2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(37)

砂川闘争(2)


第一次砂川闘争

1954年3月
 アメリカ政府、立川・横田・新潟・小牧・木更津の五飛行場の拡張を日本政府に要求

 これは、1953年7月の朝鮮戦争休戦によって生じた東アジアの現状固定(国境線の不変更と内政不干渉)の枠組みを前提とした基地強化の一環であるとともに、ソ連の水爆開発やフランスのインドシナ撤退といった一連の事態を踏まえ、水爆搭載可能なジェット爆撃機や大型輸送機の発着を可能にするためのものであった。翌年には日本政府 はMSA協定に基づく防衛分担金の減額と引き換えにこれらの基地拡張を受諾し、調達庁(のちの防衛施設庁)による土地の買収と強制収用の手続きが進められることになった。

1955年5月
 砂川町長に当選して間もない宮崎伝左衛門のところへ東京調達局立川調達事務所長が当選祝いの挨拶に訪れ、基地拡張計画への協力を依頼。

 宮崎はこれに先立つ52~53年の基地拡張の際に補償交渉を取りまとめた有力者であり、調達庁は今度も協力が得られるものとの安易な見通しがあったようである。

 今回の基地拡張計画は、町役場も立地している町の中央部分の地区を立川基地に編入するというもので、東西に細長く伸びた同町が真二つに分断されてしまうという大規模なものであった。

 接収対象となる砂川四番・五番地区の人々は、計画を知らされるとすぐに砂川基地拡張反対同盟を結成し、抵抗に立ち上がった。町当局も全町的な取り組みで反対運動に乗り出した。

6月22日
 調達庁、「拡張計画第二案」を提示

 この第二案は、拡張対象地域のみの孤立した運動にしないために砂川町闘争委員会「企画部」が考え出した〝秘策″に、調達庁が乗せられて作成したものであった。

 「企画部」は、町を東西に分断する当初案に対し、滑走路の角度を変えて、反町長派の地権者の土地にかかる代替案を調達庁に提案させる作戦を練った。「企画部」は反対同盟にも秘密で調達庁と水面下の交渉を行っていた。彼らは、この滑走路の角度変更案なら地元の抵抗は少ないだろうともちかけたのだ。

 これが提案されるや、反町長派も含めた全町的な接収反対の運動が広がることになる。結果的に代替案は横田基地の航路と衝突するということで廃案になったが、「企画部」の思惑通りに、町議会を主体に、反対同盟・町長・教育委員会・農業委員会・婦人会・消防団・青年団・遺族会等町内のすべての社会団体を「動員」した全町的闘争機関である「闘争委員会」が始動した。

 この全町的な闘争体制を背景に、宮崎町長は土地の強制収用のための公告・縦覧手続きを拒否することができた。それに対して、土地収用の責任者である東京都知事が職務執行命令訴訟を提起する。

6月
 町民総決起大会での町長の演説より。
「立入通告を拒否して公告はしないが、これは全国初の町長の拒否権であります」

9月
 拡張予定地の外郭測量に対する阻止闘争。

 闘争の最初の山である。予定地の外郭を確定するための杭打ちを伴うこの測量に対し、町の闘争委員会は、労組の支援も受けて、「町ぐるみ」の阻止体制をとった。このとき、町議からも逮捕者が出て議会は動揺するが、拡張「絶対反対」が多数を占め、体制は維持された。同時に「条件派」も誕生することになる。

9月22日
 最初の杭が打たれる。

 この時、行動隊長の青木市五郎は「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」との有名なことばを残している。

10月14日
 鳩山首相、事業認定。
 反対同盟、認定取消の行政訴訟を提起。

1955年10月~1956年2月
 土地収用のための精密測量の阻止闘争が闘われる。

 座り込みやピケットばかりでなく、「話し合い」の設定による引き延ばし、糞尿を浸した笹をふる「黄金作戦」や、視界を妨げる「煙幕作戦」など、創意に満ちた「測量阻止」の行動が組まれた。だが、この間少しずつ測量は実施されていった。

1956年秋には、第一次収用申請分の残りと、第二次収用申請分の土地に対する精密測量を政府側が強行してくることが予想されたため、砂川町・反対同盟は実力部隊として全学連を砂川現地に導入することを決める。

9月13日
 全学連は連日3000人を動員することを発表

 全学連は10月から大規模な泊り込みと動員の体制をとった。

 10月2日からの連日の「衝突」により、学生・労働者の側にも警官の側にも負傷者が出ている。

10月13日
 激しい衝突により、多数が負傷者が出た。いわゆる「流血の砂川」事件である。

「流血の砂川」事件がマスコミによって大々的に報道されたこともあつてか、政府は翌14日の測量中止を決定する。

10月14日
 政府は、これ以後の測量の中止を発表。

 以上が、「町ぐるみ闘争」が勝利した「第一次砂川闘争」の経緯である。

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昭和の抵抗権行使運動(36)

砂川闘争(1)


(教科書は道場親信『抵抗の同時代史』です。)

 サンフランシスコ講和条約と抱き合わせで調印された旧日米安保条約(1951年9月)と、その翌年に締結された行政協定(1952年2月)によって、講和発効に伴って撤退するはずだったアメリカ占領軍は、そのまま「駐留軍」として居座ることになった。そして、行政協定によって米軍への無制限の基地提供を承認した日本政府は、米軍基地の拡張・新設を代行する役を担い続けることになった。

 同時期、サンフランシスコ講和条約によって正式に行政権の切り離しが確定した沖縄においても、反基地の「島ぐるみ闘争」が闘われて、その闘いは今なお継続されているわけだが、この重く難しい問題は稿を改めて取り上げるべきだろう。

 さて1950年代、「内地」では内灘・妙義・砂川・・・と反基地闘争が闘われていた。言うまでもなく、これらの闘争の相手は、基地を求める米軍と、農漁民から土地を取り上げて米軍に差し出す日本政府である。そして日本政府に対してはアメリカの傀儡化への批判という側面が強くあった。

 ナショナリズムと言うと、現在では保守反動派の専売特許のような観があるが、1950年代の基地闘争の底流には、日本政府の「傀儡化への批判」という意味で、強いナショナリズムの意識があり、これら反基地闘争には「正統な」ナショナリズムの担い手という象徴性がともなった。これが、土地取り上げに抵抗する農民の局地的な闘いに対し、広範な「国民的」支援が行われた理由であった。

 道場さんは、反基地闘争でみられたナショナリズムを、「正統な」ナショナリズムと表現しているが、今でも「正統な」ナショナリズムは、「日の丸・君が代」を強制し、声高に「愛国心」を叫ぶ保守反動派のものではない。前回の『日本には「純正ナショナリスト」(そのような者がいるとして)は、原理的に存在しなくなった。どれだけ「国粋」や「愛国」を主張したとしても、その本質は、ヒロヒトがそうだったように、徹底した対米従属であり、いつでも「反共」の一致点において、アメリカと裏取り引きをする者たちなのである。』という小森さんの言葉が思い出される。

 さて、砂川闘争の舞台となった砂川は、どのような土地だったのか。
 江戸期以前は水が乏しいために無住地帯であった。それを、16世紀末以降、順次開墾が進められてできあがった町である。地域を流れる残堀川の別名「砂川」から名前がついた。17世紀中頃には、玉川上水の開通により戸数が増えていった。関東ローム層の酸性土質の台地に開けた砂川では、水田ではなく畑作中心の農業を営み、落花生やサツマイモ、桑などを栽培していた。

 古くから開けた町の中心部はこれらの農業を生業として成り立っていたが、このほかに隣接する立川基地の労働需要に応じて発展した住宅地域も生まれていた。同町はすでに1920年代から立川飛行場の設置・拡張に伴って、その主体は日本軍・米軍・日本政府と変化しながらも次々と土地の接収を受けていた。また、町の北西部は横田基地にも隣接し、こちらも数次にわたる接収を受けている。闘争の約一年前の54年6月に町制を施行したばかりであった。

《「真説・古代史」拾遺編》(28)

「倭」と「日本」(11):まとめ・再び「和風諡号」


 ここで、『古事記』と『日本書紀』との史料としての性質の違いを確認しておこう。

 『古事記』は、天皇家内伝承に依拠してそれを記録したものであり、内面から近畿天皇家の正統性を語るにとどまっている。一方、『日本書紀』は、九州王朝の史書である「日本旧記」の記事、あるいは「百済記」「百済新撰」「百済本記」などの九州王朝と百済との交渉史の記事を盗用・改竄して編入し、近畿天皇家の歴史を新たに仮構し直したものである。(詳しくは 『「古事記」対「日本書紀」』 をご覧ください。)

 よって原則として、古事記と日本書紀の」記述に違いがある場合は、古事記の方を原型と考えることが妥当である。歴代の王の名前についても、『古事記』と『日本書紀』に共通なものについては、当然『古事記』の方を採らなければいけない。

 さて、今までの議論をふまえて、「倭」あるいは「日本」を含む和風諡号を読み直してみよう。

 まず、ヤマト王権が未だ奈良盆地内の一豪族に過ぎなかった頃の王の諡号。(美称や系譜あるいは官名を示すと考えられる部分と本来の名前と考えられる部分を区別して、後者を青字で表記する。)

神武
かんちくしいわれびこわかみけぬま
(神武の本来の名を付け足した。)

懿徳
おおちくしひこすきとも

孝安
やまとたらしひこくにおしひと

孝霊
おおちくしねこひこふとに

孝元
おおちくしねこひこくにくる

開化
わかちくしねこひこおおひひ

 『「倭」と「日本」(3)』で、『「古事記」の編者たちの勢力は、かれらの先祖たちを描きだすのにさいしてたかだか魏志に記された邪馬台的な段階の一国家あるいは数国家の支配王権の規模しか想定することができなかったことはたしかである。』という吉本さんの見解を紹介した。ここで言われているレベルの国家は、唯物史観による歴史的国家として、次のように規定できる。

『いまだ原生的な歴史的社会が、もっぱら共通の外敵に対する軍事的な組織という形で、同系の諸部族が大きく政治的に束ねられたとき、〈王国〉が成立し、その軍事的な指揮中枢を担う支配者とそのグループが支配共同体として、〈王権〉を構成する。』(滝村隆一「ニッポン政治の解体学」より)

 さて魏志倭人伝によれば、「ひこ」は、対海国・一大国の「大官」を示す称号である。そのころでは、「支配共同体として、〈王権〉を構成」したのが邪馬壹国(やまいちこく)であり、邪馬壹国が束ねていた諸部族国家群が「倭」と呼ばれていた。対海国や一大国はその部族国家群の一つである。

(以下は、私の素人推測です。)

 倭国から東鯷国に侵略して、奈良盆地の一角に拠点を確保することに成功したとはいえ、イワレヒコとその末裔たちには、まわりの在地の有力豪族と姻戚関係を結んで緊密な関係を造り上げるほかに、生き延びるすべはなかった。しかし、どこの馬の骨かわからぬ暴虐無頼集団では、在地の有力豪族と姻戚関係を結ぶ事はできない。実際に倭国から与えられた称号か勝手に僭称した称号かは分からないが、倭国の本流(ちくしねこ)に列なる正統な大官(ひこ)を名乗る必要があった。

 次の「倭」を含んだ諡号は、ずーっと時代が下って、雄略の跡を継いだ清寧の「しらにのおおちくしねこ」である。突然「ちくしねこ」が復活している。なぜか。

 清寧の後に王位を継いだ二人の兄弟(袁祁・意祁)の父親(市辺の忍歯王)は雄略に殺されている。残虐の限りを尽くした雄略の跡を継いだ清寧を、強いては袁祁・意祁を「ちくしねこ」として、その正当性を主張する必要があった。

 次は『日本書紀』に現れる孝徳の「日本倭根子」。『日本書紀』は『古事記』の「倭根子」を全て「日本根子」と書き換えて「ヤマトネコ」と読んでいる。ではこれはなんと読んだらよいのか。中村さんは、この孝徳の「日本倭根子」を、『日本書紀』の「作為である」として除外しているが、あえて解釈をしてみよう。

 この諡号は正式の諡号ではなく、百済からの使者への詔書のなかでのみ使われている。この頃は、まだ倭国が健在である。百済が「倭」ではなく、「ヤマト王権」に直接使者を送ったこと自体を検証する必要もあるが、今はその問題は置いて、『日本書紀』の記述通りとしよう。百済の使者は、もちろん倭国の存在を知っている。とすると、この称号は百済の使者に、「ヤマト王権」は倭国の本流にも列なる正統な王権であることを主張しているのではないだろうか。だからその意味では、「日本」と「倭」が重なっていてもおかしくない。ただし、この場合に限って「倭」を「ちくし」と読む。すなわち「やまとちくしねこ」。

 さて次は、持統の「大倭根子天之広野日女」(日本書紀)と文武の「倭根子豊祖父」(続日本紀)。

 他の諡号は全て「日本根子」なのにこの二つだけ、どうして「倭根子」なのか。「倭」を「ヤマト」と読むという天武の発明にも関わらず、この場合は「ちくし」と読むべきだと、私は考える。倭国が完全に滅亡するのは聖武の時である。天武・持統・文武のころは、衰えたりとはいえ、倭国の影響力はまだ強く残っていただろう。「壬申の乱」は「倭国」とも深く関わっていたのではないか。この二つの「倭根子」意味を考えるのには、「壬申の乱」の真相を知らなくてはならないようだ。今は結論だけの提示にととめ、その論拠は宿題としよう。(「壬申の乱」を次のテーマにする予定です。)

 後の元明から淳和までの諡号は、言うまでもなく、文字通り「日本」(近畿天皇家)の「根子」を意味している。

《「真説・古代史」拾遺編》(27)

「倭」と「日本」(10):「日本」という表記の源流(3)


 今回の議論には第三の論拠がある。中国(唐)の歴史書である。

 唐(618~907)は日本との国交も大変深く、長かった国だ。この国について書かれた歴史の本は旧唐書(くとうじょ)と新唐書(しんとうじょ)と2種類ある。その新唐書の中に、次のような記事がある。

「日本は、もと小国だったが、倭国(わこく)に、とって代わられた。」

 この「倭国」という国は、あの志賀の島の金印の一世紀(AD57)から、白村江(で唐と戦った七世紀(AD662)まで、中国の史書ではこの国名で記録されている。それが8世紀はじめから「日本国」という国名に代わり、現在に至っている。そして、「倭国」は九州王朝であり、「日本国」がそれに取って代わった近畿のヤマト王朝であることは、私(たち)のつぶさに知るところである。

 ところが上記の新唐書の記事は、その志賀島の金印以前、倭国より前に、すでに「日本」という国があった、と言っている。そしてその「日本」を倭国が併合したというのだ。1世紀より前、博多湾岸に「日本」という国があった。8世紀以後採用された国号の「日本」は、この古い国号の新しい「復活」だった。これが、中国側が記録していた歴史的事実であり、日本の国号の本当の由来だった。

 早くから文字をもち国際的な情報をもっていた、大国・唐の歴史の本のしめすところと、「東日流外三郡誌」という、この日本列島の中の本のしめした伝承とが、全く一致していたというわけだ。これを「偶然」と片付けてよいだろうか。いや、やはり歴史事実がそうだったからこそ、日本列島側の記録と中国大陸側の記録とがピッタリー致した。遺跡事実ともよく対応しているのだから、そう考えるのが理性的な正しい判断というべきだ。

