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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(3)

60年安保闘争時の政治裏面


 ポチ・小泉ほどあからさまにアメリカに媚びを売った首相も珍しい。ブッシュ家族の前でプレスリーを演じた破廉恥ぶりが象徴的である。政治政策では、小泉改革とは、何のことはない、アメリカのからの「年次改革要望書」への忠実な返答であった。

 自民党政権はアメリカの逆鱗に触れると維持できない。安倍狆三の無様な退陣は、彼の早急な極右的政治姿勢がアメリカの意に沿わず、アメリカから見捨てられたことが大きな理由の一つだったのではないかと、私は思っている。

 日本は一体いつからアメリカの属国になってしまったのだろうか。敗戦後、アメリカに占領されていたとはいえ、真の独立国家となる道はあった。その道を塞いでしまったのが、60年安保当時の首相、狆三の祖父・岸信介だった。それ以前から何かと取りざたされていた事ではだったが、昨年のCIA機密文書公開で、岸が「CIAの犬(エージェント)」であった事が明らかになった。

 「岸信介 CIA」でネット検索すると、六千数百件のヒットがある。その中から、60年安保闘争の事にも触れているので、 天木直人さんの記事 「CIAの極秘文書が教えてくれた戦後の暗黒史」 を転載しておこう。

 今日のブログは書くほうも、読むほうも気が重くなるような内容であると思う。しかしどうしても書いておかなければならない。私がこのブログを書き続けるためにも、早い段階で問題提起をしておかなければならない。そう思って書いた。

 2月26日の読売朝刊は、米国中央情報局(CIA)が児玉誉士夫(右翼)や辻政信(元陸軍参謀)について「情報要員としての価値はなきに等しい」、「(日本の再軍備のために米国を利用し)第三次大戦さえ起こしかねない男」などと酷評していたことをスクープした。

 この報道は重要性な意味を持つ。それは、児玉や辻の正体が実は「うそつき」、「大泥棒」、「役立たず」であったという情けない事実を教えてくれたからではない。これら人物が米国により戦犯容疑者から無罪放免してもらい、その代わりに米国の手先になって米国の日本占領に加担したという、いわゆる戦後の暗黒史が実は歴史的事実だったということを、ここであらためて我々に確認させてくれたことにある。昭和の歴史を体験している人々が死んでいき、戦後生まれの世代が日本人の大勢となる時代が来ようとしている今日こそ、暗黒史を正史として残す作業は誰かの手で続けられなければならないのだ。

 なぜ自民党は永久政権政党であり続けるのか。そしてその自民党政権がなぜこれほどまでに対米従属政策を続けるのか。本来は愛国的であるべき右翼が、こと米国になると対米従属政策をまったく批判しないのはなぜか。なぜ日本には社会党や共産党といった左翼、護憲勢力が幅広い国民の支持を得られないのか。それらの問いに答えてくれるのが、暗黒史と言われるもうひとつの歴史である。

 暗黒史は、歴史教科書は勿論のこと、大手の全国紙などにもほとんど出てこない。だから一般の善良な国民は「そんなことはありえない」と思い、それを大声で語る者は、一歩間違えば「荒唐無稽な陰謀論者」と一笑に付されかねない。しかし、実は今日の外交や内政に見られる数々の権力犯罪を追及していけば、最後は必ずここに行き当たるのだ。私がブログで権力者の不正を書き続ける時にぶち当たる虚しさは、実はブログの読者の数が少ないということではない。この巨大な壁のあまりの大きさを痛感するからである。

 今日の日本は米国の占領を境に民主主義に生まれ変わったと思っている日本人は多いと思う。しかし決してそうではないのだ。今日の日本は戦前、戦後を通じた暗黒史の延長線上から成り立っているのである。たとえば読者は次の事実(と多くの者が思っているが決して公式には確認されていない事実)を知っているか。

 A級戦犯で処刑された7名の影で、多くの戦犯容疑者が米国の手で釈放され、米国の日本占領政策に加担してきた。正力松太郎や岸信介、賀屋興宣、笹川良一、児玉誉士夫、などはその典型である。

 米国の日本占領支配はある時点から徹底した反共政策に転じ、そのために日本の保守政権やそれを支える特定の保守、反動人物に資金提供をしてきた。その目的達成のためには、スパイを送り込み、右翼、暴力団を利用して、日本社会をコントロールしてきた。安保闘争のデモ鎮圧に自民党は全国の暴力団や右翼団体を動員する「アイゼンハワー歓迎実行委員会」立ち上げ、児玉誉士夫に暴力団のとりまとめを依頼していたのだ。

 盗聴、おとり捜査などの公安警察の非合法な「反共秘密工作」は確かに実在しており、亀井静香議員も警察官僚時代にその秘密活動を指揮した一人であった。その一方で日本共産党も、ソ連からの資金援助を受け、あるいはシベリア抑留で共産主義者として洗脳された者たちにより、日本における共産主義革命を画策していた。現日本共産党委員長志位和夫の叔父である志位正二元関東軍少佐は、米国へ寝返って亡命したソ連のスパイであるラストボロフの協力者であったという。善良な一般国民の中で日本共産党の支持者が増えないのは、日本共産党もまた暗黒史のもう一方の脇役であった事を知っているからだ。

