2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(50)

自由民権運動(4)―民権運動前夜(1)


 自由民権が人民による革命の課題として、啓蟄 のように、社会の表面に忽然と姿を現すに至った背 景には、維新政府内の権力闘争の帰趨があった。 そのあらましを、『新日本史』を頼りに素描して みる。

 明治の国家権力の世界史的な大きな痼疾の一つ にアジアに対する態度 ― 欧米の帝国主義に倣っ た態度を挙げることができる。虎視眈々と日本を窺 う欧米諸国と対峙するための選択という意味では 近代世界史の枠内での苦渋の選択という面もあるが、 大きな過誤であったことに変わりはない。この痼疾 は自由民権の圧殺と同じメダルの裏表をなしている。 このメダルは「大東亜戦争」の敗北よってしか破砕 することができなかった。

 その過誤はまず朝鮮への外交姿勢 ― いわゆる 「征韓論」をめぐる権力闘争の中で醸成されてきた。

 1871(明治4)年7月、維新政府は太政官の官制を 改変している。この改革は強藩(薩長土肥)結合の勢 に乗じて、藩閥政治のさらなる確立を目指したもの である。しかし、その維新政府内部には二大党派が 生じていた。三叉竹越はそれを「尚武党」「平和党」 と呼んで、おおよそ次のように整理している。

尚武党
 尚武論者、国権論者、海外侵略論者であり、 維新の武力統一の余焔をもって武断国権主義を実 行すべしとするものたち。西郷隆盛、副島種臣、江藤 新平、板垣退助、後藤象二郎らがその代表である。

平和党
尚文論者、内治論者、平和論者であり、 維新の余儘を沈静して、まずは国民の実力を涵養 すべしとするものたち。岩倉具視、木戸孝允、 大久保利通、大隈重信らその代表である。

 この二派は事々に衝突を繰り返していたが、 岩倉・大久保二人の連携・協力が勝り、「尚武党」 はその力を伸張することが出来ないでいた。 しかし、「尚武党」の勢力が大伸張をみる一大機会が 出来した。政府要人の欧米歴訪と朝鮮事件がそれで ある。

 1971(明治4)年、右大臣岩倉具視を特命全権大使 として、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大 輔伊藤博文、外務少輔山口尚芳らが欧米各国を歴訪 した。外国の諸事情を直接視察するためであったが、 幕府以来各国と締結した不平等条約の改正の交渉に 先立ってあらかじめその意志を外国政府に告げるこ とがその大きな目的の一つであった。

 上記のように、この視察団は「平和党」の主要なメン バーのみで構成されていた。必然、留守政府は「尚武 党」のメンバーがその要所を担当することとなった。 期せずして「尚武党」がその持論を発揮すべき機会 を得たことになる。

 徳川幕府は朝鮮に対して、同等の地位に立った 外交を行ってきた。しかし、維新政府は朝鮮を 属国のようにみなして外交を始めた。維新の大勢 が決したとき、朝鮮に使を派遣して新政府の成立 を通知したが、その書面はあたかも属国に対する がごとくであり、朝鮮はその国書を拒絶した。 いまだ「攘夷的の頭脳ある人士」らがこれに飛び つき、「征韓の軍を起すべし」と論じたてた。 丸山作楽(元島原藩士)などは、ひそかに兵を挙げ て朝鮮を討たんとまでして事前に露見、獄に投ぜ られている。

 その後政府は朝鮮の漂流民を送り返すにあたって、 花房義質(よしもと)を派遣している。その折、花房 は修交の書を携えていった。しかし、朝鮮側は漂流 民を受けたが、修交の書は受け付けなかった。

 同じ時期に、琉球の漁民54人が台湾に漂着して 台湾人に残害されるという事件があった。維新政府は 修交通商条約締結のために清に駐在していた全権 大使外務卿副島種臣をして、台湾朝鮮の処分を請 求させたが、清側は「清の関係する所にあらず」と この要求を拒絶した。

 ここに於いてか征韓論は軍人の中に燃え上れり。 彼らは維新以来、脾肉の嘆ありて、文官の飛揚跋 扈するを憤れり。この時に乗じて事を起さずんば、 文官を圧するの時なしと為し、頻りに廟堂に迫れ り。

 廟堂の中に於てもこの時に方って外征の師 (いくさ)を起して国威を発揚するにあらずんば、 外は侮を禦ぐべからず、内は人心の遊惰を覚ます べからずとなすものあり。

 ここに於てか西郷隆盛、陸軍元帥兼近衛都督と して、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎、江藤新 平の徒と、大に征韓論を唱え、肥前の前きの参議 前原一誠、薩の軍人桐野利秋、篠原国幹らこれに 唱和し、内外煽揚せしかは、その威当るべからず。 ここに尚武党の世となりて、勝海舟、大隈重信、 大木喬任らの平和論者は、歩一歩、勢を失し、太 政大臣三条実美も勢これに屈して、廟論もはや一 決せんとする。



 このとき折しも、欧米歴訪団か帰国して、 「平和党」の巻き返しが行われる。

スポンサーサイト
『続・大日本帝国の痼疾』(49)

自由民権運動(3)―民権運動年表


 民権運動は明治維新の革命課題を人民 自身が担い推進しようとした一大革命運動だった。 時期としては、 民撰議院設立を要求した1874年から 実際に国会が開かれた1890年ごろまでを指している。 この運動の最大の目標は「国会の開設」という 参政権(政治的自由)を獲得することであったが、 「地租の軽減」と「条約改正」の実現も重要な目標 とされていた。

 まず年表で、その運動と関連事項のあらましを 見ておこう。

1874(明治7)年
 1月 民選議院設立建白書を政府に提出
 4月 板垣退助は,土佐で立志社を結成
 諸県で地租改正反対の農民騒擾

1875(明治8)年
 2月 大阪会議、愛国社の設立
 6月 讒謗律及び新聞条令(言論取り締まり)
 9月 出版条例改定

1876(明治9)年
 10月 神風連の乱 一日で鎮圧
   秋月の乱
   萩の乱
   思案橋事件
 11月 萩の乱鎮圧
 諸府県で農民騒動

1877(明治10)年
 2月 西南戦争
 6月 立志社、国会開設建白書を提出
 9月 西南戦争終わる

1878(明治11)年
 5月 大久保利通暗殺
 6月 竹橋騒動
 9月 愛国社再興大会

1879(明治12)年
 植木枝盛「民権自由論」

1880(明治13)年
 4月 愛国社大会、国会期成同盟と改称
 集会条例(集会・結社の自由を規制)

1881(明治14)年
 10月 国会設立(明治23年)の勅諭
 10月 自由党結成(総裁 板垣退助)
 民権結社の設立、憲法案起草活動、最も活発(~82)  官有物払い下げ問題批判で、新聞・雑誌の停刊処分 相次ぐ。

1882(明治15)年
 4月 板垣退助、岐阜で襲われる
    改進党結成(大隈重信)
    立憲帝政党結成(福地源一郎)
 11月 福島事件
 加藤弘之「民権新論」
 中江兆民訳・ルソー「民約訳解」

1883(明治16)年
 3月 高田事件
 4月 新聞紙条例改定(さらなる言論取り締まり)
 馬場辰猪「天賦人権論」
 植木枝盛「天賦人権弁」

1884(明治17)年
 5月  群馬事件
 9月  加波山事件
 10月 自由党解党
    秩父事件
 12月 名古屋事件
    飯田事件

1885(明治18)年
 11月 大阪事件
 12月 太政官制を廃し、内閣制度を採用

1886(明治19)年  6月 静岡事件
    公布雨宮製紙工場で女工スト(日本最初のスト)

1887(明治20)年
 5月 大同団結運動(民権派の反政府統一運動)
 10月 2府18県有志、三大事件(言論集会の自由・条約改正中止・地租軽減)建白提出
 12月 保安条例(反政府運動の弾圧法規)

1888(明治21)年
 4月 枢密院設置
 6月 高島炭坑事件
 11月 条約改正交渉開始(大隈重信)

1889(明治22)年
 2月 大日本帝国憲法発布
 9月 大阪天満紡績で賃上げ争議

1890(明治23)年
 1月 自由党再建(大井憲太郎、中江兆民)
 7月 第一回衆議院議員総選挙
 9月 旧自由党主流 立憲自由党結成
 11月 第一帝国議会、日比谷議事堂で開会

今日の話題

「ハイパー独裁体制」


 田中宇さんの「国際ニュース解説 世界はどう動 いているか」を配信していただいている。田中さんの 国際政治の分析を「陰謀説」というレッテルで貶める 向きのあるが、国際政治の深層を穿って正鵠を射てい る解説だと、私は評価している。

 前々回、「民主主義」の欺瞞性を取り上げたが、 田中さんが 「北京五輪チベット騒動の深層」 で、同じテーマを独自の観点から論じている部分が ある。それを抜粋しよう。
 国民にうまいことプロパガンダを信じさせた上 で行われている民主主義体制 は、独裁体制より効率の良い「ハイパー独裁体制」 (ハイパーは「高次元」の 意)である。独裁国の国民は、いやいやながら政 府に従っているが、ハイパー 独裁国の国民は、自発的に政府に協力する。その 結果「世界民主化」の結果で あるアメリカのイラク占領に象徴されるように、 独裁より悪い結果を生む。



 田中さんが「ハイパー独裁」と呼んでいる体制を、 唯物史観による「世界史」の観点からは 「ブルジョア独裁」=「ブルジョア民主 主義」と呼ぶ。

 もっとも根幹のところでその 「独裁」をほしいままにしているが、世界の経済を 牛耳っているロックフェラーやロスチャイルドを頂点 とする財閥たちである。ブッシュもその手の中で踊 っている。

 欧米や日本の人々は、中国人が共産党政権下の 歴史教育で洗脳されていると 思っている。だが、実際のところ、先に強い先進 国になった欧米が、後進の中 国やイスラム諸国などに対し、民主主義や人権、 環境などの問題で非難を行い、 あわよくば経済制裁や政権転覆をして、後進国の 安定や経済成長を阻害し、大 国化を防ぎ、欧米中心の世界体制を守ってきたのは 事実である。日本も戦前は、 欧米に対抗して大国になる努力を行った挙げ句、 第二次大戦を仕掛けられて潰 された(だから日本政府は欧米の謀略の怖さを肝 に銘じ、戦後は対米従属から 一歩も出たくない)。

