2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第1020回 2008/05/29(木)

今日の話題

アインシュタインの国家観


 今日の話題は下記の過去記事の補充編です。

『「良心の自由」とは何か(16)』

 上記の記事で、自慢史観をよすがとしなければ生きるすべのないウヨさんたちをことのほか喜ばしている「アインシュタインの言葉」というのを紹介した。再録する。

 「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが、今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界に一カ所ぐらいなくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。そのとき人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄ではなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それには、アジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」

 これに対して、アインシュタイン研究者の板垣良一氏が語っている言葉は次のようだった。

「この言葉は、アインシュタインのものではないと断言できる。彼はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく、「神」にこだわらない人だった。日記や文献を詳しく調べてきたが、彼が天皇制について述べた記録はない。」

 前回みたようにアインシュタインには何か慶事にあたって感謝を捧げるべき「神」などない。ではアインシュタインはどのような国家観を持っていたのだろうか。それが「尊い家柄」とか「尊い国」とかいう神がかり的観念論的ものであろうはずがないことは、私には自明なことに思える。しかし、世襲君主などは論外としても、わりと保守的な国家観、いいかえるとブルジョア民主主義国家を追認するような国家観ではないかと予想していた。ところがこの予想は見事に外れていた。愉快な「外れ」であった。

 ネットで「アインシュタイン」を検索していたら、アインシュタインが書いた『何故社会主義か』という文書に出会った。1949年に創刊されたアメリカの月刊誌 Monthly Review の創刊号に掲載されたものだという。その日本語訳が日本物理学会のサークル誌「科学・社会・人間」94号(2005年9月10日発行)掲載されていた。それの紹介だった。人間について、社会について、資本主義について、教育についてなどなど多岐にわたって論じられている。私は全体的に大いなる共感をもって読んだ。次のサイトで全文読めるが、以下そこから国家論に関する部分を転載する。

『何故社会主義か』
 私の意見では、今日の資本主義社会の経済的なアナーキーが悪の根元である。われわれの前には巨大な生産者の集団があって、その構成員は休むことなく ― 暴力的にではなく、法的に確立されているルールに概して忠実に従いながら ― 全体の労働の成果を互いに奪い合っている。この点から見ると、生産手段 ― つまり、消費財と余剰資本を生産するのに必要な全容量 ― が、法的にもまた大体において実際にも、各個人の私有財産である、ということが重要である。

 簡単のために、以下の議論で私は「労働者」という言葉を ― 慣用とは少し違うけれども、生産手段を持っていない人という意味で使う。

 生産手段の所有者は、労働者の労働力を購入する。生産手段を用いて労働者は新しい財を生産し、それは資本家の所有となる。この過程の基本的なところは、両方を本当の価値で考えたときに、労働者が生産するものと彼が支払われるものとの関係にある。労働契約が「自由」である限り、労働者が受け取るものは彼の生産した財の本当の価値で決まるのではなく、彼にとっての最小限の必要と、資本家からの労働力の需要とその仕事に就きたいという労働者の人数との関係で決まる。理論的にも、労賃がその労働者の生産するものの価値で決まるのではない、ということを理解することは重要である。



 これはまぎれもなくマルクスの理論である。アインシュタインはマルクスをよく読んでいたに違いない。
 私的資本は集約されて、寡占状態に向かう。それは一つには資本家の間の競争により、また一つには技術的な発展と分業の増大が、小企業を犠牲にしながら生産単位を大きくするほうが有利であることによる。この過程の結果、寡占状態の私的資本の力は著しく増大して、民主的に組織された政治的な環境においてもうまくチェックすることができなくなる。

 立法院の議員は政党が選択するが、その政党は私的資本から財政的その他の援助・影響を受けていて、一方私的資本には選挙民を立法院からなるべく隔離しておこうと考える実際的な理由がある。その結果、市民の代表は特権を持っていない人々の利益を十分には守らない。さらに現在の状況では、私的資本が主要な情報源(新聞・ラジオ・教育)を直接・間接に操るということが不可避である。その結果、個々の市民が客観的な結論に達して、政治的な権利をうまく使うということは非常に難しく、多くの場合に全く不可能である。



 このくだりは、ブルジョア民主主義の本質とその功罪をよく言い当てていると思う。ブルジョア民主主義の理論的な解明を、滝村国家論の一環として

統治形態論・「民主主義」とは何か(4)

で取り上げたが、その内容と符合する。

 次はアインシュタインが理想とする社会主義だが、それは既成のどの共産主義国とも異なる。どちらかというと「リバータリアン社会主義」と言っていいだろう。「リバータリアン社会主義」については次の記事をご覧ください。

『リバータリアン社会主義(1)』 『リバータリアン社会主義(2)』

 私は、このような(資本主義の)深刻な害を取り除くためには一つしか道はないと確信している。すなわち社会主義経済と社会の目標に向けた教育システムの確立である。

 生産手段は社会それ自体によって保有され、計画的に用いられる。社会の必要にあわせて生産する計画経済では仕事は能力のある全ての人々に分配され、全ての男・女・子供に生計のたつきを保証するだろう。

 教育は、各人が生まれつき持っている能力を花開かせるだけでなく、現在の社会が権力と成功に置いている栄光の代わりに、仲間たちへの責任感のセンスを育てようとするだろう。

 とはいっても、計画経済は社会主義ではないことを思い出す必要がある。計画経済は、個人の完全な奴隷化を伴うかも知れない。社会主義を実現するためには、非常に難しい社会―政治的な問題を解決しなければならない。 政治的・経済的な権力の極端な中央集中を考えて、官僚が全ての権力を収めて独善的になるのを防ぐことができるか。個人の権利をいかに守り、それによって官僚の権力に対する民主的なバランスを保つことができるか。

 社会主義の目的と問題についての透明性は、この転換期において最も重要なことである。



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今日の話題

アインシュタインの宗教観


 今日の話題は次の過去記事の補足記事です。その記事の文章を再録しながら話を進めます。

『新新宗教批判(11)』

 科学的な判断を重んじる人に対して、自らの信じる宗教の優越性を主張・説得しようとする時、多くの信者はだれもが知っているほど有名な科学者の権威を借りようとする。よく利用される科学者は、ほとんどの場合、ニュートンとアインシュタインのようだ。
 私の住んでいる清瀬には、空気がよくて結核療養所がある(私が家を建てたころは、清瀬にいると云うと結核だと誤解されたりした。)関係であろうが、キリスト教の教会がいくつも存在している。教会関係の人びとが、しばしばわが家の玄関のチャイムを鳴らして、「この世界はどうなっていくかという、おためになる話を申上げるためにお伺いしたのですが……」などと、片手に薄い雑誌を持って信仰のすすめに訪れて来る。「私は科学者なので、神さまなんか必要がありませんよ。」と断ったら、「ご存知ないかも知れませんが、大科学者であるニュートンやアインシュタインも深く神を信仰しておられたのですよ。」とおいでなすった。この例は新興宗教で愛用しているが、キリスト教も勧誘に使っているのかと思いながら、「ヨーロッパの人間は迷信深いから、あの人たちもそんなことになったが、私は迷信が大きらいなのでね。」と云っておひきとりいただいた。神様の押売は日用品の押売とちがって、むこうがまじめにやって来るだけに相手しにくい。 (三浦つとむ『「人は何のために生まれて来るのか」という疑問』から)



 だから、歴史的には、たまに限られた地域と期間においては例外的に、近代合理主義や科学主義が宗教を邪魔物扱いにして抹殺しようとしたけれども、それもしばらく続くと、近代合理主義そのものを維持していく上にそれでは都合が悪い、ということに気がついて、宗教弾圧をやめるものだし、まして全体の流れとしては、両者はむしろ共存関係にあった。近代合理主義の克服を看板にかかげた宗教が、それを看板にかかげたが故に、かえって近代合理主義と共存共栄の関係をつくることができたのである。むろん、近代合理主義の克服という課題そのものが虚妄なのではない。その看板を宗教に担わせたから、かえって、克服さるべきものと克服の課題であるはずのものが助けあって共存しはじめたのである。ニュートンだのアインシュタインだの、やや落ちるが湯川秀樹だのという「優秀な」自然科学者が、実に安っぽく愚劣に宗教を崇拝し、宗教を持ち上げる発言をくり返した理由はそこにある。(田川健三著『宗教とは何か』から)

 

 湯川秀樹に遠く及ばない科学者なら、統一協会の信者のなかにわんさかといる。興味のある人は

『新新宗教批判(13)』

をご覧ください。

 さて、ニュートンは確かに神を信じていた。全宇宙は神が創造したものであり、世界は神が造った法則に従って動いていて、科学的法則の発見はその神の法則の発見にほかならない。ニュートンはこのように宗教と科学との調和をはかろうとしたようだ。キリスト教一元社会での近代科学の黎明期という時代的背景を考えれば、ニュートンのこうした考えも理解できなくはない。ニュートンは1642年に生まれている。ガリレオが没した年である。異端者として裁かれたそのガリレオが「それでも地球は動いている」と密かに独白するほかなかった時代である。

 ところで、アインシュタインが神を信じていたという証拠はあるのだろうか。三浦宅を訪れたキリスト教徒は何を根拠にアインシュタインをニュートンと並べたのだろうか。たぶん何の根拠もない。流布されている俗論を検証なしで受け売りしているに過ぎない。そのキリスト教徒の言に対して三浦さんは「ヨーロッパの人間は迷信深いから、」と一般化して応じている。アインシュタインの信仰については何の判断もしていないわけだが、しかしこの一般論も根拠のない偏見と言わなければならない。

 田川さんもアインシュタインが「実に安っぽく愚劣に宗教を崇拝し、宗教を持ち上げる発言をくり返した」証拠を持っているとは思われない。やはり俗説をうのみにしている言説だ。湯川秀樹がどうだったのかについては私はつまびらかではない。アインシュタインについてはちょっと調べてみた。

 アインシュタインは若い頃、短い期間ではあったが、宗教に深く惹かれたことがあったようだ。そのことについて、アインシュタイン自身がのちに次のように書いている。

「青春期のこの失われた宗教的楽園は『唯一者』から、私自身を解放するための最初の試みだったことが、私には明らかである。」

 アインシュタインは科学の世界にその生の根拠をおいていたと思われるが、ユダヤ人であることももうひとつの生の根拠であったろう。

「品位を欠く同化政策論者(ドイツ人との同化を主張する者たち)の熱望と奮闘とに、私は、終始悩まされてきました。それを、非常に多くの私のユダヤ人の友人たちの中にみてきました。これらの、そして、これに似たような様々な出来事が、私の中にユダヤ民族の感情を呼び起こしました。」

 しかしそのユダヤ民族へのアイデンティティには、宗教的なふくみはまったくない。1924年に彼はベルリンのユダヤ人集会の会費納入会員になっているが、それは単なる連帯感を示す行為であった。彼はシオニストの組織には加わわっていない。

「私はユダヤ人ですが、ユダヤの教えを実践しているわけではありません。確かに、子どもの頃は信仰心が厚く、学校に行くときには、ユダヤの歌を歌っていたほどです。しかし、その頃初めて科学の本を読み、それで、私の信仰は終わりました。ただ、時を経るとともに、ある事実に気づくようになりました。それは、あらゆるものの背後には、私たちが間接的にしか、かいま見られない秩序があるということです。それは信仰にも通じます。その意味で、私は宗教的な人間でもあるのです。」

「私は、生涯、自然の中に隠れている秩序を、わずかでも、かいま見ようとしてきました。すべての科学は、世界の中に存在する調和を、信ずる必要があります。理解したいという私たちの思いは、永遠のものです。」

