FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(40)

砂川闘争(5)


第二次砂川闘争

 第一次砂川闘争は「勝利」を勝ち取ったが、これで終わったわけではなかった。翌年1957年6月から7月にかけて、占領時代に接収された基地内の土地について軍用地料を確定するための測量が計画され、反対同盟と支援者による阻止闘争が組まれた。このときフェンスを越えて基地内に立ち入った労働者・学生が事後逮捕を受け、安保条約に基づく刑事特別法違反で訴追された。この裁判の第一審で下されたのが有名な「伊達判決」である。

1959年3月
 東京地裁は安保条約を「違憲」とし、違憲な条約に基づく刑事特別法違反の行為は罪を構成しないとし、被告に無罪を宣告した。

 しかし、折からの新安保条約国会審議への影響を恐れた検察側は最高裁に飛躍上告、原判決は破棄されて被告は有罪となった。最高裁が法に基づいた判断を放棄し、臆面もなく政治的な判決を下すのは今に始まったことではなかった。日本には真の三権分立など、あったためしがない。

 また、基地拡張のための強制収用の手続きも、56年の「勝利」によって終結したわけではなかった。すでに二次にわたって提出されていた、東京都収用委員会に対する裁決申請は生きていた。さらに、62年の宮崎町長の急死のあと当選した「条件派」町長によって立川市との合併がなされ(63年5月)、この合併後に立川市長が代理署名を行ったため、買収を拒否した地権者の土地は、64年以降、東京都収用委員会における審理へと舞台を移していった。

 立川市に合併したときには、かつての闘争委員会は霧消していた。また、56年に抵抗した地権者からも任意買収に応じる人々が次々とあらわれていた。基地拡張反対運動は予定地の地権者の孤立した闘いに縮小し、心細い日々が続いたという。

 状況に変化が生じたのは、折からのベトナム戦争に対する反戦運動の高まりであった。砂川にも反戦青年委員会や三派全学連などの大衆的な支援が寄せられた。

 これとともに重要な意味をもったのが、67年4月の統一地方選挙で当選した美濃部革新都知事の誕生である。美濃部都政誕生以降、立川基地拡張のための収用委員会の審理が行われなくなった。

1968年12月
 米軍は基地拡張計画の放棄を表明。

 反対同盟の強い働きかけもあって政府は収用認定を取り下げた。これは23戸まで減ったものの最後まで闘った反対同盟の勝利であった。

 以上が、第二次砂川闘争のあらましである。

 ついでに、その後の立川基地についても記録しておこう。

 沖縄施政権返還に伴う米軍基地再編によって立川基地は日本側に「返還」されることになった。「返還」された基地は三分割され、一つは業務地区として立川市の都市計画に委ねられ、一つは国営「昭和記念公園」となり、もう一つは自衛隊基地(および広域防災基地)となった。このときは自衛隊移駐阻止闘争が組まれ、阿部行蔵「革新」市長も移駐反対を表明したが、移駐は強行された。

 76年、かつての滑走路内に土地をもち、その返還訴訟を闘っていた青木市五郎は、国と「和解」に達し、コンクリートをはがし、畑土を覆土した上、この土地に出入りするための通路を確保させた形で農地を取り戻すという画期的な勝利を得ている。

 道場さんは砂川闘争を総括して、次のように述べている。

 農民の土地取り上げに対する抵抗は、占領期に接収された土地の返還闘争としても展開された。これは反対同盟内部では少数の闘争になったが、57年夏の基地内測量阻止闘争へとつながり、伊達判決を引き出したばかりでなく、長い返還訴訟の結果として、先に見た青木市五郎の土地取戻しへと結実していった。

 不正な力によって取り上げられた土地を再び農地として取り戻す「復初」の正義への強い意思は、私たちの心を打つ。沖縄では同じ闘いが「復帰」以後大規模に取り組まれているが、政府は軍事占領によって開始された土地の強制使用を今日も追認し、なおかつ度重なる法「改正」によって合法化し続けている。非民主主義的な暴力の結果を追認し正当化する「民主主義」なるものの質が問われなくてはならない。

 砂川ではこのような形でいくつかの決定的に重要な「勝利」が得られている。社会運動においてこのような「勝利」を味わうこと自体が稀であることを考えても、このことの画期性はおさえておいてよいことだと考える。



 さらに批判の目を現在に転じて、外的国家(<共同体-即-国家>)としての日本が当面している最も重要な問題について、道場さんは次のように論述している。
 日本では、高度経済成長の中で「国民」は利益共同体としての性格を強め、現状固定的な「生活保守主義」へと転じていった。産業人口構成において、農業の比率が激減し、人口の大半が都市在住の給与生活者となるとともに、「基地問題」は接収をめぐる土地闘争から、騒音・環境汚染などの都市間題へと焦点を移していったばかりでなく、基地問題は「国民的」問題としての注目を失い、特定自治体のローカルな問題へと局所化されていった。

