2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(59)

60年安保闘争後の新左翼の動向


 「60年安保闘争の評価」というテーマの最後の話題として、三上治さんの『独立左翼論』を読もうと考えている。この論考は、60年安保闘争以後の新左翼の運動をも視野に置いたものなので、その学習に入る前に、60安保闘争以後の新左翼運動を概観しておこう。(以下。れんだいこさんの「戦後学生運動論」による。)

 60年安保闘争で展開された運動と、その運動を主導した思想は、全共闘運動などとして、70年代半ばまで継承さていった。

 まず、これまで見てきた、第一次ブントの誕生から60年安保闘争までの期間の独立左翼の動向は、次のようにまとめられよう。

1958年~60年前半
 既成左翼(日共)と袂を分かった第一次ブントであるが、当初は革共同との寄り合い世帯であった。それが60年安保闘争へ向けて純化し、その闘争を主導する役割を担い、岸政権打倒へと追い込むだ。この間、革共同は関西派(西派)と全国委派(黒寛派)に分裂したが、全国委派が次第に勢力を増していった。

 そして、それ以後については・・・

1960年後半~64年
 第一次ブントは60年安保闘争の総括をめぐって分裂する。やがて、その多くが革共同全国委派に吸収されていった。そして、第一次ブントを吸収した革共同全国委が全学連の執行部を掌握することになる。

 この間、社会党の社青同が誕生し、日共系から構造改革派が造反し、第一次ブント再建派と三派同盟を立ち上げた。

 また日共は、民青同系全学連を立ち上げる。

 この局面で、革共同全国委が革マル派(黒寛派)と中核派(本多派)に分裂し、全学連主流は革マル派に引き継がれた。

 一方、三派同盟から構造改革派が抜け、代わりに中核派が入り込み、新三派同盟が形成される。

1965年~67年
 社青同から社青同解放派が造反し、べ平連が生まれ、東大闘争、日大闘争が始まる。

 第一次ブント再建派が第二次ブントを創設するが、合流しなかったML派など、その他諸党派が誕生する。これらの動きを尻目に、革マル派、中核派、民青同の、いわゆる「御三家」が勢力を伸ばしていった。

1968年~69年
 ベトナム反戦闘争、東大闘争、日大闘争が盛り上がり、8派連合による全共闘が創出される。

 中核派全学連が生まれ、反帝全学連が生まれる。70年安保闘争を意識して空前の盛り上がりを見せる。革マル派、民青同も独自に活動域を広げ、赤軍派が創出される。

 この頃、全共闘対民青同、中核派対革マル派対社青同解放派の三つ巴、第二次ブントの内部抗争、第二次ブントと赤軍派のゲバルトが始まり、盛り上がりの中で瓦解の危機をも迎えた。

1970年~
 70年安保闘争はカンパニア闘争に終始し、佐藤政権に打撃さえ与えることができなかった。代わりにやってきたのが内ゲバと党派間ゲバと連合赤軍派の同志テロであった。

 以上が新左翼運動史の概観だが、この間、多くの若者が痛ましい不条理な死を強いられたり、身体的あるいは精神的に大きく傷つき倒れていったことに、思いを寄せなければなるまい。

 ここで、高橋和巳著『わが解体』を思い出した。また予定外の横道に入ることになるが、その中の「死者の視野にあるもの」を読もうと思う。

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昭和の抵抗権行使運動(58)

60年安保闘争の評価(4)
田中清玄問題(3)


 続いて吉本さんが描いてみせる状況論は、吉本思想の根本的立脚点を簡潔に表出していて感動的だ。

 わたしたちは、かって、このような情景を体験したのではなかったか? 兵士となった青年たちと大衆とが戦闘のなかで死に、将軍たちが生き残った情景を? 現実的な生活者大衆は死に「知識」人が生き残った情景を? また戦後の無数の大衆運動や政治運動のなかで見たのではなかったか? よくたたかったものは死に、たたかわないものが生き残った情景を!

 安保闘争において、わたしの属していた市民、労働者、知識人の行動組織は、全学連と共闘し、重傷2、軽傷多数、タイホ1を支払った。残念ながら、終始、全学連や共産主義者同盟から自立してたたかう力量がなかった。わたしの属した行動組織は、全学連と共闘しえたおそらく唯一の市民、知識人、労働者の集団だつたが、その賭け方では、全学連と共産同に一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)せざるをえなかった。

 かれらは、よくたたかい、権力から粉砕され、わたしたちは生き残った。わたしが生き残った将軍であったとしても、どうして兵士たちの「死」に石を投げることができよう?わたしが、生き残った「知識」人だったとしても、どうしてよくたたかって「死んだ」行動者を非難することができよう? これはモラリスムの心情でいうのではない。かつて、政治を文学的に文学を政治的に演ずることに組しなかったものの、行動者と「文学」者とを峻別する論理によるものである。また、かれらの組織的「死」と、三池闘争の労働者の敗退が、情況の「死」を集中的に象徴しているという客観認識によるのである。

 これを「象徴」的な事件として粉砕された組織以外は、すべて「情況」の外に出たのである。そして、この「情況」の外にはじき出されたという現状認識が、安保闘争後のわたし(たち)の思想的な悪戦の根拠となったのである。粉砕されたものたちは、現に孤立のなかで裁判に付されており、あるいは巷に散った。わたしの敗戦体験と戦後体験は、かれらの後姿を像としてまざまざと描くことができる。

 ところで、当時も、いまも、「情況」の外にいながら、それを自覚もしていない「知識人」たちは、マス・コミと日共の共同的な謀議に和して、観客席から石を投げている。かれらの存在を見て、どうしてかれらによって担われる「文化」を軽蔑しないわけにいこうか? 「文化」が「文化」としての自立的な意味をもち「知識」が「知識」としての自立的な意味をもつためには、つねに、まかりまちがえば、現実的な壊滅をあがなわねばならない生活者や行動者の意味に「文化」や「知識」そのものによって、拮抗しえなければならない。観客席から降りもせずにどうして石を投げている暇があるのだ?



 どこかで吉本さんが、自らにとって不可避の課題を担った者を知識人と呼ぶ、というように知識人を定義していた。「不可避の課題」のかけらもなく、ただ知の世界をあさり歩いてかき集めた知識をひっさげて、マスコミにしゃしゃり出て得意げに駄弁を弄しているだけの疑似知識人が喧しい。「現実的な壊滅をあがなわねばならない生活者や行動者」に「拮抗しえ」る真の知識人は、今もなお数少ない。

 最後に、激烈な闘いの後、政治的な場から一生活者へと退却をしていった人たちを「転向者」呼ばわりする思潮に抗して、吉本さんは次のように締めくくっている。

 古典的な「転向」論は、いかなる意味でも、現在の状況では存在しえない。戦前の古典的な概念によれば、リングの上の選手がノックアウトされたとき、それに加担したものも舞台をしりぞかねばならなかった。また、ひとたびノックアウトされたものは、もとのコーナーから姿をあらわすことができず、究極的には、反対のコーナーから登場せざるをえないものであった。しかし、わたしたちの「戦後」の情況は、ノックアウトされた選手に加担した観客席は、ラムネなどのみながら、現象的に「存在」し石さえ投げることができるし、ノックアウトされた選手はいつの日かおなじコーナーから登場することができるのである。これこそが「戦後」でありその情況の本質である。

 唐牛健太郎らが、一個の市民、または人民的生活者として田中清玄の企業で飯を食おうと、どこで飯を食おうと、それは、諸個人の恣意の問題であり、そこには、当人が賦与しているような思想的意味も、他人が非難しているような思想的意味も、特別に存在しえない。人はだれでも、かれを一個の「生活史」としてみれば、支配によってその生活を司られている。

 田口富久治が、デマゴギーによって対比するように、「岸の金によって岸を倒す」ということが背理ならば、資本制社会で、その「生活史」を司られているものが、資本制社会を否定する運動をすること、思想をもつことが背理でなければならない。

 さしあたって、学校経営資本や国家資本に寄食して、社会主義的な言辞を弄する学者の存在も背理というべきであろう。

 この問題のなかには、ボタンをおしで核バクダンで多数の人間を殺生するものは、「感覚」的には抵抗を和らげられるが、手斧をもって、他を殺生するときは、たとえ一人の人間を殺すばあいでも、無限の「感覚」の抵抗を強いられるはずだということとおなじ問題しか存在しないのである。

 階級社会における「生活史」を諸個人としての「生活」に還元するかぎり、一人の人間が、資本家になるとか、検事になるとか、権力者になるとかいうことは、どのような立場からも何の問題にもならないのである。このような恣意性を「強いられる」ことのなかに資本制の本質は存在しているからである。

 何故に、マス・コミらは、日共らは、そして、知識人らは、それを問題にするのだ? そこには、3年間の歳月を無視した詐術が存在しており、また、かれらは、一様に古典的転向論に左右されている。

 3年前に全学連の幹部だったものが、3年後に一個の市民、労働者として縁故就職した? 政治責任? あるいは変節? かれらは、それを問題にするのだろうか?

 わたしのかんがえでは、それは間違いである。唐牛らが3年かかつて、そこに何らかの思想的「変化」がおこつているとすれば、そこに安保後の「情況」の変化が、「先駆的」に象徴されているものを、みるべきなのだ。唐牛らに石を投げているものの内部に、いまだ顕在化されていない「変化」が、そのなかに先駆的に示されているのである。いいかえれば、石を投げている者は、鏡にうつったじぶんの姿に石を投げているのだ。

 そして、わたしたちに、強いられている思想的、現実的課題があるとすれば、このような「情況」の変化を、いかにして止揚しうるかという困難な問題のなかにある。わたしひとりは、別物だなどと考えているものは、情況そのものが判らないのである。わからないものは情況を動かすことも、支配することもできないのは自明である。つまり「情況」外の存在である。

 革共同全国委員会の機関紙「前進」(3月11日号)は、まさに、かれらの同志そのものである唐牛・篠原を、革命運動から脱落した転向者であると指弾している。ここには、組織エゴイズムとネオスターリニスト的発想の再生する姿しかない。しかし、「情況」は、革共同全国委を第二の「日共」に成長せしめることも、唐牛らを第二の「田中清玄」に変質せしめることもありえないだろう。

 わたしたちは、歴史の地殻の変化を、その程度には信じてもいいのである。



昭和の抵抗権行使運動(57)

60年安保闘争の評価(3)
田中清玄問題(2)


『日高六郎から田口富久治にいたる「知識人」の発言』の根拠を、吉本さんは次のように分析している。

 かれら、古典的「進歩」主義者は、田中清玄→武装共産党 の指導者→転向→反共右翼→悪玉→恐怖(陰謀)というように理解の矢を結びつける、いやしがたい心的な傷痕と、古典性を刻印されている。それから逃れることはできないのである。

(中略)

 悪玉? 陰謀家? 恐怖? もし、今日の田中清玄からそんな像をみちびくとすれば、かれら進歩的「知識人」のなかに、戦争期にうけたインフェリオリティ・コンプレックスと、古典進歩主義の「理念」との結合が、ひとつの「宗教」的固定概念として存在しているからである。



 また、日本共産党と田中清玄との確執については、次のように切って捨てる。

 日本共産党と、その離脱者としての田中清玄のあいだの「私恨」などに何の意味があろうか。それらは、古典的円環、スターリニズム→アナキズム→ファシズムのなかの相互の「鏡」の対立にすぎないからである。また、古典マルクス主義の同伴者が、「右翼」 にいだく伝染性の「悪玉」感や「恐怖」感などにも何の意味もない。それは、古典マルクス主義の終焉とともに終焉するものにすぎないからである。



 田中清玄については、「今回の反安保闘争の一連のカンパニヤに登場したかぎりについていえば、」という条件付きで、次のようにその人物像を描き、「知識人」たちの「悪玉」・「陰謀家」感の対極感を示している。

 その言動・挙措は、ただ、お人好しの下らぬ人物にしかすぎないとおもう。ハシタ金を全学連にカンパし、それを契機に、接触の機会をもった安保闘争時の全学連の若干部分の幹部に、昔の自慢話をしてきかせ、かれらの闘争ぶりに感激したあまり、街頭デモを見物に出かけ、無智な出しゃばりの口を出し、それくらいで、自己が安保闘争の主導勢力に影響を与えたかのように錯覚している、ただの好々爺の像しかそこには存在しないのである。そして三年後にかれらの若干に職をあたえたことを自慢にしている中小企業のおやじがいるだけではないか。



 「反安保闘争の一連のカンパニヤに登場したかぎり」という制約で描いた田中清玄像であるが、「自己が安保闘争の主導勢力に影響を与えたかのように錯覚している、ただの好々爺の像」という一面は的確に捉えている。しかし、田中清玄は一筋縄ではいかない人物のようだ。私は田中清玄にたいへん興味がわいて、「田中清玄自伝」(ちくま文庫)を購入してきた。とりあえず、拾い読みをしてみた。田中清玄ご本人について、深く立ち入るつもりはなかったのだが、ちょっと、横道に入る。

 「田中清玄自伝」は毎日新聞社の大須賀瑞夫記者が田中清玄にインタビューしたものをまとめた本である。大須賀さんは「解題」で、田中清玄の通俗像にない「一つの特徴」を取り上げ、次のように述べている。

 田中清玄のもう一つの特徴は、それだけ行動的でありながら、その一方でまるで思想家のような発言と人脈づくりを行ってきたことである。例えばノーベル経済学賞を受賞したことで知られるフリードリヒ・ハイエクとの親交がそうであり、また京都学派の中心的学者といわれた今西錦司との交遊もそうであった。しかも重要なことは、田中が彼等の学問の今日的、かつ将来的意義を正確に見抜いた上で、付き合いを深めていることである。単なる儀礼的付き合いなら、ハイエクのノーベル賞受賞のパーティで、メインテーブルに座るただ一人の日本人には選ばれなかっただろうし、今西との対談のために、ハイエクが三回も日本に足を運ぶこともなかったに違いない。



 さて、全学連との関係を、田中清玄自身はどのように述べているだろうか。「田中清玄自伝」から抜き書きしておこう。

―田中さんといえば、60年安保で全学連幹部に資金提供をしていた印象が強烈です。その理由を話してください。

 当時の左翼勢力をぶち割ってやれと思った。あの学生のエネルギーが、共産党の下へまとまったら、えらいことになりますからね。一番手っとり早いのは、内部対立ですよ。マルクス主義の矛盾はみんな感じていましたから。

 ロシアの威光をかさにきてやる者、それから共産主義の欠陥をくみ取れない連中、進歩的文化心ではやりの馬に乗った人間、彼等にはそういういろんな雑多な要素があるんです。

 しかも反代々木(反日共)で反モスクワである点が重要だ。彼等を一人前にしてやれと考えた。反モスクワ、反代々木の勢力として結集できる者は結集し、何名か指導者を教育してやろうというので、全学連主流派への接触を始めた。  もう一つは、岸内閣をぶっ潰さなければならないと思った。


―しかし、全学連指導部の意識は日本の革命だし、立場は正反対だったのではありませんか。


 革命運動はいいんだ。帝国主義反対というのが、全学連のスローガンだった。しかし、帝国主義打倒というのを、アメリカにだけぶっつけるのは、片手落ちじゃないかと僕は言った。「ソ連のスターリン大帝国主義、専制政治はどうしたんだ」とね。そうしたら、そうだと。それで、これは脈があるなと思って、資金も提供し、話もした。

 私のところにきたのは、島成郎です。最初、子分をよこしました。いま中曾根君の平和研究所にいる小島弘君とかね。東原吉伸、篠原浩一郎もだ。島にあってくれということなんですね。

―当時の報道ではかなりの資金が渡されたといわれていますが。

 機会あるたびに、財布をはたいてやっていました。いろんなルートで。まあいいじゃないですか。それはそれで。

―唐牛健太郎が函館出身だったというのも、付き合いができた理由ですか。

 それが一番大きい。知らなかった、唐牛というのは。島が唐牛に全学連の委員長をやらそうと思うが、どうだろうかって。「あなたと同じ函館の高校で、今は北大だ」と言ってきた。それで僕は「君がいいと思ったら、やったらいいじゃないか」と答えた。島の決断です。私に接近してきたのも、彼の決断だった。島がいなかったら、私と全学連の関係はできなかったでしょう。

 本当は全学連委員長というのは、東大に決まっているんですよ。それを破って、京大でもない、北大の、しかも理論家でもない行動派の唐牛を持ってきた。唐牛は直感力では、天才ですね。しかし、組織力ということなら島です。先見性もね。決して彼はスターリンや宮本顕治のような独裁者にはならない男です。

 一つの運動が終わると去っていって、また次の運動を組織していく、そういう点で天性のものを持っている。沖縄での精神病院での地域医療活動だってそうでしょう。まさに社会的実践そのものです。彼はいい男ですよ。時々ここへもポカッ、ポカッと来ますよ。去る者は追わず、来るものは拒まずです。

―具体的にはどんな事をされたのですか。

 全学連といったって、最初はただわあーと集まってくるだけで、戦い方を知らん。それでこっちは空手の連中を集めて、突き、蹴るの基本から訓練だ。僕の秘書だった藤本勇君が日大の空手部のキャプテンで、何度も全国制覇を成し遂げた実績を持っていた。彼をボスにして軽井沢あたりで訓練をさせたんだ。藤本君がデモに行くと、一人で十人ぐらい軽く投げ飛ばしてしまう。

 「お前は右翼のくせに左翼に荷担してなんだ」なんて、だいぶ言われていたけど、「なにを言ってやがる。貴様らは岸や児玉の手先じゃねえか」って言ってね。デモをやると右翼が暴れ込んでくるんだ。それを死なない程度に痛めつけろ、殺すまではするなと。それでしまいには右翼の連中も、あいつらにはかなわんということになった。

 ― 60安保のデモ隊から岸首相を守るため、自民党の福田篤泰代議士の選挙区の三多摩地方から、威勢のいい青年たちを動員したと聞いたことがありますが。

 そんなもの来たってちっとも怖いことなどなかった。しかし、こっちは反帝国主義、反米だけではどうしても今一つ盛り上がらない。それて取り上げたのが反岸だった。それをやったのは島です。

 全学連の内部では、「国内問題に矮小化しすぎる」「国際性がない」「革命性が失われる」などと小理屈をこねるのもいたが、困るのは自民党、岸一派だけだ。遠慮しないでやれと言ってやった。

 水道橋の宿屋で待機していて、田舎から送られてくる部隊を集めては、左翼と一緒に戦えと話してやった。彼等は「なんだ、今まで仲間だったのと戦うのか」っていうから、「そうだ、極右である岸・児玉一派と戦うんだ。大義、親を滅ぼした」なんて言ってね。