 先に強くなった国が、後から強くなろうとする 国に対し、いろいろ理屈をつ けて蹴落とそうとするのは、弱肉強食の国際政治 としては、自然な行為である。 先に強くなった国は、国内政治手法も先に洗練で き、露骨な独裁制を早く卒業 し、巧妙なハイパー独裁制へとバージョンアップ できる。その後は、露骨な独 裁制しかできない後進国を「人権侵害」の名目で 経済制裁し、後進国の追随を 阻止できる。最近では「地球温暖化」を理由とし た経済活動の制限という、後 進国妨害戦略の新たな手法も編み出されている。

 このような国際政治の裏側を考えると、欧米がチベットでの人権侵害に関し て中国政府を非難することに対し、中国人が「また欧米が攻撃を仕掛けてきた」 と敵意を持つのは当然だ。



『続・大日本帝国の痼疾』(48)

自由民権運動(2)―維新政府の死屍累々の暗渠


これからの教科書:
(A)色川大吉『自由民権』(岩波新書)
(B)竹越与三郎『新日本史』(岩波文庫)
(C)江村栄一『自由民権運動とその思想』(岩波講座「日本歴史21」所収)


 自由民権についても私はほとんど何も知っては いなかったことを思い知らされている。まず、(A) の「序章」に打ちのめされた。それの紹介から始 めよう。

 色川さんは「激化事件」と呼び慣わされている 一連の事件を「抵抗権行使事件」と呼ぼうと提唱 している。権力の暴虐に対する真摯な抵抗を遂行 する人たちに「過激派」というレッテルを貼り、 「従順な良民」の世論誘導をするのが権力者の 常套手段であることは、改めて言うまでもないだ ろう。

 さて、抵抗権を行使した自由民権の闘士たち (色川さんは「農民戦士たち」と呼んでいる)が 「重罪人」としてどのような過酷な末路を強いら れたのか、私(たち)は多くを知らされていない。 色川さんはその闘士たちの墓を探しに北海道の 流刑地を訪ねている。
 晩秋の冷たい風が野分のように枯れ木立ちを鳴らし てゆくころ、さいはての集治監(しゅうちかん)跡の 囚人墓地は、渺茫たる熊笹の原にざわめいている。 私はその潮騒のような風の中に立ちつくす。 樺戸(かばと)や空知(からち)の監獄で命をおとした 農民戦士たちの墓をさがしあぐねてであった。

 明治政府は、暴虐な権力にたいして抵抗権を行 使した自由民権の「重罪人」を、人煙まれな域外 の地、北海道にどしどし流刑した。そして彼らに 重い鎖をつけ、千古の密林に道路を開かせ、ある いはまっくらな坑底に追いこんで多くの命をうば った。



 その流刑者の数は

秋田事件 3人
群馬事件 5人
加波山事件 9人
名古屋事件 12人
静岡事件 13人

これに秩父事件などの囚人をくわえると、 現在判明しているだけでも60名をこえる。 彼ら一般囚人と共に護送され、樺戸、空知、釧路の三つの集治藍と、網走 分監とに分置された。

 上記の事件については、いずれ詳しく調べる ことにする。以下、少々長い引用になるが、 私の胸をえぐった文章をそのまま転載する。


 樺戸に送られた群馬事件や秩父事件の囚人たち は、空知集治監との間を結ぶ樺戸-峰延(みねのぶ)通路 の開鑿工事に使役され、もっとも悪い状態におい こまれた。そこは石狩河畔の泥炭地帯で、九 尺もの竿が片手でさしこめるほどの沼地であった。 そのため両側に排水溝をつくって水をおとし、何万 本もの丸太をはこんで路上に敷き、心土をつめ砂 利を盛るという難工事をよぎなくされた。 秩父事件の農民戦士大野長四郎、柿崎義藤(よしふじ)、小 林造酒蔵(みきぞう)の三人がここで死んだ。そして 彼らの遺骸はどことも知れず埋めすてられた。

 網走分藍に送られた入びとにはいっそう悲惨な 運命が待っていた。1891年(明治24)、道庁長官 永山武四郎がロシアの脅威にそなえる軍用道路と しての網走道路開鑿の「年内完成」を厳命したか らである。

 北海道の中央をつらぬくこの幹線工事は、雪ど けの五月にはじまり厳冬の三月には早くも完成を 見たが、その経過は凄惨をきわめた。約千名の囚 人がツルハシとモッコで原始林にいどみ、一日平 均一キロの道を開かなくてはならなかった。その ため死の労働にたえかねて逃亡する者が続出した。

 だが、ほとんどの脱走者は密林のなかに迷い、 捕えられてリンチをうけ、みせしめのため鉄の鎖 をつけたまま湿地のなかに埋められた。後に道路 ぎわの土中から鎖をつけた人骨が出てきて、住民 をおびえさせた。今、そこは「鎖塚(くさりづか)」 とよばれている。この網走道路で死亡した囚人 の数は、じつに212名にのぼったという(小池喜孝 『鎖塚』)。

 群馬自由党の党員で内匠(たくみ)村戸長(こちょ う)の湯浅理兵(りひょう)は、極寒積雪の一月、雪 の曠野を石狩川沿いに逃走し、追いつめられて捕 縛された。このころ数百人の逃亡者が出たが、そ の二割近くの者が「抗拒(こうきょ)」を理由に斬 殺されている。その数のいちばん多かったのは空 知で、逃走354人、就縛173人のうち斬殺66人、樺 戸は逃走235人、就縛160人、斬殺32人、釧路は逃 走50人、就縛29人、斬殺21人だったという(供野 外吉『獄窓の自由民権者たち』)。

 静岡事件の湊(みなと)省太郎が在獄二年目に釧 路の集治監で淋しく息をひきとっていったとき、 空知の獄につながれていた同志の小池勇は、「此 冬湊病死ノ報ヲ聞キテ又断腸」と血を吐く想いを 記している。

 会津喜多方の六郡連合会議員原利八は、福島事 件で遊説委員として活躍し、農民から信頼をうけ た篤実の士であったが、病床から拘引され、ひど い拷問をうけたあと釈放された。その後彼は県令 三島通庸(みちつね)への復讐の鬼と化し、加波山 の蜂起に走った。そして無期徒刑の判決をうけ、 集治監に送られたが、1890年(明治23)、ついに 空知の雪の原で斃れた。

国をおもふ心のたけにくらぶれば
浅しとぞ恩ふ石狩の雪

 これは囚人墓地に埋められた39歳の原利八の遺 詠である。

 空知の獄では名古屋事件の青山伝次郎も佐藤金 次郎も三十代の若さで死んだ。それは先に福島の 大獄で、いずれも獄死した紺野谷五郎(たにごろう) や田母野(たもの)秀顕、山口守太郎ら自由党員の 霊につづくものであった。だが、彼らには救いが ある。彼らはみな誇りを持ち、後に自由民権の 「国士」として名誉を回復しているからである。 原利八にも加波山の五十川(いかがわ)元吉らにも 顕彰の立派な碑が昭和初年に献じられている。

 それに対して秩父事件の農民戦士たちはどうで あったろうか。彼らの名は民権烈士の名簿から除 かれ、その行動は天皇の国家からはもちろんのこ と、板垣退助が監修した正史『自由党史』からさ え、「金品を掠奪分配」した「不平の農民・博徒・ 猟夫の類」の「暴挙」として切りすてられてきた。

 「天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」と叫んで、刀 をふるって村じゅうを駈けあるいた秩父郡風布(ふうぶ) 村の大野苗吉(なえきち)や三沢村の関根嘉兵衛(かへえ)らは、 1884年(明治17)11月4日深夜の金屋(かなや 埼玉 県児玉町)の戦闘で東京鎮台第三大隊の官兵と激 戦をまじえ、二人とも戦死している。

 私が十年ほどまえ、嘉兵衛の孫伊三郎氏を訪ね て聞いた話では、金屋の円通寺の裏のごみ捨て場 の隅に遺体が埋めてあるのは知っていたのだが、 世間をはばかって改葬することができず大正年間、 ひそかに一塊の土を持ち帰って墓にしたというの であった。

 乙大隊の副大隊長大野苗吉らとともに勇戦して 死なず、さらに数百人の抜刀隊をひきい、山中谷 (さんちゅうやつ)をぬけて信州路にまで転戦をつ づけ、北八ヶ岳の野辺山原で鎮台兵に肩を射抜か れて捕縛された大野長四郎は、樺戸の獄に送監さ れ、1888年(明治21)に獄死しているのである。

 その長四郎はどこに埋められているのか。カパ ト(樺戸)の原野の熊笹のなかを探し歩いて、く ずれかけた数十の土まんじゅうをまえに立ちつく すしかない。こうした事例は藤林伸治氏らが探索し た秩父の山中や上州自由隊の故地には幾例もあるの である。

 それから数年後、北見のオホーツク民衆史講座 を源流とした〝民衆史掘り起し運動″が全道にひ ろがっていった。そして、ついに記念すべき日が きた。1974年10月26日、月形町役場に百七十余名 の市民、教員、研究者らがつどい、秩父事件九十 周年記念の北海道集会が開かれた。そして翌27日、 樺戸集治藍の囚人墓地に「自由民権殉難戦士慰霊 碑」が建てられ、合同慰霊祭が挙行された。秩父 からは遺族の柿崎義夫氏と新井健二郎氏が招かれ た。その日の北海道集会実行委員会の弔辞は次の 言葉で結ばれている。

「しかし、いま、明治政府がつくりあげたところ の、諸事件を『暴動』といい、諸士を『暴徒』と きめつける歴史の虚像はうちこわされました。諸 士は日本の民主主義運動の輝かしい先駆者として、 いま私ども民衆の中に復権したのであります。御 霊よ、安らかに眠りたまえ」

 祭壇には遺族によって掘り起された柿崎義藤(よし ふじ)と大野長四郎の〝土くれ″が祭られてあった。 二人の「暴徒」は90年ぶりに「自由の戦士」として 讃えられ、ふるさとの地秩父へと帰還したのである。

 板垣退助や河野広中らのように功成り名遂げ、 堂々たる銅像に祭られた人びとと違って、これら 埋もれた人びとを文字通り掘り起すところから、 1970年代の自由民権の研究と学習運動がすすんだ。 そしてそれが、秩父で、群馬で、武相で、信州で、 静岡で、愛知で、福島で、宮城で、岡山で、北海 道で、さまざまな学習運動や研究活動として展開 していった。その中から、「自由民権百年」の記 念行事をおこなおうという声がもりあがってきた のである。

あれ見やしやんせ
るーそーの
牢屋の内の憂き艱苦
これも誰ゆゑ自由ゆゑ

 百年前の先人たちが、人間のもちものの中でも っとも尊い「自由」というもののために、一身を 犠牲にして戦ったその恩恵に私たちはあずかって いる。自由はみずからの手でかちとるもの、人間 の尊厳の源泉のもの、失いやすいものゆえ不断に 大切にしなくてはならないもの、そうした教訓を 彼らは残した。

