2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《「真説・古代史」拾遺編》(17)

「倭」と「日本」(1):和風諡号一覧


 「昭和の抵抗権・・・」はまだまだ続きますが、《「真説・古代史」拾遺編》との2本立てやっていこうと思います。

 さて、9月20日、ゴンベイさんから次の様なコメントをいただきました。(ゴンベイさん、度々のコメント、ありがとうございます。)

日本なのに倭の字を当てた国風諡号

国学院大学所属の研究者・野村朋弘氏による諡号解説を読んだ上で、真説・古代史シリーズを読み直すとさらに興味深いですね。

諡法解

「日本」という国号が定められた後の国風諡号であるのに、次の二帝は諡号中で「やまと」に対して「日本」ではなく「倭」の字を当てています。それは何故か?

持統帝:645-690-697-702
 大倭根子天之広野日女尊[おおやまとねこあめのひろのひめ]
文武帝:683-697-707-707
 倭根子豊祖父天皇[やまとねことよおほじのすめらみこと]



 この問題には私も関心があって、いずれ取り上げたいと思っていた。緊密に関わり合っているけれども、問題は大きく三点に分けられる。

①「倭」の問題
 「倭」を「ヤマト」と読むのはなぜか。これを「ヤマト」と読むのは正しい読みなのか。「ヤマト」と読まれている文字は「倭」「日本」のほかに「大和」「山跡」「山常」などいろいろあるが、それらはどういう関係があるのか。

②「日本」の問題
 国号としての「日本」(近畿ヤマト王権)が国際社会(東アジア)において初めて認知されたのは7世紀末~8世紀初めであった(『真説・古代史(82):ヤマト王朝の成立』 を参照してください)。しかし、「日本」を「ヤマト」と読むのはどうしてなのか。「日本」を「ヒノモト」とも読む場合があるが、「日下」も「クサカ」ではなく「ヒノモト」と読む例がある。これらの例との関係はないのだろうか。あるいは国号としての「日本」以前に「日本」という文字は使われていたのではないか。

③和風(国風)諡号の問題
 和風諡号からはどんな意味が読み取れるのだろうか。特に「倭」と「日本」が混在しているのはどうしてなのか。「倭国」と「日本国」の関係が反映されているのだろうか。

 ③の問題から入っていこう。

野村朋弘氏によると、殯宮儀礼の一部として国風諡号が献呈された最初の例は安閑だという。これは、いわば戒名のようなものだが、ここではこのような意味での諡号だけではなく、名前を美称した称号としての諡号も含めて考えることにする。

 そこで全ての和風諡号の一覧を知りたいとネット検索してみたが、なかった。自分で作ることにした。

漢風諡号(読み)
和風諡号の漢字表記
和風諡号の読み

というように列記している。古事記と日本書紀の両方に記載されているものについては、日本書紀での漢字表記を()で示した。なお、漢字は原則として新字体にした。(例によって、点検をしていません。間違いがあったら、教えてください。)

神武(じんむ)
神倭伊波禮毘古
(神日本磐余彦)
かんやまといわれびこ

綏靖(すいぜい)
神沼河耳
(神淳名川耳)
かんぬなかわみみ

安寧(あんねい)
師木津日子玉手見
(磯城津彦玉手看)
しきつひこたまでみ

懿徳(いとく)
大倭日子鉏友
(大日本彦耜友)
おおやまとひこすきとも

孝昭(こうしょう)
御真津日子訶恵志泥
(観松彦香殖稲)
みまつひこかえしね

孝安(こうあん)
大倭帯日子国押人
(日本足彦国押人)
やまとたらしひこくにおしひと

孝霊(こうれい)
大倭根子賦斗邇
(大日本根子彦太瓊)
おおやまとねこひこふとに

孝元(こうげん)
大倭根子日子国玖琉
(大日本根子彦国牽)
おおやまとねこひこくにくる

開化(かいか)
若倭根子日子大毘毘
(稚日本根子彦大日日)
わかやまとねこひこおおひひ

崇神(すじん)
御真木入日子印恵
(御間城入彦五十瓊殖)
みまきいりひこいにえ

垂仁(すいにん)
伊久米伊理毘子伊佐知
(活目入彦五十狭茅)
いくめいりひこいさち

景行(けいこう)
大帯日子淤斯呂和気
(大足彦忍代別)
おおたらしひこおしろわけ

成務(せいむ)
若帯日子
(椎足彦)
わかたらしひこ

仲哀(ちゅうあい)
帯中日子
(足仲彦)
たらしなかつひこ

応神(おうじん)
品陀和気
(誉田)
ほんたわけ

仁徳(にんとく)
大雀
(大鷦鷯)
おおさざき

履中(りちゅう)
伊邪本和気
(去来穂別)
いざほわけ

反正(はんぜい)
水歯別
(端歯別)
みずはわけ

允恭(いんぎょう)
男浅津間若子宿禰
(雄朝津間稚子宿禰)
をあさづまわくごのすくね

安康(あんこう)
穴穂
(穴穂)
あなほ

雄略(ゆうりゃく)
大長谷若建
(大泊瀬幼武)
おおはつせわかたけ

清寧(せいねい)
白髪大倭根子
(白髪武広国押稚日本根子)
しらがのたけひろくにおしわかやまとねこ

顕宗(けんぞう)
袁祁
(弘計)
おけ

仁賢(にんけん)
意祁
(億計)
おけ

武烈(ぶれつ)
小長谷若雀
(小泊瀬稚鷦鷯)
おはつせわかさざき

継体(けいたい)
袁本杼
(男大迹)
をほど

安閑(あんかん)
広国押建金日
(広国押武金日)
ひろくにおしたけかなひ

宣化(せんか)
建小広国押楯
(武小広国押盾)
たけおひろくにおしたて

欽明(きんめい)
天国押波流岐広庭
(天国排開広庭)
あめくにおしひらきひろにわ

敏達(びたつ)
沼名倉太玉敷
(淳中倉太珠敷)
ぬなくらふとたましき

用明(ようめい)
橘豊日
(橘豊日)
たちばなのとよひ

崇峻(すしゅん)
長谷部若雀
(泊瀬部)
はつせべ

推古(すいこ)
豊御食炊屋比売
(豊御食炊屋姫)
とよみけかしきやひめ


(ここまで「古事記」
「日本書紀」)

(これより「日本書紀」)


舒明(じょめい)
息長足日広額
おきながたらしひひろぬか

皇極(こうぎょく)
天豊財重日足姫
あめとよたからいかしひたらしひめ

孝徳(こうとく)
天万豊日
あめよろずとよひ

斉明(さいめい 皇極天皇重詐)

天智(てんち)
天命開別
あめのみことひらかすわけ

天武(てんむ)
天淳中原瀛真人
あまのぬなはらおきのまひと

持統
高天原広野姫
かたまのはらのひろのひめ
または
大倭根子天之広野日女
おおやまとねこあめのひろのひめ


(ここまで「日本書紀」)

(以下は「続日本紀」)


文武
倭根子豊祖父
やまとねことよおおじ
または
天之真宗豊祖父
あまのまむねのとよおおじ

元明
日本根子天津御代豊国成姫
やまとねこあまつみしろとよくになりひめ

元正
日本根子高瑞浄足姫
やまとねこたかみずきよたらしひめ

聖武
天璽国押開豊桜彦
あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ

光仁
天宗高紹
あめむねたかつぎ

桓武
日本根子皇統弥照
やまとねこみすまるいよよてらす

平城
日本根子天推国高彦
やまとねこあめおしくにたかひこ

淳和
日本根子天高譲弥遠
やまとねこあめたかゆづるいやとほし



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今日の話題

国土交通相中山成彬の超低級暴言


 またまた政治家のあきれ果てた失言があった。できたてほやほやの麻生金持ち自慢内閣・国土交通相中山成彬だ。

 曰く「ごね得というか、戦後教育が悪かったと思う」(成田空港建設への反対闘争について)

 曰く「日本は随分内向きな、単一民族といいますかね、あんまり世界と(交流が)ないので内向きになりがち」(外国人観光客の誘致策に関連して)

 曰く「大分県教委の体たらくなんて日教組(が原因)ですよ。日教組の子供なんて成績が悪くても先生になるのですよ。だから大分県の学力は低いんだよ」(大分県の教員汚職事件について)

 そして、早くもその数時間後に、おきまりのようにステレオタイプの言い訳をしている。

曰く「誤解を招く表現であったので撤回します」

 辞書を引くと「失言:言ってはいけないことを、不注意で言ってしまうこと。言いあやまり。過言。」とある。政治家の数々の「失言」は「不注意で言ってしま」ったことには違いないが、「誤解を招く表現」ではない。だれも誤解なんてしていない。言ってることは明々白々で、だれもが言っているとおりの浅薄な認識の持ち主なのだと、誤解の余地なく理解している。無知と偏見でコチコチに歪んでいる頭から「正直に」出てきた「本音」であり、「失言」ではなく、誤謬だらけの「暴論」なのだ。

 自民党独裁政府が誤った政策を暴力的に押しつけて始まった三里塚闘争は、土地を強制的に奪われるという、突然ふってわいた不条理に対して、三里塚の農民たちがささやかな生業を自らの手で守ろうとした「非暴力直接行動」=「抵抗権行使運動」だ。得をしたのは利権に群がった政治家・官僚・資本家じゃないか。これがなんで戦後教育と関係があるのか。(この三里塚闘争については、ほんのちょっとだけど、 「非暴力直接行動(4):三里塚のこと」 でふれた。)

 日本は「単一民族」という誤認識も右翼政治家に度し難いほどこびりついている。政治家に限らない。御用学者・御用ジャーナリストもよく口にする。「天皇を中心とする神の国」とセットになっている右翼の共通認識だ。彼らには世界を正しく認識しようという知的誠実さなど、ほんのかけらもない。何の根拠もない幻想に脇目もふらずにすがりついているだけだ。

 全国学力調査という天下り先創出のためだけのような、有害無益な厖大な無駄は、「低学力は日教組のせい」ということを証明することが目的だったそうだ。全国学力調査は、中山(文部科学相当時)が提案したという。釈明会見で次のように言っている。

 曰く「日教組(日本教職員組合)の強いところは学力が低いんじゃないか。」(テストで何を調べたかったかについて)

更に曰く「現にそうだよ。調べてごらん」

 まともな思考力の持ち主ならば、こんなバカげた仮説は、実証するまでもなく、噴飯ものの謬論だと判断できる。「日教組」と「学力」に相関関係などあるわけがない。「学力」が 「銀行型教育」 の成果を指すのなら、「学力」と「親の経済力」にこそ相関関係がある。だいたい銀行型教育の成果を比べて何の意味がある。権力しか目に入らない政治家、金儲けしか頭にない経営者、甘い汁の天下りを口にするのが生き甲斐の官僚などは、銀行型教育の優等生のなれの果てではないのか。

 でもね、ご苦労なことに朝日新聞がまじめに「調べてごらん」に対応してあげている。

 データをたどってみると、成績トップの秋田の日教組の小中学校組織率が5割超で全国平均(34.1%)を大きく超えるなど、全体的な相関関係はうかがえない。現場の先生も「短絡的」とあきれ顔だ。

「日教組の子どもなんて成績が悪くても先生になるのですよ。だから大分県の学力は低いんだよ」

 教員採用不正事件を引き合いに出しながら中山氏がやり玉にあげた大分は、小中学校の日教組の組織率が6割を超える。今年の全国学力調査では、小6、中3の全科目で、平均正答率が全国平均を下回った。この点だけをみれば発言は「当たっている」ようにもみえるが、科目によって結果はばらつく。小6国語Aでは全国平均と2.9ポイントの差が付いたが、小6算数A、中3国語Aでは、わずか0.2差だ。

 では、調査の成績が良かったところはどうか。中山氏の出身地で選挙区でもある宮崎は、小6の2科目と中3の全科目が全国平均を上回るまずまずの成績で、組織率は1割未満。

 ところが、小6の全科目でトップ、中3もすべて上位3位に入った秋田の組織率は5割以上。組織率が9割近くと全国トップを誇る福井は、中3の3科目で1位だった。

 「中山説」では、成績の低いところは日教組が強いはずだが、小6、中3の全科目で最下位だった沖縄の組織率は4割弱にとどまる。中3の全科目でワースト2位だった高知に至っては1割に満たず、何ともバラバラだ。



 政治家の暴論にはうんざりで、もう取り上げるのはよそうと思っていたのだが、あまりの超低級暴言にのせられてしまった。麻生金持ち自慢内閣の暴言はまだまだ続きそうだ。いや、超短命内閣だから、これが最初で最後かな。

昭和の抵抗権行使運動(28)

国会突入闘争に対する諸反応


 11・27国会突入闘争という歴史的大闘争の爆発に恐怖して、「あらゆる手段を講ずる」と、自民党川島幹事長が声明を発した翌日、さっそく支配階級は「手段」を講じ始めた。自民党の「浅沼懲罰動議」、法相の「全学連と共産同への破防法適用検討」、国家公安委員長の「国会デモ規制立法」、そして警視庁公安一課長は「浅沼逮捕ありうる」と脅しを掛けてきた。

 ところが、この歴史的大闘争の爆発に恐怖したのは支配階級だけではなかった。支配階級以上に左翼既成指導部が恐怖した。

 彼らは、「安保は重い」という口実のもとに、自已の日和見主義をつねに隠薇し、正当化し、突出した闘争を圧殺してきた。いま、その捏造された口実が大衆的にふっとばされ、その日和見主義が暴露されるに及んでは、権威の座がおびやかされてしまう。しかも、大衆の巨大なエネルギーは、議会主義-平和革命路線のワクを乗り越えようとしており、放置することはできない。さらに、その先頭には歴史的登場をかちとった革命的左翼が存在しているとすれば、事態は二重の意味で戦慄であった。



 まず、社会党は浅沼書記長がその日のうちに記者会見をし、次のような表明をした。


 社会党の任務は請願を斡旋することだった。

 国会に全員が入ったことは遺憾。

 乱入を煽動し、実行したのは全学連……

 総評の対応にはいささか違う色合いがあった。「斡旋の任に当たるのが総評だった」とはいえないし、万余の組合員が突入した事実も弁解の余地はなかった。総評は労働者たちの戦闘的雰囲気に、否応なく背中を押されたていた。幹事会は翌日長文の声明を発表し、予想される支配階級の反撃にたいして、本能的に身構えた。その声明の主旨は次のようであった。


 闘争は憲法違反の安保改定と首切り反対の怒りの爆発だった。

 ベトナム賠償や戦闘機買い入れにみられる悪政をおおいかくすために、政府自民党が事前に警察と組んで、陳情団を挑発し、計画的に国会内に追い込んだ。

 請願権封殺の結果である。

 秩序ある統制がとれなかったのは遺憾である。

 政府の責任転化と弾圧にたいしては断乎として対決する……。

 労働者は勝利の感激を満喫していた。とくに、東京地評を中心にした戦闘的労働者は、国民会議を激しく突き上げて、今回の第八次統一行動における「三方面戦術」を提起して、その実現をかちとった。11月30日の東京共闘会議は、日共系八割にもかかわらず「国会突入は全く正当、全学連支持」を確認した。

 また、同日の日共都地区委員長会議は、党中央の「乱入は全学連の一部トロツキストの挑発である」という報告に反対して、全学連にたいしては「第九次統一行動の成功のため共に闘わん」の激電を送った。

 さらに、社会党青年部は、12月2日、「党中央は、労働者・学生が大挙国会前庭に入った行動に対して大衆運動に水をかけ、安保国民会議を右よりに改組しようとしている」との要求書を党中央に提出した。

