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『続・大日本帝国の痼疾』(95)

自由民権運動(49)―秩父事件(2)


 困民党軍参謀長をつとめた菊池貫平の出獄直後の回想談が『信濃毎日新聞』(1905年3月 記者佐藤桜哉(おうさい)の筆録)に掲載されていた。それが最近発見されたという。その長文の記事には「大宮郷に侵入する農民軍の急流のような勢いが目に見えるように活写されている」という。以下はその記事によるものと思われる。

11月2日
 大宮郷に侵入した農民軍が郡役所を占領してから、変報を聞いて馳せ参ずるものが洪水のように水かさを増し、三千からたちまち五千となり、七千となり、わずか一日にして一万を越す数に達した。

 この未曾有の高揚の中で困民党軍の最高幹部会議が開かれた。そこでの議論は、いったん山険(けん)に退いて、信州、甲州、越後(えちご)に「幾万の同勢」をつのり、一時、全国を騒乱の巷(ちまた)とするならば新政も成ろう、との慎重論に対して、いや速かに「人民の幸福のために治政(ちせい)を布(し)くべく‥…これが利益を殺(そ)ぐ所の沿道の諸官庁を破壊しつゝ、進んで帝都に乱入する」との積極論が出て、軍議はこれに決したという。

 色川さんは言う。

 三千人の大群衆だけでも目をみはるような動員の成功であったのに、それが一万に達したとき、彼ら指導者たちがその前途にふくれ上った人民軍数万の激流のような進軍を幻想したとしても責めることはできまい。



 さて、困民党軍は各谷間(たにあい)にゲリラ隊を出して、戸長(こちょう)役場や悪質高利貸を襲撃し、銃器を徴発し、借金台帳や証文をことごとく焼きはらった。この勢いに内務卿山県有朋らは深刻な衝撃をうけ、急ぎ東京鎮台兵を応援に派遣し、三方から農民軍を本格的に包囲したのである。

11月4日夜
 埼玉県児玉町金屋に突出した大野苗吉ら四、五百名の農民部隊と、東京鎮台第三大隊第三中隊は白兵戦をまじえての激戦を展開した。この戦闘での困民党軍の抵抗の凄まじさは、新発見の文書によってますます明らかとなり、死傷者数もこれまでの数倍の数にふえている。官側の報告書などをそのまま信用することはできないとし、「天朝様(てんちょうさま)ニ敵対スルカラ加勢(かせい)シロ」で有名な副大隊長大野苗吉はこの戦闘で戦死したものと、色川さんは推測している。

 同夜、粥仁田峠(かいにだとうげ)でも落合寅市のひきいる部隊が木砲(もくほう)を使って鎮台兵とはげしい銃撃戦を行なっている。

 ところが、田代栄助や井上伝蔵(でんぞう)らの困民党軍の本陣が、この日、決戦をまえにとつぜん解体し、逃避行(とうひこう)に移ってしまった。そのため全軍の潰走(かいそう)がはじまる。この原因を、『信濃毎日』の記事は次のように説明している。

 全軍の士気が沮喪(そそう)した原因は、敵に三方を包囲されたためでも、勇者新井周三郎が重傷を負って倒れたためでもない。「総理田代栄助の変心(ヘんしん)して姿を隠せること、即ち是(すなわこ)れ」である。大阪事件においては渡韓(とかん)実行隊長磯山清兵衛(いそやませいべえ)の変心が致命的になったが、「秩父暴動事件にありては、栄助は最も似(に)たる磯山たりし也(なり)」

 それにくわえて会計長井上伝蔵が逃亡する。これを聞いて、群衆は「忽(たちま)ち噪(さわ)ぎて四分五裂、殆(ほとん)ど潰乱(かいらん)せむとす」

 この突然の農民軍崩壊について、色川さんのコメントは、やはり暖かい。

 私はこの筆誅(ひつちゅう)に対して栄助や伝蔵に同情する。彼らは大井憲太郎を信じていたが、三方を敵にかこまれ、「関東一斉蜂起」のロマンが幻想として跡かたなく消え失せたとき、これ以上「無益の戦い」を続ける意志を失ったのであろう。



 本陣解体後、菊池貫平が困民党軍を再編する。これは田代の軍の単なる残党ではなく、上武信(じょうぶしん)の決死隊によって改めて組織し直された第二次困民党軍とよぶにふさわしいものだった。菊池はこれをひきいて上州の神流(かんな)川に出て、各地の困民党を集めながら、紅葉(もみじ)も終りの十石(じっこく)峠をこえて信州に転戦していった。島崎嘉四郎(かしろう)や「会津ノ先生」こと稲野文次郎の姿もこの中にあった。

11月9日
 数百名の困民党軍本隊が千曲川沿いの東馬流(まながし)に野営中、鎮台兵に急襲され、甲州めざして南下したが、途中八ヶ岳山麓の村で壊滅した。

 裁判の結果

死刑
 田代総理以下、加藤織平(おりヘい)、新井周三郎、高岸善吉、坂本宗作
 行方不明の井上伝蔵と菊池貫平も欠席裁判で死刑の判決

 その他重罪三百余人、軽罪及び罰金刑四千余人におよんだ大蜂起だった。

 さて最後に、秩父事件についての色川さんの歴史的評価(秩父事件を「伝統的な農民一揆の最後にして最高の形態」と見るべきか、それとも「自由民権運動の最後にして最高の形態」と見るべきか、)をそのまま引用しておこう。

 この論争に最近、興味深い一書が投じられた。森山軍治郎(ぐんじろう)氏の『民衆蜂起と祭り』であり、これは前者の主張を民衆文化論によって補強し展開している。これに対して間接的な反批判ともいうべき重大な示唆が井上幸治氏によって与えられた。それは飯田・三山(さんやま)村小隊長犬木寿作(いぬきじゅさく)が寺尾(てらお)山中に埋めた田代総理から預かった重要書類の意義を、井上氏が再発見して提起されたものである。

 そこには一国全体を見渡す軍備計画(一国一名の総監督、副監督一名、隊長、副隊長、少佐、聯(れん)長など)や、中央から地方に及ぶ行政組織(一国一名の地方総部、郡長、村長、警視官など)の構想が明記されていた。

 この軍制は、大隊に相当する二百名程度の単位と、小隊に相当する五十名程度の単位の下に旧陸軍の分隊にあたる十名単位をおくという組織になっている。この計画では幾つの大隊をおくのかは記されていないが、甲大隊長の新井周三郎は後に検事補の

〝汝(なんじ)は何のためにこんな暴挙をしたか″

との尋問に対して、

「大総督(そうとく)ニデモナル積(つも)リナリシナリ」

と一笑して答え、

「大総督トハ如何(いかに)」

とたたみこまれて、

「日本陸軍ノ大総督ヲ云フナリ」

と言い放っている。

 私はこの点に注目して構想者を新井周三郎だと推定している。もし、そうだとすると、この一国一名の総監督は「日本陸軍ノ大総督」を意味することになり、彼らが11月2日の大宮郷の高揚の中で、権力奪取後の政体構想と軍事構想を、ロマンの形であれ、語りあっていたことを裏書きする史料となるのである。

 一郡を完全に自分たちの手で治め、コミューンたらしめたという異常な空前の体験からくる興奮と解放感が、民衆にこうした壮大な構想を可能にさせたのであろう。これはまさに井上幸治氏のいわれる通り、「レアリストの田代や井上の想像を絶する文書である」。

 困民党軍の意識の高さは、サブ・リーダーとしての耕地オルグやそれに同調した農民たちの証言にみられるように、われわれの想像をはるかに越えたものであった。これほどまでの高度の政治性や思想性を生みだした秩父事件を、農民一揆と捉えることは歴史認識として正しくないと私は思う。



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『続・大日本帝国の痼疾』(94)

自由民権運動(48)―秩父事件(1)


1884(明治17)年11月 秩父事件

 この事件は圧政明治政府にとっては、人民が真っ向から天皇制国家に敵対した不祥事件である。従って、永い間歴史の闇に封じこめられていた。それが「大東亜戦争」敗戦後ようやく日の目を見ることとなった。とくに地元の教師や研究者、住民有志による顕彰運動の進展の中で史実の掘り起しも大きく前進した。数千人の蜂起農民の個別調査も進んでいるという。

 研究の進展にともなって、この事件の歴史的評価をめぐる論争も活発に行われてきているようだ。その論争のテーマは、秩父事件を「伝統的な農民一揆の最後にして最高の形態」と見るべきか、それとも「自由民権運動の最後にして最高の形態」と見るべきか、という点にある。いま初めてこの事件の学習をしようとしている私に、それを断ずる力量も資格もないが、ともかく秩父事件と呼ばれている大がかりな抵抗権行使事件のあわましを知った上で、色川さんの見解を聞くこととしよう。

 1884(明治17)年10月の自由党の解党によって自由民権運動は総崩れになろうとしていた。1884(明治17)年11月、自由民権運動の掉尾とも言うべき革命的蜂起が、首都東京と60キロしか離れていない埼玉県秩父郡全域において勃発した。

 『自由民権運動(42)―抵抗権行使事件を担った人たち』で触れたように、一連の農民蜂起をまねいた政治的な原因があった。政府は秩父事件を「衝撃的な突発事件」と認識していたようだが、その前兆は明らかなはずだった。松方財政による大増税とデフレ政策が深刻な不景気をもたらし、そのうえに国際的不況も重なって農民や都市細民などを破滅の淵に追いつめていた。そのために、数十件の負債に関連する騒擾事件が発生していた。その中で最大のものがこの秩父事件だった。窮民救済に無為無策なうえに、なんとも鈍感な政府だった。

 秩父事件を担った母体は秩父困民(こんみん)党と呼ばれているが、その中核をなしていたのは自由党員である。だだし、秩父地方には二種類の自由党が並行して存在していて、秩父困民党の中核となった自由党は、以前からあった正統的な自由党とは性質が異なったものだった。村上泰治など「旦那衆の志士的な」自由党に対してもう一つの自由党は、自由民権の政治理念を中・貧農の立場で読みかえて、社会的平等の要求をかかげたものだった。「金のないのも苦にしやさんすな いまにお金が自由党」である。自由困民党と呼ぶ研究者もいるが、参加農民の意識の中で自由党と困民党とが重なりあっていて、板垣の自由党を彼らの言葉で読み変え、変質させて人民に伝達するという離れわざをやってのけた党であった。

 秩父困民党の農民指導者トリオといわれている三人の指導者がいる。落合寅市(とらいち)・高岸(たかぎし)善吉・坂本宗作(そうさく)。1883(明治16)年12月、彼らは負債農民を代表して秩父郡役所に請願行動を起こした。そして、再三の請願運動を通じて大衆をとらえながら、一方では自由党に加盟し、大井憲太郎ら左派指導者の影響をうけ、彼らの伝統的観念である世直しや世均(よなら)しの正当性を確信するようになり、一歩一歩困民党の中核を形成していった。

 彼らが加盟した自由党には、風布(ふうぶ)村の大野福次郎(ふくじろう)や苗吉(なえきち)、西之入(にしのいり)村の新井(あらい)周三郎らも加わる。そして、この高岸、大野、新井らが、また借金問題で苦しんでいる村民たちによびかけて、数十名の入党者を獲得していった。この自由党は、よびかけに当っては減租(げんそ)や国会開設も口にしてはいたが、はじめから生活問題解決のための党であった。しだいに借金年賦(ねんぶ)返済や、高利貸打ちこわしに変わっていった。

 上州上日野(かみひの)村の新井貞吉(ていきち)は、坂本宗作と北甘楽郡国峰村の恩田卯一(おんだういち)が村を訪れて説得したときのことを証言している。自由党のやり方がうまくゆけば「高利貸ヤ銀行ヲ潰(つぶ)シ世ヲ平(たい)ラニシ人民ヲ助ケル事」になるから参加してほしいと。

 1884(明治17)年夏、彼らは規約を定め、困民党を本格的に成立させた。そして、郷党(きょうとう)に人望厚い秩父の仁侠(にんきょう)の人・田代栄助(たしろえいすけ)を首領にひきだすことに成功した。一方、群馬県多胡(たこ)郡の上・下日野村で自由困民党への加盟をさかんに村人に訴え、数十名の同志を組織していた小柏常次郎(おがしわつねじろう)ら上州自由隊や、菊池貫平(かんぺい)、井出為吉(いでためきち)ら信州北相木(きたあいき)村の民権家たちとも連絡をとって参加を求めていた。

 秩父困民党が数千人の農民を武装峰起させて国家権力を震撼(しんかん)できたのは、一年余の周到な準備による指導部の結成と、そのまわりに百数十人のサブ・リーダーを組織し得たためであった。

 10月中旬、指導部は合法的な請願運動を打ち切り、武装蜂起の準備にとりかかる。そして、正統派自由党左派の大幹部大井憲太郎らの制止をはねのけて、困民党のサブ・リーダーである現地組織者で固めた秩父自由困民党は、ついに11月1日、下(しも)吉田村椋(むく)神社で農民数千人を甲乙二個大隊、数十小隊に編成し、行動を起したのである。その役割表に名を列(つら)ねる者七十余人。銃器数百挺。その前夜、風布村ではすでに銃声がとどろき、月明のもと警官隊との戦闘がはじまっていた。

 秩父農民軍は整然たる軍事組織ときびしい規律をもち、鎮圧におもむいた警官隊や憲兵隊を撃退し、大宮郷(おおみやごう)(現秩父市)に乱入して郡役所を占拠、そこに本営を置いて秩父郡全体を支配するにいたった。

 こうして11月4日までは文字通り全権力を人民が握る〝無政(むせい)の郷〟(コミューン)を出現させたのである。

『続・大日本帝国の痼疾』(93)

自由民権運動(47)―自由党解党


 加波山事件の3年前(1881年3月)、ロシアでは皇帝アレクサンドル二世がナロードニキの爆弾で暗殺されるという大事件が起こっていた。公然と「政府顛覆」「革命」を掲げ、爆裂弾を使用した加波山事件にロシアの事件を重ねて、政府高官がどれほど恐怖したかは想像に難くない。加波山事件に続く者の出るのを恐れて、加波山事件の容疑を口実に、政府は自由党に大弾圧を敢行した。

 加波山事件後1884(明治17)年10月にかけて関東各地の自由党員300余名が拘引された。そして政府は裁判所を指揮して、彼らを国事犯としてではなく、強盗犯としてあつかわせ、例のない重刑を科した。


死刑7人
無期懲役7人
有期懲役(15~19年)4人

 以下、教科書Aの記述をそのまま引用する。

 この政府の強硬な追及ぶりに自由党は動揺し、組織をまもるため、機関紙『自由新聞』で加波山蜂起を「軽挙暴動」「失策」と批判し、政府系新聞や他党の非難をかわそうとした。さらに10月の論説では、各地で激化しつつあった困民党の動きを「国家心腹(しんぷく)の疾(やまい)」ときめつけ、

「今にして若(も)し此の勢焔(せいえん)を撲滅(ぼくめつ)する事を講ぜずんば其の弊害は復(ま)た決して底止(ていし)する所を知らざるべし」

と論じたのである。

 自由党が権力と二つの急進派からはさみ打ちにあい、急速に解党に傾いていった過程は重要である。この1884年後半の『自由新聞』社説を綿密に検討したすえ、下山三郎氏は次のような重要な意見を述べている。

 加波山事件を境に自由党の「良識」の最後の輝きを示していた『自由新聞』が、その質を決定的に変えてしまった、と。

 自由党の「良識」の最後の輝きとは何か。当時、緊迫していた対外問題にたいして、とくに自由主義的な立場を堅持し、民権党の面目を守ろうと努めたことにある。つまり、同年8月の清国とフランスの全面戦争にからんで、自由党内に生じた一連の国権的な動き - 東洋学館の開設、杉田定一の渡清、板垣・後藤の計策など民権を国権に従属せしめるような動き - があったにもかかわらず、その非常時に『自由新聞』はあくまでも、わが国当面の急務は内事(ないじ)を急にして外事を緩(かん)にすること、内事を改良して自由を国内に盛行せしめることにあると断定し、戦争に対しては道理によって列強の非理(ひり)と対抗するという原則から局外中立の立場を堅守するとしたのである。

