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『続・大日本帝国の痼疾』(75)

自由民権運動(29)―改進党結成


 組織論の行き違いから自由党準備会から離脱した嚶鳴社の沼間は、東京の民権派ジャーナリスト諸グループの結集して指導部の確立後に地方に組織を拡大するというその組織論を文字通り実行して、立憲政党を結成するが、それは直後に活動を停止することで終った。沼間は別の道を求めて、立憲改進党結成に努力中の小野梓と連携する。

 されば政府中の大立物にして、幾多の才俊を門下に養える大隈が、民間党中に入るや、民間党は双手を開きてこれを歓迎せり。

 ここに於でか、かつて自由党に投じたる嚶鳴社派はその旗を抜きて大隈の大傘に入り、三田派出身の官吏、地方の豪農、豪商と共に十五年の初春左の綱領によりて改進党を組織し、大隈これを総理し、河野敏鎌その副総理たり。ここに於てか千里一色なる民間党は、分れて二となれり。

第一
 王室の尊栄を保ち、人民の幸福を全うする事。

第二
 内治の改良を主とし、国権の拡張に及ぼす事。

第三
 中央干渉の政略を省き、地方自治の基礎を建つる事。

第四
 社会進歩の度に随ひ選挙権を伸闊(しんかつ)する事。

第五  外国に対し、勉めて政略上の交渉を薄くし、通商の関係を厚くする事。

第六
 貨幣の制は硬貨の主義を持する事。



 この改進党の基本的性格や自由党との関係については、まだ今後の研究に待たれる部分が多いようだ。教科書Cの解説を引用しておく。

 大まかにいって自由党がその基盤を小ブルジョア的発展をとげつつある農民層と非特権的商工業者に置いていたのに対し、改進党の場合、都市の商工業者と地方の名望家・資産家にその基盤を置いていたと推定される。

 (最近の研究によると)小野梓らはその政治理論において、「皇権と民権」の関係をいわば正比例するものとしてとらえ、逆比例関係でとらえる自由党にたいして意識的に距離を保つとともに、他方立憲帝政党にたいしても明確に一線を画したこと、各地域において自由党系の在地民権結社にそれぞれの事情で競争ないし対立関係にあった在地民権結社の人々が入党したこと、などが明らかにされている。各県の改進党系小政党と改進党との関係も全体として究明する必要がある。

 また、自由党との関係でいえば、例えばその第一点との関連でいえば、分立に遺憾の念を表するだけでなく、当時の分立を止むを得ないものとした上で共通課題ないし一致点(例えば議院内閣制や財政共議権の要求)による共同闘争の可能性(後の条約改正反対運動の場合県レベルで共闘が成立した)、或いは実現しなかった理由をさぐることが歴史的総括として必要であろう。



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『続・大日本帝国の痼疾』(74)

自由民権運動(27)―御用新聞と御用政党(2)



明治十五年三月、福地、丸山ら東京にありて遂に立憲帝政党を組織す。その党議綱領は実に伊藤らの授くる所にして、当時の政策を代表する者なり。『日々新聞』はその社説に公示して曰く、

 吾曹(われら)これを当路の諸公に示しまいらせたるに、異議なしと仰せられたりと。然らば唯(ひと)り伊藤のみならず、政府は全体の決議を以て帝政党によりて民間党と一戦せんと欲したるなり。

立憲帝政党議綱領
 我立憲帝政党は明治八年四月十四日及び明治十四年十月十二日の勅諭を奉戴し、内は万世不易の国体を保守し、公衆の康福権利を鞏固ならしめ、外は国権を拡張し、各国に対して光栄を保たんことを冀(こひねが)ひ、漸(しだい)に循(したがひ)て歩を 進め、守旧に泥(なじ)まず、躁急を争はず恒に秩序と進歩の併行を求め、以て国 安を保維し以て改進を経画せんことを主趣とす。依て左に掲ぐる所を以て我党の綱領と定む。

第一条  国会開設は明治二十三年を期すること聖勅に明なり、我党之れを遵奉し、敢て其伸縮遅速を議せず。

第二条
 憲法は聖天子の親裁に出ること聖勅に明なり、我党之れを遵奉し、敢て欽定憲法の則に達はず。

第三条
 我皇国の主権は聖天子の独り総攬し給ふ所たること勿論なり、其施用に至りては憲法の制に依る。

第四条
 国会議院は両局の設立を要す。

第五条
 代議人選挙は其分限資格を定むるを要す。

第六条
 国会議院は国内に布くの法律を議決するの権あるを要す。

第七条
 聖天子は国会議院の議決を制可し、若しくは制可せざるの大権を有し給ふ。

第八条
 陸海軍人をして政治に干渉せしめざるを要す。

第九条
 司法官は法律制度の整頓するに従て、之れを独立せしむるを要す。

第十条
 国安及び秩序に妨害なき集会言論は公衆の自由なり、演説新聞著書は其法律の範囲内に於ては之れを自由ならしむるを要す。

第十一条
 理財は漸次に現今の紙幣を変じ交換紙幣となすを要す。



 ここに始まったことではないが、中国を蔑視しながら「聖天子」などという中国固有の大層な概念を用いて恥じない。

 ともあれ、「聖天子」に絶対権力を付与するこの綱領の通りに大日本帝国が形成されていく。藤井政権こそ、やがて治癒不可能までに増殖していく大日本帝国の痼疾を埋め込んだ藪医者であった。その藪医者のよって立つイデオロギー(虚偽意識)はどのようなものであったか。もう周知の事柄だが、引き続き、教科書Bからの引用を続けよう。

 この時に方り、帝政党は殆んど千五百年代に於ける英国王朝党のごとき地歩に立ち、帝王神権を以て皇室を守り、皇室を以て政府を守らんとせり。

 彼らは先ず高天ヶ原の由来を述べたり。次に二千五百年来皇統連綿の次第を陳述せり。次に日本は欧州列国に異なる一種特別の国体を具(そなえ)たるを述べたり。この国体は未来永劫これを保たざるべからずと論じ、自由民権論とは即ちこの国体を破却せんとするものなるを論述せり。

 ここに於てか所在に陰伏せる保守恋旧の分子、改進自由党のために要地を占められ、運動の機を失したる失望漢ら、おおよそ改進自由の大潮流に洩れたる分子は相立ってこれに応じたり。神官僧侶はその旧思想の友たるを以てこれを歓迎せり。村長、役場の吏員はその明治政府の代表者たるを以てこれを歓迎せり。東北、九州にある権謀家は奇貨措(お)くべしとなしてこれを歓迎せり。如何なる改革の運動にも反対したる歴史を有する大学書生は、前例に洩れず伊藤らの勧誘によりてこれに投じたり。ここに於てか三分の勢漸やく成れり。



 大日本帝国のイデオロギーを根底で支えているのは「二千五百年来皇統連綿」というウソである。これを未だに信じているものが多い。天皇制の止揚のために、「真説・古代史」で紹介している古田古代史の普及が望まれる。

 もう一つ、上の引用文では「千五百年代に於ける英国王朝党のごとき地歩に立ち」とあるが、憲法調査のためヨーロッパ留学をした伊藤はプロシャ流立憲的専政君主制を模倣・採用することになる。ために結局大日本帝国は<近代的国民国家>とはなりえず、アジア的統治形態のイデオロギーに部分的に近代的諸制度を取り入れた<例外的国家>という奇形国家となった。(このことに関しては下記の記事を参照してください。)

『「良心の自由」とは何か(18)伊藤博文の留学』

『国家社会主義(7)大日本帝国を解剖する(2)』

『続・大日本帝国の痼疾』(73)

自由民権運動(27)―御用新聞と御用政党(1)


 自由党の結成につづいて、それを支援する友党が各地に組織されている。その主なものをあげると

日本立憲政党(大阪 1882年2月22日)
 中島信行を総理に、関西8府県640名の党員を結集。近畿自由党などもこれに合流している。

九州改進党(1882年3月12日)
 強烈な独立の自負心をもつ九州の民権結社は熊本公議政党の提唱のもとに大同団結をなしとげた。名は改進党だが自由党色のつよい独立政党である。

 こうした自由民権運動の高まりを教科書Cは次のように記述している。

 これより先き九州の進歩分子は早く己に改進党を組織せり。大坂の自由分子は立憲政党の名によりて自由党の一部を樹立せり。越後に於ても、東海道に於ても、関八州に於ても、また自由改進両党の組織あり。至る所、自由改進の空気を以て満され、合従(がっしょう)大呼、政府に当れり。

 彼らは言論の自由を有せざるなり。然れども法律を破り、刑罰を以て自由を買えり。彼らは集会の自由を得ざるなり。然れども事に託して政治的の集会をなし、以てその目的を貫けり。



 官有物払い下げ事件をめぐって強行された政府の言論・集会への弾圧策は、もちろん、その後も止むことなく継続されている。

 彼ら(政府)は右には大久保以後の慣用政略により、警察を厳にして、以て人民に臨み、言論、集会、少しく政府を攻撃するものあれば、直ちにこれを停止し、罰金を科し、これを解散せり。

 これが為めには日本政府といわず、単に理論上に於て圧政政府は転覆すべしと述ぶるや、解散せられたる集会あり。暴君汚吏は人民の敵なりと論ずるの新聞紙は、暗に明治政府を指したるものとして停止罰金を蒙りたるものあり。これ必しも中央政府の意にあらざりしなるべし。

 然れども政令は物の中天より落つるがごとく、一歩一歩、圧力を加え来れば、内閣に於て厳粛の政策を取れと令すれば、地方官に至ては圧抑となり、地方官の令を奉じてこれを実行する警部巡査に至っては、暴戻(ぼうれい)となるは免れざるの数なり。

 かつこの時に方ってや官吏中に幾多の行険者(こうけんしゃ 危険な行為をなす者)を出し、政府の意民間党を抑ゆるにあるを見るや、陰私百方、これを妨げて以て自家進官の階梯となすものあり。香取某なる警察官は演説会場に臨むや、必らず弁士の隙に乗じてその欠点を捉えてこれを解散せしめり。ここに於てか彼は解散警察官の名を負うて、一躍して奏任官となれり。

 ここに於てか官吏の中、靡然(びぜん)として行検の風を生じ来り、あるいは学校の教員を利用して民間党を攻撃し、あるいは宗教を籍(か)りて不平を鎮め、福岡県令渡辺清のごときは真宗の僧侶、大洲鉄然を延(ひ)きて管内を巡遊し、妄(みだり)に政府に抵抗するの悪事たるを説教せしめたり。





1882(明治15)年
  3月18日 立憲帝政党結成
  4月 6日 板垣退助、襲われる
  4月16日 改進党結成(大隈重信)
 11月28日 福島事件


 改進党の結成に先立って結成された立憲帝政党とは何か。藤井政府は集会条例などを武器に民権運動を弾圧するとともに、資金援助をして御用新聞を育て、民権派の言論に対抗せしめている。さらにそれは傀儡御用政党の結成まで発展する。それが立憲帝政党である。この政党は政府の肝いりで結成されたが、当然、政府の都合で解党する運命にあった。政府が超然主義(政党の意思を無視する)を基本姿勢とした時点で政治的存在理由がなくなり、藤井政権の意向を受けて、1883年9月24日に早くも解党消滅した。

 成立事情や実勢力からみて、この政党を自由党や改進党と並べて論じるのは適切ではないだろう。従って、自由民権関係の本ではこの政党についての記述はほとんどないようだ。しかし、国家権力の民衆弾圧と民衆懐柔の手口、および自由民権に敵対する思想の低レベルぶりを知るのには格好の材料だ。少し長いが、教科書Bの記述を転載しておこう。

 政府は一方にはかくのごとく、剣を抜きて民間党に向えり。而して一方にはまた伊藤の腹心たる法制局長官井上毅、及び安場保和に命じて、熊本にありて改進党と対峙する紫溟会を語らい、土佐にありて自由主義を奉ずる板垣の一派と相対峙し、谷干城、佐々木高行らを奉ずる一派を誘い、また『日々新聞』の主筆福地源一郎、『明治日報』の社長丸山作楽、『東洋新報』の社長水野寅次郎、羽田恭輔らを糾合して、以て政府の味方たらしめたり。丸山作楽は肥前の人、かつて征韓論の動揺に乗じ兵を挙げて朝鮮に渡らんとして、獄に投ぜられ、僅かに許されて出るや、直ちに政府の命によりて『明治日報』を発刊し、保守主義を発表して以て自由改進の両党に当れり。水野は国と土佐の自由派にして、立志社の社中なりしが、立志社が一局議院論を唱うるを不可として去れり。而してその新聞の資金もまた政府より出ず。羽田恭輔もまた政府の資金によりて、大坂にありて新聞を発行するものなり。



 上記の各新聞は文字通りの御用新聞だが、中立を装った御用新聞もあったという。たまたま今朝、ネットでそれを知った。下記にリンクを張っておきます。興味のある方はご覧ください。

「中立」新聞の形成~朝日新聞と政府の密約

『続・大日本帝国の痼疾』(72)

自由民権運動(26)―自由党結成時の禍根


 自由党の結成は自由民権運動における画期的なエポックであることは確かだ。しかし、全国の民権結社の大同団結という初期の基本方針は貫徹された言えなかった。

 まず、都市民権派の主導的な位置を占めていた嚶鳴社が脱落していた。これは自由党の側から除外したというよりは、自ら離脱していったと言える。自由党準備会結成後まもなくにそこから離れて行っている。