 日共中央は「乱入は全学連の一部トロツキストの挑発である」という見解を『アカハタ』で執拗に繰り返した。12月2日の紙面を除いて約半月間、連日にわたって反トロキャンペーンで埋めつくしたのだった。しかし、下部組織には不満が横溢しており、学生細胞は意見書を提出した。不満の強さに音をあげた党中央は、防戦に大わらわだった。

「よく考えてみる必要がある。大会で選ばれ、多くの長い経験を経てきた幹部がどうして現段階で、このくらいのことで日和見をおこしたり、動揺したりするだろうか」(高原晋一『前衛』60年2月号)

 その日共中央は、奇妙なことにただ一点に関して全学連の"盟友"を装った。国民会議幹事会において社会党が「全学連除名動議」を出したのにたいして、日共は「団結をかためる方向で前進的に解決すべきである」と主張して、除名に反対したのである。だが、この反対は明らかに党利党略によるものだと、蔵田さんは次のように分析している。


 日共が全学連除名に賛成したとなると、全学連内部における日共系自治会の立場が決定的に不利になり、自治会ヘゲモニーの維持さえ困難になるということ。というのは、いまとはちがって、当時の「ポツダム自治会」への大衆的信頼度と権威は高く、自治会の二重権力などは想像もできなかったからである。

 全学連を排除したい気持ちは社会党以上に強い。だが、排除後の全学連は、全学連の決定を自治会の方針として持ち込むことになり、そうなると、少数派=日共系自治会が学生運動における「統一と団結の破壊者」となる。それよりも、国民会議の足カセをはめて、国民会議→民主勢力→その統一と団結……という図式で、全学連をゆさぶった方がはるかに得策である、
と考えたにすぎない。否、この図式は、日共が自己の日和見主義と反革命を演じるための唯一のよりどころであり、有力な手段であった。事実、日共派は安保闘争の全過程を通じて、この論法を最大限に活用し、全学連における右派勢力の結集をはかったのである。



 さらに蔵田さんは、革共同のとった対応にも触れている。

革共同関西派
 関西派は、国会デモにこだわる街頭カンパニア主義は、裏返しの議会主義であり、生産点と切断された街頭デモは、階級関係をかえない、と主張して、次のような「左翼的論理による右翼的」方針を提起した。

「『国会デモ事件』から正確な教訓を引き出さねばならない。すでに事態が明白である今日、再び同じ道を歩む事、単純な街頭の非武装の戦闘でもって勝利をかちとろうとする事は、次には革命勢力にとって重大な打撃を招であろう。もしこの道を辿るならば青年学生の『純真』さは最悪の冒険主義に変ずるであろう。それは全闘争を瓦解させてしまい得るのである。労働者諸君! 学生諸君! 正確な戦術をもってブルジョアジ―の弾圧を粉砕しよう。ただちにその態勢を整備しよう。敵の弾圧をはねかえすスト態勢をとろう……」(西京司「国会デモとプロレクリアートの任務」『世界革命』号外59年2月28日)

 一方、革共同全国委は、闘争の意味を高く評価しながらも、論評のレベルにとどまった。

「わが階級闘争の危機は……かかる民衆の政治的高揚が、全体的には、虚偽のプログラムによって導かれているという危機の根幹そのものに、革命的左翼の自覚が集中していなかったことにある。……かくして、われわれの任務は、スターリン主義打倒、革命的プロレタリア党のための闘いということでなくてはならない」(武井健人「民主主義の危機とプロレタリア運動」『安保闘争』60年)

昭和の抵抗権行使運動(27)

11・27国会突入闘争


 11月27日の安保反対第八次統一行動は、合化労連、炭労24時間ストを中心に、全国で200万の人民が参加した。

 東京では3万名の労働者と学生が、三方面から国会を包囲した。正門前集会では、社会党浅沼書記長が宣伝カーの上からアジ演説をしていた。

「青年の血を売る安保改定に断乎反対しよう‥…。国会への請願権は大衆全員にあるはずだ。にもかかわらず、国家権力はトラックを並べてこれを阻止している。全く不当である。今日は代表団ばかりではなく、全員で請願しよう」

 しかし、このアジテーションは〝沼さんラッパ″にすぎなかった。その証拠には、国民会議と警視庁は事前協議をして、「代表団だけが請願をすませ、正門チャペルセンター前部隊だけが国会正門を左折して、人事院通りの部隊と合流し、流れ解散をする」という予定になっていたのである。この密約のために、当日の警備体制も「完全阻止線」ではなかったのだ。

 ところが、この密約を知るべくもない大衆は、この〝沼さんラッパ″をまともに受け取り、当時大衆的人気を博していたこの指導者に、万雷の拍手さえ送った。

 全学連の方針も不明確だった。前夜の書記局会議では「国会突入をめざす」という方針のもとに部隊配置は決めたが、それ以上の戦術・行動方針は検討しなかったし、いかなる見通しももちあわせていなかった。

 だが、〝沼さんラッパ″は全学連にとってこのうえない大義名分だった。身に寸鉄を帯びない学生は、ブント活動家を先頭にして、装甲車が並んでいない歩道の機動隊のカベをめがけて突撃をくりかえした。そして遂に、国会正門チャペルセンター前の都職労を中心にした部隊のうち、法政大社学同を先頭にした300名の学生部隊が、行く手を阻んでいた機動隊5000名の厚いカベを実力でうち崩し、最初に国会構内に突入した。

 しばらくして日共の志賀義雄が血相をかえてとんできた。「諸君に本当の勇気があるなら、私に従って引き揚げて欲しい」と長口舌をふるいはじめた。だが、彼のあとに従ったのは立教大生など数十名だった。神山茂夫も、デモ隊と乱闘を演じて構内警備の役割を代行した。

 その直後だった。特許庁前の部隊が東大生を先頭にして機動隊の厚いカべを粉砕して、国会構内めざして殺到してきた。また、チャペルセンター前の部隊も合流し、構内からうち振られる自治会旗に呼応して、国会構内の土手にかけ上り、ヘイを越えて、ついに万余の大衆が国会構内を赤旗の波で埋めつくした。

 首都三万余名の労働者・学生は、文字通り、国会請願と抗議を実力でかちとり、〝神聖、なる議会"という幻想のベ―ルをはぎとった。労働者・学生たちは歓喜した。指導部の必死の説得も、怒号と罵声にかき消された。浅沼書記長は「院内のことは我々がやる。諸君は目的を終えたのだから帰ってくれ。さあ安保反対の万歳をやろう」と熱弁をふりしぼった。だが、だれひとりとして唱和するものはいなかった。

 労働者・学生たちは、自衛隊出動のウワサのなかで、数時間にわたって国会占拠闘争を貫徹し、自らの意志と決意を示した。この強い決意を示したのは、たんに不特定多数の人たちばかりではなかった。たとえば、日共本部サイドのメンバーさえも、幹部会員の鈴木市蔵だけが門柱の外に踏みとどまったのを例外に、他の全員が〝請願者"になってしまったのだった。

 この人民の巨大な闘争の爆発に自民党代議士たちは「革命だ!」と叫んで院内でうちふるえていた。政府自民党はこうした不安を鎮静するためにも、強い決意を表明する必要があった。自民党川島幹事長は、構内の静寂をみはからって、5時すぎに記者団をまえに頬を紅潮させながら簡単な声明を読みあげた。

「国会の神聖を侵した暴徒と破壊勢力に対しては断乎として対決する。議会主義を擁護し、民主主義を守るため、あらゆる手段を講ずる」(「朝日新聞」59年11月28日)

 この11・27国会突入闘争を、蔵田さんは次のように評価している。

 11・27国会突入闘争は、安保全学連がうち立てた最初の金字塔であり、この日本階級闘争史上初の快挙において、革命的左翼はその真紅の旗を、人民大衆の面前にうち立てることができた。



今日の話題

あっ!「敗戦」なんて、なかったんだ


 官僚の人事異動の記事などには何の興味もないから、読んだことがない。ところが、8月の始め頃、警視総監の人事記事がけっこう目立つ記事で、その見出しが目に入ってきた。うかつと言えばうかつなことだが、今さらながら驚いてしまった。「米村敏朗氏が第87代警視総監に就任」と言うのだ。何に驚いたかというと、「第87代」に驚いた。

 敗戦で大日本帝国が滅亡し、日本は生まれ変わった。その新憲法下の新生日本での警視総監だから、歴代数は敗戦後から始まっていると、私は思い込んでいたらしい。それにしては「第87代」というのは数が大すぎやしないか、と思ったのだ。なんのことはない、明治時代からの歴代数だったのだった。

 そうなのか。この国の国家権力は敗戦なんかしなかったのだ。総理大臣も明治時代から歴代数でカウントしている。福田康夫は第91代だそうだ。

 天皇の歴代数もおかしい。一地方の豪族に過ぎなかったイワレヒコから数えるのは、天皇家が一家族としてそう幻想したいのならばご勝手にということでいいが、歴史的事実としてはそんなでたらめはやめるべきだ。さらに現憲法下では、象徴天皇第2代というように言うべきだろう。

 ところでね、国会は新憲法下での数でカウントしているぜ。1947(昭和22)年5月20日に招集された国会が第1回で、それ以降、常会・臨時会・特別会を区別せずに通してカウントしている。明日招集予定の臨時会は第170国会になる。

 こんなところにもこの国の、一貫性のない、いい加減なご都合主義が垣間見られる。

 と、こんなことを考えていたら、支配階級も「敗戦」していないことを如実に物語る記事に出会って、またまたびっくりした。本日の東京新聞朝刊、麻生太郎の紹介記事である。その記事に麻生太郎の家系図が掲載されていた。

麻生家家系図

 この国の支配階級の典型の一つである。ブルジョア民主主義の本質が一目瞭然である。しかし、私がびっくりしたのは、そんな当たり前のことではない。何にびっくりしたかというと、母方のルーツである。この家系図を見て、私の目にまず飛び込んできたのは「三島通庸」だった。父方のルーツ「牧野伸顕→吉田茂」は、本人も自慢らしく吹聴しているので広く知られているが、母方のルーツが三島通庸とは、私はしらなかった。

 三島通庸、二ヶ月前までは、私はこの人物を知らなかった。そうです。『自由民権運動(38)―福島事件』 に登場した「悪代官」だ。自由民権運動をむちゃくちゃな手法で弾圧し、そのご褒美で警視総監にまで上りつめた「阿諛、庸俗、狡獪の代表者」だ。上記記事で引用した竹越与三郎『新日本史』の文章を再録しておこう。
 而して激進党をしてかくのごとき思想を起さしめたるものは、庸俗阿諛(ようぞくあゆ)、専ら中央政府に悦ばれんことを望みたる地方長官が、民間党を圧服すれば即ち吾事足ると妄信し、事ごとに不法を民間党に加えたるによるもの多し。福島県令三島通庸(みちつね)こそ、当時の地方官中に行われたる阿諛、庸俗、狡獪の代表者ともいうべかりし。

 彼は妓女を邸内に養うて大臣を饗応せり。妓女と大臣とを密室に追い込みてこれを閉ざせり。彼が長老に対するの術大抵かくのごとく、その慾に訴うるにあり。彼の頂は長老に対して下るがごとく、その下に対しては甚だ高し。故に人あるいはこれを誤解して磊落(らいらく)奇偉の人となせり。然れどもその実一狡邪(こうじゃ)の小人のみ。

 彼れ今や福島に臨みその政権を濫用して自由党を圧抑せり。不急の土木を起して人民を駆使せり。放淫暴乱、風俗を壊乱せり。富豪に課して私第(してい)を成せり。殆んど歴史上に存する悪代官の所作を為し尽せり。



 もちろん、先祖に悪代官がいたからといって麻生太郎自身をとやかく言うつもりは毛頭ない。犯罪者の家族をバッシングするような、そんな不条理な言動を、常日頃から私は憎んでいる。麻生太郎がどんな人物であり、どんな政治家であるかは、本人の言動・業績が明らかにすることだ。

昭和の抵抗権行使運動(26)

ブント全学連の成立


 第2回で掲載した年表のうち、1959年、1960年の分を、『島成郎を読む』を参考に再構成する。

1959年
3 安保改定阻止国民会議結成
4・28 全学連、安保反対第一次統一行動
5・15 全学連、第二次統一行動
6・5 全学連第14回大会。ブント指導権確立
6・9 ブント第2回大会、革共同メンバー排除決定
6・25 全学連、第三次統一行動
8・26 革共同第二次分裂。革共同全国委結成
9・26 日共都党会議。港、千代田地区委、中央攻撃
10・30 全学連、反安保全国スト
11・27 安保反対第八次統一行動。全学連全国ゼネスト、国会包囲デモ、労働者学生二万数千名国会突入。
12・10 全学連中央集会。国会デモ中止


 1959年、この年の1月にキューバでは革命が成功して、カストロ政権が成立している。地球の裏側の日本では日米安全保障条約の改定をめぐる階級闘争の攻防の幕が切って落とされた年であった。

 島成郎(しま しげお)を委員長に、1958年12月に結成された共産同(ブント)は、第14回全学連大会で主導権を握り、唐牛健太郎(かろうじ けんたろう)を委員長選出した。唐牛の委員長就任は島の強い要請に応えたものであった。島と唐牛は全学連安保闘争を牽引する車の両輪であった。『唐牛健太郎追想集』に自民党の加藤紘一が次のような追悼文を寄せている。ちなみに、加藤さんは安保闘争当時東大生であり、父が自民党代議士であったにもかかわらず、全学連のデモに「3回だけ参加した」という。

「昔なら唐牛さんは、農民運動の名指導者になっていたのではないだろうか。人間を見る目の確かさ、鋭さ、暖かさは、保守・革新の枠を超え、われら『60年安保世代の親分』と呼ぶにふさわしいものだった」

 さて、安保闘争の第一歩は、59年3月の「安保改定阻止国民会議」の結成にはじまる。結成大会には136団体、700が参加している。この国民会議が年安保闘争の統一戦線的推進母体となった。幹事団体は、社会党、総評、中立労連、全日農、原水協、護憲連、日中国交回復会議、日中友好協会、日本平和委員会、全国基地連、人権をまもる婦人協議会、東京共闘会議、それに、中央青年学生共闘会議の13団体であった。日共はオブザ―バー参加であった。

 全学連は青学共闘の一構成メンバーとして国民会議に参加した。青学共闘には、全学連の他に社会党青年部、日共青対部、総評青年部、全日農青年部、全日本青年婦人会議の5団体が加盟していた。

 国民会議の実体は、総体的には、社共傘下の組織によって構成され、両者が形式的勢力を二分し、日共が実質的へゲモニーを握っていた。

 国民会議の第一波闘争は、4・15砂川判決支持、安保体制打倒、第一次統一行動であった。全学連も、四-六月闘争で数千名を結集して、第一歩を開始した。だが、国民会議と全学連はこの初発の時点で、非和解的な対立を内在させていた。国民会議が、先のスロ―ガンにあるように安保体制一般の「打破」をめざしたのにたいして、全学連は安保そのものの「粉砕」をめざした。安保体制打破勢力と安保粉砕勢力という、この二大図式は、国民会議内部における全政治的過程を貫く尖鋭な対決点だったのである。

 全学連は四-六月闘争の過程で、急速な再編をすすめた。革共同全学連は、春闘高揚期を〝第二の決戦″と位置づけ「予算闘争と完全就職要求」「春闘支援」「炭労スト支援デモ」を学生運動のスローガンに掲げて、それを実践した。しかし、革共同は、この労働者生産点主義、経済主義、非街頭主義のために、全学連のヘゲモニーを急速に失い、その城を共産同に明け渡すことになる。また、日共学生細胞でも、党章派に代わって構改派が日共学生運動のヘゲモニーを確立した。