 しかし、「東日流」を「偽書」だと言い張り、上記のような事実を認めようとしない人たちがいる。この問題についての古田さんは次のように語っている。

 この「東日流外三郡誌」という本は「偽書」である。現代の人が作った本だ。こういった主張をする人が現われました。新聞も、そういった記事を何回ものせました。それも、実は、もっともなことだったのかもしれません。なぜなら、この本の貴重さは、おそらく空前絶後、多くの人々にとって、全く予想もつかないことだったからです。[まさか、そんな。ウッソー。」という気持ちから、この本のことを"消し去ろう"という気持ちになったのも、無理はありません。

 ちょうど、あのドイツの有名なシユリーマンがトルコのヒッサリクの丘から、古代トロヤの古城とさんぜんと輝く黄金の財宝を見号に発見したとき、人々はあまりの意外さに驚き、逆にシュリーマンその人に対して、色々と疑いの目を向けました。

「彼は詐欺師(さぎし)だ。ペテン師だ。実は古道具屋から買いこんだものを、地下から発掘した、などと言って、ウソをついているにちがいない。」
 アテネの博物館長やヨーロッパの有名な学者たちまで、口々にそう言いました。あまりにも予想外で、それまでの常識を裏切っていたからです。トロヤとギリシアとの、長い日の戦争のことをのべた「イリヤッド」(イリアス)、盲目の詩人・ホメロスが竪琴を弾きながら、ギリシアの町々を語り歩いたという、あの「イリヤッド」は、ただのお話、歴史事実ではない。これがヨーロッパの学界では永らくの常識だったからです。

 しかし、それはあやまりでした。その常識はまちがっていました。「イリヤッド」はまさに歴史事実の骨格を伝えていた。シュリーマンはペテン師ではなかったのです。

 これと同じように、今回の「東日流外三郡誌」、その内容は、東北地方の北端部、津軽の地に伝えられた、古くからの伝承を、江戸時代の三人トリオ、秋田孝季、りく、和田長三郎吉次たちが、ひたすら記録し、一生懸命公正に伝えようとしたものでした。

 それは、日本と言う国名、日本という国の歴史の始まりと本当の由来を、正直にかきしるしたものでした。少なくとも、この本に書かれたことによって、隣の国、中国の記録がいつわりではなかったこと、それがハッキリと証明されたのです。

 このような、貴重な記録を残した和田家(五所川原市、飯詰)の代々の方々に心から感謝したいと思います。和田長三郎吉次の子孫それが現在の和田喜八郎さんと、その家族の方々なのです。有り難う。この貴重な文書を未来まで大切に保存して下きるようお願いいたします。



《「真説・古代史」拾遺編》(26)

「倭」と「日本」(9):「日本」という表記の源流(2)


 前回の議論で古田さんは、縄文時代からの水田地帯板付の水田が弥生中期以降プッツリと「消滅」しているのはなぜだろう、という問題を提起していた。この問題の解明が、今までの議論の考古学上の裏付けとなる。

垂柳(たれやなぎ)・砂沢遺跡
 青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期の水田遺跡。東北地方ではじめてみつかった弥生時代の水田跡として知られる。1956年(昭和31)に籾痕のある土器が発見され、その後、炭化米もみつかっていた。81年から国道バイパス工事のために本格的な発掘調査がおこなわれ、水田跡が発見された。この遺跡の発見で、弥生時代中期にすでに本州北端部で水稲農耕がはじまっていたことが判明した。
 その後、1987年に弘前市のから弥生時代前期に属する水田跡が発掘され、東北地方の水稲農耕開始時期がさらにさかのぼった。

 「弥生文化は、西から東へ」と伝播していったので、「東北地方に弥生時代の稲作はない」というのが学界の「定説」だった。この垂柳・砂沢などの「弥生水田」が見出されたときも、一般に次のように考えられた。

「九州から近畿、東海(又は北陸)、さらに関東地方や東北地方南半部へと伝播し、その最後に、ここ砂沢・垂柳というような、東北地方の北端部まで、稲作りの技術が至ったのだろう。」

 そして、砂沢・垂柳よりもっと古い水田が、東北地方の南半部、あるいは福島県や山形県や宮城県などから、きっと次々と見つかるだろう、と期待された。

 ところがあにはからんや、その後の発掘が示した事実は、次のようであった。

「東北地方で、一番早く、稲作の水田が誕生し、発達したのは、北端部の津軽だった。」

 これが、率直な事実、発掘そのもののしめす、厳粛な事実だったのです。

 そしてこの本『東日流外三郡誌』のしめすところも、安日彦・長髄彦は「稲」をたずさえて「筑紫の日向」をはなれ、ここ津軽で稲作の方法を教えた、と言っているのです。そう、彼等の道は対馬海流の流れゆくところ、海上の道だったのです。

 その長髄彦は、この本では何と、稲をもった姿でたびたび描かれているのです。さらに、中国渡来の集団(晋の君公子の一族)の渡来という事件も、安日彦・長髄彦と共に強調されています。

 その稲の水田の作り方も、福岡県の板付などと類似点の少なくないことが指摘されました。(他には菜畑・唐古も)

 もちろん、青森県という気候の寒い地帯に適した工夫は色々と行われたようですが、基本は板付(筑紫)と砂沢・垂柳(津軽)と両者共通しているのです。時期的には板付の方が古く、砂沢・垂柳の方が新しい。ですから、「伝播」という矢印、その矢印の方向は、いうまでもなく、「筑紫から津軽」です。



《「真説・古代史」拾遺編》(25)

「倭」と「日本」(8):「日本」という表記の源流(1)

 「倭」を「ヤマト」と読み、その「倭」を「日本」で置き換え、「日本」=「ヤマト」としたという「天才的な発想」が天武のものだったとして、では「日本」という表記を天武はどこから得たのだろうか。天武の独創だったのだろうか。

古田武彦さんは『「東日流外三郡誌」を抜きに日本国の歴史を知ることはできない』という講演で、びっくり仰天するような論説を展開している。それを紹介しよう。

「東日流外三郡誌(つがる・そと・さんぐんし)」(以下「東日流」と略称する)については 『「神武東侵」:生き返る挿入歌謡(3)』 をご覧ください。

 古田さんは、「東日流」を読んで、次のような問題を提示している。

第1
 なぜ「つがる」という地名に「東日流」という、変な三文字を当てているのか。音(おん)が当っているのは、最後の「流」という字だけです。「流罪」と書いて「るざい」と読みます。この[る」です。しかし、上の二字は、全く音が違います。

第2
 この本では、安日彦・長髄彦以来の国を「日下(ひのもと)」或いは「日本(ひのもと)」と言い、「日下将軍」などと、呼ばれていたことがくりかえし出てきます。「日下」は「くさか」とも読む字ですが、ここではそうではありません。「ひのもと」です。文字は、「日下」と書いても「日本」と書いていても、発音は同じ。

「わたしたちの国は、『ひのもと』という名前である。」
 この一点がくりかえし主張されているのです。これは、なぜでしょう。

第3
 安日彦・長髄彦兄弟が、そこから来た、という「祖国筑紫の日向」とは、どこでしょうか。孝李はこれを"九州の日向(ひゅうが)の国"つまり、今の宮崎県だと考えたようですが、果してそれでいいのでしょうか。わたしには疑問でした。この点から、もう一回考え直してみましょう。



   「第3」問題については、この「真説・古代史」シリーズでは既に何度も取り上げてきていて、私(たち)には周知の事柄である。すなわち、「筑紫の日向」とは"福岡県の日向"である。古代史において最重要地域の一つである。あらためて、その地域を確認しておこう。

 福岡県福岡市の西寄りに高祖山(たかすやま)という連峰があり、その山々の中に「日向(ひなた)山・日向(ひなた)峠」がある。日向峠は、今はバス道の停留場となっている。またこの山々から日向(ひなた)川が流れ出し、博多湾岸にそそぐ室見(むろみ)川へと合流している。その合流点には、吉武(よしたけ)高木という、わが国、最古の「三種の神器」(鏡と剣と勾玉)をもつ、弥生の墓がある。

 安日彦・長髄彦の祖国は、ここ博多湾岸だった。

 さて、「博多には『ヒノモト』という字(あざ)地名が多くある。室見川の中流、やや河口寄りに日本(ひのもと)橋があり、その東には日本(ひのもと)団地がある。調べてみると、博多湾岸に3ヵ所日本(ヒノモト)という字地名がある。福岡県全体では5ヵ所あった。

1 筑前国・那珂郡・屋形原村・日本
2 筑前国・那珂郡・板付村・日ノ本
3 筑前国・早良郡・石丸村・日ノ本
4 筑後国・生葉郡・干潟村・日本
5 筑後国・竹野郡・殖木村・日本

 他にも、長崎県(壱妓)、山口県、奈良県などにも各1、2ヵ所、「ヒノモト」という字地名が見出されるが、博多湾岸が「ヒノモト」の最密集地帯である。

 つまり、日本列島で最大の弥生前期の水田地帯板付(いたつけ)の真ん中が「ヒノモト」というわけだ。その上、なぜか、この地帯では、弥生中期以降、プッツリと、水田が「消滅」している。何が起ったのだろうか。ここにはたくさんの「縄文人の足跡」が水田の上に残されていたので有名だ。その足跡の主(ぬし)たちは、一体どこへ消えたのだろうか。

 例えば、ヨーロッパから新天地のアメリカへ移住した移民たちは、その新天地に故国の地名をたくさん付けている。つまり往々にして人々は「地名をもって」移動する。同じように、安日彦・長髄彦たちも「ヒノモト」という「地名をもって」西から東へ、つまり筑紫から津軽へ、移動したのではないか、と古田さんは言う。そしてこれが、「第1」の問題を解くカギであった。

 上の新発見を裏付けるキイ(鍵)、その第一は、先に上げた「東日流」と書いて「つがる」と読む、あの不思議な文字です。「つがる」というのは、もちろん本来の地名です。おそらくは、アイヌ語さらには大陸の粛真(しゅくしん)や靺鞨(まっかつ)といった一大部族の言語とも関係があるかも知れません。ともかく、青森県の古代からの現地語だったのです。

 その「つがる」という地名に対して、なぜ「東日流」という三字を"当てた"のか。これが一番大切なところです。それは
「「ヒノモト」という地名をもって、西(筑紫)から、この東(津軽)へ流れてきた。」
その史実、その史実の核心を指しているのではないでしょうか。そう理解すると、最初は何とも"奇妙奇てれつ"に見えた、この三字がピタリと収まります、理解できるのです。

 先にものべましたように、この三字は、決して「つがる」という「音(おん)」を現わしたものではありません。表意つまり"意味を現した"ものです。その意味とは、彼等の辿ってきた歴史のすじ道、その史実を現わすための、意味深い文字使いだったのです。この基本の事実に、わたしは今やっと目覚めることができたのです。大きな収穫でした。



《「真説・古代史」拾遺編》(24)

「倭」と「日本」(7):いつから「倭」=「ヤマト」となったのか。


(理由は詳しく述べませんが、万葉集に出現する「ヤマト」を検討する方法にさまざまな疑問が沸いてきました。「国名・地名としての「ヤマト」の項を全て削除します。「倭」は「チクシ」と読むべきなのに、なぜ、いつから「ヤマト」と読むことになったのか、という問題に戻ります。)

 『「倭」と「日本」(2)』で指摘したように、日本書紀の「日本」の読み方については、本文注に「ヤマト」と読めという指示がある。実にはっきりとしている。

(第4段本文)
廼生大日本〈日本。此云耶麻騰。下皆效此。〉豊秋津洲。
廼(すなは)ち大日本〈日本、此をば耶麻騰と云う。下皆(しもみな)此に效(なら)へ。〉豊秋津洲を生む。

一方、古事記では「大倭豊秋津島」がこれに対応するが、この「倭」の読み方には何の指示もない。それにもかかわらず、「定説」は古事記の「倭」を全て「ヤマト」と読んでいる。

 この「定説」の源流は、どうやら本居宣長のようだ。宣長は最初から『古事記』の倭を「ヤマト」と読んでいた。では、宣長がそのようにした根拠はなんだったのだろうか。ただ単に「日本書紀」にならっただけなのだろうか。

 『「倭」と「日本」(2)』で、もう一つ指摘しておいた事がある。日本書紀では、古事記の「倭」→「日本」という書き換えは、諡号と「大倭豊秋津島」→「大日本豊秋津洲」以外にもう一つだけある。「倭建命」→「日本武尊」である。どうやら「倭建(やまとたける)命」の説話が、「倭」を「ヤマト」と読むようになった根拠らしい。

(倭健説話については 『「熊襲」とはどこか(4)』 を参照してください。)

 ところで、『「倭」と「日本」(6):日本書紀の「倭」(4)』で、「倭」は「ちくし」あるいは「わ」と読むべきではないか、という西村さんの説を紹介したが、西村さんとは別の観点から、古田さんも「倭」=「ちくし」を主張して、次のように述べている。

 ところがここ2・3年来、「倭」という字は『古事記』では実は「筑紫(ちくし)」と呼んでいるのではないか、という問題にぶつかりました。

 大国主が「倭」国へ上(のぼ)ると書いてある。その途中に沖の島のアマテルの娘と結婚するという話がある。沖の島へ行くのに、何で奈良県をめざすのか。奈良県に行くのがなんで上るとなるのか。そういう疑問にぶつかった。

 本居宣長は例によって、日本は天皇家から始まるから「上る」でもかまわないと言ったが、私などはそれはちょっとピンと来ない。そうするとこれは何か。「倭国」は「筑紫(ちくし)国」のことではないか。ちょうど志賀島の金印が「倭」を「筑紫」であることを示している。出雲から筑紫国へ行くのは当然対馬海流を上らなければならないから、上るのは当たり前である。途中に沖の島へ行くのは当たり前である。

 だからあの話は偶然入ったのではなくて、『古事記』ではこの話の前にも倭が2・3回出てきますが、その倭の位置を示している。その後も「倭」を「筑紫(ちくし)」国と読んで下さい、そう理解して下さい。そう『古事記』では言っている。

 それが逆転したという建て前になっているのが『倭健(やまとたける)』の話である。有り得ないことですが、死ぬ前に、「倭」の名前をお譲りします。これからは「倭健」とお名乗り下さい。そういう話になっている。あの話から「倭」は「やまと」と呼んでもいいことになったのだ。そう『古事記』は主張し、天武は主張したかった。

 実際は天武の時には「倭」の意味は、「筑紫(ちくし)」国である。それを天武は「倭」は「やまと」と読み変えるという、ある意味では天才的な発想をした。自分がそうしたいから、そう読むのでは通りませんので、これは倭健(やまとたける)のこういう説話があるから、それ以来「倭」をヤマトと読んでも良くなった。と天武は主張している。

 他方『日本書紀』は最初から「大日本」を大日本(ヤマト)と呼べと、注に書いてあるように、なっている。『日本書紀』は最初から非常にすっきりした形になっている。ところが『古事記』はまだ節度というか、はじらいがあって、倭(チクシ)だったのだが、あの倭健(やまとたける)以来、倭(ヤマト)と読んでも良くなったですよと言っている。それを本居宣長は最初から『日本書紀』のやり方で、『古事記』の倭を「ヤマト」と読んだ。そういうことが分かってきた。

 そうなりますと先ほどの『古事記』における国生み神話の「大倭」の意味はオオヤマトでなく、オオチクシではないかと、いうことになる。



《「真説・古代史」拾遺編》(27)

「倭」と「日本」(10):国名・地名としての「ヤマト」(4)