「存在するものの秩序ある調和の中に自らを現すスピノザの神なら信じるが、人間の運命や行動に関わる人格のある神は信じない」

 アインシュタインは「人間の運命や行動に関わる人格のある神は信じない」と断言している。アインシュタインの神は「スピノザの神」であって、これはいわゆる宗教ではない。

 アインシュタインの葬儀は、わずか12人が参加しただけの簡素なものだったという。公の通知も出さず、花輪も音楽も控えるようにと、アインシュタインは遺書にしたためていた。遺体は荼毘にふされ、遺志に従って、灰は近くのデラウェア川に流された。従って、もちろん墓はない。

 さて最近、アインシュタインの宗教観を如実に示す決定的な手紙が公表された。
【ロンドン13日時事】
「宗教は子どもじみた迷信にすぎない」。物理学者アインシュタインが知人にあてた私信で、自身の宗教観をこう表現していたことが明らかになった。この手紙は今週、ロンドンで競売に出される。落札額は8000ポンド(約160万円)と見積もられている。

 ドイツ語で書かれた手紙は1954年1月3日付。宗教に関する著書を贈呈された哲学者エリック・グートキンド氏への返信で、アインシュタインは
「わたしにとって『神』という言葉は人間の弱さの産物という以上の何物も意味しない。聖書は原始的な言い伝えで、非常に子どもっぽい」
と述べた。

 アインシュタインはユダヤ系だが、ユダヤ教の選民思想も否定する見解を示している。



『続・大日本帝国の痼疾』(59)

自由民権運動(13)―都市民権派の潮流(3)


 これまでに都市民権派の活動のうち、結社(言論団体)を通したものと代言事務所の活動(弁護活動)を取り上げてきたが、都市民権派の活動にはもう一つの柱がある。中江兆民の仏学塾や福沢諭吉の慶応義塾、明法学舎などの私塾の教育活動がそれである。それらの私塾は近代政治の理論と法律の知識にくわしい若き活動家・理論家を養成し、輿論を指導する役割を担った。結社・代言事務所・私塾を三本の柱とする「都市民権派の潮流」が地方の在村的潮流と合流するところに、質量ともに備えた1880年代の民権運動のめざましい活動の根拠があった。

 私塾については、よく知られのていなかった中江兆民の仏学塾の教科内容を示す資料が、教科書Cに紹介されている。明治初期の背年たちが志を燃やして、どのような勉学にいそしんでいたのか、その意気込みと高い志が忍ばれる。珍しい資料なので、転載しておく。




明治15年9月改正 仏学塾規則

教旨
一 本塾ハ仏蘭酉書和漢書ヲ以テ法学文学ノ
二科ヲ教授ス

学科課程
一 本塾ノ課程ヲ四ヶ年トシ随テ生徒ノ階級
ヲ四等ニ分ツ此四年ノ課程ヲ卒ル者ヲ放外卒
業生トシ別二課ヲ設ケテ各自好ム所ヲ講究セ
シム

教科細目

 第一年前期
一 読方         第一読本 毎日
  文法上ノ停節ヲ教へ且単語ヨリ漸ク一句
  一章ニ及ポシ其発音ヲ正フセシム
一 会話              毎日
  簡短ナル会話ヲ黒板ニ記シ生徒ヲシテ之
  ヲ書写セシメ後ニ其解釈ヲ与ヘ翌日迄ニ
  暗記シテ教師ノ問ニ答へシム
一 文法       ノエル小文典 毎日
  巻首ヨリ其素読ヲ授ケ幷セテ詞ノ品
類区別ヲ黒板ニ記シ或ハ生徒ヲシテ之ヲ記セ
シメ其単複変化等ヲ教示シ且動詞暗誦ヲ為サ
シム
一 漢書
  明清律大宝令文章軌範等ノ講義
            下同ジ 一週三回
  日本支那法律書若クハ文集ノ講義ヲ授ク
  下傚之

 第一年後期
一 講読         第一読本 毎日
  素読ヲ授ケテ其疑義ヲ教解シ翌日之ヲ教
  師ノ前二復読セシム
一 歴史 古代希臘ノ部
       ダニエル万国史訳読  毎日
  生徒ヲシテ自ラ訳読セシメ教師側ラニ在
  テ其疑義ヲ講説ス
一 和漢書           一週三回

 第二年前期
一 歴史 羅馬中古ノ部
  万国史講義         一週三回
一 同
  ボルテール査理第十二紀輪講 一週一回
一 法律 公法行政ノ部
  ポンス現行法講義      一週二回
一 法律
  法理論第一巻輪読      一週二回
一 同
  モンテスキー万法精理論輪講 一週二回
一 和漢書           一週三回

 第四年後期
一 哲学       哲学講義 一週二回
一 法律
  ジュールタン法理論第一巻アンボルト政
  府ノ限界
  ルーソー民約論 輪読    一週二回
一 同
  万法精理輪講        一週二回
一 和漢書           一週三回

卒業科書
一 ルーソー教育論
  グユイヨー英儒道義論
  ミル自由之理
  スペンセル世態緒論
  其他生徒各自ノ好ム所二随ヒ政理道義文
  学ニ関スル典籍ヲ輪講若クハ輪読ス

(上記をまとめた「教科一覧表」を略す)

別科夜学
一 歴史     講義 毎日午後七時ヨリ
一 法律 民法      講義 一週二回

(以下、規則類を略す。
講義などは1回1時間30分と定められている。)


『続・大日本帝国の痼疾』(58)

自由民権運動(12)―都市民権派の潮流(2)


 都市民権家たちは共通の理念によって結ばれた都市型の民権結社を拠点に活動していた。数ある結社の中で最も大きな役割を演じた嚶鳴社(おうめいしゃ)についての記述をまとめておこう。

 嚶鳴社は1879(明治12)年に結成された。『東京横浜毎日新聞』と『嚶鳴雑誌』という反政府系の新聞雑誌をもつ言論団体である。社長の沼間守一(ぬまもりかず)を先頭に、肥塚竜(こいづかしげみ)、堀口昇、青木匡(ただす)、末広重恭(しげやす)、草間時福(じふく)、狩野元吉、島田三郎、丸山名政(なまさ)、波多野伝三郎、野村本之助(もとのすけ)、赤羽万二郎など、一流の演説家をそろえていた。

 1879年、東京本社と、石川、前橋、横浜の三支社しかなかったが、その後次々と勢力をのばし、沼津、上田、八王子、五日市、大宮、浦和、草加、木更津、勝浦、鳩ヶ谷、遊馬(ゆま)、杉戸、館林、島村、新町、足利、白河、鶴岡、大垣、甲府、須賀川、仙台にまで支社を設立していった。現在確認されているものだけで27社あり、うち18社が関東に集中している。

 つまり、嚶鳴社は東日本全体で旺盛な活動を展開していた。1881(明治14)年、82年の二年間に嚶鳴社が関東6県で行なった遊説は259回に及んでいるという。1880年10月の板垣退助歓迎会の席上で、嚶鳴社員の肥塚竜が東京の各団体有志をまえに誇らかに次のように語ったという。

「関ノ東、政談ヲ以テ鳴ル者ハ誰ゾヤ、嚶鳴社コレナリ。関ノ西、政談ヲ以テ鳴ル者ハ誰ゾヤ、立志社コレナリ」。

 色川さんは野村本之助の活動ぶりを取り上げている。

 愛国社系の言論の雄・植木枝盛(えもり)のはなやかな遊説紀行は有名だが、嚶鳴社系の地味な演説家たちの文字通り献身的な活動の報告も深い味わいを持っている。

 田中正造は自分の経営する『栃木新聞』の社長兼主筆に23歳の若き東京嚶鳴社員野村本之助を迎えるが、この人の人柄の謙虚で清廉で、勤勉なさまに敬服し、
「野村氏の言行は真に神の如し、これ予の師とする処、実に人民あつてより以来、未だ此(かく)の如く言行の正しきものを見ず」 と讃嘆している。

 1881年、当時40歳の田中正造をして、そのように畏敬せしめた野村本之助はどのような紀行文を残しているのであろうか。彼はその年の一月中旬から二月中旬にかけてほとんど連日、栃木、茨城両県下の村から村へ、演説をして歩いているが、どの村でも百名から二百、三百という聴衆を集めている。これは豪農、富農層の枠をこえていることは明らかである。たとえば

 2月9日、栃木県下都賀郡梁(やな)村では集まるもの三百余人、
「第二ノ演説ヲ為スノ頃ハ場中寸地ヲ余サザルヲ以テ戸外二立チテ之ヲ聴クモノ亦少カラザリキ」。

 2月11日、延島村では
「此会ヲ開クヤ直チニ例月続テ之ヲ開カンコトヲ欲シ同盟中二加盟ヲ乞フ者陸続絶へズ」。

 2月12日、真壁郡田間(たま)村では「散会後同盟中へ加ランコトヲ望ム者四、五十名ノ多キニ 及ビ」、

 2月13日、結城(ゆうき)町では、会衆実に六百人に近く、
「三、四里ノ所ヨリ来り臨(のぞ)ムモノ亦尠(すく)ナカラズ」と。
 しかも、会が終った後も
「近村各校ノ教師数十名、余ノ旅寓(りょぐう)ヲ訪(と)ハル、余話ニ応ジテ二題ヲ演説ス」
という。

 こうした若き民権家の奮闘ぶりと人民の熱烈な反応とは、案内役の田中正造らをも感激させたようである。しかも延べ数百人の都市民権家が東日本各地に飛んで、東奔西走、数百回の演説会をくりひろげ、同時に地方結社の組織を支援していたのであるから、愛国社系結社が東日本に進出しようとするとき無視できない存在であったことは確かである。



 嚶鳴社以外の都市型民権結社について、色川さんは次のように書き留めている。

 嚶鳴社にやや遅れて運動を開始した国友会もほぼ同様である。ここには馬場辰猪(たつい)や末広鉄腸(てっちょう 重恭)や大石正巳(まさみ)、高橋基一や堀口昇など第一級の都市知識人がおり、その盛んな地方人民との交流ぶりは、とくに『朝野新聞』に数十編の演説紀行として掲載されている。

 その他、『郵便報知新聞』を背景ににして奔走した藤田茂吉、犬養毅(つよし)、尾崎行雄、矢野文雄、吉田憙六(きろく)ら東洋議政会や交詢(こうじゅん)社員の名も落すことはできない。後に「憲政神様」といわれる犬養・尾崎などは、まだ二十代の青年だったが、東海、関東、東北の各地に、まさに南船北馬の遊説行をつづけていた。

 こうした者市民権家の役割を、自由党の結成にあたって、愛国社系の指導者たちがことさらに過小評価し、無視あるいは排除しよとしたことは、その見識と度量の狭さを責められてもしかたがない。



『続・大日本帝国の痼疾』(57)

自由民権運動(11)―都市民権派の潮流(1)


(今回の資料は教科書B)

 「V NAROD ! (ヴ・ナロード!」(人民の中へ!)という運動を担ったロシアの革命家たちをナロードニキという。

 色川さんは都市民権家たちを「若き日本のナロードニキ」と呼んでいる。彼らは民衆の啓蒙・覚醒こそを自らの使命と信じ、全国を駆け巡り、民衆の中に飛び込み、無償の遊説活動に自らの青春を捧げたのだった。

 彼らは馬の背にゆられ、あるいは人力車をはせ、泥濘や雪道で足をとられ、丘をこえ、北風の吹きあれる北浦や霞ケ浦を舟で渡り、利根川を下り、町から村へと倦むことなく走り回った。