 その理由の一つは政党組織論の齟齬にあったと思われる。自由党結成時には既に各地方にかなりの自由党を名乗る結社が組織されており、勢い、諸「地方の自由党」を結集した上での全国的な一大政党をという愛国社系派(河野広中ら)や在地民権派(山際七司ら)の主張するところと同じ推移をたどった。まず中央に指導部を確立してから地方に組織を拡大してゆけばよいとする嚶鳴社(沼間守一ら)の組織論とは相容れないものとなった。

 もう一つ、機関誌をめぐる軋轢もあったようだ。嚶鳴社はすでに機関紙「東京横浜毎日新聞」をもっていたので、沼間らは自由党が政党独自の機関紙をもつという構想に反撥した。その上、農商務卿河野敏鎌を党首とし自社の新聞を機関紙にすることも計画していたらしい。教科書Cは、田中正造の湧井藤七宛書簡(1881年10月22日)を引いている。

「爾来十七日を以て後藤象二郎の臨席ある親睦会あり。同十八日より井生村楼に本会として相開き候へ共、近頃は又新聞発行等の性質混和して会員和せず……東京嚶鳴社外有志は別に盛んなる結合を始めたり。農商務(河野敏鎌農商務卿を辞して野に下る。)の辞職せしを以ては、又余程の変化あらん、嚶鳴社も非常の強勢とならんと奉存候」

 つまり、沼間たちは自由党結成大会と対立する方向を一貫してとっていた。沼間たちのこの動きは、沼間たちの政党組織論の具体化でもあったろう。やがて嚶鳴社は改進党結成に加わる。(次回取り上げる予定です。)

 大同団結を阻碍したもう一つ要因は本部役員の人選にあった。前回の末尾に記載した本部役員をみると、(以下、教科書Aより)
「国友会系の大石、馬場(共に土佐出身)、末広の三人を除けば、ほとんどが板垣に近い人事だった。この役員人事は相当に荒れ、土佐派の〝横暴″を怒って九州グループが退場してしまったり、愛知の愛国交親社が絶交状をたたきつけたり、河野広中らの東北有志会系も不満を表明して常議員を辞退したりという一幕があった。」

 政府の許し難く卑劣な弾圧が最も大きな要因であったことは論を待たないが、やがて自由民権運動が敗退していく内的要因の根源はこのあたりにあった。とはいえ、自由党の初期数年間の活動には目覚ましものがあった。色川さんの論評を聞いてみよう。

 自由党の結成は「時」を急ぎすぎて民権派の統一戦線の実現に成功しなかったものといえる。だからといって、自由党の発足の偉大な歴史的意義を過小に評価することはできない。当時のきびしい政治決戦下で完全な大同団結を望むことが、そもそも無理な要求だったのである。

 初期の党の要職が土佐派ににぎられていたとしても、その底辺たる地方組織は、全府県にわたっていた。自由党は全国の地方政社ないし支部の熱烈な支持をうけていたのである。登録された正式党員数も
結成当初の100人台から
1882年(明治15)600人台
1883年(明治16)1000人台
1884年(明治17)2200余人
と急速な拡大をとげていた(党員の実数はその数倍とみられる。『自由党史』は「二十万の党衆」と表現している)。

 そして全国単一の民主主義政党として、機関紙『自由新聞』を発刊し、格調の高い民権論に立って根本的に政治批判を行なうと共に、全国民にむかって活発な組織活動をくりひろげたのである。

 このように、一時的なテロや一揆などの暴力手段によってではなく、長期間にわたって言論を武器に、一定の民主的運動方針をかかげ、大衆を政治の舞台に登場させ、持続的な政治運動を展開するという、まったく新しい近代的な統一運動体が、わが国の歴史上ここにはじめて出現したのである。こうした自由党が、この革新性、大衆性を喪失して、1900年代に単なる議会政党・議員政党としての立憲政友会に退行してしまったのである。

 明治十年代の自由党は、人民がみずからの手で圧制に抗し、下から自由と民権とをたたかいとろうとしていた革命的な大衆政党であって、その性質上、戦後の自由党の元祖などでは決してないのである。



 どんなに聲高に「国民のため」を標榜しようと、誤魔化されてはいけない、日本の保守政党は本質的に一貫して財界(資本階級)の代理人である。しかし、圧倒的多くの国民はてもなく誤魔化され続け、人民の敵政権を支え続けている。裏切られるのが当然の理なのに、裏切られても裏切られたも、自分たちこそ主権者だと、社会的不平等を前提としたえせ民主主義をありがたがっている。

『続・大日本帝国の痼疾』(71)

自由民権運動(25)―自由党結成


 前年の国会期成同盟合議書に則り、1881(明治14)年10月1日に国会期成同盟第三回大会がもたれた。しかし未到着の代表がいたため、初日は「出京者懇談会」ということになった。この大会の重要議題は憲法案審議であったが、この懇談会で急遽自由党結成の大会にするという方針にきりかえられた。

 当時いよいよ熾烈になってきた集会条例による弾圧に対抗するためには、続々と組織されてきている各地の自由党を団結し組織を強化することが必要であり、そのためには政党結成が急務であるという共通の認識があったでろうと、容易に推測できる。そのことを考慮すれば、この方針変更は時宜にかっなたものといえよう。

 その懇談会には1道2府9県の代表者18名と常務委員林包明(かねあき)が参加している。林はそのときの様子を「国会期成同盟報」で次のように報じている。

 是迄自由党ト期成党ト格別ニナリ居タルモ到底同主義ニシテ少シモ異ル所ナケレハ、寧ロ之ヲ一ノ政党トナサント其議整ヒ、次ニハ政党ノ組織ヲ論セント明日午後一時再会ヲ期シ退席ス、其際或ハ死ヲ以テ国会ノ請願ヲナサント云ヒ、或ハ新聞雑誌ヲ発行セント云ヒ、其他種々ノ論アリシモ是其枝葉ニ止マルモノナレハ、先ツ其大本タル政党ノ組織ヨリ漸次序ヲ追ヒ以テ枝葉ニ論及セント確定セリ。



 かくして大会は二日以降、大日本自由党結成会となった。その大会の経緯と決定事項について、山際七司が書簡で簡潔に記録している。教科書Cからそれを全文を孫引きする。(読みやすくするため適時段落をつけた。)

日本公会ノ概略

十月一日  国会期成同盟第二会ヲ槍屋町事務所ニ開ク

二日
 国会ヲ開キ期成同盟会ヲ拡張シ大日本自由政党結成会ニ変更シ広ク天下ノ有志者ヲ団結シ以テ吾党ノ目的ヲ達センコトヲ議決セリ
 則来五日加賀町赤松亭ニ会同シ自由党組織原案ヲ起草スルニ決シ委員五名ヲ公選セリ則 竹内綱 林包明 鈴木舎定 予当選セリ

六日ヨリ十一日迄
 原案起草ニ従事セリ

十二日ヨリ十六日迄
 毎日自由党組織相談会ヲ開設シ専ラ協同一致ヲ計画セリ

十七日
 午後六時ヨリ自由党親睦会ヲ向島枕橋八百松楼ニ開設後藤象次郎氏始メ百余名会同席上演説湧カ如ク歓ヲ尽シテ止メリ

十八日
 自由政党会ヲ浅草須賀町井生村楼ニ開設会員七十余名
 議長其他ノ役員ヲ公選セシニ当選者左ノ如シ

 議長後藤象次郎
 副議長馬場辰猪
 幹事林包明 内藤魯一
 会計竹内綱 山際七司

 本日議事規則ヲ決議セリ

十九日ヨリ廿七日迄
 自由党規則ヲ討論審議
 本日ヲ以第三次会ヲ終ヘタリ

廿八日廿九日
 両日ヲ以テ本部役員ヲ公選セリ

三十日
 已来本部設立新聞発兌準備ニ従事セリ

 自由党規則中ニ記載セル如ク地方部位置ヲ定メ之レヲ本部ニ直結シ地方部ニ部理壱名ヲ置キ本部へ対シ地方ノ責任ヲ有スルモノトス

 第一期中央本部費用壱方八千円ハ各郡ノ醵金ヲ以テ支弁シ第二期ヨリ分頭方ニ課賦スルニ決セリ
 新潟会議ニテ第一期ハ金五百円ヲ本部ニ出金スルニ決セリ其納期ハ十二月三月六月ノ三回ニシテ一回ニ三分一ヲ納ムルコトナリ

 板垣退助氏ハ即今仙台地方ニ漫遊中ナレトモ本部総理ニ当選ナルヲ以テ電信ヲ以テ帰京ヲ促シタルニ今明両日中ニ帰京ノコトナリ



 私は教科書Aに準じて自由党結成を10月29日としたが、訂正しなければなるまい。ネットで調べた範囲では10月18日というのが定説らしい。上の山際書簡によれば、前者は本部役員選出(総裁・板倉退助を含む)をもってその日とし、後者は党規則など組織機構創出のための役員選出と事務所開設とをもってその日としている。

 なぜこんな細かいことにこだわっているかというと、いずれにしても自由党結成を国会設立の勅諭渙発(10月12日)の後にしている点にある。年表だけを見ると、国会開設の勅諭を受けて自由党を結成したものと誤解するおそれがある。しかし事情は逆なのだ。

 江村さん(教科書C)は、国会期成同盟大会を拡大して自由党結成大会に変更した10月2日を自由党結成の日としているようだ。次のように述べている。

「10年後に国会開設を約束した勅諭は、通説とは違い自由党結成決定後に出されたものであり、ここまで成長した自由民権運動に分裂のくさびを打ち込もうとする戦術的譲歩と反動攻勢開始の宣言であった。」

 井上毅は岩倉具視に宛てた1881年10月8日付書簡で「立志社其他昨年の請願連中は府下に於て国会期成会を催し・・・各地方二三十日来結合奮起之勢」と書いている。自由党の結成に戦々恐々としている。地方の団結を目指す自由党の結成が国会開設という政治的譲歩を引き出したのだ。政府は、10年もたてば自由民権運動も下火になるだろうと、高をくくっていた節もある。

 また、山際七司書簡(10・22)は詔勅に対して、「本月十二日ノ詔ハ意外ノ汚辱ナリ」ときびしく批判している。

 ともあれ、ここに日本の人民闘争史上初めて綱領・規則と全国組織をもつ政党が出現したことになる。色川さんは「これは日本の民衆史上、画期的なことである」と評価している。

 なお、ちなみに、28,29日に選出された本部役員は次の通りである。

 総理 板垣退助
 副総理中島信行
 常議員後藤象二郎
    馬場辰猪(たつい)
    竹内綱(つな)
    末広重恭
 幹事 林包明(かねあき)
    内藤魯一(ろいち)
    山際七司
    林正明
    大石正巳


『続・大日本帝国の痼疾』(70)

自由民権運動(24)―自由党結党の端緒


 国会設立の勅諭が渙発されたのは1881(明治14)年10月12日だった。同じ月の29日に自由党が結党されている。今回は自由党結党までの経緯をたどろう。一年前にさかのぼる。

 国会期成同盟が成立したのは1880(明治13)年4月だったが、その年の11月に第2回大会が開かれた。その大会で全国の運動を指導する政党の結成が提議された。その大会閉会後の12月、都市民権派(嚶鳴社の草間時福(じふく)・沼間(ぬま)守一ら)と愛国社系政社派(河野広中・立志社の植木枝盛、林包明(かねあき)ら)と在地民権結社派(山際七司(しちし)、松田正久、林正明ら)の三グループが合同の会議をひらき、自由党準備会を成立させた。この間のことを教科書Bは次のように記述している。

 ここに於てか彼らは政府攻撃の地位より、一転して自家立脚の地を作らんとし、地方地方によりて相団結して、以てその気焔を養成せんとするに至り、政談を事とするの演説社、政治を目的とする事業の会社、学問より政治を論ずるの講談社より、直ちに政社と称するもの至る所に勃興し、ま さに大雨を得て相発動せんとす。

 ここに於でか久しく自由民権論の木鐸として尊崇せられ、政府軌道の外に逸出したる唯一の元老、板垣退助は、この機を外さずその幕僚を率いて、威風堂々、五十三駅を踏破して、東京に乗り込めり。国会期成同盟会なるものを作って政府と対立せる五畿八道の軽俊敢為(かんい)の政治家は、双手を挙げてこれを歓迎せり。

 大隈に縁因ありと聞えたる沼間(ぬま)守一もまた東京近傍に於て最大勢力を有する嚶鳴社(おうめいしゃ)を率いてこれを迎えたり。中立の新聞紙もまたこれを迎えたり。

 ここに於てか武権民権、守旧激進の諸派が、相率いて西郷の軍に投じたるがごとく、異種異様なる各派、板垣の大傘中に入り、矯々の勢に乗じ、十三年十二月遂に築地に会して自由党を結成し、沼間守一議長となり松田正久、河野広中、草間時福(じふく)、山際七司、植木枝盛と共に左のごとき盟約を為せり。

自由党結成盟約

第一条 我党は我日本人民の自由を拡充し、権利を伸張し、及び之を保存せんとする者相合して之を組織するものとす。
第二条 我党は国の進歩を図り、民人の幸福を増益することを務むべし。
第三条 我党は我日本国民の当(まさ)に同権なるべきを信ず。
第四条 我党は我日本国は立憲政体の宜しきを得るものなるを信ず。



 色川さんは「この自由党は内部での対立がひどく、党としての体裁をなしてい」なかったと言う。「異種異様なる各派」の結集ではあっても小異を捨てての大同団結が望まれるところが、党派の主導権争いを克服するのはいつの時代でも難しいようだ。それが結局は国家権力の恣意を許すことになる。日本近代国家の揺籃期から現代まで、同じパターンが繰り返されている。教科書Aの記述を読んでみよう。