 中村さんは、万葉集の「ヤマト」を含む歌の一覧表で、『「山常」を「やまね」、「八間跡」を「はまと」と読むべきである』という古田説を注記している。にもかかわらず、古田説に異論があるのだろうか、『「山常」は「山跡」の誤記であろう』と言い、「山常」を「山跡」の一つとして扱っている。

 古田説に異論があるとしても、なんの根拠もなく「誤記」と断ずるのは、早計であると思う。疑問点・矛盾点を「誤記」を武器に一点突破する方法は、ヤマト王権一元主義者たちの常套手段であった。それ故に、彼らの掲げる「定説」は、ますます過ちの深みにはまっていった事実に、私(たち)はこれまでにたくさん出会ってきた。安易に「誤記」とせずに、「表記のルール」に従って解読するという古田さんの方法論を堅持すべきだ。

 「山常」・「八間跡」の読み方については、私は古田説を採るが、全体の論旨には影響がないことなので、中村さんの論文の関係部分を訂正せずに、そのまま紹介していくことにする。

 さて、中村さんが調べ上げた万葉集の「ヤマト」の頻度数は次の通りである。

総歌数、43首
 山跡(山常を含む)   15首
 日本          21首
 倭(和を含む)     12首
 万葉仮名(八間跡をふくむ) 5首


 これまでの議論より、対象は「山跡」・「日本」・「倭」に絞られているが、この三者に絶対多数の使用例はなく、どれが本来の「ヤマト」かは、頻度数からは判定できない。そこで次に中村さんは、「ヤマト」の出現時期に注目して、それぞれの「ヤマト」の初出の歌を調べている。(中村さんは該当の歌を全文記載しているが、ここでは歌番号と時代を示すための漢風諡号だけを記載する。)

(1) 山跡

 第1歌 雄略
 第2歌 舒明
 第484歌 孝徳
 第91歌 天智


 中村さんは、「雄略が初出ではあるが、若し、『万葉集』に雄略以前の「ヤマト」の歌があったならば、当然「山跡」であっただろう」と推定している。

(2) 倭

 第105歌 持統

 この歌は持統の時代に分類されているが、天武死亡直後に詠まれているので、天武の時代は「ヤマト=倭」であったと推定される。

(3) 日本

 第52歌 文武

 「藤原宮の御井の歌」であるが、「わが大王、高照す日之皇子」の表現があるので文武の時代と推定出来る。

 以上をまとめたものが次の表である。

「ヤマト」変遷1


 この図1をどの様に解釈すればよいのであろうか。

 私見を述べると、「ヤマト」は雄略・舒明・孝徳・天智の歌に表記されている通り、元来は「山跡」であり、中国史書に出現している「倭」とは異なると解釈すべきであり、天武の時代に「山跡」から「倭」に変化したと理解すればよいと思うのである。

 然し、古田武彦氏出現以前の大和朝廷一元説中毒とも云える歴史学者達は、大和朝廷の飛躍的発展の手掛りを壬申の乱にのみに求め、(戦前の歴史学界では壬申の乱もタブーであった)天武の時代に関する数多くの論文を発表されている。私も壬申の乱の重要性を否定するのではないが。それらの論文を読み返しても、「ヤマト」が「山跡」より「倭」に変化した必然的な理由を発見出来ないのである。

 そもそも歴史学者達は「ヤマト」は神武以来「倭」であり、中国史書に出現している「倭」は大和朝廷であることを前提として立論されているのであり、「山跡」→「倭」の変化には気付かれていない。

 冷静に考えると、壬申の乱は単なるクーデターに過ぎず、天武の勝利により具体的に変化したのは、都が淡海より、「ヤマト」に違っただけであり、都の移動が「ヤマト」の表記を「山跡」から「倭」に変えたのである。



《「真説・古代史」拾遺編》(26)

「倭」と「日本」(9):国名・地名としての「ヤマト」(3)


 迷子にならないように気をつけながら、横道の横道に入ります。

 前回で天香具山についての犬養孝氏の解説を引用したが、そのとき疑問が一つ出てきた。氏は大和の「香久山」と古事記の「天香山」とを同一視して何の疑問も持っていないらしい。神話の舞台が大和であろうはずがないのにだ。でもこれは犬養氏だけの見解ではなく、いわゆる「定説」なのだった。

 古事記の「天香山」は、岩波古典文学大系(以下、岩波版と略記する)でも「天の香山(あめのかぐやま)」と読んでいて、その注に「大和の天の香山が神話に反映されたもの。」とある。これは、古事記の神話がイワレヒコの大和侵略後に創作されたあるいは改竄されたと主張していることと同じだ。

 『古事記の「天香山」も大和の「香久山」ではないだろう』というのが私の疑問だった。そして、万葉集第2歌の「天香具山」は別府の鶴見岳にほかならないという事を知った今、私にはその答えは明らかだ。試みにいろいろ検索していたら、この問題も古田武彦さんが取り上げていた(講演録「天香具山 登り立ち 国見をすれば」)。その講演録から、この稿に必要なところだけを、かいつまんでまとめる。

 「天香山(あめのかぐやま)」は、『古事記の神代の巻』「天照大神の磐戸隠れの一段」のところで、5回出てくる。古田さんは、この古事記の天香山も「あまのかぐやま」と読んでいる。

 では、この「あまのかぐやま」はどこなのだろうか。

 まず、「天(あま)」についての復習。

 『最古の政治地図「オオクニ」(4)』で明らかにしたように、対馬海流周辺が「アマクニ」の最古の領域であった。その「アマクニ」は「オオクニ」からツクシを強奪(ニニギの天孫降臨)して、支配領域を広げた。「天の岩屋の話」は別府も含んだ、その拡大された「天国」領域で語られたものである。古田さんは、この説話の核心を、次のように論じている。

 スサノオの乱暴に懲りて、天照大神が天の石屋に隠れてしまう。それで思金神(おもいかねのかみ)などが知恵を絞った。思金神は、天の香山の賢木(さかき)とか天の香山の鹿の皮とか天の金山の鉄などを用意する。

 どうもあそこ(別府・鶴見岳)は鉄の産地らしい。ホントかな?と思ったが、別府市を調べてみたらなんのことはない。別府は有名な鉄の産地である。

 先ほどの富来隆さんも別府の鉄の論文を書いておられる。「たたら」という字地名があの狭い別府市の中に四カ所もある。それから調べてもらったら、皆さんご存知の別府の「血の池地獄」。あの温泉は鉄である。鉄を含んでいるから赤い。私は全く知らなかったが真っ青な「海地獄」、水野さんはご存知だったが、あれも硫酸鉄である。だから両方とも成分は鉄である。そういうことで証拠はいっぱいある。

 だから別府は凄い鉄の産地である。しかも同時に銅の産地である。私は知らなかったが、鶴見岳と並んでいる硫黄岳という山がありましてつい最近まで銅を掘っていた。天真村の西垣さんに教えてもらった。鏡なども銅で作るのだから。やはり別府の「天の香具山」である。榊や鹿ぐらいは、どこにもいると思うけれども、天照(アマテル)や思金(オモイカネ)にとっては、「天の香山(アマノカグヤマ)」から持ってきた榊、鹿の皮という事に意味があった。ということは天照や思金の新しい時代より、古い時代の文明中心地が、神聖な場所が現在の別府・天の香具山の地帯である。そこの榊やそこの鹿の皮やそこの鉄でないと具合が悪い。そういう構造を持っている「お話」である。



 では、なぜ「定説」は、『古事記』の「天香山」を大和の「香久山」に比定したまま疑わないのか。もちろん、その根源は「大和王権一元主義」の呪縛であるが、論理的根拠は『日本書紀』にある。

 『日本書紀』では「天の香山」は初めから奈良県(大和)のこととなっている。神武紀の兄猾・弟猾の段(もちろん舞台は大和)に「天の香山の社の中の土(はに=埴)を取りて、」という記事があり、本文注は「香山、此れをば介遇夜摩(かぐやま)と云う」と記している。だから『日本書紀』を見る限りは、「天香山」は大和の「香久山」としか読めない。

 だがそうすると、天照(アマテル)は初めから大和にいたことになる。そこへ神武が、九州から侵略してきたことになる。アマテルの末裔を標榜するヤマト王権にとって、これは大変な矛盾である。このような矛盾が「神武造作説」が出てくる根拠になっているのだろう。

 だから津田左右吉の「神武造作説」成立の秘密が、やっと分かった。津田左右吉は神武を目の敵(かたき)にする。彼もやはり万葉集の二番目の歌も知っている。『日本書紀』では歌も奈良県で詠われたということになっている。『日本書紀』の天照(アマテル)も奈良県である。神話では天照(アマテル)は初めから奈良県におったことになる。そうすると神話から奈良県である。天皇家は奈良県の自然発生である。そうしたら神武が九州から来たという話はペケ、「神武」は造作である。津田左右吉はそうしなければならない。



 もちろん、私(たち)はヤマト王権独創の「造作説」という立場をとらない。ヤマト王権が他王朝の記録を剽窃・接ぎ木・改竄した結果の矛盾であると考える。

《「真説・古代史」拾遺編》(25)

「倭」と「日本」(8):国名・地名としての「ヤマト」(2)


 『日本書紀』には改竄・剽窃・文字の置き換えなどが多々あるのに対して、『万葉集』は歌人の製作意志が尊重されたためか、用語文字の統一という作為はなく、歌そのものは作歌当時のままに伝承されている。それ故に、 『万葉集の中にも現れる九州王朝』『「万葉集巻三の第304歌」をめぐって』 で明らかにされたように、『日本書紀』が抹消したはずの九州王朝の事績が多く隠されていて、『日本書紀』の描く「正史」のほころびが、『万葉集』から見えてくる。

 よって『万葉集』は、目下のテーマである「ヤマト」問題解明にも有効である。中村さんは『万葉集』に現れる「ヤマト」の歌を全て調べ上げている。その表を見ると、「山常」と三文字表記の「八間跡」は、第2番歌に使われているだけである。まず、この二つの表記を解明しておこう。

(第2歌)
高市岡本宮に天の下知らしめしし天皇の代[息長足日廣額天皇]
天皇、香具山に登りて、望國(くにみ)したまう時の御製歌

大和には 群山あれど とりよろふ 天(あま)の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 海原(うなはら)は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は

(原文)
高市岡本宮御宇天皇代[息長足日廣額天皇]
天皇登香具山望國之時御製歌

山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜[立心偏+可]國曽 蜻嶋 八間跡能國者

 このように、定説では「山常」も「八間跡」も「ヤマト」と読んでいる。原文を書き写しながら、私のような素人でも「はてな?」と思わざるを得なかった。同じ歌の中で同じ言葉に違う表記を用いるなど、おかしくはないか。学者は全く疑問を感じないのだろうか。

 この2番歌はこの他にもいろいろ問題がある。中村さんは深入りしていないが、古田さんが詳しく論じているので、それを紹介したい。

(以下は、古田さんの講演録「国見の歌」の要約です。)

 まず上で指摘した問題

 「山常」=「大和」か?
 「常世 とこよ」の「常 とこ」だから、上を取って「常 と」と読めないことはないが、万葉仮名では下の発音を採るのが普通なので、「山常 やまこ」と読むのが普通だ。またもう一つの読み方「常 つね」を取れば、「山常 やまね」と理解するのが普通だ。「やまこ」では歌の意味がまったく分からなくなる。古田さんは「山常 やまね」=「山嶺」と読むべきだという。

 次に「八間跡」=「大和」はもっとおかしい。この表記も他に全くない。本当に大和か。古田さんは「八間跡」は「はまと」ではないか、と言う。

 歌の内容でもおかしな事がある。この歌によると、大和盆地から海が見えている。ありえない。「海原」とは「池」のことだという詭弁で誤魔化してはいけない。どこにも「海原」=「池」なぞという例はない。

 「取與呂布(とりよろふ)」もおかしい。万葉学者の間でもいろいろの解釈があるらしい。岩波の日本古典文学大系では、「他にない言葉で意味不明」としながらも、とりあえずと言うことで、「都に近い」と訳している。しかし、どんな解釈をしても、大和盆地の中で香具山が一番目立っているという意味には違いない。しかし実際には、香具山は一番目立たない山である。しかも高さは163メートルしかなく、奈良盆地自身が海抜100メートルぐらいなので、山の麓からの高さは50メートル位である。非常に低い丘である。それが山の中でも目立つ山とは、これは明らかにおかしい。

 さて、二つの「ヤマト」が二つともダメだとすると、この歌は一体どこで詠んだ歌なのか。上の二つの疑問をも解消する場所でなければならない。「秋津島」がそのカギである。「秋津島」ついては、古田さんは既に『盗まれた神話』で分析している。おおよそ次のようである。

 これは『古事記』などに「豊秋津島」と言う形で出てくる。「豊」は豊国のことである。豊前・豊後の豊国。「秋」と言うのは、例の国東半島の所に安岐町、安岐川がある。大分空港のあるところである。そこの港が安岐港である。しかしこの「秋津」は安岐川の小さな川口の港ではなくて、関門海峡からやってくると、安岐町のところが別府湾の入口になる。そうすると「秋津」は別府湾のこととなる。別府湾を原点にして、九州島全体を指すのが「豊秋津島」。

 そうするとこの歌の「秋津島」とは九州島のこととなる。別府湾なら「海原」があって「鴎(かもめ)立ちたつ」も問題ない。のみならず「国原に煙立つ立つ」も問題がなくなる。別府は日本きっての温泉の一大団地。そうすると、まさに「煙立ちたつ」ではないか。3年ほど前に旅行で別府に行ったとき、温泉の湯煙にびっくりしたことを思い出した。

 従来は、「民のかまどの煙が立ちこめ」という意味で、「煙」は「家の煙」だとされている。しかし良く読んでみると、「海原は鴎立ちたつ」は自然現象。鴎が自然発生しているのと同じように、それと同じく「国原煙立ちたつ」も自然現象。煙が自然発生しているのと同じ書き方である。同じ自然現象だ。

 では別府に「天香具山」はあるのか。

 まず「天 あま」
 『倭名抄』では、別府一帯は「安万 あま」と呼ばる地帯だった。別府市の中にも天間(あまま)区(旧天間村)など、「あま」という地名は残っている。天間(あまま)の最後の「ま」は志摩や耶麻の「ま」であり、語幹は「あま」である。

 現在でも大分県は北海士郡・南海士郡というのが有り、南海士郡は大分県の宮崎県よりの海岸から奥地までの広い領域を占め、北海士郡は佐賀関という大分の海岸寄りの一番端だけになっている。点に近い所だけだが大分市や別府市が独立していったときに、分離されていったに間違いない。本来は北海士郡は別府湾を包んでいた。そして、そこは海部族が支配していて「天 安万 あま」と呼ばれる地帯だった。

 一方、奈良県飛鳥は「天 あま」と呼ばれる地帯ではない。岩波の日本古典文学大系は、地名とは考えず、「天から降った山だという伝説があったのでアマノカグヤマという」と注釈している。ふと思い出して、手元にある犬養孝「万葉の旅」を調べてみた。

香具山 (かぐやま)
 畝傍山、耳成山とともに大和三山の一つの香久山(高さ、148八メートル)。もと磯城郡香久山村に属していたが、現在、橿原市と桜井市に分れて、村名を失った。

 もともとは「香久山」と呼んでいたようだ。「天」については岩波とほぼ同じである。しかし「天」は「あめ」と読むと言っている。

天香具山
 古事記に「阿米能迦具夜麻」とあって、「天」は「アメ」とよむ。この山だけ「天(あめ)の」を冠らせるのは、古代、天から降って来た神聖な山として仰がれていたためである。伊予国風土記逸文にその伝説がある。