 目的地に着くと、少しでも多くの聴衆が集まれるようにと、会場も豪農の屋敷などはできるだけ避け、学校や社寺や辻堂や倉庫などに設営してもらって熱弁をふるった。


 ある辻堂では老婆から賽銭を投げられる光景も見られたという。『朝野新聞』の末広重恭(しげやす)の演説紀行を読むと、沼津の近くの演説会で一村全員が参加したのに驚いている。また、茨城県の真壁郡関本村の演説会では、七十をこえた老人が感激して涙を流し、わしらはもうすぐ死ぬが、死んでもなお貴下らの戦いを応援したいと叫んで演説者を絶句させている。

 接待するものはその土地の民権家で、演説の後、懇親会で酒肴を供されることもあったが、その宴とて深夜までの激論の場になるのがふつうであった。竹内正志(せいし)など、厳寒の越後、佐渡で、じつに52日間にわたり、二十数回の演説会をこなしている。

 野村本之助によると、旅費は多く自弁であったため、車代を節約して徒歩で行くこともあったという。しかも、今日と違って、言論、思想の自由が極端に制限されていたため、会場は警官の立ち会い、臨検をうけ、演説中止を命じられたり、解散を命じられたり、時によっては投獄を覚悟して話さなくてはならなかった。



 兄から聞かされたのかラジオでだったか記憶は定かではないが、私は少年の時に「オッペケペー節」というのを知っていた。その歌の創始者の名が川上音二郎といったのも記憶していた。おもしろい歌を歌うおもしろいおじさんだと思っていた。ところが、この人、なんとすごい人だったことを今回初めて知った。

 川上は新派劇の創始者でもある。民権家としても「自由童子」と名乗って遊説に奔走している。また『日本立憲政党新聞』(1882年創立)の名義人でもあった。その関係で、出版条例違反で投獄されている。さらに、集会条例違反、官吏侮辱の罪などに問われ、170回も検挙されたという。

 民権家に対する弾圧は“過激”であった。いつだってはじめは民衆運動が過激派なのではなく、国家権力の弾圧が過激派なのだ。当時の内務省総務局の統計によると、

1881(明治14)年
 演題認可数12,000件のうち全会解散禁止171件  新聞の発行停止・禁止46件
 新聞記者の罰金182件  禁獄15件、併罪(へいざい)11件

検挙理由事例

 千葉県人山田島吉は「廟堂の暴虐官吏は天子様を横道に引込み」と演説して重禁錮2年・罰金50円

 山梨の『峡中(きょうちゅう)新報』記者野中真(まこと)はその演説中に官吏侮辱の文句があったと告発されて重禁錮1年・罰金50円

 『東京横浜毎日新聞』記者小松渉(わたる)も同じ罪で重禁錮8ヵ月・罰金30円

 群馬に演説にいった堀口昇は、「政府は悪人の肩をもつことなきはず」と一言いって集会条例違反、演説禁止1年

 山口県人熊谷成三は水戸の演説会で不敬の言辞ありといわれて重禁錮1年・罰金50円、

 静岡の『東海暁鐘(ぎょうしょう)新報』社長前島豊太郎は演説中天子を賊徒と呼んだと臨検の警官に強弁されて重禁錮3年・罰金900円

 だが、これによって民権家が沈黙しなかった事実は、翌1882(明治15)年に演説会数が倍増してゆくという勢いの中にも示されている。このとき〝自由か死か″の叫びは、彼らにとって単なる美辞麗句ではなかったのである。

 こうした民権派ジャーナリストや都市の演説団体の活動の他に、権力の弾圧から人民の人権をまもる民権派代言(弁護)事務所などが大きな役割をはたしていた。中でも自由党系の広徳館の本支部や改進党系の修身社は有名である。こうした法律団体に所属する気骨ある代言人たちが、どのような奮闘をしたかは、最近の研究でも明らかにされている(森長英三郎『裁判自由民権時代』)。



今日の話題

宇佐見斉さんの啄木論


 前回の続きになる。

 現代詩文庫「石川啄木詩集」(思潮社)に宇佐見 斉さんの啄木論『研究 ことばと生のあいだ-啄 木の変貌』という論攷が所収されている。この 機会に、初めて読んでみた。啄木理解の上でとて も有用だった。『呼子と口笛』を論じた最後の部分を紹 介したい。



 時代は、ちょうど日本の近代の大きな転回点にあ たっており、巨大な歴史の車輪がすでに音をたて て回転し始めていた。

 明治44年1月18日、大逆事件特別裁判宣告の日に は、歴史そのものと一個人の歴史意識との深い乖 離の感覚が、「日本はダメだ」という絶望的な嗟 嘆となって日記に記されている。これを契機とし て啄木の思想は、更に一層イデオロギーとしての 「社会主義」に傾いて行ったとみることができる。

 しかも、啄木は、「ことばと行ひとを分ちがた き」人として行動しようと決意しており、2月6日 附の大島経男宛の書簡では、早くも、『樹木と果 実』という短歌雑誌発刊の計画について述べてい るのである。

「二年か三年の後には政治雑誌にして、一方何 等かの実行運動 ― 普通選挙、婦人解放、ロー マ字普及、労働組合 ― も初めたいものと思っ てゐます」。

 しかしこの時、すでに啄木の肉体は病魔によ って深く蝕まれてしまっていた。二月初旬に慢性 腹膜炎のために東大病院に入院して以来、その死 に到るまで遂に彼は病いの床を離れることがなか った。40日の病院生活の後に、病魔は肋膜から胸 を冒していたのである。

 かくして啄木の思想の中に芽生えた可能態とし ての実際行動は、その芽のうちにつみ取られてし まった。私たちの掌には、『呼子と口笛』の絶唱が 残されているのみである。

 私たちは、啄木の思想的変貌を、かけ足ではあ るが、『あこがれ』のロマンチスムから自然主義 へ、そして最後に社会主義へと移りゆく過程に従 って追ってきた。だが、これらの三段階を通じて なお啄木の思想を一本串ざしにしているものがあ る。それは、最後の芸術的結晶といわれる『呼子 と口笛』をすら鋭く貫いている、真の意味での 「ロマンチスム」である。まことに啄木は、山本 健吉の指摘するように、
「星董派は卒業したが、零落したロマンティシス ムとしての自然主義に対して二重の反抗の姿勢を 取ることによって、真のロマンティシスムを対置 した」
のである。

 われらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、
 しかしてわれらの眼の輝けること、
 五十年前の露西亜の青年に劣らず。
 われらは何を為すべきかを議論す。
 されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
 'V NAROD'!と叫び出づるものなし。
        (「はてしなき議論の後」)

 ここには、自己の権力にめざめ、「何を為すべ きか」を知りながら、直ちにそれに見あった行動 の様式をあみ出すことのできない、孤立した青年 の激しい焦燥感が、ありありとうかがえる。

 当時、『樹木と果実』発刊の計画は資金と健康 上の問題のためすでに挫折していた。しかし彼は クロボトキンを耽読し幸徳事件関係書類の整理 に没頭したり、「ヴ・ナロード・シリーズ」を編 んだりしているのである。「われらの遂に勝つべ きを知る」と叫んだこの詩人は、文字通り「明日」 への考察に魂を焦がして打込んでいたのである。

 だが、全てが理想と情熱とに満ちているわけで はない。詩稿ノートから外された「はてしなき議 論の後」の八(呼子の笛)に到って、私たちは啄 木の精神に大きな挫折の影がしのび寄ったことを 感知せざるを得ない。

 はてしなき議論の後の疲れたる心を抱き、
 同志の中の誰彼の心弱さを憎みつつ、
 ただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、
 ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。
  - ひよろろろと、
 また、ひよろろろと -

  我は、ふと、涙ぐまれぬ。
  げに、げに、わが心の餓ゑて空しきこと、
  今も猶昔のごとし。

 すでにこれは、短歌的世界への逆行を意味する ものではないだろうか。歴史を意識した対象志向 の姿勢は崩れ去り、再び追憶と自愛へと傾斜して ゆくのではないか。啄木は短歌的原罪から永久に 逃れることができなかったのであろうか。

 友も、妻も、かなしと思ふらし、-
 病みても猶、
 革命のこと口に絶たねば。
 やや遠きものに思ひし
 テロリストの悲しき心も -
 近づく日のあり。

 もしこれらの「悲しき玩具」にうたわれたもの が、社会変革を志向する、ロマンチックな自我の 片隅に澱んでいる根づよい悲哀感であったとした ら、『呼子と口笛』の一群の詩も、遂にこの暗い 心情の影から逃れ切ることができなかったのでは ないだろうか。

 『呼子と口笛』の諸詩篇を書かれた順に追って みると、「はてしなき議論の後」の激しさが、次 第に沈潜し遂には自愛と追憶の短歌的世界に運行 してゆくのを見るのである。最初の「はてしなき 議論の後」が書かれたのは6月15日のことである。 最後の「飛行機」の書かれた6月27日までには、 二週間しかない。

 このことは、当時の啄木がすでに肉体的に最悪 の事態に近づいており、精神的にもきわめて不安 定な状態にいた事を物語っている。だが、それ以 上に注意しなければならない事は、その移りゆき が『あこがれ』から『一握の砂』への沈潜とは異 って、極めて短期間にギリギリの極限状況で起っ ている、ということである。

 たとえば例の「ココアのひと匙」が、「テロリ スト」という著しく激情的な行動者を引きあいに出 しながらも、実は「かなしき心」という抒情的心 情を根底にしているのは、この上昇と沈潜とが別 々に行われたのではなく、同時に矛盾しあったま まアマルガムとして定着されていることを暗示す るのである。

 事の本質を見窮めようとするとき、私たちは、 すでに近代日本の歴史的総体に目を向けなければ ならない段階に来ているようである。

 啄木の自我の目ざめは、日清・日露の両帝国主 義戦争の勝利を契機とする、国家主義と富国強兵 の強権の上昇期に始まり、その自我の分裂は幸徳 事件をその象徴とするオーソリティの完成期に起 っているのである。啄木の死は、強権の象徴的な 源泉である明治天皇の死と、そしてその強権の真 只中に生きた乃木大将の殉死と、殆んど時を同じ くしてはいるが、それらとはうらはらに、じめじ めした忍従と屈辱の中の死であった。

 近代日本のいくつかのすぐれた自我の群像をさ し貫いているものは、この伸張するオーソリティ の外にはじき出され、激しい呪いと自己主張の願 いを秘めていた者の、理想と現実との、「ことば」 と「行い」との深い断絶の裂け目に他ならない。 啄木こそは、この歴史と歴史意識との亀裂を最 初に目撃し、その亀裂の中で最後まで誠実に、 そして必死に生き抜いた人であった。

 啄木のロマンチスムは『あこがれ』の憧憬から 始まる。だが、その死に到るまでなお彼をロマン チストと呼ぶ所以のものは、この熾烈な日常的現 実との、己れの時代と状況とを一身に引き受けよ うとする誠実な争闘に他ならない。

 今日、私たちのうちにあるものは、啄木の短歌 のもつ通俗性を軽蔑しながら、そのくせそれのも つ抒情性と甘い自愛の心情とをつき離し得ないで いる。この事は逆に、啄木が身をもって開示した 近代日本の矛盾と限界がまだ止揚されず、乗り越 えられていない事を意味するのではないだろうか。

 大江健三郎は、安保闘争敗北の直後、啄木の 『時代閉塞の現状』に触れて、その主張の現 在においてなおかつ有効である事を示さなければ ならなかった。この事は、啄木の批評のほこ先で あった50年前の日本の現実の停滞と混迷が、今な お繰り返されていることを意味するのではないだ ろうか。