 全学連第14回大会は、その党派再編の舞台となった。大会はかつてのように友好団体の挨拶や傍聴もないなかで、学生1000名を結集して開催され、内外注視のなかで四日間の激論のすえ、ブント路線を採択し、共産同執行部(唐牛健太郎委員長)を選出した。また、大会では、主として革共同系自治会から主導権を奪った構改派が、勢力を急増させ、反主流派の地位を確立した。共産同はこの構改派の拾頭を次のように分析した。

「『極左反対、全学連民主化、自治会を全学生のものに』等々、学生の中にある右翼的気分にのって政治方針ぬきの形式論、技術論、戦術論で主流派を攻撃し、若干の中間層をひきつけた」(「学生運動に巣食う日和見主義諸分派を粉砕して前進せよ」『プロレタリア通信』第14号59年6月)

 共産同全学連が最初に取り組んだ闘争は6・25国民会議第三次統一行動であった。全学連は全国50ヵ所、二万名(東京一万名)を結集して本格的な始動を開始した。さらに、恒例の8月第5回原水禁世界大会では、全学連は17の分散会において圧倒的な論戦を展開し、大会運営の主導権を握る日共と激しく対立した。日共は「原水禁運動と安保闘争を同一視するのは誤りである」(志賀義雄)と主張した。これに対して、全学連は「平和共存、東風西風論」を批判しつつ、次のように反論した。

「問題はそんなところにあるのではない。大会全体が安保反対を真正面からとり上げ、現実に政府に対決して闘う姿勢を整えようとしたのかどうかということなのである」(全学連書記局「9月8日を戦闘開始の合図とし9月18日秋期第一波全国闘争に結集せよ!」59年8月19日)

 大会では、全学連は労働者代表の「巨大な賛成」をかちとった。しかし、大会執行部は「分散会は決議するところではない」という口実を急造することによって、からくもその場をしのぐことができた。

 夏休み明け10月初旬、全学連は各派拮抗していたために流会となっていた都学連大会を3ヵ月ぶりで開催し、共産同執行部を選出し、首都の闘争体制を確立した。これをステップに、10・30単独ゼネストをうち抜いて進撃の第一歩を開始した。全国90校、121自治会、35万名の圧倒的規模の闘争を展開し、東京では一万名が結集して果敢なジグザグデモを行った。この10月闘争の爆発は、来たるべき激闘の前ぶれというにふさわしかった。

今日の話題

東京都公立学校の現状


 ポチ・小泉による新自由主義的な改革が労働環境を破壊した。労働の規制緩和と非正規雇用の増大、賃金の下落、そして労働現場の荒廃。生きることすら困難な人々が増え続けてきた。

 一方、沈タロウによる教育支配のための諸悪政が東京都の教育環境を破壊し続けている。その悪政の要となっているのが「日の丸・君が代の強制」である。これを梃に従順に支配に服する教員を作り出していった。そしてそれを背景に、次々と教育支配のための悪政を強引に押しつけてきた。良心的教員ほど教員として留まりがたくなっている。もちろん、その被害は児童・生徒に及んでいく。その破壊状況は、マスコミが無視している(支配されている?)ので、一般に知られないまま、とんでもないところまできている。

 しかし今なお、力強く闘い続けている人たちは健在だ。その人たちからネット配信されてきた最近の情報を転載しておきたい。

<転送歓迎> ・「都教委包囲首都圏ネットワーク」・「千葉高教組」、・「新芽ML」の渡部です。

 本日(9月19日)、表題にある集会が開かれ、主催者(河原井さん・根津さんらの『君が代』解雇をさせない会)の予想を上回る80人が参加、熱気ある内容の濃い集会となりました。

 集会では、最初に、最近東京の小学校を辞めた湯本さんが制作したDVD≪学校を辞めます ― 51歳の僕の選択≫(約15分)が上映されましたが、いかに東京の教育現場が病んでいるかが分かるものでした。

 次に、都教委が7月15日に出したいわゆる「分限対応指針」について、町田教組のKさんが職場の実態と結びつけて報告してくれました。

 この「分限対応指針」は、<公務能率の維持及びその適正な運営をより一層図る目的から定める>とされており、


 勤務実績が不良の場合、職への適格性に疑念を抱かせる場合、又は双方に該当する場合

 心身の故障のため、職務の遂行に支障があり、若しくはこれに堪えない場合、又は長期の休養を要する場合

は、本人の「意に反して」、降任・免職・休職にすることができると言うものです。

 具体的な<21例>については、以前にいくつか紹介しましたので省略しますが、<公務能率>とあるように、育児や介護、精神的疲労や病気だけでも対象になります。また、「これらの例によらないものであっても」、①や②に該当すれば、「分限事由に該当する可能性はある」とも書かれています。まさに、「首切り自由化ガイドラン」そのものです。(働くものの権利さえ踏みにじっています)

 Kさんはまた、低賃金と教職員の分断が激しく進行する東京の学校現場の実態も話してくれました。

 今後、7段階の職階制(賃金もそれぞれ別体系)になります。

①非正規職員
 (低賃金で身分不安定。増加中)
②教諭
③主任
 (これまでの手当てではなく新たな賃金体系に)
④主幹
 (60%くらいしか埋まっていない)
⑤副校長
⑥校長
⑦統括校長
 (地域ごとに)

 しかも、10年ごとに教員免許の更新(研修費、旅費は有料)が義務付けられる。ただし、管理職は「研修」を免除される。

 そうなれば、教員の目は、生徒の方ではなく、上の方に向かざるを得なくなる。教員の多くは身分不安定な期限付き低賃金労働者になる。

 実際、現在でも東京の教育現場はひどく、多忙化とゆとりのなさが蔓延し、今年も含めこの4年間、毎年新採用者が1人づつ自死している。また、一年の試用期間で100人近い新採者がやめている。などなど。

 Kさんの話を聞き、東京では、「教育再生」どころか、とんでもない「教育破壊」が進行していると思いました。

 しかも石原と都教委は、オリンピック誘致のために、補助教材として、

小学校用(5・6年生)
 「みんなをむすぶオリンピック~夢・感動・未来~」
中学校用
 「世界を結ぶオリンピック~情熱・人・スポーツ~」
高校用
 「未来と結ぶオリンピック~勇気・地球・共生~」

を作ったようです。

 これは、石原による教育の政治利用以外の何物でもありません。石原が東京の学校を私物化し、都政の下請け機関化しているのです。(「日・君」強制の「愛国心」教育も政治利用に他なりません)

 ここには学問も真理もありません。愚民化教育に他なりません。全く許せません。

 集会ではその後、
・4人の弁護士による今後の裁判闘争の説明
・河原井さん、根津さんからの訴え
・来春に向けての闘いの提起と意見交流
などが行われ、みんなの知恵を結集して、「創造的な運動」を作っていこうということが確認されました。

 今後の東京地裁での予定は以下の通りです。
・10月6日(月)13時10分~、証人尋問(証人:市川須美子・北村小夜さん)
・11月5日(水)13時10分~、本人尋問(原告:河原井・根津さん)
・12月25日(木)13時10分~、最終弁論
・来年3月 判決

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「都教委包囲首都圏ネットワーク」のブログ

『都教委包囲・首都圏ネット』

「千葉高教組『日の丸・君が代』対策委員会」のホームページ

『ひのきみ通信』



昭和の抵抗権行使運動(25)

60年「改定安保」の問題点(3)


第1条
締約国は、国際連合憲章に定めるところに従い、それぞれが関係することのある国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し、並びにそれぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する。
締約国は、他の平和愛好国と協同して、国際の平和及び安全を維持する国際連合の任務が一層効果的に遂行されるように国際連合を強化することに努力する。


 前段の宣言的条文について
 国連憲章の枠内において、紛争を平和的に解決することが宣言されているが、軍事同盟において、軍事衝突のない平和な世界をめざすというのは、明らかに自己矛盾の宣言である。実際には平和的解決の道を放棄して武力行使をするのが、アメリカ流の「平和」である。アフガニスタンやイラクへの侵略戦争に日本は荷担している。

 後段は国連強化を謳っている。国連が、各国の政府(国家主権)よりも上位の権力とする意だろうか。

 第2次大戦後、敗戦国日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)により占領統治されたが、日本の占領地は国連統治領となった。国連には統治する軍事的能力がないので、実際にはアメリカが統治した。委任統治領といわれた。

 国連強化のために、実際にどのような施策が考えられるだろうか。
国連には独自の資金源がないから、日本の分担金を増やして国連が活動しやすくすることも、国連を強くすることである。
 国連は、安保理事会で常任理事国には拒否権が認められているが、総会は1国1票である。日本が米国の意向を受け、多数派工作を進めるのも国連を強くする方策である。
 日本が国連決議を受けて紛争地域に自衛隊を派遣することも、国連を強くする名目に入ってしまうだろう。民主党代表の小沢一郎は国連決議があれば、アフガニスタンに自衛隊を派遣するという憲法違反の実に危うい政策を公言している。

第2条
締約国は、その自由な諸制度を強化することにより、これらの制度の基礎をなす原則の理解を促進することにより、並びに安定及び福祉の条件を助長することによって、平和的かつ友好的な国際関係の一層の発展に貢献する。
締約国は、その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また、同盟国の経済的協力を促進する。


 安保改定の1960年は米ソ冷戦の真っ最中であった。前段では、経済関係においても自由主義経済を明言することによって、共産主義を意識した反共イデオロギーを提示している。安保条約が反共軍事同盟と批判される理由の一つである。安保条約における仮想敵国は極東の共産主義勢力、具体的には中国・ソ連(当時)・北朝鮮である。なお勿論のこと、国連憲章には反共的な規定はない。

 後段では日米経済協力を謳っている。実際に何が行われてきたか。
 日本は米政府の自由貿易の要求に全面協力を表明した。米国の余剰小麦・大豆を大量輸入し、国内畑作をつぶした。また航空機の国産化断念、繊維品の輸出自主規制など、貿易問題は常に日本の全面的譲歩で解決した。
 日本は米国の経済に従属したが、20世紀末、日本は金融自由化で失敗し、金融危機が発生して不況が深刻になった。一方、この時期、米国は好景気を持続した。
 米国政府の年次改革要望書を忠実に実行した小泉構造改革は日本の資産を湯水のごとくアメリカに貢いでいる。

第3条
締約国は、個別的に及び相互に協力して、継続的かつ効果的な自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持発展させる。


米国はバンデンバーグ決議(1948年)によって、相互防衛条約の締約相手国の自衛力強化を求めた。これがNATO創設に道を開いた。改定安保では、日本の憲法9条に配慮せざるを得なかった。憲法上の規定に従うことを条件とし、集団的双務的な軍事能力とはせず、「それぞれの能力」と規定している。しかし憲法9条は「解釈改憲」という姑息な方法によってなし崩しにされ、いまや自衛隊は世界有数の軍隊である。

第4条 締約国は、この条約の実施に関して随時協議し、また、日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じたときはいつでも、いずれか一方の締約国の要請により協議する。

 在日米軍が出動前に日本側と協議する(事前協議)ことを取り決めている。次の三種の協議が想定されている。


 日米安全保障協議委員会による日常的な随時協議。

 日本が軍事攻撃された場合の有事協議。

日本周辺の極東で軍事衝突があった場合の有事協議。

 1959年の衆議院外務委員会で、こおn事前協議の有効性をめぐって、社会党の帆足計(ほあし けい)が藤山愛一郎外相と激しい議論を展開した。そのときに帆足が政府の無為無策を「乙女の祈り」と揶揄した。実際にはアメリカ側が事前協議を求めなかったり、日本側のノーを無視することはあり得ることである。日本政府はただひたすらアメリカ側を誠意を祈るばかりである、というわけだ。

第5条
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
前記の武力攻撃及びその結果として執ったすべての措置は、国際連合憲章第51条の規定に従って直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執ったときは、終止しなければならない。


 日本の領内に軍事攻撃があった場合、アメリカには日本を共同防衛する責任がある。しかし、アメリカ領内が軍事攻撃を受けた場合、日本にはアメリカを防衛する責任はない。日本は日本領内を守るだけである(個別的自衛権)。もちろん、在日米軍基地は日本領内であるから、それを防衛する責任は日本側にもある。ここでも憲法9条の故に海外派兵ができないことが一つの歯止めになっている。しかし、周知のように、これも怪しくなってきている。

第6条
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍、及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、1952年2月28日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基づく行政協定(改正を含む)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。


 米軍は日本の領内に駐留し、飛行場・港湾を使用できる。米軍軍事施設として、演習場・宿舎・家族住宅・娯楽施設も含む。本来は米軍経費でまかなわれるべきものだが、日本の「思いやり予算」によって整備されている。

 この米軍の地位と利用できる施設・設備を規定する協定(地位協定)は、1960年には日米の経済力に圧倒的な差があり、米軍の維持費用はすべて米国側の負担とすることが決められていた(地位協定24条の1)。しかし、日本の経済成長にともない、1978年からは日本側が在日米軍の維持経費の大半を負担するようになった。法的根拠がないので思いやり予算といわれる。日本人従業員の給料、空港・港の補修費用、兵員宿舎の建設など、年間数千億円の財政負担になっている。

 地位協定では、米軍と兵員とに治外法権的特権が認められている。沖縄米兵の目に余る違法行為があっても、日本側は手を出せず、沖縄住民の強い批判があった。米国側は反基地運動への発展を恐れ、米兵の日本人に対する事件事故は、日本の司法にゆだねることにした。しかしこれも、穴だらけの不十分なものであることが最近の事件で明らかである。

 米軍が日本に駐留する目的は、

 米軍が自衛隊とともに日本の安全を守るため

 米軍が日本を出動基地として極東の平和を維持するため
である。
 米国領内が攻撃された場合に自衛隊が共同防衛できないため、その見返りとして米軍が日本を出動基地として利用できることとしたのである。

 米軍の活動目的が、日本では安全、極東では平和および安全の維持とし、内容的に異なる。これによって在日米軍は極東で無制限の軍事活動が保障された。このため、在日米軍の存在そのものが、日本への報復攻撃を引き起こす恐れがあり、日本の安全にとって有害であるとして批判されてきた。

 次に極東の範囲について、日本政府は概ねフィリピン以北の日本周辺としていた。しかしベトナム戦争時、在日米軍が沖縄から直接出撃して以来、「範囲」は在日米軍の出動できる範囲という既成事実ができあがってしまった。小泉政権では、在日米軍の行動範囲が極東、という解釈である。イラクも極東になってしまい、自衛隊が派遣された。

 次に米軍の出動は無制限ではなく、次のいずれかの場合に制約される。

 国連軍としての軍事活動。 ②
 韓国やフィリピンなど、軍事同盟国との防衛義務としての活動。

 極東の安全が米国の自衛の目的になる場合。

 しかし、極東の範囲が無制限のだから、③は、アメリカさんのの好き勝手にどうぞ、というに等しい。

第7条 この条約は、国際連合憲章に基づく締約国の権利及び義務又は国際の平和及び安全を維持する国際連合の責任に対しては、どのような影響を及ぼすものではなく、また、及ぼすものと解釈してはならない。

 国連憲章では「いかなる国際協定よりも国連憲章が優先する」(103条)と規定されている。安保条約においても、在日米軍の活動も国連憲章の枠内に限られると明記した。

第8条
この条約は、日本国及びアメリカ合衆国により各自の憲法上の手続きに従って批准されなければならない。この条約は、両国が東京で批准書を交換した日に効力を生じる。


 新安保条約は、1960年1月19日にワシントンで署名、1960年5月20日には衆議院本会議で承認された。参議院の議決がないまま6月19日には自然承認された。そして、1960年6月23日に東京で批准書が交換され、効力が生じた。

第9条 1951年9月8日にサン・ワシントン市で署名された日本国とアメリカ合衆国の間の安全保障条約は、この条約の効力発生の時に効力を失う。

第10条 この条約は、日本区域における国際の平和及び安全の維持のため十分な定めをする国際連合の措置が効力を生じたと日本国政府及びアメリカ合衆国政府が認める時まで効力を有する。 もっとも、この条約が10年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行われた後1年で終了する。