 さて、別府に香具山はあるだろうか。別府には鶴見岳がある。1350メートルの鶴見岳が正面に聳えている。そこに神社が平野と中腹とに二つある。その神社を火男小売(ほのをほのめ)神社と言い、ここの祭神がいずれも火軻具土(ほのかぐつち)命である。「土(つち)」は当て字であり、津(つ)は港、「ち」は神様を意味する言葉。あしなずち、てなずち、八叉の大蛇(おろち)、大穴持命(おおなむち)などの「ち」と同じだ。つまり、「つち」=「港の神」である。

 ついでながら、「土蜘蛛 津神奇藻(つちぐも)」というばあいも、「くも」というのは「ぐ、く」は不思議な、神聖なという意味、「も」は(海の)藻のように集まっているという意味で、「くも」は不思議な集落という意味になる。従って、「津神奇藻(つちぐも) 土雲」は「港に神様をお祭りしている不可思議な集落」という誉め言葉なのだ。それをへんな動物の字を当てて卑しめて、野蛮族をイメージをさせようとしているのが『古事記』・『日本書紀』。騙されてはいけない。本来はこれは良い意味なのだ。岡山県には津雲遺跡などがある。

 「ほ」は火山のことでなる。鶴見岳は平安時代に大爆発をしている。現在は1350メートルで、隣の由布岳より少し低い。その鶴見岳は大爆発前は高さが2000メートル近くあったのではないかといわれている。もしそうであれば鶴見岳の方が高かった。

 さて元に戻りまとめると、鶴見岳には火軻具土(ほのかぐつち)命を祭っている。「か」はやはり神様の「か」で神聖なという意味で、「ぐ く」は不可思議なという意味であり、「神聖な不可思議な山」が「香具山(かぐやま)」である。火山爆発で神聖視されていた山である。

 もう一つ、鶴見岳のうしろに神楽女(かぐらめ)湖という湖がある。非常に神秘的な湖で、その神楽女湖も、「め」は女神、「ら」は村・空などと同じ接尾語で、語幹はやはり「かぐ」である。

 並んでいる山も湖も「かぐ」。やはり本来のこの山の名前は「かぐやま」であろう。「香具山(かぐやま)」とは本来ここのことである。それで安万(あま)の中にあるので「天香具山(あまのかぐやま)」。例の「AのB」という2段地名だ。

 古田さんはさらに追い打ちをかける。

 伊予の風土記と阿波の風土記に、いずれも「天山(あまやま)」と「アマノモト山」が出来た理由が書いてある。火山爆発で吹っ飛ぶ恐い火山として瀬戸内海で有名だった山が、吹っ飛んでできた火山の片割れが、同じ「天山」であったり、「アマノモト山」であったりする。そういう話である。「天香具山(あまのかぐやま)」はいつも片割れなのだ。やはり「天香具山」=「鶴見岳」である。

 一方の奈良の飛鳥の「香具山」はまったく火山ではない。しかし、不思議な山ではある。「天乞いの山」で神が祭られている。不思議な名前で「櫛真智命(神名帳の記載例、同音異字)」と言う。雨ごいのお祭りをすると、十回に九回は雨が降るという不思議な山として伝説が伝わっている。しかし、ただの「香久山(かぐやま)」であり、言うならば「飛鳥の香具山」であり、あるいは「磐余(いわれ)の香具山」である。あそこは海部族が支配した形跡はない。

もう一つ決定打がある。
 『別府市誌』に「登り立ち 国見をすれば」の「国見(くにみ)」という字地名がある。そしてもう一つ、予想外な地名、「登り立」という字地名が二つあった。しかし、「のぼりたち」ではなく、「のぼりたて」と言う。

 一つは先ほど言った昔の天間村にある「登り立」である。この天間の「登り立」は周りの高原は良く見える。見下ろせるほど高いが、しかし海は見えない。ところがもう一つの「登り立」、別府駅の南側の浜脇区の「登り立」の方へ行くと、本当に良く見える。そこまで行かなくとも、「河内(こうち)」まで歩いて登って行くと目の下に温泉街と海が見え、国東半島の方まで良く見える。鴎(かもめ)はもちろん来る。ということで、まさに「海原は鴎立ちたつ」。

 おそらく関西弁の「どんつき」=「突き当たりとなる場所」と同じで、そこから崖に成っている所を、「登り立」と言っているようだ。今残っているのは二カ所だけだが、昔はもっと有ったようだ。そういう「登り立」の所へ行って、振り返って温泉街を望んだ歌である。

 ここで「八間跡」を「はまと」と読むべき根拠がでてくる。ここ「登り立て」が浜脇(はまわき)区であり、浜脇区と言う言葉が出来るということは、別府の中心が「浜(はま)」と呼ばれていたことを示している。そでなければ、浜脇という言葉が出来るはずがない。別府というのは官庁名で自然地名ではない。今は、北町・南町という名前が付いているが、その前は当然自然地名だった。推定だけではなくて、その先には、浜田・餅ヶ浜とか、いっぱい浜(はま)のある区名、地名がある。そうすると別府の中心を含んでこの海岸は浜と呼ばれていた。海岸だから、浜と呼ばれるのは当たり前といえば当たり前のことだ。

 さらに、さらに、意外なことに、別府湾から二キロぐらい入った所、鶴見岳寄りの別府の市街地を含めて温泉街がたくさんある。そこの字地名には「~原」がいっぱい有る。「国原は煙立ち立つ」の「国原(くにはら)」は、ただ国文学用語だと考えられてきたが、そうでなくて「~原」という地名だった。「~原」という地名の所に温泉街がある。「原 はら」という地名を背景に「国原」と言った。

 また舒明天皇が作った歌となっているが、これは筑紫万葉集から剽窃したものだ。舒明天皇の時期(7世紀後半)に作られた歌かも知れないが、それを万葉集の編者が強引に舒明天皇の歌に仕立ててしまった。第1歌が雄略天皇の歌に強引に仕立てられた(この問題も機会があったら取り上げたい)のと同じように、第2歌を舒明天皇の歌に無理矢理仕立ててしまった。そのむりやり舒明天皇の歌に仕立ててしまったところから出発して、国学はいろいろの屁理屈を付け、無理矢理説明を重ねてきた。その結果、ここでも、第一史料である歌の矛盾が露出した。

 以上より、別府の鶴見岳が万葉集第2歌の「天香具山」である。これは奈良県の歌ではない。

《「真説・古代史」拾遺編》(24)

「倭」と「日本」(7):国名・地名としての「ヤマト」(1)


 今回からの教科書は、中村幸雄『万葉集「ヤマト」考』です。

 『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』、『万葉集』で用いられている「ヤマト」の表記は、次のように多種多様である。

大和、和、倭、大倭、日本、山跡、山常、野麻登、夜万登、八間跡、耶馬登、邪馬等、大養徳

 このどれが本来の「ヤマト」なのか。これまでにこれを究明した人は、たぶん、いない。「ヤマト」には、広義(国名)・狭義(地名)、両方の意味があるため、問題が複雑になっている。中村さんの論文は、この問題の究明に挑んだものである。見事な推論であり、私は「真説」だと思っている。

 まず上記の表記のうち三文字の万葉仮名表記は、主に歌謡の中で用いられているもので、発音を示すだけのものなのだから、目下の問題では除外してよい。「和(大和)、倭(大倭)、日本、山跡、山常」を対象とすることになる。

 前回までの議論で明らかなように、『古事記』で用いられていた「倭」が、『日本書紀』では人名・諡号では「日本」に置き換えられ、本文中の「倭」はそのまま継承されている。それでは『続日本紀』ではどうなっているだろうか。

『続日本紀』では

孝謙・天平宝字元年5月の叙位記事に「大倭宿禰」とあるのが、淳仁・天平宝字2年8月の記事では「大和宿禰」に変化している。以後「ヤマト=大和」が定着する。このことについて、中村さんは次のように推論している。

 明治の府県制以前の「日本国(国名)-大和国(地名)」の型式が完成したと云うべきであり、この事実により、次の点が確認し得る。

(1)
『記紀』:「ヤマト=倭」
『続日本紀』:「ヤマト=大倭」
 この変化の理由は、文武の律令の「好字二字」の規定によってである。

(2)
 「倭」→「和」の変化は万葉集にも例がある。第64歌「(文武)慶雲三年丙午、に幸しし時、志貴皇子の作りませる歌」に、「寒暮夕 和之所念(さむきゆふベは やまとしおもほゆ)」とある。
 従ってこの変化は、淳仁天平宝字二年に始まったのではなく、文武の時代には既に、「和」は「倭」のあて字として使用されている。これが淳仁の時代に公式に決定されたと視るべきである。

(3)
 元明時代の年号「和銅」は、武蔵国より銅の献上があったことによるもので、「倭銅」(倭国国産の銅)の意味である。このことから、(a)「日本(国名)-大和(地名)」以前は、(b)「大倭(国名)-大和(地名)」であったと、推定出来る。(b)より(a)に変った理由は、「倭」の国名地名の二重性を解消する為であった。

 以上により、〝何故、大和を「ヤマト」と読むか″という問題は、〝何故、倭を「ヤマト」と読むか″という問題に吸収され、「倭(大倭)、日本、山跡、山常」に対象を絞ることができる。

 なお、上の推論について、中村さんは次のように補足している。

 然し、一般的にはその理由は、『旧唐書』日本伝〝或は云ふ、この国自ら其の名の雅ならざる(不雅)を悪み、改めて名となす。″を、皮相的に「倭」が「不雅」であるから、「日本」と改称したと解釈されているが、(1)の通り、「好字二字」の国郡表記の規定の成立後も「倭」は使用されていたのであり、文武・孝謙間は「倭」は「不雅」ではなく、むしろ「好字」であったのであり、『旧唐書』日本伝の記事は、今一つの隠された国名「天」より、「日本」への改称を意味していると、私は推定しているのである。

 日本古代史の真相を明らかにするには、
(a)
 『旧唐書』倭国伝、〝其国王、姓は阿米(天)なり″
(b)
 『日本書紀』末期の「天」の付く諱号を持つ天皇群の意味を明らかにしなければならないが、枚数の都合により割愛する。



昭和の抵抗権行使運動(35)

アメリカ属国化路線を敷いた張本人(7)


 1947年12月31日、「沖縄メッセージ」からほぼ三ヵ月後の「東京裁判」でのひとこま。

ローガン弁護人
 「天皇の平和に対する御希望にして、木戸侯が何か行動をとったか。あるいは何か進言をしたという事例を、一つでもおぼえておられますか」
東条英機
 「そういう事例は、もちろんありません。私の知る限りにおいては、ありません。のみならず、日本国の臣民が、陛下の御意思に反してかれこれするということはあり得ぬことであります。いわんや、日本の高官においておや。」

 東条の証言に拠れば「すべての戦争は天皇の意思において遂行されたということになると同時に、もし意思に反していたのなら、ヒロヒトが開戦を拒否すれば、太平洋戦争は発生しなかつたということになる。いずれにしてもヒロヒトの開戦責任はある、ということになる。」

 キーナンはただちに天皇の側近を動かし、東条の発言を撤回させるように指示した。そして1948年1月6日、東条英機は自らの発言を撤回する。

 こうした一連の事態が動いている中で、「うらうらとかすむ春へになりぬれと山には雪ののこりて寒し」(1948年1月29日「新年御歌会始」の際のヒロヒトの歌)といった言説を平然と発話できてしまう者であればこそ、国民に対する憲法遵守の発言を、平気で裏切り、自らの保身のために、ソ連と共産主義の脅威から、確実に自分を守ってほしいとマッカーサーにすがりつくことができたのであろう。

(中略)

 ヒロヒトの保身をめぐる恐怖感に、国民全体を感染させることが、「反共」と「反・北朝鮮」感情を煽り立てることの最大のねらいであり、その気分・感情が「国体」を支える、という政治的経験が、朝鮮戦争と連動したアメリカとの講和交渉の一つの内実だったのである。

 このヒロヒトの恐怖心こそが、アメリカとの平和条約交渉の過程における日米安全保障条約をめぐる、屈辱的な従属性を生み出す、最大の要因となったのである。



1950年
 10月3日 韓国軍、38度線を突破
 10月8日 「国連軍」も北進開始
 10月25日 中国人民義勇軍が出動
 11月5日 北朝鮮軍・中国軍、平壌奪回

 こうした緊迫した状況の中で、ヒロ ヒトはダレスに「文書メッセージ」を提出し、「多くの有能で先見の明と立派な志を持った人びと」、「もし公に意見表明がなされるならば、大衆の心にきわめて深い影響を及ぼすであろう多くの人びと」の公職追放解除を要請した。

 11月7日、大日本帝国の要人たち3250人が公職追放解除された。レッド・パージで「共産主義者」を追放するとともに、旧大日本帝国の政府関係者・軍人たちが続々と追放解除され、新憲法下の国家の中枢に入っていった。いわゆる「逆コース」路線も、日米合作で行われたことは明らかであろう。

 ヒロヒト個人の戦争責任の免責を、よりいっそう確実にするために、彼をとりまいていた中枢部の臣下たちが解放されたことは、国民的規模での、戦争の加害責任を忘却するうえで、大きな契機となった。もちろん、それもヒロヒトの自己保身の恐怖心からの依頼に、GHQ側が答えてのことである。



1951年1月1日
 北朝鮮軍・中国軍、再び38度線を越えて南下開始

 この年、マッカーサーは年頭の辞で、「集団安全保障」と早期講和の重要性を強調した。そして、講和条約の前提となる安全保障条約をめぐる、最終的なかけひきが、日米間で進められていった。

 しかしすでにこの段階で日本とアメリカの関係は、昭和天皇ヒロヒトの「文書メッセージ」の影響で変わってしまっていた。

 アメリカは「恩恵」として、米軍を日本に駐留させるという議論を展開することができるようになってしまったのである。重要なのは、この議論がアジアの中の日本をめぐる安全保障の現実的な状況から生まれたものではなく、ヒロヒトとその周辺が抱いた「共産主義」に対する恐怖心が生み出した幻想に基づいているということだ。その意味でフレーム・アップされた議論なのだ。



 1951年1月25日に来日したダレスは、この路線で日本側を押し切った。

 ダレスは、対日講和条約草案をはじめて公表した三月三一日のロサンゼルスの演説で、「もし日本が希望するならば、〔米軍駐留を〕同情的に考慮するだろうと公開の席上でのべた」と、ふたたび二月二日の演説をとりあげたうえで、「安全保障にたいし頼むに足る貢献をなす能力を有する国は「無賃乗車」をしてはならない」と強調した。ここに、今日にいたるまで日米関係を″規定″してきた「安全タダ乗り論」の〝起源″をみることができるのである。

 要するにこの交渉を一言でいえば、基地提供をいかに〝高く売りつけるか″という立場と軍隊の駐留についていかに〝恩を着せる″かたちにするかという立場の攻防戦であった。結果として米側は、「米国が日本に駐留したいことも真理」という日本側の「五分五分の論理」を拒否し続けることで、この攻防戦に勝利した、といえよう。
(豊下楢彦『安保条約の成立』から)



12月23日
 東条英機をはじめとする戦犯7人の絞首刑執行
12月24日
 A級戦犯容疑者岸信介ら19人を釈放


 A級戦犯容疑者の中で、ついに起訴されなかった、「開戦の詔書」の署名者、一九四一年当時の国務大臣岸信介、警察官僚で治安維持法下の言論思想弾圧の張本人安倍源基、右翼組織の大物であった児玉誉士夫、笹川良一らをはじめとするを19人をマッカーサーは釈放した。