 だが、この自由党は内部での対立がひどく、党としての体裁をなしていず、1880年(明治13)12月に「盟約」と「自由党申合規則」とを決めただけで活動は行なわれなかった。

 そして、河野や山際らが望んでいたことは、各政社が、まず、それぞれの地域で「地方の自由党」に結集することにつとめ、その上に全国的な一大政党を樹立しょうという構想であった。

 1880年末から81年9月にかけて、東北七州自由党、関東同志会、越佐共致会、頸城自由党、愛知県の自由党、高知県の自由党、大阪立憲自由党、近畿自由党、丹後自由党などが続々と組織されたのはその前提になるものであった。

 ところが、嚶鳴社の沼間守一らは、まず、都市民権家グループを結集し、それに各有力政社の幹部級が加わって中央に指導部を確立してから、そのあと地方に組織を拡大してゆけばよいというような政党組織論を持っていた。

 そのために、期成同盟系の下からの積みあげ方式と意見の一致が得られず対立が深まっていた。そのうえ、土佐派による主導権のまき返しや、政府の弾圧の強化、情勢の切迫が加わったために、準備の整うのを待たずに至急政党を結成せよと求める声が高まったのである。





『続・大日本帝国の痼疾』(69)

自由民権運動(23)―明治14年の政変




 この時に方って久しく沈黙したる武官谷干城(たに  たてき)、曾我祐準(そが すけのり)ら相率いて書を政社に呈し、当時の失政を陳じ速やかに議院政治を設くべきを論ずるや、満朝震驚、十月天子東京に帰るや、直ちに開拓使官有物払下を中止し、更らに二十三年を以て国会を開設するの詔勅を発す。これ実に十四年十月十二日なり。而して武官政論を為すを得ざるの法令らまたこの時に出ず。



 開拓使の官有物払い下げに対して軍人たちまでが非を鳴らし国会開設を主張するにいたって、伊藤、岩倉らは一旦黙認した官有物払い下げを中止し、国会開設を約束する詔勅を発して難局の収拾をはかったのである。教科書Aには、この収拾策は井上毅(こわし)の献策によるとある。その献策の最終目標は大隈追い落としであっただろう。彼らは大隈重信を失脚させ、政府の実権を握るに至る。この政変による伊藤と井上の二人三脚内閣を、竹越は藤井内閣と呼んでいる。

 この詔勅の出ると同日に、廟堂内の国会論者大隈は失墜して民間の人となれり。彼は国会を以て内閣中の異分子に対して政治的追放クーデターを試みんと欲して、かえって追放せられたるなり。

 薩長は久しく和し、久しく争えり。今や大隈の一撃によりて相驚駭(きょうがい)し、ここに堅固なる結合をなし、頻(しき)りに自由民権の分子を追放せり。ここに於てか農商務卿河野敏鎌(とがま)以下、大隈の党与悉く退けられ、政府は漸進主義なるものによりて立つの形跡を来したれば、朝野の関係一変す。而してこれと同時に大隈の 考案に成りし各省内閣の分離制を廃して、また参議と卿との兼職を回復し、これと同時に参事院なるものを作りて各省と同一の地位に立たしめ、文武の法律を制定するの時となし、各省の才人俊吏を集めて議官となし、以て全政府の権力をここに集め、殆んど総理府と小国会の勢を為せり。

 而して大隈の打撃者伊藤博文自らその議長となりしかば、伊藤の声望権勢一朝にして隆起し、彼は内より法律制定の権を以て政府を総攬し、彼の党与井上馨は外務卿の要地に立ち、条約改正の大事を以て外より政府の権を分領し、藤、井同盟の力は、能く政府の咽喉を扼(やく)したれは、外よりいえば薩長の権衡及連合ここに初(はじま)り、内よりいえば藤井政府ここに生じたり。



 下野した大隈重信は、当然、民権運動の渦中へと身を投じた。教科書Bの記述を読み進めよう。

 藤井内閣已に成る、ここに於てか大隈の挙動は天下の注目する所となれり。

 彼は江藤新平のごとく叛すべきか、島津久光のごとく退隠すべきか、彼(かの)政府攻撃の気焔に鞭(むちう)って大運動を試みんか、黒田清隆はこれに向って、西郷のごとく速に反すべしと罵れり。

然れども彼は江藤のごとく謀反するの勇気もなきなり。兵力に訴うるほどの無謀漢にあらざるなり。彼は純然たる治世の能臣にして、平和の手段にあらずんば、平和の目的を達すべからずと信ずる者なり。ここに於てか十有余年、明治政府の鉄壁中に籠りたる人物は忽(たちま)ちにしてその長剣大冠を付て、人民中に飛出で、宴会に、交際会に、文学会に、自ら求めて世人と交れり。

 この時に方って民間党は久しく首領に渇せり。かつて明治維新の大運動に参じたる元老は、悉くその権勢、名望の尾を引きて政府に籠城せり。唯(ひと)り民間党中にあるものは板垣退助のみ。後藤象二郎ありといえども、彼れ今や長崎の地に石炭鉱の主人となり、損徳の算用に忙(せ)わしくして、政変を見ること雲烟の眼を過ぐるがごとくなり。されば政府中の大立物にして、幾多の才俊を門下に養える大隈が、民間党中に入るや、民間党は双手を開きてこれを歓迎せり。



 不祥事にもかかわらず政府内に延命した黒田清隆は官有物払い下げの頓挫がよほど腹に据えかねていたのだろうか、大隈を罵り、自滅の道をけしかけている。まさに「盗人猛々し」だね。

 余談を一つ。
 この黒田は後に首相・枢密顧問官・枢密院議長にまでなっているが、何かと問題がある人物である。酒乱であり、酒に酔って妻を殺したという噂が立ち、当時は大騒ぎになったという。明治政府も知らんふりが出来ないほどの騒ぎになり、一応調査をする。当然政府の公式発表は事実無根。しかし一般には、黒田の妻殺しは結構信じられていたという。司馬遼太郎は黒田を全く評価していない。明治天皇も黒田を嫌っていたと言われている。

『続・大日本帝国の痼疾』(68)

自由民権運動(22)―官有物払い下げ事件


1881(明治14)年
 民権結社の設立、憲法案起草活動、最も活発となる。(~82)
 官有物払い下げ問題批判で、新聞・雑誌の停刊処分相次ぐ。
 10月12日 国会設立の勅諭
 10月29日 自由党結成

 政府内での薩長参議と大隈派との権力闘争の帰趨が未だ混沌としているさなか、思わぬ政治的大事件が起こった。「開拓使官有物払下事件」である。

適(たまた)ま北海道開拓使を廃せんとするや、開拓使書記官安田定則、金井信之、折田平内、鈴木大亮等、五代才助の組織せる 関西貿易会社と連絡して、開拓使に属する官有物を払下げんことを計る。政府 が明治二年以来開拓使の官有地に費せるもの二千二百三十万円なり。然るに安 田、五代らはこの二千余万円より成れる牧畜所、製糖、製糸、製麻所、物産売 捌所、墾田、船舶、倉庫、養蚕等を併せ無利息三十ケ年賦三十万円もてこれを 払下げんとするなり。かつ以上の徒、皆な開拓長官、黒田清隆の股肱腹心の徒 なりしかば、大隈に親近せる新聞、先ずその不法を唱うるや、天下囂々(ごうごう)としてその非を鳴らし、かくのごとき弊害は速に国会を開くにあらずんば治すべから ずとなせり。

 実をいえば明治政府十有四年の間この類の事甚だ少なきにあらず。幸にして世人の視聴を免れたるのみ。然れども今や政府動揺し、政権微弱となり天下輿論の勢力矯々然として進み、眦(まなじり)を決して政府の所為を監督せるの時なりしかば、折悪しくも攻撃軍の符諜となりしなり。

 ここに於てか政府は先ず事の発頭人たる黒田と、この動揺に乗じて内閣を改造せんとする大隈を出し、静かに善後の策を施さんとし、七月天子、東北、北海に行幸するや、二人をして供奉(ぐぶ)たらしむ。二人東京を出ず。ここに於てか内閣諸相は集って日夜、良図(りょうと)を議するの時、いわゆる新富座大演説なるものありて一大驚愕を引き起せり。  政府中にも固(もと)よりこの事の余りに不始末なるを以て、不同意を唱えたるものなきにあらず。時の大蔵卿佐野常民のごときも、主としてこれを攻撃せしが、閣議遂に黒田らの威を憚りてこれを許せり。ここに於てか世論益々激昂して、民間党は全力を注ぎてこれを攻撃せり。

(中略)

 (諸新聞雑誌は)時に互に論難し、弁析し相一致するの好題目を得ざりしが、開拓使官有物払下の事起るや、これらの新聞雑誌はここに同盟軍を起し、筆鋒を斉(そろ)えて政府を攻撃し、八月、福地、沼間、高梨哲四郎、益田克徳、肥塚竜ら相合して新富座に於て大演説会を催し、政府の処置を攻撃す。聴衆の集まるもの五千人、前古いまだかつて有らずと称す。ここに於てか至る所また同一の演説会あり。人心沸騰、家々戸々相伝えて政府を難じ、速かに国会を開設せずんば前途の如何(いかん)知るべからずと為す。

 このときの政治危機について、伊藤博文は天皇巡幸に随行していた黒田への急信で次のように言っている。

「都下の形勢はまことに騒然、新聞・演説至る所で北海道官有物払下げの非を鳴らし、閣下の名誉を汚辱し、あわせて政府を転覆し国会を新設せんと罵詈雑言……今日の時機は六年征韓論分裂の秋よりも危急なり」

 各地で行われていた激烈な政府弾劾の演説に対して、政府は徹底的な弾圧を行っている。その弾圧の過激ぶりの一端を書き留めておこう。(教科書Aによる。)

 この時、全国にはりめぐらされていた警察署・分署約1500ヵ所、警部・巡査約25400人余を総動員して取り締まりにあたった。1881年の一年間だけで

新聞の発行停止・禁止46件
新聞記者の罰金182件
禁獄(きんごく)15件
併罪(へいざい)11件
演説会の解散・禁止171件

 に及んでいる。新聞記者や演説者に対する刑事罰の例をあげると

千葉県人山田島吉(しまきち)
「廟堂の暴虐官吏は天子様を横道に引込み」と演説して重禁錮2年・罰金50円

山梨の『峡中(きょうちゅう)新報』記者野中真(まこと)
 演説中に官吏侮辱の文句があったと告発されて重禁錮1年・罰金50円

『東京横浜毎日新聞』記者小松渉(わたる)
 上と同じ罪で重禁錮8カ月・罰金30円

堀口昇
 群馬での演説で「政府は悪人の肩をもつことなきはず」と一言いって集会条例違反、演説禁止1年

山口県人熊谷成三
 水戸の演説会で不敬の言辞ありといわれて重禁錮1年・罰金50円

静岡の『東海暁鐘(ぎょうしょう)新報』社長前島豊太郎(とよたろう)
 演説中天子を賊徒と呼んだと臨検の警官に強弁されて重禁鋼3年・罰金900円

 しかし、こうした弾圧にも民権家たちはひるむことがなかった。民権家の心意気を、色川さんは次のように賞賛している。

 (多くの民権家たちが)以下続々として言論弾圧の犠牲に供されていった。だが、これによって民権家が沈黙しなかった事実は、翌1882年(明治15)に演説会数が倍増してゆくという勢いの中にも示されている。このとき〝自由か死か″の叫びは、彼らにとって単なる美辞麗句ではなかったのである。



『続・大日本帝国の痼疾』(67)

自由民権運動(21)―大隈重信の政略


 自由民権運動の推移を年代順に追う課題に戻ろう。(「自由民権運動(9)―愛国社的潮流(2)」の続きになります。)

 愛国社的潮流と在村的潮流が合流して国会期成同盟が結成されたのは1880(明治13)年4月のことだった。そして国会期成同盟の第二回大会(同年の11月)で、愛国社系の有志から政党結成の提案があり、都市民権家をも交えて政党結成の準備が始められた。またこの年に、民権諸結社から50余件建白・上願が明治専制政府に提出されている。こうした人民輿論の攻勢に対して明治専制政府は「集会条例」をもって弾圧を強化した。

 この一挙(国会期成同盟結成)は実に人心を鼓動すると共に、満朝駭然(がいぜん)、遂にその月を以て集会条例を定め、政社と政社の連絡を禁じ、警官の認可を得ずして三人以上政事を論談するを禁じ、十二月に至り人民の上書建白は一般の公益に関するものは何らの名義を以てするも、すべて建白となし、府県を経て元老院に呈すべしと定めたれば、民権家は直ちに中央政府に対して示威的の運動を為すの道を失したりき。而して集会条例の起草者、渡辺洪基の名、中外に記憶せらる。



 ちなみに、渡辺洪基は元福井藩士の官僚で、集会条例に対する民権派からの激しい攻撃を受けて官職を辞しているが、後に東京府知事、帝大総長になっている。さらに衆議院議員、貴族院議員を歴任している。まさに「憎まれ子世にはばかる」だね。

 また、岩倉具視・伊藤博文を中心とする政府は、閣内に民権陣営と通じている有力参議・大隈重信や福沢系の官僚たちに対処する方策を立てるため、急遽、各参議に国会論や憲法意見を提出させている。そして、薩長参議の意見を統一して、政府内主流派の勢力の確立をはかった。しかし、大隈派の即時憲法制定(1881年)・国会開設(1883年)という主張と薩長参議らの時期尚早論が激しく対立し収拾がつかなかった。

