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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(44)

陸羯南の思想


 透谷が「国民のヂニアス(genius)は、退守と共に 退かず、進歩と共に進まず…」と言うとき、「進歩」 とは蘇峰が体現している「交通の勢力」、欧化主義 的進歩幻想を指している。とすると、「退守」と は欧化主義と対照の国粋主義に依拠する「過去の勢 力」を指していよう。しかし例えば、陸羯南 (くがかつなん)は自らの思想的立場を、「復古的な 国粋主義」とは厳密に区別して、「国民論派」として 規定している。羯南の思想を瞥見しておこう。

 羯南は『近時政論考』で次のように書いている。


 國民的精神、この言葉を絶叫するや、世人は視 てもってかの鎖國的精神またはかの攘夷的精神の 再来なりとなせり。偏見にして固陋なる者は舊精 神の再興として喜びてこれを迎え、淺識にして輕 薄なる者は古精神の復活として嘲りてこれを排し たり。常時吾輩が国民論派を唱道するや、淺識者、 輕薄子の嘲りを憂えずして、むしろかの偏見者、 固陋徒の喜びを憂う。何となれば國民論派の大旨 はむしろ軽薄子の輕忽に認むるかの博愛主義に近 きところあるも、反りて固陋徒の抱懐する排外的 思想には遠ざかるをもつてなり。

 羯南は「交通の勢力」を浅識者・軽薄子と切り捨て、 返す刀で「過去の勢力」を偏見者・固陋徒と 切り捨てる。それでは羯南が唱える「国民論派」 は透谷が言うところの「創造的勢力」だと言うのだろうか。 少し長いが、北川さんの論考をそのまま引用する。

 羯南の、《國民論派》は、《排外的論派》では なくて《博愛的論派》であり、《保守的論派》で はなくて、《進歩的論派》であるという、近代性 の強調は、むろん、一定の政治的な対抗関係に規 定されていただろう。わたしたちは、それらを帝 国憲法制定を通じて天皇の大権を維新革命の政治 的な標識として、国民統合の中心に据えようとす る政治的支配の強力な試み、それに呼応して、欧 化主義の反動から伝統的な国民道徳、儒教的な社 会規範を求める復古的な《世論》形成、そして、 それらが元田永孚(もとだ ながざね)を中心に進め られた教育勅語制定に収斂されていく体制政治の うちにみることができる。

 こうして羯南は、近代的な国粋主義とも言える、 その《国民主義》の根拠を次のようなところに置 いたのである。

 国民天賦の任務は世界の文明に力を致すにあり とすれば、この任務を竭(つく)さんがために國民 たるものその固有の勢力とその特有の 能力とを勉めて保存しおよび發達せざるべか らず
(『近時政論 考』・太字強調は北川さんによるもの)

 この《世界の文明に力を致す》ために、《固有 の勢力》と《特有の能力》という、民族的契機を 保存し、発展させるという発想が彼ら独自のもの であった。こうして《世界の文明に力を致す》た めに、その民族固有の勢力と民族特有の能力を結 集し、《国民全軆の力》をもって内部の富強進歩 を計らなければならない、そのために外に対して は《國民の特立》、内においては《國民の統一》 がすべてに優先して要請されることになる。

 ここには欧米列強の外圧に対して、まず、国家 の独立を課題としなければならなかった明治知識 人の共通の姿勢があるだろう。しかし、それが至 上の《國民の任務》とされたために《國民的》の 概念が、《帝室のごとき、政府のごとき、法制の ごとき、裁判のごとき、兵馬のごとき、租税のご とき、およそこれらの事物はみな國民全軆に属す べきもの》であるから、《國民的にする》という、 超階級的な幻想を生みだしてしまった。そのため に、《國民的》諸権利にしても、それはたたかい とられるべきものではなく、あらかじめ《國家の 權力》と〈調和〉すべき範囲に置かれることにな ってしまったのである。

 こうして、【國民論派】の、《國民的》な統一 と調和のための見取図である〈内政旨義〉は次の ように描かれた。

自由主義
は個人の賦能を發達して國民實力の進歩を圖るに 必要なり、

平等主義
は國家の安寧を保持して國民多数の志望を充たす に必要なり、……(略)……

専制の要素
は國家の綜収および活動に必要なり、ゆえに國民 論派は天皇の大權を固くせんことを期す。

共和の要素
は權力の濫用を防ぐに必要なり、ゆえに國民論派 は内閣の責任を明らかにせんことを期す。

貴族主義
は國家の秩序を保つに必要なり、ゆえに國民論派 は華族および貴族院の存立に異議を抱かず。

平民主義
は權力の享有を遍(あまね)くするに必要なり、ゆ えに国民論派は衆議院の完全なる機制および選擧 權の擴張を期す。

個人の力を用ゐてあたわざるものには 干渉もとよ り必要なり、國家の權を施して反りて害あるもの には自治もとより 必要なり。……(略)……國民論派は個人と国家 とを并立してはじめて國家の統一および教育を得 るものとなせり。

(『近時政論考』・赤字強調は管理人が付した。行分けも。)

 ちょうど徳富蘇峰が、《交通の勢力》の側から、 国権と民権をどんな矛盾もないように円環させ たとすれば、陸羯南は《過去の勢力》の側から、 そこにどんな分裂も対立もあらわれないようにそ れを調和させたのである。

羯南の〈国民〉の定立は、あたかも透谷の 《創造的勢力》の位相で行われているように見え たが、しかし、羯南に決定的に欠けていたのは、 透谷の欠如としての〈国民〉のモティーフだった。 その欠如の運動域がないために、天皇と臣民との 合同という、巨視的には政治的支配層の掌の中で、 〈国民〉像の定立をはかることになってしまった のである。そして、この自由主義から、平等主義、 専制主義、共和主義、貴族主義、平民主義、個人 主義、国家主義までのすべてを折衷させた、いいこ とずくめの将来の日本に対する〈見取図〉は、 そこにこの天皇と臣民との合同という《國民的観 念》、いいかえれば歴史的観念としての民族共同 体の優位意識に媒介されることによってこそ、可 能となっているのである。

 わたしは陸羯南のリベラリズムと国家主義と の結合を、近代政治学のように必ずしも楽天的に 評価できない。そこには羯南自身が『近時政論考』 で引用している19世紀末のヨーロッパにおけるナ ショナリズム運動を《進歩》の規範にしている 政論家の貌つきはあっても、民権運動敗退以後、 《深く地層の下》に潜勢してしまった《國民の元 気》にまで降りていこうとする思想者の貌は視え ないのである。

 羯南の政治思想も、透谷によって批判されるま でもなく《軽業師の理論》にほかならなかっただ ろう。その《軽業師の理論》の宿命によって、羯 南の〈見取図〉も、やがて20年代の後半から、 30年代にかけての現実政治の進行によって崩壊し ていく。そこで彼が〈社会ファシズム論〉に傾斜 していく問題は、ここではなお未定ではあるとし ても、このような近代ナショナリズムの性格を抜 きにしては起りえなかっただろう。



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