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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(41)

北村透谷の天皇観


 「旧組織の遺物なる忠君愛国」をかかげて復古 的国家を形成していった明治維新を「革命にあら ず、移動なり。」と喝破した透谷の天皇観はどん なだったのだろうか。

(今回の教科書は「文学・1994春」所収の色川大吉 『透谷の政治意識』です。透谷からの引用文は岩波書 店版『透谷全集』による。)

 透谷に『哀願書』という手記(父親へ の手紙の草稿とされている)がある。1884~5 (明治17~8)年ころのものと言われているから、 透谷15~6歳ころの文章である。

 豚兒門太郎(透谷の本名)謹ンデ一篇ノ哀願書ヲ 以テ大人ノ坐下ニ捧グ、兒、曾テ經國ノ志ヲ抱イ テヨリ日夜寝食ヲ安フセズ。單(ひと)へニ三千五 百萬ノ同胞及ビ連聯皇統ノ安危ヲ以テ一身ノ任ト ナシ、且ツヤ、又タ世界ノ大道ヲ看破スルニ、弱 肉強食ノ状ヲ憂ヒテ、此弊根ヲ掃除スルヲ以テ男 子ノ事業ト定メタリキ。然ルニ世運遂二傾頽シ、 惜ヒ乎、人心未ダ以テ吾生ノ志業ヲ成スニ當ラザ ルヲ感ズル矣。鳴呼本邦ノ中央盲目ノ輩ニ向ツテ、 咄々(とつとつ)又タ何ヲカ説カンヤ。兒ノ胸中独 リ自ラ企ツル所、指ヲ屈スルニ暇アラズ。是レヲ 施シ、是レヲ就サントスルニ、世運遂ニ奈何トモ スルナキヲ知ル。鳴呼、奈何ナル豪傑丈夫ノ士ト 雖、何ゾ能ク世運ノ二字ニ、

 「連聯皇統ノ安危ヲ以テ一身ノ任トナシ」と、 維新期の圧倒的支配思潮の洗礼を受けて、常識的(当時 の)な枠内の信条を吐露している。それにしても 何という早熟ぶりだろう。私のような平凡人と比べ るのも愚かと言うべきだろうが、15歳頃の私はまだ ガキ大将として遊びまくっていた。

 透谷が書き残したものの中に直接天皇制に触れ たものは少ないが、その一つ、1892(明治25)年、透谷23歳の時に 発表された『一種の攘夷思想』には次の一節がある。

 われは心酔せる生う歐化思想を抱けるものに あらず、我國固有の思想なる三千年来の長江は、 我輕舸(けいか)を載せて奔(はし)らしむ るに宜しきを知るは、世に所謂(いはゆる)國粋 論者なる者に譲るところなきを信ず、然るも彼の 舶載せるものと云へばいかなる者をも排斥し盡 さんと計るものには、同情を呈する事能(あた) はず、況(いわ)んや、気宇甕(かめ)の如く窄(せ ま)き攘夷思想の一流と感を共にする事、余輩の 斷じて為すこと能はざるところなり。

 余輩は綿々たる我皇統を歴史上に於て倨負(き よふ)するの念なきにあらず、然れども滔々たる 世界の共和思想の逆流に立つて、どこまでも舊来 の面目を新にする勿(なか)らん事を、熱望するも のにはあらず、要するに世界の進歩の巨渦に遡 (さから)つて吾運命を形(かたちづ)くる事は、 人力の為す可からざるところなるが故に、吾人は 思想上に於て苟くも世界の大勢に驅らるゝ事ある 時には、甘んじて其流勢に随はんと欲するものな り。


 ここでは心情的攘夷論とはきっぱりと袂を分か っている。また、「我皇統」への通り一遍の理解を表明して はいるが、「然れども滔々たる世界の共和思想の」 「流勢に随はん」と言い切っている。さらに1893 (明治26)年、透谷24歳の時の『明治文学管見』には、 先に引用したように、次の文言がある。

 明治文学は斯の如き大革命に伴ひて起れり、其変 化は著るし、其希望や大なり、精神の自由を欲求す るは人性の大法にして、最後に到着すべきところは、 各個人の自由にあるのみ、政治上の組織に於ては、 今日未だ此目的の半を得たるのみ、然れども思想 界には制抑なし、之より日本人民の往かんと欲す る希望いづれにかある、愚なるかな、今日に於て旧 組織の遺物なる忠君愛国などの岐路に迷ふ学者、 請ふ刮目して百年の後を見ん。

