ぼくに幸福と不安を与えていった女の人をどう評価していいのかもわからないありさまだ」と。

 彼が自殺した時、一本のカーネーションを握りしめていたというが、彼の父はその花が好きで、常に息子に向かって
「オレより先に死なないことが親孝行だ。死んだら棺にカーネーションで一杯にしてくれ」
と言いきかせていたのだったという。

 また66年6月22日、日韓条約反対闘争で逮捕されて負傷し、その後、その負傷が契機になって骨肉腫が発生、右足を切断、翌年に死亡した日大生和井田史朗は、その死の年、友人にあてた年賀状に、「天に星。地に花。人に愛」と武者小路実篤の文章を引用し、つづけて「タヨルノデハナク、タヨラレルべキハ母」と書いていたという。

 これ以上の拙い引用は蛇足にすぎず、読者には本文を読んでいただくとして、しかし、この僅かな会話や文章を通じてすら、死者たちがいかに謙虚であり自分自身に誠実であったかが推測できる。

 天才や偉人、闘士や烈女であったからではなく、まっとうな一個の人間であり、かつあろうとしていたからこそ、この人々は惜しまれる。また、まっとうな人々を圧殺するものであるゆえにこそ、直接、間接の圧殺者たちは糾弾しつづけられねばならない。



昭和の抵抗権行使運動(62)

「死者の視野にあるもの」(3)


山崎博昭さんの死
 死は本来、死因の如何にかかわらず、悲しまれるべき性質をもつゆえに、死の日常化は、いつしか死の平均化を生み、やがてその圧倒的な量による反応麻痺が結果する。

 1967年、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止闘争で山崎博昭が羽田の弁天橋で殺された時、その麻痺はすでに国民の感情を大きく蝕んでいて、悼みと憤激は、ごく一部の学生層と市民に限られた。

 数多くの企業で働く数多くの組合員たち、革新を名乗る政党は、事件を自分たちとは無関係のものとして受けとった。しかも、隠蔽作業は、樺美智子の際よりも一層、手がこんでいた。樺美智子のときは、まだ「人なだれによる圧殺」だったが、山崎博昭の死については、「学生による学生の虐殺」と報道されたのである。ある学生が装甲車をぶんどり、それを後退させて山崎博昭を轢殺したのだと。だが逮捕されたその学生は、十二分な宣伝効果をあげたのちに、検察庁側の起訴理由変更という法廷手続き上のミスを理由に裁判そのものが取りやめられ、全くうやむやのまま、こっそりと釈放されたのである。

 一体これはどういうことか。政治的立場がたとえ学生の反戦運動の進め方に批判的であっても、まともな法曹人なら、一斉に立ってその不明瞭な処置を糾弾すべきはずだった。松川事件をはじめ戦後の政治的な裁判事件を問題にした良心的な文化人たちが、不意に死んでしまったわけでない以上、一斉にその非を鳴らすべきだった。また実事求是を説き、報道の権利を主張するのなら、報道人もまた、うやむやになった過程そのものをでも執拗に報道すべきだった。だが、そうしたことは何もなされなかった。



由比忠之進さんの死
 同じ年の11月、佐藤首相のアメリカ訪問に抗議してエスぺランチストの由比忠之進が首相官邸前で焼身自殺を図り、数時間後、病院で死亡した。明治に生まれ大正時代に自我形成をとげたこの人が佐藤首相に与えた抗議文の中で静かに回顧している生涯の反省こそは、日本人のすべてが当然共有しておかねばならぬものであった。

 私が生まれたのは明治27年10月2日、……日露戦争の頃は小学校、その後中学校で忠君愛国の思想を吹き込まれて文字通り愛国者として生長しました。……

 私は東京高等工業学校を出て、二、三職業を変えたのち南満洲の新興紡績会社に勤め日本の膨脹を謳歌したものでした。大東亜戦争に入るやその緒戦の戦果にすっかり酔わされて有頂点になって大陸での生活が日本の侵略によるものとの反省を全く怠っていました。

