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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(39)

砂川闘争(4)


第一次砂川闘争・補足2

 政治評論家・森田実さんのブログを毎日訪れている。優しさと気骨に満ちた信頼すべき知識人の一人である。森田さんは『政治評論家として私の原点は「反戦平和」である』とその立場を言明していて、その立場に全くぶれがない。

 森田さんはかって独立左翼の活動家であり、第一次砂川闘争の時、全学連の砂川闘争支援隊の指導者だった。しかし、森田さんは、私の知る限りでは、活動家の頃の事をまったく語らない。最近読んだ『島成郎を読む』や『唐牛健太郎追想集』には多くの同志たちが追悼文を寄せている。私は森田さんの文章にも出会えるのではないかと期待していたが、森田さんの文はなかった。その森田さんが、つい最近、ブログで砂川闘争の時のエピソードを書いていた。森田さんがその頃の事を書くのは珍しいことだし、そのエピソードが大変感動的なので、紹介したいと思う。

 朝日新聞beが「『赤とんぼ』の歌に守られた砂川」という記事(伊藤千尋記者)を掲載した。その記事に森田さんの談話が載っている。記事は次のように伝えている。

 「赤とんぼ」には、伝説化した話がある。56(昭和31)年、東京・立川の米軍基地拡張に反対した砂川闘争で、警官隊と立ち向かった学生や農民たちからわき出た歌が「赤とんぼ」だった。「日本人同士がなぜ戦わなければならないのか」と歌声は問いかけた、と伝えられる。

 当時、動員された学生は3千人。雨の中、警官隊と肉弾戦となり負傷者が続出した。最後に向き合ったのは学生ら50人と、警官150人だった。「今だから話しましょう」と、全学連の砂川闘争委員長として現地で指揮した政治評論家の森田実さん(75)はこう語る。

「警官があと半歩出れば私たちは負ける状況で、獰猛な相手を人間的な気持ちにさせようとした。勇ましい『民族独立行動隊』を歌えば警官も勢いづける。そこで『赤とんぼ』を選び、日没までの30分、繰り返し歌った。警官隊は突撃して来なかった。私たちは人道主義で戦った。警官にも純粋な気持ちがあった」

 母のぬくもりを懐かしみ、郷愁を誘う「赤とんぼ」は、自らの人間性を思い出させる歌でもあった。この美しい感性を、日本人は持ち続けられるだろうか。

「赤とんぼ みな母探す ごとくゆく」(畑谷淳二)



 この記事を掲載したうえで、森田さんは次のように書き綴っている。

 思い出したことがある。1956(昭和31)年10月13日が砂川闘争のヤマ場だった。数千人のデモ隊と約千名の警察機動隊が激突した。棍棒をもった武装警察隊の攻撃で無防備の農民・労働者・市民・学生のデモ隊は蹴散らされた。怪我人続出。砂川闘争本部で全学連の部隊の指揮をとっていた私のところへ十数名の砂川町の主婦がやってきて、

「森田さん、学生さんたちに引き上げ指令を出してください。私たちのために学生さんたちが怪我をしているのは耐えられません。私たちのことはもういいです。学生さんたちに引き上げを指示してください」

と涙ながらに訴えられた。何人ものお母さんたちの涙ながらの訴えは限りなくつづいた。

 耐えられなくなった私は、闘争指導者として逮捕されるのを覚悟で現場に出た。デモ隊はバラバラになっていた。皆を集め、腕を組ませて陣容を整えたが、みんな疲れ切っていた。「風前の灯」状態だった。そこで、私は何でもよいから声を出してくれ、歌を歌ってくれと頼んだ。そして歌われたのが「赤とんぼ」だった。「赤とんぼ」の歌が夕暮れの荒野に響いた。「赤とんぼ」が砂川を守った。いまから52年前の10月13日のことだった。



 引用文中の「民族独立行動隊の歌」は、当時さまざまな闘争の場で好んで歌われていた歌だという。 「民族独立行動隊の歌」 に歌詞が掲載されていて、メロディを聞くことができます。歌詞を転載しておきます。

民族独立行動隊

民族の自由を守れ
蹶起(けっき)せよ 祖国の労働者
栄(は)えある革命の伝統を守れ
血潮には 正義の血潮もて叩きだせ
民族の敵 国を売るいぬどもを
進め 進め 団結かたく
民族独立行動隊 前へ前へ進め

民族独立勝ちとれ
ふるさと 南部工業地帯
ふたたび焦土(しょうど)の原と化すな
暴力(ちから)には 団結の実力(ちから)もて叩きだせ
民族の敵 国を売るいぬどもを
進め 進め 団結かたく
民族独立行動隊 前へ前へ進め


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