「我々日本の青年は、末だ嘗て彼の強権に対して 何等の確執をも醸した事がない」。

 私たちの時代が生んだ、ひとりの鋭敏な頭脳 が1960年に想起しなければならなかったのは、 およそ半世紀もいぜんの啄木のこの言葉であった のである。

 啄木はまことに逆説的な存在である。彼のすぐ れた作品は彼の生涯を通じてその停滞と行づまり の時期に書かれた。彼の歌を愛するものは、彼の あくなき自己変革の姿勢と根強いロマンチスムと を見落すことになり易いのである。逆に啄木の行 く手をさえぎった壁を乗り越えようとするものは、 啄木の歌を愛することができない、というより愛 してはならないのである。この二つながらが、同 時に啄木の真の読者なのである。



詩をどうぞ

『呼子と口笛』全編


 色川大吉『自由民権』の「都市民権派の潮流」の 項の最初の小題は「若き日のナロードニキ」だった。 これを見て私はすぐに石川啄木の詩集『呼子と口笛』の 「V NAROD」というフレーズを思い出した。?十年前に 初めて読んだとき、これはなんと読みどんな意味なのか 分からず、いろいろ調べたものだった。ちょっと 横道にそれて、『呼子と口笛』を改めて読み直す ことにした。

 啄木は1886(明治19)年生まれ。自由民権運動の 「抵抗権行使事件」が暴虐な弾圧によってほぼ終息 し終わった頃である。『呼子と口笛』は啄木25歳の 時の作品である。慢性腹膜炎の闘病生活で、心身と もに衰弱しつつある中で完成している。翌年(1912年) の4月13日に永眠。享年26歳。

 ごく大まかに、啄木はロマンチスム→自然主義 →社会主義という思想的遍歴を示しているが、 幸徳秋水の大逆事件(1910年)が啄木の社会主義へ のさらなる急傾斜をうながしたと思われる。 孝徳事件が『呼子と口笛』誕生の衝動力だった。



呼子と口笛

はてしなき議論の後




暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に、
時として、電(いなづま)のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども――

あはれ、あはれ、
かの壮快なる雷鳴は遂(つひ)に聞え来らず。

我は知る、
その電に照し出さるる
新しき世界の姿を。
其処にては、物みなそのところを得べし。

されど、そは常に一瞬にして消え去るなり、
しかして、この壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。

暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に、
時として、電のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども――




われらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜の青年に劣らず。
われらは何を為すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳(こぶし)に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

此処にあつまれる者は皆青年なり、
常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

ああ、蝋燭はすでに三度も取りかへられ、
飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
若き婦人の熱心に変りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。


三 (ココアのひと匙)

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を――
しかして、そは真面目(まじめ)にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜(すす)りて、
そのうすにがき舌触(したざは)りに
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。


四 (書斎の午後)

われはこの国の女を好まず。

読みさしの舶来(はくらい)の本の
手ざはりあらき紙の上に、
あやまちて零(こぼ)したる葡萄酒の
なかなかに浸みてゆかぬかなしみ。

われはこの国の女を好まず。


五 (激論)

われはかの夜の激論を忘るること能はず、
新らしき社会に於ける‘権力’の処置に就きて、
はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと
我との間に惹(ひ)き起されたる激論を、
かの五時間に亙れる激論を。

'君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家の言なり。’
かれは遂にかく言ひ放ちき。
その声はさながら咆(ほ)ゆるごとくなりき。
若しその間に卓子(テエブル)のなかりせば、
かれの手は恐らくわが頭を撃ちたるならむ。
われはその浅黒き、大いなる顔の
男らしき怒りに漲れるを見たり。

五月の夜はすでに一時なりき。
或る一人の立ちて窓を明けたるとき、
Nとわれとの間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。
病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、
雨をふくめる夜風の爽かなりしかな。

さてわれは、また、かの夜の、
われらの会合に常にただ一人の婦人なる
Kのしなやかなる手の指環を忘るること能はず。
ほつれ毛をかき上ぐるとき、
また、蝋燭の心(しん)を截(き)るとき、
そは幾度かわが眼の前に光りたり。
しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。
されど、かの夜のわれらの議論に於いては、
かの女は初めよりわが味方なりき。


六 (墓碑銘)

われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今も猶尊敬す――
かの郊外の墓地の栗の木の下に
かれを葬りて、すでにふた月を経たれど。

実に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしかど、
なくてかなはぬ一人なりしが。

或る時、彼の語りけるは、
'同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能はず、
されど、我には何時にても起つことを得る準備あり。'

'彼の眼は常に論者の怯懦(けふだ)を叱責(しつせき)す。'
同志の一人はかくかれを評しき。
然り、われもまた度度しかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者――一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、且つ快活に働き、
暇あれば同志と語り、またよく読書したり。
かれは煙草も酒も用ゐざりき。

かれの真摯にして不屈、且つ思慮深き性格は、
かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。
かれは烈しき熱に冒されて、病の床に横はりつつ、
なほよく死にいたるまで譫話(うわごと)を口にせざりき。

'今日は五月一日なり、われらの日なり。'
これ、かれのわれに遺したる最後の言葉なり。
この日の朝、われはかれの病を見舞ひ、
その日の夕、かれは遂に永き眠りに入れり。

ああ、かの広き額と、鉄槌(てつつゐ)のごとき腕(かひな)と、
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と、
眼つぶれば今も猶わが前にあり。

彼の遺骸は、一個の唯物論者として
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し、
'われは何時にても起つことを得る準備あり。'


七 (古びたる鞄をあけて)

わが友は、古びたる鞄(かばん)をあけて、
ほの暗き蝋燭の火影(ほかげ)の散らぼへる床(ゆか)に、
いろいろの本を取り出だしたり。
そは皆この国にて禁じられたるものなりき。

やがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、
'これなり'とわが手に置くや、
静かにまた窓に凭(よ)りて口笛を吹き出したり。
そは美くしとにもあらぬ若き女の写真なりき。


八 (げに、かの場末の)

げに、かの場末の縁日の夜の
活動写真の小屋の中に、
青臭きアセチレン瓦斯(がす)の漂へる中に、
鋭くも響きわたりし
秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。
ひよろろろと鳴りて消ゆれば、
あたり忽(たちま)ち暗くなりて、
薄青きいたづら小僧の映画ぞわが眼にはうつりたる。
やがて、また、ひよろろと鳴れば、
声嗄れし説明者こそ、
西洋の幽霊の如き手つきして、
くどくどと何事を語り出でけれ。
我はただ涙ぐまれき。

されど、そは、三年も前の記憶なり。

はてしなき議論の後の
疲れたる心を抱き、
同志の中の誰彼の心弱さを憎みつつ、
ただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、
ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。
――ひよろろろと、
また、ひよろろろと――

我は、ふと、涙ぐまれぬ。
げに、げに、わが心の餓ゑて空しきこと、
今も猶昔のごとし。


九 (明るき午後)

我が友は、今日もまた、
マルクスの「資本論(キヤプタル)」の
難解になやみつつあるならむ。

わが身のまはりには、
黄色なる小さき花片が、ほろほろと、
何故とはなけれど、
ほろほろと散るごときけはひあり。

もう三十にもなるといふ、
身の丈三尺ばかりなる女の、
赤き扇をかざして踊るを、
見世物にて見たることあり。
あれはいつのことなりけむ。

それはさうと、あの女は――
ただ一度我等の会合に出て
それきり来なくなりし――
あの女は、
今はどうしてゐるらむ。

明るき午後のものとなき静心なさ。


十 (家)

今朝も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
つとめ先より一日の仕事を了へて帰り来て、
夕餉(ゆふげ)の後の茶を啜(すす)り、煙草をのめば、
むらさきの煙の味のなつかしさ、
はかなくもまたそのことのひよつと心に浮び来る――
はかなくもまたかなしくも。

場所は、鉄道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
西洋風の木造のさっぱりとしたひと構へ、
高からずとも、さてはまた何の飾りのなしとても、
広き階段とバルコンと明るき書斎……
げにさなり、すわり心地のよき椅子も。

この幾年に幾度も思ひしはこの家のこと、
思ひし毎に少しづつ変へし間取りのさまなどを
心のうちに描きつつ、
ランプの笠の真白きにそれとなく眼をあつむれば、
その家に住むたのしさのまざまざ見ゆる心地して、
泣く児に添乳(そへぢ)する妻のひと間の隅のあちら向き、
そを幸ひと口もとにはかなき笑みものぼり来る。

さて、その庭は広くして草の繁るにまかせてむ。
夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に
音立てて降るこころよさ。
またその隅にひともとの大樹を植ゑて、
白塗の木の腰掛を根に置かむ――
雨降らぬ日は其処に出て、
かの煙濃く、かをりよき埃及(エジプト)煙草ふかしつつ、
四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の
本の頁を切りかけて、
食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、
また、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる
村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく……

はかなくも、またかなしくも、
いつとしもなく、若き日にわかれ来りて、
月月のくらしのことに疲れゆく、
都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、
はかなくも、またかなしくも
なつかしくして、何時(いつ)までも棄つるに惜しきこの思ひ、
そのかずかずの満たされぬ望みと共に、
はじめより空(むな)しきことと知りながら、
なほ、若き日に人知れず恋せしときの眼付して、
妻にも告げず、真白なるランプの笠を見つめつつ、
ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。


十一 (飛行機)

見よ、今日も、かの蒼空(あをぞら)に
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

(思潮社・現代詩文庫「石川啄木詩集」より)



『続・大日本帝国の痼疾』(56)

自由民権運動(10)―愛国社的潮流(3)


 今回は、重複する部分もあるが、前回までの愛 国社的潮流の流れについて、教科書Aの解説・評価 を読むことにする。

 自由民権運動が真にその名にあたいする行動を 開始するのは1877年(明治10)6月、立志社の国会 開設建白以降である。このときはじめて当面する 国民的課題を、地租軽減、国会開設、条約改正の三大要求 に明確化し、士族の指導者と農民大衆との同盟の 可能性がつくりだされた。 そして植木枝盛、杉田定一ら若き遊説員の努力によって、78年(明治11) 9月、おもに西南の士族民権結社を糾合して、愛国 社を再興し、民権派勢力の再結集を進めたのであ る。

 再興愛国社には、「ルソーや米国革命のことま で俚歌に作りたて、これを民権歌と称し、印刷 して聴衆や行きかふ人にも与へ」ていたという高 松の立志社が加わり(『東京日日新聞』明治11・ 12・19)、萩の乱で生き残った福岡の箱田六輔が社 長となった向陽社も加盟した。向陽社は士族の救済 事業と国権回復、民権伸暢などをかかげて演説会 をくりかえし、一時は「大ニ針路ヲ変革シ教則中 更ニ法律学ヲ置キ代言局ヲ付属シ演説討論会ヲ開」 いたため、「大ニ県下一般ノ人望ヲ得、社員ハ五 六百名」という愛国社の有力グループになってい った。

 また、岡山県士族小林樟雄らが竹内正志と設立 した実行社や、鳥取県士族で元警部の足立長郷を 社長にした共斃(きょうへい)社、粗暴不品行でし ばしば問題を起した松江の笠津社や、それを克服 しようと起こった尚志社も愛国社に加わっている。

 1879年(明治12)6月、松江の警察探偵係が笠津 社員の生態を次のように報告している(内藤正中 『自由民権運動の研究』)。

「追々人気ヲ得ルニ従ヒ権威ヲ張り……夜日ノ別 ナク市街ヲ遊歩スルニモ其風体一種他人ト異ナリ、 故ニ婦女子等モ一目シテ演説社員ナリト云フニ至 レリ」
「該社員ナル者ハ十中ノ八九ハ不品行者ニ候処、 一時勢ヒニ乗ジ遊蕩ニ陥り、酒宴愉快ヲ催セシ処、 当今ニ至リ社員中トシテ殆ド二百円迄ノ負債相蒿 (かさみ)タル由」