 愈々敗戦と同時に不安のどん底に落され、困難な一年半を大連で過ごしましたが、やっと日本の中国侵略の罪悪に気づきました。

 ……敗戦時の略奪暴行をつぶさに経験した私は、ベトナムに於けるアメリカの止めどないエスカレーション、無差別の爆撃、原爆にも劣らぬ残酷極まる新兵器の使用、何の罪もない子供におよぶその犠牲、ベトナム民衆の此の苦しみが一日も早く解消されることを心から望んでおりますので、此の一文を差しあげる次第です。……



 この人の経験とそれに基づく思索には、明治、大正、昭和の時代を生きた日本人の経験からとびはなれた異様さが何一つあるわけではない。市井の人としての体験のむしろ平均値といってよい体験であり、思索である。にもかかわらず、その意思の表明に、〈死諫〉という形態をとらざるをえないまでに、当然の人間的主張が通用しなくなっていたのである。

 かつて十年前は、国会への請願という形で行なわれた市民デモは、僅か7年の間に単独者の焼身による〈死諫〉へと転ぜねばならなかった。国会には高い柵がはりめぐらされて近づけず、民衆の意思は、幻想の中ですら上部に反映されることがない。平和を望む故に非暴力という限界を自らに課せざるを得ない者の、苦渋にみちた極限的な、最後の意思表示としての焼身自殺。もし、こうした意思表示をすら無視するのならば、そのあと民衆に残された道は、叛乱しかない。

 だが、木村官房長官の談話にもみられるように、返ってきた答えは、通り一遍の、もはや存在もしない民主主義の教科書的な御託宣でしかなかった。

「このような悲しむべき事件が起ったのはきわめて残念だ。由比氏が無事であることを祈っている。民主主義の本質はあくまでも論議をつくし、その結果については、選挙を通じて批判することにある。いかなる形にせよ、直接行動は避けねばならない」と。

 真に主権が民衆にあり、真に民主制が施行されているのなら、誰がかけがえのない自らの身を一つの政治的意見の開陳のために滅ぼすだろうか。少数意見を代表するはずの野党や言論機関がまったく体制内存在と化し、その隠微にして奴隷的な補完物と化しているのでなければ、非暴力主義者がこうした自己否定的行動に訴えることもない。



アメリカの従属国家日本のアポリア
 腐敗は、権力の悪が、他国の戦乱によって自らを富まし、実質上の殺人行為に加担していながら、名目的には平和憲法をもっているという欺瞞のゆえに、一層奥深く潜行する。かつてカミュは『反抗的人間』のなかで、

「今日、一切の行動は、直接か間接かに、殺人につながっている」

と言ったが、それは形而上学的憂悶としてではなく、日本政府のアメリカへの政治的、経済的従属とその理不尽なアジア政策の共犯関係によって間接的ながらも重い道徳的苦痛として私たちが担わせられている。

 特需産業は秘かにナパーム弾を造り銃器を作って輸出し、軍靴から衣服に及ぶ一切の軍事必需品生産の肩がわりと下請けによって肥えふとっている。だが、直接自分に禍が及ばねば、そしてまたそれが利潤を生むなら、何でも作り出す構造を許している以上は、アメリカの原子力船の入港によって、放射能をまき散らかされることにも文句は言えない窮地に追いこまれている。

 政府には少なくとも文句はいえないのである。いや、自らが抗議しないだけではなく、68年の佐世保闘争に見られるごとく、学生や労組員が原子力船寄港に反対することを、弾圧せざるを得ない論理的負目を負ってしまっている。



中村克己さんの死
学園闘争とはなんだったのか
 平和運動は、単に自国の安全を政治的に画策し、世界の平和を心情的に祈願するだけではなく、日本がはまり込んでしまっている共犯性のゆえに、みずから生きる場での、共犯拒否つまりは体制変革への志向をもつ反戦運動たらざるをえず、その運動は擬制的民主主義を崩壊せしめる直接行動性をもつべき必然性を、むしろ相手側からおしつけられている、といえるのだ。