 国連が、日本の平和を十分に保障できると確認できた場合には、安保条約は失効する。しかし、国連が保障できない限りは存続することになる。しかし、国連の保障はどうであれ、日米いずれかが条約の廃棄を通告すると、1年後には安保条約は失効する。

 日本が、この安保条約という属国規定条約を廃棄する日は、果たしてあるのだろうか。自公政府にも小沢民主党にも、その可能性のかけらもない。

昭和の抵抗権行使運動(24)

60年「改定安保」の問題点(2)


 60年「改定安保」の全文を求めてネット検索をしていたら、 「60年安保全文」 というサイトに出会った。順を追って全文の解読をしている。大変レベルの高い解読だと感心して読んだが、筆者(あるいはグループか)が全く分からない。無断で利用させてらう。

 まず正式名称から、51年安保の違いを指摘している。(以下、条文部分を青字で表記する。)

《正式名称》
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約

 51年旧安保の正式名称は
「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」
である。改定安保では「相互協力」の語句が追加された。その理由は、

 日米が政治的経済的に相互協力すること

 安保は軍事同盟ではなく協力条約であること
を強調するためである。

 次に前文を
「政治的協力」
「経済的協力」
「国連憲章」
「日本の自衛権」
「極東の平和」
の五つの部分に分けて解読している。

《前文1 政治的協力>》

日本国及びアメリカ合衆国は、両国の間に存在する平和及び友好の関係を強化し、並びに民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護することを希望し、

 米国の同盟国の政治体制は、米国をモデルとした民主主義でなくてはならない。米国とは異なる政治体制の場合、非民主的政治として、早急に改めることを求められる。米国の民主主義とは本質的に、資本主義経済を擁護し、米国に軍事的脅威を与えないことである。換言すれば、米国の多国籍企業の自由な経済活動を妨害しないこと、米国の軍事外交活動に従うことである。

 日本は忠実な同盟国として、米国の軍事的活動、例えばベトナム(ホーチミン)、パナマ(ノリエガ将軍)、イラク(フセイン大統領)などの軍事活動においては、日本国憲法の解釈を拡大変更して、全面的支持を与えてきた。

 日米安保条約は、両国間の対等の同盟ではない。米国の政治・軍事力が強大であるため、日本が政治的軍事的に従属する同盟である。前文は、外見上は、日米の政治的協力という美辞麗句を並べつつ、内実は冷酷な国際秩序を維持するため、日本に政治的従属を強制できる、米国優位の巧妙な作文になっている。

《前文2 経済的協力》

また、両国の間の一層緊密な経済的協力を促進し、並びにそれぞれの国における経済的安定及び福祉の条件を助長することを希望し、

 日本が世界的な自由貿易の拡大の恩恵を受け、輸出産業が発展して1960年代には高度経済成長を達成できた。米国が最大の輸出市場であった。しかし、協力とは、日米の双務的な関係であり、日本が一方的に有利になったのではない。日本の鉄鋼・電器・衣料・小型自動車などは、米国を市場として大きく成長した。一方、米国企業の根幹を揺るがすような産業育成は厳しく規制され、日本企業は国際経済戦略で大きな痛手を受けた。例えば、大型乗用自動車・航空機・人工衛星・原子力発電所・コンピューターCPU・医薬品・国際金融など、付加価値の高い分野、将来性のある分野に、日本企業は参入できなかった。あるいは米政府によって限定的参入を余儀なくされた。

《前文3 国連憲章》

国際連合憲章の目的及び原則に対する信念並びにすべての国民及びすべての政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認し、

 国際連合は英語で「The United Nations」である。つまり連合国、第2次大戦の米国側陣営のことである。世界全体のことでも、国家連合のことでもない。その連合国の戦勝宣言が、国連憲章である。以下は、国連憲章全文だが、翻訳がまずくて、とても理解できる文章ではない。なお、107条には旧敵国条項があり、国連決議なしでも米国は日本を軍事攻撃できると書いてあるらしいが、そのように断定できる日本語翻訳ではない。要するに次の前文も、107条も、凡人には理解できないということである。


《国連憲章》

 われら連合国の人民は、われらの一生のうちに2度まで言語に絶する悲哀を与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国との同権に関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生じる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びにこのために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。
 よってわれらの各自の政府は、サンフランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける。

第107条〔敵国に関する行動〕
この憲章のいかなる規定も、第二次世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない。



《前文4 日本の自衛権》

両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、

 国家が軍事武装することは国際平和の1手段であり、国連憲章の精神にふさわしい。そのため、日本の自衛隊は合法的であるとされる。また、日本の防衛(個別的自衛権)と、他国と軍事協力すること(集団的自衛権)も、合法的であるとしている。

 このくだりについては、明らかに「憲法9条に反する」という説に私は諸手を挙げて賛同する。

 湾岸戦争、イラン戦争では、日本の自衛隊は米軍に補給活動をしたが、補給活動は武力行使をともなわないから憲法に違反しない、というのが自民党政府が弄した詭弁であった。しかし、戦争当事国への直接協力は戦闘行動に加担するのと同じ意味であり、日本の自衛隊の海外派遣はどんな場合でも憲法違反である。

《前文5 極東の平和》

両国が極東における国際の平和及び安全の維持に共通の関心を有することを考慮し、相互協力及び安全保障条約を締結することを決意し、よって次のとおり協定する。

 在日米軍が出撃する範囲が極東である。極東の地理的範囲は国際情勢によって変わり、日本の安全は極東の軍事情勢に左右されることになる。例えば、ベトナム戦争中、米軍は沖縄基地から、ベトナム空爆に出撃したので、ベトナムは極東に含まれた。

 米政府の想定としては、北朝鮮・中国の共産主義勢力が、日本・韓国・台湾に直接・間接の侵略行動をすることであった。極東とは地理的常識的では日本・韓国・台湾・中国だが、米軍の軍事的常識では、ベトナム、アフガニスタン、イラクも含まれる。

 小泉政権の詭弁では極東が客観的に存在するのではなく、在日米軍の軍事行動範囲が極東である。自衛隊の派兵圏も極東であり、その範囲は在日米軍の行動範囲ということになる。

昭和の抵抗権行使運動(23)

60年「改定安保」の問題点(1)


 本道に戻る。まず、51年「日米安全保障条約」の復習をしておこう。

 安保は、サンフランシスコでの講和会議の最終日(1951(昭和26)年9月8日)、対日平和条約(「日本国との平和条約」、通称「サンフランシスコ平和条約」)と抱き合わせで締結された。講和条約は、ソ連・中国・インドなどの反対を無視して、それらの国を除く旧連合国48ヶ国と日本との間で調印された。草案はアメリカ・イギリスだけで作成し、会議も討議も一切認めない議事規則で強行されている。

 この条約の最大の特徴は、日本の個別的・集団的自衛権を承認し、日本の再軍備とアメリカ軍隊の駐留継続を許容した点にある。さらに、沖縄・小笠原諸島におけるアメリカの施政権継続も盛り込まれており、アメリカの極東戦略が色濃く反映された条約だった。

 そして、安保がその「集団的自衛権と外国軍隊駐留継続」の具現化であった。敗戦後の連合軍による占領施政は終了したが、アメリカ軍隊の駐留継続により、実質的にはアメリカによる占領が続いてきたといえる。今日に至るまで、日本政府はアメリカの属国のような従米政策を続けてきている。

 この講和条約締結時の首相は吉田茂である。吉田茂の長男・吉田健一(英文学者)によると、吉田茂は講和条約締結の一週間ほど前からひどく不機嫌になったという。これを枕に、天木さんのブログ(9月13日)が、講和条約と吉田についてのおもしろい?(「重大な」と言うべきか)エピソードを取り上げている。天木さんは、豊下楢彦著「安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交」(岩波新書)を用いながら、およそ次のように述べている。

 講和条約は日本にとって極めて寛大な条約であり、この条約を吉田茂は高く評価していた。しかし吉田は首席全権代表を強く拒んだ。つまり「ひどく不機嫌」だったのだ。なぜか。

 吉田は講和条約に署名したくなかったのではない。その直後に控えていた日米安保条約に署名する事が嫌だったのだ。吉田は、少しでも対等な条約をと、粘り強い交渉を重ねていた。これに対して、天皇の戦争責任をせまるソ連の影響を恐れた昭和天皇が、安保条約の早期締結を命じ、出席を渋る吉田に、はやく出席し、署名するように、と迫ったという。

 やむなく吉田茂は、日本国民や国会はもとより、全権代表団にさえ安保条約の実態を知らせることなく、責任をみずから一人に負わせる形で、サンフランシスコ郊外の米軍兵舎に一人赴いて署名した。つまり、今日もなお日本の桎梏となっている日米安全保障体制は、昭和天皇と米国の利害が一致して作られたのだ。

 さて、この51年に締結された日米安保の改定に向けての布石は55年の重光外相の渡米(「重光・ダレス会談)から始まる。そして、アメリカの意向と資金を背負ってのし上がってきた岸が登場し、安保改定は急ピッチで進行していく。

57年2月 岸内閣成立
57年6月 岸渡米、日米新時代宣言
58年9月 改定交渉開始

 以後20回に及ぶ日米交渉によって、安保改定という従米支配層の悲願がいよいよ成就目前となっていった。1959年の階級闘争は、この安保改定をめぐる攻防によつて戦端を切って落としたのだった。

 それでは、改定安保とは何だったのだろうか。何が問題だったのだろうか。ここでもまた、天木さんのブログ(2007年5月3日の記事)のお世話になろう。今度は全文を引用する。

ビル・トッテンという日本人

 昨日(4月2日)のブログでベンジャミン・フルフォードというカナダ人が日本のために「米国から自立しろ」と警鐘を鳴らしていると書いた。今日はビル・トッテンという米国人を紹介する。もっとも彼は最近米国籍を捨てて日本国籍を取得したので日本人だ。彼が米国籍を捨てた理由がふるっている。2004年8月に乗った米国の航空会社で厳しい身体検査を受け、「なぜこんなに厳しく調べるのだ」とたずねたら、お前は日本で米国の悪口を言ってばかりいるので米国のブラックリストに乗っているからだ、と聞かされ立腹し、これではもはや米国には住めないと決意したというのだ。9・11以降以降米国は変わったというのだ。

 そのビル・トッテン氏が「日本は略奪国家アメリカを棄てよ」(ビジネス社)という本を最近出版した。数ある対米批判の書のなかで、これほど分かりやすい本はない。この国の首相や官僚、財界をふくめ、米国の本質が何も分かっていない大方の日本人にとって、これは一読すべき本である。

 その中で私が最も注目したのは、日米安保条約こそ不平等条約であるという事実を喝破したくだりである。周知のように日米安保条約はサンフランシスコ講和条約を締結した1951年に、米国に恫喝されて吉田茂が単独で秘密裏に締結した条約である。そしてそれが10年経って期限が来る前に、米国に命令されて岸元首相が恒久条約化させられて今日に至っている。あの安保騒動の時である。

 安保改定の最大の改善点は岸元首相が頑張って、それまでの片務協定から、「米国が日本を守る」という事を義務付けた点であるということになっている。

 ところがビル・トッテン氏は、改定後の安保条約こそ不平等条約であるというのだ。つまり改定された安保条約をよく読むと、「共通の危険に対処するよう行動する」と書かれているだけで、どこにも「日本を守る」とは書かれていない事をあらためて日本人に教えてくれている。いったいどれほどの日本人がわずかA4二枚ほどの安保条約に目を通したというのか。

 この文言については今でも関係者の議論が分かれているのである。アメリカが共通の危険を感じる相手から攻められない限り、日本を守ろうとしないという解釈ができる。つまり中国や北朝鮮が日本を攻めてきても、その時点で中国や北朝鮮が米国の友好国となって米国にとって危険を感じる国でなければ、米国は日本を守ろうとしないのだ。そしてその現実が今まさに起きようとしているのだ。その一方で日本は米国の軍隊を日本全土に受け入れることを約束させられ、そのための人的、財政的負担を支払わされている。しかもこれからは「テロとの戦い」という日本の防衛とは何の関係もない米国の戦争の為に、ほとんどすべて日本の自衛隊が使われるのだ。これは大変な不平等条約ではないか。

 実はこの指摘こそ外務省が決して口に出さない、国民に知られたくない点なのである。突き詰めて言えば、日米安保条約は完全にその機能を変えてしまったのである。日米同盟を原点から見直すべき時にきているにもかかわらず、外務省はそれをごまかしているのである。これ以上の怠慢はない。これ以上の不誠実はない。

 それにしてもフルフォードといい、トッテンといい、日本のためを思って「米国から独立せよ」と言ってくれるのがカナダ人や元アメリカ人だけであるというのが、いかにも情けない。右翼も左翼も一致団結して日米関係を見直す努力をすべき時が来ている。彼らに日本国民を思う気持ちがあるのなら、今こそ日本の国益のために、「米国から裏切られる前に、日本のほうから日米関係を見直せ」と日本政府に詰め寄るべきなのである。



 「いったいどれほどの日本人がわずかA4二枚ほどの安保条約に目を通したというのか。」という天木さんの指摘に私の耳が痛いと言っている。教科書程度の知識で分かった気になっていた。次回、学習し直すことにしよう。

昭和の抵抗権行使運動(22)

島さんが記録した「反レッド・パージ闘争」


 完全な敗北であっても「勝利した」と糊塗する党や諸党派のもの言いを何度も聞かされてきたので、私には党や諸党派が言う「勝利」には眉唾の習い性がついてしまっている。しかし、1950年の反レッドパージ闘争の「輝かしい勝利」を、私は疑わない。「昭和の抵抗権行使運動(9):反レッド・パージ闘争」から、その部分を再録すると次のようであった。

「7月、報道部門からはじまったレッド・パージ攻撃は全産業部門に波及した。この攻撃の猛威を、全学連は非常事態宣言を発して対抗した。全学連による10月ゼネストは、都内拠点校において数千名の武装警官による学園制圧という空前の弾圧体制に抗してうち抜かれた。政府は、全産業二万数千人にのぼったレッド・パージ攻撃を学園にたいしても断行することを何度も公言したが、全学連はひとりの犠牲者を出すこともなく、この攻撃を完全に粉砕した。この全学連の10月反レ・パ闘争は反帝闘争の最初の輝かしい勝利であった。」

 1950年は島さんが東大に入学した年である。この19歳になったばかりのピカピカの一年生は、6月には共産党に入党している。しかし、党内反対派(国際派)細胞として活動したため、すぐに除名されている。さらに10月には、レッド・パージ反対試験ボイコット闘争で停学処分を受けている。

 この反レッド・パージ闘争について、島さんは克明な闘争記録を残していた。読んでいると、今まさに闘争の渦中にいるような錯覚が起きるほど、感動的で生き生きとした記録である。少し長いが、全文紹介しよう。

期末試験ボイコット闘争へ

 8月末、全学連中央執行委員会は緊迫した情勢をアピールし、全国の学生に直ちに大学に戻り、闘争態勢につけ、と呼びかける。

 すでに日本共産党のヘゲモニーがなくなっていた労働運動は、朝鮮戦争の勃発にも「反共」のスローガンを掲げ、ほとんど政治的闘いを放棄している状況で、また当の「共産党」も戦後初めての半非合法下におかれ、指導部が分裂したままで地下にもぐってしまった状態で、闘いを起こすどころの状態ではなかった。

 全学連の指導部は、悲壮感を顕わにしながら孤立した闘いを覚悟、学生運動こそが警鐘乱打し世に訴える使命があると考えていたのである。そして、5月、6月の闘いによって、「反帝」の闘いの先頭を自分たちが担わなければならないと自負していた。

