2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の抵抗権行使運動(12)

再建全学連の闘い


 1956年、国立大学授業料値上げ阻止闘争が爆発し、七中委の没政治主義的路線は半年後に、運動主体の一般学生によって否定された。2月2日、東大教養学部学生2300名を先頭に全都4000名の学生は国会陳情デモを敢行し、七中委以後の混迷と沈滞をうち破る第一歩を開始した。

 この闘いの高揚を背景にして1956年4月に開かれた全学連の八中委は学生運動史上重大な質的転換をなすものであった。それを受けて6月に開催された第9回大会は「第二創世紀の開始=全学連第二結成大会」とも言われる画期的な大会であった。

 大会は、過去5年間の学生運動の混迷と停滞を卒直に自己批判し、「平和擁護闘争」を第一義的任務として掲げ、
原水爆禁止
軍事基地反対
中ソ国交回復
再軍備反対
憲法擁護
を主課題とし、
「平和と民主主義、よりよき学生生活のために」
を統一スローガンにして、戦闘的学生運動の再建に向けて第一歩をふみだした。八中委―九回大会で確立された運動路線は次のような特記すべきものであった。

「もし、全学連・自治会が正しい情勢分析の下に正しい方針を大胆に提起していけば、必ず日本の学生は立ち上るであろうし、このことによって、自らの利益を守るであろうこと、そしてこの闘いの中でのみ全学連・自治会は強化されるであろう……」(「全学連第9回大会一般報告及び一般方針」56年6月)

 この戦闘的学生運動論は創成期の「層としての学生運動論」を継承・発展させたものある。そして、この運動論をふまえた「八中委-九大会路線」は次のように表明された。

「我々は、この(当面する学生運動の)課題を遂行する上で、国民各層との提携を強化しなければならない。何故ならば我々学生の基本的要求である平和と民主主義とよりよき生活の実現は、単に学生のみならず全国民の願いであり、我々のめざす運動は、同じ目的に向って進む国民各階層の運動との提携なしには、強力になり得ないからである。……若し学生運動が正しい方針をもち、(正しく)展開されるならば、それは国民各層の運動に大きな影響を及ぼすことができるであろうし、又なさねばならないということである。理性と情熱をもった学生の行動は平和と民主主義を守る国民の運動の中で、先進的役割を果し得るということである」(同上)

 この「国民各層との提携」、「学生の先進的役割」という「八中委―九大会路線」は、日本の戦闘的学生運動論の基本路線を敷設したものと位置づけられる。その後の学生運動に継承発展させられていく。

 この再建全学連がとり組んだ最初の闘争課題は砂川基地拡張阻止闘争だった。全学連は、全国から3000名を現地動員し、農民・労働者と提携してその最先頭に立って闘い、遂に基地拡張を実力闘争によって阻止した。この砂川闘争の勝利によって、学生運動は「奇跡的な前進」を果たした。長い混迷の時代から脱却し、理論的にも、実践的にも飛躍に向けて大きく踏み出すきっかけとなった。

 だが、学生運動がこの歴史的転換と飛躍を獲得しつつあるとき、またしても、その組織内部に運動路線をめぐる重大な対立が発生した。対立は現地指導部と書記局残留指導部のあいだで発生した。

 現地指導部は、のちにこの闘争の勝利の要因を次のように総括している。

「現地動員方式の採用と、暴力に屈せずあくまで測量予定地を守りぬいた闘いが、勝利を実現するうえで決定的役割を果した」(「全学連10回大会一般報告」)

 これにたいして残留指導部は、その勝利は「内外の民主勢力の圧力の成果」であるが、「広範な学生を結集しえなかったことの弱さ」を総括すべきだと主張した。

「砂川闘争は極左冒険主義で、オーソドックスな闘争ではなかった。全学連の砂川闘争は社会党の手のひらでおどった、孫悟空の闘争で、社会党に利用されたもので、勝利ははじめからわかっていた」(同上)。

 この両者の対立は、たんに砂川闘争の評価にとどまらず、「情勢の評価、平和擁護闘争についての基本的理解……国鉄運賃値上げ反対闘争の方針、全学連の民主的運営についての原則的理解、学生戦線の統一、国民戦線の統一についての見解」(同上)にまで及び、さらには「ジグザグデモかオンパレードか」「ストライキか授業放棄か」「突出した闘争か幅広イズムか」という闘争戦術の細部にまで及んだ。

 こうして、戦後学生運動の創成以来絶えずくりかえされてきた学生運動をめぐる日共党内の党派闘争は、やがて反対派中執罷免を経て全面化した。そして遂にそれは、非和解的な対立へと発展し、最終的決着をつけざるをえない時点に差しかかつてきたのだった。

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昭和の抵抗権行使運動(11)

所感派全学連の末路


 所感派従来の日常要求主義と四全協(2月)で打ち出された軍事方針という全く背反する二つの路線をない交ぜたような所感派全学連の運動形態を、蔵田さんは「熱病的幻想」と呼んでいる。この「熱病的幻想」が演じられた時代の時代状況を見てみよう。その状況をつかみ損なったがための「幻想」であることが分かる。

 まず国際的には、1954年4月のジュネ―ブ会議(インドシナ休戦、周・ネール平和五原則)に示されているように、冷戦体制から平和共存体制への移行しつつあった。これを、平和勢力はますます強大化していると誤認した。

 国内では労働者による闘争が、1952年の労闘ストを経て、53年秋の日産争議、三鉱連闘争を最後に急速に下降局面を迎えていた。

 このような雪どけムードは、55年に入ってさらに促進された。日本独占資本は朝鮮特需からMSA不況への過程において、合理化と設備投資によって強蓄積を強行し、神武景気と呼ばれている空前の高度成長期に入った。

 また、55年2月の総選挙では民主党が第一党になり、第二次鳩山内閣が本格的にスタートし、吉田内閣に代わって階級協調と日ソ復交という欺瞞的ポーズをふりまいて、保守合同から保守安定政権への第一歩を開始し、社会党統一とあいまって、政治的安定期をつくりだした。いわゆる55年体制である。

(注)MSA
 1954年5月1日、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定」が公布された。この協定と同時に、農産物購入、経済措置、投資保証に関する日米協定も公布された。これらの協定は、アメリカの相互安全保障法(略称MSA)に根拠を置いていたので、総称してMSA協定と呼ばれている。

 アメリカの相互安全保障法は、アメリカの援助受入国に対して自国と自由世界の防衛努力を義務づけた法律である。従って、日米間のMSA協定でも、日本は「自国の防衛能力の増強に必要なすべての合理的な措置をとる義務」を負うとともに、「自由世界の防衛力の発展・維持」に寄与するものと規定されている。はやくも1954年6月に、防衛二法案(自衛隊法案、防衛庁設置法案)可決れている。


 所感派全学連の異常事態は、こうしたなかで演じられたのである。

 日共はこのような情勢変化にいち早く対応した。55年7月に六全協を開催して「極左冒険主義」を全面的に清算する。そしてさらに、50年以来の分裂に終止符をうって、新しい集団指導体制によって党の統一をはかることにした。この六全協決議は、直接的には、53年3月のスターリンの死をきっかけに始まったソ連共産党の平和共存路線に対応したものであった。

 この日共六全協によって、学生戦線も「熱病的幻想」の時代を終えることになった。だが、六全協による所感派、国際派、中間派の統一はたんなる野合でしかなかった。結果的には、この無原則的妥協の産物である六全協決議は、先進的学生党員の間に党不信の念をかきたてることになった。これがやがては、全学連が公認前衛党からの自立していく遠因となった。そのときの党員学生たちの心境を、蔵田さんは次のように記述している。

 六全協の自己批判と総括は、たんなる指導部の責任回避であり、党員の「品性と徳性」(春日正一)という精神主義を強調したにすぎなかった。そのために、「六全協ノイローゼ」が流行し、虚脱感と慰めあいが横行した。かつて、学生党員は上級機関の命令で学園から召還され、農村、工場、地域サークル、党秘密機関に派遣されて、その絶対不可侵の党に自己のすべてを捧げたのである。ところが、その彼らは過去4年間の悪夢から解放されたとはいえ、その代償として、過去の自分のドン・キホーテぶりを思い知る他なかったのである。



 六全協直前の6月に全学連第8回大会が開催されている。続いて、六全協直後の9月に全学連七中委が開催された。ここで決定された六全協全学連の「八大会―七中委イズム路線」は、第四期=所感派全学連の帰結点であった。六全協決議がいう「統一と団結」がいかに無内容なものであり、その修養主義と坊主ざんげがいかに空虚なものであったかという事実を白日の下にさらしたのだった。

「夏休みを終え、新学期がはじまろうとしている。われわれは皆『この秋こそもっと勉強しよう』という意欲と希望にもえて校門をくぐろうとしている。……学友たちの気持はただ一つ『思想その他一さいの相違をのりこえて、真理を追求する熱情においてわれわれは一つである』ということである。……たとえ現在、われわれ学生の生活がどんなに暗く苦しくとも、われわれはしっかりとひとつに団結し、助け合い、友情を深め合いながら、困難に耐えて勉強し続けよう。文化・スポーツを楽しみ、生活を少しでも明るくゆたかなものにするために、またそのために欠くことのできない平和のために力を合わせて努力し続けよう」(「全学連七中執報告」55年9月)

  全学連第8回大会で採択された運動方針は、次回の大会で、次のように要約されている。

「学生の身近な要求をとりあげ無数の行動を組織していけば、学生の統一ができる。……自治会は、学生の要求をとりあげて、それをサービスすればよいのであって、情勢分析や政治方針の提起など行うべきでない。…‥・又平和運動などとり上げるのはいいが、学生がついてこないで浮いてしまう……」(「全学連第9回大会一般報告及び一般方針」56年6月)

 この七中委イズムは「自治会サービス機関論」と呼ばれている。

昭和の抵抗権行使運動(10)

所感派全学連の誕生


 全学連は、10月の反レ・パ闘争の成果をうち固めるために第5回大会開催を予定した。しかし、日米支配階級は占領政策違反を口実にして大会開催を禁止した。結局、大会が合法的に開催されたのは、その1年半後の1952年4月、単独講和発効後だった。そしてその大会で、創成期第三期の国際派全学連はその主導権を所感派に明け渡すことになる。そこまでの経緯をたどってみよう。

 国際派全学連の反レ・パ闘争の死闘の過程において、日共中央指導下の学連内反対派は「反ファッショ民主民族戦線」を対置して敵対した。当時の所感派理論を代表する藤尾論文は次のように述べている。

「今や分派の反帝闘争はマルクス・レーニン主義と縁もゆかりもない一種の経済主義に堕した。そしてまた、今こそ中共の教えるように、党と大衆との結合、多数者のかくとく、民主統一戦線の強化をはかり、党を守り、自治を守るために、この分派を容赦なく粉砕することは、緊急の任務になっている。……画一的闘争による鋭利な刃物のような闘争ではなく、鉛のように統一して力量ある闘争を組むことが重要であること、真に大衆とともに、教室やサークルで、党員が日常的生活の中で直面する諸問題を基礎にして学生を組織することが偉大な力となること」(藤尾守「当面の学生運動の重点」『前衛』50年8月)

これに対して、全学連主流派は「層としての学生運動論」を堅持し、「日本学生運動における反帝的伝統の堅持と発展のために」(武井昭夫『学生評論』50年10月)をもって全面的な反論を加えた。学生運動はこの戦闘的指導理念のもとで、更なる飛躍の姿勢を表明した。

 ところが、国際派全学連は、日共の分裂状況に対する「スターリン判決」(1951年8月 所感派を正しいと裁定)というコミンフォルムのもつ国際権威主義のまえに屈服してしまった。それは国際派の歴史的限界性を露呈したものであり、日本人民の抵抗権行使運動が一枚岩の公認前衛党の呪縛から離脱していくためには、なお数年間の苦闘が必要であった。

 さて、その1951年は、マッカーサーの年頭の辞「集団安全保障と対日講和」で幕を開けた。それに抗する世界平和評議会第一回総会は「ベルリンアピール」を採択すた。これをうけた全学連は、集会・デモ禁止という戒厳令下で、新しい「反帝闘争」としての「全面講和投票運動、平和署名運動」に着手しようとした。