 だが、これは士族民権家の姿を正しく伝えている ものではない。彼らがいかに士族としての誇りと 抵抗の精神を持って、弾圧にめげず、民権の伸張 のために奮闘したかは、だれよりも彼らの影響を うけて自由権にめざめた多くの地方人民が伝えて いる。

 ニュー・フェイスとしては、越前の杉田定一ら の自郷社、福島の河野広中らの三師社、信州松本 の奨匡(しょうきょう)社、愛知の三河交親社など がある。三河交親社は元三河福島藩の家老職をつ とめた内藤魯一(ろいち)を中心に結社したもので、 やがて立志社幹部と呼吸を合せて愛国社系の運動 をリードしてゆくようになる。

 それはともあれ1880年(明治13)3月、第四回 大会を開くまでの愛国社の実勢力はきわめて貧弱 なもので、その主力は土佐立志社系にあり、当時 全国に数百社も生まれていた民権結社の圧倒的多 数は、愛国社系とは関係のないところで独自に運 動を展開していたのである。

 これまで自由民権運動は、西日本、とくに土佐 の立志社を中心とした『自由党史』(板垣退助監 修)の立場で理解されがちであった。そのため、 立志社を核として形成された愛国社の運動が民権 運動の本流であるかのようにみなされてきた。

 たしかに立志社の果した役割はきわめて大きい。 自由民権の代表的な思想家は大半、土佐が生み出し ていたのであり、その先駆性、指導性、ゆたかな人 材の輩出、組織力、財政力、どの点をとってみても 、立志社にまさる民権結社がわが日本にあったとは 思われない。それは十分に承認した上で、なおかつ 立志社→愛国社的潮流が民権運動の主流だという説 は訂正されなくてはならない。『自由党史』の中の 多くの誤りについても、戦後の研究によって今では 次々と明らかにされている。



 愛国社的潮流はこの後、都市民権派の潮流や 在村的潮流と合流しながら自由党結成へと大きな 潮流を作っていく。自由党結成の動きを追う前に、 都市民権派の役割と在村的潮流の内実を学習するこ とにする。

『続・大日本帝国の痼疾』(55)

自由民権運動(9)―愛国社的潮流(2)


愛国社再興→国会期成同盟

(以下、引用文は教科書Bより。事件の年月日や 人名漢字に誤りがあるが、訂正せずそのまま転載 する。)

1878(明治11)年
 5月 大久保利通暗殺
 9月 愛国社再興大会



 大久保は已に西郷を殺せり。木戸を悩殺せり。 江藤前原を刑殺せり。已に琉球を併せたり。その 負うたる所の国民統一の業は已に為されたり。

 ここに於てか五月その参朝の途に於て暴徒のた めに襲撃せられて死し、空しく紀尾井坂に墓碑を 止め、その一半の生涯を後人の推測に打ち任せり。 刺客は石川県の士族、島田一郎、長連豪、杉本乙 菊、杉村文一、脇田新一、島根県士浅井寿篤らに して、多くは西郷を慕望して、かつてその左右に 侍せしことありしものなり。

 この時に方(あた)って、大久保の死は実に天下 少壮の徒が、手を打って相賀せし所にして、彼は 少年民権家の脳中には、殆んど襖国のメッテルニッヒ を以て比せられ、全く国民改進の敵手を以て 目せられたり。



(注)
メッテルニヒ(1773~1859)
 オーストリア帝国の政治家。ウィーン反動体制 の立役者。ウィーン会議の議長。ナポレオン失脚 後、1848年の二月革命まで神聖同盟(1815締結)を 中枢として、アンシャン・レジーム(フランス革 命前の絶対君主政)の復活に努める。対内的には 極端な専制的反動政策をおこない、対外的には自 由主義、民族統一運動を弾圧した。1848年ウィー ンに暴動が起こり、イギリスに亡命。

 大久保暗殺後、刺客たちはは大久保利通の「罪五 事」を挙げた斬奸状をもって自首した。7月27日 6名ともに斬罪に処せられる。「罪五事」の第一を 次のように記している。

「公議を杜絶し、民権を抑圧し、以て政事を 私する。其罪一なり。」

 自由民権の説は已に八、九年より発したり。 大久保の統一政略によりて圧伏せられたり。今や 大久保已に死し、内閣の大権揺ぎて帰着する所な きを見るや、民権家はこの機に乗ぜんと、各地相 唱和して起てり。

 而して明治十二年は、地方官会議にて定めたる 府県会を各地に起せるより人民が政事に注目する の念大に勃興せる時なりしかば、民権家の運動は 大に民心を啓発し、板垣退助を初として、土佐の 民権家先ず主となりて大坂に愛国社の会議を開け り。これに応じたるものは東北、南越、五畿の人 々なりしが、その合議書なるもの左のごとし。

我輩此社を結ぶの主意は愛国の至情自ら止む能は ざるを以てなり。夫れ国を愛するものは須(すべ か)らく先づ其身を愛すべし。人々各其身を愛す るの通義を推せば、互に相交際親愛せざるべから ず。其相交際親愛するには必ず先づ同志集合し、 会議を開かざるを得ず。依て今此会議を開き、互 に相研究協議し、以て各共自主の権利を伸張し、 人間本分の義務を尽し、小にしては一身一家を保全 し、大にしては天下国家を維持するの道より、終 (つひ)に於て天皇陛下の尊栄福祉を増し、我帝国を して欧米諸国と対時屹立せしめんと欲するに在り。 今此主意を述べ、左の条件を約定せり。

第一条 此の社を名づけて愛国社と称し、大坂に 開場を設くべし。
第二条 愛国社は各県各社より其社員両三名を大 坂に出し、毎月数次期日を定めて相会し、大政の 由て出る所と天下の形勢事情を協議討論し、及何 事に因らず各社に報知することを務むべし。
〔以下略〕



1880(明治13)年
 4月 愛国社大会、国会期成同盟と改称


 愛国社の会議は痛く人心を刺激し、尋(つい)で 岡山の地に民権家の同志連合会議を起し、次で福岡 の地に有志民権家の会合を開けり。かくのごとく 民権家は関西の地を席巻して行くと共に、関東に 於ては新聞雑誌に、講談演説に、日夜国会開設、 自由民権の論を主張せしかば、東西相呼応して天 下殆んど震動するの勢なりしが、千葉県の桜井静 先ず起って国会開設の請願を為せり。この一挙は 実に民権家が為さんと欲するの端を開きしものな れば、風雷のごとく、響音のごとく、各地の民権 家相立ってこれに応じ、続々として元老院の門前 に詰めかけたり。

(中略)

民権家は一挙して国会を開設せしめ、以て正々堂 々、政府の政策を論ずるの地を得る乎、然らずん ば一撃して明治政府を倒さんとの意気込を以て、 明治十三年三月国会期成同盟会なるものを大坂に 開き、左の合議書によりて大運動を初め、更らに 会員遭難を救助するの法を定め、有志家をして後 を顧みずして激進せしめんとせり。

国会期成同盟合議書

第一条 国会開設の為め、今茲に合同する者を国 会期成同盟と為し、国会を開設して其美果を見る に臻(いた)る迄、幾年月日を経るも敢て此同盟を 解かざるべし。

第二条 明治十四年十月一日より東京に会議を開 くべし

第三条 来会迄には其府県国郡の戸数過半数の同 意を待て出会するを目的とす

 第四条 来会には各組憲法見込案を持参研究す べし

第五条 来会の会員は百人以上の結合ある者に限 るべし(但当会に列する単身の者及百人未満の者 は次会迄に百人以上の結合を為すべし)

第六条 東京を中央本部と定め常務委員弐名を置 くべし(但常務委員は当会員中より公選す)

第七条 全国を八区に区画し、其区内の誘導は区 内各組責任を定め分担すべし。区画如左

 第一区 奥羽七州、北海道。
 第二区 甲斐、信濃、関東八州。
 第三区 近江、美濃、飛騨、伊賀、
     伊勢、志摩、尾張、三河、
     遠江、駿河、伊豆。
 第四区 北陸道。
 第五区 畿内五国、丹波、丹後、
     但馬、播磨、淡路。
 第六区 長門、周防、石見、安芸、
     出雲、備前、備中、備後、
     伯耆、美作、隠岐、因幡。
 第七区 四国、紀伊。
 第八区 九州、対馬、壱岐、琉球

第八条 来会迄に各区に於て区本部を設置すべし

 会するもの九十余名、九万人を代表すと称す。 その郷関を出るや皆な殆んど死を決して出でたり しが、その議決を以て福島県人河野広中、高知県 人片岡健吉を委員とし、国会開設を上願するの書 を政府に呈せしむ。

今日の話題
暗闇にほのかな希望のともしび(3)


 軍靴の荒々しく傲慢な音に比して、平和への歩 みは遅々としてその足音はかぼそい。意識して聞 くことがなけば人の耳目に届きがたい。しかし、 大きく俯瞰すれば、たしかに平和への歩みは確固 として進んでいる。

 井上さんのエッセイは、次に核拡散防止の問題を 取り上げている。続いて『世界の流れの中で考える 日本国憲法』(下)を読もう。

『世界の流れの中で考える日本国憲法』(下)
「水色ペンキの入ったバケツを下げて非核地帯を 塗り広げる」

 国際法や条約などの堅い約束(ハード・ロー)や、 宣言や行動計画やガイドラインといったゆるい 約束(ソフト・ロー)によって綱のように編まれた 国際社会 ― これはなかなかおもしろい、そし てふしぎな生きものである。戦争と暴力で荒れ狂 っているかと思えば、同時に中立国(いわば良心 的兵役拒否国家)を認め合ったりしている。それ ばかりではなく、この国際社会は、わたしたちの 知らないうちに、途方もない大事業を進めていた りもするのだ。



 自公政府は「国際社会」に貢献するためと、自衛隊 の海外派遣を言挙げする。このときの「国際社会」 とはまぎれもなく「アメリカとその傘下の国々」 のことにすぎない。上の引用文で使われている「国際 社会」とは似て非なるものだ。

 真の意味での国際社会が進めている「途方もな い大事業」の一つが南極をめぐって遂行されてきた。

 かって、アルゼンチン、オーストラリア、チリ、 ニュージーランド、イギリス、フランス、ノルウ ェーの7カ国が南極の領有権を主張していた。 その領有権の争いが1957から始まった「第三回国 際地球観測年」に再燃した。とりわけ、冷戦下の もと、アメリカとソ連の相互不信が問題を大きく した。お互いに「観測にかこつけて南極に軍事基地をつくろ うとしているのではないか?」と疑った。

  国際地球観測年を主催する国際学術連合会議 は問題解決をはかって、上の7カ国にアメリカ、 ソ連、南アフリカ、ベルギー、日本の5カ国を加え て、ワシントンで会議を開いた。議論は紛糾し、 会議は決裂するかに見えた。

 そのとき、日本側が、

「わたしたちは紛争を話 し合いで解決するという憲法を持っている。これ はよりよい世界をめざすための最良の手引き書で あって、人類の知恵がぎっしり詰まっている。 それにもとづいてわたしたちはあくまでも話し合 いで解決するように主張する」

と発言……というのは、オーストラリア国立大学 で住み込み作家(ライター・イン・レジデンス) をしているときに(1976年)、この会議に出席し ていたという地理学の老教授から聞いた話だが、 なにしろ、あのときは日本中の小学生までがお小 遣いを削って献金して基金を集めてやっと築いた のが昭和基地だったし、その上、戦後初めて世界 の学術界に再登場したこともあって気合が入って いた。その気迫に圧(お)されて討論が再開され、 やがてその成果が 「南極条約」 (59年)となって結実した。