 この立場が加波山事件を境にして崩れる。つまり、国権の回復ではなく、海外進出という意味での「国権拡張論」が『自由新聞』社説にはじめて登場する(明治17・9・30、10・1、4、5)。

 このことについての下山氏の推論はこうである。この国権拡張、官民協力、排外主義鼓吹(こすい)の真の意図は、少壮有志の熱心を内事から外事に転換させようとするにある。

「特に当時実際に党務の中心となっていた星亨、加藤平四郎らに対して、恐らくは秘密裡に朝鮮進出の計策に従事していた板垣・後藤が、その朝鮮進出の論理をいわばここへ転用したのではなかったろうか。この論理は加波山事件の突発という条件なしには公然と社説としてかかげることはできなかったであろう」(下山三郎編・解説『自由民権思想』下)。

 こうした一連の下山氏の20年前の推論は今でも説得力をもっていると思う。たとえ、自由党が敵の攻勢から身をかわすための一時的な方便としてこの説を掲げたとしても、自由党が民権党としての最後の「良識」の一線をも崩してしまったことは、党存続の客観的意味をみずから放棄したともいえる。もちろん、自由党という複雑な大政党の動向を『自由新開』の社説だけから見るということには大きな限界がある。



 1884(明治17)年10月29日、まだ戦える力があったにもかかわらず、自由党はついに解党するにいたる。しかし、その解党の真相はいまだに深い霧に包まれているという。再び、教科書Aから引用する。
 とくに自由党左派の領袖として関東に多くの支持者をもっていた大井憲太郎が、もっとも全国組織が必要と思われる時期に、自由党右派の板垣ら土佐派と妥協して解党に同意した理由はなんであるのか。星亨が新潟の獄中にあったとき、左派と右派とをつないだ橋渡し役をいったい誰がつとめたのか。その間にどのような各派のおもわくや暗合(あんごう)があったのかも、ほとんど謎に包まれている。

 1883年(明治16)8月以降、自由党は準備政党的な性格に変質したのだという説があるが、それすら党中央のレベルでいえることで、県幹部レベルや下部党員レベルではまったく違ってくる。自由党という政党はその成立の事情から解党の経緯(けいい)まで、未だにその全貌が解明できないというのだから研究者として情ない思いである。

 それはともあれ、結党三年目の記念の日に、大阪に集まった代表者百余名の圧倒的多数の賛成で解党が決定された。これは大井らのおもわくがどうあれ、客観的には民権陣営の総崩れをもたらし、少数の急進党員をますます孤立した激しい抵抗にかり立てた。また困民党大衆と結合しようとしていた一部の農民党員を全国的指導体から切り離し、力を殺(そ)ぐ結果となった。

 立憲改進党もこれにつづいて解党同然の状態におちいってゆく。



『続・大日本帝国の痼疾』(92)

自由民権運動(46)―加波山事件(2)


 福島・栃木グループのリーダー格だった鯉沼九八郎について、色川さんは「この鯉沼という人物を爆弾闘争の過激派壮士と見ることはあたっていない」と言う。その論拠は次のようである。

 彼は村落に根をおろしていた名望家で、野島幾太郎の『加波山事件』(1900年)によると、全国的に運動が退潮した1883年(明治16)だけでも、3月、6月、8月に三回も野外の決起集会ともいえる運動会を開催して、百余名、六百余名、一千余名という民衆を動員することに成功している。

 とくに第三回、8月17日に鯉沼ッ原でひらかれた運動会では、元禄(げんろく)時代に百姓惣代(そうだい)として戦って斬首された三人の農民指導者の弔魂(ちょうこん)祭を行ない、鯉沼はその祭主として堂々たる祭文(さいもん)を読みあげ、その場から警官に連行されている。いま、その祭文をみると、惣代八幡(そうだいはちまん)に祭られた三人を「昔日(せきじつ)の民権家」とよび、

「今日の民権家たる者、深く諸君の行為に感奮せざるべけんや。いささか弔魂の微意を表し、あはせて今日民権を唱ふるの士を奨励(しょうれい)す」

と結んでいる。こうした土着の民権家が、なぜ民衆から離れて、少数壮士による暗殺→挙兵の道に走ったかが問題なのである。



 加波山蹶起の時の檄文によれば、彼らは「志士仁人たるの本分」をみずからの行動の指針としていた。この檄文をめぐって、色川さんは次のような見解を吐露している。方法・手段の可否はともあれ、身命をかえりみず自由民権運動に身を投じた人たちへの色川さんの暖かい眼差しは、教科書Aに一貫して注がれている。

 これを志士仁人意識にとらわれていた急進分子の自己陶酔であるとか、捨て石精神だと批評することはたやすい。あるいは彼らのほとんどが士族出身で、その地域の民衆に深い根をおろしていなかった故の、はね上がりだと評することもたやすい。

 しかし、当時の状況を精密に復元し、その中で富松らがたどった足跡を冷静に検討してみるなら、そうした頭ごなしの批判は酷であろう。当時の権力の弾圧は非道、残酷、横暴をきわめたものであったし、それに対する富松や河野らには抵抗権、革命権の実践だという信念があったと思われるからである。また、急進派の関東一斉蜂起へのロマンもあったであろう。

 下館士族で、教員の経験もあり、地方の有数の知識人でもあった37歳の富松正安が、すでに1883年(明治16)の未に、大井憲太郎を案内して古河(こが)、下妻(しもつま)、潮来(いたこ)などを遊説したとき、「血雨(けつう)を注ぎて専制政府を倒すの捷径(しょうけい)たるを知れ」と演説しているが、その背後にはすでに戦う姿勢をなくしていた自由党指導部への大きな幻滅があったとみられる。

 だが彼には革命化していた農民との同志的結合を求めようとする行動はなかった。挙兵主義を掲げながら、その主体勢力を見出しかねていた。現地の研究者の調査では周辺農民との共闘の可能性がいくつかあらわれていたというのに、それと積極的に結びつこうとする強靭な思想に欠けていた。次のエピソードが、このグループの一つの性格を浮き彫りにしている。

 1884年(明治17)8月10日、八王子南方の御殿峠に「窮民一万」が蜂起したというしらせが入ったとき、東京の自由党文武道場有一(ゆういつ)館にいあわせた加波山グループの小林篤大郎(とくたろう)・五十川(いかがわ)元吉・平尾八十吉(やそきち)の三人は、「好機乗ずべし」と多摩に急行した。だが、かれらはそこでこの蜂起がたんなる農民騒擾(そうじょう)にすぎないことを見て、「此等の徒、皆な事理(じり)を解せず、主義を持(じ)せず」と絶望して帰ってきたという。

 しかし、このとき御殿峠に蹶起した人民のすべてが、「事理を解せず、主義を持」たない愚民であったか。それどころか、内に「抵抗権」の思想を秘め、戦闘力にみちた集団を中核にしていたということを、わたくしはこの事件を精査して知った。結局、加波山の志士たちは孤立し、処刑されたが、その三年後に『常総之(じょうそうの)青年』から批判されることになる。彼らは勇敢であったが、「一般人民は…寧(むし)ろ彼らを厭(いと)ふこと維新前の浮浪を視るが如き」であったと。この断絶は百年後の今なおくりかえされている暗い悲劇ではあるまいか。



『続・大日本帝国の痼疾』(91)

自由民権運動(45)―加波山事件(1)


 色川さんによれば、加波山(かばさん)事件は「志士的激化の典型」である。

 加波山事件の主体は16名の自由党員である。首領は茨城県士族の富松正安(とまつ まさやす)で、同じく茨城県士族の同志2人とともに「挙兵主義」の実行を計画していた。

 そこに主力として、福島事件の恨みを晴らすため、栃木県令となった三島通庸の命をねらっていた河野広躰(こうの ひろみ)ら福島グループと、栃木の鯉沼九八郎(こいぬま くはちろう)らで構成されていた暗殺グループが加わった。首領は富松とされているが、どちらかというと、富松らは計画の最終段階でこの事件にまきこまれた脇役であって、主役は福島・栃木グループであった。

 二つのグループを結びつけたのは三島通庸である。「福島事件」の項で触れたように、三島は1883(明治16)年10月栃木県令となるや、福島県下で強行したとおなじ暴虐な政策を栃木でも強行しようとした。それに対抗して茨城の富松たちが福島のグループや鯉沼らによびかけ、同年11月16日の自由党臨時大会の一週間後、関東の態勢をたて直すために東京飛鳥山で自由大運動会を開いた。

 このとき栃木の豪農民権家鯉沼と福島事件の残党琴田岩松(ことだ いわまつ)との間に盟約が成立し、加波山グループの中核が形成された。

 その後1884(明治17)年2月に、河野、鯉沼らは東京・芝の三島邸を襲撃しようとしたが果さず、自由党本部寧静館(ねいせいかん)を根城にして暗殺の機会をうかがっていた。ところが、この激派壮士による寧静館乗っ取りに内藤魯一(ろいち)、星亨(とおる)ら党幹部が退去を要求し、警察の力を借りて追い出そうとしたために、河野らは憤激して
「総理以下の冷遇すでに此の極度に達す。もはや頼むに足らず」
と自由党本部と訣別している。彼らがますます急進化していった動機の一つはここにある。

 河野、鯉沼らのグループは三島邸の近くに下宿して見張りをつづけたが、三島にゆくえをくらまされて討てなかった。そのうち同年7月19日に、新華族にとりたてられた数百人の祝賀会が芝の延遼(えんりょう)館で開かれると聞いて、一挙殲滅の好機と喜んだが、その宴会も無期延期となった。

 このころすでに鯉沼九八郎は、ロシア虚無党に学んで、故郷の栃木県稲葉村の自宅で強力な爆裂弾の製造に成功していた。

 9月、栃木県庁の開庁式が行なわれるという情報が暗殺グループのもとにとどいた。彼らは勇躍し、この機会に三島や政府高官を倒そうと決意し、その資金獲得のために神田小川町の質屋を襲った。だが、逃走の途中、警官にとがめられ、もっていた爆弾を投げてしまう。さらに9月12日、鯉沼の作業場で大爆発が起こり、彼が重傷を負った。

 官憲はこれによって暗殺グループの動きを察知し、検挙にのりだす。結局、警察に追いっめられた彼らが、茨城の党員たちを頼ってきて合流し、富松正安たちを動かして加波山で挙兵することとなった。軍議は富松が館長をしていた下館(しもたて)の有為(ゆうい)館でねられた。

 加波山は海抜709メートルの険しい石山である。その山頂に翩翻(へんぽん)と翻った旗には

「一死報国」
「自由取義(しゅき)」
「自由之魁」(さきかけ)

などの文字があった。檄文は次のように訴えている。

「夫(そ)れ大廈(たいか 廈:ひさし、家屋)の傾ける一木(いちぼく)の能(よ)く支(ささ)ふる所に非(あら)ずと雖(いえと)も、志士仁人(ししじんじん)たるもの坐して其(その)倒るを看(み)るに忍びんや。故に我輩同志茲(ここ)に革命の軍を茨城県真壁(まかべ)郡加波山上に挙(あ)げ、以て自由の公敵たる専制政府を顛覆し、而(しか)して完全なる自由立憲の政体を造出せんと欲(ほっ)す。鳴呼(ああ)三千七百万の同胞兄弟よ、我党と志を同ふし、倶(とも)に大義に応ずるは、豈(あ)に志士仁人たるの本分に非ずや」

 この16名の旗揚げは東日本の急進派諸グループに決起をうながすと同時に、右旋回していた自由党中央に衝撃をあたえ、一ヵ月後に党を解散させるという結果をもたらした。

 この事件について、色川さんは次のように評している。

 だが、山麓の人民との連携もはからずに、たった16人の党員だけで挙兵しても、全国の同志に訴える効果があるだけで、じっさいにはなんらの勝算もなかった。彼らは「革命」の先駆者として玉砕するとしても、後に残された同志たちが大弾圧にさらされることは、福島の例からも明らかであった。それにもかかわらず彼らはなぜ少数で決起したか。

 追いつめられたあげく、やむをえず行なった蜂起だといってすむであろうか。こうした議論は当時から民権家の間でもくりかえされていたのである。



 次回は、この事件を担った人たちの人となりや思想と、自由党の対応と解党までのいきさつを通して、「彼らはなぜ少数で決起したか」という問題についての色川さんの見解をまとめることにする。

『続・大日本帝国の痼疾』(90)

自由民権運動(44)―群馬事件


1884(明治17)年
  5月  群馬事件
  9月  加波山事件
 10月 自由党解党
     秩父事件
 12月 飯田事件
     名古屋事件

 群馬事件は従来、次のように伝えられていて、これが通説になっていた。

 1884(明治17)年5月1日、高崎線開通式が予定されていた。群馬の自由党員は、その式に参列する予定の諸大臣を拉致し、一挙に東京鎮台高崎分営を攻め落して政府を倒そうと計画した。しかし、開通式を延期されたため、集合場所を妙義山麓にうつし、3000人余りの農民が参加して蜂起した。5月16日未明、高利貸会社岡部為作(ためさく)邸を襲い、松井田警察分署を占拠し、さらに高崎分営に向かう途中で食糧がつきて解散した。

 『自由党史』もこの通説によっている。ネット上の解説もほとんど通説に従っている。ところが、出典の『東陲民権史』に誤りがあり、その後の研究によって、それが訂正されるにいたった。群馬事件の真相は次のようである。

 群馬では1884(明治17)年3月23日の北甘楽郡(かんら)一ノ宮(現富岡市)での自由党大演説会の成功がひとつのきっかけとなっている。この時の会主は群馬の有力党員の清水永三郎(えいざぶろう)ら七名、弁士は宮部、杉田、照山峻三(てるやま しゅんぞう)らであった。杉田定一の「上毛(じようもう)紀行」によると、

「当日は天気晴朗数旒(りゅう)の旗を門前に挙げ、聴衆堂内に満溢し堂外に佇立(ちょりつ)する者も亦頗(またすこぶ)る多く、凡(およ)そ千余名あり。斯(かく)の如き寒村僻地には未曾有の盛会」

であった。その旗には「天に代って逆賊を誅(ちゅう)す」という物騒な文句も書かれていた(『自由新聞』明治17・4・1)。

 こうした人民の高揚は1883(明治16)年から群馬県下の北甘楽郡、南勢多(せた)郡、東群馬郡、緑野(みどりの)郡などの村々にくりひろげられていた数百人規模の負債農民騒擾事件のすそ野があったからといえる。

 さて、政府の密偵から「関東決死派」とよばれていた急進的な自由党員の間に政府の暴虐にたいする反撃の計画が生じたのは、1883(明治16)年の末ごろのことである。この革命派は、党幹部の関東遊説をきっかけに、茨城県下館(しもだて)地方から群馬県甘楽地方、埼玉県秩父地方にかけて拡大していった。その勢力は500名余りで、暗殺グループを組織し、当面は三島通庸ら犯罪的な官吏へのテロを計画しつつも、最終目標は一斉蜂起による政府転覆であったと見られている。

 武装決起を計画していたのは、この一ノ宮光明院(こうみよういん)の住職小林安兵衛と北甘楽郡内匠(たくみ)村の戸長湯浅理兵(ゆあさ りへい)ら数名の没落小豪農の自由党員たちであった。「富岡警察署史料」によると、