 かねてより大隈は政府改造の大計画を立てていた。国会開設はその計画の最終章になるはずだった。

 民間党の勢焔かくのごとくなるに方って、政府は一致連合その全力を尽くしてこれに当れり。然れどもその実、各大臣互にその権力を争えり。

 大久保逝って後の内閣は、三条、岩倉、寺島、大隈、伊藤、西郷、山県、川村、井上、大木、黒田の九参議を以て組織せられたり。この際大隈はその才幹を以て同輩を凌駕せしも、満朝の大臣多くは皆その先輩にして、後(しり)えに至大なる藩閥力を控えたれは、事ごとにこれがために牽制せらるること多かりしかば、彼は自由民権の論天下に瀰漫するの時に乗じて、政府を改造せんとするの大計画を起せり。

 その計画の第一着としてその腹心の友、河野敏鎌(とがま)は先ず文部卿となれり。慶應義塾出身の書生は、一躍して奏任官となるもの数十百人なり。各省中の枢密な る局部には、大隈の股肱を以て満されたり。大蔵省中の会計局を改めて、独立の会計検査院となし、その腹心の青年を以てこれを占有せしめたり。元年より八年に至るの出入決算表を制して天下に公布して、以て信任を広うし、人民の苦悩を減ずるの策として、歳計を減ずる八百万円にして、地方税、地価割は地租五分の一を超ゆべからずとなしたりき。これ皆な天下の信任を博し、大隈の勢力をなすの策にして十一、二年中に為されたり。

 かくのごとくその政府改造の第一計画遂ぐるや、直ちに第二計画に移れり。第二計画は各省長官と内閣参議とを分離するにありき。この分離説はかつて明治五年に於て板垣退助のために唱えられたり。然れども板垣は身、参議にして、他の参議は各省の長官を兼ね、入っては大政を論じ、出でては一省に長たるより、往々にして権勢他の専任参議を凌駕するを憂うるより出ず。今や大隈の策は即ちこれに異なり、彼れ参議を以て大蔵卿を兼ぬるといえども、僅かに入っては参議となりて閣議に参じ、出でては長官となりて一省を治むるに過ぎず。これ彼が不満足に思う所にして、太政大臣となりて一政府の大権を掌握するにあらずんば、足れりとせざるなり。然れどもその声望、党与、いまだ太政大臣たるべからず。巳むなくんばここに一策あり。

 内閣と各省を分離せしめ、内閣中に各分科を置きて、各省の事務を監督せしめ、而して自ら二、三枢要の分科を支配せん。これ名は参議にして、その実一時に二、三省の長官を兼ぬるなりと。これ三条岩倉なお存し、平民士族を以て太政大臣たる能わざるの当時に於て、政府の大権を握らんとするには、これより他の策なかりしなり。

 ここに於てか十三年二月、遂に参議の諸省卿を兼ぬるを罷(や)むるの議を提出せり。大隈がかくのごとき考案を有すると共に、伊藤もまた同一の野心を有したれは、この領分切取の策は両人の間に黙諾せられて容易(たやす)く通過し、外務卿井上馨を除くの外、各省長官皆な専任参議となり、左の変革を為せり。

左大臣(元老院議長)有栖川宮熾仁親王
元老院議長(参議)大木喬任
内務卿(大蔵大輔) 松方正義
大蔵卿(議官)佐野常民
陸軍卿(内務大輔大警視) 大山 巌
海軍卿(外務大輔全権公使)榎本武揚
文部卿(元老院副議長)河野敏鎌
工部卿(工部大輔)山尾庸三
司法卿(文部大輔) 田中不二麿
開拓長官 黒田清隆

 これ各省次官の進んで卿となるに似て、実は然らず。各省の権を内閣に運びたりしのみ。而して他の専任参議は左の分科を受けもちて、各省を監督支配せり。

外務部 大隈重信・川村純義・井上馨
内務部 伊藤博文・黒田清隆・西郷従道
軍事部 山県有朋・西郷従道・川村純義
会計部 大隈重信・寺島宗則・伊藤博文
立法部 大木喬任・山田顕義
司法部 寺島宗則・山田顕義

 これと共に各省中の俊敏活達の書記官を選抜してこの分科に属せしめたれば各省の権は、明かに内閣に移りたり。而してこの領分切取の末に於て、大隈は外務と大蔵を得、伊藤は内務と大蔵とを得たり。けだしこれは、大隈の慧眼、早くも条約改正は、拠って以て全政府を動かすの要害なるを見抜きたるなり。

 かくのごときもの一年、大隈の権勢漸やく各省に漫延するや、漸くその第三計画に移らんとせり。第三計画とは即ち天に滔(みなぎ)り地に溢るる国会論の大潮流を引きて内閣に入れ、これによりて内閣中の異分子を淘汰し去らんとするにあり。

 彼は久しく思慮せり。久しく計画せり。一日民間党に対する韜略(とうりゃく)、閣議に上るや、左大臣有栖川宮、大隈に問うにその考案を以てす。大隈答て曰く策なし。強てこれを問う。大隈答て曰く事甚重大なり。容易に公言すべからず。私(ひそ)かに 座を給わばこれを陳(の)べんと。左大臣遂に一夜大隈を見(まみえ)る。大隈具(つぶさ)に民間党の気焔の当るべからざるを論じ、これに当るの策、ただ薩長二大藩の藩閥力を打すてて天下と休戚を共にするの外なしとなし、明治十五年を以て国会議員を招集し十六年を以て国会を開らきその準備とし、今より五、六藩閥の元老を退け、民間党中の新進政治家を容るべきを以てし、かつ暫らくこの事を他に秘せんことを乞う。事遂に洩る。ここに於てか薩長二藩の士大に怒り、直ちに大隈に迫らんとし、衆怨、大隈の身に集まる。



『続・大日本帝国の痼疾』(66)

自由民権運動(20)―在村的潮流(7)


 江村さん(教科書Cの筆者)は自由民権運動を「結果として敗北したとはいえ、日本近代におけるブルジョア民主主義革命運動であった」と規定している。しかしそこにはもっと広範で豊穣な可能性が秘められていたと思える。色川さんは、それは「民衆の精神革命」、「未完の文化革命」だったと言う。つまりそこでは「伝統的な人間関係の組み方を根本から一新するような変革の原基が生まれて」いた。このような在村的民権結社の優れた側面を知るにつけ、私の脳裏をよぎったのは「リバータリアン社会主義」という運動形態だった。

(リバータリアン社会主義については 「アナーキズムについて」 を参照してください。)

 私の脳裏をよぎったものを、「Anarchist FAQ」を利用して要約してみよう。

 国家の内部でコミューンを創出していくプロセスのことを、リバータリアン社会主義では社会的組合主義と呼んでいる。地域社会の成員によって担われる地域組合がその核をなす。その組合の活動は成員の生活の全側面に変化をもたらすような質を備えている。その活動の基本的理念は、集団的直接行動・自主組織・自主管理・連帯・相互扶助である。これはまさに「ボランタリー・アソシエイション(Voluntary Association)」であり、「在村的民権結社」はここで「地域組合」と呼ばれているものにほかならない。「地域組合」についての「Anarchist FAQ」の解説をもう少し読み進めてみよう。

 基本的に地域組合は、地域社会の関心ある成員が、自分の地元地域で見られる不当行為に対抗し、地元地域の中で改善を求めて戦う組織として創設するものである。地域組合では、住民が自分たちに影響する諸問題を提起でき、そうした諸問題を解決する手段を民主的に議論し実行する。つまり、地域組合は地元の人々が自分の地域社会生活に直接参画し、自立した個々人として、もっと広い社会の一員として直面している諸問題を共同で解決する手段である。その結果、政治は、特定の人々(政治家)だけが行う専門的活動ではなく、地元地域の共同のものとなり、日常生活の一部となり、全員の手中にあるものとなる。

 資本主義企業の労働者を成員とする地域組合ならば、ストライキなどの社会的プロジェクトも遂行する。そのための資金集め、ピケやボイコットの組織編成、闘争での人々の支援一般をも行う。あるいは、過重な税金や家賃に対する闘争、環境保護の抗議行動など直接行動を組織することもある。それらの活動は、国家と資本主義企業が現在提供している有効な諸機能に取って代わる協同組合の自主管理型インフラストラクチャーを建設することであり、国家を弱体化する道でもある。

 地域組合は、他の地域の組合と共に共同活動を調整し、共通の諸問題を解決するための連合体を形成していく。この連合体は、基本的組合集会と同じように直接民主主義をむねとし、委任された代理人によって成員の意志決定が遂行されていく。自由民権運動においては各地民権結社が「国会期成同盟」に結集していったことがその例と言えるだろう。

 エンリコ=マラテスタは言う。この地域組合は
『労働者の志気を高め、全ての人の幸福を求めた闘争の中で自由な発意と連帯に労働者を慣らせ、アナキズム的生活を労働者が想像し・願望し・実践することができるようにする』(「アナキスト革命」)

 近年、労働者階級に対する非常に悪辣な攻撃と戦うために、多くの国々で地域組合活動が組織されてきた。以下のような例があげられている。

イギリス
 国内の町内会でグループが創り出され、保守政府が行った地域課税(いわゆる人頭税)に対する不払い運動を組織した。こうしたグループと組合の連合が闘争を調整し、持続的な闘いを創り出した。最終的には、政府に人を物扱いするような不当な税制をあきらめさせ、サッチャーを政権から引きずりおろす力の一翼を担った。

アイルランド
 同様の不払いキャンペーンを使って水道産業の民営化を打倒するために、同様のグループが作られた。

 だが、こうしたグループのほとんどは、それが地元地域に権能を与えるためのもっと広範な戦略の一部だとして受け取られてはいない。それでもごく少数だが、そうした戦略は潜在的に可能だということを示しているものもある。この可能性は、欧州での地域組織の二つの実例で見ることができる。

イタリア
 アナキストが、Spezzano Albanese(イタリア南部)で底辺の自治体連合(Municipal Federation of the Base: FMB)を非常にうまく組織している。この組織は、(ある活動家の言葉によれば)『市役所の権力に対する代案』であり、『未来のリバータリアン社会がどのようになり得るかをかいま見させて』くれる。連合の目的は、
『この地域でのあらゆる関心事を纏めることである。自治体レベルで介入することで、我々は、労働の世界だけでなく、地域社会の生活にも参画するようになっている。(中略)FMBは、(市役所の諸決定に対する)様々な対抗計画を作っている。この諸計画は議会に提出されはしない。民衆の意識レベルを高めるため、この地域での議論で提議されるのである。好むと好まざるとに関わらず、市役所は、こうした様々な計画に責任を負わねばならないのだ。』(「イタリア南部の地域組織作り」)

 このようにして、地元の人々は、自分と地域が何を達成するのかを決定することに参画し、地方・全国・国家に対抗する自主管理型「二重権力」を創り出しているのである。地元の人々は、自主管理型地域集会に参加することで、自分自身の事柄に関与する能力とそれを管理する能力を発達させ、その結果、国家は不要であり、自分たちの利益にとって有害だということを示している。

 さらに、FMBは、内部にある協同組合をも支援し、共同体所有で自主管理型の経済部門を資本主義内部に創り出している。こうした発展が、資本主義経済での孤立した協同組合が直面する諸問題を減少させる手助けをするのであり、協同組合が直面しているこうした諸問題に対して、『解決を模索するため、全ての動向、全ての問題と矛盾を一つに纏めようとする』(前掲書)ために、能動的に活動してきた。

スペイン
 CNT(イベリア・アナーキスト連盟)が、長く苦しい活動を経て、カディス近郊のプエルト=レアル地域に、大規模な村落集会を産み出した。その地域集会は、造船所の労働者による産業闘争を支援するためにできたのだった。あるCNTメンバーが説明しているように、
『毎週木曜日、この地域の町や村で、全村集会が開かれていた。ここでは、造船所の労働者であろうと、女性であろうと、子供であろうと、祖父母であろうと関連しうる(造船所の合理化という)特定の問題に誰もが関係していた。(中略)そして、実際に、何をこれから行うのかということについての意志決定プロセスで、投票し、参画したのだった。』(プエルト=レアルのアナルコサンジカリズム:造船所の抵抗から直接民主主義と地域管理へ)

 こうした民衆の協力・支援とともに、造船所の労働者はその闘争を勝ち取った。だが、集会は、ストライキの後も継続し、健康・課税・経済・生態系・文化の諸問題を含んだ『地元地域にある12の別々な組織をうまく連結させたのである。それらの組織は全て、資本主義の様々な側面との(中略)闘争に関心を持っていたのだ。』

 それ以上に、闘争は、『意志決定がトップでなされ、決定事項が下にしみ出てくるという、政治政党が持つ構造とは全く異なる構造を産み出した。意志決定を底辺で行い、上に持ち上げる、これがプエルト=レアルでうまく達成したことなのである。』(前掲書)

 このようにして、下からの草の根運動が、直接民主主義と直接参加と共に構築され、ヒエラルキーなしで民衆が自分で物事を直接的に決定しながら、本来の地元政治文化の一部になったのである。

 地域組合という共同体的自主管理の手段を創り出すことは地域を文化的にも物質的にも豊かにするばかりではなく、国家と資本主義に抵抗するために必要な組織形態を構築したことにもなる。つまり、国家に置き換わる反国家を構築することでもある。

 さらに、プエルト=レアルのような仕事場での集会を伴う地域組合は、闘争に打ち勝つことに非常に効果的に役立つ相互支援ネットワークを提供する。

スコットランド
 1916年、グラスゴーで大規模な家賃不払いストが最終的に勝利を収めたのは、労働者が家賃不払いのために逮捕されたスト参加者を支援するためにストライキを開始したときだったのだ。