われに自由をあたへよ 然らずんば死を
自由ハ鮮血ヲ以テ買ハザルべカラズ

 アメリカ独立運動の闘士パトリック・ヘンリーの 言葉である。これらの名文句は当時の日本青年の 血を沸かした。

 「自由を我らに!」、言うはたやすい。だが、 一つの制限された不十分な「自由」ですら、 それを獲得するためには、われわれの先人は自由 民権期もその後も、るいるいたる屍を重ねねば ならなかったのである。



『続・大日本帝国の痼疾』(47)

自由民権運動(1)―なぜいま自由民権か


 人民の真の人間解放を阻害している元凶は「民 主主義」である。この欺瞞に満ちた制度をありが たがっている圧倒的多数の脳天気な「教科書民主 主義者」が支配―被支配を基軸とする社会構造を 支えている。流布されている言説の圧倒的多数も 「教科書民主主義」を根拠として立論されていて、 うんざりする。

(「教科書民主主義」については 「民主主義とは何か」  および 「選挙について」 をお読みください。)

 しかしそんな脳天気な論者ばかりではない。 「民主主義」の欺瞞性を見据えている論者も いる。最近であった言説三つ。

『民主制には、形式的には明らかに政治参加への 道が開かれているにもかかわらず、疎外感をも つ者が現れる奇妙な構造があります。民主制の中 で求められている代表者とは、人民の利益を普 遍的に代表するリーダーです。ところが現実の代 表者は必ず特殊な利害の代表者でしかないです ね。理念上は人民の理念を普遍的に代表しなけれ ばならないが、実際の代表者は常に特定の利害 を代表している。ここに不可避に乖離が生じます。 この乖離は、言わば、代表性に孚まれる必然的な 欺瞞です。』
(大澤真幸「代議制のパラドックス」)」

 「民主主義」の欺瞞が「必然的な欺瞞」だとし たら、その隘路を抜け出す方途が追求されなけれ ばならない。そのような方途は果たしてあるのか。

『代表民主主義の原則だけからいえば、すべての 成人男女に平等な選挙権が与えられ、選挙とその あとの代表者たちによる議決のやり方がいちおう ルールに合致しているかぎり、その決定はそれぞ れの時点で至上の権能をもつにいたります。何年 かに一度の選挙権が行使できる、ということとひ き換えに、選んだ代表の決定に参加した、という 名目が立てられ、だからその代表者がおこなう決 定には、多少の苦痛がともなう場合にも自分らの 責任なんだから仕方がない、といったギマン的な 理屈が立てられます。』
『「みずからが責任を負う苦痛は増えても仕方が ない」とわたしがいったのは、このようなバカげ た理屈を支持するためではおよそないのです。代 表民主主義と呼ばれるような制度が、歴史の進歩 を確保してゆくためには、選挙というおりおりの 行為の他に、その制度がもたらす、いわれのない 苦痛(内外への)を減らそうと決意して、その決 意のためにはみずから苦痛を負う覚悟の人々が、 少なからず出てこなければならないのです。』

(市井三郎「思想からみた明治維新」)」

 自らを省みて、自分が「その制度がもたらす、 いわれのない苦痛(内外への)を減らそうと決 意して、その決意のためにはみずから苦痛を負 う覚悟の人々」の一人ではないことに忸怩たる 思いを禁じ得ないが、せめて、そのようは人々 の勇気ある行動に対する大いなる支持と共感を 表白したい。その「覚悟の人々」の行動をこそ、 私は「非暴力直接行動」と呼んできた。

 2006/10/18(水)付けの「今日の話題」で書いたこ とを再録する。

 労働組合のストライキを初めとする各種の運動、 大衆が主体となって行う各種の市民運動、集会、 ライブ、デモ、座り込み、ハンガーストライキ…。 「日の丸・君が代の強制」に対する不起立も権力が 恐れている「非暴力直接行動」です。  「非暴力直接行動」を権力はひどく恐れる。 大日本帝国時代、労働運動はもとより、単なる言 論集会でさえ容赦なく弾圧された。権力者の恐怖 のほどがわかる。

 もちろん、よりソフトで巧妙になったとはいえ、 現在でも言論弾圧は行われている。一部のマスコミ を除いて、テレビ・大新聞などのマスゴミは自主 規制という全面屈服をしている。集会・デモに対 しても公安警察の監視やいやがらせも目につく。 あからさまな弾圧もある。ビラを配っただけで逮 捕とか、ごく普通のデモで逮捕された人もいる。

『今の日本ではすべて反動政策も軍事化路線も民 主主義の名によって推進されている。決して民意 を正しく反映しているとはいえない選挙によって も、いったん合法的に政権を握ったものはオール マイティであるかのようにふるまう。現在の民主 主義は事実として名目的多数派の専制の道具にな りさがっている。国民が主権者であるといっても、 それは四年に一度の選挙の時だけであって、翌日 からはまた無力な被治者に戻ってしまう。』
(色川大吉「自由民権」)

 色川さんは更に続けて言う。

 自由民権家たちが命を賭してたたかったのは、 こういう民主主義のためではなかった。もっと一 人一人の人民の意志が尊重される制度であり、徳 性の高い理想であった。

 そもそも民主主義の基本原理とは何であったの か。民権家たちはそれを人民による政治、つまり 代執行者たちによる人民のための政治ではない、 人民自身の参加による 人民のための政治だと考え た。それがあの情熱的な各地域での政治活動や国 会開設運動の嵐をよび起したのである。

 民権家たちは民主主義を単なる投票行動に限定 していない。政府(権力の保持者)は必ず悪を なすものだという哲学を持っていた彼らは、人民 によるたえざる監視と批判活動をこそ民主政治の 不可欠の条件だと考えていた。したがって、その 批判の条件は最大限に保障されていなくてはなら ない。 人民の言論、集会、出版の自由権や悪政府 にたいする弾劾権、抵抗権を保障していないよう な民主制は、みせかけの欺瞞であり、人民による 政治の原理に反する。

 自由民権の激化事件といわれているものは、そ うした信念を行動にあらわしたものであり、私は 正しくは 「抵抗権行使事件」 とよぶべきだと考える。自由民権運動は専制政府 の苛烈な弾圧とたたかって遂行されたものだけに、 現代の微温的な一括委任方式の民主制や形骸化さ れた管理民主主義に原理的な反省を迫る力をもつ。

 とくに秩父蜂起が提起した社会的平等やコミュ ーンの思想の問題は、現代民主主義と市民社会に 欠落している部分を照らしだす光を失ってい ない。秩父事件こそ自由民権運動全体を足元から 照らしだす光源であったばかりでなく、現代 の閉塞状況におかれた若者の心を刺し貫ぬく衝迫 力を持っている。

(中略)

 明治の民権家は、天皇制の独特な人民支配 の差別と疎外の構造を、その枠組を破ってト ータルに認識することに失敗した。このことは政 治的天皇制が廃棄された現在でも、まだ克服 されておらず、新たな内外人民への抑圧と差別の 現構造の中にひきつがれている。

 憲法問題や防衛問題はもちろんのこと、人権や 民主主義の原理の問題、土着的、人民的抵抗 の思想化の問題、脱亜入欧の問題、天皇制の問題 など、 自由民権運動の敗北のあと、幾度もの 歴史的な試練を経ながら未解決のままに残された ことがらはあまりにも多い。その意味でも自 由民権運動はまだ終ってはいない。「歴史」とし て完結しておらず、現代の私たちに切実な課 題としてひきつがれている。



 自由民権運動は終わっていない。それは 「沈静にあらずして潜伏なりき。」

《「真説・古代史」拾遺編》(16)

「万葉集巻三の第304歌」をめぐって(4)


 さらに古田さんは、万葉集そのものの真相に迫 っていく。( 『万葉集の中にも現れる九州王朝(1)』 と重複する部分を除いて紹介しますので、合わせてお読みください。)

 まず第一に、万葉集には「奥書」がない。 万葉集はだれがいつ編纂したのか。万葉集には 奥書がなく、不明である。続日本紀・日本書紀にも 万葉集編纂の記事がない。あれだけの大歌集なのに に載っていない。なぜなのか。かって万葉集の研究論文・ 解説はごまんとあるが、この問題を解明したものは 皆無だ。

 日本書紀が大和王朝公認の「正史」であり、日本 書紀とはたくさんの矛盾記事を記載している古事記 は在ってはならぬ検定不合格史書だった。 事実、「正史」である日本書紀・続日本紀に古事 記についての記載がない。天武天皇の業績として、 「古事記の稗田阿礼からの誦習を太安万呂に命じた」 というのは重要な文化的業績だ。だから、続日本 紀に「古事記を和銅5年に作った」という記事が 在ってしかるべきなのに、ない。

(詳しくは 「古事記」対「日本書紀」 をお読みください。)

 「正史」である日本書紀の要は大和王朝こそ古 来からの万世一系・唯一正統の王朝であるという偽装 にある。出雲王朝も九州王朝も関東王朝も、その他 ヤマト王朝以外のどんな王朝もあってはならぬも の。日本書紀はヤマト王朝以外の全ての王朝を 抹消することによって成り立っている。

 ローマ帝国はカルタゴを滅ぼした後、カルタゴの 都市を徹底的に破壊して全くの更地にして、その 痕跡を完全に抹消してしまったという。

 日本書紀は九州王朝の完全な抹消に成功していない。 古田さんの論究によって、九州王朝の史書からの 盗用部分でゾロゾロとほころびが出てきている。

 万葉集も古事記と同様、大和朝廷にとっては、 在ってはならないものだった。万葉集にも 日本書紀と矛盾する事柄がたくさん出てくる。 前回の「朝臣」以外にも、例えば、元号問題がある。 日本書紀は九州年号から大化、白雉、朱鳥の三つ の元号を盗用しているが、そのうちの朱鳥は元年 だけで終わったことになっている。ところが 万葉集の詞書には、巻一だけで朱鳥四年(31番)、朱鳥六年(44番)、 朱鳥七・八年(50番)などがある。
 さらに万葉集には、葬ったはずの「古事記」も 顔を出している。巻一の90番の詞書は次のようだ。
「古事記に曰はく、軽太子、軽太郎女に 姧(たは)けぬ。…」