「(彼らは)小坂村、妙義町、松井田町等ノ土民(どみん)ヲ煽動シ、地租軽減請願ヲ名トシ妙義山中ノ岳(なかのだけ)大黒天堂ニ数百名ヲ召集シ、現政府ヲ攻撃シ演説ヲ為シ或ハ政府顛覆ノ密議ヲ為シ或ハ日夜砲術ノ練習ヲ為ス等、撃挙(げききょ)ノ画策ニ腐心セリ」

とあり、既に官憲の警戒するところとなっていた。

 1972年、妙義山中にベースを置いて武闘闘争を準備していた連合赤軍を彷彿とさせるが、「群馬の自由党員たちは人民と結合することに必死の努力を傾けていた点で」赤軍のそれと決定的に違うと、色川さんは評している。「人民との結合」をはかる手立ての一つは次のようであった。

 彼らは碓氷郡一帯に大きな影響力をもつ博徒の親分山田平十郎(または城之助)に加勢を求めていた。それは、山田らがこの年1月太政官(だじょうかん)布告として出された「賭博(とばく)犯処分規則」というまったくの人権無視の政令による〝博徒大刈込(かりこみ)″に怒って反感をたぎらせていたからである。山田の動員力を借りて碓氷郡の困窮農民をいっきょに結集させようと考えたのである。

 事実、幹部の三浦桃之助(もものすけ)や湯浅らは山田平十郎から「猟銃四百挺、刀剣二百本ばかり」整ったという連絡をうけて、碓氷郡の山田の居村までたずねている。そのうえ彼らは連日のように部落集会にのぞんで決起をうながす演説をしていた。

 1884(明治17)年5月15日、小林、湯浅ら指導部はかねての打ち合せの集合地妙義山麓陣場ガ原におもむいた。だが、期待の500余人が日延べを求めて来なかったうえに、南甘楽郡や武州秩父方面にオルグに行っていた三浦からもなんの連絡もなく、連合勢力の結集に失敗した。ために、「僅(わず)カ近傍ノ人数三拾四五名妙義山下ニ集」まったにすぎなかった(湯浅理兵答弁書。この他に「凡ソ百名程」という証言もある。群馬事件「予審(よしん)終結決定原本」より)。

 小林らもやむなく20日まで延期を決定し、引き揚げる途中、菅原村の指導者東間代吉(とうま だいきち)や神宮茂十郎(じんぐう もじゅうろう)らが集合しているとの連絡があったので、おもむくと、30数名の決起した近村の人民が集まっていた。

 当時菅原村では全村167戸中、実に111戸の農民が土地を高利貸に奪われ、なお取り立てに追われて山野に潜伏し、長く家に戻らないでいるという惨状であった。彼らにしてみれば、20日まで待つことは到底できず、まずは近くの岡部為作の生産会社(金融類似会社)を襲って金穀(きんこく)をとりもどし、一息つこうということになり、決行に及んだらしい。そして、東間代吉らが先頭に立ち、近村の人民を駆り出し、百余名の勢いとなって行動を開始した。そして焼き打ちがすむと、彼らは大桁山(おおけたやま)に引き揚げていった。

 以上の群馬事件の真相を、色川さんは次のように論評している。

 この経過を見ると、この焼き打ちの主導権が自由党員の手から負債民の手に移っていることがわかる。群馬事件が困民党のたたかいの先駆(さきが)けと評価される理由はここにある。

 そして、ここで注目されるのは小林安兵衛ら指導部の自由党員が、あくまでも政府転覆の革命行動を主張していたのに対し、負債民たちは生活要求を先行させる態度をとっていて、その間にかなりのギャップがあったということである。この辺が秩父事件の場合とは違う陣場ガ原事件の限界であろうか。

 『東陲民権史』はこの辺をあいまいにし、数千の大衆による大蜂起として脚色し、勢いあまって高崎分営めざしたと書いたが、それは事実ではない。岩根承成(いわね つぐなり)氏がいわれる通り、「数十名集会スルニ当り」とある判決言渡書(いいわたししょ)の記述を、「会する者数千に及んで」と改竄(かいざん)したのである。

 しかし、その改竄は当時の民権家の革命幻想を伝えたものと読めないこともない。



 群馬事件は52人の逮捕者を出して終焉する。主犯の小林と湯浅は兇徒衆集(きょうとしゅうしゅう)罪にあたるとして徒刑13年と12年を言い渡され、北海道に送られた。

 この事件は政府に対してなんの打撃にもならなかったが、上州の金貸会社にあたえた影響は大きく、富岡生産会社などは事件後の7月25日、負債民への延滞利子の免除をとりきめ、営業停止を決議している。だが、負債民がこれによって救われるわけではない。彼らは秋にかけて新たな戦いにとりくんでゆく。



『続・大日本帝国の痼疾』(89)

自由民権運動(43)―秋田事件


 「激化」事件という言葉は、福島事件・高田事件以後の自由民権運動の様相を示すものだ。しかし、前回に掲載した図には、福島事件・高田事件以前の事件だが、「激化事件」に入れられているものが一つある。秋田事件(1881年6月)だ。

 秋田事件は、地元研究家の研究によって、最近その全体像がようやく見えるようになってきているが、「まだ深い霧に包まれてい」る部分があり、「その背景はまだ謎にみちている」という。しかし、「この事件の中にその後の急進派の蜂起計画や行動様式のほとんどの要素が萌芽的にあらわれている」ということなので、まずこの秋田事件の学習をしておこう。

 土佐の立志社の影響を受け、秋田に立志会という組織を作った、柴田浅五郎(あさごろう)という民権家がいた。彼の呼びかけに応じてたちまちに、平鹿(ひらが)郡や仙北(せんぼく)郡から貧窮士族や中農・貧農など2600人余りが加わったという。

 その力を背景に柴田は1880(明治13)年11月の国会期成同盟の東京大会に出席している。その大会の折り、東日本の有志たちが何ごとかを謀ったらしい。それは密偵報告によると、この一年間の政府の暴政(集会条例による理不尽な弾圧、各地人民有志の国会開設請願の総否定)に憤激した民権家たちが、大会後にひそかに会合をひらいて圧制政府の転覆を計画したという。密偵は、この時のグループを「激烈党派」と表現しているが秋田立志会の代表はこれに参加していた。

 その後、1881(明治14)年1月の東北有志大会、3月の東北七州自由党結成集会に参加した柴田浅五郎が、仙台で有志たちとある種の武装蜂起の計画を協議したらしい。その直後に社員をよんで、今のままの政体では「日本永続ノ見込」がないから、同志をつのって仙台鎮台を打破り国家を改造しようと思うが、「此儀ハ全国一同蜂起致スべキ故、必ズ案ジルコトナシ」と申し渡したという(館友蔵(たてゆうぞう)警察調書)。

 1881(明14)年5月から6月にかけて平鹿郡内でひんぱんに起こった豪農襲撃(強盗)事件から、この挙兵計画が発覚した。その容疑から秋田立志会の会計方西田忠五郎宅が捜索され、内約書や28名の血判状などが押収された。それによって6月10日柴田らが秋田町で逮捕され、翌11日川越庫吉(くらきち)らが仙台で捕縛され、強盗殺人および内乱陰謀罪に問われることになった。

 官憲発表資料を頭から信用することはできないが、自白調書でかたられた蜂起計画とは次のようなものであったという。

 まず、立志会が蜂起し、一番隊は横手町に放火、警察署、郡役所、銀行を襲撃してから秋田県庁に突入する。二番隊は浅舞(あさまい)村を焼き、豪農を襲い、軍資金を得て、雄物(おもの)川をいっきに舟で下り秋田県庁を占領する。次に宮城県の同志と合流し、宮城監獄に放火し、囚徒(西南戦争で捕えられた反政府士族たち)を解放する。そして、これを率いて仙台鎮台に攻め入り、警察署や県庁等を打ちこわし、富者から軍資金を掠奪して東京に進撃する、というのである。色川さんは、こうしたコースのとり方は飯田事件(1884年12月)の計画とそっくりだと書き添えている。

 柴田浅五郎ら関係者の調書によると、政体を変革して「分県(ぶんけん)法」を施行するとか、「貧富を均一にさせる。御均(おなら)し政治の世の中にする」とか、「全国一同蜂起」を期待するとかという文句が出てくる。これらも後の激化事件に共通してあらわれてくる要素である。

 この事件とその後について、色川さんは次のように解説している。

 この事件は政府の弾圧への反抗と、秋田地方の中・貧農、それに都市細民と化した下級士族の貧窮要因が結びついて、柴田らの幻の「挙兵計画」が十分に整わない前に、切迫した一部急進社員によってひき起こされたものと解釈されている。その動機、その規模、その経過、その背景の詳細はまだ明らかではないが、自由党成立以前の、これは早熟的な激化事件といえる。それ故にこの行動に参加した立志会員の要求や意識には、一見矛盾するような永代禄(えいたいろく)への未練や社会的平等への熱望が見られるのである。

 秋田の民権運動はこの事件によって弾圧にさらされる。だが、潰れてしまったわけではない。1881年10月、中央に自由党が結成されるや、柴田浅五郎らの志をついで立志会の地盤平鹿郡から320人という入党者が出、秋田県全体で登録党員400人をこすという余勢を示している。また、他方、県会議員の多くを党員にもつ秋田改進党は県下の名望家層、富裕層を支持者に持って秋田県会でよく戦い、北羽連合会の伝統を継承している。一時は秋田県令を辞任させるほどの力をもったが、松方財政下の不況と政府の切り崩しにあって官職に就く者がつぎつぎとあらわれ、若手急進派との対立を生じ、足並みが乱れて退潮していった。



『続・大日本帝国の痼疾』(88)

自由民権運動(42)―抵抗権行使事件を担った人たち


(今回より、断りがない限り、すべて教科書Aによる。)

 いわゆる「激化事件」と呼ばれている 諸事件は下の図のようである。しかしその裾野には、ほとんど全国的に発生した困民党騒擾や小作党事件があり、その数は百件を越えるという。

激化事件

 事件は1882(明治15)年から85年にかけて集中している。その最も大きな原因は、福島事件や高田事件でみたように、民権家に激しい弾圧をくわえ、これを分断支配しようとして威圧・挑発を行なった明治政府の謀略であることは明らかである。

 もう一つ、困窮士族や農民の蜂起をまねいた政治的な原因がある。この4年間は松方財政による大増税とデフレ政策が深刻な不景気をもたらし、そのうえに国際的不況も重なって農民や都市細民などを破滅の淵に追いつめていた。なかでも東山養蚕(とうざんようさん)地帯といわれる生糸生産地帯の打撃は悲惨なもので、ほとんどの農民が負債に苦しみ、経営破綻におちいっていた。農民を主体とする事件が福島、群馬、秩父、武相、静岡を結ぶ東山養蚕地帯の線上に起こっているのはその故である。

 これらの抵抗権行使を担った急進派を色川さんは次の三つに分類している。

(a)没落豪農や没落士族などの志士的急進派
(b)革命化した中農・貧農・半プロレタリアなどの農民的急進派
(c)都市下層民、都市細民(その多くは都市に流れこんだ貧農や貧窮士族の遊民層や職人群)などの都市急進派

 それぞれの流派は、それぞれの階層の存在形態や思想伝統に根強く規定されているが、共通の要素として自由民権論的な人権思想や権利意識があり、その二つが相乗した形でその行動意識が形成されている。色川さんは次の様に分析している。

 たとえば(a)と(c)には、志士的な抵抗精神とアナーキーな行動主義が色濃く流れている。また(b)には、農民一揆や打ちこわしの伝統的な意識が基調をなしており、それに民権論的な平等主義や政体構想へのロマンチシズムがからみあっている。

 この急進化の構造と、急進派の主体と、意識の三要素のさまざまな組合せによって各事件の特質が作りあげられているものと私には思われる。これらを一律に「自由民権の激化事件」とはいえないが、少なくとも自由民権期の抵抗権の行使事件とはよぶことができよう。武相困民党や駿豆(すんず)の貧民党の騒擾事件は、政体変革の目標こそかかげなかったが、その指導者の中には抵抗権を自覚したものもおり、じつさいに大集団で金融会社を襲撃したり警察署などをとりかこんでおり、激化諸事件と紙一重という所に迫っている。



 ところで、上の図で一つ変わった名称の事件が目につく。丸山教み組事件。私は初めて目にする。この事件については教科書Aには解説はない。民権運動とは毛色が違うのでパスしようかと思ったが、ネット検索で一件もヒットしなかったので取り上げることにした。以下は教科書Cによる。

 教科書Cは丸山教の教義についても詳しく論じているが、事件そのものについてはまだ詳しくわかっていないらしい。ここでは自由民権運動との関わりについての考察に絞って紹介する。

 丸山教の信徒数は、1880(明治13)年以降急激に増加している。
1880年 約10万人
1886年 数十万人
1889年 約220万人
 その信者は「元の父母」(丸山教の唯一)誕生の聖地富士山を中心とする諸県に濃密に分布していた。その中で最大の支部が静岡県の「み組」であった。その「み組」が、松方デフレ下、終末論的世直し観念に導かれて、明治政府の支配を否定し貧富平均を唱えて蜂起したのが、当時「み組騒動」と呼ばれた事件である。

 秩父事件関係者に禊教徒がいたことはすでに知られているが、丸山教徒にも民権運動家がいたという(丸山教代表役員伊藤陸男氏談)。その一人に清水長右衛門がいた。彼の名を「自由党員名簿」に見出すことはできないが、横浜市港南区笹下町に現存する同家の言い伝えによれば、長右衛門は北海道までの布教の途次、自由民権の演説をしたという。

 丸山教には民権運動と結びつくような論理構造があるのだろうか。国会にふれた教義手控の一つである「御教法」(1884年)に、
「天を願って居ても骨が折れるものを丸山でハ国会を治める事にして居る あゝいふるいは皆上から出て服するものだ丸山の修行は下から大勢のからだを下を天から助けるから下から助け上るのだ……おれは下から救い上る上から見ると下等人民だ抔(など)といって居るが其下等人民がおれハ大事だ」
という筆録部分がある。

 この意味は、国会で治めるという方法は上からのもので、大事な「下等人民」を救うには丸山教の教えが必要だといっているのであろう。「天明海天極意のつめ」でふれたように、丸山教には西欧文明を丸山教の優位性のもとに従属的に包摂しようとする論理があるから、国会はまったく否定されるものではなかった。

 丸山教が強盛を誇った静岡県において、自由党系の『東海暁鐘新報』、改進党系の『静岡大務新聞』はどのような態度をとっているであろうか。両紙には「み組事件」に関連して「丸山講」の記事が多く出てくるが、丸山教は「愚民」をまどわしている「妄説」という見方で一貫してとり扱われている。

 農村の底辺にいる農民数十万を組織した丸山教(同じような天理教・金光教)にたいし、信仰の自由で共闘するような意識を民権派はまったく持てなかった。それは、民権派が信仰の自由の問題をきわめて観念的にしか理解できていなかったことを意味していた。



『続・大日本帝国の痼疾』(87)

自由民権運動(41)―高田事件


 高田事件は福島事件の4ヶ月後、1883(明治16)年3月に起きている。教科書Bは次の用に記述している。

 政府已にこの大獄(福島事件のこと)を起すや、民間党を討滅するの策定まれりとの相図なりと見なされ、行険希賞の警察官は、頻りに民間党に迫りて安んぜざらしめしかは、所在、民間党の獄に入るもの少からず。

 当時関東に於て自由党の巣窟と目せられたるものは、東北と越後にして、東北已に河野らの獄によりて夷(たいら)げられたれば、越後の自由党も、早晩必らず同一の運命に陥るべしと信ぜられしが、果せるかな河野らの獄いまだ半ばならざるに、越後高田の自由党数十名、一朝にして獄に投ぜらる。

 その起因は赤井景韶(かげあき)らの壮士が、天誅党なるものを組織して、当路の大臣を暗殺せんとせしに連座せるものにして、次で、赤井景韶、井上平三郎の外悉く赦さる。然れども民間党がこれがためにその気焔を失せる幾何(いくばく)なるを知らざるなり。