 自由民権運動は、上にあげられた諸例につながるような豊かな可能性を孕んだ貴重な遺産だと、私は認識を新たにしている。

『続・大日本帝国の痼疾』(65)

自由民権運動(19)―在村的潮流(6)



 考えてみれば五日市学芸講談会は学習結社を中心としながらも、会員相互の救助活動、社会にたいする働きかけの政治活動(演説会や署名運動や憲法草案起草や地租延納建議など)、また公衆衛生や産業奨励のための民生活動、それに彼ら自身の楽しみと自己表現のための親睦会活動(漢詩の会、観月会、遊船会、交流会)などを行なっている。これは新しい理念によって結ば れた豪農・富農層の全生活結社としての性格である。中農・貧農層のそれは秩父や群馬などの峰起前に顕著にあらわれる。私の観点からすると各村や耕地(小地域共同体のこと)の困民党は、中・貧農層のつくった一種の〝民権″結社ということができる。



 色川さんは、中・貧農層が担った困民党を「一種の〝民権″結社」と位置づけている。これに異論はないが、では、豪農・富農層に主導された在村的民権結社は、中農・貧農層あるいはその他の底辺民衆にとってどのようなものだったのだろうか。この問題について、色川さんは次のように論じている。
 石陽館や学芸講談会のような万人に門戸をひらいていた結社に、中農、貧農などいわゆる底辺民衆が近寄りがたかったのは、彼らの多くが文字に親しんでいなかったという事情にもよる。自分の名前さえ満足に書けなかった人びとにミルやスペンサーの訳書は無理であった。

しかし、彼らに向学心がなかったのではなく、村の演説会場は満員になる。それは、「自由」、「民権」のよびかけの中に底辺民衆の魂の深部にふれるものがあったからである。演説は読書と違って識字力を要しない。そのうえ、演説家の情熱がじかに伝わってくるし、会場での熱気と警官の横暴がまた娯楽の少ない村では楽しみでもあったのである。

人の上には人はなく
人の下にも人はなし
貴族富豪を羨むな
我も人なり彼も人
 (安藤国之助作「自由の歌」)

 こうした歌は底辺民衆の心にしみる。士族や豪農の旦那衆の説く租税協議権や国会開設の議論にはとんと興味を示さない彼らでも、こと自分の追いつめられた生活権の基本にふれる原理には敏感に反応したのである。

 貧農層にとって自由民権とは、旦那衆のそれと言葉は同じでもまるで内容が違っていた。同じ人権への目覚めといっても両者には共通のものと、まるで通じあわない異質のものとがあった。そのへんのことを慎重に見守りながら民権結社の意味を考えなくてはなるまいと思う。



 以上、自由民権運動の在村的潮流についてかなり詳しくみてきた。豪農主導の在地型民権結社についての色川さんの評価は、遺漏なく行き届いている。続いてそれを引用しておこう。
 以上、豪農主導の在地型の民権結社を検討してきて、どういうことがいえるであろうか。そこには多くの未知の新しい萌芽が吹きだしていたことがわかる。伝統的な 人間関係の組み方を根本から一新するような変革の原基が生まれていることがわかる。長い封建支配によってひきさかれ、抑圧され、疎外されてきた人民が人間としての全体性を回復したいと熱望していたことがわかる。そしてまた、村共同体の住民にしかすぎなかった自分を「国民」としてとらえなおすことによって一挙に視野が広がったという喜びがある。

 それは次のような価値の転換につながる。これまでの通俗道徳による禁欲的な生き方のみが立派なものではないのだ。「人生三宝説」(西周)ではないが、人間にとっての宝は、健康と知識と富なのである。また情欲の解放は正当なことで、それらは人間の権利として平等に認められるものなのだ、と。それらの価値を集団で確認しあった結社が、巨大な変革のエネルギーをひきだしたのは当然であろう。また、そこから強靱な民衆的な個我も生みだされたのである。

 自由民権期に続出した叙事詩的なかずかずの英雄物語は、すべて民衆の中の小さなヒーローたちのものであり、民権結社を背景にして創出されたものである。私はこれを民衆の精神革命であったといいたい。また文化革命であったとも思う。だが、自由民権運動は結局敗北した。

「蓑笠ノ楯、鋤鍬ノ兵、蓆旗ノ隊」による維新の「第二革命」は、松沢求策らの期待と奮闘にもかかわらず、中途で挫折した。したがって、「開かれた人間」は過去におし戻され、「噴出したエネルギー」は抑圧され歪められ、精神革命は挫折した。つまりは未完の文化革命として、この人民の嵐は去ったのである。

 民権結社は在来の「場」を更新し、「磁場」を交流させ、「場」を変革することから新しい文化の創造をなしとげようとした。そして、結局それは中途に終った。しかし、そうだとしても、この時期の豪農層がなぜ、そこまで古い共同体的世界から離陸することができたのだろうか。私は以下のように考える。

 彼らは江戸時代後期にすでに地域市場圏を形成していた。彼らの蓄積した富と生産力と商品交換とがそうさせたのである。それにともなって彼らは村内での婚姻の慣習から早く抜けだし、村の境をこえた生活と流通の地平に踏みだしていた。地域通婚圏の形成もそれである。肥後実学党の豪農たちが、幕末にすでにどれほど広い範囲から嫁とりをしていたか、ほとんど熊本全県下におよんでいた。信州木曽谷の『夜明け前』は、こうした庄屋と庄屋のあいだの嫁とりから始まっている。これはすでに豪農たちが村共同体から体半分をひき離していた事例である。

 市場圏、通婚圏、交際圏が村域をこえれば、文化圏もしたがって広域となる。江戸時代は国内交通がさかんで、他国の文人や学者、遊芸人などがひんばんに村を出入りした。その中で豪農たちは彼らと交わりを深め、やがて地方の文壇を形成するようになる。こうして国学や蘭学にもふれる機会をもち、彼らの識見を地方的視野から国民的視野へと転換させたのである。

 しかし、それは副次的なもので、彼らが村の共同体的世界から離陸した決定的な原因は、むしろ村の内部にこそあった。商品経済の浸透と生産関係の矛盾は江戸後期からついに「世直し状況」といわれるほどの村方騒動を頻発させるにいたった。豪農層の足元に火がつき、しばしば蓆旗が立ち、焼き打ちにあった。この頃から小前層や貧民もどしどし村の境をこえて横につながり出し、神社の御幣などを行進の先頭に立てて「世直し」を彼らにせまった。たとえ襲撃の対象にならなくても、豪農層の危機意識は切迫していた。それが彼らをして草莽の行動に走らせ、あるいは自己変革をしいる基本的な力になった。

 すでになかば離陸の条件を持っていた彼らが、公然と新しい結社の形成にふみ切ったのは、明治維新による。とくに地租改正事業と地方民会への参加は、彼らを一県一国レベルの利害の関係の中にひき出した。それから民権運動へはわずか一歩であったことは、本章で見た通りである。



『続・大日本帝国の痼疾』(64)

自由民権運動(18)―在村的潮流(5)



 民権結社はたいがい学習結社を核としているが、その前に、それは生活結社でもあった。ただ、生まれながらに選択の余地のないものとして与えられた血縁同族集団や、地縁的、運命的な共同体組織からはいったん切れたところで、あらためて意識的、自覚的につくられた組織であった。その点、作為的に選択され結成された組織であるといえる。

民権結社が古い共同体的な組織にくらべて、ある新鮮さや解放感をあたえるのはそのためである。もちろん、自覚的に作為した組織だからといって、ただちにそれが地縁性や習俗や伝統的な諸関係から自由でありえたわけではない。古いものから脱却して新しく自由でありたいという願望とそれへの強い意志が働いている結社なのである。つまり理想主義的で、未来志向型である。



 民権結社がいかに「理想主義的で、未来志向」的であったかを示す実例を三例とりだしておこう。

福島県の石陽社

 この結社の設立の趣意書は次のようにうたっている。

「財産の多少を問わず、本社に入るを許すべし、又入社の上は尊卑の別なく同等の権利を有す」

 また、社中に設けられた「石陽館」の学塾規則の第一条に言う。

「天賦ノ能力ヲ暢達(ちょうたつ)シ人生ノ福祉ヲ増進センガ為メ本館ヲ設ケ第二条ノ学科ヲ講究スル」

 その学科は
ベンサムの『利学』
スペンサーの『社会平権論』
ルソーの『民約論』
ミルの『自由之理』
ブルンチュリーの『国法汎論』
リーバーの『自治論』
などである。

 そして、「学員」に月謝はなく、館内には寄宿の設備もあり、教師は無料の奉仕で、館の維持費は豪農たちの寄付で支えられていた。

 この書名やこの学塾の維持方法はほとんどの結社に共通しているという。

五日市学芸講談会

 この結社は前回にも取り上げられていた。その盟約の付則第一条に言う。

「凡ソ人ハ公平無私ニシテ人ヲ愛ス己ノ如クナルべキハ固ヨリ論ナク、殊ニ我会員ハ倶(ともに)ニ共ニ自由ヲ開拓シ社会ヲ改良スルノ重キニ任ジ、百折不撓千挫不屈(ひゃくせつふとうせんざふくつ)ノ精神ヲ同クスルノ兄弟骨肉ナレバ特ニ互ニ相(あい)敬愛親和スルコト一家親族ノ如クナルべシ」

 共通の理念のもとに結ばれた同志のの敬愛は骨肉にひとしいものと言っている。この高邁な理想のもとに結集したのは同県人だけではなく、門戸は広く開かれていた。実際に現在氏名や経歴がわかっている会員39人中、他県人が9人もふくまれており、そのうち二人は重要な役職にもついている。

 さらに、学芸講談会は、学習結社の外観を維持しながら政治活動や共済活動をもおこなう総合的な民権結社であった。次のような活動が実際に行われていた。

会員による演説会・討論会
講師を招いての公開講演会
新聞縦覧所や書籍閲覧所の設置
政治工作のための遊説委員の派遣

 そのうえ、当時猛威をふるったコレラやチブスが蔓延すれば、衛生委員を選出して住民の保健活動に全力をつくし、また、病いに倒れる者、災難にあう者があれば、互いに助けあうことが、その盟約に定められている。

「付則第二条 会員ハ互ニ艱難相救ヒ緩急相援ケ疾病災変ノ事アレバ相互ニ慰安スベシ」

 さらに訴訟などの問題が起こった時には会員中の法律にくわしいものが、これを 支援することも付則に加えている。

越前の自郷(じごう)社

 この結社の学塾・自郷学舎は自郷社の結成に先だって、1879年(明治12)7月、福井県坂井郡安沢村の杉田家の酒倉を改造して開校した。毎月の舎費は20銭、当初の生徒は24人でほとんどが近村の豪農の子弟であった。

 出獄'(言論弾圧による下獄)帰郷したばかりの杉田定一はこの塾を出発点とし、政治結社自郷社を発足させ、越前七郡をまきこんでいた地租改正反対運動に投入してゆく。

 杉田仙十郎・定一という親子のすぐれた指導者を迎えた農民たちは、ますます結束をかため、あらゆる戦術を駆使して闘争を展開した。そして、1879年(明治12)の12月、全国でも異例な決定地価の再調査という譲歩を獲得している。

「七郡四十余万ノ大衆殆ンド拍手歓呼(かんこ)声(せい)地ヲ動シ・・・」

たという。だが、この約束への期待もすぐ裏切られる。農民たちは新たな事態にそなえて1880年(明治13)2月、南越七郡聯合会を組織し、ねぼり強い運動をつづけた。

 この過程で杉田の自郷社は法理研究所を設け、社勢を充実させ、国会開設請願運動を展開してゆく。豪農主導の民権結社としてはもっとも一般的な発展のすじ道をたどっている例である。

第1027回 2008/06/14(土)

『続・大日本帝国の痼疾』(63)

自由民権運動(17)―在村的潮流(4)


 私の自由民権運動についての知識は断片的で、そのほとんどは愛国社的潮流のものだった。特に在村的潮流についてはほとんど何も知らなかったに等しい。在村的潮流についてはより詳しく記録しておきたいと思う次第である。続いて教科書Aを用いて、在村的潮流の活動の実例を見ていきたい。

 在村的民権結社は関東地方が圧倒的に多い。これまでに判明した分でも、関東六県で303社にのぼる。その内訳は
神奈川82社
茨城81社
千葉50社
栃木39社
埼玉30社
群馬21社


 全国各地の結社を拠点として、新しい思想の学習・教育運動、共済活動、衛生運動とさまざまな住民運動は広く実施され、それはやがて地租軽減・国会開設要求の署名運動:演説会・憲法草案起草などの政治運動へと展開されていった。以下、その広範な活動の具体的な内容を、関東各地の結社を例にみてみよう。

在村的結社の運動の実例

五日市学芸講談会

 在村的結社の成立の出発点であり、また最も重要な基礎となった活動は学習・教育運動であった。その学習運動はまことに熱烈なものであった。

「聴衆二、三里の遠方より山野を踰えて来会せし者二百余人に及び、議論妙所に達するや手を拍て賛成を表し、僻地に稀れなる盛会なりし」(『朝野新聞』明治15・4・29)

と報道されたように、奥多摩、五日市のさらにその山奥、最近まで陸の孤島といわれていた檜原村の南郷からさえ、三里の山道をふみこえて講談会に通ってきた青年たちがいたのである。

 1881年(明治14)4月、武州相原村(現町田市)を訪ねた『朝野新聞』記者末広重恭(しげやす 鉄腸)も感嘆している。

「此日は朝来の風雨なれば、とても我々共の東京より来る事はあるまじとの風説立ちし故、近村のものは概(おおむ)ね来会せず、定めて寂蓼たらんと思ひの外に、三時頃より老若男女合せて二百人の上に出でたり。此地は武蔵と相模の間に在る一寒村なるに、斯く聴衆あるは以て演説の盛んなる一証となるべし」