 南極条約の主な内容は次のようである。

① 南極地域の平和的利用(軍事基地の建設、 軍事演習の実施等の禁止)(第1条)
② 科学的調査の自由と国際協力の促進(第2、3条)
③ 南極地域における領土権主張の凍結(第4条)
④ 条約の遵守を確保するための監視員制度の設 定(第7条)
⑤ 南極地域に関する共通の利害関係のある事項 について協議し、条約の原則及び目的を助長する ための措置を立案する会合の開催(第9条)

 これを井上さんは次のように要約している。

「領有権は凍結する。南極は人類の共有財産であ り、世界公園である。軍事基地も軍事演習もだめ、 活動は調査研究に限られる。そして核実験も核の 持ち込みも禁止する」

 この核禁止の流れはゆっくりと広がって行った。 気がつくと、

宇宙も(1966年、宇宙条約)
中南米も(68年、ラテンアメリカ非核地域条約)
海底も(71年、海底非核化条約)
南太平洋も(85年、南太平洋非核地帯条約)
東南アジア全体も(95年、東南アジア非核兵器地 帯条約)
そしてついに
アフリカ大陸も(95年、アフリカ非核兵器地帯条 約。アフリカ統一機構閣僚理事会で採択)

どこもかしこも非核兵器地帯になっている。

 試みに、非核兵器地帯を水色のペンキで地球儀 の上に印すと、南半球全体が水色に染まる。もち ろん海底も宇宙も水色一色である。

 相も変らずなんだかんだと真っ赤になって揉め ているのは北半球のお偉方たちだけだ。名古屋大 学名誉教授の森英樹氏の名言を拝借するなら、 〈もう一つの世界は可能だ〉(『国際協力と平和 を考える50話』岩波ジュニア新書)なのだ。

 どぎつい赤を水色で塗り直そうという国際社会 のもう一つの大きな流れの先頭に立っているのは、 もちろん日本国憲法である。わたしは今日も水色 のペンキの入ったバケツを下げて生きている。



 外務省のホームページに 「わが国の軍縮外交」 というサイトがある。その第5章「非核兵器地帯」 の第3節「これまでに作成された非核兵器地帯条約」、 第5節「南極、海底、宇宙・月の非軍事化」 が上の内容に該当する。(全文をPDFファイルでダウン ロードできる。)

第4節は「構想段階にある非核兵器地帯」となってい る。項目だけ抜き書きしておく。

1.中央アジア非核兵器地帯
2.中東非核兵器地帯・中東非大量破壊兵器地帯
3.モンゴル一国非核の地位

 北半球にも「非核兵器地帯」が広がりつつある。 にもかかわらず、日本には核兵器を持ちたがってい るアホな好戦家がたくさんいる。

今日の話題
暗闇にほのかな希望のともしび(2)


 第1次世界大戦の勃発のために流れてしまった 第3回ハーグ国際会議は、その後も世界中に紛争・ 戦争が絶えず、90年も棚上げされたままだった。 それがようやく1999年に、第一回会議の100周年を 記念して、「ハーグ世界平和市民会議・1999」が 開催された。約100ヵ国から10,000人が参加し、NGO約700団体と国 連が共催に加わった。

 その会議では 「公正な世界秩序のための10の基本原則」と 「21世紀の平和と正義を求めるハ-グ・アジェンダ」 が採択されている。次に「…10の基本原則」を 採録しておこう。

「公正な世界秩序のための10の基本原則」

1 各国議会は、日本国憲法第9条のような、 政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべ きである。

2 すべての国家は、国際司法裁判所の強制管轄 権を無条件に認めるべきである。

3 各国政府は、国際刑事裁判所規程を批准し、 対人地雷禁止条約を実施すべきである。

4 すべての国家は、「新しい外交」を取り入れ るべきである。「新しい外交」とは、政府、国際組 織、市民社会のパートナーシップである。

5 世界は人道的な危機の傍観者でいることはでき ない。しかし、武力に訴えるまえにあらゆる外交 的な手段が尽くされるべきであり、仮に武力に訴 えるとしても国連の権威のもとでなされるべきで ある。

6 核兵器廃絶条約の締結をめざす交渉がただち に開始されるべきである。

7 小火器の取引は厳しく制限されるべきである。

8 経済的権利は市民的権利と同じように重視され るべきである。

9 平和教育は世界のあらゆる学校で必修科目で あるべきである。

10 「戦争防止地球行動 (Global Action to Prevent War)」の計画が平 和な世界秩序の基礎になるべきである。

 井上さんはこの第一原則を取り上げて次のように 書いている。

 やがてこの原則も(これまでと同じように)国 際法に昇格するときがくるにちがいない。

 つまり わたしたちは、たしかに二十世紀から戦 争と暴力の非常識を引き継いではいるものの、同 時に国際法・国際条約の世界法典化の流れをも 引き継いでいる。 そしてその流れの先頭に立つ旗 となって、世界をよりましな方へ導こうとしてい るのが、わたしたちの日本国憲法なのである。

 わたしは今日もその旗のもとにいる。



 現在、軍隊のない国はどのくらいあるのだろうか。 国連加盟国192ヵ国のうち25ヵ国が軍隊を持たない くにである。その内実に立ち入ってみよう。 (以下は、「週間金曜日」第701号所収の前田朗「軍隊のない 国を歩く」最終回による。)

憲法に非武装を謳っている国

1921年 リヒテンシュタイン公国
1946年 日本国
1949年 コスタリカ共和国
1979年 キリバス共和国
1994年 パナマ共和国


 最初に非武装憲法を持ったのはリヒテンシュタ インである。1868年に軍隊を廃止して、1921年憲 法が常備軍廃止を明示した。しかし、日本国憲法 第九条はリヒテンシュタイン憲法の影響によるも のでもはない。また、後続のコスタリカなどの非武 装憲法も日本国憲法の影響で出来たわけではない。

非武装中立国

①かって非武装永世中立であったが、後に放棄し た国
 ルクセンブルク、アイスランド

②現在非武装永世中立国
 コスタリカ
 非武装憲法をもつので、パナマも中立であると する見解もある。

③憲法に中立が明記されている国(武装中立国)
 オーストリア、マルタ、カンボジア

軍隊を持たない国の軍隊廃止の理由

①もともと(古くから)軍隊を持たず、 外交術を駆使して安全を維持してきた国
 アンドラ、サンマリノ、モナコ、ルクセンブルク、 リヒテンシュタイン、アイスランド、ヴァチカン

②この半世紀あまりに、軍隊が国民を殺害した ために軍隊を廃止した国
 (1)コスタリカ
   1948年の内戦で国民同士が殺しあう悲劇を
   体験し、常備軍を廃止した。
 (2)ドミニカ国
   1981年に一部の軍人がクーデター未遂を
   起こし、国民を殺害したためである。

 前田さんは言う。
「軍隊が国民を守るというのは、もともと幻想 にすぎない。歴史を振り返れば、国民を殺害した 軍隊は枚挙に暇がない。沖縄の日本軍を想起すれ ばいい。軍隊の幻想に気づいたコスタリカやドミ ニカ国は、軍隊を廃止した。」

③外国軍によって占領されて軍隊が解体された国
 (1)グレナダ
   1983年に米軍が侵攻し、旧政権を抹殺した。
   この時に軍隊が解体された。
 (2)パナマ
   1989年に米軍が侵攻し、武装解除された。
   後(94年)に憲法で軍隊廃止を明記した。

 日本も外国軍によって占領されて軍隊を解体 された国であるが、周知のようにグレナダ、パナ マとは別の道を歩んだ。

 さて、これらの事実を踏まえて、前田さんは 次のように結んでいる。

なぜいま軍隊のない国家か

 「軍隊のない国家といっても小国が多く、経済 力がないので軍隊を保有できないだけで、日本に とって参考にならない」という見解がある。しかし、

第一に、
 国連加盟国192カ国のうち25カ国が軍隊を持たな い事実そのものに大きな意味がある。

第二に、
 軍隊のない国家が増えてきた。

第三に、
 軍隊を持たないことだけが問題なのではない。 各国がいかなる歴史を有しているのか。どのよう な外交政策を採ってきたのか。教育や市民社会 のあり方はどうなのかが重要である。

そして第四に、
 軍隊のない国家に学ぶ側面だけを問題にするの は不十分である。日本国憲法第九条があるのだか ら、本来、日本は諸外国に学ぶ立場ではないはず だ。諸外国が第九条に学んできたかどうかが問題 である。逆に言えば、日本政府が第九条を守ろうとせず、 骨抜きにしてきた歴史、そして第九条を世界に輸 出してこなかった不作為を反省する必要がある。

 というのも、軍隊のない国家は、日本国憲法第九 条と何の関係もないからである。それぞれの歴史 の中で軍隊のない状態になってきたのである。日 本政府が第九条をセールスしていたなら、もっと 多くの軍隊のない国家ができていたはずだ。

 政府だけが怠慢だったわけではない。私たち、 平和運動を行なう側も、第九条の実践的意義を 十分に活用してきたとは言いがたい。第九条を 世界の平和主義の中核に位置づけ、多くの国が これに学ぶようにしていかなくてはならない。

 「九条世界会議」がその出発点になるだろう。



今日の話題

暗闇にほのかな希望のともしび(1)


 5月4~6日、幕張メッセで「9条世界会議」が 開催された。 「9条世界会議」のブログ がその盛況ぶりを次のように伝えている。
 「9条世界会議」には、のべ2万人を超える人 たちが来訪しました。
 初日の全体会には12,000人 が参加し、ほか3,000人が満員のため入場いただけま せんでした。
 2日目の分科会には6,500人が参加し、当日券完 売のため500人が入場できませんでした。
 3日目のまとめ総会には、300人が参加しました。

海外からの参加者は、31カ国・地域から150名以上 にのぼりました。参加国・地域は、以下の通りで す。

アメリカ、イギリス、イタリア、イラク、インド、 エクアドル、オランダ、オーストラリア、カナダ、 ガーナ、韓国、北アイルランド、ケニア、コスタリ カ、スイス、スリランカ、セネガル、台湾、中国、 ドイツ、ニュージーランド、ネパール、パキスタ ン、パレスチナ、フィリピン、フランス、ベトナ ム、ボスニア、香港、モンゴル、ロシア。

 なお、5月5日の広島は1,100人、5月6日の 仙台は2,500人、大阪は8,000人が参加しました。

 9条世界会議は、3日間に全国でのべ3万人以 上が参加するという大きな成功をおさめました。



 これほどのイベントなのに、テレビはこれを まったく無視したようだ。このことを天木直人さん がブログで取り上げている。

メディアから無視された憲法9条世界会議

 さて、会議の呼びかけ人のお一人・井上ひさし さんが5月8日、9日の東京新聞夕刊に 『世界の流れの中で考える日本国憲法』 というエッセイを寄稿している。 長い歴史をかけて人類が紡ぎ出してしまった現在 の状況―世界に蔓延している格差と貧困・破壊と 殺戮―にほとんど絶望的な気持ちになっている私 の心の暗闇に、このエッセイがほのかな希望のと もしびをともしてくれた。世界近現代史を俯瞰する もう一つの視点を改めて教えられた。

『世界の流れの中で考える日本国憲法』(上)
「その旗のもとに立つ やがて国際法に」

 二十世紀は戦争と暴力の世紀であったという言 い方がある。たしかに数片ぐらいの真実が含まれ ているかもしれない。そこでこの考えに立って 二十一世紀の行方をうかがうと、戦争で儲けよう としている人たちは別だが、わたしたち普通人な らだれもが、「戦争と暴力を引き継いだのだか ら、やはり破局の世紀になるのか」と落ち込んで しまうはずだ。