 奈良時代の万葉って、断片し かないんじゃないですか。みんな平安時代じゃな いですか、万葉の古い筆跡のは。これは岩波の日 本古典文学大系なんかの解説を見れば出てきます が、宮中の女の人達が大事にして書き写していた ような物がね、万葉の一番古いもので出てくるよ うです。つまりこの場合は古事記と違う、古事記 はまったく宮中にはなかったみたいで、わずかに 何らかの関係で真福寺からひょっと姿を現わした んですが、万葉の方は、女の人とか宮中の裏側で 中味を愛する人達が歌ってきておった。それが平 安時代になったらだんだん表に出てきはじめた。 表ったって公式の場に出たんじゃないでしょうけ どね。

 ところが、あれ読めなかった。それを仙覚・契 沖・賀茂真淵・本居宣長、とみんな民間ですね。 彼等が読みはじめた。あれがはじめてオフィシャ ルになったのは明治になってからです。明治11年、 明治天皇がポケットマネーといっていいのか、 ご自分のお金を出して鹿持雅澄、土佐の高知の万 葉学者ですが、彼の万葉古義を印刷して公布させ た。12年たって明治23年世に現われた。そ こではじめてオフィシャルな天皇家公認という感 じになったんです。それまでは宮中の女の人とか 民間をもぐってきていた。ま、大雑把に言います とね。

 だから、あれを表に出してくると日本書紀・続 日本紀と矛盾するわけです。どっちがほんとうか というと、基本的には万葉集がほんとうですよ。 日本書紀は天皇家中心の正史という形で取り繕わ れたものですから、今の問題に関していえば人麿 が詠んでいるのがほんとうです。七世紀の終わり ごろには筑紫に天子がおり、朝廷は筑紫にあった と、そして有力な大王がわが持統天皇である、人 麿はそう詠んでいるわけです。あとを継ぐ人達も、 人麿の言葉を受けついで詠んでいる人が5人ばか りいた。しかしあんなものが公になったら困るわ けです。日本書紀と違う。日本書紀は大和しか朝 廷がないことになっている、それを筑紫まで朝廷 があってもらっちゃ困るわけですよ。だから万葉 集は日の目を見てもらっちゃ困る物だった。



 最後に、古田さんは万葉仮名について言及 されている。

 この筑紫万葉はいわゆる万葉仮名で書かれてい るんですよね。当たり前です万葉集ですから。で、 万葉仮名という言葉、じつは具合悪いんだと中小 路さんからさんざん聞かされましたが、まあ理屈 を言えば、というか学問的にはそうなんですね。 古事記・日本書紀だって万葉仮名で書いてあるん だし、たんなる表音でないものもあるし、それか らまた、元をなす漢字を表音に使うというのは中 国にもあったと、別に日本で発明されたものじゃ ないとかね、いろいろあるんですよ。そういう問 題は当然学問的にありますけど、今大雑把な、 もっと大事な基本問題を言いますよ。

 今かりに万葉仮名と言わしてもらいますよね、 万葉集の大部分を占めている表音のやり方をね。 あれは大和で独創されたものじゃない。この 「古集」、つまり筑紫万葉がすでに万葉仮名で 書かれている。その万葉仮名を大和は真似して 使ったんだ。そうなりません?

 これ言語学の大問題じゃないですか。そう言語 学者今までみなさんに語ってきました? 言って ないでしょう。はじめから、万葉と言ったら、大 和中心と決まっている、っていう顔してなかった ですか。私も高校の国語教師をしていた時、そう いう受け売りでしゃべった覚え、ありますけどね、 とんでもないことですね。

 で、この点は、今日も来ていらっしゃると思い ますが、渋谷さんという方がいらっしゃいまして、 新宿の朝日カルチャーで月に二回、火曜日一時か らやっているんですが、そこで出てきていらっし ゃる渋谷さんがすごい発言をされたんです。済ん だ後の喫茶店でね。どういうことかと言うと、 「万葉仮名は九州王朝で作られて使われていたも のだと思います」いきなりおっしゃったのでびっ くりしたわけです。「なぜかと言えば、あれはむ ずかしい字を一杯使っているから庶民の使ったも のではなくてインテリの使い慣れたものだと思い ます」なるほどそうですね。しかも一つの音に対 していろんな、めんどくさい漢字が当てられてい ますよね。「だから一人じゃなくて複数多数のイン テリ学者が使ってたものだと思います」と、 「そうするとその複数多数の者が使うとなれば、 当然そこには権力者が中心にそれをリードしたっ ていうか命じたとかいうような話になると思いま す」。実際は命じたんではなくてもね、何天皇の 思し召しによってこういう仮名が作られた、と正史 には書くじゃないですか。「そういうことになる と思いますが、日本書紀・続日本紀を見てもまっ たく書いてありません」とね。だれ天皇の時に 万葉仮名を作らしたとか使わせたとかいう記事な いですよね。「ということは、近畿天皇家で最初 に作られたり使われたりしたものではないとこう 考えざるを得ません。そうすると近畿天皇家より 前にすでにそういうことがおこなわれていたとな れば、古田さんのいう九州王朝でおこなわれてい たと考える他ないでしょう、中国・朝鮮と近い し」。これだけの簡単なことをおっしゃった。 ちょっと、ドキッとしてうなりましたね。

実証的に「古集」筑紫万葉は、すでに万葉仮名で 書かれている。こちらが本家ですよ。 われわれが知っ ている「新集」大和万葉は、これを模倣したにす ぎない、すぎないって言っちゃ悪いですが、模倣 者であると。

 万葉集は日本書紀と矛盾する。倶に天を戴くこ とができない、そういう性格をだれも指摘しな かったですね。国学が指摘しないのは当然としま しても、明治以後の学者も指摘しないままで、 みなさんに提供してきていた。私もそれで万葉集 をみておった。こわいですね。ということで、 万葉集に関しておもしろい問題がいろいろ出て きて今夢中なんですけども、時間がきましたの でこれで一応終わらせていただきます。



《「真説・古代史」拾遺編》(15)

「万葉集巻三の第304歌」をめぐって(3)


 従来の解釈ではなんとも間の抜けたような歌が、 古田さんの解読によって、見事は傑作に変貌した。 古田さんは「人麿の歌の中でも最高級のレベル の歌ではないか。堂々たる歌ではないか。」と評価 している。そして古田さんはさらに、人麿がこの歌 に秘めたメッセージの深層にまで掘り進んでいく。

 人麿は「大王の遠の朝廷」の地の光栄を想い、 いにしえの神代のことを偲んでいる、これがこの 歌の表面から読み取れるテーマだが、実はほんと うの第二のテーマがあると言う。

 この歌が詠まれた頃、筑紫はどのような 状況にあったか。倭国は662年(日本書紀では663年) 白村江の戦いで唐・新羅軍に決定的な敗北を喫して いる。その敗戦の後、 筑紫には占領軍が駐屯していた。唐の部将・ 郭務悰が繰り返しやって来ている。そういう 状況にあった。(次の記事を参照してください。)

「白村江の戦(1)」
「白村江の戦(2)」
「白村江の戦(3)」
「白村江の戦(4)」
「ヤマト王朝の成立」

を参照してください。


 人麿が今入ろうとしている筑紫は、そういう筑 紫であるということを人麿はよく知っているわけ です。その輝やかかりし神代よ、と歌ってるわけ なのです。その歌を聞いた筑紫の人は10人が10人、 100人が100人みんな現在の筑紫、汚辱にまみれた、 敗戦と占領の中で屈辱にまみれた筑紫のことを思 ったに相違ない。またそれを思うことを予想した 歌である。つまり、真のメッセージはその第二の 点にあるであろう、というのが私の理解なのです。

 考えてみると、こういう理解ができるというのは、私達というのは非常に“恵ま れた”世代なんですね。なぜかというと、私の青 年時代が正にそうだったのです。マッカーサーが 降り立って、かつての大日本帝国の天皇はマッカ ーサーの所にお伺いを立てに向かわなきゃいけな いなんてね、もう驚天動地の光景でしたけど。東 京には浮浪児とか春を売る女性とかが満ちあふれ ていたんですね。その中を青年時代の私はうろつ いたんですけどね。それは原体験みたいなもんで す、青春の。そういう私だから、今の情景という のは、説明されなくても、非常によくわかる。そ ういう歌です。



 次に古田さんは柿本朝臣人麿の「朝臣」を取り 上げる。

 人麿を「朝臣」に任命したのは誰だろうか。日 本書紀には柿本人麿という人物はまったく登場し ない。だからもちろん、人麿が朝臣に任命された 記事もない。  この問題は人麿だけではない。万葉集巻一 の「近江大津宮御宇天皇代」の最初の歌(16番 )の詞書は「天皇内大臣藤原朝臣に詔して……」と 始まる。そして、藤原朝臣は鎌足だと注釈してい る。ところが日本書には、藤原鎌足が朝臣に任命 されたという記事もまったくない。

 人麿ぐらいなら省略された とかまた罪人にしたから書かなかったで済ませら れるけど、鎌足を省略したなんて、罪人にもなっ てませんしね、そんなことは考えられないでしょ う。だから人麿朝臣問題だけを取り出したらだめ なんで、万葉集という全体の史料の中の一部分で すからね、いくらたくさん何回も出てきても、鎌 足朝臣と同じレベルで考えなければいけないわけ です。そうすると、鎌足は朝臣に任命されなかっ たのか、されたのか。されたのならなぜ日本書紀 はそれを書かないのか、鎌足まで省略を及ぼすこと はおかしいじゃないか、とこういうことになりま すね。

 もう一つの考え方、八世紀になって朝臣という 名前を鎌足につけてあげた、つまり朝臣という名 前は、鎌足当時の名前じゃなくて八世紀以後の名 前でしょう、とこういう解釈もあるんですね。と ころがその場合、朝臣という官職名はご存知でも ありましょうが、天武天皇13年「八色の姓」制 定の記事がある。これのナンバー・ツウが朝臣な んです。ナンバー・ワンは真人なんです。そうす るとおかしなことが出てくるんですよ。人麿の朝 臣は天武13年以後の朝臣と考えてまあ何とかい けそうです。朝臣は同じ朝臣で扱わなければいけ ないということになってくると、鎌足朝臣も同じ 朝臣。鎌足というのは天武13年より前に死んで います。天智8年に死んでいます。だから天武朝 は墓の下にいるわけです。それだのになんで八色 の姓の第二位の朝臣をもらうことができるか、こ れは無理ですね。だから人麿朝臣も鎌足朝臣と 同じレベルで問題になってくる。人麿は八色の姓 の朝臣でしょうという形じゃすまされない。

 それからもっとおかしなことがあるんですよ、 天武天皇というのは、あの天皇、真人ですよ。 「天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと) 天皇」と、「真人」がちゃんとついている。これ じゃ「真人」が真人を任命するって、これ、何か わけわかります?