 詩においてばかりではなく、政治思想において も、透谷は明らかに時代の強固な枠組みを突き抜けた高大な 地点にいた。色川氏の透谷評を聞いてみよう。

 実際に明治26年の透谷はいっそう明瞭に皇 室離れ、「国体」離れを示し、「内部生命」を 欠いた道徳を説く「教育勅語」を批判したり、 「今日に於て旧組織の遺物なる忠君愛国の岐路 に迷ふ学者、請ふ刮目して百年の後を見ん」 と愚弄したのである。

 この「忠君愛国の岐路に迷ふ学者」に天皇神権 説や家制国家を説く穂積八束や「教育勅語」の権 威をかざしてキリスト教などを圧迫した井上哲次 郎らがふくまれでいることはまちがいないと思う。 ただ、透谷の「井上博士と基督教徒」(明治26・ 5・2)は帝大教授という国家の雇人の立場に同情 を示したもので、井上の思想に対する批判を行な っていないが、そのことは彼が井上の考えに同調 していたことを意味しない。

 穂積八束は
「祖先ヲ崇拝スルノ教ハ即民族ノ宗家タル皇室ヲ尊 敬スルノ念」(「家制及国体」明治25)
だといって、「家制」「族長制」の上に天皇神話 を結びつけて、日本固有の祖先教なるものを唱え、 同祖同族という欺瞞による民族一体の共同体的国家 論を押しだしたが、透谷の考えはこれと真向から対 立していた。

 彼は神話を史実だと思っていない。 したがって天照大神を民族の遠祖だとも、皇室を 宗家とも思っていない。だいいち天皇の神聖を信じ ていない。天孫降臨も三種の神器も、ただのお話で、 「旧組織の遺物」の一つにすぎない。

 透谷は「古事記」や「日本書紀」に興味を寄せ たが、それは天皇兄弟が骨肉あい喰む殺し合いを やったり、その陰謀と抗争の犠牲となって后や皇 女が殉死してゆく悲劇を創作の材料にしたかった からに他ならない。透谷は垂仁天皇の皇后で叛逆 した兄との板ばさみになって死んだ狭穂姫(さほひ め)を作品化して『国民之友』に発表しようとした こともある。

「透谷子把(と)って小説と為す、一篇悲観的の文 字、悽槍人を愁殺す。(中略)読者、彼女が戦 (おのの)く繊(せん)手に皇子を抱きて、身を稲城 の火中に没するを看よ」(明治25・12・23)

という『国民之友』の予告は面白い。

 明治25年7月13日の日記、

「狭穂彦の乱に付で皇后とインセストなど面白き こと限りなかるぺし」

などには「不敬」の匂いがする。インセストとは 近親相姦だからである。

 3月16日の日記にも

「行いて日本の歴史を読め、悲惨限りなき者何処 にかある。日本の歴史には朝廷の……あるのみ、 然れども貧民……説明する者なきなり」

にも同様なものが感じられる。この点線の空白は 透谷によるものか、日記(「透谷子漫録摘集」) の編者の星野天知によるもの かは分らないが、どちらによるものにしても 「不敬」の畏れからの抹消であろう。透谷は敗退 期の民権家であっただけに権力による言論弾圧に は敏感だったのである。

 それはともかく彼が族長制的国家像を拒否し、 それにつらなるイデオロギーに敵対しないわけ にはゆかなかったところに、彼のラジカリズム の政治性があった。彼は天皇や国家や民族などに 拘禁されない人間個々人の「精神の自由」の実現 をひたすら願ったが、1890年代の日本で、それは 不可能に近かった。しかし、なお、それを 希求しつづける以上、彼は戦いを止めるわけには ゆかなかったのである。

 上記引用文中の「狭穂姫」については

第840回 8月1日:《「真説・古代史」補充編》『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(1)
第841回 8月2日:《「真説・古代史」補充編》『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(2)
第842回 8月3日:《「真説・古代史」補充編》『ヤマト王権の近畿侵略史』:沙本城の戦い(3)

を参照してください。

 なお、色川氏が引用している透谷の3月16日の 日記は岩波書店版「透谷全集」では確認できなかった。

また、透谷の「教育勅語」批判の文章も確認できないが、 あるいは『内部生命論』中の次の一節だろうか。

 彼等は忠孝を説けり、然れども彼等の忠孝は、 寧ろ忠孝の教理あるが故に忠孝あるを説きしのみ、 今日の僻論家が敕語(ちよくご)あるが故に忠孝 を説かんとすると大差なきなり、彼等は人間の根 本の生命よりして忠孝を説くこと能はざりしなり。 彼等は節義を説けり、善悪を説けり、然れども彼 等の節義も、彼等の善悪も、寧ろ人形を并(なら) べたるものにして、人間の根本の生命の絃に触れ たる者にあらざるなり。

 そして、ここで言う「僻論家」とは井上哲次 郎を指しているのかも知れないと思った。

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