 あのエネルギーを爆発させることができたのは、何といっても戦いに反岸を盛り込んだことだし、それをやり切ったのは島や唐牛でした。彼等がいなければ、警視庁だけでは、岸・児玉一派にやられてしまっていたでしょう。原文兵衛警視総監が一番理解してくれた。

 ― あの時、岸首相は自衛隊を出動させようとしましたよね。

 それをきっぱりと断ったのが赤城防衛庁長官と杉田一次陸上幕僚長だった。えらかったねえ。岸がうるさく迫ったんだが、二人ともはねつけた。杉田陸幕長は戦前、東久邇宮付きの武官で、米国留学の経験もあり、あんなことで兵を出したらどんな事になるか、よく分かっていた。

 ― なぜ黒幕なんて言われたんでしょうか。

 さあ、私には分かりませんが、マスコミが流したことは確かです。戦後ある時期まで、新聞紙はもちろん、出版社などにもずいぶん日本共産党の秘密党員やシンパがおりましたからね。それから私は岸信介や児玉誉士夫らと徹底的に戦いましたが、かれらもまたマスコミにはかなりの影響力をもっていました。彼等の双方から挟撃され、意図的にそのような情報が流されたということじゃないでしょうか。



 児玉誉士夫のような典型的な「権力の寄生虫」的右翼とは一線を画する人物だし、情勢に対する見識もあると思う。しかし、「好々爺」の自慢話というニュアンスを強く感じ、ちょっと辟易とさせられる面がある。次の吉本さんの見解が正鵠を得ていると思う。

 激化した大衆闘争のなかで、ひとりの個人の、あるいは少数のグループの演じうる指導的役割は、たかがしれているとおもう。たとえどのような陰謀家を想定してみたところで田中清玄の恣意によって、安保闘争の主導的なたたかいが嚮導されたというようなことはあり得ないのである。

 それは、大衆闘争そのものを愚弄することであるし、そこに参加した、諸個人と諸組織を愚弄する言いがかりにすぎない。そして、何よりも組織的壊滅をかけてたたかつた、全学連と共産主義者同盟の諸君に対する愚弄である。安保闘争を主導的にたたかった学生、労働者、市民知識人は、こういう愚劣なカンパニヤを許している「情況」そのものを、それぞれの場所から粉砕すべき課題を担っている。



昭和の抵抗権行使運動(56)

60年安保闘争の評価(2)
田中清玄問題(1)


 安保闘争が終焉してから3年後、1963年2月26日、TBSラジオが「ゆがんだ青春」(全学連闘士のその後)と題する録音構成番組を放送した。それはたちまちに大きな波紋を呼び起こした。

 その内容を内外タイムス(3月2日)は「全学連に意外なパトロン 五百万円ボンと出す反共運動家の田中氏」と題して報道した。

『安保闘争で世界的にその名をとどろかせた〝ゼンガクレン″に意外なスポンサーがついていたことがわかった。戦前の〝武装共産党″の書記長―戦後は反共活動家として有名な田中清玄(きよはる)(57)がその人。この新事実は、現在の学生運動家や当時安保デモに参加した学生に大きなショックを与えているだけでなく、当時全学連を支持した進歩的文化人の間にも「これは安保闘争での全学連のはたした役割りを再評価させる問題だ」という声が起きるなど大きな波紋をよんでいる。・・・』

 日本共産党中央機関紙「アカハタ」は、連日この問題を大きく取上げ、〝全学連トロツキスト″キャンペーンを繰り広げた。さらに「アカハタ」は、全学連主流派を支持した学者への攻撃も始めた。また、それを週刊朝日(3月22日号)が大々的に特集する。

 3月10付の「アカバタ日曜版」は、この問題を特集し、TBS放送の要旨をのせたほか、東原、唐牛、篠原三君の〝私生活の乱脈ぶり″まで伝えた。そして「CIA、公安調査庁につながりをもつ田中清玄」と書立てた。

 学生集会にも、TBSの放送を再録音したテープを持出し、攻撃の輪を広げているが、3月17日から19日まで東京で開かれる平民学連(日共系の学生組織)主催の全国学生会議には、この問題が大々的に取上げられるというウワサもある。

 日本共産党中央委員・青年学生部長の砂間一良氏はこういった。

「われわれは、ざまあみろといった気持は毛頭もつていない。ただ、全学連の指導部を占拠したトロツキストの実体が、こんどの放送で分ったことと思う。彼らが運動の焦点を″反岸″にじぼり、アメリカ帝国主義との闘争にそっぽを向いたのは、来日反動の黒い手が背後にあったからだ。田中清玄はその窓口だった。当時いわれていた〝国会放火説″も単なるウワサではなく、政府はそれを機に徹底的な弾圧を加えようとしていた。トロツキストの役割はこうした激突主義によって安保闘争を分裂させることにあったのだ。日本共産党の路線が正しかったことをこんどの放送が証明したが、あのころ全学連指導部のカタをもった学者、文化人も教訓として受けとめてほしい」



 いわゆる進歩的文化人たちも、これに呼応するかのように、一斉に全学連に集中砲火を浴びせ始める。このとき、全学連を擁護した知識人は吉本隆明さん一人だけだったという。吉本さんは『反安保闘争の悪煽動について』を『日本読書新聞』(3月25日号)に発表する。進歩的文化人たちの論調はどのようなものだったのか。吉本さんは、次のように簡潔にまとめている。

 マス・コミと日共の伴奏する泰山の鳴動は、わたしたちの手に、なにをのこしたのだろうか?

 第一に、安保闘争時における全学連幹部の若干が、いま、田中清玄の企業で働いていること、第二に、安保闘争時において田中清玄から闘争資金として「数百万円」(週刊誌の記載による)を引きだしたこと、などが「事実」として残ったのである。像の記述の世界に奪われた脳髄をひやして、現実性に還元したとき、何と問題自体が下らぬものではないか。そこには神秘のひとかけらも、また、まともな思想者が、とりあげるに価する契機のひとかけらもふくまれていない。

 日共機関紙「アカハタ」や、「札つき」(榊の言葉だ)の日共イデオローグ榊利夫や、スターリニズム哲学者・芝田進午らは、このお粗末な、事実から、驚くべき虚像をひきだしている。

 田中清玄は、武装共産党時代の中央委員長であり、「転向」して反共右翼となった人物だから、これから闘争資金をひきだし、現にそこに就職しているものたちを幹部にふくめた全学連によって主導された安保闘争の運動は、スパイ・挑発者・トロツキストの策謀によってなされたもので、まったくぺテンであり、日共の反米愛国闘争と「お焼香デモ」のほうが、やはりただしかったというのである。

 日高六郎は(週刊朝日3月22日号)
 「唐牛君ら」が田中清玄から金をもらったことも問題だが「田中氏」が金を出した理由がさらに問題で、政治的陰謀だから、その動機・目的は厳しく追及する必要があるという要旨を語っている。

 清水幾太郎は(同右)
 知識人も含めた世間から、敵視された学生が、座標軸を失って孤独を感じ右翼へでもとびこむ者が出るような破滅的な状況のなかで、むしろまじめな人の方が多かったのは、不思議だし、ありがたいことだと思う、という旨の談話をのべている。

 大江健三郎は(サンデー毎日3月24日号)
 ボクは左右を問わず政治運動の指導者には疑問をもっています、と述べる。

 山下肇は(同右)
 戦後の学生運動の一つの汚点で、基盤の弱さが露呈されたものだ、という。

 田口富久治は、「不幸な主役の背理」(3月18日「週刊読書人」)で
 安保闘争で全学連幹部が、田中清玄に「結び」ついたのは、反ソ・反中共・反日共という思想的基盤と、「足」がないため闘争資金を外にもとめざるをえない物質的基礎とが、原因であり、目的のためには手段をえらばぬ全学連幹部のマキャベリズムがあったからだ、という見解をかいている。

 いずれも、まともな「知識人」や「政治運動家」や「市民」や「労働者」 ならば、「首をかしげ」たくなるような見解だとおもう。



 これらの言説を、吉本さんは次のように批判している。

 わたしたちは、まず、「事実」の核心を、安保闘争時と三年の歳月を経た現在の総体のなかにさしもどさなければならない。(「全学連」幹部であったとき、唐牛健太郎らは、田中清玄の「企業」に就職していなかった。「就職」している三年後の現在、かれらは「全学連幹部」ではなく、一個の市民、または人民である。)

 わたしのささやかな体験に照らしても、わずか二、三百人の中小企業で、十日間のストライキを組もうとすれば、闘争の責任者は数百万円の資金の目あてがなければ闘争にはふみきれないものである。全安保闘争を主導的にたたかった学生、知識人、労働者、市民の動員数と日数をいま、詳らかにすることができないが、そこで必要とされた資金の総体のなかで、田中清玄から、かれらが引きだしたという金は、(数百万円というのが事実だとしても)小指のさきほどの部分にすぎないことは、常識さえあれば、だれにでも、理解できるはずである。

 田口富久治は、政治学者として政治資金について一個の見解を披瀝したいならば、まず、このことを前提としなければ、虚構の論議になるとおもう。そのうえで、田口が関心をもつ「日本社会党」やそれに反対するのは危険であるという「日本共産党」の政治資金の実体について、学問的探求を試み、すくなくともそこから、何を学者として感得しうるか試みてみるべきではなかろうか。小才のきいた結論などを学者としてひき出すべきではないのである。

 部分を拡大して総体の問題にすりかえ、部分的誤謬を拡大して総体を無化する方法は、あらゆる政治的、思想的な悪煽動の発端である。

 マス・コミと日共機関紙をはじめ、これに唱和するすべての「知識人」たちは、一様に、田中清玄から全学連がひき出した、小指のさきほどの闘争資金のみを拡大して、ここに攻撃と論議を集中している。もちろん、日共機関紙のばあいは、学生運動を自己の影響下におこうとする明瞭な目的意識をもった悪煽動で、それなりに攻撃の動機は明白である。しかし日高六郎から田口富久治にいたる「知識人」の発言は、おそらく、別の根拠にもとづいている。それは何であろうか?



昭和の抵抗権行使運動(55)

60年安保闘争の評価(1)


 60年安保闘争を主導したブントと主流派(ブント系)全学連の闘いは、その後、どのように評価されているのか。既成左翼からの「トロツキスト」とは「プチブル急進主義」とかの皮相なレッテル貼りには関心はない。闘争の渦中にあった人たちの思想的な総括をこそ知りたいのだが、島さん・唐牛さんをはじめ中心的な役割を果たした人たちは多くを語ることなく、政治の世界から身を引いていったようだ。私の貧しい知識では、真摯な総括としては三上治さんの『独立左翼論』しか知らない。それを読んでいこうと思う。

 と思いつつ、ネットサーフィンをしていたら、 「人生学院」 というブログに出会った。管理人は「れんだいこ」と名乗っている。以下「れんだいこさん」と呼ぶことにする。

 れんだいこさんのブログは、全体の量が厖大で、かつ論題も多岐にわたっている。私にはまだ全体像がつかめていない。また、今まで目を通した範囲では、その論文はおおかた共感できるもので、質もなかなかのものだ。資料集としても充実している。これから大いに利用させてもらうことにする。論評部分を引用するときはその旨を断り書きするが、資料部分については断りなく利用させてもらおう。

 さっそく、れんだいこさんの60年安保闘争評価の弁を引用しておこう。

 60年安保闘争は日本政治史上のエポックとなっており、社会党、総評、日共は手柄話の如く語っている。しかし、末端組織での動員レベルでそう語るのは問題無しとして、宮顕系日共党中央が「あたかも闘いを指導した」かの如く誇るのは史実に反する。事実は、ブント系全学連こそが「60年安保闘争」の情況をこじ開け、檜舞台に踊り出、全人民大衆的闘争に盛り上げたのではなかったのか。れんだいこの検証に拠ると、宮顕系日共党中央は意図的に懸命になって闘争圧殺に狂奔している。案外と知られていないが、これが史実である。

 その闘いぶりは世界中に「ゼンガクレン」として知られることになった。この渦中で、民青同系は遂にブント系全学連と袂を分かつことになった。こうして学生運動は革共同運動のそれも含め三分裂化傾向がこの時より始まることになった。6・15の国会突入でブントの有能女性闘士樺美智子が死亡し、大きな衝撃が走った。この闘争の指導方針をめぐって全学連指導部と日共が対立を更に深めていくことになった。

 結局、日米安保条約が自然成立した。しかし、アイゼンハワー米大統領の訪日は実現できなかった。岸内閣は倒閣された。岸のタカ派的軍事防衛政策はその後20年間閉居を余儀なくされることになった。「60年安保闘争」の総括をめぐってブント内に大混乱が発生することになった。ブントは自らの偉業を確信できず、宮顕日共のトロツキズム批判と革共同の駄弁に足元を掬われていった。

 しかし考えてみよ。60年安保闘争を渾身の力で闘い抜いたブント系全学連のエネルギーこそは、日本左派運動史上に現出した「金の卵」ではなかったか。社会背景が違うとはいえ、70年安保闘争は足元にも及ばない国会包囲戦と国会突入を勝ち取り、岸内閣が目論もうとしたタカ派路線のあれこれの出鼻を悉く挫いたのではなかったか。全国に澎湃と政治主義的人間を創出せしめた。これらは明らかにブント的政治戦の勝利ではなかったか。



 また、れんだいこさんは「戦後学生運動の高揚と凋落」の真の要因を保守ハト派と保守タカ派の抗争に求めてている。そして、「戦後学生運動の高揚と凋落」を、1960年代から現在までの政治状況とからめて、次のように俯瞰している。とてもユニークで説得力のある観点だと思う。

 そうした「戦後学生運動の1960年代昂揚」の凋落原因を愚考してみたい。

 れんだいこは、
1・民青同の右翼的敵対
2・連合赤軍による同志リンチ殺害事件
3・中核対革マル派を基軸とする党派間テロ
の3要因を挙げることができる。しかし、それらは真因ではなくて、もっと大きな要因があるとして次のように考えている。

 戦後学生運動は、ある意味で社会的に尊重され、それを背景として多少の無理が通っていたのではなかろうか。それを許容していたのは何と、戦後学生運動がことごとく批判して止まなかった政府自民党であった。ところが、その「政府自民党の変質」によって次第に許容されなくなり、学生運動にはそれを跳ね返す力が無く、ズルズルと封殺され今日に至っているのではなかろうか。凡そ背理のような答えになるが、今だから見えてくることである。

 思えば、「戦後学生運動の1960年代昂揚」は、60年安保闘争で、戦後タカ派の頭脳足りえていた岸政権が打倒され、以来タカ派政権は雌伏を余儀なくされ、代わりに台頭した戦後ハト派の主流化の時代に照応している。このことは示唆的である。

 60年代学生運動は、諸党派の競合により自力発展したかのように錯覚されているが、事実はさに有らず。彼らが批判して止まなかった政府自民党の実は戦後ハト派が、自らのハト派政権が60年安保闘争の成果である岸政権打倒により棚からボタモチしてきたことを知るが故に、学生運動を取り締まる裏腹で「大御心で」跳ね上がりを許容する政策を採ったことにより、昂揚が可能になったのではなかろうか。

 これが学生運動昂揚の客観的背景事情であり、れんだいこは、「戦後学生運動の1960年代昂揚」はこの基盤上に花開いただけのことではなかろうか、という仮説を提供したい。この仮説に立つならば、1960年代学生運動時代の指導者は、己の能力を過信しない方が良い。もっと大きな社会的「大御心」に目を向けるべきではなかろうか。

 今日、かの時代の戦後ハト派は消滅しているので懐旧するしかできないが、戦後ハト派は、その政策基準を「戦後憲法的秩序の擁護、軽武装たがはめ、経済成長優先、日米同盟下での国際協調」に求めていた。その際、「左バネ」の存在は、彼らの政策遂行上有効なカードとして機能していた。彼らは、社共ないし新左翼の「左バネ」を上手くあやしながらタカ派掣肘に利用し、政権足固めに利用し、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国との駆け引きにも活用していたのではなかろうか。それはかなり高度な政治能力であった。

 れんだいこは、論をもう一歩進めて、戦後ハト派政権を在地型プレ社会主義権力と見立てている。戦後ハト派の政治は、
1・戦後憲法秩序下で
2・日米同盟体制下で
3・在地型プレ社会主義政治を行い
4・国際協調平和 を手助けしていた。してみれば、戦後ハト派の政治は、国際情勢を英明に見極めつつ、政治史上稀有な善政を敷いていたことになる。実際には、政府自民党はハト派タカ派の混交政治で在り続けたので純粋化はできないが、政治のヘゲモニーを誰が握っていたのかという意味で、ハト派主流の時代は在地型プレ社会主義政治であったと見立てることができると思っている。



 ちなみに、次のようなエピソードが伝えられている。

「焦土と化した日本の国土と、敗戦による荒廃した人心をいかに立て直すか、これが当時有為の人間の、言葉に出さない共通命題だった。『学生は未来の社会の宝だ。出来ることなら逮捕を避けろ』といった公安幹部が、当時、少なからずいたという」(東原吉伸)

「1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。ギラン『あの学生達をどう思うか』。角栄『日本の将来を背負う若者達だ。経験が浅くて、視野は狭いが、まじめに祖国の先行きを考え、心配している。若者は、あれでいい。マージャンに耽り、女の尻を追い掛け回す連中よりも信頼できる。彼等彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生が一筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重心が低くなる。私は心配していない』。私を指差して話を続けた。角栄『彼も青年時代、連中の旗頭でした。今は私の仕事を手伝ってくれている』。ギランが『ウィ・ムッシュウ』と微笑み、私は仕方なく苦笑した」(早坂著「オヤジの知恵」)

 今は逆で、タカ派主流の時代である。そのタカ派政治は、戦後ハト派政権が扶植した在地型プレ社会主義の諸制度解体に狂奔している。小泉政権5年有余の政治と現在の安倍政権は、間違いなくこのシナリオの請負人である。この観点に立たない限り、小泉―安倍政治の批判は的を射ないだろう。この観点が無いから有象無象の政治評論が場当たり的に成り下がっているのではなかろうか。

 そういう意味で、世にも稀なる善政を敷いた戦後ハト派の撲滅指令人と請負人を確認することが必要であろう。れんだいこは、指令塔をキッシンジャー権力であったと見立てている。キッシンジャーを動かした者は誰かまでは、ここでは考察しない。このキッシンジャー権力に呼応した政・官・財・学・報の五者機関の請負人を暴き立てれば、日本左派運動が真に闘うべき敵が見えてくると思っている。

 このリトマス試験紙で判定すれば、世に左派であるものが左派であるという訳ではなく、世に体制派と云われる者が右派という訳ではないということが見えてくる。むしろ、左右が逆転している捩れを見ることができる。世に左派として自称しているいわゆるサヨ者が、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国イデオロギーの代弁者でしかかないという姿が見えてくる。この問題については、ここではこれ以上言及しないことにする。