 これは、東京からの弁士による演説会だから特別だと思われるかもしれないが、この相原村には、豪農民権家青木勘次郎の経営する養英館という洋館風の学舎があって、そこには百名近い青少年が自発的に集まり、政治学習や討論に励んでいたのである。彼らは末広重恭のような有名な記者に接する機会を待ちわび、熱烈に新知識と意見の発表方法を吸収し、やがてみずから公衆のまえで演説できる人間になることを願っていた。つまり、新思想の受容主体から創造主体、能動主体へ、農民演説家への転身である。

 ちなみに五日市学芸講談会は会員百余名、月二、三回の定例の演説や報告の学習集会を行なっていたが、この他に五日市学術討論会という高い知識レベルの部内者の研究機関があった。

 こうした会で使用したと見られる当時の新刊書が二一六冊ほど西多摩の深沢家に残っていたが、その内容は法律書56冊、政治書60冊、経済書11冊など、半分以上が政治法律書であり、憲法草案の起草準備に用いられたものとみなしうる。こうした自主学習を通して育成された新しい農山村の知識青年が、「遊説委員」として各地に派遣され、自由民権の政治活動の第一線で活躍していたのである。



千葉の以文会(いぶんかい)

 このころの民権結社は少ないもので会員20名、多い会では数百名の会員を持ち、 各地の有志者たちの寄付で支えられていた。

 千葉の以文会は1880年(明治12)、夷隅(いすみ)郡の豪農層を中心に国会開設請願をめざして設立され、郡内に七百余名の会員を擁した大結社で、大原、勝浦、大多喜などでさかんに演説会を開き、国会開設建白を実現した。

茨城の同舟(どうしゅう)社

 回送業者森隆介(りゅうすけ)を中心に1879年(明治12)に豊田郡本宗道村に結成され三百余名の社員を集め、定期的な討論演説会の他に地域医療のための同舟社診療所まで設置していた。

常陸太田の興民公会(こうみんこうかい)

 青年大津淳一郎を中心に1880年(明治13)3月、405名の署名をもって国会開設建白書を政府に提出している。

栃木の中節(ちゅうせつ)社

 佐野町に田中正造を中心に組織された結社だが、2月には684名の署名を集め国会開設建白書を持って上京している。

埼玉の通見(つうけん)社

 1878年(明治11)に羽生に設立され、県北地方に説得活動を展開して、81年(明治14)には尽力社員561名、同意社員2579名を獲得する大結社に発展した。

神奈川の湘南社

 伊達時(だて とき)らによって大磯に設立され、社員150名を集め、東京から講師を招いて演説会をひらく一方、伊勢原、金目村など四ヵ所に講学会を開き、主権論、自由論、代議政体論など、活発な討論を展開して、民論をリードしている。

 これらの著名結社の他にも三百をかぞえる関東の民権結社を精査してみるならば、当時の民権運動がいかに内発的なもの、立志社=愛国社系の士族民権家の指導から独立した民衆的なものであったかがわかるであろう。

 神奈川県愛甲郡の相愛社は、もともと農事研究の会であったものが、愛甲講学会をかかえて自由党の母胎に転換したし、山形の特振社は民権結社でありなが特産紅花の振興を第一にうたい、また静岡の扶桑社が演説課と共に起業課をおいて、製茶・養蚕・通船事業にまで手をのばしていること。また、岡山県美作の三郡郷党親睦会は養蚕の改良や産米の改良に取組んでいたが、1880年(明治13)の大水害をきっかけに相互扶助組織として「永代共済規則」をつくりだすなど、実生活に根をおろした活動をしている。

 民権運動を過激派のように見なしていた明治政府が、いかに誤っていたかを、これら草の根の民権結社が証明しているのである。



今日の話題

悲しいテロ(2)


 年間自殺者数は1998年に激増し、三万人を超えた。以来年間自殺者数は3万人以上を継続記録している。シマリスの死骸を埋葬しかねている青年は「自殺多いでしょ。あれって変種のテロじゃないですかね」と言う。

 精神科医の斎藤学(さとる)さんによると(東京新聞6月11日付朝刊の「本音のコラム」)、外来に来たうつ病の患者さんが秋葉原の惨劇を「秋葉原のテロ」と呼んだという。

 出口のない逼塞状況に穴を開ける方法が自殺というテロか無差別殺傷というテロしかないとは悲しい。

 今朝の東京新聞「こちら特報部」に 鎌田慧さんが特別寄稿していた。それを紹介する。

自殺か他殺か
   -派遣労働者の絶望

 白昼夢のような秋葉原の惨事をテレビでみて、咄嗟に思い浮かんだのが」、ちょうど四十年前、連続殺人事件を引き起こした永山則夫元死刑囚だった。彼もまた、加藤智大容疑者と同じ青森県津軽地方の出身者だった。

 ふたりは大都会に凶器をむけ、出口のない怒りを爆発させた。

 ほぼ一カ月のあいだに、四人を短銃で射殺した永山元死刑囚は、自分の被害者が、ガードマンとタクシー憲転手という、貧しい勤労者だったことの意味にやがて気づくようになる。極貧家庭に生まれ、中卒の集団就職者(金の卵)として上京、都会の底辺を這いまわっていた彼は、次第に自分の犯罪の愚かさに気づく(「無知の涙」)。彼は自分の仲間に銃口をむけてしまったのだ。

「犯罪予備軍って、日本にはたくさん居るような気がする」

と犯行二日前、加藤智大容疑者は携帯サイトの掲示板に書き送った。犯罪への助走コースを走りだした自己弁護だが、それは一緒にはたらいていた、仲間たちの絶望感を知ってのことだった。

「あ、住所不定無職になったのか ますます絶望的だ」。

 トヨタ車の組立工場である関東自動車工業は、派遣社員を四分の一に切り捨てると通告していた。

「それでも、人が足りないから来いと電話が来る 俺が必要だから、じゃなくて、人が足りないから 誰が行くかよ」

「仕事に行けっていうなら行ってやる 流れてくる商品全部破壊してやる」

 長くて六カ月、ワン切りハケンともいわれる、「時給労働者」は、使い捨て自由の不安定雇用者である。「必要な時に、必要なスタッフを、必要とされる期間のみ、企業の要請に応じて派遣される」と「労働者派遣法」を推進した学者が豪語している。

 あたかも、ジャスト・イン・タイム納入の部品のように、細切れにされた人間が工場にはめこまれる。踏みつぶされたプライド、その屈辱感は、「希望がある奴にはわかるまい」とも書かれている。

 25歳の加藤容疑者は、トヨタの期間工の試験にも落ちていた。かつて、期間工が労働現場の最底辺だったのだが、85年に労働者派遣法がつくられてから、その下にさらに、時間刻みの派遣労働者が組み込まれた。

 戦後の民主化のなかで、暴力団の資金源を絶つために禁じられた「口入れ稼業」や「労働者供給業」が、規制緩和策によって亡霊のように復活した。かつて私が「絶望工場」と名付けた労働現場の悲惨はさらに深まり、若者たちはなんの保証もない移動を繰り返している。自己責任社会の中で、自殺か他殺か、その選択しかないほど追い詰められている。

 彼のメールで唯一、明るい記述は、「人間と話すのって、いいね」という、凶器を買った店員との会話だけである。つまりお金での交流でしかなかったのだ。

 彼が無差別殺人に暴発する前に、私たちは、「いまの社会は変えられる」という希望を、彼に与えることができなかったのだ。



 このような社会状況をつくった張本人は、言うまでもなくポチ・小泉だ。もちろん小泉一人のなしえるところではない。財界と官僚と御用学者がポチを担ぎ上げての協働犯罪だ。マスコミは格差や貧困の広がりを憂えてみせるが、相変わらずポチを名指しで批判できない。今回の事件をめぐってでは、天木直人さんが名指しでポチを批判している。

秋葉原通り魔事件に衝撃を受ける

 最後に東京新聞夕刊(6月11日)の「大波小波」を転載する。容疑者の生育史や性向を興味本位に追って煽るのはマスゴミによる一種の情報操作である。マスゴミに操られて、事件の本質を見損なってはなるまい。

プレカリアートの影

 さる8日に東京・秋葉原で起こった無差別殺傷事件の容疑者について、メディアは早速さまざまな情報を流している。テレビでは中学の卒業文集を取り上げた報道が目に付いた。英語で自己紹介が書かれ、刀を持ったゲーム・キャラクターのイラストが描かれていた。このあたりには、「アキバ=ゲームマニア」に短絡させたいメディア側のイメージ操作が窺えてならない。江東区のOL殺害事件の容疑者がゲームマニアだったから、結び付けたいのかもしれない。

 しかし、この事件では容疑者が派遣社員だったこと、出勤した際に作業着がなくなっていたことを解雇と勘違いしたことが重要な動機になっている。今回の事件が憎むべき凶行であることば確かだが、背後に見えるのは二十代から三十代の非正規雇用(プレカリアート)問題なのだ。新自由主義経済がもたらした格差社会の負の産物である。

 将来の不安に苛まれ、敗北感にまみれ、希望もプライドも持てない人生で、自暴自棄になったり世の中を憎んだりする人間は、今後も現れ続けるだろう。『蟹工船』が若者世代に読まれている世の中だ。新貧困層が団結して立ち上がるバックボーンとして、再び左翼思想が盛り上がるかもしれない。 (蟹コロッケ)



 蟹コロッケ氏がどのような「左翼思想」を念頭に置いているのかは知るよしもないが、プレカリアートたちが力強く立ち上がり団結し始めたことは確かだ。彼ら自らが「いまの社会は変えられる」と主張し始めている。この動きが大きく育っていくことを願わずにはいられない。「希望は戦争」ではない。希望は革命!。

(追記 6月13日)
 ネット上に雨宮処凜さんのコメントがありました。紹介します。

今日の話題

悲しいテロ(1)


 東京新聞夕刊に一ヶ月に一度、辺見庸さんが『水の透視画法』と題してエッセイを書いている。今月(6月4日付夕刊)は「プレカリアートの憂鬱」というテーマだった。秋葉原での無差別殺傷事件を知ったとき、とっさにその文章を思い出していた。

 プレカリアートについては雨宮処凜さんの文章などを通して、その深刻な実態をかなり詳しく知るところであったが、辺見さんの文章は私の胸底に、理不尽な社会へのさらに強い痛憤と、人の存在そのものへの深い悲哀を鋭く刻印していた。全文を転載する。
 皮膚からみずみずしさが消え、顔がいやに骨ばって、濃くくまどったようになっている。眼こころなしか黄色くかわき、よれた疲労感をただよわせていた。大学で客員教員をしていたときの教え子と四年半ぶりに会ったら、別人のようにしおれていた。私だってひどく面やつれしているから彼のほうも驚いたのだろう。おたがいあまり眼をあわさず力なく笑うばかりで、最初はいっこうに話がはずまなかった。どんな仕事をしているのか、暮らしむきはどうか、訊くのもはばかられたが、いきなり缶のふたでもこじあけるように彼のほうから打ちあけはじめた。

「いまプラカードもちをやってます」

 新築マンションのモデルルームへの道順をしめしたプラカードをかかげて日がな一日駅前に立っている。五月の連休からはじめたばかりのアルバイトで、その前は、模擬試験や通信添削の採点、交通量調査、郵便物の仕分け、医療関係データの入力、ペットホテルの夜間警備および機械保守…などなど、かぞえきれないほどの仕事を転々としたという。大学卒業後、中堅の広告会社に入社したのだが、軽い鬱の症状がでて通院しているうち結局、退社。その後入社試験にはことごとくはねられ、はたらき口はみな安い日当や時給のアルバイトばかり。きもちがだんだん落ちこんで、気がついたら、〝口をきかずにできる仕事″だけをさがすようになっていたと苦笑いする。ハンカチにつつんだ小箱のようなものを膝に大事そうにおき、ときおりそれをなでさすりながら話す。

「シマリスが入ってます。死骸ですけど…」。

 三年もいっしょに暮らしていたのに昨夜、急死し、悲しくて亡きがらをもちあるいているという。口からでかかっていた学生時代のガールフレンドについての問いを、私はなんとなく呑みこみ仕事の話にもどした。

 耳なれないことばを聞いた。

「ぼくら、いったんプレカリアートとしてアンダークラスにくみこまれたら、袋小路からぬけだすのは不可能にちかいんですよ」。

 教え子によれば、プレカリアートとは、英語のプレキャリアス(不安定な)とプロレタリアートをくみあわせた欧州の若者の造語。不安定で不公正な雇用状態にあえぐ非正規労働者、フリーター、失業者群などをさすイタリア発祥の外来語である。アンダークラスはたんに「下の階級」かと思ったら、雇用側によって極端に安くやとわれては、なんの保障もなく使いすてられる「新たな貧困階級」のニュアンスがある。新貧困階級はすさまじい勢いでふえており、「自由で、民主的で、効率的な、事実上の奴隷制」がいまある、と学生時代とかわらぬ皮肉っぽい口調で彼はいう。

 二つ問われた。

第一問。 「このような時代を経験したことがありますか」。

 これだけの不条理をはらみながら、さしたる問題がないかのようによそおう世間。もともと貧窮し、こころが病むように社会をしつらえながら、貧乏し、病むのはまるで当人の努力、工夫、技能不足のせいのようにいう政治。働く者たちの怒りや不満がその場その場できれいに分断、孤立化させられ、いつのまにか雲散霧消してしまうまか不思議。そうした時代を、戦後とおなじぶんだけ老いた私がこれまでに見たことがあるのか、と問うのだ。答えにつまり、私はひとりごちた。