 既成の革新勢力や進歩陣営が、敗戦20余年の経過のうちに骨がらみに体制に抱き込まれてしまい、一見改革的にみえる発言や提案が、批判する当の相手に寄生してお目こぼしによっており、人畜無害な添え物に堕してしまった、その根深い病根をえぐるために、そうした精神的欺瞞の牙城である大学で苦渋にみちた闘争がなされねばならなかった。

 だが、そうした準備的な意識変革すらが、強権に窒息させられ、その過程でも、犠牲者が出た。しかも悲しいことに、まっとうな討論や、自己の属する組織の制度改革によって返答しなかった教授陣は、自らは手を下さず、体育会系の学生や警察や裁判所の手を借りて、批判者たちを学園から排除した。

 70年2月、京王線の武蔵野台駅前で学園民主化を訴えるビラを散布していた日大生中村克己が、体育会系の学生に襲われて重傷を負い、数日後、病院で死去した事実は、権威にしがみつく権力附帯者たちの、保身の仕方を象徴的に示している。そして、その際も当局による死因表明は、「京王線の上り特急に接触したための、交通事故」であり「本人の不注意による自損行為である」というのだつた。

 日大闘争は、一体何の為に闘われたのか。学内において、文化的なクラブ活動や研究会活動など、思想や表現、結社の自由すらない状態、学生を無権利な商品としてしかあつかわず、しかも不正な経営を行なっている学園の構造をまず摘発し改変するためであった。

 そしてその学内の抑圧構造は日本の権力構造の部分であり、同じ法則が社会全体にも貫徹していることを学生たちは気付かざるを得なかったが、社会変革はともかく、理事者の刑事上の責任や教授層の教育責任も結局はとわれることなく、「暴力学生」のキャンペインのもとに、機動隊に蹴散らされ、そしてその闘いに参加していた一員、中村克己は、同じ大学の体育系の学生に襲撃されたのである。京大生山崎博昭が殺されたときに、「学生が学生を殺した」と宣伝しながらも、あまり人々に信用してもらえなかったミスをここで補おうとでもするかのように。



昭和の抵抗権行使運動(61)

「死者の視野にあるもの」(2)


樺美智子さんの死
階級支配と抑圧の構造
 ここ10年、暦が1960年代から70年代に転換するにつれ、さまざまの変化がこの日本にあらわれたといわれる。所得倍増、GNP自由世界第二位、情報社会化……。

 たしかに政治、経済、社会風俗上にはさまざまの変化があったが、私たちの人間関係のあり方、その集約である支配被支配の関係にはなにほどの変化もなかった。いや、何らかの改変をも齎らしえなかったことは、私たち自身の咎でもあるが、悪いことには、私たちは徐々に生命のいとおしさに対する感覚すら麻痺させていっているように思える。

 10年前、日米安全保障条約の改訂に反対し、国会運営の非民主性に憤ったデモ隊が国会を包囲し、国会構内で抗議集会をもとうとして当時の全学連主流派が警官隊と衝突し、樺美智子さんが殺された時、人々は強く憤激したものだ。その憤激やショック、あるいは哀悼の情が、たとえただ感情の次元に止まったにせよ、広汎な層の人々がその感情を共有したし、その感情の背後には太平洋戦争で多くの犠牲者を出しその犠牲の上にやつと摑んだ生命尊重の国民的感覚がなお生きていた。人が殺し殺されるのは国家間の戦争によってだけではなく、国内の階級間の抗争においても起こりうるのである。悼みの感情がその冷厳な認識にまで達するのを恐れて、権力者は死因をうやむやにした。