(注)ベルリン・アピール
 このアピールは冒頭で「われわれは、世界戦争の危険を生み出す原因についてどのような意見をもつにせよ、世界幾億の人びとの望みにこたえ、平和を強化し、国際安全を保障するために、米、ソ、中、英、仏の五大国による平和協定の締結を要求する。」とのべている。そして五大国間の平和協定の締結を要求す署名運動の展開を決定した。その運動には6億1200万結集したと言われている。


 ところで、所感派は四全協(2月)で分派批判とともに軍事方針を決議している。なんと、日常要求主義とは180°異なる方針を打ち出したのだった。そして51年8月、その決議をコミンフォルムがを支持するに及んで、国際派は総崩れとなった。それに勢いづいた所感派グループは、道学連(11月)、都学連(12月)、関西学連(12月)において全学連中執不信認決議を行い、さらに52年3月、全学連第1回拡大中央委員会において武井執行部に代わって玉井仁執行部を選出した。この新執行部は次のように勝利宣言を発した。

「過去二年間に亘って学生戦線を分裂させ、学生を他の国民諸階層から切りはなすことに躍起になっていた中執内部の一部悪質分裂主義者は、全国各地の代表によって徹底的に批判され遂に学生戦線から追放され、全学連は全国学生の要求によって、全学生と全国民の手にとりもどされた」(全学連第一回拡中委「全学連第一回拡大中央委員会を終るに当り、全国学生に訴える」52年3月)

 そして4月の第5回大会をもって、所感派全学連(第4期)が正式に誕生した。以後3年間学生運動は、日共51年綱領路線(反帝反封建)のもとで、血のメーデー、破防法反対闘争、山村工作隊、地域人民闘争、基地闘争、帰郷運動、総点検・査問、テロ・リンチ事件、歌えや踊れ運動など左右両極へのブレのなかでの苦闘を強いられることになった。

昭和の抵抗権行使運動(9)

反レッド・パージ闘争


 日共中央による学連解体策動により、創成期第二期の学生運動が後退を余儀なくされていた時期は、朝鮮半島の覇権をめぐって、朝鮮戦争の準備が公然と開始された時期でもあった。マッカーサーは「日本は不敗の反共防壁」と声明し、CIE大学教育顧問・イールズが、反共活動の先兵として「赤色教官とスト学生の追放」を声明して全国行脚をはじめていた。

(注)CIE
 民間情報教育局 (Civil Information and Education Section)のこと。連合国軍総司令部 (GHQ/SCAP)幕僚部の部局の一つ。


 1950年に入って、朝鮮半島をめぐる極東情勢は一挙に緊張の度合を増した。歴史的なコミンフォルム批判がなされたのはこのときである。

(注)コミンフォルム(Cominform)
 共産党・労働者党情報局(Communist Information Bureau)の略。欧州共産党情報局、共産党国際情報局とも言う。
 1947年にソビエト連邦、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、フランス、イタリアの9ヶ国の共産党または労働者党で結成された。ソ連のスターリンの死後、スターリン批判を受けて1956年に廃止された。


1950(昭和25)年
1月6日
 コミンフォルム、日本共産党野坂理論を批判
3月1日民自党、自由党に改称
6月4日
 第2回参議院選挙
6月6日
 共産党中央委員24名に公職追放指令
6月25日
 朝鮮戦争勃発
7月8日
 マッカーサー、警察予備隊創設を指令

 コミンフォルムはその機関紙『恒久平和と人民民主主義のために』に論文『日本の情勢について』を発表した。この論文の主旨は、連合軍を解放軍と規定し、占領下における平和革命論を唱えた日共政治局員・野坂参三の理論の批判であった。

 これに対して日共政治局は、1月12日に論文『"日本の情勢について"に関する所感』という反論を発表した。しかし、コミンフォルムに続いて中国も日共を批判したことから、党内は批判を受け入れるかどうかをめぐって、日共中央と党員グループによる党の内部闘争が全面化した。

 以後、コミンフォルム批判に反論したグループ(主流派)を「所感派」、コミンフォルム批判を受け入れるべきとしたグループ(反主流派)を「国際派」と呼んでいる。

 まず党中央は主要大学細胞を解散させる。
 6月6日の占領軍による中央委員追放後、所感派が臨時中央指導部を確立する。
 朝鮮戦争勃発をはさんで、8月に国際派が結成される。

 以後対立は一気に本格化して、戦術論上の対立から政治路線や組織路線上の対立へとエスカレートしていった。所感派は国際派を「極左はね上がり、スパイ、挑発分子」と攻撃し、国際派は所感派を「日常要求主義、右翼日和見主義、ブルジョア選挙党への転落」と反批判した。

 第二期全学連は国際派が主流であったが、以後学生運動にあっても国際派と所感派の主導権争いが熾烈を極めていった。

 こうしたなかで、国際派全学連は、「全面講和と全占領軍の撤退、イールズ声明反対、レッドパージ反対」をスローガンに、4-5月闘争を展開している。この闘争の火蓋を切ったのは九州学連だった。新学期明けにストライキ闘争に突入した。九大学生は250名の工作隊を組織して労農市民に決起を訴えた。続いて東北大学生はイールズ講演を粉砕し、これを撃退した。

この闘争に対してイ―ルズ自身が「極東でうけた最初の直接的反抗」と告白している。また同時にこの闘争は、「日本占領開始以来最初の公然たる反帝闘争」(中国文ワイ報 香港の新聞・・・管理人注)と評価されているように、反米闘争の突破口となるものであった。

 全学連も「全労働者諸君に訴えるアピール」を発し、全労連との共闘を実現し、反米闘争の先頭に立って次のような闘いを展開した。

「5・4記念アジア青年学生決起大会」(1000名)
「5・16自由擁護青年学生決起大会」(5000名)
「5・30記念人民決起大会」(東京民主民族戦線50000名、学生8000名)
「6・3労学ゼネスト」(全金―全学連)

 しかし、労働者階級の闘争は49年6月の国電スト敗北以来の停滞にあった。全労連もやがてGHQによって解散させられていった。

 ひとり健在を示した全学連は、闘争の成果をふまえて5月、全学連第4回大会を開催した。大会は日常要求主義、地域人民闘争論の誤りを克服し、圧倒的多数で「反戦平和擁護闘争路線」を基礎とした次のような「基本的任務と闘争方針」を採択した。


 ストックホルムアッピール百万名署名運動を中心にした平和擁護闘争

 軍事基地反対、全面講和、全占領軍撤退闘争

 イールズ声明撤回、レ・パ反対闘争

 授業料、育英資金その他の部分的要求の闘争

 学生戦線の統一、労学共闘の強化

 なお、この第4回大会に先立って全学連・大学代表者会議は「全国的に統一された行動綱領と組織をもった統一戦線組織」として「反戦学生同盟」(反戦学同)の結成を確認している。

 一方、朝鮮戦争の開始とともに、占領軍と傀儡政権による弾圧もエスカレートしていった。

 50年6月、都内では一切の集会・デモが数日間にわたって禁止され、都内はさながら戒厳令下におかれた。

 7月、報道部門からはじまったレッド・パージ攻撃は全産業部門に波及した。この攻撃の猛威を、全学連は非常事態宣言を発して対抗した。全学連による10月ゼネストは、都内拠点校において数千名の武装警官による学園制圧という空前の弾圧体制に抗してうち抜かれた。政府は、全産業二万数千人にのぼったレッド・パージ攻撃を学園にたいしても断行することを何度も公言したが、全学連はひとりの犠牲者を出すこともなく、この攻撃を完全に粉砕した。この全学連の10月反レ・パ闘争は反帝闘争の最初の輝かしい勝利であった。

昭和の抵抗権行使運動(8)

第二期学生運動の後退


1948年9月 全日本学生自治会総連合(全学連)結成

 全学連結成大会(武井昭夫委員長)は、東大当局の会場使用禁止通達の妨害にもかかわらず、48年9月18日から三日間にわたって400名を結集して開催され、大会は成功裡におわった。全国の国公私立142大学30万名が加盟した。

 大会は次の六項目の大会スローガンを採択した。それは、その時代背景と創成期全学連の到達点を如実に示している。


 教育のファッショ的植民地的再編絶対反対

 学問の自由と学生生活の擁護

 学生アルバイトの低賃金とスキャップ化反対

 ファシズム反対、民主主義を守れ

 青年戦線の即時統一

 学生の政治活動の完全な自由

(注)スキャップ
SCAP・・・Supreme Commander for the Allied Powers(連合軍最高司令官)


 この全学連が果敢に活動を繰り広げた1949年は不可解な事件が多発した年だった。翌年(50年)の朝鮮戦争勃発と、それに伴う占領軍の対日政策の大変化を予期させるような一大エポックを示している。

1949(昭和24)年
1月23日
 第24回総選挙、民主自由党大勝。
2月14日
 民主党、連立派と野党派に分裂
2月16日
 第三次吉田内閣成立。
7月5日
 下山事件発生
7月15日
 三鷹事件発生
8月17日
松川事件発生
10月1日
 中華人民共和国成立

 このような状況のもと、全学連結成が日米支配階級に強い恐怖感を与えただろうことは想像に難くない。政府は早くも48年10月に、「学生の政治運動について」という文部次官通達を発して新しい攻撃をかけてきた。細胞事務所閉鎖、細胞解散令、退学処分が続出し、第二全学連の結成をも画策していた。

 全学連はこの反動弾圧にたいして総反撃を開始した。

48年12月18日
 九州学連18校による大学法案国会上程阻止の無期限スト

49年3月
 全学連非常事態宣言
 大阪、北陸、中国、東海地方でストライキが闘われた。

49年5月下旬
 二週間にわたる全国220校のゼネスト
 このゼネストで大学法案を葬る。

 当時、労農戦線は分裂と低滞を強いられていた。この困難な情勢のなかでの全学連の歴史的一大ゼネストはきわめて大きな意味をもっていた。ところが、この画期的な全学連の五月ゼネストに対して、「日常闘争、地域闢争論」に拠る日共中央の対応は全学連の闘争をただ妨害するだけのものであり、背後からの敵を演じた。

 日共中央はその直接の指導下にあった関東(東京)地方学連の党員グループに対して、ストライキ方針を放棄させ、さらに、全学連の闘争を「全学連党的偏向、ストライキマン的偏向、極左トロツキスト……」と非難した。

「共産党の青年学生対策部は、このような情勢のなかで、全学連がゼネストや無期限ストのような戦術でたたかうことは、弾圧をうけて多くの犠牲をだし、学生運動は破壊される危険があると考え、学生の身のまわりの要求をとりあげる地道な活動によって力をたくわえ、党内外の民主勢力との統一闘争をつよめることに努力すべきだと考えていた」(広谷俊二『現代日本の学生運動』66年12月)

 日共中央はこのような独善的な論理を用いて、全学連6・20ゼネストを強引に中止させ、当時無期限ストをめざして闘っていた東大、京大の闘争を孤立させ、前面の敵の集中砲火にさらしてしまった。

「この6・20闘争における党中央の日和見的戦術指導は、学生運動をして闘わずして弾圧に屈服せしめ、味をしめた敵の攻撃を誘発させるに到った。教育基本法第八条の悪用、団体等規正令の適用、イールズ声明によるレッドマーク・パージ、学校細胞の禁止とあいついで政治弾圧はふりかかり、学生運動は戦後の闘争で獲得した既得権を一つ一つうばわれていった。それにもかかわらず、党中央は学生の経済的日常要求を献身的にとりあげて世話役活動を展開することを細胞ならびにグループに指示するのみで、積極的に反撃に転ずべき好機をむざむざ見送らしめてきた……。こうして6・20闘争以後、今日までの半年間というものは、全く学連組織の軽視が支配し、49年末からは、全国組織の無用論までとび出し……、全学連本部の人員削減が行われ、一時は(自治)会費値下げまで青対に指示された」(日共全学連中央グループ「最近の学生運動―全学連意見書」50年3月)

昭和の抵抗権行使運動(7)