 今日ではこの事件は全くの冤罪であったことが明らかである。『自由民権』(教科書A)の記述は次の様である。

 1883年(明治16)3月、富山県高岡で北陸自由党有志会が開催された。かねて弾圧の機会をねらっていた政府は新潟県高田裁判所の堀検事補に内命して長谷川という偽装党員をスパイとして高岡に送りこんだ。長谷川は頸城(くびき)自由党幹部に感づかれ追放されたが、帰途警察署員に逮捕され、頸城自由党が3月26日を期して政府転覆をはかって蜂起すると「自白」した。

 県警は30人の巡査を高田に派遣し、東京から控訴院検事長の指揮を求め、内乱陰謀の容疑で頸城自由党員ら37名をいっせい検挙した。もちろん証拠など何もない。民 権家らも拷問に耐えて罪状を否認しつづけた。官憲のデッチあげ計画も一頓挫(とんざ)する。

 ところが4月21日、逮捕者赤井景詔(かげあき)の家の紙くずかごの中から一枚の文書「天誅党旨意(てんちゆうとうしい) 書」が発見された。これは赤井が一年前に寝床の中で思いついて書いたという雑文である。官憲はこれを証拠に、かねて密偵報告によってねらいをつけていた頸城自由党の急進派3人へ赤井、井上平三郎、風間(かざま)安太郎を国事犯として起訴した。そして赤井だけが公判にまわされ、12月、内乱陰謀予備罪で重禁獄9年の判決をうけた。その後、赤井は脱獄して捕えられ、刑死する。

 この裁判はおよそ実行計画とは関係のない個人の内面の思想を罰したものであって、裁判長玉乃世履(たまの せいり)は権力の意志を体して赤井を死に追いやったことになる。本格的な抵抗権の行使はこの後からはじまる。



 「民主主義」国家日本でも、思想を裁く裁判が歴然として行われている。しかも、司法はなりふり構わず行政権力に追随して、そのほとんどが有罪となっている。最近の数々の「君が代・日の丸」強制関係の裁判や、政党のビラ配布関係の裁判における司法の劣化ぶりは目を覆うばかりに醜悪だ。ほとんどの裁判官が法の番人ではなく、権力の番犬と化している。

 色川さんは続けて、福島事件・高田事件に続く「抵抗権行使事件」の発生原因を次の様に分析している。

 発生原因の第一は、なんといっても政府の弾圧の理不尽化にある。こうした暴虐な政府は武器を取って倒してもよいという抵抗権、革命権の自覚である。

 第二は自由党中央の右傾化への反発である。民権党がいちばん戦わなければならない時に戦いの矛(ほこ)をおさめ、政府のきめた枠内で10年後の国会開設に備えるという準備政党化した実態への失望が急進派を分離させている。とくに84年1月、福島、栃木の急進グループを自由党幹部が党本部の建物の外へ追放した事件は決定的であった。

 第三は松方不況下、人民の怨嗟のこえを背に、みずからの足元が崩れ落ちてゆく危機感を強めたことが原因である。



 政府の暴虐な攻勢とうらはらに、自由党は無力だった。『自由民権運動(34)』で、政府の工作資金でヨーロッパ漫遊に出かけた板倉退助の帰国後の変節を取り上げ、自由新聞に掲載された板垣の論説を紹介したが、色川さんは帰国後に党員を集めて行った演説(83年6月)の内容を取り上げている。その演説では党資金の欠乏を理由に解党論まで打ち上げているという。色川さんは、「もしも」という論法で、板垣の功罪を次のように論じている。

 歴史に「もしも」ということはありえないのだが、情況の未発の契機をとらえるために、もし、板垣が82年4月に岐阜の演説会で刺されて、あのまま死んだとしたらどうなっていたろう。

 「板垣死すとも自由は死せず」の名文句と共に文字通り板垣は「自由の神様」となり、政府の非は決定的となり、民権運動は大衆にわかりやすい情念的なシンボルを得て、82年6月を境に退潮に向かうのではなく、逆にいっそうの高揚をつづけたかもしれない。少なくとも「板垣洋行」とか「偽党撲滅」とか「解党論」とかは避け得たかもしれない。そのことは明治政府の軍国化政策の強行を困難にしたであろう。また、自由党を割るような形での急進派の行動もいくらかは抑制されたろうし、自由・改進両党の寿命ももっと先まで延びていたろう。

 もちろん、このことによって松方財政が阻止できるとか、政府側の優勢を逆転させ得るというようなことはないにしても、80年代の政治情勢に大きな変化が生じることは想像できるのである。

 しかし、現実は平静だった。板垣は健康をとり戻してぴんぴんしていたし、土佐派の主流は板垣にならって党の維持に情熱を失っていた。83年(明治16)11月の自由党臨時大会には関西勢はほとんど出席していない。星亨(ほし とおる)の努力によって党維持の方針は決定したものの、党の全力をあげて専制政府と正面から戦うという姿勢は失われていた。大井憲太郎、宮部嚢(みやべ じょう)など関東勢が党指導部に多く入ったが、逆に板垣総理の権限も強化されて、微妙な勢力のバランスがとられていた。この間にもスパイを使っての新潟県自由党員に対する権力の攻撃がつづいていたのである。



『続・大日本帝国の痼疾』(86)

自由民権運動(40)―権力者の本性


 前々回、「小人にして悪代官」三島通庸と「空疎な小皇帝」石原慎太郎を重ねてみたが、これは牽強付会に過ぎただろうか。私の中にもちょっとそんな思いがあったのだが、やはりそれほど見当外れなことではなかった。昨日、吉田司さんの書評文(東京新聞・佐野眞一著「甘粕正彦乱心の曠野」の書評)を読んでいて、その思いを強くした。

 評者(吉田さん)は石原慎太郎の『国家なる幻影』の、愛する国家のために陰謀を行う者には、国家もまたそれに応えてくれるという一節を思い出した。

 「罪を犯してまで自分に貢ぐ男を女がやがて愛でなびくように、国家という恋人は歴史の中でその媚態を、…歴然と示してもくれように。…それに代る満足と光栄が他のどこにあろうか」



 国家のためにどんな悪行でもやってのけろ。国家は決して見捨てないぞ、と言っている。沈タロウを根底で支えているイデオロギーは国家への、おこぼれにあずかるための国家権力への恋情なのだ。その恋情の裏返った情念が、人民や人民の側に立つ政治家や知識人への、むき出しの敵意となって表れる。

 例えば、安保闘争の犠牲者・樺美智子さんを「はね上がりの女子学生がデモの混乱の中で踏みつぶされてしまい」(実は警官隊による虐殺)と貶める。あるいは、右翼少年の浅沼稲次郎暗殺を「天誅」と賞賛する。(詳しくは 『今日の話題・「人間の尊厳」は自ら腐ることがある。』 をご覧ください。)

 たぶん沈タロウは、大杉栄・伊藤野枝・橘宗一(わずか6歳の少年)の虐殺をも「天誅」と言い、「小人にして悪代官」の三島通庸にやんやの喝采を送るのだろう。そう、そして確かに国家権力はこれらの暴虐者に媚態を送る。甘粕は東条英機関東軍参謀長の懐刀となって満州の闇の世界に君臨し、三島は警視総監にまでなっている。

 このような国家権力の暴虐を生む根源は、権力を持ってしまった「小人」の、人民のことはそっちのけで権力の座にしがみつくことばかりしか頭にない「小人」の恐怖心である。教科書Aが、『岩倉公実記記』より岩倉具視が1882(明治15)年12月7日に提起した「府県会中止意見書」を引いている。



岩倉は当時を「仏蘭西革命ノ前時」の情勢としてとらえ、人民抵抗の拠点と化した府県会を即時中止することを提案した。

 今日ノ頼(たよっ)テ以テ威権ノ重(おもき)ヲ為スモノハ海陸軍ヲ一手ニ掌握シ、人民ヲシテ寸兵尺鉄(すんぺいせきてつ) ヲ有セシメザルニ因レリ。

 然レドモ若シ今日ノ如クニシテ人心ヲ収束スルコトナク、権柄(けんぺい)益々下ニ移り、道徳倫理滔々トシテ日ニ下ラバ、兵卒軍士ト雖(いえども)、焉(なん)ゾ心ヲ離シ戈(ほこ)ヲ倒(さかさ)マニセザルヲ保センヤ

(中略)

 上(か)ミ陛下ヨリ下(し)モ百官僚属二至ルマデ主義ヲ一ニシテ動カズ、目的ヲ同フシテ変ゼズ、更ニ万機ヲ一新スルノ精神ヲ奮励シ、陛下ノ愛信シテ股肱トシ、且ツ以テ国家ノ重ヲ為ス所ノ海陸軍及ビ警視ノ勢威ヲ左右ニ提(ひっさ)ゲ、凛然トシテ下ニ臨ミ民心ヲシテ戦慄スル所アヲシムべシ。凡ソ非常ノ際ハ一豪傑振起シ、所謂武断専制ヲ以テ治術ヲ施ス、古今其例少カラズ、故ニ此時ニ当テ半期一歳ノ間、或ハ嗷々(ごうごう)不平ノ徒アルモ亦何ゾ顧慮スルニ足ンヤ

 この意見書ほど、闘志をこめて絶対主義の本音を告白したものも稀であると思う。もちろん、岩倉の情勢把捉が敵側を過大評価しすぎていたことは、その後の自由党の内情を見ればわかるであろう。



 ここで岩倉によってあからさまに語られた人民圧殺の論理は、絶対主義者に限られるものでは決してない。現在の「民主主義者」でも同じである。その例は枚挙にいとまないが、マスコミがほとんど報道しなかった最近の憤怒すべき事例として、釜ケ崎の日雇い労働者への弾圧と反サミット行動への弾圧があげられよう。(詳しく知りたい方は次のサイトをお読みください。)

釜ヶ崎で暴動が発生中―事態の概要

反G8デモの禁止と参加者逮捕を弾劾する

 戻ろう。
 三島は「武断専制ヲ以テ治術ヲ施ス」べく「振起」した「一豪傑」というわけだ。三島は福岡県令として赴任したとき次のように宣言したという。

 予は政府より三個の内命を凛(う)けて赴任したものである。

自由党の撲滅はその一、
帝政党の援助はその二、
道路の開鑿(かいさく)はその三

である。



 そして、その宣言通りに暴虐のかぎりをつくしたのだった。

 前々回紹介した同時代者・竹越さんの記述は、たぶん当時の新聞報道をもとにしているだろう。したがって、隠蔽されたこともあろうし、細部については不明な点が多かったと思われる。全体像が判明している現在の時点で書かれた教科書Aの記述も掲載しておこう。

 (三島は)旧会津士族に土地を払下げ、資金をあたえて帝政党を結成させ、農民には奴隷的な夫役を課して三方道路の開鑿を命令し、それに抵抗する自由党員には帝政党員をけしかけて暴力をふるわせ、そのうえ警官を使って弾圧に狂奔するという、まさに圧制を絵にかいたような政治を行なった。

 会津自由党はこれに対して合法的な法廷闘争を展開し、数千の農民の支持をうけて善戦する。それを三島はかたはしから捕縛し、命令に服しない人民の家財をぞくぞくと競売に付し、工事にでた者も朝五時から夕方六時まで無料で酷使するというありさまであった。

 1882年11月28日、ついに一千余の農民は弾正ガ原に集合し、その夜喜多方警察署をとりかこんだ。そして指導者宇田成一らの釈放を要求したところ、何者かの投石によって窓ガラスが割られたのを合図に、抜剣した巡査がいっせいに農民に斬りこみ、逃走するものを検束していった。

 こうして大検挙がはじまり、福島全県で拘引一千数百名、河野広中以下の自由党県議団も根こそぎ逮捕されて、福島自由党はまるごと獄舎に送りこまれたのである。そしてこの裁判が、自由員を自殺に追いこむほどのむごい拷問と証拠のねつ造によってなされたものであったことは、今では明らかである。

 権力の行使としては歯止めを欠いた最低の下劣な方法であり、まさに「威力ヲ以テ擅恣(せんし)暴虐ヲ逞フスル」典型で、この後、三島の命をねらって多くの自由党員が武器を取るようになるのであった。

翌1883(明治16)年夏、関東に「決死派」なる急進派が生まれ、また復讐の念にもえた福島の被害者を中心にテロリスト・グループが結成されてゆくのもこれからである。



『続・大日本帝国の痼疾』(85)

自由民権運動(39)―福島事件の判決文


 教科書Bに福島事件裁判の判決文が掲載されている。これもたぶん貴重な資料(すくなくともネット上では)と思われるので、長いが全文転載しておこう。例によって、読みやすくするため、適当に段落を設けた。

 被告人 河野広中
     田母野秀顕
     愛沢寧堅
     平島松尾
     花香恭次郎
     澤田清之輔

右被告人等ハ明治十五年七八月中福島県福島町無名館ニ於テ、政府ヲ顛覆スルコトヲ目的トシ、内乱ノ陰謀ヲナシタル者卜判定ス。其証憑ハ左ニ之レヲ明示ス。

河野広中ハ明治十六年一月二十七日、若松軽罪裁判所予審廷ニ於テ、明治十五年八月一日福島無名館ニ於テ花香愛沢田母野澤田平島卜誓約セシコトヲ陳述シ、又右誓約文記憶ノ問ニ対シ広中ハ自ラ筆ヲ取り認メシ所左ノ如シ。

誓  約  第一、吾党ハ自由ノ公敵タル擅制(せんせい)政府ヲ顛覆シ、公議政体ヲ建立スルヲ以テ任トナス
 第二、吾党ハ吾党ノ目的ヲ達スルガ為メ、生命財産ヲ抛(なげうち)チ恩愛ノ繋縄(けいじょう)ヲ断チ、事ニ臨ンデ一切顧慮スル所ナカル可シ
 第三、吾党ハ吾党ノ会議二於テ決議セル憲法ヲ遵守シ、倶ニ同心一体ノ働ヲナスべシ
 第四、吾党ハ吾党ノ志望ヲ達セザル間ハ、如何ナル艱難ニ遭遇シ又幾年月ヲ経過スルモ、必ラズ解散セザルべシ
 第五、吾党員ニシテ吾党ノ密事ヲ漏シ及ビ誓詞ニ背戻(はいれい)スル者アル時ハ、直チニ自刃セシムべシ、
 右五条ノ誓約ハ吾党ノ死ヲ以テ決行スべキモノ也。
  明治十六年一月二十七日
  若松軽罪裁判所ニ於テ認ム
  河野広中拇印

又明治十六年四月四日本院予審廷ニ於テ盟約書中政府ヲ顛覆シ云々トアルハ、汎ク万国ヲ指シタル者ナリ。故ニ日本政府ヲモ包含シタレドモ、単ニ日本政府ノミト御認メ相成テハ、盟約書ノ成リタル素志ニ違(たが)フ儀二候へバ、此段モ申立置供卜陳述セリ。

平島松尾ハ、明治十六年一月十七日福島警察署二於テ、汝等六名ニテ為シタル盟約書第一条ニ我党ハ我日本ニ在リテ圧制政府ヲ顛覆スルトアリ。抑モ圧制政府トハ現今我日本政府ヲ指シタルナルべシ、トノ問ニ対シ、現今日本政府ハ圧制ノ傾キアリ、而シテ盟約第一条ノ圧制トハ広ク指シタルコト也ト答へ、
又広ク指シタルトハ漠トシテ解シ難シ、其傾キアリトハ蓋シ圧制ナリト云フノ意カトノ問ニ対シ、然リ即チ現時ノ圧制ニ迫リ、盟約シタル也卜答へ、
又然ラバ圧制政府トハ現今日本政府ヲ指シタルニ相違ナキ乎トノ問ニ対シ、然リ現今日本政府ヲ指シタルニ相達ナシト答ヘタリ。