 私たちが反戦運動の途上の死者たちの葬られざる死にこだわるのは、動かしえない死の事実の前には一見些細なことにみえる死因の隠蔽が、実はこの社会の支配の構造の隠蔽にストレートにつらなっているからである。だがその事は後にも触れるとして、ともあれ、当時、人々は若い生命の夭折を悼む人間的感覚をもっていたと思う。

 樺美智子の伝を担当した川口翠子によれば、その日、樺美智子は「ああ、いそがないとゼミにおくれる――」と母に言って家を出たという。そうした家族を心配させまいとするささやかな嘘を含めて、彼女が学生運動のきわだった存在であると同時に、ごく普通の人の子であったことが知れる。

 それだけでも、国民感情の基底に誤りなき生命尊重の念があれば、やがては一国内の階級抑圧が、普通の人の子の命を踏みくだいてゆく政治の実相に人々は気付くはずだった。だがほとんど当然とおもわれるその論理的経緯を、民衆の感情はたどらなかった。なぜなのか。



戦後処理の不徹底が残したもの
 いまその理由を後向きに解明してみても遅きに失するかもしれない。しかし、巧みな意識操縦は、私たちが戦後におかした失策とも相乗しつつ、現在もなお続いている以上は、やはりこだわらないではすまされない。

 簡単に言ってしまえばそれはこういうことである。ことは実は敗戦処理の問題にさかのぼる。90余にのぼる主要都市が廃墟に帰し、何百万の将兵の死傷の後に、他律的なものながらやつと旧秩序の支配をまぬがれた国民には、大ざっぱに言って、為さねばならぬ二つの仕事があった。

 一つは、瓦解させられた自分たちの生活の再建、飢餓線上をさまよう窮迫からの脱出であり、いま一つは自らに塗炭の苦しみを舐めさすにいたった原因の徹底的な追及、反省、そしてその体制上、意識上の仕組の根本からの除去であった。それは本来は車の両輪のように相補的な作業であるべきであって、どちらを選択するかという選言命題ではなかった。

 しかし、どちらかと言えば、焦眉の急である生活の復興、日常性の再建の方に比重がかかって、戦争原因の徹底的除去の方は、あとまわしにされたきらいがあった。考えてみれば、そうなったことには、寛恕すべき理由もあって、何はともあれ人々は日々食わねばならなかったし、また正当化しえぬ戦争へのそれぞれの人の何ほどかの加担という心理的苦渋のゆえに、理念上の作業はともかく食えるようになってから……と思ったとしてもやむをえなかった。

 むろん戦争責任の追究と芟除(さんじょ)をまったく怠ったわけではなかつたが、その場合、耳目に入りやすい被害と加害を単純に分離する論理が採用され、社会や経済の機構との深いかかわりが問われることなく軍部が悪玉にされた。しかもその原因追究の作業を庶民の日々のいとなみから切り離して一部のインテリの机上の論議にゆだねるという傾向が支配的であったことは否定できない。

 そして人々は驚くべき勤勉さでやみくもに働いたのである。廃墟に一軒一軒家が建ってゆくことを、それが自分の家でなくとも慶賀しあうといった心やさしき心情のもとに。

 10年前の安保改訂期は、敗戦以来のがむしゃらな勤労が、ある程度の生活の安定に結実して、その心理的余裕の下に、しかしふと気付いてみると、もう一つやつておかねばならなかったことをおろそかにした、ある後めたい覚醒の時期にあたっていた。

 なるほど、自分たちは他国の内政に露骨に干渉するようなことは、戦後は、してはいない。しかし、戦争責任を負うべき勢力が、依然として強力な存在として生き残っており、しかも自分たちが委任したわけでもない重大な国家方針の選択にも、国民の総意を問おうとはしていない。根本的な制度変革であったはずの民主主義が単純な頭数の論理にすえかえられており、しかもその議会内多数派はなにも選挙をせずとも力をもつ特定階級の代弁者にすぎない。