第二期学生運動


 二・一ゼネスト敗北を契機に、人民抑圧の攻撃は急速に強化され、階級闘争情勢はきわめて困難になった。学生運動も日共中央の召還令もあって急速に下降していった。

「二・一スト以来の反動攻勢の強化は細胞員のプチブル性にイデオロギ―的動揺を与え、殊に右翼日和見主義者の埋論の貧困は二・一ストの成果を全面的に否定することに依り党の戦略戦術の正しさに疑義を抱くに至った。かかる党員はモダニズムを基調とする『主体性論争』を提起することにより党の政策からの基本的逸脱を敢てした。……これら右翼的偏向を端的に、はあくできなかった党員は次第に、組織から離脱し、革命的実践から脱落して意志と行動の統一はみだれ、基本的な細胞活動の遂行は不可能となった」(「東大細胞再建声明書」48年1月)

 しかし、戦後学生運動は約一年ちかい停滞のあと徐々に再建されていった。

1947年11月、「全国国立大学自治会連盟」(国学連)結成

 国学連は13大学30名の代表によって結成を宣言した。学生運動はこの国学連の再建によって第二期へのスタートを開始した。

1948年2月 「教育復興学生大会」

 国学連と自治連が、日教組と共催で開いたこの大会を契機に、学生運動は急速な高まりをみせた。スローガンは
国鉄運賃
授業料値上げ反対
大学地方移譲(BT案)反対
民主的教育機構確立
などであった。労働者・学生・市民の固いスクラムによって運賃値上げとBT案を阻止した。また、授業料値上げ(三倍増)は、当時の物価上昇率年間二倍とともに、学生生活の破壊を意味した。学生はこれにたいして「不払い同盟」で対抗した。

「われわれ学生は祖国の再建を考え、教育復興の前途を憂慮して、授業料値上げ撤回が学生生活の最後の防禦線であることを確認し、かかる文教政策に反対し不払い体制を拡大する」(国学連・自治連関東支部「授業料問題に関して全国民に訴う」48年5月)

 日米支配階級は「日本を共産主義の防破堤にする拠点は学校と教会である」と明言し、教育民主化の名目のもとに、六・三・三制を発足させた。また文部省は大学管理理事会案をもって、大学の反共反革命的再編強化をめざしていた。したがって、学生運動にとって、授業料闘争という生活防衛の闘いさえもが、この教育再編強化総体との対決を回避してはありえない闘争であった。上記の闘争宣言は、いわば、学生運動が新しい歴史的任務を自らに課そうとしていることを内外に向けて表明したものでもあった。

 いまや官許の民主化闘争は完全に過去のものとなっていった。学生党員グループは、これを「経済主義的偏向から、政治闘争への転換」と位置づけた。

「(この転換は)なにも国家予算や新物価体系の批判と暴露をやるだけではなくて、……芦田内閣の政策の一端たる文教政策批判、民族の文化を守れ、外資導入反対という基本線で、直言すれば「ファシズムか、民主民族戦線か」というスローガンで、授業料問題を基準としつつアジるべきである」(東大細胞委員会「戦略の転換に関して(マル秘)7-民主民族戦線の一環としての教育復興闘争」48年5月)

 この闘争転換の最初の実行が6・26教育防衛復興全国ゼネストであった。国学連と自治連は、四日間にわたって全国114大学30万ゼネストを敢行した。戦後学生運動はこの闘争によって画期的な飛躍をとげた。

 この闘争に際して、日教組を中心にした中央教育復興会議は学生ゼネスト支援体制を確立し、文相にたいして、
①文教予算増枠
②学生生活破壊反対
③教育制度改悪反対
④学問の自由と学生自治への弾圧反対
の四項目を申し入れて、闘争を支援し、勝利の動因力となった。労学共闘がこのようなかたちで豊かに結実したのは、学生運動史上、このときが最初であった。

 この闘争を、武井昭夫(てるお)「転換期に立つ学生運動」(48年2月)は次のように総括している。


 6・26教育防衛闘争はその規模において、日本学生運動史上最高なものとなり、一部学生の運動から、全学生層の運動となった。また、組織的には、国学連、高校連、自治連などの学生戦線の統一を実現し、遂に全学連結成の礎石を確立した。


 闘争は国際帝国主義勢力、買弁国家権力、学校当局との決定的対立を不可避的なものにした。この事実は、学生の社会運動、政治運動が階級闘争へと発展していかざるをえないことを示した。


 この学生運動の政治的階級的立場性こそは、学生運動が学生の立場から、勤労人民を主体とした人民の立場へと発展すべきことを示している。


 教育・文化の問題を、全青年層や全人民階級の共通の闘争課題におしあげえた事実は、学生層を民主民族戦線の有力な一翼に規定づける根拠となった。

 この総括の中に、学生運動転換期の指導理論となった武井理論=「層としての学生運動論」の骨格が形成されている。武井は、学生自体が一つの社会階層であり、米軍占領下にあって、国民各層と提携しながら自主的に平和と民主主義を実現できると主張した。この運動路線のもとに学生運動は、学生=プチブルという日共的教条主義を打破して、自らを主体とした運動体へと歴史的一大転換を果たした。

1948年9月 全日本学生自治会総連合(全学連)結成

昭和の抵抗権行使運動(6)

低迷する学生運動論


 戦後の学生運動が、自治連の限界を超えて革命的左翼への輝かしい第一歩をしるしたのが、1948年9月の全日本学生自治会総連合(全学連)の結成であった。この第二期学生運動の詳細を知る前に、当時の学生運動についての理論情況をおさらいしておこう。

 敗戦直後の学生運動は日本共産党(日共)の強い影響下にあった。しかし、その日共の学生運動に対する認識はいまだに戦前の理論を引きずったままであった。

 日共は46年2月第五回大会において、人民戦線綱領(解放軍規定、占領下平和革命論)を採択した。ところが、二・一スト弾圧によって平和的「人民政府樹立」の夢はもろくもうち砕かれた。この厳しい情勢変化に対して、日共は旧来の平和革命論を単に「革命の平和的発展の可能性」という字句の修正をほどこしたにすぎなかった。

 続いて48年3月の10中総では「平和と民主主義、民族独立のための宣言=民主民族解放路線」から、さらに「社共合同論」によって、議会主義路線への傾斜をふかめていった。同時に、この時期には「地域人民闘争論」が全面開花した。「地方権力、区町議会権力、役場権力、学校権力、家庭権力を廻れ左させる闘争」に一切の闘争が従属させられ、これこそが真の反植民地、反政府闘争だとされて、全国統一行動、統一ストは完全に無視された。

 さて、この戦後型日共路線は、学生運動をどのように引き回していったのか。その経緯を追ってみる。

「戦後、日本共産党が再建されてから47年後半に至るまで、日本の学生運動は、僅かに組織されていた学校細胞や青年共産同盟による個々ばらばらな指導があったのみで、党中央の明確な理論と政策による組織的・系統的指導はほとんどなかった。そのために党は学生層に確乎とした大衆組織を結集し、それを通じて学生連動を指導することができず、つねに分散的闘争をくり返すのみで、厖大な学生層の革命的エネルギーは未組織のまま放置されている状態であった」(日共全学連中央グループ「最近の学生運動―全学連意見書」50年3月)

 このような日共中央の誤った指導方針と、その結果としての無指導の根底には、学生=小ブルジョアという、戦前からの教条的規定があった。

「志田政治局員は『インテリゲンチャは、生活的にブルジョアジーに寄生する根なし草の雑階級であるから、つねに小ブル性による動揺をくり返す本質的に反動的なものであり、特殊的・部分的に革命的人間が出るが、これもつねに小ブル性を身につけているから、徹底的に実践の中できたえなおさなければ使いものにならない』と強調した」(同上)

 彼らにとって学生は、せいぜいオルガナイザーとアクトを提供する兵砧部にすぎなかった。この教条主義と地域人民闘争論と結合して、学生運動の指導指針となった。

「最早や、ブルジョア教育の中には一片の真理だにない。真理は人民闘争の中でのみ体得される。……学連組織は現段階において地方党機関および党細胞の、下からの学校権力を廻れ左させる闘争を、中央から援助するためのみ使用されるべきであって、一斉ストや全国的統一行動の組織として使用されるべきではない(志田政治局員)」(東大学生運動研究会編『日本の学生運動-その理論と歴史』56年6月)

 この論理の行き着く先は、小ブル学生運動の戦闘性、先駆性にたいする過小評価であり、全否定である。また、学生党員を独自の運動組織集団として形成することを否定することになった。そのために、当時の日共中央は学生党員を独自に組織するのではなくて、青年=学生の一般組職の中に解消してしまった。

45年12月「青年共産同盟」結成

 さらにその後48年9月、青共は「社共合同論」のもとで「民主主義学生同盟」とともに、社会党学生組織「社会主義学生同盟」(46年6月結成)との組織合同を果たした。

49年1月「民主青年同盟」(「民青」)結成

 以上のような日共中央の学生運動論にたいして、学生党員グループは「労働者階級の同盟軍としての学生運動論」を対置した。これは〝プロレタリアートの前衛党が自己の分遣隊を学生運動のなかに派遣し、学生を層として獲得する″という立場であった。

 学生運動論をめぐるこの二つの基本路線の対立は、根底的なものであった。日共中央と学連グループとのあいだの学生運動をめぐる意見の対立は、創成期以来たえず、日共の党内闘争のひとつとして底流し続けた。そしてこの対立は同時に、結果的には、革命的左翼ないし独立左翼の創成をもたらす源流となったのだった。そしてこれはまた、後の「民青」と「全学連」との激しい抗争の源流でもあった。

昭和の抵抗権行使運動(5)

第一期学生運動


(以下、主として教科書Aによる。)

 大日本帝国の敗北とともに、日本資本主義も壊滅的な打撃を受けていたが、アメリカ占領軍による「上からの改革」を通じて再興されていった。その間、日本人民は拱手傍観をしていたわけではない。上からのブルジョア民主化に抗して、「下からの改革」の闘いが、敗戦直後から始まっていた。

1945年8月の在日朝鮮人民による自然発生的闘争に続いて、
部落解放闘争
生産管理闘争
農地解放闘争
などが陸続と起こり、戦後の抵抗権行使運動がその第一歩を踏み出した。

46年に入ると、
4月、幣原内閣打倒国民大会、第一回戦後メーデー
5月、食糧メーデー
12月、吉田内閣打倒国民大会
と続き、47年二・一ゼネストへと発展し、戦後の人民闘争は最高の高揚を示した。

 しかし二・一ゼネストは、占領軍最高司令官マッカーサーの指令によって中止を余儀なくされた。この弾圧以後、占領軍の対日政策はブルジョア民主化政策から反共反革命政策へと全面的に変貌していった。中国革命、東欧革命の成功によって一挙に表面化した戦後世界体制の再編、つまり戦後冷戦体制の本格的開始がこの政治的転換の背景であった。

 まず日米支配階級は、経済的には傾斜生産方式=管理経済の導入と、インフレ=大衆収奪による資本強蓄積を開始し、政治的には、二・一スト弾圧にみられるように、ブルジョア支配の根底に関わる「下からの改革」にたいしては、断固これを弾庄する姿勢を示した。公務員スト権剥奪、労働争議への弾圧、反共文教政策と学生運動への弾圧など、反共イデオロギー攻勢が開始された。これは日本を「私的資本主義的経済制度によって、全体主義の防壁にする」(マッカーサー)という占領当初の目的への本格的政策展開の開始を意味していた。

 この激動のなかで、戦後学生運動はどのような情勢だったのだろうか。

 45年、私立上野高女、水戸高校(現茨城大)、物理学校(現東京埋大)、静岡高校(現静岡大)などにおけるストライキ闘争が戦後学生運動開始の号砲であった。闘争はまたたくまに全国に波及し、
学園報国団解体
戦犯教官追放
民主的教官の復帰
自治会・民主的サークル・新聞会の復活再建
として展開されていった。

 この戦後第一期学生運動における最大の成果のひとつは、自治会結成であった。その組織的特徴は、戦前自治会が個人加盟制を基本形態としていたのにたいして、全学生の自動的全員加盟制であった。これは戦後の労働組合が、日本の社会の民主化政策の一環としいて主として占領軍の指導で、各企業ごとに全員加入方式で結成されたのにならったものだった。その労組を「ポツダム組合」と呼ぶのと同じく、このときの自治会も「ポツダム自治会」と呼ばれている。

 46年12月、学生による戦後初の街頭デモが、早大自治会6000名によって行われた。学園復興、預金封鎖解除等のスローガンをもって対政府デモとして敢行された。このデモは、即自的経済要求を掲げたものながらも、戦後学生運動がようやく一学園内の枠を越えて、横断的結集するきっかけとなった。