 岸信介が、日本の再軍備に基づく、日米安保条約改定(60年安保)の際の首相であり、児玉と笹川が、田中角栄時代のロッキード事件の立役者だったことを忘れてはならないだろう。このとき釈放された面々こそが、1950年代から60年代にかけての日本の政治の反動化と、民主主義の空洞化のために暗躍しつづけ、日米談合で形成された「象徴天皇制」と、日本のアメリカへの従属体制を強化していった中心人物であったことを、私たちの記憶に焼きつけておかねばならない。

 マッカーサーによって釈放され、敗戦後に生き残った戦犯たちは、それぞれの部所において、忠実に、戦後的「国体護持」、アメリカと癒着した「象徴天皇制」体制を支えるために働いたのである。このときから、日本には「純正ナショナリスト」(そのような者がいるとして)は、原理的に存在しなくなった。どれだけ「国粋」や「愛国」を主張したとしても、その本質は、ヒロヒトがそうだったように、徹底した対米従属であり、いつでも「反共」の一致点において、アメリカと裏取り引きをする者たちなのである。

 そのことを最も象徴的に表したのが、1960年6月15日の事件であろう。



 ということで、60年反安保闘争につながりました。「反安保闘争のクライマックスに入る前に、敗戦直後から1950年の砂川闘争にさかのぼって、二つの補充をしたいと」始めたうちの一つ, 「アメリカ属国化路線を敷いた張本人」を今回で終わります。次は、もう一つのテーマ「砂川闘争」を取り上げます。

昭和の抵抗権行使運動(34)

アメリカ属国化路線を敷いた張本人(6)


 マッカーサーとヒロヒトの第4回会見から5ヵカ月後の1947年9月、ヒロヒトは「沖縄メッセージ」を出している。そこにはアメリカによる沖縄の軍事占領は、゜25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与(リース)というフィクション」の中で行われるべきだ、というメッセジーが書かれていた。

 「国体護持」としての自らの延命のために、多くの民間人を含めた甚大な犠牲者を出させ、いわば捨て石にしてしまった「沖縄」を、ヒロヒトは、いま一度自らの身の安全と引き換えにアメリカに売り渡そうとしていたのである。

 実は、ヒロヒトが憲法九条の「戦争放棄条項」をめぐって不安を抱いていることをマッカーサーに告白したことと、「沖縄」をマッカーサーに差し出したこととは、マッカーサーの基本戦略とみごとに合致していたのである。



 つまりマッカーサーは、朝鮮戦争が発生する前、冷戦構造がまだヨーロッパに限定されていた段階で既に、軍事戦略の要として沖縄に目をつけていた。小森さんは、古関彰一(獨協大法学部教授)『九条と安全保障』から、次の一節を引用している。

 ……戦力不保持の憲法を作ることによって国家の存立に危機をもたらすようなことは、「マッカーサー将軍」としては避けなければならない。しかし、彼には戦力不保持でも日本が国家として存立しうるという軍人としての現実的判断があった。

 それは、沖縄である。日本国憲法が施行されて、いまだ一年と経たない1948年2月、米陸軍省は日本の「限定的再軍備計画」を決定し、マッカーサーの意見を聴取するために計画担当官のドレーバー陸軍次官とケナン国務省企画計画委員長らを来日させる。この意見聴取に対しマッカーサーは日本再軍備計画に断固として反対の意見を述べている。その理由は五点ほどあるが、ここで重要なのは次の点である。

 マッカーサーは、今後

「外部の侵略から日本の領土を防衛しようとするならば、われわれは、陸・海軍よりもまず空軍に依拠しなければならない」

との軍事判断を示す。仮想敵がソ連であり、日本が島国であれば当然である。その前提に立って考えれば、沖縄はその位置において米国の防衛線にあること、さらに

「強力にして有効な空軍作戦を準備するのに十分な面積があること」

を挙げ、沖縄要塞化の必要を述べた後、本土については、沖縄を要塞化すれば、

「日本の本土に軍隊を維持することなく、外部の侵略に対し日本の安全性を確保することができる」。

従って、日本の再軍備の必要はないとの判断を示した。



 それを予想したかのように「沖縄」を差し出したのが、ヒロヒトの「沖縄メッセージ」だった。

 次に小森さんは、「沖縄メッセージ」 のもつ意味についてのさらにふみ込んだ分析として、豊下楢彦『安保条約の成立』から次の一節を引用している。

 ところで天皇は、当時、本当に、沖縄の安全を考えてこのメッセージを送ったのであろうか。

 あらためてメッセージの内容を読みなおしてみると、実は、「沖縄の安全」の問題は一言も出てこないのである。逆に天皇は、米軍による沖縄の軍事占領が「米国の利益になると共に日本の防衛にも供するであろう」との「見解」を表明している。しかも、日本が直面している危機について具体的に、「ロシアの脅威」と「日本の内部への干渉」をあげているのである。



 次に小森さんは、今なお沖縄に塗炭の苦しみを強いている状況の根本にある問題を、次のように分析している。

 明らかにヒロヒトは、ソ連を中心とする〝共産主義″の「脅威」が、国内の大衆運動と結びつくことによって発生する「日本の内部への干渉」を恐れて、「沖縄」をマッカーサーに売り渡すことによって、「国体護持」を図ろうとしたことになる。

 マッカーサーのアジアにおける対ソ連戦略に全面的に協力することと、自己保身を結びつけ、「沖縄」を「ソ連による日本本土への直接、間接の侵略にたいする〝防波堤″として位置づけ」たのであり、かって「本土防衛の″捨て石″」とした「沖縄戦」の場を、再び「国体の護持」という自らの安全確保の生贅としてマッカーサーに献げたのである。

「天皇やその側近グループにあっては、沖縄は一貫して本土防衛あるいは「国体護持」のための〝手段″であり、〝捨て石″と見なされてきた」のであり、こうした「沖縄」の位置付け方は、実は現在においてもまったく変わっていないのだ。

 私は、豊下の次のような認識がきわめて重要な意味を持つと考える。

 「……かりに天皇が五〇年以上もの米軍占領を認めるようなメッセージではなく、マッカーサーとの初会見で語つたとされる同じ言葉をもって、「一身はどうなってもよいから」悲惨な地上戦を体験した沖縄については軍事の拠点にすることだけはなんとしても避けてほしい、といった姿勢を鮮明にうちだしていたならば、国務省内の沖縄返還論とも〝共鳴″しあって、事態がなんらか変化した可能性も否定できないであろう。

 しかし、結果として沖縄は、天皇のメッセージの構想に近い、「潜在主権」は残しつつ事実上の米軍支配下におかれる、という歴史を歩むことになった。こうして、本土の「全土基地化」と日米の〝防波堤″としての沖縄軍事占領からなる安保体制が形成されることになったのである。」

 「沖縄」をアメリカに売り渡した「沖縄メッセージ」は、そもそも新しい憲法に違反する形で、昭和天皇ヒロヒトが、極秘で内閣を無視して外交・内政上の越権行為を行ったことの証しにほかならない。



 日米両政府は、「沖縄返還」時にも「密約」を交わして、沖縄に対して大きな裏切り行為を行っている。そして、「密約」があったことが明らかになった今もなお、自公政府・外務省は「密約文書」はないと言い張り、その開示を拒んでいる。(「沖縄返還の密約」については次の記事を参照してください。)

「今日の話題:外務省機密漏洩事件」

「今日の話題:黒を白と言いくるめることに腐心する権力の番犬たち」

昭和の抵抗権行使運動(33)

アメリカ属国化路線を敷いた張本人(5)


1946(昭和21)年
1月4日 GHQ、公職追放令
4月10日 戦後初の総選挙、自由党第一党
5月4日 鳩山自由党総裁追放
 14日 吉田茂後任を受諾
 19日 食糧メーデー
 20日 マッカーサー、デモ禁止声明
 22日 第一次吉田茂内閣成立
11月3日 日本国憲法発布

  1946年、GHQによる上からの政治制度上の民主化が着実に進められていた。一方、「食糧メーデー」に対するデモ禁止声明に見られるように、GHQと保守勢力は反共の一致点で抵抗権行使運動を弾圧していった。翌年2月1日のゼネスト中止指令で、抵抗権行使運動は大きな挫折を余儀なくされる。

 さて、11月3日に新憲法が発布されたが、憲法の骨格を決める最大の案件は ヒロヒトの免罪と天皇制の温存だった。しかし、ヒロヒトとその側近たちには、憲法問題に関する緊迫した状況認識はまったくなかった。2月12日に、ヒロヒトと側近の木下道雄は次のような会話をしていた。(木下道雄『側近日記』より)

ヒロヒト
「松本(国務大臣)は自己の在任中に憲法改正を終了したき意思の如し。これは幣原にも云おうと思うが、左程急がずとも改正の意思を表示し置けば足ることにて、改正案は慎重に論議をなさ しむべきなり。松本の考えにては現行憲法中、手を触れざる点、即ち、現行のままとしてある所について論議が出たときは、議会に其の権能なしとして、これを拒絶する考えなりと。これは如何なものなりや}
木下
「この点は重大なり。憲法中改正か、憲法の改正か、二者何れなりやの議論必ず出ずべし。むしろ憲法改正とされては如何。」

 日本政府には、抜本的な憲法改正の意志も力量がないことを見て取ったマッカーサーは、民政局に「憲法制定会議」を設置する。小森さんは、古関彰一、ジョン・ダワー、ハーバート・ピックスなどの研究・分析を克明に検証して、次のように述べている。
 やはり極東委員会FECが正式な活動を開始する前に、ヒロヒト個人の免責と延命、そして天皇制を存続させるために、マッカーサーはいち早くヒロヒト自身が、画期的憲法改正案を出した、ということにしなければならなかったのであり、極東委員会を納得させる最大の条件が、「戦争放棄」と「戦力不保持」といった、後に憲法第九条に結実する内容だったのである。

 そしてホイットニーを中心とする民政局の「憲法制定会議」の24人(4人の女性を含む)のメンバーは、わずか一週間の期限で憲法草案の起草を開始したのである。



 マッカーサーとヒロヒトの第3回会見(1946年10月16日)と第4回会見(1947年5月6日)における会談は、憲法の第九条をめぐって執り行われている。(以下は豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』による。)

第3回会見

『天皇は、「戦争放棄の大理想(日本国憲法 前文 第9条)を掲げた新憲法に日本はどこまでも忠実でありましょう」としつつも、「世界の国際情勢を注視しますと、この理想よりは未だ遠い様であります。その国勢情勢の下に、戦争放棄を決意実行する日本が危険に晒されることのない様な世界の到来を、一日も早く見られる様に念願せずに居られません」と「危険」の側面を強調したのに対し、マッカーサーは「戦争は最早不可能であります。戦争を無くするには、戦争を抛棄する以外に方法はありませぬ。それを日本が実行されました。」と、第9条の理想を"自画自賛"したのである。』

第4回会見

『天皇が「日本が完全に軍備を撤廃する以上、その安全保障は国連に期待せねばなりません」と述べた上で、しかし「国連が極東委員会のごときものであることは困ると思います」と四大国が拒否権を持つ極東委員会を引き合いに出して、事実上は国連に期待を掛けられない旨を語った。これに対しマッカーサーは「日本が完全に軍備を持たないこと自身が日本の為には最大の安全保障であって、これこそ日本の生きる唯一の道である」と第9条の意義を説き、国連についても「将来の見込みとしては国連は益々強固になって行くものと思う」と、天皇とは異なる評価を展開した。』

『ここで天皇は痺れを切らしたかのように、「日本の安全保障を図る為にはアングロサクソンの代表であるThe U.S.Aがそのイニシアティブを取ることを要するのでありまして、その為元帥のご支援を期待しております」と本筋に切り込んだ。』

『これに対しマッカーサーは、(中略)、「The U.S.Aの根本観念は日本の安全保障を確保することである。この点については十分ご安心してもらいたい。日本の安全を侵す為には戦術上に最も困難なる水陸両用作戦によらなければならないが、これはThe U.S.Aが現在の海軍力及び空軍力を持つ限り絶対に成し得ない。』

 1947年4月25日、総選挙で社会党が第一党となっている。そして、5月3日に新憲法が施行された。第4回会見はその三日後のことであった。共産化の波に怯えるヒロヒトの側の危機意識はいやがうえにも高まっていたおとだろう。この会談でヒロヒトは、第九条にも国連にもおよそ期待をかけていず、アメリカ軍による日本の防衛をマッカーサーに頼み込んでいるのだ。

 
「米国と日本との間に特別の協定を結び日本の防衛を米国の手に委ねること」
「日本の独立が脅威されるような場合、米国側は日本政府と会議の上、何時にても日本国内に軍隊を進駐すると共に軍事基地を使用出来る」

 これは、片山内閣の外相芦田均が第八軍司令官アイケルバーガーに提示した、いわゆる「芦田書簡」の内容である。アメリカ軍による安全保障の最初の構想と評されている。この文書の提示は1947年9月22日のことであり、上のヒロヒトの「要請」は、これに4ヶ月以上も先だつものであった。


 つまり、この後の日米安保体制構築の発端を切り拓いたのは、新憲法で「象徴」となり、政治的行動をしてはならないとされたヒロヒトなのだ。ヒロヒトがあたかも「元首」のようにふるまい、自らの保身を、マッカーサーに要請した、というのが、この会談なのである。



昭和の抵抗権行使運動(32)

アメリカ属国化路線を敷いた張本人(4)


 国体維持のための最強の弾圧装置・治安維持法が廃止され、政治犯が釈放され、天皇批判公然と行われるようになった。これは国体の一角が崩れた事を意味する。この経緯におけるGHQの思惑を小森さんは次のように解読している。

 昭和天皇ヒロヒト個人の免責をはかろうとしたGHQが、ここまで「国体」の基盤を崩さざるをえなくなったのは、皮肉なことに、ヒロヒトの存在を軍部と切り離し、軍部に真珠湾攻撃をはじめとする、「開戦」をめぐるすべての責任を転嫁することでしか、ヒロヒトの免責が不可能であると判断したからだ。



 10日12日、近衛文麿が天皇ヒロヒトの退位問題を新聞記者に漏らしてしまい、天皇退位報道が流れた。さらに10月30日、GHQが全皇室資産を公表したため、ヒロヒトに対する風当りが一気に強くなっっていった。

 このような状況に抗するように、ヒロヒトとその側近は、国体のもう一つの基盤である「宗教的権威」としての天皇を一気に前面に押し出そうと画策しはじめる。この動きは、軍部の中枢と天皇を切り離すことによって天皇の軍事的役割を消去し、ヒロヒトの戦争責任を回避させるというマッカーサー(GHQ)の思惑と合致してもいた。

 退位の風聞ゃ、改革を求める国内・国外の圧力といった前述のような状況を背景として、天皇の助言者たちは、天皇の軍事的イメージを払拭することに全力を集中した。彼らは、ヒロヒトに対するマッカーサー個人の寛容さを利用して、三重県にある伊勢神宮を天皇が「非公式に」参拝する許可を求め、そして、即座に許可を与えられた。

 11月12日、天皇は東京を発ち、皇祖皇宗を祀った官幣社への三日間の巡幸の途についた。表向きには、巡幸は純粋に宗教上の目的のための単純な行事のように思われた。

 天皇は、敗戦という新たな政治的状況のなかでさえ、非公式には、神話に基づく皇国史観が生き続ける力をもっていることを再確認しようとしていたのである。それのみならず、天皇は世論を試していたのであり、彼の軍事的イメージを拭い去ろうとしていたのである。