 この全国闘争の展開の中で、東大駒場は、つねに拠点の位置を担わされ、ここで突破口を開けと、全学連、東大のオルグが連日のように、現われていた。そして9月、学期が始まるとともに闘いの日々が始まったのである。

 危機感と使命感という学生運動にとっては必須の条件はあったが、所詮学生である。最大の関心は、9月末から始まる学期末試験である(2学期制であるから、9月末から試験になり、その後、中間休みとなる)。しかし、学園レッドパージは10月初めに行われるという見通しから、闘争目標はその前に行わねばと、10月6日のゼネストが呼びかけられている。

 細胞も8月ごろには50名以上になっていたが、党員でもやはり学生である以上、試験は大問題で、学期が始まった頃は、日頃勉強していないために試験に頭を奪われ、指導部の焦りにも拘らず、なかなか思いきった闘争方針が決まらない曰々が続いたようだ。

 私自身も、4月以来の闘争疲れと、喘息(島さんの持病・・・管理人注)の季節、父の病気などが重なって、9月半ばには、一時病床に臥す状態であった。そしてまた、夏休みの間の活動上の問題で、委員長である大野明男が問題を起こし、細胞内で「活動停止」の処分を受けていることもあり、自治会の運営は、常任委員会3人男といわれた島・斎藤・丸山が中心となってやらざるをえない日々が続いた。

 そうした中で繰り返された細胞総会で、9月半ば近くなり「この闘いを行うためには試験をボイコットして闘う以外にはない」との指導部の方針をめぐって、重苦しいしかし切羽詰った討論が続いた結果、断固ボイコット闘争へと踏んぎりがついたのである。

 この細胞の決定はすぐAG(この頃すでに100名を超えた組織となっていた。)〔再建反戦学生同盟のこと。・・・管理人注〕の総会に提案され、了承されるや、文字通り戦闘態勢に入ったのであった。これからの1ケ月間駒場は全学ルツボの状況におかれる。

 私たちも、試験ボイコットをする以上、自分たちが進学をあきらめなければならず、しかも今度は大量処分を免れないと、それぞれ容易ならない決意をしなければならなかった。

 大衆的運動の力学というものは、いつも思わぬ展開をするものである。この9月の駒場の学生の動きは、まさにその好例であり、私自身のその後の考え方に大きな足跡を与えた。9月上旬のあの重苦しい、息づまるような空気は、久野一郎、佐藤隆一らの細胞指導部の思いきった決断と、それを受けて立った党員たちのふんぎりで一変し、それからは、堰を切ったように、流れはほとばしったのである。

 駒場は、文科一類、二類、理科一類、二類と4つの科があり、それぞれ約50名のクラスが7~10ある。それぞれのクラスから自治委員が2名、代議員が4~5名選出され、自治委員会、代議員大会が構成される。代議員大会が最高議決機関であるが、ストライキなどの重要事項は全学投票で決定される。執行部である15名の常任委員は自治委員会で、正副委員長は代議員大会で選出される。

 細胞→反戦学生同盟の活動家集団で決定された試験ボイコットの方針は、約2週間の間、各クラス・自治委員会と、激しい討論が決行された。自治会執行部は、スト後の処分に備え、6名に「縮小」する臨戦態勢として、この下に各クラスから「闘 争委員」をおくことにした。

 駒場の特徴は旧制一高時代の伝統である寮にある。全寮制は新制移行に伴いなくなったが、明寮・中寮・北寮と残された寮には、なお500名以上の寮生が生活している。各部屋は、各種サークル、部毎に分かれ、共同生活を営んでいる。旧制以来の寮完全自治の精神がまだ残っており、全寮委員会が全権をもっている。この寮が駒場学生運動の拠点となり、9月の選挙で細胞員である前田知克が全寮委員長になる。この寮が存在しなかつたら、あの10月の大闘争は不可能であったろう。この寮の故に駒場は全国学生運動のメッカと呼ばれ、また「不沈空母」とも称せられることになったといえよう。

 全学連・都学連も、全国闘争のために合同の闘争委員会を作り、この駒場寮に本部をおき、連日連夜、全都からの代表者を集め、闘争態勢を整えていく。武井昭夫、安東仁兵衛、高沢寅男らの当時の全学連の猛者の面々が常駐、指揮をとっている姿に、私たちも日々接するようになる。

 最初どうなるかと思っていた私たちも、日一日と盛り上り、スト決定が行われる代議員大会では圧倒的勝利の雰囲気となり、全学投票も実に大差のもと、試験ボイコット方針を信任する。しかし学校側も必死となって、矢内原学部長を先頭に直接学生に呼びかけ、「断固試験を続行する、勇気をもって試験を受けよ」と檄を飛ばし、いよいよスト当日の前夜には、両者の物々しい対立の様相が学内のアチコチに見られる。

お祭りのようなアイディアが

 それまでの大学のストライキはせいぜい1日だけであったのだが、こんどは「試験」ボイコットという特別な形態なので、ボイコット派も反対派も学校側も、それなりに必死であった。自分たちの将来にまで影響しかねない、ということで、マナジリを決してといってもよい真剣さがあった。しかしこれだけ盛り上がって雪だるま式に参加学生が増えてくると、なにかお祭り気分のような楽しさも出てくるのか、「戦術論議」も次々と創意ある奇抜なものが続出してくる。

 ボイコット第1日、ともかくこの日が決戦場と、前夜から賛成派をできるだけ多数寮に泊まりこませることにした。その数は約800に上った。ともかくスト破りを防ぐことが肝腎と、前夜から、学校中の門を点検し、すべてにピケット・ラインを敷き、実力で試験場にいくことを阻止することにしたが、駒場の駅からの道に面している塀は低い生垣のようなもので、ここから入ろうとすればすぐ入れる。これにもピケットを張らねば…。門をすべて閉じてしまうと、警官隊が出動するのではないか、その口実を防ぐために、裏門からの道だけは開けて、人垣で道を作って全部食堂に誘導して、さらに「監禁」してしまえ…など戦争ゴッコのような戦術論議を夜明けまでした。

 運動部の連中も、山岳部、空手部などが元気よく、スト破りは俺らにまかせておけ、と物騒な話まで出る有様。

 学校側の動きを知る必要があると、機械に詳しい者たちは、全く密かに地下道(寮から本館をつなぐ地下道があった)から忍びこんで電話を盗聴する仕掛けをつくって「特別情報室」を作る。

 また、それでも試験を受ける奴に備えてと特別遊撃隊を作り、学内各教室を回って見付けたら直ちに「行動」を起こす。

 時計台を占拠して、てっぺんに反戦旗(当時はフランス国旗に近い赤白青の3色の地に、平和の鳩をデザインした反戦旗が闘いの旗であった)を翻すために特別行動隊ができる。音感合唱研究会が中心に、当時のテーマソング「国際学連の旗」「青年よ団結せよ」「ワルシャワ労働歌」などで鼓舞する「音楽隊」は大切な役割だ。

 少なかった女子は文二中心に、医療、救援班が組織される。…お祭り騒ぎで湧きかえっている。

 そして、試験第1日の9月29日。早朝7時、寮のマイクから闘争委員長・大野明男の闘争宣言が流れ、前夜から泊まりこんだ学生たちが起き出し、寮の前に整列し、歌声と共にデモを組み、学内を一巡した後、正門・裏門をはじめ、所定の位置に配置され、ピケットを張る。

 私は、この朝の光景を見て「勝った」と思った。

 試験でもあるので、帝都線(京王井の頭線)の駅から通学生が続々と降りてくる。ボイコット派はすぐピケに加わる。三重四重のピケットにあきらめた学生たちを「裏門へ裏門へ」と誘導する。裏門からピケットにはさまれた学生たちは、食堂内に誘導されてしまう。そこでまた、次々とアジ演説が行われ、教師を含めて激烈な討論となるが試験場にはいけない。大学側もほとんどの教官が早朝から集まって、教授会を開き、学生を説得にいき、また試験を行う教室にいく。

 生垣など乗りこえたり、どこからか入り込んだ学生が、各教室に5~6名でひっそりと試験を受けている。それを見つけた行動隊が入り口から入り込み、あるいは窓から飛びこみ、彼らを囲んで一斉にスクラムを組み歌をうたいだす。暴力はふるわないが、受けているものもたまつたもんじゃない。最中、泣き出しながら「私はもう試験を受けない」と叫んで答案用紙を自分で破ってしまうものも出た。

 私は明寮前に設けられた闘争本部席に陣取り、各部署からの伝令の報告を受け、情勢をつかみながら待機している行動隊に指示を出す役割を担った。

 第1日、完全に勝利を確認して、また戦術会議の連続。試験は1週間続くのだから、同じようなことをしていたら疲れてしまう。大学側の動き、学生の力量を見ながら、またまた様々な「アイディア」が続出する。「各教室に布団を運んで、皆そこで寝てしまえ」「各教室ごとに椅子と机でバリケードを作れ」etc。

 しかし第2日目はもう一度正攻法でいこうと正門前を中心に今度は完全ピケットを張ることになる。

警官隊導入。しかし学生は、入らなかった

 スト2日目。ピケットに参加する学生は更にふくれ上がり、100名以上になる。正門も裏門も、五重六重の人垣で完全に固められる。

 学校側も大変だったらしい。矢内原学部長は信念の人、試験はなんとしても行うと宣言し、自ら正門のところにきてマイクで学生に直接よびかける。自治会も大野委員長が堂々と応酬する。試験派の学生も続々と正門ピケットの前に集まり、両者対峙しながら、学校と自治会の論戦に聞きいる。時々列を組んでピケを突破しようとするが、すぐはねかえされてしまう。両者とも暴力はふるわない。

 このときである。寮からの特別伝令が走ってきて、メモを大野委員長に渡す。大野が顔色を変えている。
「学校側は遂に警官隊を要請しました。まもなく警官隊が到着する知らせがありました。諸君スクラムを固めよ」
と興奮した調子でいいながら、矢内原学部長に食ってかかる。矢内原氏も応酬し、「私は呼んでいない、早くピケを解きなさい」と逆に激しくいう。

 そのうちに、ヒューというサイレンが聞こえる。警官隊を満載した車だ。学内中が大騒ぎになる。寮内にいたスト反対派も含めて大勢が「警官隊がきたぞ」と正門にかけつける。一高以来の伝統がまだ生きている。警察は一歩も入れてはいけない。理屈もない警官アレルギー。

 遂に渋谷署長を先頭に、警官隊が整列し、学生たちにピケを解くように警告を発する。「友よ肩を組め、団結高く~」と歌声が一段と高くなり、罵声が飛びあう。何度かの警告の後、警官隊がピケ解除に飛びこむ。抵抗はするが、実力行使にはかなわない。この頃はゲバ棒もないし投石もない。何度か列を組み直すが、やがて、一角のピケは破られ狭い道が開けられてしまう。

 矢内原学部長は学生たちに再度、学内に入って試験を受けるよう訴える。ところがである。この有様を見ていた試験強行派の学生たちは、坐りこんで動かないのである。何度うながされても動かない。

 「僕たちは、警官によって開けられた門を通つてまで試験を受ける気持ちはない!」と泣くような声で門内に入ることを拒否したのである。

 それまで、寮内で最後までボイコットに反対だった保守派の前・寮委員長まで「私は学校側を今まで信頼していた。しかし、今この事態を見て反省する。今から自治会の方針のもとに闘う」と宣言した(後に共産党に入った田口富久治である)。

 もうこうなっては雪崩のようなもので、学校側も覚悟を決めた。矢内原さんは、本日の試験中止を宣告した。

 闘いの意外な展開に、大喜びの自治会、警官隊の出動に怒りに燃えている学生。駒場中の学生、おそらくこれだけの学生が一場に会したのは稀有のことであろう。時計台の前の広場に全員が集まって勝利を確認、学校へ抗議するとともに、10・5レッドパージ、全学ストへの闘いを誓いあったのだった。

 緊急教授会も開かれ、試験の無期延期を決め、直ちに休校を宣言した。

 細胞も自治会も、闘争委員会のもとに会し、参加した厖大な活動家を集めて、駅頭へ、都内各大学へ宣伝隊を組織し、また全国にオルグを派遣する。

レッドパージ勝利、そして学生処分

 そして10月5日全都のスト。本郷の東大へ全都大学の学生が集結し、大会を開くことになる。大学は門を全部閉ざし開けなかったが、これを内外からぶち壊し1万名に上る学生が安田講堂前に結集する。

 戒厳令のような状態でのこの学生の大規模闘争は、連日社会面のみならず政治面をもにぎわし、この中で天野文相は当時言明していた政令62号によるレッドパージは行わないと言明せざるをえなかった。労働界で残されていた電産、公務員、新聞、報道機関と続いた50年のレッドパージは、この闘いによってストップをせざるをえなかった。大学教員のパージは見送られたのである。闘いは、「勝利」として高らかに謳歌された。

 10月17日、全学連の呼びかけで、早大構内で再度、全都集会が行われた。学校の禁止を蹴って行われたこの集会に大量に動員された警官隊が襲いかかり、200名近くの学生が検挙された。東大をはじめ各大学で異例の早さで学生の大量処分が発表された。

 反共の旗を掲げていた労働界の主流「総評」はもちろん、この10月の英雄的ともいえる学生の闘いを公然と支持した組織はなかった。日本共産党は、「分派・トロツキスト」全学連のハネ上がり、利敵行為と、終始非難・攻撃の先頭に立っていた。社会党も、「学生らしい行動を!」といってストを非難していた。わずかに支持を寄せたのは、首を覚悟に発言した少数の教授、インテリゲンチャだけであったといってもよい。

 しかし「単独講和」による米ソ対立の激化、朝鮮戦争にかこつけた日本再軍備の進行、「反共」一色の抑圧の態勢が急ピッチで進められているのに危機感を感じながら、公然と闘おうとしない社共、労組の指導にあきたらなかった人々は、この学生に大きく影響され、これを期にさまざまな運動がひろく展開されるようになる。

 この社会的影響も大きかつたが、なによりもアメリカの反ソ戦略を真っ向に据え、孤立にもめげず闘ったこの10月闘争は、戦後学生運動史だけでなく、大衆運動史の中でも際立った闘いとして記録されたのであった。

 しかし闘いがきらびやかであっただけに、その後の沈滞期は惨めである。お祭り騒ぎに続く「宴のあと」の淋しさと苦しさは、その渦中にいたものが最も味わわなければならない。10月13日、駒場でも13名の処分が発表された。発足以来初めての学生処分である。大野明男以下10名の退学。私以下3名は無期停学。

 長い闘いの疲れと、休み、再試験の開始という条件の中で、もう力はつき果てていたといってもよいか。それでも、「反撃を」という全学連幹部の意見で、「再試験ボイコット」の方針が細胞から出されたが、この「特攻隊」的方針に学生はついていかなかった。しかも、わずか数名だった日共再建派細胞がこれ幸いと息を吹きかえし、「分派」の極左方針を批判して、自治会委員長を選挙に押し立て、反戦学同と細胞推薦の候補を破って当選してしまったのである。処分反対闘争も空しく不発に終わった。

 もちろん、学内の雰囲気は大きく変わった。11月、初めて行われた学園祭はその後、駒場祭と名付けられたが、この10月闘争の余燼さめやらぬ中で盛大に行われる。しかし、闘いの中心にいた人々の苦悩は大きかった。



昭和の抵抗権行使運動(21)

島成郎さんのこと


 、またまた、ちょっとバイパスへ。

 1959年~1960年の反安保闘争の詳しい学習が、この稿の最終目的である。いよいよその問題を取り上げる段になったが、その前に共産同書記長を務められた島成郎さんのことを書いておきたい。