「散発的に学校当局に戦いをいどんだ各校学生自治機関の活動は、やがて重大なる難関にほう着した。学生の自治権を確立し学問の自由を擁護して行く為には、現在の悲しむべき又呪うべき状態のよって来る原因、矛盾せる文教機構それ自体を改革せねばならぬということである。それは一自治会の能くするところではない。ここに至って学生自治機関連合体設立の機は熟した」(白土吾夫。全国自治連の歴史46年12月)

 46年10月、戦後学生運動は、最初の全国組織として、「全国学生自治会連合」(自治連)を発足させた。その後47年に入って、この自治連運動は最大の高揚を示した。二・一ゼネストの前日、皇居前広場において40校29000名を結集して「関東大学高専連合学生大会」を開催した。だが、この大会は二・一ゼネスト前夜という緊迫した事態のなかで開催されたにもかかわらず、政治的性格をあらかじめ完全に払拭していた。

 「自治連は運動方針を変更し、未熟な自治機関をも包含し得る」(同上)ために、11項目スローガンは学生生活救済事項に限定したのである。さらに、大会とデモ行進とを分離した。このように、自治連運動に代表される戦後第一期学生運動は明確な限界を示した。後にこの運動が「純粋な学生運動」と評言されたゆえんである。また同時に、その限界ゆえに、自らその歴史的役割を終えていった。

昭和の抵抗権行使運動(4)

「独立左翼」とはなにか


 「昭和維新」を戦闘的に担った人たちの思想的立場を総称して「新左翼」と呼んでいる。つまり、国際的にはソ連共産党や中国共産党、国内的には日本共産党や社会党などの既成左翼のくびきを打破して、思想的にも闘争方法においても全く新しい情況を創成していった労働者・学生・市民を、「旧」左翼(既成左翼)に対比して「新」左翼と呼んでいる。

 教科書Aで蔵田さんは表題には「新左翼」を用いているが、本文中では「革命的左翼」という言葉を用いている。まだ教科書Aを読み始めたばかりなのだが、「新左翼」=「革命的左翼」と考えてよいだろう。

 これらとは別に「独立左翼」という言葉がある。これは「新左翼」や「革命的左翼」とはいささかニュアンスが違うようだ。それらの中の最も良質な部分を指しているように思われる。

 吉本隆明さんは60年安保闘争を「初めての独立左翼の運動」だと言っている。教科書B「独立左翼論」は「独立左翼」どのように解説しているのか、その部分をピックアップしてみる。

 その前に、教科書Bの著者・三上治さんの履歴を簡単に紹介しておこう。
1941年 三重県生まれ
1960年 中央大学の法学部政治学科に入学。安保闘争に参加し、その終盤まで全学連主流派活動家として過ごす。
1962年 再建された社会主義学生同盟の全国委員長になる。
1966年 第二次ブンド結成に加わる。全共闘運動やベトナム反戦闘争に参加。
1969年 ブンド内部の党派闘争で統一派として赤軍派と対立。
1969年 4月28日の沖縄闘争で指名手配され、潜行しつつ活動していたが、9月に逮捕。
1970年 一旦保釈されるが、保釈取り消しで東京拘置所に収監。この間、共産主義者同盟叛旗派をつくり、最高指導者となる。
1975年 叛旗派を辞め、政治的実践活動から退き、執筆活動に転じる。

 さて、まず教科書Bが引用している吉本隆明さんの文章(「シリーズ20世紀の記憶」所収「日本資本主義に逆らう独立左翼」)を孫引きする。

 11月27日(1959年)に全学連主流派が国会構内に入った行動などは、僕は見ていて『すごいことをするな』とずいぶん触発されました。初めてだ、こういうデモのやり方と闘争の仕方は、と思いました。そういうのに初めて出会ったということで、それで、それで「これはいいやり方だ』と思って見ていたら一度ならず何度もやるんです。塀を乗り越え乗り越えみたいに、そうとう逮捕されたりして打撃を受けてもまだやるというように続けていました。それがきっと安保闘争を全体的に盛り上げる原動力になったんだと思いますが、僕は強い刺激を受けました。彼らは無鉄砲で乱暴にみえるけれどものすごく自由というか、日本の公認左翼には絶対にない自由さと奔放さがあったんです。それでとても珍しく、『ああ、こういうものもあるんだ』と思いました。『いいものを見たな』という感じがあったんです。

 それに日本の左翼が初めて、自分たちの考えで行動し、社会秩序の不当なところに攻撃をかけていった意味はなかなかなくならないだろう、と思っています。ある政治運動を自分たちの組織が壊滅してもやるみたいにやつたこともそういう行動様式も、それがいま形としてあるかないかじゃなくて、それは非常にあたらしい何かをもたらして、それでもやっぱり消えないのだと思っています。当時、ソ連にも中国にもアメリヵにも反対という独立左翼的な主張はバカにされましたけど、しかし、歴史の動きをみればだんだんそうなっているでしょう。これからどう変わるかわかりませんけど、やはり意味はあったと思います。考え方としてはちゃんとあのときに出たということです。



 この学生たちによる初めての「国会突入」に対して、「神聖な国会を汚すものであり、民主主義を冒涜する行為だ」という非難の声が自民党やマスコミから浴びせられた。一緒に構内に入った共産党や社会党は世論の批判を恐れて、反省し詫びを入れる姿勢をとるようになっていたが、全学連だけは袋だたきに合い、孤立しながら頑張っていた。この学生たちを評価し、擁護した知識人は吉本さんだけではなかっただろうか。

 この学生たちの行動が新しかったのは、その過激さによってだけではない。闘争の主体についてのとらえ方が既成左翼のあり方を優に凌駕していた。三上さんはその点の事を次のように分析している。

 伝統的左翼は党(前衛党)が革命の主体であるという理念を基礎にしている。前衛党なくして革命はない。だから、大衆運動も主体は前衛党であり、それは党のための運動である。党勢を拡大し、選挙に勝つとか、武装蜂起に備えるとか幅はあるが、党が主体である。

 伝統的な左翼の観点では大衆運動の主体は党(前衛党)であり、従って大衆運動は党の指導に従うものである。これは安保闘争において現れた、日本共産党や社会党や総評の在り方であった。彼らにとっては大衆も運動も党勢の拡大に利用するものとして存在している。かれらの観念の中には党(前衛党)の拡大が革命への接近であり、あくまでも革命の主体は党であるというということがある。

 これに対してブンドには大衆運動を党勢の拡大に利用するという観点はなかった。本当はそれが隠された目的だったのかも知れないが、共産党などと対抗上、主体は大衆であるという様式をとった。結果としてそれを実現したというべきなのかもじれない。それは行動として政治意志を表現する諸個人が運動の主体であり、その集合としての大衆的運動が展開された。そういう様式を生み出したのである。

 ブンドは伝統的な前衛党として、つまり主体として大衆運動を指導したのでなく、ブンドは必要な政治的機能を果たしたに過ぎなかった。日本の政治運動の中で、前衛党が主体ではなく、大衆が主体として立ち現れてくるという運動を初めて実現したのである。そこにブンドの意味はあった。これはブンドが意識的に実現したというよりは、無意識のうちに実現したものである。

 なるほど、ブンドも日本共産党などのような組織形式をとり、政治的役割を演じようとした。だが、プンドは大衆主体の運動に依拠せざるをえなかった。そして、そのことにおいて新しい大衆運動の様式を生み出したのである。1960年の6月15日はその実現であり、そこに僕らの希望はあった。

 僕はこれをブンドが生み出した独立左翼の大衆運動というのだが、それは伝統左翼とちがって運動の主体が大衆にあるということである。



 1960年6月15日に実現した「大衆主体の」闘争に至るまでには、当然長く苦しい理論闘争と運動形態の模索があったにちがいない。この稿は、60年安保闘争を詳細に振り返ることを第一の目的としているが、次回からしばらく、60年安保闘争にいたるまでの戦後全学連の歴史を追ってみることにする。

昭和の抵抗権行使運動(3)

60年安保闘争時の政治裏面


 ポチ・小泉ほどあからさまにアメリカに媚びを売った首相も珍しい。ブッシュ家族の前でプレスリーを演じた破廉恥ぶりが象徴的である。政治政策では、小泉改革とは、何のことはない、アメリカのからの「年次改革要望書」への忠実な返答であった。

 自民党政権はアメリカの逆鱗に触れると維持できない。安倍狆三の無様な退陣は、彼の早急な極右的政治姿勢がアメリカの意に沿わず、アメリカから見捨てられたことが大きな理由の一つだったのではないかと、私は思っている。

 日本は一体いつからアメリカの属国になってしまったのだろうか。敗戦後、アメリカに占領されていたとはいえ、真の独立国家となる道はあった。その道を塞いでしまったのが、60年安保当時の首相、狆三の祖父・岸信介だった。それ以前から何かと取りざたされていた事ではだったが、昨年のCIA機密文書公開で、岸が「CIAの犬(エージェント)」であった事が明らかになった。

 「岸信介 CIA」でネット検索すると、六千数百件のヒットがある。その中から、60年安保闘争の事にも触れているので、 天木直人さんの記事 「CIAの極秘文書が教えてくれた戦後の暗黒史」 を転載しておこう。

 今日のブログは書くほうも、読むほうも気が重くなるような内容であると思う。しかしどうしても書いておかなければならない。私がこのブログを書き続けるためにも、早い段階で問題提起をしておかなければならない。そう思って書いた。

 2月26日の読売朝刊は、米国中央情報局(CIA)が児玉誉士夫(右翼)や辻政信(元陸軍参謀)について「情報要員としての価値はなきに等しい」、「(日本の再軍備のために米国を利用し)第三次大戦さえ起こしかねない男」などと酷評していたことをスクープした。

 この報道は重要性な意味を持つ。それは、児玉や辻の正体が実は「うそつき」、「大泥棒」、「役立たず」であったという情けない事実を教えてくれたからではない。これら人物が米国により戦犯容疑者から無罪放免してもらい、その代わりに米国の手先になって米国の日本占領に加担したという、いわゆる戦後の暗黒史が実は歴史的事実だったということを、ここであらためて我々に確認させてくれたことにある。昭和の歴史を体験している人々が死んでいき、戦後生まれの世代が日本人の大勢となる時代が来ようとしている今日こそ、暗黒史を正史として残す作業は誰かの手で続けられなければならないのだ。

 なぜ自民党は永久政権政党であり続けるのか。そしてその自民党政権がなぜこれほどまでに対米従属政策を続けるのか。本来は愛国的であるべき右翼が、こと米国になると対米従属政策をまったく批判しないのはなぜか。なぜ日本には社会党や共産党といった左翼、護憲勢力が幅広い国民の支持を得られないのか。それらの問いに答えてくれるのが、暗黒史と言われるもうひとつの歴史である。

 暗黒史は、歴史教科書は勿論のこと、大手の全国紙などにもほとんど出てこない。だから一般の善良な国民は「そんなことはありえない」と思い、それを大声で語る者は、一歩間違えば「荒唐無稽な陰謀論者」と一笑に付されかねない。しかし、実は今日の外交や内政に見られる数々の権力犯罪を追及していけば、最後は必ずここに行き当たるのだ。私がブログで権力者の不正を書き続ける時にぶち当たる虚しさは、実はブログの読者の数が少ないということではない。この巨大な壁のあまりの大きさを痛感するからである。

 今日の日本は米国の占領を境に民主主義に生まれ変わったと思っている日本人は多いと思う。しかし決してそうではないのだ。今日の日本は戦前、戦後を通じた暗黒史の延長線上から成り立っているのである。たとえば読者は次の事実(と多くの者が思っているが決して公式には確認されていない事実)を知っているか。

 A級戦犯で処刑された7名の影で、多くの戦犯容疑者が米国の手で釈放され、米国の日本占領政策に加担してきた。正力松太郎や岸信介、賀屋興宣、笹川良一、児玉誉士夫、などはその典型である。