 この巡幸は、彼が新しいスタイルの装いを披露する最初の機会であり、それは、彼のために調整されていたのである。彼はただ一度だけ新衣装を着たが、そのあとは地味な背広に替えた。しかし、それを調整したということは、内外を問わず民衆に、彼が退位するどころか、皇位にとどまろうと決意していることを印象づけた。
(ハーバート・ピックス(一橋大学・NY大教授)・岡田良之助訳『「象徴君主制」への衣更え』)



 一方GHQは、その国体維持のためのもう一つの重要装置である「宗教的権威」に対して、12月15日、「神道指令」を発表する。この指令の正式名称は「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件」であり、信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止し政教分離を果たすことなどが盛り込まれていた。

 このような経過を見ると、この1945年末の時期、ヒロヒトとその側近たちが、かなり危機感をつのらせていただろうことは想像に難くない。

 この時期、ヒロヒトの侍従・木下道雄がその危機感を如実に示す活動をしている。かつて共産党に所属し、転向後右翼になった田中清玄をヒロヒトに会わせて、「国体護持」を実現するために全面協力するという約束をとりつけていたのである。さらに12月30日には、須知要塞という人物に会い、暴力団の安藤明と協力して、GHQを操作する計画をねっていた。

今日の話題

新聞から、傑作三選


 今日はチョット息抜き。

 東京新聞に、これは傑作と、思わず笑ったり膝を打ったりしてしまった記事が三つあった。記録しておこうと思った。

 一つは昨日の朝刊。
 芸能欄に「言いたい放題」というコラムがある。何人かの芸能人や芸能関係者たちが順番で担当している。芸能界のニュースや裏情報には関心がないので、ほとんど読むことはない。ただ、権威や権力に媚びることなく、政治や社会問題を語る東ちづるさんの文章を気に入って、毎回読んでいる。でも、今日紹介したいのは東ちづるさんではなく、落語家の桂米団治さんの文章。かみさんが「面白いよ」と教えてくれた。紹介したいのは強調文字(青文字)の部分なのだが、一応全文掲載しておこう。

コメに縁があるなあ
       桂 米団治

 10月4日、私は五代目桂米団治と相成りました。何卒よろしくお願い申し上げます。

 初代の米団治は嘉永元(1848)年の生まれ。初代桂文団治に入門し、後に七代目桂文治にまで昇りつめた上方を代表する親分肌の師匠でした。

 米団治命名の由来は、家が米屋だったから。以来、「米」が名に付く系譜が続くことになったのです。実は、私の後援会長も米屋さん。コメに縁があるなあ。ますます米を食べようと思 った次第。ごはんで″気(き)″を入 れ、巡業を乗り切っています。

 瑞穂の国と言えば日本を指しますが、米の国と書けばアメリカになりますね。この国からは毎年、米穀の自由化を迫られ、マイ上がるばかり。しかも、宗主国の金融破綻を補填するのは属国の務めとばかりに、日本の銀行に買い取りを迫ります。

 ここは一つ、上方流の外交を施してはどうでしよう。
「所詮わてらは敗戦国でっさかい、文句言えませんねん。米軍駐留費の七割はウチが出してるのに、沖縄で何されても身柄拘束でけしまへん。米国債は買うことはできても、売ることは絶対許してもらえません。まぁ、オリンピックで日の丸を振らしてもらえるだけでもありがたいと思わなあきまへんねやろな」
とね。

 米のことならすべて私に任せて! と言うた時、文珍さんが「君は事故米とちゃうやろな」。



 日本がアメリカの属国であることを見事に風刺してますね。

 二つ目は記事ではなく、本日朝刊の一こま漫画。思わず吹き出してしまった。最近まれに見る傑作。

麻生太郎と小沢一郎

 最後は、これも新聞の記事ではない。

 週間金曜日以外の週刊誌を購入したことはほとんどないが、新聞の週刊誌広告欄はよく見る。それを一通り見るだけで、ちまたでは何に関心が集まっているのか、どの週刊誌がマスゴミ報道ではないマスコミ報道を心がけているのかなど、世相がよく読み取れて、結構おもしろい。今日は「週刊ポスト」の見出し記事に思わず吹き出してしまった。一瞬、買って本文を読もうかな、と思ってしまった。「週刊ポスト」さん、「一瞬、思った」だけでゴメンナサイ。

爆笑政界診断

田中真紀子

「ひょっとこ麻生は辞めなさい」そして

「小泉ジュニアは横須賀のチンピラ」

さらに返す刀で「評論家・桝添は"便利な機械"」



 「ひょっとこ麻生」で吹き出してしまった。かっての「軍人・変人・凡人」も傑作だったが、毒舌真紀子健在というところ。短い言葉で、それぞれの人物像の本質をよく捉えている。

昭和の抵抗権行使運動(31)

アメリカ属国化路線を敷いた張本人(3)


 敗戦直後のヒロヒトとその側近たちには「国体護持」の願望しか念頭になかったかのようである。東久邇内閣は、大日本帝国が受諾しポツダム宣言を忠実に履行すべき任務を担っていたが、「国体」の問題に関してはまったくその気がなく、ポツダム宣言の内容を全く理解していないかのようであった。特に、国体護持のための暴力装置である治安維持法体制の存否という点において、マッカーサー(GHQ)は東久邇内閣と真っ向から対立せざるをえなかった。

 9月月27日のヒロヒト・マッカーサー会見の一週間ほど後の10月4日に、マッカーサー(GHQ)は、「民権自由に関する指令」を発表した。この指令の正式名称は「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」と言い、政治犯の即時釈放・治安維持法廃止・天皇に関する自由討議・思想警察と類似機関の廃止などの要求が盛り込まれていた。5日には、この指令は「実行できない」と東久邇宮稔彦内閣が総辞職している。

 この指令によって、共産党員を始め、「非国民」として獄につながれていた政治犯たちが釈放された。敗戦直後、共産党が占領軍を「解放軍」と規定したことは分からなくはないが、その評価はやがてすぐに裏切られることになる。

 小森さんは、このGHQによる「人権指令」の戦後史における意味は五点あるとして、竹前栄治著『占領戦後史』を援用しながら、次のように述べている。

 「第一に、政治犯の釈放は日本政府の自発的意思によってなされたものではなく、占領軍の命令によってなされたものである。当時の日本の大衆運動の力量は、独力でこれを政府に実施させるに至るほどには成長していなかった」とし、「大衆の政治意識の未成熟」の「原因」を「戦後日本民主主義の主体性形成」の「問題」として「徹底的に究明」すべきだと竹前は述べている。

 「国体」を法的概念として規定した治安維持法の下で、共産主義者のみならず、「国体」=「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」(「大日本帝国憲法」第一条)という権力の神話性に少しでも疑問を抱く思想や宗教までをも弾圧し、「非国民」として排除し、警察力で弾圧した制度を、この国の「大衆」は自ら変えることができなかったのである。この間題はその後のGHQによるレッド・パージとその後の気分感情的な反共主義として、「国体」感覚とでも言うべき差別と排除の感覚が戦後社会に根強く残りつづけたことと強くかかわっている。

 竹前の指摘する「第二 の特徴は「東久邇内閣から幣原内閣への権力の移行はたんなる政権交代というよりは、新旧権力の交代・再編成を意味する」ところにある。竹前によれば、「東久邇内閣」は「旧権力=天皇制権力の代弁者」であり、「幣原内閣」は、「新権力=親英米派外務官僚をリーダーとする戦後保守本流の萌芽的権力を代弁する」、「戦後の新しい保守権力形成の出発点」になったのである。

「第三」は、「政治犯釈放によって日本共産党が史上初の合法的活動の舞台に登場し」たことである。

 そして、「第四」に、「政治犯釈放運動における朝鮮人の役割が大きかつたという事実」を、「戦後史の中で高く評価されなければならない」と竹前は強調する。それは在日朝鮮人の人々の「日本帝国主義による過酷な人種差別に対する反発力」によるものであると同時に、朝鮮半島における植民地からの解放をめざす独立連動と深く結びついていたからである。しかし、10月10日という日は、9月6日にソウルで宣言された「朝鮮人民共和国の樹立」が、米軍軍政長官によって「否認」された日でもあったのだ。

 「第五」には、「GHQが政治犯に対して行なったインタビューによって得た情報」が、その後のマッカーサーの政策に「フィードバック」したという点である。それは、ただちに10月11日の「五大改革」、女性の解放、労働組合の奨励、教育の民主化、圧制的諸制度の撤廃、経済の民主化の方針がGHQから出されることに反映される。



 史上初の合法的活動の舞台に登場した日本共産党は、10月10日に「人民に訴う」を発表し、公然と「天皇制打倒」を政治スローガンに挙げた。そして、11月11日に発表した「新憲法の骨子」において「人民主権」を主張し、「国体」の根本的な転換を目指す具体的な運動を展開していった。

 12月1日、日本共産党は「日本共産党行動要領」を公にし、そこで「天皇制の打倒、人民共和国の樹立」を挙げた。さらに、12月8日には、「戦争犯罪人追及人民大会」を開き、ヒロヒトの名を戦争犯罪人の筆頭にあげていた。

《「真説・古代史」拾遺編》(23)

「倭」と「日本」(6):日本書紀の「倭」(4)


4.地名・国名としての「倭」

 日本書紀では、古事記あるいは万葉集などで「夜麻登」あるいは「山跡」などと記述されていたものを、全て「倭」「倭國」あるいは「大倭」と書替えている。そのため「地名に関しては非常に判断が困難である。」と西村さんは述懐している。この『地名・国名としての「倭」』の問題は、「古田史学の会」の中村幸雄さんが『万葉集「ヤマト」考』という論文で詳しく解明しているので、次回からはこの中村論文を読んでいきたい。

 西村論文では、『地名・国名としての「倭」』の問題に、仁徳即位前紀の「不可思議な記述」の解読を通して、アプローチしている。西村さんは、その説話の原文を掲載しているが、ここでは講談社学術文庫の訳文を掲載しよう。

「 このとき、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が、倭の屯田(みた)と屯倉(みやけ)(天皇の御料田や御倉)を支配しようとして、屯田司(みたのつかさ)の出雲臣の先祖、淤宇宿禰(おうのすくね)に語って、「この屯田(みた)はもとから山守りの司る地である。だからいま自分が治めるから、お前にその用はない」といわれた。淤宇宿禰は太子に申し上げた。太子は「大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に申せ」といわれた。淤宇宿禰は大鷦鷯尊に、「私がお預かりしている田は、大中彦皇子が妨げられて治められません」と申し上げた。大鷦鷯尊は倭直の先祖麻呂(まろ)に問われて、「倭の屯田は、もとより山守りの地というが、これはどうか」といわれた。「私には分かりません。弟の吾子寵(あごこ)が知っております」と答えた。吾子籠は韓国に遣わされてまだ還っていなかった。大鷦鷯尊は淤字にいわれるのに、「お前は自ら韓国に行って、吾子籠をつれて来なさい。昼夜兼行で行け」と。そして淡路の海人(あま)八十人を差向けて水手(かこ)とされた。淤宇は韓国に行って、吾子籠をつれて帰った。屯田のことを尋ねられると、「伝えきくところで は、垂仁天皇の御世に、御子の景行天皇に仰せられて、倭の屯田を定められたといいます。このときの勅旨(ちょくし)は『倭の屯田は時の天皇のものである。帝の御子といっても、天皇の位になければ司ることはできない』といわれました。これを山守りの地というのは間違いです」と。大鷦鷯尊は、吾子寵を額田大中彦皇子のもとに遣わして、このことを知らされた。大中彦皇子は言うべき言葉がなかった。その良くないことをお知りになったが、許して罰せられなかった。」

 屯田は垂仁のときに定められた「天皇の御料田」であるが、その意義が仁徳にもその臣下たちにも分からなくなっており、それを知っていたのは倭直の一族の吾子籠だけだったと言っている。そんなバカなことがあるのだろうか。

 西村さんは、垂仁のときに屯田が定められた事情を、次のように推論している。
 崇神の時代までは、近畿ヤマト王権と九州王朝の間に巨大な東鯷国(銅鐸圏)が広がっていた。ところが垂仁の時、東鯷国は滅ぼされたて、九州と近畿との往来が容易になった。近畿ヤマト王権は神武以来、九州王朝の臣下を自認していた訳だから、当然九州王朝に対し貢献する義務を負う。従ってその貢献物である米を作る田を定める必要が発生した。

 従って、垂仁の言う帝(原文では「御宇天皇あめのしたしらししすめらみこと」)とは九州王朝の王、つまり倭王であり、「倭の屯田」は「チクシノミヤタ」である。



 次に西村さんは『仁徳の時代、何故「チクシノミヤタ」の意義が忘れられていたのだろうか。』と問うている。

 答えはいたって簡単である。前段で論じたように、神功・応神以来近畿天皇家は九州王朝の承認を得ていなかった。言い替えれば、服属していなかったのだ。従って、九州王朝に対する納税義務も消えたことになる。「倭の屯田」の意義が失われる所以である。  さて、こうして「倭」(ワもしくはチクシ)の地名が奈良県内部に遺存してしまった。とすれば、残り四十九件の「倭」もすなおに「ヤマト」と読めるのかどうか問題となるのである。



6.神名に付いた「倭」

崇神六年
「百姓(おおみたから)流離(さすら)へぬ。或いは背叛(そむ)くもの有り。其の勢、徳を以て治めむこと難し。是を以て、晨に興き夕までにおそりて、神祇(あまつかみくにつかみ)に請罪(にみまつ)る。是より先に、天照大神・倭大國魂、二の神を、天皇の大殿の内に並祭(いはいまつ)る。然して其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず。故、・・・」

 この後、天照大神は倭の笠縫邑(かさぬいのむら)から最終的には伊勢神宮に、、倭大國魂は大和神社に祀られることになる。

 ここで西村さんは『「是より先に」とは「いつから」のことか』と問う。

 天照大神は明らかに神武が九州から連れて来た神である。とすれば、倭大國魂も同様ではなかろうか。或いは、神武から垂仁までの間にヤマト以外の土地から来たのだろうか。何故なら、倭大國魂はこの時初めて、「天皇の大殿の内」から出されるのであり、「ヤマト」原住の神とは考えられないからだ。この倭大國魂を「ヤマト」原住の大物主神と混同する向きもあるが、これは明らかに誤りである。



崇神七年八月
「大田田根子(おおたたねこ)命を以て、大物主大神を祭(いやま)ふ主(かむぬし)とし、亦、市磯長尾市(いちしのながをち)を以て、倭大國魂神を祭ふ主とせば、必ず天下(あめのした)太平(たひら)ぎなむ。」

 (倭大國魂と大物主神は)まったく別の神格だ。そして倭大國魂の神主に任命された市磯長尾市とは、またしてもあの「倭直」の一族なのである。

 となれば、この「倭大國魂」は何処から神武たちが連れて来た神だろうか。並祭していたのを、以後別けて祀るのであるから、本来天照大神とは別の土地の神だと思われる。ヤマトでないならば、吉備・安芸・豊或いは筑紫の神であろうか。



 次に、大和神社の本殿の傍らに祀られている神を取り上げている。

 社伝には、竜神にして倭大國魂の使神、とされている。この神は非常に古い神らしく、神代紀の神生みの段一書第七に、軻遇突智(かぐつち)の屍より生まれたとされている。軻遇突智が何処で殺されたかは定かではないが、この後イザナギは泉國へイザナミを訪ね、更に「故、橘の小門に還向(かへ)りたまひて」とあるので、おそらくこの神の生地は筑紫であろう。ではこの神を使いとしている倭大國魂も筑紫の神と考えることが自然だ。