 1976年のロッキード事件は、戦後日本政治史上画期的な意味を持つ。このことが認識されていない。れんだいこ史観によれば、ロッキード事件は、戦後日本の世にも稀なハト派政治の全盛時代を創出した田中―大平同盟に対する鉄槌であった。ロッキード事件はここに大きな意味がある。ここでは戦後学生運動について述べているのでこれにのみ言及するが、「戦後学生運動の1960年代昂揚」にとって、ロッキード事件は陰のスポンサーの失脚を意味した。この事件を契機に、与党政治はハト派主流派からタカ派主流派へと転じ、それと共に戦後学生運動は逆風下に置かれることになった。

 その結果、1980年代の中曽根政権の登場から始まる本格的なタカ派政権の登場、そのタカ派と捩れハト派の混交による政争を経て、2001年の小泉政権、そして現在の安倍政権によってタカ派全盛時代を迎えるに至った。彼らは、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国の御用聞き政治から始まり、今では言いなり政治、更に丸投げ政治を敷いている。現下の政治の貧困はここに真因があると見立てるべきであろう。

 ここでは戦後学生運動について述べているのでこれにのみ言及するが、彼らにあっては、戦後学生運動は無用のものである。故に、断固鎮圧するに如かずとして、もし飛び跳ねるなら即座に逮捕策を講じている。今ではビラ配りさえ規制を受けつつある。この強権政治により、うって変わって要らん子扱いされ始めた学生運動は封殺させられ、現にある如くある。

 れんだいこ史観では、「戦後学生運動の1960年代昂揚の衰退」はもとより、社会党及び日共宮顕―不破系の協力あっての賜物であった。彼らは、その党派の指導部を掌握し、口先ではあれこれ云うものの本質は「左バネ潰し」を任務としてきた。こう見立てない者は、口先のあれこれ言辞に騙される政治的おぼこ者でしかない。これらの政策が殊のほか成功しているのが今日の日本の政治事情なのではなかろうか。成功し過ぎて気味が悪いほどである。

 このように考えるならば、戦後左派運動は、その理論を根底から練り直さねばならないだろう。結論的に申せば、宮顕―不破―志位系日共理論は特に有害教説であり、彼らは思想的には左派内極限右翼であり、「左からの左潰し屋」である。一体全体、野坂、宮顕、不破の指導で、日本左派運動に有益なものがあったというのならその例を挙げてみればよい。れんだいこはことごとくそれを否定してみよう。しかし、一つも事例が無いなどということが有り得て良いことだろうか。

 それに比べ、新左翼は心情的にはよく闘ってきた。しかし、闘う対象を焦点化できずにのべつくまなく体制批判とその先鋭化に終始し過ぎてきた。政府自民党批判の水準に於いては日共のそれとさして代わらない代物でしかなく、それは無能を証している。為に、その戦闘性が悪利用された面もあるのではなかろうか。あるいは消耗戦を強いてきただけのことなのではなかろうか。



昭和の抵抗権行使運動(54)

安保闘争の終焉


6・16
 16時40分、岸首相はアイゼンハワー大統領の訪日延期を要請したと発表。

6・18
 樺美智子さんの東大合同慰霊祭が行なわれた。
 安保条約自然成立。労働者・学生・市民徹夜で国会包囲。連日デモ

6・23
 岸首相退陣を表明  樺美智子全学連追悼集会

7・4 全学連第16回大会。反主流派、全日連結成

7・19
 池田勇人内閣成立。 7・29
 ブント第5回大会。ブント解体へ

8・9
 ブント、安保総括をめぐり、革通派、プロ通派、戦旗派に分裂

10・12
 浅沼稲次郎、右翼少年・山口二矢に暗殺される。
 池田内閣打倒、浅沼刺殺抗議全学連集会

 60年安保闘争で主役を演じた全学連は、7月4日、3000名を結集した全学連第16回大会を開催した。(以下、蔵田さんの解説をそのまま引用する。)

 大会は、過去一年半余の死闘を総括し、自己が果たした歴史的役割を鮮明にし、今後、学生運動に課せられるであろう歴史的任務を提起し、新しい闘いに向けて終わりなき進撃を続けていくことを確認した。同時に、「苦闘の底から…・・・強固な前衛政党の早急な出現」を期した。

 だが、ブント=安保全学連は共産同の劇的自壊という予期せぬ重態のなかで、一挙に崩壊していった。この安保全学連の崩壊こそは、以後数年間にわたる革命的左翼の混迷と苦闘を告示する歴史ドラマのはじまりだった。

 大会をボイコットした日共都自連は、「全国自治会連絡会議」(全日連)を結成し、第二全学連への第一歩を開始していくかにみえた。だが、日共党内闘争のなかで、構改派は自立化し、やがて全自連も解体することになり、日共をふくめて、左翼諸党派は試練にみちた党派再編期の激浪にさらわれていったのである。

 また、60年安保闘争の敗北は三池闘争の敗北を必然化させた。全山三万名の労働者がパイプ、竹槍、角材で武装し、塹壕を掘り、三池艦隊を編成して、一万名の武装警官、右翼暴力団と対峙し、内乱寸前にまでつき進んだ。しかし、労働運動指導部は、第一組合の大量解雇と一名の戦士の生命をいけにえにして、労資の手打式を強行した。そして、ついにヤマに吹き荒れた斜陽石炭産業の合理化の嵐は、炭労の敗北によって幕を閉じた。

 こうして、55年神武景気、59年岩戸景気に引き続く日本資本主義の60年代高度成長は、支配階級のチャンピオン池田内閣のもとに、強蓄積、高度成長を開始していくことになるのである。



 以上で、この稿の所期の目的を果たしたことになると考えていますが、60年安保闘争のその後の事について、なお若干の追記をしたいと思います。もう少し続けます。

今日の話題

心優しき反逆者たち


 今朝、日課のブログ閲覧をしていて、天木直人さんのブログで、心優しき反逆者たち という記事に出会った。それが昨日の「今日の話題」と大きく共鳴する記事だったので、書きとめておこうと思った。

 朝日新聞の連載記事「うたの旅人」の11月22日付の記事が「神田川」を取り上げ、「神田川」を作詞した喜多條忠さんがその詞に込めた思いを掘り起こしている。天木さんは、その記事の内容を紹介して、その記事への深い共感を述懐している。天木さんの紹介文から、私が大きな「共鳴」を感じた部分を転載させていただく。

 東京で4畳半の下宿に住み銭湯に通ったのは喜多条や南だけではない。バンドの誰もが歌詞に共感した。「みんながあの詞に感動して、自分の思いを注ぎ込んだ」と南は語る。

 とはいえ、メロデーは単調で、プロデューサーは「変な歌だね」と酷評した。ラジオで紹介するとリクエストが殺到したが、世論は南さんに「軟弱な4畳半フォーク」と冷水を浴びせた。

 軟弱どころか「神田川」が実は闘う男の歌だった事を南さんが知るのは、それから約20年後のことである。

 「神田川」が若者の心をつかんだ70年代は学生運動の時代だった。「心優しき反逆者たち」で作家の井上光晴氏は、「心の冷たい反逆者は本来ありえない」と書いた。やさしさの底にあったのは他人への愛とともに、自分流の人生を貫くという自己への愛ではなかったか。

 神田川の詞は当初、「何も怖くなかった」で終わっていた。本当にそうか。怖いものは何もないのか。そう思ったとき、デモから帰った下宿でカレーライスをつくる彼女の後ろ姿を、喜多條は思い出した。

 一市民として安穏と生きる人生。それは拒まなければならないと思っていた喜多條の頭には、いつも彼女の後姿がある。彼女の優しさを思うとき、その彼女を哀しませる反逆人生を貫いていいのか、と怖くなる。

 その唯一の怖さを抱きながら、「優しさに安住しない人生を生きるぞ」という男の闘争宣言がこの歌だったのだ・・・



今日の話題

人知れず輝く珠玉のような人がいる。


 日頃暗いニュースに接するたびに、私の口をついて出てくるのは、もっぱら「人間というのはどうしようもないドウツブだ」という呟きです。最近は、その度数がますます増えています。もちろん、私自身が「どうしようもないドウツブ」の一匹であることは十分に自覚しています。

 しかし、たまに明るい希望の灯をともしてくれる素敵な人を知って、「人間って捨てたもんじゃないなあ」と、思いを改める事があります。

 昨日の東京新聞(11・21夕刊)のコラム「放射線」の、星野智幸(作家)さんの文章に心を打たれました。

 先週、私の尊敬していた叔父が、病により61歳で亡くなった。

 叔父は重度の障害者で、ずっと車椅子生活を送っていた。22歳のとき、学生運動中に脊髄を損傷したのだ。下半身不随となり、32歳からは週三回の人工透析を余儀なくされた。

 だが叔父は、真剣に生きるという点において、誰よりも′健康であった。人なつこく楽天家で、決して怒らない。一方で筋金入りの正義漢で、常に弱い立場の人とともにあろうとした。障害を負うや、東京を駆け回り、車椅子生活者にとっての便・不便を解説したガイドマップを刊行。まだバリアフリーという概念も一般的でなかった1970年代から、車椅子でも普通に生活できる街作りを目指し、現在のバリアフリーや障害者自立トライアル'60支援の基礎を築きあげた。

 私は、叔父の活動については無知だったが、叔父の存在には深い影響を受けてきた。私にとって叔父は、言っていることとやっていることが違っておらず、諦念とともに現実となれ合ったりしない、数少ない大人だったからだ。

 去年から、叔父は急速に具合を悪化させていた。首から下が完全に麻痺して手も動かせず、自力では何もできなくなったのだ。それでも叔父は、「トライアル'60」というブログを開設して、自分の病状や考えを書きつづつた( まだ見られます)。内容は壮絶だが、叔父らしい前向きさに、どれほど私は励まされたか。肉体は去っても、叔父の精神は言葉に生きている。



 氏(お名前が分からないのでこう表記します。)がたずさわった学生運動は、70年安保あるいは学園闘争だったでしょうか。学生運動では、樺美智子さん以来、多くの犠牲者が出ていますが、 殺された方ばかりではなく、自殺された方、障害を負った方々も相当数になるはずです。障害を負った方のお一人、氏の珠玉のような人生に打ちのめされる思いです。

 まだ見られるとのことなので氏のブログ 「トライアル'60」 をお訪ねした。

 最初の記事で氏は障害の原因を「二階から落ちて」と書かれいています。さまざまな人や事情への気配りの結果でしょう。私は氏の暖かさ・優しさの表れと読みました。

 最後の記事は最期を看取った奥様の訃報報告とヘルパーさんの弔辞記事でした。

 奥様は文章の最後を次のようにつづっています。

 生前、彼の手記の中にこのようなことが書いてありました。

 よかったこと、「ありがとう」が素直に言えるようになったこと。多くの人に支えられていることを実感できるようになったこと。人は善良な人が多いと思えること。そして、バリアフリーは人を善良にする力がある。

 とありました。よかったこととは、障害をもってよかったことの意味だと思います。どんなに障害が重くてもどんな障害があっても良かったと思える生き方、人生をおくれるようにこれから微力ながら故人の遺志を継いで頑張って生きていきたいと思います。



 ヘルパーさんは、氏を「仕事上だけでなく、親密なおつきあいをさせていただいてきた、ぼくにとって最大の先生であった方」と敬意を表しています。ヘルパーさんはその文章を次のように締めくくっています。

 看護師が透析室へ向かう準備を始める中、氏はギャッジベッドの上げ下げや体位交換を頻繁に要求された。不安や苦しみで、どうしようもなかったのだろう。またベッドのまま透析室へ行くため、透析室の準備で透析の時間がすこし遅くなったことや、苦しむ氏を目の前で何もできないでいる看護師やぼくに対する不満がつのり、「もっといきるということに真剣になれ」と怒鳴った。命ある限り真剣に、必死に生きたいんだという叫びであった。

「真剣に生きろ」

 最後まで「生きる」ということに必死であった氏の姿が、最大の教えであった。



合掌。

昭和の抵抗権行使運動(53)

テロリズムとは何か。


 テロリズム(テロ)とは一般には、「政治目的のために、暴力あるいはその脅威に訴える傾向。また、その行為」(広辞苑)を指す。従って、国家権力による人民への暴力も、国家による他国家への侵略圧政もテロである。そして、それらの暴力に抵抗する人民の闘いはレジスタンス(抵抗権行使活動)と呼ぶ。

 アメリカのイラク侵略はテロであり、イラク人民の抵抗はレジスタンスである。

 1960年5月19日、警官を導入して行った衆議院本会議における強行採決はテロであり、国会を包囲した人民の抗議デモはレジスタンスである。

 1960年6月15日~16日の流血事件では、警官隊・右翼のデモ隊への暴力はテロであり、学生たちの抵抗はレジスタンスである。このときは、警官隊・右翼が「過激派」であり、後の学生運動の過激化を誘引した根源はここにある。

 この後、強行採決は自民党の常套手段となり、警官隊による人民への攻撃も常態化していく。

(強行採決については
今日の話題:国会の「欺」事から見えてくる「ブルジョア民主主義」の正体


今日の話題:国会の「欺」事から見えてくる「ブルジョア民主主義」の正体(続き)
を参照してください。)

 藤田省三さんは、この流血事件をまのあたりに目撃し、また自らも警官隊の暴行により10ヶ所ほどの打撲傷を受けたという。その藤田さんが「6・15事件 流血の渦中から― この目で見た警察権力の暴力 ―」という文章を書き残している。そこから引用する。(傍点による強調文字を赤字で表記する。)

 警官隊は頑強なクツをはき、鉄帽をかぶり、コン棒を持っていた。私は全学連指導部のやり方には反対のものだが、しかし参加している数千人の学生は、とにかく、まったくの素手であった。学生の多くはシャツ姿であり、クツも運動グツ、なかにはハダシの学生もいた。互いに腕を組んで押すこと以外に学生の〝武力″はなかつた。 (中略)

 警察は私たち国民によって、合法的に武力を与えられているのだ。私たちは身体と生命を守るために合法的に武力を警察に託した。それゆえに、その武力が合法的に行使されるよう要求する権利がある。警官によって不法に行使された武力こそ、〝暴力″以外のなにものでもない。警官は明らかに〝暴力″を行使した。



 全学連主流派の国会構内突入闘争は、「議会民主主義の破壊」「はねかえり」「極左冒険主義」「トロツキスト」と、左右両方から集中砲火を浴びた。しかし、彼らは国会占拠、大げさな言い方をすれば、クーデターを企てたわけではない。このときの無武装・無防備の学生に国会占拠などできようはずがない。彼らの考えによれば「日本の人民が、国会の庭に入って院の前で抗議して何が悪いのか、悪いはずはない」。それは、警官を導入しての強行採決という「議会テロ」=「議会民主主義の破壊」への抗議として、まったく正当な行為である。

 このときの警官隊の暴力は明らかに過剰な行為である。それは、上層部からの直接の指示・命令がなかったとしても、岸信介ら支配者どもの人民に対する恐怖心の顕在化した結果であったと、私は思う。

『議会というものは、黒い選挙によって無自覚な国民の権利を資本が買い、議会という権利の剰余価値を産む機関を媒介にして法秩序が形成され、利潤のわずか一部分が不等質交換的に地元有権者にばらまかれるものにすぎない・・・・・・しかし、だからと言って、ただそれに背を向けているだけでは、権力の独占と集中は、敗戦による国家崩壊というような天荒地変のときまで改めることはできない・・・・・・少なくとも、資本が票を買い、買った票で人々を隷属化する、悪循環をどこかで断ち切ろうとする試みはしてみてもいい』
『一応我われは現在の議会制度を容認して、つまり多数決民主主義には反対しない立場から・・・・・・闘争をやってきた。容認することは絶対視することとは同じではなく、反対しないことはそれ以上の制度があり得ないと思っていることを意味しない。・・・・・・私たちは秩序を破壊したいために闘争するのではなく、虚偽の秩序をより本質的な秩序に替えたいために闘うのだ』(高橋和巳「我が心は石にあらず」)

 また私は、人民への暴圧の矢面に立たされ、凶暴化した警官たちが
「この野郎!」
「全学連め!」
とか
「皆ごろしにする!」
「殺せ、殺せ!」
などと叫びながら警棒を打ち振るったという光景に、分断支配された被支配者同士の悲しい不条理を思わないわけにはいかない。警官の多くは高卒の青年であり、被支配階級の子弟であった。そこにはまた、学者や大学生というエリートへの憎悪がなかったとは言えまい。右翼の末端団員についても、また然りである。

昭和の抵抗権行使運動(52)

〔ドキュメント〕6・15国会流血事件(7)


 警官隊が学生たちを追いあげてきた時、大学・研究所グル―プは南通用門の向かい側、やや地下鉄駅寄りに三々五々と集まっていた。同グループは、19時に起こった乱闘で、多数の学生が負傷したことを知り、その救援策や、警察への抗議などのため院内におもむいた代表の報告を待っていた。

 代表は、この乱闘による次のような悲惨な学生の負傷状態の報告を受けとっていた。

 第一次衝突の負傷者が19時をだいぶ過ぎたころから官邸前の救急車に運ばれはじめた。新議員面会所ではある者は手錠をかけられていた。その負傷者を私服刑事が救急車につれて乗り込もうとして憤激したデモ隊になぐられた。

 消防庁の三井・警防二課係長はこの状況を見て、責任者らしい警部に「手錠はやめて下さい」と申し入れた。22時のことだ。

 大学関係者らの要請で国立東京第一病院、代々木診療所、順天堂などの診療班がぞくぞく着いた。東大診療班は、正門前で多数(100人前後)の学生その他を治療したが、催涙弾投下後の大部分の傷は、後頭部や背中の裂傷と、打撲傷で、ひどく裂けていた。これは、後ろから警棒が振りおろされたことを示している、とその時の医師や看護婦は異口同音に語っている。

 またある医師は学生の知らせで、0時ころ、参議院第二通用門付近に放置されたままの瀕死の重傷者を一人救助した。



 1時20分、「右翼がきたぞ、危ない、スクラムを組め」とだれかが叫んだ。皆がスクラムをくみはじめた。グループの先端には大学・研究者たることを明らかにしたチョウチンをかかげ、旗も立てていた。その時、数十人の学生が、バラバラとかけ抜けていった。その後を警官隊がカン声をあげながら、ヘルメットを光らせ、黒い一丸となって殺到した。

 グループは「大学・研究所のものです」「われわれが集会の責任者だから、警官の指揮者と話そう」と口々に叫んだ(責任者は15センチ幅の白木綿に「大学・研究者集会」とスミで書いた腕章やたすきをつけていた)。