 これまでの私の乏しい知識の中にも、60年安保闘争を戦い抜いた青年闘士たちの名がいくつか記憶されているが、島さんはその中でも一番印象強く記憶されている人である。私に島さんを強く印象づけたものの一つとして、私は次の吉本隆明さんの文章をすぐに思い出した。

 昨年の安保闘争では、学生たちとジグザグデモで「運動」(からだを動かすこと)したり、坐り込みでごろ寝したりして、精神衛生的にじつに愉快であった。わたしの肉体がまだまんざら衰えていないことを発見したのも、ひとつの収穫であった。やつはプチブル・ブランキストだとか、トロツキストだとかいうレッテルなぞは糞くらえである。

 また、わたしは、学生運動と思想的な共同戦線をはって力をかたむけてパルタイを攻撃した文章をかいた。このほうは、あまり愉快な思い出はない。わたしがささやかな支援をした共産主義者同盟と無党派の学生新感覚派は、思想的にも組織的にも安保闘争敗北の打撃をうけ分裂し四散してしまった。そして、陰湿な政治屋たちの組織に、安保闘争事後の局面をゆだねることになった。裏切りやぺテンも体験したが、この種の体験はあとになるほど胸くそがわるくなるものである。もっとも、共産主義者同盟の書記長であった島成郎君のように、爽やかな後味をのこした人物も稀ににはいた。

 こんなことをいうと、おまえはたかが安保ぐらいで頭にきた政治の素人だ、などという政治的屑がいるかもしれないが、屑はなにをやつても屑だし、爽やかな人物は何をやつても爽やかだということは、知っておいたほうがいいと思う。
 (『擬制のの終焉』所収「現代学生論 ― 精神の闇屋の特権を」より)



 この文章を読んだとき私は、吉本さんが賞賛してやまない島成郎という人のことを詳しく知りたいと思っていながら、果たせないでいた。この稿を進めているうちに、当然のことながら島さんが登場してきた。そこで、これを機会に、果たせないでいたことを果たしたいものと、ネット検索をしていて、『ブント書記長品成郎を読む』(情況出版)を知った。さっそく、それを図書館から取り寄せて、いま読んでいる最中である。ぜひ皆さんに紹介したい文章がいくつかある。適時それらを利用したいと思っている。

 今日は上記の本に収録されている吉本さんの『「将たる器」の人』という一文を転載しておこう。島さんは2000年に亡くなられている。そのときの追悼文である。

「将たる器」の人

 初めて島成郎さんにあったのは全学連主流派が主導した60年安保闘争の初期だった。島さんたち「ブント」の幹部数人がいたと思うが、竹内好さん、鶴見俊輔さんはじめ、わたしたち文化人(!?)を招いて、島さんから自分たちの闘争に理解を持って見守って頂きたい旨の要請が語られた。竹内さんなどから二、三の質問があって、島さんが答えていたと記憶する。確か本郷東大の向かいの喫茶店だった。

わたしが鮮やかに覚えているるのは、そんなことではない。その時、島さんは戦いは自分たちが主体で、あくまでもやるから、文化人の方々は好意的に見守っていてくださればいい旨の発言をしたと記憶する。わたしは、この人は「将(指導者)たる器」があるなと感じた。

 戦いはいつも、うまく運べば、何も寄与しないが同伴していた文化人の手柄のように宣伝され、敗れれば、学生さんの乱暴な振る舞いのせいにされる。この社会の常識はそんな風にできている。わたしは島さんが、そんな常識に釘を刺しておきたかつたのだと思い、同感を禁じ得なかった。

わたしは学生さんの闘争のそばにくつっいているだけだつたが、心のなかでは「学生さんの戦いの前には出まい、でも学生さんのやることは何でもやろう」という原則を抱いて60年安保闘争に臨んだ。それでもこのわたしの原則は効力がなかったかも知れないが、わたしの方から破ったことはなかった。島さんをはじめ「ブント」の人たちの心意気に、わたしも心のなかで呼応しようと思ったのだ。文字通り現場にくっついていただけで、闘争に何の寄与もしなかった。

島さんの主導する全学連主流派の人たちは、孤立と孤独のうちに、世界に先駆けて独立左翼(ソ連派でも中共派でもない)の闘争を押し進めた。それが60年安保闘争の全学連主流派の戦いの世界史的意味だと、わたしは思っている。闘争は敗北と言ってよく、ブントをはじめ主流となった諸派は解体の危機を体験した。しかし、独立左翼の戦いが成り立ちうることを世界に先駆けて明示した。この意義の深さは、無化されることはない。

 安保闘争の敗北の後、わたしは島さんを深く知るようになった。彼の「将たる器」を深く感ずるようになったからだ。

 わたしが旧「ブント」のメンバーの誰彼を非難したり、悪たれを言ったりすると、島さんはいつも、それは誤解ですと言って、その特質と人柄を説いて聞かせた。わたしは「将たる器」とはこういうものかと感嘆した。わたしなど、言わんでもいい悪口を商売にしているようなもので、島さんの一貫した仲間擁護の言説を知るほどに、たくさんのことを学んだような気がする。

 わたしの子供達は豪放磊落な島成郎さんを「悪い島さん」と愛称して、よく遊んでもらったり、お風呂に入れてもらったりしていた。わたしとは別の意味で、幼い日を思い出すごとに、島さんの人なつこい人柄を思い出すに違いない。

 知っている範囲で、谷川雁さんと武井昭夫さんとともに島成郎さんは「将たる器」を持った優れたオルガナイザーだと思ってきた。臨床精神科医としての島さんの活動については、わたしは語る資格がない。だが、この人を失ってしまった悲しみは骨身にこたえる。きっとたくさんの人がそう思っているに違いない。

(『沖縄タイムス』2000年10月22日朝刊より)



昭和の抵抗権行使運動(20)

共産同(ブント)の結成


 警職法闘争が「奇妙な勝利」をかちとり、階級闘争が新しい展開局面を迎えようとしていたなかで、学生党員グループは、12月10日、ついに、全学連新党「共産主義者同盟」(ブント)を結成した。

「全国の青年同志諸君!! 我々はすぐる一年もブルジョア階級とのきびしい闘争にあけくれた。しかし、プロレタリア大衆の偉大な戦闘的意欲にもかかわらず、また、資本主義の死の苦悶にもかかわらず、世界革命への道程は峻しく、またさびしい。何故なら、真に革命的な指導部がどこにも存在しないからだ。……全国の青年同志諸君!! 我々の意図と思想と熱情は次の文書の中に未熟な言葉でつづられている。我々と思想を同じくし、ブルジョアジーと、彼等に死を与えるべき革命運動を毒しつづけている者達に対する、火のような憎悪に燃える同志諸君に、我々は熱情をもって訴える。日本労働者階級解放の革命的前進のために我々と共に進もうではないか。万国のプロレタリアート団結せよ!! 1958・12、東京」
 (「共産主義者同盟結成大会議案」『プロレタリア通信』第6号 58年12月)

「我々は一切の革命的空文句を拒否する。たとえ我々が正しい思想、正しい理論、正しい綱領をもって武装されたとしても、またそれがいくら多量のビラ、新聞の配布によって支えられようとも革命理論を物質化する実体が存在せねば全くのナンセンスである。(武器の批判は批判の武器にとって変ることは出来ぬ)組織の前に綱領を! 行動の前に綱領を!! 全くの小ブルジョアイデオロギ―にすぎない。日々生起する階級闘争の課題にこたえつつ闘争を組織しその実践の火の試煉の中で真実の綱領を作りあげねばならぬ。……組織は真空の中では成長しない。労働者階級の闘いが生起する課題に最も労働者的に、最も階級的に応えつつ闘争の先頭にたって闘うことによって、その党は革命的方針を渇望する労働者にこたえることが出来る」(同上)

 このときの学生たちの自負心と高揚した息づかいが聞こえるようだ。

 この新党結成の快挙の意義を、蔵田さんは次のように賛辞してやまない。

 かくて、革命的左翼はついに日本革命運動史上において無謬性を誇り、一枚岩の団結を誇示してきた前衛党神話の呪縛から自己を解放し、その崩壊を告げる弔鐘を、夜明けの空にうち鳴らすことになった。

 共産同がこう主張する(上記引用文・・・管理人注)とき、そこから演繹される第二の結論は、新党結成以外にはなかった。また、この点にこそが、革共同が歩んだそのすぐれて先駆的な道程と、その党組織=建設論における決定的な相違があった。

 すなわち、既述したように日本の革命的左翼のイデオロギー的源流となったトロツキスト連盟=革共同は、日本反スタ=トロツキズムのイデオロギー的伝導者=サ―クル集団として発足した。そのために、学習会や喫茶店オルグを中心にした「真空の中の党づくり」を建党路線(党組織戦術、運動組織論)とした。この建党=運動組織論は、やがて革共同(黒田)主義として結実する。すなわち、プロレタリア的人間の論理、党主体の確立、自己変革、綱領主義、党のための闘いの最優先……となった。

 これにたいして、共産同は「たたかうための党」を対置した。共産同にとって、党とは現実の階級闘争をもっとも極限的に自己貫徹しうる実体としての組織であった。そのためには、まずスターリニズムが裏切った過去の共産主義運動の歴史を墓場から掘り起こし、現実の階級闘争における公認前衛党の裏切りを武器によって批判し、その手段として、マルクスを引用し、トロツキズムにも学び、レ―ニン主義を復権させ、世界をもう一度独力で再構成していくことだった。その結果において、40年の歴史を誇る日本の公認前衛党の神話と権威を実践的に否定し、一枚岩の団結のしがらみから自己を解放し、当時「コペルニクス的転回」といわれた「別党コース」による新たな党を創成していくことであった。そのための作業は、階級闘争という烈火の試練のなかではじめて可能であった。



 蔵田さんが解説しているように、「革共同主義」と「共産同主義」における運動組織論の違いは本質的なものであった。それが、それ以後の革命的左翼の党派結成をたえず二分することになり、両者は鋭い相克の歴史を紡いでいくことになる。

 さて、全学連は、共産同結成大会直後の12月13日に、第13回大会を開催した。この大会では、一時的ながら、革共同系執行部(塩川喜信委員長)が多数派を占めた。この最大の原因を蔵田さんは、

 共産同の組織体制の不十分さ。

 新旧指導部の交替期にあって、共産同が人材難だったこと
に求めている。

 その13回大会は、過去のブント系執行部路線を次のように批判的に総括し、新しい方針を打ち出した。

「労働者階級の闘争が後退し、学生戦線の全体的沈滞がある現局面では、体制整備が主要な課題(であり)、後退期の学生運動に一揆主義的闘争方針を適用することは誤りである」(「全学連第13回大会議案書」58年12月)

 こうして過去の「連続的波状的ストライキ」戦術に代わって、

 学生運動の大衆化への転換

 イデオロギー活動の強化
を決定した。これに対して、共産同はこれを「清算主義」と批判した。

 この革共同全学連の登場を契機にして、学生運動前線は革共同(二派)・共産同・日共(二派)による三巴の党派闘争時代に入った。

昭和の抵抗権行使運動(19)

勤評・警職法闘争


 日共党内闘争の過程で思想的に劇的変化をとげていった1958年、全学連と労働者による労学提携闘争はどのようであっただろうか。再度、関連事項を年表から抜粋する。

1958年
9・15 勤評粉砕第一波全国総決起大会
10・28 警職法阻止全国学生総決起集会
11・5 警職法阻止全国ゼネスト

 この二つの闘争を詳しく見てみよう。

 7月5日、勤評・道徳教育指導者講習会・原水禁第4回世界大会を主要議題に、全学連一七中委が開催された。

 勤評闘争は、すでに前年12月に日教組大会で絶対阻止の方針がうち出されていた。これに呼応して、全学連もこれに固い連帯を表明していた。

「労働者階級と日本支配層との対決の焦点として、勤評闘争が闘われており、この闘いの行方こそ、日本労働者階級及び人民の今後の闘いの帰趨を決定するものである」(「全学連11回大会議案」58年5月)

 原水禁大会に向けては次の基本方針を確認した。

(1)
 我々の闘いの敵は、国際的にはアメリカを先頭とする英仏その他の帝国主義者グループである。
(2)
 今度の第4回大会では、日本における敵が国際帝国主義グループと結びついた岸自民党とその政府であることを明確にし、特に日本大会においては彼らにたいする日本平和勢力の一大結集点をつくり出だすことを目標にする」
 (「全学連一七中委議案」58年7月)

 全学連はこの方針をもって8月の原水禁大会に参加した。学生は各分科会で論戦を果敢に展開して、完全に論争のイニシアティブを握った。そのために、当然にも、ここでも日共の方針と全面衝突をすることになる。「国民的平和運動のなかに、勤評という政治課題を持ち込んで、平和を願う広範な国民の統一と団結をそこなうべきではない」というのが日共の方針であった。いわゆる「日共幅広論」である。

 続いて夏休み明け9月、全学連は第12回大会を開催して秋の闘争体制を確立した。

「我々は今世界史の新しい激動の渦中に立たされている。日本人民と全アジアの人民にとって決して忘れ去ることのできないあの兇暴な日本帝国主義は今再びその姿をあらわにして我々に襲いかかり、国内情勢は著しく緊迫している。復活した日本帝国主義と人民との激闘としての勤評をめぐる闘いはますます熾烈化し、今や決戦的段階に突入しようとしている」(「全学連第12回臨時全国大会宣言」58年9月5日)

 全学連は、この第12回大会で「日帝復活」「同盟軍規定」を軸にした反帝実力闘争路線への転換を最後的に確立し、9月勤評闘争・道徳講習会阻止闘争、10-11月警職法闘争と、激しい闘いを展開した。

 勤評闘争は、前年愛媛から、58年には東京、福岡、和歌山、高知へと拡大し、道徳講習会闘争は、東北、奈良、東京を中心に激しく闘われた。

「福島の闘いを突破口に全東北へ!」
「奈良の闘いを契機に全関西へ!」
 (「全学連中闘指令」第7号)

 これを合い言葉に、数百名の労働者と学生が、1000名の武装警官と有刺鉄線をはさんで対峙し、ストライキ・教室占拠・バリケード・坐り込み・デモと多彩な闘いを展開した。この闘いで、多くの負傷者と逮捕者をだしている。

 この激闘の渦中で、突如、岸自民党政府は10月の臨時国会に警職法改悪を上程した。自民党機関紙は一号活字で、「総評、全学連などに痛手を」という煽情的な呼びかけを行っている。

 これに対しても反撃はただちに組織された。

 10月、第三次統一行動において、全学連は全国62カ所、数十万名の学生を結集し、戦後最大規模のストライキ、デモを展開した。東京では労学45000名が雨中デモを決行し、全学連は20000名を動員した。

 さらに、11・5ゼネストは400万労学が決起し、官公労、炭労を中心に24時間政治ストを敢行した。東京では全学連5000名を先頭に労学10000名が国会チャペルセンタ―前に坐り込んだ。

 この闘争の結末を、蔵田さんは、にがい皮肉をこめて、次のように記述している。

 この結果、警職法は闘争の高揚に恐怖した政府自民党と社共(!)との妥協によってされた。同時に、国会解散、岸打倒闘争も、警職法とともに“粉砕”され、「守勢から攻勢へのチャンス」はついえ去ってしまった。さらに、最後まで追撃の手をゆるめなかった全学連にたいしては、マスコミが「全学連二月革命説」なるデマを流布し、日共はお定まりの誹謗と中傷のキャンペーンを行った。とはいえ、この日共の全学連攻撃は、既成指導部の「裏切り」にたいして怒りと焦躁を抱く圧倒的な大衆の批判を回避するための、自己弁明と自衛であったことは、明らかである。