又明治十六年二月三十五日、若松軽罪裁判所ニ於テ、検事ガ汝ガ被告事件ニツキ、明治十六年一月二日一月三日一月十七日一月二十四日ニアリテ、福島警察署及ビ若松警察署ニ於テノ訊問ニ対シ、
陳述ハ相違之レナキカトノ問ニ対シ、福島警察署ニ於テノ調書中兇徒聚衆(きょうとしょうしゅう)事件ニ付テノ答ハ相違ノ廉(かど)モアレドモ、盟約書其他之ニ関スル事ハ、都(すべ)テ毫モ相違無之候卜答へ、
右盟約書ヲ閲(けみ)スルニ同盟ノ者汝ノ外五名ニ過ギズ、如何ノ方法ヲ以テ同志ヲ募ル見込ナリシヤトノ問ニ対シ、我自由党員中ニ、右盟約書ニ連署ノ外ハ、漸次各自ノ信友中ヲ遊説シ、加盟セシムル見込ニ有之、且加盟者ニハ誓詞血判セシムル申合ナリト答ヘタリ。

又明治十六年一月二十五日若松軽罪裁判所予審廷ニ於テ、汝ガ犯罪事件ニ付明治十六年一月二日同月三日同月十七日福島警察警於テノ陳述、幷ニ十六年一月二十四日若松警察署二於テ陳述シタル通り相違之レナキヤトノ問ニ対シ、福島警察署ニ於テノ陳述調書中兇徒聚衆ノ事ニ付河野等卜協議シタリト申立タルノ一事ハ全ク無実ノ申立ヲ致候、盟約其他ノ事ハ都テ少シモ相違無之候ト答ヘタリ……

右ニ列挙セル証憑中、死ヲ以テ誓フ、自刃セシム、斬二処ス、死ヲ以テ決行ス等ノ記憶ノ書取リ、及ビ連署ノ外ハ、漸次遊説シ加盟血判セシムル申合セナリトノ供述、改良ヲ要スルニハ顛覆セザルべカラズ、顛覆セバ改良セザルベカラズトノ供述、顛覆シ尚ホ之ヲ改良スルト云フ意味ニスル方好シトノ謂ニシテ、右ヲ改良ト致シクリトノ供述、改良トハ顛覆シタル後チ之ヲ改良スル意カトノ問ニ対シ、左様ト答ヘ、政府ヲヒツクリカヘストハ謀反スルノ謂カトノ問ニ対シ、然リ卜答ヘシ等ノ模様ヲ以テ、之ヲ証憑ノ全部ニ照スニ、被告事件ハ前文ニ掲ゲシ如ク判定スべキノ証慂充分ナリトス。

而シテ被告人等ハ結盟セズ血判ノ誓約書ハ既ニ取消タリト申立ツレドモ、相立タズ。何トナレバ其取消タル証憑ナキヲ以テナリ。

又盟約書記憶ノ書取ニハ、政府ヲ顛覆スルトノ文字アリシモ、誓約書ノ原書ニハ添紙ヲ以チ改良ノ文字ニ改正シ置キタリト申立レドモ相立タズ。何トナレバ後ノ添紙ヲ以テ既ニ血判セシ誓約書ヲ改正セシトノ申立ハ相立タザルヲ以テ也。

又誓約書記憶ノ書取リニ政府ヲ顛覆スルノ文字アルハ言論文章ヲ以テスルノ転覆ニシテ暴行ヲ以テスルノ転覆ニ非ズト申立レドモ相立タズ。何トナレバ本件即チ被告事件ノ顛覆スルト云ヘル事実ハ、上文ニ掲ゲシ証憑ニ拠リ暴行ヲ以テスルノ顛覆ナリト判定スルニ充分ナルヲ以テナリ。

又顛覆トハ内乱ヲ為スノ目的ニ止リ、内乱即チ暴行ヲ為スコトヲ陰謀セシコトナシト申立レドモ相立タズ。何トナレバ誓約書記憶ノ書取リニ政府ヲ顛覆スト記載シ、又ハ死ヲ以テ決行スト記載シ、又政府ヲヒツクリ返ヘストハ謀反スルノ謂カトノ問ニ対シ然リト答ヘタル等ニ拠レバ、内乱即チ暴行ヲ為スコトヲ陰謀セシコトナシトハ不当ノ陳述ナルヲ以テナリ。

又誓約書記憶ノ書取リニ政府ヲ顚覆スルノ文字アルハ、外国政府ヲ指シタル者ニシテ、我ガ政府ヲ指シタルモノニ非ラズト申立レドモ相立タズ。何トナレバ本件即チ被告事件ニ云フ所ノ政府ハ上文ニ掲ゲシ証憑ニ拠り我ガ政府ヲ指シタルコト明瞭ナルヲ以テナリ。

因テ之ヲ法律ニ照スニ、刑法第百二十一条ニ曰ク、

政府ヲ顛覆シ又ハ邦土ヲ潜窃(せんせつ)シ、其他朝憲ヲ紊乱(びんらん)スルコトヲ目的卜為シ、内乱ヲ起シタル者ハ、左ノ区別ニ従テ処断ス。
 一、首魁及ビ教唆者ハ死刑ニ処ス。
 二、群衆ノ指揮ヲ為シ、其他枢要ノ職務ヲ為シタル者ハ、無期流刑ニ処シ、其情軽キ者ハ有期流刑ニ処ス。
 三、兵器金穀(きんこく)ヲ資給シ、又ハ諸般ノ職務ヲ為シタル者ハ、重禁獄ニ処シ、其情軽キ者ハ軽禁獄ニ処ス。
 四、教唆ニ乗ジテ附和随行シ、又ハ指揮ヲ受ケテ雑役ニ供シタル者ハ、二年以上五年以下ノ軽禁錮ニ処ス。

刑法第百二十五条ニ曰ク、
兵隊ヲ招募シ又ハ兵器金穀ヲ準備シ、其他内乱ノ予備ヲ為シタル者ハ、第百二十一条ノ例二照シ各一等ヲ減ズ。

右ノ理由ナルニ因リ、高等法院ニ於テ被告人河野広中、田母野秀顕、愛沢寧堅、平島松尾、花香恭次郎、澤田清之輔ニ対シ、刑法第百二十五条第二項ニ依リ、刑法第百二十一条第一項ノ例ニ照シ、二等ヲ減ジ各有期流刑ニ処ス可キ処、原諒ス可キ情状アルヲ以テ、刑法第八十九条第一項ニ重罪軽罪違警罪ヲ分タズ所犯情状原諒ス可キ者ハ酌量シテ本刑ヲ軽減スルコトヲ得、刑法第九十条ニ酌量シテ減軽ス可キ者ハ、本刑ニ一等又ハ二等ヲ減ズトアルニ依リ、各有期流刑ニ二等ヲ減ジ、刑法第二十三条軽禁獄六年以上八年以下ノ範囲内ニ於テ、
河野広中ハ軽禁獄七年、
田母野秀顕、愛沢寧堅、平島松尾、花香恭次郎、澤田清之輔ハ、各軽禁獄六年
ニ処スル者也。



『続・大日本帝国の痼疾』(84)

自由民権運動(38)―福島事件



 改進党と自由党とはかくのごとく相離隔(りかく)せり。而して自由党はいよいよ進みて、激進党より一転して革命党となれり。彼らは明治政府を以て、もはや言論を以て争うも効なきものとなせり。天下朝政に飽きて人心乱を思えば、この時に乗じて事を挙れば、天下響のごとくに応ずべしと信じたるものなり。

 而して激進党をしてかくのごとき思想を起さしめたるものは、庸俗阿諛(ようぞくあゆ)、専ら中央政府に悦ばれんことを望みたる地方長官が、民間党を圧服すれば即ち吾事足ると妄信し、事ごとに不法を民間党に加えたるによるもの多し。福島県令三島通庸(みちつね)こそ、当時の地方官中に行われたる阿諛、庸俗、狡獪の代表者ともいうべかりし。

 彼は妓女を邸内に養うて大臣を饗応せり。妓女と大臣とを密室に追い込みてこれを閉ざせり。彼が長老に対するの術大抵かくのごとく、その慾に訴うるにあり。彼の頂は長老に対して下るがごとく、その下に対しては甚だ高し。故に人あるいはこれを誤解して磊落(らいらく)奇偉の人となせり。然れどもその実一狡邪(こうじゃ)の小人のみ。

 彼れ今や福島に臨みその政権を濫用して自由党を圧抑せり。不急の土木を起して人民を駆使せり。放淫暴乱、風俗を壊乱せり。富豪に課して私第(してい)を成せり。殆んど歴史上に存する悪代官の所作を為し尽せり。



 三島通庸という小人にして悪代官の悪行は、中央政府の意を読み取った上での庸俗阿諛の結果だから、とうぜん、中央政府は同じ穴のムジナである。三島の悪行を黙認し、弾圧のタイミングを謀っていた。

 三島の悪行の舞台は福島だけではない。福島事件の1年後、三島は栃木県令となり、そこでも同じことをやっている。栃木では田中正造を中心とした改進党員が三島の悪行と闘っている。その経緯を教科書Aが取り上げているので、引用しよう。

 1882年(明治15)12月、福島県自由党員のねこそぎ逮捕をやって鬼県令として恐れられた三島通庸(みちつね)が、一年後に栃木県令として赴任してきたとき、田中ら改進党県会議員団は三島との一戦を決意している。当時三島通庸は48歳、田中正造43歳。

 三島のやり方は福島県でやったのと同じ手口であった。まず栃木県下の人事を腹心の者に一新し、郡長らの役人にはそのまま取締権をもつ警部職を兼ねさせる。そして、県庁を栃木町から宇都宮に移転し、新庁舎を建築する。次に主要街道の路線工事を一部変更し、至急に完成させる。その資金は人民からの直接の寄付金と政府補助金でまかなう。したがって県会での審議を不要にし、県会そのものを黙殺する、というものであった。

 田中らはこの三島の計画に真っ向から反対し、六千人余の署名を集めて抵抗した。そして直接山県有朋内務卿に請願したが、山県はこれを無視し、三島は強制寄付をとり立て、工事を強行していった。

 たとえば、陸羽街道工事を数日間で約30里(120キロ)も完成させたり、下都賀郡乙女村では官憲に従わなかった人夫に巡査が斬りつけ、抗議をうけるや乙女村の老若男女百余人を捕縛して小山署にひき立てるという暴挙までした。三階建ての宇都宮県庁新庁舎を棟上式から完成までわずかに実働48日間でやらせたという逸話もある。このころ宇都宮の町角にこんな落首がはりだされた。「人の難儀を横目で三島、それで通庸(用)なるものか」。

 田中正造はこの乙女村事件をとりあげて内務省に直接抗議し、逮捕者を釈放させた。そのため正造は三島にねらわれ、三たび獄に下ることになる。



 いま私には、「小人にして悪代官」の三島通庸と「空疎な小皇帝」の石原慎太郎とがダブって見えている。ともまれ、福島事件に戻ろう。

 已に中央政府の政策に失望したる自由党は、これがために肉躍り血動けり。ここに於てか自由党員河野広中ら十五年の秋、県民の不穏に乗じ、福島弾正原に会して事を起んとす。



 その会合を密偵が訴えるところとなり、同志全員が逮捕される。会合をもち、計画を練っただけで逮捕・実刑に処せられた。いま自民党が執拗に成立させようとしている「共謀罪」はこのような弾圧を合法化するものだ。

 当時は逮捕の法的根拠は「集会条例」だったろうか。裁判は「国事犯」=「政府ヲ顛覆シ又ハ邦土ヲ潜窃(せんせつ)シ、其他朝憲ヲ紊乱(びんらん)スルコトヲ目的卜為シ、内乱ヲ起シタル者」として高等法院で行われた。

 当時の刑法では「国事犯」の場合

首謀者・教唆者は死刑
群衆の指揮など重要な職務をなした者は、無期流刑
その他は有期流刑

だったが、判決は

河野広中 軽禁獄7年
田母野秀顕、愛沢寧堅、平島松尾、花香恭次郎、澤田清之輔 各軽禁獄6年

であった。この情状酌量の背景として、多分にでっち上げの部分があったと推測される。この事件に対する当時の人たちの反応は次のようだった。

 これ実に我国に於て高等法院を開くの最初にして、また国事犯を公判して衆人に傍聴せしむる最初なりしかば、民間党中の法律家はその精鋭を尽くしてこれが弁護を為し、天下の耳目はこれに集まりしが、その獄を閉ずるに至って天下初めて司法官中、また公平の分子あるを信ずるに至れり。

 ただそれ被告人が高等法院に移さるるまでに、警察官より受けたる待遇は、実に幕府時代にも少なき残酷の所置にして、あるいは二、三時間、雪中に直立せしめられたるあり、あるいは靴もて面部を蹴られたるあり、遂にはこれが為に病を得たるものあり。

 かくのごとき非法の処置によりて強て作られたる口供書を基とせる判決は、なお以て天下の人心を満足せしむる能わず。政府を代表せる検察官、堀田正忠は舞文羅織(ぶぶんらしょく)の徒(注)なりとて往々これを撃たんとするものありたりき。

 而してこの宣告と共に河野以下の名声は、全国の新聞紙に上り、談柄となり、家々戸々に伝唱せられ、勇敢愛すべしと為されたり。



(注)舞文羅織の徒
 巧みに議論を組み立てて、罪のない者を誣(し)い捕えてその罪を構成せんとする徒輩。つまり冤罪でっち上げを得意とするやから。この大日本帝国初期の検察・警察の体質はいまもなお連綿と引き継がれている。もちろんこれは、日本の国家権力固有のものではなく、普遍的に国家権力の本質である。

『続・大日本帝国の痼疾』(83)

自由民権運動(37)―熊本協同隊・竹橋事件


 色川さんは、「日本国国憲案」の第71条を引いて、次のように述べている。

「政府威力ヲ以テ擅恣暴虐(せんしぼうぎゃく)ヲ逞(たくまし)フスルトキハ日本人民ハ兵器ヲ以テ之ニ抗スルコトヲ得」

 前章で述べたように、抵抗権の思想はたんに憲法草案に条文化されただけでなく、かなりの民権家に天があたえた人間の権利として受けいれられていた。

 これまで民権運動における「急進派」は1882年(明治15)12月の福島県自由党員にたいする三島県令による大弾圧を境に発生したようにいわれてきた。しかし、それは「自由党激化事件」という狭い概念にとらわれるからである。抵抗権の思想を保持して、実力で専制政府の転覆を計った人びとを「急進派」とよぶなら、明治10年戦争で西郷軍に投じた宮崎八郎らの熊本協同隊は文字通りの自由民権の急進派であろう。あるいは竹橋事件の近衛砲兵隊の反乱兵士たちもそれに該当すると立証される日が来るかもしれない。



 これから「抵抗権行使事件」の学習に進みたいのだが、色川さんによると、「抵抗権行使事件」は「福島、加波山、秩父の三事件をのぞいては、史料上の制約と研究の遅れから事件像の復原すらまだほとんどできていない。」という。ともあれ、年代順に「抵抗権行使事件」を追っていこう。

 と、考えたのだが、上の引用文中の「熊本協同隊」と「竹橋事件」が気になった。そこから始めようと思う。

 今私が利用している三冊の教科書には直接「熊本協同隊」を論じた記述はない。関連したものとして、教科書Bの西南戦争を扱った部分に次のような記述がある。

 この内乱につき最も奇異に感ずるは、西郷の大旗の下に集りたる人士の、議論に於ても、性行に於ても、互に一致すべからきるもの多かりしことこれなり。

 撃剣を事としたる武夫あり、退職武官あり、新聞記者あり、その議論には頑固なる封建党あり、急進なる共和論者あり。熊本のごときは、生平頑固なる封建説を唱うるものと、急進なる民権論を唱うる者と、互に相諍論しつつ、道を分って西郷の軍に投じたりき。