 警官隊は一瞬たちどまったが、すぐ後ろから「やれッ」という叫びがあった。警官は警棒をふりあげて打ってきた。

 「あなた方がどけというなら私たちは去ります」と叫んだ教授もいた。ここでも警官隊は一瞬ためらったふうに見えたが、後ろから「やれッ」という声がかかって、警棒がうなった。この後は、警官隊は容赦なく打ちかかってきた。

 このころ、評論家の篠原正暎氏が、ただの通行人として、首相官邸から南通用門の方へ向かって一人で歩いていた。氏の話によると地下鉄入り口付近で前方から学生が逃げてきた。「コヮィ」という女子学生の声をきいた。そのとたん、氏は肩を警棒でなぐられた。「騒擾罪だ、全員逮捕だ」という掛け声を聞いた。着ていたジャンパーには返り血がついた。

 教授団はバラバラと逃げ散った。多くは首相官邸の前の総理府を南に折れて走った。一部は総理府のガレージに飛び込んで、木のサクを越えようとあがいた。

 そこを警官は襲ってきてなぐった。頭を守ろうと手で覆った者は、手の甲に打撲傷をうけた。倒れて四つんばいになった者を警官は蹴り、踏みつけた。ある者は警官に腕をつかまれて円陣の中に投げこまれて倒され、蹴とばされた。警官は「逮捕、逮捕」と叫び「騒擾罪だ」と号令していた。

 教授団はそのほか、警官が
「貴様たちが煽動しやがったな」
「皆ごろしにする」
「殺せ、殺せ」
「一人も逃がすな」
と口々にどなったのを聞いた。

 道路は暗い上に雨でぬれていた。官邸前に停止していた装甲車やトラックが道幅を狭くしていて、教授団は逃げながら一人が転倒し、転倒者につまずいて数人が折り重なった。警宮は蹴飛ばしたり殴ったりしてグランド・ホテルの下の特許庁まで追ってきた。

 教授グループは、特許庁の角を左に折れて虎ノ門近くに集まった。点呼すると、数は150人ぐらいだった。襲われてから5分ちょっとぐらいの間の出来事だった。

 公表された「大・研・研」の資料では6月20日現在で、18の大学・研究所から27人の重傷者、115人の軽傷者を出した。その多くは、南通用門前の警官なぐりこみで負傷している。

 1時25分、ラジオ関東の窪田アナウンサーは、FMカーを首相官邸と国会記者会館の中間に置いていた。教授団が警官隊に警棒で打たれている状況を島アナが実況放送していた時、数人の警官が襲って両アナにとびかかった。
「何してるんだッ」
「ラジオ関東だ、実況放送中だ」
と両アナは叫んだ。警官隊は学生や教授団を追い散らして間もなく、官邸前の広場で陣容を整えて去った。

 この後で、窪田アナは奇妙なことにぶつかった。二人の私服刑事が、どうしても学生とは思えぬ数人の男に追いまくられて、通用門にとりつき、内側の警官隊に「刑事だ、あけてくれ」と叫んでいた。私服はどうにかして逃げ去ったが、窪田アナはその男たちに「あんた方は学生か」と聞いた。すると男たち(中には入れズミをした者もいた)は「おれたちはオデン屋組合の被用人だ。130人できたんだ。警官なんかやっつけちまえ、弱虫の学生とはちがうんだ」というようなことをいいながら、どこかへ消え去った。

 0時10分ころ、東大理学部の伴野助教授は茅総長に電話で事情を説明、茅総長は同40分ころ国会に到着し、議面に入った。このころ、大浜早大総長もKRテレビから国会にやってきた。

 両総長をまじえた大学・研究者グループは協議の上、学生に対する警官の暴行に抗議し、これ以上ケガ人を出さぬよう、両総長が警視総監に申し入れることになり、両総長は教授グループの二人をともなって自動車で警視庁に行った。警視総監は両総長に「もうデモ隊は解散したから安心して下さい」とのべた。

 両総長は再び国会に引き返した。だがもうそのときは、これまで大学・研究所グループのいた場所には、傘や袋がちらばっているだけであった。

 逃げのびた教授グループは特許庁前で解散した。2時ころであった。

 チャペルセンター前の学生たちは、数グループに分かれて有楽町方面に向かった。

 1時40分、学生約200人が有楽町駅前交番を襲い、窓ガラスをこわした。

 三宅坂、半蔵門の交番などもガラスなどをこわされた。

 4時35分、全学連の主力は有楽町で解散した。

 15日から16日にかけての右翼や警官隊の暴行で次のような負傷者が出た。

 この日は49台の救急車で162回のピストン輸送を行ない、479人を病院へ運んだ。うち重傷は36人、現場手当110人(22日現在の消防庁資料)。

 新劇人その他一般自由参加者
2週間以上の負傷62人(19日正午現在の新劇人会議資料)。

 警官隊の側の負傷者は714人、うち2週間以上36人、入院11人(23日現在警視庁資料)。

 なお、負傷して消防庁救急車以外の車で病院へ運ばれたり、そのまま帰宅したデモ隊の人たちも多く、負傷者の数字はいまなお正確につかみがたい。

昭和の抵抗権行使運動(51)

〔ドキュメント〕6・15国会流血事件(6)


16日 0時~4時35分
国会正面から官邸方面周辺


 藤巻記者は国会正面に行き、正門へ向かって左手、朝日新聞ラジオ・カーの近くにいた。学生は大部分がチャペルセンターの前に集まり、300~400人ぐらいが恩給局の曲がり角、100人近くは正門の土手近くにいた。

 16日0時、藤巻記者は正門前にならんだ警官輸送車が引き出されて放火されていくのを見た。すでに二、三台がダラダラ坂を中央に引き出されて燃えていた。

 放火を行なっている者の数はやはりここでも少数だった。火は手順よくつけられた。まず二、三人が運転台に飛び乗る。運転台のシートをあげて、重油タンクを金具でコンコンとたたく音が聞こえた。次にポッと火が出た。放火者は飛び降り、加勢を得て車を中央に押し降ろし、ワッショイと横転する。火は激しく燃え上がって、あたりを照らし出した。

 藤巻記者は、その手際がじつに鮮かなのに驚いた。そして放火者は、暗ヤミで、互いに名前を呼び合っていた。よく知り合っている仲間だナ、と藤巻記者は感じたという。

 警官は正門の中から三台の放水車を使って消火しようとした。効果なし。この時、南通用門から第四機動隊が、アメリカ大使館から第五機動隊が正門へかけつけていた。

 チャペルセンター前の学生は輸送車が燃えるごとにワーツとかん声をあげた。リーダーは学生群の中でアジ演説を行なっていた。

 朝日新聞の相田記者はチャペルセンターの向かいにとめたラジオカーの中でアジ演説を聞いた。そこでは「われわれはあすの11時までここにすわりこもう。11時には国民会議の労組員が応援にくる。われわれはこれに合流する」というアジが主だった。

 また東大のある課長は次のように聞いた ― 「正門前でトラックを燃やしているが、こういうやり方には賛成できない。正門前には右翼や警官が結集している。これ以上ケガするのは無意味だ。トラックの周囲にいる学友をよびもどそう」。そして、学生たちは、学校ごとに点検を行ない、数人が正門へ出て正門前にいた学生を連れもどすのを同課長は見たという。

 1時10分、藤巻記者は、燃え残りのトラックが二台しかないことを認めた(撃視庁発表は全焼16、半焼2)。

 その時、突然パンパンと二発のサク裂音を聞いた。次の瞬間、「麹町署長です。学生諸君が立ち退かぬので催涙弾を使用します」という拡声器による警告を聞き、たちまち、数十発の催涙弾が発射されて爆発した。パッと明るくなった。藤巻記者は目をやられて朝日新聞のラジオカーに逃げ込んだ。

 藤巻記者は、前の二発は無警告投弾だと思った。東大の内藤君はこの時、チャペルの向かい側にいた。内藤君は、燃えるトラックのタイヤの破裂音と催涙弾の発射音が酷似していて、無警告かどうか分からなかったという(警視庁は照明弾だといっている)。

 山下肇・東大助教授の担任する某学生は、びっくりして逃げ出したが、後ろから催涙弾の直撃を左ホオに受けた。左耳のコマクが破れ、顔面、肩、胸部に火傷を負って入院した(警察は、この後、学生を追って、1時32分に逃げまどって警視庁のボイラー室に入った三十数人の学生にも催涙弾を使用した =警視庁警備課情報)。

 1時20分、催涙弾発射と同時に、学生は大部分がチャペルセンターから警視庁方面へ逃げ出し、一部は恩給局のヘィに沿って地下鉄の国会議事堂前駅の方向へかけ出した。

 間髪を入れず、正門の左側の垣を越えて、防毒面着装の警官を先頭に、警官隊がヤミの中に躍り出た。一部は南通用門よりの垣を越え、土手から道路にとび降りて学生を追った。警官の大部分はチャペルセンターへ押しよせた。

 警官は警棒をふりかざし、カン声をあげて学生に躍りかかった。恩給局の塀寄りのドブに落ちて這い上がろうとする学生がなぐられるのを、ラジオカーの中に待避していたソノラマの藤巻記者は見た。

 ラジオカーの内部も苦しくなったので、車を平河町方面に向けて移そうとした時、毎日新聞のカメラマンが「朝日さん、KRが二人負傷した、救急車を呼んでくれ」と声をあげて叫んだ。

 東大の内藤君らは、国会図書館別館の植え込み内に逃げ込み、様子を見た。

 警官は電車通りを越えて学生を追った。電車通りを越えて学生を堀端近くまで追う警官を、負傷した清水・東大助手は病院へ行く途中で目撃した。

 学生を追った警官は引き揚げながら、植え込みをはい出したバラバラの学生を「早くいけいけ」と警棒でコヅいた。学生は恐ろしさにふるえ上がった(内藤東大生談)。

 朝日新聞の一柳、大西両記者は、催涙弾の音を聞いて、国会記者会館を出て南通用門をさがり、議員会館へ折れる三差路の近くまできた。この時、道幅いっぱ いに広がった警官隊が、トキの声をあげながら真っ黒になって、すごい速度でかけ上がってきた。その前を学生が逃げまどい、転倒した学生へ警棒が鳴った。

 一柳記者は驚いて逃げ出したが、逃げながら警官隊の中から「事態はソウジョウ(騒擾)である。全員手錠をかけて逮捕せよ」という指揮者の声をはっきりと聞きとった。

 このとき、南通用門の向かい側道路にいた約300人(もっと少なかつたともいわれるが、人数は確認できない)の大学・研究所のグループが襲われた。

 この学者グループへの暴行の有様を見た報道陣はこく少数であり、また、ほとんどまったく報道されてなかったという。「記録」は、このとき学者グループの先頭にいた「大学・研究所・研究団体集会」の実行委員(匿名希望)の話と、同集会が6月20日に明大教授・篠崎武氏、東大助教授・五十嵐顕氏の責任において公表した真相報告、東大原子核研究所職員組合の報告、法政大教授団の報告、および当夜いあわせた教授・研究者の体験をもとに、そのときの事件のあらましを、次のように再現している。(次回に続く)

昭和の抵抗権行使運動(50)

〔ドキュメント〕6・15国会流血事件(5)


19時30分~22時30分
衆議院南通用門内
抗議集会
そして二度目の警官隊の攻撃


 女子学生の死が伝わると、門外の学生は、異様に激高し、再び「構内に入れ」というアジは全員を動かした。死亡は警官側にも伝わったらしく、明らかに警官側にひるみが見えた。学生や通行中の市民が、サク内に黙然と待機中の警官に「人殺し」の罵声を浴びせていた。

 これに乗じて学生は全学連の指揮車を先頭にしてジリジリと構内に入り込み、やがてその数は4000人近くに達した。

 社会党議員数人が、警官隊に抗議し、学生もこれに加わって「殺すとは何事か」と警官隊に詰め寄った。警官隊は無言。

 20時、指揮車の上に加藤・全学連委員長代理らが乗って抗議集会を開こうと叫んだ。門内はびっしりと学生で埋まり、集会を開く。リーダーはかわるがわるアジる。

 21時、やがて「殺された学友の冥福を祈って黙祷」とリーダーが叫び、一分間の黙祷。静まりかえった構内。そのとき、山王祭りの花火が夜空にあがった。

 気温21度、湿度86。雨がひときわ強く降り出す。21時45分~23時50分まで雨。

 このころ、負傷学生たちはどのような扱いを受けていただろうか。

 重傷者は新議員面会所の地下面会所に投げ出されていた。その入口には警官隊ががん張っていて、報道陣も、国会議員も、学生の身を気づかつてかけつけた大学医学関係の看護斑もガンとして入れなかった。種々交渉の結果、やっと入ることができた大学・研究所グループの人たちが見ると、部屋は血と汗と消毒薬とほこりの異臭がたちこめ、数十人の重傷者がいた。この部屋には私服がいて、名前をきき回っていた。この部屋の重患は22時近くから救急車に収容されだしたが、大部分は16日0時まで放置されていた。

 社会党議員の多賀谷、小柳、滝井の三氏は警視庁で石岡公安部長と会い、「事態収拾のために、全学連には一時間の集会の後で構外へ退去、警官隊には実力行使を慎重にするよう現場の第五方面本部長に指示する」という斡旋をとりつけた。

 一方、学生デモ隊の」方では、某社党議員が加藤・全学連書記長代理に「22時まで待て、正面へ君らが移れるようあっせん中だ」と伝えた。しかし、学生群の後方では「殺されたんだぞ、進め進め」「警官隊はくずれた、ワッショィ」とかけ声があがった。再び雨が降りはじめ、数人の社党議員は「仕様がないな」といいながら、院内にひきあげた。

 22時、指揮車のリーダーは「ただいまより、正面玄関へ向かう、諸君、スクラムを組んで着実に進もう」と叫ぶ。

 22時5分、学生が動きはじめた時、後ろの方で「後方が危ない危ない」と声があがったと同時に、後方の第四機動隊と前方の第二機動隊が同時に警棒をふるってなぐりかかった。

 第二次乱闘はこうしてはじまった。すでに前線の警官は、指揮者の指示に従おうとしない状態になった。指揮者は「警棒を収めろ」と命令し、伝令は「慎重にという本部指示です」と叫んで回ったが、警棒はうなり、学生はなだれをうって南通用門の外へ逃げさり、そのあとには混乱を物語るおびただしいクツが散らばった。

 ラジオ東京の神岡報道部員は、この第二次攻撃の直前、東側の警官隊の前面にいた。神岡部員の話では警官の指揮者が部下に「代議士さまもご覧になってることなんだ」といって激励しているのを聞いてイヤな気持ちがしたと語っている。

 乱闘が始まると神岡部員は同僚の北村部員と、難を避けて背後に逃げようとしたが、警棒はこの二人にも降ってきた。「何をする、報道員だ」といったが「こいつもか」と数回なぐられた。「国会記者章が見えぬのか、責任者を出せ」とどなったがムダだった。

 警官隊は、指揮車の上に学生看護班まで追いあげて打った。女子看護斑の悲鳴が聞こえた(朝日テレビ・ニュース沖カメラマン談)。

 学生は逃げ、手当たり次第に石やタタミ石を砕いて警官に投げた(東大法学部自治会議長・内藤君談)。

 逃げながら学生の一人が藤ダナの近くから容器に入れた油に発火させて投げた。炎は投げ手の手にかかり、近くの学の頭や肩に点々とふりかかった。火が上をチラチラと走った。先端の警官はオッと叫んだ(朝日ソノラマ・藤巻記者)。

 この乱闘でも十数人の重傷者が出た。学生たちは道路上にころびながら逃た。学生は「チャペルセンターへ集まれ」と隊を組んで参院方向へ移動した。

 22時30分、朝日ソノラマの藤巻記者は柵の内を歩いて正門へ向かった。途中土手から見下ろすと、南通用門から引き出された警官の輸送車五台が次々と火を放たれて燃えていた。その位置は正門と南通用門の中間であった。ツメエリの服を着た男たちは、顔を手ぬぐいで隠しいた。しかし、放火をやっている者は少数(20~30人)だった。

昭和の抵抗権行使運動(49)

〔ドキュメント〕6・15国会流血事件(4)


 18時40分、輸送車が門外に引きずり出された。そのすき間かち、まき散らされる水をくぐって、学生たちが周囲を警戒しながら、車の間をすり抜けてバラバラと入ってきた。

 構内に入った学生は10メートルほどのところで足ぶみをしながら立ちどまった。学生側のリーダーが警官に向かったまま、隊列を整えるよう指揮していた。学生は次第にその数を増し、8メートル~10メートルの間隔を取って警官と対峙していた。

 そのとき、社会党の石野、井岡などの代議士が仲介のために出てきたが、警官と私服にとりかこまれ、売国奴とののしられ、蹴られた。学生たちの投石が激しくなった。

 18時59分、2台目の車を引き出そうとする。

 19時3分、門外に引き出される。後方にあった車2台も後ろへ押しやられ、学生がドンドン入る。放水効果なし。

 このとき官邸より第二機動隊二中隊が国会構内へ入る。

 19時4分、学生数約700。このとき学生の正面にいた警官隊が後方へ引きさがって袋状の隊形となった。学生との間は20~30メートルとなり、広い空間ができた。

 「警官隊が後方へ引きさがって袋状の隊形」をとった意図はなんだったのだろうか。「記録」の編集部は次のような「注」を付けている。

(注)
 「引きさがった」状態を説明する多くの人の形容詞は二つに大別される。一つは「逃げるように」「仕方なく」というもの。もう一つは「サッと」「整然と」というもの。この後退の意味は、じつは非常に重要な意味をもっている。なぜかならば、警官隊の学生に対する意図がなんであったかに関係するからである。しかし編集部が集めたところでは、これを決定する資料はない。もし意味を考えるとすれば、その後の警官隊の行動との関連において考えるより仕方がないだろう。

 その直後の「警官隊の行動」は次のようであった。

 19時5分、白い警棒が西側の第四機動隊の後方でふりあげられ「かかれ」と叫ばれた。警官隊はワッとかん声をあげ、警棒をふりあげて旧議員面会所方面に殺到した。

 学生は算を乱して逃げたが、一部は旧議員面会所のガラス戸を外して警官に投げつけ、一部はプラカードの柄をふりかざして打ち合った。警棒が学生の頭や肩を打ちのめす音が不気味に聞こえ、最前列の学生は両手で頭をかかえながら倒れた。

 倒れた学生は警官になぐられながら後方へゴボウ抜きに送りこまれ、そこでは私服が猛烈な一撃を加えてたたきふせた。私服は、男女を問わず負傷学生の髪の毛をつかんだり、足をもったりして新議員面会所にひったてた。

 19時20分、学生は門外に押し出された。すさまじい警棒攻撃と負傷学生のうめき ― 「だれかが死んだのではないか」と語られはじめ、やがて、19時30分を過ぎるころから、女子学生の死亡が伝わりはじめた。