 60年安保闘争の底辺にあった疑念は、そうしたむしろ単純なものであったと言ってよいが、単純であるゆえにこそ、根本問題に触れており、――そのゆえにこそ、抗議デモの中の一人の死は、権力者の側にとつても重大だった。

 一たび血に汚れていた手、それが再び人々の眼前で血で汚れたのであり、人々が、かつての他国の民衆の殺戮と、現在の同胞の流血との間に必然的な連関のあることに気付けば、それは当然、体制そのものの疑惑へと進展する。退陣した岸内閣のあとを受けた池田首相が、なぜ、狂気のように所得倍増論を宣伝したか。理由は明白であって、戦後の課題のもう一つの項に、おくればせながらも人々の注意がおもむくことを、懸命にふせぐためだった。



マス・メディアの劣化
生命尊重感情の麻痺
 本来関連してあるべきものを切りはなし、一方だけを強調して他方を隠蔽する。新聞、テレビをはじめ情報伝達機関は急速巧妙に統制され、樺美智子の死因も「デモ隊の人なだれの下敷となり、胸部を圧迫されて窒息死したもの」とされた。混乱時の、責任非在的な災難。そう印象づけねば、政府が最も恐れる事態の発火点にそれはなりかねなかったのである。

 そしてその際のマス・メディアの大旋回と屈服は戦後に孕まれていた可能性の自己虐殺に等しいものだった。以後マス・コミの果たす役割は、戦争中の大本営発表の受け売りに等しいものとなる。

 そして、計算ずくか、制度の好智か、恐ろしいことが、その後に進行した。たとえ、事柄の因果関係を一時的に隠蔽することに成功したとしても、国民の胸裡に、生命の尊重という反戦平和の基盤が生きつづけておれば、第二第三の同様の事件の際に、盲目の感情が論理とつらなり、体制への疑惑がその否定と拒否につらなる可能性がある。だが、その人間としての基本的な感情と思われる基盤そのものがつき崩されてゆくのである。

 たとえば所得倍増は、巷に自動車の氾濫を生み出し、そして、何分かに何人の割合で人が死ぬことが当り前になり、謂わば死それ自体が日常化されていった。繁華街の交差点には本日の死者は何人とれいれいしく標示板がかかげられ、何月何日、はやくも昨年の死亡者数を超えたと、一見まっとうな警告調で報道される。しかもその直接の加害者は同じ市民である。



昭和の抵抗権行使運動(60)

「死者の視野にあるもの」(1)


 私の手元にある高橋和巳著『わが解体』(河出書房新社)は初版本で、発行日は1971年3月5日となっている。当時学生たちが提起した問題に最も真摯に向き合っていた高橋さんは、その約2ヶ月後、1971年5月3日に病(結腸癌)で亡くなられた。享年わずか39歳であった。

 『わが解体』所収の「死者の視野にあるもの」は、高橋さんが編集者となった『明日への葬列』(私は未読)の序文として書かれた。この本は副題に「60年代反権力闘争に斃れた10人の遺志」とあるように、10人の方々の「伝」(追悼文)を集めたものだ。

 このたび一通り読み直してみて、この論考で考察されているさまざまな事象分析は、約半世紀後の今でもなお有効であると強く感じた。この国の情況は半世紀前と変わらず、いやいや、半世紀前よりますます醜悪になっていることを思い知らされる。また、その見事な文章にも魅了された。部分引用ではなく、是非全文を記録しておこうと思う。

 まずは、この論考で取り上げられている方々の死亡年月日と、その時に関わっていた運動を記載しておこう。

樺美智子さん
 1960年6月15日、反安保闘争

奥浩平さん
 1965年3月6日、椎名外相の訪韓阻止闘争

和井田史朗さん
 1966年7月19日、日韓条約反対闘争

山崎博昭さん
 1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止闘争

由比忠之進さん
 1967年11月11日、佐藤首相のアメリカ訪問に抗議して首相官邸前で焼身自殺

所美都子さん
 1968年1月27日、60年安保闘争~ベトナム反戦運動

榎本重之さん
 1968年4月2日、王子の米軍野戦病院設置反対闘争(まきこまれての死亡)