 米国の日本占領支配はある時点から徹底した反共政策に転じ、そのために日本の保守政権やそれを支える特定の保守、反動人物に資金提供をしてきた。その目的達成のためには、スパイを送り込み、右翼、暴力団を利用して、日本社会をコントロールしてきた。安保闘争のデモ鎮圧に自民党は全国の暴力団や右翼団体を動員する「アイゼンハワー歓迎実行委員会」立ち上げ、児玉誉士夫に暴力団のとりまとめを依頼していたのだ。

 盗聴、おとり捜査などの公安警察の非合法な「反共秘密工作」は確かに実在しており、亀井静香議員も警察官僚時代にその秘密活動を指揮した一人であった。その一方で日本共産党も、ソ連からの資金援助を受け、あるいはシベリア抑留で共産主義者として洗脳された者たちにより、日本における共産主義革命を画策していた。現日本共産党委員長志位和夫の叔父である志位正二元関東軍少佐は、米国へ寝返って亡命したソ連のスパイであるラストボロフの協力者であったという。善良な一般国民の中で日本共産党の支持者が増えないのは、日本共産党もまた暗黒史のもう一方の脇役であった事を知っているからだ。

 ロッキード事件は全日空の次期旅客機選定に絡んだ田中元首相の汚職犯罪のみが喧伝される一方で、防衛庁の次期対潜哨戒機導入に絡む疑惑はほとんど捜査されず、真相がまったく解明されないままに幕が引かれた。その背後には日米安保体制を守り、その利権を温存しようとする日米両国の政治指導者たちの巨大な意思が介在していたという指摘が説得力を持つ。

 小泉劇場やヤラセ事件で電通が政府の情報操作に加担していることが明らかにされている。しかし電通の前身は関東軍と結託して情報宣伝工作をやっていた国策会社「満州国通信社」である。その電通が戦後は米国の意に沿って日本のメディアを(支配? 管理人補充)しようとしているとしても不思議ではない。

 このような暗黒史、陰謀説については、どこまでが事実であるかを検証することは難しい。たとえそれが事実であったとしても権力者は決してそれを認めようとはしない。それどころか真実を突き止めようとすれば生命の危険を覚悟しなければならない。だから社会的に地位のある「まともな国民」はそれ以上追及しないのだ。係わり合いを持ちたくないと考えるのだ。

 それが現実なのである。しかし、それにもかかわらず私はこの暗黒史を正史にする努力は誰かの手によって、あきらめることなく続けられなければならないと思っている。なぜならば暗黒史の影で繰り広げられた権力者の犯罪は、今日我々の目の前で繰り広げられている権力犯罪とその根底で共通していると思うからである。それよりも何よりも、暗黒史の当事者であった人物の子供や孫や縁戚者が、今日に至っても日本の権力を掌握し、政治を動かしているという現実があるからである。

 いくら市民の覚醒に期待しても、そして覚醒した市民の手で政治の腐敗や為政者の誤りを正そうとしても、最後にぶち当たるのが、この戦後の暗黒史という強大な壁である。暗黒史を闇のままに葬ってはならない。一つでも多くの暗黒史を正史にしなければならない。そうすれば我々の政治に対する認識も変わるに違いない。日本の政治がここまで国民の利益に背馳するものではなくなるかもしれない。ここまで米国に搾取され続ける日本を救い出す事が出来るかも知れないのだ。

 読売新聞のCIA極秘文書の記事は、あらためて私を奮い立たせてくれた。今しばらく真正面から歴史を監視していきたいと思う。

 なお読者には、最近刊行された「謀略の昭和裏面史」の一読をお勧めしたい。このブログを書く決意をしたもう一つの理由はこの著書に大いに啓発され、勇気づけられたからである。



 黒井文太郎著「謀略の昭和裏面史」は廉価な文庫版がある。宝島社文庫です。

 少し長くなるが、もう一つ転載しておきたい記事がある。ニューヨーク・タイムズ紙のティム・ワイナー記者(ピュリッツアー賞受賞記者)の著書『灰の遺産 CIAの歴史』が、これも昨年(6月)翻訳出版された。私はまだ読んでいないが、「机の上の空 大沼安史の個人新聞」というサイトにその本の中の岸信介について書かれた部分の要約が記載されている。それを転載しておく。(全文を読みたい方は 「岸信介はCIAの助けで日本の首相になり、支配政党の首領になった」 でどうぞ。)

 ワイナー記者は、岸首相とともに、児玉誉士夫についても書いているのだが、ここは岸信介氏に限って、主なポイントを列挙しておこう(敬称略)。


 日米開戦後の1942年、岸は軟禁中の米国大使、ジョセフ・グルーをゴルフに招いた(聖戦中に岸はなんと、敵性スポーツのゴルフをしていた。それも鬼畜の大使と!)。二人はそれ以来、友人になった。岸が戦後、巣鴨から釈放されたとき、グルーはCIAのフロント組織、「自由ヨーロッバ国民委員会」の初代委員長だった。〔大沼・注〕つまり、影響力を行使できる立場にあった」


 岸は巣鴨から釈放されると、まっすぐ首相官邸に向かった。官房長官の弟、佐藤栄作がスーツを用意して待っていた。「なんかヘンだね」と岸は佐藤に言った、「いまやわれわれは民主主義者だ」


 岸は「ニューズウイーク」誌の東京支局長、ハリー・カーンから英語の手ほどきを受け、米国の政治家を紹介してもらった。カーンはアレン・ダレスの親友で、CIAの対日パイプになった人物だ。


 1954年5月、岸は東京の歌舞伎座で政治家として復活を果した。岸は歌舞伎座に、米国大使館でCIAの情報・宣伝担当をしていたビル・ハチンソンを招いた。幕間、岸はハチンソンを連れ、日本の特権層の友人たちに彼を紹介して回った。それは岸の政治的な劇場となった。アメリカの後ろ盾があることを公的にアナウンスしたものだった。


 その後、1年にわたって、岸はハチンソンの自宅の居間で、CIAや米国務省の担当者と秘密裏の会合を続けた。ハチンソンはこう証言している。「彼(岸)は明に、アメリカの少なくとも暗黙の支持を欲しがっていた」。この会合で、その40年間の日米関係の土台が築かれた。
 岸は支配政党の「自由党」を躓かせ、名前を変えて再建し、それを運営したいと言った。彼はまた、日本の外交をアメリカの欲望とフィットするかたちに変更することを誓った。その代わり、米国の秘密の支援がほしいと岸は頼んだ。


 ダレスが岸に会ったのは、1955年8月のことだった。ダレス国務長官は、一対一で岸に、支持を期待していると言った。日本の保守層が一体化し、共産主義と闘うアメリカを支持できるかどうか聞いた。


 岸は米国大使館の高官であるサム・バーガーに言った。若くて地位の低い、日本で知られていない人間を、連絡役にするのがベストだと。お鉢は、CIAのクライド・マカヴォイに回った。マカヴォイは沖縄戦の経験者で、フリーで新聞記者の仕事をしていた。クライドが来日してすぐ、バーガーは彼を岸に紹介した。これにより、CIAの外国政治指導者との関係のなかでより強固なもののひとつが生まれることになった。


 CIAと自民党の最も重要なやりとりは、情報提供に対する金(マネー)の支払いだった。マネーは自民党の支持の取り付けと、その内部の情報提供者のリクルートすることに使われた。アメリカ人たちは、若い将来性のある自民党政治家に金を支払っていた。彼らはのちに、国会議員や大臣、長老政治家になっていった。


 CIAはイタリアでの失敗に懲り、アメリカの実業家を金の運び屋に使った。その中には、岸が建設しようとしていた自衛隊に売り込みを図る、ロッキード社の重役も含まれていた。

〔大沼・注〕後の「ロッキード事件」に登場する「ロッキード社」は、CIAに実は使われていたのだ! ロッキード事件が田中角栄追い落としを狙った、CIA陰謀であるとの見方に、またひとつ、傍証が出た。


 1957年11月、岸は「自由民主党」の名の下、保守勢力を糾合した。自民党の指導者として岸は、国会に議席を持つ人間をリクルートし、彼の配下に入れる工作を、CIAに許可した。


 政権トップに登り詰める中で岸は、安保条約の改定をアメリカ側に約束した。岸との連絡役のCIAのケース・オフィサー、クライド・マカヴォイは、戦後日本の外交についてレポートすることができた。


 1957年2月、岸が日本の首相になる日、国会で安保条約にかかわる死活的に重要な手続きが行われる予定だった。これについて、マカヴォイは、こう証言した。「岸とわたしはその日のクーデターを流産させた」と。マカヴォイはさらにこう語った。「アメリカと日本は、合意に向かって動いていた。これを日本共産党は特別な脅威を感づいた。投票が行われるこの日、共産党は国会で反乱を起こす計画を立てた。このことをわたしは、わたしの情報源の、左翼の社会党の本部員の通報で知った。岸は天皇に謁見する予定だったが、わたしは緊急会談を申し入れた。岸はモーニングにシルクハット、縞のズボン、コートの出で立ちで、秘密の会合場所に現れた。わたしは岸に話す権限を与えられていなかったが、岸に共産党が国会で反乱を企てていると教えた。国会の慣例では、午前10時半か11時に、食事などのため審議が中断することになっていた。岸は休憩を取るなと自民党の国会議員に命じた。自民党議員以外の議員が退席したすきに、自民党は彼らだけで法案を採決し、通してしまった」


 1957年6月、岸はアメリカを訪問、ヤンキースタジアムで始球式を行い、白人専用のゴルフ場でゴルフをした。岸は新しい日本大使に決まっていた、マッカーサー将軍の甥、ダグラス・マッカーサー2世に、もしアメリカが権力基盤強化の手助けをしてくれれば、日米安保条約は国会で成立するだろうし、高まる左翼の潮流も取り除くことができると語りかけた。岸は、一連の内密の支払いではなく、CIAによる財政的支援の恒久的な財源を求めた(Kishi wanted a permanent source of financial support from the CIA rather than a series of surreptitious payments.)。


 アイゼンハワー大統領は自民党の有力者へのCIAの金の支払いを承認した。CIAの役割を知らない政治家は、アメリカの大企業からの金だと思い込まされた。CIAの金はすくなくとも15年間、4代の大統領にわたって続いた。


 岸信介とともに、戦時内閣で大蔵大臣を務めた元戦犯の賀屋も釈放され、国会議員として復活した前後に、CIAによってリクルートされた。賀屋のCIAとの関係は、1968年にピークを迎えた。賀屋は、選挙戦を自民党に有利なものにするCIAの秘密作戦で中軸の役割を果した。




昭和の抵抗権行使運動(2)



「昭和維新」年表





 教科書Aの著者・蔵田計成(けいせい)さんは1958年の第一次ブンド結成に参加し、1959年には都学連副委員長を務めている。昨年5月から、「日本インターネット新聞JANJAN」に「時代に生きた新左翼・歴史群像」という論文を寄稿している。「昭和維新」の渦中で熱い青春を生きた人たちの評伝を通して、「昭和維新」のあらましを知る事ができる。興味のある方は、合わせ読まれるとよいでしょう。




 教科書Aの巻末に「昭和維新」の年表(新左翼運動史・年表)が掲載されている。1957年から始まり1978年3月(教科書Aが出版されたのは1978年7月)で終わっている。この稿では私は60年安保闘争に的を絞って学習する予定なのだが、とりあえず、未知の事項もいくつかあるが、上記年表をそのまま全部転載しておく。年表に目を通すだけで、「昭和維新」を担った人たちの最高揚期における精神の崇高さと、過激なセクト抗争に陥った瓦解期の痛ましさに胸ふさがる思いが彷彿とわき上がってくる。