 これよりさき19時ころ、南通用門の西側には、東大本郷の学生がスクラムを組んでいた。その先頭から十数列目に、薄クリーム色のカーディガンに紺のスラックスの樺美智子さん(22)の姿があった。

 やがて、阻止用の輸送車が引き出され、緊張が一段と高まったとき、二、三人の学生が、女性は危険だから後ろにさがるように叫んだ。樺さんの右隣の男の学生も、樺さんに後退することを勧めた。しかし、樺さんは、これを拒否し、みんなと行動をともにすることを主張していた。

 スクラムは前進した。警官の後退で、構内に入ることは容易だった。学生たちは構内で隊列を整え、スクラムを固めた。

 樺さんの姿は、前から十数列目に見られた。しかしつぎの瞬間、警官の突入と同時にスクラムは乱れ、樺さんは、前から押され、後ろから押された。転倒する学生もいたし、警棒で殴られる学生もいた。

 それから約10分後の19時30分ころ、一女子学生の死が報じられた。それが樺さんであった(東大生の話)。

 樺さんの死については、まだ不明の点が多い。死体搬出に関しては、南通用門からデモ隊医療班が運び出し、官邸付近からきた救急車に収容して、19時30分ころ、警察病院に運び込んだ(警察病院調べ)。死因についても、司法解剖に立ちあった坂本、中田両医師は、「窒息死であり、扼死の疑いが強い」と主張し、東京地検は、窒息死か内臓出血という線をとっている。

 学生は負傷者をつれて、首相官邸前などで、通行の乗用車に向かって「負傷者を病院に運んでください」と叫んだ。協力を惜しまなかった人が多かったという。

昭和の抵抗権行使運動(48)

〔ドキュメント〕6・15国会流血事件(3)


 一方、全学連主流派が結集した国会正門周前周辺の状況は次のようであった。

 15日正午すぎから教育大、法政大などでは、13日の"警官隊不法捜査に対する学内集会″を開いた。

 14時ごろから、全学連主流派の学生たちは国会正門前に集まり始めた。

 14時30分、13台のバリケード車が正門をかためている。全学連の数約4000人。

 15時35分、雨が降り出す。

 15時50分雨やむ。

 学生たちはコウモリガサを開いたり、埼玉県農民組合のムシ口旗に拍手したりして平静。しかし警視庁にはこのころ「主流派が正門横の土手から国会に乱入する」という情報が入り、正門一帯に私服警官の数がふえはじめる。

 報道陣の車も正門付近に集まる。

 16時前後、数を増していた主流派7500人は、一部を正門前に残して、ジグザグデモを開始。参院裏から南通用門へ。東大、明大、法大、学芸大、都立大、中大、埼玉大、東京女子大、国際キリスト教大、多摩美大、群馬大、電通大、武蔵大、岐阜大などの自治会の旗が見える。

 16時30分、警官隊は国会のサクの内側をかためはじめ、各門を閉ざす。

 神宮外苑に集まった反主流派7000人もこのころ平河町を経て参院裏に到着、主流派と別に一周デモを始める。

 国民会議の推計によると、このころ国会周辺にいたデモ隊は都労連1万人、婦人団体、民間団体、全商運など二万人、地方代表一万人、民間労組三万五千人、公企体関係一万人、安保批判の会、大学研究所グループ五千人、全学連主流派一万五千人、反主流派七千人で総計11万を越えていた。デモ隊は次々と流れ解散に移っていた。

 16時30分になると、全学連主流派は南通用門にきて、正門方向にむかい停止した。停止した際の最前列の隊形は、通用門側から東大本郷、明大、中大の順。ここで全学連の指揮車からはマイクで、
「国会構内に入って大抗議集会を開こう、われわれはダテにスクラムを組んでいるんじゃない、行動隊は要所要所をしっかり守ってくれ」
と演説、学生たちからはげしい拍手と「オウ」という声があがった。

 この16時30分から約一時間、構内への入りかたについて相談した。

17時30分~19時30分
衆議院南通用門内
南通用門内の第l回の衝突


 17時25分、衆院南通用門前に集まった全学連のデモ隊は、数と密度を刻々増しつつあった。すでに、参院第二通用門前での右翼なぐりこみの情報が伝わり、学生たちは興奮していた。構内突入を制止しようとした社会党議員に、逆に右翼なぐりこみの事実を突きつけて食ってかかった。

 17時30分、指揮者の合図でデモ隊は前進し、90度回転して南通用門にとりつく。北小路中央執行委員は、門に向かって右側門柱付近の指揮車におり、そこで
「いま参院側で右翼が挑発している。警官は放任している。われわれは国会構内で抗議集会を開こう」
と叫んでいた。

 17時30分、全学連のリーダーの合図で東大本郷、明大、中大を主力とする行動隊が南通用門をヨイショ、ヨイショとひっぱり始めた。

 門は三本の角材をカンヌキにし、太い針金でしばりつけてあった。ペンチを持った男が二人、これを切っていた。傍らの数人がこれを手でほどいた。

 35分、門内の警官がいっせいに警棒を抜く。

 36分、門は外側に約一五度開かれ、中の鉄棒が曲がる。

 38分、門は半開となり、鉄棒は外される。

 40分、門は大きく左右に開け放たれた。学生たちは門柱のチョウツガイか ら扉をはずし、道路に押し倒した。

 同時に、南通用門の内側をかためた前線の二台の警官輸送車のうち西側の一台に背広服の男(所属不明、16日付朝日新聞に明瞭に写っている)が飛び乗り、3人がロープをかけた。その一人は学生風、一人はトビ職風であった。「ロープは、車に向かってエンジンの左側にかけろ、そうすれば車は引き出しやすい」と一番前にいた東大生がどなっていた。しかしロープはバンパーの中央に結びつけられたため輸送車のカドが西側の門柱にひっかかった。

 警官隊は車の後部にロープをつけ、それを構内の立ち木に結びつけた。このため、輸送車は動かない。その時、車のドアを開いて、火のついた紙つぶてがシートに投げこまれた。その男はどんな男か確かではない。全学連のある学生は学生でないという。またある記者は二、三人で二、三発投げたといい、ある記者は学生が雑誌で放火したといっている。しかし、白い煙が出ただけで、車は燃えなかった。

 18時10分、二台の輸送車の斜め後方に控えていた放水車が前進して放水を始めた。現場にいた記者の目には、放水は輸送車の白い煙をみて、消火のためのものと受けとられた。しかし、これまでにも、麹町署長の名で、スピーカーを通して「これ以上騒ぐと放水します」と三回の警告が出されていた。放水は一本のホースで行なわれ、時間は短く、水圧は弱かった。しかし、放水は非常に学生を刺激したように現場の記者には感じられた。

 学生たちから、石やプラカードが飛んだ。ものすごい投石のため、阻止用の輸送車の上に防石ネットが張られた。これは後で奪われた。警官や私服が石をひろって投げ返した。このため門外の学生が憤激した。

 この頃、南通用門の両側の鉄条網が破られた。二、三人が門の西側の土手に上がった。一人は丸刈りの坊主頭で、明らかに高校生であった。一人は軽便ノコで鉄条網の柱を切った(朝日テレビニュースに撮影)。10メートルばかりの突破口があき、ここからデモ隊がバラバラと構内に入りこみ、旧議員面会所のかげに30人ばかり、門の東側からも20人ばかりが入りこんだ。

昭和の抵抗権行使運動(47)

〔ドキュメント〕6・15国会流血事件(2)


17時10分~30分
参議院第二通用門外
維新行動隊のなぐりこみ


 16時40分頃、維新行動隊というノボリをもつ右翼120人が、平河町の旧自民党本部近くにバスでのりつけていた。そこには大型トラック1台、小型宣伝カー1台があり、大型トラックの車体には「護国青年隊」と書いてあり、車台ナンバーは取りはずされていた(後ではずしたともいう)。

 丸の内警察交通係の白パトカーが1台、巡査1人が維新行動隊を監視していた。私服警官が4人、これ以上進まないよう説得した。しかし右翼は、車では行かない、歩いてゆくのならデモ隊と同じだと言って、前進して三差路のすぐ近くまで進んでいった。

 ここで、維新行動隊と法政大学の学生の間がせばまり、ヤジが応酬きれた。行動隊は「学生は帰れ」といい、学生は「右翼は通さないぞ」といった。

 警察側では、この時、学生側から石が飛んだという。が、この事件を終始目撃していた社会党の秘事たちは、学生の指導者が「右翼の挑発にのるな」と叫び、学生たちは歌をうたっていたと証書している。

 17時10分頃、右翼の2、3人がいきなり棒をふりかぶって、密集するデモ隊になぐりこんできた。数人がなぐられ、デモ隊は逃げ散った。女の人は柵を越えて国会構内に入ろうとし、有刺鉄線でケガをした。国会構内には警官が待機していたが、この警官は逃げこんだ人たちに表へ出ろといった。社会党の秘書団が救援に出ろといっても動かなかった。

 三差路には4人ほどの警官がいて、交通整理にあたつていたのだが、この騒ぎでどのような処置をとったか明らかでない。

 暴力団2人は、学生と労組員、秘書団につかまり警官へ渡された。

 この間、5、6分だった。とにかくいったん騒ぎがおさまった。デモ隊のスピ―カーは、隊列を整えてください、子どもさんは抱いて早く進んでくだきい、と放送していた。この騒ぎで、三差路には人が少なくなっていた。その時、突然、右翼の大型トラックが集結地付近からデモ隊めがけて一直線に突っこんできた。

 白帽をかぶった警官が1人トラックに飛び乗って、暴走を止めようとしたがトラックは止まらない。荷台には4、5人の右翼団がのっており、棒を振って左右のデモ隊をタタいたといわれる。

 トラックは約100メートルつっ走り、デモ隊にとめられ転覆させられた。大型トラックの後を追うように、小型宣伝カーが走った。これはジグザグに走り、ハンドルを切りそこねて、参議院常任委員会庁舎の歩道の並木にぶつかり、ひつくりかえった。

 これにつづいて、維新行動隊の10人ほどがプラカードの柄をふるつてデモ隊に襲いかかった。この時の彼らは主に婦人をねらってなぐつた。
「殺してやる」
「たたき殺せ」
と口々にさけんでいた。

 新劇人会議の女優さんたちが、血まみれになって逃げまどった。前へ逃げるとデモ隊の人波につかえ、横に逃げると歩道に店を開いていたジュース屋さんにつかえた。右往左往し、足をとられてころび、後頭部をはげしくたたかれた。頭からも胸からも血がしたたり落ちて、白いブラウスを赤くそめた。

 見物人は驚きながら見ていた。すると、その見物人を襲つてなぐつた。新劇人会議傷害対策委員会調べによると、19日現在で一週間以上の負傷者が62人いた。

 この騒ぎを取材しようとしたラジオ東京テレビのカメラマンは警官から「写すな、帰れ」とどなられ、アナウンサーはマイクを取りあげられかけた。ラジオ東京の報道員が2人負傷した。1人は5針縫うケガで、警棒でやられたものである。

 また「稲の会」の横沢章氏は右翼に左の目をなぐられて倒れ、国会の柵にはい上がって中へ落ちこみ意識を失った。

 キリスト者会議のデモに加わっていた世田谷区告白教会の渡辺信夫さん(37)はホオに裂傷を負った。

 日本キリスト教婦人矯風金平和部副部長の野宮(ののみや)初校さん(62)は、逃げまどう人波のために国会の柵に押しつけられて胃をうち、ハンドバッグは飛び、靴は片方がぬげ、時計を失っている。

 ここで学生や労組の人たちが反転し、右翼の4、5人をとりおさえたが、あとは逃げた。

 17時19分、丸の内警察署から83人の警官がトラックで現場に到着した。この83人の警官隊は、11日頃から右翼が騒ぐという情報にもとづいて丸の内署に待機していたものである。

 彼らはつかまえた行動隊員をなだめ、もとの集合位置へさげた。そして道路を横断するピケラインをつくり、デモ隊と右翼をわけ、別の警官隊は右翼の横側に立って彼らを包むように監視した。

 その中から、また2、3人が抜け出して、デモ隊に打ってかかったが、これは一分もしないうちに社党秘書たちにつかまえられた。秘書たちは暴漢を警官に渡しながら、警官は何をボンヤリしとているんだ、なぜ逮捕しないのかと非難した。

 一般市民やデモ隊からも、現行犯だから手錠をかけろとか、犯人がいるのにつかまえないとかの非難が浴びせられた。

 数人の右翼は国会図書館や自民党本部方面へ逃げた。警官がそれを追わないといって、一般の人たちは憤慨した。

 負傷者は3台の救急車によって、病院に運ばれた。いちおう事件がおさまったのは17時30分ころであった。

 ところで、この事件を引き起こした右翼の実態と、その後の処置はどうなったのだろうか。

 維新行動隊の指揮者は石井一昌(33)である。小型宣伝カーでジグザグ運転をし、デモ隊に暴走したのは彼で、宣伝カーが転覆した後、逃げて麹町署に出頭したが、重傷のため入院させられたという。

 石井は「護国塾」塾頭で団員は12人程度。護国団団員でもあり、維新行動隊を編成するに当たって団員をかり集めたようだ。

 麹町署へ連行された90人中39人は東洋大学生であった。いずれも、日の丸と星条旗をあしらったアイク歓迎のバッジを胸につけていた。

 彼らの持っていたプラカードには「天皇万歳」「アイク歓迎」などと書いてあり、柄はカタ木の太いものであった。プラカードの部分は、足で二、三度けるとはずれ、ムキ出しのクギが残る。これでたたかれると、かなりひどい傷を負う。押収されたコン棒は83本、そのほか日の丸2本、維新行動隊のノボリ1本である。

 麹町署への連行には、丸の内署の83人の他、国会内から出てきた愛宕署の25人、第4機動隊の100人が当たった。

 警視庁によると、夜11時、39人が釈放された。うち37人は学生証をもち、暴行をしなかったもの。2人はヤジ馬。残った51人中、翌朝24人を帰し、7人は現行犯として逮捕、19人は緊急逮捕とし、石井一昌とともに27人を送検した。

 なお、右翼団を徒歩で麹町署まで連行する途中、警官たちは連行途中の男に買い物を許し、公衆電話の使用を2回も許し、さらに警察電話の使用を1回許可したという。これについて、社会党議員たちは、警官の非を強く抗議している。

昭和の抵抗権行使運動(46)

〔ドキュメント〕6・15国会流血事件(1)


 6月15日の闘争を「国会突入闘争」と呼ぶのは、全学連主流派あるいはブントの活動に焦点を置くときの呼称であり、この時の事件を国会包囲デモ全体の立場から見るときは「6・15国会流血事件」と呼ぶのが適切だろう。

 さて、この日一体何が起こったのか。私はそれを詳細に知りたいと思う。「朝日ジャーナル」(1960年7月3日号)の記事「6・15流血事件の記録」(以下「記録」と略す。)を用いて、その事件の詳細を追ってみよう。

 この事件の詳細を特集するにあたって、「記録」は次のように述べている。

 6月15日の国会流血事件は,形式的には学生たちが国会の構内て抗議集会を開きたいというのに対する警官隊の阻止によるものてあった。だが、その結果は,重軽傷1000人を越え1人の死者を出すという,もっとも不幸なものとなった。のみならず,アイク訪日は中止され,事件は世界を驚かし,わが国の政治動向に大きな影響を与えた。そして,6月15日は安保問題から議会主義擁護に続くたたかいの重要な日付となった。

 だが,この事件の善悪を論じ、論評する前に、まず当日の詳細正確な全貌を知る必要があろう。編集部はできうるかぎりの努力で当日の全容の復元につとめた。



 また「あとがき」では次のように述べている。

 この記録作製にあたっては、本社政治部、社会部員の協力を得たほか、本誌編集部を総動員して約80人の人にインタビューし、多方面の資料にもとづいて、できうるかぎり客観的な記述につとめました。しかし時間的制約と異常事態での記憶の不正確さなどにより、100%完全なものとは断言できませ ん。なお完ぺきを期するために、読者の皆さんをはじめ、現場にいた方たちや当局者側のご教示により補完したいと思っておりますので、ご協力をお願いします。  (編集部)



 60年7月10日号では「現場にいた方たちや当局者側の」投稿が掲載された。警察当局や右翼からの反論・異論もあるが、大方の証言は、この「記録」がおおむね正確であることを裏付けている。この「記録」は、たぶん、他にはない貴重な記録だと思う。ブログに書きとめておく価値があるだろう。

 では、事件を追ってみよう。

15日午後
国会周辺


 この日の東京は、気温25度・湿度59で曇り空だった。

 国会は正門の中央だけを締めていた が、他の通用門は全てあけっ放してあった。いつものバリケード車は、官邸へ抜ける道路わきで、十数台がひっそりと待機していた。正門前を、何組ものデモ隊が過ぎていった。

 正午近く日比谷から出てきた都労連の12000人がフランス・デモをくりひろげながら行進した。それは、道路いっぱいの36列にひろがり腕も組まず、気勢もあげず、ただ静かに歩いて国会裏からアメリカ大使館へと流れていった。

 アベックが、「岸さんやめて」と書いた小さなプラカードを二人で持ってデモっていた。

 国会裏の衆議院議員面会所に設けられた請願所では、ヨチヨチ歩きの子どもをつれた母親もいた。子どもを肩ぐるまにした父親もいた。

 にわか露店では、「アンポハンタイ、アイスクリーム」とデモ隊に呼びかけていた。時たま、ボン、ボンと音がした。それは赤坂の山王祭りの花火の音であった。

 「新安保反対キリス者会議」の300人は、16時30分に日比谷野外音楽堂を出発した。彼らは賛美歌を歌いながら行進した。

 キリスト者会議の前には「安保改定阻止新劇人会議」の一団が「しあわせの歌」をうたいながら行進していた。

 新劇人にはさまれて、300人ほどの一般人自由参加者がつづいていた。

15日17時前後10分~30分
参議院第二通用門外


 17時10分ころ、このデモ隊は国会正門前から右に折れ、参議院第二通用門前の三差路にかかろうとしていた。

 国民会議の神奈川県代表のデモ隊は、新劇人、キリスト者会議と並行して、これも三差路を国会裏に折れようとしていた。

 同じ時、平河町方面から全学連反主流派のデモ隊がきて三差路を右折して、やはり国会裏へ向かっていた。教育大学、一橋大学が過ぎ、そして後尾の早稲田大学の一団はほぼ三差路を回り切っていた。

 同じ時、法政大学のデモ隊は社会党本部から国会図書館わきを通ずる小さい道を進んで三差路に頭を出して停止していた。

 こういう状況で、突然、右翼のなぐりこみが起こったのである。

昭和の抵抗権行使運動(45)