 「熊本の・・・急進なる民権論を唱うる者」が熊本協同隊を指していると考えて間違いないだろう。

 さて、「熊本協同隊」でネット検索をしてみた。ヒットした中で 「まちづくり通信」 の記述が簡潔で要を得ているとので、それを転載することにしよう。

 熊本協同隊とは、明治10年の西南の役の際、西郷軍に呼応して、熊本の保田窪神社で、山鹿の大森惣作が軍資金を出し、植木学校の参加者を中心に平川惟一・宮崎八郎・山鹿の野満兄弟等によって挙兵した集団です。

 彼らは、西郷軍と同じ思想ではなく、ルソーの民約(中江兆民訳の時代)に基づいた政府の樹立を考えており、最終的には、西郷隆盛とも対決する覚悟をもっていたといわれます。

 ちなみに、この時期に呼応した士族や豪農商達は、明治新政府に対しての反感から西郷軍と共に闘った場合がみられ、たとえば、学校党の流れをくむ熊本隊などその思想的背景は様々でした。

 当時、山鹿を含め県内の農民の間には、地租改正入費や民費に不満が高まり、その一連の流れで、戸長征伐が行われており、西郷軍の蜂起は、山鹿白石村(現 古閑)野満長太郎(植木学校参加者で、従軍した野満兄弟の兄)らによる、光専寺1万人集会が行われた直後にあたります。

 このため、薩軍が挙兵し山鹿を占拠した際に、ともに山鹿にまで進んできた熊本協同隊は、この山鹿の地に日本で初めて、彼らの理想に基づき民権政府とも言うべき組織を樹立させることができました。そして、人民総代が作られ、野満長太郎が民政官として山鹿の長となったわけです。

 ただし、これは、軍事占領下で、薩軍が退却するまでのほんの一時の民主制に過ぎませんでしたし、現在の民主制度とは異なるものでした。しかし、彼らにとっては、理想に向けての第一歩でありました。



 次に、竹橋事件については教科書Bから引用する。

 西南戦争の翌年、1878(明治11)年5月に大久保利通が暗殺された。竹橋事件はその同じ年の8月におきている。

 大久保の死によりで、政府の根底、動揺せるは疑うべからざるの事実なりしかば、久しく不平鬱々たりし竹橋兵営の暴徒は、その八月を以て急に暴発せり。

 十年の役、敵軍の最も恐怖せるは近衛兵にてありき。彼らは今市の中より、最も武幹驍勇(ぎょうゆう)の徒を選抜せるものにして、その殊(こ)とに陛下の親兵たるの面目を重んずるを以て、戦場にあって最も抜群の働あり。某中隊のごときは勇往奮進、一中隊の兵士、尽きて三人となるまで激戦せり。されば賊軍はその帽子の赤きの故を以てこれを名けて赤帽となし、赤帽の進む所、風を望んで走れり。彼らはこれを以て自ら多しとする所なきにあらず。

 然るに事平ぎて後、先ず恩賞を受くるものは、弾雨硝煙の間に身を挺(ぬきん)でたる自家の徒にあらずして、遥かに戦場を離れて指揮せる将校にてありき。或る者は旭日の章をかけて揚々として自家の営前を通過せり。或る者は数千の恩金を得て、美食暖衣に飽(あ)けり。彼ら何ものぞ、その勲功は自家の徒の力によりて得たるものにあらずや。

 昔し後醍醐の北条を誅滅するや、先ず恩賞を受くるものは佞官(ねいかん)、内豎(ないじゅ 宮廷内の小臣)の徒にして、将軍家を撫して秋風に泣くと聞きしが、我らの身もまたかくのごときかと、かくのごとき不平は全軍の間に行われしが、近衛軍は最も甚しかりき。

 かくて所々に集会して秘々密々に謀議をこらし、遂に合従(がっしょう)群起、兵力を以て闕下(けっか)に強請(ごうせい)する所あらんとし、八月二十三日の夜半、竹橋の砲兵先ず発し、兵営を毀ち、抹舎を焼き、長官を殺ろし、砲銃を発して、禁闕(きんけつ)に迫りしが途に大尉磯林新造に賺(すか)されて自首して縛に就く。

 この時東京鎮台の少佐岡本柳之助は砲兵大隊を率いて王子に行軍せしが、もし近衛砲兵の兇焔なお少しく強かりしならば、岡本らは直ちに王子の火薬庫を襲うて弾薬を奪い、遥に近衛兵に応ずべかりしなり。

 次で岡本は終身文武大小の官に補せらるるを禁ぜられ、近衛歩兵三添卯助、砲兵長島竹四郎以下銃刑に処せらるるもの五十三人、準流百十八人、徒刑六十八人懲役十七人なりき。

 これと共に大坂その他の諸鎮に於でもまた往々不平の徒を出せしが、遂に大事に至らざりき。

 この事驟然(しゅうぜん)として起り、忽然として已み、人その由来を審(とまび)らかにせずして終りしといえども、賞勲の晩(おそ)きと、給料の減額を怨むるの情と、相合して不平なるに乗じて、私かに陸奥宗光の党与がこれを教唆せるによるものなるべしと信ぜられたり。そは陸奥らの獄は八月二十日に断ぜられ、竹橋の変はその二十二日を以て起りたればなり。

 政府は一方には凶徒を罰すると共に、兵卒の賞勲を速にせしかば、諸鎮に蟠(わだか)まる不平は雲散霧消して、遂に事なきを得たり。

 こわもとより一小事なりしといえども、兵卒が銃を取って禁闕に向うもの、長州人が給門(はまぐりもん)に乱入したる以来の変にして、政府の威柄(いへい)の漸く衰たるを見るべく、もし一転すれば兵隊政治となるべかりしなり。

 これより政府は鋭意して兵隊を検束するの策を講じ、一方には陛下の勅語なるものを下し、兵隊をしてこれを歌わしめ忠義の念を養わんとせるはこの時より起りしなり。而して二、三新聞を限り、兵営に容るるを許せしもまたこの時より初まる。



『続・大日本帝国の痼疾』(82)

自由民権運動(36)―抵抗権


 アイルランドの圧政に対する人民の抵抗組織に、竹越は「アイルランドの殺人党」と、どちらかというとその抵抗運動を貶めるようなレッテルを貼っている。もちろん、私はそれにくみしない。えせ民主主義に対抗する人民の唯一の方法は「非暴力直接行動」であると、たびたび言及してきたが、その抵抗が「暴力的」であらざるを得ない状況に追い込まれた人民の「過激化」を、批判する資格は私(たち)にはない。イラク・アフガアフガニスタンはじめ、多くの地域で現在進行中の人民の武力闘争を非難するような立場を、私は取らない、いや、とれない。

 「世の良民は、加波山事件を聞きて震驚(しんけい)し、自由党を恐怖するに至」るのは、けだし当然のことだろう。古今東西、「良民」が武力闘争を支持したためしなど金輪際ない。「過激化」とか「過激派」とかは、圧政者側からのもの言いだ。「良民」とは支配者に従順な「愚民」のいいである。

 自由民権運動の「激化事件」を「抵抗権行使事件」と言うべきだと色川さんが主張するのは、自由民権思想の中にその根拠があってのことである。

 自由民権運動の中の重要な行動の一つとして「憲法草案の起草」が各地の民権結社や都市民権家の間で行われた。現在知られているものでも四十数種類に及ぶという。中でも、千葉卓三郎起草の「五日市憲法案」と植木枝盛起草の「日本国国憲案」が名高い。教科書Aから、この二つの草案の人権規定に関わる論述を引いておこう。

「五日市憲法案」

 民主主義の原理とは何か、それは多数意志を尊重し、すべて多数決に従うということに尽きるものでは断じてない。国家の存在よりも、政府の法よりも、先に人民の基本的人権があり、それは何物によっても侵すことのできない永久の権利であると認めることに始まる。

 植木枝盛がその「日本国国憲案」の第一篇に

「日本ノ国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺減スル規則ヲ作リテ之ヲ行フヲ得ズ」
「日本ノ国家ハ日本国民各自ノ私事ニ干渉スルコトヲ施スヲ得ズ」


と明記したように、千葉卓三郎もその「日本帝国憲法」の「国民ノ権利」の最初に、

「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス且(かつ)国法之ヲ保護ス可シ」

と宣言した。これは基本的人権の原理とその不可侵性を成文化したものとして、現日本国憲法第2条および第13条の条文ときわめてよく似ている。

 千葉はそれにつづけて、36条にわたる人権規定を展開してゆくが、その中でも出色なのは、権力の干渉、迫害によって個人の自由権が侵されたときの保護に細心の配慮をした点である。

「法律による時機と規定によらなければ拘引、召喚、囚捕、禁獄されない権利」
「裁判官自署の文書で理由と劾告書(がいこくしょ)および証人名を告知しないで拿捕されることがない権利」
「拿捕されたら二十四時間以内に裁判を受ける権利」
「裁判の宣告は三日間以内に受けられる権利」
「裁判官よりその理由を記した宣告状のない場合は、禁錮されない権利」
「宣告を受けた者は控訴、上告する権利」
「保釈を受ける権利」
「国事犯のために死刑は宣告されない権利」
「違法な命令、拿捕にたいして損害賠償を受ける権利」

等々、その具体性の点では植木案よりも勝っており、他の草案をはるかに凌いでいる。いかに彼が政治的権利(公権)ばかりでなく市民的自由権(私権)の尊重に心をくだいていたかわかるであろう。

千葉はまた植木と同じように、「世に良政府なし人民これを良政府となすのみ」と の原認識に立って、たえず権力執行者の人権侵害を監視し、国会に自由権の擁護を義務づけている。そのため五日市憲法草案は行政府にたいする立法府の優位的位置を明確に規定しているのである。千葉の慎重さは、第五篇司法権の条文によって、この国民の権利を二重、三重に保障するというしくみにもよくあらわれている。たとえば

「国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告サルルコトナカル可シ」

とある条文を、司法権では

「国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラズ」

というように禁止的条文で補強している。つまり表規定と裏規定という二重の保障を立てたのである。

 これは千葉が布教上の理由で百日間も監獄に令状もなく拘置され、「片鬢(かたびん)、片眉(かたまゆ)を剃り落されて、鉄鎖に繋がれ」惨憺たる苦役を強いられた(石川喜三郎編『日本正教伝道誌』1901年)、その人権侵害への腹の底からの怒りに発していただろう。また、政治上の反対派に対する非道苛酷な弾圧をくりかえす国家権力への根本的な不信と、烈々たる抵抗の精神より発している。



「日本国国憲案」

 五日市草案にはあれほど周到に人権保護への配慮をしていながら、一点抜けている重要なところがあった。つまり、千葉の自由権の規定には「法律ヲ遵守スルニ於テハ」とか、「法律ニ定メタル程式ニ循拠シ」とかいう制約が条文の半分ほどにつけられていたのである(これは千葉の「法」にたいする理想主義的な信頼、独自な法観念 からきたものであろう)。

 それに対して植木の起草した人権は「法律ノ許ス範囲内」のものではない。無条件、絶対であった。

「日本人民ハ何等ノ罪アリト雖モ生命ヲ奪ハレザルべシ」
「日本人民ハ拷問ヲ加へラルヽコトナシ」
「日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス」
「日本人民ハ自由ニ結社スルノ権ヲ有ス」
「日本人民ハ日本国ヲ辞スルコト自由トス」
「日本人民ハ如何ナル宗教ヲ信ズルモ自由ナリ」
「日本人民ハ何等ノ教授ヲナシ何等ノ学ヲナスモ自由トス」


 これらは当時、目の前で演じられていた官憲の横暴への告発であり、民権家のたたかいヘの激励でもあった。

 「日本人民ハ凡ソ無法ニ抵抗スルコトヲ得」
「政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハザルコトヲ得」


 なぜなら、そもそも

「日本ノ国家ハ日本人民ノ自由権利ヲ保護スルヲ主トス」

べきものだからである。それ故にこそ、

「政府官吏圧制ヲ為ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得。政府威力ヲ以テ擅恣暴虐(せんしぼうぎゃく)ヲ逞(たくまし)フスルトキハ日本人民ハ兵器ヲ以テ之ニ抗スルコトヲ得」

と規定し、さらに

「政府恣(ほしいまま)ニ国憲ニ背キ擅(ほしいまま)ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ建国ノ旨趣ヲ妨グルトキハ日本国民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得」

という抵抗権、革命権の宣言を、「日本国国憲案」第71条、72条に明記したのである。

 ここには近代民主主義の原点ともいうべき「自由はみずからかちとるもの」という健康な精神が躍動している。そして何よりも基本的人権を国家に優越させる考え方が一点の曇りなく明確に打ち出されているのである。戦後の代議制民主主義のぬるま湯の中で、これらの根本精神を風化させてしまったわれわれに対する警告がここにある。

 植木はこれをフランス人権宣言やアメリカ独立宣言などを参考にしてまとめたのであろう。しかし、彼をはじめ自由民権家がじっさいにこれらの自由権をめぐって激しく権力とたたかっている行動がなかったら、これらの条文も血肉をあたえられることはなかったろう。



『続・大日本帝国の痼疾』(81)

自由民権運動(35)―自由党の解党・改進党の内肛


 この板垣の論説を、自由党党員はどのように受け止めたのだろうか。

 これ実に自由党員が意外に思う所なりき。彼らは板垣の帰るや、必らず政論の上の一段の熱心を加え来るならん、必らずや欧州の自由制度を見て、更らに一段の自由家となりて帰るならんと想像せり。然るに彼らが狡獪無腸漢(こうかいむちょうかん)として退(しりぞ)けたる官民調和論者の言うがごとき議論の、板垣の口より出るを見て、大に不満を起し、往々にして板垣を疎んずるものあり。四分五裂統一する所なく、その一方は暴乱、盗を為すものあれば、一方は退隠、世を棄るものあり、これを放任すれば自由党の名まさに汚されんとするを見て、遂に暫らく自由党を解散するに至れり。これ実に十七年十月なりき。彼らは国会を名として起れり。今や国会已に約せらる、その目的は成就せられたるなり。



 改進党は解党こそしなかったが、自由党に対する政府の激しい弾圧の自党への波及を怖れる思惑や官吏への復帰のもくろみなどが交差し、内輪もめの渦中にあった。


 帝政党已に解散し、自由党もまた解散し、準備政党は各々解散の運に向えしかば、改進党中にも、また政社を解散して、精神上の結合とすべしとの議論唱えられたり。これ一は解散の気運というといえども、その実は政府に対するの争、曠日(こうじつ)持久なるより、抵抗の気力尽きて再びこれと和せんと欲したるものあると、自由党の末流、往々暴乱を企てて刑辟(けいへき)に陥(おちい)り、友人を連坐せしむるもの多きより、その禍また改進党中に起らば、政社の組織は甚だ不利益なるを以て、予(あらか)じめこれを解きて禍を避けんとしたるなり。

 然れども改進党は、準備政党にあらず、現実の問題を掲げ何処までも推し進まんと欲するものなり。さればその党中の少壮気鋭の徒は、断じてこれを永続すべしと論じたりしかば、大隈、河野らかつて政府にありし者、多くは脱党せしが、改進党は依然として唯(ひと)りその旗幟を推し立てたり。改進党が自ら恃んで泰然たるの心性、ここに至って初めて見(あら)わる。