詩をどうぞ

除名


 今日は、ちょっと寄り道。

 60年安保闘争前後の日本共産党は度し難いほど独善的であった。その『一枚岩の団結』のドグマがあらゆるものに優先していた。いまもなお、その硬直した独善性を払拭しているとは言えないだろう。私は先の都知事選ではその独善ぶりに、今さらのように、ほとほとあきれ果ててしまった。無用な候補者を立てたばかりか、浅野候補の悪口ばかりを吹聴して、まるで沈タロウを側面から応援しているようなていたらくであった。

 私たちの身近で活動している末端の党員たちの誠実な言動に、私は敬意を払うのにやぶさかではない。そのような方を私は何人か知っている。それだけになおさら、党執行部の独善性が鼻持ちならない。

 共産党に限らず、『一枚岩の団結』のドグマに縛られた組織は内部論争や内部批判に狭量である。昨日の記事で私は、「論争に敗けて、人事で勝利」した党が大量の除名処分を行ったくだりを、黒田喜夫(1926~1984)さんの詩『除名』を思い出しながら書いていた。

 黒田さんは1960年に左肺の開胸手術を受けている。その入院中、共産党に入党していた黒田さんは、反安保闘争・綱領論争をめぐって党の指導部を厳しく批判して除名処分された。次の詩は、そのとき病床で書かれたものである。



除名  黒田喜夫

一枚の紙片がやってきて除名するという
何からおれの名を除くというのか
これほど不所有のおれの
ひたひたと頰を叩かれておれは麻酔から醒めた
窓のしたを過ぎたデモより
点滴静注のしずくにリズムをきいた
殺された少女の屍体は遠く小さくなり
怒りはたえだえによみがえるが
おれは怒りを拒否した 拒否したのだ日常の生を
おれに残されたのは死を記録すること
医師や白衣の女を憎むこと
口のとがったガラスの容器でおれに水を呑ませるものから
孤独になること しかし
期外収縮の心臓に耳をかたむけ
酸素ボンベを抱いて過去のアジ句に涙することではない
みずからの死をみつめられない目が
どうして巨きな滅亡を見られるものか
ひとおつふたあつと医師はさけんだが
無を数えることはできない だから
おれの声はやんでいった
ひたひたと頰を叩かれておれは麻酔から醒めた
別な生へ
パイナップルの罐詰をもって慰めにきた友よ
からまる輸血管や鼻翼呼吸におどろくな
おどろいているのはおれだ
おれにはきみが幽霊のように見える
きみの背後の世界は幽晴の国のようだ
同志は倒れぬとうたって慰めるな
おれはきみたちから孤独になるが
階級の底はふかく死者の民衆は数えきれない
一歩ふみこんで偽の連帯を断ちきれば
はじめておれの目に死と革命の映像が襲いかかってくる
その瞬時にいうことができる
みずからの死をみつめる目をもたない者らが
革命の組織に死をもたらす と
これは訣別であり始まりなのだ
生への
すると一枚の紙片がやってきて除名するという
何からおれの名を除くというのか
革命から? 生から?
おれはすでに名前で連帯しているのではない

(1961年・代々木病院で)




昭和の抵抗権行使運動(18)

党内闘争の沸点(2):六・一事件


 日共中央は、55年7月の六全協以来、学生運動にたいし指導をまったく放棄していた。それが、全学連第11回大会の帰趨に驚いて、学生党員グループの指導強化を謀ろうとした。全学連第11回大会終了翌日の6月1日、日共中央は党本部に全学連大会代議員グル―プ会議を招集した。ところが、会議は冒頭から議長問題をめぐって激しく対立した。

 席上、百数十名の学生党員グル―プの圧倒的多数は、議事の民主的運営のために、慣例と規約にもとづいて、学生側から議長を出すよう要求した。しかし、党中央は、あくまで事前の合意があるとして、党大衆運動部長が議長になることを押し通そうとした。この対立の過程で、学生党員グル―プは党本部役員が全学連大会で大会破壊策動を直接指揮し、「大衆団体の決定を党中央の権威でくつがえすようにグループの同志に脅迫を加えた事実」(日共立命館大学一部細胞)にたいして、その責任を追及し、自己批判を求めて激しく抗議した。この抗議行動はやがて物理的衝突へと発展した。あわてた党中央は、会議の閉会を一方的に宣したが、学生グループはこれを認めず、会議を続行して次のような党中央弾劾決議を強行した。

「六全協後党中央は、学生運動にたいし、指導をまったく放棄してきた。のみならず学生運動の発展を妨害する役割すらはたしてきた。こうして学生運動にたいする誤った指導は、たんに学生運動のみならず、労働運動、平和運動にたいする誤った指導となってあらわれている。日本革命運動と日本共産党の真の党建設をすすめるうえで現在の党中央委員会は、あまりにも無能力である。全学連大会代議員グループ会議は第七回大会が現在の党中央委員会を不信任するよう要求する」(全学連書記局細胞意見書「日本共産党の危機と学生運動」59年1月)

 これにたいして、党中央は事件の翌日、常任幹部会、書記局、統制委員会の合同会議をもって、次のような幹部会決定を発表した。

「事態は明らかに一部少数の反党的挑発分子の計画的煽動によってひきおこされたものであり、このような行為は明白に党規律に違反し、党の組織原則を無視した絶対に容認できないものである。
 一、当日閉会宣言後の会議は認めない。
 一、閉会宣言後におこなわれた『決定』と称するものは一切無効である。
 一、統制委員会を中心に特別査問委員会を設けて事態の処理をはかる……」(日本共産党中央委員会常任幹部会「全 学連大会代議員グループ会議の不祥事について」『アカバタ』58年6月5日)

 この幹部会「通告」を党本部で受け取った全学連書記局細胞は、6月11日、日共中央委員会に次のような自己批判書を提出した。

「 (1) 常任幹部会発表には、多くの事実誤認その他が含まれており、その経過や原因について、今後十分審議すべきものがあると考えますが、しかし、その理由がどうであろうともこの事件は党内民主主義にもとづく正常な党運営を妨げたものであり、極めて遺憾なものであると考えます。さらにわれわれは全学連グループ内に於ける指 導的立場にあるものとしてこの事件を阻止しえなかったことを深く反省するとともに、再びかかる事態の生ぜざるようあらゆる努力をはらい党の組織原則に基づいて事態の正しい解決のために努力する事を誓います。
 (2) その上に立ってわれわれ全学連書記局細胞はかかる事態の根本原因である学生運動に対する従来の党指導の不充分さ、党中央委員会の指導に対する党員の不信、及び具体的には、全学連第11回全国大会における一部同志の妨害活動等について徹底的究明を行いその抜本的解決の為に党中央委員会が正しい指導性を発揮されんことを心から要請するものであります‥‥」(「上申書 - 六・一事件に関するわれわれの反省と要望」)

 以上のような六・一事件の経緯について、蔵田さんは次のように論評している。

 この上申書が示すように、当時の学生党員グループは、まだ「学連新党=別党コース」を最終的に決断していなかった。むしろ7月下旬に予定されていた日共第7回大会に向けて、党内反対派=反党章派への影響力を強め、それをテコにして党内左翼反対派を組織的に結集することを考えていた。この見通しの正しさはたとえば、六・一事件発生直後に日共都委員会が「全学連問題は予断をもって断罪すべきではない」と強調したことによっても立証されていた。その意味で、六・一事件の発生それ自体は、一方で必然性をもちつつも、他方では、「上申書」がいうように、書記局細胞の指導がいたらなかった点で、偶発的性格をもっていた。



 これらの点について、後日、学生党員グループは次のように総括している。

「『暴力事件』として、党内外大衆に宣伝された『六・一事件』は、まさに以上の六全協以来の党内闘争の一頂点として爆発したのである。この事件は、もし党内反対派(反党章派)をして、全学連グループがその理論的政治的対立を把握せしめることに成功したならば、日本共産党の党内闘争の新しい段階への成功的移行を準備したものであろう。しかし、党内反対派はその理論におけるフルシチョフ路線の限界と、党についてその『一枚岩の団結』のドグマのとりこのゆえに、革命的学生のかかる行動に恐怖心を抱き、学生共産主義者の『暴挙』を嘆くのみであった。……(事件当時)左翼反対派は形成されていなかった。かくして、全学連グループの革命的分子は、代々木官僚に対しておくれをとった。代々木官僚の日和見主義的裏切り方針と対置された革命的理論と綱領が、党内外大衆に示されないままに、かくて、全学連グル―プは党内外から孤立させられ、官僚の攻撃に対する戦いは、党内において一時的に敗北せざるをえなかった」(島成郎「最近の学生運動について」)

 その後、党中央は日共第7回大会で反党章派との「論争に敗けて、人事で勝利」し、その余勢をかって、全学連にたいする政治的、イデオロギー的、組織的破壊工作を公然と開始した。7月17日の全学連グループにたいする除名処分を皮切りに、12月までに72名の処分を行った。

 学生党員グループは、この報復攻撃にたいして8月、全学連=社学同合同フラクを結成、9月には分派機関誌『プロレタリア通信』を創刊して反撃を開始した。このようにして、学生党員グループによる「学連新党=別党コース」が本格的に始動し、新党の結成はもはや時間の問題であった。

昭和の抵抗権行使運動(17)

党内闘争の沸点(1):全学連第11回大会


 1958年における学生運動は、日共党内闘争による波乱を含みながらも、着実な発展と前進をとげてた。

 国際情勢の変化に呼応した闘争としては原水禁=核武装阻止闘争、反基地闘争が闘われ、国内政治情勢に対抗した闘争として民主教育=日教組破壊を狙った勤評粉砕闘争、安保改定策動を開始した岸傀儡内閣との対決を掲げて、戦闘的学生運動を敢行していった。

 これらの闘争を通して全学連は徐々に「反帝実力闘争路線」へと質的転換をとげていった。同時に、この質的転換の過程は、学生戦線内部における党内闘争の激化の過程でもあった。そしてこの対立は、全学連第11回大会とそれに引き続く「六・一事件」においてついに沸点に達し、日共中央と学生党員グループとの党内闘争は全面化していくことになった。

 全学連第11回大会は5月28日から四日間、1000名の代議員・評議員・傍聴者を結集して開催された。大会は冒頭から、代議員資格問題をめぐって激しい応酬がくりかえされた。この対立は、表面的にはすでに前年2月国際統一行動デーにおけるジグザグデモの是非をめぐる論争の延長上で展開されていたが、このような現象的対立の背後には、重大な綱領路線上の対立が内包されていた。たとえば、国際情勢を緊張激化の方向ととらえるか、緩和の方向ととらえるか。激化の方向ととらえる部分は闘争の尖鋭化を主張し、緩和の方向ととらえる部分は運動の幅広さを主張するといった具合にである。

「四日間に亘る大会の会期中に起ったすべての現象は - 批判と反批判、嘲笑と誹謗 - 今日の日本における思想闘争と革命運動の中に起っている対立と論争の縮図であ、反映でもあった」
 (唐木恭二「現代学生運動の理論的諸問題-全学連第11回大会を顧みて」『立命評論』第17号58年8月)

 大会は激論のすえ六項目にわたる総括を、賛成271、反対19、保留1の圧倒的多数で可決した。この表決結果が示しているように、論争の華やかさとは逆に、反対派は圧倒的少数であった。なお、可決された議案書の概要は次の通りである。


 学生運動を内部から破壊しようとしている最も危険な傾向は右翼日和見主義であり、これこそは学生運動の不倶戴天の敵であること。

 平和こそ学生の基本的要求であり、平和擁護闘争こそ学生運動の第一義的課題である。

 原子戦争準備策動に加担するチャンピオン岸反動内閣と対決し、その反動攻勢と徹底的に闘うこと。

 青年学生戦線の統一。

 国民戦線の一翼として位置づけ、国民諸階層、とりわけ労働者階級との連携(同盟軍規定)が最も重要である。
 (『全学連通信』No34 58年6月)

 このようにこの大会の特徴は、岸反動内閣との対決と労働者階級との連携=同盟軍規定を打ち出したことにある。さらに全学連は、引き続いて3ヵ月後の9月には第12回大会を開催して、この運動路線の質的転換を一段と明確にし、鮮明にしていった。後に共産同を創設しその初代書記長に選出された島成郎は、この二つの大会において確立された学生運動の転換と、その成果を次の四点に集約した。


 「現在の国際的階級闘争の現状を二つの体制間の対立からすべてを導き出し、そのことから、革命的プロレタリアートの任務を、ソヴエト連邦の外交政策に従属させることによって、世界の労働者階級の闘いを瞞着しているスタ―リ二ズムの一分派フルシチョフ路線を事実において破棄し、現時点での資本主義の矛盾を暴露しつつ、敵階級の国際的動向を明瞭にした」こと。

 「進行しつつある植民地革命の階級的性格と意義、フランス(アルジェリア問題)においてあらわなファシズムの危険、アメリカ帝国主義の世界政策と核武装、軍事同盟の意義、さらには激化しつつある世界市場争奪戦と対社会主義国家への侵略戦争準備過程における各国帝国主義の位置を明らかにした」こと。

 「実践的には平和擁護の闘いを、階級闘争から分離し、階級闘争に優越させることによってドグマ化した『第一義性』を主張し、国内におけるブルジョアジーとの協調さえも強調することによって労働者階級の闘いを妨げる『幅広論』を打破した」こと。

 「国内情勢においては、階級的視点を放棄し『半占領』とか『民族解放』とかいう非マルクス主義的分析方法において、現実の階級闘争から全く分離しているドグマをふきとばし、日本ブルジョアの階級支配の状況を明らかにし、復活してきた日本帝国主義の危険を歴史的に解明し、労働者階級の解放の道とともに、現実の階級闘争の攻撃の性格及びこれに対して闘う労働者階級の階級的闘いの方向を示した」こと。
 (島成郎。最近の学生運動について」『プロレタリア通信』第4号 58年10月)

 このようにして、学生運動は、「層としての運動」から、「国民諸階層との連携」を経て、「労働者階級との同盟軍規定」へと質的転換を遂げていった。この質的転換こそは、学生運動が過去の「帝国主義の戦争政策に明確に対決するばかりではなく、…‥帝国主義の存在そのものをゆるがし、打倒する闘争」(唐木恭二)へ向けて歩を開始したことを示していた。

 なお、11回大会では、全国教育系学生自治会協議会と全国夜間自治会連合が、発展的に解消して、全学連と統一したことが報告された。

昭和の抵抗権行使運動(16)

社会主義学生同盟の誕生


1958年
5・26 反戦学同、社会主義学生同盟と改称
6・1 日共中央と学生党員が党本部で衝突
7・8 革共同第一次分裂。トロツキスト同志会結成
9・4 全学連第12回大会。革共同の下で転換路線
9・15 勤評粉砕第一波全国総決起大会
10・28 警職法阻止全国学生総決起集会
11・5 警職法阻止全国ゼネスト
12・10 共産主義者同盟(ブント)結成
12・13 全学連第13回大会。革共同の指導権確立

 年表で分かるように、1958年は新左翼(革命的左翼)創成にいたる激動の年であった。その年頭を飾って、東大細胞機関誌『マルクス・レーニン主義』に、山口一理(佐伯秀光)による歴史的論文「十月革命と我々の道-国際共産主義運動の歴史的教訓」が発表された。この論文が果たした決定的役割を、蔵田さんは次のように述べている。

 当時、革共同はこの山口論文を「トロツキ―のノリカミ細工」「ブント裏切り史観の原典」と酷評した。しかし、この論文が果たした役割は決定的であった。この論文は日共党内論争のワクをはみだす重要な内容をふくんでいたのである。その表裏にある「プロレタリア世界革命万才!」という禁句のスロ―ガンに示されているように、論文はそれ自体が、階級闘争を直接媒介にして展開された日共党内闘争の歴史的産物であるとともに、党内闘争にひとつの方向性と結集軸を与えるための、来たるべき党派闘争に賭ける宣言であり、これは東大細胞の内外に巨大な反響をまきおこした。