 ロッキード事件は全日空の次期旅客機選定に絡んだ田中元首相の汚職犯罪のみが喧伝される一方で、防衛庁の次期対潜哨戒機導入に絡む疑惑はほとんど捜査されず、真相がまったく解明されないままに幕が引かれた。その背後には日米安保体制を守り、その利権を温存しようとする日米両国の政治指導者たちの巨大な意思が介在していたという指摘が説得力を持つ。

 小泉劇場やヤラセ事件で電通が政府の情報操作に加担していることが明らかにされている。しかし電通の前身は関東軍と結託して情報宣伝工作をやっていた国策会社「満州国通信社」である。その電通が戦後は米国の意に沿って日本のメディアを(支配? 管理人補充)しようとしているとしても不思議ではない。

 このような暗黒史、陰謀説については、どこまでが事実であるかを検証することは難しい。たとえそれが事実であったとしても権力者は決してそれを認めようとはしない。それどころか真実を突き止めようとすれば生命の危険を覚悟しなければならない。だから社会的に地位のある「まともな国民」はそれ以上追及しないのだ。係わり合いを持ちたくないと考えるのだ。

 それが現実なのである。しかし、それにもかかわらず私はこの暗黒史を正史にする努力は誰かの手によって、あきらめることなく続けられなければならないと思っている。なぜならば暗黒史の影で繰り広げられた権力者の犯罪は、今日我々の目の前で繰り広げられている権力犯罪とその根底で共通していると思うからである。それよりも何よりも、暗黒史の当事者であった人物の子供や孫や縁戚者が、今日に至っても日本の権力を掌握し、政治を動かしているという現実があるからである。

 いくら市民の覚醒に期待しても、そして覚醒した市民の手で政治の腐敗や為政者の誤りを正そうとしても、最後にぶち当たるのが、この戦後の暗黒史という強大な壁である。暗黒史を闇のままに葬ってはならない。一つでも多くの暗黒史を正史にしなければならない。そうすれば我々の政治に対する認識も変わるに違いない。日本の政治がここまで国民の利益に背馳するものではなくなるかもしれない。ここまで米国に搾取され続ける日本を救い出す事が出来るかも知れないのだ。

 読売新聞のCIA極秘文書の記事は、あらためて私を奮い立たせてくれた。今しばらく真正面から歴史を監視していきたいと思う。

 なお読者には、最近刊行された「謀略の昭和裏面史」の一読をお勧めしたい。このブログを書く決意をしたもう一つの理由はこの著書に大いに啓発され、勇気づけられたからである。



 黒井文太郎著「謀略の昭和裏面史」は廉価な文庫版がある。宝島社文庫です。

 少し長くなるが、もう一つ転載しておきたい記事がある。ニューヨーク・タイムズ紙のティム・ワイナー記者(ピュリッツアー賞受賞記者)の著書『灰の遺産 CIAの歴史』が、これも昨年(6月)翻訳出版された。私はまだ読んでいないが、「机の上の空 大沼安史の個人新聞」というサイトにその本の中の岸信介について書かれた部分の要約が記載されている。それを転載しておく。(全文を読みたい方は 「岸信介はCIAの助けで日本の首相になり、支配政党の首領になった」 でどうぞ。)

 ワイナー記者は、岸首相とともに、児玉誉士夫についても書いているのだが、ここは岸信介氏に限って、主なポイントを列挙しておこう(敬称略)。


 日米開戦後の1942年、岸は軟禁中の米国大使、ジョセフ・グルーをゴルフに招いた(聖戦中に岸はなんと、敵性スポーツのゴルフをしていた。それも鬼畜の大使と!)。二人はそれ以来、友人になった。岸が戦後、巣鴨から釈放されたとき、グルーはCIAのフロント組織、「自由ヨーロッバ国民委員会」の初代委員長だった。〔大沼・注〕つまり、影響力を行使できる立場にあった」


 岸は巣鴨から釈放されると、まっすぐ首相官邸に向かった。官房長官の弟、佐藤栄作がスーツを用意して待っていた。「なんかヘンだね」と岸は佐藤に言った、「いまやわれわれは民主主義者だ」


 岸は「ニューズウイーク」誌の東京支局長、ハリー・カーンから英語の手ほどきを受け、米国の政治家を紹介してもらった。カーンはアレン・ダレスの親友で、CIAの対日パイプになった人物だ。


 1954年5月、岸は東京の歌舞伎座で政治家として復活を果した。岸は歌舞伎座に、米国大使館でCIAの情報・宣伝担当をしていたビル・ハチンソンを招いた。幕間、岸はハチンソンを連れ、日本の特権層の友人たちに彼を紹介して回った。それは岸の政治的な劇場となった。アメリカの後ろ盾があることを公的にアナウンスしたものだった。