 而して大隈に附随したる旧官吏は、これと共に多くその位を復したり。これ明かに大隈と政府との間に、黙約の成り立ちしを証明する者なり。



 自由党解党前後の主な「過激化事件」は次のようである。

1884(明治17)年
 5月  群馬事件
 9月  加波山事件
 10月 自由党解党
 11月 秩父事件
 12月 名古屋事件
    飯田事件

1885(明治18)年
 11月 大阪事件

1886(明治19)年
 6月 静岡事件

 「過激化事件」については次回から詳しく取り上げる予定だが、これらの事件のうち「加波山事件」・「秩父事件」・「大阪事件」についての記述が教科書Bにあるので、 それを読んでおく。
 かくのごとく民間党の気力奄々(えんえん)として日に尽くるに方りて、民間党の策は、ただ泰然として時を待ち、国民の利害と自家の利害と相合一するの時を待ち、一声の喇叭(ラッパ)、万軍を集むるの大問題に逢着するを待つの外なきなり。

 然れども彼の軽進敢為なる自由党は待つの一字を解せず。常に自ら動けば、何時(いつ)も天下を動かすべしと信じ、自家の挙動は幾何(いくばく)か良民に嫌わるるかを知らずして、軽々しく発せり。

 九月、常陸、千葉の壮年、富松正安を首魁(しゅかい)として爆裂蝉を以て警察署を襲い、まさに県庁に迫らんとして成らず、加波山(かばさん)に入り、遂に縛せらる。その事もとより小なりといえども、爆裂弾を政治的の目的に使用したるの最初なるを以て大に世の注目を惹きたりしが、これより先きアイルランドの殺人党(注1) 、魯国の虚無党(注2)が頻りに爆裂弾を使用すとの風聞に驚きたる世の良民は、加波山事件を聞きて震驚(しんけい)し、自由党を恐怖するに至れり。

 十一月に至り秩父の郡民、租税の重きに堪えざるを名として、侠客田代栄助の嚮導により、竹槍蓆旗を揚げて起てり。彼らの首魁もまた自由党と称する者なりしが、遂に兵を発してこれを討滅す。

 十八年十二月に至り、自由党員大井憲太郎、新井章吾、小林樟雄らが、私(ひそ)かに朝鮮に入り日本党を助けて、内乱を起さんとするの状見(あら)われ、同類悉く縛に就き、東洋のラフェート(注3)らついに相率いて獄中に入る。是れ実に自由党員掉尾(ちょうび)の運動なり。



(注1) アイルランドの殺人党
 アイルランド問題は、エリザベス朝英国の強力な土地没収政策と、1551年の勅令によるアイルランド伝来の旧教圧迫への民衆の反発によって、19世紀後半になって事態が深刻になってきた。
 1840年代には青年アイルランド党の結成、アメリカに居住するアイルランド人の秘密結社フエニアン団と連絡をとるアイルランド共和同胞団の武力闘争、そしてE・S・パーネルによる土地同盟の結成(1879)と土地闘争など、独立・革命運動が強力に展開された。

(注2) 魯国の虚無党
 19世紀ロシアの革命思潮。ゲルツェン、バクーニン、プレハーノフなどが代表的思想家で、90年代初頭まで革命運動の主流をなした青年インテリを中心とするラディカリズム。マルクス主義が移入されるまで反西欧的資本主義、ロシア固有の社会主義(ミール)実現と反個人主義を掲げ、ヴ・ナロード(「人民の中へ」)をスローガンに農民の啓蒙運動に専心。また、彼らの中に個人的テロの手段に訴える一派もあり、ツァー、高官の暗殺計画があいついだ。

(注3)ラフェート
 ラ・ファイエット(Marquis de La Fayette 1757~1834)
 フランス革命期の軍人・政治家。アメリカ独立戦争を支援した。帰国後、「人権宣言」を起草。のちジャコバン派と対立して亡命。再帰国後、七月革命に参加。

『続・大日本帝国の痼疾』(80)

自由民権運動(34)―板垣退助の変節


 1883(明治16)年9月2日付『自由新聞(346号)』に掲載された板垣退助の論説が、教科書Bに全文紹介されている。貴重な資料(たぶん)だと思うので、かなり長いが、それを転載しておこう。

 当時の自由党の多数は実にかくのごとき失望悪戦の徒と化したるなり。この時に方(あたっ)て板垣は欧州より帰り来れり。

 彼は先(さ)きには自由平等の大義に依りて一国の元気を振策し、一国の療治は先ず刀を政弊より加えざるべからずと信じたりき。今や彼が欧州より帰るや、深くその生活社会に於ける物質的の進歩の広大にして、政治の進歩かえってこれに及ばざるに感じ、帰来、生活社会を進歩せしむること、政治よりも急務なりとなせり。そは大坂に於てその政友に談話せる中左の一節を見てこれを知るべし。
 余の仏国ニ在ルヤ同国ノ学士アコラス(注1)氏ヲ訪ヒシニ、氏ハ余ニ向テ子ハ欧州ニ来テ事物ヲ観察シ如何ナル感覚ヲ発シタルヤト問ハレシニ付、余ハ欧州ニ在ル日猶ホ浅キヲ以テ固ヨリ其事情ノ詳細ヲ知ルニ由ナシト雖(いへども)、上ニ在テ着目スルニ、故国ニ嘗テ聞キシガ如ク欧州哲学ノ進歩ハ実ニ驚ク可キ者アリ。然レドモ今回余ガ最モ驚愕シタル所ノモノ二アリ、其一ハ生活社会ノ大ニ進歩シタルコト是レナリ。其二ハ生活社会ニ比スレバ政治社会ノ大ニ進歩セザルコト是レナリト答ヘシニ、

アコラス氏ハ大ニ余ガ些言ニ感ジテ曰ク、予モ亦夕三日前ニ於テ朋友ト相謀リ十九世紀ニ於テ何ヲカ最モ注意スべキモノ乎トノ論題ヲ掲ゲテ著述シタル所アリシガ、其意欧州ハ生活社会ハ進歩シタルモ、政治社会ハ大イニ進歩セズ、故ニ十九世紀ニ於テ最モ宜シク改良スベキハ政治社会ナリト云フニ在リ。左レバ子ガ観察ハ寔(まこと)ニ善ク我欧州ノ現状ヲ看破シタリトテ、意外ノ賞讃ヲ受ケタリ。

 夫(そ)レ欧州生活社会進歩ノ有様ヲ察スルニ、総ベテ財アル者、智アル者、力役者等相合同シテ精巧広大ノ事業ヲ為スヲ以テ、衣食住ノ三者ヲ始メ農工商ノコトニ至ル迄、善ヲ尽シ美ヲ尽シ、村落卜雖モ至ル所煙筒空ヲ衝(つき)テ煤煙ヲ天ニ漲(みなぎ)ラスノ製造場アリ、潤屋(じゅんおく)雲ニ聳エテ瓦光日ニ輝クノ会社アリ、而シテ富豪ノ家屋ヲ見ザルナク、容貌俊智ヲ含ムノ人ヲ見ザルナク、衣服頭飾、燦然華麗ノ人ヲ見ザルナク、一歩ヲ進メテ観察ヲ下セバ、或ハ力役者ノ会社ノ下ニ在テ荷物ヲ運搬スルアリ、或ハ会社ニハ為替手形アリテ頗(すこぶ)ル迅速ノ売買ヲナスアリ、或ハ道路ハ坦トシテ砥ノ如ク自在ニ運搬交通ヲナシ、或ハ水ナキノ地ハ溝渠ヲ穿(うがち)テ流水ヲ通シ、宛(あたか)モ人力ヲ以テ天道ヲ圧倒シタルノ景状アリ。

 又眼ヲ転ジテ其政治社会ヲ見レバ、或ハ其一己人ノ自由ニ任スベキコトモ猶(な)ホ政治ノ干渉ヲ免レザルアリ。或ハ町村ノ自治ニ任スベキコトモ猶ホ中央政府ノ牽制ヲ受クル者アリ。而シテ其政党卜称スル者ニシテ猶ホ私党ノ大弊ヲ免ル、能ハザルモノアリテ、例ヘバ仏国ノ下議院ニ於テハ貴族ヲ放逐スルノ議ヲ決シタルガ如キ、英国ノ下議院ニ於テハ彼ノプラドロー(注2)ガ誓ヲ諾セザルヲ以テ議院ニ入ルコトヲ許サヾルガ如キ、児戯ニ類スルコトアリ。

 而シテ我日本ノ現状如何ト顧ミレバ、我国ノ状態ハ全ク欧州ニ反対シ生活社会ハ頗ル底度ニアルモ、政治社会ハ寧(むし)口進歩シタルモノナリト云ハザル可カラズ。何トナレバ町村アリ、都区アリ、府県アリテ、地方ノ管治モ亦粗(ほぼ)備ハリ、而シテ中央政府アリテ一般ノ国政を施行セリ。

 然ルニ其生活社会ヲ見ルニ其政治社会ノ町村府県中央政府ノ整備ニ比ス可キモノ一モ之レアラズ。例へバ村落ニ至レバ僅ニ地主ト小作人トヲ識別スルニ止マリ、其市街ニ入レバ僅ニ卸売商ト小売商トヲ識別スルニ過ギズシテ、一ノ製造場ヲモ見ズ、一ノ職工場ヲモ見ズ。是レ其財アル者ト力役者ト合同スル能ハザルガ故ナリ。乃チ政治社会ニ比スレバ猶ホ町村都区ノ組織ヲダモナス能ハザルガ如シ。

 而シテ堅固盛大ナル会社ノ如キハ全国ヲ通ジテ甚ダ稀レニ見ル所ニシテ、是モ亦財アル者ハ其株ヲ有シ、智アル者ハ其事ヲ弁ジ、力役者ハ品物ヲ製造シテ東西ニ運搬スル等、互ニ合同協力シテ之ヲ組織維持スル能ハザルガ故ナリ。乃チ政治社会ニ此スレバ猶ホ府県ノ組織ヲダモ為ス能ハザルガ如シ。又為替会社ノ設ケアリテ品物ノ売買ヲ迅速ナラシムルコトモ未ダ整ハズ、運搬会社ノ設ケアリテ品物等ノ運搬ヲ自在ナラシムルコトモ末ダ振ハズ、又タ保険会社ノ設ケアリテ財産ヲ堅固ナラシムルノコトモ、末ダ整ハズ。乃チ政治社会ニ比スレバ中央政府ノ組織ヲナス能ハザルガ如キモノト謂ハザル可カラズ。而シテ其我国人ガ唯ダ己レヲ利スルニ汲々トシテ、一般ノ結果ノ如何ヲモ顧ミズ、百計欺騙(きへん)ヲ逞(たくまし)ウシ、甲者ハ乙者ヲ斃(たお)シ、丙者ハ丁者ヲ凌(しの)ギ、区々相争フノ有様ハ乃チ政治社会ニ比スレバ猶ホ綱紀紛乱シテ、殆ンド野蛮人民ノ各自ニ闘争ヲナスガ如キモノト謂ハザル可カラズ。

 此ノ如ク生活社会ト政治社会卜両々相比較セバ、政治社会ノ進歩ハ夐(はる)カニ生活社会ノ上ニ駕スルモノト云ハザルヲ得ズ。即チ我国政治社会ノ旺盛ハ生活社会ヲ圧倒シテ、其ヲシテ退縮萎靡(いび)セシメタルモノト云ハザルヲ得ザルナリ。凡(およ)ソ人間社会ハ生活ノ必要アリテ、然ル後チ政治ノ用アリ。是レ則チ自然ノ定則ナリトス。彼ノ欧州ノ生活社会ノ進歩シテ政治社会ノ之二晩(おく)レクルハ、即チ其自然ノ理ニ随フモノニシテ、我国ハ之レヲ顛倒シテ政府アリテ然ル後チ生活アルガ如キ景状ニ陥リタルハ最モ慨嘆セザル可カラズ。

 然ルニ我国卜雖ドモ遠ク往古ニ溯(さかのぼ)リテ其ノ如何ヲ温(たづ)ヌレバ、必ズ此ノ自然ノ順序ニ随ヒタルノ痕跡ハ歴々視ルヲ得可シト雖ドモ、畢竟(ひっきょう)我国ハ古ヨリ専制政治ノ行ハレタルヲ以テ、政治社会ノ勢力ハ遂ニ生活社会ヲ圧倒スルニ至り、為メニ其ヲシテ狭隘萎靡(きょうあいいび)セシメタルモノニシテ、爾来政治社会ノ勢力ヲ以テ生活社会ヲ左右シ、是ニ於テ遂ニ自然ノ理ニ随フノ連動力ヲ沮碍(そがい)シ人間ノ素質トモ称ス可キ生活社会ノ勢力ヲ大ニ損傷スルニ至レリ。

 故ニ之レヲ概言スレバ、欧州ハ生活社会ノ為メニ政治社会アリ、我国ハ政治社会アルガ為メニ生活社会アルモノト云ハザル可カラザルナリ。





(注1)アコラス
エミール・アコラース
(Emile Acollas 1820~92)
 急進的政治思想家。第一インターナショナルに関係し、「平和と自由の同盟」の創始者。パリ・コミユーンによって法科大学長に推された。西園寺公望、中江兆民に思想的影響を与える。

(注2)プラドロー
チャールズ・ブラドロー
(Charles Bradlaugh 1833~91)
 英国の急進的社会改革者、自由思想家。1850年ころより非宗教主義運動に入り、「イコノクラスト」(偶像破壊主義者)という筆名で著述活動をおこなう。80年に下院議員に当選するが、聖書による宣誓を拒否して議会からしめ出され、86年には産児制限を弁護するパンフレットを発行して投獄と罰金刑を受ける。イギリスの議会議員に選ばれた最初の無神論者。

『続・大日本帝国の痼疾』(79)

自由民権運動(33)―民間党の末路


 民権運動の衰退の原因として、

①政府の牙をむきだした弾圧
②民間党切り崩しの狡猾な懐柔策
③民間党自身の内部崩壊

が考えられる。それらが絡み合って相乗的な力となり、自由民権運動は衰退していった。①②③における決定的な事件としては

①1882(明治15)年11月  福島事件
③1883年10月
 板垣退助の変節(自由党解党)
②1884(明治17)年7月
 華族令(貴族制度の導入)

をあげることができる。

 福島事件は、一部自由党員が、いわゆる「激化」していくきっかけとなったとされている大弾圧である。この事件は「激化事件」(色川さんの提言に従えば、「抵抗権行使事件」)の発端として、「激化事件」を取り上げるときに詳しく見ることにする。

 貴族令は、「一君万民」という明治維新の当初の目的のご破算を宣言したに等しい法令だった。竹越も、貴族令について次のように述べている。

 維新改革の大目的は自由平等の大儀を実行すると、皇室と人民とを近よらしむるにありき。これ当時の人心に印したる一大譜牒なりき。ここに於いてか華族なるものは早晩廃せざるべからずと信ぜられたるに、ここに至って華族を区別し、更に新華族を設けて、皇族の藩屏(はんぺい)と称し、以て人民と皇室との間を遠からしめたれば、維新以来十有八年にしてその大目的ついに失敗す。



 さらに、この華族令による新華族に、大隈重信・板垣退助・後藤象二郎が名を連ねている。自由民権運動を主導的役割を担っていた者らが、やすやすと政府の手中に落ちてしまったのだ。民間党は、あとは坂を転げるように転落するほかない。

 かくのごとく貴族主義の勢力は駸々乎(しんしんこ)として進むと共に、民間党は実に憐れ墓(はか)なき境界となれり。

 彼らは一挙して明治政府を打ち倒さんとして国会を名として起てり。然れども政府は倒れざるなり。国会は約束せられたり。而して自家の金城鉄壁として恃み切ったる人民は、政党に冷淡にして、むしろその囂々(ごうごう)を厭うもののごとし。ここに於てか或る者は節を変じて官吏となり、或る者は山野に退居して時を俟(ま)ち、或る者は世を憤って暴乱家となれり。