 私には意味不明ですがね。これ従来、意味不明 といわないのがおかしいんです。  ということで、とにかく八幡の藪知らずという か、矛盾続出です。



ちなみに、八色の姓は上位から書くと
真人(まひと)
朝臣(あそみ・あそん)
宿禰(すくね)
忌寸(いみき)
道師(みちのし) 臣(おみ)
連(むらじ) 稲置(いなぎ)
である。時代は下るが、允恭天皇の和風諡 は「雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくこ のすくね)」である。

ヤマト一元主義では上記の不審は説明でき ない。かってこの不審を解いたものはいなかった。

 その不審を人麿の歌が説いている。人麿が詠っ ているとおり、七世紀の終わ りごろには朝廷は筑紫にあり、天子は筑紫にいた。 そして、ヤマト王権の王は近畿地方の有力な大王 でしかなかった。古今東西、人臣の位は天子が授 けるものである。

《「真説・古代史」拾遺編》(14)

「万葉集巻三の第304歌」をめぐって(2)


② 「あり通ふ」

 (A)、(B)ともに、「常に人々(あるいは船)が往来 する」と解している。手元の古語辞典でも「通い続 ける」(岩波「明解古語辞典」)、「しげしげと通う 」(三省堂「全訳読解古語辞典」)とあり、接頭語 「あり」を「継続」の意としている。これに対し て古田さんは次のように述べている。
「ありがよふ」っていうのは万葉のほとんどの例 では、大道がまっすぐ通っているという用法なん ですね。たとえば孝徳天皇が難波の宮に毎朝ここ をお通りになるというのを「ありがよふ」という 表現の歌が出てきますが、これも“山道をぐるぐ る回って”というのではなくて、“大道が通って いていつもそこを通っていかれる”という、これ はまあ一つは権力者のコマーシャルでもあるんで しょうけど、それを「ありがよふ」とたたえて歌 っているわけです。「ありがよふ」というのはそ ういう感じの用法が本来なんです。これも家持な んかは違った用法にしますけどね。



  辞書や万葉集の解説にない「あり通ふ」の古田 解釈が正しいのかどうか、私にはそれを判断をする 知識がないが、古田さんが挙げている「孝徳天皇が…」 の歌を探してみた。たぶん次の歌だろう。

やすみしし 我が大君の  あり通ふ  難波の宮は  鯨魚(いさな)取り海片付(かたづ)きて 玉拾ふ  浜辺を清み…(萬葉集 巻六 1063)

反歌
あり通ふ 難波の宮は海近み海人娘子(あまおとめ)ら が乗れる舟見ゆ(萬葉集 巻六 1064)


 これは新都(難波の宮)を祝う歌とされている。 従って「大君」は難波に遷都した孝徳天皇。

 この歌を読むと、特に反歌の方は確かに「いつも 通っている」より「まっすぐに大道が通っている」 という意味合いの方が「舟見ゆ」にぴったりで、 歌の意味が鮮明である。以下、「あり通ふ」は 古田説をとって論を進める。

「島門」はどこか

 (A)は瀬戸内海のどこを「島門」としているのか 曖昧である。一応瀬戸内海説で挙げられているのは
(1)明石海峡
(2)吉備の児島(岡山県)の近辺
(3)関門海峡
である。(B)は(3)説を採っている。

 そのほかに、
(4)遠賀川の河口のところに島門とい う地名があるので、そこを「島門」とする説も ある。

 また、ゴンベイさんは
(5)沖ノ島と小屋島の間が「島門」
ではないかと、推定している。

 「島門」の比定は、次のキーワード「神代」と 密接に関わっているので、それと一緒に考えなけ ればならない。そのさい、人麿は今「筑紫国(太宰府) へ下っている」という点を常に念頭に置かなければ ならない。

「神代」とはいつのことかどこか


太宰府近辺の遺跡
(『古代史の未来』より転載)

太宰府近辺の遺跡



 (A)は「朝廷」を誤解釈しているので「島門」を 太宰府とは関係のない(「あり通ふ」はずもない) 瀬戸内海に比定している。そして「神代」を 「国土創成の頃」といっているので、逆に「島門」 を(1)か(2)に想定していることが分かる。「島門」 も「神代」も太宰府とは関係なく、歌の意味はとぼ けたものとなり、無理な解釈である。

 (B)は、たぶん、ご当地びいきで「島門」として 関門海峡を選んだ。しかしそれではうまい「神代」 がみつからない。見つけ出したのは「神功皇后と穴門 の伝説」なのだが、これを「神代」と強弁するのは 誰がみったってダメだろう。またなによりも関門海峡 では太宰府と「あり通」わない。

 「島門」を(4)とするのも太宰府には近いけれど、 「あり通」わないし「神代」がぼけてしまう。

 (5)は神話の世界圏で「神代」を偲ぶにはふさわし いが、太宰府からはあまりに遠い。太宰府への航路は 沖ノ島を通らないだろう。やはり太宰府 には「あり通」わない。

 では古田さんはこの問題をどのように解いている だろうか。古田説を聞いてみよう。

 ここで島門といっているのは、海路 で筑紫国へ下ると言っているんですから、当然志 賀島と能古島の間を通って那の津へ着くわけです よ。そうすると、右手に能古島、左手に志賀島と いうね、志賀島は今は島じゃないですが、昔は島 だったわけで、まあ島といって差し支えないと思 います。それが西側と東側にある。それを人麿は 島門とよんだのではないか。

 この解釈のいいところは「大王の遠の朝廷」こ れは太宰府ですね。としますと、他の所じゃ太 宰府へすっと通っているというわけにはいきませ んわね。明石海峡はもちろん、一番近い字地名の 島門にしましてもね。すっと太宰府に通っている というわけにはいきません。ところが、能古島と 志賀島の間へ来たらもう目の前は太宰府だけとい う感じじゃないですか。だから「大王の遠の朝廷 とあり通ふ」。

 しかも一番いいのは「神代し思ほゆ」と結ばれ ているわけです。ところが今までのだと、明石海 峡でどんな神を考えるのか、吉備の児島でどんな 神を考えるのか、関門海峡でどんな神を考えるの か、そして字地名島門でどんな神を考えるのか、 ま、神を考えるくらい空想だから勝手だと言われ ればおしまいですけどね、だから“神の好きな人 だなあ”という感じがしてたんです。ところが今 回は違うんですね。

 つまり、博多湾岸の入口に来た船が目の前に、 博多湾岸、右手に能古島、オノコロ島の原型かと 私が考えていた所、さらにその右手には高祖山連 峰、筑紫の日向の高千穂のくしふる峯、そして天 照、須佐之男、月読が伊邪那伎から生まれたとい う、そこが博多湾岸の西半分のところでしょう。 能古島の先っちょの向かいですわね。そういう神 話の世界の所がざっーと目の前に現われるわけで すよ。そしたら「神代し思ほゆ」というのは古事 記・日本書紀の神代の巻の神話を思ほゆっていう、 そういう感じになるわけですね。だから神を思う っていうのが非常にふさわしいわけですね。 ということで私はこの理解が正しいのではないか と、さっそく中小路さんにお電話しまし てね。「これは中小路・古田説として言わせても らいます」ということを申し上げたわけでござい ます。



《「真説・古代史」拾遺編》(13)

「万葉集巻三の第304歌」をめぐって(1)


 ゴンベイさん、コメントありがとうございました。 管理者あてのコメントの方でのご指摘のこと、 不備を訂正しました。ときどきヘマをやります。 お気づきのこと、これからも教えてください。

 公開コメントは次のようでした。
柿本人麻呂の歌

万葉集に柿本人麻呂が志賀島を歌ったものに、

大君の遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば神代し思ほゆ


というのがあるそうです。(「志賀島 - Wikipedia」より)

ただ、「島門」というのが「御門柱」だとすると、 沖津宮のある「沖ノ島」「小屋島」を訪ねた時の 歌ということになりますが。



 人麿のこの歌については 『万葉集の中にも現れる九州王朝(3)』 で取り上げたのですが、そのときは「大君の遠の朝 廷」の解読だけで終わっていました。以来、そのあ との語句の解読が気にかかっていましたが、もとより 私にはその力量はありませんから、古田さんの解読を 期待するばかりでした。折しも、古田さんの講演録 『筑紫朝廷と近畿大王』(以下、「講演録」と呼びま す。)のなかにそれが取り上げられ ているのを知りました。それをいつか紹介しようと 考えていたところ、タイミングよく、ゴンベイさん のコメントによって、その機会がつかめました。 以下は、『万葉集の中にも現れる九州王朝(3)』の 補充編ということにまります。


 本題に入ろう。まずあらためてくだんの歌と 岩波古典文学大系の頭注を再録する。

柿本朝臣人麿、筑紫国に下りし時、海路にて作る 歌二首

(303)
名くはしき稲見(いなみ)の海の沖つ波
千重に隠(かく)りぬ大和島根は

(304)
大王の遠(とほ)の朝廷(みかど)とあり通ふ
島門(しまと)を見れば神代(かみよ)し思(おも)ほゆ


(A)岩波古典文学大系の解釈

「大君の遠の朝廷」
 都から遠く離れた所の役所。ここでは九州の役所 を指す。

「あり通ふ」
 常に往来する。

「島門」
 島と島との間、島と陸との間の瀬戸。

「神代」
 神々の活動した時代。

「し」
強めの助詞。

〔大意〕
『都から遠く離れた朝廷であるとして、人々が常に 往来する瀬戸内海の島門を見ると、この島々の生み 出された神代の国土創成の頃のことが思われること である。』



 北九州市のホームページがこの歌を取り上げて、 それを次のように解釈をしている。

(B)北九州市のホームページの解釈

大和朝廷の九州の役所である太宰府に通じる門 司関と赤間関、その間の海峡を往来する人と船の 何と多いことか。そのにぎわいぶりを目にすると、 昔のことがしのばれることよ。

人麻呂は、おそらく「神功皇后と穴門の伝説」 を”所思”したのでしょう。


(以下、引用文は講演録より。)

「大君の遠の朝廷」 について

 (B)は(A)の「定説」にしたがったのだ ろう。しかし、これがとんでもない「定説」である ことは『万葉集の中にも現れる九州王朝(3)』で論 証済みだが、講演録から補充する。

 大王(おほきみ)とはだれか。人麿の歌はおおか たは持統天皇の年代に集中している。大王とは持統 を指している。あるいはせいぜい天武。

 朝廷というのは天子のいる所しか言わない。 大和は大王のいる所だから朝廷ではない。 人麿は太宰府を朝廷と呼んでいる。人麿はそこを 天子のいる所とみていることになる。ヤマト王権一 元主義の呪縛から自由なものにとっては当たり前 の解釈なのに、学者たちは「朝廷=地方の役所」 と称して済ましてきている。