 その後、1年にわたって、岸はハチンソンの自宅の居間で、CIAや米国務省の担当者と秘密裏の会合を続けた。ハチンソンはこう証言している。「彼(岸)は明に、アメリカの少なくとも暗黙の支持を欲しがっていた」。この会合で、その40年間の日米関係の土台が築かれた。
 岸は支配政党の「自由党」を躓かせ、名前を変えて再建し、それを運営したいと言った。彼はまた、日本の外交をアメリカの欲望とフィットするかたちに変更することを誓った。その代わり、米国の秘密の支援がほしいと岸は頼んだ。


 ダレスが岸に会ったのは、1955年8月のことだった。ダレス国務長官は、一対一で岸に、支持を期待していると言った。日本の保守層が一体化し、共産主義と闘うアメリカを支持できるかどうか聞いた。


 岸は米国大使館の高官であるサム・バーガーに言った。若くて地位の低い、日本で知られていない人間を、連絡役にするのがベストだと。お鉢は、CIAのクライド・マカヴォイに回った。マカヴォイは沖縄戦の経験者で、フリーで新聞記者の仕事をしていた。クライドが来日してすぐ、バーガーは彼を岸に紹介した。これにより、CIAの外国政治指導者との関係のなかでより強固なもののひとつが生まれることになった。


 CIAと自民党の最も重要なやりとりは、情報提供に対する金(マネー)の支払いだった。マネーは自民党の支持の取り付けと、その内部の情報提供者のリクルートすることに使われた。アメリカ人たちは、若い将来性のある自民党政治家に金を支払っていた。彼らはのちに、国会議員や大臣、長老政治家になっていった。


 CIAはイタリアでの失敗に懲り、アメリカの実業家を金の運び屋に使った。その中には、岸が建設しようとしていた自衛隊に売り込みを図る、ロッキード社の重役も含まれていた。

〔大沼・注〕後の「ロッキード事件」に登場する「ロッキード社」は、CIAに実は使われていたのだ! ロッキード事件が田中角栄追い落としを狙った、CIA陰謀であるとの見方に、またひとつ、傍証が出た。


 1957年11月、岸は「自由民主党」の名の下、保守勢力を糾合した。自民党の指導者として岸は、国会に議席を持つ人間をリクルートし、彼の配下に入れる工作を、CIAに許可した。


 政権トップに登り詰める中で岸は、安保条約の改定をアメリカ側に約束した。岸との連絡役のCIAのケース・オフィサー、クライド・マカヴォイは、戦後日本の外交についてレポートすることができた。


 1957年2月、岸が日本の首相になる日、国会で安保条約にかかわる死活的に重要な手続きが行われる予定だった。これについて、マカヴォイは、こう証言した。「岸とわたしはその日のクーデターを流産させた」と。マカヴォイはさらにこう語った。「アメリカと日本は、合意に向かって動いていた。これを日本共産党は特別な脅威を感づいた。投票が行われるこの日、共産党は国会で反乱を起こす計画を立てた。このことをわたしは、わたしの情報源の、左翼の社会党の本部員の通報で知った。岸は天皇に謁見する予定だったが、わたしは緊急会談を申し入れた。岸はモーニングにシルクハット、縞のズボン、コートの出で立ちで、秘密の会合場所に現れた。わたしは岸に話す権限を与えられていなかったが、岸に共産党が国会で反乱を企てていると教えた。国会の慣例では、午前10時半か11時に、食事などのため審議が中断することになっていた。岸は休憩を取るなと自民党の国会議員に命じた。自民党議員以外の議員が退席したすきに、自民党は彼らだけで法案を採決し、通してしまった」


 1957年6月、岸はアメリカを訪問、ヤンキースタジアムで始球式を行い、白人専用のゴルフ場でゴルフをした。岸は新しい日本大使に決まっていた、マッカーサー将軍の甥、ダグラス・マッカーサー2世に、もしアメリカが権力基盤強化の手助けをしてくれれば、日米安保条約は国会で成立するだろうし、高まる左翼の潮流も取り除くことができると語りかけた。岸は、一連の内密の支払いではなく、CIAによる財政的支援の恒久的な財源を求めた(Kishi wanted a permanent source of financial support from the CIA rather than a series of surreptitious payments.)。


 アイゼンハワー大統領は自民党の有力者へのCIAの金の支払いを承認した。CIAの役割を知らない政治家は、アメリカの大企業からの金だと思い込まされた。CIAの金はすくなくとも15年間、4代の大統領にわたって続いた。


 岸信介とともに、戦時内閣で大蔵大臣を務めた元戦犯の賀屋も釈放され、国会議員として復活した前後に、CIAによってリクルートされた。賀屋のCIAとの関係は、1968年にピークを迎えた。賀屋は、選挙戦を自民党に有利なものにするCIAの秘密作戦で中軸の役割を果した。



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