 彼らは自由平等の理想国を望見することモーゼがネボ山にありて上帝約束の地を望見したるがごとく、生気勃々(ぼつぼつ)として、国民を率いてこの地に入らんと欲せり。而して国民はこれを知らずして、容易に動かざるなり。ここに於てか彼らはヘルヴェシウスがいえるがごとく、社会もし己を容れずんば、社会は即ちその生存の目的を過ちたるものなれば、これを破壊するも可なりちょう主義もて、往々にして激昂、暴乱の企てを為すものあり。当時の自由党の多数は実にかくのごとき失望悪戦の徒と化したるなり。


 党の総理が華族に名を連ねれば、「節を変じて官吏」に転身する者もいる。これらも変節に違いないが、さらに板垣には思想的な変節があり、それが自由党解党へとつながっていった。

『続・大日本帝国の痼疾』(78)

自由民権運動(32)―自由党と改進党の軋轢(3)


 改進党の「気風」については次のように論じている。

 然れどもこの他に一隊の党派あり。彼らの智は能く時勢を識別し、今日は到底、腕力を以て政府に打ち勝つ能わざるを知れり。政府との争は言論の武器に止るべしと決心せり。

 彼らはその身に多少の地位あるを以て、軽挙妄動、天下の笑となりて、既に得たる者を失わんことを恐れ、沈重自ら持して、容易に他に雷同せざるなり。彼らは前者のごとく義侠敢為の胆略なしといえども、政治家の識見を具え、その議論を言うべく行うべき普通平易の範囲に止め、中等人民の常識に訴えて改革を成就する、英国の政治家のごとくせんと欲したり。

 彼らは当世の学者紳士多かりしかば、現在の社会を根本より撹乱して、秩序を破り、自ら波瀾中に巻きこまるるの愚なるを知り、改革を主張するも、秩序を重んじたり。而してその結果、いわゆる改革なるものは、単に政府より参政権の一部を取り、これを自家と同一階級の人民中に分配せんとするに過ぎざるに至れり。

 これらの分子はかつて自由民権の運動の天下を震動するや、共に与に周旋せりといえども、到底他の敢為勇往の分子と相一致す可らざりしなり。此に於てか大隈の朝廷を出でて民間に下るや、この徒は好首領を得たりとなし、相率いてこれに投じ、枝を連ね、蔓(つる)を引きて改進党を作りたれは、安芸に於て、越後に於て、備前に於て、讃岐に於て、駿河に於て、大坂に於て、東京の近傍に於て、かつて自由党に投じたる平和、智恵、財産の分子は、相率いて脱して改進党を組織せり。

 ここに於てか改進党の成るや、一朝にしてその信用と政治上の実力は、殆んど自由党と匹敵するに至りしかは、一点不和の火は、この時に於て已に両党の間に入れり。



 続いて、その目指すところは同じでも、両党の「気風」の相違が大きな溝を作り、それが政府のつけいる隙ともなり、やがて決定的な相互憎悪にまで至る様相を記述している。

 彼らは均しく明治政府が国家万能主義を持して人民に臨み、これよりして中央集権、官尊民卑、民業保護、租税過重、軍隊政治、政府人民の相反を生ずるを悪みて崛起(くっき)し、個人的自由主義、地方分権、民業上の任他政略、官民同等、民力休養を主張して、政府の国家主義に反対せるなり。

 然れども自由党は仏国風の政論にして、敢為活達を尚(たっ)とび、改進党は英国風の政党にして、沈重和平を尚とぶ。一は人権論者にして、一は実利論者なり。一は政党というよりも、むしろ社会改革組合というべき有様にして、社会の大根底より改めんとし、一は万事の改革巳に成りたる英国にある政党のごとく、ただ現実の問題によりて相争わんとす。一はその主義を社会に吹き込まんとするが故に、社会の活火たる青年に近づき、一は意見を政治の上に実行せんとせるが故に、勢、政治上の勢力たるべき、老実家を求む。彼らは各々その為すべきことを為したるなり。

 然れどもその気風の異なるが為に、一毫(いちごう)の差、千里の別を生じ、両党の勢力進むに従ってその憎悪いよいよ甚しく、自由党は改進党の勇なくして狡獪(こうかい)に陥るを責め、改進党は自由党が思慮なくして軽奔(けいほん)し、粗暴過激に陥るを卑(いや)しみ、不和争闘の種は久しく熟したり。

 改進党の新聞紙が、板垣の事を論ずるや、政府の策士は得たり賢(かしこ)しと、政府に出入する自由党員を教唆(きょうさ)せり。火は薪に移れり、油は薪上に注がれたり。

 ここに於てか自由党員古沢滋は『自由新聞』に於て、先ず改進党の総理大隈が政府にありし時の過失を掲げてこれを論じ、誇張の筆を以て陰私を発(あば)けり。次で偽党撲滅の演説あり、奸党退治の集会あり。改進党もまた自由党の過激疎暴を撃って容赦せず。

 ここに於てか政府の策その図に中り、民間の両党、相争ってその公敵たる政府、政府党に当るを忘れたり。己に争う、抜くべからざるの怨恨を種(う)えたり。ここに於てか十年以来、政府に対して攻撃同盟を組み、席巻の勢(いきおい)を以て進み来りたる民間党の気焔、殆んど全く消滅し、政府をしてもはや民間党憂うるに足らずとして、十六年の秋を以て、帝政党を解かしむるに至れり。これ実に民間党に取りては終生の大失策にてありき。



『続・大日本帝国の痼疾』(77)

自由民権運動(31)―自由党と改進党の軋轢(2)


 自由党と改進党の軋轢を、色川さんは次のように総括している。

 このように明治14年の政変以後、民権派は国民的な連合を政党のかたちで作りあげ、専制政府の反動路線と弾圧に対抗したのであったが、かんじんの二大革新政党が対立抗争をくり返して地方人民の期待を裏切り、民権陣営の力をいちじるしく弱めてしまったことは、自由民権運動全体にとって決定的であった。

 1880年代という時点で、組織構想の違う自由党と改進党とが別々に党を作ったということはやむを得なかったとしても、共通の敵のまえで互いに「偽党」として攻撃しあう必然性はまったくなかった。自由民権運動がなぜ早期に敗北したか、その政治的な原因の一つがここにあったことは否定できないと私は考える。



 既にみてきたように、自由党と改進党の違いは「組織構想」だけではなく、思想的構想の違いも大きかった。その大きな違いの一つは、江村さんの指摘するように、「皇権と民権」についての構想に現れている。いわゆる「主権論争」に関わる問題である。これを取り上げる前に、両党の軋轢問題にもう少しこだわってみたい。

 両党の思想的相違を三叉竹越は「主義」の違いではなく「気風」の違いと言い、両者の争いの基軸に置いて論じている。

 政党は主義によりて成るか人によりて成るか、久しきあいだ討論せられたり。然れども民間の両党が、この時に方って争闘せしがごときは、政党分合の最大要素は、実に人民の気風によるものなるを証明せり。

 両党の争いは「主義」の違いによるよりは、「気風」の違いによるものと認識している。「気風」という言葉の意が定かではないが、人の「気風」というものが、出生、生い立ち、生来の気質、受けた教育、家族・友人など人間関係、読書歴、出会った事件や実人生体験などなど、多くの要因が複雑に絡んで形成されるものとすれば、これは「思想」(「主義」ではなく、広い意味での思想)と言ってもよいのではないか。私はそのように解して読んでいる。

 両党の「気風」の違いから民間党の「末運」までの経緯を、教科書Bはかなり詳しく論じている。まず、自由党党員の気風を次のように論述している。

 民間党が澎湃(ほうはい)の大波を起して来るや、その先鋒となりて進みしものは敢為、冒険、激進、朴素の分子にてありき。

 彼らの中には仏国革命の歴史もてその頭脳を養い、ルーソーの『民約論』を以て大主義となしたるものあり。眼中には貧富貴賎の別なく、帝王平民の区別なく、純然たる赤色共和党たるものあり。

 その或る者は『靖献遺言』(注1)を以て頭脳を作り来り、『自由論』を以て上塗りを為したるものあり。

 その或る者は武断圧制を好みて且(しば)らく自由民権を好辞柄(じへい)とせるものあり。

 然れども要するに彼らはその議論感情に於ては、少なくとも共和論者にして、一種の理想を具(そな)え、この理想に向って、勇往直進せんと欲したる者なり。されば彼らは英、仏、米、以(「伊」イタリア)の革命史を読むや、身親しくその国にありて革命軍に投じたるがごとく感じ、当時の革命軍に抗したる貴族君主を悪(にく)むこと、自家の敵を悪むがごとくなりき。

 首(こうべ)を回(めぐ)らして我国状を見る。有司の専制十余年、政権全く薩長の二藩士、もしくは交遊の上に於て二藩に帰化したる人物に占有せられ、維新改革の大目的たる公論輿論は籠絡せられ、欺騙(ぎへん)せられ、奴隷とせられ、遂に打ち殺され、而してかつて衣食に窮して憐を他人に乞うたる小身物、今や浮華揚々(ふかようよう)、天下の士を駆使するを見て、貪婪(どんらん)なる英国の王室、収斂(しゅうれん)なる仏国の貴族らの記憶は、幻然として革命の記憶を呼び起し、身を殺すも、家を破るも、革命軍を起さざるべからずと信ぜり。

 彼らの見解の正否は措(おい)て論ぜず、彼らの正直者はかくのごとく信じたるなり。彼らの不正直者も、またかく為ざるべからずと論じたるなり。ここに於てか圧制政府は顛覆せざるべからず、革命の権人民に存す、専制の大臣はこれを殺すべし、等の論題は、毎々、新聞演説に上り、而してチャールス、ルイらの専制君主は、不法の例として引用せられ、クロムウェル、ワシントン、ダントン、ロベスピール、パトリック・ヘンリー(注2)らの共和政府の建設者は、常に讃美の声を受けたり。

 さればその間に用いらるるの書は仏魯両国の革命小説なり。スペンセルの『社会平権論』なり。ルーソーの『民約論』なり。ミルの『自由の理』なり。トークヴェユ(トックヴィル)の『米国共和制度』なり。

 而してその結果は、大坂に於て天皇の写真を滔(ふ)みたる門田平三を出し、日本政府の管下にあるを好まず、その法律の義務を尽さず、権利を要求せず、日本の管轄を脱せんと太政官に届け出たる地球上自由生高知県人宮地茂平を出すに至れり。

 彼ら多数の気風は実にこの政論に適えり。而して彼らは敢為大胆、物の奥底まで言い見(あら)わして臆せざるや、義侠快活、その議論の達する所、何(いず)くまでも往かんと欲せり。彼らの中にはもとより幾多の探偵ありき。幾多の偽善者ありき。幾多の偽慷慨家ありしなり。然れどもその一般の議論感情気風はかくのごとし。これによりて自由党なる党論を生ずるに至れり。



(注1)『靖献遺言』
浅見絅斎(けいさい)編、全八巻。1687年(貞享4)成る。屈原・諸葛孔明・陶淵明・顔真卿・文天祥・謝畳山・劉因・方孝孺の8名の志士・仁人の遺文を選集。道義に殉じた精神、尊王論の顕彰を試みた書物。

(注2)パトリック・ヘンリー
   Patrick Henry(1736―1799)
 アメリカ独立革命の指導者。弁護士。ヴァージニア植民地議会議員に選ばれ、印刷条例(Stamp Act)に反対して全国にその名が知られる。1775年、リッチモンドで開かれた人民大会で「自由を与えよ、然らずんば死を」という演説をおこない、独立達成のため英本国との戦争が避けがたいことを述べた。のちに独立後初代ヴァージニア州知事、州憲法の制定に参加。87年、合衆国憲法の制定にさいしては、強力な中央政府の形成に反対する州権論者としての態度を表明。

『続・大日本帝国の痼疾』(76)

自由民権運動(30)―自由党と改進党の軋轢


 色川さんは、田中正造を通して自由党と改進党の軋轢の経緯を論述している。それを要約する。

 田中は、自由党の結成に際して民権派の大連合を期待していた在地の活動家の一人だった。1881年10月2日に開かれた自由党結成準備会に田中は直ちに参加し、各派各社の大同団結を訴えたが、結局自由党は愛国社系政社を中心として発足してしまい、田中の正当な主張は入れらなかった。

「各其長ズル処二誇ツテ他党ノ短所ヲ攻撃ス、決テ社会一大結合ト云フベカラズ……之ヲ合併シ其長ズル処ニヨツテ全力ヲ尽シ互ニ相親睦セバ我党ノ幸福ヲ図ル亦ナンノ堅(かた)キコト之(これ)アラザルナリ」 (田中正造の10月4日の日記より)

 田中は1881年12月に嚶鳴社の島田三郎が遊説に来たとき、10日間にわたって島田と同行し、演説して歩いた。また佐野に来た自由党総理板垣をも親しく訪ねている。そのとき板垣には自説をのべて、大連合実現のため『自由新聞』社長にはならないように要請している。

 ところが、半年後の1882(明治15)年6月、板垣は『自由新聞』社長に就任し、秋から自由党は改進党攻撃を開始、さらに翌年、公然と改進党を「偽党(ぎとう)」とののしり、その撲滅を宣言した。栃木県下でも自由党系壮士による改進党系演説会へのなぐりこみ事件が頻発する。それに加えて板垣、後藤の財閥資金による洋行事件が起こった。その問題をめぐって、自由党幹部馬場辰猪、大石正巳らが脱党している。

 こうした自由党のあり方と板垣総理の背信行為に失望して、田中正造は当面の大連合に見切りをつけ、1882年12月18日、立憲改進党に入党しる。

 同時代人の竹越(教科書B)は「民間党の衰微」の原因として、私財をなげうっていた篤志家の家産の傾きや、官職を餌にした政府による切り崩しなどもあげている。そして、板垣の洋行資金の疑惑を改進党が機関紙で取り上げたことが両党の離反を決定的にしたように記述している。

 これ(伊藤博文の留学)に次ぎて板垣退助、後藤象二郎もまた欧州の文物を観察せんとして出発す。

 これより先き天下軽俊(けいしゅん)敢為(かんい)の徒が政党に赴くや、皆な速かに一事を挙げんと望みたるものなるに、政府は塁を高うし、溝を深くし、容易にこれと鋒を交えず。ただ帝政党のごときものをしてこれと交戦せしめて、以てその力を試めすに過ぎず。こと容易に挙らず。

 これと共に政党の士、長きものは六、七年、短きも三、四年の間、東奔西走、家産漸やくにして破るるもの多かりしかば、気餒(う)え心労(つか)れ、これと共にいわゆる民権家なるもの、往々にして節を破って仕官し、以て目前生計の苦難を免るるもの多かりしかば、民権党の勢力、漸々に衰弱し来れり。

 この時に方り板垣ありてこれを鼓舞するも、以てその活気を回復すること殆んど難(かた)かりしに、板垣はこれを顧みずして外遊を試みんとせしかば、自由党の士人大にこれを難じたりしが、板垣は遂に出発せり。而して仏に於て後藤と争を生じ、離別して遊行せり。

 この時に方りて流言あり。曰く、板垣後藤外遊の資は政府より出ずと。これより先き官民調和論なるものあり。政府と民間と相争うの激甚なるを見て、これに調和すべしというものにして、福沢諭吉その唱首たり。彼は政府の中にも多くの友人を有せり。民間の中にもまた少からざる友人を有せり。何れに傾くも自家の利にあらざるなり。ここに於てか『時事新報』の上に全力を注ぎてこれを論ず。この議論は民間党よりは狡獪(こうかい)なる議論として目せられたり。

 然れども政府は私(ひそ)かにこれを悦(よろこ)び、二、三年前の政策に帰り、幾多の政党員、もしくは政党に投ずべき者をして官吏となし、以て政党の口を噤ぜんとし、民間党にありては獅子のごとくに吼え回りたるもの、今は政府に入りて猫のごとくに眠るもの少からず。

 政府の政策この一方に向いし時なりしかば、改進党の新聞紙は板垣に関する風説を取ってこれを紙上に揚げたり。ここに於てか久しく默したる自由改進両党の争爆発す。