「昭和維新」年表






1957年


1・27 日本トロツキスト連盟結成

4・27 沖縄・砂川全国学生総決起集会

5・17 原子戦争準備反対全日本学生総決起行動デー

6・27 学生・労働者砂川基地突入

7・8 学生・労働者4000人砂川基地突入

9・17 原子戦争準備反対全日本学生総決起デー

9・29 日共、党章草案発表

11・1 原水爆実験禁止国際統一行動デー


12・1 トロ連、日本革命的共産主義者同盟と改称

12・4 勤評反対全国学生総決起大会






1958年


5・26 反戦学同、社会主義学生同盟と改称

6・1 日共中央と学生党員が党本部で衝突

7・8 革共同第一次分裂。トロツキスト同志会結成

9・4 全学連第12回大会。革共同の下で転換路線

9・15 勤評粉砕第一波全国総決起大会

10・28 警職法阻止全国学生総決起集会

11・5 警職法阻止全国ゼネスト

12・10 共産主義者同盟(ブント)結成

12・13 全学連第13回大会。革共同の指導権確立





1959年


1・1 全学連意見書「日本共産党の危機と学生運動」

4・28 全学連、安保反対第一次統一行動

5・15 全学連、第二次統一行動

6・5 全学連第14回大会。ブント指導権確立

6・25 全学連、第三次統一行動

8・26 革共同第二次分裂。革共同全国委結成

9・26 日共都党会議。港、千代田地区委、中央攻撃

10・30 全学連、反安保全国スト

11・27 安保反対第八次統一行動。全学連全回ゼネスト、国会包囲デモ、労働者学生二万数千名国会突入。

12・10 全学連中央集会。国会デモ中止





1960年


1・16 岸訪米阻止羽田闘争。全学連空港ロビーに突入、唐牛委員長ら76名逮捕

1・25 三池労組無期限全面スト突入

2・22 長船社研結成

3・16 全学連第15回大会

4・26 全学連国会正門前で機動隊と衝突

5・13 安保阻止全学連全国総決起

5・19 自民党、安保強行採決。全学運"非常事態宣言"を発し、数万人が国会包囲

5・20 全学連、全国スト闘争。国会包囲デモ

5・26 国民会議、全学連、空前の国会包囲デモ

6・10 全学連反主流派ハガチー来日反対闘争

6・15 全学連、二万人国会包囲デモ。先頭部隊国会南通用門に突入、機動隊と衝突。樺美智子虐殺、翌日にも数万の抗議デモ

6・18 安保条約自然成立。労働者・学生・市民徹夜で国会包囲。連日デモ

6・23 樺美智子全学連追悼集会

7・4 全学連第16回大会。反主流派、全日連結成

7・29 ブント第五回大会。ブント解体へ

8・9 ブント、安保総括をめぐり、革通派、プロ通派、戦旗派に分裂

10・12 池田内閣打倒、浅沼刺殺抗議全学連集会

10・15 社青同学生班協議会結成大会




1961年


3・7 革命的戦旗派、革共同全国委と統一

4・5 全学連27中委、マル学同の指導権確立

5・19 政暴法粉砕闘争

6・2 政暴法粉砕闘争。機動隊と衝突
6・15 6・15一周年集会

7・8 全学連17回大会。マル学同と反マル学同対立

10・7 マル学同系、社学同系二つの都学連大会

10・12 全学連、政暴法粉砕・核実験反対闘争

10・26 都学連(社学同)政暴法粉砕闘争

10・31 全学連政暴法粉砕・核実験反対闘争

12・5 社学同全国事務局機関誌「SECT NO.6」創刊





1962年


3・30 社学同第一回都大会。事務局派追放

4・27 全学連、米ソ核実験反対統一行動

5・2 統社同=フロント結成

5・11 三派連合、改憲阻止闘争。自民党本部に突入

5・25 全学連反戦統一行動

7・1 参院選。黒田寛一革共同議長、23000票

8・6 根本全学連委員長ら、モスクワ赤の広場デモ

9・15 第三次社学同再建

9・28 憲法調査会中央公聴会阻止闘争

11・30 大管法粉砕全国統一行動。銀杏並木集会





1963年


1・12 全学連33中委。大管法総括をめぐり対立

1・19 都学連再建大会(社学同、社青同、共青)

4・1 革共同第三次分裂(中核派と革マル派)

6・15 原潜阻止・日韓会談粉砕統一行動

7・5 全学連20回大会。革マル派指導権確立





1964年


2・12 東京社学同、マル戦派とML派に分裂

3・20 金鐘泌来日阻止羽田闘争

3・21 共産同マル戦派結成

3・25 新三派連合確立(社学同、社青同、中核派)

6・19 憲法改悪阻止・日韓会談粉砕全回統一行動

7・2 早大7・2事件

8・2 日韓会談粉砕・憲法改悪阻止全国反戦集会

11・12 原潜寄港阻止全国緊急行動

12・11 日共系全学連再建大会





1965年


2・1 慶大学費闘争、全学無期限スト
3・13 社学同大会。独立派、ML派が統一派結成

3・30 社青同解放派結成

6・9 ベトナム反戦国民行動

7・8 三派都学連結成(中核派、社学同、解放派)

8・30 反戦青年委員会結成

10・29 日韓条約批准粉砕全国統一行動

11・5 日韓条約批准阻止総決起大会





1966年


1・18 早大学費闘争。全学ストへ

5・30 原潜寄港阻止行動

6・24 青医連、医学連、インターン制廃止統一行動

9・1 第二次ブント再建

11・12 共労党結成

11・19 東学館闘争。学生、機動隊と衝突

12・17 全学連(三派)再建大会。35大学、71自治会結集





1967年


1・20 明大学費値上げ大衆団交

1・22 高崎経大、不正入学反対バリスト突入

3・2 善隣会館事件

7・9 ベトナム反戦・砂川基地拡張阻止大集会

10・8 佐藤訪べ卜阻止羽田現地闘争。羽田で三派と機動隊激突、山崎博昭虐殺。街頭実力闘争の高揚へ

10・17 虐殺抗議山崎君追悼中央葬

10・21 ベトナム反戦統一行動

11・12 第二次羽田闘争





1968年


1・15 佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争。一週間現地で激闘

2・16 中大学費値上げ闘争、白紙撤回で勝利

3・10 三里塚闘争。機動隊と衝突

3・28 王子野戦病院反対闘争。基地突入

4・3 マル戦派、ブントから分裂

4・26 国際反戦統一行動

5・31 日大闘争、三万人大衆団交要求デモ

6・15 6・15記念首都総決起集会。中核派と革マル派衝突。

6・17 機動隊、安田講堂占拠の学生排除、全学ストへ。東大―日大闘争激化

6・26 米タン阻止新宿闘争

7・14 中核派全学連結成。三派全学連分裂

7・19 反帝全学連大会で社学同と解放・ML派衝突

9・30 日大全共闘、両国講堂で大衆団交

10・8 羽田闘争一周年集会。米タン阻止闘争

10・21 国際反戦デー。新宿、防衛庁、国会等でデモ、機動隊と激突。騒乱罪適用





1969年


1・9 東大全共闘、教育学部奪還闘争。民青と衝突

1・18 安田攻防戦。二日間にわたって激闘、神田でも解放区闘争。全国学園闘争の爆発

4・28 沖縄闘争。銀座、お茶の水、新橋で機動隊と衝突。中核、ブントに破防法

6・8 アスパック粉砕闘争

7・10 大学立法粉砕闘争

8・17 広島大死守闘争

9・3 早大死守闘争

9・5 全国全共闘結成大会。日比谷野音に三万人結集。赤軍派登場

9・20 京大時計台死守、街頭バリケード戦

10・10 安保粉砕・佐藤訪米阻止十万人集会

10・21 国際反戦デー。新宿、高田馬場で機動隊と激突。1500名逮捕

11・5 赤軍派、大菩薩峠事件

11・16 佐藤訪米阻止、11月決戦。品川、蒲田で機動隊と激突。2000名逮捕





1970年


3・31 赤軍派、よど号ハイジャック

4・28 沖縄デー。各地でデモ

6・14 全国全共闘、反安保集会

7・7 蘆溝橋事件33周年記念.華青闘、新左翼批判、入管闘争に問題提起

8・4 海老原事件。革マル派、中核派に報復宣言

9・30 三里塚、立入調査で公団側と激闘

10・8 羽田闘争三周年。入管闘争

10・21 国際反戦デー。各地で集会、デモ

12・18 京浜安保共闘、板橋で交番襲撃

12・20 沖繩・コザ市で暴動。騒乱罪適用




1971年


2・17 京浜安保共闘、真岡の銃砲店襲撃

2・22 千葉県・公団、第一次強制代執行

6・15 全国全共闘分裂(中核と沖共闘)

6・17 明治公園の集会で鉄パイプ爆弾

8・6 広島反戦集会。連合赤軍誕生のビラ

9・16 三里塚第二強制代執行、連日機動隊と激突。警官三人死亡

9・25 沖青委、皇居突入

10・24 東京都内三カ所で爆弾爆発。本格的爆弾時代へ

11・14 沖繩闘争、渋谷大暴動

11・19 日比谷大暴動。中核派1800人逮捕

12・4 革マル派、関西大中核派襲撃、2名死亡

12・24 新宿でツリー爆発





1972年


2・19 連合赤軍、浅間山荘に籠城

2・28 機動隊と銃撃戦。陥落

3・7 リンチ事件発覚、妙義山中で1遺体発掘。13日までに12遺体、総計14。新左翼にショックを与える

4・28 沖繩デー。中核派集会に反戦自衛官

5・30 アラブ赤軍派、テルアビブ空港襲撃

10・21 国際反戦デー、全国数百ヵ所でデモ

11・8 早大川口君リンチ殺人事件。以後、革マル派への連日の追及集会。





1973年


1・1 連合赤軍森恒夫東京拘置所で自殺

4・2 早大入学式に黒ヘル乱入

7・4 革マル派、池袋の中核派アジト四ヵ所襲撃

7・20 日本赤軍日航404便ハイジャック

9・15 神奈川大で反帝学評と革マル派衝突

10・20 革マル派、全国の中核派アジト襲撃

11・8 川口君事件一周年。中核派、解放派と革マル派の党派闘争激化





1974年


1・14 革マル派、破防法弁護団会議襲撃

1・24 中核派、東京と横浜で革マル派を襲撃。12名死亡

1・31 日本赤軍、シンガポール・シェル基地を攻撃

5・13 第一次法政大会戦。中核派と革マル派激突。1名死亡

6・26 第二次法政大会戦

8・30 東アジア反日武装戦線"狼" 三菱重工本社爆破。爆弾闘争再開

10・31 狭山差別裁判、東京高裁、二審無期判決

11・18 フォ―ド来日阻止闘争

12・16 中核派、革マル派の東京3アジト同時襲撃





1975年


2・28 間組本社ビル爆破

3・14 中核派本多書記長、革マル派の攻撃で死亡。中核派「全面無制限戦争突入宣言」

3・28 革マル派一方的テロ停止宣言

7・17 皇太子訪沖阻止闘争。新橋駅で中核―革マル激突

8・4 日本赤軍、クアラルンプール同志奪還闘争

9・30 天皇訪米阻止闘争。羽田周辺でデモ

10・12 三里塚空港粉砕総決起集会





1976年


2・23三里塚現地総決起集会

4・28 沖繩デー

5・23 狭山差別裁判勝利中央統一集会

10・21 国際反戦デー





1977年


2・11 革マル派、革労協中原一襲撃→死亡

4・17 三里塚鉄塔死守総決起集会

5・6三里塚強制代執行、機動隊と激突。8日東山薫虐殺

8・9 狭山差別裁判最高裁上告棄却

8・23 狭山差別裁判勝利中央総決起集会

9・28 日本赤軍ダッカ空港ハイジャック

10・9 三里塚空港粉砕、ジェット燃料輸送阻止集会





1978年


3・26 成田管制塔突入闘争



昭和の抵抗権行使運動(1)

「昭和維新」


 徳川幕藩体制の崩壊と大日本帝国の敗戦と、2度の未曾有の変革期に、日本人民は2度とも敗北した。「自由民権運動」の敗北の経緯を学習しながら私は、もう一つの敗北にも一度はしっかりと目を注がなければいけないと思っていた。

「周雖旧邦 厥命維新」(詩経、大雅、文王)
<周は旧邦なりと雖も、その命は維(こ)れ新(あらた)なり>

 明治「維新」の語源だという。

 明治維新において人民は、<近代的国民国家>を形成できず敗北した。できあがった国家は、アジア的統治形態のイデオロギーにプロシャ流立憲的専政君主制を模倣・採用した<例外的国家>であった。つまり明治維新は、当初は「維れ新なり」と言える契機を孕んでいたが、結果はアジア的デスポティズムという「古(いにしえ)に復(かえ)る」(復古)という結果に帰してしまった。