 このことの背景には、世論における「安保繁栄論」や「安保基軸論」の広がりがあると思われるが、局所化され、地域に封じ込められた基地問題をこじあけ、「国民的」問題へと押し上げようとしたり、安保条約それ自体に反対する者は、70年代以降は少数の「非現実主義者」であるかのようなレッテルが貼られていった。いまでは「反日分子」扱いさえ受けかねない。このような分断と局所化による封じ込めの中で、地域の抵抗はますます解体に曝されている。

 いま現在進められつつあるネオリベラリズム「改革」が結果するのは、社会の中心的な受益者と抵抗権を奪われた周辺的受苦者の分断、自己決定権の剥奪、という事態である。政府批判が官僚批判や政治家の既得権批判にとどまり、政治権力が手を出すことのできない領域を保守する抵抗は、あらかじめ選択肢から外されてしまっており、この領域に対する感度が著しく低下していることが、この間の「セキュリティ」依存の状況となってあらわれている。それは「保守」なるものの社会的衰退ともいいかえることができる。抵抗を組織する連帯性を支える社会的紐帯を断ち切られてしまった人々に差し出されるのが「2ちゃんねる」的排外主義と、「小泉劇場」に代表される売国ナショナリズム(?)であるといえるだろう。

 政府はいまや「国民保護」の名のもとに、基本的人権の尊重によってこそ最も守られるはずの人々の権利を停止し、「保護」なき裸の個人として管理する方策を整備しつつある。地域、そして自治体による抵抗を排し、軍事行動の至上権を政府が確保する形で、個人や地域の自己決定権が「強制収用」されつつある。「分権化」の名目のもとに、再分配制度は縮小され、残るのは軍事基地や原子力発電所などの「国家事業」の実施とその「見返り」事業の提供による、過疎地・貧困化地帯の新たな「国内植民地化」である。

 しかもそこで建設される軍事施設は、政府ですらコントロールできない外国軍の基地であり、この軍隊に統合された自国軍の基地である。「統帥権」を事実上失ったまま、この国の「シビリアン・コントロール」そして「民主主義」は存続することができるのだろうか。

 「靖国」だ、「慰安婦問題」だ、と「愛国者」気取りで自国を「防衛」している気になっている「ぷちナショナリスト」たちは、より大局的に見た本質的な従属の深まりにもっと「憂国」の情を涵養すべきではないか? そして、「自主性」を呼号すればするほど従属を深める冷戦型ナショナリズム ― それは50年代以来、政府および自称「保守」勢力の中に一貫して流れている ― の中に依然として自分たちがどっぷりと漬かっていることにそろそろ気づくべきであろう。



 折しも問題になっている、田母神幕僚長の超低級偽装史観論文が、上述の問題を見事に体現している。田母神は『「愛国者」気取りで自国を「防衛」している気になっている「ぷちナショナリスト」』の典型であり、『「自主性」を呼号すればするほど従属を深め』ている自らの矛盾と道化ぶりに気づくはずもない。この観点から、田母神問題の本質を突く鋭い批判を、天木直人さんが行っている。「田母神暴言は更迭だけではすまない深刻な問題である」 から引用する。

 なぜ今回の事件が起きるまで黙認され続けたのか。それは、今度の事件が発覚してもなお田母神元幕僚長を懲罰できず、腫れ物に触るように定年退職の形を整えてお引取り願っている、政府、防衛省の対応をみても明らかだ。制服組みに遠慮しているのである。近年の政治の緩みが制服組を次第に増長させていたのである。シビリアンコントロールが、もはや機能していないという事である。その行き着く先が、11月3日の田母神前航空幕僚長の退任記者会見である。

 自分は正しいと開き直り、政府の方針と異なる事をいう事を許されない日本は北朝鮮と同じであるなどと繰返す。しかし田母神元幕僚長の言動には最大の矛盾と限界がある。

 侵略戦争を否定することは占領国米国が裁いた東京裁判を否定することだ。「テロとの戦い」に協力し、米軍と一体化しつつある自衛隊の幹部が、もっと言えば米軍の指揮・命令のもとに米国の傭兵と化しつつある自衛隊の幹部が、その親分の米国に向かって「日本は侵略国家ではなかった」と言えるのか。信念であるというのならもう一度米国に向かって言ってみればいい。 それが出来ないようでは、しょせんアジア蔑視の空威張りでしかない。

 田母神論文の本当の問題はそこにあるのに違いない。



スポンサーサイト