「価値観の底がぬけているのに、そうではないようにみなが見事に演じている世の中ははじめてだな…」

第二問。
「いま、いったい、なにに怒ればよいのですか」。

 これにはいきさつがある。私は四年半前までよく授業で「もっと怒れ」と学生をあおりつづけた。イラクが空爆されても声ひとつあげない彼らを〝透明なボウフラども″とののしったこともある。それを受けた問いだ。いまは〈怒れないわけ〉がわかる気がする。返答はせず、反問した。プレカリアートは怒っていないのか、団結しないのか、と。

 彼も答えようとしない。シマリスのひつぎに視線を落としたまま、うす笑いにも泣き顔にも見える表情でぼそっと吐きすてるようにいう。

「自殺多いでしょ。あれって変種のテロじゃないですかね」
「大恐慌、きますか。きたら、ガラガラポンですよね」

 プレカリアート、大恐慌、ガラガラポン…かわいた語感に私はおののく。茶渋のような疲れがからだじゅうにひろがっていった。



『続・大日本帝国の痼疾』(62)

自由民権運動(16)―在村的潮流(3)


(3)勧業・勧農

 勧業・勧農活動は豪農商の結社の特色であろうが、その機能は二つに分けられる。一つは技術研究や情報交換などで積極的に興業殖産をはかるもので、高崎の上毛(じょうもう)連合会などは大地主、商人資本家たちによる広域の連合体である。この結社は上毛蚕糸(さんし)の改良など地場産業のブルジョア的発展こそが「文明独立国」の基礎であると考え、国会開設運動に参加するとともに憲法制定の要求も出していた。それは長野県下40名の蚕糸業者で結成された友誼(ゆうぎ)社とほとんど同じである。このほか勧業社、勧農社を社名にもつ多くの産業結社があり、それらのあるものは自由党や改進党に合流していったが、こうした下からのブルジョア的発展の可能性を当時内包していたということが重要である。

 静岡の扶桑社などは民権伸張を目的とするとうたいながら、社内に議事課、演説課、起業課文学課の四課を設けていた。そして、製茶や養蚕の技術指導を行ないながら、他方では大井川の通船事業を経営したり、また地租軽減の運動などを進めていたのである。この地租軽減や酒税、町村協議費など公租公課の軽減を求める運動は、豪農商の発展のためには不可欠の要件だった。だが、民権結社はこの面ではその可能性を十分に展開できなかった。地方ブルジョアの発展自体が政府の財政政策によってさまたげられ、混乱され、分断されたからである。自由民権の三大要求の一つといわれる地租軽減運動に全力をあげてとりくんだ民権結社が意外に少ないこともそのためであろう。

(4)政治活動

 民権結社としての本命はなんといってもこの政治活動である。この面では集会条例のきびしい圧迫をうけていたために、ほとんどの結社が偽装をほどこしている。

 たとえば政談演説会を学術講演会の形で行なったり(そのためしばしば逮捕投獄されている)、国会開設の署名運動などは祭りの寄付集めなどの日常活動のなかで行なっている。衛生演説会や仏教講話会や説経師の高座などが、そのままたちまち政談演説に変わったりという実例もたくさんあった。

 集会条例で禁止されている他の結社との連絡や他府県の県会議員などとの通信は、(5)・(6)にあげる歌会や句会や親陸会や花見・月見の会をもよおすということでいくらでも行なうことができた。

 当時、厳禁されていた屋外集会や大衆的なデモを、民権家たちは棒倒しや旗奪いなどの「運動会」として公然とやり、臨監の警官たちをくやしがらせたのである。

 さらに特筆すべきは、こうした民権結社の中から未来の日本の国家構想をきずく憲法の草案が生みだされたということである。その詳細はあとで紹介するが、まさに民権結社の文化的創造の白眉といえよう。熊本の相愛社の青年たちは、その民約憲法案のために「毎夜毎夜、その起草について会議をひらき、いわゆる甲論乙駁・・・・・・退散する時はいつも五更に及び余は少くとも十晩くらいは帰途広町あたりで鶏鳴をきいた」と記している(『松山守善自叙伝』)。

(5)愉楽・享受

 愉楽・享受とは要するに彼らは戦うばかりでなく、仲間と楽しみ、住民と楽しむことを大いにしていたということである。このことは民衆運動にとってたいへん大切なことなのに、これまであまり研究もされず軽視されてきた。最近になって社会史や歴史民俗学の方法が注目され、『祭りと叛乱』(ベルセ著)や『民衆蜂起と祭りー秩父事件と伝統文化』(森山軍治郎著)などが出版されるようになった。

 〝学び、助けあい、働き、戦う″民衆は、同時に遊びを〝楽しむ〟人間である。とくに集団的な祭りや芸能の交流の中でたがいにたしかめあわれる共同の情念の高揚は、民衆の精気を更新し、欲望を解放し、変革への巨大なエネルギーを生み出す。これは桜井徳太郎氏の表現を借りるならば、「ケ」(日常の生命力、精気)が労働や戦いの中で消耗され「ケガレ」(気枯れ)てくる のを、祭りなどの「ハレ」の行事を行なうことによって蘇生させ更新することを意味する。

 明治の民衆は句会や連歌のもよおしや地芝居や義太夫、祭りなどをたいへんに愛好した。それは彼らの自己表現であると共に、交流と親睦の場でもあった。民権家にとっても同じである。民権結社のかげにはたいがいこのような同好の集まりがあり、そのメンバーはたがいに重なりあっていた。

 たとえば五日市の学芸講談会などは、しばしば花見の会や遊船会などをもよおしたばかりでなく、以文会(いぶんかい)、淡交会(たんこうかい)などという詩文の会や風流の会と会員が重なっている。

 松本の奨匡(しょうきょう)社の指導者松沢求策(きゅうさく)は無類の芝居好きで、みずからも村歌舞伎で「奥州安達原」の袖萩(そではぎ)や「一ノ谷嫩(ふたば)軍記」の敦盛の母などを演じて楽しんでいたが、1879年(明治12)には、信州の百姓一揆の首領で貞享(じょうきょう)年間に刑死した多田嘉助をモデルに創作劇までつくり出した。上条宏之氏によると、この定稿「民権鏡(かがみ)嘉助の面影」は松沢求策も出演して松本平や安曇野、飯田などで公演されたばかりでなく、1880年(明治13)3月には大阪の愛国社の大会にまで行って全国の民権家のまえで演じられている。折からコレラが蔓延して、松沢や市川量造ら奨匡社員は予防のために奮闘したが、そのさいもこの演劇は民心を鼓舞するために活用されたという。

 武州南多摩郡の川口村にも同じような例がある。川口村は自由民権運動と困民党とが同時に起こった村だが、上川口村には秋山国三郎という豪農の「老畸人」があって民権青年たちを身辺に集め、義太夫の一座をつくって門弟百人あまりに教え、みずから芝居衣裳に「自由」の金文字を縫いとりし、佐倉義民伝を上演するなど多芸多才ぶりを発揮していた。少年北村透谷がこの地で運動に参加し、後に近代文学のパイオニアーになるのはこの人物の伝統文学の教養とその気骨に傾倒したからでもあった。

 困民党の領袖となった塩野倉之助という豪農があって説経節をたいそう好み、佐倉義民伝を語っては涙を落すのが常であった。彼の家は油屋の屋号だったので村びとから「油屋の倉さん泣かすにわけはない、佐倉宗吾の子別れ語れ」といわれていたという。1884年(明治一七)9月、川口困民党事件の領袖として投獄され、「井戸塀」(井戸と塀しか残らなかった)といわれたほどに財産を失った。なお、武蔵地方には江戸時代いらいの「宗吾講」がかなり広域にひろがっていたのである。

 こうした事例は全国にたくさんある。こうした民衆芸能や祭り、あるいは自己表現の会をただの遊びとか〝閑人(ひまじん)の趣味事"として軽んずることは正しくない。なぜなら、これらの大衆的な「場」のなかで共同の意志と情念とがたしかめあわれ、いざというときのエネルギーがたくわえられているからである。このように民権結社がいくつもの集団や伝統文化の「場」と重なりあって存在し、民権家がそれらに重複して所属していたという所に、私などは明治10年代前半の民権派の強さの根拠を見る。

 後半、これらの関係がしだいにたち切られ、底辺民衆の情感から豪農民権家たちが遠ざかってゆくとき、あらためて困民党や貧民党が独自に結成されだしたのではないだろうか。秩父困民党がその日常生活から蜂起へと跳躍してゆくバネの源に、民衆文化や祭りや一揆の伝統があることを検証したのが森山氏の新しい仕事であろう。

(6)交流懇親

 交流懇親は、民権結社の新しい性質を示している。つまり、伝統的な共同体のように自らを閉じて他と区別するというような性質を民権結社は排して、外にたいして開かれた姿勢を明示していた。私たちが全国の結社を見まわして、創造力をもつ結社ほど外来者を温かく迎えているという事実を知る。外来者を「他所者(よそもの)」として敬遠し差別するのではなく、同志の者、骨肉にもひとしい人として迎え、これに対等な座をあたえたところに彼らの活力のもう一つの秘密があった。

 在地結社はもともと民衆の共同の第一次生活集団である共同体から分離したものである。共同体はそれだけでは政治運動の基盤にはなれないから、村にあって変革を志した人びとが一つの理念的な結束によって結社という組織をつくった。その形成の主体はあくまでも在地の変革者である。だが、その変革性は外からの刺激なくしては生まれない。そこで変革期の結社は外から新知識やエネルギーを迎え入れる。民権結社が在地の変革者と外来の変革者との緊張によって構成された新しい「磁場」をなしていたと考えられるのはそのためである。この「磁場」において両者の間に火花が散り、創造的なエネルギーが噴出する。したがって民権結社の開放性はその存在の必須要件であった。

 それがさらに外に向かって発展したものが東北七州懇親会や北陸七州有志大懇親会などの新しい形式であろう。これは各結社がたがいに主体性を保持しながらも、小さな政見の違いをこえて、民権の実現のために大きく団結しようとしたものであった。これは一時期には政党に代わる動員力を発揮した。明治における統一戦線の一つの試みであった。この種の懇親会は先の表のように地方の各レベルでさまざまな形で行なわれたのである。

『続・大日本帝国の痼疾』(61)

自由民権運動(15)―在村的潮流(2)


農民民権家主導の結社

 士族民権家の強い影響を受けながらも、農民民権家たちは独自の道を切り開いていた。農民民権家たちによる結社は全国に数百を数えるという。この数は研究の進展によっては2千社にも3千社にもなるかもしれないと言われている。そして、その数百の結社はそれぞれ違う顔を持っており、一般的なモデルに集約することはむずかしいという。しかし、その諸活動を機能面から概念化することはできる。

 農民民権家主導の諸結社の活動を、色川さんは「文化革命」と呼んでいる。その活動内容は下の表のように多彩で、まさに文化革命と言うにふさわしい。

在村結社の機能



 もちろん、これらの各機能を独立させて学習結社、相互扶助組織、産業結社、政治結社などと分けることも可能である。しかし、民権結社は一般的には未分化のまま存在することによってダイナミズムを生み出していた点に特徴がある。

 この結社は伝統的な要素を内包しながらも、次のような点において、まったく新しい、しかも独特な近代的機能集団になっている。いわゆる社会学でいう第二次集団、ボランタリー・アソシエイション(Voluntary Association)である。つまり、血縁、地縁原理によって宿命的に所属させられる第一次集団ではなく、そこからいったん自己を切り放して、任意に選択し作りえた集団である。もちろん、この第一次から第二次へ連続面を強調する考え方と断絶面を強調する考え方とがあるが、はっきりしていることは、日本の民権結社が一定の理念と利害関心を共通にする人びとによって自由に結成された機能集団であるということである。

 したがって、参加も自発的なら、脱退も自由であること。決して強制的でなく、生得的でもないこと。また、国家はもちろん、地方権力からも自立しており、

(a)みずからを変革する機能
(b)社会に働きかける機能
(c)相互に助けあう機能
(d)共に楽しみあい自己表現を享受する機能

とを、すべて備えている点で近代的な原理をもつ結社とみなしうる。〝学ぶ″〝助ける″〝稼ぐ″〝戦う″〝楽しむ″〝開く″ ことによって、人間の全体性の実現をめざす新しい結社だということになる。



 以下、上記の表にまとめられた六つの機能ごとの色川さんの解説をそのまま引用する。

(1)学習運動

 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、ここでは人間関係の対等、平等性をうたい、古い序列社会の考え方から人民を解き放って、「国民(ネーション)」として目ざめ、世界人として開眼させる学習活動が基本になっている。民衆が基本的人権に覚醒したときの、その新鮮な感激は伝えようがないけれど、私がこの時代を「学習熱の時代」と表現したのは、こうした彼らの感激から発しているのである。それは士族よりは豪農が、豪農よりは貧農や被差別民の方がはるかに激しい。数百年、虫ケラのように扱われてきた人民が、天賦人権の教えに接し、人間はみな平等で尊厳だと知ったとき、どんなに狂喜したか。

 たとえばそれをさかいに前参議板垣退助をも昂然と「板垣君」とよんではばからなかった。私は多摩の農村の被差別部落で、そうした衿恃に目を輝かしている明治青年の写真に接して、あらためて「自由民権」の深さに目をみはったものである。