 右翼は「維新」が好きだ。昭和維新、平成維新と保守反動の運動に「維新」を冠したがる。60年安保闘争の時、デモの列にトラックで突っ込んだうえ、デモ参加者への暴力をほしいままにした右翼集団は「維新行動隊」と名乗っていた。中味は「復古」なのに「維新」を標榜する。明治維新の結果が「維新」ではなく「復古」だったため、「復古」=「維新」という早とちりをしいているのだ。

 「維新」という言葉を右翼から取り戻し、本来の意味で使おうと思う。私は今回の表題を「昭和維新」とした。

 何をもって「昭和維新」と呼ぼうとしているのか。60年安保闘争を中心に1950年代から1970年代にかけて闘われた、いわゆる新左翼を中心とする広範な抵抗権行使運動である。明治維新における自由民権運動に比肩する闘いだったと、私は思う。今回から、60年安保闘争に焦点をあてて、「昭和維新」の敗北の経緯をたどってみたい。

========

 毎度の事ながら、全体の構想をもたぬまま、学習をしながらのアクロバット更新をしていきます。途中でモタモタ・ギクシャクするかもしれませんが、あしからず。

 とりあえず、次の教科書を使う予定です。

教科書A
 蔵田計成著『新左翼運動全史』(流動出版)

教科書B
 三上治著『独立左翼論』(三交社 「吉本隆明が語る戦後55年」所収)

教科書C
 『朝日ジャーナルの時代』(朝日新聞社)

自由『続・大日本帝国の痼疾』(100)

自由民権運動(54)―民権運動は終わっていない。


 自由民権運動が抱えていた内部的弱点としてもう一つ、『自由党と改進党の軋轢(1)(2)(3)』でみたように、自由党と改進党の泥仕合をあげることができる。

 明治官僚政府が急速に中央集権的体制を固めつつあったときに、人民自身もみずからの経験を通して〝統一の組織を持つということ″、「党」を持つということの意味を発見していた。そして一千にあまる民権結社、国会期成同盟をへて自由党、改進党を生みだしていた。

 ところが、明治政府が本格的な総反攻にでた直後に、革新的党派が第二義的なことで敵対、抗争をくり返し、ついには自滅におちいっていった。そうした運動の型がわが国の政治風土では現在でもなお克服されていない。



 さらに、いまだに克服されていない問題がもう一つある。天皇制の問題である。

 また明治の民権家は、天皇制の独特な人民支配の差別と疎外の構造を、その枠組を破ってトータルに認識することに失敗した。このことは政治的天皇制が廃棄された現在でも、まだ克服されておらず、新たな内外人民への抑圧と差別の現構造の中にひきつがれている。



 続いて色川さんは、自由民権運動から引き継ぐべき切実な課題を、次のようにまとめている。

 憲法問題や防衛問題はもちろんのこと、人権や民主主義の原理の問題、土着的、人民的抵抗の思想化の問題、脱亜入欧の問題、天皇制の問題など、自由民権運動の敗北のあと、幾度もの歴史的な試練を経ながら未解決のままに残されたことがらはあまりにも多い。その意味でも自由民権運動はまだ終ってはいない。「歴史」として完結しておらず、現代の私たちに切実な課題としてひきつがれている。



 最後に、「民権運動の意義」について、次のように締めくくっている。

 最後にひとこと自由民権運動の意義について付言しておきたい。

 右のような多くの弱点を持ちながらも、わが国歴史上に、もしもこの運動がなかったとしたら、1890年(明治23)という早い時期に国会が開設されることはありえなかったろう。

 また仮に政治変革としての直接の効果は乏しかつたとしても、この運動がもった文化運動、思想運動としての意義を消し去ることはできない。日本人民はこの運動を通じての広義の政治学習によって、はじめて国民としての政治的開眼をとげ、近代社会建設の活力をふるい起し得たからである。

 明治の教育の奇蹟といわれる、国民の就学率の驚くべき上昇も、政府官僚の指導だけで達成できたものではなく、自由民権期の学習熱と幾百千の民権結社の活動によって補われ、押しあげられたのである。

 さらにこの運動の思想的影響が、欧米帝国主義の圧迫に苦しみながらも民族の独立と国の近代化を求めて戦っていた中国、朝鮮、ヴェトナムなどにまでおよび、それらの諸国民の民主化や民族独立運動の勃興に貢献したということの意味も、私たちは見落すことはできない。

 私たちが自由民権百年の記念行事を、ひとり日本国民だけでなく、第三世界をふくむ世界中の人民と共に盛大におこなってゆきたいと願うのは、百年前の民権家たちの〝開かれた精神″を継ぐことになると信ずるからである。



 明治政府の「世界史的な過誤」とも言うべきアジアに対する外交問題、思想的問題としては「国権」思想と「民権」思想との相克の問題、これらを課題として残しているが、これでこの稿「自由民権運動」を終わりとしたい。

自由『続・大日本帝国の痼疾』(99)

自由民権運動(53)―躓きの石(2)「国権論」


 全国的に展開された民権結社の設立、独創をこらしたいくつもの憲法案の起草活動、そして自由党の結成と、自由民権運動が最も活発になった1881(明治14)年は同時に、自由民権運動にとっていくつもの悪条件が出来し始めた年でもあった。

 一つは、松方財政による経済困難があげられる。

 本資本主義の本源的蓄積過程の強行は農民層の分解を激化し、地主と小作、豪農と貧農・半プロレタリアの対立を表面化させて、民権運動の最大の支柱であった豪農層の足もとをつき崩した。広汎な豪農民権家の戦線離脱がはじまったのである。



 さらにそのうえ、1882(明治15)年からの国際情勢の変化が自由民権運動に不利な影響を加えていった。

 1882年の壬午(じんご)の軍乱は清国軍隊の朝鮮への進出をもたらし、日本の支配層を巻き返しのための軍備の大増強に向かわせた。つまり、これまでの専守防衛、内乱鎮圧の常備軍から大陸作戦遂行に耐える軍備へと主眼を転換させたのである。このことは民権派内部の国権論的な分子に動揺をもたらしたばかりでなく、増税の断行によって民権運動支持層に大きな打撃をあたえた。

 それでもなお1882年には、自由民権派の内地改良優先の方針は変わらず、アジア情勢に対する局外中立論や平和・道義国家構想が主張されて、明治政府の軍事化路線に有効な歯止めをかけることができていた。それが1884年の甲申事変になるとまさに一変するのである。

 自由党も改進党も党をあげてその抑止力を失い、外から見るかぎりむしろ政府よりも好戦的な姿勢を示して、明治国家の大陸政策にひきずられていった。なぜそうなったか。

 一つは清仏(しんふつ)戦争の本格化、およびロシア、イギリスの朝鮮への進出の動き、その朝鮮をめぐっての日清両国の軍事衝突など一連の東アジア情勢の緊迫化が、後進国ナショナリズムを刺激し、民権派の座標軸を押し流した。

 だが、二つには、より根本的な原因は、むしろ国内にあった。主体の側にあった。豪農層の運動からの広汎な離脱によって、地方政社や中央政党の右傾化―急進化という二極分解が進み、大勢として保守化を強めた政党の主流が、この時点になって明治専制国家との正面からの戦いを放棄してしまった、そこにこそ真の原因が求められる。

 権力との戦いをやめてしまえば、争点は見失われる。くわえて民権家自体に沖縄、朝鮮などへの蔑視、差別観があった以上、わが国威を傷つけた「琉奴」や「韓奴(かんど)」をこらしめて「処分」せよと迫るようになるのは不可避であったろう。

 そのうえ、国家による外交情報の独占と排外主義的な輿論操作が、一般国民のナショナリズム感情をあおり立てた以上、よほどの信念がないかぎり、この潮流に抗することはむずかしかつたと思う。

 それは何も明治時代のことばかりではない。20年前まで反戦基地闘争や平和運動の旗手であったような人物が、北方脅威説がとなえられるようになると、たちまち国家主義の先鋒になり、軍事化や核武装をあおるようになる現象は、今われわれが眼前にしている風景である。民権論から国権論へ、いま多くの知識人がなだれを打って転向しつつあるではないか。

 自由民権派の弱点は国権と民権との関係を深く掘りさげ、普遍的、原理的な確信にまで到れなかったという所にある。「防衛」という名の権力の発動の前には、人権の抑制もやむを得ないというような主張に簡単に同調してしまうというのは、人権が何ものによっても侵すことのできない基本的な権利として捉えられていないからであり、また、それが、性別や身分や階層や民族の違いによって差別されてはならない普遍的な権理(けんり)であることへの信念が欠けているからである。

 「天は人の上に人を造らず」といった福沢の一句は至言(しげん)である。それは

「天ノ斯(こ)ノ民(たみ)ヲ生ズル彼ニ厚ク此(こ)レニ薄キノ理ナシ」

と、行く先々で人民に説いた秩父蜂起軍の指導者たちの信念と同じである。大事なことはこれを圧制に抗して貫いてゆくか否かにある。この信念を原理にまで徹底させて持ちこたえるか否かにある。



 「人権が何ものによっても侵すことのできない基本的な権利として捉え」ることからほど遠く、「また、それが、性別や身分や階層や民族の違いによって差別されてはならない普遍的な権理(けんり)であることへの信念が欠けている」最たるものが最高裁判事である。思想・信条・表現の自由を巡って、最近最高裁が下した不当判決を思いつくままあげてみる。「立川ビラ配布事件」「NHK番組改変事件」「大泉ブラウス裁判」「ピアノ伴奏拒否事件」「国立二小ピースリボン事件」・・・

 特に、「君が代・日の丸の強制」問題に関しての判決について一言加えれば、〈国旗掲揚・国歌斉唱に関する校長の絶対権限と教員の絶対服従〉を最高裁が肯定したことになる。情けない自由民権後進国だ。

 蛇足一つ
 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という成句は福沢諭吉の独創ではない。このことは次の記事で取り上げた。

今日の話題:『「学問のすゝめ」・冒頭の成句について』

自由『続・大日本帝国の痼疾』(98)

自由民権運動(52)―躓きの石(1)「脱亜入欧論」


 自由民権運動はなぜ敗北したのか。その原因のうち、内部的弱点を取り上げよう。その内部的弱点は、自由民権運動から120数年後のいまもなお克服できていないのではないか。日本人民はいまだ真の自由民権を獲得できていない。自由民権運動の失敗の経験から学ぶこと多々ある。

 たとえば、民権運動運動の躓き蹟きの石のひとつに「脱亜入欧論」がある。この脱亜入欧論がはらむ思想的歪みは今なお克服されていないばかりか、今ではそのゆがんだ思想が多数派をなしているのではないだろうか。

 脱亜入欧論は1885(明治18)年に福沢諭吉によって提唱された。当時、少数の民権派の知識人や為政者に受けいれられたに過ぎなかったが、この「脱亜入欧」的な思想は漸次根をひろげていき、その後の日本の進路に「世界史的な過誤」を呼び込む原因のひとつとなっていった。

 最近では多くの人が認めている、自由民権家が克服できなかった内部的弱点の第一は、内にあっては被差別部落や沖縄、アイヌに対する蔑視、外に向かっては朝鮮、台湾などの人民に対する差別や蔑視であろう。

 この偏見は、これらの被抑圧者を社会の最底辺に位置づけ、階層を接する民衆同士をたがいに対立させ、憎悪させて、たくみに統御支配してきた天皇制の差別序列構造に民権家をまきこみ、その全体像に対する批判の目をつぶしてきた。

 さらに民権家の琉球、アイヌへの差別観は、そのまま朝鮮、台湾への差別、蔑視につながり、結局のところ明治国家の大陸侵略政策にたいする批判の根拠を失わせることになった。

 これを単純に欧米列強によって日本の独立がおびやかされたから、止むをえずにやった処置と強弁することはできない。むしろ進んで脱亜入欧の道を選び、隣国の独立をおかしても強国たろうと考えた、その思想から発していたのである。つまり、民権家の多くが国権主義者に転落してゆく最深の原因は、みずからの差別の意識の中にあったのであり、それが「琉球処分」や「朝鮮処分」に展開し、あげくのはては「脱亜入欧」(欧米帝国主義の仲間入り)の道を走り、わが手で墓穴を掘る結果をまねいたのである。