 筑紫(太宰府)に天子がいた証拠の一つ。 太宰府の都府樓跡の右奥になる所が字紫宸殿と いう字がある。でも、地名が証拠になるのか。

 私の家があります京都の向日市に字 大極殿というのがありまして、ごんぼがよくでき るという畑だったんです。それが幻の長岡京が発 掘されてみると、そこが大極殿だった。だから八 世紀から二〇世紀まで、大極殿と土地の人が呼ん できておったのが大極殿だった、と。当たり前の 話ですね。お百姓さんが思いついて自分の畑に大 極殿という名をつけてみたってだれも採用してく れるはずないです。その地域の共同の常識として 皆がうなずいているから大極殿と言い続けてきて いるわけですね。八世紀から二〇世紀までその地 名は連続しているわけです。和名抄とかにはぜんぜ ん出てませんけどね、そんな地名は。しかし連続 している。すごいですね。やっぱり地名はいかに 大事かということを感じますがね。

 それと同じようにね、太宰府の奥に紫宸殿があ るんです。あんなものだれかがすっとんきょうに ね、私の畑を紫宸殿と言う、なんて宣言したって バカにされるだけです。紫宸殿があったから紫宸 殿。一番簡単ですね。



 そもそも太宰府って何だ。太宰府というのは、 「太宰」(総理大臣)がいるところ、つまり総理府。 太宰府というのは当然天子のいる場所と同じはずだ。

 太宰府というのは中国の言葉ですが、洛陽に天子 がいる時は太宰府も洛陽にあるわけです。そして南 朝で、建康、今の南京ですね、そこに南朝の天子が いる時に太宰府はその同じ場所にあったわけです。 これは宋書なんかをみるとはっきり出てきます。 太宰府という言葉は何回も出てきます。太宰も出て きますがね。天子と太宰府は同じまちにいる、と。 これは当たり前すぎる話なんですね。

 そう考えてみると、紫宸殿と太宰府とが同じよ うな場所にある、これはもう当たり前の話なんで すね。こういうふうにみてきますと、日出ずる所 の天子、多利思北孤、これは「阿蘇山あり。」と 隋書に書いてある。これはやはり九州の天子である。 近畿天皇家の推古天皇や聖徳太子ではないと、私 は20年来言い続けてきて、『失われた九州王朝』 でもそれを述べてきましたが、それと同じことを 柿本人麿が歌で使っている。その歌は、みんなが よく知っているのに、そのように今まで考えてこ なかった。



今日の話題

「オリンピック」そのものに反対だ!!


 中国のチベット弾圧問題がオリンピックがらみで 連日マスコミをにぎわしている。チベット弾圧に対 する抗議として様々な国で聖火リレーの妨害が続い ている。もちろん、その抗議行動を無効と思わない し、それに非をならすつもりはない。しかし、 オリンピックそのものに反対すべきではないのか。 そしてさらに、人の耳目をそば立たせる大事件にと びつくのではなく、それ以前にそれぞれが属する 国家の人民虐殺(特に戦争による虐殺)や政治弾圧や 人権弾圧に抗議する方が大事だろう、という思いを 禁じ得ない。今日も今日とてこの国で は、単なる「反戦ビラ配り」に対して最高裁が率先 して人民弾圧の見本を示している。ドキュメンタリ ー映画「靖國」への陰湿な弾圧、「君が代・日の丸 の強制」をめぐる弾圧など、またたくまに全国的に 広がってしまう。このような政治弾圧・人権弾圧は 枚挙にいとまない。そして、それに対する人民側の 闘いはかぼそく弱い。大事件への抗議ではなく、各 国における自由と人間解放を求める日常的で広範な 運動こそが、真の国際的な連帯をかたちづくる、と 私は思う。

 北京オリンピックをめぐっての騒動の中で特に、 各国の為政者 (大統領・首相など)が開会式への参加を拒否する などと言っているのは、目くそ鼻くそじ ゃないかと思う。いったい今、 人民虐殺や政治弾圧や人権弾圧のない国家なんてあ るのかい?今さらオリンピックに政治を持ち込むな だって?オリンピックはとうの昔から偏頗なナショ ナリズムを煽る政治的プロパガンダに成り下がって いる。さらに今中国が「オリンピック成功」のため に行っている人民弾圧・弱者切り捨ても今に始まっ たことではない。その象徴的なものとして、私はメ キシコオリンピックを思い出す。

 オリンピックについては、ずいぶん以前のことだが 『Kさんへの批判・反論(8)』 で取り上げた。そのときメキシコオリンピックでの トミー・スミスとジョン・カルロスによる「黒手袋の 抗議」について書いたが、そのメキシコオリンピック開会式 の10日前に、メキシコ政府によって「トラテロルコ 事件」と呼ばれる大虐殺が行われていた。 昨日(11日)の東京新聞夕刊に、北條ゆかり (摂南大学教授、ラテンアメリカ近現代史専攻) さんが「トラテロルコとチベット 対話を拓く道」 という文を寄せている。その中から「トラテロル コ事件」に関する部分を引用する。 ちなみに、 北条さんはエレナ・ポニアトウスカ著『トラテロルコ の夜 メキシコの1968』の翻訳者です。

 オリンピック開催を前に一国の政府に対して生 じた国内の抗議運動が、凄惨な暴力によって弾圧 された。1968年10月2日、メキシコ。1万人近い老 若男女が、首都メキシコシティのトラテロルコ 地区にある三文化広場に集結し、政府との公開対 話を求める学生組織の弁士に耳を傾けていた。制 度的革命党(PRI)の長期独裁と腐敗した官僚 体制に対する民主化への切望や、管理・統制が生 活に浸透していくことへの不満などが、彼らを動 かしていたのだ。

 だが軍や警察、機動隊が広場へ部隊を大々的に 展開しだしたため、リーダーの一人が予定してい たデモの中止と集会の解散を告げたその時。 ヘリコプターの落とした信号弾が炸裂するのと同 時に、最初の発砲音がこだました。その瞬間から 広場は地獄と化した。

 軍は何千人という若い男女を取り押さえ、二千 人が投獄された。無差別の武力攻撃による死者は 三百名を超すとされるが、報道機関の公式数値 は四十三名。新聞各紙には有無を言わせぬ命令が 下った。「これ以上の報道は無用」と。

 68年は世界各地で若者の不満が爆発したが、こ れほどの虐殺に見舞われた例はない。この国が第 三世界の一国として初めてオリンピック開催地に 選ばれ、着々と建設工事が進んでいた裏には、貧 しい裸足の人びと、栄養失調で腹の膨れた子ども が溢れ、これまでもこれからも忘れられた人びと にとって敵対的な社会とそれを分断する階級間の 深い溝があり、そしてどんな見せかけでも取り繕 う政府の残忍さが歴然と横たわっていたのだ。

 政治腐敗を隠蔽するPRI体制は、この事件後も 完璧なまでに堅持された。人権擁護と民主化のた め闘い続けてきた人びとが今では世界からの支援 と連帯するようになったものの、メキシコの民主 化はいま未だ途上にある。



今日の話題

三度、「君が代」について


 たまってしまった未読本の読書と、 かねてから一度通読しておきたいと思っていた 古田私学会報 に目を通しているうちに、一週間も更新を怠ってしまった。 しかし、この一週間に新たな知見をたくさん得た。 少しずつ紹介していこうと思う。

 まず、今まで二度取り上げてきた「君が代」の意 味について、目から鱗の知見を得たのでそれを紹介し たい。次の記事の続編あるいは補充編に当たる。

『高校生へのメッセージ「日の丸・君が代をめぐって」』

『「君が代」は九州王朝の賛歌』

 「君が代」の歌詞を初めて知ったとき、ほとんどの 人は「意味不明」とか「ばかばかしい」とか思うだろう。 それは「さざれいしのいわおとなりて」というくだりの せいである。長い年月のうちに巌(いわお)が細石 (さざれいし)となるのなら分かるが、細石が巌に なるなんてありえない、と思うのがまともな判断 だ。もちろんこれは科学的な知識と科学的な思考 方法を身につけた現代人の見解であり、古代人の 知る所ではない。しかし今、国家権力が小学校生 から高校生までに「君が代」斉唱を強制している が、先生たちはこれをどう説明しているのだろう か。

 数年前、出雲大社を訪ねたとき、境内への 入り口の脇に小石を固めた大きな固まりが鎮座して いるのを見た。その固まりのことを「細石」と 呼ぶらしい。どなたかが寄贈したものだろう。 靖国神社にもあるらしい。ウィキペディアによる と、石灰岩が雨水で溶解し、その溶解した石灰質の 作用によって小石がコンクリート状に凝結して固ま っもので、「石灰質角れき岩」とよばれるという。 つまり、寄贈者はあの歌詞が科学的に理にかなって いると「君が代」を意味的に擁護したいらしい。

 しかし「君が代」の歌詞は科学的だったと喜んでいる人 たちには申し訳ないけど、出雲大社のそれはどう見 ても小石の固まりであって巌ではなかった。それに 「君が代」と呼ばれている賀歌が創られた時代と場 所を考慮しなければ成るまい。詩に詠み込まれた事 柄が、その時代のその地域の民衆の常識的な感性や 知識にかなっていなければ、「詠み人知らず」の歌 は、はやり歌のように流布しないだろうし、伝承も されないだろう。その賀歌が創られたのが、出雲で あるにしろ博多であるにしろ奈良盆地であるにしろ、 その時代のその地域の民衆は(あるいは作者は)「石灰質角れき岩」を知っていた だろうか。「石灰質角れき岩」の主要産地は滋賀県 ・岐阜県境の伊吹山だという。

 やはり、「細石」が「巌」になるのは、現代人 にとってはバカバカしくとも、古代人には想像可能 の事柄だったと解するほかないだろう、と考えてい たところ、「さざれいしのいわおとなりて」がちっと もおかしな歌詞ではない、と現代人としても納得で きる解読に出会った。『「日の丸」と「君が代」の 歴史と自然認識について』という古田さんの講演録 である。以下、その講演録から「君が代」の 歌詞の意味分析部分の要点を記す。

 まず「君が代」の歌詞は、福岡県の福岡市と 前原市、すなわち「博多湾岸とその周辺」の中の 地名・神社名・祭神名から成り立っていることを 確認しておこう。(『「君が代」は九州王朝の賛歌』 から)

「千代」―福岡市福岡県庁付近(千代町。海岸部は「千代の松原」)
「さざれ石」―前原市細石神社(三雲遺跡の裏)
「いわほ」―前原市井原(いわら)遺跡(三雲遺跡とならんで著名)
「苔のむすまで」―苔牟須売神(こけむすめのかみ。志摩町、桜谷神社の祭神)