 論文は、第一に、忘れ去られた世界革命を復権させるために、ロシア革命以後の国際共産主義運動史を全面的に洗い直し、党内の右翼的諸潮流を批判し、第二に、反革命の代名詞とされたトロツキ―にすら学んで、スターリン教科書の「10月革命の伝説」を打ち砕き、レーニンの革命的指導の精髄を学び、「ボリシェヴィキ党の正しい戦闘的伝統を再建」することを呼びかけ、第三に・ロシア・ボリシェヴィキ戦術に関する党内闘争の歴史的教訓を学ぶことによって、来たるべき党内闘争に備えようとした。

 また、論文は党中枢部で大まじめに演じられていた綱領論争にたいして「民主主義革命か社会主義革命か、いやむしろ構造改良か、という論議が大衆闘争よりもはるかにはなばなしく行なわれている」として、その転倒した綱領論争の不毛性を厳しく批判して、革命運動における日共党内闘争にたいする基準と立場性を示した。



 三カ月後、東大学生細胞はこの山口論文に則った決議を掲げた。これは、目前に迫った6月の日共第7回大会に向けて非妥協的な党内闘争を闘う決意を表明したのであった。

「われわれは国際帝国主義者との闘争のために、極東の枢要国日本独占資本打倒のために、全世界・全日本のプロレタリアートの決然たる大行動を準備するために、全細胞が打って一丸となって闘うためにこの総会を召集した……。われわれは現在の党中央委員会の活動、特にその右翼的偏向に対しては重大な批判を持っており、徹底的な党内闘争によって現在の中央の低迷状態を克服せねばならないということを確信している。……細胞委員会は、本総会が、学生運動が従来保持してきた革命的伝統を守り、学生戦線における党組織内部での右翼的偏向を一掃するために、断乎闘う決意を三度び強く表明することを期待するものである」(「日共東大細胞四月総会決議」『政経時報』第31号58年4月)

 この東大細胞の呼びかけに応えるように、反戦学同は、5月第2回全国大会を開催し、その名称を「社会主義学生同盟」(社学同)と改称した。もちろん、これは単なる組織名の言い換えではない。現実の階級闘争の発展過程が学生運動にたいして新しい歴史的任務を課したことを、学生同盟員が鋭敏に感得したことの反映としての改称であった。その歴史的任務について、全国大会執行委員会は次のように述べている。

「最近の客観情勢の急速な変化―社会主義の強化、資本主義社会の腐朽化、反動化の進行と労働者階級・植民地人民の闘争の新たな昂場、……さらに日本学生戦線と労働者階級の闘争の緊密な結合の発展は、反戦学生同盟に結集する活動的学生をして、これまで以上により目的意識的に学生運動を前進させ、さらにそれをより意識的に労働者階級の解放闘争に結びつけていく必要性を認識させている。我々はこれまで同じく、学生戦線の活動家組織として帝国主義の戦争と抑圧と貧困の政策に反対し、平和と民主主義、民主教育とよりよき学生生活をめざす学生の大衆的政治行動の先頭にたってたたかうとともに、それをより意識的に帝国主義ブルジョアジーの打倒、社会主義実現をめざす労働者階級の解放闘争に結合させ、多くの学生を社会主義の意識でとらえていかなければならないと確信するに到った」(社学同全国執行委員会。「反戦学生同盟の歴史的総括と社会主義学生同盟への新たな発展」58年5月)

 社学同の同盟員数は、「反戦学同」時代には数支部-数十名にすぎなかった。ところが改称時には、わずか1年半のあいだに、130支部-2000名ちかくに拡大していた。この驚異的な伸長ぶりは、学生運動全体の再建とその急速な飛躍に照応したものにほかならない。

昭和の抵抗権行使運動(15)

党章草案をめぐる対立


 前々回にみたように、1957年の闘争を通して、全学連の理論強化がなされたが、当時の学生細胞と日共中央の関係はどのようなものだったのだろうか。その当時の状況を『アカハタ』は次のように総括している。

「(学生運動が)砂川闘争などを通じて成果をあげるに従って全学連中央、とりわけ党グル―プの権威が増大し(学連書記局細胞が)事実上学校細胞を全国にわたって指導するような状態が生まれた。しかも党中央でも各級機関でもこれに対する充分な注意がはらわれず、学生党員の活動は掌握されず適切な指導批判が行なわれなかった。党の指導は辛ろうじて中央専門部-中央グループ、各学校自治会グループという線で行なわれたにすぎない」(日共青学対部「学生運動における極左的傾向と学生党員の思想問題」『アカハタ』58年10月21日)

 これを蔵田さんは次のように解説している。

 このように、当時の学生党員グループは、党中央の指導を徐々に離脱し、もっぱら、全学連-反戦学同を中心にして、東大細胞機関誌『マルクス・レ―ニン主義』(活版1000部以上発行)の方針を受け入れ、独力で転換をとげつつあった。否、正確には運動の飛躍をかちとるためにこそ、日共中央の妨害と右翼日和見主義と闘い、その結果において党指導から離党し、自ら学連党的色彩を強めていったのである。



 さて、年表(前々回)にも記載されているように、57年9月に日共一四中総が開催され、「党章草案」が採択された。それは直ちに下部討議に付された。党章草案は二段階平和革命論で、その骨子は次のようなものであった。

「日本は高度に発達した資本主義でありながら、米帝国主義に半ば占領された半従属国であり、当面の革命は民族の完全独立、民主主義擁護のための人民民主主義であり、これを社会主義革命に急速に発展させる」(。一四中総決議」『前衛』57年10月)

 この党章草案をめぐって、日共は新しい党内闘争に入った。最大の反対派は、都委員会や関西を中心にした構造改革派(構改派)であった。構改派は、党章草案の対米従属-民族独立民主革命(民民路線)に対して、反独占=社会主義革命を対置した。 この構改派は一四中総の10カ月後に開催された日共第7回大会では、代議員の四割を獲得する勢力を誇った。

 この党章草案(党中央)と構改派路線とは、議会主義平和革命論という点において、大きな違いがあったわけではなかった。この党中央と構改派の見かけ上の対立と、党から自立し始めていた全学連の路線との関係を、蔵田さんは次のように解説している。

 だが、この構改派路線は、日帝自立論に立ちながらも、革命論としては平和共存を基調とするフルシチョフ路線の延長にあり、プロ独否定の議会主議平和革命論だった。その限りで、党章=民民派とこの反党章=構改派の間には絶対的矛盾は存在しなかった。同時に、この両者の共通点のなかにこそ、彼らが、プロ独=世界革命を掲げて登場しつつあった革命的左翼にたいして、共同の敵対党派として立ち向う論理的必然性があった。



 この党章草案をめぐる論議がやがて、本格的な党内闘争が開始へとつながっていった。

昭和の抵抗権行使運動(13)

「日本トロツキスト連盟」結成


 1956年2月、ソ連共産党第20回大会におて後継者フルシチョフによるスタ―リン批判が行われ、同4月にはコミンフォルムが解散された。これに呼応するかのように、6月ポ―ランド、10月ハンガリー暴動が勃発した。この二つの事件はスタ―リンの死直後に発生した東ベルリン反政府デモに次いで、東欧人民が下した歴史の審判であり、教条主義、権威主義、大国主義、一国社会主義、総じてコミンテルン総路線の破産を示したものであった。

 しかし、フルシチョフのスターリン批判は、単にスタ―リン神話の崩壊であって、前衛党神話の崩壊ではなかった。このスターリン批判は日本の公認前衛党にも大きな衝撃を与えたが、それに対する認識はソ連共産党と同じであった。日共は、フルシチョフのスターリン批判はあくまでもソ連国内の、しかもスターリン個人の指導のあり方に関することであるとし、「個人中心的な指導の問題も、六全協で提起され、それ以来すでに一年間、われわれはこの問題の解決に取りくんできた」(米原昶)と弁明した。

 日共は、一方でこのような弁明をするとともに、他方では、コミンテルン総路線の総括を平和共存路線に代置した。日共は「20回大会を学習しよう」の大号令のもとに、フルシチョフの「資本主義から社会主義への平和的移行の可能性」をそのまま直輸入し、56年6月の七中総決議によって平和共存路線を採用した。民主主義の確立と諸条約の改廃を通じて、独立、平和、民主主義のための政府の平和的樹立をめざし、これをもって、社会主義への平和的移行の出発点にする、というものである。

 日共中央のこのようなスターリン批判への対応にたいして、下部党員の反応はどうだったか。のちに共産同を結成した全学連党員グループも、党中央と同じく、個人崇拝否定→スターリン神話崩壊と受け止めたにすぎなかった。彼らは、ソ連人工衛星スプートニク二号打ち上げ成功のニュースに感激し、ポ―ランドハンガリー事件に際しても、ソ連軍の侵攻を支持した。

「昨年十月ハンガリーにおける事件は、種々の矛盾と社会主義建設のうえでの政治的経済的諸事情の反映であるが、帝国主義勢力の危険な干渉とたたかい、矛盾の解決のための努力が開始され、社会主義国家の新しい関係がうちたてられ、一時的困難にかかわらず、世界平和を確保するうえで積極的役割を演じてきた」(「全学連第10回大会一般報告」57年6月)

 しかし、前衛党神話内の実践的営為とは一線を引く独自の思想的営為の領域から、スターリン批判とハンガリー事件のもつ意味を捉え返し、これを階級闘争のなかに提起しようとしたグル―プがいた。57年1月に、太田竜、内田英世・富雄兄弟、黒田寛一、山西英一、対馬忠行などによって創設された「日本トロツキスト連盟」(第四インター日本支部準備会)がそれである。

 発足当時のトロツキスト連盟は、政治運動実践集団と言うよりは思想サ―クル集団的性格のものであった。とくに、太田がスタ―リンの宿敵トロツキーが創設した第四インターの支持者であり、スターリン批判をトロツキ―主義の立場から展開していた事実や、自己を「反逆者グル―プ」と規定したことに示されているように、結果としては、日本の革命的左翼の創成に先駆的役割をはたしつつも、政治的実践のうえではひとつの限界性をもっていた。

 なお、前回の年表にあるように、このトロ連は太田と内田が対立して、内田が組織を離脱したあと、57年12月に「日本革命的共産主義者同盟」(革共同)と改称した。その過程で日共京大職組細胞の西京司、岡谷グループがトロ連に参加、立命館大細胞を中心に関西に影響力を強め、後に第四インタ―の主流派を形成していった。また、黒田は57年10月に「弁証法研究会」(機関誌『探究』)を結成して、フラク活動(分派活動)を開始していった。

「わが弁証法研究会は、マルクス主義のいう基本的立場をふまえている若い人々から構成されている一つの研究会にすぎず、あるなんらかの政治目的をかかげた集団ではありません。……つまり、一口でいいあらわせば、スターリン主義に反対し、革命的マルクス主義の立場を共通の立脚点としているわけです。……だが私は断言してはばかりません。―反スターリニストの急先鋒であるトロツキズムの洗礼をうけないかぎり、腐敗しきったスタ―リニズムの泥沼から脱却するための突破口も、端緒も、決して発見されないのだ、と」(黒田寛一「今日の平和運動の意義と限界-反戦学生同盟の諸君へ」『探究』2号 57年2月)

昭和の抵抗権行使運動(13)

CIAの犬・岸信介の登場


 これまでの記述内容は、いわば、新左翼(革命的左翼)創出の前史に当たる。今回から、新左翼創出の時代となる。第二回で掲載した年表はそういう意味で1957年から始まっている。

 1957年は、「CIAの犬(エージェント)」・岸信介が政治権力の掌握に成功した年であった。1956年~1957年の政治状況を年表で確認しておこう。

1956(昭和31)年
 4・5 自民党初代総裁に鳩山一郎選出
 10・19 日ソ共同宣言
 12・14 自民党総裁選で石橋湛山を選出
 12・18 日本、国連加盟
 12・23 石橋湛山内閣成立

1957(昭和32)年
 1・17 社会党大会、労農党吸収決定
 1・31 石橋首相病気のため岸外相を臨時代理に指名
 2・23 石橋内閣総辞職
 2・25 岸信介内閣成立
 3・21 自民党大会、岸信介を総裁に選出
 7・10 岸内閣改造

 これに対する人民の抵抗運動は、年表を再録すると、次のようであった。

1957年
1・27 日本トロツキスト連盟結成
4・27 沖縄・砂川全国学生総決起集会
5・17 原子戦争準備反対全日本学生総決起行動デー
6・27 学生・労働者砂川基地突入
7・8 学生・労働者4000人砂川基地突入
9・17 原子戦争準備反対全日本学生総決起デー
9・29 日共、党章草案発表
11・1 原水爆実験禁止国際統一行動デー
12・1 トロ連、日本革命的共産主義者同盟と改称
12・4 勤評反対全国学生総決起大会


 この表は主として学生・労働者の対権力闘争を追うものになっているが、その裏面には日共の内部闘争・前衛党神話の崩壊の流れがある。まず前者をより詳しく見ておこう。

 1月、沖縄永久核基地化反対・施政権返還を掲げたアメリカ大使館デモに1500名が参加。
 2月、沖縄施政権返還要求国民大会に2000名参加。
 3月、クリスマス島核実験反対でイギリス大使館デモ
 5月、原子戦争準備反対全国学生総決起行動デ―

 5月の総決起大会では、全国170校380自治会35万名が参加した。東京では11万5000名の学生が日比谷野外音楽堂の内外を埋めつくし、空前の集会となった。集会には来賓に社共、原水協、日教組、東京地評代表が挨拶し、国際学連、総評、全逓、全専売、日高教、共同印刷労組、大学教授などがメッセ―ジを寄せ、国民諸階層から強い支持をうけた。

 現在、日比谷野外音楽堂で行われる集会では、私の知る限りでは、多くても6000名ぐらいだ。11万5000名とは、想像を絶する数だ。

 6月、全学連第10回大会を開催

 これまでの一連の平和擁護闘争の成果をうちかためるべく開催されたこの大会の基調は次の5点であった。


 国際情勢の特徴は、平和勢力と国際緊張激化をめざす勢力との対立にあり、前者が後者にたいして優位に立ちつつある。

 原子戦争準備にたいして直接的打撃を与える方向をめざし、平和擁護闘争を第一義的任務とする。原水禁署名とヵンパ。

 岸政府の反動的本質の暴露。

 強力な闘争形態をとればとるほど、戦争勢力との矛盾は鋭くなり、われわれの周りに結集する平和勢力は大きくなる。無原則的な幅広論は誤りである。

 全学連のかくも巨大な力の源泉は、情勢の科学的分析、正しい進路の明示、高い水準の意志統一、若さと情熱と敏速、その鋭い行動力にある。
(「全学連第10回大会一般報告」)

 大会に参加した主な活動家たちは、大会終了直後、理論合宿を行い、次のような総括提起がなされている。

「プロレタリア世界革命の第一段階(ロシア革命)は、帝国主義の最も弱い一環を強行突破したこと。第二段階(コミンテルン時代)は、世界革命の拠点たるソヴエト擁護の課題を含めた上で、国際国内的反ファッショ統一戦線を結成し、孤立化をはかったこと。第三段階(現代)は、対ソ、対社会主義、対植民地反革命帝国主義原子戦争の主勢力たるアメリカ帝国主義の国際的孤立化と、帝国主義諸国間の矛盾の激発を通じて、帝国主義諸国の全般的弱体化をはかり、各国の革命を容易にすること」(「平和共存から恒久平和確立へ ― 第二次大戦後の国際情勢の特徴と平和擁護闘争の世界史的意義」反戦学同機関誌『平和のために』57年8月)