津本忠雄さん
 1969年10月1日、京大闘争

中村克己さん
 1970年3月2日、学園民主化闘争



(以下、表題や段落は管理人が便宜的に付けたものです。)

〈序論〉死者の眼に残った最後の映像を思いやる。

 何の雑誌でだったろうか。かつてイタリヤの法医学者が殺人事件の被害者の眼球の水晶体から、その人が惨殺される寸前、この世で最後に見た恐怖の映像を復元するのに成功したという記事を読んだことがある。本当にそういう《残像》がありうるのかどうか。またその技術が実際の事件解決に利用されているとも聞かないから、あまり信用のおけない雑誌の、非科学的な記事にすぎなかったのかもしれない。

 しかし私はその紙面の一部に紹介されていた写真を奇妙な鮮明さで覚えている。全体が魚眼レンズの映像のように同心円的にひずんだ面に、鼻が奇妙に大きく、眼鏡の奥に邪悪な目を光らせた男の顔がおぼろげに映っていた。被害者はその男に首をしめられたのだろうか、それとも凶器で殴りつけられたのだろうか。もはや抵抗力を失った被害者が、無念の思いをこめて相手を見、そこで一切の時間が停止し、最後の映像がそのまま残存する ― それは充分ありそうなことに思われた。

 無論そんなことを信じたからといって何がどうなるというものでもないが、その記事には何か痛ましく心そそるものがあって、子供のころの遊戯で敵の軍勢に露路隅に追いつめられ、忍術の呪文をとなえるのだが、一向に自分の姿が消えてなくならなかった悲哀を、ふと想い起こしたりした。

 ただ子供の頃の遊戯では、敵方にも私の気持を了解してくれるものもいて、ことさらにおどけて空をつかんでみせたりしてくれたが、大人の世界ではそんな心温かいルールは通用しない。ましてや、瀕死の者の目に映った映像の残存などという私の話もあまり信用されたためしはない。人を踏みつけにする者は心おきなく踏みつけにしているようだし、蹂躙される側の死因は、多く不明のまま捨ておかれる。

 最近、私は健康をこわして千切れかけた腸の剔抉手術を受けたが、手術台に寝かされて麻酔薬をかがされる瞬間、目隠しの布の隙間から巨大な蜻蛉の複眼のように光る無影燈を、いまは死んでも死にきれぬという痛憤の念でみたものだ。幸い余命は保ったが―。

 私の確信によれば、死者たちの最後の映像なるものは、それが死後にも残存するか否かは別として、立って歩く動物である人間が見おとしがちな、地面にうちのめされて、一番低いところから上を見あげる視角になるはずだと思う。それはなんとも名状しがたい悲しい視角であって、たとえ同情して覗き込み、あるいは介抱するために蹲み込んだ者の姿であつても、自分の胸を圧迫し、せめて最後の一瞬ぐらいは広々したものであってほしい視野を、無慈悲に制限するものとして映る。

 病床にあってすらそうであってみれば、路上に斃れ、踏みくだかれる者の視界においてはなおさらである。恐らくは林立する脚と黒い靴、その底の泥まみれの靴底と鋲、あるいは自動車のぎざぎざのタイヤが悪魔のようにのしかかってゆく。何年かの喜怒哀楽、思い定めた志、そして何か素晴しいことがあるかもしれず無いかもしれない未来が、そこで不意に切断される。

 そのこと自体は万人に避けえぬ運命かもしれないが、最後の映像が、同じ種である人間の靴と泥でしかないとは……。そしてもし死者がこの世で最後に見た映像を復元しうるものとすれば、その映像こそが、なによりも鮮明に現在の人間関係のあり方、その恐ろしい真実の姿を、象徴するはずなのである。