 さて、上記講演録で古田さんは、 志賀海神社(福岡県志賀島)の"山ほめ祭り"と呼ば れている祭儀を再現しながら、 その歌詞の一語一語について丹念にその意味を解 説している。

椅子に座る宮司の眼前で、村人たち(祢宜<ねぎ> 等集団)が "ドラマ"(各自の"せりふ"が定められて いる) をくりひろげる。その最終場面。

祢宜二良(弓を執り、荘重な口調でのべる)
「君が代は千代に八千代にさざれいしのいわおと なりてこけのむすまで」
「あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや」

別当一良
「志賀の浜長きを見れば幾世経(へ)ぬらん」
「香椎路に向いたるあの吹上(あげ)の浜千代に八 千代まで」

「あれはやあれこそは阿曇(あづみ)の君のめし たまう御船になりけるよ」


さて、まずは「君が代」 の意味。

 すなわち"七日七夜のおん祭り"に果してお出で なさるか、と心配していた"我君"が、こちらから お迎えに出した船にお乗り下さって、香椎路につ づく対岸の"千代"(現在、福岡県庁所在地近辺の 地名)からお出で下さっている、と喜んでいるの だ。"筑紫の君"である。もちろん、後代の"近畿の 天皇"ではない。博多湾岸の歌だ。

 その"筑紫の君"を、志賀島の漁民(海洋民)た ちは、"阿曇の君"と呼んでいる。彼等は「阿曇族」 だ(現、宮司家も"阿曇"姓)。だからこそ、"筑紫 の君"なる"阿曇の君"を"我君"と呼ぶのである。 これが、古今集巻七の「三四三」冒頭に現れた 「わがきみは」という第一句の意義なのである。 その「わがきみの統治したまう世」を呼ぶ言葉が 「君が代」だ。その本来の"正しい意味"なのであ る。(従って"君が世"という表記の方が、より原 義をしめす。当然ながら"発音"の方が本来の伝承 であること、日本語表記の常である。)



 今まで私は古今集の「わが君は」を、生半可な 知識で、「天皇であるはずがなく、恋人や夫以外で はあり得ない」(『高校生へのメッセージ「日の丸・ 君が代をめぐって」』)と考えていたが、それは 訂正しなければならない。

 次は 「千代に八千代に」

先にのべた通り、現在の福岡県庁の所在地は、 千代である。地下鉄「千代県庁口」は駅名だ。 その博多湾岸は、千代の松原と呼ばれている。 「八千代」は、その増幅形。おそらく、博多湾 岸一帯を指したものであろう。 (筑紫は、現地では"ちくし"と発音される。 "ちよ"と同類地名である。)



 次は 「細(さざれ)石」

 "さざれ石"は "年月を歴(へ)た神聖な石" の 意。当神社の御神体を指すものであろう。"細"は "かすか" "すくない、まれ" の意をもつ(もちろ ん"ちいさい"の意もある)。なお、同神社の境内 には、各種の石(神石)が小祠内に蔵されている。



  「いはほ」

 三雲遺跡の南隣に、井原遺跡がある。"いはら" ではなく、「いわら」と発音する。"岩羅"であろ う。「そら」"うら" "むら" 等と同じく、古代日 本語にもっとも多い接尾語の一つだ。(吉武高木 遺跡のある"早良(さわら)郡"は、"沢羅"の意。 沼沢の地である。)

 この井原遺跡も、先の三雲につづく、漢式鏡 (後漢式鏡)をふくむ"三種の神器"をもつ古王墓 であるが、"井原"の地名は、背振山脈の最高峰"井 原山"に基づく。(井原の地の南方に当る。)

 井原山は、鍾乳洞の名山である。水無(みずな し)にある、その入口は狭いけれど、内部には、 あの"鍾乳石"のつらなりをもつ、という(現地で 永年、巡査の任にあった、故鬼塚敬二郎氏による)。 "岩羅"の名は、この「鍾乳石群の連なり」を指す ものであろう。そしてこのような"鍾乳石の連なり" の姿を「いはほ(岩穂〈秀〉)」(古今集)と呼 んだ。このような"岩穂"が、何千万年以上の、気 の遠くなるような歳月の中で、ようやく"かすかな 石(細石)"から成長しつづけて、この見事な輝き の長列に至ること、それを古代の人々は(或はわ れわれ現代人以上に)よく知っていた。そしてそ れを"神のなせる仕業"と見なし、これを崇敬しつ づけていたのではあるまいか。 「鍾乳洞信仰」と 呼んでも、不可はない。実は「鍾乳石」にシンボ ライズされた、大自然そのものへの讃嘆なのであ る。



 最後に 「こけのむすまで」

 糸島郡の西北部、唐津湾に臨むところ、そこに 桜谷神社がある。漁師達の奉ずる、ささやかな神 祠だが、その祭神は"こけむすめのみこと"である。

 この地の北、玄海灘に面するところ、そこには 有名な"芥屋(けや)の大門(おおと)"がある。 "け"は "物の気(け)"  "おばけ" などの"け"。 "精霊のあるところ" を意味する。「や」は"やし ろ" "やど" などの "や"である。

 ここを"表"とし、その南方の"裏"に当たるとこ ろ、それが"こけ"だ。"し"("ちくし"等)に対す る"こし"(越)、"ゆ"(湯)に対する「こゆ(児 湯)」などと同類である。

 "むす" の "む" は "宗(むね)"の意。 "主" をしめす。"す" は "すむ・すまひ" の  "す"。住地を意味する。"むす"は "主たる住地" の意である。("鳥栖(とす)"〈佐賀県〉も、 同類語)

 "め"はもとより、女神。縄文以来の、海洋民に とって "御利益" 深き女神であろうと思われる。 (弥生時代を"中心時期"とする、記・紀神話以前 の、縄文の女神か。)芥屋の大門は、海中に突出 ・屹立した奇巌をなす巨大岩盤であるから、先の 井原山の"鍾乳石群"とも相つらなり、一連の巨石 信仰時代の神名の一つであろう。

 以上の地名・神名群との対応を、すべて「偶然 の一致」視することは、平常なる理性をもつ人々 にとって、なしうるところではない。先の、志賀 海神社の祭儀と相対応させるとき、

「『君が代』の真の誕生地は、糸島・博多湾岸で あり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、 天皇家に非ず、先進の筑紫の君(九州王朝の君主) である。」

(中略)

 さらに一歩を進めよう。古今集巻七の"わがき みは"(三四三)の四首あとに、次の歌がある。

仁和の御時僧正遍昭に七十の賀たまひける御歌
 かくしつゝとにもかくにもながらへて君がやち よにあふよしも哉(がな) 〈三四七〉

 仁和は光孝天皇の年号(886~669)。その天皇 の御歌である(仁和元年、12月18日、仁和殿)。 ときに僧正遍昭は(旧暦)七十才。当時では"古 稀"として、類少ない長命だった。その僧正に対し て
「このようにして、とにもかくにも、永く生き ながらえてほしい。」
の意をのべた歌である。僧正はすでにかなり "弱 って" いたようだ。だが、「それでもいいから、と もかく長生きを。」と、厚く情を寄せられた形であ る。

 今、問題の"わがきみは"(三四三)の歌も、同じ だ。元気一杯の、青春や壮年のさかりの"わがきみ" に対して、"千代に八千代に"と、その長寿を祈って も、何も悪くはないけれど、やはり"病状とみに悪化 " "命、旦夕"といった、厳しい状況の中に"わがき み"があったとき、はじめて"千代に八千代に"の祈 願を、古くからの(縄文の)女神にささげる、と いう、その行為はきわめて自然、歌の流れとして も、まことに理にかなって(リーズナブルとなっ て)いるのではあるまいか。

 先の志賀海神社の祭儀の歌でも、「千代にいま す、わが君」が、来られないか、と思っていたら、 "七日七夜"の最後の日に、お出で下さった、とい う、深い歓喜の情が自然にこめられていた。やは り"わがきみ"はすでに老齢、国民がその先行きを 心配していたとき、そのさ中の歌なのではあるま いか。

「命、旦夕の老人君主の病状回復を祈る歌」

 これが、この歌の本来の姿だった、という可能 性が限りなく高い。胸の打たれる歌だ。だが、冷 静に考えてみれば、そういう歌が一国の"国歌"と してふさわしいか否か。常識ある人々には、おそ らく判断が可能なのではあるまいか。



《「真説・古代史」拾遺編》(12)

偽装「大化の改新」(4) ― なぜ偽装が必要だったのか


壬申の乱
 672年、天智天皇没後、その子・大友皇子(弘文天皇) に対して、大海人皇子(おおあまのおうじ 天智の弟 とされているが、それを疑問視する説もある。)が 反乱を企て勝利し、皇位を簒奪した。天武天皇 (672~686)である。大友皇子は縊死した。

 その後天皇位は、持統(天武の皇后)、文武、元明、元正、 聖武、孝謙、淳仁、称徳(孝謙重祚)と天武系統 によって継承されていった。日本書紀は元正のとき (720年 養老2)に編纂された。日本書紀編纂の目的の 一つに壬申の乱の正当化がある。この観点から、古 田さんは次のように論じている。

 すなわち、「文武・元明・元正」の時代の 「郡制」が、〝実は「645」のクーデターに 成功した、中大兄(天智)の創り賜うたところ″ と「偽称」したのである。

 では、どうしてそんな必要があったのか。

 その真の理由は「壬申の乱」と呼ばれる「天武 ・持統(天武の妻)の反乱」だ。兄(天智)の遺 言としての委嘱に反し、天武たちは反乱を起こし た。そして天智の子、弘文天皇(大友皇子)は木 に首をくくつて自殺したのである。

 そういう訳で、天武と持統たちの「後」を継い だ「文武・元明・元正」たち「反乱者の悩み」は、 「天智(兄)への裏切り」という評価であった。 表には出なくても、口から口へ周知のところだっ た。だから、本当は自分たちの創った制度 (郡制と大化の改新の詔勅)を、「天智の遺志の 実行」であるかに〝よそおった″のである。 「701」を「645」直後へと〝くりあげた″のだ。

 そのさい、「評の先進王朝」だった九州王朝、 その年号群(九州年号)から、三個抽出して借用 した。「大化と白雉と朱鳥」だ。その「大化」の 最末(7年)は九州年号群(6世紀中葉から7世紀末 まで31個が連続)の最末、「701」に当たっている。 「701」の一線こそ、文字通りの「大化の改新」だ ったのである。


