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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(53)

自由民権運動(7)―三つの潮流


 「民選議院設立」が棚上げされてしまった後の 政界の情勢を竹越は次のように記述している。

 大久保内閣に不平なるもの、江藤巳に倒れ、前 原已に滅び、西郷もまたその後を追い、而して木 戸孝允は征西の役の中頃、京都にありて病を以て 没し、後藤象二郎は一躍して鉱山師となれり。

 ここに於てか大久保の敵手たる元老はほ ぼつきて、余ます所は板垣退助のみ。而して西郷 の一挙は、あたかも海綿の水中に入りて水分を吸 集せるがごとく、武断的不平家を網羅して、刑場 の露と消えしめしかば、天下いよいよ政論を以て 内閣に抵抗するの勢となり、上にありては大久保 の世、下にありては板垣の世となれり。



(注)「後藤象二郎は一躍して鉱山師となれり」
 後藤は1874(明治7)年、長崎県の高島炭鉱を約55万円 で払い下げを受けて会社を設立している。会社は 2年後に破綻している。

 ちなみに「民選議院設立建白書」に連署したも う一人の元参議・副島種臣はその後、官僚政治家として 出世街道を進むのみで、民権運動にはまったく 関与していない。

 板垣は早くも4月に土佐で立志社を結成している。 その後、常に民権派政党の中心にあって活動をしてい るが、板垣らの政党結社による活動は自由民権運動の 一部に過ぎない。その辺の事情を教科書Cによって 見ておこう。

 竹越(教科書B)の自由民権運動についての記述は、 もっぱら政党結社の面からに限られているが、 竹越と同じく同時代の鳥尾小弥太(陸軍の要職を歴任し ている人物)は自由民権運動をトータルに把握していた。

 自由民権運動に危機感を表明してはばからなか った同時代人の鳥尾小弥太は、それなりに運動の 内実を鋭くとらえていた。

 鳥尾は運動を「大別して上下の二流とし」、 「上流の民権説」は「老練の士君士」によるもの で、「民権を尊重し人民をして奴隷根性を去らし むるは、則国家独立の基礎なり国家独立の精神な り」と説く立場にたつものであるとし、「下流の 民権説」は「上流の民権説」による「民撰議院設 立建白書」を契機に「声息を顕はすに至」ったが、 「其根柢となりて尤も此発生に関係あるものは即 明治初年以来の物情是なり」と指摘した。

 ところが、「下流の民権」に目をつむり「上流 の民権説」の単線的発展として民権運動を総括し たのがほかならぬ板垣退助監修 『自由党史』 (1890年)であった。すでに 帝国主義日本を容認 し、自由党の主義は「国家観念によりて調節せら れたる個人自由の主義」とする立場 が、この本を大きく制約していた。

 戦後の自由民権運動研究の重要な成果の一つは、 『自由党史』の単線的構成 (立志社-愛国社-国会期成同盟-自由党) にたいし、「下流の民権」運動の実態を「在村的 潮流」・「地方民会」の発展・「非愛国社路線 (=県議主導路線)」などとして把握したことで あろう。



 最近の研究では、上記の「上流の民権」「下流 の民権」に知識人・ジャーナリストなど都市知識人 の活躍を加えて、民権運動を「三つの潮流」が 複雑に絡み合い高揚していったものと捉えている。

「自由民権三つの潮流」

(1) 愛国社的潮流(上流の民権)
(2) 在村的潮流(下流の民権)
(3) 都市民権派の潮流


 (3)については具体的には次のような活動が 挙げられている。(教科書C)


 民権派知識人・ジャーナリストの新聞や結社 (嚶鳴社・国友会・東洋義政会など)を通じて の活動

 一種の結社と見てよい民権派代言事務所 (北洲社・講法学社・厚徳館など)の活動

 活動家・理論家を生み出す温床となっていた 一部の私塾(慶応義塾・仏学塾・明治学舎など) の教育活動

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