(2)相互扶助

 民権の理想主義的な学習は、解放された個我を個人主義やエゴイズムの方向に向けさせなかった。進んで他者を助けるヒューマニズムの実践の方向にみちびいた。1880年(明治13)11月、国会期成同盟の大会が「遭変者救助法」を可決したことは日本の民衆史の上に画期的な意味をもつが、地方結社においてもさまざまな共済の努力がなされていた。運動の犠牲者にたいする救援はもちろんである。

 岡山の美作(みまさか)三郡郷党親睦会では1880年の大水害を機に打ちのめされた大衆に働きかけ、株式による共済組織をつくっている。それはやがて備作共済千人社へと発展していった。また、島根県下では松江の恵愛社が共済組織をつくっていたという。

 法律相談や代言業務については、八王子の広徳館や越前の自郷社など多くの結社に無料法律相談所や法律研究所などが設けられていたし、衛生活動については茨城の同舟社の地域医療診療所や五日市の協立衛生義会などが献身的な活動をしている。当時、伝染病の被害はものすごく、1879年(明治12)のコレラ患者は全国で16万人に達し、うち10万5千人余が死んだ。コレラは1882年にも東京を中心に蔓延し、市内だけで5千人以上が死亡、83年、85年には赤痢が流行して、その死者は1万人をこえ、86年には、なんと四種の伝染病だけで14万6千人以上の人命を失っている。

 これに対して政府はまったく無策で、避病院と火葬場を急造し、死体処理をするのがせいいっぱいであった。ここでも専制政府は万余の人民の命より軍艦一隻の方を重くみて、衛生費の支出を惜しみ、大半を地方の財政におしつけてかえりみなかった。

 こうした状態を見かねて地方名望家たる民権家たちが立ち上ったのである。相州藤沢の平野友輔のような民権医者はみずから進んで衛生委員を買って出て、恐怖に打ちのめされていた人民の間を走り回って激励し、その保健治療活動に尽力して、人民の厚い信望をかちえている。

 五日市学芸講談会の会員がほとんどそっくり創立委員に移動した観のある協立衛生義会に、公衆衛生科、学校衛生科、疫癘(えきれい)科、嬰児保育科などが置かれていたことは先駆的である。

 まだ治療方法のなかった伝染病には予防衛生しか対策がないことを、たびかさなる経験から彼らは認識したのであろう。そのためか、日常の衛生上の注意や会員の衛生演説や衛生情報の収集や審事(しんじ)委員の研究が重視されている。しかも、その仕事はすべて俸給なしの奉仕であった。

 この協立衛生義会の会頭は五日市の若き豪農民権家内山安兵衛、幹事は深沢権八と馬場勘左衛門で、いずれも学芸講談会の指導者たちであった。この会の相互扶助が会員だけの排他的なものではなく、外に開かれていたものであることは民権結社の高い理念を示すものであろう。

今日の話題

「ほんもの」と「にせもの」


久しぶりに「沈タロウ」ネタです。

 2007/08/15(水)の「今日の話題」で、 鈴木邦男さん(一水会顧問)について私は次のように書いた。

 沈タロウが学校に「日の丸君が代」の強制を始めた頃、朝日新聞がその問題をめぐって、いわゆる識者の意見を連載したことがあった。その中で私が一番共感したのが、鈴木さんの見解だった。学校での「日の丸君が代」の強制をはっきりと否定し、さらに愛国心の強要の愚を主張していた。それ以来、私は鈴木さんの発言に注目するようになった。鈴木さんは右翼を名乗っているが、おおかたの右翼とは異なり、硬直したイデオロギーの奴隷ではない。現実を直視して、諸問題をラジカル(根源的)に問い続けている。したがって、左翼を左翼という理由で「問答無用」と否定したりしない。

 最近話題のドキュメンタリー映画『靖国』をめぐって鈴木さんは宮台真司さんと対談している(『創』6月号)。その中での鈴木さんの発言にこんなのがある。

「右翼っていうと、思想性よりも罵詈雑言というか自分の気分の発散みたいなイメージがあるじゃないですか。それは誤解だし、悔しいです。」

 そのような右翼イメージは主に右翼の街宣活動がつくっている。事実、おおかたの右翼街宣運動は「思想性よりも罵詈雑言というか自分の気分の発散」でしかない。街宣だけではない。沈タロウの罵詈雑言もそのイメージ作りにおおいに貢献している。それを都議会という公の場でもやってのけるバカぶりである。2006年3月16日の都議会のこと。

『共産党の大山とも子都議を、「あなた方の、何かの一つ覚えみたいな発言を聞いていますと…」と小馬鹿にしてみせる。「質問に答えて」と促されると、「答えてるんだ、黙って開け、この野郎。失礼じゃをいか貴様」と絶叫した。』(斎藤貴男『空疎な小皇帝』)

 斎藤さんは次のように絶句している。

「何という無惨だろう。品位とか知性といった要素と、仮にも政治がこうまでかけ離れ、それで許されてしまう社会とは、いったいー。」

 沈タロウのこのチンピラのような居丈高な態度は質問者が共産党都議であることに起因する。2000年9月26日に定例会で、東京都の友好都市北京に冷淡な理由を問われて「私が嫌いなのは北京市ではない、北京の政府、共産主義が嫌いなんです。」と答弁している。

 「支配者の心性」 で書いたように、大日本帝国敗戦直前に近衛文麿が書いた「上奏文」には共産主義への恐怖心があらわだった。沈タロウの共産主義への狂気じみた嫌悪感は、恐怖心の裏返しだろう。今日では中国共産党も日本共産党も日本の支配階級が恐怖するほどのものではなくなっているのに、まったく現実が見えていない。その非現実な認識が次のような傲慢なバカぶりを露呈させる。(『週間金曜日(6月6日号)』より引用)


 石原慎太郎という東京都知事の「バカさ加減」について、日本記者クラブ会員の谷久光氏(『朝日新聞』社会部OB)から実話をきいた。書いてもいいとのことだか ら紹介しょう。

 何年か前のある日、柳橋の料亭・亀清楼に、石原の一行が客として現れた。通された座敷の床の間にかかっていた平山郁夫の絵を見て、おかみに石原が言った。

「こんな中国に土下座している絵描きの絵は不愉快だ。おかみ、はずしなさいよ」

 この料亭は横山大観以来、日本美術院の大家に歴代愛用されたのでかれらの作品の多くを所蔵し、平山郁夫の師にあたる前田青邨の絵もある。おかみが即座に言い返 した。

「お気に召さないのなら、今すぐ別のお店へお移りください。」

 石原のこの「バカさ加減」は、おかみの旦那さんから谷氏が直接きいた実話である。大観から青邨・平山にいたる由緒も知らぬ石原であればこそ、いい気になってこんな態度もとるのだろうと谷氏は推測する。

 確かに。こうした無知なくせに(無知だからこそか)傲慢な石原知事の態度は、こんな男に投票する都民の責任に帰すべきことを長らく私は論じてきたが、当の都民ももういいかげんに目覚めていいころではなかろうか。(本多勝一)

 沈タロウの無知・傲慢に媚びることなく相対するおかみのタンカがいい。このタンカに沈タロウがどんな反応をしたのか、想像に難くない。

 私は米軍艦載機夜間訓練所を押しつけられようとしていた時の三宅島での沈タロウを思い出した。島民の猛烈な反対の意思表示に政府が打つ手に行き詰まっていたとき、俺が行けば問題解決と、沈タロウが島にやってきた。空港の待合室から姿を現した沈タロウは空港に押し寄せていた大勢の島民を自分を歓迎するために集まった人と思って手を挙げて応えようとした。ところが群衆からは「かえれ!かえれ!」のシュプレヒコール。挙げかけた手をそのままに、ただ目をぱちくりするばかり。こういうときは罵詈雑言は一言も出てこない。そそくさと賛成派の迎えの車に逃げ乗った。

 「ほんもの」は罵詈雑言を必要としない。常に思想性が勝る。沈タロウの思想のほどはどんなだろうか。再び『空疎な小皇帝』から。

 石原慎太郎氏との数十年来の交際で知られる〝大物″右翼への面談が短時間ではあったが実現し、「石原さんのどういうところに共感するのか、あの人のどの部分を評価するのか」と何気なく尋ねてみて、理由がわかった。「評価? 共感だって? ないよ、そんなもの。あるわけないだろう」その〝大物″はきょとんとした顔をして見せ、次の瞬間、苦笑した。


 「大物」と「ほんもの」は必ずしも同じではないが、この大物右翼は沈タロウを歯牙にもかけていない。例えば「ほんもの」の右翼は次のような見識を持っている。 再び『週間金曜日(6月6日号)』から

佐高信の「現代を読む」
ノンフィクション・ベスト100
9『田中清玄自伝』

 会津出身で日本共産党の幹部となり、最後は「本物の右翼」として波瀾の生涯を終えた田中の痛快極まりない自伝。私は次の「靖国神社」批判を何度使ったかわからない。毒をもって毒を制すである。

く中国から小平さんが来られた時に「小平が陛下に会うのなら、その前に靖国神社にお参りせよ」などと言った馬鹿な右翼がいました。陛下が訪中されて小平さんに会う前に、四川省か山西省か、どこか田舎のお寺をお参りしてこい。そうでなければ会わさないと、まったく逆のことを言われたら、日本人はどう思いますか。それとおんなじことだ。(中略)もっとひどいのは、それを今、大挙して国会議員たちが、年寄りも若いのもふんぞりかえって参拝していることだ。今年も去年より何十人増えたとかいって騒いでいる。この政治家たちは「平和、平和」って、一体何を考えているんだ。彼等が平和って言ったって「戦争をやるための口実だ」ぐらいに思ったらいいですよ〉

 まさに日本への遺書である。



 「靖国神社」を「どこか田舎のお寺」と対等視するところがすごい。「にせもの」右翼に狙われるんじゃないだろうかと心配してしまう。でもご安心、清玄さんは鬼籍に人でした。

『続・大日本帝国の痼疾』(60)

自由民権運動(14)―在村的潮流(1)


 民権結社をその性格の面からみると、愛国社的潮流でのそれは政治結社であり、都市民権派の潮流でのそれは言論結社であった。それでは在村的潮流における結社はどのようなものであったのだろうか。

 教科書Cでは在村的結社を農民的結社と呼んでいて、次のように記述している。

 農民的結社は政治結社・学習結社・産業結社に分けることができる。しかし、実際には三種類のうちいずれかに重点を置きながら、それぞれ二種類の性格、ないし三種類の性格を性格をあわせ持つ場合が多かった。



 教科書Aはこれをより詳しく分類して、 次のように述べている。

1 純然たる学習結社
 (a)社員が相互に学習、討論しあうもの。
 (b)民衆への啓蒙、とくに政治思想教育を主としたもの。

2 純然たる政治結社
 (a)村段階の政社。
 (b)郡、県に組織圈の及ぶ政社(「政党」に発展してゆくもの)。

3 右の二種の性格を兼ね備え、どちらへも分類しかねる結社。

4 民衆生活一般に関する結社
 (a)法律相談所的なもの。
 (b)衛生、厚生などに関するもの。
 (c)経済要求などに関するもの(勧業結社をふくむ)。
 (d)その他。

 いま、こうした分類はもう古いと思う。その後、明らかにされた全国の結社の実情を考えるとき、これほど単純に分類はできない。むしろ、「どちらへも分類しかねる」というのが典型であったように思う。

 そしてそれは分業関係の未熟とか、機能の未分化とか、前近代的なものとかを意味しない。また、必ずしも集会条例によるきびしい禁圧を避けるための擬制だったとも言いきれない。むしろ私は積極的に、民衆生活の全体性がそこに保持されていたという特質を発見する。それゆえに創造力やダイナミズムを持っていたものと判断する。そしてそれは、永い封建支配によって疎外され、解体されてきた人間性の全休性を回復したいという深い願望に根ざしていたもののように私は思う。



 民権結社を結成当初の構成メンバーの面からみると、愛国社的潮流の政治結社も都市民権派の潮流の言論結社も、主として士族による結社であった。在村的潮流の学習結社では士族主導の場合と豪農主導の場合があり、その両者の性格には大きな違いがある。

士族主導の学習結社の例

弘前の東奥(とうおう)義塾
盛岡の求我(きゅうが)社
宮津の天橋(てんきょう)義塾
高知の立志(りっし)学舎

の場合、いずれも旧藩主らの援助をうけて、士族の生活共同体のようなものから教育機関として派生したものである。旧藩の建物や書籍をひきついでいて、特権をもつ出発をしているが、中途から民権結社としての性格をつよめ、地域の豪農商層をひきこむことに成功している。しかし、容易に士族的限界から脱却することはできなかった。

 東奥義塾はその設立の趣旨には
「国権を拡張して日本帝国の安全を図り、民権を伸張して生命財産を図るを以て主眼とす」
というような国権論優位の立場が示されていた。こうした性格は求我社にも天橋義塾にも共通している。

 しかし、そこで行なわれた教育は伝統儒学の上に欧米の近代思想をとりいれていて、士族の子弟に意識の転換をもたらし、多くの人材を生み出して民権運動に貢献した。

 これらの学習結社を、色川さんは次のように評価している。

 これらは士族としての高い誇りと教養と使命感を人民の指導の方向に生かしたものとしての共通性を持ち、かつての支配者的な武士意識から"人民の友"意識へと転換してゆく上で画期的な役割を果した。もしも、欧米帝国主義による植民地化の危機の時代に、わが国に士族知識層のような錬磨された存在がなかったとしたら、明治維新や自由民権の抵抗の気力がどれほど持続されたか疑わしい。私は彼らが右にあげたような学舎や結社を通して、「士族民権家」として自立し、人民のために奮闘したことに高い評価をあたえたい。