 中村さんは更に突っ込んだ論考を進めている。

 これまで701年を九州王朝滅亡の時としてきたが、 そのときに九州王朝は完全に消滅したわけではな い。「白村江の戦」で完敗し、唐軍に筑紫を占拠さ れた九州王朝は、その後も薩摩を拠点にヤマト王 朝と対抗していた。それを「続日本紀」は「隼人 の反乱」として記録している。

(次の記事を参照してください。)

『「熊曾国」=「日向国」ではない。』

『九州王朝関係書物は「禁書」として処分された。』

 隼人の反乱の最後の記事は720(養老4)年6月17日 の元正天皇の詔の中に記録されている。 (岩波文庫・現代語訳『続日本紀』より)

いま西の辺境の小賊(隼人)が反乱を起こし、天皇 の導きに逆らって、たびたび良民に危害を加えてい る。そこで持節将軍・正四位下・中納言兼中務卿の 大伴宿禰旅人を派遣して、その罪を誅罰し隼人の拠 点を一掃させた。旅人は武器を整え、兵を率いて兇 徒を掃討したので、蛮人の首領は捕縛され下僚に命 乞いをし、賊の一味は頭を地につけ、争って良い風 俗に従うようになった。しかし将軍は原野に野営し てすでに一カ月にもなった。時候は最も暑いときで あり、どんなにか苦労したことであろう。よって使 者を派遣して慰問させる。今後もよく忠勤を励むよ うに。

 たいした反乱ではないかのように「小賊」と 侮った言い方で記述しているが、そうとうに手こずっ ていることが読み取れる。実はこの段階ではまだ 鎮圧できていなかった。8月12日に次のような詔が 記録されている。

隼人を征討する持節将軍の大伴宿禰旅人はしばらく 入京させる。ただし副将軍以下の者 は、隼人がま だ平定し終っていないので、留まってそのまま駐屯 せよ。

 中村さんはこの720年を言葉の真の意味での「九州王朝 滅亡の年」としている。この年は日本書紀編纂の年でも ある。

 さて、「大化の改新」は日本書紀の編纂者 が「持統(698~700年)の諸詔を孝徳紀に繰上げて 編集した」ものという立論にのって、中村さんは 「大化の改新」偽装の理由を次のように分析して いる。


 720年、隼人の反乱と表現されている九州王朝の 滅亡に伴い、西日本を確実に支配した大和朝廷は、 その過去を装飾する目的で、九州王朝の史書を盗 用し、自らこそ、上古から中国・朝鮮半島諸国と 交流していた「倭国」であるとみせかける『日本 書紀』を編集することを企てた。


 その編集方法は、本当の大和朝廷の成立である 「皇祖=天智」を晦冥し、「天皇」号の使用を神 武に遡らせるにあった。しかし、「皇祖=天智 (天命開別)」は、当時の常識であったので、 王朝成立の必須条件である「天命」の降下を、 遡らせるのは不可能であったので、天智紀に表現 せざるを得なかった。


 大和朝廷の成立時期である天智時代は、九州王 朝は、なお、相当の勢力を持っていたが、その後、 次第に大和朝廷の勢力が増大し、持統末期には、 その差は決定的になっていた。


 「公地公民制」「班田収授制」は、唐朝で始ま り、我国での採用は、先に中国文化を吸収した九 州王朝が先であったと推定され、次に大和朝廷で は、天武時代に一部で試験的に実施され、それが 成功したので、持統末期になり、701年から広く実 施される様になったと推定される。


 『日本書紀』編集に当たり、「公地公民制」 「班田収授制」を、実際の天武時代とすると、 間接的に大和朝廷の成立は新しく、天智時代であ ることを暗示することになるので、持統「大化」 の「改新の詔」を始めとする一連の諸詔を、645年 の天皇家勢力増大の一契機であった蘇我本家に対 するクーデターと結び付けて、孝徳紀に挿入した と推定される。


 史官の造作手法は、古田武彦氏が『盗まれた神 話』で、景行天皇の東・南九州平定説話が、 九州王朝の史書からのその儘の盗用であること (『「熊襲」とはどこか(6)』『「熊襲」とはどこか(7)』 を参照してください。) を論証されたのと同様に、持統の詔のその儘の 遡っての挿入であった為、前に指摘した通り、 孝徳時代にはなかった「郡司」「御宇」「倭根子」 等の矛盾が発覚したと推定されるのである。



(「倭根子」については割愛してきた。興味の ある方は直接「中村幸雄論集」をお読みください。)



 さて、ご自身の多くの論考を通して、中村さんは 最後に、「日本書紀」の信憑性について次のように 結論している。

 本稿で示した通り、『日本書紀』の造作は、 一般に歴史学者が想定している様に、その前期ま でに限定されていたのではなく、その全体は云う に及ばず、『続日本紀』も『日本書紀』編集の造 作を継承しており、今後の日本古代史研究は、こ のことを前提とすべきではなかろうか。



《「真説・古代史」拾遺編》(11)

偽装「大化の改新」(3) ― 「改新の詔」の矛盾を解く



645年
 中大兄皇子、中臣鎌足らのクーデター。蘇 我氏宗家滅亡。
 皇極退位、孝徳即位難波に遷都。



646年~649年
 「改新の詔」を始め、中央集権・律令政治の 施行を命ずる画期的な諸詔勅を発布。

 上の①、②を合わせて「大化の改新」と呼ん でいる。「定説」は①により天皇家の権威が強ま り、②の実行が可能になったと言う。

 ①は史実通りとして問題はないだろう。もちろ ん、蘇我氏を一方的に悪者に仕立て上げている点 については留保する必要があろう。さて、②である。 ②は偽装された疑い濃厚である。その決定的な証 拠の一つが「郡評問題」だった。郡制の詔にもか かわらず、701年まで評制が続いている。その外に も、「公地公民制」・「班田収授制」の実施開始 は天武時代(672~686)であり、やはり時代的に 大きなずれがある。まるで「詔」が無視されてい る態である。そのときの「詔」はそんなに権威がなかったのだ ろうか。

 上に挙げた問題点から、「改新の詔」は日本書 記編纂者が造作した虚構であり、実際には「改新 の詔」はなかったとする論者もあるようだ。 それに対して中村さんは、上記の諸問題の外に 「改新の詔」には養老律令(718年)の戸令(こりょう) の定郡条(「郡こおり」の大きさについての規定)、取坊令条 (京の各区画行政官の登用条件の規定)と類似した 箇所があることも指摘している。そして、これらの疑問点を明きら かに解くことができる鍵として、次の仮説を 主張する。

「大化」の諸詔はその儘の型で実在したが、 『日本書紀』の史官の造作により、実際に制定さ れた年代から繰上げて孝徳紀に編入されている。


 この立場から、ではその諸詔は本来どの時代の ものだったのかを問うている。以下その論考をか いつまんで紹介する。 (詳しくは 中村幸雄論文集 をお読みください。)

 まず、「改新の詔」が還元されるべき時代を比定する ための必要条件を三つあげている。

Ⅰ 天智以後であること
 「白村江の戦」に敗れて勢力を減じた九州王朝 と拮抗する力をもつようになったヤマト王権は、 一豪族から実質的にヤマト王朝となって、九州王朝と並立し ながら九州王朝を滅亡に至らしめていった。 そのヤマト王朝の皇祖が天智であると、中村さんは 論証している。そのあらましは次のようである。

 「アマノシタシロシメス(天皇)」という天皇の称号 が日本書記に頻出する。その漢字表記は天智以前は 「治天下(天皇)」であったのが、天智以後は一貫 して「御宇(天皇)」に変わっている。また天智の 和風諡号「天命開別」は「アメノミコトヒラカスワケ」 という訳の分からない読みが振られているが、この 本来の意味は「天命を受け、別国を開いた」という 意以外ではありえない。「天命」を受けたものが 「皇祖」と呼ばれる。日本書紀では「天命」を受けた 者が二人いる。ニニギ尊と天智である。同じ国に 「皇祖」が二人いるということはあり得ない。 ここでも九州王朝の存在がヤマト王権に認識されてい たことが明らかである。つまり、 ニニギ尊は九州王朝の皇祖であり、天智はそれとは 別国(ヤマト王朝)の皇祖である。「天皇」という称号も 天智から使用されたと、中村さんは推定している。

Ⅱ 文武大宝元年(701年)以前であること
 「改新の詔」は、「大宝律令(701年)」の条 文と推定される「郡」「戸令」を含んでいるので、 「大宝律令」が公布・実施されることを予告した 詔であったとも考えられる。従って、文武大宝元 年に接近した年代である。

Ⅲ 「薄葬」された天皇問題
  改新の諸詔のなかに「薄葬令」(646年)があ る。「薄葬」は盗掘を避けるためであり、その制 定者は自らも「薄葬」したはずである。 「薄葬」が確認できる最初の天皇は持統 である。持統が「薄葬令」の制定者であり、しか も、その制定はその晩年(自らの死を自覚する頃) であったと推定される。

 さらに中村さんは、伊勢神宮に伝承されている 『皇代記附年代記』に現れる年号「大化」を検討 して、「改新の諸詔」の実年代を「698年~700年」 (持統)と結論している。それは九州年号の「大化3年 ~大化5年」にあたる。この仮説に従えば、 「改新の詔」は次のように解釈することが 妥当となる。

(1)「郡評問題」
 701年まではなかった「郡」が「改新の詔」のかなで 使用されているは、「郡」に変更する「大宝律令 (701年)」の実施は既に決定されており、 「予告令」である「改新の詔」も、「大宝律令」 の用語を先立って使用したと推定できる。

(2)「公地公民」、「班田収授」の問題
 「公地公民」、「班田収授」はすでに、天武時 代から実施されていた。それを改めて「大宝律 令」の「予告令」である「改新の詔」で取り上げ ているのは、天武時代の実施は小範囲における 試験的な実施であり、その結果が良好であったの で、701年「大宝律令」により、その実施範囲を 一挙に拡大することに決定した。その過渡期 として「改新の詔」で予告したと推定できる。

(3)「養老律令」と類似問題
 「戸令」の「取坊条」「定郡条」が「養老律令」 と類似している点については、699年の時点において 「大宝律令」は完成し、二年間の過渡期間を経て、 701年から実施された、と考えられる。

 以上、私にとってはまだ不明な点があるが、 日本書記の記述通りの「改新の詔」があったする 仮説での議論を初めて知ったので紹介した。

 さて、「改新の詔」が実際に存在した「詔」 を時代をずらして編入したものであったにせよ、 日本書紀編纂者の造作の「詔」であったにせよ、 ではなぜそのような造作が必要だったのだろうか。 つまりどうして「大化の改新」を偽装する必要があったのかという問題 が残った。