《激動の1960年》6・15国会突入闘争


6・15
 国民会議、第18次統一行動。
 安保改定阻止の第2次全国スト。
 未明から、国労.動労がストライキに突入
 総評は、111単産全国580万の労働者が闘争になだれ込んだと発表
 東京では、15万人の国会デモ
 全学連、二万人国会包囲デモ。先頭部隊国会南通用門に突入、機動隊と衝突。樺美智子虐殺される。

 アイゼンハワー大統領の来日は19日に予定されていた。その時には当然天皇ヒロヒトが羽田まで出迎えに行くことになる。ハガチー来日阻止羽田闘争の経験から、警察当局はアイゼンハワー来日時の警護が困難であることを首相筋に表明した。

 そこで、岸首相は自衛隊の出動を考えた。岸は防衛庁長官赤城宗徳を南平台の私邸に呼びつけ、アイゼンハワー大統領訪日の際の警備に自衛隊の出動を要請した。しかし、赤城の
「それは、できません。自衛隊の政治軍隊としての登場は、支持が得られない。リスクが大きすぎる」
と断固として反対した。

 岸は自衛隊出動を断念したが、アメリカ大統領アイゼンハワーと、彼を羽田まで出迎えるヒロヒトを護衛するために、右翼暴力団の大動員を思いつき、「街商と新興宗教団体」をあつめるように自民党の幹部に指示した。

 この岸の依頼を引き受けたのが児玉誉士夫である。彼は急遽、デモ隊阻止対策のため、さまざまな右翼グループと暴力団の組織化に乗り出した。

 6月14日、大東塾を中心に、神社本庁・生長の家・郷友連・国民総連合・暴力団が話し合いをし、6月15日の安保反対のデモ隊列への暴力攻撃を計画した。

 6月15日の夜、学生数千人が国会に突入し、それに対する警官隊の暴力的な弾圧の中で、東京大学の学生樺美智子が殺された。

 右翼グループは、「安保批判の会」の文化人や新劇人のデモ隊列に、トラックを後方から突入させて暴力行為を働き、40数人に重軽傷を負わせた。

 このときから日本の大方の右翼は、「国粋」や「愛国」を標榜してはいても、内実は親米親安保反共主義の暴力集団に成り下がった、と言える。

 この日の全学連の闘争を、蔵田さんは次のように記録している。

 6月15日、全学連は、17000名を結集し、そのうち1500名が構内に突入した。機動隊は学生に襲いかかり、警棒の雨を降らせ、樺美智子を虐殺した。負傷者712名、逮捕者167名の大激闘であった。

 この闘争と好個な対称をみせたのが、都自連であった。都自連は、神宮絵画館前に15000名を集めて集会を開き、国会をかすめて八重洲口まで平和デモを行ったが、終着点では三分の一に激減していた。「学生虐殺」の報に接して自治代を開いたが、新規入校の猛反対に出会って、「引っ返して国会に向かおう」という執行部提案を否決し、全学連の死闘を黙殺してしまった。



6・16
 南通用門の祭壇に10万人が弔意
6.18
 50万人の国会デモ
6・19
 国会内に一人の議員もいない中、安保条約自然成立
6・23
 岸退陣表明

 6月16日から6月23日までの闘争のあらましを、蔵田さんは次のように記録している。
 翌16日、学生は一番電車で学校に帰り、「虐殺抗議、岸打倒、安保粉砕、全国学生無期限スト」に着手した。

 6.15闘争の最先頭で闘った明大生たちは、その日の朝までに約20種、数万枚のビラ、高さ二メートルの立看板でキャンパスを埋めつくした。その他の大学でも、4000―2000名の部隊を結集して、再度国会正門南通用門を埋めつくし、その数は二万名以上に達した。

 6月18日は安保自然成立の前日だった。全学連の全国動員に呼応して、地方大学も続々上京し、日比谷公園に二万名が結集して「樺美智子虐殺抗議、岸内閣打倒総決起大会」を開催、そのあと国会デモを行った。虐殺跡の南通用門附近では、全学連部隊は空前絶後の四万名にふくれ上がり、労働者や市民をふくめ六万名による徹夜の抗議集会を敢行した。国民会議もこの日三〇万名が国会デモを行った。

 6月19日、「世界を震憾させた十日間」は終わった。闘争は急速な退潮をみせ、20―23日までは雨の降るなかを、全学連は連日連夜、集会とデモによって迫撃を試みたが、状況を切り拓くことはできなかった。

 それ以上に空虚な試みは、国民会議6・22ゼネストであった。この実力行使は、安保闘争の全過程を通じて、つねに、先へ先へとのばされ、「今度こそは前回を上まわるゼネストを」という指導部の空文句の最後の仕上げであり、投げ場を求めた猿芝居の幕引きにすぎなかった。

 とはいえ、全学連を先頭とした安保闘争の巨大な高揚は、安保自然成立と引きかえながら、岸打倒、アイゼンハワー来日粉砕をかちとった。

 6月23日、全学連は6000名を結集して、岸退陣表明のその日、「樺美智子全学連追悼集会」を開催した。

 その一部は、日共本部にデモをかけた。これは「ぎせい者を出した責任はトロツキスト指導部にある」(『アカハタ』60年6月22日)にたいする求釈明だった。また・都自連の恥ずべき行為も歴史にとどめておくべきだろう。

 都自連は、6・15闘争以後は動員数においても急速な退潮を示し、街頭闘争からも召還していった。彼らは、全学連の死闘をよそに、いっせいに街頭カンパを行い、「犠牲者救援」を訴えた。都内数十カ所、数百名のカンパ隊をくりだして、数百万円を募金し、都自連で私物化し、全学連の抗議によって一部を上納したにすぎなかった。これがかの名高い「香典ドロボ―事件」である。このエピソ―ドは、当時の日共派の実践的、思想的、道義的な反階級性を示す象徴的な事件であり、安保闘争の日共都自連版総決算であった。日共本部デモという前代未聞の抗議の洗礼も、けだし当然であった。



昭和の抵抗権行使運動(44)

《激動の1960年》条約批准をめぐる攻防


 安保闘争の最終局面を目前にして、闘争を主導してきたブントはどのような展望と方針を持っていたのだろうか。蔵田さんは次のように振り返っている。

 共産同は三月下旬、第三回大会を開催して
「安保がつぶれるか、ブントがつぶれるか……。だが、3000名の労働者武装部隊さえいれば、安保はつぶせる」(島書記長)という決意のもとに、熱っぽい討論を展開した。しかし、大会は明確な方針や展望を見出しえないままに幕を閉じた。

 問題は一点にしぼられた。当時、同盟は安保粉砕の最後のヤマ場=チャンスは、衆院での批准段階と設定した。そのためには、国会の会期末である5月20日前後を「決戦」として、全学連部隊と同盟影響下の労働者部隊を結合して、実力闘争を闘い抜く他はないと考えた。だが、それにしては、労働者部隊は余りにも微弱すぎた。

 たしかに共産同は結成以来1年3ヵ月を経過していた。だが、学生運動をテコにした既成労働運動へのゆさぶりは限界を露呈していた。学生運動が質量において飛躍を示したのにたいして、同盟の労対活動は依然として低迷を続けており、両者のあいだには格段の差があり、労対の活動は手さぐりに等しかった。

「学生同同盟員としてやる気と知恵さえあれば、労働者のいるところではいくらでも活動できる。うの目たかの目 で最良な革命的労働者を探し出し、これを決して離さず、そこから芋づる式に全ての戦闘的な労働者をつかみとることが必要だ。……どんな見ず知らずの職場でも労働者は見つけ出せる。出来ないとすれば怠慢以外の何ものでもない‥‥‥」(共産同早大細胞労対部「早稲田大学の同志諸君! 共産主義者同盟に結集した諸君は、今、何をやらなければならないか」59年8月)

 半年前の労対方針とはいえ、同盟は、このようにして獲得したわずかの労働者に旗をもたせて、全学連部隊の最後尾にくっつけて、なんとかして血路を切り拓こうとした。じつは、これが「労働者3000名武装部隊」の実体だったのである。そして、4・26闘争は、その最初の試みだった。

 その日は、学生一万名の後尾に、全逓本社支部、空港支部、牛込支部、国労、教組、全農林、合化、金属などの労働者数百名が参加し、お焼香をすませた労働者数千名も周辺にかけつけた。だが、結局はブントがめざした「労働運動における革命的潮流の形成」は、4月23日、26日の全逓東京空港支部の独自の大衆デモ、5月20日、国会デモ実行委員会の旗の下3000名の首相官邸デモを実現したにすぎず、ブントの構想はついに「幻の労働者3000名武装部隊」に終わってしまったのである。同盟政治局は、この時点でその政治指導における挫折を自認せざるをえなかった。安保粉砕の一点に同盟の存立を賭けた限り、その挫折は当然だったといえよう。

(中略)

 ところが、安保闘争は最終局面において、同盟の予想を越える展開過程をたどることになった。5・19採決を契機にして意外な高揚を示した。この高揚のなかで、全学連書記局-学生細胞を中心にした現場指導部は、大衆的憤激の高まりとそれに追随した国民会議の6・4ゼネスト宣言、大衆的反撃の開始という事態のなかで、最後の死闘を展開していった。



 では、条約批准をめぐる最後の攻防をたどってみよう。

4・27
 東大ブント、党中央の方針に反対

5・13
 全学連主流派1500人、国会正門前で決起大会

 公聴会冒頭のこの日、全学連は当初「国会構内大抗議集会」を打ち出していたが、余儀なく戦術ダウンをせざるを得なかった。それでも、全国10万名がストライキ、抗議集会、デモを展開し、東京では5000名が昼夜の国会デモを展開した。

5・14
 国民会議、5号動員6万名の「お焼香」デモ。

5・15
 社会党江田書記長「懲罰委覚悟で安 保阻止」と言明。
 総評、5・20に一斉30分スト決定。

5・19
 自民党、安保強行採決。全学運"非常事態宣言"を発し、数万人が国会包囲

 自民党は会期延長50日を発表し、午後4時、衆議院議運委、野党欠席のまま会期延長可決した。議長室前廊下に社会党議員らが坐り込む。

 午後9時半、清瀬議長警察官500人導入して社会党議員らを排除する。

 10時半、衆院安保委混乱のうちに新安保議決。

 午後11日時45分、清瀬議長本会議場に入り、開会宣言、会期延長を議決。

5・20
 0時5分、衆院本会議再開、新安保、同関連法を13分で単独採決。

 この自民党の暴挙にたいして、世論は沸騰した。
「民主主義を守れ、議会主義への挑戦、デモクラシーの危機…」
の大合唱が、連日連夜の国会周辺を理めつくした。

 この政府自民党のク―デタ―的暴挙の決定的瞬間を、30分も遅らされて聞かされた一万名の労働者・学生は夜を徹して議員面会所-首相官邸の路上に坐り込んだ。

5・20
 全国一斉スト闘争。
 全学連、国会包囲デモ

 全学連一万名は、首相官邸→自民党本部にデモをかけ、うち300名が官邸に突入した。労働者1500名も国民会議の指導をはなれて独自のデモを決行して、全学連と合流した。

 また総評も、20日以降の連日国会動員を決定した。

 以後、国会周辺、南平台首相公邸は抗議のデモに終日騒然とする。

5・26
 国民会議第16次統一行動・空前の国会包囲デモ

 労働者・学生・市民175000名が国会周辺の路上を身動きできないほど埋めつくした。

 全学連両派も、それぞれ12000名を動員して国会の周辺路上で、ジグザグデモを終日くりかえした。

6・3
 全学連、9000人の決起大会後、首相官邸突入、13人検挙される。

6・4
 国鉄労組、初めての政治スト。
全学連3000名、国労スト支援

6・10
 国民会議、ハガチー来日阻止で羽田包囲
 全学連反主流派ハガチー来日反対闘争

 ハガチー米大統領新聞係秘書が大統領訪日日程打ち合わせのため来日したが、一万名が乗用車を包囲、ハガチーは海兵隊のヘリコプターで脱出、入国した。

 ブント意志統一、6・15国民会議統一行動に全力投入を確認
 全学連、北小路全学連委員長代理を決定(唐牛委員長は逮捕拘留中)

6・11
 全学連、全国統一行動
 東京では主流派5000名が参院議員登院阻止国会デモの後、岸・ハガチ一会談阻止のため首相公邸包囲デモ
 反主流派10000名、神宮絵画館前に結集の後、国会・米大使館にデモ

 ハガチー、離日。

6・12
 米大使、岸首相を訪問、ハガチー問題に遺憾の意

6・13
 警視庁、ハガチー闘争で鋼管川鉄労組・教育大・法政大を捜査。教育大生黒羽逮捕される。

 そして遂に最終局面、6・15国会突入闘争を迎えることとなる。

昭和の抵抗権行使運動(43)

《激動の1960年》4・26統一行動


3・16
 第15回全学連臨時大会、共産党系、革共同系排除、4・26ゼネスト決定

 全学連は第15回大会を開催して4-5月闘争の方針を決定したが、大会開会に先立って、主流・反主流派が会場入口で衝突をくりかえし、関西派、日共派は大会をボイコットして独自集会をもった。全学連の組織分裂は決定的になった。


4・2
 ブント第4回大会、1月逮捕者釈放、出席

4・20
 東大教官有志374人、安保反対声明

4・25
 全学連反主流派、都自治会連絡会議結成

 日共系の「東京都自治会連絡会議」(都自連)の結成は、分裂への第一歩であった。都自連は、羽田闘争以後の情勢の下降過程で、完全に日共中央の支配下に入っていった。

 都自連は「全民主勢力による統一戦線形成の有力な一翼をめざして闘う」(都自連通達)と主張し、国民会議の忠実な随伴者となり、その平和的カンパニア路線によって量的拡大をはかった。そして、6・15闘争直前までは、主流派と肩を並べるほどの動員数を獲得していった。

 また、革共同関西派は、全学連の闘争を政治主義的極左行動、極左盲動主義、小ブル的極左冒険主義、一揆主義的玉砕主義と批判した。また、羽田闘争を「反労働者的ペテン師の策動」と決めつけた。方針としては、一月末を期して無期限ストに突入した炭労三池闘争との結合を主張したが、大きく後退していった。

 一方、革共同全国委は、四月に「マルクス主義学生同盟」(マル学同)を結成して、学生戦線での組織強化にのりだした。4-5月闘争でも全学連主流派の闘争に参加し、関西派、構改派(都自連)に対する批判を展開した。

 学生運動は、以上のような分裂・再編を経ながら、60年安保闘争の最終局面に突入していくことになり、共産同=全学連は独力で闘争を組織していつた。

4・26 国民会議第15次統一行動

 全学連は、この第15次統一行動では全国ゼネストをもって決起した。全国82大学、25万名が参加し、警職法闘争を上まわる高揚を実現した。

 東京では、国民会議のデモを「お焼香デモ」と批判し、10000名の学生が「国会正門前大抗議集会」を決行した。そのうち3000名がチャペルセンター前の装甲車を乗り越えて国会正門に突進した。これに対して、機動隊数千名と右翼団体数百名が共同戦線を組んで学生たちを阻んだ。唐牛委員長ら17人が逮捕されている。

 都自連は、清水谷公園に11000名を結集し、国民会議の請願に合流した。旗やプラカードを捨て、20名一組に分散させられて行進した。文字通りの「お焼香デモ」であった。

 「この日の全学連の闘争も、敵味方の十字砲火のなかで戦取された」と言い、蔵田さんはその「十字砲火」を次のように列挙している。


 国民会議は闘争に先立つ一週間前に「重大な決定違反」という非難声明を発表。


 同じ日社会党も、全学連書記局にたいして「国民会議の方針に従うよう」要請書を出し、22日にも、同主旨の声明を発表。


 日共は20日「全国の学生諸君に訴える」長文のアピールを出す。


東京青学共闘会議も非難決議を強行。


 総評は「メーデーには全学連専用のデモコースを決めてもらいたい……」と警視庁に申し入れる。


 総評弁護団有志からなる「羽田事件弁護団」はすでに解散。


 警視庁は「厳重警告」を通告……。

昭和の抵抗権行使運動(42)

《激動の1960年》1・16羽田闘争


1960年
1・3
 ブント全国代表者会議「羽田で政府代表団渡米阻止」決定。単独でも羽田実力阻止闘争を決行する方針を確認した。

1・6
 日米安保条約改定交渉妥結

1・7
 国民会議は「羽田デモ中止」を再確認。

1・8
 東京地評幹事会は賛否伯仲であった。

 このような経過を経て、反安保勢力結集の工作が開始される。

1・10
 全学連、社学同、社会党平和同志会有志、日本平和委員会書記局、地評常任幹事会有志によって「羽田デモ実行委員会」が結成された。
 地評常幹有志には、全金、全国一般、全日労、東貨労、化学同盟、印刷出版その他が結集した。

 こうして、共産同がめざした左派戦線の結成が実現するかにみえた。

 ところが、日共はこれに向かってなりふりかまわず破壊工作を行った。〝総評が第二地評を本気でつくろうとしているから、はね上がるべきではない″という口実をデッチ上げて、党員を総動員して各個撃破に乗りだした。 そのために、実行委員会は全学連=社学同を除いて、雪崩をうって瓦解してしまった。



1・14
 新安保閣議決定、代表団訪米を15日午前8時と決定

 同日、国民会議主催の「岸渡米反対・抗議団結成大会」が、中央・地方代表2000名を集めて開催された。このときの全学連の激しい抗議は圧倒的な共感を得て、大会は混乱と怒号のうちに散会する結果になった。

1・15
 全学連は「岸の出発は22時間繰り上がり、16日午前8時に決定……」という情報をキャッチした。

 〝明朝では遅い! 今夜だ! 敵の機先を制して即刻羽田空港占拠すべし!〟

1・16
 岸訪米阻止羽田闘争。全学連空港ロビーに突入

 合同指導部はただちに都内各自治会に緊急動員を指令、学生700名が空港閉鎖寸前のわずかなスキを衝いて、空港ロビーを占拠、食堂にたてこもって深夜の徹底抗戦を闘い抜いた。

 空港外でも、遅れて到着した3000名以上の学生が、岸出発直後まで夜 を徹して氷雨の中で激闘をくりかえした。

 この闘いでは、唐牛委員長ら全学連執行部、ブント指導部ら77人が検挙された。
 岸訪米を許したとはいえ、全学連の十数時間に及ぶ激闘は、内外に異常な反響をまき起こした。ラジオは深夜の実況放送を流し、外電も「事件」を大々的に報じた。

 なかでも、『プラウダ』は「岸はカモシカよりもすばやく逃げた。それは羽田における愛国者の闘い」だと評して話題をまいた。

 また『アカハタ』は、岸が「裏通りから泥棒猫の如く」日本を「脱出」せざるをえなかったのは「安保に反対する人民の世論によるものだ」(1月17日)と臆面もなく評論した。