 こんなときは、オランダの都市ハーグを思い浮 かべるにかぎる。というのは、北海にのぞむ人口 五十万のこの都市こそ、人びとが戦争と暴力を 違法化しようと懸命になって奮闘したのも同じ 二十世紀のことだったよと教えてくれるからであ る。

 ハーグが十七世紀半ばから国際条約の製造所だ ったことはよく知られているが、二十世紀をまさ に迎えようとしていた一八九九年に、ロシア皇 帝ニコライ二世の呼びかけのもとに、このハーグ で第一回の国際平和会議が開かれた。 会期は二カ月余、参加国は26。「革命で銃殺され た皇帝が呼びかけた会議なぞ、 どうせろくなものではあるまい」と軽んじては いけないのであつて、これは人類史で最初の、 軍縮と国際紛争の平和的解決を話し合うための国 際会議だった。



第1回ハーグ国際平和会議
1899(明治32)年5月18日~7月29日
参加26カ国

 ロシア皇帝ニコライ2世が提唱。オランダ外相 の招きに応じ、各国の法律家・外交官・陸海軍首 脳など代表101名がハーグに集まった。

 戦争状態における無意味な攻撃や被害を避ける ための戦時国際法の成立と各国の軍備縮小を目指 した。これらについては合意に達しなかったが、 2つの条約を締結した。

1.
国際紛争を調停する常設仲裁機関(ハーグ 仲裁裁判所)の設置に関する条約
2.
各国が戦争中に不必要な犠牲をこうむらないよう に戦争手段や戦争法規の変更をもとめた条約

 この条約の補足として三つの宣言が盛り込ま れた。


毒ガス散布の禁止

ダムダム弾の使用禁止

気球等による空からの爆撃の禁止

 この結果について井上さんは次のように評価 している。

 軍縮問題では成果がなかった。フランス代表レ オン・ブルジョワの
「今日、世界の重荷である 軍事負担の制限は、人類の福祉を増進するため に、はなはだ望ましいということが本会議の意見 である」
という名演説が満場の拍手を集めたくらいだった。

 しかしこのとき調印された三つの宣言が重要で ある。①軽気球からの爆発物投下禁止宣言(わが 国は未批准)②ダムダム弾使用禁止宣言③毒ガス 使用禁止宣言。

 「なにが国際紛争の平和的解決を話し合うため の会議だ。三つとも戦争を前提としているではな いか」というヤジが予想されるが、戦時国際法と いうものが諸国間で確認されたことがなによりも 大切で、

「国際紛争平和的処理協約」
「陸戦法規に関する協約」
「国際赤十字条約の原則を海戦に応用する協約」

の、三つの協約が採択されたのもこのときである。



第2回ハーグ国際平和会議
1907(明治40)年6月15日~10月18日
参加44カ国

 1904(明治37)年にヘイ米国務長官が開催計画を 提唱し、ロシア政府が発起者となって開催された。 戦争法規を中心とした13の条約を締結した。

 条約では、第1回会議で合意された内容の再確 認と戦争のさまざまな側面について新たに次のよ うな原則を取り決めた。

①中立国の権利と義務
②艦砲射撃、自動対潜水艦機雷の敷設、商船の軍 艦への変換をめぐる条件


また、第3回会議を8年以内にひらくことが勧告 され、オランダ政府は1915(大正4)年かその翌 年を予定して会議の準備を開始したが、第1次 世界大戦の勃発のため会議は開催できなかった。

 この第二回の会議についての井上さんの評価は 次のようである。

 このときに採択された「中立国の権利と義務 に関する条約」はすばらしい成果だった。

 第二次世界大戦は枢軸八カ国(日本、ドイツ、 イタリアなど)と、連合四十九カ国(アメリカ、 イギリス、ソ連など)との間で戦われ、南米をの ぞくほとんど全世界が戦火に覆われたが、この中 立条約を貫いた国が六カ国(アフガニスタン、ア イルランド、ポルトガル、スペイン、スウェーデ ン、・スイス)あった。

 「わが国は中立の立場をとり、ただひたすら戦 争が生み落とした不幸と向き合う」と宣言したこ の六カ国は、紛争国間の情報交換の仲立ちをし (スイス)、人質や傷病兵の交換に船舶を提供し (スウェーデン)、捕虜や人質の待遇を査察した (スペイン)。このように〈中立〉という第二 の道を明示したのが第二回の会議だったのであ る。



 ちなみに、大日本帝国の、不調に終わった 「終戦工作」「ポツダム宣言受諾」 もスイス、スウェーデンを通して行われている。

(次回に続く。)

『続・大日本帝国の痼疾』(54)

自由民権運動(8)―愛国社的潮流(1)


立志社→愛国社

1874(明治7)年4月
 板垣退助,土佐で立志社を結成


 土佐では立志社の外に、静倹社、中立社という 二つの政社が結成されていた。容易に予測できる ことだが、当時の結社は民権派のものだけではなく、 当然反動的な結社もあったはずだ。自由民権運動 の立場からはもっぱら立志社のみが解説されている が、反民権的な政社についてはあまりふれられることが ないので、簡単に記録しておこう。(教科書Bによる )

静倹社
 社会を封建の昔に返えすことを目的としており、 社員は漢学を修め、かたわら山野の開拓をしていた。

中立社
 民権党でもなく旧守党でもないと、自ら「中立」 を名乗っているいるわけだが、「純然たる官権党」 である。社員の多くは官吏であり、佐々木高行・ 谷千城らがその指導者であった。

 立志社 については教科書Bの記述をそのまま引用しよう。

 立志社は明治七年板垣らが征韓の議論に敗れて帰 りしとき、共に与に帰りし陸海軍士官兵卒の設立 せるものにして、社員二千余人あり。洋学所を 開き、法学所を設け、日々夜々、自由民権の説を 講じ、あるいは仏国革命を童謡に作って市街に歌 謡せしめ、あるいは魯国社会党の非運を小説に作 りて伝唱せしめ、以て自由民権の説を平民に知らし めんと勉めたり。

 かくて明治十年西郷の変に乗じ、片岡健吉を総 代として西京に出で、次に大に政府に要求する所 あり。
曰く公議を拡張して以て施政の過失を正す べし。
曰く立法、司法、行政の三権いまだ固からず。
曰く士族の処置、徴兵、地租改正、条約改正、朝 鮮、台湾、魯国の事その宜を失せるものあり。
曰く以上の過失は実に人民公論の発揮せざるにあ れば、速かに民選議院を立て憲法の基を立つべし と。

 立志社は実に我国に於ける政治的結社の最先な るものにして、また最大なるものたり。 (中略)

 かくのごとく三大政社あると共に、四国の中至 る所に三社の流を汲みて相争いしが、西郷の乱平 らぎて後は、天下武力を以て大久保内閣に抗抵す るの愚なるを覚り、相率いて自由民権説を唱えた り。自由民権の説を唱うるもの、多くは少壮、失 落の徒なりしかば、板垣はその赫々(かっかく) たる元老の勲業を以て、自然に民権党の首領たり。 而して土佐の声望実に天下に冠たり。



1875(明治8)年2月
 大阪会議、愛国社の設立


 立志社(板垣)が中心となって大阪で結成された 愛国社には次のような反政府士族の政治結社が加盟 している。(教科書Aによる)

阿波の自助社(小室信夫ら)
加賀の忠告社(島田一郎ら)
鳥取の共立社(今井鉄太郎ら)
肥後の霽月(せいげつ)社(宮崎八郎ら)
筑前の強忍社(越智彦四郎ら)
   矯志社(武部小四郎ら)
   堅忍社(奈良原到ら)
豊前の共憂社(増田栄太郎ら)

 これらの初期愛国社系結社にはいくつかの共通 点がある。それはほとんどが鹿児島の私学校派か 土佐の立志社派か、どちらかの亜流であるという こと。征韓派不平士族の文武の研究を名とする 悲憤慷慨の集会場であるか、あるいは民権論を研 究し、公選論をかかげて地方政治に介入するタイ プであるかに分れている。

 そしてほとんどが一連の士族反乱に動揺し、と くに西郷隆盛の決起に呼応し、まきこまれでいっ た。彼らのかかげる天賦人権論や激烈な革命主義 は斬新であるが、民衆と共に進むという意識にと ぼしく、島田一郎は大久保利通を殺害して処刑さ れ、宮崎八郎は西南戦争に参加して戦死してしま った。

 そのほか生き残った者でも右の結社の幹部の多 くが「反乱」に関係して投獄されている。立志 社以外にはその後の民権運動の主流に残ったもの は稀である。





『続・大日本帝国の痼疾』(53)

自由民権運動(7)―三つの潮流


 「民選議院設立」が棚上げされてしまった後の 政界の情勢を竹越は次のように記述している。

 大久保内閣に不平なるもの、江藤巳に倒れ、前 原已に滅び、西郷もまたその後を追い、而して木 戸孝允は征西の役の中頃、京都にありて病を以て 没し、後藤象二郎は一躍して鉱山師となれり。

 ここに於てか大久保の敵手たる元老はほ ぼつきて、余ます所は板垣退助のみ。而して西郷 の一挙は、あたかも海綿の水中に入りて水分を吸 集せるがごとく、武断的不平家を網羅して、刑場 の露と消えしめしかば、天下いよいよ政論を以て 内閣に抵抗するの勢となり、上にありては大久保 の世、下にありては板垣の世となれり。



(注)「後藤象二郎は一躍して鉱山師となれり」
 後藤は1874(明治7)年、長崎県の高島炭鉱を約55万円 で払い下げを受けて会社を設立している。会社は 2年後に破綻している。

 ちなみに「民選議院設立建白書」に連署したも う一人の元参議・副島種臣はその後、官僚政治家として 出世街道を進むのみで、民権運動にはまったく 関与していない。

 板垣は早くも4月に土佐で立志社を結成している。 その後、常に民権派政党の中心にあって活動をしてい るが、板垣らの政党結社による活動は自由民権運動の 一部に過ぎない。その辺の事情を教科書Cによって 見ておこう。

 竹越(教科書B)の自由民権運動についての記述は、 もっぱら政党結社の面からに限られているが、 竹越と同じく同時代の鳥尾小弥太(陸軍の要職を歴任し ている人物)は自由民権運動をトータルに把握していた。

 自由民権運動に危機感を表明してはばからなか った同時代人の鳥尾小弥太は、それなりに運動の 内実を鋭くとらえていた。

 鳥尾は運動を「大別して上下の二流とし」、 「上流の民権説」は「老練の士君士」によるもの で、「民権を尊重し人民をして奴隷根性を去らし むるは、則国家独立の基礎なり国家独立の精神な り」と説く立場にたつものであるとし、「下流の 民権説」は「上流の民権説」による「民撰議院設 立建白書」を契機に「声息を顕はすに至」ったが、 「其根柢となりて尤も此発生に関係あるものは即 明治初年以来の物情是なり」と指摘した。

 ところが、「下流の民権」に目をつむり「上流 の民権説」の単線的発展として民権運動を総括し たのがほかならぬ板垣退助監修 『自由党史』 (1890年)であった。すでに 帝国主義日本を容認 し、自由党の主義は「国家観念によりて調節せら れたる個人自由の主義」とする立場 が、この本を大きく制約していた。

 戦後の自由民権運動研究の重要な成果の一つは、 『自由党史』の単線的構成 (立志社-愛国社-国会期成同盟-自由党) にたいし、「下流の民権」運動の実態を「在村的 潮流」・「地方民会」の発展・「非愛国社路線 (=県議主導路線)」などとして把握したことで あろう。