 つまり、「天国」=天照大神、「倭(筑紫)国」=倭大國魂なのである。そしてこの神の呼び名は、大和神社には申し訳無いながら「チクシオオクニタマ」なのである。



 西村さんは最後に、次のように述べて、この論文を閉じている。
「倭」の音は「wa」である。「倭」を「ヤマト」と読むには、「ヤマト」の国に「倭」の中心が存在する必要がある。では、日本書紀編纂当時既に「倭」=「ヤマト」は人口に膾炙していたのだろうか。だが、もしそうであれば、歌謡はともかく、本文注の「ワ」を表す文字は「和」を使用すべきではないだろうか。

 ともかく、日本書紀に指示されていない以上、本来の読み方である「ワ」以外の読み方は、論証無しにはすべきではない。だから、「倭」を「ヤマト」と読まないことは、実は当たり前なのである。

 それでも、「倭」を全て「ヤマト」と読みたい人があるのなら、次の一文の読み方を示して戴きたい。

大化二年二月詔勅
「明神御宇日本倭根子天皇・・・」

 岩波の日本古典文学大系ではこの3文字を「ヤマト」としているが、まさしく糞飯物といえよう。

 「倭」を日本書紀の規定しない「ヤマト」と読みたい方にこそ、その論証責任があるのである。



《「真説・古代史」拾遺編》(22)

「倭」と「日本」(5):日本書紀の「倭」(3)


3.人名に使われる「倭」

 まず西村さんは、古事記と日本書紀の人名対比表を掲示している。

〔番号 紀名 日本書紀(古事記)
        (備考)〕

     という形式で転載する。

1 孝霊 倭國香媛(意富夜麻登玖邇阿礼比売命)
2 孝霊 倭迹迹日百襲姫(夜麻登登母母曾毘売)
      (孝霊と1の娘)
3 孝霊 倭迹迹稚屋姫(倭飛羽矢若屋比売)
      (孝霊と1の娘)
4 孝元 倭迹迹姫(2と同一視)
5 崇神 千千衝倭姫(千千都久和比売)
      (崇神と御間城姫の娘)
6 崇神 倭彦(倭日子)
      (崇神と御間城姫の子)
7 崇神 倭迹速神浅茅原目妙姫(2と同一か?)
8 垂仁 倭姫(倭比売)
      (垂仁の娘)
9 景行 稚倭根子(倭根子)
      (景行の子)
10 継体 倭彦
      (仲哀五世孫)
11 継体 倭媛(倭比売)
      (三尾君堅威の娘)
12 天智 倭姫
      (天智皇后・古人の娘)


 この表から読み取れること。

① 時代がひどく偏っている。
 「倭」を「ヤマト」と読み奈良県を意味するのであれば、もっと各時代平均して出現する筈であろう。

②特に、応神~武烈まで全くない。
 この応神から武烈までの大王の和風諡号には「ワケ」以外には、「ヒコ・ミミ・タマ」といった九州王朝の官職名とおぼしき称号が全くない。さらに日本書紀では活発な対外活動をしているこれらの大王たちが、古事記では少なくとも近畿地方から外へ出た形跡がない。

 つまり、この時期の近畿王朝は九州王朝と政治的な交渉をもっていなかったと推察出来るのだ。その理由は唯一つ。神功・応神の反乱と纂奪である。この不法な纂奪者とその子孫たちを九州王朝は承認しなかったのである。だからその時代、近畿には「倭」を冠した人物が存在しないのだ。

 では、九州王朝と交渉があれば、何故「倭」を戴いた人名が出現するのか。天皇の子供たちは様々な理由でその名を獲得する。生地の地名・扶養地の地名・扶養者の氏族名などである。上記の(表)内、何人かは九州に何らかの繋がりがあるのではあるまいか。



(神功・応神の反乱と纂奪については
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(3)
を参照してください。)


③ 古事記との対比から考えられること
 1と2は、古事記では「夜麻登」と音読で表記されているので、日本書紀での表記「倭」を「ヤマト」と読んでもよいかもしれない。ただし、西村さんはこの推定には「こう即断するにはやや問題がある。倭國香媛はまったくの別名であり、倭迹迹日百襲姫命も微妙に表現が異なるからだ。」と留保をつけている。


倭國香媛
やまとくにかひめ

意富夜麻登玖邇阿礼比売命
おほやまとくこあれのひめ


倭迹迹日百襲姫
やまとととひももそひめ

夜麻登登母母曾毘売 やまととももそびめ)

 では、古事記にも登場する他の6名は何故古事記で「夜麻登」ではないのだろうか?

 その最大の理由は元来「ヤマト」と読まなかったからではないのだろうか。特に千千衝倭姫命は「倭」を「和」と書替えてある。古事記が固有名詞を表記するルールに従えば、少なくとも千千衝倭姫命は「ヤマト」とは読んではならないのである。




千千衝倭姫命
ちちつくやまとひめ

千千都久和比売
ちちつくわひめ

④ 日本書紀だけに現れる名称

10の継体紀・倭彦について

継体即位前紀
「・・・今、足仲彦天皇の五世の孫倭彦王、丹波の國の桑田の郡に在す。」

 西村さんは「果たして仲哀の五世孫といった人物が本当に存在したのであろうか?」という問いを立てる。

(この倭彦王については
『ヤマト王権・王位継承闘争史』(11)
を参照してください。以下の論考では 『ヤマト王権・王位継承闘争史』の(3)(11)で明らかにされた史実が前提となっています。)


 応神は仲哀の末子である。その応神を戴いた神功と武内宿禰は当時の近江朝に対し反逆する。そして、武内宿禰は執拗なまでに、正統な王位継承権者・忍熊王を追いつめている。神功らはその他の王位継承権者をも生かしてはおかなかっただろう。応神以外の仲哀の子孫たちは殺し尽くされたに相違ない。ここに応神以外に仲哀の血を伝える者は途絶えた。

 ましてや、仲哀五世孫など存在する筈がない。では、この仲哀五世孫とされる倭彦王とは一体何者なのか。

 武烈死後、王位継承権者のいない近畿地方は内乱に陥った。九州王朝はこの内乱に介入しようとはしなかったのであろうか。そして、筑紫から近畿に素速く、しかも安全に到着する方法の一つとして、対馬海流に乗り出雲沖を抜け丹後半島に上陸し陸路を丹波・山背と進む方法がある。

 「丹波の國の桑田の郡」に居た、とされる倭彦王はこの軍隊の指揮者ではなかったのではないだろうか。或いは、倭王つまり磐井その人であった可能性すら否定できないのである。何れにしても、「倭彦王」は少なくとも「ヤマトヒコノキミ」と読むべきではない。



12の 天智紀・倭姫について

 この倭姫は、天智の異母兄とされる古人大兄(ふるひとのおほえ)の娘であり、天智の皇后である。また、天智のの称名は「中大兄」である。この系譜は大きな問題点を孕んでいる。

 まず「中大兄」の問題

 「大兄」とは異母兄弟中最年長の男子に与えられる称号である。とすると天智の「中大兄」ってなんだ?「定説」は「天智は二番目の大兄なので中大兄」と説明している。実に苦しい解釈だ。もしそうならば、天智には固有名部分が存在しないことになる。天智は「葛城皇子」という別名もあったのだから、「葛城中大兄」と呼ぶべきだろう。しかし、日本書紀にはこの言い方はまったくない。また、天智の他には「中大兄」と呼ばれた王子がまったく存在しないことも変な事だ。

 ところで、舒明には二人の「大兄」がいたとされているわけだが、この古人大兄はに反逆罪で殺されている(孝徳元年11月)。つまり、反逆罪で殺された男の娘が皇后に成っている。これも変だ。

 さらに、天武は天智に出家届を提出する際、この倭姫王を次代の天皇に推している。これも奇怪な事だ。(いずれ「壬申の乱」を取り上げたいと思っている。この問題はそのときに詳しくふれることになるだろう。)

 後は想像するしかないのだが、形式的には九州王朝が存在しているとはいえ、この時期実力ナンバーワンだったであろう天智の皇后に最も相応しい人物は、政略的にみれば九州王朝の皇女である。つまり、薩夜麻(さちやま)の娘だ。もし、この人物が筑紫から遥々近畿に嫁いできたとすれば「倭姫王」の名が最も似つかわしい。すなわち「チクシヒメノキミ」である。



薩夜麻については
『白村江の戦(3)』
を参照してください。


《「真説・古代史」拾遺編》(21)

「倭」と「日本」(4):日本書紀の「倭」(2)


2.姓・部の「倭」

 このケースの「倭」の初出は「神代下第九段国譲り」の「一に曰く」の中である。

「一に云はく、二の神遂に邪神(あしきかみ)及草木石(くさきいし)の類を誅(つみな)ひて、皆已に平(む)けぬ。其の不服(うべな)はぬ者は唯星の神香香背男(かかせお)のみ。故(かれ)加(また)倭文神(ひとりがみ)建葉追命(たけはつちのみこと)を遣せば服(うべな)ひぬ。倭文神、此をば斯圖梨俄未(ひとりがみ)と云ふ。」

 これについての西村さんの解説。(以下、このことわりを省く)

 倭文神はシトリガミと読み、シトリはシツオリつまり日本古来の織り文様のことであるらしい。神武東侵以前なので、奈良県は登場すべくもない。つまり、この時の「倭」は中国史書に表われる「倭」と同様の意味を持ち、もし、和訓するとすれば「チクシ」以外には有り得ない。



 西村さんはこれと同種の命名と思われるものを取り出していく。

綏靖即位前紀十一月
「乃ち弓部稚彦(ゆげのわかひこ)をして弓を造らしめ、倭鍛部天津真浦(やまとのかぬちあまつまえあ)をして真麛(まかご)の鏃(やさき)を造らしめ・・・」

允恭四二年十一月(西村さんは「允恭七年十二月」としているが誤記だろう。)
「時に倭飼部(やまとのうまかいべ)、新羅人に従いて…」

 この天津真浦は時代が離れている為同一人物とは考えられないが、古事記の天の石屋戸の段に天津麻羅として鍛冶屋の役で登場するので天孫降臨以前からの部名と考えられ、即ち「ヤマト」とは読み得ないのである。

 (允恭紀の例)も同様であろう。何故「ヤマト」人が新羅人に従って入国しなければならないのだろうか?

 こうなると、その他の「倭」を冠する姓・部は全て再考すべきであろう。



雄略九年五月
「倭子連(やまとごのむらじ)〈(注)連、未だ何の姓(うぢ)の人なるかを詳にせず。〉」

顕宗元年二月
「(注)置目(おきめ)は老嫗(おみな)の名なり。近江國の狭狭城山君(ささきのやまのきみ)の祖(おや)、倭帒宿禰(やまとふくろのすくね)の妹(いろも)、名を置目と曰う。見下の文(くだりに)見ゆ。」
(「下の文」では、倭帒宿禰は、狭狭城山君韓帒宿禰(からふくろのすくね)と対にして語られている。)

武烈七年四月
「百済の王(こきし)、斯我君(しがきし)…遂に子有りて、法師君(ほふしきし)と曰ふ。是れ倭君(やまとのきみ)の先(おや)なり。」
<    何れも「ヤマト」と読むにはいかがわしい、として、次に、西村さんは「倭」を冠した残りの姓(倭直~大倭連)の系譜の検討をしている。

 まず神武紀。
 速吸之門(はやすいなと)でイワレヒコの軍団の水先案内になった珍彦(うずひこ)に椎根津彦(しひねつひこ)という名を授けた段で
「即ち倭直部(やまとのあたひら)が始祖(はじめのおやなり)なり。」(神武即位前紀甲寅年十月)
と言っている。
 さらに「倭国(やまとのくに)の磯城邑(しきのむら)」を侵略した時(神武即位前紀戊午年九月)の恩賞で、
「珍彦(椎根津彦の別名)を以て倭國造と」(神武二年二月)している。

 なんと神武の気前の良いことか。神武は自分が新たに獲得した領土の全てを珍彦(椎根津彦)に預けたと云うのである。それとも、神武が征服した土地の一部に小字の「倭」があったというのであろうか?だが、「倭」は本来九州を指す用語である。神武がはるばる九州から持参したというのであれば、神武以前の小字「倭」には首肯しえない。

 これによれば、今まさに神武に攻められる土地が「倭国」と呼ばれている。奈良県には既に「倭国」があったのであろうか?



 ここでも「倭」を「やまと」と読む「定説」に繕いがたいほころびが出ている。

 武烈四年
「(「百済の武寧王」の注)百済新撰に云はく…琨攴(こんき)、倭(やまと)に向(まう)づ、時に筑紫嶋(つくしのしま)に至りて…」

 継体七年六月
「(注) 百済本紀に云はく、委(やまと)の意斯移麻岐彌(おしやまきみ)といふ。」

欽明一五年十二月
「百済、下部杆率"斯干奴(かほうかんそちもんしかんぬ)を遣(まだ)して表上(ふみたてまつ)りて曰さく「百済の王臣明(こきしやつかれめい)及び安羅に在る諸の倭(やまと)の臣等(まえつきみたち)…」

推古十六年八月
「時に使主裴世清(おみはいせいせい)親(みずか)ら書を持ちて…其の書に曰く「皇帝(きみ)、倭皇(やまとのすめらみこと)を問ふ。…」

(孝徳紀)白雉五年二月
「(注)伊吉博得(いきのはかとこ)が言はく、…別に倭種韓智興(やまとのうぢかんちこう)…」

斉明五年七月
「(注)伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)書に曰はく、…倭(やまと)の客(まらうど)最も勝れたり…「汝等(いましたち)倭の客…」

 これらの例ではすべて「倭」を「やまと」と読んでいるが、神功三九年の(注)では「わ」と読んでいる。

「魏志に云はく、…倭(わ)の女王、…」

 神功三九年から推古十六年八月までは全て外国史料であるので「倭」を「ワ」と読むのは明白である。伊吉連博徳は日本側の人である為、判断が付きにくいように思われるが、斉明五年七月注の「汝等倭の客…」は唐帝の勅旨であるので「ワ」と読むしかないのである。



 魏志の場合だけ「わ」で他の外国史料では「やまと」と読むというのでは、まったく論理的整合性に欠けると言わなければならない。

《「真説・古代史」拾遺編》(20)

「倭」と「日本」(4):日本書紀の「倭」(1)

 「古田史学の会」の西村秀己さんに『日本書紀の「倭」について』という論文がある。これを教科書としたい。以下はその論文の紹介です。

 まず西村さんは、日本書紀(岩波古典文学大系)に登場する「倭」を全てチェックしている。「人名の重出は1と数える・同系統の姓名の重出(例えば倭直・倭国造・大倭国造・大倭連は同系列)は1と数える・一記事中に表われる地名は1と数える・倭京は六例あるが1と数える」という方針で数え上げている。全部で113例。その内訳は次の通りである。

人名に使用されたもの12例
姓名、部名、神名等に使われるもの13例
地名50例
外国史料等の引用13例
表音記号として使用されたもの25例

 これらのうち、表音記号の25例と〈倭文〉の一例を除いて、「ヤマト」と読んでいる。「これは本当に正しいことなのであろうか?」と問い、西村さんは次のように検証を進めている。