 労働者のあいだでも「その日から4-5日間というものは、職場では全学連の話題でもちきりだった」(長崎造船社研「羽田の空は美しかった」)という事態を現出した。

 他方、国民会議はこの日も恥ずべき裏切りを演じた。あたかも岸の早朝脱出という事態さえも起こらなかったかのごとく、予定通り日比谷中央集会を開催し、羽田にはわずか100名の抗議団を送りこんだにすぎなかった。

午後1時には5000名が雨中の集会をもったが、かけつけた200名の学生によって演壇を占拠され、国民会議指導部は学生や労働者から激しく糾弾され、大会は混乱のうちに終わった。



 共産党・社会党・総評、国民会議から全学連排除決定

1・17
 国民会議全国代表者会議が開催された。指導部が「統一を守らなかったものに反省を求める」とマトメをしようとしたことにたいして抗議がまき起こった。

1・19
 日米政府間で新安保条約調印

1・25
 三池労組無期限全面スト突入

1・28
 国民会議代表者会議
 「羽田へ行け」という大衆討論の結果をふみにじった指導部への抗議、「羽田闘争はよくやった闘争」だという評価、「羽田に行かぬことでは、おくれた者、卑怯者は助かったのであり、全学連の行動はすすんだ者には勇気を与えた」という声が、兵庫、大阪、京都、山口などの代表から発言された。

3・16 第15回全学連臨時大会、共産党系、革共同系排除、4・26ゼネスト決定

 石川達三、清水幾太郎等、全学連支持、既成左翼を批判。

 このように全学連の闘争は圧倒的な共感を生みだしたが、その共感は、部分的ながら既成左翼への批判→革命的左翼への結集となり、一時的な流動化状況を生みだした。

 そのひとつは、日共港地区委員会の党内闘争宣言→共産同結集であった。港地区委は、すでに前年12月23日、「プロレタリア革命勝利のために、公然たる党内闘争を展開せよ!港地区委員会は声明する」を発表していた。その主な内容は、党中央の統一と団結論批判、組織原則優先論批判、安保粉砕・岸打倒・政府危機→政治危機……を骨子としていた。

 また、長崎造船細胞も除名者を中心に長船社研を結成し、今日の少数派組合運動の礎石を築いた。

 さらに、学生細胞では11・27闘争の過程で同志社大、京大細胞が解散声明を出して、共産同へ結集した。

 さらにまた羽田闘争の一ヵ月後には、当時の左翼知識人を代表する17名によって「諸組織への要請」が発表され、理論戦線においても前衛党神話の崩壊が大衆的にはじまったことを示していた。

 とはいえ、それ以後の事態の冷厳な推移は、必ずしもブント主義の絶対的妥当性をうらづける結果にはならなかった。味方内部の流動化状況は、あの激動の数十日を頂点にして、潮が引くように下降していった。

 しかし、共産同、全学連は極限をめざしてその可能性を追求していった。



昭和の抵抗権行使運動(41)

1959年末・国民会議の醜態


(長い寄り道でした。本道に戻ります。)

 国会突入闘争の翌日、政府官憲は全学連指導部五名を逮捕したが、二名が逮捕を逃れた。この弾圧にたいして、全学連は二名の学内籠城闘争で対抗した。そして、来たるべき12・10闘争には、再度の「国会構内大抗議集会」をめざして闘うと声明した。だが、12・10闘争は、国家権力ばかりか、共産同を除く全ての革新勢力の集中砲火のなか で圧殺されていった。

 国民会議は、大衆闘争の再爆発を恐れて中央集会とデモを中止、炭労24時間スト、国労職場集会へと戦術ダウンを強行した。全学連もやむなくチャペルセンター前集会から、日比谷野外音楽堂集会に切り替えた。その集会には一万名が結集した。全学連各派の自治会旗が乱立する騒然たる雰囲気がただようなか、舞台裏会議室自治代者会議は国会デモ中止を決定した。野外音楽堂から東京駅までのデモという戦術ダウンとなった。学生運動史上、日共系、反日共系自治会両派が統一集会・統一デモを行ったのは、この日が最後となった。

 2・27国会突入闘争から12・10闘争の挫折について、蔵田さんは次のように総括している。

 2・27国会突入闘争は、60年安保闘争の激闘を切り拓く一大序曲となった。そして、この第八次統一行動から、次の12・10第九次統一行動における国会再包囲をめぐる「14日間の死闘」、さらには、翌年1・15羽田闘争にいたるまでの「36日間の死闘」は、階級情勢を極限まで凝縮していつた。全学連は日和見主義、裏切り、集中砲火、孤絶のなかで、最後まで闘いの貫徹をめざした。

(中略)

 この「14日間の死闘」において、全学連の国会再包囲デモをめぐる、敵と味方内部における攻防がいかに熾烈をきわめたか、その規模と内容の壮大さを、次の羽田闘争をめぐる「36日間の死闘」のなかにみていくことにしよう。



 60年安保をめぐる攻防の焦点は、来たるべき60年1月16日の岸訪米阻止闘争にしぼられた。全学連は、12月14日、第21中委を開催して「岸訪米実力阻止」を再確認し、〝冬休みを返上して、1・16岸訪米実力阻止、数千名羽田現地へ!″を合言葉に、総力を結集して闘い抜くことを決定した。その決意の論理的裏付けは、「学生運動先駆性論」と呼ばれている。

「労働者階級の闘うエネルギーが消失したのでは決してない。方針がないのだ。指導部がないのだ……。闘いの火は、日和見主義指導部の下に抑圧されながらもえ上るのを待っており、彼らは方針さえ与えられるならば、必ずや立つであろう」(。全学連21中委議案」59年12月)

 一方総評は、3月15日、春闘討論集会を開催して「岸が渡米するときは羽田において抗議する」ことを確認して、大衆からの突き上げをかわした。

 3月17日、国民会議も「羽田阻止」の方針を13対0で決定しようとした。だが、日共の反対で決定は持ち越され、その二日後に幹事会を再開して、。羽田空港にいたる沿道に大規模な動員を行って、断乎としたたたかいを展開する」という方針を決定した。
 この決定に対して、
「だが、この方針の最終決定は〝現地調査″をしたうえで行う……という留保条件がついていた。この筋書こそは、彼らが演じた猿芝居の布石だった。」
と、蔵田さんは手厳しい。

 20日、国民会議は現地調査を行う。その結果、21日に総評幹事会は「羽田動員」の項目を削除することを決定した。太田議長はその理由を翌22日総評単産書記長会議の席上で次のように説明した。それはまるで恫喝に等しかった。

「おまえらは、国会周辺というせまいところでさえ統制がとれないではないか。それが羽田のような広いところでは、統制がとれるわけがない」(斉藤一郎『安保闘争史』)

 この時の既成指導部の論理は、いわゆる「幅広イズム」である。
「安保にたいする国民の関心は低い。無関心層の多い現段階では、国民を運動に引きつけることがなによりも必要である。尖鋭な行動はかえって国民の反発をまねき、世論の支持を失う結果になる……。」

 蔵田さんは、これを「低位水平型統一行動」と呼んで、その特徴を4点にまとめている。


 つねに運動の量的拡大のみを自己目的化している。

 つねに質的発展を無視している。

 つねに闘争形態を低水準におしこめる。

 つねに突出した闘争にたいして犯罪的な圧殺をこころみることをもって、民主勢力の統一と団結にすりかえていく。

 これは議会主義=平和革命路線の必然的帰結である。そこには、運動のダイナミックな弁証法のひとかけらもなかつた。



 この総評幹事会決定にたいして、下部組織は強く反発した。暮もおしせまった12月25日の国民会議全国活動者会議、その前日開かれた活動者会議日共党員グル―プ会議は、混乱のルツボと化した。だが、12月26日、国民会議幹事会は、羽田動員方針を〝たった一秒〟で否決してしまった。しかも、1対12という少数意見=総評が、多数意見を否決し、それを日共が支持した。「前代未聞のデモクラシー」と、蔵田さんは苦々しく揶揄している。

 かくして国民会議の最終方針は、「1・14全国的中央集会、1・15全権団・政府・自民党・アメリカ大使館抗議、1・16都心デモ→日比谷集会」ということになった。

今日の話題

アソウの頭の中を覗いてみたら・・・


 アメリカの大統領選挙が終わった。大統領が民主党のオバマに変わって、少しは世界情勢は好転するのだろうか。多くの人が大きな期待をかけているようだが、難問山積で大きな変化は難しいだろう。このことについて、田中宇(さかい)さんが 「オバマと今後の米国」 で詳しい分析をしている。その中の、日本に関わる問題についての論評を転載しておく。

 そんな中、親米的な経済大国であるにもかかわらず、困窮する米国の覇権の一部肩代わりをしてあげようという気が全くない国がある。わが日本である。日本では、恒久的な対米従属の幻想を国民に持たせたい外務省などのブリーフィングと、それを真に受けるマスコミのせいで、世界の多極化が始まっていることすら、全く報じられていない。

 マスコミなどでは「反中国的な態度をとること」が「米国の中国包囲網に協力する」という意味で「親米」だとされている。これは大間違いである。米国は困窮し、世界の指導者としての役割を果たせなくなり、その役割の一部を中国に肩代わりしてもらおうとしている。今の米国にとっては、日本より中国の方が役に立つ存在だ。中国は世界の指導者になることに同意し始めているが、日本はアメリカにしがみつくばかりで、国際社会での指導的な役割を一切果たそうとしない。

 北朝鮮をめぐる6カ国協議でも、米中韓の努力をしり目に、日本は「拉致問題」という障害物を作り、協力を拒んでいる。米国の中枢では、北朝鮮への敵視をやめない軍産複合体と、中韓と協力して北朝鮮の問題を解決しようとする国際協調派(最近では多極派)が暗闘を続けてきた。中国や韓国は、米国内の暗闘を理解しつつ、北朝鮮の問題解決に動いてきたが、日本は軍産複合体との結託のみを重視している(韓国では李明博政権が当初、軍産複合体に加担しようとして失敗した)。日本の北朝鮮専門家の多くは、軍産複合体からプロパガンダのネタをもらってバラまいている。

 米国の衰退は、軍産複合体の衰退である。今の日本は、米国内の一部の勢力だけに賭け、全体像が見えていない。日本は非常に危険な状態にある。国家や国民の姿勢としても、米国という強者(いじめっ子ジャイアン)の後ろについていけば安泰だという姿勢は不健全である。しかも、その強者が崩壊しかかっているのに気づかずゴマすりばかりやっているとなれば、なおさら不健全で格好悪い。悪い米国と戦うロシアや中国やイランや北朝鮮の方が、悪い米国に追従する日本より格好良いと、世界の多くの人々が思い始める事態が始まっている。最近の日本人の閉塞感の源泉は、戦後の対米従属方針の潜在的な破綻にあると私は見ている。



 さて、金融危機に端を発した世界的な経済悪化の元凶のアメリカで華々しく国政選挙が行われたが、一方とばっちりを受けた態の日本では、正当性の全くないヒョットコ内閣が、アメリカ発の経済悪化を理由に、今は政治空白を作ることは許されないと、選挙をズルズル先延ばしにしている。そして、得意げにぶちあげた経済政策が、なんの効果も期待できない無定見な単なるバラマキときている。同じ金額を社会保障や福祉に使うなんて発想は全くないようだ。

 そしてさらに、政治空白を作らないと言った舌の根も乾かぬうちに、アソウは9日から、支持率を上げるための地方遊説に出かけるそうだ。月に一度は実施したいとのたまっているそうだから、オヤオヤ、任期切れまで解散しない腹づもりらしい。アソウの頭の中は、シジリツ・シジリツ・シジリツ・・・とシジリツだけが駆け巡っているようだ。アソウの頭には「国家の大事」や「国民への奉仕」など入る余裕がない。やることはパフォーマンスだけで、アソウにまともな政策立案などできるわけがない。

 と言ったところで、東京新聞11月4日付朝刊に掲載された、佐藤正明さんの傑作一こまマンガをどうぞ。

麻生太郎と小沢一郎2

 もう一つ、本日の東京新聞朝刊の芸能欄「言いたい放題」。東ちづる さんの、相変わらず歯に衣着せぬ好時評を紹介したい。今回はアソウ批判です。

庶民生活を体験してみれば

 お金持ちの家柄に生まれ、お坊ちゃま育ちであることは悪いことではないし、そのことを責められる必要もない。羨ましくは、あるが。

 ただ、この広がる格差社会という問題真っただ中の日本の首相となると、セレブであることが何かとつつかれる。

 高級ホテルの飲食を「安いと思う」の返答はまずかった。「フランチャイズ等の居酒屋より高いが、銀座のクラブや料亭より安い」。これが正解。

 庶民生活の経験もないのに、庶民派ぶりをアピールするなんて、もはやマイナスプロモーション。カメラの前でスーパーをぐるりと視察し、タクシーの窓から運転手さんに景気を伺う。そんなパフォーマンスで、私たちのことを分かろうとしてくれてるのね、なんて感心する庶民はいない。マンガ好きだから若者に人気というのも疑問。

 「首相になったからといって生活パターンを変える気はない」。これもまずかった。一国の首相になれば、必死で考え研究する時間、空間、人間関係が必要なはず。もはや毎夜ホテルで飲食してる場合じゃない。

 庶民が、とれだけ追いつめられ、将来がどんなに不安か、本気で分かろうとして欲しい。そのためにはどうすれば?

 いっそ庶民生活を数カ月体験してみれば。せめてテレビ番組「太田総理」のマニフェストに出してみよう。



昭和の抵抗権行使運動(40)

砂川闘争(5)


第二次砂川闘争

 第一次砂川闘争は「勝利」を勝ち取ったが、これで終わったわけではなかった。翌年1957年6月から7月にかけて、占領時代に接収された基地内の土地について軍用地料を確定するための測量が計画され、反対同盟と支援者による阻止闘争が組まれた。このときフェンスを越えて基地内に立ち入った労働者・学生が事後逮捕を受け、安保条約に基づく刑事特別法違反で訴追された。この裁判の第一審で下されたのが有名な「伊達判決」である。

1959年3月
 東京地裁は安保条約を「違憲」とし、違憲な条約に基づく刑事特別法違反の行為は罪を構成しないとし、被告に無罪を宣告した。

 しかし、折からの新安保条約国会審議への影響を恐れた検察側は最高裁に飛躍上告、原判決は破棄されて被告は有罪となった。最高裁が法に基づいた判断を放棄し、臆面もなく政治的な判決を下すのは今に始まったことではなかった。日本には真の三権分立など、あったためしがない。

 また、基地拡張のための強制収用の手続きも、56年の「勝利」によって終結したわけではなかった。すでに二次にわたって提出されていた、東京都収用委員会に対する裁決申請は生きていた。さらに、62年の宮崎町長の急死のあと当選した「条件派」町長によって立川市との合併がなされ(63年5月)、この合併後に立川市長が代理署名を行ったため、買収を拒否した地権者の土地は、64年以降、東京都収用委員会における審理へと舞台を移していった。

 立川市に合併したときには、かつての闘争委員会は霧消していた。また、56年に抵抗した地権者からも任意買収に応じる人々が次々とあらわれていた。基地拡張反対運動は予定地の地権者の孤立した闘いに縮小し、心細い日々が続いたという。

 状況に変化が生じたのは、折からのベトナム戦争に対する反戦運動の高まりであった。砂川にも反戦青年委員会や三派全学連などの大衆的な支援が寄せられた。

 これとともに重要な意味をもったのが、67年4月の統一地方選挙で当選した美濃部革新都知事の誕生である。美濃部都政誕生以降、立川基地拡張のための収用委員会の審理が行われなくなった。

1968年12月
 米軍は基地拡張計画の放棄を表明。

 反対同盟の強い働きかけもあって政府は収用認定を取り下げた。これは23戸まで減ったものの最後まで闘った反対同盟の勝利であった。

 以上が、第二次砂川闘争のあらましである。

 ついでに、その後の立川基地についても記録しておこう。

 沖縄施政権返還に伴う米軍基地再編によって立川基地は日本側に「返還」されることになった。「返還」された基地は三分割され、一つは業務地区として立川市の都市計画に委ねられ、一つは国営「昭和記念公園」となり、もう一つは自衛隊基地(および広域防災基地)となった。このときは自衛隊移駐阻止闘争が組まれ、阿部行蔵「革新」市長も移駐反対を表明したが、移駐は強行された。

 76年、かつての滑走路内に土地をもち、その返還訴訟を闘っていた青木市五郎は、国と「和解」に達し、コンクリートをはがし、畑土を覆土した上、この土地に出入りするための通路を確保させた形で農地を取り戻すという画期的な勝利を得ている。

 道場さんは砂川闘争を総括して、次のように述べている。

 農民の土地取り上げに対する抵抗は、占領期に接収された土地の返還闘争としても展開された。これは反対同盟内部では少数の闘争になったが、57年夏の基地内測量阻止闘争へとつながり、伊達判決を引き出したばかりでなく、長い返還訴訟の結果として、先に見た青木市五郎の土地取戻しへと結実していった。

 不正な力によって取り上げられた土地を再び農地として取り戻す「復初」の正義への強い意思は、私たちの心を打つ。沖縄では同じ闘いが「復帰」以後大規模に取り組まれているが、政府は軍事占領によって開始された土地の強制使用を今日も追認し、なおかつ度重なる法「改正」によって合法化し続けている。非民主主義的な暴力の結果を追認し正当化する「民主主義」なるものの質が問われなくてはならない。

 砂川ではこのような形でいくつかの決定的に重要な「勝利」が得られている。社会運動においてこのような「勝利」を味わうこと自体が稀であることを考えても、このことの画期性はおさえておいてよいことだと考える。



 さらに批判の目を現在に転じて、外的国家(<共同体-即-国家>)としての日本が当面している最も重要な問題について、道場さんは次のように論述している。
 日本では、高度経済成長の中で「国民」は利益共同体としての性格を強め、現状固定的な「生活保守主義」へと転じていった。産業人口構成において、農業の比率が激減し、人口の大半が都市在住の給与生活者となるとともに、「基地問題」は接収をめぐる土地闘争から、騒音・環境汚染などの都市間題へと焦点を移していったばかりでなく、基地問題は「国民的」問題としての注目を失い、特定自治体のローカルな問題へと局所化されていった。

 このことの背景には、世論における「安保繁栄論」や「安保基軸論」の広がりがあると思われるが、局所化され、地域に封じ込められた基地問題をこじあけ、「国民的」問題へと押し上げようとしたり、安保条約それ自体に反対する者は、70年代以降は少数の「非現実主義者」であるかのようなレッテルが貼られていった。いまでは「反日分子」扱いさえ受けかねない。このような分断と局所化による封じ込めの中で、地域の抵抗はますます解体に曝されている。