 最近の研究では、上記の「上流の民権」「下流 の民権」に知識人・ジャーナリストなど都市知識人 の活躍を加えて、民権運動を「三つの潮流」が 複雑に絡み合い高揚していったものと捉えている。

「自由民権三つの潮流」

(1) 愛国社的潮流(上流の民権)
(2) 在村的潮流(下流の民権)
(3) 都市民権派の潮流


 (3)については具体的には次のような活動が 挙げられている。(教科書C)


 民権派知識人・ジャーナリストの新聞や結社 (嚶鳴社・国友会・東洋義政会など)を通じて の活動

 一種の結社と見てよい民権派代言事務所 (北洲社・講法学社・厚徳館など)の活動

 活動家・理論家を生み出す温床となっていた 一部の私塾(慶応義塾・仏学塾・明治学舎など) の教育活動

『続・大日本帝国の痼疾』(52)

自由民権運動(6)―民権運動前夜(2)


 「尚武党」の参議らの辞職は征韓論の敗北がその 直接の原因であったが、もちろん、維新政府内の分 裂はそのときに始まったことではない。竹越の分析を 聞いてみよう。

 内閣の分裂は一朝一夕の故にあらず。その由来 する所極めて遠く、かの薩、長、土、肥の四藩な るもの幕府に対してこそ、相共に連結して当りた れ、もとこれその気質に於ても、人物に於ても、 利害に於ても、議論に於ても、相一致すべきもの にあらざるのみならず、各藩中の首領間に於ても、 また利害、気質、議論の相達するありき。彼らの 幕府攻撃より、驀(まっ)しぐらに駆け来りて新政 府建設の段に至る間こそ、攻撃同盟をなしたれ、 新政府巳に立ちて、イザ政権ちょう掠奪物の分配 の一段に至りては、この同盟は疾(と)くに解けて、 恩怨巳に結ばれたり。

 さればこれを各藩としては、薩は長州に屑(いさぎよ) からず、土佐は肥前に屑からず。之を一個人とし ては西郷は大久保に屑からず、江藤は木戸大隈に 屑からず。板垣は大久保に屑からず。各藩各人の 間、憤怨の熟する巳に久し。延(ひい)て末流末派 に至っては、その勢更らに大に、刀剣を引て相争 わんとするものあり。かかれば参議の退朝は取り も直さず、不平党が政府に対する宣戦の布告と見 なすべきものなりし。彼らは果して遂に爆発せし か。


 時あたかも、徴兵令や地租改正に対する人民の 不満・非難が高まり、政府への反発が高まってい た。それと相まって、「尚武党」参議の辞職が 不平士族らの政府に対する慷慨をさらに激しくした。 元土佐藩士・武市熊吉ら9人が「平和党」の首領で ある岩倉具視を赤坂喰違(くいちがい)坂でおそうに 至った。岩倉は驚いて溝に落ちるが、武市らは 暗殺成功と想って逃げた。

 次に起こるのは薩摩(西郷)・土佐(板垣)・ 佐賀(江藤)での同時挙兵というのが、おおかたの 世論であった。ところが

 意外にもこの不平党は長剣長鎗の武夫となりて 見(あら)われず。新しき金冠を戴き、泰西的の紳 士として見われたり。彼らは平生、国家あるを知 って人民あるを知らざる国権党にして、その政治 主義はむしろ保守党の系図に属するものたり。 されども彼らは今や一変して急進突飛党となり、 直ちに民選議院を建てんことを譜牒として起てり。



 人民選議院設立建白書に連署した8名の中に、 副島、後藤、板垣、江藤の4名の辞職参議が名を 連ねている。

 この建白書は民権運動の幕を切って落とした画 期的なものとして、従来高く評価されてきている が、色川さんはこれに異論を呈している。

 私はこれを過大に評価することに賛成できない。 なぜなら板垣たちはこの建白によって、国民の自 由平等な政治参加を求めたのではなく、一部「維 新の功臣」を出した「士族及び豪家の農商」に資 格を限ると主張していたからである。それは幕末 以来の公議輿論思想の延長ともいえる。表現はイ ギリスの立憲制の言葉を借りていても、「五箇条 ノ誓文」(〝万機公論二決スベシ″)の趣旨と異 なるものではなかった。

 だから大久保独裁の明治政府は、翌75年(明治8) 4月、漸次に立憲制を施くべしとの詔を発して木戸、 板垣らを入閣させ、さらに6月、民撰議院に代わる 地方官会議を開いて、不平士族や豪農らをなだめよ うとしたのである。

 だが、その政府の約束は一方での讒謗律、新聞紙 条例などによる言論の弾圧、他方での江藤新平らの あいつぐ士族反乱によって棚あげにされた。



 横道にそれるが、この建白書の思想が「幕末 以来の公議輿論思想 の延長」にあり、「五箇条ノ誓文」(〝万機公論 ニ決スベシ″)の趣旨と異なるものではなかった」 という点について、少しふれておきたい。

 17条憲法の「和ヲモッテ貴シトス」と五箇条誓文の 「万機公論ニ決スベシ」とを取り上げて、上下分け隔 てなく公平に扱う日本の伝統的な美徳とする立論を 良く見受ける。

「私は、国家というのは日本人の価値観の塊だと 思います。日本人の価値観が国の形となって現れ たものがいくつかあります。十七条の憲法、五か 条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値 観が国家なのです。」

 何とも無残な国家論だ。この全く非科学的な 国家論を得々と披瀝している御仁は、櫻井よしこ 女史である。

 意識的に詭弁を弄しているのではない とすると、無知のしからしむところと言わなければな らない。17条の憲法は官僚に対する心得だし、維新 期の公議輿論は旧藩主・薩長土肥の維新遂行の志士・ 公卿などの入り乱れての権力闘争に対処したもので あり、一般人民のあずありしるところではなかった。

 ちなみに、公議輿論について竹越は次のように 書いている。

 されば天下の浪士、事を為さんと欲するものは 公卿に結託し、公卿にして事を為さんと欲するも のは、また有力なる宮嬪(きゅうひん)藤の式部、 押小路の娘大和局、権典侍の局、山本土佐大輔の 娘、及び少将、右衛門らに結託せり。而してこれ らの官嬪中、また卑陋なる一、二男児に左右せ ら有るものあり。その結果は天下の大事を挙げて、 奥まりたる宮中の局に於ける二、三男女の密話に 成敗せしむるに至れり。

 当時の政治家は実に身親しく此境を経歴してそ の弊を知れり。かつそれ太政官の枢機に参して、 天下の大権を掌握せるものは皆な卑賤にして格式 なく、ただ自家の力量を以て成り上りしものなり。 これを以て彼らがかつて主人公として仕えたる藩 主宿老に号令せんとす。尋常一様の常法を以てせ ば、必らずや服せずして群起し、あるいは足利尊 氏となり、あるいは赤松則村とならん。ここに於 てか当時の政治家は、苦心焦慮して、遂に泰西 (たいせい)の憲法に模して、公議輿論の文字を掲 げ来り、一はこれを以て公卿宮嬪の陰謀を抑えて、 万事を公けならしめ、一はこれを以て諸侯の野心 を抑えて、万事多数に決せしめんとせるなり。 已に之を以て公卿、宮嬪、諸侯を抑ゆ。



『続・大日本帝国の痼疾』(51)

自由民権運動(5)―民権運動前夜(2)


 岩倉ら「平和党」はかねてより、まず国富を作り、 制度を整えることが先決と考えていたが、欧米 歴訪で欧米の文物に直接接してその優秀さに深く 驚嘆し、平和内政を主とするの意をいよいよ 強くした。帰国後、直ちに口をそろえて征韓論に 反対した。

 両党激論、痛議して己まず。

 主戦党ら遂に三条実美に迫りて、征韓の勅裁を 得んとせしかば、三条驟(にわ)かに発 狂して大政を見る能わず。一にこれを岩倉に委ね たりという。岩倉もまた病と称して屏門して出で ず。天皇自ら岩倉の邸に幸(みゆき)してこれを慰 問し、三条に代りて事を視(み)せしむ。ここに至 りて岩倉、内閣総理の席につきて御前会議を催う し、遂に勅裁によりて征韓の廟議を一変す。



 この政争は人民にとっては何だったのか。 竹越は冷ややかに「されば廟堂の上に於て征韓可 否の論あるも、そはただ二、三人士政権争奪の争 に止りて、人民は依然として雲上の喧嘩を見るが ごとくなりき。」と述べている。

 さて征韓論敗れて、参議兼外務総裁副島種臣、参議兼 左院事務総裁後藤象二郎、参議板垣退助、参議江藤 新平、及び陸軍大将参議近衛都督西郷隆盛ら、 「尚武党」の参議が連れだって辞職を申し出るに 至る。このときの政府内のありさまを「朝野駭然 (がいぜん)、流転百出せり。」と竹越は表現し ている。

 これに対応して、大久保利通が本領を発揮する。 大久保は岩倉に進言して、西郷以下の不平分子 の辞職を許可することを勧めた。そして、
工部大輔伊藤博文・参議兼工部卿を兼任
海軍大輔勝安房・参議兼海軍卿を兼任
大隈重信参議・大蔵卿を兼任
大木喬任参議・司法卿を兼任
特命全権公使寺島宗則・参議兼外務卿を兼任
と、政府内を「平和党」で固めてしまった。 つまり、これまでは参議は内閣員の一つであり、 参議と各省の卿(長官)とは別職であったのを、 参議が各省の長官を兼ぬる端緒を開いたのだった。 以後、各省はもっぱら内閣に隷属するものとなった。 さらに大久保は薩摩の元藩主・島津久光を内閣顧問 に迎えるなど、西郷以下の「尚武党」の勢力を牽制 する布陣を敷いた。時に1873(明治6)年の12月の ことであった。

 なお、竹越は大久保利通の人物評を書き残している ので、それを転載しておく。伊藤博文に対しては 相当に辛辣だった ( 『明治維新の明暗(6)』 参照ください。)が、大久保には好意的な評価を与 えている。

 彼は維新の元勲中、最も政治家の風ある一人なり き。彼は西郷のごとき武人的胆力を有したり。然れ どもまた木戸のごとき実際的の頭脳をも有せり。 薩摩の武権が西郷によりて代表せらるるがごとく、 薩摩の文権は彼の一身に集まれり。 彼はその政策の上に於て西郷らと相違反するのみ ならず、その門下生、その一身の権勢、その地位、 その気質よりして西郷と抵反せり。

 その議論は必ずしも巧妙新奇ならず。然れども その識見は常に事物に徹底せり。而して一たび志 慮を定むるや、猛然としてこれを貫かずんば巳ま ず、彼はいわゆる「平凡の議論を有する非常の胆 略家」にして滔々たる維新の元勲中、最も実際的 の政治家にてありき。もしその欠点を求むれば、 その己に異なるものを包容するの量に乏しきの一 事にてありき。

 当時の社会は実にこの大胆にして実際に通じ、 沈黙して実行する専制家に支配せらるるの運命を 有せり。小国会の形体を具たる集議院なるものは、漸々下りて参事院のごときも のと変じ、その議決は一文半銭の価もなく、六年 六月左院に合併せられたり。左院なるものは実に 右院と相対して立法官たるべきものなりといえど も、概ね政府の代弁人を以て充たされたれは、明 治の初年に於て天下を震動せしめたる公議輿論の 声は、この時に方ってはその響音をも聞く能わず なりぬ。

 されば廟堂の上に於て征韓可否の論ある も、そはただ二、三人士政権争奪の争に止りて、 人民は依然として雲上の喧嘩を見るがごとくなりき。 かかる時こそ、大久保のごとき人物がその技倆を 逞うするの時なり。