 末広重恭(鉄腸)は自由党創立の時、常議員に選ばれたほどの民権家であったが、1879年(明治12)1月、「琉球処分」の直前に、琉球国の独立を訴えた首里士族らの行動に怒って、「琉奴(りゅうど)討(つみ)ス可シ」という論説を『朝野新聞』に発表した。末広はこのとき琉球人民の民権にはまるで目がとどかず、明治国家の権力的な琉球併合を支持したばかりか、「琉奴」という侮蔑の言葉を発していたのである。その後、末広はどうなってゆくか。上海に根拠をおく「東洋学館」(1884年〔明治17〕8月設立)の館長をひきうけ、国権主義者の道に転落していった。

 『自由新聞』が「朝鮮処分」という社説を発表したのはその年(1884年)12月19日である。それは改進党の藤田茂吉、犬養毅(つよし)、尾崎行雄らが、「朝鮮の内治(ないち)に干渉し以て之を併略(ヘいりゃく)することを努(つと)むべし」との「朝鮮処分」の進言を伊藤博文に呈したのと同類であった。

 「琉球処分」に賛成したものは、やがて「朝鮮処分」に向かう。その軌跡を末広鉄腸ほどの人が示したのである。

 当時、琉球への差別観を克服していた民権家はきわめて少数であった。その中でも植木枝盛は琉球独立論によって卓越していた。彼は日本と清国が琉球を沖縄本島と宮古・八重山群島の二つに分割して領有、統治するという「改約・分島(ぶんとう)」案を知ってするどく反論し、逆に琉球を独立せしめることがアジアの進むべき開明への道だと主張した。そして、その独立した弱小国の権利は、万国共議政府によって安全を保障するという構想をもつていた。

 植木は日清両国による琉球の分割案を「残忍酷虐」(ざんにんこくぎゃく)「野蛮不文(やばんふぶん)」の極致として人民の視点から根底的に批判した。

だが、その透徹した論理の持ち主植木ですら、1884年(明治17)12月の甲申(こうしん)事変では政府の情報操作に目を曇らされ、政治的な躓きをみせているのである。



 甲申事変での「政府の情報操作」とはどのようなことだったのか。それを知りたいと思い検索したら、

「明治・その時代を考えてみよう」

という、とっても充実したホームページに出会いました。「このホームページ内の文章はどのように使用されても構いません。」ということなので、これから大いに利用させてもらおうと思っています。興味のある方は、合わせ読まれるとよいかと思います。

 甲申事件についてページをリンクしておきます。

「甲申事件」

自由『続・大日本帝国の痼疾』(97)

自由民権運動(51)―自由民権百年


 自由民権運動に関連した事柄で、詳しく学習したいと思っていることがいくつかある。その一つは明治政府の「世界史的な過誤」とも言うべきアジアに対する外交問題である。それは天皇の神秘化・民権の圧殺とならんで、まさに『大日本帝国の痼疾』を形成している病巣の一つである。この問題は、思想的視点からは、「国権」思想と「民権」思想との相克の問題として捉えられよう。

 これは大変大きな問題である。稿を改めて取り上げようと思っている。ここでは教科書A(色川大吉著『自由民権』)を用いて、その問題点のあらましを予習しておくにとどめたい。

 このシリーズ(自由民権運動)の第一回「なぜいま自由民権か」で、教科書Aの最終章の一部を引用した。その最終章を読んでいこう。

 色川さんは、「自由民権百年」のカンパニアの一環として、『自由民権』を著述している。何時を「自由民権百年」としているのだろうか。

 「日本人民が専制権力の容赦のない弾圧に抗して、自らの手で民主的な憲法草案を起草し」、全国各地に民権結社を設立し、「日本の歴史上はじめて革命的な全国政党を結成した画期的な年」1881年(明治14)から数えて百年、1981年に「民権百年」のカンパニアが始められた。

 1981年11月に予定した自由民権百年を記念する全国的な大集会を期して、北海道から沖縄まで日本列島各地に実行委員会が結成された。それを基盤に、1980年11月、全国集会実行委員会は歴史的アピールを採択した。

 自由民権運動は、すべての人が、権力も犯すことのできない人権をもっていることを主張した。そして、人権を確保する保障として、憲法を制定し、国会を開設し、官僚専制政治を打破することを要求した。この人権と民主主義の理想のために、当時の青年たちは、都市といわず、農山漁村といわず、何百という学習会や討論会を組織し、地方政社を結成した。

(中略)

 私たちが1981年という時点で、あえて自由民権百年の全国集会を開こうとするのは、人権と民主主義のための日本人民のたたかいの足跡(そくせき)を明らかにすることが、現代にとって大きな意義をもつと考えるからである。

(中略)

 百年前の民権と自由のたたかいに命をかけた日本人民の情熱と悲願を現代によみがえらせることにこそ、この記念集会の真の意味があるものと考える。



 このとき、色川さんは自由民権百年のカンパニアの意義を次のように書きとめている。

 私はこの「自由民権百年」のカンパニアは、少なくとも1980年代の前半五年間はつづけるべきだと考える。また、この「民権年間」の二つの山は、81年と84年にあると考える。

 1881年(明治14)は自由民権運動の最高潮の年であり、全国各地の草の根からの力によって専制政府を内部崩壊の危機に追いつめた年である。

 1884年(明治17)はといえば、この運動が明治14年の政変後、権力の総反攻によっておしかえされ、士族民権家や豪農指導者たちに日和見(ひよりみ)と脱落がはじまったとき、その内部から彼らを乗りこえて前進しようとした一部急進派と革命的農民が登場し、群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件などの抵抗をくりひろげた年である。

 前者によって国会の開設が決定し、後者によって民衆思想の頂点が形成された。それ故に私たちは1884年を自由党解党の日をもって記念しない。むしろ秩父コミューンの成立の年として記念するのである。

 それから今年はまる百年。私たちはこの日本人民の空前のたたかいの達成点と敗北のにがい経験を貴重なものとし、これを革新的な伝統に再生して現状の変革のために役立てたいと考える。

 なぜ、それほどまでに高揚した民権の意識がたちまちのうちに国権の潮におし流されていったのか。なぜ民権家の多くがその後熱烈な国権主義者に変転していったのか。その難問についてはしばしば本文でも私見を述べたし、この事でもまとめて論じてみたいが、その問いは今日の思想状況とも相通ずる。

 戦後35年、民主主義は管理体制と化して形骸化し、平和日本の繁栄の道をひらいた新憲法は、占領軍による「押しつけ憲法」として否定されようとしている。こうした情況なるがゆえに、いっそうあらたな決意と行動が必要になったのである。



 また、自由民権百年で顕彰すべき人たちについて、次のように述べている。

 明治維新は薩摩、長州の志士の手で成された、自由民権運動は土佐士族の手で起こされたというのは偏見である。エリート中心史観が横行し、研究の遅れていた時代の見方であるということを私はこの本で詳述してきた。つまり、この二十年間の民衆史家や地方史研究者の地をはうような努力は、豊饒な人民の歴史的遺産を掘り起し、自由民権のたたかいの栄光は、そうした〝無名の人民″にこそ捧げられるべきものであることを証明した。今、はっきりとその名前ゃ内容を確認できる全国六百余の民権結社の熱烈な学習運動ゃ、国会開設請願運動、憲法起草運動、はげしい官憲の弾圧に抗しての人民への呼びかけ行動などは、ほとんどが名を残すこともなく死んだ一部の反政府士族ゃ豪農指導者ゃ地方の民衆によってになわれたのである。

 人民による民主憲法の起草と、抵抗権を行使した秩父困民党の峰起などはこの自由民権の頂点をなす。今の一部の若者がこの歴史に強くひかれるのは、可能性にみちていたこの時代のキラキラする日本人民の魂の奔放さ、突きぬけたような自由な発想と、そこにあらわれた人間性の豊かさ、美しさに彼らが打たれるからであろう。

 それはとりも直さず、現代が彼らに理想をあたえず、風のような空しさのなかに流れている証拠である。だから、「自由民権百年」をいま私たちが記念するということは、そのキラキラするものを復権することであって、板垣退助ゃ後藤象二郎らを顕彰することでは断じてない。そんな所に迷っていれば、「むかし晋作、いま栄作」といって明治維新百年祭を横どりした小ざかしい政治屋たちに、またもや逆用されるであろう。


『続・大日本帝国の痼疾』(96)

自由民権運動(50)―飯田事件・名古屋事件


1884(明治17)年
 12月 飯田事件
     名古屋事件

飯田事件

 秩父で自由困民党が蜂起のための組織活動を活発につづけていた1884(明治17)年秋、信州飯田の愛国正理(せいり)社の自由党員たちも負債民の法律相談や調停交渉にとりくみ、総理の坂田哲太郎を先頭に官憲の干渉に対する反対闘争をはげしく展開していた。

愛国正理社は元結(もとゆい)職人や貧農を組織していた。この年8月の内藤魯一(ろいち)の「飯田通信」によると社員2500余、その要求は「租税軽減・徴兵令改正・印紙税廃止・貧民救恤(きゅうじゅつ)」で秩父困民党に通じるものがあった。

 秩父に暴動起こるの報に村松愛蔵ら愛知県田原の自由党員はこの愛国正理社の柳沢平吉(へいきち)社長らと連携して、武装蜂起の方針を決定する。

「埼玉県暴動ハ干戈(かんか)ノ一機(いっき)、挙時機(きょじき)来レリ」

 彼らの戦略は名古屋鎮台を乗っとり、監獄を破壊して兵士・囚人を味方にし軍団を強化しながら甲府貧民党と合流し、八王子に出て全国の同志とともに東京に進攻しようという計画であった。実際に名古屋鎮台の中に同志を獲得していた。

 彼らはまたかねてから檄文五万部を印刷して都会各地に撒布する計画をもっていたが、資金の調達ができずに行なわれなかった。

つまり事は少数精鋭で起すが、その趣旨は大衆に訴えて、挙兵の目的「自由革命」を実現する構想だけは持っていた。だが、秩父のような人民の中に深く入っての組織工作が欠けていたと思われる。

 色川さんは日比野元彦氏の研究(『東海近代史研究』創刊号)を引いて補強している。

「愛国正理社員に対して柳沢の積極的な指導性が発揮され、それをどこまでも遂行していたならば、あるいは又、茨城暴徒のことを病床で聞き『慷慨シ自ラ其髪ヲ握り衣服ヲ裂ク等殆(ほと)ンド狂態ニ近キ有様』であった愛国正理社総理坂田哲太郎(明治17年10月19日死去)がなおも健在でいたならば、飯田事件の局面は大きく変わっていたであろう。」

 しかし、11月13日、秩父の情勢を見て計画は中止された。そして12月、密告によって村松らが逮捕され、未発の内乱陰謀事件として終った。

名古屋事件

 ついで、飯田事件との関係も疑われて、名古屋の党員や土佐の民権家奥宮健之(けんし)ら30余名が逮捕されるという名古屋事件が起こった。

 名古屋事件について、色川さんは次のように解説している。

 これらに共通する特色は、資金獲得とスパイ防止策から同志に強盗行為をくり返させ、組織から逃げられないようにしていたということで、大島渚(なぎさ)らの名古屋事件のごときは、殺人2件をふくめて強盗・未遂51件、とくに大島渚27回、鈴木松五郎35回、富田勘兵衛(とみた かんべえ)48回(いずれも死刑)、と凄(すさ)まじい。

 長谷川昇氏はこの事件を精査した結果、名古屋事件は農民の概念では捉(とら)えられない、都市細(さい)民(みん)層の激化であるとして、そこには少数の民権家(自由党知識人)が参加しているが、主体は都市下層社会に吹きよせられた貧窮士族、博徒、職人、半プロ層であることを立証された。

「出自においては貧農、族称においては草莽隊士族、実質は都市細民」たる彼らが、本格的な資本主義原始蓄積期の社会と国家から三重に疎外されて、その鬱積した不満のエネルギーを爆発させたものであり、数十回の強盗行為は他の激化事件のそれと違って、彼ら都市窮民のアナーキーな表現形式であるというのである。自由民権運動はこうした都市の最下層民衆の反抗の膨大なエネルギーを組織できなかった。そして、その歴史的課題は次代の労働運動や社会主義運動にひきつがれてゆく。



 続いて1886(明治19)年6月、全国的蜂起のための大臣暗殺をはかったということで、100余名の急進的な民権家が捕えられた。静岡事件と呼ばれている。これをもって、いわゆる激化諸事件は終焉した。