 いま現在進められつつあるネオリベラリズム「改革」が結果するのは、社会の中心的な受益者と抵抗権を奪われた周辺的受苦者の分断、自己決定権の剥奪、という事態である。政府批判が官僚批判や政治家の既得権批判にとどまり、政治権力が手を出すことのできない領域を保守する抵抗は、あらかじめ選択肢から外されてしまっており、この領域に対する感度が著しく低下していることが、この間の「セキュリティ」依存の状況となってあらわれている。それは「保守」なるものの社会的衰退ともいいかえることができる。抵抗を組織する連帯性を支える社会的紐帯を断ち切られてしまった人々に差し出されるのが「2ちゃんねる」的排外主義と、「小泉劇場」に代表される売国ナショナリズム(?)であるといえるだろう。

 政府はいまや「国民保護」の名のもとに、基本的人権の尊重によってこそ最も守られるはずの人々の権利を停止し、「保護」なき裸の個人として管理する方策を整備しつつある。地域、そして自治体による抵抗を排し、軍事行動の至上権を政府が確保する形で、個人や地域の自己決定権が「強制収用」されつつある。「分権化」の名目のもとに、再分配制度は縮小され、残るのは軍事基地や原子力発電所などの「国家事業」の実施とその「見返り」事業の提供による、過疎地・貧困化地帯の新たな「国内植民地化」である。

 しかもそこで建設される軍事施設は、政府ですらコントロールできない外国軍の基地であり、この軍隊に統合された自国軍の基地である。「統帥権」を事実上失ったまま、この国の「シビリアン・コントロール」そして「民主主義」は存続することができるのだろうか。

 「靖国」だ、「慰安婦問題」だ、と「愛国者」気取りで自国を「防衛」している気になっている「ぷちナショナリスト」たちは、より大局的に見た本質的な従属の深まりにもっと「憂国」の情を涵養すべきではないか? そして、「自主性」を呼号すればするほど従属を深める冷戦型ナショナリズム ― それは50年代以来、政府および自称「保守」勢力の中に一貫して流れている ― の中に依然として自分たちがどっぷりと漬かっていることにそろそろ気づくべきであろう。



 折しも問題になっている、田母神幕僚長の超低級偽装史観論文が、上述の問題を見事に体現している。田母神は『「愛国者」気取りで自国を「防衛」している気になっている「ぷちナショナリスト」』の典型であり、『「自主性」を呼号すればするほど従属を深め』ている自らの矛盾と道化ぶりに気づくはずもない。この観点から、田母神問題の本質を突く鋭い批判を、天木直人さんが行っている。「田母神暴言は更迭だけではすまない深刻な問題である」 から引用する。

 なぜ今回の事件が起きるまで黙認され続けたのか。それは、今度の事件が発覚してもなお田母神元幕僚長を懲罰できず、腫れ物に触るように定年退職の形を整えてお引取り願っている、政府、防衛省の対応をみても明らかだ。制服組みに遠慮しているのである。近年の政治の緩みが制服組を次第に増長させていたのである。シビリアンコントロールが、もはや機能していないという事である。その行き着く先が、11月3日の田母神前航空幕僚長の退任記者会見である。

 自分は正しいと開き直り、政府の方針と異なる事をいう事を許されない日本は北朝鮮と同じであるなどと繰返す。しかし田母神元幕僚長の言動には最大の矛盾と限界がある。

 侵略戦争を否定することは占領国米国が裁いた東京裁判を否定することだ。「テロとの戦い」に協力し、米軍と一体化しつつある自衛隊の幹部が、もっと言えば米軍の指揮・命令のもとに米国の傭兵と化しつつある自衛隊の幹部が、その親分の米国に向かって「日本は侵略国家ではなかった」と言えるのか。信念であるというのならもう一度米国に向かって言ってみればいい。 それが出来ないようでは、しょせんアジア蔑視の空威張りでしかない。

 田母神論文の本当の問題はそこにあるのに違いない。



昭和の抵抗権行使運動(39)

砂川闘争(4)


第一次砂川闘争・補足2

 政治評論家・森田実さんのブログを毎日訪れている。優しさと気骨に満ちた信頼すべき知識人の一人である。森田さんは『政治評論家として私の原点は「反戦平和」である』とその立場を言明していて、その立場に全くぶれがない。

 森田さんはかって独立左翼の活動家であり、第一次砂川闘争の時、全学連の砂川闘争支援隊の指導者だった。しかし、森田さんは、私の知る限りでは、活動家の頃の事をまったく語らない。最近読んだ『島成郎を読む』や『唐牛健太郎追想集』には多くの同志たちが追悼文を寄せている。私は森田さんの文章にも出会えるのではないかと期待していたが、森田さんの文はなかった。その森田さんが、つい最近、ブログで砂川闘争の時のエピソードを書いていた。森田さんがその頃の事を書くのは珍しいことだし、そのエピソードが大変感動的なので、紹介したいと思う。

 朝日新聞beが「『赤とんぼ』の歌に守られた砂川」という記事(伊藤千尋記者)を掲載した。その記事に森田さんの談話が載っている。記事は次のように伝えている。

 「赤とんぼ」には、伝説化した話がある。56(昭和31)年、東京・立川の米軍基地拡張に反対した砂川闘争で、警官隊と立ち向かった学生や農民たちからわき出た歌が「赤とんぼ」だった。「日本人同士がなぜ戦わなければならないのか」と歌声は問いかけた、と伝えられる。

 当時、動員された学生は3千人。雨の中、警官隊と肉弾戦となり負傷者が続出した。最後に向き合ったのは学生ら50人と、警官150人だった。「今だから話しましょう」と、全学連の砂川闘争委員長として現地で指揮した政治評論家の森田実さん(75)はこう語る。

「警官があと半歩出れば私たちは負ける状況で、獰猛な相手を人間的な気持ちにさせようとした。勇ましい『民族独立行動隊』を歌えば警官も勢いづける。そこで『赤とんぼ』を選び、日没までの30分、繰り返し歌った。警官隊は突撃して来なかった。私たちは人道主義で戦った。警官にも純粋な気持ちがあった」

 母のぬくもりを懐かしみ、郷愁を誘う「赤とんぼ」は、自らの人間性を思い出させる歌でもあった。この美しい感性を、日本人は持ち続けられるだろうか。

「赤とんぼ みな母探す ごとくゆく」(畑谷淳二)



 この記事を掲載したうえで、森田さんは次のように書き綴っている。

 思い出したことがある。1956(昭和31)年10月13日が砂川闘争のヤマ場だった。数千人のデモ隊と約千名の警察機動隊が激突した。棍棒をもった武装警察隊の攻撃で無防備の農民・労働者・市民・学生のデモ隊は蹴散らされた。怪我人続出。砂川闘争本部で全学連の部隊の指揮をとっていた私のところへ十数名の砂川町の主婦がやってきて、

「森田さん、学生さんたちに引き上げ指令を出してください。私たちのために学生さんたちが怪我をしているのは耐えられません。私たちのことはもういいです。学生さんたちに引き上げを指示してください」

と涙ながらに訴えられた。何人ものお母さんたちの涙ながらの訴えは限りなくつづいた。

 耐えられなくなった私は、闘争指導者として逮捕されるのを覚悟で現場に出た。デモ隊はバラバラになっていた。皆を集め、腕を組ませて陣容を整えたが、みんな疲れ切っていた。「風前の灯」状態だった。そこで、私は何でもよいから声を出してくれ、歌を歌ってくれと頼んだ。そして歌われたのが「赤とんぼ」だった。「赤とんぼ」の歌が夕暮れの荒野に響いた。「赤とんぼ」が砂川を守った。いまから52年前の10月13日のことだった。



 引用文中の「民族独立行動隊の歌」は、当時さまざまな闘争の場で好んで歌われていた歌だという。 「民族独立行動隊の歌」 に歌詞が掲載されていて、メロディを聞くことができます。歌詞を転載しておきます。

民族独立行動隊

民族の自由を守れ
蹶起(けっき)せよ 祖国の労働者
栄(は)えある革命の伝統を守れ
血潮には 正義の血潮もて叩きだせ
民族の敵 国を売るいぬどもを
進め 進め 団結かたく
民族独立行動隊 前へ前へ進め

民族独立勝ちとれ
ふるさと 南部工業地帯
ふたたび焦土(しょうど)の原と化すな
暴力(ちから)には 団結の実力(ちから)もて叩きだせ
民族の敵 国を売るいぬどもを
進め 進め 団結かたく
民族独立行動隊 前へ前へ進め


今日の話題

いいぞ、ジュリー


 近いうちに「昭和の抵抗権行使運動」で詳しく取り上げるが、50年安保闘争には多くの芸能人・芸術家・知識人などが参加している。「6・15流血事件」では、岸の要請で暴力団・右翼によって組織された「維新行動隊」の襲撃で、多くの女優さんたちが負傷している。

 それから約半世紀たった今、この国の民主主義の劣化は目を覆うばかりだ。『日本人への遺言』で天本英世さんんは、「何が正しくて何が間違っているかという判断」ができない「麻痺」した日本人を嘆いていた。自らが属する業界についても、次のようなエピソードを紹介している。

 人間が職業にとらわれると、人間は麻痺するのである。
 私の長年の友人であるアントニオ・ガデスはこういっている。

「私は、踊り手である前に、一人の人間だ」

 私自身も、「私は俳優である前に人間である」と、常に考えている。だから、一人の人間として、君が代問題などにも非常に関心を持つのである。ただ俳優であるだけなら、多分、君が代問題もへったくれもないであろう。

「君が代なんか決して歌わない」とか、「君が代反対」などといって俳優がデモをしたら、やはり仕事に影響するかもしれない。しかし、私は、俳優である前に人間であるから、君が代反対のデモに参加したいと思っている。

 かつて、安保反対、湾岸戦争反対のデモに参加したことがある。
 デモに参加した数日後、親しくしているある大物俳優とばったり会った。そして、デモに参加した話をしたら、彼はこういった。

「天本っちゃん、俳優がデモをやるのはどうもね……」

 日本を代表する大物俳優が、「俳優がデモをやるとちょっとね」といったのである。彼がそんなことをいうとは思わなかった私は、少なからずショックを受けた。



 権力(この中には創価学会も含む)の逆鱗に触れると仕事を干されると、大方の芸能人が怖れているようだ。先の都知事選のとき、浅野さんを支援するある集会で、支援者の一人のある芸能人が、仕事が無くなることを覚悟で浅野さんを支援する、と反石原を表明していた。自分の信念に従った言動に、このような覚悟を必要とするほど、日本の民主主義は劣化している。

 このような状況の中、11月2日付東京新聞「こちら特報部」が久しぶりに、まことに爽やかな話を取り上げている。沢田研二さんの活動である。

 記事を担当した記者・関口克己さんの前書き。
『「TOKIO」でピカピカの電飾を身にまとい、「勝手にしやがれ」で甘いダンディズムで若い女性を酔わせた伊達(だて)男がいた。ジュリーこと歌手の沢田研二さん(60)。しばらくテレビ画面から遠ざかった男は還暦の今年、憲法九条賛歌で再び輝きを放っている。還暦と「キュウジョウ」への思いを熱く語った。』

 その話題の歌は次のようである。中に、「えっ、なに?」と引っかかる言葉もあるが、今は不問に付そう。

我が窮状
    作詞/沢田研二
    作曲/大野克夫

麗しの国
日本に生まれ
誇りも感じているが
忌わしい時代に
遡るのは賢明じゃない

英霊の涙に変えて
授かった宝だ
この窮状
救うために
声なき声よ集え
我が窮状
守りきれたら
残す未来輝くよ

麗しの国
日本の核が
歯車を狂わせたんだ
老いたるは無力を気骨に変えて
礎石となろうぜ

諦めは取り返せない
過ちを招くだけ
この窮状
救いたいよ
声に集め歌おう
我が窮状
守れないなら
其の平和ありえない

この窮状
救えるのは静かに通る言葉
我が窮
守りきりたい
許し合い信じよう


 記事の中から、この歌についてのインタビュー部分を転載する。


 「キュウジョウ」と歌うが、「ケンポウ」や「九条」はない。でも、紛れ もない九条応援歌だ。

「『九条』とあからさまに歌うのは気恥ずかしい。だから、姑息に九番目の『キユウジョウ』にして、誰か気付いてくれないかな、と。」

 九条を「勝手にしやがれ」とはさせないこの曲は静かにファンを増やす。コンサートでは、この曲が始まると自分より明らかに年上の人が背筋をピンと伸ばした。

「誰かが分かったんですね。宣伝しなくても気付いてくれるんだと自信を深めましたよ。」

 いたずらっ子のような笑みを浮かべた。

 平和への思いは昔から。九条擁護を訴える文化人らの意見広告などには賛同者として加わってきた。だが、九条を詞にしたのは初めてだ。

 書き始めたのは昨秋。改憲を自らの政治テーマに掲げ、参院選で大敗した安倍普三首相(当時)の辞任直後だ。

「安倍さんの時には、世間は『護憲だ、改憲だ』と騒いでた。この歌は、そんな時期に出すのは潔くない。商売っ気があると思われちゃうから。でも、安倍さんが辞めた、福田(康夫首相)さんになったらバッタリ。『今だ』。アルバムを出す前に再び騒いだら、カットしてました。」

 永田町の改憲風はやんだまま。だが、沢田さんは「九条」は改正目前の「窮状」にあると思う。

「今の憲法があるから、日本は平和でやってこられた。それを米国を支援するために変えるのは、おかしい。変えたい人は『国際貢献をしないといけない』と言うが、日本は政府開発援助(ODA)や個人レベルでも、たくさんしてますよ。GHQが作った憲法だから今の日本に合うように変えようと言われるが、そんな必要はない」

「米から本当に独立しないと」

 現実はどうか。イラクやインド洋への自衛隊派遣「沢田さんが住む神奈 川県でも原子力空母ジョージ・ワシントンが横須賀に配備された。日本は、米国の軍事戦略に深く組み込まれている。だからこそ、思う。

「九条を守ることで、日本は米国から本当に独立しないと。米国がくしゃみをしたら、日本は風邪をひく。そんなのは気に入らない」

 九条の〈歯車を狂わせた〉のは〈日本の核〉と歌う。「核」とは?

「それは、内閣の『カク』ね。日本は核兵器は持ってないから」

と笑つたかと思えば、

「でも、歴代の内閣がダイヤルを少しずつ回すように(解釈を)変えてきた。庶民の感覚と離れるように。」

顔に険しさが漂う。

 〈老いたるは無力を気骨に変えて 礎石となろうぜ〉。思い浮かべたのは、当時の福田首相だ。

「この人は、(九条や平和を守る)礎石になってくれるのだろうか」

 (我が窮状 守りきりたい 許し合い 信じよう〉-。こう閉じる3分51秒に凝縮させたのは、素朴な平和への願い。現実派には甘く、ガチガチの護憲派には異論もあるだろう。だが、沢田さんはさらりと言う。

「歌詞をいろいろな意味に感じてほしいのが僕のスタイル。この曲も、『沢田研二は何か困っているらしい』と思ってもらってもいいし、ラブソングに聞こえてもいい。まあ、ラブソングといえば、九条へのラブソングでもあるんですけど」



 私はブログ記事を、NHK・FM放送で音楽を聞きながら書くことが多い。今日もそうしていて、お目当ての番組が終了したのでラジオを消そうかと思った時、今日の番組紹介の放送が始まって、「今日は一日"ジュリー"三昧」と伝えていた。もしかすると「我が窮状」も披露するかな、うまく録音できないかな、と思案していた。あっ! もしかすると、と思いついてネット検索してみたら、ありました。下に貼り付けておきます。

「我が窮状」

昭和の抵抗権行使運動(38)

砂川闘争(3)


第一次砂川闘争・補足1

 砂川闘争は抵抗権行使運動であり、その闘争方法は見事な非暴力直接行動であった。私は自ずと 「三宅島の闘い」 を思い出す。

 砂川闘争での非暴力直接行動について、道場さんは次のように記述している。少し長いが、全文掲載しよう。

 この時代の「実力闘争」は、いずれも現地住民が素手で国家権力と対峙したものであり、支援者・支援団体もこれを支援する上で「実力闘争」を構えはしたが、その中身はといえば、スクラムや座り込みによって警官隊を阻止することがほとんどすべてであり、投石・火炎瓶投擲・武器による攻撃・爆発物の使用などの「武闘」を含むものではなかった。

 迎え撃つ警官隊側の装備も軽微なものであったが、それでも警棒のめった打ちや顔面・下腹部などを狙った棒の突き上げなどによって多数の負傷者を出した。支援者や反対同盟はこれに「やりかえす」のではなく、徹底した不服従で対応した。つまり、倒されても引っこ抜かれても、再びスクラムの列に入り、座り込むのである。それは必ずしも体系化された「非暴力主義」の思想に貫かれたものではなかったかもしれないが、「やりかえす」ことのない人々に対する一方的な暴力の行使に疑問を感じた警察官があらわれ、世論の憤激を生み出した。

 砂川にはすでに55年8月末に日本山妙法寺の僧侶が入り、同年12月から「砂川道場」を開いて地元反対同盟と行動を共にしていた。僧侶たちは「不服従」と大書したむしろ旗と日の丸の旗を掲げ、機動隊の前に座り込んでめった打ちに遭った。

 闘争委員会・反対同盟もまた「無抵抗の抵抗」を基調に据え、徹底した不服従を貫くことで基地拡張を阻止しようとしていた。支援者らはその闘争委・同盟の方針に服した。

 「流血の砂川」 ののちしばらくしてある警察官が自殺した。彼はこの日砂川に出動して以降、精神的な悩みを訴え、「将来の希望を失った」との遺書を中隊長宛に残して命を絶った。別な警察官は辞表を出して、故郷の青森で社会福祉の仕事につくとともに、妙法寺の仏事に協力を惜しまなかったという。

 非暴力の人々に対する暴力の行使ばかりでなく、農民の土地を取り上げてアメリカに差し出す行為が、「公」の行為としての正統性をもつものであるかどうかの確信を揺さぶったものと考えることもできるかもしれない。日本の産業人口はまだ農業が大きな割合を占めていた。

 衝撃を受けたのは日本の警察官ばかりではなかった。この日配備されていた横田基地から立川基地へ出動を命じられたアメリカ兵、デニス・バンクスは、フェンスの向こう側で展開される光景に強い衝撃を受け、アメリカ先住民である己れのアイデンティティを問うたという。彼もまた、のちに妙法寺の僧侶に出会い、平和主義を生涯の指針とする先住民運動を始めることになる。

 この事実をのちに知った吉川勇一は運動が生み出したものを「こんな形で国境、人種、そして時代を超えて知らされた」ことに強い感銘を受けたと述べている。