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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(38)

明治維新の明暗(5)


 言論弾圧と貴族制度の制定について、『新日本史』 の記述をいま少し引用する。

 昭和の15年戦争中に激しく振り下ろされた居丈高な 言論弾圧の原型は、既に1882年~1883年のころに認 められる。

 1882年(明治15)年に大隈重信が改進党を結成した 時の様子が次のように描かれている。市井氏が『民 権を保障するものとして「一君万民」思想をとらえ る態度が、自由民権派によって果敢な抵抗をともな って活きていた』と言っているが、それを裏付ける 記述である。

 彼ら(自由党、改進党など。三叉竹越はこれら自由 民権派の政党を総称して「民間党」と呼んでいる。) は言論の自由を有せざるなり。然れども法律を破 り、刑罰を以て自由を買えり。彼らは集会の自由を 得ざるなり。然れども事に託して政治的の集会をなし、 以てその目的を貫けり。ここに於てか明治政府もま たこれに応じて、防戦を試むるに至れり。

 この時の政府は、殆んどマホメット宗徒のごとく なりき。彼らは右には大久保以後の慣用政略により、 警察を厳にして、以て人民に臨み、言論、集会、少 しく政府を攻撃するものあれば、直ちにこれを停止 し、罰金を科し、これを解散せり。

 これが為めには日本政府といわず、単に理論上に 於て圧政政府は顛覆すべLと述ぶるや、解散せられた る集会あり。暴君汚吏は人民の敵なりと論ずるの新 聞紙は、暗に明治政府を指したるものとして停止罰 金を蒙りたるものあり。

 これ必しも中央政府の意にあらざりしなるべし。 然れども政令は物の中天より落つるがごとく、一 歩一歩、圧力を加え来れば、内閣に於て厳粛の政策 を取れと令すれば、地方官に至ては圧抑となり、 地方官の令を奉じてこれを実行する警部巡査に至 っては、暴戻(ぽうれい)となるは免れざるの数な り。

 かつこの時に方ってや官吏中に幾多の行険(こう けん)者を出し、政府の意民間党を抑ゆるにあるを 見るや、陰私百方、これを妨げて以て自家進官の 階梯となすものあり。香取某なる警察官は演説会 場に臨むや、必らず弁士の隙に乗じてその欠点を 捉えてこれを解散せしめり。ここに於てか彼は解 散警察官の名を負うて、一躍して奏任官となれり。

 ここに於てか官吏の中、靡然(びぜん)として行 検の風を生じ来り、あるいは学校の教員を利用し て民間党を攻撃し、あるいは宗教を籍(か)りて不 平を鎮め、福岡県令渡辺清のごときは真宗の僧侶、 大洲鉄然を延(ひ)きて管内を巡遊し、妄(みだり) に政府に抵抗するの悪事たるを説教せしめたり。


 1883(明治16)年、「新聞紙条例改正」によって 言論弾圧はいよいよ狂気じみてきた。


 これよりさき保守党(1882年に作られた帝政党。 明治政府の御用政党)と民間党との間には主権の 所在につきて一場の論戦を開けり。 曰く「憲法制定の日、国会開設の後、主権は何人 の手に存すべき乎」と。

 保守党は曰く、日本の人民は歴史あって以来天 皇の臣民たり。その土地は天皇の所有たり。憲法 の制定国会の開設もまた天皇の権内にあれは、主 権は天皇の手中に存せざるべからずと。

 民間党は曰く、君主専制の世は巳に去れり。い やしくも君主専制の世に返るにあらずんぱ、主権は 君民の間に存せざるべからず。君民の間は即ち国会 にして、天皇と人民との権によりて成る国会の上に 主権を存せしめは、これ即ち立憲君主制の名に適う ものなりと。交戦数十日なりし。

 我国民は政体に関しては如何なる思想を有するか、 明白にこれを発露せしめたる事あるなし。この主権 論のごときは実に人民の政体思想を発露するに最も 適当の機会なりしも、行政司法官の監督厳にして、 言論少しく皇室に及ぶや、直ちにこれを停止するがご ときことあり。

 厳重なる法律をこの頃よりして更らに厳重ならし め(「新聞紙条例改正」のこと)、『新潟日々新聞』 の投書家は、崇峻帝は無智幼弱の婦女子を立つと 論ずるや、三十四代の天皇推古に対して不敬を加 えたるものとして論告したる捏なりしかば、民間 党は実に困難なる地位に立てり。

(中略)

 当時保守党の方には政府の宣告書あり、迷信家 の白刃(板倉退助暗殺未遂事件)ありしかぱ、民間党は甚だ 苦戦の地に立てり。


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