1.表音記号としての「倭」

 表音記号としての「倭」は、我(waga)・若(waka)等の「wa」を表している。例えば初出は神代上第六段本文注で
少宮、此をば倭柯美野と云ふ。」
とある。

 本文中に現れる表音記号としての「倭」は、上記の神代上の他は神武紀・顕宗紀の2例だけであり、あとは歌謡の中で用いられている。そして、歌謡の中での用例は雄略紀から斉明紀までの間に限られている。(但し、天智紀以降は「wa」音を用いた歌謡がない。)

 以上のことから、西村さんは次のように問題提起をしている。

 従って、安康以前は「和」、雄略以後は「倭」と考えられる。この使い分けが何を意味しているのかは不明だが、何らかの理由がある筈である。例えば、允恭・安康時代もしくはこれらが文字化された時期までは「倭」は「ワ」とは読まれていなかった、等々である。今は紹介に留めたいが、諸兄にはお考え戴ければ幸甚である。



昭和の抵抗権行使運動(30)

アメリカ属国化路線を敷いた張本人(2)


 東京新聞夕刊のコラム「大波小波」が久々に私の思いと共鳴した。
 1989年には昭和と平成と、元号が二つあるが、今や大学生の約半数は平成生まれ。大学の教室での昭和は〝同時代的現実″ではない〝歴史的事実″だ。

 昨今の若者たちの間での『蟹工船』ブームを、吉本隆明はここ数年の経済的な低迷以外に鬱屈(うっくつ)した日本の状況と重ねて〝第二の敗戦期″と指摘したが、若者たちには世界の経済戦争、いやアジアの中でさえ敗れたと言える平成の〝戦後社会″のあり方は切実だろう。

 それだけに1945年を境に昭和の戦後を跡づける試みが今ほど必要な時はあるまい。″第二の敗戦期″を乗り越え、進むべき方向性を示唆する可能性があるからだ。

 うつてつけの材料はこの国のリーダー像だ。昭和の敗戦後は自らの政治信念を貫こうとはしても、政権を途中で投げ出した首相などいなかった。二代続けてこの国にそれが現れるとは。

 第二の敗戦国から這い上がるために、若者がしらけず従順を良しとせず、怒りを爆発させる時機が到来している。

 特に、強調部分(青字)に共鳴した。この文章を私のホームページのテーマと重ねるのは我田引水に過ぎるだろうか。

 しかし、私が「うつてつけの材料」と考えたのは「この国のリーダー像」ではなく「人民の抵抗運動」である。ほとんどの「この国のリーダー」は、「政権を途中で投げ出した首相」たちと本質的に違いはない。「この国のリーダー像」には活路はない。抵抗運動を闘った人民群像にこそ、未来を開くカギがある。

閑話休題。

 日本国憲法が公布された1946年11月3日、「日本国憲法記念式典での勅語」において、天皇ヒロヒトは次のように述べている。

 本日、日本国憲法を公布せしめた。この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであって、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によって確定されたのである。即ち日本国民は、みずから進んで戦争を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国家を運営することを、ここに、明らかに定めたのである。朕は国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。



 「神聖ニシテ侵スヘカラ」ざる大元帥という大日本帝国の絶対君主から、「国政に関する権能を有しない」象徴天皇となり、天皇には「国政に関する権能を有しない」と定めた新憲法を「正しく運用」すると誓っている。しかし、この誓いはヒロヒトにとっては口先だけのおためごかしに過ぎなかったようだ。こう誓った舌の根の乾かぬうちに、元首のような憲法違反の言動をしまくっていったのだった。ヒロヒトは右翼政治家たちの憲法無視の言動が幅を利かせている現況の源流でもあったというわけだ。

 ヒロヒトの元首のような言動は占領軍の総司令官マッカーサーとの間で執り行われたもので、もちろん、当時はおおやけにされてない。しかし現在では、さまざまな新資料が発掘されていて、その会見で取り交わされた会話の内容が明らかにされている。そうした研究の中で最も信頼性のあるものとして注目をされているのは豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)だ。この本も教科書として追加しよう。

 ヒロヒト・マッカーサー会見は11回行われている。その会見は、言ってみれば、国体護持と自らの保身を画策するヒロヒトと、日本を対共産圏の前線基地化しようと目論むマッカーサーとの駆け引きの場であった。

1945年9月27日 第1回会見

「私は、国民が戦争遂行に当たって政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任者を負う者として、私自身を貴方の代表する諸国の裁決に委ねるためお尋ねしました。」

 これは、この会見でのヒロシトの発言とされている言葉である。マッカーサーがこの言葉に「大きい感動に揺さぶられた」ということとセットで、ヒロヒトが自らの身を投げ捨てて臣下の安全を願った〝美談″として流布されている。

 この言葉の出典は『マッカーサー回想録』であり、他にはその事実を示す資料は一切ないという。また、『マッカーサー回想録』には誤りが多いという事実からも、ヒロヒトのこの言葉の信憑性は疑われてきた。そして、上の言葉と次の事との矛盾は決定的である。

 この会見の二日前(9月25日)、「終戦の決定ができた天皇が、何故、開戦を止められなかったのか」という『ニューヨーク・タイムズ』特派員の辛辣な質問に、「宣戦の詔書を、東条大将が使用した如く使用する意図はなかった」と、ヒロシトは文書で回答している。責任を東条に押しつけ、自らの戦犯訴追免除を謀るようなこの回答は、明らかに「米大統領へのメッセージ」としての意味をもっていた。

昭和の抵抗権行使運動(29)

アメリカ属国化路線を敷いた張本人(1)


 新たに小森陽一『天皇の玉音放送』を読んだ。以前に『「終戦の詔書」を読み解く』をテーマにしたので、小森さんが「終戦の詔書」をどのように料理しているのか、参考にしたかった。私の「読み解く」には大事な取りこぼしがあり、いかにもそこが浅いことを思い知らされた。いつか書き直したいと思った。また、敗戦直後の天皇ヒロヒトの言動についての鋭い分析を読んで、これを私のホームページにも記録しておきたいと思った。

 新たにもう一冊、道場親信『抵抗の同時代史』を今読んでいる。その書名から、これはまさにいま連載している「昭和の抵抗権行使運動」と同じテーマを扱っていると思ったので、読み始めた。第一章で砂川闘争を取り上げている。砂川闘争については、私は「再建全学連の闘い」で少し簡単に触れただけであったが、道場さんの本を読むほどに、この闘争は詳しく取り上げるべきものだったと、思い直した。この闘争は農民たちが主体的に闘ったものだった。三里塚闘争を「ごね得」と貶めた中山成彬のバカ発言も、そう思い直したきっかけの一つだった。

 というわけで、反安保闘争のクライマックスに入る前に、敗戦直後から1950年の砂川闘争にさかのぼって、二つの補充をしたいと思った。一つは表題のテーマであり、もう一つは「砂川闘争」である。

 さて、結論を先に言えば、日本のアメリカ属国化路線を敷いた張本人は天皇ヒロシトだった。『昭和の抵抗権行使運動(23):60年「改定安保」の問題点(1)』には、その証拠の一端が示されているが、さらに、小森さんの論説をたよりに、ヒロヒトがどうして、どのように日本をアメリカに売り渡していったのかを詳しくみていくことにする。

《「真説・古代史」拾遺編》(19)

「倭」と「日本」(3):初期の和風諡号の形式について


 吉本隆明さんが『共同幻想論』の「起源論」の中で和風諡号の形式について論じているのを思い出した。『「倭」と「日本」』というテーマには直接関わらないが、「倭国」と「日本国」との関係を示唆する内容が含まれていると思うので、紹介したい。

 吉本さんが取り上げている諡号は次の通りである(吉本さんが下線を付してる部分を赤字で、二重線を付してる部分を青字で表した。)

カムヤマトイハレヒコ    神武
カムヌナカハミミ 綏靖
シキツヒコタマテミ 安寧
オホヤマトヒコスキトモ 懿徳
ミマツヒコカエシネ 孝昭
オホヤマトタラシヒコ 孝安
オホヤマトネコヒコフトニ 孝霊
オホヤマトネコヒコクニクル 孝元
ワカヤマトネコヒコオホヒヒ 開化
ミマキイリヒココイニエ 崇神
イクメイリヒコイサチ 垂仁
オホタラシヒコオシロワケ 景行
ワカタラシヒコ   成務
タラシナカツヒコ 仲哀
ホムタワケ(オホトモワケ) 応神

 これらについて、次のように述べている。

 たとえば神武のばあい〈カムヤマト〉が姓であり〈イハレヒコ〉が名である。そして〈カムヤマト〉などというとってつけたような姓はありえないとすれば、それは後になって〈神〉という概念と〈倭(ヤマト)〉という統一国家の呼称をつなぎあわせることにより、神統であり同時に国主であることをしめそうとして名付けられたものと考えることができる。そして〈イハレヒコ〉の〈イハレ)はおそらく地名であり、この地名は出身地を語るか支配地を語るかは不明であるとしても、〈イハレ〉という地名と関係があると擬綴定された人物であるとみることができる。

 このようにかんがえてゆくと、初期天皇の和名は〈ヒコ〉、〈ミミ〉、〈タマ〉、〈ワケ〉などを字名の中心的な呼称として、その最も前(ときには後)に姓をつけ、直前(あるいは直後)はおそらく地名を冠しているというのがきわめて一般的であるということができよう。もちろん例外をもとめることもできる。

 これらの姓名の解釈の詳細は古代史の研究家にまかせるとしても、これらの初期天皇群につけられた〈ヒコ〉、〈ミミ〉、〈タマ〉、〈ワケ〉などが、いずれも耶馬台的な段階と規模の〈国家〉群にお ける諸国家の大官の呼称であるという事実はここでとりあげるに価する。このうち〈ワケ〉は応神以後にあらわれるとしても、それ以外は魏志に記載された官名に一致している。

 たとえば〈ヒコ〉は、魏志によれば、対馬国、一支国、など邪馬台から遠隔の国家の大官の呼称であり、〈ミミ〉は投馬国、〈タマ〉は不弥国の大官の名とされている。

 もちろんこれらの初期天皇が魏志を粉本にして創作されたといおうとしているのでもなければ、これらのいずれかの国家の支配者として実在したといおうとしているのでもない。現在の段階ではこれらについて断定することはどんな意味でも不可能である。ただわたしたちは、これらの初期天皇の名称から、これらの世襲的な宗教的王権の規模が、たかだか耶馬台的な段階と規模の〈国家〉をしか想定していなかつたということを問題にしたいのだ。

(中略)

 さもあれ、『古事記』の編者たちの勢力は、かれらの先祖たちを描きだすのにさいしてたかだか魏志に記された邪馬台的な段階の一国家あるいは数国家の支配王権の規模しか想定することができなかったことはたしかである。この事実は初期天皇群のうち実在の可能性をもつ人物がきわめて乏しかつたにしろ、そうでなかったにしろ、かれらの直接の先祖たちの勢力が耶馬台的な段階の国家の規模を占めていたにすぎなかつたことを暗示しているようにおもわれる。



 古田さんと「古田史学の会」の方々による古代史研究の成果を知っている私(たち)から見ると、古代国家や「邪馬壱国」については、もう少し特定的なことを言ってもよいように思えるが、「共同幻想論」は古田史学が世に出る以前の著作であるから、やむを得ないだろう。それにしても、本質的な誤りはなく、ヤマト王権一元主義からは自由で周到な論述はさすがである。

 さて、初期大王の和風諡号の形式についてまとめると、吉本さんはおおよそ「青字部分の官位を表す名称が中心で、赤字部分が姓または名であり、黒字部分は美称である」と考えている。

 この仮説の妥当性についてはいろいろ議論があると思うが、私が注目するのは強調部分(青字)である。「〈ヒコ〉、〈ミミ〉、〈タマ〉、〈ワケ〉などが・・・諸国家の大官の呼称であるという事実」を記憶にとどめたいと思う。これからの進行過程のどこかで、この問題と交叉することがあるかもしれない。

 ところで、吉本さんは「ネコ」を姓または名前と考えているようだが、これには異論がある。「倭根子」の「根子」を、岩波古典文学大系「日本書紀」の補注で「大地に伸びる樹木を支える意から、国の中心となって国を支えるものの意」と解説している。つまり、単なる美称と解している。私はこれにも異論がある。

 「根」は「事のおこるもと。物事の元をなす部分」の意であり、「子」は「親から生まれたもの。また、それに準ずる資格の者」の意であろう(ともに広辞苑による)。つまり「正統」・「本家」・「本流」という意が込められていると解するのが妥当だと思う。これからお世話になる予定の諸論文は、このような解釈が妥当であることを示してくれるだろう。

《「真説・古代史」拾遺編》(18)

「倭」と「日本」(2):諡号の中の「倭」と「日本」


 初期10代の大王と清寧の和風諡号では、古事記の「倭」は日本書紀では全て「日本」と書き換えられている。(細かいことを言うと、孝安の場合は「大倭」→「日本」である。)

 日本書紀の「日本」の読み方については、日本書紀にその指示がある。「国生み物語」で「大日本豊秋津洲」として、初めて「日本」が出てくるが、本文の注に
『日本、此をば耶麻騰と云ふ。下皆此に效へ。』(「岩波古典文学大系」による)
とある。このくだりは古事記では「大倭豊秋津島」である。しかし、「倭」の読み方には何の指示もない。

「大倭豊秋津島」の問題については
『「神代紀」の解読(4)大日本豊秋津洲』
を参照してください。


 では日本書紀では全ての「倭」を「日本」で書き換えているのだろうか。諡号以外では、上の「大日本豊秋津洲」の他に、「倭建命」→「日本武尊」という書き換えがあるが、それら以外に「倭」→「日本」の書き換えはない。そして、ゴンベイさんの指摘どおり、日本書紀・続日本紀の和風諡号では「倭」と「日本」が混在している。日本書紀・続日本紀の「倭」・「日本」を含む諡号を抜き出してみる。


孝徳(こうとく)
日本倭根子
やまとねこ

持統
大倭根子天之広野日女
おおやまとねこあめのひろのひめ

文武
倭根子豊祖父
やまとねことよおおじ

元明
日本根子天津御代豊国成姫
やまとねこあまつみしろとよくになりひめ
元正
日本根子高瑞浄足姫
やまとねこたかみずきよたらしひめ

桓武
日本根子皇統弥照
やまとねこみすまるいよよてらす

平城
日本根子天推国高彦
やまとねこあめおしくにたかひこ

淳和
日本根子天高譲弥遠
やまとねこあめたかゆづるいやとほし



 この中でも奇怪なのは孝徳の「日本倭根子」である。一つの諡号の中に「倭」と「日本」の両方が使われている。これは、本文の中で使われている諡号で、「明神御宇日本倭根子天皇」とある。岩波古典文学大系は「あきつかみとあめのしたしらすやまとねこのすめらみこと」と読んでいる。つまり「日本倭」を「倭」や「日本」と同じく、「やまと」で済ましている。ちなみに、現代語訳(講談社学術文庫・宇治谷孟訳)はどのように扱っているのか調べてみたら、「日本倭」を無視している。「明神として天下を治められる日本天皇」となっていた。こんなのありですか。学者ってずいぶんいい加減だな。

 古事記・日本書紀・続日本紀のどこにも「倭」の読み方の指示はない。素人の素朴な判断をしてしまうと、「倭」はやはり「わ」あるいは「ちくし」と読むべきじゃないのかな。「日本」は「やまと」と読めと指示されているのだから、「日本倭根子」は「やまとわねこ」あるいは「やまとちくしねこ」。